古神道(こしんとう)

 この小論文(しょうろんぶん)の内容(ないよう)は,各(かく)ページ毎(ごと)に独立(どくりつ)しています。どのページから読()み進(すす)んでも、少(すこ)しは参考(さんこう)にしていただける、真理(しんり)の言葉(ことば)の断片集(だんぺんしゅう)です。真理(しんり)をどの程度(ていど)指()し示(しめ)せているか、点数(てんすう)を付()けて見()て下(くだ)さい。読者諸賢(どくしゃしょけん)には、もっと素晴(すば)らしい真理(しんり)の言葉(ことば)を世()のため人(ひと)のために、沢山(たくさん)生()み出()して下(くだ)さることを、心(こころ)から期待(きたい)しています。 トップヘ

No. 1  ■人間の心を大きく分けると、“本心”と“業想念”の二つに区別
No. 2  ■天岩戸前の行事は 実に尊厳無比の大神事であり、それぞれの神々
No. 3  ■神は愛である! 無限に深く無限に大きな絶対の愛である。肉体
No. 4  ■“新年”という言葉を深く深く受け止めてゆける人は、幸せを無限
No. 5  ■本心(真我・神・仏)の自覚を深め、本心の自分を生き、本心を
No. 6  ■神はすべてのすべてであり、すべては神と一つのもの、神そのもの
No. 7  ■“どれだけ深く神さまに感謝できるようになるか” その最高の
No. 8  ■自覚せよ! 自覚せよ! 本当の自分を自覚せよ! これが何より
No. 9  ■神さまの愛を素直に受け入れる者のみが真実の幸せをつかむことが
No.10  ■悟りへの道、真祈りの道、徹底感謝の道は“神に始まって神に
No.11  ■太初(はじめ)に言(ことば)あり、言は神とともにあり、言は
No.12  ■真実の自己を自覚するとき、人はすでに無限の幸福を手中に
No.13  ■人生とは何か? この問題を正しく解明できた者のみが真実の
No.14  ■この短い人生において何が一番大事なことであるか、よくよく
No.15  ■光を灯せば闇は消える。本心(光の心・幸せな心)を輝かせば
No.16  ■年の始めといい、月の始めといい、日の始めといい、何事も始め
No.17  ■昔昔 ある奥深い山寺に4人の小坊主がおったとさ。ある時、その
No.18  ■春、それは生命の萌え出る季節である。宇宙大生命の大きな営みは
No.19  ■“礼拝”とは、マイナス無限大からプラス無限大にわたる無限の
No.20  ■神さまと人間との関係は、母と子の関係に類似している。神さまの
No.21  ■真実の幸福を得るためには本心の自分を自覚し、本心の自分を生き
No.22  ■お祈りは 悟りを開くためのものである。即ち 神の御心に波長を
No.23  ■肉体は本来 神さま(本心)の使い給う道具であり、器であり、
No.24  ■どんな習い事でも、我流のままでは進歩が遅いし、奥義を極める
No.25  ■人間にとって何よりも大事なことは、本心の自覚を深めてゆくとい
No.26  ■“神は絶対の愛である!”ということは、神の愛の外には何ものも
No.27  ■神はすべてのすべてであり、神の外に何者も存在しない。これは
No.28  ■天国の扉を開く鍵は、幼子のように神さまにすべてをお任せする
No.29  ■宇宙絶対統一神の自己表現のすがたが、マイナス無限大からプラス
No.30  ■人は神さまの愛を発見したときに、幸せを感じ、感謝の心が自然に


 人間の心を大きく分けると、“本心”と“業想念”の二つに区別される。“本心”をさらにこまかく分類してみると、“宇宙神の心、直霊の心、分霊の心、守護神の心、守護霊の心”の五つに区別される。また仏教の十界について見てゆくと、“声聞界の心、縁覚界の心、菩薩界の心、仏界の心”の四つに区別される。“業想念”に属するものとしては、“幽体界の心、肉体界の心”の二つが含まれ、また“地獄界の心、餓鬼界の心、畜生界の心、修羅界の心、人間界の心、天上界の心”の六つが含まれる。

