ありがとうございますおはなし集で使ったHTML等は菊地さんのサイトで勉強しました。菊地さんありがとうございます

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以下(いか)のコラムは宗教(しゅうきょう)サイトではありません。古神道(こしんとう)研究(けんきゅう)ノ−トです。
またその内容(ないよう)に責任(せきにん)を保持(ほじ)していません。さらに著作権(ちょさくけん)も行使(こうし)しません。
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「ありがとうございます」と「天照大御神様」 2002.03.23.02
神渡:
 「ありがとうございます」という言葉に着目されたそのものきっかけは何なんですか?
ありがとうございます:
 自然なんです。きっかけというのは別になかったんです。小さい時から唱えてるうちに段々と深みが自然に出てきた感じです。それで、時期が来て神様がこういう形で使ってくれてる感覚です。同じ事が小さい時から分かってたような感じで、ただ時期が来なかったから表には出して貰えなかった感じだと思います。

神渡:
 「ありがとうございます」と「天照大御神」が繋がってるのですか?

ありがとうございます:
 そうです。はい。天照大御神様という言葉の定義が人それぞれ違います。この「ありがとうござます」と一緒の天照大御神様は、天照大御神様と出てくるとただ一人なのです。天照大御神様しかいない、全ての全てという意味でこの天照大御神様という言葉を使わせて貰っています。「あまてらす」というのは、宇宙全体を光り輝かしてると同時に、自分が無限に無限に輝いている姿を現します。それが入れ子構造の姿をとって更に無限に無限に輝いて、更に無限に無限に輝いて、もう底知れん奥深い輝きを持った姿を天照大御神様と言っています。その中には「絶対」も「創造の働き」も、その枝葉の全てを中に持ってる最高の輝きの姿というふうに捉えるんです。
 それが丁度「ありがとうございます」という言葉を言霊で解釈した時と同じなんです。ピッタリ合うんです。この天照大御神様は小さい意味だったら合わないと思います。伊勢の神宮にお祭りされていると小さく模型的に捉えると、もう直ぐにズレ始めます。だから天照大御神様が「全体」と捉えるのが良いです。みんなも天照大御神様と捉えるのが良いです。本当の見方はそうなんです。「肉体」というふうに小さく見るとなんか外れてるように思います。肉体が無限に無限に輝いているというのが本当です。細胞1個も無限に無限に輝いて、原子1個も無限に無限に輝いて、それが入れ子構造の姿で天照大御神様がいっぱい居るのです。だから、自分を何所に中心に置いても、肉体に置いても、もっと奥に置いても、何時もそこに全体から無限の無限の輝いたものが、無限に無限に全方向から降り注いでいるのです。切っても切れない関係で、天照大御神様の中心にいつも置かれているのです。その自分がいつも無限の幸せいっぱいにして貰っています。それが「一瞬一瞬新たに」です。その全体像が天照大御神様です。大きい天照大御神様です。その中に小さい天照大御神様が無限に無限にいっぱいあるのです。それを全部ひっくるめて「ありがとうございます」と言えば何所からでも助けが来ます。神社で色んな神様をお祭りしています。その神様も本当は天照大御神様です。無限に無限に輝いた姿をとってるのが、その神社の神様の最高表現の姿です。ただ、その最高表現の姿を受け入れるかどうかは皆違います。その途中の段階、低い段階の演技の姿を「神様」と決め付けたら困ります。
 今、最高表現としての姿は、無限に無限に輝いた天照大御神様そのものです。皆そうなです。そこまでいった時、本当に「天照大御神様」と「ありがとうございます」が一致します。
 こういう話をすると物凄く熱くなります。汗が噴き出してきます。恥ずかしいからじゃないんです。火の玉が入って来るのです。だから、どんだけ寒くても、雪でも溶かすような感じです。

神渡:
 今、いっぱい汗をかいていらっしゃる。

ありがとうございます:
 凄いです。何で出るんかと思います。ちょっと汗を拭かないと。そこまで、物凄い光が入って来るのです。信じられないくらい物凄い光が飛び込んで来るのです。


お経
神渡:
 「ありがとうございます」と唱える事と「南無阿弥陀仏」とか「南無妙法蓮華経」と唱える事は同じ事ですか?
ありがとうございます:
 「ありがとうございます」は全部中に持っています。だから「南無阿弥陀仏」では全部を包容しきれないです。「ありがとうございます」の中に「南無阿弥陀仏」も「南無妙法蓮華経」も無限のもん全部あるのです。だから、無限に大きいです。全部包容し尽くしています。だから、対立がないです。「南無阿弥陀仏」を唱えると「南無妙法蓮華経」とちょっと対立します。どっちが上かと思います。「ありがとうございます」となるとスット1つになります。全部をつなぐ接着剤です。


地湧の菩薩
神渡:
 私は非常に目を見開かせれた事があります。中山ミキさんという天理教の教祖がいます。Dさんは非常に霊能力の高い人なんですが、その方とお話をしてましたら突然、まだ37歳の青年が突然、河内長野の80過ぎのおばあちゃんの声に変わって、中山ミキさんが乗り移って話し始めたんです。
 そして仰るんです。「わてはねえ、あんさんの講演を聴きに行った」って「聴衆の1番後ろの方に座ってあんさんの話を聴いておった。あんさんは安岡正篤先生とか中村天風先生とか、そんな方の話をしてて、人生を取りこぼさない為には如何したら良いか、そういう話をしてて、わても考え深く聞かせてもろうた。でもなあ、あんさん、その時ちょっと見落としてた事があったな、それは、あんさんの目の前に座ってらっしゃる人達もみんな御仏の生まれ変わりであって、それぞれ背負ってる重荷がありながら、それを跳ね除けてなんとか実のある人生を作ろうと努力して頑張って戦っていらっしゃるのに、あんさんはビッグストーリーとかサクセスストーリとか、大会社作り上げた人とか、そういう人ばっかり目が向いてて、なんかそういう人達だけが人生の知恵を掴んでいらっしゃるかのように思ってるけども、そうじゃないんだよ。皆が御仏の生まれ変わりであって、お1人お1人を拝むような世界に入って行かないと、あんさんちょっと間違って仕舞うぞ」と仰ったんです。私は、もう図星を指されて、もう顔を真っ赤にして、あ〜そうだなと反省させられました。
 それからしばらくしてから「致知」という雑誌の編集長から電話があって「うちの雑誌で連載をやってくれませんか」となって、それで私はお受けしたんです。その時私は如何しようかな、どういうタイトルでどういう切り口で連載しようかなと考えた時に、ああ、中山ミキさんが仰ってたように、お1人お1人が御仏の生まれ変わりであって、そしてお1人お1人の人生が光輝くようになろうとして戦っていらっしゃる、その方々の事を取り上げようと思いました。それで法華経の中に「地湧の菩薩たち」と言う言葉があります。菩薩はキンキンキラキラの雲に乗ってやって来るんじゃなくて、「地から湧き出すように起こって来て、誰も知らないところで見事な歩みをしていらっしゃる人」と言う意味です。
 「地から湧き出してくる菩薩」という言葉を連載のタイトルに使わせて貰って「地湧の菩薩たち」として有名無名を問わず、キラリと光るような生き方をしていらっしゃる人達の事を書きたいと思って連載を始めました。案の定、読者の方から随分反響があって「何月号で取り上げて頂いた、あの方の話は心に響いた僕も頑張ろうという気持ちになった」とか、そんな事を言って頂きました。そういう意味で、お1人お1人の中に光り輝いている命を拝めるようになる事で自分が変わってくると思います。
ありがとうございます:
 そうです。幸せいっぱい頂く感じです。「ありがとうございます」。


