ありがとうございますおはなし集で使ったHTML等は菊地さんのサイトで勉強しました。菊地さんありがとうございます 電脳紙芝居のページ0.1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.32.33.34.35.36.37.38.39.
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以下(いか)のコラムは宗教(しゅうきょう)サイトではありません。古神道(こしんとう)研究(けんきゅう)ノ−トです。またその内容(ないよう)に責任(せきにん)を保持(ほじ)していません。さらに著作権(ちょさくけん)も行使(こうし)しません。どうぞ自由(じゆう)に使(つか)いまわしてください。できればちょっとアレンジしていい感(かん)じになったよというのをどんどん、是非(ぜひ)メールでお知(し)らせください。

マイナスげんだい

             
 ありがとうございます- マイナスげんだいからげるということですが、どうやってマイナスげんだいればいのですか?

 ありがとうございます: じゅんばんるのです、このきているひとはこのなかいちばんのマイナスをるのがいいのです。ぶんはやっぱりプラスでありたいのです、らくだしらくだし。かいぜんたいながめたときおおきいマイナスの姿すがたがあるのです、それからをそらしてげて・・(ちゅうめい)・・れんしゅうするのです、そうするといまぶんがプラスだったら、いまぶんさらあるものとしてさちせいっぱいにかんじられるでしょう。そのおおきくするほどけんきょにマイナスにたちになりやすいのです。あるかんしゃおおきくするほどけんきょになるのです、プラスをいっぱいみとめる・れるこころになったほどけんきょになりやすいのです。
 かんしゃなかけんきょさがふくまれているのです、だから、ごそうでもおなかいっぱいべてまんぷくというこころになったら、あとはどんなにおなからしてもつうおもわない、「ありがとうございます」だけでつづくでしょう。だからなんでもいっしょうけんめいはたらいておなかすくとこまで、とことんすくところまではたらけるのです。でも、チョッとしかものべてなかったら、いているというかんじだとはたらけないのです、おなかすくのはこわいと。だから、かんしゃりたこころぜんしたりられるこころけんきょになれるこころです。だから、プラスをいっぱいまずなおことです。それから、ひくたちかくしてぶんがどれだけしあわせであるか・しあわせがおおきいかとくだけでもいのです。


ar72天照大御神2001.2.3.