 “真実の人間”の心は、この本心(プラスの心)と業想念(マイナスの心)の二つの心を自己の内に大きく包容して、マイナス無限大からプラス無限大に至る無限の無限の表現を、深い深い感謝の心で味わうことのできる大きな大きな心である。業想念に巻き込まれて流されず、光の世界に住して光に把われず、マイナス無限大の地獄界の心の表現をも感謝の対象にして、そこから一段一段感謝を積み重ねて、それぞれの表現を楽しみ、プラス無限大の極に実在している天照大御神(宇宙絶対統一神)の大光明遍照の相を大きく浮かび上がらせてしっかりと把握してゆくのである。

 心の全体をしっかりと自己の内に収めて、それを冷静に観ている自分こそ本当の“真実の自己”なのである。一部分だけをつかんで、それに把われて小さな自分になっているのは、単なる錯覚であり、自覚の欠乏に過ぎないのである。想念感情を自分であると思い違えて、想念感情に把われ巻き込まれて、想念感情をどこまでも積み重ねてゆくと、いつの間にか地獄のどん底にまで落ち込んでゆくものである。例えば、“ひどい仕打ちをされた! ああ憎らしい! 憎らしい! 憎らしい! ・・・・・・・”と思い続けたとすれば、その人は必ず地獄にまで落ち込むことができるのである。また“あれが欲しい、これが欲しい、”と欲望を満足させるために思い続けたとしたら、その人はいつの間にか餓鬼道にまで落ち込んで苦しむに違いない。

 人間にとって最も大切なことは、常に感謝を積み重ねると言うことである。どのような立場・どのような境遇に置かれても、そこで徹底感謝の努力を積み重ねることである。どんな極悪非道の鬼でも、徹底感謝され続けたとしたら、いつかは鬼の仮面を剥いで、仏の慈悲深い姿を現わさずにはおれないにちがいない。徹底感謝行こそ、プラス無限大の極の天照大御神(宇宙絶対統一神)を拝み出し、その姿を感じ取れる自分になる唯一絶対の道なのである。





 天岩戸前の行事は 実に尊厳無比の大神事であり、それぞれの神々がそれぞれの任務を担って、至誠をもってこれに当たり、あらゆる知恵を絞り、献身的にそれぞれの働きに従事しているのである。

 天宇受売命の役目は、天児屋命の布刀詔戸言を単に命一神の唱え言に終わらせずに、集える八百万神の異口同音の大合唱にまで移し、その大合唱を統制し、指揮することである。

 天宇受売命が槽を伏せて積み重ね、その高き壇上に登り、足でドンドンと槽を踏み鳴らしたのは、衆目を一身に集めるためである。
 手にする小竹葉(ささば)は、音頭を取るためのタフトであり、更に小竹葉を揮るだけでは不足で、足を高く挙げて足拍子を取り、更には天宇受売命の全身が大なる指揮棒となって、八百万神の一斉合唱の指揮を取ったのである。

 八百万神の大合唱は自然に調子が高まり、それにつれて指揮者の態度も自然に熱狂的に成ってゆき、指揮者が熱狂するので合唱者が熱狂に導かれ、合唱者が熱狂するので指揮者がますます熱狂に導かれて行ったのである。
 天宇受売命は全く自己を忘却し尽くして、無我無心の状態に成り切っていたのである。この状態が神懸である。
 全く装(なり)振(ふり)構わず、自己が妙齢の婦人であることも忘却し尽くして、半裸体の状態から自然に全裸体に近い程の状態にまで成って踊り狂ったのである。

 高天原の極の相は、荘厳無比の絶大なる一大交響楽の世界である。その神律に調子拍子が合致したときにこそ、始めて高天原の極の相に感応することができ、神秘力が発現し、高天原を瑞動させることができるのである。高天原を瑞動させるためには、一神の祈祷のみでは不足で、八百万神の真実の祈りの一大合唱が是非とも必要な条件なのである。

 高天原の瑞動は、即ち、天照大御神の瑞動であり、歓喜であり、目覚めであり、無限無量の光明の発伸であり、暗黒界の退散であり、光明界の到来であり、天照大御神の御出現である。

