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ふることふみにようこそ!カウンター 人目の訪問者です。参考文献、引用等は、水谷清 先生 著 古事記大講 三種の神器 です。

ふることふみ(古事記)

”今”の一瞬一瞬を、“ 褒め称え ・ 感謝し ・ 喜ぶ ”

 古神道とは、唯一無二なる宇宙絶対統一神による、時間・空間の未だ発せざる太古の昔からの、真・善・美・聖を表現しようとする、全大宇宙に満ち渡る創造・進化・完成のためのすべての無限の無限の働きそのものをいうのであります。
 古神道こそは一切を摂取不捨し、全大宇宙のすべてのすべてを 一大包容し、一大統一のもとに総括して大調和ならしめ、一即多・多即一という全一の真理を輝かす、大神さまの無限の無限の至慈至愛の働きを指し示しているのであります。
 宗教・科学・芸術等々すべては古神道より一瞬一瞬新たに生まれ出たものであり、元よりすべては古神道に帰一し、古神道の一部分を表現しているものであります。すべての分野の神髄は古神道の中にあり、大神さまの絶対の愛に一瞬一瞬新たに帰結しているのであります。
 古神道は大神さまの無限の無限の全徳を光一元に輝かすものであります。
 まず無限の無限の大光明をも吸収してしまうブラックホール的なマイナス無限大の暗闇を素材(表現の出発点)として、そこへ無限 の無限の大光明を放射して、無限に小さい虚の光から無限に大きい実の光に到る、無限の無限の段階の光の表現を光一元に一瞬一瞬新たに拡がり輝かしてゆくのであります。
 勘違いしてはいけないのは、小さな一点より無限に拡がっていったのではないのであります。
 先ず無限の無限の輝きがあり、それを表現体として、どんどん限定してこの現実界に投影されているということなのであります。
 けっして決して、虚空の小さいところから進歩進化するということではないのであります。
 一瞬一瞬新たに新たに無限の無限の輝きが現れ出でては消え去り、又現れ出でては消え去りを繰り返している荘厳なる一大スペクトラム大表現世界なのであります。
 古神道は全大宇宙を神一元!、真一元!、善一元!、美一元!、愛一元!光一元!等々の表現と一瞬一瞬新たに観きってしまうのであります。
 そして 一瞬一瞬新たに光一元に観きったそれぞれの表現を、一瞬一瞬新たに感謝を積み重ねることによって、より大きな光の表現 として一瞬一瞬新たに受入れなおしてゆくのであります。
 なぜならば感謝はその積み重ねに比例して、それぞれの奥から光を一瞬一瞬新たに引き出すと共に、より大きな光を感じ取れる心を養ってくれるものだからであります。
 古神道には世界最高の教典・神話「古事記」という道しるべがあります。
 我見を捨て、先入観を去り、至純・至誠の心をもって深く正しく解釈できるならば、その中に秘められている無限の無限の価値ある真理を汲み取るこ.とができるのであります。
 しかし我見にとらわれた浅い解釈で満足していては、ダイヤモンドを磨かないで原石のままで味わっているようなものであります。
 浅い解釈から無限に深い解釈まで、千差万別の解釈を施すことができるところに、神話の神話たる所以(ゆえん)があるのであります。
 古事記とは大神さまの全体並びに大神さまの部分である神々の具体的な実践活動を一瞬一瞬新たな”今”の一瞬に当てはめて見る記録なのであります。
 古神道の信仰を行ずる者は、大神さまの絶対の愛を信じ、すべてを大神さまの愛の現れと礼拝し、一瞬一瞬新たにすべてへの感謝を通じて、大神さまに帰一し、融合し、一体化して、大神さま の御心のままに無限の無限の幸せ一杯に生かされていることに、只々ひたすらに無限の無限の感謝を捧 げ尽くさんとするのであります。
 
”今”の一瞬一瞬を、“ 褒め称え ・ 感謝し ・ 喜ぶ ”
 
