この小論文(しょうろんぶん)の内容(ないよう)は,各(かく)ページ毎(ごと)に独立(どくりつ)しています。どのページから読(よ)み進(すす)んでも、少(すこ)しは参考(さんこう)にしていただける、真理(しんり)の言葉(ことば)の断片集(だんぺんしゅう)です。真理(しんり)をどの程度(ていど)指(さ)し示(しめ)せているか、点数(てんすう)を付(つ)けて見(み)て下(くだ)さい。読者諸賢(どくしゃしょけん)には、もっと素晴(すば)らしい真理(しんり)の言葉(ことば)を世(よ)のため人(ひと)のために、沢山(たくさん)生(う)み出(だ)して下(くだ)さることを、心(こころ)から期待(きたい)しています。 トップヘ
唯一無二の宇宙絶対神は、時間・空間を超越して厳然と実在しているのです。その絶対神が発射・凝集・交流という螺旋状に動作する三大根本神力を駆使して、宇宙(世界)という表現を一瞬一瞬新たに創造し続けているのです。絶対の“今・ここ”において、絶対から相対への変化が間断無く起こり、すべての時間・すべての空間が創造されて、宇宙(宇は空間、宙は時間)・世界(世は時間、界は空間)という表現が生まれているわけなのです。宇宙は絶対神の“生命の輝き”であり、“言霊のひびき”であり、“表情・動作”であって、絶対神の御心(真・善・美・聖)の表現なのです。 絶対神は完全無欠です。絶対神は永遠不滅・金剛不壊の存在であり、無限の歓喜・大楽であり、荘厳無比・尊厳極まりない存在であり、清浄無垢・至美至妙の完璧なるものです。絶対神は永遠の生命であり、絶対の愛であり、完全なる知恵であり、無限の喜びであり、自由自在なるものです。その絶対神の御心が動き出て・湧き出て・溢れ出て・迸(ほとばし)り出て、その全徳が表現され、全大宇宙のすべてのすべてと現れているのです。だから宇宙というのは絶対神の生命の現れ・愛の現れ・知恵の現れ・喜びの現れ・美の現れ・等々であるわけなのです。 絶対から相対の両極が生まれ、その完璧なる組み合わせによって、無限の無限の変化に富んだ妙趣ある表現が創造されるのです。相対の両極には、時間と空間、霊魂と元体、生と死、明と暗、善と悪、美と醜、光と闇、プラスとマイナス、等々すべての要素が振り分けられるのです。そしてそれらのすべてが両極から発射と凝集の両神力となって螺旋状に動作し、完璧に交流されて(組み合わされて)、無限の無限の変化に富んだ妙趣ある表現が生み出されているのです。光と闇を例にとれば、無限の光と無限の闇が完璧に交流されると、光の立場から眺めれば、無限に小さい光から無限に大きい光まで、すべてを尽くした無限の段階の光一元の表現が生まれるわけなのです。この光の表現を闇の極から眺めると、すべての光の表現がこの上なく素晴らしいものに感じられるのです。闇が光を浮かび上がらせて、より素晴らしく感じさせてくれるわけなのです。宇宙絶対神の表現のすべては、このように光一元・善一元・愛一元・美一元・生一元・等々の、プラス面を大きく浮かび上がらせる無限に素晴らしいものばかりなのです。 宇宙絶対神の表現は、完全な知恵によって創造されているので、全大宇宙には同じものは何一つとして無く、同じことは二度と繰り返されることの無い、完璧な無限の価値あるものばかりなのです。絶対神の全徳が無限の大光明となって、光一元に輝いているものなのです。空間的に見れば、無限に小さいものから無限に大きいものまで、次元を変えて種々様々な空間が多重構造的に表現されているのです。時間的に見れば、無限の過去から永遠の未来まで、次元を変えて種々様々な時間が多重構造的に表現されているのです。宇宙全体を眺めるならば、理想の花園には美しい花が一杯咲き乱れているだけでは無く、次から次へと新しい花が開くように、すべての成長段階の姿が準備されているように、マイナス無限大からプラス無限大までの、すべてを尽くした最高理想の表現が、一瞬一瞬新たに創造され続けているのです。 人(本心の自分)は絶対神の分霊として、それぞれの立場から絶対神の表現(第一表現の世界)を感受して、心行くまでその素晴らしさを味わうと共に、更にはその第一表現の世界の素晴らしさを、第二表現の世界であるこの世に魂魄(魂と肉体)を道具として、具体的に実現させてゆくという使命と目的を与えられているのです。絶対神の表現は、真(科学的真理)・善(宗教的愛行)・美(芸術的表現)・聖(全体を大調和に総括)として理解し把握してゆくことができるのです。しかしながら絶対神の表現を味わって、正しく理解し把握してゆこうという真剣な気持ちが無ければ、無限に素晴らしいものが目の前にあっても、何の価値をも見出せずに終わるかも知れないのです。折角の無限の価値ある人生も、どのように生きるかは一人一人の自由なのです。 感謝とは、絶対神の表現の素晴らしさを心にしっかりと認めることなのです。心に確認できなければ、それは有っても無いのと同じです。太陽も空気も水も、心に認めなければ感謝の気持ちひとつ起こらないのです。美しい草花が咲いていても、心にしっかりと認めなければ、その美を味わうことができないのです。宇宙という絶対神の表現の中に、真理を愛を美を調和を発見して、その一つ一つを具体的に味わって喜ぶことが感謝なのです。宝捜しを楽しむように、真・善・美・聖をより多く発見した人が、より大きな幸せを手中にできるのです。真っ暗闇という立場から、蛍の光や星の輝きを眺めるならば、きっとその素晴らしさに感動するに違いないように、宇宙のすべてが消滅して0になった立場から、地獄のどん底に置かれた立場から、今の自分の境遇を眺めたら、無限の無限の幸せで一杯という気持ちになるに違いないのです。何事も謙虚な心で、マイナス無限大の立場から明るく善意に思い返して眺めるならば、どんな表現にも無限の価値を見出して、感謝できるものなのです。 |
八熱(はちねつ)地獄 (1)等活(とうかつ)地獄 殺生の罪を犯した者が落ちる所で、互いに常に害心を懐き、出会えぱ、磨き立てた鉄の爪で互いに眼を掴み、肉を引き裂き、血流れて、肉尽きて骨だけが残る。或いは獄卒(罪人を苛責する鬼)に鉄棒で全身を打ち砕かれ、砂粒のようになり、或いは利刀で肉を切り刻まれて、バラバラにされる。しかし涼しい風が吹き来ると、蘇って本の形となり、またたちまちにして前のような苦を受け続けるのである。 (2)黒縄(こくじょう)地獄 等活地獄の下にあって、殺生・偸盗の者が落ちる所である。獄卒は罪人を捕らえては、熱鉄の地に打ち伏せ、熱鉄の縄で縦横に線を引き、その線に従って熱鉄の斧で切り裂き、或いは鋸で引き切り、或いは刀で腸を抉り出し、百千に段切して、其処彼処に撒き敵らす。又熱鉄の縄を張り巡らせた中へ逃げ込めば、悪風吹き荒れて、熱鉄の縄はその身にまとわりつき、肉を焼き、骨を焦がす。又山と山との間に綱を張り渡し、重荷を背負わせて渡らせる。その下にはくらくらと煮えくりかえった大釜があり、落ちると煮られて骨まで蕩けるのである。また蘇っては同じことを繰り返すのである。 (3)衆合(しゅごう)地獄 黒縄地獄の下にあって、殺生・偸盗・邪淫の者が落ちる所で、ここには相向かい合った鉄の山が沢山ある。牛頭馬頭等の獄卒たちが、色々の責め道具を持って、罪人を追い掛け廻す。山と山の間に逃げ込むと、両方の山が動いて迫り寄り合わさって、身体は押し潰されて血の海となる、また赤熱の嘴を持つ鷲につつかれて血だらけとなる。葉が刀になった林に入っては切り刻まれて血みどろとなる。 (4)叫喚(きょうかん)地獄 衆合地獄の下にあって、殺生・偸盗・邪淫・飲酒の罪の者が落ちる所である。獄卒の眼からは火炎が出で、赤色の衣を着て、手足は太く逞しく、風のように走る。その息遣いは荒々しく、口からは凄まじい悪罵の声を出して、罪人を射殺すこと矢の如し。罪人は恐れおののいて憐れみを乞うが、いよいよ怒りを増して、鉄棒で頭を打ち据え、熱鉄の地の上を走らせる。或いは猛火の鉄室に入れられ、燃え上がる熱火の上でひっくり返しては焙り焼かれ、熱湯の沸き返っている大釜に投げ入れられてはぐつぐつと煮殺される。死んでも死んでも蘇ってまた同じことを繰り返すのである。 (5)大叫喚(だいきょうかん)地獄 叫喚地獄の下にあり、殺生・偸盗・邪淫・飲酒・妄語の罪の者が落ちる。前の四つの地獄の一切の苦の十倍の苦を受ける。ここでの一日の苦は、人間界で640万年苦しむのに匹敵するという。熱鉄の針で口と舌とを一つに刺し貫かれて、泣き叫ぶこともできない。獄卒は熱鉄のやっとこで、罪人の舌を抜き、両眼をも同じように抜く。 (6)焦熱(しょうねつ)地獄 大叫喚地獄の下にある。この焦熱地獄の火は蛍ほどの火を閻浮提(人間世界)に置くだけでも、わずか一時の間に悉くを焚き尽くすほどの熾烈なものである。この熾烈な熱鉄の猛火が四方より燃え盛り、罪人の身体を一身百骸皆悉く焼き尽くす。そうすると再び身体は復活し、また同じように焼き滅ぼされるのである。これが際限なく繰り返される。 (7)大焦熱(だいしょうねつ)地獄 焦熱地獄の下にある。ここでは前の六つの地獄の一切の苦の十倍の苦を受ける。 (8)無間(むげん)地獄 〔または阿鼻(あび)地獄ともいう〕 大焦熱地獄の下にあり、休む暇の無い絶え間の無い極苦の地獄で、欲界の果ての底である。五逆罪(父を殺す・母を殺す・阿羅漢を殺す・仏の身体を損害して出血させる・教団の和合一致を破壊分裂させる)のほかに、大乗を誹謗した者が落ちるという。一切の地には極悪人が充ち満ちて、唯一人の友も無い。真っ暗闇の世界で月日の光を見ることもできない。八万四千の怪鳥の嘴からは火が吹き出し、雨のように降ってくる。屍糞泥の中に入ると、無数のヒクダという虫が、皮を穿ち、肉に入り、筋を断ち切り、骨に入り、髄を取って食べる。屍糞泥から出ると、利刀剣の刃で出来た道がある。足を下ろせば忽にして皮肉筋悉くが切れ爛れる。七重の鉄城があり、銅が沸いて罪人を焚き殺す。死んでもすぐに蘇り、また同じ苦を受け、瞬時として苦しみから逃れることができないのである。 八寒(はちかん)地獄 八種の氷攻めの地獄で、この中の最も重い地獄を大紅蓮(だいぐれん)地獄という。ここは氷の岩の中に押し込められた罪人の身体が、寒さのために血管が裂けて血が飛び出し、全身がざくろの実のように爆ぜ返り、ちょうど紅の蓮華の花びらのような有り様になる。 過去世に積み重ねた無限の罪にもかかわらず、守護の神霊の加護のお蔭で、地獄に落ちずに済んでいる。一瞬一瞬地獄から救い上げていただいているのである。感謝あるのみ! |
旧約聖書 創世記 第一章 (001) 「元始に神天地を創造り給へり」 古事記の冒頭「天地初発之時 於高天原成神名 天之御中主神」と同意義である。即ち天(あめ)〔無限に無限に大きい全大宇宙(宇はすべての空間、宙はすべての時間)〕の御中(中心・太極・本源・最深奥・根源)なる主神〔絶対神(隠身神、次の四つの働きを総括):創造神(仮凝身)・統一神(耀身神)・自在神(駈身神)・限定神(限身神)〕・〔極身(きみ)(絶対の愛をもって一切を大調和させる中心者)・御親(みおや)(生命の根源者・大生命)・最高の指導者(叡智者)〕が、高天原(たかあまはら)(全大宇宙)という容相(成り)・音声(鳴り)・生命(生り)になる、神名(働き)をする時に、天地(あめつち)〔天(あめ)は無限に大きいもの、地(つち)は無限に小さいもの〕が、初(はじめ)(端見え・有限の相象)となって、発(おこる)(発生)した。 すべての時間・すべての空間を超越して、厳然と実在する絶対神は、一切の相対・表現・現象の奥底に沈潜している隠身(かくりみ)神である。その隠身神が自然に動き出す時に、その容相・音声・生命が、宇宙大劇場に於ける名演技となり、一大交響楽の妙なる調べとなり、尊厳無比の生命の営みとなって現れるのである。その創造過程を眺めると、絶対が相対の両極に分かれ、それらを完璧に組み合わせることによって、無限の無限の妙趣ある表現が生み出されているのである。従って神と創造されたものとは、本来別個のものでは無くて、不離一体のものなのである。即ち絶対なる神が、相対・表現・現象である天地となって現れているのである。これを神天地を創造り給へり、と言うわけである。 元始(はじめ)とは、端(はし)見えであり、絶対が相対となって現れ、無限が有限となって現れることである。一切創造の始源が元始である。それは一瞬一瞬新たに新たに、連続して起こっているものである。従って天地の元始は、常に“今”なのである。“今”の中に過去・現在・未来のすべての時間が表現されるのである。例えば草花の一生には、種蒔かれる状態から実を結ぶ状態までの、すべての表現の姿が既に存在しているのである。その表現の一つが、この世に浮かび上がって来たのを見て、それを現在の双葉の姿、或いは蕾の姿というように捉えているのである。どのような現在の姿を見る場合にも、同時に過去の全て・未来の全ての姿を見通すことが、“今”を“元始”を把握することになるのである。天地の元始は、何億年前何兆年前というようなものでは無いのである。 |
