00.01.02.03.04.05.06.07.08.09.10.11.12.13.14.15.16
.17.18.1920.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.32.33.34.35.36.37.38.39.40.41.42.43、44、45 46 4748。49 50 51
ふることふみにようこそ! 人目の訪問者です。参考文献、引用等は、水谷清 先生 著 古事記大講 です。
ふることふみ(古事記)
あめつち はじめ おこるのとき たかあまはら に なりませる かみの みなは あめのみなかぬしのかみ
普通の常識から見れば、女性の乳房や陰部というものは、人に見られるのを恥じて、隠すのが当然であるのであります。それを大衆の前に露にするということは、正気を失った気違い沙汰なのであります。現今の妙齢の美女が裸体で踊っているのは、暗黒時代(肉欲至上主義)の終極の姿を現しているのであって、天宇受賣命の神懸による神楽舞いの姿とは、全く正反対の意義を有しているのである。旧約聖書の創世記に、アダムとイブがエデンの園で裸体のままで生活していたが、本心の心のままでいるときは、少しも恥じることが無かったのであります。ところが蛇(物質波動)に騙されて、善悪を知る樹の実を食べた為に、自分たちが裸体であることに気付き、無花果の葉で裳を作った、と記されているのであります。本心の心か業想念の心かの違いによって、浄・不浄が決定されるのであります。
正しい・真実の神懸の状態は、純真な本心の心そのものに成り切ったところに現れるものであるのであります。もし心のどこかに少しでも我の心が残っていたら、それは正しい神懸の状態では無いのであります。宇宙絶対神の御心が100%正しく現れてこそ、正しい神懸なのであります。業想念の心を残していては、小さな本心の自分を掴んでいては、正しい神懸では無いのであります。天宇受賣命(あめのうづめのみこと⇒業想念を全く持たない)でさえ、純粋に・至真に無我・無心に成り切ろうとしておられるのであります。その為にその装いも、人工物の臭気や気配を一切排して、自然物のみを使用しているのであります。真の自然物とは、一瞬一瞬新たに新たに、神さまから受け直したものであって、想念感情の一切付着していないものであるのであります。
槽(うけ)を伏せて、素足でドンドンと踏み鳴らすのは、純真な無我の状態になったところに、天照大御神の御心・働きが入って来て、その働きを増幅して宇宙全体に伝えていることを意味しているのであります(現在太鼓を祭りのときにたたくのはこの故事による)。それは換言すれば、天照大御神の御光がドンドン大きくなって、天宇受賣命の中へ流れ入っているということなのであります。天照大御神の御光が大きく入って来ることによって、正しい・真実の神懸の状態になったわけであります。正しい・真実の神懸の状態になったときに、八百万の神々を魅了する、最高の魅力ある姿を現すことになるのであります。赤ん坊の裸体が清らかで美しいのは、無邪気な心の表現であるからなのであります。天宇受賣命が神懸して、神ながらに・神任せに、どのような姿をとっても、恥じる心が一切無い状態になっているということは、本心の心が最高に輝いていて、虚栄心の業想念の心など一切無いということなのであります。そして天宇受賣命の恥部をまともに注視出来る、八百万神々の心の状態も、本心の最高に輝いた状態にまで、高め上げられているということであります。純真な無我の心になるということが、天照大御神を引き出すための大事な要素の一つであるということであります。
93-2
とこよのながなきどりをつどへて なかしめて
集常世長鳴鳥 令鳴而
常世→(とこよ)永遠不滅・永久不変・常住不滅・常住不変・常住不断の絶対世界→常楽我浄の極楽世界のこと
長鳴鳥→(ながなきとり)長とは、長く→永く→永遠にの意で、時間的に空間的に一切に行き渡り・満ち渡り、最高の権威と威力を保持しつづけるもののこと。