 八百万神が笑ったのは、天宇受売命が全裸体に近い状態で踊り狂ったからでは無く、高天原が瑞動したから笑ったのである。高天原が瑞動すれば、八百万神の心中に無限の歓喜が湧き出てくるのである。
 “ありがとうございます”の感謝三昧の極の相が、“アハハハハ・・・”という笑い(和来)であり、完全平和・大調和の相の出現である。すなわち天照大御神の御心(真・善・美・聖)が全大宇宙に花開く(咲う)のである。

 




 神は愛である! 無限に深く無限に大きな絶対の愛である。肉体人間でも子に対する親の愛は大きく深いものなのである。ましてや神の人間に対する愛はそれよりもはるかにはるかに大きく深いものである。

 子は時には親の思いやりを無視して、自分勝手な生き方をして行き詰まるものであるが、どのような時にも親は子の幸せを願って助けようとするものである。親不孝な子ほど哀れに思われて、その幸せを願わずにはおれないのである。

 神は人間の親である! 人間が神の御心を無視して、極悪非道の限りを尽くして、これ以上の罪は無いと思われるほどの罪悪を積み重ねようとも、神の愛は決して変わることは無いのである。神はすべての罪を許して、すべての悪因縁を浄めて、真実の幸せを与えようとしているのである。それは幼子が泥んこ遊びをして全身泥だらけになっていても、“お母さん”と呼べば、飛んできて全身をきれいに洗って、暖かく抱き締めてくれるようなものである。

 人間は“神の愛は無限に深く無限に大きいものである”ということを心の底から信じなければならない。心の奥底では、みんな 神の絶対の愛を信じているのである。表面の想念感情に惑わされて神の愛を疑うことの無いように、奥底の心を、本心を常に引き出して輝かせていなければならない。

 世の中の多くの人々は自分の力で生きようとしている。自分の力で善を積み重ねて神に近付こうとしている。そして善いことをしなければ神に救ってもらえないのであると考えている。しかしこの考え方は間違いである。なぜならば人間は本来“神に生かされている”のである。神の力によって何事も“させていただいている”のである。神の助けが無ければ人間は全く無力なのである! この事実に気付かなければ、人間は決して真実の幸せをつかむことは出来ないに違いない。神を離れた人間に一体どんな力があり、どんな善いことができるというのだろうか?

 神の救いには善人悪人の差別は無い! 素直に神の愛を信じて受け入れるものが救われるのである。悪を責め裁く心は神の愛を拒絶する心である。善を為さなければ救われないという考えは、神の愛を疑う心である。神を離れた人間にはどんな小さな善も、どんな小さな正しいことも為すことはできないのである。神の愛の輝き出ている時のみが善であり、正しいことであるからである。

 人間がもし不幸に陥っているとしたら、それは自ら神の愛を拒絶して、神の愛を受け入れないからである。幸せになるためには、神の愛を信じて、神に甘えきって、すべてを神に任せてしまえばよいのである。それはとりもなおさず“神さま ありがとうございます”という日々瞬々の絶え間無い感謝行である。これこそが幸せになるための一番の早道であり、一番易しい道なのである。



 “新年”という言葉を深く深く受け止めてゆける人は、幸せを無限に深めてゆける人である。去年があり、今年があり、来年がある、という意味の去年から今年に移り変わったというような新年の捉らえかたでは、まだまだ浅い捉らえかたである。過去・現在・未来という現象時間に惑わされている間は真実の幸福をつかむことはできない。真実の幸福を得るためには時間・空間を越えて絶対の世界に超入しなければならない。絶対の世界の“今・ここ”を把握しなければならない。そのために必要なことは“ひたすらなる祈り”である。

 過去・現在・未来という現象時間においては、“今”というものは 一瞬後には既に過去になってしまっている。1秒後は勿論過去である。否1万分の1秒後も、1億分の1秒後も、無限分の1秒後も既に過去である。果たして人間に1万分の1秒という短い時間を把握することができるだろうか? そしてその短い時間を使って何かを為すことができるだろうか? これは誰の目から見ても不可能であることは明白である。だとすれば人間はこの世に生きることはできないということになる。なぜなら人間は生きてゆくためには食事をしなければならない。その食事をいつ取るかということを考えてみると、未来はまだ来てないから未来に食事をすることは不可能である。過去は既に過ぎ去ったものであるから過去に食事をすることもまた不可能である。現在の今食事をするといっても、無限分の1秒後にはその時間は既に過去となってしまっているから、その短い時間の間に食事をすることはこれまた不可能と言わなければならない。