日木流奈(ひきるな)君
神渡:
 今、「ありがとうございます」と仰いましたけど、その通りと思います。私はその中で書いた人で、横浜に日本流奈君というまだ十一歳の少年がいます。十一歳だけど歩く事も出来ないし、はう事も出来ない、言葉も喋れない、重度の脳障害児なんです。言葉を喋れないから文字盤を指で指して自分の気持ちを表現する、そんな形を通してコミュニケーションをとってる子供がいるんです。三年ほど前に読者から手紙を貰って、横浜にこんなに凄い少年がいますよと言って、ルナ君が書いた文章をコピーして送って下さったんです。私はそれを読んで感動しました。当時まだ八歳で、「八歳の少年が書いた文章だろうか」とっても英知に満ち満ちてる言葉なんです。それで私は早速会いに行きました。ルナ君はアパートの二回に住んでいました。訪ねるとリハビリをやってる最中で、リハビリが終わるまで待ってたんです。そして終わってからお母さんに抱っこされて私との対話が始まったんです。ルナ君が文字盤を指しながら「僕、おじちゃんの本読んでる」と言うんです。私は「ウソこけ」と思いました。「八歳の少年が読めないような漢字も俺は使っとるんだぞ」と思いましたけど、試しに聞いてみれと思って色々質問したら、事細かに答えるんです。「何の本読んでるんだ」と聞いたら「マザーテレサの旅路」と「一隅を照らす人生」と言うんです。驚きました。それからルナ君とのお付き合いが始まったんです。
 その子は平成二年に六ヶ月の早産で生まれた子供で、生まれた時にはお腹が破れてて、そこから腸がはみ出してて、その腸が腐っていました。産院では応対出来ないので、救急車で大学病院に運ばれて緊急手術が行われました。腐ってる腸を切り落として繋ぎ合わせて、でもお腹が発達してないものだから、それをガーゼで包んで保育器で育てた、そんな少年だったんです。何回も手術が繰り返されたものですから脳に水が溜まるようになって、その水が脳の発育障害を起こして仕舞いました。それでハイハイも出来いし、言葉も喋れない、眼もラムネビンの底みたいなメガネをかけないと見えない、そんな二重三重の重荷を背負うのです。
 それでお母さんが何とかこの子を助けたい一心で、色んな先生に連れて回られたんですが、中々良い方法が見つかりません。そんな時に本屋さんで「グレン・ドーマン博士の脳障害児のリハビリの本」(「親こそ最良の医師」サイマル出版会 グレン・ドーマン著)を見付けたんです。それを読んだ時に「ドーマン法でこの子を育てれば、何とか歩けるようになるかも知れない、言葉が喋れるようになるかも知れない」のでドーマン法で教育しよう、リハビリをしようと思うんです。ところがドーマン法は非常に緻密なプログラムで、お母さんとご婦人二人合計三人いないとプログラムは実行できない、朝二人、午後二人、夕方二人、一日六人必要なんです。それで二人はスーパーとか生協とか社会福祉協会とかあっちこっちでビラを配るんです。
 「私共はあまりにも貧しいので交通費も払えないですが、もし皆さんがリハビリを手伝って下さるならば、ルナが歩けるようになるかも知れない、字が書けるようになるかも知れない、私共は何もお支払い出来ませんけどもルナがもし歩けるようになったら、それが皆さんへの報酬なんです」と言ってビラを配るんです。何と、六十名の横浜の方々が応募してこられて、「月曜日の午前中だったら私行けます」とか、「会社がありますから土曜日の午後にして下さい」とか、そういう形で応募して下さってリハビリがスタートしたんです。それから三年間続くんですが中々効果が上がらないのです。三年目に彼がコミュニケーションをする方法として文字盤を指差して自分の気持ちを表現する事を習い始めます。
 八ヶ月間続けましたけど、ルナ君は何を習ってるのかさっぱり分かりません。言葉を言う事が出来ないから反応しないのです。だから、お母さんも不安、のれんに腕押しみたいな気持ちでルナ君の教育を続けたんですが、八ヶ月でルナ君が文字盤を指差すんです。「わ・た・す・さ・か・な」て指すのです。お母さん意味が分からなかったのですが、「わたすさかな、わたすさかな」でフト思い付いたんです。そうだ田舎のおばあちゃんが魚を送ってきてくれた。パパが仕事から帰ってきたらあれで焼き魚にしてパパのテーブルに出して欲しいという事かなと思って「ルナ、そうなの?」と聞いたら、ルナ君が文字盤を「は・い」と指したんです。それでお母さんは喜んで抱きしめてキスを雨あられと浴びせかけて「ルナ、最高!」って喜ぶんです。
 それからルナ君は言葉に非常に興味を示すようになりまして、お母さんが図書館から借りて来る本を片っ端から読むんです。その頃ルナ君が文字盤を指差しながら書いた文章の中に「のどが渇いたらジュースを飲む、頭が乾いたら本を読む」というぐらい本に興味を持って行くんです。沈黙の中で彼が非常に深い世界を経験して行くようになるんです。そして私はその文章を読んだ時に、非常に感動したので大和出版の編集者に見せたんです。「これ八歳の少年が書いた文章だよ」彼も非常に興味を示して、是非ともこれを出版したいと言ってルナ君のところへ会いに行ったんです。それでルナ君からOKを取り付けて「はじめてのことば」という題で大和出版から本になったんです。
 それがベストセラーになりまして、僅か八歳の少年が、そんな重度の障害を抱えてる少年が、英知に満ちた言葉を語ってるので本当に心を打つんです。それをテレビ東京のプロデューサーが見付けてルナ君の追跡をやるわけです。それでドキュメンタリーを作って行くんですが、最後になって迷うんです。それで私のところへ電話がかかってきて「どうもあれはお母さんが勝手にルナ君の手を動かして、自分で喋ってるだけじゃないか、本当はルナ君じゃなくてお母さんの声じゃないか」と言うんです。私は長年付き合ってましたから「それは間違いない、もしこのドキュメンタリーが放映されたならば、人間っていうのは大変に不可思議な存在、可能性のある存在、皆がその事を思うに違いない。特にそういう障害を抱えたお父さんお母さん達が何よりも解放されるだろう。人間は底知れない可能性を秘めているという事をテレビで見る事によって発見されるでしょうから、どうか勇気を持って流して下さい」と言ったんです。それでテレビ東京は「僕の言葉で喋りたいよ」という題にして放映しました。
 大変な反響になりまして、それで今度はTBSが彼を追っかけてまたテレビで流すようになりました。そして段々段々、ルナ君が知られて行くようになって行くんですが、その頃ルナ君がお母さんに何て言ったかというと、文字盤で指を指して「ママ、愛をありがとう」と言ったんです。お母さんが八ヶ月間のれんに腕押しで、不安を感じながらもしかしこの子が外の世界とコミュニケーション出来るとするなら、唯一文字盤で自分の気持ちを伝える事だけ。だから、何としてでもこの事を分かって貰わなければいけないと思って、続けて続けて続けたお母さんの忍耐が、僕が独り暗闇の底にいたのを救い出して、人々とコミュニケーションをとらせてくれた。そんな「ママ、愛をありがとう」という言葉を出したんです。この「ありがとう」という言葉は凄い言葉だなあと思います。
 ルナ君が毎年カレンダーを作るんです。毎月彼の詩とボランティアの方々がイラストを描いて下さって、それが月めくりのカレンダーになって出るんです。その彼が詩を書いてるのですが、その詩を見て私は内面の世界に降りて行った時に、そこで発見する内的な知恵の素晴らしさに改めて感じ入りました。彼の自由詩になるんですけど、今年のカレンダーの二月号に、彼はこういう詩を書いてるんです。

僕が戦ってきたのは誰だろう、他人に嫉妬したり、比較して優劣を競ったり
外に評価を求めたり、絶対的価値は自分の中にあるというのに
僕は相対的なものばかり求めていた
戦う相手を外に求めていた間は、僕の進歩は止まっていた
挑む相手を自分の中に見つけた時、僕は永遠という時の中で
天に向かって歩むことを許されたのである