鳴くとは、尊厳無比・調和無限・歓喜無量の言霊の鳴り響く、永遠の真祈りであり、神聖神楽であり、大宇宙の一大交響曲のことである。
鳥とは、天空を自由自在に飛翔するもの、高所から全体を見渡せるものという意味から、宇宙を自由自在に駆け巡って働くことの出来る高級神霊のことであり、一瞬一瞬新たに新たに絶対より現れては絶対に戻る(天地間を昇り降りする)ことであり、全相を把握して自由自在に必要な働きをする本心(内在神)の心のことである。
又、鳥は必要な所へ群がるように多く集まることから、真実の真祈りのあるところには、高級神霊が大挙して集まり、救世の大光明となって働くという意味もあります。
集(つどへて)→真実の真祈りを祈らせることであります。真実の真祈りとは、神さまの全徳の無限の無限の大光明燦然と輝いている姿を言葉に換えて、24時間プラスアルファーひたすら素直に一心に祈りつづけることであります。
すべてはマイナスの言葉を積み重ねすぎた故に、必然的に暗黒の世界が地獄が到来したのであります。
そのマイナスの言葉を消し去って、プラスの言葉で一杯にしなければ、光明の世界は、極楽はやっては来ないのです。
その為には最高の権威と威力のある祈り言葉を駆使しつづけなければならないのであります。
マイナスの言葉を使えば使うほどますます闇は深くなり、プラスの言葉を使えば使うほど、夜明けは近づいてくるのです。
私たちは、マイナスの言葉を、暗黒の世界を消し去るだけではなく、更にプラス無限大の大光明楽土を招来するために、最高最大のプラスの言葉である”ありがとうございます”を駆使し続けてゆかなければならないのであります。
86−1
全てか神さまのおかげですありがとうございます!
ここをもて やほよろづのかみ あめのやすのかわらに かむつどいづどいて たかあみうむすびのかみ の みこ おもひかねのかみにおもはしめて
是以 八百萬神 於天安之河原 神集集而 高御産巣日神之子 思金神令思而
八百萬神→天照大御神さまの分身(一つのものから分かれ出た。→一つのものの各部分。)を八百萬神(イヤホよろづのかみ→細かく分けてゆくとイヤ増しに増す数の神。→一つのものを百に分ければ百が、千に分ければ千が、万にわければ万が、無限に分ければ無限が、イヤホヨロヅである。)と言う。
天安之河原(あめのやすのかわら)→天(あめ)即ち高天原(たかあまはら)即ち全大宇宙を貫流している生命(平安→すべてのすべて)の大河を目の当たりに出来る広場、即ち深い深い宇宙の深奥まで達する祈りの心境を境地を指している。
天照大御神さまが絶対統一の深い深い真祈りに入れば、必然的に分身である八百萬神も深い深い真祈りの境地に入ろうとするのは当然のことであります。
小さく、太陽と地球の関係での行事と見るときは、生命の流れ・太陽と地球の間の気の流れを調節する天上の安穏(あんのん)な場所である、月を意味する。
地上の人間界の行事と見るときは、祈りに満ちた聖地を意味し聖地全体を指すのであります。全人類の代表として集まり、深い真祈りの中から叡智を結集して、世界の混乱を静めてゆき世界平和を実現せしめることであります。
神集集而→(かむつどいにつどいて)天照大御神さまの分身である八百萬神は、内流(うちりゅう)の導きのままに天之安河原へと必然的に集まり、必然的に真祈りの行事をするのであります。誰かが提唱して一カ所に招集するというようなことは、全く必要ないのであります。
思金神→(おもいかねのかみ)天照大御神さまの分身である八百萬神を、霊智(深慮遠謀→しんりょえんぼう→鎮魂帰神→叡智)の方面に於いて総括する神さま。天照大御神さまの叡智の発現神であります。
天照大御神さまの分身であられる八百萬神さまは、小分別すれば無限神(無限の働き)に別れるのですが、大分別すれば代表的な僅かな神さま(いろいろの働き・属性・種目等を総括する代表神)に別れるのです。
