00.01.02.03.04.05.06.07.08.09.10.11.12.13.14.15.16
.17.18.1920.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.32.33.34.35.36.37.38.39.40.41.42.43、44、45 46 4748。49 50 51
ふることふみにようこそ! 人目の訪問者です。参考文献、引用等は、水谷清 先生 著 古事記大講 です。
ふることふみ(古事記)
あまつちはじめおこるのとき たかまのはらになりませるかみのみなは あめのみなかぬしのかみ
天地初発之時 於高天原成神名 天之御中主神
神とは下記の五つのコトバをつづめたものであって、その一つ又は全体を指して言います。
(1)隠身 カクリミ 絶対神
(2)仮凝身 カゴリミ 創造神
(3)輝身 カガリミ 統一神
(4)駈身 カケリミ 自在神
(5)限身 カギリミ 限定神
高天原 タカアマハラ (順流 無形の神力)
(1)タカア 発射神力(中心より外に向かって発射し、伸展する)
(2)タ アマ 凝集神力(外から中心に向かって凝集する)
(3) カアマ 交流神力(円融無碍に交流する)
(4 )ハラ 螺転神力(螺旋状に転回する)
ラハマアカタ (逆流 有形の形状)
(1)ラハ 螺旋状の波の形状
(2) マアカ 全、大、多、勝の形状
(3) マア タ 股、支、分、部、枝等の形状
(4 )カタ 片、半、等の形状
天之御中主神は 隠身(絶対)を仮凝身(創造)、輝身(統一)、駈身(自由)、
限身(限定)の四つの相として表現しています
天之御中主神が 高天原と なり(成り・鳴り・生り)、天地が初発するのであります。
高天原という容相(成り〕・音声(鳴り)・生命(生り)になるのであります。
天之御中主神(隠身・絶対・実在)の現象・表現を高天原というのであります。
天之御中主神(実在) 即ち高天原(現象)。 高天原 即ち 天之御中主神であります。
天之御中主神がすぺてのすぺて。天之御中主神の他には何ものも存在しないのであります。
天之御中主神が唯一無二の実在であり、唯一無二の現象であります。
一神 即 万神万生万有。 万神万生万有 即 一神。
2−1
天地の初発は常に”今・此処”にあり、天地の終りも常に“今・此処”にあるのであります。本心の自分はこの“今・此処"を把握することによって、いつ・どこにあっても、無限の無限の幸せ・無限の無限の喜び・無頭の無限の感謝で一杯なのであります。
天地(あめつち)」の「天(あめ)」は、「あ」の一音を直観することによってのみはじめて知ることができるのであります。「あめ」の音に漢字の「天」と当て字するので、その「天」なら誰もが知っていると思ったら、大きな思い違いをしていることになるのであります。「あめ」とは「あ」を「見(み)え」〔「みえ」がつづまって「め」〕であって、「あ」を直観する、即ち「あ」を直接的に観る(心で見る)ということであります。「あ」を直観するには、一つには、晴れ渡った夜空を仰ぎ見て、星空を凝視し続けると良いのです。その無限に無限の奥深い、無限に無限の広大な、悠久無限の宇宙の神秘に心うたれ、無限の無限の感激を覚える一瞬が訪れてくるのです。そして感無量の「あ」という叫びが思わず知らずに発せられる時がきます。その時にその人は「あ」を直観したと言えるのであります。その人は「あめ」と一体になったのであります。「あめ」に融け入って、「あめ」そのものになりきったのであります。二つには、眼を半眼にして太陽を見て、その無限に暖かい愛の光に溶け込むと良いのであります。その光が大きく広がり、宇宙大の愛の光体と化して、自分を包み込んでいると観想するのであります。そうすると無限の無限の愛に抱かれているというその喜びの余りに、感極まって「あ」という喜びの叫び声が自然に発せられる時が来るのです。その時その人は「あ」を直観したと言えるのであります。「あ」とほ、無限大の生命であり、愛であり、光であり、善であり、美であり、絶対神のこの上無く素晴らしく、尊い“すべてのすべで'なのであります。
「天地(あめつち)」の「地(つち)」は、「つ」の一音を直観して知ることができるのであります。「つ」を直観するには、真っ暗闇の小さな部屋に正座し、瞑目して、「つ・つ・つ・つ・つ・つ・・・・・」と無限小を逐って、小さく縮み込む一点集中の観想をおこなうのであります。そうするとその無限小の極に忽然として観ずるものがあります。その時その人は「つ」を観たのであり、「つち」と一体となったのであります。
無限大の極の「あ」と、無限小の極の「つ」とは、絶対においては一つのものであります。故に「天」と「地」とは一体であり、その「天地」は無限なるものである。「無限」というものは全く捕らえどころがないものなので、そこに無限に限界を付けてそれを味わい楽しもうとするのであります。限界とは端(はし)でなのであります。端を観る、「はしみえ」で「はじめ」というのであります。無限である絶対が有限である現象の形式を採るのを「はじめ」と言い、その逆に 有限である現象が無限である絶対に帰るのを「おわり」(あめのをははり)と言うのであります。
2−2