十一歳の少年が「自分の中に絶対的価値がある」ということに気が付いた時に「僕の霊的な成長が始まった」と書いてあるのです。
私達は忙し過ぎるんだと思うのです。ディズニーランドへ行ったり、三越に買い物に行ったりして、そういう外の世界に気を奪われて仕舞って時間がどんどん過ぎて行く、でも自分の内面の世界に降りて行って内なる永遠の泉に出会って、そこから水を含んで飲むようになった時に、ルナ君のように大変な英知に出会うのではないかと思います。皆それを知っている、でも外へ気が行ってる、だからその時間を失ってるけれど「一人静かな時間を持ち、瞑想の時、或いは祈りの時を持ちながら、自己との対話を深めて行くならば、その永遠の泉を汲めるようになる」と思います。
その事をルナ君が私達に教えてくれてると思うのです。素晴らしい少年です。
私はルナ君の家族と付き合って非常に思うのは普通、障害を抱えた子供が生まれたらお母さんは慌てます。「ご近所の人に何と説明しよう、それ以上に田舎の両親に何と電話しようか」と非常に心苦しいものがあって、ご主人と二人で悩む事が多いと思います。
 だけど日木さんのご夫婦は、ルナ君が障害を持って生まれた時に、それを真正面から受け止めたんです。悩むのじゃなしに、何でこんな事になって仕舞ったんだろうと言うのじゃなしに、「あっ、僕らはこの子に何をしてあげられるだろうか」と考えたんです。両親がその時からもう前向きなんです。ルナ君も自分が障害を持って生まれてる事を受け止めて、そして「じゃあ僕に出来る事は何だろうか」という世界から始まって行って、先程言ったような「天のメッセージを人々に届ける」という媒介者としての役割を果すようになったんです
 ルナ君は三冊ほど本を書いています。その本が大人の私達にハット気が付かせてくれる、忙しさの余り見失ってるものを彼が気付かせてくれる。人間には素晴らしい使命があって自分を卑下することなく、人と比較して駄目だと思うことなく、自分の役割分担に一生懸命になって行ったならば、天は大きく用いて下さると思います。

ありがとうございます:
 本当にそうです。ハンディを背負って、大きい力を発揮した人ほど素晴らしいです。1人1人最高の素晴らしい天命を持っています。その人でなかったら出来ない宇宙でただ1人の天命を持っています。それを神さんの方は発揮させる為に一生懸命護りぬいてくれてます。その発揮する場所として必要なものを皆与えて貰うのでしょう。

日木流奈君のホームページ http://www2.odn.ne.jp/luna/

冉求(ぜんきゅう)
神渡:
 私は闘病生活の中で色々教えて頂いたきました。論語の中に冉求(ぜんきゅう)と孔子の対話があります。冉求は孔子の十大弟子で、後に総理大臣にまでなった人なんです。冉求はいつも自分を卑下して、自分は駄目だ駄目だつまらない男だと言ってる人だたんです。ある時、孔子と話をするんです。「私は駄目な人間なもんで、先生が仰ることを1つも実行できません」とこぼしたら、孔子が言います、「冉求なあ、私はお前を見てていつも悲しい、というのは、お前は自分を見限っている、天は無形な存在だ、手もなければ足もない、だから地に何かの形を創り上げようとした時に、地において動いて働いている人間を通さなければ形あるものを創り上げることは出来ない。冉求を通して何かを創ろうとしていらっしゃるはずなのに、その冉求自身が自分は駄目だ駄目だと萎縮してたら、一体天はどうやってご自分の理想を形にする事が出来るんだ。自分を見限るという事は、天を見捨てるという事だぞ」と言われました。そこから冉求は変わって行くんです。そして論語の中に名前が残るほどの人物になって行くんです。
 私は自分を見限る事ほど怖い事はないと感じます。自分の背後の、自分を通して仕事をしていらっしゃる天の事を思ったならば、萎縮しちゃいけないという事を教えられました。

 喜びと感謝
質問者:
 日木流奈君みたいに、普通では考えられない使命を持った子供さんがいらっしゃいます。おじさんから見るとどの様に見えますか?
ありがとうございます:
 ハンディ背負って、真剣に生きて良い姿を表すという事は、みんなのお手本になってるんです。私も小さい時から色んな苦労を与えて貰いました。苦労は何の為に必要かと言う訳ですが。
 砂浜に松が雄々しく育ってるのを見てて、この潮風に耐えて、寒風にさらされて、尚且つ曲がりくねって、逞しく育っているこの松の古木、これを見てどう感じるかと言うと、凄いです。この辺の松はまっすぐすーっと伸びています。背が高く伸びてるんですけど、比較してどちらが美しいか、素晴らしいかと言う訳です。やっぱり試練に耐え抜いた方が、そこに命の輝きが強くあるように思うんです。だから苦労を与えて貰うほど、ある意味では輝きを増す為の神様の働きが大きく加えて頂いているのです。神様に大きく助けて頂いている姿をとってると思います。神様は苦労させる時は放っておかないです。身近に寄り添って助けてくれるはずなんです。だから苦労を与えて貰うと得すると私は小さい時そういう感じがしたんです。それでどんな苦労も苦に思わないのです。「助けて貰ってる、得してる」って喜んで喜んでたんです。辛い事、苦しい事をさせて貰う方が良いんです。本当に楽しいです。

神渡:
 中村天風さんが、自分の運勢を変える方法は「宇宙霊のエネルギーを頂く事」だと言っています。宇宙霊と自分の接点(パイプ)になってるのは「自分の心」だと仰るんです。その心が機能する為には二つの要素が必要だと仰るんです。その1つが「感謝」、もう1つが「歓喜」喜びと感謝を持っていればどんな状況に立たされても、「ああ、それは今の自分に必要だからさせられて事だ」と受け止めて、そこで最善を尽くせば、天とのパイプがしっかり繋がってますから、天のエネルギーが流入してきます。感謝と歓喜と仰ってます。正に「ありがとうございます」の世界です。
 そういう意味では1つ越えた世界にいらっしゃる人達は皆さん同じ事をそれぞれの言葉で言ってらっしゃると感じます。


イスラエル
質問者:
 糸川(ロケット博士)さんは、イスラエルとユダヤ民族、イスラエルと日本が手を繋ぐことが21世紀を作るのに如何しても必要と仰ってました。そこら辺の話を聞かせて貰えないですか?
神渡:
 イスラエルの人々も非常に「神」の意識があって、神の媒体として、神の手足として自分がある、そんな意識がとても強い人達です。日本民族の中にあるものの考え方にも「ひのきしん」という言葉もあるように「天の器として自分がその仕事をするんだ」という思いが伝統的にあると思います。そこのところをもうちょっと深く掘り下げて行くならば、日本民族がこれから世界のお手伝いが出来る時代に入って行くだろうと思います。私達の使命は日本民族が忘れつつある「天と自分」という世界を甦らせて行く事だと思います。

質問者:
 イスラエルを旅されてどんな感触を持たれましたか?

