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以下(いか)のコラムは宗教(しゅうきょう)サイトではありません。古神道(こしんとう)研究(けんきゅう)ノ−トです。
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質問:2000.6.2

 「徳を積む」とは、どうお考えになりますか?



ありがとうございます:

 そうね。 「徳」という漢字の読みは、ギョウニンベンに、昔の字で直接の「直と心」と書いてあるんです。だから、「直心を行ずる」(じきしんを行ずる)といいます。「直心」というのは、「神様の根元の働き」を言うんですが、「直霊」ともいいます。神さまの御心を行ずるのが「徳」なんです。
 だから、神様の働きが本当の意味の「徳」ですね。その神様が、一瞬一瞬、新しい宇宙を創り続けているという働きそのものが、本当の意味の「徳」です。「新たな全徳の無限の無限の輝きが一杯」というのが、一瞬一瞬、神様の宇宙創造の姿なの。その徳を頂くと自分のものになるのです。 でも、世間的に言うと、「何か良いことをして徳を積む」という意味もありますね。それは、特に「陰徳を積む」と言うんですけど、まあ、神様の真似事をすれば、本当の「徳」に近づくんですね。 でも、本当の徳は、「神様の働きそのもの」なんです。 だから「自分が徳を積む」という場合でも、神様の徳を、感謝の心を起こして受けた方がいいのね。 感謝で受けるという方が大きい無限の徳を頂けるんです。
 逆に言い換えると「感謝することが大きい徳積み」です。 この肉体使っていろんな世の為、人の為に尽くすことも良いのですが、先ず 根本は「神様への感謝」なの。「ありがとうございます」を唱える事が、本当の意味の大きい徳積みになって、それが自然に具体化したら、世の中の為に必要なことを、結果として「させて頂いている」という姿になるんです。それが自然な「徳」の積み方ですね。

はい、ありがとうございます。

お守り・お祈り

質問:

 車の「交通安全のお守り」や「お払い受けたり」又は、「お祈り」をしていただくのは、効果があるんですか?

ありがとうございます:

 そうね。 お守りを作る人の心境も関連するんですが、例えば、それぞれの神社で、お祭りしてる神様っていらっしゃるでしょう。 だから、神社のお守りもそれなりの効果はあるのだけど、ただ 最高のお守りって「ありがとうございます」なんです。もう究極の神様を呼ぶことによって、本当の助けを受けるので、まあ(ははは)どっちが良い悪いじゃないですけど。

 それじゃ、お守りをもらってこなくても「ありがとうございます」を貼っていた方がいいのでしょうか?

 大きいお護りを頂けます。

 あっちの神社、こっちの神社ってみなさんよく行かれますが、それはどういうことでしょうか?

 そうね。 神社というのは「模型」なんです。本物じゃないね。 例えば、「天照大御神様」をお祭りしてる「伊勢神宮」がありますね、「天照大御神様」というと、宇宙の絶対神の最高表現の姿を指す名前なんです。だから、宇宙全体なんです。 無限に無限に輝いた宇宙全体が「天照大御神様」ですね。 その神様が、ちっぽけな地球に降り立つわけがないでしょう。また日本の小さい場所に降りて、人間の作った神社に降り立つ訳がない、そんな場所には入れないのです。 本当の天照大御神様は、宇宙全体にあって、なお且つ、この世には、まだ出て来ていません。もっともっと奥の、次元の高い次元の一番奥に、最高に輝いた姿で本当の意味で実在しているのです。 その神様に、直接出会うというのは大変でしょう。 また、そういう神様がいることを知らない人にとったら、本当にどうにもならないですね。だからやっぱり、ある意味で教える為に模型を作って、ここに「天照大神様がいらっしゃる」というふうに教えると、神様の方へ向くという心の姿勢が整ってくるのです。 ただ、模型にとらわれたら駄目なの、模型にとらわれると偶像崇拝信仰になり、間違った生き方になるのです。
 偽者を本物と間違えてしまうという、間違った信仰が起きるので、あくまでも模型は模型として、そして模型を通して本物をしっかり把握する為に使えばいいの。 だから、伊勢神宮でお参りして、そこで深く深く祈って、本当の天照大御神様へ心を向けるのです。 ただ、本体の天照大御神様が直接「伊勢の神宮」へ働くんじゃないのね。下の方のいろんな神様が間に立って伊勢神宮を護るの、それで、お参りする人を助けて、本体の天照大御神様をつなぐ為の働きをするのです。 そういう意味だったら、お参りすることによって、大勢の高級神霊の神様の助けを受けて、本体の天照大御神様と自分とをつないでもらえるのです。そういう意味で、神社に参ることも大事だし良いことなのです。


 夜、昼は別に関係ないんですか?

 神様は別に何時でもいいんですよ。

 やっぱり、「ありがとうございます」は言った方がいいんですか?

 そうね。 「ありがとうございます」って、「本当の神様の名前を呼んでる」ことになります。 いつも神様を呼ぶと、いつも神様が身近に現れて、必要な助けを与えて包み込んでくださる感覚になってきます。そして、他のマイナスの思いを出さずに済みます。そういう意味では「ありがとうございます」が一番良いのだと思います。宇宙全体が無限に輝いているという感じで、そういう感覚で呼べば良いのです。


 人に対しても何かしてもらって「ありがとうございます」とか「ありがとう」と言いますが、それは、その人の内側にある、例えば「神的なもの」そういったのをふまえて「ありがとう」という言葉になるんですか。

 そうね。 だから、本当は「ありがとうございます」って、神様から全ての必要な物を降り注ぐように与えてもらうの。 ただ、その末端の、例えば「人」という姿を通して、背後に神様が働くということね。


家の中での神様・仏様

質問:

 家の中に、仏様と神様とあるんです。「仏様」だったら「南無阿弥陀仏」と言うのですが、「ありがとうございます」でもいいんですか?



ありがとうございます:

 いいですよ。 例えば、「南無阿弥陀仏」って唱える時は、「阿弥陀様」は、宇宙の大神様から見ると分身の一つなんですね。

「南無阿弥陀仏」は止めて「ありがとうございます」っていう形でいいんですか?

 いいですよ。 ただ、縁あって阿弥陀様とつながってるわけですから、阿弥陀様のお蔭で「ありがとうございます」につながったかも知れないでしょう。恩がありますよね。
 だから、「阿弥陀様、ありがとうございます」って、後へ「ありがとうございます」付け加えたら、阿弥陀様にも大きい光が届くのね。 また、阿弥陀様を通して、大きい助けを受けられるでしょう。別に否定することは無いんです。時々思い出せたら「阿弥陀様、ありがとうございます」って加えたらいいでしょう。 ただ、阿弥陀様だけじゃなしに、観音様なり、お不動様なり、稲荷さんなり、またいろんな神様をみんな信仰されているとしたら、一々呼ぶのは大変ですね。 だから、無限の神様の名前を呼んで、「恩返しの心、感謝の心を起して」という意味だったら煩わしいでしょう。それだったらもうすっきりと、一つの神様の名前でいいの。 「ありがとうございます」って、宇宙の大神様の名前を呼べば、もう全てにそのまま通じるのです。ご先祖様にも、無限のいろんな神様にも、またこの世の人にも、物にも全てに通じるのね。 だから「ありがとうございます」一つですっきり全体に感謝することになるんです。


子供の食べ物の好き嫌い


質問:

 私には孫がおりますが、この孫は好き嫌いが激しく、食事をあまりいたしません。皆がやかましく言っても、直そうとしません。 小さい子供の頑固さは、意思があってそうしているのでしょうか?



ありがとうございます:

 そうね。それもあるんでしょうけど、そういうんじゃなしに、守護霊さんなんかが、働きかけるのですね。

 さっき瞑想していた時に、孫の顔がずっと出てきたので、何かあるかなと思って、ちょっと伺ったんですけど、そっとしておく方がいいのでしょうか? 大人の感覚で言わない方がいいんでしょうか?

 いいでしょうね。 私も小さい時は小食でした。 特に小学校へ上がってからは、いろんな貧しい状態で耐乏生活をさせられたので、日に一食ぐらいだったのです、そう食べてないでしょう。 二十歳ぐらいから月の内二週間は断食して、その後ちょっと食べるだけでしょう。だからね、無理に食べなくてもいいのね。 人によってぜんぶ違うし、健康だったらいいじゃない。 人によったら霞だけで生きる人もあるし、水だけ飲んでも、平気で生きる人もあるでしょうし。 だから頂けるものを感謝の心で受けて、「神さんの命をいただいた」という気持ちで頂いたら、もうわずかちょっと食べるだけでも「本当の神さんの命」という感じだったら生かして頂けるでしょう。 だから、病気にもならんしね、痩せることもないと思うので、それは別に心配されないほうがいいですよ。

アセンション(次元上昇)

質問:

 「先生は、いろいろな本を読んでおられる」と聞いたのですが、その中でアセンションですか、ある意味では次元上昇と言うのでしょうか、そのことに関してはどういうふうに思われますか?



ありがとうございます:

  次元上昇ね。 元々神様の最高表現、神様の宇宙創造の姿というのは、無限の無限のチャンネルの放送番組をいつも放射し続けてるのね。「絶対」から「相対」と全てが組み合わさって生まれた宇宙の全てというのが、もう何一つとして欠けることはない、全てを尽くした表現なんです。 だから、人がちょっと「想像する」というのもぜんぶ含めて、全部神様の中にあるのね。人間は自分の言葉で・心で波長を合わせて、その一つを全て感じるだけなんです。それで、無限の無限のチャンネルが既にあるということになると、次元上昇というのは、一番高い一番上までゆく事でしょう。 この世でも、無限の無限の中の一つのチャンネルとしてあります。その一つのチャンネルがまだ無限に分かれるのね。この世でいろんな心の波長合わせをして世界を見てるんですけど、人はみな同じ波長じゃないの。自分の見てる世界が違うんですよ、見てるように見えて違うのね。ただ、幅があって、その中でまだ無限に分かれてるので、誰一人として同じ番組は見てないと言えるんです。 無限というのは凄いです。数字に限定されると、大体どんなものか解るのでしょうけど、この世も本当は無限に分かれるんです。 だからもう誰一人として同じ番組は絶対見ることは出来ないのね。また一人一人過去の生き方も違うし、立場も違うので、仮に同じ番組を見たとしても、見方が違うのね。 だから、その次元上昇というのも、「番組をどういうふうに見ていくか」でしょう。  最初、神様の中から生まれてくる自分というのは、本当の自分というのは神様を背にして、番組を楽しむ為に下がって来るんです。無限の無限のチャンネルを放送番組として与えてもらって、「さあ、好きな番組を見ていらっしゃい」と送り出してもらうのね。それでみんな好きな番組に波長を合わせて一応は楽しむんですが、でも全部は楽しめないの、余りにも多すぎるんでね。それで、チョッチョッと楽しんで、その番組に、ある時とらわれて行くのね、はまり込んで行くというんですか。そうするとその番組から抜け出せない状態になる。 良い番組の時はまだいいんです。プラスだけの時は「ああ、楽しいな、幸せだな」って感覚です。でも、その番組にはまり込んだままなんです。本当の自由はないんです。 低い番組になるとやっぱりマイナスが出て来るの、そうすると苦しいから、そこから「どうして抜けようか」とあがくの。でもなかなか抜け出せない。マイナスが消えないので困るんだけど。ただ、その時に、いろんな守護霊・守護神さんも含めて、いろんな神さんが譲ってくれるのね。「どうしたら抜けられるか」という方法を教えに来るのです。
 一番良いのは言葉の使い方ですね。プラスの言葉使うと心がプラスに整って、次元上昇というんですか、波長を合わす番組の程度が高くなるのです。

 言葉とイメージでは、言葉の方がいいんですか。

 そうね。 イメージの中心・思いの中心・心の中心が「言葉」なんです。核になるのが「言葉」なんです。 だから、言葉を変えたら心の状態・イメージが変ります。でも最初から「イメージする」というのは、難しいのね。 だから、言葉を抜きにして「イメージ通り」と言っても、なかなか大変なんです。 心でも、コロコロ変って変えがたい。自分で心を航して支配してでも難しいですね。 でも、言葉を支配したら、心はいつでも自由に支配できるんです。


マイナスの言葉をプラスの言葉にするには


質問:

 私個人的には、そういうマイナスの言葉をすぐに使ってしまいます。それで、マイナスの言葉を出しながらずっと生活しているわけで、なかなかその切り替えがうまくいかないのです。自分では「やろう」と頭の中で思っているのですが、誰かがアドバイスしてくれても、やはり出てくる言葉というのは、マイナスの言葉なんですね、簡単にアドバイスしていただけないでしょうか?



ありがとうございます:

 本人が「しよう」としないとね。 やっぱり本人が必要としないと、どんなアドバイスも受け入れられないですね。 本人が必要な時に、背後の神様が・譲ってる神様が、的確に必要な物を与えていくんです。その時に、自分を使ってもらえるかも知れないね。「プラスの言葉を使う方がいいよ」とか、「ありがとうございますを唱えたら良くなるよ」とか、誰か人を使って、背後の守護霊さんがアドバイスして来ます。ただ、必要にならないと受け入れないですよね。
 だから、本当の神様の思いやりの心というのは、「必要な時に必要な物を的確に与えて行く働き」なんです。必要とするまでは、気長に待ってくれているだけなのね。それでないと、本人が、みんな人のせいにするでしょう。それでは責任を感じないし、本人の生き方も定まらないんですね。だから、ある程度は、マイナスでいっぱいになって頭を打っても構わないのね。自分で気付いた方が、逆戻りせずに済むし、同じことを繰り返さなくて済むんですよ。ちょっとは徹底した方がいいのね。(ははは)ちょっと頭を打って、苦しい時も大事なのです。そうすると、本当の気持ちが定まるんです。その時に「ありがとうございますを唱えている」とか、「プラスの言葉を繰り返し唱えている」そうなれば、もう絶対逆戻りもないし、幸せへ幸せへ、どんどん前へ前へ進めるのです。



 やはり、本人が気付くしかないんですか?

 そうね。本人の気付きが一番大事ですね。

 「待ってあげる」と言うことですか?

 そうね。 必要な時に、サッと、手を差し伸べる・アドバイスが出来るという準備は大事です。 でもあまり強制的に言うと、反発されたり、またお節介し過ぎても、逆に受け取ったりしますね。 必要な時を「この程度か」と感じて、チャンスが来たのを、また見逃してしまう時があるんです。

 すると、準備が出来た時に、そういう師が現れる、というのはやっぱり神の計らいですか?

