ありがとうございますおはなし集で使ったHTML等は菊地さんのサイトで勉強しました。菊地さんありがとうございます

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以下(いか)のコラムは宗教(しゅうきょう)サイトではありません。古神道(こしんとう)研究(けんきゅう)ノ−トです。
またその内容(ないよう)に責任(せきにん)を保持(ほじ)していません。さらに著作権(ちょさくけん)も行使(こうし)しません。
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ar47助けてあげたら・愛を示してあげたら敵対してこないですよね2001.09.29.01

質問者:
 アメリカ同時多発テロについてどう考えたら良いでしょうか?

ありがとうございます:
 どう考えても自由です、どんな考え方も成り立つんです。自由自在にどんな考え方を持っても悪いことではないんですけど、番組を上へ上へあげていくためにはプラスの見方・考え方というのは大事ですよね。マイナスに見ていくとドンドンマイナスに落ちていきます、番組を下げてマイナスの多い番組になっていきますよね。
 本当は、どんなマイナスの大きい姿でも、もっと大きいマイナスを軽く済ませてもらったという見方が良いんですよね。無限のマイナスをこんなに軽く済ませてもらって、助けていただいたんだというプラスの見方をするとあまり悲しまないで済みますね、また仕返ししようとも思わないですね。
 だから、いろんな地震にしても災害にしても、人的な戦争という災害にしても、みんな大難を小難に変えてもらっているという見方が良いんですよね、実際本当にそうなんですよ。感謝の心で眺めたら、無限のマイナスをいつも免除していただいているというのが本当なんです。チョッとだけ勉強材料を残してもらっているとね、勉強材料がないと反省もしないし、それをプラスに置き換えていこうという努力もしないと思います。そういう意味ではマイナスをチョッとだけ残して頂いているんです、勉強材料にね。
 ああいうテロの問題でも、どちらが悪いといえばどちらも悪いし正しいし、言い分はみんなあるんですね。だから、最初の出発点がどこにあるかでしょう、それはずーっと大昔かもしれないですね、それが順番に恨み合ってそれがエスカレートしてきて。だから、責め合うことは出来ないんですよね、小さいものがドンドン大きくなってきているだけなんでね、テロ、テロ側といったら悪いんですけど、チャンと言い分があるんですよね。
 その言い分を聞いてあげられるようになったら、報復しなくてもいっぱい援助してあげたら良いんじゃないかと思います。本当に満足するようにね、助けてあげたら・愛を示してあげたら敵対してこないですよね。上に立って助けてあげているというような気持ちだと傲慢なので反発するんです、こちらの命も全部あなたに預けます・全部あなたのためにだったら差し上げますという感じだったら愛があるんですよね。敵じゃなかったら攻撃してこないですよね、全くの無抵抗主義でもいいんです、自分の命を預けましょう・与えましょうという気持ちだったら相手と一体化しますね。相手に心の中から愛が芽生えてきてそれに答えてくれるんですね。
 本当に争いなんて無駄な事をしていますよね。今回ももし攻撃したら何兆円といっぺんにパッと消えるんでしょう、それを援助にまわしたらすごい事だと思うんですけど、皆飛び上がって飛び上がって喜ぶでしょう。
 
プラスにプラスに見ていけるのが一番いいんですね、今回の事件ですね。マイナスに見た分またマイナスを再現するといったら何ですけど、同じ事を繰り返しますからね。テロという言葉もあまり使わないほうが良いんじゃないですかね、大きいマイナスを軽く済ませていただいたとね、プラスに言葉を使って解釈していくほうがね、本当の意味で世界を平和にしていく一番の方法だと思います。

 
向こうの方から利息を軽くして借金を催促にきてくれているんです

質問者:
 うちはお寺なんですけど、お金をねだられたり賽銭泥棒がいたりします。それにもどうぞどうぞと差し上げて、消してもらっているんだとするのが良いんですか?

ありがとうございます:
 段階がいろいろあるんです、一番上の段階は本当の無抵抗主義ですね。キリスト教ならイエスキリストね、上着も与えた下着も盗られたというんでしょう、右のほほを打たれたら左のほほを出して打たれよとね。ほんとうにそこまで無抵抗主義になれれば大きい神様の力がそこに加わるんです、そうしたら気付くはずですね本当の意味でね、そうして自分の過去世のマイナス・因縁を全部消してもらえるんです。
 どんなマイナスが出ても過去の借金なんですよ、借りがあるんですね、それを借金取りが今現れているという感じなんですけどね。本当は自分のほうから前の世の貸主を探して利息つけて恩返しに行かなければいけない、これは大変なんです。だから向こうの方から利息を軽くして借金を催促にきてくれているんです、大恩人からそういうふうに来てくれているんです。だからそういうマイナスの姿も過去の恩返しです、借金返しです。だから「ありがとうございます」と感謝するのが一番良いんです本当はね。それで盗っていかれるんだったら盗っていかれた方が良いんです。でもそこまで感謝したらね、そうかそうか良くわかった、それじゃ全部免除しようとなるかもしれない、お金を置いていってくれるかもしれない<笑い>本当の生き方は無抵抗主義で感謝する事だと思うんですけど。それ以上絶対に悪くはならないですね。


皆のための体なんだというと本当に価値が出てきますよね

質問者:
 肉体を持っている意味について教えてください

ありがとうございます:
 この世だけじゃないんですよね、どの世界にも体(たい)はあります。いってみれば道具ですね器です。肉体があるからいろいろ働けるという一面がありますね、またいろんな表現として出てくるというね。
 元々が、神様の宇宙創造の仕組みの中の一つの部分なんですね。肉体があるからいろんな働きが出来て形を産み出します。また、肉体を持つということはあの世へ波長が合わせやすくなります、肉体を持つということは一つのアンテナの役目をします、そこに心を自由自在に変化させていろんな世界に波長を合わせやすいという一面があります。
 また、あの世の人もこの世の人の肉体を使って、チョッと病気をするという姿をとってこの世での本当の心の勉強が出来たら進化が速い。だから、自分のためにだけじゃないんです、他の人のためにもあの世の人のためにも役に立つんです、この肉体・体というのはね。
 だから、大事なんですね。自分の体だと思うと粗末にするんですけど、本当に尊い神様からのあずかりもの・皆のための体なんだというと本当に価値が出てきますよね。

与えるという気持ちも消えるんです

質問者:
 三次元のルールを学ぶために肉体があるということですか?

ありがとうございます: 
 そうですね、ただ次元というのは、三次元というのは横縦深さですか?四次元・五次元・六次元というとどういうふうになるかとね、そう思うんですけど。そういう意味だと無限次元とはいえなくなりますね。一点とか平面とか立体とか考えていくと、無限の立体というのは想像できないでしょう、次元というのは波の違いと考えたほうが良いんです。だから三次元というのもいいんですけど、無限の中の一つの次元という見方のほうが、考え方としてあの世の無限次元に波長を合わせる意味で心のもちかたが自由になるんです。

・・・肉体次元のルールで生きているんですよね?