天地の初発は常に”今”なのであります。宇宙創造の始源は常に”今”なのであります。過去・現在・未来のどの位置にあっても、天地の初発は常に”今”なのであります。時間・空聞を超越している絶対者が”今・ここに”出現するのであります、その一瞬一瞬が宇宙創造の始源であり、宇宙創造の完成なのであります。唯一無二の絶対者が全大字宙として動き出で、鳴り出で、姿を現すのは、すべての時間・すべての空間に、同時・一切所なのであります。人間は自己の信念に従って、それぞれに時間・空間の座標軸を定め、'今・ここに”天地の初発を見、天地の完成を見るのであります。全大宇宙のすべては、今の一瞬一瞬に、新たに誕生し続けているのであります。しかし、その”天地一新!万物新生!”の真創造のすがたが見えないのは、心の目が、霊眼が根本の無明によって覆われているからであります。過去世から積み重ねた想念感情が業想念の黒雲となって心を覆い尽くし、光明の世界を暗黒の世界に見せる根本無明,となっているからであります。
ここに”禊祓”即ち、業想念を捨て去り、本心の自覚を深めるという、心の潔斎が先ず必要となるのであります。一切の業想念は執着より生ずるのであります。全大字宙のすべては絶対者の現れであり、絶対者の所有物なのであります。だから自分の物というのは何一つとして存在しないのであります。本来、無一物であり、無所有であり、無所得であり、私有できるものは何一つとして無いのであります。それなのに私有物を持とうとして、絶対者のものを目分のものなのだと思い込んで喜んでいるのは、顛倒妄想・迷妄虚夢に陥っているのであります。その結果が光明楽土を見失い、暗黒苦土に呻吟するということになっているのであります。先ず一切の掴みを放せ!執着したままでは心の向きを変えることができないのであります。次に心の目を絶対者に、光明の方面に向き変えよ!そのときに絶対者より無限の大光明が降り注がれていることに気付くのであります。そして、無限の恵みが、無隈の喜びが、無限の幸せが、無限の善きものが、一瞬一瞬その装いを新たにして、降り注ぐようにして与えられていることに感謝感激雨霰となるのであります。
暗い所から明るい所を見れば、何事もはっきりと明るく透き通るように見えてくるものであります。暗黒の極・地獄のどん底から、光明の方面に心を向け・天上を仰ぎ見よ。向き直ると同時に、暗黒が消え、地獄が消えて、絶対者の無限の愛の御尊容が、感謝の積み重ねに比例して、心の中に整理されて見えてくるにちがいないのであります。絶対者の無限の愛の御尊容を本心の心でしっかりと見つめ、理解し、無限に深い・無限に広い感謝の心で把握してゆくことが、禊祓即ち悟りへの道なのであります。絶対者に心を向けて、ただひたすらに感謝し続けることのみが、絶対者と一体化する唯・一無二の道なのであります。
2−3
全大宇宙のすぺてのすべては、”今”の一瞬一瞬に新生し続けているのであります。
映画のフィルムを一秒間に24こま回転させきと、スクリーンに映写される姿は連続しているように感じられるのであります。
本当は一コマごとに繋がりの無い24こまのフィルムを順番に映写しただけなのに、前の画面を記憶して掴んでしまうために、それが心に残像として残り、前後の画面を巧みに繋ぎ合わせて、連続して繋がっているかのように錯覚して見えるのであります。
これと全くおなじでありまして、宇宙大劇場というべきこの現世に映写されている姿も、全く新しい画面が順番に映写されているだけなのであります。
ただ一つ違うところは、一秒間に無限のこまが回転して、新しい画面が新生し続けているという点であります。
全大宇宙という自分の心のスクリーンに、大神さまの全徳が無限の無限の大光明遍照という、この上なく素晴らしい光一元の大調和した姿となって、”今”の一瞬一瞬に新しい画面が映写され続けているのであります。
古来 聖者方が”物質に執着するな。過去を掴むな。”と教えたのは何故でありましょうか。
それは今現れている画面に執着していては、次から次へと新生してくる画面を正しく見ることができなくなるからであります。
また過去の画面に心を奪われて、その残像の中に入り浸っていては、新しい何ものをも心に感じ取ることができないからであります。
大神さまが与え続けて下さっている折角の無限の無限の幸せも、何一つとして受け取ることができなくなってしまうからであります。
例えば、大神さまがある一人の愛し児に無限の種類の美味しいお菓子を全部与えたいと願ったとします。
そこで無限の種類のお菓子をその子の前に並べて、「さあ全部お前に上げるから遠慮なくお食べ」と言ったとします。
ところがその子には、最初に食べたお菓子が余りにも美味しかうたので、次のお菓子を食べてみようという気持ちが起こらなかったのです。
その上いつまでも同じお菓子だけを食べ続けていたいとさえ思ったのでした。
大神さまはこの時”もっともっと美味しいお菓子を無限に作って与えたのに、どうして何時までも同じ一つのお菓子だけに執着しているのだろうか”と嘆息されるに違いないのであります。
大神さまの人間こ対する一番の願いとはいったい何でありましょうか。
それはきっと大神さまの無限の無限の愛を素直に受け入れて欲しいということに違いないのであります。
与えても与えても、拒絶して受け取ってくれなかったら、どんな気持ちになるでしょうか。大神さまは何億年以上でも、腹を立てたり、見捨てたりすることなく、何時までも何時までも、忍耐強く待ち続けて下さっているのであります。
何という無限に大きな無限に深い愛の心でありましょうか。
大神さまに生かされている!
大神さまに愛されている!
一瞬一瞬新生してくる全大宇宙のすべてを与え続けられている!
ただただこの単純なしかし素晴らしい真実にさえ気が付けば、感謝の心はひとりでに湧き出てくるに違いないのであります。
.ありがとうございます!ありがとうございます!ありがとうございます!・・・・・・
無限の無限のありがとうございます。無限の無限のありがとうございます!
