ありがとうございますおはなし集で使ったHTML等は菊地さんのサイトで勉強しました。菊地さんありがとうございます

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以下(いか)のコラムは宗教(しゅうきょう)サイトではありません。古神道(こしんとう)研究(けんきゅう)ノ−トです。
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arigatougozaimasu24人生の金メダルを目指して・・・山下泰裕 2002.04.20.01
註:山下泰裕さんのホームページ 「挑戦」はhttp://www.yamashitayasuhiro.com/
 小学生時代

 今日は私もここへ来るのを楽しみにしてまいりました。今回初めてですけど、私がここで話す時間だけは講師で後は皆さんと同じように一緒に勉強する仲間に入っていきたいと思っています。
 今日のテーマは人生の金メダルを目指してということなんですけど、実は金メダルという言葉があまり好きじゃないんです。ただ一般の人にはイメージとして判りやすいから金メダルと言っていますけど・・本当はどういうテーマがいいのかといったら、やはり生きがいのある人生を目指してとか、やりがいのある人生を目指してとか、人間らしい生き方を求めてとか、私の場合は全て柔道を通してですけど多分そういう方が私の思いとしては正しいかなと思います。

 現在44歳ですけど、主として柔道と関わってきて教育と関わってきて、学生と関わってきていて、そういう中でいろいろ感じたり学んだりしたことを話したいと思います。

 私が柔道を始めたのは小学校4年生なんですけど、一年生に入学した時にもう、6年生並の身体をしていました。身体がでかいだけじゃなくて大変に元気がありました。自分で言うのはなんですが運動神経もよかったです。50メーターまでならクラスで一番早かったし、ボールゲームも得意でしたから運動神経には自信があったんです。ただ元気がありすぎてあり余った元気が悪い方悪い方へと行きまして、小学校の時はかなりの問題児でした。低学年の頃から親が学校に呼び出されたり友達の家から苦情の電話がかかって来たり、周りが嫌がったり困ったりするのを喜んでいたところもあったような気がします。
 中学校が家と同じ地区にあって中学生は我が家の前を通って学校へ行く訳ですけど、小学校に入る前から女の子が家の前を通ると二階から小便をひっかけたり・・、家が食料品店をしていて、お母さんが女の子を連れてくるとわからないうちにふっと寄り添ってスッとスカートをめくって「きゃー!」というのを聞いて喜んで走って逃げたりと、・・山下さんのところには娘を連れて買い物に行けないと・・。今考えると他愛ない・・というと怒られるかもしれないですけどそんなことが度々ありました。

 小学校4年生になったらクラスメイトの中に登校拒否の子が出て来て、よくよく調べたらなんと・・私が怖くて学校へ行けないと。
 後から考えてうちの両親が凄いなと思ったのは中学校へ入るまで、それを私に言わなかったんです。中学校に入ってからそれを聞いて、そんなに迷惑をかけていたのかと・・これが僕の柔道との出会いに繋がっていくんです。

 家が食料品店を経営していて親父もおふくろも朝早くから夜遅くまで働かなきゃいけなくて、これは困ったもんだ、まさかそこまで悪いなんて・・もしかしたら家の息子は将来人から後ろ指を指されるような人間になるかも知れないとまで思ったそうです。たまたま近くに警察を定年退職後、道場を開かれた先生がおられて、その先生の柔道指導はなかなか厳しいということをおふくろが聞いてきて、柔道でもやらせれば少しは人に迷惑をかけなくなるんじゃないかと、そう思って私を連れて行ったのが始まりなんです。

 私の家では私以外柔道をやった人間はいないんですけど両親の心の中には柔道というのは、武道というのは、もっと大きくいうとスポーツと言うのは単に勝ち負けを競ったり体力や技術を磨くだけじゃなく人間を高めてくれるという思いもあったんではないかと思います。でも、小学校4年から柔道を始めても小学校時代は残念ながらあまり私の行いは変りませんでした。遊びの延長としてやっていたんですね。ただ柔道は面白かったです。好きになりました。何故なら、柔道着を着て先生の指示に従って決まりを守っていれば、いくら暴れまわっても誰からも何も言われないです。柔道は私のあり余る闘争心とエネルギーを充分に燃焼させてくれたんです。

 でもこんな話をしてもなかなか人は信用してくれないです。また面白おかしく・・とか、話をオーバーに・・とか言って、今の私の笑顔に騙される方が多いんです。それで誤解される方が多くて、まさかそんなことはないだろうと思われる方が多いんですけど実は、今から18年前84年にロスのオリンピックで優勝したあと生まれ故郷へ帰ってきて、そこで小学校時代の同級生が集まってくれてお祝いの会を開いてくれました。ここで一枚の表彰状をもらったんです。その表彰状にはこう書かれていました。


 表彰状

「表彰状 山下泰裕殿

 あなたは小学生時代その比類稀なる身体を持て余し教室で暴れたり仲間をいじめたりして我々同級生に多大な迷惑をかけました。しかし今回のオリンピックにおいては我々同級生の期待を裏切るまいと不慮の怪我にも拘らず持ち前の闘魂を発揮して見事金メダルに輝かれました。
 このことはあなたの小学生時代の数々の悪行を清算してあり余るだけじゃなく我々同級生の心から誇りとするものであります。
 よってここに表彰し偉大なるやッちゃんに対し最大の敬意をはらうと共に永遠の友情を約束するものであります。」

 ここに書かれているのが小学校時代の私のありのままの姿だったと思うんです。こんな私が柔道を真剣にやり始めて、素晴らしい恩師と出合って柔道そのものの魅力に惹かれて段々だんだん変っていきます。


 国民栄誉賞

 どうも私は普通とは違う・・変っているみたいです。でも自分では間違っていないと思ってます。そのひとつが過去は重要じゃない、過去は大事じゃない、過去なんて全部忘れてしまったって良いんだ。全部忘れてもそれは自分の潜在意識にそれは残っているから、自分が何かの決断をしたり判断をするときにはそこの体験は必ず生きてくる、どんなにこれから頑張っても過去を変えることは出来ないし、それ以上に過去の栄光に浸るのは非常に寂しいことだと、何が一番大事かというと今をひたむきに一生懸命生きていくこと。そしてもうひとつ付け加えるなら、これから未来将来を見据えて生きていくこと、これこそが大事なんだとそう思って来ています。もっともっとレベルの高い人になりますと、未来将来なんて考えなくてもいい、全ては神様からお導きいただけるから目の前に与えられた役割を一生懸命やっていけば自然と人生は開けてくる、目標とかそんなのは必要ないと・・。

 そういう話は頭では判りますけど現実はまだまだズーッと低いですからそういうことは頭で判っても自分の中ではそういうふうに実行していけませんけども、こういうふうに考えて生きています・・過去の栄光の類の品々というものに対して自宅にも研究室にも全く飾ってないし、過去の名声で言われるのは好きじゃないんです。
 だからロスオリンピックの金メダリストの山下選手ですとか国民栄誉賞を受賞した山下さんですとか言われるのは抵抗があるんです。なんと呼ばれたら一番嬉しいかというと、東海大学教授そして今だったら東海大学柔道部監督。いくつになっても今を大事にしていく、これからを大事にしていく現職で生きていきたいなあと・・そういう中でたった一枚飾っている表彰状がこれなんです。

 私の生まれたところはすごい田舎です。ここほど田舎じゃありません。でも私の通っていた小学校の同級生にはこういうところから学校へ4キロ5キロ6キロかけて通ってくる仲間もいました。ですからここへ来ながら思わず、うさぎおいしかのやま こぶなつりし・・と車の中で歌っていたんですけど、なんかこう心和むし自分としては安らげる、今流行でいうと癒しというんですか、そういう癒される場所だなと・・特に清らかな水が嬉しくて今もトイレのついでに川を眺めてきました。
 人々から見ると、いつも笑顔でいつも元気でいつも迷いがなくて自信に満ちて、堂々と人生を生きているようにどうも見えるみたいなんですけど、最近は少し減りましたけど私もやはり・・自分はダメな人間に思えてきたり自己嫌悪に陥ったり元気が湧いてこなかったりとあるんです。