神渡:
 あの世界は気が尽き果てるほどに緑のない世界です。イスラエルの建国の父にベングリオンという初代の首相がいます。彼の墓に詣でた時は泣けて泣けてなりませんでした。しんの荒野に向けて彼の墓が作られています。そのしんの荒野は、全くの岩山、砂漠です。イスラエルの75%は砂漠ですから、彼は砂漠を緑化しようと考えるのです。「イスラエルにもし将来があるとするならば、その砂漠を緑化する以外にない」だから彼が首相を退いてからもネゲブ砂漠のキブツに入ってそこで開拓をズーっと続けた人です。死ぬ時にはしんの荒野に向けて自分の墓を作るんです。それを見た時に私は泣けてなりませんでした。
*ミルトスから「ユダヤ建国の父ベングリオン」と糸川英夫著「荒野(あらの)に挑む」が出版されてます。

質問者:
 ユダヤ民族と日本民族とのかかわりについて、お聞きしたいです。

ありがとうございます:
 両方、必要な働きをさせて頂くんだと思います。ちょっと働きが違うと思います。日本の場合は「中心に立つ」という大きい役割があるんです。中心は1番下に立って皆を支える役目です。自分を出したら絶対駄目です。なんぼ良い事するのでも自分がでしゃばると中心に立ってないです。日本の場合は天皇陛下という最高のお手本を示して下さる方がいらっしゃいます。天皇陛下の役割は中心に立つ役目のお手本です。絶対自分を出さない、我を出さない、良い事でも自分を主張しない、ただ神様だけを称えて輝かす、これが日本の役目です。だから「自分を死にきる」が良いです。
 武士道も同じです。愛の心を生きる時、戈(ほこ)を止める働きをする時は、必ず自分を死に切らないといけないと思います。争いはみんな自我の主張のし合いから生まれます。自我を死にきって自分を捨てたら争いはもう絶対にないです。日本の場合は「争わずして勝つ」役割です。「絶対争わない」が良いです。ユダヤの人達は能力が高いです。色んな発明発見いっぱいされます。お金儲けも上手です。世界の冨を沢山握ってそれを活かして皆を幸せにしようと頑張っています。やっぱり両方の働きが必要だと思います。その両方が助け合いをする事によって本当の理想の世界を生み出せます。

質問者:
 イスラエルで起こっている紛争は、平和な時代がくる1つの通過点と考えてよろしいでしょうか?

ありがとうございます:
 お互いの足らないところを補う意味では、日本(日本民族)が争いをやめる役目です。その為に「お祈りをしっかりさせて頂く」役目も当然与えて頂くんだと思います。中心者という中心の働きはみんなを支える役目ですから、みんなのマイナスを全部引き受ける役目です。それで先ず争いをなくして行くのです。だから日本に軍備なんか必要ないと思います。神風が吹きます。本当に争わない心になった時に神風が吹くようです。どんな時も不思議な奇跡がいっぱい起こります。
 
「ありがとうございます」は、最後の切り札としての言葉が日本に先ず降ろされています。地球を平和にする為の本当の大きい働きが、先ずこれから起こるんだと思います。
 表面の働きはそれぞれ皆必要な働きなんです。本当はマイナスじゃないんです。みんな必要な働きを果しながら完成へ向かっています。丁度、彫刻を1つ完成させるのでも、みんな好き勝手に彫ります。顔を掘るところも上を掘るところ色々あって良いです。彫りくずはやっぱりマイナスに見えます。最後に大掃除する人がいれば良いです。彫りくずを全部消し去る働きがあれば、全部プラスに置き換わって行きます。日本がそういう最後の仕上げをします。最後の画竜点睛図の目を入れるところを日本が担うんだと思います。


世界維新
質問者:
 明治維新が昔ありました。それ以上の世界維新がこれからの情報時代を踏まえて行われて行くと我々は感じています。神渡さんは全世界が平和になって行く、世界維新をどう思いますか?
神渡:
 キリスト教、先程のユダヤ教もそうですが、聖書では「父なる神」と言う言い方をします。私はイスラエルとかアメリカとか、或いはイギリスとかは「父性国家」だと思います。一方日本の場合は、源に天照大御神様がいらっしゃるように「母なる国」だと思います。お母さんの役割は皆を受け止める役割です。お母さんがいて始めてその家庭は落ち着きます。お母さんが全部懐を広げて受け止めてくれるから、その家庭は安定します。お父さんは方向を示して「俺に付いて来い」という事で頑張る、みんなをまとめるのはお母さんです。
 そういう意味で日本民族が、益々聞く耳を持って理解を示す事が出来るようになった時に世界を大きくまとめて行く事が出来るのではないかと思います。新道の中に「結び」という言葉があります。「結び」という「世界を結んでいく」役割として日本民族が非常に期待されているものがあると感じています。

ありがとうございます:
 宗教、キリスト教、イスラム教、仏教は「教え」です。神道、古神道は道です。神道教とは言いません。「道」は離れているものを繋ぎ合せます。それで宇宙全体に満ち渡って1つに、一体化させて仕舞うんです。だから、そういうところも不思議と日本の役目が表現されてるような感じです。皆を1つに繋ぎ合わします。これも「道」です。

神渡:
 私はヨーロッパの放浪癖が長くて、7年間ぐらいバッグを担いで色んな所へ行きました。その時に沢山経験したんですが、フランス人にしろ、オランダ人にしろ、ドイツ人にしろ、日本人が中にいると皆まとまるんです。みんな自己主張が強い人達ですから「俺が、俺が」という感じです。日本人は言別けしないので、「自分が、自分が」ということはしない、引きます、1歩引きます。相手の気持ちを汲み取ってという事をやります。だから日本人がいると上手く緩衝作用が働いて1つのグループが出来上がって行くんです。それで私はその頃「日本人には、みんなを結ぶ役割があるんじゃないか」と思ったりしました。今益々そう思います。

ありがとうございます:
 日本の言葉もそうです。「自分」とは言いません。学校へ行くのでも「行って来ます」だけです。「私が行きます」とは余り言いません。「ただいま」です、「私が帰って来ました」とは言いません。みんな「自分」を省略します。その辺は凄いです。

神渡:
 それにお母さんは自己主張しないです。「私が洗濯してやった」とか「私が晩御飯を作ってやった」とか言いません。みんな下働きとして、家の掃除をしたり、ご飯を作ったり、洗濯したりしていらっしゃいます。お母さんがいないと家庭がまとまりません。そういう意味で私は日本人は不思議な役割を担っていると思います。今でこそ何か卑下しちゃって「日本人は得体が知れない」とか「自分の事を主張しない」とか、色んな事を言われてますけど、そうではなく、それが天から与えられた訓練なんだと感じます。


天照大御神様
質問者:
 さっき天照さんの話をされた時にザーっと光が入って来たのですが、何でですか?
ありがとうございます:
 
やっぱり呼んでる事になるんでしょう。黒住教の教祖、黒住宗忠さんは、天照大御神様を信じて天照大御神様と一体化をとられた方です。あの方は絶対に「天照大御神様」と言う時は、服装まで変えて威儀端然とします。絶対普段着では名前を呼ばないのです。本当はそこまで凄い神様なんです。知れば知るほど畏れ多い神様です。でも私は普段着で呼んでます。

質問者:
 それはありがとうございます だからと思います。私達が呼んでも熱くもないし、光も来ません。

ありがとうございます:
 来ます。来ます。

質問者:
 みんなで「天照大御神様」と言ってみますか?

ありがとうございます:
 焼け死んでも良いですか。「ありがとうございます」が良いです。光を加減して下さります。


内観
質問者:
 神渡さんにとって、人生のターニングポイントは何ですか?
神渡:
 私の人生の中では、脳梗塞で倒れた事も大きな転機になりました。それから四国の八十八ヶ所歩いた、これも大変な転機になりました。内観に行って父母との和解が出来た、これはもう決定的に大きかったです。この三つが私の人生にとって、もう〜大きな転機になったという感じがします。

質問者:
 戸隠に水輪がありますけど、その話をしてくれませんか?