旧約聖書 創世記 第一章 (002) 「・・・神光あれと言給ひければ光ありき 神光を善と観給へり・・・」 絶対神が、絶対神の御心が動き出すとき、その自然な発露として、容相・音声・生命の三つが一つになって生まれ出て来るのである。それを神の言葉という一面から眺めると、神の言葉が発せられると同時に、その言葉通りの、生命の躍動する形有るものが存在していることになるのである。神の言葉とは、この世の人間が使用しているような単なる言葉では無くて、その元になる言霊(ことだま)としての言葉なのである。言霊とは、神の全神性・全神力・全相象であり、一切のものを生み出す創造の働き・力であり、一切を生かしている“いのち”そのものである。 古事記の伊邪那岐命伊邪那美命二柱神が、宇宙絶対神の創造の働き(神名は働き)の時の名称である。ミコト(命)は御言(みこと)であり、至尊(みこと)であり、詔命(みこと)である。御言(みこと)とは、最高の権威と力を備えた言霊であり、一切万神万生万有を生かす生命の根源(大生命)であり、全大宇宙の一切万神万生万有を完璧に産み現す創造力であり、一切万神万生万有の御親である。至尊(みこと)とは、伊邪那岐命伊邪那美命二柱神が、唯一絶対神である天之御中主神(隠身神)の内実の全て〔一霊四魂一元四体の根源力、高天原(全大宇宙)の三大根本神力(遠心的発射螺旋状神力・求心的凝集螺旋状神力・円融的交流螺旋状神力)、等々〕を総括し、継承しているところの、尊厳極まり無き・最高の・絶対の・中心(極枢)者であると言うことである。詔命(みこと)とは、伊邪那岐命伊邪那美命二柱神が、天之御中主神の御心のままに、無我無心無為全託虚心坦懐の心になって、絶対帰一・絶対随順・絶対奉仕していると言うことである。それ故に、無限無数無量の・永遠に新しい・同じものは何一つ無く・同じことは二度と繰り返さない・最高表現を、自由自在に創造し続けると言う、絶対創造の働きとなるのである。 神(絶対神)が、光あれと言給ひければ(言霊となって、創造の働きを成す時は)、光ありき(全徳の無限の無限の輝きが、一瞬一瞬新たに新たに新生する)なのである。神の絶対創造は、マイナス無限大からプラス無限大に至る、全徳の無限の無限の輝きが光一元に表現されている、至善至美至妙完全円満大調和の最高表現である。従って、神光を善と観給へり、なのである。神が創造した最高表現を、神自ら善と観給うているものを、人間が勝手に悪と観るのは、人間の観方が間違っているからである。 |
幸福への道 “幸福”について、守護霊さんからのメッセージをお届けしましょう。 世の中の多くの人々は、幸福という“青い鳥”を探し求めながら、 |
生命賛歌 別版
天地一新! 万物新生! |
アリガタヤ アリガタヤ ありがとうございます、という言葉の“有難し”は“大自然(神・仏)の働きがもし無ければ、何一つとして存在することができない”という意味なのです。 真暗闇の何も無い世界にポツンと自分一人だけが存在していると想像したら、どんな小さなものでも存在してくれるだけで、光輝いたすばらしいものに感じられるでしょう。宇宙のすべてを生かし、進化させ、みんなをより幸せにしてくれる“偉大な力”を心に感じられたときに、“ありがとうございます”という感謝の心が、わき出てくるのです。 もし太陽が存在しなかったら、この世は闇です! 宇宙に存在するすべてのものは、私たち一人一人を幸せ一杯の心にするために、大自然(神・仏)が苦心して生み出した素晴らしいものばかりです。無限の種類の無限の姿! どれ一つとっても最高の芸術作品です。カラスの真黒なのも苦心の程がしのばれるではありませんか? 人間は神様の分身分霊として、この世にあらわれて、神様に代わって、宇宙のすべての表現を、それぞれの立場から、心ゆくまで楽しく味わうために生かされているのです。この世の100年の間に、どれだけ沢山の表現を十二分に味わうことができるでしょうか? 草花のなんと美しいことよ!小さな原子から大きな宇宙の星にいたるまで、神秘で不可思議なものばかりです。 さあ、今からあなたもアリガタヤ節を歌い続けましょう! 感謝の心の深さ・広さに比例してあなたの魂は高くなり、悟りは深くなり、幸福が無限に深く大きなものになってゆくのです。 感謝行は自己を万物と一体化し、神仏と一体化し、悟りを深める“光の道”なのです。 ありがたや! ありがたや! (アリガタヤ ニコベエより) |
禊祓の根本義 神道における六根清浄の作法のことを一般に禊祓と言っている。 それは醜汚を去り、罪悪を払い去ること、即ち、一切の所有物を放棄して、赤裸の清浄体に成ることである。即ち、八十禍津日とか、大禍津日とか言う禍(マガ)を払い去って、神直毘に、大直毘に、直く正しく清まることである。 本来においては、私有物というものは一つも無い。すべては神のものである。私有物というものは無いのに、私有物を持って喜んでいるのは、夢の中で宝石を拾って喜んでいるのと同じである。真我を見失って偽我の奴隷になっている迷妄虚無の姿である。真我の自覚に到達するとき、無一物が無尽蔵であるのを自覚して、所有に対する一切の執着、争いは無くなるのである。 地獄の方向に向いていると、地獄の外には何も見えない。地獄の解決を地獄で図ろうとしても、地獄に深く入り込むだけである。クルリと光明の方向に向き直ってこそ、一切の問題解決の道がある。無明によって、霊眼を覆い、光明界を暗黒に見ている感がある。しかし、暗黒界で心を反転して、暗い所から明るい方を見れば、光明はより一層はっきりと見えるのが道理であって、暗黒界から光明界に復帰して、赤裸の潔斎をすれば、光明界が透き通って見えてきて、大達観の境地に至ることができるものである。 伊邪那岐神の禊祓は、天上の上の上まで、地底の底の底までを達観して、顕幽生死を脱却し、天之御中主神の立場に立脚して、万世一系、天壌無窮の己が身の久遠の大生命を顕示することであり、正しい神統(八神統64神)の承継を開明することである。禊祓は祓うことよりも自覚に主眼があり、禊ぐことよりも根本の顕示に要点がある。一切の持ち物を投げ捨てたり、身を海水ですすぐのは、本来の顕示に対する方式に止どまるものである。 禊祓の最も根本であり、かつ最も重要な眼目は、宇宙乾坤、顕幽生死を明瞭にすることである。そのために神統の始源を開明することであり、それによって万世一系、天壌無窮の久遠の大生命を自覚することであり、それぞれの天命を鏡を見るがごとくに明白にすることである。そして必然の神業を徹底してゆくことである。 |
感謝の種々相 宇宙絶対統一神(天照大御神:大光明遍照)の大生命波動の放射を心に感受するときに、自然に湧き出てくる心の状態が感謝である。感謝とは、嬉しいこと、楽しいこと、有り難いこと、美しいこと、素晴らしいこと、神秘的なこと、善いこと、調和したこと、完全なこと、等々の神より現れたすべてに対して、その光明波動を心に感受した幅広い心の状態である。 草花が美しく咲いているのを見て、ああ美しいなあ!と感ずるのが感謝。 小鳥の楽しいさえずりを聞いて、ああ楽しそうだな!と感ずるのが感謝。 大自然の雄大な眺めに、ああ素晴らしいなあ!と感動するのが感謝。 父母の無償の愛に、ああ有り難いなあ!と涙を流すのも感謝。 仲の良い兄弟を見て、仲の良いのは美しいことだ!と感ずるのも感謝。 赤ちゃんの誕生を見て、その不可思議な力に感動を覚えるのも感謝。 無限無数の恵みが、無償で与えられていることに気付くことが感謝。 夜空の星を眺めて、その神秘に心を打たれることが感謝。 日々瞬々刻々偉大なる力に生かされていることに心を向けてゆくことが感謝。 このように数え上げてゆくと、感謝は光となって、全大宇宙に無限に満ちわたっているのがよくわかるのである。 どのようなものに対しても感謝を積み重ねてゆけば、その感謝は無限に深められてゆき、感謝の極に至れば、それが天照大御神の現れ、天照大御神そのものであるという実感が得られるのである。「鰯の頭も信心から後光が射す」と言う諺があるように、例え鬼のような姑が存在するとしても、いつも心の中で「ありがとうございます」と唱え続けてゆくことができるならば、いつか必ずその姑を天照大御神の現れ、天照大御神そのものと実感できるときがくるものである。だから、どのような方便を使ってでも、感謝を積み重ねてゆくということが大切なのである。例えば、もしその姑が存在しなかったら、自分の愛する夫はこの世に存在することはできなかったのだ、ましてや、かわいい子供達もこの地上に誕生することができなかったにちがいない、ああ、ありがとうございます!と感謝するのも一つの方便である。また、自分の過去世からの悪業を神様がふりかわって消して下さっている姿が、姑の今の鬼のような姿なのである、ああ、神様、御免なさい。ありがとうございます。と感謝するのも一つの方便である。 闇は光の存在を浮かび上がらせ、光をより素晴らしく感じさせてくれるように、病は健康を、死は生を、悪は善を、貧しさは豊かさを、醜いものは美しいものを、戦争は平和を、と言うように、マイナス面は常にプラス面を浮かび上がらせて、プラス面をより素晴らしく感じさせてくれる大きな働きをしているのである。だから、いつもマイナスの極に立って、すべてを光一元に眺めて、感謝を積み重ねてゆくことができたとすれば、プラス面を感受するときには、その感謝は、無限の無限に、大きく深められたものになっているにちがいない。身体に万病をかかえている立場からすれば、千の病も、百の病も、十の病も、より素晴らしい、有り難い、幸せな状態である。このように見れば、当たり前の健康がどれほど有り難いものであるかは言うまでも無いことである。 幸せも悟りも、感謝の広がりと、深まりに比例して、無限に大きく深いものになってゆくのである。 |
神さまの守りを受ける為には、全託の警いが必要かつ大事なのです。自我の思い・願いを生きている時は、神さまの守りを受け損なうものです。感謝一筋の心になった時に、神さまの守りを完璧に受けられるのです。毎日毎日、新たな全託の誓いをして、感謝一筋に生きてこそ、本心の自分は大きく輝いて来るのです。全託の誓い真理の言葉は一回見たり聞いたりしただけでは、自分の身に付かないのです。同じ言葉を百回以上熟読玩味して、それを祈りの中で反芻する時に、消化吸収されて身に付くのです。本心の自分は、真理の言葉を食して、それを消化吸収して、大きく成長するのです。真理の言葉のエキスは、祈りの中で、『声無き声』として、直感で捉えることが必要かつ大事なのです。 神の叡智 常に我を導き、神の力 無限に湧き出る! ああ嬉しい・楽しい・有り難い!と、喜び勇んでするのが、神さまへの奉仕の仕事をする時の秘訣です。 『ありがとうございます』と感謝することは、神さまへの全託です、今「ありがとうございます」と受けたものを、同時に「ありがとうございました」と、すべてをお返ししているのです。神さまから受けたものをすべてお返しし、また新たに神さまからすべてを受け直しているのです。自分の命(すべて)を捧げ尽くして、すべて神さまの御心のままに従っていることになるのです。 本心の自分に戻るチャンスは、何億年に一回・何億人に一人の滅多に無いチャンスなのです。本当に価値有るものを掴む為には、真剣さが必要なのです。それで渇仰の心を起こさせる為に、そのチャンスを少なくしているのです。今逃せば、二度と来ないのです。 |