 一枚の大事な油絵

 大学の私の研究室の机・・座ると目の前にこの一番大事にしている表彰状と一枚の大事な油絵・・この油絵というのは大阪に住まわれている両腕のない・・18歳頃に感電して両腕を切断した安達巌さんという方が口に筆をくわえて書かれた油絵なんです。世界身体障害者芸術協会のメンバーで、その絵に描かれているのはこのみたいなちょっと山奥の風景画なんです。自信をなくしたりダメに思えたときにそれを見るとその絵が私にエネルギーをくれる、喝を与えてくれるんです。何だ、そんなことでクヨクヨして・・しっかりせんか!と。

 註:安達巌 の作品は
 http://www.mfpa.co.jp/shoukai/adachi/main01.html

 私もオリンピックという夢を目指して一生懸命一心不乱に頑張ってきて誰よりも努力した誰よりも考えたという自信はあるけれど、両手をなくして18歳で口に筆をくわえて油絵を描くという・・これは私なんかの努力の比じゃないと思うんです。もっと素晴らしいのはそれで得た収入を障害を持った人たちが自立して生きるように絵の具とかそういった用具を買ったり、そういう事を教える為の講習の費用の為に使われているんです・・私が非常に大事にしている油絵です。欲も深いし悩みも多いし、だけどそんな自分を認めて赦して少しでも今日より明日、明日より明後日、半年後一年後に少しでも成長していける自分でありたいなと思っています。


 中学生時代・・白石礼介先生との出会い

 今日ここへ来たのはMさんからお声が掛かったからなんですけど、ここへ来たらまた何か自分が気付きを得て、僅かでも必ず成長できるんじゃないかと、そういう思いで来ました。
 自分の人生を振り返って見ますとやはり、ひじょうに出会いに恵まれていた気がします。ある方の講演をテープで聞きましたけれど、本当に素晴らしい出会いが人を変えるんだと、だから人間として成長していこうと思ったら人と人との出会いを大事にしていかないといけないという、それを聞いた時に本当にその通りだなと自分は素晴らしい方との出会いを通して成長していたなあと、そしてこれからも人との出会いを大事にしていきたいなあと、そんな気持で生きています。
 中学校に入って私が進んだのは熊本市の真ん中にある熊本市立の中学校で、そこの柔道部に入ったんですけど入ってビックリしたのは、ここの柔道部は9年間公式戦で一回も負けたことのない柔道部だったんです。で、私が中学一年から三年まで第一回から第三回の全国中学生柔道大会で三連覇しているんです。私も二年三年の時はメンバーの一人として試合に出ました。名門中の名門の柔道部に入ってひじょうに厳しい激しい稽古に入って打ち込んでいくんですけど ここで白石礼介という素晴らしい恩師と出会いました。12年間負けなかったんですから、もちろん練習は厳しかったんですけど稽古の合間に白石先生が我々に柔道より人間としての大切なことを話してくださった、語りかけてくださったその繰り返しの中で少しずつ自分自身が変っていったような気がします。

 先生がよく言われたのは先ず文武両道です。柔道だけじゃないぞ、勉強も一生懸命頑張らなきゃいかんぞ・・皆はいま柔道チャンピオンを目指して頑張っているけど、柔道チャンピオンになることも素晴らしいけどもっともっと大事なのはそれを活かして社会に出て役に立つ人間になること、社会に出て活躍できる人間になること、柔道のチャンピオンになることより大事なことはそうやって頑張ったことを活かして社会に出て勝利者になることだ、柔道を一生懸命して、みんな頑張れば丈夫な身体、強い心を知ってるだろう、それだけじゃない相手を尊敬する心、思いやる心、力を合わせる心もみんな学べるはずだ。これが人生で必ず生きてくる大事なこと。しかしどんなに一生懸命柔道を頑張ったって勉強を疎かにしたら柔道のチャンピオンにはなれても純粋のチャンピオンにはなれん。文武両道だ、この精神で両方とも頑張れよ。そして社会人としての勝利者を目指せよ・・とよく言われました。
 先生は「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という言葉が好きで我々によく言われました。いいか、みんな強くなりたいと思ったら先ず素直な心を持つことだ。お父さんお母さんの話、先生の話を素直に聞けることが強くなるために先ず一番必要なことなんだぞと・・今だったら判ります。でも普通だったら、いいか強くなりたいと思ったら人一倍努力することだよ、やらされる稽古じゃなくて自分から進んで稽古に打ち込むことだよ、日々の練習の中で課題を持つことだよ、目標を持って頑張ることだよ・・これは判り易いです。
 でも素直な心を持つことだというのは言われた先生もすごいですけど手前味噌ですが何も考えずに、そうなんだと思えた自分にも・・はい、大したもんだなと思えて・・実は先生は中学一年の私を捕まえて、お前が背の届かん相手は世界だ、お前はもっともっと大きいやつと戦わなきゃいかんと言われたんです。
 それで現役を止めて指導者になって私も選手の素質を見抜いたりいい人間を発掘していく為に、先生は自分のどこを見てそう思ったんだろうかと思って聞きました。先生に私のどこを見て素質を感じられたんですかと・・そうしたら先生はこう仰いました。普通の人間はな、泰裕・・大体二つか三つは理解する、五つ六つ理解したら大したもんだよ。でもなぁ、お前は違った。お前は俺が十言ったら俺の言ったことを十二理解した。だから俺は、こいつはただもんじゃないと思ったと言われました。残念ながらその言葉では私の選手スカウトにはあまり役に立ちません。
 でも今考えても面白いですね。それから、こんなことも言われました・・いいか、柔道だけじゃないんだよ、スポーツだけじゃないんだ、これは人生全般に通用するんだ、どんな社会でもどんなジャンルでも分野でも一流本物と言われる方々は、どこまでも素直な気持ちを持っとるぞと、これは実は素直に聞けなかったんです。十年位前までは先生が言われているのは理想論だろうなと思っていました。そうであって欲しい、そうで在りたい、でも現実派違うだろう、一流と言われる人は偉そうにしていて自分より下と思える人を下に見下して・・そうなんじゃないかなと私は思っていました。
 ところが、私のオリンピックチャンピオン・国民栄誉賞・全日本の監督8年間といろいろやっていると普通の人が会えないような人にもいろいろと会えるんですね。で、会って話をしていますと先生が言われていたのは理想論じゃないんですねぇ。もちろん自分自身にひじょうにやっぱり厳しい方ばっかりです、そして仕事に対しては妥協がないです。やっぱり本物というのを維持していくためにはそういう厳しさがないと本物と育っていかないと思います。でも基本的な人間として私が会ってきた方々というのは誰と対応しても誰と話しても人によって態度は変らない、それから誰の話でも素直に聞く、誰からでも何かを吸収しようとしている、そう感じられる方が何人もありました。そういう方とお会いしているうちに、ああ・・あの白石先生が言われたのは理想論じゃなかったんだ真実なんだと私はそう確信するようになってきました。もちろん偉そうにしている方もおられます。でもそういうふうに考えられるようになってからはそういう人をみると、この人は地位は高くても本物じゃないなと思うようになりました。

 そしてもうひとつは今ひじょうに能力主義になっている気がするんですが、能力というのはいろんな能力があると思うんですけど今、世間一般で言う能力というのは本当に限られた人間の能力主義で、私は人間としての尊さというのは、そういった能力の高さで測れるものじゃない、その尊さはやはり人間性なんじゃないかと、ですから自分自身の生き方として人には言えませんけど能力主義に批判的で、できれば人格主義・・もしその人のレベルを計るとしたら人間性の高さで計るべきなんじゃないか、そして人間性の高い人になればなるほど決して人を見下げたりすることはないだろう、もっともっとそういう面を大事にしていく必要があるんじゃないかと、そう思います。そして能力が高ければ高いほどその人の人間性が低いと悪い方向に行きます。それは大きなマイナスになって多くの人に迷惑をかけますね。人間性が高ければ人間がしっかりしていれば例え今世間一般で計る能力が低くてもその人は人に迷惑をかけることはまずない、少なくとも人々にとってプラスになることしかしない。ですから僕は能力主義というならもっともっと多様な能力を見ていかないといけないし、そしてそんなもので人のレベルを見つけられるものじゃない、人間性というもの人間らしさ・・先ほどの先生の話の中で、神と通じるということ・・ なかなかそういう心は持てませんけどそういう方向を目指して頑張っていくということが大事なんじゃないかなと考えています。