 そうね。 本当はみんな、神様が本当の師匠であり先生なの。それでいて、神様はいつも見守ってくれてるのね。 だから、本当に必要な時に、「神様の現われの全て」を通して神様はいつも導いているのです。どこから導きが来るかわかりませんね。花の姿を見て、スッと導きを感じるかも知れないし、石ころから来るかも知れない、または、人から来るかもね…。それはもう、神様の方は自由自在に導いてくださるのです。 それが必要になった時、本当に必要になった時に導いてくださると思う。


食べ過ぎ


質問:

 さっきは、小食のお話だけど、食べ過ぎはどう思われますか?



ありがとうございます:

 いやいや、神様の恵みは無限にあるでしょう。「ありがとうございます、ああ、なんて美味しい素晴らしい」と言うて、たくさん受けるのも良いことなんですよ。(はははは)ただね、食べることに時間を割きたくないという時は、寝食忘れて何かに打ち込んでもいいのです。それは自由なんです。だから、どれが良い悪いじゃなしに、その時その時必要な姿で、感謝も深まり喜びも大きくなればいいんです。だから、たくさん頂くことも大事なこともあるんです。(はははは)


言葉は発した方が良い


質問:

 「言葉を支配する」中で、頭の中で言葉を思っているより、やはり発した方が良いのですか?



ありがとうございます:

 そうね。 いろんな方法を、自由自在に加えられたらいいのだけど。心だけでもいいし、口に出すのもいいし、紙に書いてもいいし。 ただ、言葉というのは字の言葉だけじゃないのね。 図形も言葉なの、音楽の響きも言葉なのね。 そういう意味で、大きい幅広い意味の言葉なんです。自由に活用されればいいですね。 音楽聞くだけでも、プラスの良い音楽だったら、プラスの言葉を使っていることになるし、メロディーも言葉の一種なんですね。「絵」もそうですね、「絵」も言葉になります。素晴らしい絵を見ると良い言葉を使った状態になりますね。 景色もそうです、素晴らしい景色を見ると、素晴らしい言葉を使ったのと同じ状態なんです。 だから「絵」も「景色」も言葉なのね。山の頂上で回りを広く見渡したら気持ちが、スカッと晴れて来ますよね、海なんかを眺めてもそうですね。素晴らしい景色を眺めるということは、素晴らしい言葉を使ったのと同じなんです。


怒らずに済むには


質問:

 先生は怒ったことはないのですか? どうすれば怒らずに済むのでしょうか?「ありがとうございます」を繰り返していれば、変ってくるものなのでしょうか?



ありがとうございます

 小さい時から別に腹は立たないです。 「何故か」って考えたら、全部プラスに見てるんですね。もう全部。「ありがたい」という、「神様の現われ」というふうにね「神様の愛のプレゼント」とか、「全て神様からのプレゼント」いうような感じで見てるので、マイナスに見えないのです。たとえ人から殴られようが、悪く言われようが、みんなプラスに見えてくるのね。 だから、別に腹立つ感情がぜんぜん無いんです。また悲しみもないのです。悲しい感覚も無いですね。プラスに見る練習をすると、それが乗り越えられるんじゃないかと思うんです。 だから、プラスに見るというのはやっぱり「神様の現われ」というように、神様を認めることが先ず第一ですね。 「神様から全てが与えられてくる」という、「その無限の無限のチャンネルを楽しむ為に与えられてる」というように、どんな地獄番組でも、楽しむ為だったら、別にマイナスに見えないですね。それでその低い番組を見ることによって、謙虚な心になれますね。それと比較して、いろんな姿を眺めたらみんなプラスに見えてくるでしょう。 だから、いろんな方法でプラスに見える練習をすれば、もう自然に腹の立たない状態になってくると思うんです。そしたら、感情がスッと鎮まり、安らかになってきます。でも、どうしても出来ない時は「ありがとうございます」が一番効果が大きいと思うのね。大抵は「ありがとうございます」を普段唱えていたら、出てくるものが先に消されて出て来なくなります。仮に出てきても出てきた後で「ありがとうございます」を唱えたら、もう過去にさかのぼって消してくれるし、また未来に出てくる可能性のあるものを先に消してもらうんで、段々と「どこに腹立つ思いがあったんかな」と思う感覚も消えてしまうのです。はい。


自分


質問:

 「自分の人生は自分でプログラムして生まれて来た」とお聞きしたことがあるのですが、それも元は神様から出てきているということであれば、それは神様から与えられたものなんですね。自分で幾度も幾度も生まれ変わったりする中で、いろんなものを貯め込む、マイナスのものも溜め込んで、それを例えば「プラスに変えたい」と思ってプログラムをしていることも、やはり神様の恵みでしょうか。「自分」っていうふうに考えるより、「神様から」って考えた方がいいのですか。


ありがとうございます:

 「自分」って言葉は、先ず「自ずからなるもの」というのが「自」なのです。そこから「分かれて」来たのが「自分」です。 だから、自ずからなるもの、自ずから存在するもの、自由自在なるものって、神様なの。神様からの分かれが自分ですね。「本当の自分はどういうものか」というと、絶対の神様から、一瞬一瞬に分かれて新たに出てくる自分です。その自分は、神様と同じように無限に無限に輝いた自分なの。神様の御心そのまま自分の心として生きている自分が本当の自分ね。その自分は、自由に自分の判断で、全て理解し、決断して自由に生きてこそ、自分が生きてくるのね。その自分だったら、神様から無限の無限のチャンネルを与えられて、それを楽しむ為に、自分任せで、ぜんぶ波長を合わせて出てくるのです。
 ところが、その自分に気付かない。それを忘れてしまった時は、一つの番組の中にはまり込んでいるのです。 だから、今見ている風景の中で自分を掴む小さい自分ね。 例えば、この「肉体の自分、魂の自分」というふうに掴み出すと、やっぱり小さい自分を掴んでいるのね。その自分が「どう判断して、どう決断して」というふうになると、それなりにその自分もいろいろな自由意志を持って決断して決めているのだけど。ただ、その「本当の自分」と比べると相当違いがあるのね。また小さい自分だと他からの影響もたくさん受けて、他から操られたように見える可能性もあるの。そうすると「他からの力で動かされている」、というふうに見て判断する時も出てくるでしょう。 根本は、本当に自分が自由自在にいろんな番組に波長を合わせて楽しむ為に出てきて、偶然にその中にはまり込んだりしても、いつでも抜けだせて、また他のチャンネルも見れるという状態なのです。


無限のチャンネルにも段階がある

質問:

 先ほど「無限のチャンネルがある」という話をされたのですが、「無限のチャンネル」でも、やはり段階があると思うんです。ある程度の人達は「大体この付近にチャンネルを合わせる」というように。例えば、輪廻転生、他のチャンネルに行けば輪廻転生はないですね。輪廻転生があるというチャンネルでは、それを追求している、カルマなんかも当然ある、一というのもあり、カルマとは質の悪い冗談であるという意見もある。そういう人が集中して集まることによって、成り立っている。


ありがとうございます:

 だから、人がいろんな説をたてますね。チャンネルの中には全部あるのです。そんなのは氷山の一角なの。 どんな説をたてても、その説に合う世界があるんです。別に「間違い」って言えないですね。ただ「それが全て」というと、間違っているよね。「そういう説を指し示す世界もある」というのは正しいです。 ただ、神さんの方は、ぜんぶ用意してくれているのです。もう全てを尽くして、無いものは何一つないの、もうぜんぶ揃っているの。 ただ、与えてくれる全てに人がぜんぶ揃っても「波長を合わせきれるか」と言うと、全部合わせきれない、ほんの一部が合わせているだけで、一部だけ合わせて受けてるだけなのです。丁度テレビがそうでしょう。放送局があって電波を出して放送番組作ってるでしょう。それが12チャンネルの放送番組があったとして、そのどのチャンネルに一人一人波長を合わすかは自由ですもの。ただ神さんの方は無限のチャンネルだとすると、無限の人がいてもやっぱり全部に波長を合わせ切れない、まだ見てない番組だっていっぱいあるのね。でも神様の願いは、低い番組を見てやっぱり現実化して欲しくないのです。やっぱり幸せ一杯のプラスばかりの世界で、味わって欲しいのです。ただ最初は、ちょっとマイナスを見てもらうと、プラスがよりありがたく見えるんで、ちょっとだけ体験して欲しいんですね。(ははは) 最初、自由に送り出してくれるのだけど、最高の番組へ心を向け波長を合わせて、それをしっかり味わって欲しいので、すぐ戻って来て欲しいのね。その最高の番組も一瞬一瞬新たに、出し続けていて、最高の状態をどんどんどんどん、与え続けてもらえるので、低い番組なんて相手にして欲しくないのです。だから「ありがとうございます」って、感謝を深めて神様の最高の番組だけを、新たに新たに受け直せる方がいいのね。それを神様はいつも首を長くして待っているのです。 早くそうなって欲しいから守護霊さん、守護神さんを派遣して、みんなの心の持ち方を、プラスにプラスに変えるように助け続けているのね。ただ、自由があるので、強制的には何も出来ないの、やっぱり本当に自分が必要とした時に的確に助けてもらえるんです。


守護霊・守護神の数・呼び方・役割


質問:

 守護霊さん、守護神さんは一人一人にいますね、その数というのは、途中で増えたり減ったりということはあるのですか?



ありがとうございます:

 それも必要に応じてね。正守護霊さん、正守護神さんって変らないです。ズート専属でしょうね。ただ仕事でもいろんな仕事を沢山し始めたら、その仕事に堪能な神様が、副守護霊さんとして付いてきて大勢の神様が譲ってくれるのです。全部こなせるのがいいのね。 だから、その働きに応じて、必要だったら大勢になるし、そこまで必要じゃなかったら守護霊さんは暇になるじゃないね。その時はスートと他へ行ってしまう。

 それで、他の方をお護りする・・

 そうね。必要に応じて、譲ってくださるんです。

 行動すればするほど・・

 そうね。だから、働きが大きくなった人は、何百人って憑かれるでしょうね。

 メインの守護霊さん、守護神さんというのは、自分でわかってもらうというと、そのままに生きていたらいいんですか。

 ただ、宇宙の大神様から、必要に応じてスッとそういう形で出てくるだけで、根本は「ありがとうございます」を唱えていたら宇宙の大神様から、必要に応じて本当に必要な働きとして出てくるだけなんです。 だから、その特定の名前を呼ぶと、名前で縛ると、小さくなったりいろいろするので、その名前も必要ないですね。 まあ、守護霊さん、守護神さんという言葉は使ってもいいですけど、断定してまた過去のいつの時代に生まれたこういう姿と捉えると、小そう落としてしまうのね、受け方も 護りも小さくなってしまう。

 沢山応援してくださいって言うと・・

 う〜ん。必要になったら、頼まんでも応援してくれる。

 守護霊さん、守護神さん、宇宙絶対神、というと、なんとなく私達は人間の姿を想像してしまうんですけど。

 そうね。 守護霊さん、守護神さんは一応悟りを開いて心を自由自在に切り替えられる人で、波長合わせが上手な人ですね。 ただあまり高いとこにいる神様はあまり低いとこへは合わせ難いね、合わせられないことはないのだけど、その段階に応じて波長合わせしてもらわないと「一番上から一番下まで」って大変でしょう。 途中の段階が幾段階もあって、上から降ろせばいいでしょう。この世の人も同じですね、地獄に波長を合わせたり、極楽に波長合わせたり、上下に波長合わすのは大変でしょう。大体この世と合ってるわけです。 だから守護霊さんが一番身近で、この世に波長を合わせやすく、助けやすく、働きかけしやすいのです。 そういう意味で、段階をおいて譲ってるのね。ただ上にいるから偉いとかではなく、働きの違いとしてね。 守護神さんが偉いからと言うて、低い人を譲れなかったら偉いもなにもないでしょう。低いとこを護るのは守護霊さんの方が堪能だから、そういう意味だったら守護霊さんの方が上なんですね。

 「波長合わせがどこでも合わせられるようになった方」とおっしゃいますけど、現在肉体を持って生きておられる方もあるし、亡くなられた方の時もある。

 それは、過去にいろんな体験積んでいるから、いろんな番組に波長を合わせて、生きているのね。それで番組から抜け出て自由な心になってるの、それが悟ってる状態なのね。だから、どの番組でも波長を合せて自由に見れる状態ですね。

 現在肉体持ってる人もいる・・

 私みたいに、(あははは)肉体を持ってても自由に波長を合わせるから。

 その場合は、守護霊さんは・・

 「何時も譲ってる」って、(ははははは) 専属に、というのではなくても、応援は出来ますよね。 だから、今自分の波長が「こういう段階」としてそこに報われたらその番組でしょう、働きようがないですね。 ただもう低い番組の波長よりも自由に波長を合わせて、そこへ光を送り込めないとね。

 じゃあ、これを出しとくと、先生が守護霊についてくれるんですか?