神渡:
 戸隠に水輪という瞑想センターがあります。不思議な所です。塩沢さん、ご夫妻のもとに、かおりさんという女の子が生まれます。ところが出産の時の外傷からさおりちゃんが障害児になるんです。最初、ご夫妻はさおりちゃんを助ける為に行政の応援を取り付けなきゃいけない、制度を作らなきゃいけないという事で、外的な社会運動を始めたんです。それで全国的な組織を作るまで行ったんですが、忙しくなっていつも外出すると、さおりちゃんが非常に寂しがる訳です。そのみどりちゃんを見てて、ちょっと待てよと、社会制度を作り上げよう、行政の応援を作り上げよう、家族の全国的なネットワークを作り上げようということで、外的な活動に行ってる時は、決してさおりの心は喜んでいない事に気付き、ご夫妻は外的な社会運動から身を引くんです。そして、さおりが1番喜ぶ形で自分達はもっと考えよう、それで禅寺に通い始めます。でも、やっぱり人間ですから他人の目が気になります。そういうものに惑わされてる自分達が情けなくて、それで禅寺で泰然不動の自分を作り上げて行こうとして禅寺へ通って行くうちに、次第次第に瞑想とか、内なる声に耳を澄ませて行く事の大切さに気付いて行くんです。元々長野市内に住んでいましたが、その頃から、さおりちゃんが奇声を発するものですから、ご近所から「うるさい」と怒鳴られるので市内に住む事が出来なかったので、飯綱高原のお山の中に小さな庵を作って親子三人でひっそり暮らそうという事で移り住みました。ところがここと同じで、こんな山奥にありがとうございますが‥‥。

ありがとうございます:
 うるさいって追い出された。「ありがとうございます」と大きな声で言い過ぎた。

神渡:
 それで、塩沢さん夫妻のちっちゃな庵に人が訪ねてくるようになって、泊まる場所がないから一緒に寝てて、せめて泊まる場所でも作ろうかと言って家を建てましして泊まる場所を作った。そのうちに「私は建設会社をやってます。家を建てるのが本職ですから、お金さえ準備して頂けたら家を建てます」。そのうち「私の会社は儲かっていますから、私がお金を出しましょう」という形で、色んな方々が応援して下さって、二棟目三棟目と家が広がって行くんです。それで水輪が冥想センターとして大きくなって行くんです。今では宿泊施設に四十人ぐらい泊まれるまでになってます。
 長野で講演があった時に水輪に泊めて頂いた事がご縁になって、塩沢さんご夫妻は凄い人達だなと思うようになって色々お付き合いをしてるうちに、私が内観の事を随分言うものですから、「じゃあ、うちで内観をやりませんか」という事になったんです。それで昨年の十二月の二八日から一月の三日まで一週間長野の水輪で内観をご指導して頂きました。それで今回第一回目だったんですが二十三名の方が参加されて、一週間やったんですが素晴らしい内観になりました。
 長野県の県庁に勤めていらっしゃるご夫妻も参加されてました。離婚寸前で、もうハンコをつくまでになってたんです。でもご主人の方が「何とか離婚だけは回避したい」と奥さんに頼み込んで最後の頼みの綱として内観に来られていました。奥さんの方としては、「私はとっくの昔にあなたにはもう見切りをつけた」と「でも、そこまで言ううんだったら、お付き合いという事で内観をしましょう。私は何も期待してない、駄目だと思ったら必ずハンコをついて下さい。それで新年は二人分かれて人生を生きましょう」という事になってました。ところが、その一週間の中で、ご主人の方も泣かれ奥さんの方も泣かれました。別々の部屋で内観していらっしゃるんですが、「夫をああいうふうにして仕舞ったのは、自分がその方向に夫を押しやってたんだ、原因は自分だったんだ」という事でさめざめと泣かれて「もう一度よりを戻して再出発をしたい」。ご主人はご主人の方で「家内の心をそれほど傷つけていたとは知らなかった、申し訳なかった」という世界に入っていかれて「出来る事ならもう1度新年を再スタートしたい」というような思いになって、離婚を回避出来たんです。
 最後の日に内観が終わってみんな車座になって一人一人感想を述べ合いました。うちの家内も千葉から来てまして、みんなとお別れした後に、そのご夫妻が「お蔭様で新年を再スタートする事が出来ました。ついては神渡さんご夫妻、帰りにうちに寄って晩御飯を食べて行きませんか」という事で、ご夫妻と晩御飯を食べながら再スタートをお祝いしました。そんな事がいっぱい起きまして、本当に恵まれた内観の一週間になりました。
ホリスティック・ヒーリングスペース・水輪のホームページ http://www.suirin.com/ 


ありがとうございます報告
 横浜から来たTです。公文の塾を自宅で二十二年やらせて頂いています。年に何回か無料で体験学習をさせて頂くのですが、今回十二名参加してくれました。普段は入会率が半分ぐらいあれば良い方なんです。私は何にも考えてなくて、ただ一人一人のお子さんに会って一生懸命やらせて頂いたんです。そしたら全員入会してくれました。
 去年から三人に手伝って貰っていまして、もう一人知り合った方がいて、「こんな方に手伝って貰えたら良いな、仕事が増えたらずっと来て頂きたいな」と思って、暮れに声をかけたんです。その方が入って4人手伝って貰って丁度良いぐらいなんです。仕事が自然に出来て、忙しいのですが、とっても楽しいです。「ありがとうございます」。
 スタッフにYさんのクリーニング屋さんのテープをダビングして一人一人にプレゼントしたんです。「ありがとうございます」と言いながらチラシを配ったお話です、と言って差し上げました。そして皆さんがチラシを配ってくれました。「ありがとうございます」と言ってくれたか聞いていませんが、何かそれも関係してるのかなと思います。

五井先生
質問者:
 五井先生の世界平和の祈りのテープをここで聞くのは不思議です。
ありがとうございます:
 五井先生は、もう世界平和を祈り続けられた方です。それに命をかけてお祈り一筋の方です。神様がそういうふうに五井先生を使って祈り一筋の生き方をとらされたのです。だから、神様の本当の清めの響きがスーっと通っています。口笛にも拍手にも1番自然な響きがズーっと通っています。違和感がないです。人によっては色々に聞こえるみたいです。口笛が鳥の声に聞こえたり、念仏に聞こえるみたいです。
 みんな神様からのプレゼントです。「ありがとうございます」は、何でもありなんです。「ありがとうございます」だけで何もなくても良いですが、何でもありで全部活かすのです。活かして下さります。全部使うのは大変なんです。だから1つ1番良いのを使わせて貰うのは良い事です。

質問者:
 ありがとうございますは五井先生から何か影響を受けていますか?

ありがとうございます:
 私が二十歳の時に、気持ちが宇宙大に広がって、「ああ、これが本当の生き方なんだ」と人生の目的も分かった時に五井先生を知ったんです。二十歳の時にです。その時は会ってないけど、それでも分かってるのです。出会いに行ったのはその十年ぐらい後なんです。その時も、五井先生のところも組織としてほとんどなかったです。小さくて細々という感じでした。
 十年ぐらいして会いに行って、その時びっくりしたのが、行って庭で出会ったんです。そしたら私、こうして頭下げたんです。お祈りの神様ですから出来るだけ丁寧に二、三回下げたんですけど、五井先生の方がもっと何倍も下げてくれます。頭の下げあいです。「凄い方やなあ」と思いました。それで、その帰りも見送って下さるのです。それがずーっと歩いて遠くまで姿が見えなくなるまで何時までもこうやって、これもまたビックリしました。それが最初の出会いでした。
白光真宏会(五井昌久先生) のホームページ http://www.byakko.or.jp/