そうです、あの世の縮図というね・無限次元の縮図としての肉体次元というほうがいろんな意味での活用価値が増えるんです。

・・・肉体次元のルールを破る、超えるためには破らなければいけないでしょう

小さい殻を破って大きくなる、また、大きいものを縮小して小さく模型的なものに変えるとかね、自由自在に大きくしたり小さくしたりする勉強にもなりますね。

・・・結婚や離婚で、三次元的な肉体レベルと魂レベルではどちらを優先するべきですか?

本当は、過去を掴んでそれに強く執着せずに思わなかったら、この世でもっと自由なんですよ。自分を高める、または、お互いに高めあう相手だったら毎日変えても良いくらいなんです。ただ、過去を掴んで執着する人がまだ多いんですね、まだ自分の思い通りにしたいという間は・思いを消さない限りは縛りあうんです。縛りあってよくなるんじゃないんですけど、逆なんですけど、放し合う方が・放すほうが良いんですけどね。それがまだ十分にできないという段階ですよね。
 それを消すためには、もっと自由な生き方を優先させていくほうがいいでしょうね。我慢して縛られているよりはね、もっと自由にのびのびと生きていくほうが縛りを解いていきますよね。

・・・三次元のルールから自由になったほうが、多くのチャンネルを見られるということですか?

そうですね、そして三次元のルールも本当の意味でよくしていけますよね。縛るんじゃなしに自由に開放するというのが良いですね。

・・・ルールとか制度はなくなるということですか?

プラスだけが出てきたら、縛りあわないのが本当なんです。悪いことは絶対に起こりようがないというところが良いんですよね。マイナスが出てくる・抑えるというのが縛りですね、縛ったからマイナスがなくなるのか消えるのかといったらそうじゃないですね、押し込めただけです、爆発する時がある<笑い>
 執着の心は、一つのものを掴むでしょう、そうしたらそれだけが自分のものなんです。そうすると他の無限の大きいものが自分のものじゃなくなるでしょう、必ず不足の心になるんです。それで足りないから求める心になるんです。求める心を生きているとやっぱりマイナスですよね、苦しいですね。だから、与え尽くす心になったら本物ですね、それは感謝の心に生きて、神様から無限のものを受け直して満ち足りた心になっていたら、後は与えるだけが楽なんです。与える心になるためにも感謝の心というのは大事なんです。

・・・与える心の中で、相手を変えたいというのはいけないんですか?

いけないですね。求める心がチョッとでも絡むと苦しむんです。与え尽くすだけで、受けてくれて儲けてくれなくても結果には頓着しない、今受けるのも何億年先に受けるのもあの人の自由なんだという感じでね、徹底して突き放すくらいが良いですね。

・・・突き放すぐらいがいいんですか、全てを与えるというか?

与えるという気持ちも消えるんです、言ってみれば、ローソクの灯火が光っているでしょう、光っているのは光を与えたいからじゃないですね、自分が勝手に光っているだけです、光が勝手に放射されています。与える心というのは本当はそうなんです、自分がただ働いているだけです、自然な姿なんです。だから、あの人に与えてこの人に与えないというのはチョッと難しいですね<笑い>自分は与えるしかないという生き方で・それが喜びだからという感じで良いんですね。

・・・人をどうのこうのより、自分をいかに高めるかという事ですか?

神様からたくさん光を受けたら、自らが光り輝いて自然に周りに光を与えているんです。この自然な循環の中に身を置くのが良いですね


常に直に・光源・命の本源・神様に向けてないといけない

質問者: 受けると、受け直すは違うんですか

ありがとうございます:
 受けたものを掴んだままじゃ新しいものを受けれないんです。常に今受けたものをお返しして新しいものを受けないとね。常に直に・光源・命の本源・神様に向けてないといけない、自分の心をしっかりとね。向け続けるというのを忘れると、受けたままで終わるんです、一回きりね。受け直すというのは、常に神様に心を向けて新しいものを一瞬一瞬受けていないといけない、それで、受け直すというのは大事なんです。
 
・・・一瞬一瞬は無限億万分の一秒で、それは連続したもののように感じてしまい受けなおしが難しいです。せめて、一秒一秒くらいなら理解しやすいんですが?

最初はそれでいいんです、最初はそういう練習ですよね、一秒単位で良いと思うんですけど。

・・・受ける・返す、受ける・返す、の連続ですが、受け続けるではダメですか?

受け続ける事が受け直すなんですけど、ただ一瞬一瞬その違いがわからないとダメですね。細かい所まで違いがわかったら本当の意味の受け直しになります。だから、人を見るのでも別人に見えないと<笑い>


本物はまだこの世には出ていないですよ

質問者:
 大変失礼な質問ですが、先生の言う事が全部嘘だったらどうなるんですか?<笑い>

ありがとうございます:
 かも知れませんよ<笑い>自分が本物じゃないと本物はわからないですよね。嘘か本当かは自分しかわからないですね、自分が見抜いているんです。嘘の自分だったら嘘と思うんです、本当の自分が出てきたら本物と思うんです。それはその時の自分の状態で自由自在です<笑い>
 でも、本物はまだこの世には出ていないですよ、本物の片鱗がチョッとかいまみれるぐらいですね。たいしたことはないです、この世に出るのは。本物は言葉ではないんです、言葉を越えているんです、本物はね。言葉は本物を指し示すだけでしょう、だから指し示し方が本物かどうかなんてわからないですね。本物とは違うんですね。だから言葉のは偽物ですよ<笑い>みんな嘘です<笑い>

・・・それは「ありがとうございます」という言葉にも当てはまるんですか?

「ありがとうございます」という言葉はたいした事ないですね、中身ですよね。言葉の指し示す中身のほうが本物ですね。だから「ありがとうございます」の言葉を使っていると本物へ心が向くんです、本物を捉えた時が本当の意味で本物になるんです。
 唱えているうちにだんだんと本物に入っていきますよね、そして、本物をしっかり捉えるようになります。

・・・指し示した先を意味する言葉で、一番近いものは光ですか、それとも神ですか?

全てなんですよ、神でもあるし、輝く光でもあるし、命でもあるし。それはどういう要素から入っても良いんですよ、芸術家だったら美というところからスッと入るかもしれないですね、科学者だったら真理・働きから感じるかもしれないですね。宗教的な生き方をとる人は神様の愛という部分から入るかもしれないですね。全てから入れますよね。

一体感がないと感じないですね

質問者:
 愛・美・喜びなどの感情が湧くのは、感じる対象が本当は自分なんだとわかったということですか?

