ふることふみにようこそ! 人目の訪問者です。参考文献、引用等は、水谷清 先生 著 古事記大講 です。
ふることふみ(古事記)
あめつち はじめ おこるのとき たかあまはら に なりませる かみの みなは あめのみなかぬしのかみ
つぎに かぜのかみ みなは しなつひこのかみ いもしなつひめのかみを うみます 次 生風神 名 志那都比古神 妹志那都比賣神 この しなつひこ しなつひめ ふたはしらのかみ 此 志那都比古 志那都比賣 二神 とだちふきまとめて うみませるかみのみなは 戸立吹纏而 生神名 きのかみ みなは くくのちのかみ 木神 名 久久能智神 つぎに やまのかみ みなは おほやまつみのかみをうみます 次 生山神 名 大山津見神 つぎに ぬのかみ みなは まかやぬひめのかみをうみます 次 生野神 名 麻鹿屋野比賣神 またのみなは ぬづちのかみとまをす 亦名 謂 野椎神 この おほやまつみのかみ ぬづちのかみ ふたはしらのかみ 此 大山津見神 野椎神 二神 やまぬによりて もちわけて うみませるかみのみなは 因山野 持別而 生神名 あめのさづちのかみ つぎに くにのさづちのかみ 天之狭土神 次 國之狭土神 つぎに あめのさぎりのかみ つぎに くにのさぎりのかみ 次 天之狭霧神 次 國之狭霧神 つぎに あめのくらどのかみ つぎに くにのくらどのかみ 次 天之闇戸神 次 國之闇戸神 つぎに おほとまとひこのかみ つぎに おはとまとひめのかみ 次 大戸惑子神 次 大戸惑女神 風の神の霊 風木津別之忍男神〔 志那都比子神、志那都比賣神 〕 《風の神の全神性を八大分類》 久久能智神 麻鹿屋野比賣神 天之狹霧神 國之狹霧神 天之闇戸神 國之闇戸神 大戸惑子神 大戸惑女神 地の神の霊 石上昆古神〔大山津見補 、野惟椎 〕 《地の神の全神性を八大分類》 天之狹土神 國之狹土神 (8神の中の2神) 風の神の霊 志那都比古神 風木津別之忍男神 { 志那都比賣神 《風の神の全神性を八大分類》 久久能智神 → 木の枝を動かす程度の風 麻鹿屋野比賣神 → 草の案を動かす程度の風 天之狹義神 → 高所を吹く極めて微弱な、霧を動かす程度の風 國之狹霧神 → 低地を吹く極めて微弱な、霧を動かす程度の風 天之闇戸神 → 高所を吹く四辺を暗くするような暴風。 國之闇戸神 → 低地を吹く四辺を暗くするような暴風 大戸惑子神 → 天地も困惑する程の大型台風 大戸惑女神 → 天地も困惑する程の中型台風 志那都=シナヅ=死なず=不死=永遠の生命=無限の生命=大生命そのもの=神々の写吸=天地の写吸=万物の呼吸=生命の発P=コトバの綾讐りである。志那都比古・志那都比賣の二神は、永遠不死の神で、神々の根本生命を司る神である。神々の根本神であり、基礎神であり、生命の根源である。伊邪那岐・伊邪那美二神の神息であって、無限の生命・永遠の生命の根底をなすものである。風の運行は天地の生命の循環である。風の吹くがままに、生命が自然に流れて、万神万生万有を生かしているのである。もし空気の流れが止まったら、万物は直ぐに死滅するのである。 風の神の神業は、ミコトの綾機織りである。コトバの綾機織り、語法(言葉のきまり、言葉の表現法)の構成を司り、ありとあらゆるコトバを完成成就させるものである。コトバ即ちイノチ(生命)のイはイト(糸)のイであって、七十五音のコトバのそれぞれが縦横無尽に自由自在に活動して、コトバの綾機織り即ち宇宙生命の発動となって、一切万神万生万有が活現するのである。風は真に生命の母であり、文化発展の父であり、凝滞の悪気・業想念を吹き払う力であり、すべてを清新にしてくれる偉大なるものである。 風性神の発動が地性神(大山津見神、野椎神)を呼び起こし、その地性神の発動が風神を発現させ、また火性神の発動が地神を発現させるのは、八種神性の奇しき(霊妙不可思議な)相互関係の一端である。 31-2 |