2−4
” 新年 ”という言葉を深く深く受け止めてゆける人は、幸せを無限に深めてゆける人であります。去年があり、今年があり、来年がある、という意味の去年から今年に移り変わったというような新年の捉らえかたでは、まだまだ浅い捉らえかたであります。過去・現在・未来という現象暗闇に惑わされている闇は真実の幸福をつかむことはできないのであります。真実の幸福を得るためには時間・空間を越えて絶対の世界に超人しなければならないのであります。絶対の世界の”今・ここ”を把握しなければならないのです。そのために必要なことは” ひたすらなる真祈り ”であります。
過去・現在・未来という現象時間においては、'今'というものは一瞬後には既に過去になってしまっているのであります。1秒後は勿論過去であります。否1万分の1秒後も、1億分の1秒後も、無限分の1秒後も既に過去であります。果たして人間に1万分の1秒という短い時間を把握することができるのでしょうか? そしてその短い時間を使って何かを為すことができるのでしょうか? これは誰の目から見ても不可能であることは明白であります。だとすれば人聞はこの世に生きることはできないということになるのであります。なぜなら人間は生きてゆくためには食事をしなければならないのです。その食事をいつ取るかということを考えてみると、未来はまだ来てないから未来に食事をすることは不同能であります。過去は既に過ぎ去ったものであるから過去に食事をすることもまた不可能であります。現在の今食事をするといっても、無限分の1秒後にはその時間は既に過去となってしまっているから、その短い時間の間に食事をすることはこれまた不可能と言わなければならないのであります。
だから人間がこの世で生きて食べて生活しているというのは錯覚であります。それはちょうど映画のフィルムの静止している一瞬一瞬がスクリーンに映写されて連涜して動いているように錯覚して見ているのと同じことであります。それでは本当の人間は一体どこにいるのでしょうか? 本当の人間は絶対の世界に実在していて、そこから心のフィルムを現象世界に投影させて、その映像を眺めているのであります。心に絶対の世界の至美至妙完全円満大調和のすがたをどの程度受け入れたかによって心のフィルムの出来具合が決まり、そのフィルムを現象世界というスクリーンに投影したときにそれぞれの運命という映像が映し出されるのであります。
新年の”新”は中心の”心”であり、奥深い”深”であり、真実の”真”であります。今年一年間に現象世界のスクリーンの上に運命として投影される心のフィルムに、祈りに祈って、絶対の世界の真・善・美・聖を正しく焼き付けることが、そして絶対の世界の素晴らしさをこの世に現してゆくことが”新年おめでとうございます”の本当の意味なのであります。
2−5
年の始めといい、月の始めといい、日の始めといい、何事も始めというのは
すべて神さまの中から心新たにいただきなおす節目となるものであります。神さま
は常にみんなの為に 知恵を愛を生命を放射して 無限の無限の幸せを与え続けてい
るのであります。その無限の無限の幸せをどれだけ受け取ることができるかは、一人一人
の心次第なのでありまする。
それではその無限の無隈の幸せをつかむためには どのような心の持ちかたが必要
不可欠の条件でありましょうか? まず
第一に心を神さまに向けることであります。 心を神さまに向けるとは、例えば太陽(神さま)からは無限の無限の光が放射され続
けているが、太陽(神さま)に背を向けていてはその光(幸せ)を感じ取ることができないのだから、太陽(神さま)の方向に真っすぐ向くということであります。そうすれば太陽(神さま)から放射されている光(幸せ)をどれだけでも自由に受け取ることができるのであります。
第二は心の目を開くことであります。心の 目を開こうとしてもなかなか開くことができないのは、目やに(業想念)が付着していて邪魔しているからであります。その場合には祈り言葉(ありがとうございます)を唱えて守護の神霊の加護をいただいて、目やに(業想念)を取り去ってもらうことであります。
神さまという一大交響楽団の奏でる至美至妙なる幸せのひびきは、全宇宙に永遠にひびきわたり続けるものであります。
その幸せのひびきのすべてを十分に味わいつくすには、今の一瞬間に すべてのひびきを受けて味わい、同時にそれを心から放ち去り、次の一瞬間にまた すべてのひびきを受けて味わい、同時にそれを心から放ち去り、というように今の一瞬一瞬に新しいひびきを受け止めてゆくことが大切なのであります。
過去のひびきをつかみ追いつづけていては、決して新しいひびきを受けることができないのであります。
新しいひびきを受けないということは、無限の無限の幸せを放棄したことになるのであります。
決して決して過去をつかんではならないのであります。
神さまから与え続けちれている無限の無限の幸せを放棄してまでつかむ価値あるものは過去には無いのであります。
過去をつかむのは愚かであります。
過去にとらわれるのは愚かであります。
神さまは今の一瞬一瞬に新しい全宇宙のすべてと現れて、無限の無限の祝福を与え続けて下さっているのであります。
心を神さまに向けよう! 心の目を大きく開こう!
そして神さまの至美至妙なる愛の表現を心行くまで味わって生きよう!
何者もあなたの幸せを邪魔することはできないのであります。あなたの心の持ちかただけが、あなたの幸せの程度を決めるのであります。
神さまの中から一瞬一瞬新しく生まれ変わって出てくる本心の自分が、一瞬一瞬新しく光輝いて出てくる全宇宙のすべてと、感謝一筋の心で、いのちの交流・光の交流・愛の交流を行ってゆくことが真実の幸せへの道なのであります。
あめつち はじめ おこるのとき たかあまはら に なりませる かみの みなは あめのみなかぬしのかみ
あまつちはじめおこるのとき たかまのはらになりませるかみのみなは あめのみなかぬしのかみ
天地初発之時 於高天原成神名 天之御中主神
神(かみ)とは下記(かき)の五(いつ)つのコトバをつづめたものであって、その一(ひと)つ又(また)は全体(ぜんたい)を指(さ)して言(い)う。