 (ははははは)

 いやいや、私なんか大したことないでしょう。バックに大きい神が付いてますからね。私はいつも「ありがとうございます」って、宇宙の大神様を呼び続けてそのカを受けているので、私の力でも大したことはないけど、本当の神様が応援してくれます。私を使って…、(うはつ、うん)。

和解

質問:

 亡くなった伯父に「ありがとうございます」を唱えてるんです。離婚し、親兄弟はもちろん子供たちにも、伯父にも、すごく迷惑をかけて、大変辛い思いをしました。主人も同じ会社にいましたので、同じ商売をとって、出て行ったんです。 私もですが、伯父の方は、もっともっと辛い思いしたんじゃないかと、今も思いつづけています。みんな身内の会社なんですけど、その時の事を思い出して、どうしても足が向いて行かないです。伯母と会っても前みたいに出来なくて。



ありがとうございます:

 大丈夫、(ははははは)向こうからニコッと笑って出てきてくれるよ。

 姪の中で一番大事にしてもらって、一番大好きな伯父だったんです。

 大丈夫だよ。 「ありがとうございます」を唱えてたら、必ず良い姿で向こうから出てくるからね。宇宙の大神様って凄いんよ。太陽が無限のスピードでパッと自分の方へぶつかって来たら大変でしょう。 でも、本当の神様ってね「最高表現の天照大御神様」というのは太陽の無限億万倍なのね。そういう大きい大光体が光の早いスピードでぶつかってくる、一瞬一瞬ね。 そういうものが、向かってくるというのはもの凄いよね、圧倒されて、尻込みして、後ろへ下がるしかないでしょう。それで謙虚になるしかないのね。それだけのものを、いつも与え続けてくれているのだから、「ありがとうございます」を唱え続けていたら、そうなってくる。自然になってくる。神様が出てきてくれるからね。 神様の本当の姿を見せられたら、そんだけ太陽の無限億万倍のものすごい光だから、太陽なんて消えてしまうわね、芥子粒みたいになって、それぐらいの凄さなのです。愛の働きがあるのね。 ただ、「ありがとうございます」を言わないと、強制的に無理矢理出て来ないのです。 本当に命懸けで真剣に呼び続けたら、スッと出てきてくれるから、なんぼでも大きくなってきてくれるからね。だけど、逆に呼ばないのに出てきたら苦しんでしまう。もぐらの前に太陽がパッと出てきたら死んでしまうでしょう。だからね、自分が呼ばないと駄目なんです。 神様の本当の愛が欲しいんだって、必要なんだってね。そしたら大きい愛の光でさっと出てくるのね、どんな必要な物も与えてくれるのです。だから自分で意思表示して「ありがとうございます」って呼び続ける事は、やっぱり大事なのです。

子供

質問:

 最近生まれてくる子供たちは、すごく高い魂を持って、地球を良くする為に生まれてくると聞きましたが…。



ありがとうございます:

 まあ、そういう見方も出来ないことはないです。でも、それは部分的にとらわれた見方ですね。 最初から机の上で考えられたことだから、本当に悟った自由自在の自分が、チャンネル合わせをして楽しんで来て、今最高表現に向かってる、それが根本的に本当の姿です。生まれ変わってくるなんて低い次元ですよ。魂の生まれ変わりもない世界の方がいいもんね。 本当の世界高い番組の世界は、生まれ変わりじゃなく、一瞬一瞬新たに生まれ変わってくる生き方でしょう。だから輪廻転生の世界はないのです、「絶対から一瞬一瞬新たに無限の光を持って生まれて来る」というように、その自分が自由自在に生きるだけなんです。
 今迄、神様仏様を信じる人は、神様はどこにいるのかというと、この世にいなくて、あの世のどっか遠いところにいるのでしょう。神様仏様は、みんなそう思っていたの。 でも、本当の神様は現実に身近に降りてくれないとね。本当の神様というのは「ありがとうございます」なんです。神様は現実に愛の心で、例えば、この家にもなり、このジュウタンにもなり、みんなをこうやって座らせてくれているのでしょう。本当の神様は全部必要なものを変身してみんなを包み込んでくれているのです。現実まで降りてくれないと、本当の神様とは言えないですね。 奥にある働きはもちろんのこと、現実まで手を差し伸べて、姿を変えて愛を実際感じさせてくれるのが本当の神様やね、究極の神様ですね。
 「ありがとうございます」というのは、そういう全てに存在する本当の愛の働きをする神様です。最初は身近な神様よね。心の奥にいてるの、でも遠くに存在するけど、身近にも存在する、全体に存在するというように、その神様に包まれて自分はその中心に置かれているのです。みんな無限の無限の大光体の中心に置かれてるのです。「どこに闇があるか」というのが本当なのです。 ただ、目を閉じたら光りは見えないから、心の目を開くのです。それが「ありがとうございます」ね、感謝して開くのです。


本物の時代


質問:

 今のお話しと関係して、まだ「ありがとうおじさん」にお会いする前なのですが、非常にこの「ありがとうございます」が、いろんな人に言われていて、やはりそこにそういうものがあるのを感じていました。 今またそういう関係のない所で「ありがとうございます」が、そういう光を発しているようですけど、そのことはやっぱりそういう力が影響しているのでしょうか?昔からあったんじゃなく、最近出て来たのでしょうか?



ありがとうございます:

 そうね。 昔から悟りを開いた人は感謝によって悟ってるのね、誰一人例外なくです。お釈迦さんもそうです。六年間苦行しても、悟れなかったんでしょう。苦労して、修行しても、「牛乳を運んでる乙女の顔に自分は負ける」と言うんです。「乙女は幸せそうな顔をしているじゃない」それで「何でか」って考えるんでしょう。その一杯の恵まれた牛乳を飲んで、「ああ、なんてこれ、ありがたい、幸せ」って思うんでしょう。本当の感謝の心が、フッと湧き出たんでしょうね。 その時、金星の光を浴びて、本当の愛の光を感じて「ああ、ありがたい」ってね。 本当の意味の神さんの働きを直感したんですね「悟り開く」というのをね。過去に悟った人全部そうです。黒住教祖もそうです、もう感謝を徹底して、天照大御神様が中へ入って来て、合体してくれたという感じで悟ってるでしょう。五井先生もそうですね、修行中でも、空の修行でも「何も思わない」という修行でも、「ありがとうございます」が許可されてるです。 何も思わないのは大変よね「ありがとうございます」で切り替えたら、雑念が出なくなるでしょう。やっぱり「ありがとうございます」は、大事なのね。 だから、みんな「ありがとうございますの感謝の心で悟りを開いてる」のです。昔からあったんだけど、特に最近よね。「新しい世紀が本物の時代になってくる」というのが本物の神様が降り立つ時代やね、みんなの中に、一人一人の中に、全てに現れてくるのね。 だから、みんなが本物の神様を感じて、最高表現を味わえる時代になって来たんでしょう。

 そういう意味ではみんなの中から、いろんな守護霊さん守護神さん含めて、ご先祖さんも含めて、中から応援してくるのです。「ありがとうございます」と祈れなくても、向こうから祈ってくれます。自然に「ありがとうございます」という気持ちを起させてもらって、祈りの感謝行をさせてもらえるようになって来ます。それで良いこともいっぱい与えてくる。 番組をどんどん引き上げてくるから、良い番組に出会ってくる、自然に全体がそうなってくるのです。 この世の人の話しだけやないのです、どんどんどんどん高い番組へ心を向けさせる働きが、大きく降りてくると同時に、みんなもそれを必要とし出したのです。だから、本物の時代というのは、最高の番組に波長を合わす時代ですね。 無限に一杯プラスのものが降り注いでいるのです。これも中から、外から、全体から変ってくるのね。



 それについてなんですけど、どんどんどんどん早くなったり、大きくなったりしてきたと最近思うようになったんですが、そういうものは加速されるんですよね。

 そうです。 次元が高くなるほど、スピードが早くなる。それで世界が大きくなる。というか、大きくなってくるのね。大きくなると言うのは、視野が大きく広がると言う意味です。スピードが、どんどん早くなり、良いものがどんどん実現するのも早くなってくるのね。


 なるべくみなさんも、それに早くチャンネルを合わせてもらうのがいいんですね。

 そうね。 だから、それも自然にチャンネルが合ってきて、どんどん高まるに連れて更にスピードが早くなるね。

神様のセールスマン
質問:

 最初は「ありがとうございます」というのは、この「ありがとう村」の専売特許と思うてたんですけど、実はそうではなくて、そういう大きな働きが具体的に出来る人によって、ここがどうこうというよりも、出先機関のようになってもらって…。


ありがとうございます:

 そう、そう、本当はそうなのね、宇宙の大神様の専売特許なの(はは、はは、はは)こんな地球のちっぽけなところには、支店も支店、もう末端の支店が一つあるぐらい(ははははは)そのくらいの軽い気持ちで見た方がいいよね。 本当の本店は、これはもう宇宙の大神様だからね。“

 じゃあ、私はそのセールスマンですね。

 セールスマンね、(ははははは)神様のセールスマンね、天の使いやね。だから、この「ありがとうございます」って唱えて、今迄は、物をもらったり、親切にされて「ありがとうございます」という小さい受け方だったのが、これからは直接神様を感じる時代になってきたのね。 同じ「ありがとうございます」を唱えるんでも、唱える人が直接神様を感じて、それで自分と神様と一体化するの、その時代になって来ているのです。 だから、過去とは違うよね。過去の「ありがとうございます」と、今「ありがとうございます」を唱えるのでは、ちょっと意味が進化してるです。これからは「感謝しなさい」という説教はいらないね、「感謝させて頂いてありがたい」なのね、せずにおれなくなって「ありがたい」なのね、そういう時代になって来るのです。 昔は「感謝しなさい」だったの、「幸せになりたかったら感謝しなさい」って説教してたの。 でも、これからは自分の中から沸きあがるように、感謝させてもらって「ありがたい、ありがたい」になって、それで神様を直接感じるの、直感するのです。


神様の感じ方

質問:

 神様の感じ方というのは、人それぞれいろいろあると思うんです。 例えば、一つの例だと、「霊視が出来る」、あるいは、「霊聴が出来る」とか、或いは、そういうことじゃなくて、「もっと自分がやりたいと思うことや、自分の思ってる事が、いろんな縁でもってつながって、それが具体的にやれるようになってる」とか。まだ他にもあるのかも知れませんが、神様を感じるというのはそういうことなんですか。或いは、気持ちの方では、「何か知らないけどすごく幸せ」だとか、「何かこうありがたい」とか、「こうわっと湧いてくる」とか、そういうことなんですか?



ありがとうございます

 そうね。 いろんな霊能力ってね、ピンからキリ迄あるのね。低い番組の姿が見えても本当はあまりプラスにならないわね、それぞれの番組にいろんな姿がある訳でしょう。その番組を感じて霊聴、霊視するかでしょう。 それなら低い神様を見て「ああ、素晴らしい」と思うなんて馬鹿なんですね。低い番組にしか波長があってないでしょう。 その無限のチャンネルに、一番上のチャンネルに波長を合わせて、そこからいろんな姿を感じ取って、聞き取って「ああ、素晴らしなあ」と言うのなら、ちょっとは良いかも知れないけど、それでも報われても大したことないです。 だから、本当の神さんを感じるというのは、その一瞬一瞬新たに出てくる最高表現の姿を本当に感じないと駄目なのね。過去の番組じゃないのです。 本物というのは無限の無限のプラスを、それも新しいプラスを、どれだけ霊視するとか霊聴するという程度じゃなしに、いろんな感じ方、自由自在のいろんな感じ方で感じ取ることが大事なのね。 何も見えなくても、愛の塊として感じるかも知れないし、美の塊として感じるかも知れない。それはもう、一人一人感じ方ぜんぶ違うし、自分も自由自在にいろんな感じ方をさせてもらうのがいいと思うです。

   本物を感じるというのは、「神様」というのは、無限のチャンネルの低い番組の事は、神様と言わない方がいいですね。 それはもう付け足し。 「神様」という限りは、「無限の無限の最高の輝いた姿」というふうに見た方がいいね。それを感じ取って欲しいのが神さんの願いなんです。

柏手・口笛


【五井先生の瞑想の時に、柏手や口笛が入っているのですけど、柏手は、例えば、神社にお参りした時に叩きますよね、そのような何か通りが良くなるとか、あるいは口笛でしたら、聞いていて気持ちがいいものですから、それでなさるのかなあ、と思っているのですが、実際はどういう意味か、教えてください。】

ありがとうございます
 柏手は「陰と陽」、「左が陽」(火‘日’足り)で、「右が陰」(水極)です。陰・陽を合わすと通りが良くなるのね。本当の心の波長に応じた光が強く出るんです。心境の高い人の柏手は、ものすごい光がほとばしり出るの。五井先生もやっぱしそうですね。あの小さい体で小さい手で柏手打って、力を抜いて打っても力士の何十倍もの音を出すでしょう。凄い音が出るの。小さい手で力を抜いていても何百倍って大きい音が出るのは、肉体の力の柏手じゃないのね。「神さんの光のエネルギー」はもの凄いし、やっぱり心境が高いとそうです。そういう意味で柏手というのは、気持ち良くなるでしょう。五井先生の場合は、もの凄い光がずっと出て、心を浄めてくださるのです。口笛も、人間の体は生命磁気なんです。手からも出ます、額に手を当てて熱を測ったりするね、「手当て」と言いますでしょう。また、口から、どこか痛いところへ「フー」と息吹きかけたら、痛みが取れたりしますね。息吹が自然に口笛に変るというのもやっぱり浄めの大きい働きなの。口笛も自然な口笛が出ているのですね。その響きは、大自然の自然な響きがスーッと出ているのでしょう。そういう意味で、本当の浄めの働きがスーッと光が通っているんです。だから、このお祈りの練習には、バックミュージックとして、最高だと思います。ただ、いろんな言葉が最初に出てきますよね「世界人類が平和でありますように」。やはりこの言葉は、心を広げる意味では必要やね。 小さいマイホーム主義の生き方から、大きく心を広げる意味で役に立つし、それに、守護霊さんを認める事も大事だし、守護神さんも大事だし、五井先生っていうふうに大きい助けを受ける意味でも必要ですね。
 最後にまた「ありがとうございます」もあるでしょう。全ての一番奥に、バックに本物の神さん、究極の全ての全でなる神様が働いているという、最後の締めくくりが大事なのね。だから、その後の「ありがとうございます」を、ズーッと繰り返されたらいいんです。別に宗派的にしなくてもいいでしょう。五井先生も宗派的な生き方で来られたんじゃないからね。「宗派を超えて全て仲良く一つになる」という意味で来られたのね。ただ、白光真宏会という組織が出来てしまったのです。これも五井先生が作ったんじゃなしに、回りの人が作っただけなんです。そういう意味ですね。



【今の柏手の事ですが、口笛が入っていますね、私はあのテープを聞いた時、なにか吸い込まれそうになって凄い気持ちが良くって、幾度聞いてもそう思うんです。あれは、どなたがしていらっしゃるのかと、気になっていました。】

ありがとうございます

話し中はお祈りのテープは流れてないのね。でもここでしてるから、そういう響きはズーッと通っているのです。光のお祈りね。だから、ここのテープを流してなくても、ここでお祈りすると、「響きが強く出ている」って感じる人多いですね。別に、ここの部屋に来なくても、空耳みたいに聞こえるけど、この辺り一帯でじっとしているだけで響きが聞こえてくるね。普通の会話でも、その中にその響きが通っているんですね。誰でも感じないかも知れないけど、感じる人は感じるかも知れないねえ。