風の神 風木津別之忍男神 |
つぎに うみませるかみのみなは とりのいはくすふねのかみ 次 生神名 鳥之石楠船神 またのみなは あめのとりふねとまをす 亦名 謂 天鳥船 つぎに おはげつひめのかみをうみます 次 生 大宜都比賣神 つぎに ひのやぎはやをのかみをうみます またのみなは ひのかがびこのかみ 次 生 火之夜藝速男神 亦名 火之R毘古神 またのみなは ひのかぐつちのかみとまをす 亦名 火之迦具土神 天の神の霊 鳥之石楠船神(大鳥船) 天之次男神 { 大宜都比賣神 火の神の雲 火之夜藝速男神 火之R毘古神 火之迦具土神 大戸日別神 { (迅速に走る火) (光輝く火) (熱火) 火之夜藝速女神 火之R毘賣神 −−−−−− 鳥之石楠船神 : イハは非常に確固たるという意義。楠はXで、精神集中の極に到る 時に、奇しき他面への伸展が起こるという意義。 高天原を自在に飛翔して、一切を正確に、一目瞭然に捉えることので きる神である。大きく全体を捉えて、八種神性の統一融合を計る神。 自在応変・自在飛翔が可能となるのは、この神の力である。 大宜都比賣神 : 大八嶋の16嶋の一つ、地性神の大祖神であるが、天津金木の全部が 裏面に秘められるのが大宜都比賣であるから、ここでは天地がひっく り返る大事件の準備として、天性神の鳥之石楠船神の妹神として生ま れ出た神である。 前の水性神や風性神の発現の方法では、八種神性の相互関係が明瞭でなく、それぞれが孤立化する。その為に火の神が発動し、八種神性の統一融合のために、全一を主体とした、系統ある神性を生み出す為に、母体の産出口を灸いて、革命的な新しい方法をとることになった。 32-1 このみこをうみますによりて みほど やかえて やみこやせり 因生此子 実蕃登 見灸而 病臥在 たぐりに なりませるかみのみなは かなやまびこのかみ つぎに かなやまびめのかみ 多具理邇 生神名 金山毘古神 次 金山毘賣神 つぎに くそになりませるかみのみなは はにやすびこのかみ 次 於屎成神名 波邇夜須毘古神 つぎに はにやすびめのかみ 次 波邇夜須毘賣神 つぎに ゆまりになりませるかみのみなは みづはのめのかみ 次 於尿成神名 邇都波能賣神 つぎに わくむすびのかみ このかみのみこを とようけびめのかみとまをす 次 和久産巣日神 此神之子 謂豊宇氣毘賣神 地の神の霊 大山津見神 石上毘古神 { 野椎神 《地の神の全神性を八大分類》 天之狹主神 → 風神の影響で出来た高所(山)の山脈に境界された狭い土地 國之狡主神 → 風神の影響で出来た低所(野)の山脈に境界された狭い土地 金山毘古神 → 火神の力で溶岩を噴出して、上へ盛り上がってゆく噴火山 金山毘賣神 → 噴出した溶岩が幾層も積み重なり、下へ広がってゆく噴火山 波邇夜須毘古神 → ヤス(安)らかにモクモクと隆起してくるハニ(土、土壌) 波邇夜須毘賣神 → その隆起の程度のやや少ない、隆起の速度のやや遅い方 邇都波能賣神 → 尿状の土、泥土、水に溶けた土 和久産巣日神 → 栄養分の多い肥沃な土地、豊富に生命体を造り出す神力の源 比古とは威力の強い方、顕れて出る力、 ] 比賣とは威力の弱い方、隠れて入る力、 u 多具現とは嘔吐、腹の方から口の方へ食べ物を吐き返してくること、地球上では内部からドロドロした溶岩が噴出してくることである。屎とは肛門からゆっくりと出てくるもので、地球では冷えた溶岩がモクモクと隆起してくることである。尿とは水状のものであるから、水に溶けた土、泥土のことである。 33一1 此子を生みますとは、火の神を生みますことである。 