ありがとうございます:
 本当の自分・本当の神様を感じた事なんです。別だったらわからないですね、一体感がないと一つになっていないと感じないですね。


腹は全然立たないですね

質問者:
 先生自身は、腹が立つ事・腹が立つふりをする事はありますか?

ありがとうございます:
 腹は全然立たないですね、何されても立たないです。相手次第で芝居をしなければならないときはするかもしれないですね、きつく叱ったりする必要があったらしますね、でもあまり出来ないですね。

・・・落ち込む時はないですか?

一番下にいつも落ちてます<笑い>いつもサーッと上がるだけです<笑い>

・・・二十歳以前は落ち込んだ時はあるんですか?

人生の目的について悩みぬいた時はありますけどね、それでもそんなに落ち込まないですね、常に前向きに考えていましたね。転ぶんだったら前へ転ぼうと<笑い>。



全体にとっての必要性を見抜くのが大事ですね

質問者:
 会社の経営者は何を一番大事にしたら良いでしょうか?

ありがとうございます:
 世界全体を大きく達観する・見るというのが大事ですね、それで、全体にとって何が必要かとそれを見抜いて、それを達成するのに自分が何が出来るのかとね。自分を助けてくれる同じ志の人を周りに集めてその人をいかに生かすかですね。

・・・実際の日々の営業活動と、世界全体を達観する事が結びつきにくいんです。

いつも全体を見ないと間違いますね、小さい部分に閉じこもったら全体にとって必要な事は出来ないですね。全体があって百の部分があるとして、百の部分が同じ事をしてしまったら全体が調和しないですね、必要なもの・・不明・・何も出来なくなってしまいますね。常に全体にとって何が必要かとそれぞれ役割を分担して、同じことしたらダメですね、違う事で全体を調和させていかないとね。
 会社や企業がお金儲けを目的にすると本当の役割を忘れますよね、お金儲けなんて目的じゃないんですよね、それが大きな間違いね。
社会へ必要なものを与えていかないと、必要な事を見抜くことが一番大事なことです。そして自分から動き出すんです、自分が必要な事を果たしていくのに自分にその役割があるでしょう、自分が必要と感じる事は役割を与えてもらって能力を与えてもらっています、自分が動き出した時に周りから同じような志の人が集まるんです。
 集めるのも無理して集めたらダメですね、自然に自分を助ける意味で集まってきます。それをお金で集めたらダメですね、他で働く人を自分のほうへ引っ張ってしまう事になります。同じ志の人が集まらないと本当に大きい助け合いが出来ません。
 だから、必要なものを与えていかないとダメなんですよ、世の中には無駄なものがいっぱいあります、必要なものじゃなしに無駄なものが多すぎますね。無駄は排除していかないとね、今は、製造して物をいっぱい作ってね。必要なものを造ったんじゃないんです、お金儲けのために無駄なものをいっぱい作り出しているでしょう、今度は ごみの山を作るんでしょう。本当に必要なものだけを・いいものを作って供給しあうというんだったら、十分の一の少なさでよかったかもしれない、そしたら労働時間は十分の一になります<笑い>それで必要なものを十分に与えてもらうから幸せなんだと。
 スッキリしてきますよね、本当の意味の調和というのか、自然との協調性が図れますよね。全体にとっての必要性を見抜くのが大事ですね。特に企業のトップというのはね。

・・・お金で人を集めなくても、集まった人にはお金を払うでしょう?

少なめが良いんですよ、<笑い>徳が積み重ねられていくでしょう、もらいすぎは借りが増えるんです借金が増えるんです。自分の働き以上にもらった分は高利の借金になります、心にマイナスのものをいっぱい背負っていくので、心がまず疲れてきますね。それで良いことが出来なくなってくるんです、少なめにもらっているほうが・半分ボランティアがいいんです。そうすると、陰徳という徳が増えて心が明るく輝いてきます、働きが・能力が大きく伸びるんです、ますます与える量が増えます。プラスの循環が増えます。だから、少なめにして徳を積んでもらうほうが理想です。

・・・少なめにもらう人はそうは受け取らないですよね?

受け取れない心がマイナスの心、先に溜めてしまっているんですね。まず借金の心ですね、これが問題なんです、借金の心が借金を増やすんです、マイナスへマイナスへ向いてしまうんです。貯金のある人はドンドン徳を・貯金を増やすんですね、勝手に増えていくんです、ますますただ働きしたくなる<笑い>借りの多い人はますますあぶく銭を手にしたくなるんです、それではマイナスを増やし過ぎますね。
 マイナスをプラスに置き換える方法はただ働きですね、恩返しの心で人のために尽くすほうが早く気持ちがスッキリするんです。だから、一回ただ働きでボランティアをすると、これが喜びだと気付く人は多いですね。そういう気付きに出会わないと生き方を改めるのは難しいです。たまにはボランティア活動に打ち込んでみるのも大事ですね。

・・・天のほうの、借金・貯金の低利・高利がわかりにくいんですが

自転車操業で借金している時があるでしょう、最初の利息は安いですよ、それを返せない時にもう一つ利息の高いのを借りますよね、安い所が借りられなくなるのでね。順番に高い利息のを駆り続けるんですね、だから借金をするほど高い利息のものを借りてしまいますね、それは自然なんです。
 貯金もねチョッとだけ預けるのは利息が小さいんです、たくさんあったら、預けたら高利の利息をつけますよというのがあるんです。それが神様の方から呼びかけが来るんです。

・・・たくさん積むのは、量ですか、質ですか?

量よりも質のほうが大事ですね、できるだけ大勢の人を幸せにする働きに使ってもらうという、良い事に活かして使ってもらうことが大事ですね。
 つまらない使い方があるでしょう、人助けでもね、怠け者に与えて助けるというのはいけないですね。本当の働き者に、世の中のために使いたい・必要なんだという人に預けて使ってもらうと大きく世の中のためになりますよね。 できるだけ大勢の人の幸せに繋がる使い方のできる人に預けたら良いですね、そうすると高利の利息が付いてドンドン増えますよね。
 徳があるかないかは、その人の心境によって決まるんです、心が明るく輝いていたら徳のある人なんです。でも、親から財産受け継いでどれだけ持っていても、心に輝き・明るさがなかったらその人はマイナスを背負わされています。そういう人は財産を受け継いでも良い事には絶対使えないですね。だから、得というのは財産とは無関係です。先祖から受け継いだ光り輝いた財産もあるんですよ、少ないけどあるんです。大抵はマイナスの借金の財産が多いですね。
 財産相続して、相続争いするようだったらその財産は全部マイナスの負の財産です。もらわないほうが良いんですよ、そういう場合いは。もらわない人が道が開けますね、幸せは分からないですね・・不明・・。

・・・お金の使い方で、食べる、着るなどは必要最小限がいいんですか?

