00.01.02.03.04.05.06.07.08.09.10.11.12.13.14.15.16
.17.18.1920.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.32.
33.34.35.36.37.38.39.40.41.42.434445 46 474849 50 51
ふることふみにようこそ! カウンター人目の訪問者です。参考文献、引用等は、水谷清 先生 著 古事記大講 です。

ふることふみ(古事記)

あめつち はじめ おこるのとき たかあまはら に なりませる かみの みなは あめのみなかぬしのかみ

十二因縁(じゅうにいんねん)

 衆生が過去の業により現世の果報を受け、また現世の業により未来の果報を受ける因果の関係を十二に分類して説いたもの。順次に前のものが後のものを成立させる条件となっています。

@無明 :過去世からの迷いの根本である無知。
A行  :無明(無知)の故に作った善悪の行業。
G識  :過去世の業によって受けた現世の受胎の初一念。
C名色 :母胎の中で心身の発育すること。
D六処 :眼耳鼻舌身意の六根が具わって、まさに母胎を出ようとすること。
E触  :2〜3歳のころで、苦楽を識別することなく、物に触れること。
F受  :6〜7歳頃から苦楽を識別して感受するようになること。
G愛  :14〜15歳以後、種々の飽くなき欲望があらわれること。
H取  :成人以後すべてを我がものとして取り込もうと執着すること。
I有  :愛取の煩悩によって種々の業を積み、来世の運命の原因となること。
J生  :今生の業によって、来世の生まれ変わりが決定されること。
K老死 :老い死して、この世から消滅すること・


62-4一A

つぎに つくよみ の みこと に のりたまはく 
次   詔月讀命            汝命者
なが みこと は よる  の をすくに を しらせと ことよさしたまふ
所知夜友之食國矣            事依也

月讀命は天照大御神の神徳の半面を表現する神なのであります。天照大御神は高天原のすべてを統治する神でありますから、高天原の順流と逆流の両方を統治する神なのであります。天照大御神を説明するのに、表裏の両方を説明すればよいのかも知れないのですが、普通は表裏の表だけを本位として説明することによって、当然裏面をも保持していることを、暗黙の内に了解しているわけなのであります。従って天照大御神はタカアマハラ神であると言えば、当然裏面をも摂取して兼ね顕わしているのでありますから、天照大御神はラハマアカタ神であることをも示しているわけなのであります。それゆえ天照大御神の裏面に当たるラハマアカタ神を月讀命とそのはたらきに名をつけて呼ぶわけなのであります。
だから天照大御神と月讀命は根本において一体であり、その関係は、表裏の関係・順逆の
関係・明暗の関係であるのであります。

〔1〕月讀命はマアカ神であります。

高天原順流は神力で、逆流は神相なのであります。
マアカは全・大・多・勝・等を含有する円満具備という意義でありますから、月讀命がマアカ神であるということは、その神相が円満完全であるということなのであります。
月の満ち欠け(月の見掛けの形の変化)で言えば、満月がこれに該当しているのであります・

〔2〕月讀命はマタ神であります。
叉・股・跨(また)とは、一つの本から二つ以上に分かれ開いているという意義。
新月から満月に、満月から新月に移り変わる形の中に、無限の妙趣あるマタの相が表現されているのであります。一切万有の基準相を顕示しているものであります。

〔3〕月讀命はカタ神であります。
カタは片であり、揃えば対となるものの一方、半面を意味するのであります。
上弦(新月から清月に至る間の半月)と下弦(満月から新月に至る間の半月)の二つの相がこれに該当しているものであります。

〔4〕月讀命はラハ神であります。
ラハは螺波であり、螺旋状の波であります。月の満ち欠けを緑でグラフに表示すれば、螺波線として描かれるのも、ラハの端を示しているわけなのであります。
ラハは常にマアカ・マタ・カタと不離一体となって働いているのであります。

63-1

〔5〕月讀命はラハマアカタ神であります。
一切を尽くした、無限無教の神相(形・容・状・型・象・姿・体・態・貌・等)を悉く総合した、万有諸相の根本容相・基準相であります。

