あめつち はじめ おこるのとき たかあまはら に なりませる かみの みなは あめのみなかぬしのかみ
乃匍匐御枕方 匍匐御足方 而哭時
みなみだに なりませるかみは かぐやまのうねをのこのもとにます
於御涙 所成神 坐香山之畝尾木本
みなは なきさはめのかみ
名 泣澤女神
伊邪那美神がその向上・伸展の働きを火性神に委任して、ご自身は本来の内聚神力である本質に戻るために、根国底国の暗黒界に向かわれることになった。当然伊邪那岐神も本来の発射神力である本質に帰るべき所を、未だに妹神を恋慕う余り、下方に向かって横に匍匐っているのである。
ナキ・ナクは名(ナ)の極(キ)であって、コトバの限りを、最も痛烈に発することである。感極まって言うところを知らない、言うに言われぬ一切無量の念を表現するところの、唱え得る極限のコトバが突くである。従って突くということは、一切の問題を解決する力である。子供も泣けば、何事もそれで直るのであり、苦痛も泣げば和らげられる。
伊邪那岐神は悲痛の極にあって、哭くことによって、無量歓喜の極に立つわけである。
涙ほど美しいものはない。涙には同悲同喜の愛の結晶が美しく輝いているのである。涙は浄めの働き、干天の慈雨、甘雷の法雨。
カグヤマとは、@大は天体から小は原子に至るまで、全大宇宙に存在するカガヤク団体的組織を指す。A地球上面のカガヤク山、噴火山を指す。G人体における鼻、嗅ぐ(カグ)山を指す。
畝尾之木本とは、人体では畝尾は鼻柱で、上方には木本として目が涙の源としてあり、
下方には木本として鼻の穴が気息の本としてある。また口が泣くことの源としてある。
地上では噴火山の麓に沢があり、肥沃な土地が広がっていて、生物発生の準備が整えられ
ている。
泣澤女神とは、澤女はサハアメで、降雨の神、慈雨の神である。雨は天地の涙であり、慈母の涙であり、動植物を養う大慈愛のいのちの乳・恵みである。また泣澤女神は海神である大綿津見神の妹神である。熔岩が地層を破って噴火する時代に、新生命を生み出すためには、海の女神としては噴火と問い、鋭い叫び声を揚げつつ、重大なる任務を果たす必要があるのは当然である。一切が死滅してゆく無限の悲痛の中にも、一切を生み出す無限の歓喜があり、地獄に落ちてゆく同胞の姿に悲痛の涙を流しつつも、神の大愛の摂理を思う時、無限の感謝と喜びの涙が湧き上がってくる。これ泣澤女神の御多であるのである。
36-1
かれ そのかみさりまする いざなみのかみは いづものくにと ははきのくにとの
故 某所神避之 伊邪那美神者 葬出雲國 與伯伎國
さかひ ひばのやまにかくしまつる
堺 比婆之山也
出雲 : 出(イヅ)は上部に顕れているという意義。
火性に蒸された水性が、雲となって上部に顕れているので・甲雲と言う。
出雲は上地輪から上の方を指すので、顕界である。
伯伎 : 伯(ハハ)は母を意味し、伎(キ)は本拠・根拠地を意味する。
母の国・根の国・底の国・物質の本拠地である。
伯伎は下地輪から下の方を指すので、幽界である。 、二
本来 顕幽一如であって、出雲国も伯伎国も常寂光土なのである。ところが此処に両界を区分して、出雲と伯伎という二つの御名が現れ、一種の分域が設けられることになり、両界の確執(自分の意見を固く主張して譲らないこと。また、そのために双方の闇が不和
になること。)によっては、闘争や罪悪の発生することが予想されるのである。霊主体従
であるとか、体生霊従であるとか、霊と体とが対立するのは、霊体不二の妙諦が二界に区別することによって見失われるからである。霊と体の調和が仮に破れて、一時的に不調和に陥ることがあっても、その不調和を再び調和に回復するそのときには、前のとは違った
決して破れることのない調和をそこに見出すことができるものである。従って両界の確執
は、更に素晴らしい創造のための跳躍台となるのである。
比婆之山 : ヒバノヤマはヒハハノヤマである。ヒは等しいと言う義で、ハハは双方
に展開すると言う義である。従って、顕幽の双方に等しく展開する・顕
幽の双方に偏しない・等分量の中枢・顕幽の中枢という意義である。
伊邪那美神がこの比婆之山に安住している限りは、天秤のバランスはとれているので、
何らの問題も起こることはないのである。しかし、より大いなる調和を求めて、中心から
離れて動き出すとき、必ず一時的にバランスは崩れる。そして再びバランスを取り戻した
ときには、より大きな調和がそこに生まれているのである。調和から不調和へ、不調和か
ら調和へ、と繰り返すことによって、より大いなる調和が創造され続けるのである。
37-1
ここに いざなぎのみこと みはかせるとつかつるぎをぬきて
於是 伊邪那岐命 抜所御佩之十拳劔
そのこかぐつちのかみのみくびをきりたまふ
斬其子迦具土神之頸
ここに みはかしのさきにつけるち ゆついはむらにたばしるつきて
爾 著其御刀前之血 走就湯津石村
なりませるかみのみなは いはさくのかみ つぎに ねさくのかみ つぎに いはつつのをかみ
所成神名 石柝神 次 根柝神 次 石筒之男神
つぎに みはかしのもとにつけるちも ゆついはむらにたばしりつきて
次 著御刀本血 亦走就湯津石村
なりませるかみのみなは みかはやひのかみ つぎに ひはやひのかみ
所成神名 甕速日神 次 樋速日神
つぎに たけみかつちのかみ またのみなは たけふつのかみ またのみなは とよふつのかみ
次 建御雷之男神 亦名 建帝都神 亦名 豊帝都神
つぎに みはかしのたがみにあつまるち たなまたより くきでて
次 集御刀之手上皿 自手俣 漏出
なりませるかみのみなは くらおかみのかみ つぎに くらみづはのかみ
所成神名 聞淤加美神 次 闇御津羽神
十拳劔 : 十・十字・X型(クスナリ)でクサナリの剣である。それは栄枯盛衰治乱
興廃得失存亡安危閑争の16性相を司掌し、顕幽生死の巷に立って、無限
の調和の活現を図るところの活火剣・大活剣である。
ツカ(握ったときの四本の指の幅ほどの長さ)程のものは、手の内で自在
に操れるものであるから、アマツカナギ・天津金木をも意味する。
天津金木の雲状配列(十字配列・X字配列)を始めとして、その中に見出
せるところのものである。
伊邪那岐命の御自体が十拳剣である。それで御佩(みはかせる)・帯びている・一体化
している・一体である、というのである。
鑚る(きる) : 金と石ど、木と木となどを烈しく打ち合わせ、また、すって発火させる。
火は切り分けることによって、いよいよ燃え盛るのである。火は斬ることによって、その威力を伸展させることができるのである。火を押し込めることは、火を消すことであり、火を殺すことである。火を愛するとは、火を切ることである。それによって、自由奔放なる威力を発揮させることができるのである。
伊邪那美神の愛は火の神に委ねられ、切られることによって、その愛は熱火の如く燃え盛り、一切万有の中に浸透していって、その発動を促してゆくことになるのである。
愛に種々相あり。甘えかす愛は小さな愛である。峻厳な愛こそ大きく生かす愛である。
一見残酷に見える麦踏み(早春に麦の芽を足で踏むこと)も、麦の徒長を押さえ、根張りを良くして、実りを多くするものとすれぱ、これ麦の本心の力を引き出す愛の姿である。
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