 天照大御神様の天照(あまてらす)という言霊(ことだま)の解釈をしてみたいと思います。
「あ」とは、光とか光源という意味になります。神様の光というのは全ての働きをそれぞれの光で顕すのです。純白の無色透明な感じの光が無限の色合いみたいに変化します。それが働きとして表現されます。「あ」というのは、光であると同時に光源、つまり源も指しているわけです。
「ま」の字は、「全き」(まったき)つまり完全な、完璧なという意味があります。また、丸い(まるい)とうのが円相をあわらします。光で宇宙が創造され完璧極まりない姿をとっているのが「あま(天)」という事になります。
「て」とうのは照(て)り輝くということであります。この人間の手(て)もそうですが、ただ照り輝いているだけではなく働いているわけです。光の一筋一筋が縦横無尽に無限に働いているのね。その働きというのが大事なのです。自由自在に無限に働いているということが照り輝くという意味です。天照大御神様は自ら照り輝くと同時に照らす働きをしています。だから宇宙には、無限の無限の意識の中心というものが存在します。意識の中心ですね。そこから、無限の無限の輝きが湧き上がるように出て来ているのです。湧き上がっているという事は、自らが輝いているということなのですね。輝いて湧き出たものを他の全てに与え尽くす。それが「照」、照らすという意味です。それぞれの無限の無限の意識の中心の全てがそれをするわけです。これは凄いことですよね。1つの中心から働きがあるだけでも凄いことなのに、無限の無限の中心が全部それと同じ働きをしているのです。そして皆が、その中から無限の無限の輝きが湧き出るように出て来て、尚且つ全体が与え尽くしあって交流するわけです。このようにして光の綾模様が生まれるわけです。これが、天照大御神様の照る、照らすという働きなのです。
「ら」というのは、ラ行音というのは螺(ら)旋状に揺れている姿をあらわします。宇宙の全てが螺旋状に動いているのです。直線というと単調で味気ない感じですよね。螺旋状と言う場合、無限の妙手ある働きになる。竜巻みたいに中心から大きくなってきて同心円が無限に広がるのと似ています。それで色んな中心から出てきた波によって色んな組み合わせができるわけです。直線同士の組み合わせだと一箇所で交わるだけですね。直線は単調なものですが、螺旋状になると1つの中心から湧き出たものが、他の中心から湧き出たものと交流した時に無限の組み合わせが生じるわけです。それがとても大きな働きとなってあらわれるのです。
「す」というのは、澄(す)みきった根源の中心という意味になります。天照大御神様は、宇宙の全てを統一しているわけです。
もともと古事記に登場する天照大御神様の働きはどのように言っているのかというと最初に天之御中主神が登場します。これは宇宙の絶対神です。絶対神というのは表現が出てきません。例えて言えば、海全体を絶対と見なした時に表現は表面の波になります。だから表面に比べると絶対というのは底知れぬ深さ、大きさがあります。天之御中主神が絶対になります。その中に、絶対神の、細かく分けると無限のいろいろな働きがある神さまがいっぱいいるのですが、絶対というのは言葉ではどうにも表現出来ないものですよね。物凄いものですよね。その絶対から表現が生まれてくる段階にあるのですね。そこで創造神が生まれて来ます。それが古事記ではイザナギノカミサマ(伊邪那岐神)とイザナミノカミサマ(伊邪那美神)です。この二つの働きが創造神の働きになるわけです。更に伊邪那岐神、伊邪那美神の働きをそれぞれ八神に分け八×八即ち64神に分け説明ができるのですね。ですから大きく分けるとその2神が相対の両極に分かれて、それを組み合わせる働きをしています。例えば、光と闇があれば両者組み合わせることで無限の無限の光の表現を組み合わせすることができるのです。全ての要素を全部組み合わせるのです。時間と空間もそうであり、生と死、善と悪も同じことが言えます。全ての要素と言うと沢山ありますよね。その全てを組み合わせてこの宇宙の全ての表現を生み出しているのですね。この無限に組み合わせる働きが創造の働きなのです。伊邪那岐神と伊邪那美神がその働きを代表します。
その創造された全てが完璧極まりない姿であり、それが天照大御神をあらわすのです。天照大御神様の分身としての無限の無限の神様を八百万の神さまという表現であらわしているわけです。そして八百万の神さまそれぞれが色んな形を表現するのです。また光と形とはちょっと違います。八百万の神さまの方が無色透明な透明感のある光なのね。その働きによって形あるもの全てを生み出すのです。この世もあの世も全部そうです。形ある姿全てが八百万の神さまの働きによって生み出されたものなのです。その「す」とは、絶対から表現まで全て1つにまとめて統一していて、その全部を自分の中に納めているのが「す」という働きであるわけです。天照大御神様が絶対からその表面の表現まで全てを中に持っているのですね。だから天照というね、天照大御神様以外にどんな神様も存在しないのですね。唯一無二の、絶対の、尊厳無比の、どんな言葉を持ってしても表現しきれない程偉大な神様が天照大御神様です。だから、天照大御神様の照らす働きを言葉でかえると感謝になるのです。感謝というのは中から無限の無限の輝きが湧き上がるのね。それを単に与える働きをするのです。だから光の交流、それが感謝になるのです。ですから、「ありがとうございます」という言葉は、宇宙の全てと交流しているのです。また、自分の中から無限の無限の輝きを引き出し、湧き上がらせているのです。