00.01.02.03.04.05.06.07.08.09.10.11.12.13.14.15.16
.17.18.1920.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.32.
33.34.35.36.37.38.39.40.41.42.434445 46 474849 50 51

 


ふることふみにようこそ! カウンター人目の訪問者です。参考文献、引用等は、水谷清 先生 著 古事記大講 です。

ふることふみ(古事記)

あめつち はじめ おこるのとき たかあまはら に なりませる かみの みなは あめのみなかぬしのかみ

ここに そのいもいざなみのみことを あひみまくおもほして よもつくにおひいでます
於是  欲相見其妹伊邪那美命               追往黄泉國

黄泉國とは、  黄泉(こうせん) :中国で、地の色を黄に配するところから、
      {           地下の泉、死者の行く所。       }
        黄泉(よみ) :ヤミ(闇)の転訛、ヤマ(山)の転訛。
                死後、魂が行くという所。

本来、霊的生命の存在する顕界に対して、物質的生命の存在する幽界を指す。
ヨモツクニを”死者の国”というのも、霊的生命を失ったものの行く所という意味。
顕界と幽界はまた相対的に現れたプラスとマイナスの両極を指し示すものであるから、霊的な光明世界に対して、体的な暗黒世界が幽界即ち黄泉國に当たるものである。相対的に振り分けたプラス面に対して、マイナス面のすべてを黄泉國と見ることができるのである。

顕界 :霊・生・光明・天国・愛・自由・健康・調和・統'・真・清浄・・・・
幽界 :体・死・暗黒・地獄・憎・束縛・病気・闘争・分裂・偽・不浄・・・

 岐美二神の創造は無限の無限でなければならない。光明世界の伸展に対して、必ず暗黒世界の開拓が必要である。光明世界と暗黒世界の両方を光一元に暉かしてこそ、光の無限の無限の表現がそこに創造されるのである。天国浄土に対しては、黄泉國の地獄穢土が顕示されて、その黄泉國をも大神さまの全徳で光一元に輝かしてこそ、すべてを尽くした完壁な表現と言えるのである。偉大なるかな! 岐美二神の創造 !
 霊と体が分離するときは、霊は天に登り、体は地に帰すのが本来の姿である。ところが霊魂を主体となす伊邪那岐神は、肉体を主体となす伊邪那美神を、恋慕の情忍ぴ難くて、どこどこまでも追って行き、霊と体の和合を求め続けられるわけである。霊が体を恋い、体が霊を慕うのは、天地初発の神聖恋慕に基づく神律であって、タカアマハラのミウムスビの根元をなすものであり、岐美二神の無限創造の原動力である。この切実で深刻な神聖恋慕の性相が、万神万生万有を発生させる根源であり、宇宙のあらゆる出来事の根本要因となっていて、高天原が複雑無限の種々の性相を発揮し、無限の活動性を現出してゆくのである。

41-1

すなはち とのあがりどより いでむかへますときに
爾    自殿騰戸     出向之時
いざなぎのみこと かたらひたまはく うつくしき あがなにものみこと 
伊邪那岐命    語詔之      愛     我那邇妹命
あれ みましと つくれるくに いまだつくりをへずあれば かへりませとのりたまふ
吾興汝     所作之國   未作竟故         可還

 殿とは八尋殿のことである。イヤヒロドノの螺状旋回には、中心から昇る(外発する)道と、外方から降る(内聚する)道とがある。昇る道は”タカアハラ”であり、降る道は”タアマハラ”である。
 戸とは、内と外との出入りのための関門のことである。下から見れば、昇るときの戸であるから、騰戸である。顕界から幽界に、幽界から顕界に出入りするための門戸である。
それでは、この戸は一体どこに有るのかと捜しても、どこにも無いのである。一点集中の極に達したときに現れる”無の門関”のことである。
 二直像の交差図において、一方から交点の反対側に移ろうとする場合、二直線は交点に向かって絞り込まれてゆき、その極に一点(交点)となったとき、そこを通過して反対側に移ることができるのである。これが他界に入る為の根本原則である。他界に入り、他界を直視するには、精神を一点に集中して、その集中が極点に達したとき可能になるのである。精神集中の修行は、一意専心・一心不乱・全力集中・一所懸命・凝念・無念無想無我無心の修行である。これに習熟することによって、顕幽自在交通が可能となり、真の自由自在を得るのである。
 ここでは伊邪那岐命は上天より降る道を辿って下降して幽界に出向かれるのである。

 未だ作り竟へずというのは、創造神業にはこれでお終いというような完了期は無いという意味である。永遠に無限の創造は続けられなければならないのであるから、二神が分離して、一時的にも創造神業に支障を来すことがあってはならないわけである。創造神業とは常に二神のミウムスビなのであるから、どんなに二神が分離したように見えても、決して分離することなく、密接不離の関係を保ち続けていることを示しているのである。勝手に離れて去ってゆくのだから仕方がない、ハイこれまでよ、というようなことは二神の間では考えられないのである。どんなに遠く離れたように見えても、心はしっかりと愛によって結ばれているということを、”還りませ”という神聖恋慕の表現によって示しているのである。