 月讀命の表す種々相は、天照大御神(光明の大本源太陽)・月讀命(光明を反映して、種々相を発現−−月)・建速須佐之男命(種々相を眺め、かつそれを通して光明の大本源を認めてゆく−−地球・人) の三神連立の本義から生まれ出ているものであります。月の満ち欠けから推断されるように、太陽だけでは、月だけでは、地球だけでは、この現象は起きないのであります。三者が揃ってこそ、この妙趣ある現象は発現するわけであります。

 月讀命は天照大御神の分身であり、夜食國を照らす所の天照大御神であります。天照大御神(左目より出生)と月讀命(右目より出生)は昼夜の両眼(眼目・中心)である。闇夜においては、月光こそが私たちの慕う光明jなのであります。暗黒世界に呻吟するものにとっては、月に象徴される月讀命の偉大なる慈愛の光明こそが、無限の価値ある懐かしい慈母なのであります。月讀命は闇の世界を導くところの一切の宗教の根源となすものであります。しかし月そのものには、光の本質は無いのであるから、月は真の光明(太陽)に導くところの道案内者に過ぎないものであります。月讀命を透して、天照大御神に到達することこそが、真の悟達の境地なのであります。方便の教え(衆生を真実の教法に導き入れるための巧みな仮に設けた教え)の中に何時までも止まっていては、真実の悟りの境地には到達できないのであります。夜明けの訪れを待って、旭日を仰ぐのも一つの生き方であるが、闇夜にあっても太陽の実在を感得し、顕幽両界を自在に往来せんとするのも、勇猛心ある一つの生き方なのであります。

 月讀(つくよみ)の意義について

@ヨミは読みで、新月から満月まで読み昇り、満月から新月まで読み降り、永遠に読み数えるという意義で、時の表現を意味するものであります。
Aツクは継ぐ・続くで、無窮に継続して次から次へと続き読むという意義
Bツキヨミと訓んで、天のことを地に取り次ぎ(つき)、地のことを天に取り次ぐ所の天(太陽)と地(地球)の間を円融に取り次ぐ(媒介)という意義。
Cヨミは夜見で、ヤミ(闇)の意義である。ヨミノクニは黄泉国であり、黄泉国を継承する神ということを意味している。

63-2

夜食國(よる の をすくに)とは、

@昼夜というように対称(互いに対応して釣り合っている)的に見れば、太陽の輝く昼に対して、月の照る夜を意味しているのであります。

A光明と暗黒というように対称すれば、暗黒を意味しているのであります。
一切の光明に対して、一切の暗黒を意味しているのであります。高天原の暗黒面は、黄泉一切であり、幽界(顕界に対称して)であるのであります。

月讀命は幽界の統理(統べ治める)の主であり、伊邪那美神と一体であり、神漏美神統の主神の位置に当たるのであります。
暗黒王である伊邪那美神(仮凝身)が、統一神業の発現の為に、月讀命(輝身)に身を変じて発現しているわけであります。従って暗黒界の統理の主として、暗黒大王として幽界の一切を大々的威力(慈愛の大光明)をもって、光一元に大調和に統治しているわけであるのであります。暗黒の世界において、衆生救済の為に常に大活躍しているのであります。
地上において人類救済のために働いている宗教は、月讀命の一筋一筋の光であるのであります。

昼夜におけるような物質的光明・暗黒に対して、霊的な光明・暗黒の意味もあるわけであるのであります。天照大御神の天岩戸隠れ(霊的光明の隠蔽)で、世の中が暗黒世界となった時には、月讀命が必然に偉大なる力を発揮して霊的に大活躍しているのであります。

B生と死というように対称すれば、月讀命は死の世界の統理者であるのであります。
あらゆる生物は月(順律)の順運によって生まれ、生長し、老い、死すのであります。
植物(食物)は月夜にその慈光を仰いで生長するものであります、という意義から夜食國と名付けられているのであります。
「もし一粒の麦、地に落ちて死なずぱ、ただ一粒にてあらん。もし死なぱ、多くの実を結ぶべし。」死ぬことは、大きく活きることであるのであります。殺すことは、大きく復活させることなのであります。月(時間)の経過は、一粒の麦に生長させ、実りをもたらすものでありますけれども、同時に死の宣告をも与えるものであります。しかしこの死は大きく復活するための、避けることの出来ない道程なのであります。

63-3

つぎに たけはやすさのをのみこと に のりたまはく ながみことは 
次   詔建速須佐之男命            汝命者
うなばら を しらせと ことよきしたまふ
所知海原矣     事依也