だから、自分だけの感謝などないのですね。常に宇宙全体と一つになって感謝の交流をさせてもらっているのです。これが、本当の宇宙の真相、実相であり本当の姿は其だけなのです。……物凄いよね……無限に無限に、無限の無限の輝きと言ってもね、本当に想像を絶する無限の輝きが本当に存在する。でも、それが何故感じられないのかと?それは、今まで感謝して生きて来なかったからです。単純なことなのです。「ありがとうございます」という感謝を続けて深めて来なかったから今感じられてない、というだけです。ただ感謝し続けたら必ず光り輝いた透明な世界が感じ取れるようになるのです。何にも難しいことなどないのですね。神様は幸せを与えるのに何も難しいことなど用意していないのです。一番易しい簡単な方法を用意しているのです。でも、普通「ありがとうございます」と、余りにも単純過ぎて本当にその価値を見出していないのですよね。どうしても「頼りない」「簡単すぎる」「そんな力あるはずがない」とどうしても思いがちになってしまうのです。本当はそうではないのにね。だれでも使えて自由に使えて、誰からも文句言われないでしょ。誰が発明したものでもなく、最初から用意されて目の前にあるわけです。そういう誰でも使えて自由に使えてという簡単なものが一番良いわけですね。それは神様が最初から用意しているプレゼントなのです。それが余りにも簡単過ぎると一番最後にまわしてしまう。そこで他の方法を試してみたくなるのです。でも、それも又大事なのですね。最初から最高のものを掴んでも有り難味が少ないと思います。ちょっと回り道し、苦労してきた人は本当の価値がわかった時に、「何て素晴らしいな、有り難いな」と分かるわけです。それでちょっと自由を与えて貰っている。悟り開く為の色々な修行がありますが、本当は「ありがとうございます」だけでそのまま最高の悟りが開けるのですよ。「ありがとうございます」の中に最高悟りが既にあるのです。その中に入り切ったらそのまま悟っていることになるのです。悟るのではなく悟っているのです。悟った自分しか本当はいないのですね。ところが迷った振りして…笑う…ね、もう一度悟りの自分に戻ろうとする。それが色々な修行方法としてあるわけです。そして自力の行法があり、他力の行法があるのですが、自力だとやっぱり難しいですよね。阿弥陀様が悟ったように五更の間難行苦行も含め、ありとあらゆる修行を積み重ね無限の年月を積み重ねて悟りを開いたという事でしょ?でも、それをやりたい人はそれを実行すれば良いと思う。…笑う…大変だけど。でも大変よね。無限の年月をありとあらゆる修行を積み重ねるのは気が遠くなる。それはちょっと諦めて他にもう少し簡単な方法は?と考えます。そして次に他力門が生まれてくる。だから、先に悟った人の助けを受けて成り立ちの立場まで引き上げてもうということです。南無阿弥陀仏もそうです。阿弥陀様に縋(すが)ってその悟りの境地に引き上げてもらう。だから
南無阿弥陀仏を唱える場合でも、ある程度条件があるのですね。南無阿弥陀仏を唱える場合でも、3つの条件、至誠心深心廻向発願心の3つの心を持って南無阿弥陀仏を唱えなさいということなのです。これを言い換えると「真剣に」ということですね。真剣に南無阿弥陀仏を唱えさえすれば阿弥陀様の境地まで引き上げてあげるという事です。これが他力の生き方です。だから自力よりは他力がよいのですね。ですが他力と言う時、阿弥陀様と自分とはまだ別個に離れているでしょう?助けてもらいたい側と助けてあげたい側が離れている。直ぐに引き上げてもらえれば良いのだけれど、まだ離れているという感覚が自分にとっては物足りない。その上にもう1つの絶対他力の生き方があります。絶対他力の生き方というのは自他が分かれていません。自と他、という相対の形では対立している。ですが、絶対というのは対立がない。最初から1つになる。つまり救われる側と救う側が最初から1つである、という見方です。純他力、絶対他力というのは、最初から自分は神様と一体で悟っているのだ、ということを受け入れることです。だから下から修行し登るのではなしに悟った自分がスッ、と天から舞い降りて来たら良いだけなんだとね。だから絶対他力の生き方は、「ありがとうございます」を受け入れるだけなのです。悟った自分を受け入れるだけです。今までは拒絶していたのです。もうちょっと難しい方法を求め、一番簡単な方法を拒絶していただけなのです。だから、改めてもう一回素直に「はい」と受けるだけで良いのです。皆、神様と一体なのだ、ということ。宇宙の全てと光の交流をして無限に無限に幸せ一杯なのだと、皆、既に悟っているということで今更悟るということではない。皆が既に悟っているのだという事を素直に「はい」と受けるだけで良いのです。それが「はい」と言う拝む生き方であるわけです。それを素直に受け取って喜ぶだけ。ですから「ありがとうございます」という感謝行は絶対他力であるのです。もう全てを天照大御神様と拝むだけです。また、皆から拝まれるだけというね。だから自分も天照大御神様であり、皆も天照大御神様であると。意識がある限り全てがそうなのです。石ころ一つにしても、そこに意識がある限りそこから無限の無限の輝きが生まれてくるのですね。小さいから光が足りない、という事ではありません。原子1つに、そこに意識があれば天照御大神様の光が無限に無限に生まれてくるのです。これが古事記に説かれている岩開戸原理です。岩開戸とは入れ子構造で小さい箱を順番に大きくしていくと箱がどんどん増えていくように、宇宙の成り立ちもこれと同じように入れ子構造…注釈:箱などを、大きなものから小さなものへ順次に重ねて組み入れたもの…になっています。