(1)隠身 カクリミ 絶対神(ぜったいしん)
(2)仮凝身 カゴリミ 創造神(そうぞうしん)
(3)輝身 カガリミ 統一神(とういつしん)
(4)駈身 カケリミ 自在神(じざいしん)
(5)限身 カギリミ 限定神(げんていしん)
高天原(たかまがはら) タカアマハラ (順流(じゅんりゅう) 無形(むけい)の神力(しんりき))
(1)タカア 発射(はっしゃ)神力(しんりき)(中心(ちゅうしん)より外(そと)に向(む)かって発射(はっしゃ)し、伸展(しんてん)する)
(2)タ アマ 凝集(ぎょうしゅう)神力(しんりき)(外(そと)から中心(ちゅうしん)に向(む)かって凝集(ぎょうしゅう)する)
(3) カアマ 交流(こうりゅう)神力(しんりき)(円融(えんゆう)無碍(むげ)に交流(こうりゅう)する)
(4) ハラ 螺転(らてん)神力(しんりき)(螺旋状(らせんじょう)に転回(てんかい)する)
ラハマアカタ (逆流(ぎゃくりゅう) 有形(ゆうけい)の形状(けいじょう))
(1)ラハ 螺旋状(らせんじょう)の波(なみ)の形状(けいじょう)
(2) マアカ 全(ぜん)、大(だい)、多(た)、勝(かつ)の形状(けいじょう)
(3) マア タ 股(もも)、支、分(ふん)、部(ぶ)、枝(えだ)等(とう)の形状(けいじょう)
(4) カタ 片(へん)、半(はん)、等(とう)の形状(けいじょう)
天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)は 隠身(かくりみ)(絶対(ぜったい))を仮凝身(かごりみ)(創造(そうぞう))、輝身(かがりみ)(統一(とういつ))、駈身(かけりみ)(自由(じゆう))、限身(かぎりみ)(限定(げんてい))の四(よっ)つの相(そう)として表現(ひょうげん)している。
天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)が 高天原(たかまがはら)と なり(成(な)り・鳴(な)り・生(な)り)、天地(あめつち)が初発(しょはつ)する。
高天原(たかまがはら)という容相(ようそう)(成(な)り〕・音声(おんせい)(鳴(な)り)・生命(せいめい)(生(な)り)になる。
天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)(隠身(かくりみ)・絶対(ぜったい)・実在(じつざい))の現象(げんしょう)・表現(ひょうげん)を高天原(たかまがはら)という。
天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)(実在(じつざい)) 即(すなわ)ち高天原(たかまがはら)(現象(げんしょう))。 高天原(たかまがはら) 即(すなわ)ち 天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)。
天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)がすぺてのすぺて。天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)の他(ほか)にほ何(なに)ものも存在(そんざい)しないのである。
天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)が唯一(ゆいいつ)無二(むに)の実在(じつざい)であり、唯一(ゆいいつ)無二(むに)の現象(げんしょう)である。
一神(いっしん) 即(そく) 万神(ばんしん)万生(ばんしょう)万有(ばんゆう)。 万神(ばんしん)万生(ばんしょう)万有(ばんゆう) 即(そく) 一神(いっしん)。
この部分が一番大事なところであります。この宇宙は一神即ち神独在であり、そのほかのなにものも存在しないのが真実なのであります。
2−1
天地(あめつち)の初発(しょはつ)は常(つね)に”今(いま)・此処(ここ)”にあり、天地(あめつち)の終(おわ)りも常(つね)に“今(いま)・此処(ここ)”にある。本心(ほんしん)の自分(じぶん)はこの“今(いま)・此処(ここ)"を把握(はあく)することによって、いつ・どこにあっても、無限(むげん)の幸(しあわ)せ・無限(むげん)の喜(よろこ)び・無限(むげん)の感謝(かんしゃ)で一杯(いっぱい)なのである。
天地(あめつち)」の「天(あめ)」は、「あ」の一(いつ)音(おん)を直観(ちょっかん)することによってのみはじめて知(し)ることができる。「あめ」の音(おと)に漢字(かんじ)の「天(あめ)」と当て字(あてじ)するので、その「天(あめ)」なら誰(だれ)もが知(し)っていると思(おも)ったら、大(おお)きな思い違(おもいちが)いをしていることになるのである。「あめ」とは「あ」を「見(けん)(み)え」〔「みえ」がつづまって「め」〕であって、「あ」を直観(ちょっかん)する、即(すなわ)ち「あ」を直接的(ちょくせつてき)に観(み)る(心(こころ)で見(み)る)ということである。「あ」を直観(ちょっかん)するには、一(ひと)つには、晴れ渡(はれわた)った夜空(よぞら)を仰ぎ見(あおぎみ)て、星空(ほしぞら)を凝視(ぎょうし)し続(つづ)けると良(よ)い。その無限(むげん)に奥深(おくふか)い、無限(むげん)に広大(こうだい)な、悠久(ゆうきゅう)無限(むげん)の字(じ)竈(がま)の神秘(しんぴ)に心(こころ)撃(う)たれ、無限(むげん)の感激(かんげき)を覚(おぼ)える一瞬(いっしゅん)が訪(おとず)れてくる。そして感無量(かんむりょう)の「あ」という叫(さけ)びが思(おも)わず知(し)らずに発(はっ)せられる。その時(とき)にその人(ひと)は「あ」を直観(ちょっかん)したと言(い)える。その人(ひと)は「あめ」と一体(いったい)になったのである。「あめ」に融(と)け入(はい)って、「あめ」そのものになりきったのである。二(ふた)つには、眼(め)を半眼(はんがん)にして太陽(たいよう)を見(み)て、その無限(むげん)に暖(あたた)かい愛(あい)の光(ひかり)に溶け込(とけこ)むと良(よ)い。