美蕃登とは陰部、万神万生万有の出産の門戸である。 火神の出生はその威力が猛烈な為に、産出形式の破壊という必然の結果を招いたのである。それが見灸而病臥在ということである。水性神や風性神の出生は順当な産出であったが、火神の出生は従来の産出形式を打破して、全く新しい産出形式を生み出すのである。 ヤというのは弓矢の矢が発射直進の簑を表すように、円融無碍に発射して循環の停まらないという意義である。従って神の生命が生き活きと循環し続けるということである。 ヤム(病む)というのは、その生き活きとした気(生命)が甚だしく障害を受けて、停滞してくる、或いは全く停滞してしまうということである。ヤミ(闇)は光像の発射が止められて、光線が来ていない状態である。 豊宇氣毘賣神は和久産巣日神の御子であり、伊勢外宮の御祭神であり、稲の神であり、一般植物の祖神であり、万有に対する滋養(食物)供給の母神であり、生物発生の大祖神である。この神は特に名高い偉大な神でもあり、また古事記の記述の大律則として、必ず原因・結果の因果関係を明確にして進められているという点からも、植物発生に先立って予備的にこの神の名が示されているのである。 岐美二神の神業は、宇宙の大律則として、常に天・地・人の三才を対象にしているのである。だから地神の出生を、地球成立の状態と見るのも、一つの見方であり、人間(一切の生物)が母胎内で最初に体らしいものを構成してゆく、子宮内胎児の状態と見るのも、一つの見方であり、大宇宙に於ける、諸天体の連立的組織を構成してゆく最初の状態と見るのも、一つの見方であるのである。 多具現(嘔吐)は全くの病的状態である。病的状態は神の順調に背いた結果である。人は痛まないのが常態である。健康で量かで幸せ一杯というのが、人の本来相なのである。 病を利用しての修養は、逆修養である。それは”神さまに生かされている!”無限の幸せ で一杯という順修養(感謝行)ではない、ということに気付かせるためのものである。 噴火・地震・台風等の天変地異は無いのが常態である。時々清風五夜毎に一雨が理想の天象である。天変地異の原因は人心の乱れにあるのである。人心が調和すれば、天も地も必ず調和してくるのである。天変地異病気等を相手に苦蘭することよりも、光一元にすべてを眺めて、神さまに対して無限の無限の深い感謝を捧げて、天地人三才を順調に健全に保持して、幸せ一杯の人生を歩むことこそが、理想の人生なのであり、古神道の神ながらの生き方である。 33-2 かれ いざなみのかみは ひのかみをうみませるによりて つひにかみさります 故 伊邪那美神者 因生火神 遂神避坐也 伊邪那岐神は霊本位の創造神で、霊は外へ外へと発動的なのが本性であり、伊邪那美神は体本位(肉本位、物質本位)の創造神で、体は内へ内へと凝集的なのが本性である。ところが伊邪那美神の神聖恋慕の至情が膝え上がり、外へ外へと発進を押し進められ、一方伊邪那岐神は妹神を恋慕する至情の発露として、電動が内へ内へと向かい、互いに円融無碍のミウムスビを営んできたのである。水神や風神の発生に際しては、伊邪那美神も強いて向上伸展の威力を示して、伊邪那岐神とのミウムスビに尽くす必要があったけれども、今や猛烈なる火神の発生によって、棄てて置いても・火神自体の威力によって、ぐんぐん、と向上伸展するということが認められる状態になったわけである。そこで伊邪那美神は体本位の本質に帰り、向上伸展の威力を、将来の物質構成の任務を火神に委ねて、下へ下へ内へ内へと本来の凝集的神性に戻ることになったのである。 無明の立場から見る神避は、悲痛なる死滅の状態である。しかし達観悟入の境地から見る神道は、死滅では無く、いかなる変調も聖化されて永遠の生命の持続と見ることができる。