それを人間の肉体で例えてみればわかりやすいのです。全身の細胞は69兆とも80兆ともいわれますが、この細胞が八百萬神(無限神)であるのです。その中の知恵の働きをする脳細胞等々を総括監督するのが思金神であります。もちろん、全身の細胞は一つ一つ個性という一つの心で統一されていますから、八百萬神さまと思金神さまとは同心異体でありまして、個性という全体(八百萬神さま)の知恵は思金神さまに湧き出てくるのであります。
八百萬神さまが深く真祈りすれば、必然的に思金神さまに霊智が輝きごく自然に衆議一致するのであります。
このような自然法爾、無為にして為すごく自然な行為が神譲りに譲る、神さまの神界に於ける議決なのであります。地上での理想とされる神権政治のお手本なのであります。
これすなわち、絶対より受け直した霊智方面の代表神でありますから、高御産巣日神(たかあみうむすびのかみ)の御子であるというのであります。
無限の無限のありがとうございます
85−1
無限の無限のありがとうございます
ここに よろづの かみの おとなひは さばへなす みなわき よろづの わざはひ ことごとに おこる
於是 萬神之聲者 狭蠅那須皆満 萬 妖 悉 發
狭蠅(さばへ)→五月蠅(陰暦の五月頃の群がり騒ぐ蠅。梅雨時の群がり騒ぎ飛び回る蠅の状態は、ブンブンブンブンとうるさくこの上もなく騒がしいものである。またその乱れ飛ぶ様は秩序の全くない自分勝手なしたい放題の姿である。
指揮者によって統一された一大交響曲は美しく調和したものであるが、指揮者が居なくなって、各々が酔っぱらって、自分勝手に練習を始めたとしたら、騒がしくて聴いておれない状態になるに違いない。
統一神の天照大御神さまが居なくなって、一切万事が無秩序の大混乱の状態になっているわけである。
皆満(みなわき)→蠅が地面の至る所から湧き出てきて、襲来してくる状態を指している。
騒がしいというのは、マイナスの言葉が乱れ飛んで混乱した状態のことである。
マイナスの身・口・意(しん→行い、くう→言葉、い→思い)が幽界(暗黒界)(地上)を占領しているだけではなく、顕界(光明界)(天)にまで襲来して来ようとしているものすごい状態を意味しているのである。
萬神(よろずのかみ)→顕界に正神の八百万神があれば、幽界には邪神の八百万神が居るのである。ここでは、邪神の八百万神を指している。
悪魔・妖怪・化け物・魑魅魍魎・等々の悪神邪神としての表現体の一切を指し示している。
聲(おとなひ)→音(おと)(言葉・思い)・行い(おこナヒ)である。
萬妖悉發(よろずのわざわひことごとおこる)幽界の一切の悪神邪神が現れ、跳梁(ちょうりょう→飛び跳ねて我が物顔にのさばること)・跋扈(ばっこ→大魚が竹やなを踊り越えるように、思うままに振る舞うこと)すること。地上に地獄を建設して、万妖が歓喜している状態でもある。
太陽の生命線が地中に潜入して、地球が妊娠状態にあるわけである。その間に地球に悪阻(つわり)状態(母体と胎児との波動調整)も起こり得るのである。それが種々様々の猛烈な惨劇となって現れているのである。このことは限身を生み出すために、どれだけの艱難辛苦を乗り越えてきたかを物語るものであって、地球上の一切の生物は、その理由だけをみても無限に尊いものなのである。
84−1
無限の無限のありがとうございます
常世往(よこよいく→暗黒の世界が続く)には、様々の意味があるのであります。
@地球の上面に太陽からの生命線が宿った状態、つまり地上に生物を生み出すために、地球が生命の種子を宿して、生物が誕生するまでの妊娠状態を意味する。
A人体についての、胎児の霊魂が母体内に宿り、出産するまでの妊娠期間の状態。
霊魂が母の胎内に入るということは、前世の一切を忘却して、暗黒の世界に入ることである。
Aー1、人間が前世を忘却して、新たなる生の覚醒を得るということは、今を大事に最高に生きるようになる為の必要な配剤でもある。
B歴史的に見るときの、世界や國の暗黒時代の状態。霊主体従は調和をもたらすが、体主霊従からは世の乱れを生ずる。肉系横暴(利己的な生き方)の結果として必然的に生ずる、暗く乱れきった状態。