というこ とが、本心の自分をしっかり生きるということになるのであります。
 この生き方することによって一切の縛りから解放されて無限の無限の自由自在になり、いつも一瞬一瞬新たに無限の無限の幸せを感じることができるようになるのであります。



1−1
すべての責任は自分自身にあるのだ

 宇宙の大神さまの御心が”本源心”即ち”本心”でなのであります。
 大神さまの分霊分身としての私たち人間の使命は、本心をしっかりと把握して、大神さまの御心である”真・善・美・聖”をより多く表現し続けてゆくことであります。
 
いつも一瞬一瞬新たに大神さまの御心のままに、本心の自分をしっかりと生きるときに、私たち人聞は内奥(ないおう)から湧き上がる無限の無限の歓喜と感謝と幸福に満たされることになるのであります。
 なぜならば本心の自分は無限の無限の歓喜であり、無限の無限の感謝であり、無限の無限の幸福そのものであるからであります。
 逆に本心の自分を忘れたときには、過去に積み重ねた想念感情 即ち 業想念に捕らわれ、その奴隷となって、四苦八苦することになるのであります。
 光を灯すとき、闇は自然に退散し、光を消すとき、闇は瞬時に忍び寄くるものなのです。
 そのようにいつも一瞬一瞬新たに本心の自分をしっかりと思い返しているときには、決して業想念の奴隷となることはないのであります。
 本心をしっかりと把握するためには、大神さまの全徳を具体的に数え上げるのが一番でなのであります。
 大神さまの全徳は無限の無隈の大光明となって、光一元に全大宇宙を輝かしているものであります。
 大神さまは、至仁・至護・至慈・至愛・至貴・至聖・至尊・至忠・至孝・至悌・至善・至上・至高・至大・至広・至純・至清・至浄・至美・至妙・至幸・至福・至豊・至宝・至智・至理・至精・至誠・至治・至道・至正・至真・至喜・至悦・至楽・至朗・'至明・至輝・・・・…等々であり、また自由自在・金剛不壊・完全平和・大調和・大安心・完全円済・神聖恋慕・自他一体・無我無心・無邪気・・・・等々であり、また楽天的・積極的・前進的・建設的・理想的・・・・等々なのであります。
 
本心の自分を忘れさえしなければ、人聞は何時何処にあっても、”無限の無限の幸せ”で一杯なのであります。
 すべての不幸・すべて苦しみの根本原因は、本心の自分を忘れているということにあるのです

 自らの不幸・苦しみの原因を、現境や他人のせいにしている間は、いつまでたっても本心の自分に戻ることはできないでものであります。
 一刻も早く本心の自分に戻りたければ、いつも一瞬一瞬新たに
すべての責任は自分自身にあるのだと大きく認めることが必要なのです。
 責任を回避すればするほど、本心の自分から遠ざかることになるものであります。
 本心の自分は”愛”そのものであります。
 愛なるが故に、すべての不幸・すべての苦しみを自己の責任として受け止めずにはおれないのであります。(一例をあげればイエス様の十字架がこれにあたる)
 愛はすべてを癒すカなのであります。
 愛はすべてに神の完全性を拝み出すカでなのであります。
 愛は決して自由を縛ることはありません。
 愛は忍耐強く暖かく見守るのであります。
 愛は決して報いを求めることはありません。
 愛はただ与え切りに与え、尽くし切りに尽くすだけなのであります。
 本心の目分は、愛を行ずることによって、大きく輝き出てくるのであります。
 
いつも一瞬一瞬新たに愛を徹底的に行ぜよ。
 そうすれば本心の自覚は自然に深められ、何時何処(いつどこ)にあっても、無限の無限の歓喜・無限の無限の感謝・無限の無限の幸福が、いつも一瞬一瞬新たに噴水のように湧き出てくるようになるのであります。

 無限の無限のありがとうございます

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