ですから、原子1つの中に本当は大宇宙があるのです。その原子1つの大宇宙の中に更に小さい原子が1つあり、この更に小さい原子の中にも又大宇宙があるのです。このように言葉では表現できない不思議な構造になっているのですね。つまりそれが何処までも続くという構造。ですからどんな小さいなものでも天照大御神様の無限の無限の輝きがそこに湧き上がるのです。凄い事ですよね。だから素直にそれを「はい」と受けるだけですよね。ですから感謝というのは難しくないですよね。それを受けるだけ、認めるだけですね。今まではそれを認めるのを拒絶していたというだけ。ただ「はい」と認めるのはあまりにも単純すぎるのですけれども、無限に素晴らしい生き方なのです。ですから本当の悟りを早く開きたい人は絶対他力の生き方を選ぶのが良い。絶対他力の生き方を他の言葉であらわすと古神道の神ながら神ながらの道です。つまり全てを神様に任せたまま。仏教で言えば「空」の生き方。老子さんで言えば「無為」の生き方。一切の欲を捨てた無為の生き方。キリスト教で言えば「愛」の生き方、「全託」の生き方。全てを神様に任せきった生き方ですね。神様しかない、神様の働きしか存在しないという見方です。これが本当の絶対他力の生き方になっていきます。ですから、自我の思い、願いを全部相手にしない方がいいですね。相手にすると掴んでしまう。思いを消そうと思うと掴んでしまう。願いを捨てようとすると願いを掴んでしまいます。だから、なかなか無我無心、無欲の心になるのは難しいことなのです。消そうと思うから掴んでしまって出来なくなる。相手にしなかったらいい。その為には思いを転換すれば良いのです。思いを感謝の方に切り替えたら良いのです。色々願う前に、感謝の方に切り替えて行けばいい。先に先に感謝して行くと思いも願いも消えてしまいます。無くなるのです。だから感謝一筋に生きるのが悟りへの道になります。先に感謝してしまえば勝ち、になります。今の時代はかなり精神的な生き方になって来ており、例えばイメージトレーニングなど色々な方法が編出されていますよね。でも、それはまだ思いの世界のことです。その思いの法則、つまり必ず思ったとおりになること。何を思っても思い通りになる。プラスを思ったらプラスになるしマイナスを思ったらマイナスにもなります。全部思い通りになるのです。ただ思い通りになりたいと言う人は善い事を思って善い事を実現したい人ですよね。マイナスは嫌ですよね。そしたらプラスを思いつづければプラスが実現します。必ず思いどおりになる、それがイメージトレーニングのように色々な方法で生み出されており、またイメージ通りになったという実証が一杯挙がっていますね。でも、それはまだ思いの世界のことであり神様の光の世界には入っていないのです。思いは、やっぱり言葉通り重たい(重い)からどんどん下に落ちていき、暗い世界に行くことになるのよ。だからどんな思いで何を実現してもどんどん小さい世界、視野の狭い世界へと落ちて行くことになります。ちょうど空に浮かぶ黒雲のような状態になって行きます。思いが重なれば重なるほど黒く、暗くなってきます。その内に、雨が降りドジャ降りになり、下が一杯になります。だから思いは軽い方が良いのですね。ちょっと思う位であれば薄雲で白い輝きのある雲になります。光で薄雲が輝いている時は美しいですよね。空に雲が全くなかったら味気ないかもしれないから、少し有っても良いかもね。…笑いながら話す…ちょっと白雲が漂っているのが美しいですよね。でもいつまでも雲の中に入り込んでいては駄目です。雲から離れて光の側から眺めると雲は美しいのです。雲の中に入り込み過ぎると視野が狭くなり暗くなってくる。だから自分を思いの中に置いては駄目になってしまう。光の中に置きながら時々は思ってみるのがいい。そうすると思いも白く輝いて見えるから思いもマイナスにはならないのです。いつも感謝を中に置きながら最低限必要なことは思っても勉強しても何してもよいのです。何もないというのは光だけの世界ですから、この世から卒業しなければならない。完全にこの世から卒業したければ感謝一筋になれば良いのです。そうしたら肉体が消えてしまうかも。ちょうど紫外線のように透明になってスッと消えてしまうかも知れないね。死体を残さずにあの世へ逝ってしまう。…笑いながら…でもまだこの世で肉体を残して幸せを感じていたいのなら、ちょっとは思いを残す必要がある。だから、感謝一筋に生きながらちょっとはプラスの善い思いを抱けばいい。すると美しい白雲が棚引きながら光り輝いた世界に自分を置く事ができるのです。
幸せというのは光だけの世界にいると本当の幸せを感じなくなる。だから闇の世界、雲の世界、光の世界の3つの世界全部を見通して全体を掴みながら光の世界に住むのがよいのです。だから今まで思いを出し、苦労し生きてきたのはその為なのです。最初から光の世界にだけいたのでは本当に光の世界の有り難みは何もわからない。捉え方が浅くなるのね。だから一度闇の世界に落ちて、思いの世界にはまり込んでそしてもう一度光の世界に抜ければいい。それが値打ちがある。
例えば、肉体を持ってこの世に生まれ修行し悟ったお釈迦さんは、もう一度あの世に戻った時、この世に生まれずしてあの世で悟った神様よりもお釈迦様の方の格が上になります。すばらしい体験をして、本当の悟っている姿の有り難味をわかっているからですね。この世に生まれてくる事なくして悟ったと喜んでいる神様よりも遥かに格が上になるのですね。だからこの世に生まれて来たと事は幸せなことなのです。でも悟らないと意味ないのですよ…笑いながら…もう一度光の世界に戻らなければならない。その戻る方法は一番易しい方法が良い。難しい方法は時間が掛かるから。そこで絶対他力の生き方を選べばよい。「ありがとうございます」という単純な言葉をくり返し唱えるだけで、神様から宇宙全体から大きな助けを得られるのです。だから神様の助けというのは何処からでもやって来る。自分に合わせて宇宙全体が神様の助けを与えてくれているのです。