【場所というのはどうでしょう、あるんですか。】


ありがとうございます

「場所」というよりやっぱり響きなんです。一つの響きの場所があったら、その回りはちょっと強い響きが、同じ響きが出ています。そういう意味では、場所もちょっと影響しますね。…ゲコ、ゲコ、ゲコと蛙の声がする…蛙の声もいい声でしょう。(あっはははは)。吸い込まれる。(ははははは)



 「・・ように」には意味がある


【五井先生の言葉では「世界人類が平和でありますように」という「ように」というのは、わざと断言しない「なりました」よりも「ように」と使っているのは何か意味があるんですか?】

ありがとうございます
あるんです、はい。現実を掴んでしまっている人にとってはね。例えば、戦争状態を掴んだ人にとったら、それを離して、断定の世界に入るのは本当に難しいです。戦争の真っ只中で「ここが完全平和だ」と思うこと自体に相当無理があるのね。本当は断定の世界をしっかり捉えるのが一番いいのだけど。それは、もう神様にお任せして、神様の方からその断定の世界の完全平和を持って来てもらうというように、やっぱり「お任せ」なんです。それやったら自由になって楽です。


【普段自分達が使っていて、断定で言っても、それは…。】



ありがとうございます
そうそう。本当はね、神さんの中に飛び込めたら断定の世界に入れるのね。それもお祈りしている内に、段々と、断定の世界は本物というふうに感じ取って行くのだけど、最初は無理せんでもいいと思うね。「ように」の方が、神さんにお任せすればいいの。だから、無理がないのです。それを無理に断定して「入らないと」というと、ちょっと矛盾を感じるし、「現実はこうなのに、自分は出来ないから駄目だ」と思ったりするし、いろいろマイナス面も出てきますね。だから、全ての心境の人に合うように、大きく広く祈り言葉を定めておられるのです。

※五井先生の「世界人類が平和でありますように」は、五井先生と神界の約東事としてこの「祈り」を唱えると「救世の大光明が輝く」という約東がなされている。〈例えて言えば、神(真)言のようなもの〉と思えば。


 「やりたい事」と「必要な事」の違い

【自分のやりたい事と、必要な事の違いがよくわからないんですが。】



ありがとうございます
「やりたい」という「自我の心」で「やりたい」と思う時は、必要な事と、ちょっとズレがあります。「自我の心」が、在るか無いかを判断する方法は、先ず「感謝」が先に立っているかどうかやね。「感謝」して、それで「やりたい事」を選んだ時は「必要な事」になるのね。その判断を神様に一旦お任せして、神さんの方から必要な物を選んでもらって、させてもらうと、その「やりたい事」が、神様のやらせたい事で、それが「やりたい事」と一つになります。決める時に先ず「ありがとうございます」と感謝してから決められたら、自分のやりたい事は、神さんが必要としている事なのね。感謝を忘れてしていると、自我が勝っている時は、ちょっとズレてくるわね。


 感謝して受け止める


【出会う人が変ったり、出会った人と深いつながりになったり、仕事が突然あちこちで拡大していったりするのは、守護霊さんが変られたのでしょうか?】

ありがとうございます
(はっはははは…)

守護霊さんは変らない、正守護霊さんは絶対変らないね。ただ、応援の副守護霊さんが沢山付いて来るよね、自分が神さんの大きい働きに使ってもらえると、副守護霊さん、副守護神さんが一杯付いてどんどんどんどん応援しに来るのです。だから、自分は何もしてなくて、皆な背後の神様が全部してくれているの。そして、それを受け止めるだけです。その感謝の心が、どんどん高め上げられてきているわけです。受け切れなかったら、どうしようもないものね、自分を通して何も出て来ないから、受けられる心境に高まってきた、そう高めてもらっているのです。それだけの大勢の神様の助けを受けて、どんどん大きい仕事のご用に使ってもらったらいいね。それを「自分の力で」と思うと、ちょっとまた我が出てくると、傲慢になると、守護霊さんなんかはスッと引っ込んでしまうわけです。
 ここで、大事なのは「我を出さない事」やね、「謙虚に謙虚に、みんな神様のお蔭なんだ」というふうに感謝してると、応援がどんどん大きくなってきます。

【お金でも必要な時に人に出してもらって、「悪いなあ」と思って受け損ねるような気持ちになる時があるんです、それはどう思われますか?】
ありがとうございます

神様の大きいプレゼントです。神様からのプレゼントだから、【ああ、そうですか】ありがとうございます」であって、【あまり悪いから】いいです。ではないのね。そこで我を出すと「お金、払わないと」となるのね、その思いはいらないです。全て神様からの無償のプレゼントです。神様は何も要求してこないで、報い求めず無償で与えてくるでしょう、それにはやっぱり感謝して喜んで受けないとね。神さんには、感謝する事が本当の大きいお返しなんです。だから、守護霊さんが大勢働いてくださっても、「ありがとうございます」と言うことは、守護霊さんにもお返ししていることになるのね、だから、「感謝で受ける」ということは、もの凄く大きい働きです。どんどんタダでもらうといいと思う。だから、「ありがとうございます」を、唱える事はもの凄い働きなんです。物やお金に変えられないね。「ありがとうございます」を唱えている限りはいくらもらってもいいのです。要求したら駄目で、与えられるままね。神さんの方が「何が必要か」というのを先にわかっているから、必要なものは求めんでも先に与えてくださる、そこが不思議なのです。
 お金が必要でない時、お金を余分に与えてもらったら無駄遣いするし、間違った使い方をしてしまいます。また使わずに貯めとくだけかも知れないですね。だから、本当に必要な時に必要なだけ与えてもらうのが一番幸せですね。

 貯金

【貯めるのって、良くないんですか?】



ありがとうございます
それもね、貯めるのも使い道がちゃんと定まって、ちょっとプールするぐらいがいいですね。ただ、その貯める目的がマイナスだったら、それが老後の為とか、病気の為とか、そういうマイナスの目的だったら、逆に貯めたら病気になり、いろんなことが起こるの。その目的を果たさないと駄目なんです。本当の大きい目的、正しい良い意味のプラスの目的を持って、その為に必要な資金をある意味でプールするというのだったら、大きい正しい目的の為に、それを活かしてもらえるのです。そういう貯め方だったら、「貯める」というより「準備している」という感じですね。



 保険


【保険は、どうでしょうか?】

ありがとうございます
保険を掛けてくれる人が、みんな幸せでありますようにって、報い求めず与える心で出してくださった保険金だったら、それをもらったら幸せになれますね。ところが、与え尽くす心じゃなしに、逆に「たくさん返してもらう」という気持ちで出したお金だと、保険金もらった人は、そのマイナスの思いを背負うのです。結局、心のマイナスがいっぱいになってしまって、形でお金をもらっているけど、心にマイナスを背負うと逆にしんどいですね。

【お守りのつもりで入るのは、どうでしょうか?】

ありがとうございます

うーん。「与え尽くすだけ」だったらいいですね。みんなの幸せの為に、もらう積もりじゃなく、「与えるだけ」と言うんだったら、それだったらいいですね。

【子供の「車の交通事故」保険に入るのは、お守りの積もりで入ればいいのですか?】

ありがとうございます

事故を想定して?

【そう言う事になりますね。】

ありがとうございます

そうね。ただ与え尽くすだけという気持ちだったらいいですね。車の任意保険でも、事故を想定せんと、本当に与え尽くす「掛け捨て」に出したらいいんじゃない。その気持ちが大事ですね。それも「ありがとうございます」があったら、マイナスもカバーしてもらえます。保険に入っても「ありがとうございます」を唱えたら、そのお金に光を振りまいてくれるし、神様は、どんな運命でもプラスに変えて、良くなるようにしてもらえるんで、やはり「ありがとうございます」を加えた方がいいですね。それがベストですね、後は枝葉よ、まあ、どっちでもいいようなもんかも知れないね。全部「ありがとうございます」で大きいプラスに変えてもらうのだから、そのマイナスも小さいプラスも大したことないです。


 全託・全肯定


【「全託」ということは、ある意味では「ぜんぶ任せる」ということですから、少し消極的な感じも受けますが、よく考えるともの凄く積極的なことのように思うんですけど、凄いことなんですね。】

ありがとうございます
本当ね。みんな全託というのは、小さい自分の全託でしょう。本当はそうじゃないね。神様に、今見ている世界、これを全部お返し、そして最高の世界を受け直すことなのね。その最高の世界を受け直す為に、今掴んでいるのを離さないと駄目なのね。全託というのは、「離す」というだけなんです。ただ、それを離すのでも、それを消してくれるところへ渡さないと迷惑かけるでしょう。古いゴミみたいなものを、人にポンと投げかけても、喜ばないですね。要らないものはやっぱり神様に返して消してもらう方がいいの。そういう意味で神様にお渡しする、それで新しいものと置き換えてもらって、最高の新しいものを受け直す、これが「全託」です。だから、「ありがとうございます」というのは、「全託行ね」。今迄に受けたもの全部お返しして、新たに最高のものを受け直している。その練習をしているのです。ただ中身は一足飛びには最高まで行かないから、段々と置き換えしてもらうのね。「ありがとうございます」を繰り返している内に、掴んでいるものを離しやすくなるし、どんどんどんどん消してもらって、過去に囚われない自分に必ずなってくる。それで新しい良いものを、たくさん受けられるように、感じられるようになってくると、自然に離すしかなくなってくるのです。新しいものの方がいいのよね。それも常に、無限の無限の輝きとして、新しい宇宙がどんどんどんどん生まれてくる、心太(ところてん)式に押し出されて来ているのです。それを受けない方が本当はおかしいのね。実際は、太陽の無限億万倍の大光体が、もの凄いスピードで押し寄せてくるようなものよね。この世の太陽より、もっともっと大きい幸せの塊が、どんどんどんどん神様の方から降り注いできてるのですよ。「早くそれを受け取れる自分になる」というのが大事なのね。それが「ありがとうございます」を繰り返して唱えている内に、受けられる自分になるのです。それも「早く受けたい」と思わんでもいいの、自然に変えてもらえるからね。「ありがとうございます」って唱えていたら、神さんが全部してくれる。これはもう、自力じゃないし、他力じゃないし、「神様の絶対力」の働きなので、自分がどういう状態でも関係ないのです。「ありがとうございます」を唱えたら、助けが受けられる。

【「全託」と、「全肯定」全てを受け入れる、よく似たような印象を受けるんですが、「全肯定」というのはどういうふうに】

ありがとうございます

でもね。「何を肯定したらいいか」でしょう。過去の古いものを肯定したら新しいものを受け損ないます。神様にとったら何を肯定して欲しいかって、今の一瞬に現れる最高表現を肯定して欲しいのね。過去は一切肯定して欲しくないのです。例えば、無限の無限のチャンネルがあっても、一番上の番組だけを肯定して欲しいの、次元の低い番組の方は、肯定して欲しくないのね。本当の「大肯定する」って、やっぱり、最高表現だけを一瞬一瞬肯定し直す、というのもいいんです。わざわざ低い次元を肯定せんでも、大肯定の中に全部含まれているのです。必要だったら低い次元もわかる。でも、それをいつもわかっていたら困るんです。低い次元の事がわかった時はね、最高表現を見失っているんです。本当の大肯定、本当の全託というのは、「無限に無限に良いものばっかり!」と言う最高表現を受け入れることやね。全託も大肯定も、本当は言葉の使い方一つなの。無限に無限にプラスの言葉を駆使する、本当に使いこなさないと、全託も大肯定も出来ないです。だから「無限の無限の幸せが一杯」というのです。その言葉を使い続けたら、いつも幸せを受けられるでしょう、無限の無限の幸せをね、それだけをまた大肯定出来るでしょう。
 そういう生き方が本当は正しいの。小さい幸せは相手にしない方がいいのよ。小さい幸せを掴むとね、大きいものを見失うのです。「この世が全て」と思うと、無限の次元の他の世界がわからなくなるから、もちろん最高表現もわからなくなるのね。この世に執着する、掴む事も間違いだし、またこの世の中の小さいものを、もう一つ小さく掴むのも間違いよね。今見ている世界は、本当に移り変わる姿として、遠く離して眺めないと、掴んだら駄目なんですね。もう自然にさらさら流すような感じで、遠く離れて眺めるというようにね。「光源」をしっかり認めて、それで最高表現を認めていく。「光源」を見ながら光の流れを眺めるんだったら、引っかからなくなるのね。般若心経の「色即是空、空即是色」を、本当にわからないといけないね。「空」が光源で、「色」が光り、というふうに見て、「光源」に背を向けた「色」は、本当の「色」じゃないの、光源をまともに見てそこから現れる光を認めた時が、本当の「空即是色、色即是空」です。いつも全てのことが「神様の現われ」と認めると、そこにはマイナスはないの、小さいプラスもないのね。「無限の無限のプラスだけ」という見方です。

 光源

【光源って?】



ありがとうございます
本当は深い意味があるんです。まあ「光」と、「光の源」を「光源」と見ると、「絶対」でもあり、「光源」でもあるんです。だから「空」は何も無いじゃないのです。無限の無限のプラスが一杯というのが「空」なのね。

【ありがとう、になっちゃうんですか】

ありがとうございます

そうそうそう、そうね。

 「ありがとうございます」の伝え方

【日本人同志なら「ありがとうございます」で話し出来るんですけど、海外の方も「ありがとうございます」を進めた方がいいんですか? 言霊の違いがあるように思うのですが。】



ありがとうございます
なって来ると思いますね。ただ、日本人が「ありがとうございます」をしっかり唱えて、本当に神様と対面し、幸せを掴んでしまったら真似するしか無いですね。他に言葉があればいいですけど、なかったらその言葉が世界共通語になるんです。だから、これをぴったり表現できる外国語があれば、その言葉でもいいと思います。でも、ちょっと足りないかも知れないですね。

【文字で書く時はひらがなでいいのですか?】

ありがとうございます

漢字じゃ意味がちょっと限定されてしまうでしょう。例えば「難あり、有り難し」とか、「神仏の働きがあって存在してるんだ」というんで、「神さんがなかったら存在しないんだ」という意味だったら、限定され過ぎて小さい意味になるのね。だから、もう「ひらがな」で、言霊の響きをそこから感じる方がいいと思いますね。

【カタカナとの違いとかは?】

ありがとうございます

それは別にないけど、うん。

【この文字の縦書き横書きが、世界中に広まればいいんですね。】

ありがとうございます

そうですね。ただ別に、この日本字でなくてもいいかも知れないですね。

【例えば「ローマ字」であれば】

ありがとうございます

いいですよ、いいですよ、ねえ、響きがねあるんでね。

【ローマ字で書いて「ARIGATOUGOZAlMASU」って書いて向こうの方に呼んでもらう。】

ありがとうございます

響きがあればね。


 「人生の目的は無い」とは?


