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ふることふみにようこそ! 人目の訪問者です。参考文献、引用等は、水谷清 先生 著 古事記大講 です。
ふることふみ(古事記)
あめつち はじめ おこるのとき たかあまはら に なりませる かみの みなは あめのみなかぬしのかみ
古神道における六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)清浄の意義と作法について
眼清浄とは:
最も清浄で、かつ独神隠身の義を保っているのは白色なのであります、しかし色に交わっても色に汚れない修養が大切なのでありますから、色彩の三原色(または四原色)を凝視、即ち天津金木をもって最も意義の深い凝視的清浄観を行うのであります。
耳清浄とは:
鈴の音は単調ものであり、かつ音楽の基準となる第一音であるのであります。この澄んだ清らかな鈴の音を聞くことによってのみ、心耳を清め、聴覚を清浄にすることができるのであります。
鼻清浄とは:
高尚で清浄な香りを嘆くことによって、精神を統一し心霊の清浄を図るのであります。神社の境内の楠木(くすのき)、仏式で使う樒(しみき)、ギリシャ神話で最も尊ばれている月桂樹(げっけいじゅ)などは、自然に薫って清浄な気分を引き起こしてくれるものなのであります。香を焚くのもこの故なのであります。
舌清浄とは:
塩は最も単純かつ根本的な味を保つものなのであります。塩水を嘗めて、塩の味を正しく味わうことによって、精神を潔斎するのが舌清浄の作法(塩水の神事)なのであります。
お相撲さんが取り組み前に塩を嘗めることがあるのも、精神を清浄にして神さまに精神統一を図り相撲の奉納に集中するためであります。
身清浄とは:
水垢離、即ち冷水を以て身体を清めるのが身清浄の作法なのであります。冷たいという感覚は混濁した精神を引き締めてくれるものであり、清らかな無色透明の水は色々の汚穢を洗い去ってくれるものなのであります。
意清浄とは:
天之御中主神(絶対)の中に入ってこそ、はじめて真の意清浄は得られるものなのであります。意清浄は内から起こる所の清浄観でありますから、正しい神観・正しい宇宙観・正しい人間観・正しい人生観等が、心にしっかりと確立されなければ徹底しないものなのであります。俗神道の六根清浄大祓の祝詞には「・・・眼に諸々の不浄を見て、心に諸々の不浄を見ず、耳に諸々の不浄を聞いて、心に諸々の不浄を聞かず、鼻に諸々の不浄を嗅いで、心に諸々の不浄を嗅かず、口に諸々の不浄を言いて、心に諸々の不浄を言わず、身に諸々の不浄を触れて、心に諸々の不浄を触れず、意に諸々の不浄を思いて、心に諸々の不浄を思わず、・・・」とあるのでありますが、このように眼耳鼻舌身意と心とを二元的に見ていると、そこに争いが起き、矛盾が生じてくるものであります。眼に不浄を見てしまっているのは、自分自身が心に不浄を認めてしまっているからこそ見えているのであります。心に不浄を認めなければ、不浄が眼に見える道理が無いものなのであります。不浄を見ても心には不浄を見ないでおくというのでは、同じ心が不浄を認め、また同じ心が不浄を感じないでおくということになって、一つ心が二重に働いて矛盾するものなのであります。自分自身が心に神の真清浄の相をしっかり捉えて把握してこそ、心に不浄を一切認めないが故に、眼に不浄は観ることもなくそして一切見えず、一切のものは清浄に見えるのものなのであります。
せっせんげ しゅぎょうむじょうげ
雪山偈 (諸行無常偈)
しょぎょうむじょう ぜしょうめっぽう しょうめつめつい じゃくめついらく
「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽」
宇宙のすべて(諸々の移り行くもの)は、常に変化変滅していて一瞬たりとも同じ状態に止まることが無いのであります。是(これ)が生まれたり、滅んだりしているように見える現象世界の真実の姿・状態・働きなのであります。(以上前半)
