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ふることふみ(古事記)
あめつち はじめ おこるのとき たかあまはら に なりませる かみの みなは あめのみなかぬしのかみ
ここにあまつかみもろもろのみこともちて
於是天神諸命以
いざなぎのみこといざなみのもことふたはしらのかみに
詔伊邪那岐命伊邪那美命二柱神
このただよへるくにをつくりおさめかためなせとのりごちて
修理固成是多陀用幣流之国
あまのぬぼこをたまひて ことよさしたまふ
賜天沼矛而言依賜也
天神諸(あまつかみもろもろ)とは、
一神(天之御中主神)が二神(高御産巣日神、摩訶御産巣日神)となり、二神が四神(宇摩志阿斯訶備比古遲神・天之常立神、豊雲野神・国之常立神)となり、四神が八神(宇比地遲神・角杙神・意富斗能地神・淤母陀琉神、妹須比智邇神・妹活杙神・妹大斗乃辨神・妹阿夜訶志古泥神)となり、八神を総括して伊邪那岐神・伊邪那美神と顕れているのであるから、天上天下にはただ「伊邪那岐神・伊邪那美神」のみが存在するのであります。だから天神諸とは即ち伊邪那岐神・妹伊邪那美神そのものでもあるのであります。
万神即一神の意義から言えば、天神諸は即ち伊邪那岐伊邪那美神であり、一神即万神から言えば、伊邪那岐伊邪那美神は即ち天神諸であるのであります。
天神諸と岐美二神とは一体であり、自己が自己に対して詔命を降しているわけであります。
岐美二神は御祖神に対して絶対信頼しているので、全く一体となっているわけであります。それで自己が自己に即すということになって、寸分の際もずれも無いのであります。
ミコト(命)は御言(みこと)であり、至尊(みこと)であり、詔命(みこと)であります。
カミ(神)はカクリミ・カゴリミ・カガリミ・カケリミ・カギリミの総括名であります。
神はことごとくミコトでありますが、特に岐美二神は「創造」という極めて変化に富んだ、活動的な神業に当たるので、伊邪那岐命・伊邪那美命というのであります。
高天原が、多陀用幣流国が岐美二神の御自体そのものであります。
修理固成(つくりおさめかためなせ)は、アシカビの本義に基づいて、岐美二神の御自体そのものの高天原の内容を、漸次詳密に、創造の威力を顕示し発揚し、ミウムスビを決行して進まれることを言うのであります。
岐美二神が御自体の内部整理、内部伸展、内部構成を営んでいる状態が、全大宇宙のすべてのすべてなる現象そのものであります。
岐美二神は過去・現在・未来のすべての時に、永遠無窮に、不断に創造活動を営んでいるのであります。
だから岐美二神が遠き昔に宇宙を創造されたと見るのは全くの誤りなのであります。神代とは遠い昔のことではなくて、今の”一瞬一瞬あらたなる今”のことであるのであります。
8-1
岐美二神は天神諸の命のまにまに、無我無心虚心坦懐に素直に謙虚に随順してゆくところに、天之御中主神の御心に一致して、無限無数無量の、刹那の定住をも許さぬ、一瞬一瞬永遠に新しく、一瞬一瞬恒常に新し<、一瞬一瞬無常流転の妙相を、一瞬一瞬自由自在に創造し続けるという、絶対創造を営むことができるのであります。
天之御中主神に絶対信順するということは、絶対の自由を獲得することであって、つまらぬものの奴隷・操り人形となって自由を失うということでは決して無いのであります。
高天原順逆一如の原理によって、徹底的に正反対のものは一致致するのであります。
すべては天之御中主神の御心のままに成っている、という彼底的宿命論に合致するとき、最高の真実の自由自在な生き方となるのであります。逆に自分の運命は自分の思い通りになるのだ、という生き方では小さな小さな自由しか味わうことができないのであります。
天沼矛とは、一霊四魂一元四体で構成された、岐美二神の御当体であり、天神諸の御自体であり、高天原の三大根本神力である「タカアハラ」「タアマハラ」「カアマハラ」によって成る(鳴る、生る)ものであり、タカアマハラの神力神相に基づくものであります。アマはアの全備(マ)ということで、全大字宙を完璧に、一切万神万生万有を全部産み現すということであって、岐美二神がそういう威力ある相になったのを天沼矛というのであります。ヌは握り持つの義があり、天神の握り持つ矛となり、最も密接な握り持つという状態は天神と矛とが一体となった状態、即ち天神御自体がそのまま矛となった相を天沼矛と言うのであります。それはアシカビをもって組織され、構成されたものであり、陰陽変通の本基として、左旋右旋外発向聚の意義が明確に表現されたものであり、創造・統一・自在・限定の一切の妙諦が宿るものであり、諸神化生の心台として、一切万神万生万有の生命の根源であり、四魂四体発生のカを保つものであり、岐美二神の鎮府として、全能が込められているものであります。つまり岐美二神は天沼矛となって、創造のための絶大なるカを発揮するわけであります。
言依賜也とは、言依(ことよさし)と賜也(たまふ)の二つの意義があります。
言依の言は言霊であり、すべて神々の固で行われる事柄は、深刻なる言重であるので、最高の権威と力が備わっているのであります。
依(よさし)は全く任せ切る至純のおまかせであります。この任(まかす)は実に深刻なる一任であるので、いささかも滞りのない御一任御委任であります。
賜也は、何物かをくださるというときに使われるのであります。
8−2
かれ ふたはしらのかみ あまのうきはしに たたして
故 二柱神 立 天浮橋而
天浮橋(あまのうきはし)とは
「あま」は「あ」(無限の無限の大光明、全大宇宙)の「ま」(全体・全備)という意味
であって、全大宇宙をそのままという意義。
「うき」は体系構成の立脚点が未だ定まらない状態、また体系の始元に突入して、その体
系を脱却して、自由自在になった状態を現す。
「はし」は端(はし)即ち両端(はし)であって、一切が相対の両端に分かれた状態。
霊は体に、生は死に、明は暗に、時は空に、書は悪に、美は酌に、理想は現実
に、本心は業想念に、・・・・というように。
立(たたして)とは
「たた」という事を「して」という意味。「たた」は対立、対照、相対的の意義。
岐美二神即ち天沼矛が天浮橋という姿になったのであります。
岐美二神が、霊体、生死、明暗、時空、・・・・というように、相対の両極に対立し、なおかつプラス無限大とマイナス無限大の両極をも脱却し超越して、何物にも縛られたり囚われたりすることの無い自由自在な立場に立った状態を天浮橋というのであります。
ここから一切の縛りの無い自由自在な「無限創造」が可能となるのであります。
何事でも囚われたら、自由を失い、行き詰まるのであります。例えば、善に囚われたら自由を失い、悪に囚われても又自由を失うのであります。善悪の両極を把握して、それを超越したところに、善悪不二の絶対自在の境地があるのであります。そこにこそ全く新しい善一元の無限創造の始元があるのであります。如何なる局面をも自在に転換する極処が天浮橋であります。
地獄を現すのも極楽を現すのも表現の自由であります。ただ地獄を極楽に瞬時にして変換する自由自在性がなけれぱならないのであります。
その為には常に天浮橋に立たなければならないのであります。
天浮橋は如何なる創造をも可能にする、絶対自在の無限創造の源泉であり、始元の極処であります。
無念無想無我無心純真無垢虚心坦懐自然法爾自由自在の心が天浮橋に立てる本心の心なのであります。
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