例えば、地獄に落ちた場合、今地獄で自分にどんな助けが必要なのか?まだ光は嫌い、恨みたいという中で…そのような時は周りの人が全部自分のマイナスを肩代わりして、身代わりになって苦しんでいる姿をとってくれる。だから地獄に生きている人は一人も幸せな人はいませんね。もうみな無理を背負って、苦しんでいますよ。本当はみな自分の身代わりなのですよ。周りの大勢の人全部ですね。大きいマイナスを背負って、それで助け続けてくれるわけです。だから地獄に落ちた時はそういう助けが必要だから神様がそういう助けをしてくださる。でも、今度はもうちょっと光に慣れてくるとね、何処かから救いの光を持った仏様、菩薩様が降りてくるわけです。それを受け入れられる心境になれれば、今度はそういったプラスの光を持ったの助けがどんどん周りから顕れてくる。だからその時自分に何が必要なのかということは神様が的確に見抜いている。順番に必要なものをどんどんどんどん与えつづけてそして助け続けてくれるのです。ただ神様は、強制がない。自由を縛らない。自由意志を尊重してくれる。本当に自由を縛られたら幸せとは言えないです。どれだけ幸せにしてもらっていても。自由自在に何でも出来、尚且つ本当の幸せを味わえるようにしてもらわないといけないのであって、そう言う意味で神様の方は自由を縛ってこない。自分の自由意志で選べる権利がある。だから、今の自分がどのような立場に置かれていてもみな自分が選んで来たのです。二者択一ですよね。それを何億回と無限に繰り返して来たのです。必ず二者択一で選ばしてもらってきたはずです。
例えば、感謝すれば良いのにしないのは、「感謝しますか?」と聞かれて「感謝しません」と言っているだけ。「右に行きますか? 左に行きますか?」と聞かれた時、右に行けば幸せなのに左に行きますと決めているのです。このように全部自分が選んで来ているのです。
大きい事、小さい事の全てが二者択一で自分が選び続けて来たわけです。それで今の自分がここに存在している。だからもう一回自分が選び直せば良いわけです。良いものにプラス、プラスとね。先ず感謝を選べばほっといてもプラスプラスに向いてしまう。余り細かくこれはプラスか、マイナスかと選ぶのは大変だから大きくまとめて感謝つ一つを選んだらいいわけ。「ありがとうございます」を選び続けたら全てがプラスに向いてしまうのです。「ありがとうございます」と唱えることさえ忘れなければどう転んでもプラスに向くのです。ここが又素晴らしいですね。「ありがとうございます」と言うことは悟りへの特急列車に乗ったようなもの。乗ってしまったら電車の中を、どっちに走っても関係ない。
後へ走ろうが転がろうが何しようが勝手に悟りへと進んでしまう。…会場笑い起こる…
だが、途中で降りたらあかんよ。…会場笑いに包まれる…たまに途中下車する人がいて、、
でも「ありがとうございます」と唱えるのは楽しいでしょ?「ありがとうございます」というのは悟っている本心の自分から見ると呼吸なのですね。本当は、呼吸、命の呼吸なのです。呼吸って止めると苦しい。だから自然に任せると呼吸って幸せなのです。喜びが湧き上がってくる。この前、新聞に載っていた小さな小学生の兄弟がお風呂で呼吸を止める練習をしていて溺れ死んだでしょ。呼吸を止めると酸欠状態で段々体が動かなくなりますよね。それを競争していたようです。何回かは苦しくなって顔を上げられるけど、段々と酸欠で体が動かなくなります。最後の時までぎりぎり呼吸を止めると動かなくなるものです。気絶してしまう。だから、感謝というのは本心の自分にとっては呼吸だから、呼吸を止める期間が長いと苦しくなってくる。苦しいだけでなく、今度は気絶する。本心の意識が無くなってくる。そうすると大変です。救急車で運んでもらわないとね。人工呼吸を施してもらっても中々「ありがとうございます」って言えない人が多いでしょう。直ぐ「ありがとうございます」と言える人は、直ぐにフッ、と蘇る。まだ呼吸が止まってないからね。気絶しているかも知れないけれど呼吸は続いているわけです。心臓も動いているし、まだ大丈夫なのです。ところが、全然「ありがとうございます」が出て来ない人がある。その場合は呼吸が完全に止まっている。心臓も止まりそうかも知れないし、既に止まっているかも知れない。だから、心臓マッサージや人工呼吸を施さなければならない。それを感謝が出来る人が一生懸命人工呼吸をする。「ありがとうございます」と言いなさいと言っても言えないから代わりに言ってあげる。それが人口呼吸を施していることになる。それで息がフッ、と蘇ったら本人が言い出す。でも本心の意識はまだ目覚めてない。意識朦朧としている。まだ自分から喜んで湧き上がるような感謝はしない。でも段々と続けている内に意識が戻ってくる。それで感謝が喜びそのものなんだという事が分かり、「ありがとうございます」と言うことが楽しくてたまらないようになってくる。そうなったらもう大丈夫ですね。感謝が無限に無限に深まって行き幸せが一杯という感じ。そこまで感謝をして行かなければならない。それを出来るだけ早くその状態まで持っていくと自分だけでなく周りの人も早く幸せに出来るようになる。