 高天原を霊神統と体神統の二大方面に分けて考えるとき、霊神統の主神が天照大御神となります、また体神統の主神が建速須佐之男命となります。全高天原(一部が全大宇宙)の統治は勿論天照大御神の権能に属するものでありますから、体神統の主神であられる建速須佐之男命とは体神統を統理する天照大御神さまの別名なのであります・月讀命の場合と同じく、建速須佐之男命も天照大御神と一体であり、結局は天照大御神さまの分身に当たるものなのであります。
 建速須佐之男命は体神統の主神でありますから、一切の物質を自在に司る神(物質それ自体の神)であります。物質とは天・風・火・雷・水・海・地・山の八大要素それ自体なのでありますから、建速須佐之男命は天神・風神・火神∴雷神・水神・海神・地神・山神の八神統を統括する神であり、八神統それ自体の神であります。従ってまことに偉大なる神威の保持者と言えるのであります。岐美二神の生み出された8神統64神の全神性が、輝身(かがりみ)である建速須佐之男命の一身に統括されていて、建速須佐之男命の分身として、あらゆる働きが発現し発動し活躍することになるのであります。

 海原とは物質系を総称する名であります。岐美二神によって生み出された八大輪相〔天象・火祭・水象・地象・山象・海象・雷象・風象〕を外輪から眺めると、天象と火象とは宇宙に遍満してしまって目を遮らないのでわからないのですが、そのなかでしっかりしたものとして認められるのは水象であります。それで水(みず)を表面(ほ)にするという意味から、地球のことを水穂国(みずほのくに)とも言いあらわし、海原が地球を意味するのであります。
 また海原は海(生み・一切を生み出す根源世界)の表面に当たり、表面の波が物質系の一切を表すところからも、海原が物質系の代表になるのであります。
それゆえ、この地上の救いに立つ代表選手として須佐之男命が前面に立たれるのであります。


タケハヤスサノヲの神名の意義

タケ:勇猛、ハヤ:迅速・機敏、スサ:荒ぶ(すさぶ)、ヲ:雄々しい男性的、

 物質(肉体)というものは、本来盲目的なものである。霊によって正しく統理してゆけば調和するけれども、放任すればその俊敏な猛威暴力によって非常な紛糾擾乱の極に至るものなのであります

64-1

 建速須佐之男命は、伊邪那岐神が鼻を洗ったときに生まれた神であります。鼻は呼吸をする所であり、呼吸はイキをスルであって、イキスルからイキルとなり、生命を表現しているものであります。従って建速須佐之男命は、鼻の神・呼吸の神・生命の神・生物発生の神なのであります。一切の生物が、建速須佐之男命の神業によって造り出され、生み出されるのであります

 建速須佐之男命は体神統の主神であるということは、伊邪那美神の直統であり、幽界の統理王であり、承継者なのであります

 天照大御神と月讀命と建速須佐之男命の関係は、天照大御神(太陽)から放射される大光明が、建速須佐之男命(地球)によって闇黒(影の部分)を生じ、その闇黒界を月讀命が照らすという、三者不離一体の関係であります。太陽と地球と月の関係と全く同じように、天照大御神の周囲を建速須佐之男命が旋回し、その建速須佐之男命の周囲を月讀命が旋回するという関係をもって、三神が一つとなって、高天原の統一神業の完璧を期しているのであります
 天照大御神(霊神統)と建速須佐之男命(体神統)の間には、体は霊を慕い、霊は体を恋うという神聖恋慕が働いて、霊体二神統の和合が営まれ、生命体が発現するということになっているのであります。その時に天照大御神と建速須佐之男命との両神業の間に立って、霊神統と体神統の神業が最も完全に行われるように、月讀命が非常なる威力を発揮して、媒介神業に当たるわけであります。月讀命は建速須佐之男命の身近を旋回しながら、霊の降下を助け、霊を以て体を抱擁し、また体の向上進化を助け、体の活躍を守護しているのであります