雪山偈(諸行無常偈) 「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽」 宇宙のすべて(諸々の移り行くもの)は、常に変化変滅していて一瞬たりとも同じ状態に止まることが無い。是(これ)が生まれたり、滅んだりしている現象世界の真実の姿・状態・働きなのである。(前半) この儚い空しい現象生命に執着することをやめて、「移るもの自ず移りて自ず消ゆ」というように生死を達観し超越するとき、煩悩を脱却して、自由自在・真清浄の永遠の生命の自覚に到達し、法楽(無限の喜び)をもって活きるようになるのである。 雪山童子〔釈尊が過去世において雪山(ヒマラヤ)で修行したときの名〕が修行中に、羅刹(鬼)がこの偈の前半を口ずさんでいるのを聞いて、後半も是非聞きたいと思って、是非とも教えて欲しいと頼むと、羅刹は「只では教えるわけにゆかない、お前の生命と引換えなら教えてやってもよい」と答えた。その偈の後半をどうしても知りたかった雪山童子はためらう事もなく、「もし後半の偈を教えてくれるのなら、教えてくれた後にこの身体を差し上げよう」と約束した。そしてその偈を聞いた後に、羅刹にその身体を食われたのであった。真理を求める者の態度はこのようでなければならないのである。 いろは歌(47字)は「雪山偈」の意を表している。 色は匂へど散りぬるを我が世誰ぞ常ならむ有為の奥山今日越えて浅き夢見じ酔ひもせず。 永遠の生命を自覚(悟りを得る)するには、移り変わる姿に囚われなくなることが必要である。現象生命に執着したままでは、永遠の生命を自覚することは不可能なのである。思い通りに生きようというのは、業想念の奴隷になっている状態であって、他に求める心が少しでもあったら、移り変わる姿に囚われているわけである。真理に・神さまに自分を与え尽くすことによってのみ、現象生命に執着している自分が消えて無くなるのである。古神道では至忠・至孝・至悌の生き方、絶対神への絶対奉仕が悟りへの道であり、絶対神の導きのままに、他への奉仕(謹んで献身する)を徹底的に実践してゆくのである。 |
お金があるから幸せです。健康だから幸せです。おいしい物が食べられるから幸せです。美しい服を着られるから幸せです。入学試験に合格したから幸せです。夫婦仲が良いから幸せです。いい子供に恵まれて幸せです。・・・・等々。 一般に幸福とはこのように想念感情が喜べる状態が続いているものを指しています。しかし、これらの幸福は時には一瞬にして崩れさってしまうものなのです。特に今日のように、地球の滅亡の危機が叫ばれ、過去世から積み重ねてきた悪業のすべてが浮かび出て消え去ろうとする時期においては、明日の運命がどうなるかは肉体人間には予測もつかないことなのです。人間の運命は過去世からの想念行為によって一応定められているものなので、運勢が上昇中の時は良いとしても、運勢が下降するときには不幸な状態が続くものなのです。だから表面上のそういう幸福だけを追いまわしていては、真実の幸福はもちろんのこと、この世の幸せな状態をつかむこともできなくなってくるのです。そういう時には運気の流れを超えること、つまり運気の波動の奥にある神霊波動の中に飛込むことが必要なのです。神霊波動に自己の心の波を合せる祈りによって、運命は改善されてゆくのです。 しかし、この世の幸、不幸だけにとらわれて一喜一憂しているのは愚かなことです。真実の幸福とは、もっともっと根本的なものなのです。真実の幸福は表面の生活の変化で不幸になったり、他の影響で崩れるようなものではないのです。真実の幸福とは、人間の生命の本質(神)をしっかり知った時、あるいは生命の本源(神)にまっすぐつながった時から得られる幸福なのです。それは神と人間との一体化の道、祈りの道の中から生れて来るものなのです。永遠の生命を自己の物とする、神の御心と一つになるためには肉体人間としての自己、自我想念を静めて、じっと神様の御心の中を見つめることが大切なのです。その見つめる方法が祈りであるのです。神様の御心の中に厳然と存在している完全平和をじっとみつめることによって、平和な心になってゆくことが、真実の幸福なのであり、とりもなおさずそれが地球の滅亡を防ぐ一番の方法でもあるのです。 それ故に、表面的な幸福を追い求めるのは二の次にして、まず神との一体化を目指して一瞬一瞬真剣に祈り続けてゆかなければならないのです。真実の幸福はあなた自身の心の奥に存在しているのですから。 『ありがとうございます』と、ひたすら祈り続けて、すべてに全力を尽くすのです。 |
平和運動の心構え 平和運動は、自分自身の心を本当に平和な状態にする為の、具体的な実践活動である。 本当の心の平和とは (1) まず第一に、自分自身が本心の立場に戻ることである。 何を実行すればよいのか (1) “本心とは何か”をしっかり学んで知ることである。 古神道では、“神さまへの絶対奉仕が真の悟りへの道”である。神さまの御心は皆の幸せの実現にあるのだから、皆の本心の自覚が深まるように、徹底して活きることである。仏教においても、六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・般若)の実践が悟りへの道である。布施行(報いを求めずに、喜んで、与え尽くす)には三種あり、財施(自分の持っている善きものを他に施す)・法施(真理を教える、真理の言葉を普及する)・無畏施〔真実の祈りによって、業想念(恐怖)を取り除き、本心(安心立命)の自覚を与える〕の与え尽くす生き方である。与え尽くすことによって自分が無になり、悟れるのである。 |
感謝とは、唯一絶対者(大自然・神・仏)の大生命波動の放射を心に感受したときに、自然に湧き出てくる心の状態です。即ち、嬉しいこと、楽しいこと、有り難いこと、素晴らしいこと、等々の絶対者から現れたすべてに対して、その光明波動を心に感受したときの幅広い心の状態です。
草花が美しく咲いているのを見て、ああ 美しいなあ!と感ずるのが感謝。 どのようなものに対しても、感謝を積み重ねてゆけば、その感謝は無限に深められてゆき、感謝の極致に至れば、それは絶対者(一切皆善至美至妙完全円満大調和)そのものであるという実感にまで高めあげられるのです。「鰯の頭も信心から後光が射す」という諺のように、例え鬼のような姑がいるとしても、心の中で、「ありがとうございます」と唱え続けてゆくことが出来るならば、感謝の積み重ねに比例して、より素晴らしく感じられるようになり、いつか必ず、その姑を絶対者そのものと実感できるときが来るに違いないのです。だからどのような方便を使ってでも、感謝を積み重ねてゆくということが大切になってくるのです。例えば、自分の過去世からの悪業を観音様が振り替わって消してくださっている姿が、今の鬼のような姑の姿なのである、「ああ 観音様 御免なさい、ありがとうございます」と感謝するのも一つの方便の利用の仕方なのです。 「ありがとうございます」という言葉は、「絶対者の大生命波動が全大宇宙に大光明燦然と満ちわたっている」という意味を現しています。つまり絶対者の働きを 今・ここに 感じ取ることができたときに、心の奥から自然に湧き出てくるのが、“ありがとうございます”という感謝の心なのです。 もし絶対者の働きが無ければ、この世に一つの原子さえも存在しない全くの無の世界になってしまうのです。全大宇宙に存在するすべてのものは、私達一人一人を幸せ一杯にするために、絶対者が苦心して生み出した素晴らしいものばかりです。無限の種類の無限の姿! どの一つをとっても最高の芸術作品です。カラスの色の黒いのも苦心の程がしのばれるではありませんか? しかし、せっかくのプレゼントも、感謝の心で受け止めて心ゆくまで味わってくれる人間がいなければ、何の役にも立たないのです。 もし太陽が存在しなかったら、この世は闇です! 光と闇、生と死、善と悪、真と偽、美と醜、富と貧、健康と病気、自由と束縛、平和と戦争、幸福と不幸、・・・・・等々、この世にはプラス面とマイナス面の両方が厳然と存在しています。 完全なる絶対者が何故プラス面だけではなく、マイナス面をも生み出したのか? その理由を知ることは幸福への第一歩です。それは マイナス面は常にプラス面を浮かび上がらせて、プラス面をより一層素晴らしく感じさせてくれる大きな働きをするからです。例えば 身体に万病をかかえている立場からすれば、千の病も、百の病も、十の病も、より一層病の少なくなった素晴らしい、有り難い、幸せな状態であるのです。このように病の極から見て、病が一つ減った!有り難い! 病が二つ減った!有り難い!というように感謝を積み重ねてゆくと、普段は当たり前に思って感謝一つしなかった健康に対して、無限の感謝が湧き出てくるのです。更にその上に今度はプラス面に心を向けて、目がある!有り難い! 鼻がある!有り難い! 口がある!有り難い! 手がある!有り難い! 足がある!有り難い! というように、プラスの方向に感謝を積み重ねてゆくと、“無限の無限”の感謝が自然に湧き出てくるのです。 幸せは 感謝の広がりと深まりに比例して、無限に大きく深いものになってゆくのです。無限の恵みを与えられていても、感謝の心の無い人は幸せではないのです。幸福・不幸、地獄・極楽 は自分自身の心で感じ取るものなのです。自分の心の持ちかた一つで決まるものなのです。だから マイナス無限大からプラス無限大の両極にわたって存在する、千変万化の無限無数の色々な表現を、マイナス無限大の極致から光一元に拝み上げて、“無限の無限”の深い感謝を積み重ねてゆけば、真実の幸せをつかむことができるのです。 幸せの“青い鳥”は あなた自身の心なのです。 |
守護霊 それはあなたの神さまです
あなたは“守護霊”をご存じですか? |
アホ賛歌
アホになれ! |
光一元の生き方で明るく幸せに! 光と闇、生と死、善と悪、真と偽、美と醜、富と貧、健康と病気、自由と東縛、平和と争い、幸福と不幸、喜びと悲しみ、楽しみと苦しみ、調和と不調和、完全と不完全、・・・・・・・等々、宇宙のすべてのものは、+(プラス)と−(マイナス)の両性・両極から成り立っていて、−∞(マイナス無限大)から+∞(プラス無限大)の両極にわたって、千変万化の色々な表現を連続的にとっています。この−∞と+∞の両極を把握して、どちらかの極から、その全相を明るく眺めてゆくとき、すべてに一元的な生き方ができるのです。この一元的な生き方になったとき、だれでも幸せ一杯の人生を歩むことができるのです。 一例として、光と闇を例えにとって考えてみましょう。光の全く無い状態が真っ暗闇(絶対の闇、−∞の闇、闇の極致)です。その反対に、太陽の無限億万倍とも言える大光源が無限光(絶対の光、+∞の光、光の極致)です。その両極の間には連続的な光明の移り変わりが見られます。線香のポツンとした火、蝋燭の光、蛍の光、星の光、雪明かり、月明かり、電灯、曇天の明るさ、青空の明るさ、春の陽光、真夏の太陽、というように、種々様々な光明が連続的に存在しています。この無限とも言える光の表現を、−∞(真っ暗闇)の立場に立って眺めて見るならば、その一つ一つがどれほど素晴らしく感じられることでしょう。しかし、かつては感動を覚えたに違いない、その至美至妙な光の表現も、慣れるにつれて無感動となり、感謝も忘れがちとなってきます。停電のときに、電灯の有り難さが改めて思い返されるように、常々から初心に帰って−∞(何も無い状態)の立場から、すべての表現を感じ取ってゆくことが大切になってくるのです。 幸せはすべて自分自身の心で感じ取るものです。自分の心の持ちかた一つで決まるものです。−∞(地獄のどん底)の立場から、感謝を積み重ねて、今を受け止めてゆくことができたなら、どのような境遇にある人も、無限の幸せを感じ取ることができるはずです。大切なことは、常に明るく感謝の心で、すべてを受けてゆくことです。その為には、これ以上、下に落ちる心配の無い立場(地獄のどん底)に自分を置いて見て、そこから上方だけを仰ぎ見てゆくことです。相対的な比較上の一つの立場から眺めるのではなく、すべてを一元に見てゆくことこそ、真実の幸せをつかむ唯一絶対の道なのです。(地獄のエンマ大王より) |