42-1

ここに いざなみのもこと こたへたまはく くやしきかも はやきまさずて 
爾   伊邪那美命    答白      梅哉不速來  
あは よもつぐひせり
吾者 爲黄泉戸喫
しかれども うつくしき あがなせのみこと いりきませること かしこければ 
然     愛     我那勢命     入來之事     恐故
かへりなむを しばらく よもつかみと あげつらはむ あをなみたまひそ
欲還     且    與黄泉神   相論     莫視我

 黄泉戸喫(よもつへぐひ)とは、上向きのものが下向きになる、昇相が降相に変ずる、即ち、中心より螺旋を描いて上昇していたその方向を転じて、下向きとなって中心に向かうということである。伊邪那美命はタアマハラ本位の神性であるから、下向きになって中心に向かうのが本来の姿である。ところが伊邪那岐命のタカアハラ神力に促されて、上向きの神業をお互いに助け合って営んできたわけである。そして今や火神を産むことによって、上向きの神業は火神に譲り、自身はヨモツヘグヒして本来の下向きの神業に戻ることになったのである。このことは、ある一面から見れば、向上を放棄した堕落にも見え、又ある一面から見れば、霊肉調和のミウムスビを失ったようにも見えるので、悔哉と言われるのである。しかし、実のところは火神がそのすべてを代行しているわけであるから、更に創造神業を大きく推進してゆくための必然の行動であり、私心の全く無い”神ながら”の行動であるのである。
『愛』我那勢命と呼びかける言葉には、伊邪那美命の伊邪那岐命に対する『愛』が、どのような時にも決して壊れることのない、永遠不減の真実の愛であることが示されているのである。(なせ:女から男を親しんで浮ぶ称。あなた。)
 伊邪那美命自身としては、恋慕の至情忘れ難く、還りたい気持ちで一杯ではあるが、今や顕幽の二界に分かれ、幽界に国を建て、分離続治の制が開始された上は、黄泉国の統主として、何事も黄泉国の神々の評議決定を必要とする(即ち熟慮を必要とする)ので、自分勝手に即答は出来ない立場に置かれているわけである。伊邪那美神が黄泉国そのものであり、黄泉神そのものであり、黄泉の一切であるから、伊邪那美神が黄泉神と相論というのは、自問自答ということである。伊邪那美神の中に八百万の黄泉神がいて、そのすべてが集い評義決定するというのは、伊邪那美神の心の中の種々の考えを整理して、その考えを縮める纏めるということなのである。沈思熟考して自分の考えを整理し纏めるから、干渉せずにそっとして置いてほしいというのが、莫視我ということである。
 顕界と幽界とは、形と影の関係であり、天津金木の上では、表と裏の関係である。顕界に八百万の神が存在すれば、幽界にも八百万の神が存在しているのである。

43-1

かく まをして そのとのうちにいりませるほど いとひさしくて まちかねたまふ
如此 白而   還入其殿之内間        甚久      難待


 八百万の黄泉神がすべて集って、それぞれの立場から異なる意見を主張し合うのであるから、その意見を一つに纏めるのは、不可能なのである。多数決の原理で決定するにしても、それぞれの意見を聞かずに無視するということは、デモクラシーに反するわけであるから、一応は皆の意見も聞かなければならない。そうしているうちに時間はどんどん経って、緊急時には間に合わない、対処できないということになるのである。本心の心をしっかりと生きている者同志では、お互いの意見を纏めるのは容易なことである。というよりは、最初から神さまの御心のままに一つに統一されているのであるから、瞬時にしてお互いの意見は一つに纏まるのである。反対に業想念の心を生きている者同志では、それぞれが自分の立場を固執して、自分の意見が一番正しいものなのだと主張し、すべて自分の思い通りにしようと頑固に抵抗するので、纏まりようが無いのである。無限・永遠を理想とする伊邪那岐命にとってすら、その待っている時間がいと永く久しいと感じられたのである。
 顕界と幽界とは体系を異にしているので、時間・空間の感じ方が正反対で極端に違うのである。。顕界では心の空間は拡大し、幽界では心の空間は縮小している。従って顕界では時間は緩やかに流れ、幽界では時間は遠く流れる。だから顕界の一日が幽界では何年・何万年・何億年に当たるかも知れないのである。楽しい時には時間の経つのも忘れて、時間は余り経過していないように感じられ、反対に苦しい時には終わりの時間が速く来て欲しいと思うのに、時間の経過は遅く遅く感じられ、長い長い時間が経ったように感じられるものなのである。浦島太郎が龍宮城で3年間過ごしている間に、この世では300年もの長い年月が経過していた、という物語はこの一例である。龍宮城ではこの世よりも心の空間が拡大していて、楽しい素晴らしいもので一杯なので、時間が緩やかに流れる世界であるわけである。
 伊邪那岐命は顕界から幽界にやって来たわけであるから、幽界ではその待っている一日が何万年・何億年もの長い年月に感じられるのである。また顕界と幽界では何事も正反対となる。幽界のしぱらくは、顕界では長いということになるのである。
 時空一如であって、時間と空間とは相対の両極である。空間が拡大すれば、時間は縮小し、空間が縮小すれば、時間は拡大する。時間と空間の感じは反比例しているのである。