世界共通語
質問者:
 五井先生は大きな寺院を建てたり、お金を使わずに「世界人類が平和でありますように」の白い柱を建てられて、そういう形で凄く世界平和に貢献されています。世界平和の方は英語がありますし、色んな言葉で訳されてます。ありがとうございます運動も運動形態が似てると思います。ありがとうを世界語で言うとちょっと日本語のニュアンスが伝わらないと思います。「今、全てに感謝します」だと少しは英語でもスペイン語でも訳せると思います。そういう広がりは今後、世界に対してやっていかれる気持ちがありますか?
ありがとうございます:
 これはもう神様がされる事なんで、私達はほんのちょっとお手伝いさせて頂く感じです。恩返しの意味でお手伝いさせて頂くだけの働きです。「私達が何をしたい」というのはないのです。「ただ、お手伝いだけをさせて頂きたい」のです。「唱える事によってこんなに幸せを貰って、何か恩返し出来ないか、幸せになる方法をちょっとでも皆さんにお伝え出来たら」、という感じです。だから組織は絶対作らないし、自分がしてるという事も出さないし、神様だけのお手伝いです。皆さんもそういう役目だと思います。お祈りして幸せにして頂いて、神様のお手伝いに生きる方ばっかしだと思います。それはもう各自形は自由自在に変わって良いと思います。一人一人神様のお手伝いをするのです。「こうしなければ」という縛りは全然ないと思います。みんな自由自在に、それぞれの立場でして頂いたら良いと思います。
 それで「世界人類が平和でありますように」という言葉が英語などで、
May peace prevail on earth.とか色々翻訳されてます。
この「ありがとうございます」はピッタリ合う言葉がないです。多分、ないから世界共通語になっていくと思います。柔道で「一本」と言います。なかったら共通語になって行きます。多分、世界共通語になって行くと思います。日本人が「ありがとうございます」を唱えて、幸せいっぱいになって、世界平和に大きく貢献して行けたとしたら、世界中の人全部受け入れてくれます。
「こんな素晴らしい言葉は日本だけの言葉にしたら駄目ですよ」と言って、世界共通語に皆さんして下さると思います。


執筆活動の仕方
質問者:
 神渡先生が本を書く場合、亡くなられた安岡先生や天風先生を書く書き方と、日木流奈君のようにお会いして書く書き方では違いがあるのでしょうか?また先生にとって書く事はどういう事ですか?
神渡:
 安岡先生にしても天風先生にしても色々取材してますが実際にお会いしていません。例えば、直接先生に指導して頂いた方であるとか、或いは日記を見せて貰うとか、奥様或いはお子さんにお会いするとかそんな形で取材を進めます。段々段々、安岡先生なり天風先生なりのイメージが出来上がってきます。その時期は、丁度お酒を仕込む時と同じです。自分の中で段々段々お酒が発酵して、それがお酒になって行きます。それでいよいよ書こうという感じになってくる訳です。もうその頃になって来ますと、もう自分なのか天風先生なのか分からない、自分なのか安岡先生なのか分からない、自分なのか鉄舟なのか分からない感じになって来ます。雑誌なんかで対談やってる時でも、その前に座って対談をやってるものの頭の中は鉄舟さんでいっぱいで、自分の本心は天風先生の方を考えてたりします。だから「ああ、この時には鉄舟さんは、こういう思いで仕事をしたんじゃないか」とか、ピーンと感じるものがあって、それで調べてみるとやっぱりそうだったという感じになって行きます。そういう意味で現場に行く事は絶対に大切です。
 天風さんを取材した時も僕はヒラヤマまで行って、天風さんが座った石の上に座って瞑想し、滝に打たれて何が天風さんの転機になったのか、ズーっと探し求めたんです。その時に自分がサーっと思ったのは天風さんがカリヤッパ先生をロバに乗っけてロバの綱を引きながら滝に行った時に天風さんと会話するんです。カリヤッパ先生が当時オラビンダとインド名で呼ばれてましたから「オラビンダ今日の調子はどうだ」ってカリヤッパ先生が聞くんです。その時天風さんは肺結核を病んでもう血を吐いてましたから「いやあ、今日も微熱が続いてて具合が悪いです。何でこんな事になったのか分かりません」と彼が言うんです。するとカリヤッパ先生が「オラビンダ、お前はまだ分かってないのか、お前が吐いてる言葉でお前の潜在意識が影響されて、病気が益々悪くなってるとまだ気が付いてないのか」と言うんです。それでオラビンダが「自分の事を聞かれたから正直に答えたのが何が悪いんですか?」そうじゃないんだと「咳が止まらないと言うのは全然構わない、お前はその後に、何でこんな事になって仕舞ったんでしょかと言う、情けないったらありゃしない、そんな自分の気持ちを伝えてるだろう、それがお前の潜在意識に影響してるんだ。言葉というものは自分のメッセージを相手に伝える役割を持っていながら、相手の耳に届く前に自分の耳に届いて自分の鼓膜を揺るがして自分の潜在意識に影響を与えてるんだ。だからお前が病気から解放されたいと思ったらその言葉に気をつけろ」と言われます。そこから天風さんはカーーーっと開けて行くんです。その事に気が付いた時に私はヤブナ川の畔の岩の上に座ってた訳ですが、「これで天風さんが書ける」と思いました。それで日本に帰ってきて「宇宙の響き」(致知出版社)を書き上げたんです。案の定やっぱり読んだ方から手紙を頂きまして、こんな事を叫ぶんじゃなっかたと反省されてました。
 そういう意味では作家という仕事は人々に先駆けての仕事だと思うんです。自分が締め切り追われて作品として原稿を書き上げて出版社へ出せば、読者も読みながら「何だ時間損した、こんな薄っぺらなもの読ませやがって」と思います。自分が苦しんで苦しんで、その確信に触れて書き上げたものはやっぱり読者に伝わります。「ああ、良い本を読ませて貰った」と手紙がきます。そういう意味でやっぱり先駆けの仕事であるような感じがします。

質問者:
 亡くなった方との魂の交流の仕方と実際に会われて交流する場合では違いがあるのですか?

神渡:
 追体験、先ず自分が追体験をします。追体験出来なかったら読者に伝わって行きません。読者もすらすらーっと読んで仕舞って大阪で新幹線を降りたらそのままゴミ箱へ捨てて仕舞うよなものになります。


お遍路
質問者:
 四国のお遍路の事を本にされてますか?
神渡:
 してます。「人は何によって輝くのか」(PHP研究所)。

質問者:
 今四国がブームだと言われて、特に歩きお遍路とか特集されて、僕もしようかなと思っています。四国にはやっぱり何かあるのでしょうか?

神渡:
 そうでしょう。やっぱり祈りが蓄積されている場所です。だから環境というのは大きいです。やっぱり盛り場には盛り場の霊があるし、四国の霊場は、皆さんのそういう祈りがズーっと蓄積されていますから、やっぱり導かれます。それに不思議なもので人間の体はよく出来てて、最初の1週間はきついです。足が痛い腰が痛い、もう足の裏は豆だらけ、足がパンパンに張って、もう泣きながらという事が多い訳です。でも、その峠を越えて仕舞うと、そういう肉体の疲れは足を引っ張らなくなります。歩きながらの瞑想が始まるってくるんです。同行二人という言葉があります。正にお大師さんとの対話が始まってくるんです。歩きながら自己との対話、自分の奥底にいらっしゃるお大師さんとの対話が始まって行って、行脚がそのまま瞑想になって行きます。あれほど素晴らしい修行はないと思います。あれは絶対観光バスに乗ってカラオケを歌いながら行くべきじゃないです。もったいないです。折角一週間なり十日なり時間がとれたんだったらば、それは黙々と歩むべきです。私も八十八ヶ所を歩く時に何人かの方がご一緒したいと言われたんですが、「お大師さんと対話したいから一人で歩きたいから、それは勘弁して下さい」。ぺちゃくちゃと四方山話をしてたら時間を失います。だからお断りして一人で歩いた訳です。正解でした。

質問者:
 その時は回復されて十分歩けたんですか?

神渡:
 はい。回復してから十年目ぐらいです。というのは医者がズーっと止めてまして、脳梗塞で倒れたので、炎天下へ行ったら血がまたドロドロに固まってきますから、また再発すると、だから止めろと言うんです。だから中々実行出来なかったんですが、とうとう説得に成功しまして、その代わり水をがぶ飲みするようにと言われてました。水道さえあれば駆けつけて水を飲んでいました。

質問者:
 歩いた経験は、それ以後の作品に何か影響が出ましたか?