その光(ひかり)が大(おお)きく広(ひろ)がり、宇宙(うちゅう)大(だい)の愛(あい)の光(ひかり)体(たい)と化(か)して、自分(じぶん)を包み込(つつみこ)んでいると観想(かんそう)するのである。そうすると無限(むげん)の愛(あい)に抱(いだ)かれているというその喜(よろこ)びの余(あま)りに、感(かん)極(きわ)まって「あ」という喜(よろこ)びの叫び声(さけびごえ)が自然(しぜん)に発(はっ)せられる時(とき)が来(く)る。その時(とき)その人(ひと)は「あ」を直観(ちょっかん)したと言(い)えるのである。「あ」とほ、無限大(むげんだい)の生命(せいめい)であり、愛(あい)であり、光(ひかり)であり、善(ぜん)であり、美(び)であり、絶対神(ぜったいしん)のこの上(うえ)無(な)く素晴(すば)らしく、尊(とうと)い“すべてのすべで'なのである。
「天地(あめつち)」の「地(つち)」は、「つ」の一(いつ)音(おん)を直観(ちょっかん)して知(し)ることができるのである。「つ」を直観(ちょっかん)するには、真っ暗闇(まっくらやみ)の小(ちい)さな部屋(へや)に正座(せいざ)し、瞑目(めいもく)して、「つ・つ・つ・つ・つ・つ・・・・・」と無限小(むげんしょう)を逐(お)って、小(ちい)さく縮(ちぢ)み込(こ)む一点(いってん)集中(しゅうちゅう)の観想(かんそう)をおこなうのである。そうするとその無限小(むげんしょう)の極(きょく)に忽然(こつぜん)として観(かん)ずるものがある。その時(とき)その人(ひと)は「つ」を観(み)たのであり、「つち」と一体(いったい)となったのである。
無限大(むげんだい)の極(きょく)の「あ」と、無限小(むげんしょう)の極(きょく)の「つ」とは、絶対(ぜったい)においては一(ひと)つのものである。故(ゆえ)に「天(あめ)」と「地(つち)」とは一体(いったい)であり、その「天地(あめつち)」は無限(むげん)なるものである。「無限(むげん)」というものは全(まった)く捕(と)らえどころがないので、そこで無限(むげん)に限界(げんかい)を付(つ)けてそれを味(あじ)わい楽(たの)しもうとするのである。限界(げんかい)とは端(はし)である。端(はし)を観(み)る、「はしみえ」で「はじめ」というのである。無限(むげん)である絶対(ぜったい)が有限(ゆうげん)である現象(げんしょう)の形式(けいしき)を採(と)るのを「はじめ」と言(い)い、その逆(ぎゃく)に 有限(ゆうげん)である現象(げんしょう)が無限(むげん)である絶対(ぜったい)に帰(かえ)るのを「おわり」と言(い)うのである。追記(ついき)天(あめ)のおははり
2−2
天地(あめつち)の初発(しょはつ)は常(つね)に”今(いま)”なのである。宇宙(うちゅう)創造(そうぞう)の始(はじめ)源(げん)は常(つね)に”今(いま)”なのである。過去(かこ)・現在(げんざい)・未来(みらい)のどの位置(いち)にあっても、天地(てんち)の初発(しょはつ)は常(つね)に”今(いま)”なのである。時間(じかん)・空聞を超越(ちょうえつ)している絶対者(ぜったいしゃ)が”今(いま)・ここに”出現(しゅつげん)する、その一瞬(いっしゅん)一瞬(いっしゅん)が宇宙(うちゅう)創造(そうぞう)の始(はじめ)源(げん)であり、宇宙(うちゅう)創造(そうぞう)の完成(かんせい)なのである。唯一(ゆいいつ)無二(むに)の絶対者(ぜったいしゃ)が全(ぜん)大字(おおあざ)宙(ちゅう)として動(うご)き出(で)で、鳴(な)り出(で)で、姿(すがた)を現(あらわ)すのは、すべての時間(じかん)・すべての空間(くうかん)に、同時(どうじ)・一切(いっさい)所(ところ)なのである。人間(にんげん)は自己(じこ)の信念(しんねん)に従(したが)って、それぞれに時間(じかん)・空間(くうかん)の座標軸(ざひょうじく)を定(さだ)め、'今(いま)・ここに”天地(あめつち)の初発(しょはつ)を見(けん)、天地(あめつち)の完成(かんせい)を見(み)るのである。全大宇宙(ぜんだいうちゅう)のすべては、今(いま)の一瞬(いっしゅん)一瞬(いっしゅん)に、新(あら)たに誕生(たんじょう)し続(つづ)けているのである。しかし、その”天地(あめつち)一新(いっしん)!万物(ばんぶつ)新生(しんせい)!”の真創造(しんそうぞう)のすがたが見(み)えないのは、心(こころ)の目(め)が、霊眼(れいがん)が根本(こんぽん)の無明(むみょう)によって覆(おお)われているからである。過去(かこ)世(よ)から積み重(つみかさ)ねた想念(そうねん)感情(かんじょう)が業想念(ごうそうねん)の黒雲(こくうん)となって心(こころ)を覆い尽(おおいつ)くし、光明(こうみょう)の世界(せかい)を暗黒(あんこく)の世界(せかい)に見(み)せる根本(こんぽん)無明(むみょう),となっているからである。
ここに”禊祓(みそぎはらい)”即(すなわ)ち、業想念(ごうそうねん)を捨て去(すてさ)り、本心(ほんしん)の自覚(じかく)を深(ふか)めるという、心(こころ)の潔斎(けっさい)が先(ま)ず必要(ひつよう)となるのである。一切(いっさい)の業想念(ごうそうねん)は執着(しゅうちゃく)より生(しょう)ずる。全大宇宙(だいうちゅう)のすべては絶対者(ぜったいしゃ)の現(あらわ)れであり、絶対者(ぜったいしゃ)の所有物(しょゆうぶつ)なのである。だから自分(じぶん)の物(もの)というのは何一(なにひと)つとして存在(そんざい)しないのである。本来(ほんらい)、無一物(むいちもつ)であり、無(む)所有(しょゆう)であり、無(む)所得(しょとく)であり、私有(しゆう)できるものは何一(なにひと)つとして無(な)いのである。それなのに私有(しゆう)物(ぶつ)を持(も)とうとして、絶対者(ぜったいしゃ)のものを目(め)分(ぶん)のものなのだと思い込(おもいこ)んで喜(よろこ)んでいるのは、顛倒(てんとう)妄想(もうそう)・迷妄(めいもう)虚(きょ)夢(む)に陥(おちい)っているのである。