私たちはこの儚い空しい現象生命に執着することをやめて、 「移るもの自ず移りて自ず消ゆ」 というように生死を達観し超越するとき、煩悩を脱却して、自由自在・真清浄の永遠の生命の自覚に到達し、法楽(無限の喜び)をもって活きるようになることができるのであります。
雪山童子〔釈尊が過去世において雪山(ヒマラヤ)で修行したときの名〕が修行中に、羅刹(鬼)がこの偈の前半を口ずさんでいるのを聞いて、後半も是非聞きたいと思って、是非とも教えて欲しいと頼むと、羅刹は「只では教えるわけにゆかない、お前の生命と引換えなら教えてやってもよい」と答えた。その偈の後半をどうしても知りたかった雪山童子はためらう事もなく、「もし後半の偈を教えてくれるのなら、教えてくれた後にこの身体を差し上げよう」と約束した。そしてその偈を聞いた後に、羅刹にその身体を食われたのでありました。真理を求める者の態度はこのようでなければならないのであります。(冷や汗三斗であります)
いろは歌(47字)は「雪山偈」の意を表している。
色は匂へど散りぬるを我が世誰ぞ常ならむ有為の奥山今日越えて浅き夢見じ酔ひもせず。
永遠の生命を自覚(悟りを得る)するためには、移り変わる姿に囚われなくなることが必要でなのあります。現象生命に執着したままでは、永遠の生命を自覚することは不可能なのであります。
自分の思い通りに生きようというのは、想いを巡らせて自分の発した想念の霧の中に迷い込んで自らからの業想念の奴隷になっている状態でありまして、神さま以外の他に求める心が少しでもあったら、移り変わる姿に囚われてしまっているわけであります。真理に・神さまに自分を与え尽くすことによってのみ、現象生命に執着している自分が消えて無くなるのであります。
古神道では至忠・至孝・至悌の生き方、絶対神への絶対奉仕が悟りへの道であり、絶対神の導きのままに、他への奉仕(謹んで献身する)を徹底的に実践してゆくのであります。
宇宙絶対神は唯一無二の完全無欠の存在であります。それ故に宇宙絶対神の表現は、必然に大調和の相象となるのであります。それが大和なのであります。大和のことを「ヤマト」で呼ぶのであります。
ヤとは:
八〔八方(全方向)、分かれる(末広がりに)、分け与える、左右の両線は相対の両極を示す、ハツの音は初発を意味する、無限伸展〕であります。
弥〔いよいよ(弥栄イヤサカ)、ますます(弥増イヤマス)、ゆきわたる、覆い尽くす、久しい、深い、大きい、あまねく、きわめる、多くの(弥生ヤヨイ)〕であります。
矢(生命像、宇宙を貫くもの、真っ直ぐな、正しい、的を射る〕であります。
マとは:
真・実・忠・誠〔まこと、まごころ〕
舞・巻・回・卍〔左旋右旋舞い降り、舞い昇る〕、
交・混〔まじわる、まぜる、まじる〕
完・全〔まつだい、まっとうする〕
祭〔真釣り合わす、真理・神の心と一つになる〕
的〔中心、中心に集まる、中心を貫く〕
円・丸・満〔まどか、丸い、円満〕
纏〔まとう、まとめる〕等の意味であります。
トとは:
図・所・殿〔図形、組織紋理、場所〕
度・常〔度重なる、無限の繰り返し、とこしえ、永遠〕
尊・貴(とうとい、とうとぶ〕
均・整・謂〔ととのう、ととのえる〕
止・滞〔とどまる〕
富・豊〔とむ、とよ、無限の種類、無限の変化〕の意であります。
宇宙絶対神の成りませる最高理想の表現とは、真(至忠)・善(至孝)・美(至悌)・聖(至忠至孝至悌の三つが一つになったもの)の相象であります。その相象を大和(ヤマト)と言うのであります。絶対(中心)より出でて、相対(表現・相象)となり、再び絶対へ帰ってゆく、この無限循環が宇宙の根本神律であります。それ故にすべての相象には中心があり、その中心からすべてが派生し(根源から分かれ生ずること)、その派生したものはすべて中心に帰一してゆく。この無限循環の相象(一なるものが全体を活かしている)が大調和(ヤマト)なのであります。無限に小さいものから、無限に大きいものまで、それぞれのヤマトが同心円的に、多重構造的に存在し、一大ヤマトを構成しているのであります。
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