生きていくのに必要最小限で良いですね。食べるものでも食べたらお終いですね、一番質素なもので良いですね。着るものも着たらお終いですね、だから一番質素なもので良いですね。家もそうですね豪華な家にすまないほうが良い、畳一条<笑い>ウサギ小屋が良い。
 本当はそれぐらい徹底して自分の生活の程度を下げておいて、そして後何が必要かでしょう。本当の幸せは感謝のお祈りが深まる事ですね、感謝のお祈りが深まる神様のお手伝いに使えたら一番幸せですよね。

・・・最小限以上に食べるとか着るのは、徳を減らしている事ですか?

そうです、無駄遣いです。せっかくのものを無駄遣いして消してしまっています、それは徳を増やす事には使っていないですね、貯金を無駄遣いしているぐらいですね。

・・・食べ物の中で不味いものがあります、不味いというのはどんな事でしょうか?

それは比較上の問題なんです、いい物に慣れ過ぎるとチョッと不味いものは不味いとなってきますよね。だから、一回最低のものを味わうと良いですね。仏教でも修行する段階で最初に一番不味いものを口にしますよね、だから美味しいものがあったら埃をまぶす<笑い>そういうふうにしたんでしょう本当の意味でね。それを根底に置くと全てが光り輝いた美味しさに変わるんです、チョッと落ちたら汚いと捨てるんですね、それじゃダメなんです。逆に埃をかぶせてごみを混ぜて<笑い>一番最低の食べ物でも本当にありがたいという気持ちが大事なんです。それをまずしておいて自然に与えられるものを深い感謝で受けるんです。
 最低の不味いものを食べたら良いんじゃないんですけど、神様の恵みは最高に大きいプラスのものですから、それを受けるのが大事なんですけど、どの立場から受け直すかですね。謙虚な下の立場から最高のものを受けるのが一番感謝が深くなるので。そういう時は求めないですよね、食べたいという気持ちじゃなしに、ありがたいという気持ちだけで与えてもらうものを受けますからね。

・・・食べ物で、農薬が使ってあると人工のもので、使ってないと神様からの贈り物のような気がするんですが?

そうですね、外見のよさだけを追い求めると農薬をかけて虫の付かないようにするんでしょう、でも、菜っ葉でも穴だらけのが良いんですよ本当は、虫が食べても大丈夫というのがね。みんなが買う時の選び方ですよね、穴だらけのを優先して買う人が増えたら農薬は絶対使わないですね、形のいいのだけを選ぶからですね。形のいいのは買わないように不買い運動を起こして<笑い>虫の食った穴だらけのを買うようにと、そしたら今度は虫をいっぱいつけて,そしたら蝶々が増えるかもしれない<笑い>最近蝶々が少なくなったでしょう、可愛いのにね、神様からの素晴らしいプレゼントをみんななくしていくんですよね。


教えに縛られずに教えを活用して本物を捉えていくんです

質問者:
 お寺の役割はなんでしょうか?

ありがとうございます:
 寺というのは照り輝く場所なんですよ、「てら」天照大御神というのと同じで、そこは光を放射する場所です。だからまずそこの住職さんが輝かないといけないね、輝いて真理の灯台にならないとね、全体を大きく照らす役目ですね。そしたらみんなが自然に寄ってきます、光が交流されてますます輝きが増えます。すごい場所なんですよ<笑い>
 だから、先祖供養なんてそんなのは関係ないですよね、そういうものは枝葉ですよね。そこを大きく輝いた場所にすれば良いですね。

・・・そのためにはどうしたら良いんですか?

「ありがとうございます」<笑い>みんな無限に無限に輝いていると拝む事です、これが大事ですね。仏教だからと仏教の教えに縛られたらダメですね、仏教の教えは単なる教えですね、教えの奥に本物がありますからね、本物をしっかりと取り込まないとね。だからその宗派を超えないといけないですね、本物を捉えるにはね。世界のいろんな教えは全部それぞれ本物を指し示す方便ですよね、それはみんな参考にはなるんです、ただ本物をしっかり捉えてそして輝くんです。
 教えに縛られずに教えを活用して本物を捉えていくんです。どの教えが良い悪いはないんです、全部本物を指し示そうとしています、それを正しくキャッチすればいいだけでしょう。一宗一派的に囚われたら縛られてしまうので本物を見失います、形の中の自分を閉じ込めてしまいます。


一番下から一番上の神様を見上げるんです

質問者:
 拝むということはどんな事ですか?

ありがとうございます:
 拝むという字が、手偏に手と書きますよね、ばらばらのものが一つになっています。だから、一つなるものを捉えないと拝めないですね。本物の神様なり仏様を捉えて、全体がその部分というふうにね。どんな部分も無限に無限に輝いているという捉え方ですね、それが拝むです。
 本物を・神様を拝むというのは宇宙全体を全部見通さないと出来ないですね、でも、部分を拝むというのは部分が輝いていると見たら良いんです。全てを通して本物を見ていくんですけど、部分部分が無限に無限に輝いているんだというふうに、そういうふうに受け直していけば拝む状態ですね。
 拝むという言葉は礼拝(らいはい)という言葉があります、礼(れい)というのは示す偏にこういう漢字でしょう。無限の無限のチャンネルが示されている姿です、それを一番下から見て拝み上げるんです。光一元に見るんです、マイナス無限大からプラス無限大を仰ぎ見ると全てかプラスに見えるんです。そういう見方が礼拝という見方ですね。
 頭を地面につけて、五体投地という礼拝の仕方は自分を一番下に置きたいという心の現われなんです。一番下から一番上の神様を見上げるんです、そうすると全部マイナスには見えなくなります。

・・・祈るということは?

神様の宇宙創造の働きが祈るなんです。無限の無限の輝いた姿働きこれが祈り、それを感じ取るのが本当の祈りです。無限に無限に輝いているというのをキャッチする、それが祈りです。だから拝むも同じですね。

・・・無限の下から上を見たら羨ましくはないですか?

自分のものとして受けたら羨ましくはないですね、自分のものだから。受けなかったら羨ましいですね。与えてもらったものを拒絶したらダメです、謙虚になって素直に受け入れて自分のものにするんです。これだけが自分のものと掴むとほかが自分のものでなくなるので、小さいものを掴まない事です。全てを・全体を受け入れたら良いんです、そうすると全部自分のものだから羨む心が消えるんです。


無限の名前を付けてもまだ足りないというぐらいですね

質問者:
 天照大御神が先生のおっしゃっている神様の名前なんですか?