その結果(けっか)が光明(こうみょう)楽土(らくど)を見失(みうしな)い、暗黒(あんこく)苦(く)土(ど)に呻吟(しんぎん)するということになっているのである。先(ま)ず一切(いっさい)の掴(つか)みを放(はな)せ!執着(しゅうちゃく)したままでは心(こころ)の向(む)きを変(か)えることができない。次(つぎ)に心(こころ)の目(め)を絶対者(ぜったいしゃ)に、光明(こうみょう)の方面(ほうめん)に向(む)き変(か)えよ!そのときに絶対者(ぜったいしゃ)より無限(むげん)の大(だい)光明(こうみょう)が降り注(ふりそそ)がれていることに気付(きづ)くのである。そして、無限(むげん)の恵(めぐ)みが、無(む)隈(くま)の喜(よろこ)びが、無限(むげん)の幸(しあわ)せが、無限(むげん)の善(よ)きものが、一瞬(いっしゅん)一瞬(いっしゅん)その装(よそお)いを新(あら)たにして、降り注(ふりそそ)ぐようにして与(あた)えられていることに感謝(かんしゃ)感激(かんげき)雨霰(あめあられ)となるのである。
暗(くら)い所(ところ)から明(あか)るい所(ところ)を見(み)れば、何事(なにごと)もはっきりと明(あか)るく透き通(すきとお)るように見(み)えてくるものである。暗黒(あんこく)の極(きょく)・地獄(じごく)のどん底(どんぞこ)から、光明(こうみょう)の方面(ほうめん)に心(こころ)を向(む)け・天上(てんじょう)を仰ぎ見(あおぎみ)よ。向き直(むきなお)ると同時(どうじ)に、暗黒(あんこく)が消(き)え、地獄(じごく)が消(き)えて、絶対者(ぜったいしゃ)の無限(むげん)の愛(あい)の御(ご)尊容が、感謝(かんしゃ)の積み重(つみかさ)ねに比例(ひれい)して、心(こころ)の中(なか)に整理(せいり)されて見(み)えてくるにちがいない。絶対者(ぜったいしゃ)の無限(むげん)の愛(あい)の御(ご)尊容(そんよう)を本心(ほんしん)の心(こころ)でしっかりと見(み)つめ、理解(りかい)し、無限(むげん)に深(ふか)い・無限(むげん)に広(ひろ)い感謝(かんしゃ)の心(こころ)で把握(はあく)してゆくことが、禊祓(みそぎはらい)即(すなわ)ち悟(さと)りへの道(みち)なのである。絶対者(ぜったいしゃ)に心(こころ)を向(む)けて、ただひたすらに感謝(かんしゃ)し続(つづ)けることのみが、絶対者(ぜったいしゃ)と一体化(いったいか)する唯(ただ)・一(いつ)無二(むに)の道(みち)なのである。
2−3
全(ぜん)大宇宙(だいうちゅう)のすぺてのすべては、”今(いま)”の一瞬(いっしゅん)一瞬(いっしゅん)に新生(しんせい)し続(つづ)けているのである。映画(えいが)のフィルムを1秒(びょう)間(かん)に24こま回転(かいてん)させきと、スクリーンに映写(えいしゃ)される姿(すがた)は連続(れんぞく)しているように感(かん)じられる。本当(ほんとう)は繋(つな)がりの無(な)い24こまのフィルムを順番(じゅんばん)に映写(えいしゃ)しただけなのに、前(まえ)の画面(がめん)を記憶(きおく)して掴(つか)んでしまうために、それが心(こころ)に残像(ざんぞう)として残(のこ)り、前後(ぜんご)の画面(がめん)を巧(たく)みに繋ぎ合(つなぎあ)わせて、連続(れんぞく)して繋(つな)がっているかのように錯覚(さっかく)して見(み)るのである。これと同(おな)じように、宇宙(うちゅう)大(だい)劇場(げきじょう)に映写(えいしゃ)されている姿(すがた)も、全(まった)く新(あたら)しい画面(がめん)が順番(じゅんばん)に映写(えいしゃ)されているだけなのである。ただ一(ただひと)つ違(ちが)うところは、1秒(びょう)間(かん)に無限(むげん)のこまが回転(かいてん)して、新(あたら)しい画面(がめん)が新生(しんせい)し続(つづ)けているという点(てん)である。全(ぜん)大宇宙(だいうちゅう)というスクリーンに、大神(おおかみ)さまの全(ぜん)徳(とく)が無限(むげん)の無限(むげん)の大(だい)光明(こうみょう)遍照(へんじょう)という、この上(このうえ)なく素晴(すば)らしい光一元(ひかりいちげん)の大(だい)調和(ちょうわ)した姿(すがた)となって、”今(いま)”の一瞬(いっしゅん)一瞬(いっしゅん)に新(あたら)しい画面(がめん)が映写(えいしゃ)され続(つづ)けているのである。
古来(こらい) 聖者(せいじゃ)方(がた)が”物質(ぶっしつ)に執着(しゅうちゃく)するな。過去(かこ)を掴(つか)むな。”と教(おし)えたのは何故(なぜ)であろうか。それは今(いま)現(あらわ)れている画面(がめん)に執着(しゅうちゃく)していては、次(つぎ)から次(つぎ)へと新生(しんせい)してくる画面(がめん)を正(ただ)しく見(み)ることができなくなるからである。また過去(かこ)の画面(がめん)に心(こころ)を奪(うば)われて、その残像(ざんぞう)の中(なか)に入り浸(いりびた)っていては、新(あたら)しい何(なに)ものをも心(こころ)に感じ取(かんじと)ることができないからである。大神(おおかみ)さまが与(あた)え続(つづ)けて下(くだ)さっている折角(せっかく)の無限(むげん)の無限(むげん)の幸(しあわ)せも、何一(なにひと)つとして受け取(うけと)ることができなくなってしまうからである。例(たと)えば、大神(おおかみ)さまがある1人(ひとり)の愛児(いとしご)に無限(むげん)の種類(しゅるい)の美味(おい)しいお菓子(おかし)を全部(ぜんぶ)与(あた)えたいと願(ねが)ったとする。そこで無限(むげん)の種類(しゅるい)のお菓子(かし)をその子(こ)の前(まえ)に並(なら)べて、「さあ全部(ぜんぶ)お前(おまえ)に上(あ)げるから遠慮(えんりょ)なくお食(おた)べ」と言(い)ったとする。ところがその子(こ)には、最初(さいしょ)に食(た)べたお菓子(おかし)が余(あま)りにも美味(おい)しかったので、次(つぎ)のお菓子(おかし)を食(た)べてみようという気持(きも)ちが起(お)こらなかった。その上(そのうえ)いつまでも同(おな)じお菓子(おかし)だけを食(た)べ続(つづ)けていたいとさえ思(おも)った。大神(おおかみ)さまはこの時(とき)”もっともっと美味(おい)しいお菓子(おかし)を無限(むげん)に作(つく)って与(あた)えたのに、どうして何時(いつ)までも同(おな)じ一(ひと)つのお菓子(おかし)だけに執着(しゅうちゃく)しているのだろうか”と嘆息(たんそく)されるに違(ちが)いない。
