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.17.18.1920.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.32.33.34.35.36.37.38.39.40.41.42.43、44、45 46 4748。49 50 51
ふることふみ(古事記)
あめつち はじめ おこるのとき たかあまはら に なりませる かみの みなは あめのみなかぬしのかみ
53一1
伊邪那岐命の黄泉行の物語は、私たちに何を示唆しているのだろうか?
@私たちの肉体の生死の実際の姿、死後の実情を示している、霊と体とが一旦分離されると、肉体は死して、腐乱しウジタカレの醜悪な状態を呈するものである。その後、再び霊魂が肉体を慕って、r霊体和合の復活を願っても、体は霊の来迎を忌み拒んで応じようとしないのである。そこで体に対して、「火」・「天」・「水」を与え、更に桃子三箇を待撃ことによって、本来の元素に復帰させるのである。そして霊魂自らも過去を洗い流し、全く新たに、再び電体和合を図って、新生してくるのである。
A私たちが霊的な生き方を見失い、物質欲の奴隷となった状態を黄泉の状態と見ることが出来るのである。物質欲は止まる所を知らないのである。手に入れても入れても、ますますその欲望はエスカレートして、より多くのものを求め続け、決して満足するということはないのである。それ故に、必然の道理として、求めても手に入れることが出来なくなる所から、不平不精慣怒擾乱闘争が生じてくるわけである。それは地獄道・餓鬼遺・修羅道の姿、暗黒世界の状態である。物質欲(財産欲・名誉欲・食欲・色欲・睡眠欲)とは、この世への執着から生ずるところの想念感情の心、即ち業想念の心のことである。霊的に生きるとは、本心の心をしっかりと生きることである。人間が業思念の奴隷状態に陥った後、本心の力が順次に加えられも、業想念の力はますます大きくなり、本心を圧迫し続けるのである。
ついに最後のどうしようもない土壇場に来て、桃子三箇に象徴される絶対神の根本神力の助けを受けて、やっと業想念を追い払うことができるわけである。そして業想念の「死」を代表とする威嚇に対しては、本心は「新たに生まれる・新生」をもって、霊の権威と生の発揚を示し、最後の勝者であることを宣言するのである。
B夏期の熱気が漸次地中に潜入してゆくのが、伊邪那岐命の黄泉行である。逆に地中の熱が寒い大気中に放散されてゆくのが、黄泉醜女に追われて逃げてゆく状態である。春分と秋分が冷熱の交代の境であって、この聞に潜入熱と地下熱との複雑な交渉や、様々の出来事が起こるのである。
C宇宙大劇場における、生と死の一大ドラマの姿である。
一切を主観(認識される対象を客観、認識する側を主観という)すれば、すべてのすべては我が内に存在しているものである。
本心の自分は主客一如の当体であり、絶対神と一体のものである。
岐美二神の神則に基づく「神避」(かみさります)は一切のものを見舞うのである。
ぼんやりしていたら、輪廻転生の渦巻きの流れに翻弄されて、地獄に落ちてしまう。
しっかりと活眼を見開いて、一大ドラマを楽しむ自分でなければならないのである。
53-2
ここをもて いざなぎのおほかみ のりたまはく
是以 伊邪那岐大神詔
あは いな しこめしこめき きたなき くにに いたりて ありけり
吾者 到於伊那志許米志許米岐穢國而 在祓理
伊邪那岐神とか、伊邪那岐命という御名がこれまで使われてきたのでありますが、今ここで伊邪那岐大神という御名がはじめて使われているのは、黄泉津大神の御名に対応したものであり、顕界大神(うつしくにおほかみ)であることを標榜(公然とかかげあらわすこと)しているのであります。本来、岐美二神は不離一体の神さまなのであり、一つの神さまの表と裏(前と後)の関係にあるのであります。だから一つの創造神として見るときは、表に当たる伊邪那岐神だけが存在しているわけであって、伊邪那美神は伊邪那岐神の中に包摂(あるものがより大きなものに包括され従属する関係)されているのであります。ただ表裏・顕幽・生死・善悪・美醜・・・等々、相対的に差別的に見る場合に、黄泉津大神と顕界大神というように二神を並立させて、両立して見るのであります。顕幽生死を一如して見るときは、絶対神である天之御中主神のすべてを継承しているのは、伊邪那岐大神であるわけであります。
伊那 :嫌な・異な・否で、見るのも嫌な・異常な・否定したくなるという義。
志許米志許米岐 :醜目・醜女・醜めで、醜悪の上に醜悪を重ねた、何とも形容の出来ない、醜穢(醜く、汚らわしい)の限りを尽くしているという義。しこめ⇒小さくかたまったもの
穢國 :穢い(汚い)は、
@触れるのも嫌な程、汚れている。
A邪で正さが無い。
G卑怯で恥を知らない。
C野蛮で下品である。
D乱れ切って手のつけようが無い。
Eけちで与える心が無い。 汚穢の国、罪悪の国、地獄・餓鬼・畜生・修羅の国であって、光明・悦楽・清浄・秩序・統一・等の一切を失い尽くした紛糾穢乱の極の国。
きたな⇒気が立たない(まっすぐ通らない)
在祓理 :「けり」は、過去のある事実が真実であったことを新たに認識し、はっきり心に刻みつけるのが本意で、思えば〜なのだなあ、と詠嘆的に使う。
伊邪那岐大神は黄泉行について、二度と思い出したくも無い、嫌な出来事というようには考えていないのであります。逆にその事実をしっかりした真実として、新たに認識して受け入れ、決して忘れることのないように、はっきり心に刻み付けようとしているのであります。
これは絶対神の全徳を無限の無限の大光明として感受するには、幽界のどん底から光一元に仰ぎ見ることが絶対に必要な心構えであることを示しているのであります。
⇒すごく大事な事で、過去の掴みを放すポイントとなるのであります。
54-1