何か質問があればして下さい。

質問者:お祈りの時、自分の中でどのようにお祈りをするのでしょうか?

ありがとうございます:お祈りする自分はどの自分?

質問者:自我の自分?

ありがとうございます:
いやー、自我の自分では出来ないですよね。それは、本心の自分、本当の自分ね。命の自分です。ただ魂が命の自分を覆い、肉体が覆っているわけです。下着や上着のように。でも肉体の自分が祈っているのではない。祈りは、命の自分が祈る。命の自分は宇宙と一体なのです。全てと一体なのです。だから自分の祈りは小さい自分の祈りではない。皆と共通の祈りになるわけですね。自分が祈る事は皆が祈っていること。皆が祈っている事は自分が祈っていることになるわけです。自分の「ありがとうございます」の中に皆の祈りが結晶されている祈りになっているのですね。また皆の祈りの中へ自分の祈りが入って行って祈っている。
どのように一回の「ありがとうございます」を価値あるものとして受けるか、これも自分が選択するのです。選ぶ。どっちが良い?小さい価値の祈りが良いのか?無限の無限の価値ある祈りが良いのか?無限の無限の価値ある祈りなのだという気持ちで「ありがとうございます」と唱えたらいい。口に出してもよいし、心の中で言ってもよいし、紙の上に書いてもよいわけです。どのような形でも「ありがとうございます」という言葉を出せば良いのです。そこに天照大御神様が輝いているのです。

質問者: 心の中で唱えてもよいのですか?

ありがとうございます:いいです。

質問者:時間などは?

ありがとうございます:何時でも良い。

質問者:普段の生活の中で愚痴や悪口を言うと効果がなくなると聞いたのですけれど。

ありがとうございます:効果がなくなるというよりもどっちを選ぶかでしょ?

質問者:一回でも言ってしまうと効果がなくなる、という話を聞いた事があるのですが?
    全部ゼロになるとか。
ありがとうございます:だから「ありがとうございます」は、天照大御神様が其処へ降りて来て無限の無限の光を放つわけです。愚痴をいったりするのは思いなわけですね。思いというのは小さいものです。空に浮かぶような小さな雲をちょっと作るだけ。だから、どっちに力があるかと問えば一回の「ありがとうございます」の中に無限の力がある。無限億万倍の力がある。思いよりもね。過去にそのような思いを無限に重ねても取るに足らない事なのです。今「ありがとうございます」に切り替えて行けば過去の思いは簡単に全部消えてしまう。

質問者:毎日「ありがとうございます」と唱えていたと仮定した場合、1年に一度怒ったり愚痴を言ったりすると1年間の感謝がパーになると聞いたことがあるのですが。

ありがとうございます:ならない、ならない。…笑い起こる…

質問者:それはちょっとおかしいと思っていたのですけれど。
    (じゃ、何回もパーですかね?)
    いや、毎日パーになってしまいますね。…笑い起こる…

質問者:自分が全て選んで生きているというのは理屈では理解できるのですが、時になぜこんな人が自分の前に現れるのか、と思うくらいそういう対象が現われたりした場合「ありがとうございます」の言葉をその人に対して言い難い状況が生じた時。……本当に感謝できる気持ちというのは、その感謝の気持ちを繰り返す事によって生まれてくるのか、或いは味方とか…子供を教育する際にも教えてあげたいし……もっと素直に感謝できる気持ちを私自身も持ちたいし子供にも持ってもらいたいのですがその為にはどうしたら良いのでしょうか?

ありがとうございます:もう、理屈抜きでね「ありがとうございます」を唱えた方が勝ちになる。「ありがとうございます」を回数多く唱えたら全部プラスに見ることが出来る自分に変わってしまう。もう全てをプラスにしか受けられない自分になってしまう。それは理屈抜きなのです。理屈で言っても効果は少ない。それでも一回「ありがとうございます」を唱える方が力がある。

質問者:その人が自分と対立するような人であってもですか?

ありがとうございます:そうです。もう無関係にですね。相手にせずに一回でも多く「ありがとうございます」を唱えていたらマイナスにしか見えない心もプラスに見えるように変わってしまう。

質問者:相手さえも自分は受け入れることが出来る状態ですか?

ありがとうございます:そうです、そうです。全てをプラスに見ることが出来る自分に変ってしまう。それは「ありがとうございます」をただ唱えるだけで全てをプラスに受ける心に変ってしまいます。だから理屈抜きで唱えたら勝ちです。


質問者:
「ありがとうございます」は、口に出して言った場合と、こころの中で言った場合とでは効果は違うのでしょうか?