天照大御神 天 : 時間的にも空間的にもすべてを尽くす、三世十方に渉る無限の法界、全大宇宙。 照 : 自ら照り、他を自然に照らす、テル・テラスを一如に、自他一如の、大光明遍照。 天照大御神は絶対統一神である。 天照大御神出生前の一切の神々は、天照大御神を顕わすための出現であり、出生後の一切の神々は、天照大御神の神性神徳を顕わすための出現である。 隠身(絶対)(天之御中主神から・・・・・)・仮凝身(創造)(伊邪那岐神から・・・・・)の一切の神々を総括して、天照大御神(統一)は神身変換の焦点に立ち、駈身(自由自在)・限身(限定)の一切の神々として自らを展開させてゆくのである。駈身・限身の一切(無限無数無量)の神々は、天照大御神の分身の神相である。それ故、天照大御神の外に一切の万神・万生・万有は存在しないのである。天照大御神は一切万神万生万有を至護愛育する親に当たる。 天照大御神は常・楽・我・浄を根本神性に持つ。 常 : 常住不滅(永遠の生命) 楽 : 無限の法楽(真歓喜) 我 : 唯我独尊(絶対の尊厳) 浄 : 絶対の清浄(真清浄) 天照大御神は 真・善・美・聖 である。 私達が、天照大御神の信仰に没入し、絶対信順するとき、常・楽・我・浄を自覚し、真・善・美・聖を表現するに至るのである。そして寝ても覚めても、ああ嬉しい! ああ楽しい! ああ有り難い!という無限の歓喜心が泉のように湧き起こってくるのである。 真実の幸せは、他から奪ったり、他に求めて得られるものではなく、禊祓を修して、天照大御神の無限の神力に絶対抱擁された時に、自然に授与されるものである。 禊祓(みそぎはらい)とは、上面に付着している汚濁を単に洗い落とすというようなことではなく、有相のすべてを祓って祓って祓い尽くし、有相のことごとくを離脱し、最極底に到達して、一切万神万生万有の発現の本であるところの天照大御神を、しっかりとつかんで顕示してゆくことである。 “天照大御神の外に何ものも無い! すべては天照大御神! 大光明燦然! ありがとうございます!” |
盆踊りの由来 目連は、幼少の時に父母に死別し、お釈迦様のもとで永い間修業をして、ついに神通力第一と言われるほどの十大弟子の一人になった。親孝行な目連は、初めて神通力を得ると、まず第一に父母を救って養育の恩に報いたいと思った。そして神通力をもってあの世の色々な世界を捜し回って、やっと餓鬼道にいる母を見つけることができた。早速ご飯をもって駆けつけ供養すると、母は大変喜んでご飯を口に入れようとした。ところがご飯はたちまち火になって食べることができなかった。 目連は、驚き悲しんで直ちにお釈迦様のもとに駆けつけて、どうしたら母を救うことができるかを尋ねた。お釈迦様は、「お前の母は、一人子のお前に、他人より美しい着物を着せたい、おいしい食物を食べさせたいと、我が子かわいさの故に罪を重ね、餓鬼道に落ちたのである。その罪は深くて、到底今のお前一人の力では救うことはできない。たとえお前の母を思う情が天地に溢れ、悲しみの声が天地を揺り動かしたとしても、どうすることもできないだろう。今はただ、十方のたくさんの僧(真理を悟った人)の力を借りるしかない。ちょうど七月十五日は夏安居(げあんご:無罪相ざんげを修して悟りを深める日)の聖日である。この日にあらゆる御馳走を供えて、十方のたくさんの僧に供養すれば、彼らは一心にその供養を受けてくれるであろう。その僧達の徳は大海のように限りのないものなので、その功徳は広大なものである。その功徳によってお前の母の苦しみは救われるだろう。」 こうして直ちに目連の手によって衆僧供養が行われた。その結果、目連の母は永い間の餓鬼道の苦しみから救われることができた。目連は母の救われた嬉しさの余り、踊り狂ったと言う。そこから盆踊りが行われるようになった。 お釈迦様は、「目連よ、後の一切の人々で、もし親孝行の心ある者は、念々に父母を思い、七月十五日は仏の歓喜の日、僧の悟りの深める日であるから、年毎に百味の御馳走を供えて、現在の父母及び、七世の父母(人間は何回も生まれ変わっているうちに、すべての人を父母とする因縁ができる)の養育の恩、慈悲の恩に報いるために、十方のたくさんの僧(真理を悟った人)に供養しなさい。そうすればお前の母のように、それらの父母も一切の苦悩から救われるであろう。」と言われた。それから父母報恩の為のうら盆が一般に行われるようになった。 |
体心霊包の女体を有する女性と、霊心体包の男体を有する男性とは、外見上は同じ肉体のようであっても、根本的に異なる神性を賦与されているのである。この二つの相反する神性の持ち主が、相互にその特質を発揮して、大調和の楽土を地上に建設しつつあるのである。本来男女に尊卑は無いのである。どちらも尊厳極まりないものである。その意味では男女は平等である。しかしその賦与されている特質は同じでは無いのである。それを不平等と言うのは間違っている。それは相互に敬愛し、助け合って、その特有の美質を発揮することによって、より素晴らしい・美しい・愛に満ちた神聖恋慕性を表現しようとしているのが、最初からの神の御心であり、計画であるからである。 女性にとっては、外部環境は己が魂である。女性は環境によって変化するものである。女性は環境の変化によって、どんな人格にも性質にも風俗習慣にも変化してゆける特能を備えているのである。女性は自己の外部環境から心に吸収したものを、再び外部環境に投影して新たな環境を作り上げてゆくもの、即ち環境の作成者・環境の母である。従って女性は外部環境から、常に自分にとって必要な、素晴らしいもの・善きもの・美しいもの・幸せなもの等々を、しっかり選んで心に取り入れなければならないのである。無差別に何でも心に取り入れてしまうのは愚かな生き方である。それは環境の奴隷であって、環境の母としての女性の特質を真に活かしきっているのではないのである、女性の特質を最高に活かしきっている状態というのは、宇宙のすべてを神の愛の現れと礼拝感謝している宗教的信仰に見出すことができるのである。自己の外部環境である宇宙が、神の大慈愛の現れであり、無限に素晴らしく・無限に美しく・無限に善きものであると、心にしっかり感受してゆくことは、この世に神の国を、地上天国を実現してゆく最高の生き方となるものである。 男性にとって大切なことは、自己を深く深く掘り下げて、本心の自分をしっかりと把握し、与えて与えて与え尽くす本心の生き方を徹底することである。偉大な発明発見等は、自己を深く掘り下げた男性の手によってなされているのである。愛深き・善なる行いをしている男性は、自己を深く掘り下げて、与え尽くす本心の自分をしっかりと生きているのである。自己の掘り下げ方が浅いと、肉欲から生ずる五欲の奴隷となって、自分勝手な・わがままな・思いどおりに生きようとする我利我欲の他に求める生き方となって、環境を破壊し・みんなを不幸にしてゆくのみなのである。自己の理想・主義・主張等を、周囲の影響を排除して自分の思いどおりに貫徹して、自己の尊厳を確立してゆくということは、男性の特質であって、それを活かす為には先ず自己を深く深く掘り下げることである。 |
勘違いばかりをしていては、正しい道を歩めないのです。業想念の心というものは、本心の心と全く正反対なのです・本心の心であれば、神さまの御心を正しく受けられても、業想念の心では、逆の間違った受け方をしてしまうのです。一寸油断すると、直ぐに業想念の心の奴隷に陥るのです。常に本心の心をしっかりと生きていないと、正しいと思っていても、間違った道を歩んでいることになるのです。正しい道を歩んでいたら、必ず心が日に日に明るく勇んで来るのです。心の幸せ・喜び・安らぎ・感謝が、日に日に深く増大して来るのです。 本心の心をしっかりと生きるということは、常に神さまを中心に・神さまを第一に、何よりも神さまへの感謝と奉仕を最優先して、神さまとの交流を密接にすることなのです。神さまとの交流を密接にして、神さまの助けを大きく受け入れてゆかなければ、過去世の無限の業想念(借り・マイナス)を消し去ることは不可能なのです、自力で返そうとしても無理なのです。高利の無限の借金は、どんどん殖え続けているのです。噴火山上の舞踏に酔い痴れていては、七難八苦の業火に見舞われるのは必至です。積み重ねた業想念は、必ず自壊する時が来るのです。業想念の心を生きていては、必ず地獄を見ることになるのです。業想念の心のままで、救われることは絶対に無いのです。本心の心に戻ってこそ、本当に救われるのです。 神さまへの奉仕と言っても、本心の心と業想念の心とでは、受け取り方が全く正反対なのです。本心の心の立場から見ると、神さまへの奉仕というのは、一瞬一瞬、神さまから与えられたすべてへの感謝なのです。神さまの御用に使っていただけたことに対する、感謝と喜びなのです。だからこそ更に多大に、神さまの御用に使っていただけるようになるのです。自我の誇りや願いの微塵も無いのが、本心の心による、一瞬一瞬新たなる、神さまへの奉仕なのです。業想念の心(自我の心)でする奉仕には、自分はこれだけのことをしたのだという自我誇りと、お返しを求める我欲が付き物です。自我誇りも我欲も、神さまの御心とは波長が合わないのです。だから自我の心でする奉仕では、神さまの助けを受けることはできないのです。謙虚に謙虚に、感謝を深めてゆかなければ、神さまの本当の助けを受けて、業想念の心を消し去ってもらうことはできないのです。 マイホーム主義的な、自我の願いを優先する生き方では、永遠に本心の自分には戻れないのです。自分のすべてを、神さまに捧げ尽くす、神さまへの絶対奉仕の生き方のみが、神さまの完璧な守護を受けるのです。そうなれば八百万の神々が、宇宙全体が、自分に奉仕して、無限の無限の幸せで一杯にしてくれるのです。 |
「人に迷惑をかけない。自分のことは自分でする。余った力で人の手助けをする。」、「報恩感謝の心で恩返しする。生活の自立を計る。他の生活を支え育てる。」、これらは人としての当然の責務である。その為には粉骨砕身・一所懸命・献身的に働かなければならないのである。そうすることによって利己的な自我が消え、愛他的な本心の心が目覚めてくるのである。自己中心的な考えを捨て、自分の幸せは後回しにして、周囲の人の幸せの為に、自分を犠牲にして働くことは、本心の自分に戻る為の第一歩なのである。業想念の自分勝手な願いを捨て切ってこそ、他の幸せの為に自分のすべてを捧げ尽くし・与え尽くしてこそ、本心の自分に戻り易くなるのである。本心の立場に戻りさえすれば、自分の幸せに必要なものは既に豊かに与えられていることに気付くのである。そしてその幸せを、深い感謝の心で自然に受け入れることができるのである。業想念の心であれこれ考える暇があっては、本心の自分に戻り難いのである。そうした暇を作らないようにする為にも、他の幸せの為に一所懸命に働くということが大切なのである。 このような自分を捨て切った生活の上に立ってこそ、真実の祈りの生活は築かれてゆくのである。真実の祈りは、本心(神)の自分に戻る為のものであり、本心の自分を生きる為のものであり、他の幸せを実現する為のものであり、神さまの御心を顕現する為のものである。小さな自分の安逸を貪る為のものであったり、自我の欲望満足に利用する為のものであっては、その祈りは真実の祈りでは無いのである。真実の祈りは、観念の遊戯や気休め的なものでは無いのである。真実の祈りは、自分のいのちを、自分のすべてを、神さまに捧げ尽くすことなのである。自分のこの世のいのちが今の一瞬でお終いになるかも知れないのである。この命懸けの・真剣な・死ぬか生きるかの大事な時に、居眠りをしていたり、雑念に囚われている余裕など微塵も無い筈である。自分のいのちを無条件で神さまに捧げ尽くしてこそ、神さまから永遠のいのち(本心の自覚)が与え返されるのである。小さな自我の一切を神さまに捧げ尽くして、神さまの無限の力によって、その小さな自我を本心の自分と置き換えてもらってこそ、本心(永遠の生命)の真実の心の安らぎが訪れて来るのである。 真実の祈りは、宇宙絶対神の御心のままに、自分のすべてを捧げ尽くして生きることである。布施(財施・法施・無畏施)行に徹することである。自分に与えられ・預けられているすべての能力・物を生かし切ることである。自分に知らされ・教えられた真理を、必要な人々に積極的に伝えることである。宇宙のすべてを、絶対神の全徳の無限の無限の輝きそのものとして、光一元に礼拝し感謝することである。 |
