ありがとうございますおはなし集で使ったHTML等は菊地さんのサイトで勉強しました。菊地さんありがとうございます

0.1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.
19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.32.33.34.
35.36.37.38.39.40.41.42.43.44.45.46.47.48.49.50.
51
.52.53.54.55.56.57.58.59.60.61.62.63.64.65.66.

以下(いか)のコラムは宗教(しゅうきょう)サイトではありません。古神道(こしんとう)研究(けんきゅう)ノ−トです。
またその内容(ないよう)に責任(せきにん)を保持(ほじ)していません。さらに著作権(ちょさくけん)も行使(こうし)しません。
どうぞ自由(じゆう)に使(つか)いまわしてください。できればちょっとアレンジしていい感(かん)じになったよというのをどんどん、是非(ぜひ)メールでお知(し)らせください。

「ありがとうございます」の おはなし 2000ねんがつ24にち 


 ありがとう ボランティアグループ

 ありがとうございますという言葉ことばひろげるために、本当ほんとうなにもないボランティアグループなんですが、なにもないとまわりからみとめてもらえないから、仕方しかたなしに最近さいきんつけた名前なまえなんです。感謝かんしゃこころからさせてもらっているから、「ありがとう ボランティアグループ」という名前なまえにさせてもらったんです。
 本当ほんとうなにもなしですすめたかったんです。とくに、神道しんとう生き方い かた実行じっこうしてそれをみんなってもらいたかった、神道しんとうというのはふる神道しんとうではなく、神道しんとうかたちがないんです、神様かみさま無限むげんのすばらしいものがりてきている、そんな姿すがた神道しんとうです。神様かみさまおもいやり、寛容かんようこころおおきいあいかがやいているというだけが神道しんとうです。全部ぜんぶ最高さいこうかす状態じょうたい神道しんとうのありかたなんです。

 二十一世紀にじゅういっせいきかがや時代じだいだといわれています、わたしもそれを理想りそうとして、実現じつげんするためにいのらせてもらってきたんです。まず感謝かんしゃの「ありがとうございます」という基本きほんきわめたいと感謝かんしゃぎょうをやりいてきたんです、「ありがとうございます」という言葉ことば神秘しんぴ不思議ふしぎさは想像そうぞうぜっするものがあります。不思議ふしぎことがたくさんこるんです。
 いち年間ねんかんあめれなかった、くところかなら天気てんきになってしまう。また、電車でんしゃやバスのダイヤがわたしわせてうごいてくれるんです。不思議ふしぎとね。

 そのころは朝夕あさゆうに「ありがとうございます」だけだったんです、それがだんだんとふかめられてきて、最近さいきんは、「ありがとうございます」の本当ほんとう意味いみ真髄しんずいは、宇宙うちゅうおお神様がみさま最高さいこう表現ひょうげん天照あまてらす大御おおみ神様かみさまという名前なまえあらわれたとするなら、「ありがとうございます」というのは、「天照あまてらす大御おおみ神様かみさままします」という意味いみおくからいてきたんです。
 「ありがとうございます」のおく意味いみ宇宙うちゅう最高さいこうしんはたらきだったんです。神様かみさまはたらきの無限むげん無限むげんかがやいた状態じょうたいが「天照あまてらす大御おおみかみまします」=「ありがとうございます」をとなえることです。
 
 感謝かんしゃぎょう実行じっこうつづけているうちに、おくからも無限むげん無限むげんかがやきが、どんどんってきているのがかるようになるんです。そして、本当ほんとうしあわせは、感謝かんしゃ真髄しんずいなかにあるのです。だからわたしこわいものらずです、いのちなにもいらない、それでいて、無限むげんやすらぎがいつもあるのです。
 
「ありがとうございます」を二十五にじゅうごねんぐらいまえからつたはじめて、感謝かんしゃいのりのすばらしさを、パンフレットをつくったりシールをたくさんつくったりして、おもてずにかげから実行じっこうさせてもらってきたんです。


 般若心経はんにゃしんぎょう
 
 人間にんげん神々かみがみ生まれ変うまれかわるためになに必要ひつようか、科学的かがくてき真理しんり追究ついきゅうしてそれをきわめるひともありますし、いろんな生き方いきかたがありますけど、まずいの言葉ことばちからというものを活用かつようしたほうがいいとおもうんです。

般若心経はんにゃしんぎょうだいいちぎょうに、

かん自在じざい菩薩ぼさつ。    ぎょうじん般若はんにゃ波羅はらみつ
照見しょうけん五蘊ごうんかいくう。   一切いっさいやく

とありますね、この般若はんにゃ波羅はらみつというのがいの言葉ことばになります。かん自在じざい菩薩ぼさつというのは一人一人ひとりひとりいのち自分じぶん本当ほんとう自分じぶんせいなる自分じぶんかみなる自分じぶんです。この自分じぶんかん自在じざい菩薩ぼさつ)が、般若はんにゃ波羅はらみつふかいのるわけです、この般若はんにゃという言葉ことばは、宇宙うちゅう絶対ぜったいしんの・神様かみさまのという意味いみです。波羅はらというのは無限むげんひろがるという意味いみです、無限むげん無限むげんにという意味いみです。みつというのは真髄しんずいという意味いみです。
 
 だから、神様かみさま無限むげん無限むげんいのりの言葉ことば精髄せいずいを、たくさんぜて、というようなかんじなんです。たとえば、無限むげん無限むげんしあわせがいっぱい、ととなえますとこの般若はんにゃ波羅はらみつになるんです。これをふかいのると、ふかくというのはこころ奥深おくぶかくなんです、どうしたらふかいのれるかというと、丹田たんでん呼吸こきゅうのときにこころふかくなるんです。
 このとき呼吸こきゅうめたほうがいいようです、呼吸こきゅうめたときのほうこころふかおくしずまるんです。呼吸こきゅうつづけることはできませんが、しずかにほそながつづけるんです、このときいの言葉ことばとなえたり、瞑想めいそうしたりするんです。このときこころ奥深おくぶかくにはいっていのりの効果こうかおおきくなります。
 
 いの言葉ことばふかいのりになるように、繰り返くりかえとなえていますと、五蘊ごうんかいくうという宇宙うちゅうのすべてが神様かみさまあらわれということがわかってきます、実際じっさい感じ取かん  とれてくるはずです。だから、

 しきくう。 くう異色いしき。 色即是空しきそくぜくう。 空即是色くうそくぜしき
というのが、なぜくうしき一緒いっしょになるのか、これはチョッとむずかしいですね、これが、ふかいのりになったらくうしきがピッタリうのがよくかるんです。

 現実げんじつ姿すがたというのは、過去かこ神様かみさま表現ひょうげん時間じかん経過けいかとともに、えていくのもあり・つかんだものもあって、というふうに、過去かこ残像ざんぞうあつまってできています。だから、いま一瞬いっしゅんあらたにあらわれたものとは程遠ほどとおいんです。いま一瞬いっしゅんあらたにあらわれたものがくうなんです、くう姿すがたです。それとひとつになったしき本物ほんものなんです。だから、いまあらたにあらわれたものをとらえる生き方い  かた必要ひつようになってきます。
 だから、感謝かんしゃ本当ほんとう意味いみは、ふるいものを神様かみさまにおかえしして、そして、つぎあらたにあらわれてくるものを、もう一回いっかいあらたになおすという、その繰り返く  かえしによってあらたな生まれ変う   かわり・置き換お  かえがなされて、おくかみなる自分じぶんかがやいててきます。そうしますと、過去かことらわれない、こころ自由自在じゆうじざいやすらぎがてきます。


 無限むげん無限むげんしあわ

 わたしはもう「ありがとうございます」をなんおくかいとなえているかからない、となはじめてから、毎日まいにちまんかいくらいとなえますから。それも、「天照あまてらす大御おおみ神様かみさままします」という気持きもちでとなえています。みんな天照あまてらす大御おおみ神様かみさまなんだというのが、「ありがとうございます」のおいのりなんです。それは人間にんげんだけじゃなくて、動物どうぶつ植物しょくぶつ鉱物こうぶつも、ありとあらゆるものが天照あまてらす大御おおみ神様かみさま分身ぶんしんというか、天照あまてらす大御おおみ神様かみさまそのものなんだというおがかたです。
 そうやっておがんでいると、自分じぶんこころがどんどんきよめられて、たかめられ、おおきくなっていきます。そうなってくると、本当ほんとう天照あまてらす大御おおみ神様かみさま姿すがたかんじられてくるんです。みんな光り輝ひか   かがやいてえます。
 
 「ありがとうございます」をなんねんつづけてるときに、全部ぜんぶ光り輝ひか  かがやいてしたことがあるんです。空気くうきまでもが光り輝ひか  かがやおどっているようなかんじでせてもらったことがあります。でもそれは、部分的ぶぶんてきでまだあさ見方みかたです。本当ほんとうは、宇宙うちゅう全体ぜんたいとらおおきい気持きもちにさせてもらうほうが、もっとしあわせですね。 
 だから、「無限むげん無限むげんしあわせ」とはどういうものか、本当ほんとうは、「無限むげんしあわせ」それだけで計り知はか  しれないおおきいものだとおもうんですが、それでも「無限むげん」だけではりないようにわたしかんじるんです、なぜ「無限むげん無限むげんの」とふたかさねたかはいくとおりもの意味いみがあります。
 
 たとえば、自分じぶん無限むげんしあわせをつかんだとします、そしたらほかのひと一人一人ひとりひとり無限むげんしあわせをつかみます。だから、宇宙うちゅう無限むげんひとがいたら、ほかのひとしあわせまでも自分じぶんこころしあわせにさせてもらったら、それは、けっして、無限むげんだけではわらない、「無限むげん無限むげんの」となりますね。
 動物どうぶつ植物しょくぶつ鉱物こうぶつも、神様かみさまあらわれであるかぎり、それぞれの無限むげんしあわせをっているはずです。人間にんげんだけではなく、動物どうぶつ植物しょくぶつ鉱物こうぶつ無限むげんしあわせを取り込と こんだら、「無限むげん無限むげんの」となりますよね、「無限むげん無限むげんしあわせ」としてはいってきます。
 
 人間にんげんは、肉体にくたいだけではなく、本当ほんとうは、れいこんぱくという姿すがた一番いちばんおくに、かみなる自分じぶんがあって、そこからいろんな次元じげん自分じぶんなみとしててきます。無限むげん自分じぶん存在そんざいします、この肉体にくたい自分じぶんはそのひとつのあらわれです。無限むげん次元じげん存在そんざいする自分じぶんがそれぞれ、無限むげんしあわせを感じ取かん  とったとしたら、「無限むげん無限むげんしあわせ」です。
 また時間じかんてきって、過去かこ現在げんざい未来みらい無限むげんひろがります。いま自分じぶんしあわせだったら、過去かこ自分じぶん未来みらい自分じぶん、それぞれ無限むげん時間じかん自分じぶんしあわせをとらえたら、それも、「無限むげん無限むげんしあわせ」となりますね。
 
 また、宇宙うちゅう構造こうぞうというものが、入れ子い  こ構造こうぞうというものでできています。原子げんし地球ちきゅう縮図しゅくずでもある・地球ちきゅう宇宙うちゅう縮図しゅくずでもある。このている宇宙うちゅうがどういう宇宙うちゅうのどの部分ぶぶんにあたっているかからない、まだうえにはうえがあるかもしれない。
 この宇宙うちゅう無限むげんしあわせをつかんだとしても、無限むげんちいさい宇宙うちゅうもあり・無限むげんおおきい宇宙うちゅうもあり、どこまでも計り知はか  しれない宇宙うちゅうがあります。これを、無限むげん入れ子い  こ構造こうぞうとらえたときにまた、しあわせが無限むげん無限むげんひろがります。
 
 そして、しあわ自体じたいがそれぞれかおちがいます、無限むげんしあわせのかおがそれぞれちがいます、しつりょうふかみも全部ぜんぶわってきます。だから、ひとつのしあわせという姿すがたてきても、無限むげんふかみがてきたらそこに、無限むげん無限むげんとなります。無限むげんおおきさ・ひろがりがてきたら、そこに無限むげん無限むげんとなります。しつ無限むげんたかまりがてきたら、無限むげん無限むげんとつけないと表現ひょうげんできません。
 
 「無限むげん無限むげんしあわせ」という意味いみがどんどんてきます。神様かみさまあたえてくれる「無限むげん無限むげんしあわせ」がどこまで奥深おくぶかく、計り知はか しれないものか!。いまったのはその一部いちぶです、まだまだ「無限むげん無限むげんしあわせ」が神様かみさまのほうから、ちょうどてんからたきるように、そそがれています。それに気付きづいたときが本当ほんとう神道しんとう時代じだいで、しあわせになる時代じだいになります。
 
 これを、言葉ことば表現ひょうげんするのはむずかしい。てんから無限むげん無限むげんかがやいたひかりたきのようにっている、ものすごいうなりのようなゴーッ!という姿すがた押し寄お  よせてきます。これを言葉ことば表現ひょうげんせてあげるのはむずかしい。でもわたしかるんです、実感じっかんするんです、だから、なんてしあわせなんだろうといつも、なみだながすぐらい感謝かんしゃしているんです。


 かみさまのみちび

ありがとうございます:
 ちいさいころから言葉ことば指導しどうしてもらったり、いろいろありましたね。直感ちょっかん場合ばあいもあります。いろんな神様かみさまからとっても、いろんな段階だんかいがあります。ちいさいころは、いろんなところからいろんな指導しどうけて、ちがことおしえられるんです。ある神様かみさまはこうしなさいとう、べつ神様かみさまべつことう、反対はんたいことう、まよいますよね。
 
 だからそれは自分じぶん判断はんだんする必要ひつようがあります。ちいさいとき振り回ふ  まわされたりしましたけれど、いま絶対ぜったいにそれはありません。自分じぶん判断はんだんして、いろんな指導しどう参考さんこうにはできますが、一番いちばん大切たいせつなのは、どれだけ自分じぶんがみんなを天照あまてらす大御おおみ神様かみさまとしてあがめているかなんです、あとのこと枝葉えだはおもえます。
 指図さしずがどうたからといって、それはどっちでもいいという感覚かんかくなんです。ただ、自分じぶん神様かみさま使つかってもらって、チョッとでもみんなのしあわせのおやくてたらそれでいい、という感覚かんかくなんです。



 完全かんぜんさと
 *みんな天照あまてらす大御おおみ神様かみさま


-ありがとうございます-
 先生せんせいは、完全かんぜんさとられた状態じょうたいだとおもうんですが、まわりのかたでそのような状態じょうたいになっているかたもいらっしゃるんですか。

ありがとうございます:
 みんなそうなんじゃないですか。わたしはみんなかがやいてえますからね。みんな素晴すばらしいですね。

-ありがとうございます-
 「ありがとうございます」というおいのりは、どんな場所ばしょで、どんなかたちでなさっているんですか。

ありがとうございます:
 おいのりのには、夜中よなかからズーッとするんですよ、グループのひともおいのりにるのがあさはやくからだったり、おひるからだったりですけど、一緒いっしょにおいのりさせてもらってます。でもそのときだけでなくいつも「みんな天照あまてらす大御おおみ神様かみさま」という見方みかたで「ありがとうございます」というこころおがんでるんですよ。


 睡眠すいみん食べ物たべもの         
 
神様かみさまいのちいただく*

-ありがとうございます-
 睡眠時間すいみんじかんとか、一日いちにちべられるものとかは、どのようになさってるんですか。

ありがとうございます:
 いまは、自然しぜんまかせていますので、ただねむっていたらもったいないですから、できるだけ、おいのりをたのしませてもらっています。 
 
 べるものは、まえは、菜食さいしょく主義しゅぎで、断食だんじきして、かなりとらわれたんですけど、それも、本当ほんとう断食だんじきとはなにか、ものをべているという感覚かんかくけたら、それは断食だんじきではないかとおもうんです。
 神様かみさまいのちいただいている・かされている・動物どうぶつでも植物しょくぶつでもいのちささげてくれている・という気持きもちでそれをいただかぎりは、ものではないから、断食だんじきではないか。だから、あたえられるままにきられるだけをいただくようにしています。
 だからおにくでもべます。あたえられたらありがとうございます、いのちささげてもらったという感覚かんかくでね。あたえてもらったいのち自分じぶん一緒いっしょになってかして、世の中よ  なかのためにくせば、べられた動物どうぶつ成仏じょうぶつする・天寿てんじゅまっとうしてくれるとおもいます。


 おなかみべつ言葉ことば

-ありがとうございます-
 天照あまてらす大御神おおみかみというのは日本語にほんごですね、外国がいこくかたですと、「ありがとうございます」ではないんじゃないですか。

ありがとうございます:
 おなじものを言葉ことばえていっているんです。神様かみさまといったり、ほとけさまといったり、本尊ほんぞんのいろんな名前なまえですね。人間にんげん勝手かってにつけているんです、おなじものをしてね。とらえやすい言葉ことばとしてそれを使つかうだけです。


 神社じんじゃ仏閣ぶっかく模型もけい
 天地てんちはじまりはつねいま

-ありがとうございます-
 神社じんじゃ仏閣ぶっかくへおまいりするんですが、そういうものについてはどうおかんがえですか。

ありがとうございます:
 神社じんじゃ仏閣ぶっかくというようなものは模型もけいだとおもうんです。たとえば、地球ちきゅうには地球儀ちきゅうぎという模型もけいがあるでしょう、そうすると地球ちきゅうがよくかりますね、地球儀ちきゅうぎことによってね。
 
 神社じんじゃというものは、宇宙うちゅうおお神様がみさま神殿しんでんを、本当ほんとう宇宙うちゅうだいのものを縮小しゅくしょうしてそこにあらわして、感じ取かん  とりやすいようにつくってあるとおもいます。宇宙うちゅうおお神様がみさま縮図しゅくずとして模型もけいとしてそこにあらわれてきているというのがただしいとおもいます。そしたら粗末そまつにはできないですね。
 ただ、模型もけい模型もけいとしてみること大事だいじです。それを本物ほんもの見分みわけがつかなければ偶像ぐうぞう崇拝すうはい間違まちがった信仰しんこうはいりますね。模型もけいとしてみるんだったらただしいですね、模型もけいとおして本物ほんもの推理すいりして想像そうぞうしてそれをおおきくとらえていけたらね。
 