44-1

かれ ひだりのみみづらにささせる ゆつつまぐしのをばしら ひとつ とりかきて
故刺左之御美豆長湯津々闇筍之男桂一箇取閉而
ひとつびともして いりみますときに
燭一火入見之時
うじたかれ とろろぎて かしらには おほいかづちをり むねには 
宇土多川程許呂呂岐昌於頭者大雪居於胸者
ほのいかづちをり はらには くろいかづちをり
火雷屠於腹者黒雲居
かくれには さくいかづちをり ひだりにみてには わかいかづちをり
於険者振雷居於左手者春雷居
みぎりのみてには つちいかづちをり ひだりのあしには なるいかづちをり
於右手者土雷居於左足者鳴雷居
みぎりのあしには ふしいかづちをり ならびやくさのいかづちがみ なりをる
於右足者伏雷居井八雷神成居


湯津 :ユは行き来する義から、普遍的に充塞するという意味。沢山の。
津間櫛 :歯の細かい櫛。天津金木の配列された状態を指している。
男柱 :櫛の歯の左右両端の大きな歯。
御美豆良 :耳鬘(みみつら)古代の男子の髪の結い方。頂の髪を中央から左右に分け、      耳のあたりでわがねて緒で結び耳の前に垂れたもの。

 伊邪那岐命の湯津々間櫛には、大別すると四条(奇魂一条・荒魂一条・和魂一条・寝魂一条)の男柱がある。この四つの内で、強い力と烈しい勢いを保っている荒魂が、この度の黄泉国の内部を探索する斥候の役目に適している。そこで伊邪那岐命は自己の所持する荒魂を先導に立てて、僅かな霊火を頼りにして、黄泉国の内部に入ってゆくのである。

 宇土多加禮 許呂呂岐弓 :霊肉が分離すれば肉体は死ぬのである。その後 死体は醜悪極まりない地獄絵図の相を現すわけである。これを蛆虫が無教にたかっている状態、とろろのようにドロドロしている状態というわけである。霊の統一を失ったために、真・善・美・聖が存在しなくなった状態、これが地獄の相である。混乱の極・紛糾の極・雑然の極・騒擾の極・不調和の極の名状しがたい状態である。ジグソウパズルの無限のピースを目茶苦茶に無理やり配置したようなものである。一つ一つのピース自体は完全なもので、他とはそれぞれに一味違う個性ある最高傑作である。ただその配置の仕方に問題があるだけである。プラスの極の相は一っ残らず適材適所に正しく配置された状態であり、マイナスの極の相はその反対に、正しい場所から一番遼い所にそれぞれが配置された状態であると言えるのである。だからこそ地獄も神さまによって創造される最高傑作なのである。
45-1


雷の神の霊

 大屋毘古神
《雷の神の全神性を八大分類》  八大地獄の性相

大雪 → 頭  アフリカ大陸における地下火動脈
火雷 → 胸  イラン高原、インド半島の地下火動脈
黒雲 → 腹  ヒマラヤ山脈、インドシナ半島、中国、モンゴル高原の地下火動脈
柝雷 → 陰  日本の地下火動脈
若雷 → 左手 マレー半島からオーストラリアにかけての一連の群島の地下火動脈
土雷 → 右手 フィンランド、スカンジナビア半島、イギリス諸島の地下火動脈
鳴雷 → 左足 北アメリカ大陸南部、メキシコ、南アメリカ大陸の地下火動脈
伏雷 → 右足 北アメリカ大陸北部、グリーンランドの地下火動脈

 大雷圏から伏雷圏までは、八大地獄の各圏の現象である。各圏はそれぞれに異なった本質・性相・意義を保っているのである。地獄とは、宗教者が悪事を防止するために案出したものでも無く、また人間の脆弱な心が作り上げた単なる妄想でも無いのである。宇宙の秩序・根本構成の厳然たる一部分なのである。

 地球の構成上の状態と見るときは、地下熱の発動によって、上層の地層が破砕され、海水は沸騰して煮え繰り返り、土と水と火が大混乱の状態、名状しがたい騒擾の状態になっていると解釈するのである。
 人体に当てはめて見るときは、一つ火灯してが精子の子宮内部への進入を意味し、以下子宮内の状態・妊娠状態と解釈してゆくのである。
 人体内部の血管・動静脈と見ることもできる。


00.01.02.03.04.05.06.07.08.09.10.11.12.13.14.15.16
.17.18.1920.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.32.