ありがとうございます:
 だから天照大御神という名前だけが全てを表しているとは言えないんですけどね、ただ説明の指し示す言葉としてはそういう言葉もいいかなというだけですね。

・・・本来は一定の名前ではない?

一定の名前だけでは指し示せないんですね、無限の名前を付けてもまだ足りないというぐらいですね、本当の神様の全体をさすのはね。ただ大まかにチョッと指し示す言葉として、全体を指し示しているような感じの言葉が「ありがとうございます」とかね、そういういろんな言葉があるというだけでね。

・・・人間の都合で仮につけていると?

そうなんです。


プラスをいっぱいまず受け直す事ですね

質問者:
 マイナス無限大から見上げるということですが、どうやってマイナス無限大を知れば良いですか?

ありがとうございます:
 だから順番が有るんですね、この世に生きている人はこの世の中の一番のマイナスを見るのがいいのね。だから、自分はやっぱりプラスでありたいんです、楽だしね気楽だしね、世界全体を眺めた時にね大きいマイナスの姿があるんですね、それから目をそらして逃げて・・・・途中不明(録音中断)・・・・練習するんですね、そうすると今の自分がプラスだったらね、今の自分が更に価値あるものとして感じられるでしょう、幸せいっぱいにね。その差を大きくするほど謙虚にマイナスに立つ立場になりやすい。ある意味で感謝を大きくするほど謙虚になるんですね、プラスをいっぱい認める・受け入れる心になったほど謙虚になりやすいんですね。
 感謝の中に謙虚さが含まれているんですね、だから、ご馳走でもおなかいっぱい食べて満腹という心になったら、後はどんなにお腹を減らしても苦痛に思わないね、「ありがとうございます」だけで続くでしょう、お腹すかせるのね。だから何でも一生懸命に働いてお腹すくとこまで、とことん おなか すくところまで働けるんですね。でも、チョッとしか物を食べてなかったらね、空いているという感じだと働けないんです、お腹すくのは怖いと<笑い>だから、感謝で満ち足りた心は自然に下に降りられる心ね、謙虚になれるね。
 だから、プラスをいっぱいまず受け直す事ですね。それから、低い立場と比較して自分がどれだけ幸せであるか・幸せが大きいかと気付くだけでも良いですね。


神様のお使いとしての役割を元々みんな果たしている

質問者: 
 龍とかそういう神様の使いという動物はあるんですか?

ありがとうございます:
 全部本当は神様の使いですよね、どのチャンネルの中に出てくる姿にしてもね、そのチャンネルを構成するには必要な役割です全部ね。だから神様のお使いとしての役割を元々みんな果たしているんですね。ただ、チョッと限定していい物を与えてくれるというお使いというんだったら、チョッと限定された姿で出てきますよね、だから龍とかそういうのが神様の使いのように見えますよね。悪魔と言うと使いじゃなくなるようで、妖怪化け物ではチョッと困りますよね。でも本当はみんな神様のお使いと言えばお使いですよね。



どこから受けても神様からの答えですね

質問者:
 神様に教えてもらうというのは、自分で思い当たるということですか?

ありがとうございます:
 いろんな教え方があるんですね神様のほうはね。もし何か疑問があったら、近くの人に教えてもらう時がありますよね、人じゃなしにいろんなものや動物からもね感じる時がありますよね、また中から声として聞こえたり、いろんなイメージがパッと出てきて答えをもらったりね、また自分が考え付いたように答えがスッと出てきたりね。教え方は千変万化・自由自在に出てくるね。

・・・その時、単なる思い過ごしなのか教えなのかの見分け方はありますか?

そうね、それは自分がどれだけ神様と一体化しているかでしょう。本物の神様は全体なのよね、必要だったら石ころからでも声が出てくる<笑い>全てから答えを出してくるね。どこから受けても神様からの答えですね。誰かの名前を知りたいと思ったら、その人の名前を中から神様に教えてもらわないと聞けない、そうじゃないでしょう。その人の名前を知っている人に聞けば良いですね<笑い>一番手っ取り早いですね。
 だから、神様を全体と見てその神様と一体感を深めておけばいいんでしょう。そうするといつも必要な所から必要な導きを受けて教えてもらうんですね。