 どんな神社じんじゃにも、宇宙うちゅう絶対ぜったいしんがそこにているはずなんです、模型もけいなかにね。どの神社じんじゃにおまいりしても、なん々の神様かみさまじゃなく、宇宙うちゅう絶対ぜったいしんをそこにみとめひとつにつないでしまったがいいとおもうんです。そのときあらわれた名前なまえ神様かみさまは、宇宙うちゅう絶対ぜったいしんのそのときのかり名前なまえです。みんなをまもるために名前なまえわっててきているだけでしょう、でもそれも、一瞬いっしゅん一瞬いっしゅんわってないといけない・自由自在じゆうじざいにね。
 
 日本にほんではむかしから、宇宙うちゅうはじまりはいつかというと、それは「つねいま」というとらかたでしょう。天地てんちはじまりはつねいまなんです、完成かんせいわりもつねいまなんです。だから、過去かこ現在げんざい未来みらい引き伸ひ  のばしてみるのは、過去かこにつかんだ残像ざんぞうつづいているだけです。本当ほんとういま一瞬いっしゅん宇宙うちゅうはじまって・宇宙うちゅう創造そうぞうされて・完成かんせいされてわっている、はずなんです、一瞬いっしゅんにね。
 
 その一瞬いっしゅんというのは、どれだけの時間じかんかというと、時間じかんがないほどの一瞬いっしゅんです。それだけ素晴すばらしい宇宙うちゅう瞬間しゅんかん瞬間しゅんかん変化へんかしてまれつづけているんです。だから、いまなかに、無限むげん過去かこ永遠えいえん未来みらいったいま姿すがたがあります。一輪いちりんはないまここにいていたら、そのはな先祖せんぞがズーッとつづいていて、未来みらい永遠えいえんつづいています。一輪いちりんはないま一瞬いっしゅんことによって、同時どうじ過去かこ現在げんざい未来みらい無限むげんひろがりをとらえることによって、いまはながますます素晴すばらしく感じ取かん  とれるんです。 
 いま一瞬いっしゅんとらえる生き方い  かたというのは、神道しんとう生き方い  かただとおもうんですけど、本当ほんとう素晴すばらしい考え方かんが  かただとおもいます。


 わたしかみとは

-ありがとうございます-
 偶像ぐうぞう崇拝すうはいはいけないということですが、サイババさんは、「わたしかみです、あなたもかみです。ただしそのちがいは、わたしかみであることっているけれど、あなたはらない」とわれていますが、そういうことなんでしょうか。

ありがとうございます:
 自分じぶんかみであるとうときは、肉体にくたいしてってはいない、肉体にくたいとかたましいしていては傲慢ごうまんになります。

 おくかみなる自分じぶんというのはだれにもあるんです、そのおくなる神様かみさまである自分じぶんしているときはそれはただしいですね。肉体にくたい自分じぶんとして、この自分じぶんかみであるとうと、本当ほんとう神様かみさまからたらあまりにちいさすぎるんですよ。宇宙うちゅうだいひろがっていないですね、無限むげんたかまりもないし、あくまでも表面ひょうめんちいさい一部いちぶでしかない。おくとはつながっていますけどね。


 最高さいこういの言葉ことば置き換お  かえる

-ありがとうございます-
 自分じぶんなかかみがある、無限大むげんだい宇宙うちゅうがあるということなんですが、われわれ凡人ぼんじんは、どのようにしてそれを認識にんしきできますか。

ありがとうございます:
 みんな自分じぶん凡人ぼんじん決め付き  つけるでしょう、むかしからのおしえがすこわるかったのかもしれない。罪悪ざいあくじんじゅう凡夫ぼんぷ決め付き  つけておいて修行しゅぎょうしてたというんでしょう。矛盾むじゅんしてるとおもうんです。
 現実げんじつは、あらわれてえようとしている姿すがただけです。それをつかまずにはなしてしまったら、どんどんされてあたらしいものに置き換お  かわります。あたらしいものになるんだったら最高さいこう姿すがたとらえる生き方いきかたをすればいい。
 
 その方法ほうほう最高さいこういの言葉ことば使つかえばいいのです。まず、いい言葉ことば繰り返く  かえことによって自分じぶんこころを、たか世界せかい波長はちょうわせてしまいます。そしたら、てんから舞い降ま  おりるような姿すがたをとって自分じぶんてきます。無限むげん無限むげんかがやいているという言葉ことば使つかって、かがやいている自分じぶん引っ張り出ひ  ぱ  だすんです。
 
 おいのりも、プラスのおいのりとマイナスのおいのりがあって、マイナスの言葉ことば使つかうとマイナスを実現じつげんしてしまいます。たとえば、病気びょうきなおしてくださいというおいのりは、なおしてくださいというのもまだマイナスです。どれだけねがってもなかなくなおりにくいですね。
 そうではなしに、無限むげん健康けんこうですというふうに言葉ことば使つかったら、無限むげん健康けんこうおくにあってそれに波長はちょうって、スッと置き換お  かえてあらわしてもらえる。プラスのおいのりでないと神様かみさまたすけは感じ取かん  とりにくいです、自分じぶんはもうすでにさとっている・かがやいている、そんな言葉ことばおく自分じぶん感じ取かん  とれば、過去かこ残像ざんぞうなど相手あいてにしなくていいんです。



 ありがとうございますの意味いみ

-ありがとうございます-
 「ありがとう」ではなく「ありがとうございます」なんですか

ありがとうございます:
 「ありがとう」でもいいとおもうんです、「ありがとう」は天照あまてらす大御おおみ神様かみさまという意味いみで、「ございます」はいらっしゃいますの意味いみです。

「ありがとう」の
」は、ひかるもと・光源こうげんあらわ言霊ことだまです。
」は、螺旋状らせんじょう無限むげんひろがる意味いみです。
」は、かがやかがやくとダブっているんです、無限むげん無限むげんかがやくという意味いみです。
とう」は、無限むげんひろがる時間じかん空間くうかんあらわしています。
 光源こうげんにあたる宇宙うちゅうおお神様がみさま無限むげん無限むげんかがやいて、宇宙うちゅう構成こうせいしているという意味いみです。それが宇宙うちゅう最高さいこうしん天照あまてらす大御おおみ神様かみさまです。「ありがとう」で天照あまてらす大御おおみ神様かみさまという意味いみ、そして「ございます」とつけて丁寧ていねいに「天照あまてらす大御おおみ神様かみさままします」という意味いみで「ありがとうございます」ととなえるんです。

-ありがとうございます-
 こえしてうんですか

ありがとうございます:
 どちらでもいいとおもうんですけど、こえしているときは、まわりのひとにも影響えいきょうしますね。ありがとうございますとわれるとうれしいですね。
 奇跡きせきぶミラクル言葉ことばだとおもうんです、だから一人ひとりのときはこころなかでもいいかもしれないですけど、まわりにひとがいらっしゃるときは、ありがとうございますとこえるように)となえるほうが、みんなよろこんでくれます。

-ありがとうございます-
 訪問ほうもんさせていただいていいですか

ありがとうございます:
 ボランティアの仲間なかま手造てづくりでいろんな建物たてものてたんです、廃材はいざい使つかってね、それでもちゃんとめるようにしてますので、いつでもおしください。

 いまは、十人じゅうにんくらいまれるだけですが、あちこちからまりにたり、一緒いっしょ活動かつどうしてますから、これからあたらしくつくってますしドンドンえてくるとおもいます。これからそのような仲間作なかまづくりをしてゆきたいとおもっています。
 すめら学園がくえんがボランティア活動かつどう使つかわせてもらえるようになるかもしれませんので、そこは二百にひゃくめいほどまれる施設しせつもあります。


 神道しんとうとは

-ありがとうございます-
 神道しんとうとはどんなものですか

ありがとうございます:
 いろんなひと神道しんとう名乗なのっていますが、これが神道しんとうだとったら、それではずれているんですよ。

 本当ほんとう神道しんとう言葉ことばでは表現ひょうげんできないかたちがあっておしえがあってというものではない)。もっとおく次元じげんの、神様かみさま縦横無尽じゅうおうむじん素晴すばらしいはたらきをそのまましているんです。神様かみさま絶対ぜったいあい最高さいこうかがやいた状態じょうたい、これが神道しんとうのありかただとおもいます。


 かみいつつの意味いみ

-ありがとうございます-
 先生せんせいわれる神道しんとうは)八百やおよろかみすべてのものにかみ宿やどっているというかんがえにちかいのですか。

ありがとうございます:
 神様かみさまというのはいつつにけてみるのが一番いちばんいい。「かみ」という言葉ことばをね。

一番目いちばんめ
 一番いちばんおくかくれてえない絶対ぜったい姿すがたを「かくり」のかみといいます。「かくり」をちぢめて「かみ」でしょう。

二番目にばんめ
 宇宙うちゅう創造そうぞうする・イザナギの神様かみさま・イザナミの神様かみさま創造そうぞうはたらきをする、創造そうぞうというのは「る」と う・「ごり」とう。これをちぢめて「かみ」

三番目さんばんめ
 天照あまてらす大御おおみ神様かみさまのように無限むげん無限むげんかがやくという「かがや」・「かがり」といます。これをちぢめて「かみ」

よん番目ばんめ
 天照あまてらす大御おおみ神様かみさま分身ぶんしんとして神通じんずう自在じざいはたら八百やおよろ神様かみさま。この神通じんずう自在じざいはたらきを「かけり」といます。これをちぢめて「かみ」

番目ばんめ
 このも・あのもふくめて、自分じぶんかたちあるものに限定げんていしてあらわす、本当ほんとう自由自在じゆうじざい姿すがたかたちあらわすと限定げんていされますよね。このように限定げんていされたお姿すがたを「かぎり」といます。宇宙うちゅうが「かぎり」なんです。これをちぢめて「かみ」
 
 このいつつの意味いみをひとつにして「かみ」とうと、神様かみさま全貌ぜんぼうとらえることになります。かみ「かみ」という言葉ことば素晴すばらしいものです、このいつつのはたらきを全部ぜんぶあらわしています。だから、八百やおよろ神様かみさまは「かけり」のなかふくまれます。でもこれはひとつの神様かみさま別名べつめいなんです、おな神様かみさまはたらきにおうじて名前なまええているだけなんです。しているのはひとつの神様かみさまだけですね。

-ありがとうございます-
 先生せんせいなんねんまれですか

ありがとうございます:
 昭和しょうわ十六じゅうろくねん十二月じゅうにがつ二十三日にじゅうさんにちまれです。


 奉仕ほうしだけ

 感謝かんしゃいのりと、奉仕ほうし実行じっこうだけさせてもらっていたら、神道しんとうなか取り込と  こんでもらっているんではないかとおもっています。

 奉仕ほうしだけでね、奉仕ほうしだけにきて、かされています。奉仕ほうしだけにきて、神様かみさままかせていたら必要ひつようなものはちゃんとあたえてもらえますから、なに不自由ふじゆうしてないのです。

       ありがとうございます


癌」と言う病気の意味

ありがとう ボランティアグループ2001.1.23

ありがとうございますと言う言葉を広げるために、本当は何もないボランティアグループなんですが、なにもないと回りから認めてもらえないから、仕方なしに最近つけた名前なんです。感謝の心からさせてもらっているから、「ありがとう ボランティアグループ」という名前にさせてもらったんです。本当は何もなしで進めたかったんです。特に、古神道の生き方を実行してそれを皆に知ってもらいたかった、古神道というのは古い神道ではなく、古神道は形がないんです、神さまの無限のすばらしいものが降りてきている、そんな姿が古神道です。神さまの思いやり、寛容の心、大きい愛が輝いているというだけが古神道です。全部を最高に生かす状態が古神道のあり方なんです。
 21世紀は輝く時代だといわれています、私もそれを理想として、実現するために祈らせてもらってきたんです。まず感謝の「ありがとうございます」という基本を極めたいと感謝行をやり抜いてきたんです、「ありがとうございます」という言葉の神秘さ不思議さは想像を絶するものがあります。不思議な事がたくさん起こるんです。1年間雨に濡れなかった、行くところ必ず天気になってしまう。また、電車やバスのダイヤが私に合わせて動いてくれるんです。不思議とね。そのころは朝夕に「ありがとうございます」だけだったんです、それがだんだんと深められてきて、最近は、「ありがとうございます」の本当の意味・真髄は、宇宙の大神様の最高表現が天照大神様という名前で現れたとするなら、「ありがとうございます」というのは、「天照大神様まします」という意味が奥から湧いてきたんです。「ありがとうございます」の奥の意味は宇宙の最高神の働きだったんです。神様の働きの無限に無限に輝いた状態が「天照大神まします」=「ありがとうございます」を唱える事です。
 感謝行を実行し続けているうちに、奥からも無限の無限の輝きが、どんどん降ってきているのが分かるようになるんです。そして、本当の幸せは、感謝の真髄の中にあるのです。だから私は怖いもの知らずです、命も何もいらない、それでいて、無限の安らぎがいつもあるのです。
 「ありがとうございます」を25年ぐらい前から伝え始めて、感謝の祈りのすばらしさを、パンフレットを作ったりシールをたくさん作ったりして、表に出ずに影から実行させてもらってきたんです。


般若心経
 人間が神々に生まれ変わるために何が必要か、科学的真理を追究してそれを究める人もありますし、いろんな生き方がありますけど、まず祈り言葉の力というものを活用した方がいいと思うんです。
般若心経の第一行目に、

かんじざいぼさつ  ぎょうじんはんにゃはらみったじ  しょうけんごうんかいくう   どいっさいくやく
観自在菩薩。    行深般若波羅蜜多時。        照見五蘊皆空。      度一切苦厄。

とありますね、この般若波羅蜜多というのが祈り言葉になります。観自在菩薩というのは一人一人の命の自分、本当の自分・聖なる自分・神なる自分です。この自分(観自在菩薩)が、般若波羅蜜多と深く祈るわけです、この般若という言葉は、宇宙絶対神の・神様のという意味です。波羅というのは無限に広がるという意味です、無限に無限にという意味です。蜜というのは真髄という意味です。
 だから、神さまの無限の無限の祈りの言葉の精髄を、たくさん混ぜて、というような感じなんです。例えば、無限の無限の幸せがいっぱい、と唱えますとこの般若波羅蜜多になるんです。これを深く祈ると〜深くというのは心の奥深くなんです、
どうしたら深く祈れるかというと、丹田呼吸のときに心が深くなるんです、このとき呼吸を止めた方がいいようです、呼吸を止めたときの方が心が深く奥に静まるんです。呼吸を止め続ける事はできませんが、静かに細く長く吐き続けるんです、この時に祈り言葉を唱えたり、瞑想したりするんです。この時に心が奥深くに入って祈りの効果が大きくなります。
 祈り言葉が深い祈りになるように、繰り返し唱えていますと、五蘊皆空という宇宙のすべてが神さまの現れという事がわかってきます、実際に感じ取れてくるはずです。だから、

しきふいくう  くうふいしき  しきそくぜくう  くうそくぜしき
色不異空。  空不異色。  色即是空。   空即是色。


というのが、なぜ空と色が一緒になるのか、これはチョッと難しいですね、これが、深い祈りになったら空(くう⇒神さまの本来のひびき)と色(しき⇒この世のあらわれ))がピッタリ合うのがよく分かるんです。現実の姿というのは、過去の神さまの表現が時間の経過とともに、消えていくのもあり・掴んだものもあってというふうに、過去の残像が集まってできています。だから、今一瞬に新たに現れたものとは程遠いんです。今一瞬に新たに現れたものが空なんです、空の姿です。それと一つになった色が本物なんです。だから、今、新たに現れたものをとらえる生き方が必要になってきます。だから、感謝の本当の意味は、古いものを神さまにお返しして、(ありがとうございますとお返しする)そして、次に新たに現れてくるものを、もう一回新たに(受け直す)・という、その繰り返しによって新たな生まれ変わり・置き換えがなされて、奥の神なる自分が輝いて出てくる。そうしますと、過去にとらわれない、心の自由自在な安らぎが出てきます。


無限の無限の幸せ

 私はもう「ありがとうございます」を何億回唱えているか分からない、唱え始めてから、毎日5万回くらい唱えますから。それも、「天照大神様今ここにまします」という気持ちで唱えています。みんな天照大神様なんだというのが、「ありがとうございます」のお祈りなんです。それは人間だけじゃなくて、動物も植物も鉱物も、ありとあらゆるものが天照大神様の分身というか、天照大神様そのものなんだという拝み方です。そうやって拝んでいると、自分の心がどんどん清められて、高められ、大きくなっていきます。そうなってくると、本当の天照大神様の姿が感じられてくるんです。みんな光り輝いて見えます。
 「ありがとうございます」を何年か続けてる時に、全部、光り輝いて見え出した事があるんです。空気までもが光り輝き踊っているような感じで見せてもらった事があります。でもそれは、部分的でまだ浅い見方です。本当は、宇宙全体を捉え大きい気持ちにさせてもらうほうが、もっと幸せですね。
 だから、「無限の無限の幸せ」とはどういうものか、本当は、「無限の幸せ」それだけで計り知れない大きいものだと思うんですが、それでも「無限」だけでは足りないように私は感じるんです、なぜ「無限の無限の」と二つ重ねたかは幾とおりもの意味があります。
 例えば、自分が無限の幸せをつかんだとします、そしたらほかの人も一人一人、無限の幸せをつかみます。だから、宇宙に無限の人がいたら、ほかの人の幸せまでも自分の心の幸せにさせてもらったら、それは、決して、無限だけでは終わらない、「無限の無限の」となりますね。動物も植物も鉱物も、神さまの現れである限り、それぞれの無限の幸せを持っているはずです。人間だけではなく、動物や植物や鉱物の無限の幸せを取り込んだら、「無限の無限の」となりますよね、「無限の無限の幸せ」として入ってきます。
 人間は、肉体だけではなく、本当は、霊魂魄(れいこんぱく)という姿で一番奥に、神なる自分があって、そこからいろんな次元の自分が波として出てきます。無限の自分が存在します、この肉体の自分はその一つの現れです。無限の次元に存在する自分がそれぞれ、無限に幸せを感じ取ったとしたら、「無限の無限の幸せ」です。又、時間的に言って、過去・現在・未来と無限に広がります。今の自分が幸せだったら、過去の自分・未来の自分、それぞれ無限の時間に住む自分の幸せを捉えたら、それも、「無限の無限の幸せ」となりますね。
 また、宇宙の構造というものが、入れ子構造というものでできています。原子が地球の縮図でもある・地球が宇宙の縮図でもある。この見ている宇宙がどういう宇宙のどの部分にあたっているか分からない、まだ上には上があるかもしれない。この宇宙で無限の幸せをつかんだとしても、無限に小さい宇宙もあり・無限に大きい宇宙もあり、どこまでも計り知れない宇宙があります。これを、無限の入れ子構造で捉えたときにまた、幸せが無限に無限に広がります。
 そして、幸せ自体がそれぞれ顔が違います、無限の幸せの顔がそれぞれ違います、質も量も深みも全部変わってきます。だから、一つの幸せという姿が出てきても、無限の深みが出てきたらそこに、無限・無限となります。無限の大きさ・広がりが出てきたら、そこに無限・無限となります。質に無限の高まりが出てきたら、無限・無限とつけないと表現できません。
 「無限の無限の幸せ」という意味がどんどん出てきます。神さまの与えてくれる「無限の無限の幸せ」がどこまで奥深く、計り知れないものか!。今言ったのはその一部です、まだまだ「無限の無限の幸せ」が神様のほうから、ちょうど天から滝が降るように、そそがれています。それに気付いたときが本当の古神道の時代で、幸せになる時代になります。
 これを、言葉で表現するのは難しい。天から無限に無限に輝いた光が滝のように降っている、ものすごい唸りのようなゴー!という姿で押し寄せてきます。これを言葉で表現し見せてあげるのは難しい。でも私は分かるんです、実感するんです、だから、なんて幸せなんだろうといつも、涙を流すぐらい感謝しているんです。