C人間が個人的に業想念を積み重ね、この世において、またあの世において、地獄に陥った状態。
D人間が本心を覆い隠し、業想念の奴隷となった状態。
E正しい教法が隠蔽されて、間違った教法がはびこっている状態。
F一切を無にして、創造の始源に帰ること。
G初心に帰ること、マイナス無限大(地獄のどん底)の立場に立つこと。
Hハンデイキャップを背負い、困難に自分から挑戦して、全力発揮・全活躍の立場に立つこと。
I植物の種子が土中に蒔かれ、発芽するまでの状態。発芽後は根を張り巡らしては、暗黒世界(土中)を開拓し、枝葉を伸ばしては、光明世界を開拓する。
84−1
すなはち たかあまはら みな くらみ あしはらのなかつくに ことごとく くらむ これに よりて とこよ ゆく
爾 高天原 皆暗 葦原中國 悉 闇 因此而 常夜往
葦原中國→アシは速度の意、ハラは旋回の意、中國は中央に位置する國の意→太陽をある速度をもって周回旋回している惑星群の中央に位置する地球を指している。
太陽系宇宙(たかあまはらのひとつ)において、太陽(あまてらすおおみかみさまのひとつ)からの生命線が地球上表面に宿り、即ち地球が胎児(生命の種子)を妊娠したときの状態であります。
地上に限身(かぎりみ)の生物を生み出すということは、難事中の難事なのでありまして、妊娠期間中に母体である地球には種々様々な変化が起こるわけなのであります。
その一つに悪阻(つわり)のような状態もあるわけであります。
それがこの地球の大噴火・大爆発に当たるのであります。
この地球の大爆発があまりにも凄まじいものであったために、地球を中心に眺めるとき→素戔嗚尊様の行事を重くみるとき、太陽からの光がすべて遮られ、太陽系全体(たかあまはら)が真っ暗闇になったように見えたのであります。
それで、高天原皆暗(たかあまはらみなくらみ)葦原中國悉悉(あしはらのなかつくにことごとくくらむ)と言うのであります。
常夜往→昼の無い真っ暗闇の夜の状態が永遠に続くのが常夜であります。この夜が静止した無活動の夜ではなく、躍動した活動的な、一瞬一瞬新たに生み出される夜であるから”往”というのであります。
この地球の大爆発によって、地軸が23.5度傾くという大事件が起こったわけでありますが、現状にしがみつき現状を維持しようとする立場からすれば、驚天動地の天地がひっくり返るような大変が大事件出来事であります。
しかしながらこの地球の地軸の傾斜によって、四季の変化を初めとして、地球上に無限の妙趣ある変化をもたらすことになるのであります。
そしてまた23.5度の傾斜が理想的なものであることは、現在の地球の姿を観察洞察すれば十分に納得できるものあることがわかるのであります。
神さまの御心の如何に深慮遠謀なものであるかを窺い知るとき(うかがいしるとき)、神さまの偉大さ・神業の尊厳さ荘厳さに思わず感涙の涙を流さざるにはおれないものがあるのであります。
現在の地球が、無限の変化に富んだ(豊富な)豊葦原(とよあしはら)であり、単に水を表面にする瑞穂(みずほ)ではなく、瑞々しい(みずみずしい)無限無量の美しい表現に満ちた國(瑞穂の國)になっているのを思うとき、建速須佐之男命さまは決して凶暴なる悪神ではなく、大慈悲・慈母の神であるということに気付くはずであります。
”全大宇宙のすべては、神さまの絶対の愛の現れである。”ということは、永遠に変わらない真理なのであります。
無限の無限のありがとうございます
83−1
あまてらすおほみかみ いみはたやにましまして かむみそおらしめたまふときに そのはたやのむねをうがちて あめのふちこまをさかはぎにはぎて おとしいるるときに あめのはたおりめ みおどろきて ひに ほとをつきて みうせぬ かれここに あまてらすおほみかみ みかしこみて
あめのいはやどをあけて さしこもりましましき
天照大御神 坐忌服屋而 令織神御衣時 穿其服屋之頂 逆剥天斑馬剥而 所堕入時 天服織女見驚而 於梭衝陰上而死 故於是 天照大御神見畏 開天石屋戸而 刺許母理坐也