『般若心経』とは、感謝の真祈りのことです。『空』とは、絶対神の御心のことです。絶対神の御心は、無限億万分の一秒という一瞬間に、新たなる全徳の無限の無限の輝き・全大宇宙のすべてのすべて・最高表現と成って、顕現し続けているのです。『今』の一瞬一瞬に、すべての時間とすべての空間の織り成す、最高表現の宇宙が、間断無く新生し続けているのです。過去や現実に囚われない、自由自在な本心の心、即ち観自在菩薩は、その真実の姿こそが本物であると直観するのです。過去や現実のすべての縛りから自由になれば、心の最深奥に実在する、絶対神の御心・『空』の中から、一瞬一瞬新たに新生して来る、新たなる全徳の無限の無限の輝きを感受できるのです。絶対神の全徳の無限の無限の光のシャワーを浴びれば、一切の苦厄・七難八苦は、瞬時に消滅するのです。 一瞬一瞬新たに、絶対より新生して来る、新たなる全徳の無限の無限の輝き、即ち最高表現の全大宇宙のすべてのすべては、絶対神の御心・『空』と全く一つのものなのです。絶対神は、一瞬一瞬、その装いを新たにして、最高の御姿を表現し続けているのです。その最高の御姿は、絶対神そのものなのです。絶対神とその最高の御姿とは、切り離すことのできない、全く一つのものです。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色なのです。絶対神並びにその最高表現は、永遠不滅・金剛不壊・真清浄・完全円満完璧・無限の無限です。だから不生不滅、不垢不浄、不増不滅なのです。 絶対神・絶対神の御心・絶対神の最高表現、即ち『空』の相と、五感六感で感受している姿、即ち過去の残像との間には、雲泥の差・天地懸隔の差が有るのです。過去の残像としての、夢・幻のような、不完全なものはすべて、一瞬一瞬新たに新生して来る、絶対神の最高表現の中には、決して存在することはできないのです。是故空中無色無受想行識なのです。 それでは新たなる全徳の無限の無限の輝きを感受する為には、どのようにすれば一番良いのか? それは(1)既に悟っている自分・既に救われている自分・既に祈っている自分が、実在していることを信じることです。(2)過去や現実に囚われている、業想念の心・五欲の心・自我の心は、本当の自分では無いのだと、完全否定することです。(3)自分のすべてを絶対神に捧げ尽くすことによって、古い自分・マイナスの自分・業想念の心を消し去ってもらうことです。(4)新たなる全徳の無限の無限の輝きが一杯!(新たなる無限の無限の幸せが一杯!・喜び・安らぎ・平和・調和・恵み・健康・愛・知恵・美しさ・素晴らしさ・清らかさ・能力・力・・・・・・)と一心に祈ることです。(5)『ありがとうございます』(絶対統一神 今ここに 在します)と、感謝の心に成り切ることです。 |
神さまに対して、古い自分を捧げ尽くし、お返しし、消し去ってもらえば、新しい自分・本心の自分が出て来るのです。本心(無限の無限の幸せ)の自分に戻り、本心の自分を輝かせる為には、業想念(七難八苦)の自分を消し去ってもらうことが、絶対の必須条件なのです。現実に執着し、過去を掴むということは、古い自分をどんどん蓄積していることになるのです。古い自分を溜め込むから、新しい自分・本心の自分は出て来れなくなるのです。溜め込んだ古い空気を吐き出せば、新鮮な空気を吸うことができるように、古い自分(業想念の自分)をお返しすれば、新しい自分(本心の自分)に戻れるのです。絶対より新生してくる、新しい自分・本心の自分が、最も幸せな自分なのです。過去の自分・古い自分・業想念の自分は、古くなればなるほど、汚れ(マイナス)が多くなるのです。現実(運命)を善くする為にも、新旧の置き換えを速くすることが大事なのです。現実に執着し、運命のマイナスを掴んでいては、新旧の置き換えを妨げるだけです。自分の世界のすべてを、神さまにお返しすることによって、一瞬一瞬新たに、神さまの世界を受け直せるのです。そうすれば現実の世界は自然に善くなって来るのです。 運命改善の一番の秘訣は、神さまに全託することなのです。神さまにすべてをお返しして、神きまからすべてを受け直すのです。そうすればマイナスの多い古い世界が消し去られ、プラスの多い新しい世界に置き換えてもらえるのです。マイナスの部分をプラスに変えるだけでは、部分の置き換えです。それでは自分の世界全体の置き換えはできないのです。自分の世界全体の置き換えをしなければ、古い世界が積み重なって、マイナスが多くなって来るのです。部分の修正だけでは、大きな運命の改善は望めないのです。本当の運命の改善は、全体の置き換えによってのみ、可能になるのです。自分の見ている世界全体を、新しい神さまの世界と置き換えてもらうのです。 古い世界に執着したままでは、新しい世界を受けることは不可能なのです。部分の修正だけで満足していては、古い世界に執着したままです。執着の心は、業想念を積み重ね、益々執着が強くなるのです。一大勇猛心をもって、古い世界全体を、神さまにお返しすることが大事なのです。古い世界全体が、業想念の自分なのです。それを神さまに捧げ尽くし、お返しすることによって、消し去ってもらえるのです。その後に新しい世界全体が、本心の自分として現れて来るのです。自分とは何か? 本当の自分とは何か? 自分自身が本当に納得できる答えを、見出さなければならないのです。本当に納得し、本当に満足できる、永遠に変わらない答えを見出した時に、本当の自分・本心の自分を発見することになるのです。本当の自分を発見することが、唯一無二の最高最大の人生の目的なのです。 |
『自分とは何か?』『人間とは何か?』『人生の目的とは何か?』これらの根本命題に対して、明確な答えを出せる人が、人生における真の勝利者となるのです。本来『自分』というのは、自ずから存在する者(絶対神)の分かれ(分身)なのです。だから『自分』には、無限に小さな自分から無限に大きな自分、無限に低い自分から無限に高い自分、無限に古い自分から無限に新しい自分、無限に単純な自分から無限に複雑な自分、等々の種々様々の・有りと有らゆる・無限の無限の自分が、存在しているのです。どの自分を自分自身として掴むかによって、どのような自分にでも成れるのです。しっかりと掴んだものが、自分自身と成るのです。宇宙を自分として大きく掴むことも、原子を自分として小さく掴むことも、自由自在なのです。人間を自分として掴むことも、動物や植物を自分として掴むことも、自由自在なのです。霊(神・いのち)を自分として掴むことも、魂(心)を自分として掴むことも、魄(肉体)を自分として掴むことも、自由自在なのです。過去の姿を自分として掴むことも、未来の姿を自分として掴むことも、自由自在なのです。どのような自分を掴んでも、どのような自分を生きても、各自の自由自在なのです。 言葉(祈り)によって、自分を掴み、自分を定め、自分を生きているのです。自分の駆使する言葉(祈り)によって、自分の運命を定めているのです。今の自分を生きたいのであれば、今の自分を肯定し続ければ良いのです。今の運命で満足ならば、今の運命を言葉で確認すれば良いのです。もし今の自分から別の自分に変化させたいのであれば、今の自分を別の自分に捧げ尽くしてゆけば良いのです。今の自分のすべてを、与え尽くし・捧げ尽くし・渡してしまえば、別の自分に移ることができるのです。今の運命を別の運命に変えたいのであれば、今の運命のことは一切語らず(言葉にしないで)、別の運命のことのみを語れば(言葉にすれば)良いのです。 すべては自分の言葉通りに・思い通りに・願い通りに成るのです。自分の真実の言葉・自分の真実の思い・自分の真実の願いを、祈り言葉(祈り)にまで昇華させれば、すべての願いは成就するのです。先ずは業想念の心の自分から、本心の心の自分に戻れば、これらのことは良く理解できるのです。もし業想念の心(五欲・煩悩・自我)の自分から、本心の心(神)の自分に戻りたいのであれば、神さまへの絶対奉仕に生きるのが、最善・最良・最速です。何故なら神さまに対して、自分のすべてを捧げ尽くせば、業想念の心の自分を完璧に消し去って下さるのです。そしてその後には必ず、本心の心の自分が輝き出て来るからです。本心の心の自分に戻りさえすれば、神さまへの絶対奉仕に生きることが、一番の幸せであると、自然に思えるのです。 |
正しい生き方・正しい信仰の仕方・正しい祈り方が、本心開発即ち『悟りを開く』為には、絶対に必要なのです。間違った生き方・間違った信仰の仕方・間違った祈り方では、どれだけ真剣に・熱心に、何万年継続しても、益々業想念を積み重ねて、悟りから遠ざかることになるのです。本心の心の自分を生きようとすれば、すべては正しくなって来るのです。業想念の心の自分を生きようとすれば、すべては間違って来るのです。本心の心の自分とは、一瞬一瞬新たに、絶対神より新生して来る自分です。業想念の心の自分とは、過去を掴み、過去を引きずり、過去の重荷を背負っている自分です。本心の心の自分である為には、今受けたものに執着しないで、直ちにすべてを神さまにお返しして、消し去っていただくことが必要なのです。新たに新たに受け直し続けてゆけば、本心の心の自分に戻れるのです。 正しい生き方とは、『与える』生き方です。間違った生き方とは、「求める」生き方です。『与える』生き方は、心に徳(貯金・プラス)を積み重ねて、感謝・幸せ・喜び・安らぎで一杯になるのです。「求める」生き方は、心に業想念(借金・マイナス)を積み重ねて、不平不満不足の心に陥り、七難八苦で一杯になるのです。正しい信仰の仕方とは、自分のすべてを、神さまに捧げ尽くし続けて、神さまに融け入り・一体化する、至忠至孝至悌の生き方です。間違った信仰の仕方とは、小さな自我の自分を掴んだままで、御利益(お蔭)ばかりを求める生き方です。正しい信仰を続ければ必ず、新たなる全徳の無限の無限の輝きを、感受できるようになるのです。間違った信仰を続ければ必ず、自分の心の投影の世界(お蔭)も、求める心(不足の思い)の通りに、マイナスで一杯になって来るのです。正しい祈り方とは、先ず自分のすべてを神さまに捧げ尽くして、無我無心無欲の心になって、謙虚に・素直に、新たなる全徳の無限の無限の輝きを感受する祈り方です。間違った祈り方とは、自我の思い・願いを実現する為に、自分の心の中から念力で、先にプラス(貯金)を引き出して、後にマイナス(借金)を残す祈り方です。正しく祈り続ければ、必ず運命は善くなり、本心は大きく輝き出て来るのです。 正しく祈れるようになることが、速やかに悟りを開く為の、絶対条件なのです。日常生活においても、常に真剣に、神さまへの絶対奉仕に生きる必要があるのは、祈り易くする為の助行になるからです。常日頃から、『与え尽くす』心になっていたら、神さまの御心と波長が合って、正しい祈りができるのです。何事も真剣に・命懸けでしていたら、神さまの御心と波長が合って、神さまの助けを大きく受け入れることができるのです。自分のすべてを、本当に与え尽くせば、悟りは自然に開けるのです。 |
心に業想念(想念感情)を一杯溜め込んでは、本心(幸せな心)は輝き出て来ないのです。幸せになる為には、心に溜まった業想念(ゴミ)を、消し去ることが大事なのです。業想念の浄めとゴミの焼却とは、共通点が多いのです。両者を対比させて考えると、良く判るのです。 ゴミを全部溜め込んだらどうなるかは、誰にも判る明白なことです。家中ゴミの山になったら、生活できなくなるのです。これと同じで、心に業想念が一杯になれば、七難八苦で一杯の状態になるのです。家の掃除とゴミの焼却が必要なように、心の清掃浄化は絶対に必要なのです。 毎日毎日、家の掃除とゴミの焼却をすれば、ゴミは溜まらないのです。毎日毎日、業想念を消し去って、本心の心を磨き出せば、業想念は溜まらないのです。ところが日々の心の磨きを忘れると、掃除を一切しなくなったのと同じで、業想念(ゴミ)は溜まりに溜まるのです。そうなると益々、心の磨き(掃除)が億劫になるのです。 心に溜まった業想念は、神さまに引き取ってもらった時に、本当に消え去るのです。喜んで喜んで、神さまへの奉仕に生きれば、どんどん業想念を引き取って、消し去ってくださるのです、人への奉仕は、自分の業想念を、相手に背負ってもらうことなのです。反対に他から奉仕されるということは、他の業想念を、自分が背負うことなのです。 心に業想念が残っている間は、人への奉仕は、自分の業想念を相手に背負わせる、マイナスの行為なのです。先ず自分の業想念を、神さまへの奉仕によって、消し去ってもらうことが大事なのです。そうすれば人への奉仕も、幸せを与えるプラスの行為になって来るのです。神さまへの奉仕を忘れたら、折角の善意の働きも、マイナスになるのです。 求める心を生きる人は、他の業想念を沢山背負うことになって、心の苦しみは大きくなるのです。与える心を生きる人は、自分の業想念を他に背負ってもらえて、心の苦しみは軽くなるのです。助けられて喜ぶ生き方から、助けて喜ぶ生き方に変化しなければ、心の苦しみは絶えないものです。 溜まりに溜まったゴミの山を、自分で焼却するのは、大変なのです。無限の業想念を、自分の中で消し去ろうとすれば、七難八苦の苦しみを味わうことになるのです。救済の神々(集塵車)に預けて、絶対神の御心(焼却炉)の中で、消し去ってもらうことが、一番楽な方法なのです。喜んで喜んで、感謝一筋に、神さまへの絶対奉仕に生きれば、自他共に持つ無限の業想念を、短期間に消し去ってもらえるのです。神さまを無視した生き方では、業想念が消えないので、どんな生き方も回り道(遠回り)になるのです。 |