ありがとうございます:
いや、同じですよ。ただ場所によっては口に出して言ってしまうと相手を傷つける場合があるじゃない?例えば、誰かが死んでね…(場内笑い起こる)…そうでしょ、悲しんでいる時に「ありがとうございます」って言っても「何をばかにしているのだ」って思われる場合もあるじゃない?そういう時はこころで、皆は無限に幸せなのだからと思いながら「ありがとう」と心の中だけで唱えた方が良いですよね。

質問者:「ありがとう」と「ありがとうございます」とではどちらが良いのですか?

ありがとうございます:
ん〜、そうだね。「ありがとう」というのはちょっと軽い。本当に天照大御神様というふうに受ける時はね「天照」とは言わない。「大御神様」をつける。「ありがとう」に「ございます」も付ける。ただ軽く言っていい時は軽く言って良い。全体として大きく受ける時は、「ありがとうございます」って言った方が良い。小さく受ける時は、「ありがとう」で良いのです。それを自由自在に使いこなせたらいいのです。

質問者:「ありがとうございます」と唱える時に、神様をイメージしながら行った方が良いのでしょうか?

ありがとうございます:
それはね、唱えている内に段々と変化していきます。「ありがとうございます」と唱え続けているうちに良いイメージが湧いて来たりイメージを超えて神様の光を直接感じて来るようになるから、最初からそんなに工夫しなくてもただ唱えているだけで変化してきます。その方が早いと思う。

質問者;アメリカ人がサンキューを唱える事と、日本人が、「ありがとうございます」と言うのでは違いが有るのでしょうか?

ありがとうございます:
違いますね。言霊(ことだま)的にいえば、「ありがとうございます」に本当の言霊の力がある。Thank youにはそれがありません。ですから、Thank youという感謝では本当の本質を通じた感謝はできない。

質問者:
それは、天照大御神様、つまり日本神道とやらと…?

ありがとうございます:違う違う、日本神道ではなく、宇宙全体の言霊からくる。

質問者:
では、アメリカ人は何と言えば言いのですか?

ありがとうございます:
「ありがとうございます」(日本語で)って言えば良い。

質問者:
ではフランス人はどのように言ったらよいのですか?
    (質問者は納得できない様子)

ありがとうございます:
もう全部。これは宇宙・世界共通です。だから、日本語は世界共通語になる。柔道だって「一本」を「イッポン」って言うじゃない。
…(質問者ウケル)…ね?絶対通用するでしょ。世界に通用するじゃない?だから、「ありがとうございます」も、本当に良かったら、世界共通語、宇宙語だ。昔から日本は、「言霊の幸ふ国」(ことだまのさきはうくに→言霊の霊妙な働きによって幸福をもたらす国。わが国のことを指す。)といわれ言霊に裏付けされた言葉が多いのです。勿論外国にもそれはあります。例えば、英語だったらゴット(GOD)って言う。もともと神様という言葉の意味もある。ただ、ゴット(GOD)って言うと言葉の意味だけしかない。日本の神様の"神"の方は奥深い意味から全部兼ね備えた言葉なのです。
神という意味は絶対の隠り身(かくりみ)をあらわすのです。奥に隠れて出てこない、隠り身の約(つづ)まった(つづまった→小さくなる。また、短くなる。ちぢまる。)神なのです。創造神は、仮凝り身(かごりみ)と言います。仮凝(かご)るというのは形のないところから、一つの形を生み出すのを、仮凝(かご)るという。仮凝り身が約まって神(かみ)です。天照大御神様の場合は輝く身、輝り身(かがりみ)が約(つづ)まって神(かみ)なのです。八百万(やおろず)の神さま、神通自在の神さまは翔けり身(かけりみ)と言います。翔けり身が約(つづ)まって神(かみ)になります。宇宙の形ある全てのものが限定して現われているから限り身(かぎりみ)といいます。その限り身が約まって神(かみ)でしょ。この5つの意味で宇宙の全部を表わすことができるのね。
  

質問者:
もう一度言っていただけますか?

ありがとうございます:
隠り身(かくりみ)、仮凝り身(かごりみ)、輝り身(かがりみ)、翔けり身(かけりみ)、限り身(かぎりみ)。この5つで宇宙の奥から表面まで全部を表現しているのです。この言葉は外国にはないです。やっぱり言霊に裏打ちされているという「言霊の幸ふ国」だからこの「神」という言葉があるわけです。
こういう言葉は本当に世界共通語になる方が良いのです。そうなって行くと思いますよ。だから、「ありがとうございます」も世界共通語にならないとね。必ずなって行くと思います。

質問者:「思い」に関して質問です。善い思いを思っても雲が出てくるのですか?