護摩

護摩の話をチョッとさせてもらおうかな。
護摩の護という字は「まもる」という字ですよね、護るというのは完全なものを燃え上がらすように本物を現すという意味があるんですね。摩のほうは麻に手ですよね、魔物の魔じゃなくて麻に手ですよね、麻を細かく切り裂くというね、切り裂いて消し去るという意味ですね。だからこれは偽物を細かく砕いて消し去るそして本物をあらわすというのが護摩の姿ですね。
 仏教とキリスト教と神道と大きく分けると三つの働きがあるんですけど。キリスト教のほうは良く洗礼といいますよね、水の洗礼ね、水というのは汚れを洗い流しますよね。形の水の洗礼は模型なんですね、本当は霊の洗礼なんですね。水の清めは柔らかい優しい清めなんです、汚れを洗い流してくれるというのはね。護摩の方は仏教のほうのやり方ですよね、火の洗礼というより火の清めですよね。不動明王が中心に立つんですね、だからちょうど汚れたものでもね火にかけると回りの汚れが焼けて消えて本物が出てくるんですね、ちょうど不死鳥・本物が飛び立つんですね。
 神道のほうは玉串奉天(たまぐしほうてん)なんです、玉串というのは天照大御神様の玉体(ぎょくたい)を指すんです。元々の由来が榊・永遠の生命の象徴ですよね、そこに紙垂(かみしで)階段状に作った段だらの状態のものをくくりつける、あれは螺旋構造を表す、宇宙創造の仕組みなんですね。玉串というのが天照大御神様の最高表現を指しているんです、だから本当の自分とか天照大御神様を指しています。それを神様の前に捧げるというのは、捧げる時に回して逆に根のほうから捧げますね、根こそぎ・自分の全てを一切を捧げ尽くすんです、そして神様から新たなものを受け直すんです。だから、天照大御神様の玉体を受け直すというのが本来の意味なんですね。小さく言うと、小さい自分の命も全部捧げて新しい自分を受け直すという意味があるんですけどね。だから、神様への全托ですよね、神様にお任せする事によって自分のマイナスを一切消してもらいプラスの本当の自分を受け直して、清らかな自分として出てくるんですね。
 キリスト教の十字というのは、マイナスの否定・クロスとプラスの復活と両方あるんです。偽ものの自分を切り殺して本当の神なる自分を復活させる、これが十字の意味ですね。その十字が回転しだすと卍(まんじ)になるんです、仏教の卍ね。卍が更に高速回転すると円になります。
 汚れを取るのでも、汚れ物を洗濯の石鹸水につけておくというだけでも汚れははがれていくんです、今度これを洗濯機にかける、揉み解すわけね、更に汚れが離れますよね綺麗になるね。今度は遠心分離機にかける、高速回転ですね、そうすると本物と偽者の区別がつきます、本物だけが残ります。
 だから、同じ本物を表す表し方も大きく分けると三通りあります。円になった時に初めて、どこが始まりか終わりかわからないでしょう、ここを始まりと決めたら、グルッと回ったと同時にそこが終わりなんです。不思議な{(形)()内は不正確です}模型なんです。
 キリスト教も仏教も神道も本当の神様の救いの働きのいろんな・・不明・・というんですか、そういうものだったんですね。全てを包容して全部中に持つ大きい救いの働きが古神道ですね。古というのは古いという意味じゃなくて、口の上に十字があるんですね、だから言葉を超えて縦横無尽な働きをする神様の働きなんですね。神の道というのは、道というのは離れているものを?ぎ合わせるでしょう、そしてまた、宇宙に満ち渡るという意味ですね。本当の縦横無尽の神様の働き全体が宇宙に満ち渡っているという、これが古神道ね。
 そうすると古神道が本当の全てになるんですね、本当に全てを幸せにする働きですね、本当の清めの働きですね。だから、清めというのも、浄化の浄と清らかな清と二つあるでしょう。水の清めは浄化の浄なんですね、三ずい・水が争うというね、争うというのは激しく動き回るという意味ですね。速い厳しい強い流れにさらすほど汚れが取れますよね、これが浄化の浄ですね。
 清めのほうの清らかなほうは、三ずいに青ですよね、水が青いというのは本質なんですね。この清めのほうは本質を現すという意味です、表面の汚れを取るというより本質を現して清めるんです。火の清めがそうです、火にかけることによって本質がサッと出てきます。白金ってありますよね、白金というのはどんな汚れをつけても火の中に入れたら汚れだけが綺麗に取れて、白金が綺麗に輝くんですね、すごいですねあれはね、綺麗なものですね。だから本物と偽物とがはっきり区別がつくんですね、火の中に入れると。そして本物だけが不死鳥のようによみがえるんですね。
 護摩というのはそういう意味でね、護摩木に自分の名前を書くでしょう、これも自分を捧げ尽くしている姿だと思うんですね、捧げ尽くして例えば「ありがとうございます」と唱えるでしょう、そこは光り輝いた姿・燃え盛った姿をとるんですね。一本でも明るいんですよ、二本寄ると相乗効果を起こして、三本寄(ありがとうおじさんは「三人寄ると」と言われましたが・・?)るとまた起こしてというようにね。たくさん寄るとそこが{(一大巨火)()内は不正確}に変化します。これは個人的な汚れを取る段階をはるかに超えてしまいます、大きい一大巨火になったら世界を照らす光に成ります。言ったら闇を消す・マイナスを大きく消す働きをしますよね。
 そういう意味で護摩というのは必要なんですね。私は小さいときに良く護摩を焚いていたようなんです、父がね、いろんな人を助ける意味で家で護摩をしょっちゅう焚いていたんですね。部屋の中で焚くんですけどね、天井があまり高くない・これくらいですかね、それで上から紙垂がたらしてあるんです、その下で焚くんですよ。かなり火が天井まで燃え上がるんですけど、紙が火で燃え移らないんです、不思議にねあれだけ燃えているのに、紙の所まで火が行っているのに全然燃えないんです、焦げもしないんです、不思議でたまらなかった。だから護摩というのは守りがそれだけ加わっているんですね。紙垂は本物を表しているんですね、天照大御神様の玉体を象徴しているから火にかけても燃えないんですね。それで、汚れを全部綺麗に焼き滅ぼして綺麗に本物を出してくださるんですね。だから、護摩でいろんな問題が消えたのを覚えているんですよ。でも問題が消えるだけじゃないですね、本物を現して下さると言うのが本当の目的ですね、火の場合はね。
 ありがとうございます護摩はまた特別なものがあるかもしれませんね<笑い>悩み解消とか問題解消じゃないですね。本当の一大巨火をそこへ現すようなものかもしれないですね、皆さんも全部名前を書いて置いてください<笑い>参加されなくてもね書いておいて頂いたら、一大巨火になって世界を照らしますから。


痴呆症(ボケ)
質問者:
 痴呆症(ボケ)の方にはどのように接したら良いですか?

ありがとうございます:
 目的を仕事を与えるのがいいです、あまり労(いた)わり過ぎて何もさせないとボケます。逆に仕事を与えて手伝ってもらうほうが良いんです、ボケている暇がなくなります。
 大きい目的を与えるほど良いんです、そうして力を出さないとどうしようもないという状況に置くほうがいいです、手伝いすぎても労わり過ぎてもいけません。本当の仕事・きつい仕事を与えるほうが良いんです、芝居してでも助けてもらったほうが良いですよ、そしたら、自分の中の力が湧き出るように出てきます。目的を持ちだしたらボケなくなります、ボケるのはやる事をなくし目的をなくした時です、何か目的を与えるのが良いです。猫一匹の世話でもさせたらボケなくなります、花のお世話でも良いです、何か目的を与える事がボケを解消する道です。
 若い時からボケる人が最近多いですね、生きる目的がないんでしょうか?これから寿命が延びて八十・九十まで元気に活動したほうがいい・しなければいけない、だから若ボケしたら損です。五十・六十からボケてる人がいます。大きい目的を持って生きるのが大事です。

恨み

質問者:
 恨み(マイナスの念)は「ありがとうございます」で消えますか?

ありがとうございます:
 恨み続けた人がある程度謙虚になった時に、神様の救いがスッと入ります。そして、お祈りをする人を通して大きい光を投げかけてくださったら全部消えます。そして、涙が流れて感謝を起こします。
 ただ、本人の自由意志があるので(本人が)謙虚にならないと無理です。謙虚になるまでは、まだ頭を打つのが必要だったら、恨み続けて頭を打つようになります。やはり時期の問題です。

・・・私はどうしたら良いんですか?

自分の前に現れるのは必ず、感謝を深める段階の人ばかりと思っていたら良い人ばかりになります。感謝している人の傍には必要な人しか寄って来ません、そういう時期のきた人が集まってくるんでしょうね。過去にどんなに恨み続けた人でも、謙虚になって助けを受けやすくなった人が来るようになります。

・・・そういう人が現れるのは自分の中に同じものがあるからですか?

人は誰でも同じような姿をとっているんです、過去にそういう時に自分も助けてもらっています、そして今の自分になっています。そういう意味では恩返しをさせてもらうのは幸せです、恩返しをする事で喜びが増えます、過去の自分を助けてもらった時の感謝の念を深く起こせます、一石三鳥ぐらいの喜びです。

・・・その恩返しの仕方は、その人が無限に無限に輝いた感謝の人であると拝む事ですか?