忌服屋(いみはたや): 天地経綸の機織りの神業を意味する。天地(宇宙・世界)を縦糸と横糸の相対のすべてを織りなして、完壁な大調和の相象に治め整える神業そのものを意味し、天照大御神が忌服屋そのものに成りきっているのである。忌とは、畏敬の心で、差し控えて口にしないこと、また斎であり、最高荘厳の機織りのすがたは、真清浄・真無垢であることを意味している。
神御衣(かみみそ): 天地(宇宙・世界)は天照大御神の御衣であり、装いである。一瞬一瞬新たな御衣を織りなし、最高の装いを凝らしているのである。
天斑馬あめのふちこま):種々の色彩で斑入りになっている、飛び跳ねる力の強い天馬に例えて、地球の内部の火熱が猛烈な勢いで噴き上がり、多量の土塊を含んだ大爆発・大噴火の状態を意味している。
逆剥剥(原文は旧字体、さかはぎにはぎて):尾の方より逆に生剥に皮を剥ぐことであり、火熱の物凄い状態を表現しているのである。
梭(ひ): 機織りの際、横糸を通す操作に用いるもの。
驚天動地の大噴火・大爆発に、天地経綸の機織りの働きが妨げられて、中断したことを、梭に陰(ひにほと→新たなるものを生み出す場所)を衝いて、死んだ、という表現をとっている。太陽と地球の間には、無数の糸(霊線)による天地経綸の機織りが成されていたのである
が、そこへ大噴火・大爆発〔この時に地球は23.5度傾いた〕が加わって、太陽からの霊線は断絶され、地上には全く太陽からの光線も熱線も到達しない状態に陥ったわけである。しかしこの惑乱の時に既に、生命の種子は地上に降ろされているのであって、大爆発によって地軸の傾斜したことも深遠な意義を持ち、地球の進化が神の御心のままに計画通りに運ばれてゆくことになるのである。天石屋(あまのいわや)とは、絶対の境界を意味する。深い深い絶対の祈りの境地に立つことが、開天石屋戸而 刺許母理坐也(あまのいわやどをあけてさしこもりましき) ということである。
82-1
天照大御神さまは高天原(タカアマハラ→顕界・幽界)を光一元に輝かし、絶対統一するのが役目なのであります。
顕界(光明世界)を光一元に輝かすのみではなく、幽界(暗黒世界)をも光一元に輝かしてこそ、その働きは真に偉大なのでありありまして、その表現もこの上なく完全円満完璧なものとなるのであります。
従って、暗黒(マイナス無限大のすがた)の到来は、幽界完成の為の必然の過程なのであります。
天照大御神さまは暗黒の到来を嫌なものマイナスのものとして浅く受け止め捉えているのではなく、逆に崇高な・偉大なものとして畏敬の心で眺め、受け取っているのであります。
何事においてもハンデイキャップを背負うということは、競技者にとっては、名誉であって、眞のチャンスを与えられたことになるのであります。
どんなときでも、解決不可能と見える難問題に遭遇直面するとき、心身共に引き締まり、真剣な心で全力を尽くさずにはおれなくなるものであるのです。
そして見事難問題を解決達成したときの喜びは無限に無限に大きいものとなり、その素晴らしさも無限に大きいものとなるのであります。
幽界すなわち暗黒界を光一元に輝かすということは、難事中の難事でありまして、その至難の業を達成するために、天照大御神さまは今絶対の境地に入り、深い深い祈りの境地に立って、御神事に当たろうとしているのであります。
刺(さし)とは、戸に物を刺して固めること、許母理(こもり)とは、隙間無く周りを囲まれている中に入って外に出ないことであります。すなわち刺許母理とは、絶対の世界に深く深くは入り切った状態を意味しているのであります。
顕幽両界を絶対統一する力は、絶対の世界に入りきってこそ得られるものであります。
天照大御神さまは絶対の世界から得た無限の無限の大光明をもって、マイナス無限大からプラス無限大に至る、顕幽両界を光一元に輝かそうとしているのであります。
天石屋戸(あまのいわやど)とは黄泉比良坂(よもつひらさか)に置かれた千引岩(ちびきいわ)にあたるものであります。