神 計 ら い
 これからは、地球上の人全部がそんな気持ち( 無限の無限の感謝で一杯)に変えられていく時代です、21世紀は古神道の時代と言う意味は、まさに神がよみがえって本当の幸せを感じ取れるように、奥から変えてくださる。
今までのように、下から積み上げて上にあがるのではなく、天から舞い降りて降ってくるような感じで、自分自身を変えてもらうんです。宗教のあり方でも、宗教が世界に広まって教えが生まれて、その教えで縛って、悪い事をしないように、まともな道を歩くように、という位置付けだったかもしれないですが、これからはそのような縛りのない、そういう縛りから開放された状態で自由になると思うんです。だから、神社仏閣とか仏像とかの形の模型は必要なくなって、宇宙全体が神さまの神殿であり、神さまそのものと感じ取る生き方が生まれてくるのではないかと思います。それで、古神道は形がない・自由なんだというように変えられていくと思います。
 だから、こうしているのも、神計らいだったと思います、古神道の神々様がすばらしい世界に変えるために、大きい計画で動いているんです。こういうボランティア的に奉仕の心の強い方が大勢集められて、古神道の神々様に守られて、世界を理想的な姿に変えるための仕組み作りをさせてもらってるような感じがするんです。古神道の神さまの御心を表すために何かお手伝いをさせていただくためなんです。松下電器の松下幸之助さんの最後には、二百神(命)以上の守護霊がついていたというんですが、今回は、古神道の神さまが無限についている。
 だから、試行錯誤とか失敗と言うのは一切ないと思います。順調に成功に成功を重ねて、世界の全ての人たちを幸せにするための大きい運動になってしまうと思います。ここに集まっている人たちはみんな魂が輝いています、純白に輝いています。これは高級心霊の魂ですね。そういう人たちが、自分はお金儲けをチョッと考えているかもしれないけれども、背後から大勢の神様が守り守って大きい仕事に導かれて、ここにおられると思うんです。現実の仕事とは別に大きい働きも同時にさせてもらうんです。ここに参加させてもらうだけで幸せ感じてますし、こうして縁をいただける事はものすごい事だと思うんですよ。





質 疑 応 答 遍
   神さまの導き
ありがとうございます:
 小さいころから言葉で指導してもらったり、いろいろありましたね。直感で来る場合もあります。いろんな神さまからと言っても、いろんな段階があります。小さいころは、いろんなところからいろんな指導を受けて、違う事を教えられるんです。ある神さまはこうしなさいと言う、別な神さまは別な事を言う、反対な事を言う、迷いますよね。
 だからそれは自分で判断する必要がある。小さい時は振り回されたりしましたけれど、今は絶対にそれはないです。自分が判断して、いろんな指導は参考にはできますが、一番大切なのは、どれだけ自分がみんなを天照大御神様として崇めているかなんです、あとの事は枝葉に思えます。指図がどう来たからといって、それはどっちでもいいという感覚なんです。ただ、自分は神さまに使ってもらって、チョッとでもみんなの幸せのお役に立てたらそれでいい、という感覚なんです。

  完全の悟り

質問者:
 先生は、完全に悟られた状態だと思うんですが、周りの方でそのような状態になっている方もいらっしゃるんですか。

ありがとうございます:
 
みんなそうなんじゃないですか。私はみんな輝いて見えますからね。みんなすばらしいですね。

  祈りは何時どこで

質問者:
 「ありがとうございます」というのは、どんな場所で、どんな形でやられてるんですか。

ありがとうございます:
 お祈りの日には、夜中からずうっとするんですよ、いろんなグループの人もお祈りに来るのが朝早くからだったり、お昼からだったりですけど、一緒にお祈りさせてもらってます。でもその時だけでなくいつも「みんな天照大御神様」という見方で「ありがとうございます」という心で拝んでるんですよ。

  睡眠や食べ物は

質問者:
 睡眠時間とか、一日に食べられるものとかは、どのようになさってるんですか。

ありがとうございます:
 今は、自然に任せていますので、ただ眠ってったらもったいないですから、できるだけ、お祈りを楽しませてもらっています。 
 食べるものは、前は、菜食主義で、断食して、かなり囚われたんですけど、それも、本当の断食とは何か、ものを食べているという感覚が抜けたら、(これは)断食ではないかと思うんです。神さまの命を頂いている・生かされている・動物でも植物でも命をささげてくれている・という気持ちでそれを頂く限りは、物ではないから、断食ではないか。だから、与えられるままに生きられるだけ頂くようにしています。だからお肉でも食べます。与えられたらありがとうございます、命をささげてもらったという感覚でね。
 与えてもらった命を自分と一緒になって生かして、世の中のために尽くせば、食べられた動物も成仏する・天寿を全うしてくれると思います。


  同じ神を別な言葉で

質問者:
 天照大御神というのは日本語ですね、外国の方ですと、「ありがとうございます」ではないんじゃないですか。

ありがとうございます:
 同じものを言葉を変えていっているんです。神さまといったり、仏様といったり、本尊のいろんな名前ですね。人間が勝手につけているんです、同じものを指してね。捉えやすい言葉としてそれを使うだけです。


  神社仏閣は模型

質問者:
 神社仏閣へお参りするんですが、そういうものについてはどうお考えですか。

ありがとうございます:
 神社仏閣というようなものは模型だと思うんです。例えば、地球には地球儀という模型があるでしょう、そうすると地球がよく分かりますね、地球儀を見る事によってね。
 神社というものは、宇宙の大神様の神殿を、本当は宇宙大のものを縮小してそこに現して、(造り自体が)感じ取りやすいように作ってあると思います。宇宙の大神様の縮図として模型としてそこに現れてきているというのが正しいと思います。そしたら粗末にはできないですね、ただ、模型を模型としてみる事は大事です。それを本物と見分けがつかなければ偶像崇拝意・間違った信仰に入りますね。模型としてみるんだったら正しいですね、模型を通して本物を推理して想像してそれを大きく捉えていけたらね。
 どんな神社にも、宇宙の絶対神がそこに出て来ているはずなんです、模型の中にね。どの神社にお参りしても、何々の神様じゃなく、宇宙の絶対神をそこに認め一つに繋いでしまったがいいと思うんです。その時現れた名前の神様は、宇宙絶対神のそのときの仮の名前です。みんなを守るために名前が換わって出てきているだけでしょう、でもそれも、一瞬一瞬変わってないといけない・自由自在にね。
 日本では昔から、宇宙の始まりはいつかというと、それは「常に今」という捉え方でしょう。天地の始まりは常に今なんです、完成も終わりも常に今なんです。だから、過去現在未来と引き伸ばしてみるのは、過去につかんだ残像が続いているだけです。本当は今一瞬に宇宙が始まって・宇宙が創造されて・完成されて終わっている、はずなんです、一瞬にね。
 その一瞬というのは、どれだけの時間かというと、時間がないほどの一瞬です。それだけ素晴らしい宇宙が瞬間瞬間変化して生まれ続けているんです。だから、
今の中に、無限の過去・永遠の未来を持った今の姿があります。一輪の花が今ここに咲いていたら、その花の先祖がズーッと続いていて、未来永遠に続いています。一輪の花を今一瞬に見る事によって、同時に過去・現在・未来の無限の広がりを捉えることによって、今の花がますます素晴らしく感じ取れるんです。
 今の一瞬を捉える生き方というのは、古神道の生き方だと思うんですけど、本当に素晴らしい考え方だと思います。

  私は神とは


質問者:
 偶像崇拝はいけないということですが、サイババ先生は、「私は神です、あなたも神です。ただしその違いは、私は神である事を知っているけれど、あなたは知らない」と言われていますが、そういうことなんでしょうか。


ありがとうございます:
 自分が神であると言うときは、サイババ先生のように言われても普通の人があとで伝え聞いて肉体を指しているように聞こえては誤解されることがあります、つまり肉体とか魂とか小さい自分を指していては傲慢になります。奥の神なる自分というのは誰にもあるんです、その奥なる神さまである自分を指しているときはそれは正しいですね。肉体の自分として、この自分が神であると言うと、本当の神さまから見たらあまりに小さすぎるんですよ。宇宙大に広がっていないですね、無限の高まりもないし、あくまでも表面の小さい一部でしかない。奥とはつながっていますけどね。


 自分はすでに悟っている

質問者:
 自分の中に神がある、無限大の宇宙があるという事なんですが、われわれ凡人は、どのようにしてそれを認識できますか。

ありがとうございます:
 みんな自分を凡人と決め付けるでしょう、昔からの教えが少し悪かったのかもしれない。罪悪深重の凡夫と決め付けておいて修行してたというんでしょう。矛盾してると思うんです。現実は現れて、消えようとしている姿だけです。それをつかまずに放してしまったら、どんどん消されて新しいものに置き換わります。新しいものになるんだったら最高の姿を捉える生き方をすればいい。
 その方法は最高の祈り言葉を使えばいいのです。まず、いい言葉を繰り返す事によって自分の心を、高い世界の波長に合わせてしまいます。そしたら、天から舞い降りるように姿をとって自分が出てきます。無限に無限に輝いているという言葉を使って、輝いている自分を引っ張り出すんです。
 お祈りも、プラスのお祈りとマイナスのお祈りがあって、マイナスの言葉を使うとマイナスを実現してしまいます。たとえば、病気を治してくださいというお祈りは、直してくださいというのもまだマイナスです。どれだけ願ってもなかなく直りにくいですね、そうではなしに、無限の健康ですというふうに言葉を使ったら、無限の健康が奥にあってそれに波長が合って、スッと置き換えて現してもらえる。
 プラスのお祈りでないと神さまの助けは感じ取りにくいです、自分はもうすでに悟っている・輝いている、そんな言葉で奥の自分を感じ取れば、過去の残像など相手にしなくていいんです。


 ありがとうの意味

質問者:
 「ありがとう」ではなく「ありがとうございます」なんですか

ありがとうございます:
 「ありがとう」でもいいと思うんです、「ありがとう」は天照大御神様という意味で、「ございます」はいらっしゃいますの意味です。
                    「ありがとう」の
              「あ」は、光るもと・光源を表す言霊です。
              「り」は、螺旋状に無限に広がる意味です。
              「が」は、輝く輝くとダブっているんです、無限に無限に輝くという意味です。
              「と」は、無限に広がる時間と空間を表しています。
光源にあたる宇宙の大神様が無限に無限に輝いて、宇宙を構成していると言う意味です。それが宇宙の最高神・天照大御神様です。「ありがとう」で天照大御神様という意味、そして「ございます」とつけて丁寧に「天照大御神様まします」という意味で「ありがとうございます」と唱えるんです。

  ありがとうございますを声に出しても

質問者:
 声に出して言うんですか

ありがとうございます:
 どちらでもいいと思うんですけど、声に出しているときは、周りの人にも影響しますね。ありがとうございますと言われると嬉しいですね。奇跡を呼ぶミラクル言葉だと思うんです、だから一人のときは心の中でもいいかもしれないですけど、周りの人かいらっしゃる時は、ありがとうございますと(聞こえるように)唱えるほうが、みんな喜んでくれます。

  訪問は

質問者:
 訪問させて頂いていいですか

ありがとうございます:
 ボランティアの仲間が手作りでいろんな建物を建てたんです、廃材を使ってね、それでもちゃんと住めるようにしてますので、いつでもお越しください。今は、10人くらい泊まれるだけですが、あちこちから泊まりに来たり、一緒に活動してますから、これから新しく作ってますしドンドン増えてくると思います。これからそのような仲間作りをしてゆきたいと思っています。
 皇(すめら)学園がボランティア活動に使わせてもらえるようになるかもしれませんので、そこは200名ほど泊まれる施設もあります。


  古神道とは

質問者:
 古神道とはどんなものですか

:ありがとうございます
 いろんな人が古神道を名乗っていますが、これが古神道だと言ったら、それで外れているんですよ。本当の古神道は言葉では表現できない(形があって教えがあってというものではない)。もっと奥の次元の、神さまの縦横無尽の素晴らしい働きをそのままさしているんです。神さまの絶対の愛が最高に輝いた状態、これが古神道のありかただと思います。
 

  神(カミ)の意味

質問者:
 (ありがとうございますの言われる古神道は) 八百万(やおよろず)の神 ・全てのものに神が宿っているという考えに近いのですか。

ありがとうございます:
 神さまと言うのは五つに分けてみるのが一番いい。「かみ」という言葉をね。

一番目が
 一番奥に隠れて見えない絶対の姿を「隠身(かくりみ)」の神といいます。「隠身(かくりみ)」を縮めて「かみ」でしょ う。
二番目が
 宇宙を創造する・イザナギの神様・イザナミの神様。創造の働きをする、創造というのは「仮凝(かご)る」と 言う・「仮凝身(かごりみ)」と言う。これを縮めて「かみ」
三番目が
 天照大神様のように無限に無限に輝くという「輝く身(かがやくみ)」・「輝身(かがりみ」と言います。これを縮めて  「かみ」
四番目が
 天照大神様の分身として神通自在に働く八百万の神様。この神通自在の働きを「駈身(かけりみ)」と言い ます。これを縮めて「かみ」
五番目が
 この世も・あの世もふくめて、自分を形あるものに限定して表す、本当は自由自在な姿を形に表す と限定されますよね。このように限定されたお姿を「限身(かぎりみ)」と言います。宇宙が「限身(かぎりみ)」なん  です。これをちぢめて「かみ」
 
 この五つの意味を一つにして「かみ」と言うと、神さまの全貌を捉えることになります。神「かみ」という言葉は素晴らしいものです、この五つの働きを全部表しています。だから、八百万の神様は「駈身(かけりみ)」の中に含まれます。でもこれは一つの神さまの別名なんです、同じ神さまを働きに応じて名前を変えているだけなんです。指しているのは一つの神様だけですね。


  何年生まれ

質問者:
 ありがとうございますは何年生まれですか

ありがとうございます:
 昭和16年12月23日生まれです。


  奉仕だけ

番外編

 感謝の祈りと、奉仕の実行だけさせてもらっていたら、古神道の中に取り込んでもらっているんではないかと思っています。

 奉仕だけでね、奉仕だけに生きて、生かされています。奉仕だけに生きて、神さまに任せていたら必要なものはチャンと与えてもらえますから、何も不自由してないです。

2001.10.06
末期癌の友人がいるんです。本人も治りたいと思っているし、周りも治りますようにと祈っているのですが、もし潜在意識の深いところで「もう肉体を離れたい」と思っている場合は、それはやはリこちら側が治るようにお祈りすると、現世に引き戻す形になるのでよくない事なのでしょうか?】

ありがとうございます:

 それもね、いろんな見方が出来るんですよ。病気の原因が幾通りもあるのね。一通りや二通りじゃないんです。もし、「癌」という症状が、本人にとって何かの勉強材料として与えてもらっているとしたら、その勉強をしないといけないしね。


【では、癌が無くなるとか、治るとかというのは二の次ですか?】

ありがとうございます:

 そういうのは、枝葉の小さいことなのね。やっぱり本当の勉強をしないと、幸せへ導いてもらえないのね。元々人間って神さまと一体なんです。そして神様の全てを受け直す自分があるのね。だから、無限に無限に輝いた永遠不減の自分があって、その自分が神様から与えられたものを如何に受けていくかなのね。神様が与えてくるものは、無限の無限のチャンネルの運命の番組なの。それを自由に選んで、どの番組でも波長を合わせて見れるのね。地獄のある番組に心を合わせてしまうと、病気になったり、マイナスの運命を体験するようになっていくのね。だから、その人の心の持ち方、生き方というのが大事なのね。その本人の自由意志で、番組を順番に選択しているのね。この世だけの問題じゃなくて、一番最初から神さまの中から出発したときからそうよね。

 最初から無限の無限のチャンネルの放送番組を与えてもらったとするでしょう。最初に見たいのはどういう番組だと思われますか? 一番上を見たいと思うか一番下を見たいと思うか中間を見たいと思うか、それは一人一人違うでしょう。一人一人が自由に適当にその番組を、サーッと見てみたいのね。「どういうものがあるか」を知りたいというのがあるんです。それで、最初から「見たいもの」からズーッと順番に見ていく時は、最初の神さまと一体の自分は、「良いものは最初からよく知っているから」という感覚で低いほうを見ていくと思うのね。ある期間は、低い方をズーッと駆け足でスクロールしてズーッと見続けるのよね。そのうちに、ちょっとその番組にはまり込んでしまう事があって、心の自由を失って本当の自分を忘れてしまうのね。その番組にはまり込むと、いろんなマイナスの姿があり苦しみとなる。でも、もともと中に存在するから、必ず本当の自分というのに気付く時がくるのね。それで神さまを呼んで、また自由を取り戻して、今度は最高番組を味わう自分に変わっていくんですけどね。この世は、あの世の全体の無限のチャンネルの縮図なんですね。縮図というのは、あの世の地獄の最低の姿もこの世にあるし、最高の極楽番組もこの世にあって、それが縮小されて、この世は一つの番組なんです。この世の一つのチャンネルが、無限のチャンネルに分かれているのね。だから、同じ一つのチャンネルを見ているようでも、細かく分けると無限のチャンネルがあるんで、一人一人が見ている番組は全部運うのね。