大神(おおかみ)さまの人間(にんげん)こ対(たい)する一番(いちばん)の願(ねが)いとは何(なに)であろうか。それはきっと大神(おおかみ)さまの無限(むげん)の無限(むげん)の愛(あい)を素直(すなお)に受け入(うけい)れて欲(ほ)しいということに違(ちが)いない。与(あた)えても与(あた)えても、拒絶(きょぜつ)して受け取(うけと)ってくれなかったら、どんな気持(きも)ちになるだろうか。大神(おおかみ)さまは何(なん)億年(ねん)以上(いじょう)でも、腹(はら)を立(た)てたり、見捨(みす)てたりすることなく、何時(いつ)までも何時(いつ)までも、忍耐強(にんたいづよ)く待ち続(まちつづ)けて下(くだ)さっているのである。何(なん)という無限(むげん)に大(おお)きな無限(むげん)に深(ふか)い愛(あい)の心(こころ)であろうか。大神(おおかみ)さまに生(い)かされている!大神(おおかみ)さまに愛(あい)されている!一瞬(いっしゅん)一瞬(いっしゅん)新生(しんせい)してくる全(ぜん)大宇宙(だいうちゅう)のすべてを与(あた)え続(つづ)けられている!この真実(しんじつ)に気付(きづ)けば、感謝(かんしゃ)の心(こころ)はひとりでに湧き出(わきで)てくるに違(ちが)いない。.ありがとうございます!ありがとうございます!ありがとうございます!ありがとうございます!・・・・・・
2−4
” 新年(しんねん) ”という言葉(ことば)を深(ふか)く深(ふか)く受け止(うけと)めてゆける人(ひと)は、幸(しあわ)せを無限(むげん)に深(ふか)めてゆける人(ひと)である。去年(きょねん)があり、今年(ことし)があり、来年(らいねん)がある、という意味(いみ)の去年(きょねん)から今年(ことし)に移り変(うつりか)わったというような新年(しんねん)の捉らえかたでは、まだまだ浅(あさ)い捉らえかたである。過去(かこ)・現在(げんざい)・未来(みらい)という現象(げんしょう)暗闇(くらやみ)に惑(まど)わされている闇(やみ)は真実(しんじつ)の幸福(こうふく)をつかむことはできない。真実(しんじつ)の幸福(こうふく)を得(え)るためには時間(じかん)・空間(くうかん)を越(こ)えて絶対(ぜったい)の世界(せかい)に超越(ちょうえつ)しなければならない。絶対(ぜったい)の世界(せかい)の”今(いま)・ここ”を把握(はあく)しなければならない。そのために必要(ひつよう)なことは” ひたすらなる祈(いの)り ”である。
過去(かこ)・現在(げんざい)・未来(みらい)という現象(げんしょう)時間(じかん)においては、'今(いま)'というものは一瞬(いっしゅん)後(ご)には既(すで)に過去(かこ)になってしまっている。1秒(びょう)後(ご)は勿論(もちろん)過去(かこ)である。否(いな)1万(まん)分(ぶん)の1秒(びょう)後(ご)も、1億分(ぶん)の1秒(びょう)後(ご)も、無限(むげん)分(ぶん)の1秒(びょう)後(ご)も既(すで)に過去(かこ)である。果(は)たして人間(にんげん)に1万(まん)分(ぶん)の1秒(びょう)という短(みじか)い時間(じかん)を把握(はあく)することができるだろうか? そしてその短(みじか)い時間(じかん)を使(つか)って何(なに)かを為(な)すことができるだろうか? これは誰(だれ)の目(め)から見(み)ても不可能(ふかのう)であることは明白(めいはく)である。だとすれば人(ひと)聞はこの世(よ)に生(い)きることはできないということになる。なぜなら人間(にんげん)は生(い)きてゆくためには食事(しょくじ)をしなければならない。その食事(しょくじ)をいつ取(と)るかということを考(かんが)えてみると、未来(みらい)はまだ来(き)てないから未来(みらい)に食事(しょくじ)をすることは不可能(ふかのう)である。過去(かこ)は既(すで)に過ぎ去(すぎさ)ったものであるから過去(かこ)に食事(しょくじ)をすることもまた不可能(ふかのう)である。現在(げんざい)の今(いま)食事(しょくじ)をするといっても、無限(むげん)分(ぶん)の1秒(びょう)後(ご)にはその時間(じかん)は既(すで)に過去(かこ)となってしまっているから、その短(みじか)い時間(じかん)の間(かん)に食事(しょくじ)をすることはこれまた不可能(ふかのう)と言(い)わなければならない。
だから人間(にんげん)がこの世(よ)で生(い)きて食(た)べて生活(せいかつ)しているというのは錯覚(さっかく)である。それはちょうど映画(えいが)のフィルムの静止(せいし)している一瞬(いっしゅん)一瞬(いっしゅん)がスクリーンに映写(えいしゃ)されて連涜して動(うご)いているように錯覚(さっかく)して見(み)ているのと同(おな)じことである。それでは本当(ほんとう)の人間(にんげん)は一体(いったい)どこにいるのか? 本当(ほんとう)の人間(にんげん)は絶対(ぜったい)の世界(せかい)に実在(じつざい)していて、そこから心(こころ)のフィルムを現象(げんしょう)世界(せかい)に投影(とうえい)させて、その映像(えいぞう)を眺(なが)めているのである。心(こころ)に絶対(ぜったい)の世界(せかい)の至(し)美(び)至(し)妙(みょう)完全(かんぜん)円満(えんまん)大(だい)調和(ちょうわ)のすがたをどの程度(ていど)受け入(うけい)れたかによって心(こころ)のフィルムの出来(でき)具合(ぐあい)が決(き)まり、そのフィルムを現象(げんしょう)世界(せかい)というスクリーンに投影(とうえい)したときにそれぞれの運命(うんめい)という映像(えいぞう)が映し出(うつしだ)されるのである。