業想念の心を自分の心として掴むから、業想念の心の奴隷に陥るのです。いつまでも業想念の心を自分の心として掴んでいたら、永遠に業想念の心の奴隷のままです。それでは七難八苦から逃れることも、本心の心の自分に戻ることも、絶対に不可能なのです。自分が、自分自身が、すべてを決定しているのです。だから自分で自分を変えようとしなければ、自分で自分を変えてゆかなければ、永遠に今の奴隷状態のままで終わるのです。 本心の心の自分に戻る為には、本心の心を自分の心として、しっかりと掴むことが必要なのです。そして本心の心の自分を、真剣に生きようとしなければならないのです。本心の心の自分を、しっかりと生きることによってのみ、本心の心の自覚が深まって来るのです。本心の心を輝かせて、業想念の心を消し去ってゆくことによってのみ、神さまの最高表現・新たなる全徳の無限の無限の輝きを、感受できるようになるのです。 自分自身が、業想念の心の奴隷としての生き方を、選んでいる限りは、五欲の満足を目的とし、マイホーム主義的になるのは、必然の結果なのです。それでは本心の自分に戻ることも、本心を輝かせることも、悟りを開くことも、真実の幸せを掴むことも、絶対に無理なのです。業想念の心の本質・目的に向かって、七難八苦の状態・地獄のどん底・マイナスの極へ、いずれは落ちてゆくしか無いのです。 業想念の心で眺める現実の世界は、神さまの最高表現の世界とは、雲泥の差が有るのです。業想念の心が厚く積み重なる程、神さまの最高表現の世界から遠ざかり、マイナスが多くなるのです。本心の心で眺める現実の世界は、本心の心の輝きに比例して、神さまの最高表現の世界に近づいて、プラスが多くなるのです。無限に深い祈りの心境になれば、新たなる全徳の無限の無限の輝きで一杯の、最高表現の世界を感受できるのです。 本心の心の自分は、絶対より新生して来る、新しい自分です。本心の自分に戻るには、古い自分(業想念の心の自分)を、どんどん消し去ることが必要なのです。古い自分を消し去れば、新しい自分が自然に出て来るのです。古い自分を消し去る一番の方法は、自分のすべてを、神さまに捧げ尽くして、消し去ってもらうことなのです。 神さまへの絶対奉仕は、古い自分を消し去ってもらう為に必要なのです。神さまの為に真心こめて奉仕するのは、自分の心を納得させる為なのです。マイナスを拒絶する心を持っていると、神さまに対しても同じように、マイナスを引き受けてもらえないと、心の奥底で思うものです。だから自分の最高のプラスを捧げる為に、自分のすべて(生命)を捧げ尽くして、真心込めて、全力を尽くして、神さまの為に絶対奉仕するのです。自分の心を納得させた分だけの、神さまの助けを受けることになるからです。 |
正しく成る、本物に成る、完成する時代がやって来たのです。感謝の真祈りに応えて、宇宙絶対神の大きな働きが天下って来たのです。『唯一無二』なるものが、『無限』に分かれ、その分かれたものが、再び融合一体化して、一つの意志によって統一される時に、一大調和の姿を現すのです。これまでは『無限』に分かれた部分部分は、自己完成を目指して努力して来たのです。他を省みること無く、先ず自分自身の完成の為に、全力を尽くすことが必要だったのです。しかしこれからは小さな部分の完成では無く、大きな全体の完成に向けて、みんなが協力する時代になって来たのです。 白色の光(唯一無二)が七色の光(無限)に分かれ、その七色の光が協力し合って、一つの意志の下に、織り成す光の綾模様こそが、至美至妙の最高表現と成るのです。赤色の光がいつまでも、白色の光の中に止まっていたら、赤色の光としての個性を発揮することはできないのです。赤色の光は、赤色の光としての個性を、先ず最大限に発揮できるようになることが必要なのです。そして次にその個性を、全体の中で最高に生かしてゆくことが大事なのです。 部分としての自我の心を生きる時代は終わり、全体としての神我の心を生きる時代になって来たのです。葉っぱを貪り食う青虫の時代から、脱皮して、花から花へと花粉を媒介する蝶の時代になるのです。求める心の生き方を卒業して、与える心を生きるようになるのです。業想念の心の生き方から、本心の心の生き方へと、自然に変化してゆくのです。ボランティア(奉仕者)の時代になって来たのです。求める心は地獄を生み出し、与える心は極楽を生み出すのです。自分のすべて(いのち)を与え尽くすことに、大きな喜びと生き甲斐を感じる時代になって来たのです。 自分の個性を発揮し、自分の天命(天からの使命)を生きて、世界全体の大調和に貢献してゆくのです。人間だけでは無く、動物も植物も鉱物も、地球全体が一つの生命体として、美しい生命の花を咲かせるのです。みんなが褒め讃え合い、感謝し合い、喜びを表現してゆくのです。自我の心を死に切って、神さまの意志に素直に従うことが、本当の幸せであることに誰もが気付くのです。 『君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで』が、実現するのです。宇宙絶対神の創造は無限に無限に展開して、すべての部分が一つの意志に統べられて、宇宙全体が一大調和し、生命の花が最高に美しく咲き続けるのです。神さまの最高表現が、新たなる全徳の無限の無限の輝きが、天照大御神が現前するのです。色即是空、空即是色の真理が、みんなの心の中で、花開き、実を結ぶのです。 |
過去世に積み重ねた無限の業想念を、速やかに消し去ってもらう一番の方法は、神さまに自分のすべてを捧げ尽くして、神さまの御用に使ってもらうことなのです。無限の業想念(七難八苦・マイナス)を持ったままでも、神さまの御用に使ってもらえば、無限の大光明を浴びることになって、大きく業想念を消し去ってもらえるのです。 自分が立派になってから、神さまの御用に使ってもらおうと思うのは、非常に傲慢なのです。今の自分は神さまのお役に立てない駄目な人間です、と思うのは卑下慢なのです。また自分の力(能力・努力)で立派に成れると思うのは、非常に高慢なのです。どちらも素直さ・謙虚さが無いのです。神さまの助けを、頑固に拒絶しているのです。高利の無限の借金を抱えた人間は、どんなに努力して働いても、利息すら返せないのです。それと同じように無限の業想念を積み重ねた人間は、自力では絶対に救われないのです。 人類救済の為に働く高級神霊に、自分のすべてを委ねて、その御用に使ってもらうことが、真の他力の助けを受けることになるのです。甘い御利益信仰的な心で、この世的に他から助けを受けるのは、借り(業想念)を増やしているだけなのです。高級神霊のお手伝いをして、自分自身が大きなプラスの働きをすることによって、大きなマイナス(借り)を帳消しにできるのです。だから七難八苦の状態に置かれた時ほど、常に積極的に・前向きに、神さまの御用に使ってもらう必要があるのです。病気や怪我の時ほど、神さまの御用に使ってもらえば、病気や怪我も早く治るのです。お金に困る時ほど、神さまの御用に優先的にお金を使えば、金欠病も早く癒されるのです。どんな七難八苦の状態も、神さまのお手伝いをすればするほど、必ず速やかに消し去ってもらえるのです。 神さまに自分のすべてを捧げ尽くして、神さまの御用に使ってもらえば、神さまの完璧な守護を受けて、必要なものは豊かに与えられ、その幸せは絶対に崩れないのです。神さまへの奉仕を第一に・最優先している人は、必ずその幸せは日に日に大きくなってゆくのです。神さまへの奉仕を忘れ、後回しにしているから、今の幸せも崩れてゆくのです。神さまへの奉仕の程度に比例して、神さまの助けを受けることができるのです。何の奉仕もしなければ、神さまの助けを受けることはできないのです。それはちょうど胸一杯に吸い込んだ空気を、少しも吐き出さなければ、新しい空気を全く吸えないのと同じ原理です。古神道(神ながらの道)、至忠至孝至悌、神さまへの絶対奉仕の生き方は、自分のすべてを神さまに捧げ尽くすことによって、自我を消し去ってもらい、神さまと一体化し、神さまに成る道です。最も古くて最も新しい道、新たなる『今』の中に、すべてを見出す道です。古今東西、すべての世界に通用する、『悟り』への易行道です。 |
本当の自分は、神さまなのです。神さまである自分を、しっかりと肯定すれば、自由自在に無限力を発揮できるのです。神さま(霊・いのち)である自分が、先ず最初に存在していて、魂や肉体の自分は、その後に道具・表現として生まれているのです。神さまである自分は、魂や肉体の創造者であり、運命の支配者なのです。神さまである自分は、全智全能なのです。その自覚を深めることによって、無限力を発揮できるのです。神さまである本当の自分を、常にしっかりと大肯定して生きることが大事なのです。魂や肉体の自分を、本当の自分と錯覚するところに、根本の間違いが有るのです。神さまである自分を忘れたら、自在に無限力を発揮できないのです。魂の自分を生きるだけでは、過去世の重荷を背負い、七難八苦に見舞われるのです。肉体の自分を生きるだけでは、五欲の満足を優先させて、大きく業想念(マイナス)を積み重ねるだけです。 神さまである自分を、しっかりと生きることによって、本当の幸せは掴めるのです。魂の自分や肉体の自分だけでは、どんなに足掻いても、どんなに悪戦苦闘しても、どんなに努力しても、本当の幸せは掴めないのです。神さまである自分を封印したままでは、運命の奴隷に陥って、必ず行き詰まるのです。魂の自分や肉体の自分に執着して、間違って本当の自分と錯覚するから、神さまである自分を忘れ、神さまを遠くに離し、自分と別個に見てしまうようになるのです。本物を封印するのは、偽物を掴むからです。偽物を自分であると掴むことによって、本物を奥に封印してしまったのです。過去世から積み重ねて来た、無限の業想念(マイナスの言葉・思い)が、神さまである本当の自分を、しっかりと封印しているのです。 この封印を解く為には、過去世に積み重ねた無限の業想念を、消し去ることが必要なのです。 その方法としては、 (1) 業想念を消し去る為に、絶対神から派遣された、守護の神霊への絶え間ない感謝です。『守護霊さま、守護神さま、ありがとうございます。』 (2) 自分のすべてを、絶対神に捧げ尽くしてゆくことです。肉体の自分・魂の自分・いのちの自分を、過去の自分・現在の自分・未来の自分を、すべての自分を絶対神に捧げ尽くしてゆけば、古い自分はすべて消し去られて、新しい自分・神さまである自分が、復活して来るのです。 (3) すべてを神さまから、感謝を深めて受けることです。神さまへの感謝を忘れて受けたら、この世のどんなものにも、大きな業想念が付着して来るのです。 (4) 身を粉にして働いて、与えて・与えて・与え尽くすことです。そうすれば業想念も一緒に取ってもらえるのです。不労所得・貰い過ぎ・儲け過ぎは、大きな業想念を背負うことになるのです。 業想念を消し去る程度に比例して、この世の幸せも増大して来るのです。 |