 順流(光明界)の裏面が逆流(闇黒界)でありますから、本来順逆は一如していて、一体のものであります。また霊の内に体は属し、体の内に霊は宿っているから、霊と体は一体不離の関係を保っているものであります。一つの神が順逆一如・霊体一如して、二面に働く所に、高天原統一の本義が宿っていて、輝身発現の意義が認められるのであります
 天照大御神・月讀命・建速須佐之男命の三神は、一体の神として統一されているのみでなく、三神出生前の一切の神々をも全統一し、三神以後の万神万生万有の一切を分身相として統一しているものであります

64-2

かれ おのも おのも よさしたまへる みこと の まにまに しろしめす なかに  
故 各随依賜之命                所知看之中  
はやすさのをのみこと よさしたまへる くにを しらさずて
速須佐之男命     不知所命乞國而
やつかひげ むなさき に いたるまで なき いさちき
八拳須   至手心前       啼伊佐和伎也

 かくて天照大御神並びに月讀命はその依さし賜える命(みこと)のまにまに、それぞれ天照大御神は高天原を統治し、月讀命は夜乞食國を統治している中に、速須佐之男命だけは命ぜられた国を統治せずに、八拳髯が胸前に至るまでも啼き荒び、乱暴な状態を現しているというのであります

八拳須:
 速須佐之男命は物質の神であり、地球そのものと見ることもできるのであります。その時の八拳髯とは地球上面に生えている草木に当たるのであります。八拳(やつか)は弥束(いやつか)であって、長く長く伸長して地上を覆い尽くす状態を指していて、天を摩するような大木や、長い蔓草や、群がる雑草の繁茂している姿を表しているのであります

八拳髯が胸前に至るまで伸び拡がる為には、地球の誕生から長い長い年月の経過が必要であります。非常な長歳月にわたって、須佐之男命の泣きいさちる状態が続いたというのであります

啼伊佐和伎也:(なきいさちき)
 啼は哭・泣であり、名(ナ)の極(キ)であって、コトバの限りを尽くすことであります
伊佐知(いさち)は血泣(いさち)であり、涕泣(いさち)であって、血の涙を流して、泣き叫ぶことであります

 最初の地球は上水輪の目立った全面海原の状態であったのですが、次第に上水輪と下水輪との交流が地層を透して起こり、次いで上天輪と下天輪の交流が促され、この風の交流によって下火輪が爆発を起こし、上火輪との交流をはかることとなり、大噴火・大地震・大津波などが起こり、一大擾乱の大修羅場が現出することになったのであります。これが須佐之男命(地球)の啼伊佐知の状態であります。この啼伊佐知によって、地球の進化向上が計られてきたのでありますから、このことは須佐之男命にとっては必然の真面目な神業であるわけであって、乱暴な悪態と見るのは間違いなのであります

65-1.

その なき たまふ さまは あをやま を からやまなし なき  からし 
其泣状者       青山如枯山       泣枯
うみ かは は ことごとに なき ほす
河海者   悉泣乾
ここを もて あらぶるかみ の おとなひ は さばへ なす みな わき 
是以    悪神之音         如狭蠅皆満
よろづ の もの の わざはひ は ことごと に おこる
萬物之妖悉發

 須佐之男命の啼伊佐知は、地球構成の当初だけでは無く、陸地が出来、草木が繁茂する時代になっても、なお継続的に発動したのでありますから、いかに長歳月にわたって継続したかということを、青山如枯山泣枯(あおやまをからやまなしなきからし)という言葉で表現しているわけであります。そしてその状態はと言うと、地球内部から噴出する熱気によって、一切の水が沸騰蒸発して、樹木が繁茂して青く見える山々も水気を失ってからからとなり、海や河の水もすべて無くなる程の物凄さであったと言うのであります。こういう激甚な状態が何度も何度も地上を見舞ったのであります。構成・破壊、整頓・乱雑の繰り返しによって、向上・進化・発達の過程を辿り・現今のような地球の状態になってきているわけでありますが、その間には名状しがたい程の物凄い天変地異が幾度となく荒れ狂ったのであります
 上記のような状態を以て、悪神之音 如狭蠅皆満 萬物之妖悉發(あらぶるかみのおとなひはさばへなすみなわきよろづのもののわざはひはことごとにおこる) と言うわけであります