 病気になる人もあるし、ならない人もあり、幸せな人もあるし、不幸な人もあり、いろいろに分かれているんです。それで、この世は「何を選ぶか」という選択のための勉強の場よね。良いものを選んで立派になりたい人は、どんどん良いものをお手本にしていけばいいし。でも、マイナスを選びたい人もあるんで、そういう人は自由にマイナスを選んで、どんどん下へ降りても良いもんね。そして、そのいろんな生き方の中から一人一人自分の自由意志で選択して、それを自分のものにしていくわけね。

 
この世で、一応この世の中の最高の心になれたら、あの世へ行ったらまた最高のほうへいくのね。この世は、あの世で修行して立派になるというより、この世での方が時間が短く、短期間に立派になっていけるのね。そういう意味では、この世はあの世と比べて特別の勉強の場なのね。「病気になる」というのもほんの小さい枝葉の問題なんです。例えば、癌になる原因がどこにあるかというのも、多分癌の姿は「利己的」でしょう、「自分さえこうだったら」という感じで全体と調和した姿をとらないよね。特に最近は癌が多いというのもね、昔は少なかったと思うし、なかったかもしれないね。昔は「全体への奉仕」というのを大事にしていたよね。だから、全体と調和しているから癌にならなかったのね。最近は、利己主義、マイホーム主義、自分の会社さえ良かったらとか、自分の国さえ良かったらというような、そういう「自分さえ良かったら」という利己的な心が強くなっていますよね。それはがん細胞の生き方と同じなのよね。

 そういう心の過ちを気付かせる意味で、肉体に映し出したら癌の症状をとるわけ。「癌の症状をとった」という時は、心の間違いを肉体を通して消している一面もあるのね。心の間違いを、肉体の病気という症状を通して消してくださっているのね。そしたら軽くなるのね。利己的な心が消えていき、また、その癌が末期になると苦しい痛みが伴うのね。心の浄めは、痛みを伴うことによって大きくなり、消えるの、清めてもらえるのね。それをあの世へもし持ち越したとしたら、利己的な心のままあの世へ行ってしまうかも知れない。利己的な心で行ったら、自分の行った先は利己的な人ばかりの世界へ行ってしまう。自分とそっくりさんの世界へ行ってしまうのね。この世は、いろんな良い人もあるし、いっぱい混在してるんです。でも、あの世は自分とそっくりさんの世界へ行ってしまうのね。だから、利己的な人の行くところは、利己的な人ばかりが周りに集まるのね。優しい人は優しい人ばかりのそういうところへ行くのね。「お金を儲けたい」という守銭奴のような人だったら、守銭奴ばっかりが周りにいる世界になってしまうね。また、着飾ってファッションショーみたいに見てもらいたい人は、みんな着飾って見てもらいたい人ばかりの世界へ行ってしまうね。もう、極端に自分とそっくりの世界へ行ってしまう。そういう世界へ行って、本当に幸せになれたらいいけど、やっぱり正しい生き方をとらないと幸せじゃなくなるね。

 あの世の低いところへ、もし落ち込んだ時、そこから抜け出す方法が本当にあるかと考えたら、お手本がないのよね。まず自分とそっくりさんだから、よっぽどそれに気付いて反省して「そこから抜け出したい」という気持ちを起こさない限り、抜けられない。長い年月かかって自分を高めていくしかないのよね。それだったら、この世でどれだけ癌で苦しんでも、痛みが伴っても、その分だけ心をきれいにしてもらえば、あの世へ行ったときに良い世界へ上がれるね。またそれを反省材料に使えたら、もっともっと心を立派に磨こうとするよね。また自分ひとりの力で生きているというのも、この世の人の普通の感覚です。本当は神さまに生かされているよね。全て必要なものは神さまから与えられて、護りに譲られているはずなんよね。それに気付かないというところも、あとに行き詰る一つの原因になっているのね。それは神さまに心を向けて「神さまに生かされている」ということに気付いて感謝してゆくという生き方が必要なのね。だから、「お医者さんに頼っても治らん」という状態になった時に、はじめて本当の救いを神さまに向けるチャンスよね。いろんな勉強材料があるよね。

【周りにいる私は何をしたらいいのですか、出来ることはないのですか。】

ありがとうございます:

 それはみんな自分自身の勉強かもしれないのね。周りの人の姿は、全部自分もそういう時期があったかもしれないし、今も自分はそういう心を残しているかもしれないから、自分の心の大掃除という意味で、マイナスの姿をもう全部消し切った方がいいでしょう。表面に出ていなくても心に残っている場合が多いよね。その心の中のマイナス面を、全部外から勉強材料として見せてくれるのね。それで順番に消してもらうようにすれば、自分の前にはそういうマイナスは出てこないかもしれない。最近は、癌になった人でも「ありがとうございます」を唱えて治った人が、不思議に大勢いてますね。それも一生懸命唱えたときは、必ず不思議な加護をもらって、神さまにとったら病気を瞬間に治すのはなんでもないのね。ただ、「我の心」で生きている時は、神さまの助けを拒絶するの。神さまは絶対、人の自由を縛れないのね。強制的に「良くしてあげる」ということはできない。本人が願ったらいいのね。本当に我を出さずに、神さまの御心を素直に受け入れて、神さまの御心のままに生きるというのだったら、いくらでも応援してくれるから、マイナスを全部プラスに置き換えてくるのね。私も二十歳ぐらいの時は、お祈りして人の病気ばかり治している時期があったのね。「みんな神さまで完全で、無限健康そのものなんだ」というふうに祈ることによって、目の前の人だけじゃなしに遠いところの人も一生懸命祈っていたら、全部治っていったのね。何万人ってね。

 人の病気を治したから「その人が本当に幸せになったか」というたらなってないのね。心の勉強をしなかったでしょう。人に治してもらったって、本人の勉強には少しもならない。また病気になるかもしれないよね。逆に言うと勉強材料を奪ったかも知れないという感じがあるのね。ただ、自分自身のお祈りの勉強にはなったし、どんなマイナスもプラスにしっかりと見つめる練習になったのね。そういう意味だったら、私はお祈りの練習をさせてもらってよかったなと思うんですけどね。

 最近では人の病気は、お祈りで治そうとは思わないのね。逆に「したら駄目」と思っているの。もし、お祈りで治るのだったら、本人がお祈りをしてお祈りの力をつけるほうが幸せなのね。だから感謝の練習をしっかりとして感謝を深める方が、本人が早く一番幸せになるよね。そのチャンスの勉強材料を奪ったら駄目だと思うのね。お祈りしたら本当は治るのよ。人のものでも治せるんだけど…。でも、表面的な「思い通りになる」というのでは本当の幸せではないの。感謝を深めて、神さまが既に与えてくださっている無限健康を捕らえたほうがいいのね。そうしたらスッと健康に置き換わってくるね。

「痴呆」について

【痴呆の方ですが、本人さんよりも周囲の方がその痴呆の方の行動で大変困ります。周囲は治したいと思っても、本人さんは治ろうとは思っていませんから、そういう場合はどうしたらいいのでしようか?】


ありがとうございます:

 本人さんの勉強もあるんですけどね。ただ、表面的に意識がはっきりしてなくても、勉強しているのはどこの自分かというと「奥の自分」ね。全く意識がない状態でも、本人にとったら大きい修行かも知れないね。そういう姿を受けている周りの人も、本当は修行なのね。また、そのお世話をせんならんという立場に置かれる人も、過去に自分がお世話になって助けてもらったことがあるはずなのね。その恩返しという意味があり、借金返しの意味があるの。いろんな複雑な関係で、それぞれ借金返しをしたり、恩返しをしたり、また人助けをして、自分を立派に磨いていく勉強材料を与えてもらうのね。本当は、自分の為に「神さまがそういう姿を演技している」というふうに見たほうがいいね。そうすると神さまに感謝して、自分の心の間違いを正してもらって、また過去世のいろんな借金、借りを返させてもらって、本当の幸せな自分に早く置き換えてもらえると思うのね。ただ、いろんな見方があるんで、その時その時勉強させてもらうのが一番いいんです。

「大食」 

【昨日テレビで、一人の人が10キロ、11.8キロほどの食べ物をたくさん食べるという番組があったんです。例えば、吉野家の370グラムの天丼を一時間で20個食べれる、ということは約8キロですね、あれはどう考えてもよくわからないです。人間の能力として、例えばマラソンなんかも我々が走ろうたって走れないわけですけれど、ところが食べることに関してごく普通の人や細い人が、8キロも食べるというのは、その人だけで食べているのか、または何か別の者が食べているのか、そう言う事ってあるのでしょうか?】

ありがとうございます:

 あるんですね。肉体人間に縁のある背後にいろんな霊魂が憑きますよね。それは、先祖霊もありますし、いろんな動物霊もありますし、いろんなものが憑くんですよ。それも波が合うと、共同作業的に食べ物でも食べるんです。そうするといくら食べてもお腹がふくれないし、もう底なしに食べられるのね。お酒もそうよね。はしご酒する時はそうよね。お酒を飲みたいという人間の霊魂もあるし、龍神とか、馬とか、動物の霊魂がいるのね。そういうのに波を合わせてしまうと、なんぼお酒を飲んでも酔わなくなるのね。それで、底なしに飲めるようになり、凄いことが起こるの。食べ物でも、何かをするのでもそうですね。波の合うところからいろんな働きかけがあって、また助けてもらう意味もあるし、こっちから助ける意味もあるんですけど、本当は肉体人間のこの自分だけが何かしてるんじゃないんですね。


アメリカの多発テロ」

【9月11日にアメリカで多発テロ事件があったんですが、あれはどのように考えたらよろしいんでしょうか。】

ありがとうございます:

 いろんな考え方がありますよね。済んだことはもうあまり掴んで、それをどうのこうの言うより、「愛の心で相手の過ちを許す」というたらなんだけど、「これからの事、未来の事がどうしたら良くなるか」というのを、考えた方がいいですよね。テロを恨んで報復するというんだったら、また恨みを生んで報復されますよね。それがどんどんエスカレートするかもしれないね。本当はみんな自分の運命は自分が責任を持たないといけないのね。そういう目に遭うとしたら、過去に何か責任があったんですね。それをやっぱり「自己反省の材料にする」というのが大事ですよね。また、当事者でない私たちも同じなんです。周りの全ての姿は「自分の身代わり、振り代わりで助けてくれている」いうふうに見た方が、自分も反省して立派になっていけるね。そこで、神様の助け受けるという意味で「ありがとうございます」と感謝する事が、そういう人たちにも神様の光が届いて、「みんなをどんどん幸せにしていって下さる」というふうに思うんです

「ありがとうございます」の言葉・祈り

【「ありがとうございます」のシールを家に貼るときには、細かくして小さくしたのをたくさん貼るのがいいように思うんですけど、そういうことはないんですか。】

ありがとうございます:

 この「ありがとうございます」というのもそうですが。神さまの宇宙の仕組みが入れ子構造になっています。入れ子構造というのは、小さい箱の上にもう一つ大きい箱があって、更に大きい箱があって、箱をズーッと重ねていくのがあるでしょう。あれを入れ子構造というのね。宇宙の仕組みは、みんな相似形の縮図の姿をとっているのね。例えば、地球があったら地球儀という模型の縮図があるでしょう。それと同じで大宇宙が縮小されたら地球になり、またそれが縮小されて人体になり、また細胞になり、原子になり、というふうに同じ構造の縮小された姿で、ズーッと続いているのね。本当の「ありがとうございます」というのは、神様の全体像を指していて、神さまの働きの全てを現す言葉なのです。言うたら宇宙全体の本当の仕組みを指しているのね。それが入れ子構造になっているから、「ありがとうございます」の中に「無限の無限のありがとうございます」が含まれているのね。またその「無限の無限のありがとうございます」の中の一つの「ありがとうございます」の中にまた「無限の無限のありがとうございます」が含まれているのね。そのように見ると「ありがとうございます」の一言に、その中に「無限の無限のありがとうございます」が無限に無限につながってるのね。わざわざ小さくしてもいいんですけど、しなくてもいいの。この世だけのそういう数に捕らわれない方がいいと思うよね。

【全てのものを創られた方の一番の思いは「ありがとうございます」ですか?】

ありがとうございます:

 思いじゃなしに、本当の神さまの名前「究極の名前」にあたるんです。神さまの名前というのはその働きを指しているのね。本当の神さまの働きの全てを指し示す言葉なの。だから、本当の神さまは全体なのね、その神さましか存在しない。だから、絶対の姿も創造の姿も、無限に無限に輝いた統一する姿も、その分身の八百万の神さまという姿も、またこの世の全ての働き、姿、全部をひっくるめた全体像を指し示す言葉なのね。だから、「ありがとうございます」は小さい意味じゃないのよね。神さまの全体像ね。いろんな神さまや仏様を信じている人が信じる神さまはどういう神さまかというと、小さいのね。まず、この世以外のどこかにいる神さまになっているでしょう。この世は特別なんよね、この世と離れた存在でしょう。また、宇宙全体を統括する神さまかというと、そうじゃないかも知れないし、表現として現れた姿の奥にある絶対の働きかというと、そうでもないかも知れないね。そういういろんな働きをバラバラに捉えるとわかりにくいでしょう、一つに繋がらないとね。この世にいる人でも、本当は本当の神さまと一体なんよね。でも、あの世にいる神さまとは一体じゃないよね、まだ離れているもんね。本当の神さまと一体だったら、そこを通って一体になるでしょう、あの世の神さまともね。また、いろんな神さまと全部と一体化できるのね。だから、全てを一つにつなぐ言葉が「ありがとうございます」よね。「愛の一体感」として湧き出る言葉なのね。

【本当のお祈りということは「感謝をする」ということですか。】

ありがとうございます:

 そうね。だからいろんな話の中で気付いていかれると思うんですね。「何が本当のお祈りか」というのもね。

【「ありがとう」のお祈りのことなんですけれども、私達はお祈りばっかりしているわけにはいきませんので、例えば、電車の中で座っている時とか、家の中におっても何か仕事をしていない時のちょっとの時間でも、そういうときに口に出して言えればいいですけれども。人がおれば「こいつはなにをしているのか」と思われるので、口の中か、黙って「ありがとうございます」と心の中で唱えるようにしていますが。口に出した方がいいという人もあり、何回か数えて口に出したほうがいいと教えて頂いているんですが、その辺の違いというのはあるんですか。】

ありがとうございます:

 そうねえ、私は口に出さないの。日も閉じてしまうし、耳もとじてしまうし、深く祈るときは心の中で深く祈らないと祈れないね。この世を見ながらでは深くならないね。この世を一切見なくなった方がいいぐらいにね。それで神さまの最高表現の世界、無限に無限に輝いた世界をしっかりと感じ取るのが本当の感謝の祈りなのね。本当は、心の中だけでいいのね。口に出していい時は口に出されてもいいし、そこは自由でいいと思うんですけど。


マイナスを消すためのお祈り

【ここに来た場合は、一人で自分のマイナスを取るよりも少しでも多く取ってもらえるかな、と思って。】

ありがとうございます:

 ここへ来なくっても取ってもらえるんだけど。私はもう、みんなのマイナスを全部、別にここに来られない人の分まで、お祈りで取っているのよ。全部取り続けてお祈りしているのね、感謝が出来るように助ける役目をしてるんですけどね。その他に、やっぱり地球にいろんな出来事が表面的に吹き上がる時は、その分まで消す役目をやっぱりせんなんでしょう。受けた時は、結構体調が崩れるのね。同じ症状を本当は取らないといけないんだけど、まだそこまで症状は出てこないけど。だから、息が止まるくらいの深いお祈りをせんなん時がある。そうすると体が鉛みたいに重たくなって、動けなくなってしまう時があるね。それでも一生懸命祈っていると、段々消えてしまうね。体の全身が痛むぐらいじゃ軽いの、痛みが全身駆け巡り、のた打ち回る痛みもあり、そういうのは慣れているから大丈夫なのね。でも、苦しいことはないのよ。喜びが無限に湧き出る状態よね。みんなが幸せになっていくし、みんなの幸せが私の大きい幸せになっていくでしょう。幸せがどんどん大きくなっている感じなのね。

【いろんな人のマイナスを消すためにお祈りしているとおっしゃいましたけど。例えば、病気になる人はその人が選んだことになるので、治してあげたらためにならないとおっしゃいましたね。矛盾してないですか。】

ありがとうございます:

 病気は治さないね。そういう表面的なことじゃなしに「感謝の出来るように助ける」のね。根本から、お祈りが出来るように助けているのね。感謝できたら自分で病気ぐらい簡単に治せるよね。「感謝が出来ないと何の解決も出来ないのね。病気治すのは瞬間に出来るよ、簡単に出来るよね。でも感謝が出来るようにするのはもう長時間かかるの。本当に祈り続けて拝み続けないと出来ないから。


何故この場所に・・・

【ここの場所は、どういうことで住まわれたのですか。】

ありがとうございます:

 ここへは六年ちょっと前にこっちへ移ってるんです。別に「私は何も要らない」というような気持ちで生きていますので、これも自然に神さまが準備して与えてくださったような感じですね。出来たら一番質素な山の洞穴で良かったのですが、でも洞穴だったらみんな来れませんよね。これはもう自然に与えられたものなんです。私は三年余り前までは、お祈りを根幹にズーッとしてきていたのね。そして、枝葉にこういう勉強会もしたり、あちこち行ったりしてお話させてもらったりしていたのです。三年前から全部それを止めてしまって、お祈りだけに入ったことがあるのね。でも、最近復活してるんです。本当は「お祈りだけをしないといけない」と言われているのね。

 本当のお祈りというのは、一番カがあるらしい。一人一人の本当の姿を引っ張り出して、本当のお祈りが出来るように変える力があるね。「本当に感謝できるように生み出すのはお祈りしかない」と言われ、「深いお祈りが要る」と言うのね。深いお祈りというのは「拝み出す」というんです。表面のマイナスも全部取らないといけないのね。引き受けて取って奥の本当の姿を引っぱり出す。「根本から、人の大きいマイナス消して、大きいプラスを引っぱり出さないといけないんだ」って、表面の病気を治すような簡単で小さなものじゃないのね。「いい加減なお祈りではそれが出来ない」と言われるの。それで「他の全部捨てて、命をかけてお祈りだけに入りなさい」と言われたのね。それで、「勉強会を全部止めて、人からの個人相談も全部お断りして」と。本当はあんまり冷たいことは嫌なんだけど、でもお祈りの時間が奪われるから、奪われると本当の手助けが何も出来ない状態になるの。