神さまへの絶対奉仕は、本心開発・悟りへの最短コースなのです。自分のすべてを捧げ尽くして、無条件で神さまに仕え奉るのが、神さまへの絶対奉仕です。神さまの御心に帰一・随順・奉仕すれば、必ず神さまの助けを大きく受けることができるのです。神さまの助けを大きく受けることができた時に、過去世の無限の業想念を消し去ってもらえるのです。そして神さまの御用に使っていただいて、徳(大きなプラスの働き)を積むことができるのです。徳とは、神さまの御心を行ずること、即ち神さまの働きそのものなのです。徳を積むことが、本心を開発すること、本心を輝かせることになるのです。 神さまへの絶対奉仕には、・謙虚さ、・素直さ、・真剣さ、・責任感、(5)使命感が大事なのです。神さまに好かれる心・本心の心を生きてこそ、神さまの助けを大きく受けられるのです。本心の心をしっかりと生きれば、神さまへの絶対奉仕になるのです。本心の心を前向きに・積極的に生きようとすれば、神さまへの絶対奉仕になってゆくのです。本心の心を生きようとしていたら、決して業想念の心に負けることは無いのです。本心の心を生きるのを忘れるから、業想念の心の奴隷に陥るのです。 謙虚になる為には先ず、自分のすべては、神さまから与えられたものばかり、ということに気付くことです。傲慢さ(高慢と卑下慢)は、神さまの恩愛を無視し・拒絶するところから生ずるのです。すべてをプラスに、感謝一筋に受けてゆこうとすれば、謙虚に成れるのです。素直になる為には先ず、自我の心(過去に積み重ねた業想念の心)を捨て去ることです。過去の体験・経験に立脚して、自我の心を生きようとしていては、決して素直には成れないのです。過去の一切を、神さまにお返しすれば、自我の心を消し去ってもらえて、素直になれるのです。すべてを神さまから、一瞬一瞬新たに、受け直すことが、本当の素直な生き方なのです。真剣になる為には先ず、古い自分を神さまにお返しすることです。古い自分を捧げたら、引換えに、新しい自分を受け直せるのです。自分のすべてを引換えにすることが、『命懸け』なのです。そうすれば『今』の一瞬一瞬に、無限の無限の価値を見出して、大事に生きることができるのです。 責任感の有る所に、神さまの助けは降りて来るのです。一切の責任を自己に帰す者が、神さまの全知全能を継承できるのです。そして大きな能力を発揮して、どんな難問でも解決できるのです。責任逃れの生き方は、神さまの助けを拒絶し、大損をしているのです。自分の命を神さまの御用に使っていただいている、という感謝と喜びが、本当の使命感なのです。『神、我を通して働き給う』という自覚を深めてゆくことが、神我一体・悟りを深めてゆくことになるのです。 |
祈りを深める秘訣は、自分のすべて(生命)を、神さまに捧げ尽くしてゆくことです。絶対神の最高表現・天照大御神・新たなる全徳の無限の無限の輝きを、正しく感受する為には、心に蓄積した古いものをすべて、神さまにお返しすることが必要なのです。心という器の中に、過去の古いものを、一杯溜め込んだままでは、新しいものは何一つとして、入って来ないのです。祈りというのは、古いものを神さまにお返しして、新しいものを神さまから受けることです。一瞬一瞬新たに新たに、神さまの最高表現を、受け直し続けることなのです。 心に古いものを一杯溜め込むから、業想念の心に陥るのです。常に神さまから、新たに新たに受け直せば、本心の心は輝くのです。現実の世界は、自分の心を映し出す、鏡の働きをしているのです。もし現実の世界にマイナスが有れば、自分の心の中のマイナスが映っているのです。それは古いもの(マイナス)を溜め込んで、新しいもの(プラス)を受け損なっているからです。自分の心に業想念が残っているから、七難八苦が現実に映し出されるのです。本心の心が輝いていたら、自分の世界は光輝くのです。 マイナスを見つめ、マイナスを相手にしていては、心にマイナスを取り込むだけです。心の中のマイナスを消し去らなければ、現実のマイナスも無くならないのです。一切のマイナスは、『見ざる・聞かざる・言わざる』が、運命改善の秘訣です。心の中のマイナスを増やさない為には、マイナスを一切相手にしないことです。 マイナス(闇)というのは、プラス(光)の無い状態です。プラスをどんどん加えてゆけば、マイナスは消えてゆくのです。心の中のマイナスは、祈り(無限の無限のプラス)によって、大きく消し去られるのです。自分のすべて(いのち)を、神さまに捧げ尽くすことによって、業想念(マイナス)を大きく引き受けて、消し去ってもらえるのです。その上に新たなる全徳の無限の無限の輝きが一杯!と祈ることによって、無限の無限のプラスを受けて、心の中のマイナスを大きく打ち消してゆけるのです。現実の世界に見えるマイナスは、祈りの練習材料なのです。現実のマイナスを、祈りによって、片っ端から消し去ってゆけば、心の中のマイナスも大きく消し去られてゆくのです。 自分のいのちを捧げ尽くすということは、寿命(いのち)即ち時間を捧げ尽くすことなのです。神さまへの奉仕に、一日二十四時間を捧げ尽くすことなのです。神さまへの奉仕の最たるものは、祈り言葉を唱えること(祈りの練習)、新たなる全徳の無限の無限の輝きを感受すること(祈り)です。寸暇を惜しんで、一心不乱に、祈り言葉を唱え続けることが、いのちを捧げて祈る、『真祈り』に通じてゆくのです。 |
過去世に積み重ねた無限の想念感情は、業想念という厚い黒雲となって、本心の自分を覆い隠しているのです。天空に輝く太陽のような本心の心も、地上を覆う厚い雨雲のような業想念の心に邪魔されては、この世(肉体)にまで、その光を届けることができないのです。その為に地上には七難八苦の嵐が、容赦なく襲いかかって来るのです。どうすれば真実に救われ、地上天国が実現するのでしょうか? 真実に救われる為には、業想念の心をすべて、消し去ることが必要なのです。業想念の心の奴隷になって、業想念の心を生きていては、業想念の心を更に積み重ねるだけです。救済の神々(守護の神霊)の大きな助けによって、本心の心(一筋の光)を引き出してもらった、その一瞬のチャンスを活かすことが大事なのです。チラッと本心の心が輝き出て来た時に、正しい救われの道に気付くことができるのです。その気付いた時に、自分自身を救われの道に乗せることができたら、後は自然に善くなってゆくのです。ところが実際には、過去に執着し、現実に未練を持って、後で後でと先送りした為に、折角のそのチャンスを逃してしまうのです。そして本当にそのチャンスを活かせるのは、万人に一人から億人に一人になってゆくのです。 業想念のゴミを焼く場合に、無限の業想念のゴミの山に火を付ける方法と、ゴミの焼却炉に運んで、少しずつ焼いてもらう方法があるのです。ゴミの山に火を付けたら、地獄の苦痛を味わうことになるのです。ゴミの焼却炉(救済の神々)に運べば、苦痛を味わうことなく、消し去ってもらえるのです。自分のすべてを、救済の神々に託してゆけば、無限の業想念も、速やかに・確実に、消し去ってもらえるのです。 神さまへの感謝行、神さまへの全託行、神さまへの絶対奉仕は、無限の業想念を消し去ってもらう為の、唯一無二の易行道なのです。神さまに自分のすべて(いのち)を捧げ尽くせば、無限の業想念も消し去ってもらえるのです。神さまに捧げた分だけが、消し去ってもらえるのです。外からの助けには、業想念が付いて来るものです。内からの助けが、本当の神さまの助けなのです。自分の心の中の業想念を少なくしてゆく為には、徹底した感謝と報恩の行が必要なのです。与えて与えて与え尽くす生き方と、すべてを感謝一筋に受けてゆく生き方が、業想念の縛りから自由になる方法なのです。 神さまへの絶対奉仕に生きる者のみが、真実に救われてゆくのです。何時までも利己主義・マイホーム主義的な生き方をしていては、癌細胞のような一時的な栄えは有っても、必ず滅んで地獄の苦痛を味わうことになるのです。神さまと共に生きて、神さまから自然に与えられる幸せだけが、崩れない本当の幸せなのです。 |
人は誰でも、自分の住みたい世界に、自分の心の波長を合わせて、自由に住むことができるのです。自分の住んでいる世界は、自分の心に波長の合った世界なのです。地獄に住むのも、極楽に住むのも、自分の心次第なのです。自分の心を、業想念・五欲・煩悩・七難八苦で一杯にすれば、必ず地獄に住むことができるのです。自分の心を、本心・神さまの御心で一杯にすれば、必ず極楽に住むことができるのです。 人の心の状態には、マイナス無限大(業想念で一杯の状態)から、プラス無限大(本心の最高に輝いた状態)まで、無限の無限の段階が有るのです。人の住む世界も、マイナスの極の世界(地獄のどん底)から、プラスの極の世界(最高の極楽)まで、無限の無限の階層の世界が在るのです。 この世(肉体界)は、自分の心を調律することによって、自分の住む世界(運命)を、自由に変えることができる、ということを学習する為の学校なのです。その為にスローモーションのように、変化を緩やかにしてある世界なのです。環境の影響を受けて、自分の心が変化するようでは、環境の奴隷です。それでは一度地獄に落ちたら、地獄から抜け出すことは、永遠に不可能なのです。だから環境の奴隷では、落第なのです。環境は地獄でも、心を極楽に保持できるようになったら、及第です。 善い環境に置かれて、善い心に成れても、未だ本物とは言えないのです。どんな悪い環境に置かれても、善い心を保持できた時に、本物と言えるのです。環境の影響を受ける心は、業想念の心です。業想念の心では、現実のマイナスに引っ掛かって、必ず心はマイナスに陥るのです。本物・本心の心は、常に神さまだけを相手にするのです。だからすべてをプラスにプラスに受けてゆけるのです。 神さまへの感謝と報恩に生きる心は、本心の心です。本心の心の自分は、感謝(すべてを神さまから受ける)と報恩(すべてを神さまに捧げる)の行によって、神さまと密接に交流し、神さまと一体化し、その輝きを増してゆくのです。本心の心をしっかりと生きることによって、自分の心の波長をプラス無限大にまで、高め上げることができるのです。自我・五欲の心を生きていては、業想念の心の奴隷です。益々業想念を積み重ねて、マイナスヘマイナスヘと、落ちてゆくことになるのです。 神さまの御心の中から出発する者は、本心の心を生きているのです。現実から出発する者は、業想念の心を生きているのです。本心の心を生きることによってのみ、マイナスをプラスに変えてゆけるのです。何が何でも徹底的に、本心の心を生きようとしなければ、七難八苦の大きなマイナスをプラスに変えることは、永遠に不可能なのです。 |
自分自身の未来の運命は、今の自分の生き方によって定まるのです。プラスの生き方をすれば、未来の運命は必ず善くなるのです。マイナスの生き方をすれば、未来の運命は必ず悪くなるのです。プラスの生き方とは、本心(神)の自分を生きることです。マイナスの生き方とは、業想念(五欲)の自分を生きることです。本心の自分の生き方は、一切の報いを求めないで、他に幸せを与え続けることです。業想念の自分の生き方は、ギブ・アンド・テイクの交換条件の心で、他に幸せを求め続けることです。 他にプラスを与えたら、他からプラスが与え返されるのは、法則です。無償の愛の与え方は、神さまの御心と一致するのです。だから無償の愛の心で、他にプラスを与えたら、必ず神さまからも、無限のプラスが与え返されるのです。ただ本当にプラスを与えることができたらの話です。本当にプラスを与える為には、自分の持っている業想念を、それにくっつけないことが必要なのです。 普通は自分の持っている業想念が、他へ与えるものにくっついてゆくのです。どんなに素晴らしいプレゼントを与えても、沢山の業想念がくっついてゆけば、大きなマイナスを与えたことになるのです。先ず自分自身の心を清浄にすることが、何よりも大事なことなのです。その為には自分のすべてを、神さまに捧げ尽くして、神さまを通して、他にプラスを与えることが必要なのです。 自分は他にプラスを与えたつもりでも、本当にプラスを与えたかどうかは、疑問なのです。自分の心・言葉・行いから発している、すべての働きを総合して判断しなければ、本当のことは判らないのです。自分が今ここに存在するだけでは、心に在る業想念・プラスの言葉の欠如・プラスの行為の欠如によって、大きなマイナスを撒き散らしているかも知れないのです。知らず知らずの内に撒き散らしている、大きなマイナスの働きに、倍する、プラスの働きを、加え続けてゆかなければ、本当のプラスの働きはできないのです。 本当のプラスを他に与える為には、 (1) 一瞬一瞬、自分のすべてを、神さまに捧げ尽くして、自分の持つ業想念を、消し続けてもらうことです。 (2) 神さまへの感謝を深めて、自分が他に与えようとするものを、清めてもらうことです。 (3) 相手の本当に必要としているものを、真心込めて与えることです。 神さまへの絶対奉仕は、(1)謙虚な心で、(2)必要なことを、(3)素直に、(4)真心込めて、(5)全力を尽くして、(6)行き届いて、(7)喜んで、(8)感謝を深めて、(9)報いを求めず、自分のすべてを、神さまの為に与え尽くしてゆくことです。そうすれば必ず神さまは、どんなマイナス(無限の業想念)をも引き受けて、無限のプラスを与え返して下さるのです。 |