それが一番です、「ありがとうございます」と拝む事です。


順番に体験します

質問者:
 マイナスの想念をたくさん持っている人をプラスに導く役割があるから、そういう人が寄ってくる事はないですか?

ありがとうございます:
 それも、ずーっと来るわけではありません、順番があります。そういうマイナスを持った人も来ないと、有り難味も自由意志もなくなります。そういう人も来て、すぐにパッと変わるような人も来てというように、いろんな姿を体験させてもらうんです。そうして、感謝が深まるようにしてもらって、いずれは光り輝く良い人ばかりになります。感謝が深まってそうならないといけない、マイナスの人も拝めて感謝できて、そして最高の姿に出会わせてもらって感謝が深まればいいんです。順番があるんです。自分は神様に護り護ってもらって最短コースを歩むようにしてもらっています。



疲れ

質問者:
 先生は、疲れないですか?

ありがとうございます:
 
疲れたら喜びます、ああいっぱい働いたと、みんなのために役に立ったと喜んでいます。そしたら疲れはいっぺんに消えます。
 疲(つか)れという言葉も、あの世からいろんなものが引っ付いてきたという意味があります。力を出し尽くして空っぽになって何の力もないというような意味ですけど、いずれにしても「ありがとうございます」と喜んだら、引っ付いたものも綺麗ななるし中からエネルギーの補給がしてもらえるし、ドンドン新たな姿に置き換えてもらう姿です。だから喜べばいいんです、疲れれば疲れるほど元気になります。



忙しい(楽しい)

質問者:
 忙しいという言葉は、心が亡くなるという意味だからあまり使わないほうがいいですか?

りがとうございます:
 そうです、特に過去を掴みすぎています、忙しいのは過去のつかみが連続しています。過去を掴むと心が囚われてマイナスになります、自由を失い苦しいですね。今の一瞬を喜んで生きるのは過去を掴んでいませんから、一瞬一瞬喜んで生きていたら忙しいとは言わない、楽しいと言います。


浄化

質問者:
 浄化や清めの過程で、病気や事故は出ますか?

ありがとうございます:
 形にマイナスが出るのは表面の浄化です。心の中のマイナスが形に転換する事によって心の中のマイナスが消えます、形に出てしまいます。それが形のマイナスの浄化の姿です。でも、お祈りで奥から消すのは、ちょうど太陽が霧を消すように形にマイナスが何も出ずに消えていきます。お祈りしている人は形に出る前に消されてしまうので、マイナスはあまり形に出ません。

・・・形になって出てくるものは、そうやって消えなかったものが出てくるんですか?

まだ消すものが多すぎて、お祈りの光が弱すぎて、・・・大きいごみの山があってそこに火が降りて燃やす時に煙も出ますよね、そして燃えカスも出ます。そういう消し方だとマイナスがチョッとは出ます。心がもやもやとしたり、形でマイナスが・燃えカスが出るんです。消し方はいく通りもあります。

・・・光が強ければ跡形もなく綺麗に燃えるんですか?

ごみ焼却炉でも温度の高い所ほど完全燃焼ですね、お祈りを深くするほど大きい光をたくさん受けて、完全燃焼の姿でマイナスが出ずに済ませてもらう事が多いです。


光(闇)

質問者:
 根源の神様は存在することに意思があるんですか?

ありがとうございます:
 宇宙全体の意思が現れています、無限創造です。同じ事を絶対繰り返したくない・常に新しい最高表現をし続けるという意思があります。そしてそれをを心行くまで味わい尽くして喜んでいます。

・・・マイナスを創造しているのは誰ですか?

神様です。マイナスだけを創造しているんじゃないです、無限の無限のプラスを頂点にしてその中にほんの小さくマイナスがあります。光と闇があって、光だけだったら大きい光そのまま一つでしょう、闇があるから大きい光から小さい光までいろんな段階が生まれるんです。光の表現を無限に変化させるのが闇の働きです、闇がなかったら光は単調なものです、蛍の光も生まれないし星明りも見えないし。それでさえ実の光です、闇がなかったら虚の光は見えません。虚と実の両方の光を全部中に含んだ大きい光を創造しています。闇も神様の作ったものです。
 

光一元

・・・質問不明・・・

光の表現が調和しているんです、光一元が調和しているということは、光一元が調和して生まれているんです。両方からの与え尽くしあいです、光をたくさん受けたところは大きく輝き、小さく受けたところは闇に近い。どっちも与え尽くしあって無限の無限の段階の光の表現が生まれています、与え尽くしあいで調和しているんです。

・・・質問不明・・・

光一元という言葉も解釈がいく通りもあります。・・不明・・ゼロの立場から光だけを肯定して闇を無理やり消す光一元があります、ゼロから出発した光一元です。闇の極の絶対のゼロから見た時は、闇のほうは虚の光です、虚の光が一元にあってゼロからは実の光が・・不明・・本当の光一元は、絶対の零から光一元に闇も光も同時に見上げるのが光一元です。 浅い光一元と深い光一元があります、深いほうが本物です。


虚の光(実の光)

・・・虚の光というのは人間界においては、どのようなものですか?

ブラックホールは闇が深いでしょう、光を吸い込んで消えてしまって闇になります、闇が深くなるというのは普通の闇が虚の光が輝いているという意味です。ブラックホールから見たら普通の闇は虚の光が大きく輝いているんです、浅い闇は虚の光が大きく輝いています太陽のように。
 ブラックホールの深い闇から見ている人にとったら、この世の暗闇は無限に輝いているといいますよ。月も星明りも消えて本当の暗闇という状態が太陽のように輝いた状態に見えます。

・・・虚の光は見えますか?

見えます、立場を変えたら。この世で見ている可視光線の光は本物から見たら模型の模型でしかありません。本当の神様の光はもっと無限に複雑です、種類が多い。


一元に見る

・・・神様の言葉があるように、悪魔のささやきもあるんですか?

本当は神様が一大統一しています、無限のプラスの事から無限のマイナスの事まで中に含まれているんです、マイナスというのはそこにプラスがないというだけです。プラスが少なくなるとマイナスが大きくなった姿をとります。本当は神様のプラスの言葉なんです、一元の表現といったほうが良い、どれだけプラスの言葉が多いか少ないかだけです。

・・・光も闇も一元ならば、マイナスからもプラスが作れるんですか?

正しい見方は、相対に分かれたものを二元的に見るのは正しい見方ではありません、分かれたものを一つに統一して一元に見るのが正しい見方です。感謝の心は皆一元に見るんです、思いは二元的に見ます、善悪を区別したり、二元に見るのは思いのほうです。(思いは)一つの立場を掴みますからその立場からしか見えません。感謝の心は立場を自由に移せます、一番下にも一番上にも立てるので全部一元に見れます。感謝の心を生きるのが神様の心です、全て一元に見えるのがいいです。

・・・天照大御神様の中にも闇が含まれていますか?