新年(しんねん)の”新(しん)”は中心(ちゅうしん)の”心(こころ)”であり、奥深(おくふか)い”深”であり、真実(しんじつ)の”真(しん)”である。今年(ことし)一年(いちねん)間(かん)に現象(げんしょう)世界(せかい)のスクリーンの上(うえ)に運命(うんめい)として投影(とうえい)される心(こころ)のフィルムに、祈(いの)りに祈(いの)って、絶対(ぜったい)の世界(せかい)の真(しん)・善(ぜん)・美(び)・聖(せい)を正(ただ)しく焼き付(やきつ)けることが、そして絶対(ぜったい)の世界(せかい)の素晴(すば)らしさをこの世(よ)に現(あらわ)してゆくことが”新年(しんねん)おめでとうございます”の本当(ほんとう)の意味(いみ)なのである。
2−5
年(とし)の始(はじ)めといい、月(つき)の始(はじ)めといい、日(ひ)の始(はじ)めといい、何事(なにごと)も始(はじ)めというのは
すべて神(かみ)さまの中(なか)から心(こころ)新(あら)たにいただきなおす節目(ふしめ)となるものである。神(かみ)さま
は常(つね)にみんなの為(ため)に 知恵(ちえ)を愛(あい)を生命(せいめい)を放射(ほうしゃ)して 無限(むげん)の幸(しあわ)せを与(あた)え続(つづ)けてい
るのである。その無限(むげん)の幸(しあわ)せをどれだけ受け取(うけと)ることができるかは、一人一人
(ひとりひとり)の心(こころ)次第(しだい)なので'ある。
それではその無限(むげん)の幸(しあわ)せをつかむためには どのような心(こころ)の持(も)ちかたが必要(ひつよう)
不可欠(ふかけつ)の条件(じょうけん)であろうか? まず第(だい)一(いつ)一(いつ)に心(こころ)を神(かみ)さまに向(む)けることである。
心(こころ)を神(かみ)さまに向(む)けるとは、例(たと)えば太陽(たいよう)(神(かみ)さま)からは無限(むげん)の光(ひかり)が放射(ほうしゃ)され続
(つづ)けているが、太陽(たいよう)(神(かみ)さま)に背(せ)を向(む)けていてはその光(ひかり)(幸(しあわ)せ)を感じ取(かんじと)ることができないのだから、太陽(たいよう)(神(かみ)さま)の方向(ほうこう)に真(ま)っすぐ向(む)くということである。そうすれば太陽(たいよう)(神(かみ)さま)から放射(ほうしゃ)されている光(ひかり)(幸(しあわ)せ)をどれだけでも受け取(うけと)ることができるのである。 第(だい)二(に)は心(こころ)の目(め)を開(ひら)くことである。心(こころ)の
目(め)を開(ひら)こうとしてもなかなか開(ひら)くことができないのは、目やに(業想念(ごうそうねん))が付着(ふちゃく)していて邪魔(じゃま)しているからである。その場合(ばあい)には祈(いの)り言葉(ことば)を唱(とな)えて守護(しゅご)の神霊(しんれい)の加護(かご)をいただいて、目やに(業想念(ごうそうねん))を取り去(とりさ)ってもらうことである。
神(かみ)さまという一大(いちだい)交響楽(こうきょうがく)団(だん)の奏(かな)でる至(し)美(び)至(し)妙(みょう)なる幸(しあわ)せのひびきは、全(ぜん)宇宙(うちゅう)に永遠(えいえん)にひびきわたり続(つづ)けるものである。その幸(しあわ)せのひびきのすべてを十分(じゅうぶん)に味(あじ)わいつくすには、今(いま)の一瞬(いっしゅん)間(かん)に すべてのひびきを受(う)けて味(あじ)わい、同時(どうじ)にそれを心(こころ)から放(はな)ち去(さ)り、次(つぎ)の一瞬(いっしゅん)間(かん)にまた すべてのひびきを受(う)けて味(あじ)わい、同時(どうじ)にそれを心(こころ)から放(はな)ち去(さ)り、というように今(いま)の一瞬(いっしゅん)一瞬(いっしゅん)に新(あたら)しいひびきを受け止(うけと)めてゆくことが大切(たいせつ)なのである。過去(かこ)のひびきをつかみ追い掛(おいか)けていては、決(けっ)して新(あたら)しいひびきを受(う)けることができないのである。新(あたら)しいひびきを受(う)けないということは、無限(むげん)の幸(しあわ)せを放棄(ほうき)したことになるのである。
決(けっ)して決(けっ)して過去(かこ)をつかんではならないのである。神(かみ)さまから与(あた)え続(つづ)けちれている無限(むげん)の幸(しあわ)せを放棄(ほうき)してまでつかむ価値(かち)あるものは過去(かこ)には無(な)いのである。過去(かこ)をつかむのは愚(おろ)かである。過去(かこ)にとらわれるのは愚(おろ)かである。神(かみ)さまは今(いま)の一瞬(いっしゅん)一瞬(いっしゅん)に新(あたら)しい全(ぜん)宇宙(うちゅう)のすべてと現(あらわ)れて、無限(むげん)の祝福(しゅくふく)を与(あた)え続(つづ)けて下(くだ)さっているのである。心(こころ)を神(かみ)さまに向(む)けよう! 心(こころ)の目(め)を大(おお)きく開(ひら)こう! そして神(かみ)さまの至(し)美(び)至(し)妙(みょう)なる愛(あい)の表現(ひょうげん)を心行(こころゆ)くまで味(あじ)わって生(い)きよう! 何者(なにもの)もあなたの幸(しあわ)せを邪魔(じゃま)することはできないのである。あなたの心(こころ)の持(も)ちかただけが、あなたの幸(しあわ)せの程度(ていど)を決(き)めるのである。神(かみ)さまの中(なか)から一瞬(いっしゅん)一瞬(いっしゅん)新(あたら)しく生まれ変(うまれか)わって出(で)てくる本心(ほんしん)の自分(じぶん)が、一瞬(いっしゅん)一瞬(いっしゅん)新(あたら)しく光輝(ひかりかがや)いて出(で)てくる全(ぜん)宇宙(うちゅう)のすべてと、感謝(かんしゃ)一筋(ひとすじ)の心(こころ)で、いのちの交流(こうりゅう)・光(ひかり)の交流(こうりゅう)・愛(あい)の交流(こうりゅう)を行(おこな)ってゆくことが真実(しんじつ)の幸(しあわ)せへの道(みち)なのである。
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