 だから人間がこの世で生きて食べて生活しているというのは錯覚である。それはちょうど映画のフィルムの静止している一駒一駒がスクリーンに映写されて連続して動いているように錯覚して見ているのと同じことである。それでは本当の人間は一体どこにいるのか? 本当の人間は絶対の世界に実在していて、そこから心のフィルムを現象世界に投影させて、その映像を眺めているのである。心に絶対の世界の至美至妙完全円満大調和のすがたをどの程度受け入れたかによって心のフィルムの出来具合が決まり、そのフィルムを現象世界というスクリーンに投影したときにそれぞれの運命という映像が映し出されるのである。

 新年の“新”は中心の“心”であり、奥深い“深”であり、真実の“真”である。今年一年間に現象世界のスクリーンの上に運命として投影される心のフィルムに、祈りに祈って、絶対の世界の真・善・美・聖を正しく焼き付けることが、そして絶対の世界の素晴らしさをこの世に現してゆくことが“新年おめでとうございます”の本当の意味なのである。




 本心(真我・神・仏)の自覚を深め、本心の自分を生き、本心を光輝かしてその素晴らしさを表現してゆくことが、人生の真の目的である。肉体のみが自分であると錯覚し、想念感情を満足させることが幸福なのだと考えて生きていては、業想念の奴隷であって、決して真実の幸福を得ることはできないのである。“心に思ったことが形に現れてくる”というのは三界唯心所現の心の法則である。今、運命として現れているのは、過去において自分の心に思ったものが、時間の経過と共に出てきているものである。今から心に思うことは、未来において必ず形に現れて出てくるのである。これは法則である。もしこの法則のままに、人間が心に思ったとおりに運命として形に現れたとすれば、きっと地獄絵図を現出しているに違いない。病気になっても健康を思い、貧乏になっても豊かさを思い、悪を見ても善を思い、戦争になっても平和を思えるような達人は別にして、大部分の人は自分の心をまだ自由に支配することができないでいる。見たり聞いたりしたことをそのまま心に思ってしまうようでは、例えば一度病気にかかったら、病気を思い続けることになって、決して病気が治らないということになってしまう。万事がそのとおりだとすれば、またたく間に地獄という最悪の運命に落ち込むのは当然すぎるほど当然なのである。

 ところが守護の神霊の加護によって、運命は大きく修正され、大難は小難に、小難は無難にと変化し、地獄の苦しみを味わうのが当然なのに軽く軽く済ませてもらっている。この事実に気付くならば、涙を流して守護の神霊に感謝しなければならないのは言うまでもないことである。いかに自業自得とは言え、自己の不運を嘆く暇があったら、守護の神霊がその地獄の苦しみを肩代わりして消し続けてくれている涙ぐましい努力に少しでも感謝を深めてゆくべきである。そして守護の神霊への感謝をもとにして、自分の心を立派に磨くために、真剣な努力を積み重ねて行かなければならない。

 心を本心に向けて、本心の素晴らしさのみを心に受け入れて思え! 決して決して本心に背を向けてはならない。そのためには自己の立場を地獄のどん底に一旦置いて、そこから心を本心に向けて、すべてを光一元に拝みあげて、本心の素晴らしさを無限の無限の深い感謝で受けてゆくことである。本心の中にはすべての善きもの・美しきもの・素晴らしきもの等々が無限に充満している。本心は無限の無限の大光明である。無限の無限の深い感謝でその光を受けよ。本心は無限の無限の幸福である。無限の無限の深い感謝でその幸福を受けよ。本心は無限の無限の力である。無限の無限の深い感謝でその無限力を受けよ。祈りに祈って本心の自覚に還り、祈りに祈って本心の大光明を全宇宙に放射し、明るく朗らかに、愛と知恵と勇気をもって、自由自在に生きて、無限の創造を楽しんでこそ、本当の生きがいも喜びも湧いてくるものである。