神渡:
 もう決定的に響いています。先程もちょっと言いましたように「自分一人ではない」というのを体験しました。国道を歩いています。炎天下、上からの照り付けと路面からの照り返しで殆ど日干し状態です。ところが国道から外れて昔ながらの遍路道に入って行くと、両側から木がそびえてきてて緑のトンネルになってます。ほっとする訳です。私は最初、日陰に入ってるからほっとしてるのかなと思ってたんです。でも、そうじゃないと思いました。「やっぱり包まれている、見守られてる」感触・感覚があるからほっとすると思いました。自分の人生は自分1人じゃない、自分が苦労して苦労して道を開いてるかのように思ってるけれど、そうじゃなくて、しっかり見守って下さっていて、欠けたものは気付かせようとして様々な導きがある。だから、何が起きたとしても、受け入れよう、愚痴を言ったり、何でこんな事になったとかじゃなくて、1つ1つの中に天のメッセージがあるに違いない、だから受け止めようという気持ちになって行く事が出来たんです。それも四国お遍路が大きな影響を与えています。


富士山
質問者:
 鉄舟さんが江戸から三島まで座禅する為に行きました。その辺の体験は繋がりますか?
神渡:
 鉄舟は明治維新がなってから宮内庁に入って天皇陛下の侍従になりました。そんな鉄舟の事を「あいつは上手いことやりやがった、幕臣でありながら今は見返って天皇の侍従かよ」と、そんな悪口を言う人もいた訳です。鉄舟も人の子ですから、そういう人の批判が耳に入るとやっぱり気持ちが動揺します。ある時三島の竜沢寺で座って箱根の山を越えて帰る時に、フット振り返ったら富士山が見えるんです。青空の中に真っ白い帽子をかぶった富士山がどっしりと構えてる姿を見た時「ああ、これだなあ」と思うんです。「晴れてよし、曇りでよし、富士の山、もとの姿は変わらざりけり」。富士さんの事を色んな人が色んな表現をする。静岡側から見た方が良いとか、山梨からの方がかっこいい富士山だとか、雨の日の富士山は姿が見えなくて残念だとか色んな事を言うけれども、富士山はいつも変わらずどっしりと構えてるじゃないか、そうだ、人の噂話に一喜一憂するんじゃなくて俺もどっしり構えて行こう思ったようです。そういう意味で鉄舟が三島の竜沢寺で掴んだ世界は大きいんじゃないでしょうか。


作家になった理由
質問者:
 大学生に頃は全共闘に関りましたか?何故作家になったのですか?私は「ありがとうございます」を実践しています。例えばK先生は便所掃除をします。神渡先生は何か実践されてる事がありますか?
神渡:
 私は学生時代右翼でした。高校時代から安岡先生を読んでましたので波長が左翼の人達と合わなくなっていました。高校は久留米の学校だったんですが、久留米は大牟田の隣町で三井三池闘争の影響があったり、先生方はそれに行かれたりして随分影響を受けていらっしゃって、また古い先生方もいらっしゃって、そういう先生方がいつも授業中に言われるんです。「お前ら、とんでもない国に生まれた。この国は搾取階級が自分達を抑圧して暗黒の歴史しかない、文化も伝統もへったくれもない」といつもそんな話をされる訳です。いつも駄目だ駄目だと聞かされてシューンとなって行くのです。そのうち精神的な窒息状態になって行って、本当に駄目な国なのか自分の目で確かめてみたいと思うようになって、それで図書館に行って本を読み始めた訳です。
 その時に出会ったのが安岡先生の本なんです。「日本精神通義」とか「日本精神の研究」とかを読んだ時に「ああ、これほどの人物が育っていったのであるならば、日本の国には豊かな精神的な土壌がある。先生が仰るように色々改善しなきゃいけない点はあるけれども、基本的には誇る事が出来る国じゃないか」と思う事が出来ました。その時に自分の足が大地にしっかり着いたような感じがしました。それ以来安岡先生を読んでるものですから、大学に進んでから全共闘運動が起こって、彼らの心境が理解出来たとしても、思想的には共鳴出来ないようになりました。だから、全共闘運動から一歩退いていました。
 
 元々、私は一方の手でメスを握って、一方の手ではペンを握ろうと思っていました。中学時代は新聞部をやっていました。中学校のじょうない新聞が西日本新聞主催のコンクールで1等になって、そのご褒美で豪華大阪の飛行機の旅をさせて貰ったりと、そんな事があって自分でもいけるんじゃかと思っていました。結局、紛争に巻き込まれて中退してメスを握れなくなった時に、じゃ残された方向はペンだ、これで頑張ろうという気持ちになってきた訳でした。

 朝の散歩を実践しています。朝の霊気の中に飛び出して太陽が昇る前に散歩をしてます。もう宇宙の霊気が飛び込んできます。自ずから自分が前向きに変えられて行きます。その意味で朝の時間は素晴らしい時間だと感じます。その中で自分のアンテナが磨かれて行って、天が用いることが出来る自分になるように導かれてる感じがします。


護られています
質問者:
 私は今五十いくつやけど、もう後十年しかないと思っています。まだ悟りが見つかってないです。その境地までいけるでしょうか?
ありがとうございます:
 ここに来られてる方は特別に神様から護りに護られてズーっと来てるんです。「世界維新」は「これ新たに」です。置き換えの働きの役目として感謝の行をする、お祈りする菩薩が必要なんです。
 だから、今まで皆さんもありとあらゆる苦労をズーっとさせて貰っています。人並み以上に色々苦労をさせて頂いて、それが大きい磨きになってるんです。苦労の少ない人もたまには居ます。それは背後の神様が全部肩代わりしてくれてるからです。過去生でもう済ませてるから、軽く済ませてお祈りへ導いてくれてるのです。だから必ず神様の大きい助けがスーっと中から涌き出るように出て来て、神様のお手伝いをするようになるんです。これはもう神様の力の方がはるかに大きいです。なんぼ拒絶しても拒絶しても駄目です。今まで拒絶し続けたかも知れないです。それで色々苦労に苦労を重ねてやっと拒絶の心を取って貰ってお祈りに入るはずなんです。
 神様の方では、もう決まってるんです。大きい役割天命を与えて今花開かせようという段階にきてるんです。その時期に来たから「ありがとうございます」に心が絞り込まれて来たんです。後は神様の助けを自然にスット受けて行くだけです。肉体の自分が何かするんじゃないです。神様が降りて働くようになるんです。

質問者:
 五井先生の言葉に「煩悩即菩提」があります。その煩悩をどうやって消すのですか?

ありがとうございます:
 いや、消さなくて良いのです。煩悩をいっぱい持ってるままで良いのです。無限の煩悩を持ったままで神様が降りたら大きい働きをして下さります。悟りの姿の働きを表して下さります。煩悩を持ってるほど良いのです。言い換えたら皆の身代りに煩悩を背負ってるのです。そこへ神様の大きい光が降りたら大きく煩悩を消せます。マイナスを大きく消してプラスを表す働きになるんです。だから煩悩を大きく背負わせて頂くのです、そこへ神様の大きい光が降りるのです。だから大きく消せるのです。ある意味みんなの身代りにみんなの重荷を背負う役目です。特に日本人はそういう役目が根本的に定まっています。世界中の人の重荷を背負って影で大きい働きをするのです。みんなを消しきる働きです。

神渡:
 私は「気付き」だと思います。自分が神の器なんだけど、自分の中にその菩薩様がいらっしゃるという事に気付かない時には、大酒飲んだり奥さんをいじめたり、息子を怒鳴ったりしてる訳です。でも自分の中の神様に気付いた時に人間は変わると思うんです。そして「地湧の菩薩たち」で紹介してるようなキラリと光るような生き方をするようになって行く訳です。私は気付きだと思うんです。
 この「人は何によって輝くのか」という本の中には、私の四国のお遍路の体験と、内観の体験を書いています。きっと参考になると思います。「この男はこういう世界から開けていったんだな」と理解して貰えると思います。この「地湧の菩薩たち」の本は、先程申し上げました中山ミキさんが、「人はみんな御仏の生まれ変わりなんだ」と語って下さった話が載っています。これも参考になると思います。

質問者:
 今日は凄い人数が集まりました。意味がありますか?

