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ふることふみにようこそ!カウンター 人目の訪問者です。参考文献、引用等は、水谷清 先生 著 古事記大講 です。


ふることふみ(古事記)

あめつち はじめ おこるのとき たかあまはら に なりませる かみの みなは あめのみなかぬしのかみ

この みはしらの わたつみ の かみは あづみのむらじら が おやがみと 
此三柱     綿津見神者    阿曇連等之祖神        
もち いつく かみ  なり
以伊都久神也
かれ あづみのむらじら は この わたつみの かみ の みこ 
故  阿曇連等者     其綿津見神之子    
うつしひがなさく の みこと の すえ なり
宇都志日金拝命之子孫也
その そこづつのをのみこと なかづつのをのみこと うはづつのをのみこと 
真  底筒之男命      中筒之男命      上筒之男命
みはしら の かみは すみのえのみまへのおほかみ なり
三柱神者     墨江之三前大神也

 隠身並びに仮凝身は、耀身によって総括され、一大統一された後、駈身並びに限身にその神身を変えて、具体的神体を具える神となるのであります。

綿津見神(仮凝身) → 宇都志日金柝命(駈身) → 阿曇連等(限身)
  祖神        綿津見神之子       宇都志日金柝命之子孫

 地上の人間の脈統は、駈身から出ているのであり、その駈身はまだその太祖を仮凝身に発しているのであって、各人の脈統は、万世一系に天壌無窮に天地を一貫しているのである。本来(本源より来たれる)の我、本来の我が脈統についての自覚が見失われる時に、人聞の尊厳も・人生の目的も・使命感も・生き甲斐も無くなってしまうわけなのであります。
この反対に祖神の脈統が明瞭するとき、限身界の子孫に自信・自覚・喜びが蘇り、天命を完うするために献身的に努力奉仕ができるようになるのであります。
以伊都久 :もち(もてなし、もてはやす)、いつく(斎く、心身を清めて神に仕える)
阿曇連 :阿曇は氏姓(うじ)、連は加婆禰(かばね)(尊びて言う称)で群の中の主。
綿津見神 :綿は海(わた)、津は助詞、見は持ちての義で、海を持(たもつ)神。
筒之男 :筒は星の義(タ星を ゆうづつ という)。筒の男命の三神は全大宇宙の星を整
     然と配列する星の神であり、海の精・海の神として働く神でもある。
墨江之三前大神 :住之江にこの三神を斎き祭ったので、このように言う。前は尊称。

59-1

 祖神からの脈統が異なるところから生ずる、職能・役割・天命の違いと、階級制度等から来る種々の差別とは全く別個のものであるのであります。自己の天命を正しく自覚する心は、他への絶対奉仕・全体への絶対奉仕こそが、真の喜び・真の生き甲斐であることをよく知っているのであります。従って部分に囚われたり、他を羨んだり、他を蔑んだり、損得感情に走ったりすることは決して無いのであります。唯無二の絶対神から分岐して顕れている祖神たちの役割の違いは、己を全く空しくしている祖神たちにとっては、上下・貴賎・損得等の差別ではないのであります、だから他の役割を果してくれる他の祖神たちへの深い感謝と・自分の役割を通じて他(全体)に奉仕できる大きな喜びが湧き上がってくるのみなのであります。
 人体を例えにして考えて見ると、人体全体が絶対神(大祖神)であり、目や耳や鼻や口というような部分部分が祖神たちであります。各部分部分は全体にとっては必要不可欠のものであって、それぞれが独特の個性ある役割を担っているのであります。従ってどの部分を欠くことも、また他のもので代用することもでぎないのであります。各部分は全体と一つに繋がっているからこそ、個性ある役割が与えられているのであって、全体と切り離された時は、耳も鼻も単なる一つの肉塊でしかないように、各部分の個性も消滅してしまうのであります。
このように各部分は全体者の部分としてのみ存在しているわけであり、全体者の意識がすべての部分に平等に働いているわけであるから、全体者が各部分に上下や貴賤等の差別をつけるようなことは決してあり得ないのであります。どの部分も全体者にとっては無隈の価値ある大切な存在なのであります。大祖神の大御心が祖神たちの御心となっているのでありますから、業想念の奴隷となって起こすようなこの世の人間の差別の心は、祖神たちには全く無縁なのであります。全体(大祖神)によって活かされている各部分(祖神たち)は、全体(他)への絶対奉仕を旨としているのであります。
 自分は自分であって、全体とは別個のものである、などと嘘ふく心は本当の心ではないのであります。そんなちっぼけな業想念の心を自分の心と錯覚していては、祖神の護りにも、自己の天命にも決して気付くことはできないに違いないのであります。自分は絶対神(全体者)と一体なのだという立場に立たなければ、業想念の奴隷状態から抜け出すことは出来ないのであります。自分は絶対神から祖神を通じて顕れているものである! 自分は絶対神と一体である!
自分は全体者と一体であり、全体者そのものである! 宇宙のすべては自分なのである! というように、正しく大きく思い返すことによって、詰まらない業想念の心を捨て去ることができるのであります、そして己を全く空しくしたところに、絶対神の叡知は流れ入り、自他一体、一郎多・多即一の原理がはっきりと見えてくるのであります。