 若い時は葉書でもたくさん出していたのね。多い時は一万枚ぐらい出していたことがあるから、友達でもたくさんいたね。何万人っているいろんな人から、手紙やいろいろのものが来るから返事も書いていたので、相当数が多かったわね。そうすると、お祈りの時間がどんどん奪われるのね。やっぱりお祈りの方が大事だと自分も思い言われると、二十年ぐらい前からもう一切手紙も出さなくなり、手紙をもらっても返事も出さないくらい「冷たい人やなあ」ってね。どんどんそれを省略してしまったのね。そこまで徹底しないと、お祈り出来なかったの。それでも枝葉のいろんな仕事がいっぱいあるでしょう。最近は神さまの方から、もう「お祈りだけしないといけない」といつも言われているのね。でも、そうばっかりは言っておられないね。だから皆さんは、ここへ本当の感謝のお祈りの確認に来られるわけですね。「本当のお祈りとは何か」という確認に来られて、直にお祈りが出来る時期が来て、そういう自分に変わって、本当の神さまの助けを受け入れる状態になっているのよね。本当のお祈りをするための、ある意味では「これが正しい」という生き方をやっぱり確認したいわけでしょう。そういう意味で皆さん来られるのね

「臓器移植・脳死」の考え方

【臓器移植とか脳死に付いての考え方は。】

ありがとうございます:

 ねえ、いろんな生き方があるんですよね、番組ごとにね。ただ、本当の神さまの助けを受けるんだったら、そういうことをせんでもどんな病気でも治してもらえるから、健康体に置き換えてもらえるので、そこまでせんでもいいと思う。ただ、番組によって低い番組では、病気を対症的に治そうとするよね。「部品を取り替えたらよくなるかなあ」という生き方もあってもいいのね。いろんな段階の姿があってもいいんですけど。ただ、そこに留まっていても本当の幸せじゃないよね。「もっともっと生き方がいっぱいある」というのがいいよね。

「狂牛病」から学ぶ「本当の感謝」

【狂牛病ですね、肉を食べて人間に移るというのがあるんですが。宗教では肉は食べないほうがいいから、やはり肉は食べないほうがいいのでしょうか。】

ありがとうございます:

 「美味しいから食べる」というのでは、できるだけそういうように食べないほうがいいんです。ただ、動物が人に対して自分の命を捧げて「どうぞそういう形で命をお使いください」という気持ちで捧げてくれたら食べたほうがいいね。それは動物が早く進化する姿をとるね。ただ、その時に食べた人は、いいことをいっぱいしないと駄目よね。そしたら動物の進化を大きく助けることになるね。「人間が勝手に殺して食べて」というのでは、そういうことはしない方が人間にとってはいいのよね。「神さまからの命を頂く」という意味だったら、本当は動物も植物もみんな同じ命を生きているのよね。捧げ物だったら感謝して頂くのはいいし、菜食だけが殺生してないかというとそうじゃないね。人間が勝手に食べるというのだったら、菜食も殺生よ。神さまの命を頂くというのだったら、殺生にはならないですね。空気を吸うだけでも、空気中の微生物を殺しているかも知れないし、水を飲んでもそうかも知れないしね。どんな食物を頂いても殺生かも知れないよ。本当はね。

 それは、神さまからの命を頂いた、重みを頂いたという感謝があったら殺生の罪はないのね。私も小さい時から耐乏生活させてもらって、やっぱり「殺生」という言葉は気になっていたのね。「動物を食べたらやっぱり殺生かな」という感じが残っていたのね。月のうち三週間断食で、十年あまり断食ばっかりした時期があったのね。本当の断食というのは、物を食べないことじゃなしに、「神さまの命を頂いた」と気付いたらいいのよね。『神さまの命を頂いているというといつも断食よね、ものを食べながら断食。』そういうことに早く気付いたら、自由自在になるかもしれないね。感謝というのでも、今までの感謝はどうしても浅いのね。いい物をもらって、親切にしてもらって「ありがとうございます」よね。今までのは本当の感謝じゃなかったのね。

 「本当に感謝に生きる」というのは、そういう浅い小さいものじゃないのね。でも、これからは「感謝」に生きるのが必要になるのね。今までの人類は「思い」に生きてきたのね。科学者のデカルトという人は「吾思うゆえに吾あり」という言葉を残しているよね。パスカルですかね「人間は考える葦である」とかね。そういう言葉はさも最高の言葉のようにみんな思い込んでいるでしょう。考えたり思ったりするのが人間なんだ、そうでなかったら人間でないような、人間以下のような考え方を持っていたでしょう。でも「思う」ということは、いいことじゃないの。「思う」ということは縛りを作っていくのね、思うことによって自分を縛り、人を縛るの。思い続けることによってどんどん縛りが増えるのよね。それで自分をつまらんものに自己限定してしまう。最初から「本当の感謝」に生きていたら、神さまと一体の自分が自覚できたのね。無限の無限に輝いた自分というのをしっかり実感できたはずなのね。そうしたら幸せって絶対崩れなかったのね。でも、感謝を忘れて実行しなかったから、「思う」ことになってしまうわね。「感謝をしない」ということは、「思うしか仕方がなくなる」のね。そうすると思いが積み重なって、いろんな意味の自分を縛る縛りになってくるね。すると益々感謝を忘れて、神さまの世界、感謝の世界が遠ざかるのね。そして七難八苦でいっぱいになる状態、また地球が滅亡するかも知れないというような、そういう状態へ追い込まれたのね。それも一つの過程としては別に悪いことじゃないんだけど、そういう過程を一回通って、もう一回感謝の世界へ戻ればいいんでね。でも、今からは感謝に生きて、「本当の感謝の生き方」をして、神様の世界へ飛び込まないといけないね。神様の世界へ戻って本当の神さまの最高番組を受けて味わうようにならないとね。そしたら「無限の無限の幸せが一杯」という極楽世界に住むのね。この世のようなマイナスがいっぱいの世界じゃなしに、無限の無限のプラスばかりの世界になるのね。

【本物の感謝というのは、どういうものですか。】

ありがとうございます:

 本当の感謝はね、宇宙全体が神さまの全ての特性を無限に無限に輝かせた姿をとるのね。神さまの特性という働きはたくさんあるの。例えば、幸せ・喜び・安らぎ・愛・知恵でも、神さまの働きは本当に数え切れないぐらいたくさんあるの。それが全て無限に無限に輝いた姿をとって、それが宇宙全体として構成されるのね。その無限に無限に輝いた宇宙の姿がまた無限に大きく無限に小さくと、無限に無限にまたそれが輝くという姿をとるのね。その無限に無限に輝いた姿をしっかり捉えたら、先ず感謝に近くなる。でも、まだ近くなるだけなのね。その奥がまた深いのよね。だから「表現の姿」と、「神さまの奥底の絶対の姿」とは比較にならないぐらい違うのよね。これを例えたら、海があって表面に波があるでしょう。表面の波が表現よね。これが無限に無限に輝いた宇宙という姿で、移り変わった姿をとっているのね。その波と海の実態とはぜんぜん比較にならないでしょう。海はもうそこ知れん深さがあるでしょう。そこにいっぱいいいものが詰まっているという感じよね。表面の輝いた姿を感じたからって、まだ神さまの実態、全体像をとても捉えてないね。

 本当の感謝は、その神さまの全体像をしっかり捉えないと駄目なの。「表面から奥の絶対まで」全ての働きを捉えてはじめて本当の感謝の祈りになるね。表面の全てを捉えるというのは、一番下のマイナスの全体の番組も捉えないといけないの。そこにもいろんな価値を幸せを勉強材料を見出さないとあかんのね。例えば、地獄番組に波長を合わせてみたとして、そこから何を学ぶかでしょう。それも、自分の無限のマイナスをみんなが身代わりに振り替えて消し続けている姿、大犠牲の愛の姿と見たら、マイナスに見えないよね。みんなプラスの愛の姿に見えるでしょう。地獄のどん底の姿にしても、地獄のどん底の表現が、ゴチャゴチャに出ているのと違って、もうそれは神さまの最高傑作ね。ジグソーパズルでピタッとあったのが極楽世界とするでしょう。それと全く正反対に、裏返して合わさないと駄目でしょう。もう人間業では出来ないね。単なる人の思いでどうのこうのとは言えないね。地獄の姿にしても、神さまでないと創れない、本当の極楽を創るのと同じだけのカの要る最高傑作なのね。

 芸術的な立場から見たら、それはもう「世界最高の傑作」と見えなあかんのね。だから、表面の低いものから無限に無限に高くなっていくその全体をいつも見通して、尚且つ、その奥をしっかり捉えての神さまの全体像よね。本当は神さまが「絶対の愛」という一面を現しているとしたら、絶対の愛がいろんな愛の表現をとって、表現の現実の姿なんて愛の塊、結晶よね。もう原子一個が愛の結晶なの。ダイヤモンド以上に無限に輝いている愛の結晶、無限に輝いている姿をとっているね。石ころもそうよね。石ころも神さまの愛の結晶として石ころの姿をとっているのね。石ころって踏まれても「ありがとうございます」と感謝してくれているね。本当は石ころも、宇宙を自由に飛び回りたいかも知れないでしょう。その自由を限定して縛って「ジッと何されてもジッと」そこに静止して「みんなを愛しています」と言っているのでしょう。だから、この世にあるすべてが愛の固まり、結晶に感じられてこないと嘘なのね、本当はね。そういうふうに感じられてきたら「ちょっと感謝がちょっとわかったかな」という感じになってくる。

「神様の愛に気付く」には

【感謝ということは、「神様の愛に気付く」ということ。】

ありがとうございます:

 「神さまの働きを感じ取ること」なのね、愛の働きもそうですけど、知恵の働きも…てね、全ての働きを実感していくことが感謝になるんですね。

【その感謝を感じ取る方法なんですけれども。やはり日常生活に振り回されているよりは、ある時間を決めてお祈りというか瞑想を、どういう方法がわかりませんけれど、神様を信じて「ありがとうございます」を口の中であれ心の中であれ唱えるということからはじめていって、段々段々しまいにはそれを続けていると、口で表現すると上のレベルというか、そんなふうなところを感じ取れるようになるんでしょうか。】

ありがとうございます:

 そうね。本当は神さまが一人一人を常に護り続けているのよね。思いを出して思いに捕らわれて感謝を忘れた時も、必要な体験はさせてくれるのね。思いに捕らわれて苦しんでもう一回感謝に戻った時は、感謝の良さがよくわかるでしょう。本当の価値が見出せるでしょう。一旦は思いに捕らわれても構わない。その後、無限の無限のマイナスの思いを積み重ねても、神さまはそれを免除して消してくれるのね。それで、感謝の心を起こさせてくれるの。自分のカで、努力で、思いを消してきたんじゃないのね。全然してないよ。無限の思いをもし起こしたとしたら、それは利息が付いて増え続けるだけだから、消しようがないしどうにもならないのね。その思いを先ず神さまが消し続けて軽く済ますの。それで、本当の無限のプラスを感じさせるように与えてきて、それを感じ取り感謝を起こさせて、これは全部神さまがしてくるのね。助け続けてくれて、それで感謝の心を起こせるようにしてくれたのね。だから、感謝したから助けを受けたんじゃないの。逆に、神さまに助け続けてもらった結果が「ありがとうございます」になって出てきているのね。一回「ありがとうございます」を言えたら、神さまが助け続けてくれているから、あと続くのは当然なのね。それが続かないと嘘でしょう。途中で見放すような神さまじゃないね。後はもう感謝がぐんぐん深まって、本当の感謝のお祈りまで高めあげて深めて、そして本当の神さまを感じさせてくれるわね。そして「宇宙全体が神様そのもの」って、「神さま以外どこにも何もないんだ、神さまばっかし、神さまだけ」というふうに感じられてくるのね。そしたら、マイナスというふうに感じる心は消えてしまうよね。もうすべてが無限の無限のプラスだけというふうにね。そこまで入ったら感謝三味よね、本当の感謝よね。

魂のない肉体はゴミみたいなもの

【人間が亡くなるときに、死後硬直ということがありますが、その死後硬直をしない人があると聞いたんですが。そういう感謝の心があればそうならないというようなことですか。】

ありがとうございます:

 心が自然な柔軟な心になったら硬直はとけるともいうんですけどね、それは大したことないよね。肉体は魂が抜けたらもう後はもうゴミみたいなもんじゃない。ちょっと上着を脱ぎ捨てたもんじゃない。だから、中身の方が大事、「魂の自分とか、本当の命の自分とか、神なる自分とか」ね、そんな感じの自分が大事なのね。だから中身の自分をしっかり自覚していく方が大事だと思うね。

「感謝に生きる」

ありがとうございます:

 さっきの「思いに生きる」のと「感謝に生きる」のは正反対の生き方というんです。みんなは、ふつうは思い通りになったら喜んでいるでしょう。自分の思い通りになったら本当は駄目なの。感謝に生きて神さまからのプレゼントに気付いていく方がいいのね。神さまの方が無限の無限の幸せを既に与え続けているの。感謝に生きていたらその無限の無限の幸せを一杯、「無限に無限に幸せが一杯」に気付くのね。ところが思いに生きていたら、もう絶対に気付かない。思い通りになっても一つの自己満足ね。「それで幸せになるか」というと、絶対なれないね。単なる一つの自己満足で終わってしまう。次から次へと思い通りになっても、これは駄目よね。逆に、自分の思い通りになった時は、他の自由を縛って自分のものになっているのね。他からの借金、借りをいっぱい作っていることになる。だから、思い通りになったら、今度は反動で思い通りにならなくなる。それが苦しみに変化する。「思い通りにしよう」という生き方は間違った生き方よね。自分の思いを願いを捨てて、人の為に、人の思い、願いを活かしてあげるぐらいがいいんです。でも、それでも感謝とはぜんぜん違う。人にマイナスを背負わせる事になる。それがね、借りを背負わせるよね。思い通りにしても借りを背負わすのね、借金を背負わしたらその人はまた心が七難八苦でいっぱいになってくる。だから、この世でどれだけ権力を握って贅沢三味に生きて、権力を振るってみんなを支配しても、その人はみんなからの借りが無限に大きいね。その反動で地獄で無限の借金返しをさせられるから、少しも幸せになってないのね。

 本当の幸せはやっぱり感謝に生きて、既に与えられてる幸せに気付いていくことだけよね。この世だけでもそうでしょう。大自然を見ても「太陽さん、ありがとう」といえる人は、太陽の恵みに気づいてるよね。ふつう思いに生きている人は気付かないよ。太陽があっても気付いてないよね。そんなことは眼中にないという感じて生きているわね。空気があってもみんな感謝しないでしょう。でも空気がなかったら瞬間に死んでしまうわね。そういう幸せに必要な大切なものは既にみんな与えられているのね。それに一つ一つ感謝の心を起こして気付いていくほうがいいでしょう。大きい幸せよね。お金を何億円宝くじが当たるより、太陽を一つ与えてもらうほうが大きい幸せじゃない。比較にならんでしょう。太陽一つは無限に大きいじゃない。そういう本当の幸せにどんどん気付く方がいいでしょう。だから、感謝に生きて、無限の無限の幸せに気付く人が本当の幸せを気付くのね。

2001.10.06.02

「古神道」について
 
【古神道のことなんですが、資料を見せていただいたんですが、よく解らないんです。】

ありがとうございます:
本当の古神道は、この世に出てないですね。本当の古神道は神様の世界になるのね。神さまの本当の働きを古神道というの。この世にはほんの一部しか降りてないのね。ただ、神様の働きを指し示す言葉として、古事記の本があるね。ちょっと模型的には、ある意味で「素晴らしいなあ」というところがある。この世に降りているものなんて大したことはないから、それは最高でもなんでもないよね。古事記の本の解釈でも、あれは一つの解釈の例ね。浅い解釈も、深い解釈も、幾通りもの解釈があり、またもっと深い解釈もあるし…。
 
ありがとうございます:の解釈ですか?】
 
ありがとうございます:
でも、あれはまだ浅いよ。

【神様から教えられたものを書かれたんですか。】

ありがとうございます:
神さまから教えられたというたらそうだけど。いろんなところからインスピレーションはいっぱい降っているわね。「どの段階で受けるか」でいろんな解釈を施せるから、ただその本には文字で書いてないけど、まだまだ深い解釈がいっぱいあるのね。でも必要だったら必ず出てくるよね。あくまでも神さまの働きを説明する模型的な働きとしての役割ね。地球儀は地球を知るための一つの模型として使うでしょう。神様の働きも古事記という本の文字になって示しているのよね。文字の解釈というのは本当に難しいね。辞書に載っている解釈では当てはまらんことが多いね。特に神さまの働きを深く極めるためには、人の使っている言葉の解釈では駄目なの。全く正反対になるかもしれない。だから、神さまのほうからの響きをキャッチして、神さまだったらどういう解釈を施すかというのが大事よね。ああいう解釈もあるという一つの参考よね。

 
「食物連鎖」について

【食物連鎖のことですが、我々は食べるということをしなければ生きていけませんね。これは何故なのか良く考えてみてもわからんのです。何故地球上には食物連鎖があるのか、本当は殺してはいけないけど、殺して食べていくというのは何故なのか。】

ありがとうございます:
見方が二通りあるのよね。神さまは全体なの。全体が、お互いに助け合って、活かしあって、目的を持って日的に向かって役割を果たしていくわけよね。だから、身の捧げ合いというたら殺し合いじゃないよね。命を奪い取ってないもの。感謝の心でプラスにみると、感謝の生き方は、神さまから必要なものを受けて、それをまた全体へお返ししていく、全体への奉仕になるから本当の活かし合いの循環になるのね。思いのほうでみると、やっぱり自分の思い通りにしたいというのが先に入って、自分が動物を殺して食べているとか、その食物連鎖のような姿をとっているというマイナスに見がちなのね。マイナスにみたらいくらでもマイナスにみていけるし、プラスに見たらいくらでもプラスにみていけるね。でも、正しい見方はやっぱりプラスにみる見方、感謝の心を起こして、感謝の心でしっかりと神さまの愛の働き、調和の働きを見抜いていくことが大事なんですね。
ただ、あの世にはいろんな無限のチャンネルの番組があって、それぞれにいろんな表現があるね。神さまはありとあらゆる番組をぜんぶ用意してくれているのね。人が思いつく、想像して考えつく、全ての番組がぜんぶ用意されている。あの世でも、物を食べない世界の番組もいっぱいあるの。そういうのが必要じゃない世界もたくさんあるの。ただ、この世も本当は何も食べなくても生きられる人もいるのね。霞を食うような感じで、何年も断食しても大丈夫な人もいるのね。ただ、それもこの世の人の人類の思いを越えるぐらいの、強いプラスの信念がいるんです。もっと心が自由になれば、不可能ではないんですね。「何か食べないと生きられない」というようなマイナスの信念だと食べないと弱ってくるのね。もっとプラスの大きい信念があったら、何も食べなくても大丈夫という姿をとれるのです。