【先生は、「人生の目的は何故生きとるのか」ということを探求された時期があったと、お聞きしていますが、最近、ある作家が、「人生の目的は無い」という、そういう境地に達した、という文章があったんですけど、最後は「人生の目的は無い」というふうに言うと、ちょっと寂しいような気もするんですけども、どういうふうに考えたらいいんでしょうか?】

ありがとうございます
「無い」というのはね、「無常」という捉え方です。厭世的に捉えるか、楽天的に捉えるかよね。バックに神様があったら、無常ほど楽天的に見える事はないのね。「無限の無限の輝きが一瞬一瞬に変化し続ける」というのが、神様がバックにあるから言えるの。「無常」って「常で無い」、変化し続けるというのは、最高の素晴らしい働きなんです。同じ物が続いたら、飽きてくるじゃない。もう全てが、大したことないもんね。一瞬一瞬置き変わるということ、変化するということ自体が、神様の最高の働きです。だから「無常は」無限に本当はもう無限に明るい見方なの。ところが神様を認めてない人にとったら、無常はもう本当に虚しい、侘しい、暗くなってしまうのね。だから、今あるものを掴みたいんでしょう、変化してしまうから、掴もうとしても掴めないのでしょう。「何も無くなると言う感覚なの。だから、「人生の目的」というのも、神様がなかったら本当の目的は掴めないのです。その作家の言われる事は、神様が無いの、無いから「人生の目的はない」というところまで辿り着くのね、本当の虚無的な厭世的な考え方です。気の毒よね。それはもう、悟りの境地でも、達観した境地でもなんでもないよね。本当の詰めでも、明らかに見る諦めではなく、もう絶望的な諦めね。

【その後に「ただ、生きる事が大事だ」と。】

ありがとうございます

そう。ちょっと虚しいね。それねえ、「神様に生かされている」というのが本当ね、「神様が生きている」というとこまで行かないと。肉体人間が生きてるんじゃないのです。ただ自然に、勝手に、動いているのでもなく、神様の最高の意志が働いて、全てを生かして変化させて働いているのです。本当に「神様が生きてる!」というんだったら、「神様が大きく働いている」というんだったら、ただ「生きている」じゃあ、ちょっと、まあ言葉の遊びみたいな感じよね。

【要するに、どんなに苦しくても、どんなに辛くても、マンションの上から飛ばずに、とにかく生きる、ということ、そのことが尊い、という言い方だと思うんですけど。】

ありがとうございます

やっぱり、神様は無いですね。神様を無視している。「どんなに苦しくても」って、神様は苦しみなんて絶対与えないね。無限無限の楽を与えてくれているのに、それを受け切らないから、受けないからマイナスの苦しみがあるだけです。

【ということは「そういう番組の主人公」ですね。】



ありがとうございます

そうね。その低い番組に波長を合わせて、囚われた状態に入りきっているわけよね。それは神様の願いではなく、早く、神さんに心向けて「最高の番組を受けて欲しい」と神様は願っているのに。苦しい言葉の「無」という言葉で「自分は悟った」と思って、「安らぎの心を得た」と思ってるお坊さんがたくさんいるけど、そんなん悟りでも何でも無いでしょう。心が安らいでいるか、安らいでないかよね。ちょっとしたことで心は動転してしまう。「無」という言葉は駄目です。「何も無い」というたらね、地獄のどん底よりもっと低いかも知れん。地獄は、まだ痛みがあるし、苦しみがまだ残っているよね。「何も無い」というと、それすら無いでしょう。意識も無くなるかも知れない。そしたら本当に何も無い言うたら、何の価値もないよね。

 頑張る・努力する

【世間の人は、よく拳上げて「頑張る、頑張る」とやってますが、私はそれ聞くと疲れるんです。その「頑張れ」という人に「ありがとう」と言うと、よく「頑張れ」って言われるんで、いつもそう思ってしまうんです。】



ありがとうございます
そうね。「頑張る」と言う言葉も、どういう中身かというのが大事ですね。別にその言葉は駄目っていうわけではないんですけど、まあ「全力を出し尽くしなさい」のような感じだったら別に悪くはないよね。ただ、自我の・自力の心で「頑張る」というのは、神様を無視した働きだと限界が来て、頭を打って、やっぱり何も実らないものね。それを、まだ「頑張ってない」というふうに見ると、人を責めたり、マイナス見たりするかも知れない。「本当の頑張りとはどういう頑張りか」「じっと座ってたら頑張りじゃないんか」となってくるでしょう。(はははは)

【みんなに合わせての頑張りかも知れませんね】

ありがとうございます

動き回るのが「頑張る」という意味でもないもんねえ。

【今のお話と関係するんですけど、「成功を信じ、諦めず、努力するところに道は開ける」と言う文章があって、努力する事の好きな人、あんまり努力しなくてむしろ神様の方に向かっている人、どちらかと言うと努力タイプの人、「人事を尽くして天命を待つ」というやり方、これはこれでいいんでしょうか?】

ありがとうございます

でもそれは自我を生きている低い段階ですよね。(はははは)本当にお任せして、感謝行の中で神さんが働き出したら、神さんが全部するのです。してくださるから、傍目で見たら人の何倍も努力している姿に見えるんだけど、本人は「何も努力してない」と言うね。「勝手に動いてる」と言うね。「自然に動いてる」と言うね。努力と言う言葉はなくなります。そういう方が本物です。努力も神様にさせて頂いている努力だったら、本当の努力なんだけどね。「成功」と言っても「何が成功か?」ってね。(はははは)自我の心で何か目的があって、それを掴んだ成功なのか知れないですね。でも神様の成功というのは何かというと、神様の最高表現そのものが成功なんでしょう。無限の無限の大成功そのものなのね。
 だから、今の一瞬一瞬がすでになっているわけ。それを受けたら「人の成功」やね。感謝を究めて受け切ったら、神様の大成功の姿を受けるんでしょう。結果をそのまま受けてしまうから、努力も何も要らないよね。

【努力しているより念力してるような】

ありがとうございます

そうね。低い番組ではね。

 この今の一瞬の輝き

【時代時代による「神様の現れ方」、例えば、百年前だったらエゴをガンガンやるような、その、今何か変化しているのを感じてるんですが。】

ありがとうございます

この世の番組で「時代の移り変わり」を掴むのは、この世の番組から抜け出してないのね。別な番組だったら別な歴史があるでしょう。もう一つ自由になって、どの番組も自由に受けられて、その番組の無限の歴史をいつでも瞬間に抜ける方がいいもんね。そしたら見方が、自由に変って来ると思います。


 今の自分が全ての番組を抜け出たら、もう歴史なんて相手にせんでも、最高表現の歴史を見たらいいね。本当の姿って、今の一瞬に宇宙の始まりであり完成なのです。その最高表現の中に、全ての時間と全ての空間が、全部完成された姿で一瞬に現れるのです。その中には、無限の過去と無限の未来が同時にあるの、そして今の一瞬が最高に輝いているんです。
 例えば、花一本チューリップが開いてるとするでしょう、そのチューリップの花の歴史がズーッとあるのね、親が、親が、…、…、ってね、無限の昔をさかのぼったところに最初のチューリップの花があるの。そしてまた未来にズーッと子孫が続いてて、その全体の中の、今の一本の自分の花が開いているわけで、ぜんぶ輝いているのね。一本だけ輝いてるんじゃなしに、自分のバックにそれだけのチューリップの花があって輝いてる、他のもぜんぶ同じ。だから、今の一瞬の最高表現の歴史が無いんじゃなしに、逆に無限に無限に輝いた歴史全部があって、「今の一瞬が最高に輝いて見えている」というように。低い次元だとそこまで行かないのね。マイナスもありプラスもありで、マイナスの繰り返しを何回も繰り返して、どんどん良くなった姿になり、いろいろよね。

【チャンネルを高い方に合わせていく為には「ありがとう」をずっと言っていれば、逆に自動的に上がって行くものなんでしょうか?】

ありがとうございます
上がって行きますね。もう一番最短コースで上がって行くのね。やっぱり神さんの力が一番強いでしょう。神様を呼び続けて神様にお任せしたら、今の自分に合わせて的確な働きをしてくださるから、神さんのする事はやっぱり完璧です。次の一瞬また自分に合わせてまた必要なものを的確に与えてくださる。それが連続すると、やっぱり最短コースで良くしてもらえるのね。

【神様にチュウニングするという感じなんですか?】

ありがとうございます

そうですね。「ありがとうございます」というのは、本当の究極の神様を呼び続ける事なんです。呼べばスーッと現れて答えてくださるのね。ただ、本当の神様って一番謙虚なんです。無限に無限に謙虚なんで、みんなの自由を束縛しないの、それがね一番の問題なんですけど、自由にさせてくださるのね。

 神社の「鏡」の意味

【お宮さんにお参りにいったら、「鏡があるだろう、神棚にも鏡があるだろう。(か、が、み)の「が」を取ったら神さんになるぞ」って。やっぱり自分の「我」というものは、なくしたほうがいいんでしょうか?】



ありがとうございます
明るい方から暗い方を見るのね。例えば、外が暗闇で、透明なガラスだったら、部屋の中に電気が点いたら明るくなり、鏡になるでしょう。でもお昼だと中に電気を付けても外の方が明るいから、ガラスすごしに外の景色が見え、光が見えますよね。神様というのは、「輝く姿」と「鏡の姿」の両方の働きをしてくれるのです。自分が、本当の神様、根元の光の方へ向いた時、「ありがとうございます」と向いた時は、回りが明るく見えるのね、「神様感じるから鏡じゃない」のね。
 ところが神様に背向けた途端に、闇の方へ向くでしょう。暗い方へ向くと、みんな鏡に見える。今の自分の心を映す鏡になって環境が出てくる。だから「ありがとうございます」と唱えている時は、輝いて見え出すのね。だから「ありがとうございます」を忘れると、本当の神様を呼んでないと、自分が神様に背を向けている状態なの。そうすると、その心境に応じて、回りにいろんな鏡に映る姿が見えてくるのです。だから、神社の神様の御神体を鏡にしたのは、そういう二通りの意味があるのね。「本当の輝きの姿を見て欲しい」というね。また、「暗い方へ向いたら、鏡の姿で見せますよ。反省してもう一回神様に向きかえってください」っていうような意味ね。


 夢中で仕事している時


【仕事している時、感謝してやってるんですけど、夢中になっている時に「ありがとうございます」を忘れる時があるんです。気づいた時反省するんですが、これって大事ですか?】

ありがとうございます
「ありがとうございます」を心で唱えて口で唱えて、これもズーッと続くのもいいんですけど、年の初めに一回、深く「ありがとうございます!」と言うたら一年続くのです。ただ、マイナスの思いが出なかったらいいのね。仕事に一生懸命になっている時は、思いが出てないよね。仕事に入る前に「ありがとうございます」を唱えて、仕事に入って一生懸命になっている時は「ありがとうございます」が続いているの。その最初の「ありがとうございます」の一回がズーッと続くのよ。だから感謝しているのと同じなのです。神さんの光がね、光がズーッと通ってるから、一生懸命出来るのよ。

【やっぱり嫌々している時は「ありがとうございます」から外れている?】

ありがとうございます

(ははははは)本当に光が通っている時は、別に口に「ありがとうございます」を言ってなくても、そのまま光を受けている状態、神さんの力、能力を頂いている状態なのね。それは本当の意味の感謝なの、ただ、そういう状態が外れた時には、もう一回呼んだ方がいいね「ありがとうございます」ってね。

【外れっぱなしだ】

ありがとうございます

(ははは)外れっぱなしだ…、


 末法を救うのは

【最近テブレコーダーに向かって「ありがとうございます」と録音してるんですよ、時々「無限の無限のありがとうございます」ってちょっとリズムを変えましてね、あれをやってますと、なんかぜんぜん違いますね。是非みなさんもやってください。それを自分で聞けばいいですね。】



【車の中で聞いています。】

【みんなで楽な方法を考えていますね。】
ありがとうございます

(はははは)

【シ−ルで一番大きいやつあるでしょう、あれを腰に敷いたりしています。120分テープだと二時間続けられる、そうしてやっていると、何かそれが潜在意識の中へ入っちゃうのか、何時でも言っているような気がしています。おじさんとこの綱引き道場や、食事する時など、鳴っているでしょう「ありがとうございます」。】

ありがとうございます

そうね。みんなで「ありがとうございます」を吹き込んで、まあ自分一人の声もいいんですけど、いろんな人の声が入っているとまた感じが変りますよね。そういうテープをみんな持っていて、仕事する時に、かけながら仕事していると、忘れた時にスーツと入ってくるし、またお祈りもしやすいね。こうして集まりに参加して、心のつながりが出来るでしょう。そしたらもう、自分がお祈りを忘れても、回りが全部、縁ある人が全部お祈りしてくれたら、光のネットワークでつながっているのです。助け合いになっているのね。お祈りしてない時、みんなのお祈りをもらっているの、光がバアーと流れて通っているのです。それで「ネットワーク」って必要なんよね。自分一人だと祈ってない時は、神様とつながってないよね、一本釣りみたいなもんよ。だから網がいいよね。最後の救いというのは、一本釣りじゃなく、みんなを救うのは、やっぱり網よね。お釈迦さんも「未来の地球に末法の世救う働きするのは誰か」というと、「本当のお釈迦の弟子」じゃなく、「地湧の菩薩が出てくる」という。湧き出るように菩薩が出てくるのだと、その菩蔭が救うんだというのね。本当にそうよ。今がそうなの、みんな自然に感謝出来る自分、感謝出来る自分というのは、菩薩級以上なんよ、如来に近い、仏に近いのね。そういう本当の最高の菩薩として湧き上がるように出てくるの。だから感謝する人が末法の世の地球を救い上げるのです。完成された世界に置き換えてくれるのね。それもお釈迦さんも予言しているのです。

【この「ありがとう」が出て来た、ということは究極のやつが出て来たということですか、お釈迦さんも悟られたのでしょうけど、その「ありがとう」って言葉は残ってないですよね。でもここに来て「ありがとう」という言葉が出て来た、というのは…、】