59-2

ここに ひだり の みめ を あらひたまふときに なりませる かみ の みなは 
於是  洗立御目時            所成神名       
あまてらすおほみかみ
天照大御神
つぎに みぎり の みめ を あらひたまふときに なりませる かみ の みなは 
次   洗右御目時            所成神名
つきよみ の みこと
月読命
つぎに みはな を あらひたまふ ときに なりませる かみ の みなは 
次   洗御鼻時          所成神名
たけはやすさのをのみこと
建遠須佐之男命

 八神統64神が完全に出現することによって、顕幽両界に整然たる一大組織が成就したのであります。そして禊祓いの最後の行事として、創造神業から統一業に移るために、三神(天照大御神・月読命・建速須佐之男命)が出生したわけなのであります。

左目  天照大御神 :

 伊邪那岐神の統治する顕界の眼目の表現である。
顕界に本位を置き、霊を主体とし、光明をもって国土の相と、なし、伊邪那岐神の全てを表現するのであります

顕幽生死を一如して見るとき、絶対神である天之御中主神のすべてを承継しているのは伊邪那岐神であるから、その直統を承継する天照大御神は、「中主隠身」(ちゅうずかくりみ)の総括神であり、高天原全体の表現神であり、高天原全体の統神なのであります。

右目  月読命 :
 
 伊那那美神の統治する幽界の眼目の表現であります。
幽界に本位を置き、体を主体とし、暗黒をもって国土の相となし、伊邪那美神の全てを表現するのであります。
幽界の主であり、黄泉国の霊魂王の系統を承継するのであります。
天照大御神の申に包摂される不離体の神であり、縦横に区別して見るとき、天照大御神の縦の表現を司る神であります。

鼻  建遠須佐之男命 :

 題幽両界にわたって交通する生命氣息の表現であります。
顕界と幽界の両方に介在して、その双方の連絡父通を司るのであります。
天照大御神の中に包摂される不離一体の神であり、縦横に区別して見るとき、天照大御神の横の表現を司る神であります。
伊邪那美神の直統を承継し、常に伊邪那岐神の霊を招いて、地上に生命体を栄えさせる神である、天風火雷水海地山の八種の宝をもって、万有構成の任に当たり、天地の生命を御身の氣息に宿して、仮凝身を駈身に変化させる働きをするのであります。

60-1

このとき いざなぎのみこと いたく よろこばして のり たまはく あれは 
此時   伊邪那岐命    大歓喜詔            吾者
みこ うみ うみ て うみ の はてに みはしら の うづの みこ を えたり
生生子而    於生終    得三貴子

 伊邪那岐命の創造神業は永遠無窮に尽きるということは無い。従って御子を生むのはこれでお終いということは、絶対にあり得ないことであります。一瞬一瞬の新たなる創造は永久に継続して行われるものであります。ここの意義は、創造に創造を重ねて、無限に複雑化してくると、統一する主体を立てないと、折角の無限の創造がバラバラになってしまう可能牲もあるわけであります。そこで無限に複雑な全体を、大調和に統一する主体を立てることによって、一瞬一瞬の新たなる創造を、常に完璧な大調和の姿に保とうとしているのであります。
例えば、人間社会において、1億人の個性豊かな人々がバラバラに自給自足の生活を営んでいる状態と、1億人がそれぞれの個性を活かしながら、必要な役割を分担して組織化して助け合い、高度な生活を実現している状態とを比較して見るとき、どちらがより素晴らしい状態と言えるだろうか? 勿論バラバラよりも、仲良く助け合う方が素晴らしくなるのは言うまでもないことなのであります、各人の個性を完全に活かしながら、組織化された働きによって、全体をより素晴らしい状態に変化させてゆくものが中心者であり、統一の主体なのであります。元来、絶対なる「中主隠身独神」から出発している創造神業でありますから、当然統一に即した創造であるわけなので、ここに統一の主体が誕生するということは、創造神業を完璧なものにするための、予定通りの必然の結果なのであります、今の一瞬一瞬の創造を眺めるとき、無限に無限に複雑な創造の全体を統一する主体が出生することによって、創造神業が完成したものとなっているのであります。
 伊邪那岐・伊邪那美二神の創造された、大八嶋を始め・・・8神統64神は、広大無辺なる宇宙現象の姿であります。その無限なる宇宙現象の統給者として出生しているのが、この三貴子なのであります。とりわけ天照大御神は月読命と建遠須佐之男命を縦横の対象として、自己の内に不離一体のものとして保持しているので、絶対なる統一の主体者なのであります。
天照大御神は岐美二神の全てを継承し、また岐美二神は中生隠身独神なる天之御中主神の全てを継承しているわけだから、天照大御神は天之御中主神(絶対神、)又の名とも言える根本主神・絶対統一神なのであります。従って天照大御神の御稜威(みいつ)は、十方三世を通貫し、全ての時間・空間に遍く照り輝いているのであります。それ故に天照大御神を太陽とのみ解したり、歴史上の人体神とのみ解したり、その他小さく限定して解することは、天照大御神の本体を、神業の本義を正しく捉えたことにはならないのであります。

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