 
 「天命・天職」を早く見つけるには

【天命とか天職とかいうのを見つけたいと思うのですが、この世に生まれて実際何をしたらいいのかと迷うと思うんです。僕は幸いにこうかなあと思うことはありますけど、それでもまだ迷ってるんです、本当にこれでいいのかというのを迷ってるんですけど。自分が天命とか天職なり、何故生まれたかということを早く見つけるというのはどうしたらいいのかということをお聞きしたいです。】

ありがとうございます:
神さまの助けを大きく受け入れていくことなのね。自分だけのカでは限界が来るね。本当の神さまの助けを受けたら必ずそれが可能になるのね。

【それを教えてもらえるのですか。】

ありがとうございます:
教えてもらうだけじゃなしに、中から力を添えてもらうのね。だから、必要なことを知るんだったら、その知恵を先に中から与えてもらえるから、外から教えてもらうんじゃなしにね。フッと気付くのね。最初からわかっている自分が出てくる。言われてするんだったら、ギャップがあると出来ないけど、カを添えてもらったらスッと出来るのね。人に与えられた天命というのは、神さまの最高表現を受けてこの世に現実化することよね。ただ、「この世だけで」という浅い生き方では、まだまだ「本当の天命を果たす」というのは難しいのね。そりゃあ何%かはちょっと出てくるかも知れないけど、本当の意味の百%の天命を果たすのは難しいね。

 
 「人間は人間として」生まれ変われるのか

【輪廻転生で生まれ変わるということが皆さんには受け入れられていますけど、人間は人間に生まれ変わるんでしょうか、それとも動物にも石とかにも生まれ変わるんでしょうか?】

ありがとうございます:
いろんな見方があるんです。本当の神様と一体の自分から見ると、宇宙のありとあらゆるものに立場を移してそれを体験するのね。原子にもなるし石ころにもなるし、植物にも動物にもなるし、人間という立場にも立つしね。また大きく一つの星になったり、大きい大字宙になったりするし、本当の神なる自分はそれは自由自在なの。

【それは自分で選べるんですか。】

ありがとうございます:
本体の自分から見ればそうよね。順番に選んで、楽しい体験をして、楽しんでいるっていうね。ただ、肉体の自分というのは、かなり限定された姿を掴んでしまっているね。その魂の生まれ変わりというのも、低い番組の姿を掴んでいるね。輪廻転生なんて低い番組の世界にあるから、もうちょっと高い番組には輪廻転生のない世界があるのね。だから、その輪廻転生が全てじゃないのね。最初から輪廻転生なんて一切ない神なる自分が無限に無限に輝いてくるという番組もいっぱいあるの。だから、無限のチャンネルの番組にそれぞれ自分を置くことが出来るから、どんな生き方でも体験できるね。

【生まれ変わらないことが悟りといわれているのも、ある意味では正しいんですか。】

ありがとうございます:
まあそれも「本当の悟りとは何か」という事も、また難しいでしょう。悟りもピンからキリまで無限の段階があるのよね。悟りという言葉は、本当の神さまと自分との間の「差をとる」というのね。どれだけ神さまと一体化するか、神さまの全体像をしっかり把握できるかでしょう。一つの「この世」という番組を掴んだ状態では、全体像と一体化してないよね。一つの番組の中でどれだけ悟ったかと言ったって小さい悟り、部分的な悟りになってしまうね。だから、輪廻転生しない生まれ変わりのない世界へ自分が入ったといったって、本当の自分の自由自在な立場かどうかはまだわからないね。それも一つの番組よね。

 
 人生は決まってない

【事故で亡くなったり殺されたりする人も、生まれる前にプログラムをしてきたという説がありますよね。】

ありがとうございます:
全ての番組は神様が創るのね。無限の無限のチャンネルの番組を、既に神さまが用意して創ってくれているの。それを人が自由にチャンネルを合わせて選んで、それを運命として体験するのね。

【その体験は、人生の途中で変えることは出来ますか。】
 
ありがとうございます:
うん、うん、もう自由にチャンネルの切り替えは出来るね。

【例えば、事故にあうことを予想できないですよね。】

ありがとうございます:
チャンネルを見通せる人は予測するわね。予見できるわね。番組ごとにそれぞれ運命があるからって、全て予知してわかるよね。

【お聞きしている中では、解らないし予想は出来ないですよね。】

ありがとうございます:
それはやっぱり現実のいろんな姿に囚われてしまって、自由がないのよね。

【気付かないということですか?】

ありがとうございます:
動物や昆虫でも、予知能力が高いよね。人間が本当の直観力を見失ってしまったのは、思いを溜めすぎているね。過去を掴み、過去を積み重ねて、その思いがいっぱい溜まっているの。それが知恵の湧き出るのを邪魔しているのね。だから、頭や心を空っぽにするのがいいね、そしたら自然にスッと湧いてくるのが神様の知恵で、必要なことが直感的に予知にしても何にしても教えてもらえるのね。

【守護霊さんや守護神さんからも教えていただけるのですか。】

ありがとうございます:
う一ん。だから必要だったら、ありとあらゆるところから。宇宙全体から必要な知恵がスッと入ってくるのね。

【こちら側が、それに気付き受け取るという問題ですか?】

ありがとうございます:
はい。だから感謝がどれだけ深くなっているかでしょう。思いを出しているときは、感謝をしないもんね。思いが黒雲になって必要なものを直感するのを邪魔するのね。思いを消して、丁度空の雲が消えて青空に太陽が輝くようになったら、太陽から来るのが神様の知恵よね。邪魔するものがなかったら、必要な知恵がいくらでも湧いてくるのね。

【ということは、人生は決まっていないということですか。】

ありがとうございます:
そりゃあそうじゃない。本体は自由自在ね。人間は神様と一体よね。本当の自由自在を持っているね。一つに捕らわれたら、自分が「勝手に不自由だ」と言っているだけね。

【そのことに関していろんな方がおっしゃっているのが、自分が生まれる前に、今世でこの世に生きるというふうに計画を立てて出てきているので、そういう気付きがあるとするならば、自分がそういうふうに計画してきているからそうなるんだとか。そうするとこの人生は決まりきっていて、何か面白くないと思っていたのですが、そういうふうに決まっているという訳でもないんですね。】

ありがとうございます:
みんな言葉通りになっているのね。そういう言葉で「決まっている」と言ったら、決まっているという一つの番組の中へはまり込むから、その番組の中ではそれが正しい見方になるね。他の番組に心を移したら、また別な考え方、見方ができるのね。全く違う生き方に変わってくるね。

【その移すのは、自白自在に移せる訳ですね。】

ありがとうございます:
自由自在が本当の自分よね。本当の自分に気付いたら、自由自在に番組を選べて、どういう生き方でもその番組に入ったらそれが正しいのよね。

 
 人生は「選ぶ」だけ

【では、自分の人生は、自分で作り想像するということになりますよね。】

ありがとうございます:
本当の意味は、選ぶだけね。創れるかと言うたら創れないよね。自分の見ている世界や運命を、自分の心の力で創っているかというと創れてないよね。ちょっと思ったり心の働きを加えてというんでは、何一つ創れないよね。ただ、「選ぶだけ」なんよ。そういう言葉を使って思って選んで、波長を合わせているだけよね。自分の波長合わせは、自分の使う言葉どおりよね。これはもう法則的に厳然としているね。どういう言葉を使うかによってどういう番組でも選べるというところがあるのね。だから、言葉に捕らわれて縛られたら、「これしかない」というふうにがんじがらめになってしまって、その中にはまり込んで不自由になるね。

【自分で限定してしまうということですか。】

ありがとうございます:
言葉に縛られてしまうのね。洗脳されたように言葉に縛られるの。特に宗教的な教えというのは、強く人の心を縛ってしまうね。「これが正しい」と思い込んだら、宗教的な教えは大体みんな「これが最高」って言っているよね。「これしかない」というふうに凝り固まってしまうのね。そしたらかなり不自由な心の状態ね。それで言葉に操られて奴隷のようになってしまう。世界の宗教戦争というのは、みんなそうよね、教えに縛られて捕らわれて振り回されているよね。偽者の神様の教えを信じているの。まだ、本当の神さまを信じてないのね。

 
 「ありがとうございます」の極致

【どこかの宗教に以前、人っていたことがあるんですか?】

ありがとうございます:
私はありとあらゆる勉強を全部しているのね。入ったというより、一応一通り全部知らないとね。勉強の意味で、いろんな勉強ぜんぶ済ませているから。ただ、本当の言葉も感謝のお祈りで教えてもらうね。神さまの心をキャッチできなかったら何もわからないね。普通は、たくさんの教えを学べば学ぶほど、こんがらがり何が正しいかわからなくなるね。

【内なる神とおっしゃいましたよね。神様はみんな自分の中にいるということで、祈りとかの感謝の瞑想というのはそれを引き出すためのものなんですか?】

ありがとうございます:
そうね。本当の祈りは、神さまとどれだけ一体化するかでしょう。「神さまの全てを受け直せるか」というところにあるのね。だから、祈りは本当に無限に複雑多岐にわたるよね、それが一つ一つの要素が全部無限の段階に分かれているというぐらい、底知れぬ奥深さがあるよね。いろんな角度からお祈りを点検してみたらいいと思うけど、祈っているといっても本当にピンからキリまでね。先ず「どの自分が祈っているか」というのが大事でしょう。肉体の場で祈っているのか、魂の場で祈っているのか、奥の神なる本心の場で祈っているのかで、雲泥の差が出るよね。お祈りも、小さい祈りから大きい祈りまで無限の段階があるわね。また、深さも、浅い祈りから深い祈りこれも無限の段階があるね。祈る目的も、ピンからキリまででしょう。目的の質の高いの低いのといろいろでしょう。それで効果はぜんぜん違うしね。だから、二十四時、一生懸命祈っているといっても、浅い祈りじゃあ大した力はないよね。ちょっと上の祈りだと、一分間でそれをはるかに超える力を発揮するわね。

【いろいろな試行錯誤の結果、それはご自分で確立されたものなんですか?】

ありがとうございます:
順番に「ありがとうございます」って唱えることによって、神さまの助けを受けて、神さまが中から力を添えて変えてくるのね。気付きをどんどん増やしてくれるから、いろんな角度から祈りがどんどん深められて大きくなってくるの。二十四時間一生懸命祈っている祈りでも、本当の祈りはそこにプラスアルファーが加わらないと嘘なのね。プラスアルファーの方が深い意味があるわね。だから、自分が祈っている祈りなんてちっぽけなもんよね。夜も寝んと二十四時間祈ったって大したことないね。
そこへ、例えば、守護霊さん一人の祈りが加わるだけでもこのプラスアルファーの方が遥かに無限に大きい。守護神さんも加わったらもっと大きくなるしね。それで全ての神仏の祈りがあったらもっともっと大きくなるでしょう。自分がありとあらゆる時間、ありとあらゆる次元にいるとして、その全てから祈りが自分に集中されたら、もっともっと大きい祈りになるわね。「肉体の自分」という思いは、もの凄く小さい思い方、囚われだから。本当の自分は、全人類の祈りを全部自分の中に収めでる自分でないと駄目よね。だから、もっともっと大きい祈りをプラスアルファーとして受けて祈っているのね。
またその根本が、宇宙の絶対神から、絶対から、今の一瞬新たに出てくる本当の新しい響きなのね。ギリシャ文字のアルファーって一番最初の言葉だから、アルファーというのはそういう意味もあるわね。絶対から現れる無限に無限に輝いた姿が、更に無限に無限に無限に無限にというようにいっぱい奥に詰まった姿で出てくるね。そういう本当の祈りにバックアップされて、二十四時間の真剣な祈りがこの世にあるわけ。
最初は思いに生きている間は、祈りは忘れているから、その思いから感謝に切り替えたときから、その祈りがどんどん深く大きくなってくるのね。慌てんでいいよ。焦っても仕方ないよね。神さまのほうから助けてくれているから、もう必要とみて思いの生き方から、感謝に切り替えてきてくれているよね。後は神さまの助けで、どんどん深くなるようになっているから、もう自然に任せて「ありがとうございます」と言っていたら大丈夫ね。
だから、お祈りのときの三つの柱というのが大事なのね。先ず、本当は無限の無限のマイナスは全部背負っているのよね。マイナスの思いをいっぱい心に溜め込んでいる思いの姿があるのね。それを人にも分担して背負ってもらっていて、借りがいっぱいあるの。それが無限の無限のマイナスとして、自分に負いかぶさっているのね。神さまというのは、その無限の無限のマイナスというのを、まず免除してくれているの。神さまが振り替えて消してくれているの。「その無限の無限のマイナスをいつもいつも免除し続けてくださっている」ということに感謝がいるのね。その上に、「いつも無限の無限のプラスを受けられるようにいつも与え続けてくれている」ということに対しても先ず感謝しないとね。その上に「無限の無限の感謝が出来るようにしてくれている」という姿があるのね。今は「ありがとうございます」が一回かもしれないけど、無限の無限の感謝が出来るように、神さまは助け続けて一生懸命になっているわね。だから、その三つの柱に対して、やっぱり御礼の感謝をしないと、恩返しも何も出来ないけど、まずお礼の感謝だけはさせてもらわないと損でしょう。「ありがとうございます」と一回は言えるはずよね。その一回の「ありがとうございます」がどんどん深まってくると、中に「無限の無限のありがとうございます」が実感されてくるわね。それでもまだまだ浅いね。そこから、ぐんぐんぐんぐん深められてもらうから。深めてもらうのね。それで自分の周りの全て、この世もあの世も「全ての全てが神さま」というふうに感じられてくるね。「神さま以外に何もない」という「自分と神さまだけ」という感覚に入ってくるね。それが一番幸せなのね。それが「ありがとうございます」のお祈りの極致になってくるね。

 
 「お祈りだけで」与えられるのか

【それを詰めていきますと、何もしなくても、仕事もしない何にもしないで、ただお祈りをするだけで、先生のように深ければそれは違うでしょうけど。ただお祈りをして感謝をしていれば、何もしなくても与えてもらえるものなのか。そんなんで成り立つのかなと、ちょっと思います】。

ありがとうございます:
それは、一つの小さい部分を見た見方やね。肉体人間という小さい立場の姿を見て「何にもしてない」という見方でしょう。だから、形で祈っているように、座って祈っているように見せても、本当のお祈りには、まだまだ程遠いね。

【あれも一つの生き方、これも一つの生き方とするなら、お祈りだけで与えてもらえるのでしょうか?】

ありがとうございます:
だから、本当のお祈りに入ったら無限に無限に躍動した姿をとるのよね。普通人の持てる能力の倍も何十倍も出てくるの。それも自然にゆとりを持った姿で大きい能力を発揮するの。そしたら神業になるのね。「何も出来ない」というのはまだ偽者よ。高い番組ほど、全てがスピード化しているから、短い時間でたくさんのことがいっぱい出来ているのね。高い番組では、人を幸せにする働きでも、この世と比べたらこの世の何万倍という大きい働きをしているの。それだけのものを与えているから、周りから宇宙全体から同じものを与え返されて極楽世界になる。何もしない何も与えないは、嘘なの。同じ極楽世界という言葉でも、あの世の極楽世界へ行ったら「蓮の花の上に乗って、何もせんと必要なものを全部与えられて、ああ幸せなんだ」というのは偽の極楽よね。本当の極楽はジッとしてない。何でも中心に立つほどスピードが早くならないと嘘なの。だから、本当のお祈りの姿というのは、無限の能力を発揮しているのね。
 
 
 男と女の役目
 
【男女の役目というのは何なんでしょうか?】

ありがとうございます:
本当の自分は絶対神よね。陰陽両方兼ね備えて絶対の姿をとるのね。ただ、魂的にみると、男性的な魂、女性的な塊とあるのね。魂を磨き上げるという立場に立った時は、両方同時に立派な姿をとるって難しいね。奥から絶対の姿を現すのは簡単なの。観音様のように悟りの心境でスッと出てくるのは絶対神なのよね。男でも女でもなく、それが自然にスッとできるのね。ところが奥の本当の自分の自覚がないと、下からの積み上げなの。下から磨き上げるのね。そうすると男性的な面を磨くときは、男性の肉体を持ってそこで鍛え上げるの。それだけでは片手落ちなんで、今度は女性に生まれ変わって女性的な面を見につけて磨き上げるのね。それで両方自由自在に表現できるようになって初めて魂が完成されていく。その魂は、例えば、男性的な肉体に降りた時は、男性らしさを完璧に表現するのね。例えば夫婦でいうと、結婚して相手がもしこの世からいなくなり、どこかへ行った時は、男性でありながら女性の働きが全部出来るの。一人で両方兼ね備えて出来るのね。一つの一方しか出来ないのは、まだ未完成よね。人間の姿もいろんなチャンネルでみんな違うのよね。両性を兼ね揃えた生き方をする人間の姿があるのよ。また「両方に陰陽に分かれてお互いに助けあって磨き合う」というそういう姿の番組もあるね。

