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ふることふみにようこそ!カウンター 人目の訪問者です。参考文献、引用等は、水谷清 先生 著 古事記大講 です。

ふることふみ(古事記)

あめつち はじめ おこるのとき たかあまはら に なりませる かみの みなは あめのみなかぬしのかみ

かれ いざなざのみこと くろみかづら をとりて なけうち たまへば すなはち 
爾  伊邪那岐命    取黒御鬘       投棄       乃
えびかづらの み なる
生蒲子
こを ひろひ はむ あひだ にげいでますを なほ おふ
是撫食之間      逃行      猶追

 伊邪那岐命の黒御鬘(くろみかずら)は奇魂(くすみたま)によって成り立っているのであります。その奇魂の働きを蒲子即ち山葡萄の状態に散布して、葡萄の実で象徴される秩序・規則・節制・整理・整頓等々を先ず与えてゆくわけであります。黄泉国は秩序等の欠如している境界であるから、それを補うことによって問題解決を図ろうとするのであります。しかしながら道徳的な徳目を並べて、それによって秩序を維持してゆこうという方法は、やはり一時的な解決にしかならないということを示しているのであります。
 葡萄の実は血脈の象徴でもあるので、血のつながり(親子関係・姻戚関係等)・師弟関係・組織の上下関係等を示すことによって秩序を保とうとする方法も、宇宙の大神さまとの根本的な脈統を示さない限りは、その徹底力は無いのであるから一時的な解決に終わるのであります。
 様々な宗教が種々の本尊や救済主をたてて、衆生の救済に当たっているけれども、未だ根本的な解決には到っていない状態も、宇宙の大神さまの根本的な愛の働きの全てが明らかに現れるまでは一時的であることを意味しているのであります。
 無限の種々なるエビカヅラノミを食欲に食い尽くすヨモッシコメは、言葉では表現できない・想像を絶するほどの、醜悪極まりない極端な利己主義者であることが示されているのであります、幾ら与えても与えても満足しない、欲望の燃え盛る状態でもあるわけであります。
 地球の内部の状態として解する場合は、地下の大動脈が、最初は大集団として各所に形作っていたものが、段々とその人脈が伸展していって、至る所に小さい固まりを構成しながら、太い条から細い線の状態に、紬く細くその人脈が分かれ伸びて、地球構成の度合いが整ってきている状態を意味しているのであります。
 伝統(ある民族や社会が長い歴史を通じて培い、伝えて来た信仰・風習・制度・思想・学問・芸術など)に囚われるのは、一種の非創造であり、一種の非自由なるものであります。
また改革と称して勝手気儘に伝統を破壊するのも、非創造であり、似非自由(えせじゆう)なのであります。
大神さまの御心(絶対)から出発して、創造・統一・自在・限定の四つの働きの循環で、瞬々刻々新たなる表現がなされる時、すべての問題は解決されるのであります。

47-1
また ささせる その みぎりの みみづらの ゆつつまぐしを ひき かきて なげうち たまへば

亦  刺其右御美豆良之湯津々間櫛          引闕而   投棄
すなはち たかんな なる こを ぬき はむ あいだに にげ いでます
乃    生笋     是抜食之間      逃行

右御美豆良之湯津々間櫛とは、和魂・水・植物魂である。
(左御美豆良之湯津々間櫛は  荒魂・火・動物魂であった。)

笋(たかんな) :筍(竹の子)であって、正義・素直・純直・清廉潔白・等の道徳律を
        象徴している。

 奇魂・天は葡萄状に投げられたのであるが、和魂・水は直線放射状に投げられて。笋となったのである。しかし道徳律をもって問題解決を図ろうとしても、根本解決にはならないということを示しているのである。
 和魂は植物魂であるから、この時に植物発生の因が地中に宿ったと見ることができる。

また のちには その やくさの いかづちに ちいほの よもつ いくさを そへて おはしむ
且  後者   於其八雷神       副千五百之黄泉軍       令追