ありがとうございます:
 神渡先生の人徳です。

神渡:
 いや、いや。

ありがとうございます:
 本当はお祈りの世界、お祈りの場には、この世の人1人でも、あの世の人がいっぱい付くんです。お祈りの応援に付きます。この前もKの御陵で「神舞」神様の舞いというお清めの舞いを舞って貰ったんです。物凄いあの世のお客さんがいました。Yさんなんかビックリして仕舞ってひっくり返りそうになったんです。もう押し退けられるような感じです。お祈りの世界はもう色んな次元から大勢の方が応援に一緒にお祈りに来られます。今日も物凄いです。


娑婆で祈る
質問者:
 「ありがとうございます」に辿り着いて「これだ」と思ってるんですが、実際に娑婆に出ると、損得とか経済的な事とか煩わしい事が多いです。「ありがとうございます」だけで良いんじゃないかと思うのですが‥‥。
ありがとうございます:
 良いんです。良いんですけど、そういう世の中の思いを消す役目です。消しに行くんです。静かな思いのないところでお祈りをしても、思いは逃げて行きますから消せないです。思いは消されたら困るから逃げ回るんです。だから思いの溜まる場所へ行く必要があります。そこでお祈りをしないと大きく消せないです。ほいでそれぞれ縁のあるところで、思いの多いところで「ありがとうございます」とお祈りさせて貰うのです。思いを大きく消す役目です。それが世界平和の大きい働きなんです。

質問者:
 そこで自分が巻き込まれたらあかんのですか?それを嫌がるのも駄目ですか?

ありがとうございます:
 少々巻き込まれて良いんです。巻き込まれても神様が力をズーっと注いでるんです。それで巻き込まれながら洗濯機をかけているのです。それで全部綺麗にして行ってるんです。そのまま菩薩行をしてるんです。表面煩悩がいっぱいと見えます。でも大きい菩薩行をズーっとしてるんです。思いを消す働きをしています。だから土の中から湧いてるような感じの菩薩行なんです。泥にまみれながら菩薩行をしています。だからそのままで良いんです。大きい働きに使って頂いてます。
 嫌な事があっても喜んだ方が良いのです。ただ、その「嫌」は思いの方です。それを消す為にその場へ置いて貰ってるのです。だから大勢の人の「嫌だ」という逃げる思いを、自分が代表して集めて、そこで消す役目をしてるのです。それでちょっと出てくるのは、「この何万倍消したよ」という感じで確認の意味でちょっと見せて貰ってると思いましょう。何を消されたか分からんかったら困ります。煩悩が出て来て煩悩を消して貰うのです。何万倍か分からないけど、大きく消して貰うのです。だから喜ぶことです。

質問者:
 自分が「ありがとうございます」と唱えれば他人の煩悩とか欲を消す事が出来ますか?

ありがとうございます:
 はい。自分が「ありがとうございます」唱えてる限り、回りからくる思いは全部消えるんです。必ず近寄る前に消えて仕舞うんです。

質問者:
 今、私は派遣の仕事をしています。色んな所にお伺いさせて頂いています。今ご縁を頂いて日本でかなり大きい広告代理店の本社にお伺いさせて頂いてます。そこでも「ありがとうございます」を唱えさせて頂いてますが、特に何も変化を感じる事が出来ません。広告代理店は世の中に与える影響が大きいと思います。そこに携わる人の思いが綺麗になれば世の中が良くなると思います。そんな感じで「ありがとうございます」を唱えています。

ありがとうございます:
 大きい働きをさせて頂いているのです。マイナスの思いを消して、明るいプラスの方向へ向きを変えさせてくれてるんです。そしたら広告がプラスの言葉を使った広告にどんどん変化します。それが大きく世の中を明るくする働きです。最近「ありがとう」という言葉の広告が多いです。どこの企業も使います。不思議です。みんなその影響力でしょう。ご苦労様です。

質問者:
 「あれは嫌だ、この人嫌い」とか、マイナスに思う事は全部自分に責任があるのですか?本当の最終目標は全ての事に感謝が出来て嬉しい有り難いと思う事ですか?

ありがとうございます:
 何でも良いのです。嫌でも何でも良いのです。その場に神様の助けを降ろせば嫌なものが消えて楽しくなります。「ありがとうございます」は、その場をプラスに置き換える働きです。だから低い番組は低い番組なりに幸せをプラスを発見する勉強です。それで最後には無限の無限のチャンネルの1番上の番組を最高に価値あるものとして味わえる自分にまで成長して行くんだと思います。その途中の勉強も大事です。学校の勉強も同じです。いっぺんに大学へ行かないです。下から順番に段階を追って勉強して自分を立派に仕上げて行きます。幸せを感じるというのも同じです。低い番組から順番に幸せを感じる勉強をして行って、最高のところで最高の幸せを感じる自分にまで成長させて貰うのです。
 今与えられたものが、本当に必要な勉強材料です。だから「嫌だ」という気持ちが出た時ほど、それを大きく消す働きをする時期になってると思います。だから逃げる必要もないし、それが良い悪いじゃないしに、その場をプラスに置き換える・プラスに受ける為の場として受けて、「ありがとうございます」と唱えて神様を呼んで助けて貰えば良いだけだと思うんです。嫌な事があったらそれを「ありがとうございます」でプラスに受ける練習です。「ありがとうござます」で全て必ずそうなるのです。全てをプラスに感じ取る、気付く練習が出来るんです。


 ありがとうございますシール(ありがとうございます報告)
質問者:
 二十四人ほどで百姓をしております。大豆の幹に一本ずつ「ありがとうございます」をある人が付け出して「なんやこりゃ」ということで私も興味を持ちました。去年百キロ採れた大豆が二百キロ採れたので効果がある事が実証されました。それで色んな所にありがとうシールを貼ろうと思ったのですが人に「ありがとうございます」を押し付ける事になるような気がします。「ありがとうございます」と唱えてるだけで人は感じてくれると思いますが、ありがとうシールを貼りる事は自己顕示になるのでしょうか?
ありがとうございます:
 これは自己顕示じゃないです。神様を現すだけです。神様がみんな共通してるんです。みんなの命の親です。本当の源になります。神様を称える・出すという事は、みんなの最高の喜びです。神様を褒め称える事は最高の生き方です。自分を出すんじゃなくて、神様を前面に出すとみんな幸せにして頂けます。

質問者:
 自分とこの敷地だけに貼るだけでなく、通行する人にも「ご自由に持って帰って下さい」と言って渡しても良いのですか?

ありがとうございます:
 そうです。それは自由自在で良いです。自分とこだけいっぱい貼っても良いです。そこから全部に光が行きます。自分の好きな様にどんどん貼って頂いたら良いです。それも自然で良いです。

質問者:
 自信を持ってします。


ありがとうございます



ありがとうございますおはなし集で使ったHTML等は菊地さんのサイトで勉強しました。菊地さんありがとうございます

0.1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.
19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.32.33.34.
35.36.37.38.39.40.41.42.43.44.45.46.47.48.49.50.
51
.52.53.54.55.56.57.58.59.60.61.62.63.64.65.66.

以下(いか)のコラムは宗教(しゅうきょう)サイトではありません。古神道(こしんとう)研究(けんきゅう)ノ−トです。
またその内容(ないよう)に責任(せきにん)を保持(ほじ)していません。さらに著作権(ちょさくけん)も行使(こうし)しません。
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