  白石先生は我々に言われました。一生懸命稽古に励んでいるとねぇ、自分の強さを示したくなるんだよ試したくなるんだよ・・でも、これがいかんのだ。強さを示す場所はこの道場の中で充分だ 、ここで存分にそれを発揮しろ。しかし道場を離れたら決して自分の強さを示すような人間になっちゃいかんぞ。よく見てみろ、柔道界だって高校生・大学生・社会人、ちょっと強いとうぬぼれている人間の中には、俺は強いんだといわんばかりに肩をいからせて偉そうに歩いてる人がいるだろう、いいか、決して皆にはそういう真似はして欲しくない。彼らは柔道人として一流でもなければ一流半でもない、二流三流だ。能ある鷹は爪を隠すじゃないけど本当に強い人は決して自分の武器を示さない。そして人間というのは強くなればなるほど優しさが漂ってくるものだ。優しくなれるものだ。こんな話をされました。
 私もある時期、世界で一番強かったんで・・トラや熊、こういったものにはかないませんけど、こと人間であれば世界中どんな人がかかってきても柔道だったら私の相手になる人はいなかった。ですけど私は柔道の強さと人間の強さとは違うということは判っています。もう、やめて17年・・本当に別人というか日に日に弱くなって今はもう昔の見る影もないほど柔道は弱くなっています。でもこれからまだまだ人間的には強くなれるんじゃないかな、もっともっと強くなれるんじゃないかなと、それ以上に優しさの漂うような優しさの満ち溢れるような人間になりたいなとそんな気持で生きています。白石先生は我々に柔道の「道」・・人間としての生き方、あり方を繰り返し繰り返し話してくれました。もし、白石先生が試合で勝つことだけに価値を認められてそれだけを大事にしていたら多分、そういう教育的な話や柔道を通した人間形成という話をされなかったと思うんです。私だって強くなりたかった、柔道が強くなりたかった・・そして強くなるためには白石先生の教えを素直に聞くことが先ず一番の秘訣だとそう信じた、そこで教育的な話が繰り返されてそれが頭のてっぺんからから身体に染み渡るように入っていった。やっぱり白石先生との出会いというのは大きかったなあとそんな気がします。


 高校時代・・佐藤宣践先生から指導

 高校二年生の時に熊本を離れました。熊本から神奈川の高校へ転校したんですけど、それからもう一人の恩師 佐藤宣践先生に指導していただきました。先生の家に住まわしてもらって先生の教えももちろんですけど先生の生き方も、同じ家に住んでますから先生の後姿を通していろんなことを教わったような気がします。白石先生、佐藤先生みたいな生き方に憧れて私も教員になりたい、柔道指導者になりたいという思いが強くなっていきまして、自然な流れの中で東海大学とその大学院を終った後、大学の教諭になりました。大学の教諭になって授業を教えながらまだまだ世界を目指して行ったんですけど、現役のころは柔道部に関しては自分の後姿で教えるということが中心でした。


 現役引退後の学生指導

 現役を辞めた後いよいよ学生の指導に真剣になって取り組んで行きました。現役時代にそれなりの成果を上げていましたので自信はありました。でも、これがなかなか思うように行かなかったんです。私は白石先生や佐藤先生が私を変えてくれたと思っていました。そこまではいいんですけど、だから私が学生を変えられると、とんでもない勘違いをしていたんです。ですから情熱を持って一生懸命学生にぶつかっていくんですが、こっちがぶつかればぶつかる程それに応える人間もいれば反対方向を向くのもいるんです。こちらの思いがなかなか伝わらないこともある・・自信に満ち満ちて人に取り組んでいたんですけど、段々だんだん自信がなくなってきました。迷いが出てきました。そしてその中で、果たして俺が人を変えられるのかなとそんな思いになりました。自分なりにいろいろ考えてみると、これはとても難しいことなんじゃないかと思えました。
 じゃあ、白石先生、佐藤先生が俺を変えてくれたと思ったあれは何だったのかと、今度はそういう思いにぶち当たりました。そして自分なりに考えていく中でハッと思い付いたのが、同じような教えを受けながら自分をいい方に変えれなかった人間も周りにいたということで・・ちょっと待てよ、これは先生が俺らを変えたのではないんじゃないかと、先生は我々が気付くように素晴らしいヒントを絶妙なタイミングで繰り返し繰り返し我々に送られた、それにハッと気が付いて心を揺り動かされて決意したから自分が変っていけたんじゃないかなと、そう思えたら少し楽になりました。
 俺がやるべきことは学生を変えることじゃない、学生が自ら望んだ方向に進んでいくことが出来るように彼らの心に届くようなアドバイスを出来るだけいいタイミングで送ることなんじゃないかなと、そう思い始めてから変な力みも消えて少しづつ、上から与えるような形じゃなくて相手の立場を考えながら・・もちろん急に変る訳じゃなく少しずつ少しずつそういうふうになっていったような気がします。今思います・・人が人を変えることは容易じゃない・・出来なくはないかもしれないけど簡単じゃない。でも自分で自分を変えることはいくらでも可能じゃないか、それはハッと気が付いて心揺り動かされてそして決意すればいくらでも自分自身を自ら変えていくことはいくらでも可能であると、そう思っています。

 ここでたくさんの気付きを我々は得ることが出来ると思うんですけど、それもありがとうございますさんが変えるんじゃないのかもしれない。心に響くヒントを送られてそこに我々は気付いたり感動したりするんですけど、そして自ら決意した人が変えていけるのかなあと・・それが正しいのかどうかわかりませんけども私はそう思ってます。多くのことに気が付いて心揺り動かされて決心した人が自ら自分の望んだ方向へいけると私は思っていますけど、じゃあどうしたら気付くんだろうかと・・私が今思っているのは人と接したり、与えられた役割を果たしていく中で人と接していく時に感謝の心、謙虚な心、素直な心で接して行く時に役割を果たしていく時に多くの気付きを得るのじゃないかなと思っています。
 そういうふうに思うようになって自分自身を振り返って見ましたら、私にも大きな気付きが・・いつもあったんですね。

 学生から気付から気付かされた話ですが、いまから十年位前に前任の監督の時に、柔道部の4年生に一人問題児がおりました。ひじょうにやる気がないんです、それにきまりを破るんです。悪い方へ悪い方へと進んで楽な方へ楽なほうへと仲間や後輩を引っ張っているように私には見受けられました。ひじょうに目障りな迷惑な学生でした。今よりももっともっとレベルの低かった私です。口にこそ出しませんでしたが、お前なんか必要ないよ、辞めてくれた方がありがたいよ、そんなに決まりを破るんだったらうちの柔道部にいる必要ないじゃないかとそんな思いでいつも接していました。口で言わなくても思いは通じますから相手の学生はいつも私を避けるようにしていました。