八(やくさ) : 八種、八種類。
千五百(ちいほ) : せんごひゃく。物の数が非常に多いこと。数限りないこと。

@地球の構成上から見ると、地下火動脈を中心にして、幾多の要素が加わり、地殻や地
 層が構成され、土壌の成立が複雑に進行してゆく状態を示している。
A大宇宙においては、星雲が旋転運動を起こし、火力を中心にして幾多無量の要素がこ
 れに伴い、星団を構成してゆく経路を示している。
G地獄界における闘争の激烈な状態を示している。
C人間杜会における戦闘の事実を示している。

 「地」は金山毘古始めで、既に完成し与えられていて、次に「火」が与えられ、「天」が与えられ、最後に「水」が与えられたのである。伊邪那岐命としては、これ以上与えるべき何物も無いのに、黄泉国のすべてを総動員してなおも追って来ると言うのである。

48-1


かれ みはかせる とつかつるぎ を ぬきて しりヘで に ふきつつ にげ きませるを

爾  抜所御倨之十拳劔而       於後手   布伎都々 逃来
なほ おひて よもつひらさかの さかもとに いたるときに
猶追    到黄泉比良坂之坂本時
その さかもとなる もものみ みつ を とりて まちうちたまへば ことごとく にげかへる
取在其坂本    桃子三箇       待撃者      悉     逃返也

黄泉比良坂 :出雲(顕界)と伯伎(幽界)との境界にある比婆之山(顕幽の中枢)の坂
       であって、この坂を境界線にして顕幽両界が分かれたのである。
黄泉比良坂之坂本とは、幽冥の極であって、同時に顕明の極である。顕幽両界の極点である。これは天之御中主神の位置“絶対の「今・此処」”なのである。換言すれば、両界のマツリ(真の平衡)の分岐点であって、祭り(真の釣り合い)の斎場である。

十拳劔を後手に布伎都々というのは、神律を逆に使用する方式を示している。原理・法則を逆に応用する、逆使用の方式である。例えば 善い運命を創造してゆくためには、言葉を支配することによって心を支配し、心を支配することによって運命を支配してゆくというのが本来の方法である。これとは反対に、環境の善い場所に置いてあげることにより、心を善い心に変え、心を善い心に保つことによって、言葉を善い言葉に変えて、善い運命を創造してゆくというのは、逆使用の方法である。本心の立場に立てば、どのような環境に置かれても、言葉の力を駆使して、善い運命を自由自在に創造してゆけるのであるが、業想念の心の立場に立っていると、環境に影響されがちであるから、先ず善い環境を与えることによって心を整えさせ、言葉を整えさせるという方法が運命改善の為に採られることもあるわけである。”朱に交われば赤くなる”という諺は環境から知らず知らずの間に影響を受けて、善きにつけ悪しきにつけ自分自身が変化してゆくということを示しているのである。環境に左右されない強さを身につける為には、祈りに祈って本心の自覚を深めてゆくことが大切なのである。
伊邪那岐命の神策は、ここまでお出で!と逃げるように見せかげながら、実は順番に必要なものを与え続けて、最後にすべてを与え尽くして、黄泉国の完成・成就を招来したのである。顕界は感謝で受ける方法であるが、幽界は奪い取る方法で必要なものを受けてゆく表現なのである。すべてを既に与え尽くされているのに、それに気付かないために、感謝の心で受けずに、敢えて求め奪い取ろうとする姿をとっているのである。どのような表現を採ろうとも、岐美二神の神業は一貫した創造神業本来の決行であるわけである。

49-1


 桃子三箇には、大中小の三つあり、大は「地」・中「水」・小は「天」を示す・この三つを黄泉国の相に付着させると、黄泉国は秩序正しく整備されることになるのである。
つまり黄泉国の大整理・大整頓・大顕正・大潔齋がなされるのである。

 世の中の一切の紛糾・擾乱・苦悩・苦痛は、各々がその所を得ないところから生ずるものである。「あるべきものをあるべきところにあらしめる」「居るべき所にその各々を居らしめる」「必然の位置に安住して、その特能を発揮させる」「人時所三相応」「適材適所」「餅は餅屋」等の言葉のように、あるべきものを、あるべきままに、最も正しく、それぞれを安住せしめることが、一大顕正・一大整理であるのである。神々も、国々も、人々も、動植物も、あらゆる物事も、それぞれに個性・使命・天職・特性・特能が付与されているのである。すべてにその処を得させて、その安住を保証し、その天賦を発揮させ、その境地を至楽化し、至浄化し、安養浄土(阿弥陀の浄土に往生すれば、心を安んじ身を養うからいう)たらしめることが、桃子三箇の働きなのである。