高天原(全大宇宙→たかあまはら→顕幽両界)は千引岩をもって顕界と幽界に二分されているのでありますが、天照大御神さまが天石屋戸を開けて、顕界に入りきって、その戸を閉めるとき、幽界は全く光明(天照大御神さまのこと)の無い状態となるわけであります。
即ち、幽界(高天原の半分のこと)のすべてが全くの暗黒世界になったというわけなのであります。
天照大御神さま天石屋戸をあけて顕界に入りきるということは、これ即ち幽界は真っ暗になると言うことはさきほど申し上げたとおりでありますが、これは、別の言い方見方をすると素戔嗚尊様(すさのおのみことさま→天照大御神さまの半面)の地獄界(マイナス無限大)の建設であるとも言えるのであります。
地獄界(マイナス無限大)を出発点として、幽界をマイナスのより少ない表現の世界となるように、進化向上させることによって、その結果、幽界を光一元に輝かせることは、幽界を絶対統一することなのであります。
82−2
あめのみなかぬしのかみ が たかあまはら と なり(成り鳴り生り)あめつち(天地)がはじめおこる(初発する)
たかあまはら という 容相(成り)音声(鳴り)生命(生り)になる。
あめのみなかぬしのかみ(隠身絶対実在)の現象表現をたかあまはら と云う。
あめのみなかぬしのかみ(実在)即ちたかあまはら(現象)たかあまはら即ちあめのみなかぬしのかみ
あめのみなかぬしのかみがすべてのすべて。あめのみなかぬしのかみの他には何ものも存在しないのである。
あめのみなかぬしのかみが唯一無二の実在であり、唯一無二の現象である。
一神 即 万生 万有。 万神 万生 万有 即 一神。
たかあまはら(順流無形の神力)
1、たかあ 中心より外に向かって発射し進展する働き(発射神力)
2、た あま 外から中心に向かって凝集する (凝集神力)
3、 かあま 円融無碍に交流する (交流神力)
4、 はら 螺旋状に転回する (螺転神力)
らはまあかた(逆流有形の形状)
1、らは 螺旋状の波の形状
2、 まあか 全 大 多 勝 の形状
3、 まあ た 股 支 分 部 枝 等の形状
4、 かた 片 半 等の形状
かみ とは、かくりみ(絶対神)かごりみ(仮凝身)かがりみ(耀身)かけりみ(駆身)かぎりみ(限身)の5つのことばをつづめたものであって、その1つ又は全体」を指して云う。
つぎに たかあみうむすびのかみ つぎに まあかみうむすびのかみ
たかあまはらには タカアマハラ(順流)とラハマアカタ(逆流)とがある。
タカアマハラは宇宙構成の三大根本神力である。
タカア ハラ 遠心的発射螺旋状神力
タ アマハラ 求心的凝集螺旋状神力
カアマハラ 円融的交流螺旋状神力
ラハマアカタは相(形・容・姿・態)となる螺旋状波
ラハマアカ
ラハマア タ
ラハ カタ
たかあまはら(全大宇宙)には、神力と神相とが本来一体でありながら、相反する両面として働
いていて、「力」の作用で「相」が現れ、「相」の作用で{力」が種々に現れる。
この順逆二つの流れの結合によって、一切の万神万生万有が生み出される。
ミウムスビ(ミ ウム ムスビ)
二つの流れがお互いに結合し、新しいものを生み出してゆく根本創造の働きである。
一切の万神万生万有は在る(ある)のではなく、なる(成る・鳴る・生る)のである。成
るということは単なる存在ではなくて、生成である。生成とは一瞬一瞬 新生し、無限に
伸展することである。不断に無限の創造が続けられて、無限無量の個々性、種々相に活現
することである。
タカアマハラの順流をタカアで代表し、ムスビとカミを付けて、神力系統大祖神と仰ぐ。
「タカア ミムスビ ノカミ」 神力大祖神
タタア(父)系・かむろぎ(神漏岐)系・霊魂系〈霊系)
タカアマハラの逆流をマアカで代表し、ムスビとカミを付けて、神相系統大祖神(体系)
「マアカ ミムスビ ノカミ」 神相大祖神
Q
ママア(母)系・かむろび(神漏美)系・物質系(体系)
あめのみなかぬしのかみの父系(霊系)としての現れが「タカア ミムスビ ノカミ」である。
あめのみなかぬしのかみの母系(体系)としての現れが「マアカ ミムスビ ノカミ」である。