 はすべてのすべてであり、すべては神と一つのもの、神そのものである。人間が“自分”と言っているものも、決して神を離れて存在しているのではない。神から切り離されたものは何ひとつとして存在することはできないのである。神は無始無終、おのずから厳然と存在するものであり、そこから分岐して全体の一部分として存在しているのが“人間としての自分”である。神は絶対者であり、全体者であるから、神の他には何者も存在できないのである。だから人間は常に神と一体であり、神の部分であり、神と一つにつながっているものである。神という光源から放射された光が人間であり、神という全体の部分を構成するものが人間である。

 神のいのちが自分のいのちと現れ、神の心が自分の心と現れ、神の姿が自分の姿と現れているのである。その神のいのちが、心が、姿が、どの程度現れているかによって、無限の無限の色々な表現が存在しているのである。そして、その表現を支えているものは“神の力”であって、神以外の何者でもないのである。神の力はすべての力であり、すべての力は神の力である。だから神の力を離れた“自分だけの力”というものは決して存在しないのである。神の力が自分の力と現れ、神の力が自分の努力と現れ、神の力が自分の能力と現れているのである。指一本動かすのも、神の力によって動かしてもらっているのであって、決して“神を離れた自分”の力ではないのである。

 それにもかかわらず“神を離れた自分”が存在していると錯覚し、自分の力で生きているのであると思い違えている人が非常に多いのである。それは本心を忘れて、想念感情の奴隷に陥っているからである。想念感情というものは常に部分に執着し、自由を失い、全体を見失い易いものだからである。だから決して“本心”を忘れてはならないのである。本心の自分は常に全体を明るく、正しく眺めて、全体の中の部分としてすべてを見てゆくことができるのである。宇宙のすべてを神と一つのもの、神の現れ、神そのものであると認めてゆくことが“感謝”であり、その感謝を積み重ねてゆけるものが本心の自分であるのである。“本心の自分”とは常に“感謝している自分”である。本心の自分を忘れていないか、本心の自分をどれだけ輝かしているかのバロメーターは、今自分は感謝できているか、どれだけ深く感謝できているかということである。

 感謝に始まり感謝に終わる生き方こそ、本心の自分の自覚を深め、本心の自分を光輝かすものである。感謝の積み重ねこそが何よりも大切なことなのである。




 “どれだけ深く神さまに感謝できるようになるか” その最高の修業の場が“この世”という人生学校である。真実の幸福は、神さまへの感謝を忘れては決して得ることはできない。真実の幸福とは、神さまへの感謝に比例して深められてゆくものである。心に神さまを、神さまの働きをしっかりと感じ取ることができたとき、即ち神さまへの感謝ができたときに、真実の幸福をつかんだことになるのである。人間は本来 神さまと一体であり、無限の幸福と一体である。一瞬一瞬神さまのいのちを呼吸し、無限の幸福を感受し、“嬉しい! 楽しい! 有り難い!”と無限の喜びを表現してゆくものである。

 もし真実の幸福を満喫できていない人がいるとしたら、それは神さまへの感謝を忘れ、神さまへの感謝の積み重ねの足りない人である。神さまへの感謝を忘れては、神さまの大光明も心の中に射し込んではこない。次第に心は暗くなり、想念感情に捕らわれた心になってゆく。神さまの光のエネルギーが充満しているときは、心は明るく軽やかであり、神さまの御心を自分の心として生きてゆけるのであるが、神さまの光のエネルギーが枯渇してくると、心は暗く沈んだものとなり、想念感情という低い心の状態に陥ってしまう。

 想念感情という低い心の状態で思い通りになったからとて少しも幸福ではないのである。またすべてに思い通りになるわけではない。だんだんと行き詰まって不如意になるのが常である。思い通りに生きようという人生には、七難八苦が常に影のようにつきまとって離れることはないのである。自分の思い通りに生きようとする生き方を捨てて、すべてを神さまの御心のままにと感謝一筋に生きるようにならなければ決して真実の幸福をつかむことはできないのである。すべての不幸な姿は、神さまへの感謝を忘れていることに対しての警鐘である。病気の人はこの病気さえ治れば幸福なのだがと思うかもしれないが、その程度の思い方では幸福もたかが知れているのである。なぜ既に与えられている健康な部分に対して感謝してゆかないのか。神さまへの感謝を忘れた生き方では、全身に万病を抱えて当然なのに、どうして今与えられている健康を無限の感謝で受け止めてゆかないのか。

 感謝は光である! 感謝こそが心を明るくし、運命を改善する力である! 真実の幸福を深めてゆこうとするならば、常に常に神さまへの感謝を積み重ねて、心を明るく明るくしてゆくことである。
 すべて 神さま 無限の無限の大光明遍照! ただ感謝あるのみ!