 ある時私の所に一本の電話が掛かってくるんです。白血病のお子さんを持つ岡山の方からで、神奈川県にあります東海大学付属病院は白血病、血液難病の治療にひじょうに成果を上げているんですが、ここでお子さんの治療をしてもらえるというのでお子さんとご両親と喜んでいかれたそうです。担当医の話を聞くとその治療を進めていくためには多くの血液を必要とするので先ず血液の確保をしてくださいということで親子三人で市内の中学校・高校・市役所を回って何とか輸血の協力をと頼んだのですが、どこからもいい返事が来なかった。
 がっくりと肩を落としている時にハッと浮かんだのが私のことだったそうです。そうだ、東海大といえば柔道の山下さんがおられる。山下さんのところにはいっぱい学生さんがおられるんじゃないかなと、山下さんだったら我々の願いをかなえてくれるかもしれないと藁をもすがるように気持で電話してこられました。
 担当の先生と話してみたらそのこの血液型はA型でよりタイプの似た血液が欲しいと、緊急の場合には24時間以内に最低一人、出来れば二人駆けつける体制をとってほしいと・・限られた学生に多大な負担をかけるようなことは出来ませんから、剣道部、サッカー部に声をかけて三つの運動部で協力体制をしいて血液のタイプのよく似た学生が約20名選ばれました。その中にそのとんでもない問題児がいた訳です。
 最終的にはお父さんの骨髄が合って元気に退院していかれました。私が見舞いに行った時、お子さんは当時小学校三年生くらいでしたか集中治療室に入って頭髪もあまりなくて、ああ・・ダメなんじゃないかとその時私は思いました。でも退院が決まってお母さんがお礼を言いに来ました。
 涙を流しながらお礼の言葉を言われたんですがそこで私が知ったのは、とんでもないと思っていたその問題児が度々お見舞いに行っているんですね・・バスと電車を乗り継いで約一時間かかるんです。4年生で教育実習に行ったり定期試験があって見舞いにいけない時には激励の励ましの手紙を書いているんですね・・。
 練習の最初にみんな集まれと声をかけて、皆の協力で○○君の退院が決まった、みんな本当にありがとう・・特に4年生の□□がこんなこんな素晴らしい事をした、ちょっと前に出て来いよと前に出さして皆で拍手して、私はその問題児の手を両手で握り締めて、お前がやったことは素晴らしいことだよ・・この気持ちをこれからも大事にしていけよと話をしたんですけども、後々考えてみますと多分その学生にとっては大学に入って柔道部監督から初めて認められた初めて褒められた瞬間ではなかったかと・・その子は兵庫県の出身で中量級の県ナンバーワンで多分日本一強い高校の柔道部に入って一生懸命稽古に打ち込んで東海大柔道部のレギュラーとして試合に出たいと思ってきたと思います。もしかしたら難しいけども出来たら日の丸を胸につけて国際舞台で試合を出来る選手になりたいと思っていたかもしれません。レベルの高いうちの柔道部に入って、でも一年の時は頑張れるんですね一年生は一番下ですから、でも二年生に上がって優秀な一年生が入ってくると入ってきた時点で一年生の半分くらいが自分より上なんです。そうなるとこれはどんなに一生懸命頑張ったって、それを発表する試合という場は自分には与えられないんじゃないかと思うことがあるんですね。やっぱり現実が見えるんですね。そう思った時に頑張ろうという気持が目標がなくなって弱くなる・・そういう元気のないのを見てどうしたのかと声を掛けたり気遣うならいいけども、お前やる気あるのか?ないなら来なくていいぞ、そんなのは出て行けということを言いますと傷つきますよね。更にやる気がなくなって、また厳しい言葉を言うそういう悪循環だったかもしれない。
 もしかすると自分の置かれた状況と白血病と戦うお子さんの姿とが重なって見えたかもしれない・・だから、病気に負けるな、頑張れよという思いが人一倍強かったのかもしれません。初めて褒めて認めて・・それから彼は練習を頑張るようになるんです。その頑張る姿がまたすごいんです。稽古を終わって、おい、よく頑張ってるな・・4年生が頑張ると違うんだよ。4年生がそうやって頑張ると全体の雰囲気がよくなるんだよ、結果がすぐ出るということはないけど今の気持ちを大事にして頑張れよと、褒められるから更に頑張る。それまでと回転が逆になるんですね。私は彼からもの凄く貴重なことを学びました。

 私は彼をある一面だけから見て決め付けていたんです。少なくとも教育に携わる人間というのは人を一面から見て評価してはいかんと、決め付けてはいけないと彼からそれを学びました。教育に携わるものは人を評価する時にできるだけその人を全体的に多面的に見ていかないといけないと彼を通してそのことを学びました。そしてもうひとつ褒めること認めることの大切さも彼を通して実感として知りました。それまでいろんな人の本を読んだりいろんな人の話で褒めることの大切さを聞いてはいたんですけども頭で理解していただけで自分の行動には出ていなかったんですね。

 教育というのは英語で言うとエデュケーションです。動詞のエデュケートは引き出すという意味があるそうです。これはその人の持っているいいものを引き出してやるその人の持っている可能性を引き出してやる、私はそういう意味じゃないかなと思います。私たち人間は誰一人、ひとりでは生きていけませんから社会で生きていくための基本的な部分というのは、しつけの部分というのは型に嵌めてでも教えなければいけない、それを学ばなかった人は後々不幸になると思います。しかし、基本は悪いところを直すんじゃない、その人の持っているいいところ、得意なところを見てそこにに光を当ててやる・・そうするとその人がその人らしく輝いていくんじゃないかな・・今の教育は人の足りないところ子供の足りないところばかり見て足りないところばかりを直そうとする、しかしもっともっと多面的な多様な子供の素晴らしさを認めて、その可能性の芽を伸ばしてやるのが本来の教育なんじゃないかと私はそう思っています。
 我々は人間である以上誰しも素晴らしいところがある。必ず誰にでもあると思います。そして人間である以上我々には誰にでも足りないところがある、苦手なところが不得手なところが弱点があると思います。そういうもののない全ての面で優れている方がおられるとしたらそういう方こそ我々が手を合わせるような生き仏であり生き神様じゃないかなと思います。

 最近世の中は競争競争で他人を蹴落としてでも自分が上に上がって、レベルの高い学校へ行って、いい成績を取っていい企業にいって、出世していけば幸せになれるというそういう価値観に満ち溢れているような気がします。自分が良ければいい、自分の家族が良ければ、自分の組織が良ければいい、或いは自分の国だけ良ければいい、人間だけ良ければいい、そういうふうな思いになってきている気がするんです。このまま行けばあと何百年我々の子供達が地球上で生きていられるのか?
 多くの人が今の価値観、生き方に「これでいいのか?」と思い始めておられると思うんですけど、たぶんここにいる人は皆そういう事を思われてきたと思うんですけど、競争も必要かもしれないけどやはり、相手を認めたり多様性を認めたりという寛容の気持ちが大事で、それ以上に相手を思いやって助け合って生きるという気持が大事じゃないかと・・利己も大事だけど他人を利することも大事じゃないか、そういう思いに溢れた世の中に是非なっていかなければいけないんじゃないか、そうでないと人類に未来はないんじゃないかと・・・そして我々に出来ることは人類の話じゃなくて、自分自身がそういう人間になっていくことなんじゃないかなと、そういう人間に少しでもなりたい近付きたいという思いで生きております。


 ロスのオリンピック

 今までの私の人生を振り返ってみて一番華やかだったのは、ロスのオリンピックです。中学校の時に「将来の夢」という題の作文を書かされまして、その中でこんなことを・・僕は柔道が大好きだ。一生懸命稽古に励んで柔道の強い高校、強い大学へ行きたい。そして僕が夢見るのは将来オリンピックに出場する、オリンピックに出場してメインポールの日の丸を仰ぎ見ながら君が代を聞けたら最高だろうなと思う。そして現役の終わったあと柔道の素晴らしさを世界の人々に広げれるようなそんな仕事がしたい・・・こう、作文に書いていました。
 私の夢は実現しました。実現しただけじゃないです、今もその夢の中を歩んでいるんです。夢の実現をしただけでも、もの凄く恵まれているのに更にその夢の続きを歩んでいる・・なんて幸せなのかなと思います。ひじょうに不思議だな面白いなと思うのは、あのオリンピックの途中で軸足のふくらはぎを怪我したんです。あんな大事な日に怪我をするというのは選手失格なんです。本当に情けない恥かしい話なんです。でも足を引きずりながら顔面蒼白で、悲壮感に溢れて闘って苦しんで苦しんで苦しんで勝ったから、いつまでも人々の心に残っているんですね。私が柔道をやっていた頃 生まれていない中学生・高校生までが「あ、山下さんだ」とか言うんです。あれが足を怪我してなかったら、すんなり勝って・・ああ、よかったよかった、やっぱり山下強かったな・・で、一年経ったら誰も覚えていないと思うんですがもう、十八年ですからねぇ、不思議だなと思います。
 夢の実現・・私の夢は金メダルをとることじゃなくてメインポールに日の丸を仰ぎ見ながら君が代を聞くことでした。一番高いところに上った日の丸を見ながら君が代を歌った時、私が思ったのは「ああ・・俺は世界で一番幸せな男なんじゃないかな・・」
 もちろん私も一生懸命頑張りました。これに全てをかけて全力を傾けてやってきた、そして一生懸命自分なりに考えて工夫してやってきた、素晴らしい先生にも恵まれた、でも柔道は一人でできるものじゃないんですね。走ったり重いものを持ち上げたりという事もしましたが強くなるためには強くなるためには稽古相手が必要です、素晴らしい稽古仲間にも恵まれた。そして多くの人に支えてもらった、それが一つになって私の金メダルになったんじゃないかなと思います。