悪神(あらぶるかみ):
 荒振(荒々しく雑然とした振り〔生命の動き〕方をする)神。
 大雑把で雑然とした落書きや、どんちゃん騒きのようなもの。
正神(ちはやふるかみ):
 千早振(音楽的律則、芸術的諧調をもって、千変万化の妙趣ある振り方を自在にする)神。
 一点一画もおろそかにしない画竜点晴のような絵や、世界最高のオーケストラによる一大交響楽の演奏のようなもの。
狹蠅(さばえ):
 五月蠅(さばえ)で五月頃の群がり騒ぐ蠅のことで、喧騒極まりない所の狂乱的変態的騒音の状態のこと。
如(なす):
 如く(ごとく)
満(わき):
 涌き出で、沸騰(わきあがる)こと。
妖(わざはひ):
 天変地異の類、化け物や妖怪変化の類、邪鬼邪霊の類に見られる所の、醜・悪・偽・妖・怪・変・化・等の状態及び存在。
 闇の存在が光をくっきりと浮かび上がらせ、輝かすように、醜・悪・偽・等の存在は、美・善・真・等の存在をくっきりと浮かび上がらせ、大きく輝かすことになるのであります

66-1

かれ いざなぎのおほみかみ はやすさのをのみこと に のりたまはく 
故  伊邪那岐大御神    詔速須佐之男命  
なにとか も みまし は ことよさせる くに を しらさずて なきいさちる と のりたまへば
何由以汝      不治所事依之國而       哭伊佐知流
まをし たまはく あは はは の くに 
爾答日     僕者       
ねのかたす くに に まからむ と おもふが ゆえに なく と まをしたまふ
欲罷妣國根之堅州國故哭

 海原と見えるこの地球を、平穏無事に統治していても善いのに、それに満足しないで、大噴火・大地震・等の激甚な状態を現出するからには、何か深い理由があるからに違いないのであります。海原統治の全権を委任した上は、速須佐之男命の神業に天神諸命は顕現してくるのでありますから、それがどのような理由に基づくものであるのかを明らかにして進むのが道理である、と伊邪那岐大御神は先に先例無くしては何事も起こらないという原理を確認させているのであります。須佐之男命の任務は、顕幽両界に跨がって、霊肉の調和融合を図り、肉を具えた生物を発生させることでありますから、欲罷妣國根之堅州國故でありますと、その理由を述べているのであります。下記に列挙する理由がありますからこそ、哭いていたわけであります

妣國根之堅州國:
 妣國(ははのくに)とは、母命である伊邪那美命の國であります
 根之堅州國(ねのかたすくに)とは、根源にある堅い地の中心の國であります
 黄泉国、幽界、物質の国、死の国、等のことであります

@伊邪那美命が、火の神を生んで、美審登(みほと) 見灸而(やかえて) 病臥(やみこせり)し、多具理(たぐり)・屎(くそ)・尿(ゆまり)を出して苦しんだが、それを鎮静化するために、神避りて、ヨモツヘグイしたように、須佐之男命も、同じように自身の勢力を地球内部へ向けることによって、この激甚な状態を鎮静化させようとしているのである、というわけでなのであります。
A何事も表面を整える為には、先ず内部からしっかりと整えてくることが大切であります
幽界の内部整理が完備した後、顕界の整理が禊ぎ祓いによって行われた故知に従えば、地球の表面を整える為には、先ず地球の内部からしっかりと整えてくることが先決である、というわけであります
B霊肉の調和した生物を発生させる為には、肉の横暴をそのままにしておいては不可能であるから、先ず臍下丹田に気持ちを静めて、肉の欲望の心を鎮静させ、霊の導きのままに活動できるようにする必要があります。臍下丹田への精神集中が根(ね)の堅州国(かたすくに)に到るということであります

67-1

ここに いざなぎのおほみかみ いたく  いからして しからば 
蘭   伊邪那岐大御神    大忿怒      詔然者
みまし このくに に な すみそ と のりたまひて すなわち かむやらひ に やらひたまふ
汝不可住此國              乃    神夜長比爾夜良比賜也