古事記の中に天照大御神と月読み(月夜見)の命とスサノオノミコトと三つでます、これは模型で例えたら太陽と月と地球です。小さい天照大御神様は太陽です、月も地球も含めて大きく見たのが大きい天照大御神様です。本当は三つを大きく一つに見ないと天照大御神様の本当の姿ではない、天照大御神様は全体なんです。


掃除

・・・神棚や神社は綺麗に掃除されていますが、神様は綺麗な所が好きなんですか?

高い番組と低い番組を比較した時に、高い番組ほど適材適所に配列されています、役割りがはっきりしているんです。ごみや埃がどこにもあるんじゃないですね、必要な働きだけがキチットあるから綺麗に整理整頓された・綺麗に掃除された姿をとるんです。低い番組は役割が決まらない、雑然としています、混沌としてばらばらです、ごみだらけに見えます。
 汚いものは汚い所へはっきりと整理して移せばいいでしょう、そうしたら綺麗に見えます。掃除された姿のほうが高い番組です。
 心の中もそうです、すっきり掃除されたほうが高い心級です。思いがいっぱいで雑然としていたら低い心級です。スッと澄み切って全体がはっきり見える心がいいんです。

・・・
現実に掃除をする事は大事ですか?

大事です。掃除をする事で心の中を掃除しているんです、ちょうど裏表になります。掃除する事は自分の心を掃除する事になります。掃除する整理整頓する事は心の整理整頓に繋がって清めに繋がります。

・・・ものを大事にするのとものに執着するのとの兼ね合いがわかりません

本当に必要なものだけを残すのがいいんです。必要でなかったらそれをうまく循環させてくれる所へまわしてやるのが一番良いんです、今は物が多すぎますね、全体にものが多すぎてごみに捨ててしまいます。でも、ごみに捨ててもいいものも多いんです、あまりに多すぎると家でも狭くなりますスッキリしません。
捨てる段階に入った時には必要なもの意外は絶対に買わないと徹底した方がいいです。

・・・もったいないの(もったい)とはなんですか?

単なるものではない、神様の命の結晶ということです。神様の愛の・命の結晶だったら大事に使うでしょう、自分を幸せにするための神の愛の変身の姿ですから大事に使わないと申し訳ないですね。

・・・掃除のプロは劇薬を使ってきれいにします、喜ばれるんですが本人は害があります。本人にはプラスなんでしょうか?

劇薬を使ってまで綺麗にしなくてもいいんです、そこまで必要かと考えると必要ないんです。本当の綺麗にするというのは中から輝きが出てくる綺麗にする仕方です。外見だけを飾るような綺麗にする仕方ではないんです、中から輝き出るような綺麗にする仕方が良いですね。だから、感謝をしながらというのが大事です、感謝をしながら中から神様を引き出すような掃除の仕方、表面をきれいにするのが目的じゃなしに、掃除を通して中から輝きを引っ張り出すのが本当の綺麗にする仕方です。
 乾拭きでもいいし水で拭くのもいいし、その度に神様を引っ張り出しているという掃除の仕方が理想です。それを短時間で綺麗にするために劇薬を使ってするのは、時間節約でよさそうに見えますが、神様を引き出す働きはしていません。時間をかけて繰り返して「ありがとうございます」と言いながらがいいんです、本当の意味での中からの輝きを引っ張り出すやり方です。


無限の無限の(無限の無限の幸せ)

質問者:
 「ありがとうございます」は誰にも分かりやすい言葉ですが、先生の中にはそれ以外に何か言葉があるんじゃないですか?

ありがとうございます:
 「ありがとうございます」を唱える中に、天照大御神様になったり全徳の無限の無限の輝きが無限に無限にいっぱいとなったり、唱える中にたくさんちりばめられている感じです。
「ありがとうございます」と唱える中に「無限の無限のありがとうございます」が中にあったり、皆さんの「ありがとうございます」を全部自分の中に取り込んでいたり。ありとあらゆる「ありがとうございます」を中に全部含めてしまいます。

・・・なぜ「無限の無限の」と二回繰り返すんですか?

大事な所なんです、いくつもの意味がたくさんあるんですけどその代表的なものが、今の自分が無限の幸せを掴んだとするでしょう、そしたら過去・現在・未来と無限の時間にいる自分もあるんです。その全ての時間の自分もそれぞれ無限の幸せを掴んだら、無限の無限の幸せということになります。
 そして、無限の無限のチャンネルの中にいる自分、その自分も全部無限の幸せをつかめます、それを全部まとめた自分は無限の無限の幸せです。宇宙が相似形で入れ子構造の姿をとったとして、今の宇宙にいる自分・他の宇宙にいる自分が、これは無限にあります。そうすると無限の無限の幸せです。
 自分という一人が無限の幸せを掴んでも他の人もいるんです、無限の人が無限の幸せを掴んだら、それを全部自分の幸せに取り込んだら無限の無限の幸せです。これが人だけではなく、神様であっても、生き物であっても、物であっても、石ころでもそうです、全部の無限の幸せを全部自分の幸せに取り込んでしまうんです。必ず無限の無限の幸せが自分のものになるんです。
 幸せというのは同じ状態では続きません、必ず新たな状態で出てきます。質的にも変化してドンドン高くなっていきます、量的にも大きくなっていきます、深みがドンドン出てきます。そういう意味で無限に大きく変化します、幸せの顔が無限にドンドン変化します、変化した姿で現れます。
 他にもいろんな意味があって、無限だけでは足りなくなります。だから、無限の無限のといってそれで十分かというとそうじゃないんです。無限の無限の中の一つの幸せが、また中に無限の無限の幸せを持つんです。そうなると言葉を超えて想像を絶してわからなくなります、そのぐらいすごいんです。だから、「無限の無限の」というのは小さくとどめているくらいです。





ありがとうございますおはなし集で使ったHTML等は菊地さんのサイトで勉強しました。菊地さんありがとうございます

0.1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.
19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.32.33.34.
35.36.37.38.39.40.41.42.43.44.45.46.47.48.49.50.
51
.52.53.54.55.56.57.58.59.60.61.62.63.64.65.66.

以下(いか)のコラムは宗教(しゅうきょう)サイトではありません。古神道(こしんとう)研究(けんきゅう)ノ−トです。
またその内容(ないよう)に責任(せきにん)を保持(ほじ)していません。さらに著作権(ちょさくけん)も行使(こうし)しません。
どうぞ自由(じゆう)に使(つか)いまわしてください。できればちょっとアレンジしていい感(かん)じになったよというのをどんどん、是非(ぜひ)メールでお知(し)らせください。