神さまの願いを生きようとしてこそ、本心の自分が輝き出て来るのです。自我の自分の願いを生きようとしているのは、業想念の心の奴隷に陥っているのです。本当の自分を忘れて、偽の自分を掴んでいては、無限の無限の幸せで一杯!に成れる道理は無いのです。太陽のように輝いている、本心の心の自分が、本当の自分なのです。空に浮がぶ雲のような、業想念の心の自分は、偽の自分なのです。 業想念の心の自分の信仰は、御利益信仰なのです。本心の心の自分の信仰は、本心開発(悟り)の為の信仰です。業想念の心が厚く積み重なると、黒雲のような状態になって、七難八苦で一杯になるのです。それで自我の心の自分は、その苦しみから逃れる為に、神さまの光を受けて、黒雲を白雲に変えようとするのです。白雲のような状態になると、自我の自分の願いが叶えられて、満足するのです。黒雲になったり、白雲になったり、その繰り返しだけで、本当の心の安らぎは、永遠に得られないのです。 本心開発の信仰は、先ず業想念の心(自我の心)を、すべて消し去ろうとするのです。自我の心を消し去れば、偽の自分が消え去って、本当の自分が出て来るのです。自我の心である、喜怒哀楽の心・あれこれと思考する心・善悪を分別する心等が、消え去れば、本当の自分の心である、知恵・愛・感謝の心・感動の心・直感力・光一元に見る心等が、自然に湧き上がって来るのです。 ところが業想念の心の自分では、業想念の心を消し去ろうとも思わないし、また消し去ることもできないのです。業想念と本心の区別のできる、本心の心の自分が出て来なければ、本心開発の信仰には進めないのです。守護の神霊の加護を信じて、七難八苦の嵐を耐え続けた後には、必ず本心の自分がチラッと顔を出すのです。その時に本心の自分をしっかりと生きようとすれば、本心開発の信仰に進めるのです。 もっと楽な易しい方法は、神さまへの奉仕を通して、自分の持っている業想念を、神さまに引き取ってもらうことです。神さまの為にと捧げたものに、自分の業想念も付いて行って、消し去ってもらえるのです。謙虚な心で・真心込めて・喜んで・報い求めず奉仕すれば、多くの業想念を消し去ってもらえるだけでは無く、無限の光のプレゼントも降り注ぐのです。 業想念の心を消し去る為の一番の方法は、自分のすべてを、神さまに捧げ尽くして、奉仕することなのです。神さまに捧げた分は、確実に消し去ってもらえるのです。神さまに捧げ尽くして、神さまに受け取ってもらえた分だけが、真実に業想念が消え去るのです。神さまへの絶対奉仕が、神さまの願いを生きることが、本心開発の信仰なのです。 |
神さまへの奉仕とは、神さまの御心を現実化する為の、徹底したプラスの生き方です。プラスの言葉のみを駆使し、何事もプラスにプラスに思い返し、一寸でもプラスの働きを積極的・前向きに加えてゆくことが、神さまのお役に立つことなのです。それは祈り言葉を駆使して、新たなる全徳の無限の無限の輝きを、しっかりと感受することです。そしてすべてを光一元・善一元・プラス一元に仰ぎ見て、心にプラスだけを吸収することです。更には業想念のマイナスの惰性を相手にしないで、少しでもプラスヘプラスへと、積極的に前進することです。 感謝一筋に、喜び勇んで、全力を尽くすことが、神さまへの奉仕(恩返し)になるのです。神さまへの奉仕によってのみ、自我(古い自分)が消し去られ、本心(新しい自分)が輝き出て来るのです。神さまへの奉仕を忘れたら、古い自分(自我)が蓄積されて、いずれは七難八苦で一杯になるのです。神さまへの奉仕が無ければ、業想念の心(自我)を消し去ってもらえない分だけ、真実の幸せ(本心の自覚)から遠ざかっているのです。もし真実の幸せ(本心開発・悟り)への願いが起きたならば、100パーセント徹底して、神さまへの奉仕に生きようとすることが大事なのです。 業想念の心の自分には、利己主義的な・マイホーム主義的な、小さな生き方が正しいと思えるのです。反対に本心の心の自分には、博愛主義的な・神愛主義的な、大きな生き方が正しいと思えるのです。業想念の心(自我・五欲)の自分には、何でも自分の思い通りになることが、一番の幸せであると思えるのです。本心の心の自分には、神さまの御心に素直に従うことが、一番の幸せであると思えるのです。それで業想念の心の自分は、自我の願いを最優先して、『求める心』を生きようとするのです。本心の心の自分は、神さまの願いを最優先して、『与える心』を生きようとするのです。 与える心はそのまま、プラスを与える生き方です。求める心は、他からプラスを奪う、マイナスの生き方です。少しでも求める心を起こせば、マイナスを与えることになって、必ずそのマイナスは大きくなって、与え返されて来るのです。ギブ・アンド・テイクも、求める心が少しでも有れば、マイナスの生き方に成るのです。一切の報いを求めないで、与え切りに与える生き方なら、感謝で受けるプラスの生き方に成るのです。 自分自身の真実の願いは、一体どこに有るのかを、常に明確にしてゆくことが大切なのです。自我を否定する助言・苦言を、マイナスに受けているようでは、本心の自分は瀕死の重症なのです。本心の自分を本当に生き返らす為には、苦い薬(自我を否定する言葉)でも、喜んで受け入れてゆかなければ、間に合わなくなってしまうものです。 |
神(かみ)さまの助(たす)けを受(う)ける為(ため)の秘訣(ひけつ)は、
光(ひかり)の心(こころ)を前面(ぜんめん)に押(お)し出(だ)すことです。
光(ひかり)の心(こころ)とは、明(あか)るい心(こころ)・真剣(しんけん)な
心(こころ)・感謝(かんしゃ)の心(こころ)・喜(よろこ)びの心(こころ)・
与(あた)える心(こころ)・前向(まえむ)きな心(こころ)・謙虚(けんきょ)な
心(こころ)・素直(すなお)な心(こころ)等々(とうとう)です。闇(やみ)の中
(なか)に光(ひかり)が認(みと)められたら、神(かみ)さまは助(たす)けに
来(き)て、光(ひかり)を添(そ)えてくださるのです。蛍(ほたる)の光(ひかり)や
星明(ほしあか)りのような、もっと小(ちい)さな光(ひかり)でも、神(かみ)さま
は光(ひかり)が見(み)えたら、直(す)ぐに助(たす)けに来(き)てくださるのです。
ところが闇(やみ)の心(こころ)を前面(ぜんめん)に押(お)し出(だ)している時
(とき)には、光(ひかり)の心(こころ)は隠(かく)されて見(み)えないので、
神(かみ)さまは助(たす)けに来(き)てきださらないのです。闇(やみ)の心(こころ)
とは、暗(くら)い心(こころ)・怠惰(たいだ)な心(こころ)・不平(ふへい)不満
(ふまん)不足(ふそく)の心(こころ)・悲(かな)しみの心(こころ)・求(もと)める
心(こころ)・後(うし)ろ向(む)きな心(こころ)・傲慢(ごうまん)な心(こころ)・
自我(じが)の強(つよ)い心(こころ)等々(とうとう)です。
神(かみ)さまの助(たす)けは、光(ひかり)の心(こころ)が出(で)て来(き)た
時(とき)に降(ふ)り注(そそ)ぐのです。闇(やみ)の世界(せかい)に、思(おも)い
の世界(せかい)に生(い)きている時(とき)には、神(かみ)さまは干渉(かんしょう)
して来(こ)ないのです。光(ひかり)の心(こころ)(感謝(かんしゃ)の心(こころ))
が眠(ねむ)っている時(とき)は、じっと時期(じき)を待(ま)っているのです。
やがて必(かなら)ず光(ひかり)の心(こころ)の目覚(のめざ)める時期(じき)が
来(く)るのです。その時(とき)に始(はじ)めて、神(かみ)さまの光(ひかり)は
降(ふ)り注(そそ)ぐのです。光(ひかり)の世界(せかい)に、感謝(かんしゃ)の
世界(せかい)に生(い)きるようになった時(とき)に、神(かみ)さまの助(たす)け
は無限(むげん)に無限(むげん)に降(ふ)り注(そそ)ぐのです。
波長(はちょう)の合(あ)うものが集(あつ)まって来(く)るのです。波長(はちょう)
の合(あ)うものを感受(かんじゅ)するのです。思(おも)いの心(こころ)・求(もと)
める心(こころ)・マイナスの心(こころ)は、マイナスを引(ひ)き寄(よ)せ、マイ
ナスを感受(かんじゅ)するのです。感謝(かんしゃ)の心(こころ)・与[あた]える心
[こころ]・プラスの心[こころ]は、プラスを引[ひ]き寄[よ]せ、プラスを感受
[かんじゅ]するのです。求[もと]める心[こころ]を生[い]きる時[とき]は、マイナ
スを引[ひ]き寄[よ]せ・マイナスを受[う]け・マイナスに感[かん]じるのです。
与[あた]える心[こころ]を生[い]きる時[とき]はプラスを引[ひ]き寄[よ]せ・
プラスを受[う]け・プラスに感[かん]じるのです。自分[じぶん]自身[じしん]が
どちらの心[こころ]を前面[ぜんめん]に押[お]し出[だ]すかによって、その心
[こころ]に波長[はちょう]の合[あ]うものを引[ひ]き寄[よ]せることになるの
です。
神[かみ]さまの助[たす]けが必要[ひつよう]ならば、神[かみ]さまの御心
[みこころ]に波長[はちょう]の合[あ]う心[こころ]を、自分[じぶん]の中[なか]
から総動員[そうどういん]して前面[ぜんめん]に押[お]し出[だ]すのがベスト
なのです。本当[ほんとう]に神[かみ]さまの助[たす]けを必要[ひつよう]として
いるのであれば、真剣[しんけん]にすべてを駆使[くし]して、神[かみ]さまを
呼[よ]ぶはずです。絶対[ぜったい]絶命[ぜつめい]の状態[じょうたい]に置[お]
かれていてら、必[かなら]ずやすべての手段(しゅだん)を駆使(くし)して、神
(かみ)さまの助(たす)けを呼(よ)ぶものです。そこまですれば「SOS」の信号
(しんごう)は、神(かみ)さまに届(とど)くはずです。神(かみ)さまの助(たす)け
は、光(ひかり)の心(こころ)に対(たい)して光(ひかり)を添(そ)えて、応援(おう
えん)してくれるのです。光(ひかり)の心(こころ)が光(ひかり)を求(もと)めてい
るのです。闇(やみ)の心(こころ)は光(ひかり)から遠(とお)ざかろうとするだけ
です。光(ひかり)の心(こころ)を前面(ぜんめん)に押(お)し出(だ)して、高(た
か)く掲(かか)げよ!闇(やみ)の心(こころ)は、神(かみ)さまに無視(むし)される
だけです。闇(やみ)の心(こころ)では神(かみ)さまの助(たす)けを受(う)けること
は、永遠(えいえん)に不可能(ふかのう)なのです。
宇宙絶対神は唯一無二の完全無欠の存在である。それ故に宇宙絶対神の表現は、必然に大調和の相象となるのである。それが大和なのである。大和のことを「ヤマト」で呼ぶ。
ヤ:
八〔八方(全方向)、分かれる(末広がりに)、分け与える、左右の両線は相対の両極を示す、ハツの音は初発を意味する、無限伸展〕である。
弥〔いよいよ(弥栄イヤサカ)、ますます(弥増イヤマス)、ゆきわたる、覆い尽くす、久しい、深い、大きい、あまねく、きわめる、多くの(弥生ヤヨイ)〕である。
矢(生命像、宇宙を貫くもの、真っ直ぐな、正しい、的を射る〕である。
マ:
真・実・忠・誠〔まこと、まごころ〕
舞・巻・回・卍〔左旋右旋舞い降り、舞い昇る〕、
交・混〔まじわる、まぜる、まじる〕
完・全〔まつだい、まっとうする〕
祭〔真釣り合わす、真理・神の心と一つになる〕
的〔中心、中心に集まる、中心を貫く〕
円・丸・満〔まどか、丸い、円満〕
纏〔まとう、まとめる〕
ト:
図・所・殿〔図形、組織紋理、場所〕
度・常〔度重なる、無限の繰り返し、とこしえ、永遠〕
尊・貴(とうとい、とうとぶ〕
均・整・謂〔ととのう、ととのえる〕
止・滞〔とどまる〕
富・豊〔とむ、とよ、無限の種類、無限の変化〕
宇宙絶対神の成りませる最高理想の表現とは、真(至忠)・善(至孝)・美(至悌)・聖(至忠至孝至悌の三つが一つになったもの)の相象である。その相象を大和(ヤマト)と言うのである。絶対(中心)より出でて、相対(表現・相象)となり、再び絶対へ帰ってゆく、この無限循環が宇宙の根本神律である。それ故にすべての相象には中心があり、その中心からすべてが派生し(根源から分かれ生ずること)、その派生したものはすべて中心に帰一してゆく。この無限循環の相象(一なるものが全体を活かしている)が大調和(ヤマト)なのである。無限に小さいものから、無限に大きいものまで、それぞれのヤマトが同心円的に、多重構造的に存在し、一大ヤマトを構成しているのである。
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