【そこは理解できるんですけど、何か役目というのはないんですか。具体的にはないんですか。】

ありがとうございます:
助け合いなのね。だから一つの目的に向かって、一方では中途半端になるから、両方助け合って完成させるという意味があるのね。

【ということは、女性だけで生きるとか、男性だけで生きるというのは片手落ちということですか。】

ありがとうございます:
やっぱり一人一人個性があって役割があってというと、役割の違いがないと本当の働きが出来ないですね。同じものばっかりだったら必要ないもんね。

【例えば、結婚しろとか、男と女だから一緒に助け合えというのはわかりますけども、でも、今はそれがなかなか出来ない人がいるじゃないですか。】

ありがとうございます:
みんな生まれ変わりの番組に入っても、全部過去が違うのよね。どういう勉強をしてきているかは全部違うのよね。だから、女性としての生き方を長年続けた人は、今男性の肉体に宿っても女性らしい男性ね。その逆もあるし、両性を兼ね備えてそれが魂になった人は、結婚して磨きあう必要もなくなるのね。独身で自分のよさを表現してしまおうとするのね。この世は全部取り揃えた世界だから、いろんな生き方の人があっていいのね。そういういろんな姿を見て、自分が今どれが足りないかとか、どこが素晴らしいかとわかるはずよね。そして自分の本当に目指すところを決めて、それに向かって進むようになっているわね。

【世の中には離婚、結婚、離婚、結婚とやる人がいるじゃないですか。それも自由ですか?】

ありがとうございます:
それは自由ね。本当に自由なのね。一生に一回するのもいいけど、時間のサイクルが早くなると、極端だけど一生に五、六回。五回生まれ変わる時間を一生でしてしまうというのもあるのね。それが悪いんじゃないね。またその過去世で、それぞれに毎回結婚しいろんな体験を積んできたとするでしょう。それで結婚しても本当の結婚の目的が達せられてない、何も磨けてないとか、いろんな因縁がマイナスが残ったとするでしょう。そういう過去世の因縁を、例えばそれが何百回という結婚の体験があって、それを因縁として残しているとしたら、それを消す方法をもう一回結婚して消すのがいいか、お見合いぐらいで消すのがいいか、というのでいろいろあるのよね。だから、五百回お見合いして、五百回の結婚の因縁を消す場合もある。これはもういろんな生き方があっていいのよ。これは神様のほうから、いろんな応援があってそういうふうにさせてくれる場合もあるし、また、本人の自覚がそういうふうに持っていく場合もあるわね。一人として同じ生き方はなく、みんな自由で、違うのがいいのよね。
もう一つ大きい立場から自分を見つめるんだったら、その全ての人の生き方が自分の分身の働きと見たほうがいいよね。一人の分身では限られた体験しかできないね。だから、たくさんの分身があるから、いろんな生き方が出来て、それがぜんぶ自分の体験になって、大きい自分になってくるというふうに見ると、みんな生き方が違うのがいいのよね。だから、あまり捕らわれないほうがいいと思う。どういう生き方もいいの。

【今相談を受けているんです。ご夫婦で子供さんが二人おられて、ずっとうまく行ってなくて、奥さんの方が別れたいと思ってたんです。子供のことなどを考えたら、別れられない状態だったんですけど、夫のほうから「別れようか」という話がきたらしいんです。私はその人達のために何をすればいいんでしょうか。】

ありがとうございます:
だから、人へのお節介はいらないよね。みんなそれぞれ自由に幸せへの最短コースを神さまに護られて歩んでいるのね。一時的にマイナスに見えても、本当のマイナスはないのね。その人にとったら大きい勉強材料かもしれないね。結婚して離婚してというのでも、本当の助け合い、磨きあいで本当にプラスになるんだったらそれを持続してもいいけど、それをもう卒業したら別に離婚して、また新しい人と結婚しても構わないね。その子供さんがいるからというのも、大きい思いの縛りよね。一人一人自由よね。子供さんも自由よね。親が子供を生んだというのと違うのね。神さまが親の元に子供を預けたというだけよね。子供を護るのは親じゃなしに神さまのほうよね。いろんな体験の場を与えて、子供を幸せへの最短コースを歩ませているのね。親が離婚したって別に構わんね。本当の親は神さまね。

 「感謝行」に生きる

【人の怒りとか悲しみとか喜びもそうなんですけど、直接私に向けられているものじゃなくても入ってきてしまうんですね。それで感謝行に生きる時に、そういった人の気持ちを考えないで自分を高めていくというか、そうしようと思うんですが、それが果たしてみんなの幸せにつながるのか疑問なんです。】

ありがとうございます:
みんな自分の心の中に入ってくるというのはマイナスじゃないよね。入ってくることは自分と一体という意味で、そこでお祈りすれば全部そこへ光が届くのね。例えば人の怒りでもスッと感じた時は、自分の中でそれを消し去るための大きい働きを与えてもらっているのね。ただ、感じられたのは、それもほんの一部、氷山の一角よね。そこへ大きい光が降りたら、その氷山の一角の姿を通して、その氷山の本体の方へ大きく流れるのね。それで周りの全てを清めていくのね。

【私がその感謝行を行うことが、みんなを清めていく形になるんですか。】

ありがとうございます:
はい。奥深い大きい働きというのは、表面の自分では殆ど気付かない。ただ、「ありがとうございます」と唱えているだけなのに、大きい働きをさせてくれるのね。それはやっぱりプラスアルファーの力が大きいのね。

【じゃあ、あんまりその人のことを考えたり、ああだこうだと思わないで、ただお祈りしているだけで、その人たちの怒りや悲しみが少しは和らげるということですか?】

ありがとうございます:
それもあるしね。実際そういう現実に出てくる思いや姿は、万分の一億分の一に、元々和らげてもらっているのね。更に、その上に感謝することによって、大きく消してもらっているという確認の感謝にもなっていくし、いろんな意味合いもたくさんあるのね。もう自然に任せていいよね。どんな思いが出てきても構わんし、どういう思いを感じてもいいし、ただ「ありがとうございます」でそこに加えさせてもらうことが大きい神さまの働きになって来るね。

【特別、目を向けなくても、そういう感じる心を排除するような事をしなくてもあるがままで…】。
 
ありがとうございます:
自然に任せたらいいね。そうね。
 
【はい、わかりました。
ありがとうございます。】

 
 食物アレルギー

【Yさんが質問された異常な食欲は、自分以外の何者かが食べさせているということですが、自分はある時期から、逆に食べられなくなって食物アレルギーが起きるようになりました。他にも食物アレルギーを持っている人もいると思うんですけど、食べるとムカムカしてくるのはどういうふうにしたらいいでしょうか。】

ありがとうございます:
食べ物の好き嫌いは、自分だけの場合もあるし、他からの影響も多分にあるのね。特に妊娠された方はそうでしょう。親としての自分の好き嫌いはちゃんと決まっているよね。ところが妊娠して子供が宿ると、ガラッと変わる人がある。子供の嗜好に合わせてくるね。それも一つの姿よね。またそれだけじゃなくて、好きという人でも嫌いという人でも、その人の思いをちょっと感じるだけで、その思いに振り回されたらその人の嗜好に変化するのね。そばを食べてむかつき食べられなくなるというのも、多分そういうそばを食べて、何かマイナスの体験をした人の思いが来ているかもしれないでしょう。いろんなマイナスの姿をとった時は、表面に出るというのは、その心に溜まったマイナスを消してもらう時ね。心に貯めているだけでは消えないのね。表面に出た時、そういうマイナスの思いを消してもらっているのが本当の姿よね。「ああ、消してもらった、ありがたい」と思うとどんどん変化するのね。

 
 「インスピレーション・アイディア」がわく時

【七、八年ぐらい前に上から「慌てるな、慌てるな」という声が聞こえまして、それはまた聞こえるので「抜いてあげます」と言われお願いしたんです。その行為を信じている訳ではないのですが、自分の中で、まだ「慌てるな、慌てるな」と続いているのか、それともそろそろゆっくりゆっくりした方がいいのか、そういう思いがズーッと続いてるんです。】

ありがとうございます:
いろんな言葉が、インスピレーション的に閃いてくるというのがあるのね。それは無限の次元があるわけでしょう。どこから来る言葉か。普遍は判断つかないよね。自分の心境に応じて波の合うところからしか来ないのね。それが本当に一番上か一番下かわからないよね。普通は、本当の正しい守護霊さんとか守護神さんの導きの声だと、本当に必要な時だけしか、それも、かすかにしか聞こえてこないぐらいの降り方なの。そういう言葉が常にバーッと強制的に降ってくるというのは、もう一つ自分より低いところから降ってくるね。干渉してくるのがあるのね。いろんな言葉の聞こえ方があって、いろんな言葉の種類があるのね。本当に自分にとって必要だったら、それを正しく受けて参考にすればいい。ちょっと参考にすればいいぐらいね。あまりそれに縛られるといけないよね。
本当の神さまの導きというのは、外からじゃなく中から来るね。中から来ると言うのは、湧き上がるという意味じゃなく、神さまの心が自分の心として自然に出てくるの。そして自然に正しく気付く心として出てくるのね。外から強制的に出てくるのは、もう一つ低いけど、中から湧き上がるのもまだ低いの。自然に神さまの心が自分の心として、自分が考えたような感じ方の方が正しいのね。それですべての善悪を、なんでも正しく判断できる方がいいのね。だから、その過去の言葉にあまり捕らわれない方がいいと思う。今「自分にとって何が必要か」という必要なものを、自然に全体から吸収していくのがいいと思うのね。

【インスピレーションとかアイディアとか湧く時があるでしょう。これは素直に受け取っていいんでしようか。】

ありがとうございます:
駄目。それはもっと低いところからかも知れないでしょう。高いとこからかも知れないけどね。やっぱり自分のそのときの心境に応じたところからくるのよね。どんなインスピレーションも感謝を深めて受けても、更にそれを「判断」する、本当に正しいかどうかを見極めないといけない。

【仕事の、例えばアイディアなんかがありますね、自分の考えたのじゃないようなアイディアとか知恵のようなものはどうですか。】

ありがとうございます:
それも同じね。「これが正しい」と思い込んだら、足元すくわれてしまう。どんでん返しを食らう時がある。いろんな神様の段階があるでしょう。いろんなところから干渉的にインスピレーションを与えてくる場合でも、最初はいいことばっかりズーッと与えて、後で一つ間違った事を教えてどんでん返しを食らわせるというのがあるよね。だからもう信じ切ったら、正しいと思い込んだら駄目よね。やっぱり一つ一つ自分が正しく点検しないといけない。

【インスピレーションというのは外の力で、中の力でそれを点検して霊に磨いて、それで正しいと思えばやったらいい。】

ありがとうございます:
そう、そう、常に自分が判断していかないと。他から「これが正しい」と言われても正しくない場合もあるのよ。自分より上か下かを見抜くというのは難しいよ本当はね。外見ではそんなんわからないしね。だから、感謝を深めて本当の神さまから知恵をもらって、その知恵で正しい判断を下していかないと。また「それが本当の日的」でもあるのね。本当の神なる自分に戻らないといけないでしょう。本当の能力を磨き出さないといけないんで。言うたら、本当の意味で「試される時が多い」ね。善悪を見抜き正しいかどうかを判断するカを磨き出さないと、本当の自分に戻れないのね。

【答えを出すのは難しいじゃないですか、これはやっぱり感謝行をさせてもらうことを深めなきゃ駄目ですか。】

ありがとうございます:
そう、そう。だから、感謝を深めて神さまの知恵を頂いて、それを正しく判断していけるようにならないとね。そうでないと神さまの御心に叶った生き方にならないのね。大抵は、この世でも「あの人は神さまのような人だ、大聖者だ」と言われたら、その言葉に振り回されるよね。その奴隷になってしまうね。それは本当の自分を見失うのね。人の言いなりになってるだけよね。奴隷になった姿よね。これはこの世だけじゃなく、あの世からもそうよね。いろんな段階からインスピレーションとしてくるけども、振り回されて支配されたら奴隷と同じよね。本当の本体の自分は、そんなちゃちなちっぽけなものじゃなく、無限に無限に輝いた自分が奥にあるのに、その「自覚を引き出して何故その判断をしないか」と言われるよね。だから、その小さい自分を掴んで、他からの助けを求めているようだったら落第になるの。外へ頼るから本体の自分が出てこれないというところがあるね。だから、本当に頼るところは自分の内なる本体の自分であり、本体の自分をしっかりと引っ張り出すという生き方の方が大事なのね。人に頼るといけないし、他へ頼ってもいけない。必ず「自分が」というのが大事よね。

 
 本体の自分を引き出すには

【ちょっと難しいですね。(難しい)一生懸命考えて自分の中から出てくるというのも駄目なんですか。】

ありがとうございます:
知恵の出し方がいろいろでしょう。「他へ頼って」というより、感謝して、本体の自分へ心を向けて、自然にスッと受けるのがいいよね。感謝のお祈りというのは、自然なそういう本当の自分に戻る生き方になるのよ。自然に本体の自分が出てくる。そしたら他に頼らない本当の神さまだけにすがる生き方をとって、神さまの助けを受けて、自然に本体の自分に戻っていけるね。自然体の姿をとるのね。他からの助けというのは、みんないいように思うんだけど違うのよね。「高いところからの助けを受けた」「神さまの啓示を受けた」と言うと、みんな天狗になったり、奴隷になったり、必ずおかしくゆがんでいくのね。いろんな姿でゆがんだ姿をみせてもらうのも「これでは駄目」という勉強にはなるんだけど。この世もあの世もそういう姿がいっぱいなのね。本当の正しい生き方は、自分の中から本体の自分を引き出してその自分をしっかり生きることだけよね。本当は人を「自分の師匠だ」というたらあかんのよ。どんな教えも「そんなつまらん大したことはない」と切り捨てないと、そうでないと本体の自分を見失ってしまうわね。

【先生は、個よりも全世界のためにお祈りするとおっしゃいますね。これは本心じゃなきゃ出来ないことがたくさんありますけども。でも、個よりも全部をお祈リ出来るようになる方がいいんですか。】

ありがとうございます:
そうです。本体の自分は全体。大きい自分だから、本体の自分を引っ張り出すためにも大きい祈り方が大事よね。小さい自分だと本体の自分を引っ張り出すところまで行かないね。小さい自分へ神さまの助けを入れようとするだけよね。小さい自分を神様に捧げつくして神様の中へ飛び込んでいくと、大きい本体の自分に戻ってくるね。だから、大きい祈り方の方が正しい祈りになってくるね。

【祈りをする時は、個よりも何かみんなのために、みんなの役に立つようにという考え方の方がいいんですか。】

ありがとうございます:
正しいですね、その方がね。はい。

現在形の「ありがとうございます」の意味は・・2000.12.16

 常に今新たに最高のものを与えられているので、ありがとうございましたと過去に少しでも心を向けてしまうと過去の何かを掴んでしまいます。今プレゼントされている最高のものを受け取れないで、新たなものを見失います。最高のものを受けずに過去の何かを掴んでしまいます。今の最高のものを受け取る方がいいのです。その中に最高の輝きがあります。ありがとうございますと今の一瞬の現在完了的な姿を受け取る方がいいです。

 宇宙の始まりと終わり(完成)は常に今の一瞬です。今の一瞬の中に包含されます。無限の昔から無限の未来まで全部を内に持っている今があります。永遠の今です。新たな今に最高表現の全てがあります。

 過去を掴んでしまうと、全体の無限の無限の中のひとつの残像を掴んだ姿のままです。全ては言葉どおりになるというのが鉄則ですから、ありがとうございますの言葉の方が、今ここに全てをという最高表現を感じ取る響きがあります。
 ありがとうございますを無心に唱えてその響きをキャッチするといいです。ありがとうございましたと過去形にすると過去の姿を部分的に掴んでいる響きなので、新たに全てを受け取る響きとは少しズレます。いつも新たな今ここに絶対のものを感じ取る方がいいです。
 神社について・・

 神社は誰でも自由に分け隔てなく誰でもどうぞと差別しない神さまの意思が輝いているところです。神さまの救いを受ける接点です。神さまの助けがあちこちいろんなところに神社という模型として措いてあって、好きなところへ行って自分の好きなように助けを受けなさいという絶対神の心が輝いています。小さい光でよければ小さい光をおく場所、大きい光がよければ大きい光をおく場所といろんな場が用意されています。その場所にふさわしいそれぞれの働きの神様がおかれていますが、どこの神社でも本体は宇宙の絶対神としての天照大御神なんです。感謝さえあればそこから天照大御神が降臨する場所です。全てが降りるところです。
 神さまの名前はその働きをあらわしています。絶対神の働きは無限にありますから名前も無限にあり、やおよろずの神さまが無限の神さまとしてそれぞれに神社という模型に分身しています。ありがとうございますは、そのどこからでも必要なだけ神さまの働きが必要なだけ受けられるという限定のない言葉です。ありがとうございますを唱えることでどこの神社からも自分の必要な光が的確に与えられます。世界でも類を見ない日本のこういう恵まれた生き方が拡がって世界中がこのようになるといいと思います。

 役割と努力

 だれでも役割はあります。この世に生まれたということも地球に生まれたということも意味があります。自分が力んで、ああしようこうしようではないのです。
 ありがとうございますと唱えていく中で天照大御神様が大きく必要な働きで、そして全体が調和するように自然に仕組まれていくんです。だから必要なかったら形としては何もせず寝ているまま座っているままでもいいんです。皆が一度に動き出したら忙しいです。
 いろんな形や姿があっていいんです。それぞれの過去の中でもそれぞれの役割を演じきっています。マイナスの世界ならマイナスを演じるのも役割です。移り変わるままに自分に与えられた役割を忠実に演じきっています。これからも必要なものを演じます。役割りを演じて自然に移り変わっていくんです。感謝の祈りを続けていけばプラスの働きが大きくなるだけなんです。小さい自分ひとりの生き方で満足するのでなしに、本当は幸せというのも自分の無限の幸せを周りの全ての人の幸せに見出して無限の無限の幸せになっていく、それが無限の無限の幸せのひとつの意味なんですけど自分ひとりで体験できるのは無限の幸せですが、皆が無限の人が自分の代わりに違う無限の幸せを味わってくれていて、それを全部自分の幸せに取り込むんです。そうすると無限の無限の幸せになります。
 みんなが異なる生き方をとってくれるのがありがたいことなんです。それを全部自分の幸せに取り込んでしまえばいいんです。皆自分の喜びにしてしまえばいいだけなんです。ありがとうございますの心がないとそれは少し難しいですが、ありがとうございますを唱えているだけでそうなれます。
 努力は何にも要らないです。そう感じてしまいます。普通は努力が大事というんですけど小さい自分の力で努力しますと言っても出来ない時、ああ自分はダメだ努力が足りないとマイナスを思ってしまいます。でも自分の努力というのがどこから来ているかというと神さまから頂くばっかりなんです。そうであれば全部神さまから貰えばいいんです。神さまに努力させて頂いていると言えばいいんです。力む辛さも何もなく神さまに努力させて頂いてるだけ、努力が必要なら自然に努力を貰って努力させてもらう。神様に無限の努力を自然にさせていただいていいものがいっぱい出てくるんです。神さまから受けたらいいんです。ありがとうございますの心は神さまの努力を自分の努力として受けるものです。ありがとうございますがないと、この置き換えが難しく時間がかかります。苦い体験を積んで努力しても出来ない、努力すら出来ないどん底まで落ちたら、努力というものは自分でするものでなく神様にさせてもらうものだと気付きますが、そこまで行くのにかなりいろんな体験を積まないと気づくことが出来ません。ありがとうございますを無心に唱えているだけでその置き換えが自然にしてもらえます。自分が努力していたものが神様にさせていただいていると自然に変る一番な変り方なんです。ありがとうございますがあれば奥からの大きな働きはいつもいつも降りてはたらいてくれます。感謝の中から努力も役割も自然と生まれて果たされていきます。


 転生はありますか?