高天原を顕界と幽界の二界に区別して、その二界を全く別個の存在として、境を分かって固執する所に、顕幽・生死の聞争が起こるのである。しかしながら本来”顕幽一如・生死一如”が高天原の真の相であるから、死ということは無いのである。顕に死ぬと見えるときは、幽に生きており、幽に死ぬと見えるときは、顕に生きているからである。だから神の生命が永遠無窮に無限の伸展を成して、荘厳極まりなき常寂光土(法身仏のいる浄土。消滅の変化なく、頬悩の惑乱もなく、諸相を照らす智慧の徳のあるところ。)を築いてゆくのみなのである。 顕幽一如・生死一如の状態に、顕幽二界・生死二界の区別が立てられ、精神と物質とが互いに離れて、不離一体の実義が失われることになったのである。しかしこのことは顕幽一如・生死一如の素晴らしさを改めて確認させ、その素晴らしさを際立たせることになるのである。いくら真実一路の道であるといっても、レールの上を走るようにしか走れないとすれば、そこには自由は無く、奴隷と同じ状態になってしまう。そこで宇宙の大道を自由に歩めるようにしておいて、なおかつその自由自在に歩んだ道が真実一路の道になっているというのが一番素晴らしいことなのである。頬悩の中に菩提(悟り)を、生死の中に涅槃(永遠不減の生命)を見出すことこそが、何にも増して素晴らしいことなのである。 34-1 かれ ここに いざなぎのみこと のりたまはく うつくしき 故 爾 伊邪那岐命 詔之 愛 あがなにものみことや このひとつけにかへつるかもとのりたまひて 我那邇妹命乎 謂易子之一木乎 愛(うつくしき)とは、アナニヤシ エ(愛) ヲトメヲ(ヲトコヲ)の エ(愛)の 極致から自然に生み出されるものである。それは神聖恋慕の極致であり、不離一体の二者の無限の恋慕を伝える言葉である。またそれは真・善・美・聖そのものでもある。 我那邇妹命とは、我と彼とは一体である、我は本来彼のものであり、彼は本来我がものである、という彼我一如・二者一体の妙相・妙体を表す言葉である。 乎(や)とは、無限の感嘆をこの一音に込めた言葉である。 岐美二神の神業は、霊と体とのミウムスビであって、霊が体を恋い、体が霊を慕って、 融合一体化せんとする、その至美至妙なる御合にこそ存在しているのである。 易(かえる)とは、トカゲなどが保護色によって皮膚の色を自由に変化させることから来た言葉であって、その意味するところは、変化しない本体が一貫して厳然と存在しながら、外見(表面)だけを自由自在に変化させてゆくということである。 子之一木・一木・木とは、天津金木のことである。それは宇宙の本質を具備し、いかなる神々をも自由に表現できるところの木である。伊邪那美神の神性神相の本義を、一木に宿して、顕示し表現してゆくということになるのである。伊邪那美神は体構成の大祖神である。将来無限に複雑化してゆく休構成の創造神業を、天津金木にすべてを託して、その運転及び変化によって行ってゆこうというのである。この世の天津金木(方柱、木片)は本当の天津金木の模型に当たるのである。 古来 木と木を擦り合わせて、火をおこしてきた。だから木から火を生ずる、すなわち木は火である。子の一木は子の一火である。伊邪那美神の向上性が火の神に代表されて、将来この火が万有発生の根底となってゆくのである。 かも(助詞)は詠嘆のカとモの複合したもので、平安時代以後は主に「かな」に代わった、感動をあらわす語である。・・・ことだ。・・・ことよ。 神避坐という事を、伊邪那岐神は「易へつる」と表現されているのである。実に徹底した楽天的な見方である。無限歓喜の新創造が始まるのだと感動されているのである。 35-1 |
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