 今から5,6年前、宇宙飛行士の向井千秋さんが自分の母校に帰られて高校生を前にして話されたそのまとめを読んだことがあります。そこで向井さんはこんなことを言っていました。いろんな人から私は、どうして宇宙に行けたのか宇宙飛行士になった理由は何かと聞かれます。それにはいろんな理由がありますが、その中でひとつだけあげるとしたら私は迷わず次のことをあげたい。私は高校時代に宇宙飛行士になりたいという夢を持った、そしてその夢をずっと持ち続けてきた。これこそが私が宇宙飛行士になれた一番大きな理由じゃないかと・・これを読んだ時に、相通ずるところがあるなあと思いました。
 そういうふうにして今の若者を見るとひじょうに心配になります。今の若者には夢がないですね。夢やロマンを語れる持っている若者が少ない。ボランティアとか奉仕とかに目覚めて我々が考えられないくらい素晴らしい行動をしている若者もいます。でもまだまだ大半はそうじゃない。自分のことしか見えない、目先のことしか見えない、どこで誰かが転んでも、おじいちゃんおばあちゃんが転んでいるのを見ても何も思わない、そういう人が増えてきているように思います。それから、楽しければいいという・・楽しいのは大賛成です、でも楽しいというのは今の楽しさだけじゃないです。5年後、10年後、20年後も楽しくないといけないですよね、今だけ楽しくてだんだん苦しくなっていくんじゃ意味がないです。そして楽がいいという・・私は楽がいいというのはどうなのかなと・・楽は決して幸せじゃないような気がします。生きがいとかやりがいとか充実感とか自分が何かの役に立てているというのが我々にとっては大きな力になっていくんじゃないかなと、そう意味で見ると今の若者はやはり心配ですがある面ではそれも仕方ないのかなとも思います。
 なぜなら大人の中に人生に疲れた大人が多いです、夢やロマンを抱いてそれを語れる人がすくないです。朝や帰りのラッシュなどを見ていると本当の疲れきって苦虫を噛み潰したような感じで、うきうきしているような大人はいない、少ないですね。だから先ず我々が変っていかなければいけないんじゃないか、私はできればいくつになっても過去を振り返らないで今を大事にして未来や将来を見据えて、そして夢をいつも語る人間でいたいなとそう思っています。


 教育者として生きる

 44歳・・俺の人生はこれからが本番だと、今までの44年間は本番に向けての助走に過ぎないという気持で生きたいと思っています。一昨年、総理諮問の教育改革国民会議のメンバーとして参画しました。その後は文部科学省の中央教育審議会のメンバーとしてやっています。
 以前から文部省の新機関に入っているんですけど、私がひじょうに抵抗を感じる言葉に「今の若者は、今の子供達は・・」という言葉で、そうかなぁと・・今の子供たちのあり方というのは今の世の中の在りようであって今の世の中の価値観が低いから子供達がそう育ったのであってそれは我々一人ひとりが作ったんじゃないかなと、子供の問題でもない世の中の問題でもないやはり自分の問題として捉えていくことが大事なんじゃないかと思います。だからこの教育の問題というのは我々大人一人ひとりの問題なんだということを多くの人々に知ってもらうことが先ず大事なんじゃないかと、学校だけの問題じゃない、家庭だけの問題じゃない、学校も大事だし家庭も大事、しかしやはり我々大人の一人ひとりが自分の真心自分の良心に恥じない行動をしていくことによって世の中が変っていくそして子供が変っていくんじゃないかなと。
 子供が悪いから間違っているからと一生懸命子供を磨く前に・・ある人に言われましたが「子供を磨いているというのは鏡を磨いてる様なものだ、自分の醜い姿を自分の汚れを、鏡を磨いたって変りはしない。子供が悪い時には鏡じゃなくて自分自身を磨かなくちゃいけない」と。そう意味でいってもやはり我々大人の一人ひとりが自分の心の手を当てて自分の良心に恥じない行動をして行く事が先ず第一歩じゃないかなと思います。

 私は大学の教授をしています、たぶん私が一般の企業に勤めていてこういう考え方をしていたらもの凄く悩んでもの凄く苦しんだか、こういう考えにはならなかったんじゃないかと思うんです。でも教育の世界というのはこういう考えで生きていけるんです或いはこういう考えをもっていかなきゃいけないんじゃないかと思います。ですからいろんな支えがあっても、私にとっては教育者というのは天職であってこれを大事にしたいと、やはり先ず自分を磨きながら学生達子供達と一緒に成長していきたい。そして教育を通して自分の指導を通して学生達から学んでいきたいという思いで生きています。


 全日本の監督

 一昨年シドニーオリンピックが終わるまで8年間、全日本の監督をやっていましたけれどもその頃は全日本の監督が終わったら現場の勝った負けたの世界での指導者としての仕事はもう終わりだと思っていました。自分には違った役割が来るだろうと思っていました。当時は責任が大きいものですからいろんな勉強会にも出たりいろんな本を読んだりもしていました。もっともっとこんな勉強では足りない、全日本の監督を辞めたらこんな勉強もしたいといっぱい終わったらしようと思って楽しみに書いていました。その中には5日間くらいの断食もしてみたいとか座禅を組みに行ってみたいとか内観もやってみたいとか・・いろんなことを思っていました。
 もう一回大学の監督になれと・・私が監督を辞めて全日本で頑張っている間に東海大柔道部が弱くなっていたんですね・・言われた時にはビックリしましたけど、楽天的な人間なので自分に起きることというのは全部必要があって起きているんだと思い、一体何の必要があったんだろうかと・・まだまだ柔道着を着て学生達と汗水流す中で学ばなければいけないことがいっぱいあってまだまだ学び足りていない、次の仕事へ行く前にここでお前はまだまだいっぱい気付きを得られるはずだ・・そういう事でもう一回そういう事が回ってきたんじゃないかと、それからはいろんな勉強も大事だけれど現場で学生と接しながら学んでいくことが大事なんじゃないか、本を読んだりいろんな勉強会へ行くことは私にとっては、木でいうと上に伸びていったり横に広がっていったりそういう部分だったんじゃないかと・・。
 あと何年大学の監督をやるかわかりませんけど今の私というのはそういう上や横に広がっていくんじゃなくてもう一回自分自身を作ってくれた柔道の原点で自分の根っこをもう一回しっかりと生やしていく時代なのかなと勝手にそういうふうに解釈して今、学生の指導に取り組んでいます。ひじょうに欲張りな人間で人生を6,7回くらい生きたいと思っています。現役を退めた時に私は第一の人生が終わったと思いました。第二の人生は柔道の指導者としての人生で私は・・もう俺の人生は一回終わったんだ、またゼロからのスタートなんだと今度の第二の人生では柔道の指導者として頑張っていきたい、出来れば自分の手で世界に通用する選手を育ててみたい、出来れば柔道王国日本復活の為に微力を尽くせる人間になりたいそういう思いで指導者としての道を歩み初めました。もう選手時代のようなあんな華やかなことはないだろう、しかし少なくとも選手時代の自分に負けない頑張りと熱意と創意工夫で生きていきたいと思いました。
 第二の人生でも、もの凄く恵まれていました。素晴らしい可能性を持った高校生が東海大学柔道部の門を叩いてくれました。素晴らしい可能性を持った子供達を教えていた先生が東海大学を進めてくれました。私の教え子から4人の世界チャンピオンと2人のオリンピックチャンピオンが生まれました。
 92年のバルセロナオリンピックが終わったあと全日本柔道連盟の方から、よかったら次のアトランタまで4年間全日本柔道の男子監督として日本チームを率いてくれないかという大変ありがたい言葉を頂いて喜んでこれを引き受けました。自分なりにアトランタまでの4年間せいいっぱい頑張ってきたんですけどアトランタオリンピックの半年くらい前から、これが終わったら全日本の監督を辞めようと思い始めていました。いくつか理由がありましたがひとつは全日本の監督になっても東海大の監督を辞めさせてくれなかったんです。
 大学の監督と全日本の監督を両方やるのはもの凄い矛盾なんです。なかなか肉体的にも精神的にも辛いんです。肉体的には大学の授業を教えながらですから時間的にも余裕がないしひじょうにしんどいです。精神的には東海大柔道部の学生やOBに強い連中がいっぱいいます、ナショナルチームの日本代表候補選手にとって東海大以外の者から見ると、自分のライバルの選手の後ろに私の顔が見えるんです。
 だからこちらがどんなに心を開いても彼らは本当に私には心を開けないんです。全日本の監督でもあるけど自分の一番負けられない選手の監督でもあるわけです。これを辞めさせてくれませんでした。それからそういう非常に忙しい日々の中で自分でも今考えるとおかしいんですけど・・もしかすると過労なのかとも思いましたが、NHKで過労死の番組をやってそういう漫画本も出たんです。
 過労死には三つの要素があり、ひとつはもの凄く忙しく自由な時間が全くないこと二つ目はその自分の苦しい胸のうちを相談する仲間がいない三つ目にはその忙しさが全て上から押さえつけられた命令された自分で判断できない仕事の忙しさであること、この三つが重なるとひじょうに危ないそうです。私にはいっぱい相談できる私の愚痴を聞いてくれる仲間がいますし、やっていることは私が一番やりたいことです。これはもう心配ないなと思いました。