 伊邪那岐大御神の大忿怒(いたくいからして)を、業想念の怒りの感情と同一視してはならないのであります。顕界と幽界とは、すべてにおいて正反対であるのでありますから、須佐之男命の横暴を責めて、言う通りにしないことに腹を立てているのでは無くて、逆に須佐之男命の深い慮りに感激して、その用意周到な至誠の行動を大いに喜んで、励ましているのが大忿怒(いたくいからして)なのであります。怒る、悲しむ、泣く、という言葉の解釈にしても、この世の人々の理解している意味とは全く異なる場合もあるわげであります。善悪・正邪・生死・盛衰・等の解釈も業想念の心で解釈しては間違うこともあるのであります。あらゆる先入観を去り、この世の言葉の意味に捕らわれないで、神さまは何を言おうとして、その言葉を使っているのかを、見抜くことが大切なのであります。神業の奥底を流れているものは、一貫して神聖なものであることを決して忘れてはならないのであります

然者(しからば):
 そういう深い理由があってのことであるならば、
不可住此國(このくにになすみそ):
 海原が単調に覆っているだけの地球を、そのままで良いのだと受け止めて決して安住することなく、汝の深い慮りに従い、どうか根本からもっとより良い姿に改変しておくれ。
 「な・・・そ」:・・・しないでおくれ。どうか・・・してくださるな。
夜良比爾夜良比(やらひにやらひ):
 闇の世界・幽界を整理整頓して光一元により良く変化させてくるようにと、伊邪那岐大御神の神力を与えに与え、添えに添えて、須佐之男命に神力を移入して、謙虚に一番下から受け直してくるように励ましているのであります

 体が霊を凌駕していては調和しないのであります。体生霊従では体の横暴があるだけであって、霊と体の和合はできないのであります。体は謙虚に謙虚に下に下って、霊の指導を仰いで受けなけれぼならないのであります。霊主体従になって始めて、霊と体は和合するのであります
 物質文明・精神文明・霊的文明の三つがバラバラの状態で存在していては統一が無いことになる。この三つを渾然融和した統一体にするために、ある時は物質文明が栄え、ある時は構神文明が栄えて、締めくくりに霊的文明が両者を貫いて、栄えに栄えて、最高の文明が顕現するわけであります
68-1

かれ その いざなぎのおほみかみ は あふみ の たが に な も まします
故  其伊邪那岐大神者       坐淡海之多賀也

淡海(あふみ):
 淡海(あはうみ)、塩の淡い海であって、陰陽等相対に分かれる、その分かれ方の淡い状態を意味している。即ち相対に分かれる前の状態である、絶対の極枢を指していて、創造の始源を意味しているのであります。

多賀(たが):
 多は対称(互いに対応してつりあっていること)・対照(互いに対立する二つの要素がはっきりすること)の意義。
 相対に分かれた二つの要素(霊と体、・・・・)がはっきりと区別され、互いに対応して釣り合っている状態であります
 賀は輝きに輝きわたる、活かし出だすという意義。


淡海之多賀とは、天之御中主神の独神(ひとりがみ)(唯一無二の絶対神)・隠身(かくりみ)(時間と空間を超越した最奥所にある絶対身)の位を占めていて、霊系体系の中主(なかぬし)(一切を統括する中心者)として、霊体和合の生物を発生させ、多々益々生成発展させる枢機を司る地位・場所・場面・時期を意味しているのであります

伊邪那岐大神は淡海之多賀という名(働き)の状態になって存在しているのであります

 ここで何故伊邪那岐大神の鎮座所を明瞭にしておかなければならないかと言うと、これからの大事な行事進展の為の中心地を是非とも確立しておく必要があるからなのであります
 天照大御神(霊)と建速須佐之男命(体)の二神の神事は、霊体和合の生物の発生に先立ち、カケリミ神身を出生するという重大な事柄であります。伊邪那岐神が常に、天之御中主神・天神諸命を、自己の神業の中心に置いて、神ながらに(無我無心虚心坦懐に)行事したように、天照大御神・須佐之男命も同じく、自己の神業の中心に伊邪那岐大神を置いて、神ながらに行事することによって、その神業のすべてが、天之御中主神(絶対神)の行事であることを明確にしているのであります。カクリミ・カゴリミがその本質のままに、カガリミの上に表現されているのであるということを示しているわげであります
 一切の神名(神業・働き)は、無名の・唯一無二の宇宙絶対神の替名(かえな)であることをわたくしたちは決して忘れてはならないのであります

00.01.02.03.04.05.06.07.08.09.10.11.12.13.14.15.16
.17.18.1920.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.32.
33.34.35.36.37.38.39.40.41.42.