ありがとうございます

最後の仕上げよね。全体じゃなく、個人的に悟って救われる人が出てくるね。最後の仕上げはみんなをレベルアップすること。それでみんなを引き上げてしまうこと。だから、そのネットワークの人がお祈りできたら、網に掛かるでしょう。しっかりした光「お祈りのネットワーク」が出来たらいいだけでしょう。それならお祈りできない人も、もうぜんぶ高時に救い上げて行く。今はそういう時代やね。

【親子でも、兄弟でも、チャンネルが違う番組だと、分かれ分かれになったりする。】

ありがとうございます

そうやね。でも、みんなが救い上げられて、神様の最高表現を感じ取れるようになったら、もう執着はないのよね。一瞬一瞬神様を受け直して全部与え尽くすでしょう。親、兄弟も、もう何もそんなん感じないかも知れない。一瞬だから。神様の現われとして、今受けて、またお返しして、また神様が現れて受けるんでしょう。いつも自分が神様であり宇宙であり全体なのね。いつも全体の全てを受け直すのね。小さい意味の囚われが無くなるの。だから「みんな悟っている」という感覚よね。番組の見方が違っている、波長が違う、というのは小さい見方がもう消えてしまうわね。

ありがとうございます

2002.5.5.002

楽しいお話でした。寿命というのも誰が決めるんでしょう?やっぱりこれ神様だと思います。神様がこの世へ生まれさせてこの世で幸せをしっかり発見して、それを味わいなさいという意味でこの世へ送り出して下さるのです。あの世にも一杯そういう幸せを発見する番組一杯あるんですけど、この世が1番最適という事で送り出して貰っているのです。競争率高いと思うんです。何百倍以上かも知れないです。この世に生まれさして貰って幸せを発見する勉強して、その幸せをしっかり味わってもみようとする生き方を取るんです。ところがガンになってガンという言葉の呪縛・言葉の縛りのあうと、なんかガンで死ぬような錯覚を起こすんです。でも寿命は病気とは無関係なんです。病気したから死ぬんじゃないです。寿命が来なかったら絶対死ねないのです。どんな病気しても・どんな危険な目に会っても大丈夫です。死なないです。私も相当病気を沢山しましたけど、まだ死んでないです。ある時は肺が全部無くなって心臓がこの辺に来たり、それでも死んでないのです。その時は心臓止まって呼吸も止まりました。それでも死なないのです。寿命がある限り死なして貰えないのです。修行が足りないからです。みんなこの世で幸せを発見して欲しいというのが神様の願いです。神様の願いを受けて勉強させて貰っています。もし死ぬ時が来たとしたらこの世よりもあの世の何所かに素晴らしい教室があるんです。そこの方が早く幸せを大きく発見出来るから・そういう教室を用意して下さるから、この世を卒業してあの世へスッと入学さして貰えるのです。だから病気になっても恐れることは何もないのです。本当は病気で絶対に死ねないのです。
 私の知ってる人でガンになって一生持ち続けて80・90まで生きて仲良くガンと一緒に衝天した人がいます。ガンになって直ぐに死ぬんじゃないです。ガンにならなくても死ぬ時はポックリ行きます。ガンになった時は気持ちの問題が1番大事だと思います。残りの時間しっかり幸せを発見しようとするなら時間を延ばして貰える可能性があります。ところがこれでもう駄目だと思うと勉強しないです。幸せを発見する勉強をしないです。折角決めた寿命を短くしないと。そしてあの世の相応しい勉強の場を与えないと神様の方も困るのでしょう。それでちょっと短くなって早くあの世へ昇天させて貰ってあの世の勉強の場を与えて貰う可能性も大きいです。だからガンになっても希望があって前向きに生きてる人は死なないです。本当に。ところがこれでもう駄目だと思うと寿命が短くなるんです。これは神様の愛・思いやりです。無駄な時間過ごすのを気の毒に思うのでしょう。1日でも絶望の中で生きるのは大変です。それだったら教室を変えて楽しく希望を持って生きられる場所を早く与えたい。だから神様が寿命をちょっとは調節すると思います。
 神様の方は1人1人幸せを至れり尽せりで与え尽くそうと護りに護って下さっています。人間は自分の力では絶対に生きられないです。先ず命を与えて貰えなかったら永遠に生きるのは不可能です。神様の命がなかったら、どの世界に行っても生きられないです。命を与えて貰って生きてるというのは神様に生かされているのです。特に肉体を使って必要な事をさせて貰うのに宇宙の全てから色んな要素を与えて貰うのです。どれ1つ欠いても本当は駄目だと思います。もし太陽がパッと消えて仕舞ったら地球上の人何日生きられるでしょう。空気がサッと消えたらこれも困ります。水がパッと消えたら。どれ1つ消えても生きられないです。必要なもんは神様の方から全部用意して下さっています。何の心配もないと思います。それを喜んで受けて幸せを一杯発見して幸せを大きくする事だけが人としての役目です。それだったら寿命が延びて延びて何所までも延びるかも知れません。歴史上人間の寿命はどんどん変化しています。千年以上生きられるかも知れません。そこで幸せ一杯発見出来て大きい幸せを掴めるなら2千年以上万年以上になるかも知れません。鶴や亀は幸せを発見するのが上手なんでしょう。神様は人が幸せになる事だけを願っています。この世の時間を1分1秒本当に大事に生きるのなら如何にでもして下さります。
 学校の勉強も同じです。小学校だけで終わりたいですか?そうじゃないと思います。色々順番に勉強して本当は幸せを大きくする意味で勉強を続けたいのです。だから相応しい場へどんどん置いて貰えます。この世に何回も生まれ変わってくるのも同じだと思います。またあの世の色んな世界で生活させて貰うのもみんな幸せを発見する為です。気付きを増やす為です。どれだけ神様が大きい幸せを既に与え続けて下さっているか気付くだけです。気付きを増やすだけが大事なんです。ところが自分1人だけでは気付きが少ないです。だから周りに大勢の人を置いて色んな気付きを与えてお互いにそれを与え合う・紹介し合う感じで1人1人の気付きを更に増やして下さります。だから人の体験は物凄く有り難いです。皆さんはまだガンになれないから、ガンになって下さった人にお礼を申し上げないといけないです。そういうガンになった人の体験を聞かせて貰う事によって、どれだけ命の尊さとか時間の大切さとか心の持ち方が大事か色んな勉強させて貰えます。みんな自分の幸せを大きくして貰えます。本当に有り難い事だと思います。

どんな病気もそうです。病気になって初めて健康の有り難さがよく分かります。それまでは大抵、健康が当たり前と思って感謝も何もしないです。本当の価値を全然見出してなかったと思います。だから病気になる事によって健康の有り難さを再発見させて頂くのです。物凄く幸せです。これはガンでも何でも良いんです。絶対マイナスはないんです。みんなプラスを与えて貰っているのに気付けば良いだけです。マイナスと思ったのが間違いです。全てプラスです。気付けばプラスプラスです。どんな病気も本当は神様からの素晴らしい愛のプレゼントです。それで不幸になる事は本当は絶対にないです。気付けば幸せになれます。本当、太陽1つ眺めても砂漠の暑い地域では悪魔と言います。焼き殺される様な感じなんでしょう。それも見方1つなんです。立場変えたら寒い所の人だったらほんと温かいので神様の愛の塊と感じるのです。考え方が1つに凝り固まると立場が自由にならないです。特に言葉の縛りは怖いぐらい大きいもんです。ガンと病名を付けられて不治の病だと言われると、その言葉の縛りで自由を失って仕舞うところがあります。本当は病名を付けない方が私は良いと思います。病名全部消して仕舞ったら楽しめます。今どの病気だろう?

あの世はちゃんとあるんです。無限の無限のチャンネルとして無限の無限の世界があるんです。言葉通りの世界に行きます。だからこの世に生きてて「この世しかない」と信じきって行った人は何もない闇の世界に行って仕舞うのです。意識だけがあるんです。怖いです。でもあの世があると思ってる人、地獄があると思うだけでも良いのです。地獄に行けます。まだ楽しいのです。だからこの世しかないと思い込むのは怖いです。やっぱりあの世の事を信じた方が良いです。分からなくても言葉であるんだと、そういう言葉を使って信じた方が良いです。それをどんどん無限に拡大すると「無限の無限の世界があるんだ」と思って、そういう言葉を使うと選択肢が無限に広がるんで、あの世に行っても「さあ何所行こうか」となる訳です。自由が利くのです。プラスの良い言葉を使って「素晴らしい世界がここにある」という言葉で波長合わせすると良い所へ上がれます。言葉通りになって来ますのであの世選ぶのでも良い言葉を沢山使った方が得です。「あの世は楽しいからこの世に戻って来ない」というのも良いです。

生まれ変わって来てるのは戻って来てるのです。好きじゃないと戻って来ません。



柏手・口笛


【五井先生の瞑想の時に、柏手や口笛が入っているのですけど、柏手は、例えば、神社にお参りした時に叩きますよね、そのような何か通りが良くなるとか、あるいは口笛でしたら、聞いていて気持ちがいいものですから、それでなさるのかなあ、と思っているのですが、実際はどういう意味か、教えてください。】

ありがとうございます
 柏手は「陰と陽」、「左が陽」(火‘日’足り)で、「右が陰」(水極)です。陰・陽を合わすと通りが良くなるのね。本当の心の波長に応じた光が強く出るんです。心境の高い人の柏手は、ものすごい光がほとばしり出るの。五井先生もやっぱしそうですね。あの小さい体で小さい手で柏手打って、力を抜いて打っても力士の何十倍もの音を出すでしょう。凄い音が出るの。小さい手で力を抜いていても何百倍って大きい音が出るのは、肉体の力の柏手じゃないのね。「神さんの光のエネルギー」はもの凄いし、やっぱり心境が高いとそうです。そういう意味で柏手というのは、気持ち良くなるでしょう。五井先生の場合は、もの凄い光がずっと出て、心を浄めてくださるのです。口笛も、人間の体は生命磁気なんです。手からも出ます、額に手を当てて熱を測ったりするね、「手当て」と言いますでしょう。また、口から、どこか痛いところへ「フー」と息吹きかけたら、痛みが取れたりしますね。息吹が自然に口笛に変るというのもやっぱり浄めの大きい働きなの。口笛も自然な口笛が出ているのですね。その響きは、大自然の自然な響きがスーッと出ているのでしょう。そういう意味で、本当の浄めの働きがスーッと光が通っているんです。だから、このお祈りの練習には、バックミュージックとして、最高だと思います。ただ、いろんな言葉が最初に出てきますよね「世界人類が平和でありますように」。やはりこの言葉は、心を広げる意味では必要やね。 小さいマイホーム主義の生き方から、大きく心を広げる意味で役に立つし、それに、守護霊さんを認める事も大事だし、守護神さんも大事だし、五井先生っていうふうに大きい助けを受ける意味でも必要ですね。
 最後にまた「ありがとうございます」もあるでしょう。全ての一番奥に、バックに本物の神さん、究極の全ての全でなる神様が働いているという、最後の締めくくりが大事なのね。だから、その後の「ありがとうございます」を、ズーッと繰り返されたらいいんです。別に宗派的にしなくてもいいでしょう。五井先生も宗派的な生き方で来られたんじゃないからね。「宗派を超えて全て仲良く一つになる」という意味で来られたのね。ただ、白光真宏会という組織が出来てしまったのです。これも五井先生が作ったんじゃなしに、回りの人が作っただけなんです。そういう意味ですね。



【今の柏手の事ですが、口笛が入っていますね、私はあのテープを聞いた時、なにか吸い込まれそうになって凄い気持ちが良くって、幾度聞いてもそう思うんです。あれは、どなたがしていらっしゃるのかと、気になっていました。】

ありがとうございます

話し中はお祈りのテープは流れてないのね。でもここでしてるから、そういう響きはズーッと通っているのです。光のお祈りね。だから、ここのテープを流してなくても、ここでお祈りすると、「響きが強く出ている」って感じる人多いですね。別に、ここの部屋に来なくても、空耳みたいに聞こえるけど、この辺り一帯でじっとしているだけで響きが聞こえてくるね。普通の会話でも、その中にその響きが通っているんですね。誰でも感じないかも知れないけど、感じる人は感じるかも知れないねえ。


【場所というのはどうでしょう、あるんですか。】


ありがとうございます

「場所」というよりやっぱり響きなんです。一つの響きの場所があったら、その回りはちょっと強い響きが、同じ響きが出ています。そういう意味では、場所もちょっと影響しますね。…ゲコ、ゲコ、ゲコと蛙の声がする…蛙の声もいい声でしょう。(あっはははは)。吸い込まれる。(ははははは)



 「・・ように」には意味がある


【五井先生の言葉では「世界人類が平和でありますように」という「ように」というのは、わざと断言しない「なりました」よりも「ように」と使っているのは何か意味があるんですか?】

ありがとうございます
あるんです、はい。現実を掴んでしまっている人にとってはね。例えば、戦争状態を掴んだ人にとったら、それを離して、断定の世界に入るのは本当に難しいです。戦争の真っ只中で「ここが完全平和だ」と思うこと自体に相当無理があるのね。本当は断定の世界をしっかり捉えるのが一番いいのだけど。それは、もう神様にお任せして、神様の方からその断定の世界の完全平和を持って来てもらうというように、やっぱり「お任せ」なんです。それやったら自由になって楽です。


【普段自分達が使っていて、断定で言っても、それは…。】



ありがとうございます
そうそう。本当はね、神さんの中に飛び込めたら断定の世界に入れるのね。それもお祈りしている内に、段々と、断定の世界は本物というふうに感じ取って行くのだけど、最初は無理せんでもいいと思うね。「ように」の方が、神さんにお任せすればいいの。だから、無理がないのです。それを無理に断定して「入らないと」というと、ちょっと矛盾を感じるし、「現実はこうなのに、自分は出来ないから駄目だ」と思ったりするし、いろいろマイナス面も出てきますね。だから、全ての心境の人に合うように、大きく広く祈り言葉を定めておられるのです。

※五井先生の「世界人類が平和でありますように」は、五井先生と神界の約東事としてこの「祈り」を唱えると「救世の大光明が輝く」という約東がなされている。〈例えて言えば、神(真)言のようなもの〉と思えば。