 私は子供が三人いるんです、二番目の子供が多少自閉的な傾向があるんです。生まれて1,2ヶ月からちょっと違っていて、今は中学校一年ですが今も普通の中学校に籍だけ置いてフリースクールへ行っているんです。小学校の間は普通のクラスに入っていたんです。皆クラスメイトがひじょうに大事にしてくれてダイスケと言うんですが「ダイスケ君がいるからクラスが和んで本当にいい雰囲気だ」といわれたんですけど中学校に入ると、一般的な言い方をすると子供達の心にゆとりがなくなってきて子供達のたくさんストレスがたまってくるんですね、小学校の時にはそういう子供を見て手を貸してあげたりしてやれた子供達がストレスがたまってきて、そのはけ口としてそういう子供をいじめ出すというケースが多いということをうちの中学校でも、長男が二つ違いで上にいましてそういうケースを見ていたものですから、伸び伸びするところに行くのがいいだろうと思ってやったんですけど、ちょうど私が全日本のアトランタまでの監督をやった時にそのダイスケのことで女房がもの凄く苦しみ悩みました。だけど私は何にもしませんでした、何もできませんでした。俺にどうしろって言うんだ、俺に何ができるんだという感じで、本当にダイスケにも女房にも申し訳なかったんですけど、そういう中でもう充分じゃないかと思えた・・もうひとつはベテランと若手の世代交代がうまく進んでいなくて怪我人も多くて、オリンピックでも充分な成績を上げられる可能性が低かったので、もう潮時だなと思っていました。
 最近は会ってませんけど前は一年に1,2回お会いする柔道と全く関係ない方との話の中で、ちょうどオリンピックの3ヶ月くらい前ですが、オリンピックが終わったら全日本の監督を辞めようと思っていますと話しましたら、「君は我儘だなあ、自分のことしか考えていないな」とエライ怒られました。人間ができてないものですからムッときて「それはどういうことですか?」と聞いたら「俺は柔道のことは知らんけど君は選手には一生懸命教えてきたかもしれない、しかし後継者が育ってないよ。いいか、責任ある立場にいる人間がその職を退く時は自分がやめても自分がやっていた時と同じかそれ以上にうまく行くだけの環境を整えて初めてやめれる。今君がやめたら日本の柔道界は混乱する。君は次の若い指導者をまだ育てていないと俺は思う。君は自分のことしか考えていない」と言われました。更にムッときましたので喧嘩を売るように「じゃあ、次のアトランタで惨敗したらどうしたらいいんですか?」と聞きました。厳しい答えが返ってきました。「惨敗してクビになったら辞めにゃいかんだろう。クビにならんかったら針のむしろに座るんだ。そして半年でも一年でも二年でも死に物狂いになって次の指導者を育てて、その時点でアトランタの責任を取らせてもらいますと辞めさせて貰う、これが男の責任の取り方だ」と・・ひと言もありませんでした。
 結果は思ったほど悪くありませんでした。大学も「大変だったな、もう大学の監督は代わっていいよ」といってくれました。また終わったら戻れと言われましたが、かみさんにも相談しましたら「じゃあ、もう一回やったらどう・・」と言われて、全柔連からもあと一期是非やってくれと言われシドニーオリンピックまで全日本の監督を務めました。そういう経緯があったものですからシドニーオリンピックまでの監督を引き受ける時もシドニーオリンピックをもって全日本の監督は辞めるとはっきり言いました。そうしたら連盟の偉い方が「何言ってんだよ、かたちは4年間でも君にはズーッとやってもらわにゃいかん。君以外誰が考えられるか?そんなとんでもない」
 それ以降2年間くらいいろんな会があるたびに私はこのことを念を押していました。2000年のシドニーを目指している時に私の心の中でひとつ思ったのはどんなにたくさん金メダルをとっても終わって辞表を出した時に「何言ってんだ、お前しかいないじゃないか誰がやるんだ?」と、もし言われたら私のこの4年間は失格だなと、選手だけじゃなくて辞めた後もっともっとスムーズに行くように・・そういう事を心がけながら若い指導者の育成も考えてやってきたつもりです。

 シドニーオリンピックが終わって辞任の挨拶に行きました。一言か二言くらいは止められるかなと思ったら「いやーよく頑張ってくれた、ご苦労さん、ありがとう」と、ひと言も引き止める言葉はありませんでした。そして新しい監督、かつてのライバル 斎藤仁 新監督が今アテネオリンピックを目指して頑張っています。そのもとには若くて優秀で情熱溢れる、国際性を持ったコーチが力をあわせております。斎藤監督はロスとソウルと二回オリンピックで勝っているんですけど選手としても指導者としてもひじょうに苦労した人なんです。それだけにその苦労が今いろんな意味で今の指導の中で生きているなあと思います。自分の考えをガンガン出すんじゃなくて、いかにみんなの持っているものを引き出していくか皆をまとめていくか、そのことにひじょうに心を配っているなと思っています。アテネオリンピックは日本柔道にとってひじょうに厳しい戦いになることは間違いないんですけど斎藤監督のもと日本の選手は存分に思いっきりやってきたことを発揮してくれると私はそう思っています。