ありがとうございます:思いと、直感で感じる感謝とは違います。

質問者:例えば、こういうことをやりたい、といった思いでもそれは雲なのですか?

ありがとうございます:そう、雲なの。例えば、美しいものを美しいと言うでしょ?それは思いですね。美しいというのは理屈抜きで「美」を直感で感じるのが本当の感謝です。だから感謝の方が時間は掛からないですよね。もう一瞬に感じ取る。

質問者:「思い」が曇るというお話のようですが、例えば自分の子供が家を離れて真っ当な人生を歩んでいるのかどうかを親が心配し、思いを寄せるのも先程言われた「思い」と同じでしょうか?

ありがとうございます:そうですね。思いですね。だから感謝がみんな天照大御神様って拝んで無限に輝いている、と受けることなのです。
質問者:では子供の事を心配するのでなく、感謝したら良いのですね?

ありがとうございます:だから、自分の子供を拝み上げなければなりませんね。神様としてね。天照大御神様として拝み感謝し続けたら無限の光を放ってくれる。だから、本当は自分のものは持ったら駄目です。小さく持つとそれしか自分のものでなくなってしまうから。
他の無限に素晴らしいものが自分のものでなくなってしまう。だから、自分のものは無い方が良い。全部無くして感謝の方が良い。

質問者:若者でしたら、恋人を思うこともありますよね?

ありがとうございます:だから、それも本当の恋人ではない。偽者です。先ず本当の恋人は神様にしなければ駄目です。だから永遠の自分とは何か?それは命の自分です。先ず命の自分をしっかりと思い返して掴んで神様を永遠の恋人にまずしてしまう。恋人とは命の与え尽くし合いをする。命の交流をして神様からどんどん命をいただく。それで本心の自分と本当の自分が無限に無限に輝いた自分に変わるのです。その時から命の交流ができる。
だから、先ず神様を永遠の恋人にしないと他の誰も恋人には出来ないのです。偽者になってしまう。相手に求めるだけになる。求めるのは恋人とは言えないのです。相手に何の幸せを与えませんから。奪うばっかりになってしまう。また、自分のマイナスを相手に被せるだけで終わるから。先ず命の自分をしっかり掴まないといけない。神様を永遠の恋人にする。そうしたら全てと命の交流が出来るから全てを恋人にして愛しても良いわけです。だから求める心は偽者なのです。特に肉体同士の求める心のやりとりなんて本当の愛でも恋でもないのです。本当の偽者です。それで幸せになることは絶対にないから。先ず命の自分をしっかり掴んで神様との命の交流をしてから本当の恋も愛も始まるわけですね。

質問者:神様との交流の第一歩が「ありがとうございます」ですか?

ありがとうございます:そうですね。だから人との交流も「ありがとうございます」になります。感謝をし合えるということは、命を与え尽くし合える関係なのです。そうすると感謝し合える同士は恋人であるわけです。恋人というのは、男と女がなるだけではない。命と命の交流ができる関係が恋人になるのです。命の自分は、男でも女でもない。両方を持っている。魂も同じです。男性的な魂、女性的な魂とあるけれど本当は両方を兼ね備えた観音様のような魂が理想的な魂です。両性を持っているね。自由自在に色々区別して必要な時に出せるのが良い。魂を磨くために男に生まれたり女に生まれたりする。魂が男性的だと今度は女性的な面を身に付けるためには何回も女性に生まれ変わる。偏るとどっちかに生まれ変わって修正するわけです。魂を両性を有した理想的な姿に変えて満足できる状態になる。でも命の自分はその魂の奥にあって働くから両方を兼ね備えている。だから命と命の交流が出来たら別に男女の恋愛、恋ではなくなるのですね。親子でも命の交流が出来たら与え尽くしあって本当の意味の恋人になる。お互いに与え尽くせて喜び合える命の交流ができているから。これは人間と動物の間でも出来るし、動物だけでなく鉱物、植物など自分が愛して恋人に出来るわけ。だから仕事に恋する人もいます。同じなのです。そこに本当の命の交流があったときに恋人の関係になる。言霊的に言えば、
「恋」というのは求めることではない。命を与え尽くす、というのが言霊でいう「恋」です。一点に集中して命を与え尽くすのが恋なのです。その対象を持ったら恋人になる。それが恋人だったらその仕事を恋人にしているようなものです。だから感謝の心というのは与え尽くす心でもあるのです。思いは求める心へとなって行く。感謝に生きていたら自然に与え尽くす心にもなり、恋する心にもなっていく。だから先ず感謝。感謝をすればするほど善いもの全て自分に備わってくる。

ありがとうございますおはなし集で使ったHTML等は菊地さんのサイトで勉強しました。菊地さんありがとうございます 電脳紙芝居のページ0.1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.32.33.34.35.36.37.38.39.
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