桃子三箇とは、桃は至大天球即ちタカアマハラであり、その子は中心核即ち三大根本神力のタカアハラ・タアマハラ・カアマハラである。

タカアハラ −−八咫鏡の本源  −− 八咫鏡 −− 清明の明徳
タアマハラ −−八阪瓊曲玉の本源−− 八阪瓊曲玉 −仁慈の至徳
カアマハラ −−草薙劔の本源 −−− 草薙劔 −−−剛勇の武徳


天津金木の組み合わせにおいては、表面は顕界の表示・裏面は幽界の表示であるから・天津金木の相は黄泉比良坂之坂本に当たるのである。

円輸配列 −−− 八咫鏡の象徴  −−−  一大統一の保証
螺状配列 −−− 八阪瓊曲玉の象徴 −−− 無限創造の保証
雲状配列 −−− 草薙劔の象徴 −−−   自由自在の保証

桃子三箇は種々様々な姿をとって出現しては、その時その場における真の解決を図ってくれる神秘な働きをするものである。どんな難問に遭遇しても、快刀乱麻を断つが如くに、すべてを真の解決に導いてくれるものである。この桃子三箇の行事そのものが、次に起こる伊邪那岐命の禊祓いとなって具体化してゆくのである。

50-1
ここに いざなぎのみこと ももに のりたまはく いまし あ を たすけしがごと 
爾   伊邪那岐命    告桃子       汝如助吾
あしはらのなかつくにに あらゆるうつしき あをひとくさの
於葦原中國       所有宇都志伎   青人草之
うきせに おちて くるしまむ ときに たすけてよ と のりたまひて 
落苦瀬而    患惚時      可助告          
おほかむづみのみこと と いふ な をたまふ
賜名號意冨加牟豆美命

葦原中国 : 日の本の国。顕界。
宇都志伎 : (現し・顕し) 現実にある。現に生きている。
青人草 : (人のふえるのを草の生い茂るのにたとえていう。)民。民草。国民。
苦瀬 : (憂瀬) つらい境遇。苦しい立場。
意富加牟豆美命 : 意富は大であって、すべてを尽くすという義。
          加牟は噛むであって、咀嚼含味(よくかみ砕いて、物事の深い意味
          を味わう)という義。
          豆美は 〜の実という義。
 大神の実であって、絶対神のすべてを、それぞれの持つ大意義を咀嚼含味する
 無限無数無量の味わいのある実であって、すべてに大満足を与えるに足る実。

 憂瀬に落ちて苦しむのは、大神さまの御心がまだ十分に理解できていないためである。
大神さまの愛の御心を、その愛の働きを、理解して受け止めれば、一切の苦悩は消滅するのである。桃の実を咀嚼含味するということは、大神さまの御心を理解し受け入れるということである。今・此処、自分の置かれている場に安住できないのは、大神さまの愛の御心が何故に今・此処に自分を置いて下さっているのかという理由が理解出来ないためである。それでそこから逃げだして何かを遣い求めて術僅い歩こうとするわけである。今置かれている環境の中に無限の無限の幸せを見出さなければならないのである。一瞬一瞬の移り変わりの姿の中に大神さまの愛を感じ取り、無限の無限の幸せを発見しなければならないのである。地獄に置かれたら、その地獄の中にこそ大神さまの絶対の愛を感じ取り、無限の無限の幸せを味わうことが大切なのである。思い通りになることが幸せなのでは無いのである。大神さまの絶対の叡智の計らいに微塵も失敗は無いのであるから、すべての移り変わりを大神さまの御心に任せて、只只感謝と喜びの心で受けきってゆくことが大切なのである。大神さまの御心を正しく受け止めてゆくために、大神さまの愛の働きを秩序立てて理解することが、即ち禊ぎ祓いの行事が必要になってくるわけである。




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