 シドニーオリンピック

 少しシドニーオリンピックの話をしたいと思いますけど、男子7階級で我々は金メダル3個全員メダルという目標を掲げました。これは決して低いハードルではありませんでした。かなり高いハードルと思っていましたが結果は金メダル3個、銀メダル1個、3人がメダルを取れませんでした。
 その銀メダルは篠原なんですが、私も試合が終わってから本部席に抗議しに行ったりしました。我々にとってはとても納得の出来るものではありませんでした。いろんな国からも日本に対して同情の手紙が来ましたし、アメリカの柔道連盟の理事の方は国際柔道連盟の会長に・・あれはどう見ても間違っている、国際柔道連盟は勇気を持ってもう一個の金メダルを作って金メダリストを二人にしたらどうですか・・ということを提案してくれました。
 フランスの連中も心の中では思っています。2月にフランスへ行きましたがドゥーイエはフランスではすごいスターです。篠原との試合は本当はどうだったのかと聞かれて、ああ・・やっぱりそうか、と彼らも判っているんですけど結果はドゥーイエが一番で篠原が二番でした。
 篠原はあの試合が終わったあとの記者会見で、「僕が弱いから負けたんです審判に不満はありません」と言ったんです。私の推測ですが・・彼は「あれは俺の技だろう、あれを見て欲しかった」と思ったと。普通ならあれ一本で終わりなんですが、たとえあれが相手の有効になったとしても残り時間があと3分半あった。
「もし俺に本当の力があったらその残った3分半で逆転できるはずだ。負けたのはそれが出来なかった俺に本当の力がなかったからだ。審判にもあの技を見て欲しかったけど審判が間違えるような試合をした俺にも責任がある」と。
 これがもし欧米の選手だったらどうでしょうか・・記者会見でも自分のところで撮ったビデオを使いますから、あれがいかに自分の技であるか自分こそが真のオリンピックチャンピオンであるか国際柔道連盟がいかに大きな間違いをしたのか涙を流しながら手振り身振りを使って世界に世紀の誤審として訴えたと思うんです・・彼はそれをしなかった。
 何故勝てなかったか? 彼は他人に外的な要因に原因を求める前に、自分の内側に省みたんですね。昔の、江戸時代までの日本人は貧乏を恥かしいと思わなかったそうです。何より人間としての名誉を大事にした、潔さ、清らかさを大事にした。そして神仏を信じ、よろずの神を信じ先祖を大事にしてお互いに助け合いながら自然と調和しながら生きていた・・どうも明治時代以降日本人は、このままでは日本も間違いなく植民地にされる、国を富まして強くして外国に侵略される日本であってはいかんと、そして逆に日本もだんだんと欧米の価値観に浸っていった、我々の心も考え方も欧米的になっていった・・和を大事にするよりも自分を主張する、自分を省みるよりも自分の正当性を主張する、そんな我々になってしまったんじゃないかなという気がします。
 ですから私には篠原のメダルがどう見ても銀に見えないんです。金にも見えない・・私にはプラチナに見えて仕方ないんです。私の教え子の井上康生もシドニーで素晴らしい試合で優勝しましたが彼があとで私に話しました「先生実はあの試合の後、我々は明日篠原先輩に会ったらどんな顔したらいいのか・・なんて声を掛けたらと皆で心配してたんです。ところが次の日になったら、先輩は自分から起きてきて普段と変わらない姿で馬鹿を言って笑わせて、たぶん我々の顔はこわばっていたと思うんですけど・・それでそれまでと同じ雰囲気になったんですよ。篠原先輩の人間としてのスケールの大きさ偉大さをすごく感じました」
 あのテレビの解説者も全日本のスタッフでした。ひじょうにいい男なんですが足りないところがありまして、かなり感情的になって「ドゥーイエは卑怯な人間だ、フランス人は卑劣だ・・」とフランス人が聞くに耐えないような感情的な発言をしていたんですけど、このドゥーイエも素晴らしい男なんですよ。アトランタで金メダルをとったあと腰を痛めていて、98年に来日した時に柔道連盟に挨拶に来ました。私は腰を痛めて練習をしていないのを知っていたのでこれからどうするのかと聞きましたら彼は「まだ腰の調子が悪いから現役はやれるかどうか判らない。でも今、シラク大統領婦人と組んで国中の小児病棟のある病院に運動できる施設を作ろうというキャンペーンをやっているんです。
 病院に入院している子供達は病気で苦しんだり怪我で苦しんだり、親元を離れて多くの子供達が心を閉ざしている、笑顔を忘れている。彼らに僅かでもいいから運動できる施設スペースがあれば、その運動を通して彼らに笑顔が戻るんです、彼らの閉ざされた心が開くんです。そして間違いなく退院が早くなるんですよ。だから僅かでもいい、フランス中の小児病棟のある病院に運動できる施設を作りたい、そして将来的には山下さん達と世界の柔道の為に我々が山下さんと私あるいはフランスと日本がどういうことをやってどういう役割を担っていけばいいのかを話し合いたい 」と言いました。
 シドニーが9月に終わって翌年、去年の3月に彼は日本にきましたが、その前に私に手紙が来ました。「私と篠原の試合で日本とフランスの柔道の関係がおかしくなったような気がする。日本人のフランス人に対する印象は悪くなって、いがみ合ったり・・これは私にとってはひじょうに残念なこと耐えられないことだ。世界の柔道の発展の為にフランスと日本は手を携えてやっていかなくてはいけないのにその関係もおかしくなっている。私はぜひ日本に行きたいと思う。行って山下さんや篠原さんと柔道についての話がしたい。このことをフランスの友達に相談したら全員が反対した。やめろ、単身で敵地に乗り込むようなものだと。しかし私はぜひ行きたい・・行ったら、ぜひ会ってくれますか?」と、最後に小学生のような字で「よろしくおねがいします」と書いてありました。きっとその「よろしくおねがいします」という字だけを誰かに習って一生懸命練習したんだと思うんです。だから僕はどっちも本当に金メダルを取るにふさわしい選手だったと思います。

 オリンピックの時は日本からもたくさん取材の方が見えました。ベンチもいっぱいでいろいろ応援してもらったんですけど試合の前に皆に約束しました。「皆が試合に集中できるようにマスコミなどは俺が断って皆が試合に集中できる環境を作る。そのかわり試合が終わった後はどんなにキツクても申し訳ないけどマスコミの取材には出来る限り応じてくれ、何故ならあのマスコミの方のむこうには皆を応援している日本の方々がたくさんおられる。そして我々は貧乏な団体だ、それを応援してくれる日本の企業のいろんな催しにも出来るだけ顔を出してくれ」そして男女一日ひと階級で7日間あるんですが「7人で一人だ。みんなに持てる力を出し切って欲しい。そのために試合が終わった人間はキツイだろうけど、翌日から柔道着に着替えて次の選手の為に投げ込みを受けたり付き人として一生懸命やってくれないか?」試合会場、練習会場、控え室を自由に行き来できるIDカードを持っている人間はセキュリティーの問題で限られていますから、これをみんなで約束しました。

 初日、野村が素晴らしい試合で田村亮子と共に優勝しました。彼はその日の夜帰って来ませんでした。帰ってきたのは朝の4時で、遊びに行っていたんじゃないです、ズーッと順番にマスコミを回っていたんです。そしてその日の朝8時前にはまた出て行きました。試合は午後2時から始まるので12時に試合会場で待ち合わせをしましたが、最後の取材を11時半に終わって車の中でハンバーガーを食いながら駆け足で来ました。そして翌日の中村の稽古相手の為にすぐ柔道着に着替えてバンバン投げられて、そのあと付き人として柔道着を持ったりタオルを持ったりユニホームを持ったりして一生懸命世話していました。残念ながら中村は途中で破れました。ガックリ肩を落として控え室に入ってきた中村の後ろに野村が続きました。そして中村が柔道着を脱いでユニホームに着替える時に中村の後ろで野村が柔道着をものすごく丁寧に丁寧に、本当にいとおしむように畳んでいるんです、そして宝物をしまうようにしてバックにしまいました。私とあと二人のコーチが、敗れてがっかりしてその場にいたんですけど我々三人にはその姿が目に入り、三人で顔を合わせて言いました「畳の上の野村も素晴らしいけど、この野村の姿こそ日本の柔道人に見せたいな」と。
 アトランタで優勝したあと野村は怪我や学業との両立で悩んだり、引退を決意してひじょうに悩んだのですがそれを乗り越えて人間的にもひとまわりもふたまわりも成長したなあ・・そんなことを話しました。

 オリンピックの年の五月に大阪で柔道のアジア選手権大会が開かれました。終わってから参加した数カ国の外国選手と合同合宿がありました。そこでひとつ残念に思ったのは、外国の人の中には履物を揃えるという習慣がないんですね、アジアと言っても旧ソ連の国々やイランなども入っていますから東アジアだけではないんですけど、いつもトイレに行くとスリッパが散らかっているんです。私は人がいるときはしませんが人がいないときは散らかしにくいように出来るだけ丁寧に丁寧に揃えるんですけども次に行くとまた散らかっている、これがひじょうに残念に思いました。ひじょうにいい合宿をしているんですけども・・残念でした。
 ある朝5時前にトイレにいったんです、そうしたら一人の選手がしゃがみ込んでスリッパを並べているんです。うれしくて「おーっ!」と大きい声でバッと開けたら彼はビックリして顔を真っ赤にして小走りに自分の部屋に帰っていきました。それが81キロ級で優勝した滝本なんです。
 このシドニーを目指した4年間、我々が目指したものは最強の選手作りではありませんでした 。目指したのは最高の選手作りでした。全日本の合宿のたびに皆を集めて話しました「ここに集まってきてるのはただ日本で一番強いだけの選手じゃないよな、日本で一番素晴らしい選手だよな」いつもそう語りかけて、だからもちろん私も日本で最高の選手に接する気持で対応してきました。彼らにももちろん足りないところはいっぱいあります、でも彼らが柔道の頂点を目指していく過程において自分を磨き高めていき人間的にも成長していった、これは私にとってひじょうに嬉しいことであり、他にもいっぱいあるんですがこれは彼らから私への最高のプレゼントじゃないかなという気がします。