 ある番組もありますし、ない番組もあります。高い番組だとありません。絶対から無限の無限の輝きになってすべてが一瞬に幸せに出てくるだけです。過去もありません。過去を掴んだ世界に輪廻転生があります。魂の生まれ変わりもいろんな生まれ変わりがあります。一人ひとりの人の魂があの世へ行っていくつかの魂に分かれて何人にもなって生まれてきたり、たくさんの人や友達などがひとつの魂になって生まれたりもあります。
魂は過去からのこと、主に人間の感情が合体したもので、命としての意識の中心はあるのですが、このように大きくなったり小さくなったりしています。新しいものを加えたり古いものを捨てたり、どんどん変化していきます。そういう魂が肉体に入ってまたいろんな体験をして変化していきます。
すべての次元に輪廻転生があるのではなく過去を掴む次元に、そういう番組の中にある姿です。まだ低い次元です。 そういうところへ意識を向けるとある番組です。皆まだこの世の姿でも過去を掴んでいますから輪廻転生もあったほうがいいと感じるかもしれませんが、輪廻転生をして魂を磨かなくてもお祈りがあれば働きを新たに新たに見出せるので過去の姿は必要ないのです。輪廻転生しない世界があります。
 科学の進歩とありがとうございます

 神さまの最高表現であるありがとうございますのなかには、無限の無限の繁栄があります。科学の姿の中にも無限の無限の進歩した科学があります。
 今の科学は幼稚で真実を分かっていません。この世の姿がどのように生まれてきたかなど分かっていません。どこから出て来てどのように組み合わさって生まれてきたかという所に向かっていません。
 原子をどうこう言っても、その奥がずうっとあります。その奥が判らなければ、想像もつきません。一個の水素原子にしても水素原子は皆同じ顔かというと、水素原子は一個一個すべて違った顔です。人の顔が一人ひとり違って働きが違うように原子一個もすべて違っています。奥へ行けば行くほど同じものは何ひとつないのです。
 ありがとうございますの中から科学も進歩します。必要なもの善いものだけが発明や発見という形でどんどん降りてきます。
 ありがとうございますという感謝の中から科学も進歩し、芸術もあらゆるものすべてがよくなります。ありがとうございますを皆が唱えたら皆が天才になります。無限の能力を発揮するようになります。
 過去の掴んでいるものを離さないといけません。それが邪魔して新しい最高の自分が出てきにくくなります。ありがとうございますで、掴んでいる古いものを全部消していただけます。そして奥から新しいよいものがだんだん出てくるようになります。古いものと新しいものとの置き換えが出来ます。過去に沢山積んでいるから時間がかかるとかではなくて、ありがとうございます言うことが上手になると一瞬で置き換えてもらえます。唱えているとだんだんと自然に変化してきます。

ありがとうございますを実際に唱えることが大事な尊いことです
 意識の変化と言葉の使いかた

 本体の自分は必要な体験を自然に積み重ねていきます。いつまでも同じことを勉強する訳ではありません。
 必ず順番に進歩するように奥からの計らいがあります。奥にある本体の自分を知ればよく判ります。それまでは表面の部分だけを自分と思うので判りにくいですが、だんだんとはっきりしてきます。
 真理の言葉はいろんな方便や例えを使いますから、ひとつの方向からひとつの立場を指し示しても全体を指し示すのは難しいことで、全体を明らかにするにはいろんな立場からいろんな方向に向けて指し示さないといけません。
 全体を同時に掴めて全体像を同時に把握できたら本物です。
人間の使う言葉もプラスの言葉マイナスの言葉といろいろあります。全部それぞれに正しくて、プラスだけがいいのではなくマイナスの番組もちゃんとありますから、言葉でその中の何かを指し示しています。ただ、全人類の使う言葉を全部集めて表現しても、すべてを表現できてはいません。人類の使う言葉が指し示しているものは既にありますが、もっと他に沢山あります。マイナスのもっとひどい姿もあるし大きなプラスの沢山ある姿もあります。
 どれだけ大きなプラスの言葉を駆使できるかが大事です。
無限の無限の幸せと唱え続けたら無限の本当の意味が判ってきます。言葉を使わなければただ幸せと言うだけでは小さい浅い幸せで終わってしまいます。
 言葉を大きく使った方がいいです。
ありがとうございますと唱えるだけでもいいですが、その中身を「新たな全徳の無限の無限の輝きがいっぱい」と特性を順番に数えあげるのがいいんです
 「新たな無限の無限の幸せ」「新たな無限の無限の喜び」というように幸せも喜びも特性ですから、その特性をたくさん数え上げたらいいんです。
 お祈りのひとつの過程なのですが、そうすることでありがとうございますの中身が大きく深く濃くなります。そうすることで、ありがとうございますの中身がどんどん変っていきます。ここにおわします天照大御神様と言うと、ありがとうございますと天照大御神様が合体します。けれど天照大御神様と言ってもそれぞれで受け方が違うので無限の無限の偉大な姿として受ける心になれば本物です。どこそこの神社の神さまと言うと小さく部分をとらえていることになります。その意味でお経を読むのも同じです。
 皆それぞれ本当の感謝のお祈りを教えてくれているのですが、掴みきれてなかったところがあります。「新たな無限の無限の何々」という唱え方が大事です。いろんな本を読んだり勉強したりするよりも
ありがとうございますを実際に唱えることが大事な尊いことです。法然さんの生き方がそうです。南無阿弥陀仏ひとつに絞り込んだところが素晴らしいのですが、自分が悟る為には救われる為にはどうしたらいいかとその当時日本一の博学と言えるあれだけの人が悩みに悩んでいろんなことを修行してきて「ああ自分は実行できるのにやっていない」という思いにとらわれ、もう一度大乗経を繰り返し読み直して自分の救われる道はどこにあるかと、そしてはっと気付いたのが南無阿弥陀仏だったのです。
 その後は過去を全部捨てきって、大乗経を全部暗記できているような人が、誰に何を質問されても「私は何も知りません」と南無阿弥陀仏を唱えるだけでした。そこまで絞り込んで本当の生き方なのです。南無阿弥陀仏を唱えることが数多くの本を理解するよりも尊いことが判ったということです。
お経には書かれていませんが南無阿弥陀仏よりもありがとうございますの方が素晴らしいのです。


 現世的にどんな現象でも魂は善い番組に向かってますか?
どのように見える時でも前進しています
 花の種を撒いたときはゼロです。そこから根が出てマイナスに向かって伸びます。頭の葉は光の方プラスに向かいます。根がどんどん広がって深く入るほど大きく花開きます。マイナスに突き進んで世界を広げていくことも大事です。それで本当の成長があって花が咲き実を結びます。長い目で見るとゼロの種のところから出発して自分の世界をどんどん広げるんですが、順番に日の当たる方へむいた時と影に入った時と成長というのはこのようにらせん状に進みます。マイナスに見える時も大きいプラスへ行く過程なので必ず通らなければならない必要なところなのです。
どのように見える時でも前進しています。長いトンネルを抜けたら闇から光が見えますから前進しているのですが、その道が一人ひとり違います。ひとつとして同じ道はないので他人の歩む道を少し参考にするのはいいのですが自分の歩む道とは違います。ありがとうございますで全てをプラスに見て自然な自由な生き方のほうがいいです。ありがとうございますはそういう自然な自由な生き方へと戻してもらえる言葉なんです。ありがとうございますは求める心のない神さまから受けるだけの言葉ですから、どんどん前へと進歩するんです。  


 般若心経について

 般若心経の解釈もたくさん出ています。それぞれにいろいろ言われていますが、本当に深いお祈りをして天照大御神を直感したら世間に出ている解釈では物足りないと感じます。
 空のとらえ方でも空を無にとらえていることが多いのですが、
無限のプラスを生み出す無限の無限のプラスが空です。そこに心を向けなければ本当の般若心経のありがたさも分かりません。浅い解釈だとその文章を読んでいて矛盾を感じます。肯定するところと否定するところの接点がなかなか判りません。宇宙の法則を説いているもので感謝のお祈りを指し示すものではありますが日本の言葉ではないので判りにくく少しズレがあるかもしれません。仏教の教えの凝縮されたものと言われますし実際にそうだと思います。全宗派を超越して般若心経を唱えてもいいのですが本当の意味が判ってお祈りに入るほうがいいと思います。般若心経を唱えることや写経にも実際、力はあります。
 私の姉が小学生の頃、中耳炎から脳膜炎を併発して、その当時は治療も進んでいないし脳膜炎と言うと頭蓋骨をノミと金槌で穴をあけて中の腐ったところを取り出すんですけど、これはもう絶対に死ぬからと立会人をつけて手術をしてくれて、その後もこれは絶対死ぬからと入院もさせてくれないので家に連れて帰りました。私の両親は信仰心が深かったので神さまの指示を受けてお祈りをしながら看ていましたが、その時子供にも唱えさせたのが摩訶般若波羅密多心経 羯諦羯諦波羅羯諦これだけでした。これはやはり祈りの言葉なんです。それで死ぬと言われて治っても絶対に正常にはならないと言われたのが、後遺症も残らず治ってしまいました。
 医学的に見たらどうかと思うのですけどいまも元気で暮らしています。だから唱えることには力はあるんです。全文を書いたり唱えたりすることで病気が治ったりそういう奇跡はたくさん起こっているんですが、本当の悟りは病気が治るとかこの世的にいろんないい事が起こることくらいでは満足できないです。本当の悟りを得る為の言葉なんです。大きい加護があっても、浅い因の加護じゃなく本当の奥深いものを感じて悟りを本当に開くまでその言葉を活用しないと、この言葉の本当の意味をしっかり掴んでその真髄を実行するという、
究極は感謝を徹底して深めて行くことだと思います。
 だから、ありがとうございますが般若心経の全てになると思います。


 ありがとうは南無阿弥陀仏の進化したもの?

 昔からありがとうございますはあります。南無阿弥陀仏だけではなかなか本当の深い悟りには入れません。
日本の古神道のあり方がありがとうございますです。古い神道という意味ではありません。べつの根源の働きとしての神の道なんです。今は日本の神道は大きく二つに分かれていますがそれも世界中のあらゆる宗教を全て中に収めて、大きく包容した行きかたをとれるのが古神道なんです。全部生かせるんです。全てを自分の部分として持っています。それが日本の信仰の在りかたとして定着しているんです。これは教えじゃないですから形はありません。そういう心がずっと続いているんです。だから日本人は全部を受け入れて変化するんです。世界の宗教も全部入ってきています。大きい小さいは別として、その入ってきたものを全部消化吸収して活かしきっていくという所がすごいです。そういういき方が古神道のあり方なんです。古という字は口の上に十字がありますが、口は言葉です。言葉を超越して縦横無尽の働きが古なんです。それが神様の直のはたらきです。人間の言葉であれこれ言えるものではないんです。人間の言葉を超越しています。その上で縦横無尽に働いている働きが本当の神様の働きです。


 人の在り方の多様性

 一人ひとり生き方はそれぞれの自由意志で全部違っていて同じ生き方は絶対にありません。不運を変えて生きる人もあるし、じっくりと変えていく人もあります。急速に変っていく人もあってみんな違うからいいんです。
 ある意味では神様が皆で現れて楽しんでいろんな体験を積んでいくということもあります。同じ人が二人いると無駄なんです。神さまの大きい幸せは一人ひとりの幸せをその中に全部包容した幸せなんです。だからいろんな人が必要です。ひとつマイナスがあると他がよく見えたりします。マイナスがないと皆普通で当たり前で価値が消えてしまいます。マイナスがあることによって大きい価値を発見させてくれるいい働きといえます。
 マイナスはそういうふうにプラスの為に働いてくれます。価値を増してくれます。
地獄で仏という言葉がありますが地獄にいて仏に出会ったときが一番幸せなんです。極楽で仏に出会ってもありがたいと思いません。太陽もそうです。夏の太陽はあまりありがたくないから感謝しないですが寒い冬の太陽は本当にありがとうございますという感謝の気持になります。
いつでも感謝できるというためには地獄を知って寒い冬を知って初めていつも感謝できるんです。周りに意地悪な嫌な人が一人二人いる方がいいんです。いつも謙虚に気付かせてくださるんです。そういう意味で病気でも一つくらい持っているほうがいいです。頭の病気の中でも阿呆というのがいいです。阿呆は本当はいい言葉で最高のほめ言葉なんです。バカだと馬や鹿の動物の程度ですが阿呆は新たな光をいつも保っているという意味です。


 自分の厄年と地球の状況がリンクしている気がしますが・・・。

 人は地球の縮図といいますが自分の小さな世界が大きい世界の縮図です。
マイナスが大きく出たときほど本当は歓ぶのが大事です。心にためたものを大きく消してもらっているときです。自分の身の上に起きた時もそうですしまわりにそういったマイナスが出た時も皆自分の身代わりに大きいマイナスを消してくださったと感謝します。古いいらないものをどんどん消してくださって、新しい役割を与えてもらえるんで災厄の厄ではなく厄年と言うのは新しい使命の役割りの役なんです。 新しい役割を果たすためには古いものを消さないといけません。古いものを消してもらうのを誤解してマイナスに見るんです。それが災厄の厄です。そうではなく古いものを消してもらうのはありがたいことで、その後に新しい自分が出て来て大きい役割を果たす訳です。だから新しい役割を受けるのが厄年です。それで生き方が大きく変るんです。この世的に見て新しいことを始めて成功して世の中に大きな貢献する人を見ても厄年が節目なんです。例外もありますが本当はそういうふうに仕組まれているんですが受け方によって少しズレる人もいます。


 執着している人に対して
 テレビを見ていて中にはまりこんでしまうのとよく似ているのですが、少し客観的に 離して見る余裕があれば人生の移り変わりと神さまの番組の一つに鉢合わして見ているんだ、というくらいに思えると執着はなくて楽しむだけなんです。別に自分でこれを変えようと思わないでただ見て楽しむだけ、プラスにプラスに受けてただ見て楽しむのが一番自然な理想の生き方なんですけど、もし違うものが見たければ番組を変えたらいいだけということに気付けばいいのですがそれに気付かない時には嵌まり込みすぎてることになります。そういう時は誰かに肩を叩いてもらうといいんです。叩かれると気付きますが熱中している時叩くと怒られますから いい時期を見て叩いてあげるといいです。でも必ず誰かが助けてくれるんで、どんどん気付かせてくれるんで、その時元に戻ればいいんです。


 番組をあげるような働きを感じたら現状が幸せでも変えるべきか?

 あの世だとなかなか進歩できないのは自分の周りがそういう同じ姿だけしかないからで、幸せでも同じレベルの幸せがいっぱいです。それだとそれに満足して上ろうとしません。この世は特別に設けられている教室ということで今の自分のレベルもあるしもっと高いのも低いのもあるのを見ることで、もっと大きい幸せもあるんだと気付く練習をしています。
 そうするとあの世へ行ってもこんな程度のものじゃなくもっと無限のたくさんのレベルがあると判っていたらどのレベルでも進歩することが出来ます。

☆17歳の少年が起こしたいろいろな事件も、体験を楽しんでいるのですか?

 本人もいろんな勉強をしていますしその背後の霊魂もいろんな体験を勉強をしています。その他にそれを事件としてみる人もいろんな勉強をします。自分の身代わりにああいう姿をとって自分に気付かせてくれているとか自分の大きいマイナスを消してくれたとか人類全体のマイナスをそこに集中して神様が消してくれているんだとかいろんなプラスの見方もマイナスの見方も出来ます。
ある意味では全部自分の勉強材料ともいえるし、いくらでも勉強が出来ます。


 地球の悲観的な予言について

 マイナスは何も心配ないです。自分が好き好んでそういうところへ行くのであればそういう世界へ地球じゃない星に行ってしまうようなこともあるでしょうが、今の地球はどんどん進化する姿をとって変化してますから、また、
ありがとうございますの力は今までよりもどんどん大きく強くなっています。今までのありがとうございますの力を一としたらそれが拾百千となっています。それだけ大きな働きを帯びたらマイナスは取るに足らないものです。さっとひと吹きで消えるような感じです。どんどんよくなります。
 地球というよりも一人ひとりの意識がマイナスに飽きてきて、それを望んでいるからそうなります。
たくさんのマイナスを体験することでプラスへの憧れが強く出てくるんです。この辺でマイナスの体験は充分という時期になっています。マイナスはもう、知りませんというくらいがいいんです。相手にしない方がいいんです
 予言というのはそのとおりになるように思うのですけど本当は意味がない、予言は必要ないんですが、そうなると困るんである意味では覆す為に予言が必要なんです。
マイナスが起こると言うのであればそれをプラスに変えるための予言なんです。変える方法は無限にあるわけですから、プラスに変えてしまいましょうというのが本当の予言のあり方でしょう。予言された時は必ずプラスに変ります。




ありがとうございますおはなし集で使ったHTML等は菊地さんのサイトで勉強しました。菊地さんありがとうございます

0.1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.
19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.32.33.34.
35.36.37.38.39.40.41.42.43.44.45.46.47.48.49.50.
51
.52.53.54.55.56.57.58.59.60.61.62.63.64.65.66.

以下(いか)のコラムは宗教(しゅうきょう)サイトではありません。古神道(こしんとう)研究(けんきゅう)ノ−トです。
またその内容(ないよう)に責任(せきにん)を保持(ほじ)していません。さらに著作権(ちょさくけん)も行使(こうし)しません。
どうぞ自由(じゆう)に使(つか)いまわしてください。できればちょっとアレンジしていい感(かん)じになったよというのをどんどん、是非(ぜひ)メールでお知(し)らせください。