 「やりたい事」と「必要な事」の違い

【自分のやりたい事と、必要な事の違いがよくわからないんですが。】



ありがとうございます
「やりたい」という「自我の心」で「やりたい」と思う時は、必要な事と、ちょっとズレがあります。「自我の心」が、在るか無いかを判断する方法は、先ず「感謝」が先に立っているかどうかやね。「感謝」して、それで「やりたい事」を選んだ時は「必要な事」になるのね。その判断を神様に一旦お任せして、神さんの方から必要な物を選んでもらって、させてもらうと、その「やりたい事」が、神様のやらせたい事で、それが「やりたい事」と一つになります。決める時に先ず「ありがとうございます」と感謝してから決められたら、自分のやりたい事は、神さんが必要としている事なのね。感謝を忘れてしていると、自我が勝っている時は、ちょっとズレてくるわね。


 感謝して受け止める


【出会う人が変ったり、出会った人と深いつながりになったり、仕事が突然あちこちで拡大していったりするのは、守護霊さんが変られたのでしょうか?】

ありがとうございます
(はっはははは…)

守護霊さんは変らない、正守護霊さんは絶対変らないね。ただ、応援の副守護霊さんが沢山付いて来るよね、自分が神さんの大きい働きに使ってもらえると、副守護霊さん、副守護神さんが一杯付いてどんどんどんどん応援しに来るのです。だから、自分は何もしてなくて、皆な背後の神様が全部してくれているの。そして、それを受け止めるだけです。その感謝の心が、どんどん高め上げられてきているわけです。受け切れなかったら、どうしようもないものね、自分を通して何も出て来ないから、受けられる心境に高まってきた、そう高めてもらっているのです。それだけの大勢の神様の助けを受けて、どんどん大きい仕事のご用に使ってもらったらいいね。それを「自分の力で」と思うと、ちょっとまた我が出てくると、傲慢になると、守護霊さんなんかはスッと引っ込んでしまうわけです。
 ここで、大事なのは「我を出さない事」やね、「謙虚に謙虚に、みんな神様のお蔭なんだ」というふうに感謝してると、応援がどんどん大きくなってきます。

【お金でも必要な時に人に出してもらって、「悪いなあ」と思って受け損ねるような気持ちになる時があるんです、それはどう思われますか?】
ありがとうございます

神様の大きいプレゼントです。神様からのプレゼントだから、【ああ、そうですか】ありがとうございます」であって、【あまり悪いから】いいです。ではないのね。そこで我を出すと「お金、払わないと」となるのね、その思いはいらないです。全て神様からの無償のプレゼントです。神様は何も要求してこないで、報い求めず無償で与えてくるでしょう、それにはやっぱり感謝して喜んで受けないとね。神さんには、感謝する事が本当の大きいお返しなんです。だから、守護霊さんが大勢働いてくださっても、「ありがとうございます」と言うことは、守護霊さんにもお返ししていることになるのね、だから、「感謝で受ける」ということは、もの凄く大きい働きです。どんどんタダでもらうといいと思う。だから、「ありがとうございます」を、唱える事はもの凄い働きなんです。物やお金に変えられないね。「ありがとうございます」を唱えている限りはいくらもらってもいいのです。要求したら駄目で、与えられるままね。神さんの方が「何が必要か」というのを先にわかっているから、必要なものは求めんでも先に与えてくださる、そこが不思議なのです。
 お金が必要でない時、お金を余分に与えてもらったら無駄遣いするし、間違った使い方をしてしまいます。また使わずに貯めとくだけかも知れないですね。だから、本当に必要な時に必要なだけ与えてもらうのが一番幸せですね。

 貯金

【貯めるのって、良くないんですか?】



ありがとうございます
それもね、貯めるのも使い道がちゃんと定まって、ちょっとプールするぐらいがいいですね。ただ、その貯める目的がマイナスだったら、それが老後の為とか、病気の為とか、そういうマイナスの目的だったら、逆に貯めたら病気になり、いろんなことが起こるの。その目的を果たさないと駄目なんです。本当の大きい目的、正しい良い意味のプラスの目的を持って、その為に必要な資金をある意味でプールするというのだったら、大きい正しい目的の為に、それを活かしてもらえるのです。そういう貯め方だったら、「貯める」というより「準備している」という感じですね。



 保険


【保険は、どうでしょうか?】

ありがとうございます
保険を掛けてくれる人が、みんな幸せでありますようにって、報い求めず与える心で出してくださった保険金だったら、それをもらったら幸せになれますね。ところが、与え尽くす心じゃなしに、逆に「たくさん返してもらう」という気持ちで出したお金だと、保険金もらった人は、そのマイナスの思いを背負うのです。結局、心のマイナスがいっぱいになってしまって、形でお金をもらっているけど、心にマイナスを背負うと逆にしんどいですね。

【お守りのつもりで入るのは、どうでしょうか?】

ありがとうございます

うーん。「与え尽くすだけ」だったらいいですね。みんなの幸せの為に、もらう積もりじゃなく、「与えるだけ」と言うんだったら、それだったらいいですね。

【子供の「車の交通事故」保険に入るのは、お守りの積もりで入ればいいのですか?】

ありがとうございます

事故を想定して?

【そう言う事になりますね。】

ありがとうございます

そうね。ただ与え尽くすだけという気持ちだったらいいですね。車の任意保険でも、事故を想定せんと、本当に与え尽くす「掛け捨て」に出したらいいんじゃない。その気持ちが大事ですね。それも「ありがとうございます」があったら、マイナスもカバーしてもらえます。保険に入っても「ありがとうございます」を唱えたら、そのお金に光を振りまいてくれるし、神様は、どんな運命でもプラスに変えて、良くなるようにしてもらえるんで、やはり「ありがとうございます」を加えた方がいいですね。それがベストですね、後は枝葉よ、まあ、どっちでもいいようなもんかも知れないね。全部「ありがとうございます」で大きいプラスに変えてもらうのだから、そのマイナスも小さいプラスも大したことないです。


 全託・全肯定


【「全託」ということは、ある意味では「ぜんぶ任せる」ということですから、少し消極的な感じも受けますが、よく考えるともの凄く積極的なことのように思うんですけど、凄いことなんですね。】

ありがとうございます
本当ね。みんな全託というのは、小さい自分の全託でしょう。本当はそうじゃないね。神様に、今見ている世界、これを全部お返し、そして最高の世界を受け直すことなのね。その最高の世界を受け直す為に、今掴んでいるのを離さないと駄目なのね。全託というのは、「離す」というだけなんです。ただ、それを離すのでも、それを消してくれるところへ渡さないと迷惑かけるでしょう。古いゴミみたいなものを、人にポンと投げかけても、喜ばないですね。要らないものはやっぱり神様に返して消してもらう方がいいの。そういう意味で神様にお渡しする、それで新しいものと置き換えてもらって、最高の新しいものを受け直す、これが「全託」です。だから、「ありがとうございます」というのは、「全託行ね」。今迄に受けたもの全部お返しして、新たに最高のものを受け直している。その練習をしているのです。ただ中身は一足飛びには最高まで行かないから、段々と置き換えしてもらうのね。「ありがとうございます」を繰り返している内に、掴んでいるものを離しやすくなるし、どんどんどんどん消してもらって、過去に囚われない自分に必ずなってくる。それで新しい良いものを、たくさん受けられるように、感じられるようになってくると、自然に離すしかなくなってくるのです。新しいものの方がいいのよね。それも常に、無限の無限の輝きとして、新しい宇宙がどんどんどんどん生まれてくる、心太(ところてん)式に押し出されて来ているのです。それを受けない方が本当はおかしいのね。実際は、太陽の無限億万倍の大光体が、もの凄いスピードで押し寄せてくるようなものよね。この世の太陽より、もっともっと大きい幸せの塊が、どんどんどんどん神様の方から降り注いできてるのですよ。「早くそれを受け取れる自分になる」というのが大事なのね。それが「ありがとうございます」を繰り返して唱えている内に、受けられる自分になるのです。それも「早く受けたい」と思わんでもいいの、自然に変えてもらえるからね。「ありがとうございます」って唱えていたら、神さんが全部してくれる。これはもう、自力じゃないし、他力じゃないし、「神様の絶対力」の働きなので、自分がどういう状態でも関係ないのです。「ありがとうございます」を唱えたら、助けが受けられる。

【「全託」と、「全肯定」全てを受け入れる、よく似たような印象を受けるんですが、「全肯定」というのはどういうふうに】

ありがとうございます

でもね。「何を肯定したらいいか」でしょう。過去の古いものを肯定したら新しいものを受け損ないます。神様にとったら何を肯定して欲しいかって、今の一瞬に現れる最高表現を肯定して欲しいのね。過去は一切肯定して欲しくないのです。例えば、無限の無限のチャンネルがあっても、一番上の番組だけを肯定して欲しいの、次元の低い番組の方は、肯定して欲しくないのね。本当の「大肯定する」って、やっぱり、最高表現だけを一瞬一瞬肯定し直す、というのもいいんです。わざわざ低い次元を肯定せんでも、大肯定の中に全部含まれているのです。必要だったら低い次元もわかる。でも、それをいつもわかっていたら困るんです。低い次元の事がわかった時はね、最高表現を見失っているんです。本当の大肯定、本当の全託というのは、「無限に無限に良いものばっかり!」と言う最高表現を受け入れることやね。全託も大肯定も、本当は言葉の使い方一つなの。無限に無限にプラスの言葉を駆使する、本当に使いこなさないと、全託も大肯定も出来ないです。だから「無限の無限の幸せが一杯」というのです。その言葉を使い続けたら、いつも幸せを受けられるでしょう、無限の無限の幸せをね、それだけをまた大肯定出来るでしょう。
 そういう生き方が本当は正しいの。小さい幸せは相手にしない方がいいのよ。小さい幸せを掴むとね、大きいものを見失うのです。「この世が全て」と思うと、無限の次元の他の世界がわからなくなるから、もちろん最高表現もわからなくなるのね。この世に執着する、掴む事も間違いだし、またこの世の中の小さいものを、もう一つ小さく掴むのも間違いよね。今見ている世界は、本当に移り変わる姿として、遠く離して眺めないと、掴んだら駄目なんですね。もう自然にさらさら流すような感じで、遠く離れて眺めるというようにね。「光源」をしっかり認めて、それで最高表現を認めていく。「光源」を見ながら光の流れを眺めるんだったら、引っかからなくなるのね。般若心経の「色即是空、空即是色」を、本当にわからないといけないね。「空」が光源で、「色」が光り、というふうに見て、「光源」に背を向けた「色」は、本当の「色」じゃないの、光源をまともに見てそこから現れる光を認めた時が、本当の「空即是色、色即是空」です。いつも全てのことが「神様の現われ」と認めると、そこにはマイナスはないの、小さいプラスもないのね。「無限の無限のプラスだけ」という見方です。

 光源

【光源って?】



ありがとうございます
本当は深い意味があるんです。まあ「光」と、「光の源」を「光源」と見ると、「絶対」でもあり、「光源」でもあるんです。だから「空」は何も無いじゃないのです。無限の無限のプラスが一杯というのが「空」なのね。

【ありがとう、になっちゃうんですか】

ありがとうございます

そうそうそう、そうね。

 「ありがとうございます」の伝え方

【日本人同志なら「ありがとうございます」で話し出来るんですけど、海外の方も「ありがとうございます」を進めた方がいいんですか? 言霊の違いがあるように思うのですが。】



ありがとうございます
なって来ると思いますね。ただ、日本人が「ありがとうございます」をしっかり唱えて、本当に神様と対面し、幸せを掴んでしまったら真似するしか無いですね。他に言葉があればいいですけど、なかったらその言葉が世界共通語になるんです。だから、これをぴったり表現できる外国語があれば、その言葉でもいいと思います。でも、ちょっと足りないかも知れないですね。

【文字で書く時はひらがなでいいのですか?】

ありがとうございます

漢字じゃ意味がちょっと限定されてしまうでしょう。例えば「難あり、有り難し」とか、「神仏の働きがあって存在してるんだ」というんで、「神さんがなかったら存在しないんだ」という意味だったら、限定され過ぎて小さい意味になるのね。だから、もう「ひらがな」で、言霊の響きをそこから感じる方がいいと思いますね。

【カタカナとの違いとかは?】

ありがとうございます

それは別にないけど、うん。

【この文字の縦書き横書きが、世界中に広まればいいんですね。】

ありがとうございます

そうですね。ただ別に、この日本字でなくてもいいかも知れないですね。

【例えば「ローマ字」であれば】

ありがとうございます

いいですよ、いいですよ、ねえ、響きがねあるんでね。

【ローマ字で書いて「ARIGATOUGOZAlMASU」って書いて向こうの方に呼んでもらう。】

ありがとうございます

響きがあればね。


 「人生の目的は無い」とは?