 嘉納治五郎先生と松前重義先生

 私の好きな言葉のひとつに「伝統とはかたちを継承することを言わず、その魂その精神を継承することを伝統と言う」というのがあります。嘉納治五郎、柔道の創始者ですが先生は「柔道を通して心身を磨き高め、よって世をほえきする、世の役に立つ人材を輩出していく」という目的で柔道を起こされました。そして晩年は「精力善用 自他共栄」と。私はこれを簡単にこう思っています・・自分の柔道を通して培ったエネルギーを善いことに使おうよ、そして自分だけじゃない他人も共に栄えるそんな世の中を作っていこうじゃないか・・今、日本の柔道はこの精神を本当にこの伝統を守っているんだろうか、私はひじょうに疑問があります。かたちとしての一本を目指す柔道、白かブルーか・・そんなことじゃない、確かに一本取るのもスタイルも大事かもしれんけど、我々がもっと大事にしていかなきゃならないものは、嘉納治五郎が何の為に柔道を作って何を目指していったのかという魂の部分こそいつまでも伝えていかなきゃいけないと。昨年から柔道界に大きな変化が現れ始めています。
 柔道ルネッサンス・・創始者 嘉納治五郎師範の理想を目指そう、原点に返ろう、柔道を通した人づくりをもっともっと大事にして、柔道を通して得た我々のエネルギーを善いかたちに用いてもっともっと柔道人がボランティア活動等へ積極的に参加をしていこう、まず柔道指導者が自らを高めていこう・・柔道にもパラリンピック・精神知的障害者スペシャルオリンピックスがありますがそういう障害を持った方々との交流という事も大事にしながら進んで行こうという動きが2001年からスタートしました。
 何故か若輩の私にその委員会のメイン、第一委員会委員長の命が下りました。これが私が今一番生きがいを感じてやっていることです。なんとかここ3年5年で柔道界が変わって、ああやっぱり柔道をやる人間は違うな、柔道は人作りだな・・柔道はちょっとスタイルも悪くなって見てくれも悪いけど柔道をやると人は変る、柔道はやっぱり教育だと思われるような柔道界になれるように全力を傾けたい。これを3年から5年で成功させたい、そして柔道で出来るんだから日本国内の他のスポーツとも協力しながら青少年の健全育成に取り組んでいきたい。柔道界が少しでも変っていったら次は・・・教育の荒廃が、危機が叫ばれた時に、中学校に自信をなくした子供、友達がいない子供、心を閉ざした子供、彼らを何で柔道は救えないのかと思いました。選手を強くするのもいいけども、そういう彼らをぜひ柔道に誘おうよ、柔道を通して丈夫な体や自信や友達を、そして彼らに笑顔を戻そう心を開いてもらおう、絶対それを柔道は出来るはずじゃないのかと、昔の私みたいな人が困るところを見て喜んでいるようなそんな連中こそ柔道に引き込んで彼らのエネルギーをいい方へ発散させていく、柔道はそれが出来るんじゃないのか・・現状の中でそういう弱者、心を閉ざした友達のいない自信を無くした子供達子こそどんどん柔道が巻き込んで彼らに自信や勇気や、エネルギーをいい方向へ持っていく、そういう事を3年から5年でそこまで持っていきたいなと。いろんなスポーツと手を組んでスポーツが教育の荒廃に対してそれなりの社会的な役割を果たせるようにやっていきたい。
 海外でもいろんな国でやはり教育の荒廃というのは問題になっていて、日本がやってもし成功したら今度は世界の国々の柔道連盟と手を繋いで情報化しながら世界の若者を教育の荒廃から救うために、微力であるけれどもそういう活動をして行きたいと思っています。

 私の頭の上にはいつも二人の偉大な方がおられるような気がします。嘉納治五郎先生そして東海大学の創始者である松前重義先生・・11年前に亡くなりましたが柔道をこよなく愛して、生前私によく言われました「山下君ねぇ、僕が君を一生懸命応援するのは柔道で勝って欲しいからだけじゃないんだよ・・そんなことは小さなことだ、僕は君が柔道を通して世界の多くの若者と交わって欲しい、そして柔道を通して友好親善を深めて欲しいんだ。それだけじゃない、スポーツを通して世界の平和に貢献できる人間になって欲しい。だから僕は君を一生懸命応援しているんだよ」
 残念なことに先生がお元気な間は、頭では言われていることはわかったけれど身体で理解することはできませんでした。亡くなられてから先生の言葉がだんだん重みを増してきて、この嘉納治五郎先生、松前重義先生に万分の一でも近付くような生き方がしたいと、そう思っています。
 先ほど人生を6回7回生きたいと、いつまでも夢を語りながら生きていく人間でいたいと言いましたが最後の夢は出来てまして、それはこの世を去るときに、いまだ会ったことのない嘉納治五郎先生が私を迎えに来てくれて「お前が山下か、よく柔道頑張ったね」とそして松前重義先生が「ああ、やっぱりお前を可愛がった俺の目に狂いはなかった、ようやったな」と二人の先生が迎えに来てくれるようなそういう生き方をしたいと、それが私の最後の夢です。
 でも、最初からこんな考えをしていたわけではないんです。現役時代も指導者の頃も畳の上では相手を蹴落としても引きずり落としてでも勝たなきゃいかんと、これは戦いの場だと、ルールのある喧嘩だ、畳の上で人を殺してもこれは悪いことじゃないと或いは人を殺すような気持でいかないと勝てないんだとそういう思いで35歳くらいまでやってきた人間なんです。ただ畳を降りたら別なんです・・畳の上では本能丸出しの野獣で畳を降りたら紳士、そういうものを目指してきたんです。
 どこから変ってきたかというと、どうも障害を持ったダイスケの存在が私の生き方価値観を変えていったんじゃないかと・・家のかみさんは、それもあるけど私の影響もあるはずよと言うんですけど、そこから私が・・ダイスケの姿から何かを学ばされて、これが自分を変えていったという気がしています。畳の上は、お互いに持っているものを出し合う場だ。試合で向かい合うのは敵ではなく同じ柔道をやっている仲間なんだ、国内でも世界でも仲間なんだと4,5年位前からそういう思いになってきました。ですから、勝った負けたの世界からもう引退しないといかん、シドニーで終わりだと思っていたんです。
 2ヶ月くらい前にあるインタビューを受けていまして最後に相手の方が「山下さん、あなたって本当に幸せな人ですね。本当に恵まれてますね・・ところであなたはどうしてこんなに恵まれていたんでしょうか」と質問されたんです。そういう事を考えたことがなかったので、そのとき自分の中で考えました。確かに恵まれていたけれど、恵まれていることを当たり前と思わないでありがたいと思って感謝の気持ちを持ってやってきたら、結果としてどんどん恵まれてきたんじゃないかな・・なんでこんなに運がよかったのか、素晴らしい出会いがあったのか、いいことばっかり続くのか、これは判らないけどひとつだけ言えるのはこれが当たり前ではない本当に在り難いことと感謝の気持で生きてきたのがもしかしたらずっと今まで続いてきた運がよかった理由かもしれませんね、と初めてそのとき思いました。

 最近自分で大事にしているのは成果や業績が上がることも大事だけどもそれ以上に人間としての成長というものを大事にしていきたいと・・間違っているかもしれないけれど凡人と言うのは結果を残している時は人間的に成長しにくいような気がするんです。人間的な成長をしている時というのは逆に結果があまり出にくいような気がするんです。ごく稀に両方出来る人がいるかも知れないですけど・・。今こうしてここで話をしているんですけど、あと5年くらい経って自分の地位が今よりもあがることよりも、今ここでこうして話した自分を、あの時は何も判ってなかったなぁ、恥かしいなぁ、と思えるような自分になれたらいいなと思います。そしてまた5年経って、なーんだ、何にもわかってないじゃないかとそう思い続けられたらいい。他人と比較するんじゃなく成果や業績をよりも人間としての成長を大事にしたい、肩書きとか身につけているもの、車とか家とかそんなものじゃなくて全部脱いで裸になった時に内側から内面から輝いていける人間になりたいと思います。そして自分に起きてくることは全部必要があって起きてくる、すべてのことが必要があって起きてくると、もろもろのことが自分には必要なことであると前向きに考えていきて行きたいと思っています。



ありがとうございますおはなし集で使ったHTML等は菊地さんのサイトで勉強しました。菊地さんありがとうございます

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