【先生は、「人生の目的は何故生きとるのか」ということを探求された時期があったと、お聞きしていますが、最近、ある作家が、「人生の目的は無い」という、そういう境地に達した、という文章があったんですけど、最後は「人生の目的は無い」というふうに言うと、ちょっと寂しいような気もするんですけども、どういうふうに考えたらいいんでしょうか?】

ありがとうございます
「無い」というのはね、「無常」という捉え方です。厭世的に捉えるか、楽天的に捉えるかよね。バックに神様があったら、無常ほど楽天的に見える事はないのね。「無限の無限の輝きが一瞬一瞬に変化し続ける」というのが、神様がバックにあるから言えるの。「無常」って「常で無い」、変化し続けるというのは、最高の素晴らしい働きなんです。同じ物が続いたら、飽きてくるじゃない。もう全てが、大したことないもんね。一瞬一瞬置き変わるということ、変化するということ自体が、神様の最高の働きです。だから「無常は」無限に本当はもう無限に明るい見方なの。ところが神様を認めてない人にとったら、無常はもう本当に虚しい、侘しい、暗くなってしまうのね。だから、今あるものを掴みたいんでしょう、変化してしまうから、掴もうとしても掴めないのでしょう。「何も無くなると言う感覚なの。だから、「人生の目的」というのも、神様がなかったら本当の目的は掴めないのです。その作家の言われる事は、神様が無いの、無いから「人生の目的はない」というところまで辿り着くのね、本当の虚無的な厭世的な考え方です。気の毒よね。それはもう、悟りの境地でも、達観した境地でもなんでもないよね。本当の詰めでも、明らかに見る諦めではなく、もう絶望的な諦めね。

【その後に「ただ、生きる事が大事だ」と。】

ありがとうございます

そう。ちょっと虚しいね。それねえ、「神様に生かされている」というのが本当ね、「神様が生きている」というとこまで行かないと。肉体人間が生きてるんじゃないのです。ただ自然に、勝手に、動いているのでもなく、神様の最高の意志が働いて、全てを生かして変化させて働いているのです。本当に「神様が生きてる!」というんだったら、「神様が大きく働いている」というんだったら、ただ「生きている」じゃあ、ちょっと、まあ言葉の遊びみたいな感じよね。

【要するに、どんなに苦しくても、どんなに辛くても、マンションの上から飛ばずに、とにかく生きる、ということ、そのことが尊い、という言い方だと思うんですけど。】

ありがとうございます

やっぱり、神様は無いですね。神様を無視している。「どんなに苦しくても」って、神様は苦しみなんて絶対与えないね。無限無限の楽を与えてくれているのに、それを受け切らないから、受けないからマイナスの苦しみがあるだけです。

【ということは「そういう番組の主人公」ですね。】



ありがとうございます

そうね。その低い番組に波長を合わせて、囚われた状態に入りきっているわけよね。それは神様の願いではなく、早く、神さんに心向けて「最高の番組を受けて欲しい」と神様は願っているのに。苦しい言葉の「無」という言葉で「自分は悟った」と思って、「安らぎの心を得た」と思ってるお坊さんがたくさんいるけど、そんなん悟りでも何でも無いでしょう。心が安らいでいるか、安らいでないかよね。ちょっとしたことで心は動転してしまう。「無」という言葉は駄目です。「何も無い」というたらね、地獄のどん底よりもっと低いかも知れん。地獄は、まだ痛みがあるし、苦しみがまだ残っているよね。「何も無い」というと、それすら無いでしょう。意識も無くなるかも知れない。そしたら本当に何も無い言うたら、何の価値もないよね。

 頑張る・努力する

【世間の人は、よく拳上げて「頑張る、頑張る」とやってますが、私はそれ聞くと疲れるんです。その「頑張れ」という人に「ありがとう」と言うと、よく「頑張れ」って言われるんで、いつもそう思ってしまうんです。】



ありがとうございます
そうね。「頑張る」と言う言葉も、どういう中身かというのが大事ですね。別にその言葉は駄目っていうわけではないんですけど、まあ「全力を出し尽くしなさい」のような感じだったら別に悪くはないよね。ただ、自我の・自力の心で「頑張る」というのは、神様を無視した働きだと限界が来て、頭を打って、やっぱり何も実らないものね。それを、まだ「頑張ってない」というふうに見ると、人を責めたり、マイナス見たりするかも知れない。「本当の頑張りとはどういう頑張りか」「じっと座ってたら頑張りじゃないんか」となってくるでしょう。(はははは)

【みんなに合わせての頑張りかも知れませんね】

ありがとうございます

動き回るのが「頑張る」という意味でもないもんねえ。

【今のお話と関係するんですけど、「成功を信じ、諦めず、努力するところに道は開ける」と言う文章があって、努力する事の好きな人、あんまり努力しなくてむしろ神様の方に向かっている人、どちらかと言うと努力タイプの人、「人事を尽くして天命を待つ」というやり方、これはこれでいいんでしょうか?】

ありがとうございます

でもそれは自我を生きている低い段階ですよね。(はははは)本当にお任せして、感謝行の中で神さんが働き出したら、神さんが全部するのです。してくださるから、傍目で見たら人の何倍も努力している姿に見えるんだけど、本人は「何も努力してない」と言うね。「勝手に動いてる」と言うね。「自然に動いてる」と言うね。努力と言う言葉はなくなります。そういう方が本物です。努力も神様にさせて頂いている努力だったら、本当の努力なんだけどね。「成功」と言っても「何が成功か?」ってね。(はははは)自我の心で何か目的があって、それを掴んだ成功なのか知れないですね。でも神様の成功というのは何かというと、神様の最高表現そのものが成功なんでしょう。無限の無限の大成功そのものなのね。
 だから、今の一瞬一瞬がすでになっているわけ。それを受けたら「人の成功」やね。感謝を究めて受け切ったら、神様の大成功の姿を受けるんでしょう。結果をそのまま受けてしまうから、努力も何も要らないよね。

【努力しているより念力してるような】

ありがとうございます

そうね。低い番組ではね。

 この今の一瞬の輝き

【時代時代による「神様の現れ方」、例えば、百年前だったらエゴをガンガンやるような、その、今何か変化しているのを感じてるんですが。】

ありがとうございます

この世の番組で「時代の移り変わり」を掴むのは、この世の番組から抜け出してないのね。別な番組だったら別な歴史があるでしょう。もう一つ自由になって、どの番組も自由に受けられて、その番組の無限の歴史をいつでも瞬間に抜ける方がいいもんね。そしたら見方が、自由に変って来ると思います。


 今の自分が全ての番組を抜け出たら、もう歴史なんて相手にせんでも、最高表現の歴史を見たらいいね。本当の姿って、今の一瞬に宇宙の始まりであり完成なのです。その最高表現の中に、全ての時間と全ての空間が、全部完成された姿で一瞬に現れるのです。その中には、無限の過去と無限の未来が同時にあるの、そして今の一瞬が最高に輝いているんです。
 例えば、花一本チューリップが開いてるとするでしょう、そのチューリップの花の歴史がズーッとあるのね、親が、親が、…、…、ってね、無限の昔をさかのぼったところに最初のチューリップの花があるの。そしてまた未来にズーッと子孫が続いてて、その全体の中の、今の一本の自分の花が開いているわけで、ぜんぶ輝いているのね。一本だけ輝いてるんじゃなしに、自分のバックにそれだけのチューリップの花があって輝いてる、他のもぜんぶ同じ。だから、今の一瞬の最高表現の歴史が無いんじゃなしに、逆に無限に無限に輝いた歴史全部があって、「今の一瞬が最高に輝いて見えている」というように。低い次元だとそこまで行かないのね。マイナスもありプラスもありで、マイナスの繰り返しを何回も繰り返して、どんどん良くなった姿になり、いろいろよね。

【チャンネルを高い方に合わせていく為には「ありがとう」をずっと言っていれば、逆に自動的に上がって行くものなんでしょうか?】

ありがとうございます
上がって行きますね。もう一番最短コースで上がって行くのね。やっぱり神さんの力が一番強いでしょう。神様を呼び続けて神様にお任せしたら、今の自分に合わせて的確な働きをしてくださるから、神さんのする事はやっぱり完璧です。次の一瞬また自分に合わせてまた必要なものを的確に与えてくださる。それが連続すると、やっぱり最短コースで良くしてもらえるのね。

【神様にチュウニングするという感じなんですか?】

ありがとうございます

そうですね。「ありがとうございます」というのは、本当の究極の神様を呼び続ける事なんです。呼べばスーッと現れて答えてくださるのね。ただ、本当の神様って一番謙虚なんです。無限に無限に謙虚なんで、みんなの自由を束縛しないの、それがね一番の問題なんですけど、自由にさせてくださるのね。

 神社の「鏡」の意味

【お宮さんにお参りにいったら、「鏡があるだろう、神棚にも鏡があるだろう。(か、が、み)の「が」を取ったら神さんになるぞ」って。やっぱり自分の「我」というものは、なくしたほうがいいんでしょうか?】



ありがとうございます
明るい方から暗い方を見るのね。例えば、外が暗闇で、透明なガラスだったら、部屋の中に電気が点いたら明るくなり、鏡になるでしょう。でもお昼だと中に電気を付けても外の方が明るいから、ガラスすごしに外の景色が見え、光が見えますよね。神様というのは、「輝く姿」と「鏡の姿」の両方の働きをしてくれるのです。自分が、本当の神様、根元の光の方へ向いた時、「ありがとうございます」と向いた時は、回りが明るく見えるのね、「神様感じるから鏡じゃない」のね。
 ところが神様に背向けた途端に、闇の方へ向くでしょう。暗い方へ向くと、みんな鏡に見える。今の自分の心を映す鏡になって環境が出てくる。だから「ありがとうございます」と唱えている時は、輝いて見え出すのね。だから「ありがとうございます」を忘れると、本当の神様を呼んでないと、自分が神様に背を向けている状態なの。そうすると、その心境に応じて、回りにいろんな鏡に映る姿が見えてくるのです。だから、神社の神様の御神体を鏡にしたのは、そういう二通りの意味があるのね。「本当の輝きの姿を見て欲しい」というね。また、「暗い方へ向いたら、鏡の姿で見せますよ。反省してもう一回神様に向きかえってください」っていうような意味ね。


 夢中で仕事している時


【仕事している時、感謝してやってるんですけど、夢中になっている時に「ありがとうございます」を忘れる時があるんです。気づいた時反省するんですが、これって大事ですか?】

ありがとうございます
「ありがとうございます」を心で唱えて口で唱えて、これもズーッと続くのもいいんですけど、年の初めに一回、深く「ありがとうございます!」と言うたら一年続くのです。ただ、マイナスの思いが出なかったらいいのね。仕事に一生懸命になっている時は、思いが出てないよね。仕事に入る前に「ありがとうございます」を唱えて、仕事に入って一生懸命になっている時は「ありがとうございます」が続いているの。その最初の「ありがとうございます」の一回がズーッと続くのよ。だから感謝しているのと同じなのです。神さんの光がね、光がズーッと通ってるから、一生懸命出来るのよ。

【やっぱり嫌々している時は「ありがとうございます」から外れている?】

ありがとうございます

(ははははは)本当に光が通っている時は、別に口に「ありがとうございます」を言ってなくても、そのまま光を受けている状態、神さんの力、能力を頂いている状態なのね。それは本当の意味の感謝なの、ただ、そういう状態が外れた時には、もう一回呼んだ方がいいね「ありがとうございます」ってね。

【外れっぱなしだ】

ありがとうございます

(ははは)外れっぱなしだ…、


 末法を救うのは

【最近テブレコーダーに向かって「ありがとうございます」と録音してるんですよ、時々「無限の無限のありがとうございます」ってちょっとリズムを変えましてね、あれをやってますと、なんかぜんぜん違いますね。是非みなさんもやってください。それを自分で聞けばいいですね。】



【車の中で聞いています。】

【みんなで楽な方法を考えていますね。】
ありがとうございます

(はははは)

【シ−ルで一番大きいやつあるでしょう、あれを腰に敷いたりしています。120分テープだと二時間続けられる、そうしてやっていると、何かそれが潜在意識の中へ入っちゃうのか、何時でも言っているような気がしています。おじさんとこの綱引き道場や、食事する時など、鳴っているでしょう「ありがとうございます」。】

ありがとうございます

そうね。みんなで「ありがとうございます」を吹き込んで、まあ自分一人の声もいいんですけど、いろんな人の声が入っているとまた感じが変りますよね。そういうテープをみんな持っていて、仕事する時に、かけながら仕事していると、忘れた時にスーツと入ってくるし、またお祈りもしやすいね。こうして集まりに参加して、心のつながりが出来るでしょう。そしたらもう、自分がお祈りを忘れても、回りが全部、縁ある人が全部お祈りしてくれたら、光のネットワークでつながっているのです。助け合いになっているのね。お祈りしてない時、みんなのお祈りをもらっているの、光がバアーと流れて通っているのです。それで「ネットワーク」って必要なんよね。自分一人だと祈ってない時は、神様とつながってないよね、一本釣りみたいなもんよ。だから網がいいよね。最後の救いというのは、一本釣りじゃなく、みんなを救うのは、やっぱり網よね。お釈迦さんも「未来の地球に末法の世救う働きするのは誰か」というと、「本当のお釈迦の弟子」じゃなく、「地湧の菩薩が出てくる」という。湧き出るように菩薩が出てくるのだと、その菩蔭が救うんだというのね。本当にそうよ。今がそうなの、みんな自然に感謝出来る自分、感謝出来る自分というのは、菩薩級以上なんよ、如来に近い、仏に近いのね。そういう本当の最高の菩薩として湧き上がるように出てくるの。だから感謝する人が末法の世の地球を救い上げるのです。完成された世界に置き換えてくれるのね。それもお釈迦さんも予言しているのです。

【この「ありがとう」が出て来た、ということは究極のやつが出て来たということですか、お釈迦さんも悟られたのでしょうけど、その「ありがとう」って言葉は残ってないですよね。でもここに来て「ありがとう」という言葉が出て来た、というのは…、】

ありがとうございます

最後の仕上げよね。全体じゃなく、個人的に悟って救われる人が出てくるね。最後の仕上げはみんなをレベルアップすること。それでみんなを引き上げてしまうこと。だから、そのネットワークの人がお祈りできたら、網に掛かるでしょう。しっかりした光「お祈りのネットワーク」が出来たらいいだけでしょう。それならお祈りできない人も、もうぜんぶ高時に救い上げて行く。今はそういう時代やね。

【親子でも、兄弟でも、チャンネルが違う番組だと、分かれ分かれになったりする。】

ありがとうございます

そうやね。でも、みんなが救い上げられて、神様の最高表現を感じ取れるようになったら、もう執着はないのよね。一瞬一瞬神様を受け直して全部与え尽くすでしょう。親、兄弟も、もう何もそんなん感じないかも知れない。一瞬だから。神様の現われとして、今受けて、またお返しして、また神様が現れて受けるんでしょう。いつも自分が神様であり宇宙であり全体なのね。いつも全体の全てを受け直すのね。小さい意味の囚われが無くなるの。だから「みんな悟っている」という感覚よね。番組の見方が違っている、波長が違う、というのは小さい見方がもう消えてしまうわね。

ありがとうございます
ありがとうございますおはなし集で使ったHTML等は菊地さんのサイトで勉強しました。菊地さんありがとうございます 電脳紙芝居のページ0.1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.32.33.34.35.36.37.38.39.
40.41.42.43.44.45.46.47.48.49.50.51.52.53.54.55.56.57.58.59.60.61.62.63.64.65.66.67.68.69.70.71.72.73.74.75.76.77.78.79.
80.81.82.83.84.85.86.87.88.89.90.91.92.93.94.95.96.97.98.99.100.101.102.103.104.105.106.107.108.109.110.112.113.114.115.
116.117.118.119.110.111.112.113.114.115.116.117.118.119.120.121.122.123.124.125.126.127.128.129.130.131.132.133.134.135
.136.137.138.139.140.141142.143.144.145.146147.148.149.150.151.152.153.154.155.156.157.158.159.160.161.162.163.164.165.166.