 自覚せよ! 自覚せよ! 本当の自分を自覚せよ! これが何よりも大切なことである。自分には、本物の自分と偽物の自分の二つがある。本物の自分は永遠に不滅であり、至美至妙完全円満であり、自由自在であり、常恒不変であり、金剛不壊であり、嬉しい楽しい有り難いと歓喜無量であり、真清浄真無垢であり、無限の無限の大光明であり、すべてのすべてであり、絶対なるものである。偽物の自分とは本物の自分を見失った種々様々な状態の自分のことである。例えば、肉体を自分であると思ったり、コロコロと変化する想念感情の心を自分であると思ったり、立派になって極楽に行ったり堕落して地獄に落ちる魂を自分であると思っているのは、偽物の自分をつかんでいるのである。

 全大宇宙には、宇宙絶対統一神という放送局から、無限の無限のチャンネルの異なる放送番組が霊波として放射されている。本心の自分は自由自在であるから、心の波を自由に変化させて、どのチャンネルのどの放送番組でも自由に感受することができるのである。低い地獄の番組から高い高級神界の番組までお好みに合わせて自由に楽しむことができるようになっている。それはテレビや映画を見るのと同じで、見ている自分をしっかり自覚して、その番組を離して眺めて楽しむこともできるし、熱中する余りにその番組の中に巻き込まれてその中の登場人物と一緒になって一喜一憂することもできるのである。

 人間が苦しむのは、熱中する余り、その放送番組の中に巻き込まれて、その中の登場人者に成り切って執着するからである。すべての苦しみは執着することから生まれる。執着しなければ苦しみは無いのである。低い番組ほど執着すればその苦しみは大きいのである。それは本心の自分と低い番組の登場人物との差が極端に大きいからである。高い番組であれば仮に執着しても、本心の自分の姿がより多く表現されているから、そのギャップの少ない分だけ苦しみは少ないのである。

 執着を取り除く一番の方法は、本心の自分を思い返すことである。祈ることである。“神様ありがとうございます”と神様の中に溶け込み一体化することである。また仏の四弘誓願のような大きい願いを立てて今日一日を生きることである。仏とは本心の自分のことである。四弘誓願(みんなを救いたい、すべての縛りから自由になりたい、宇宙の真理を究めたい、悟りを無限に深めたい)を立てて生きると言うことは、本心の自分を生きるということである。
 “みんな幸せでありますように! ありがとうございます ・・・・・”




 神さまの愛を素直に受け入れる者のみが真実の幸せをつかむことができるのである。真実の幸せを求める者は決して神さまの愛を疑ってはならない、決して決して神さまの愛を拒絶してはならない。人間にとって、神さまは“いのちの親”であり、“魂の親”であり、“真実の親”である。神さまの愛は、無限に広く無限に深い絶対の愛である。その絶対の愛をいつも人間一人一人の上に投げ掛け与え続けて“わが愛し子よ、いついつまでも幸せ一杯であれよ!”と絶えず見守り続けているのである。全宇宙のすべてのものは“神さまの愛の現れ”、“愛の化身”、“愛そのもの”である。神さまは一瞬一瞬“新たな宇宙”と現れて、無限の愛のプレゼントを贈り続けてくれている。神さまは人間一人一人の前に、“さあ! 私からの愛のプレゼントを受け取ってください!”と、全宇宙のすべてを一瞬一瞬新たなものに作り替えて与えきりに与えて下さっているのである。だから神さまから人間への“愛のプレゼント”は既に既に与えられ済みなのである。

 人間の幸・不幸、幸せの深浅は、人間の側が神さまの愛のプレゼントを受け取るかどうか、またどれだけ受け取ることができるかによるのである。真実の幸せをつかんでいない者がいるとすれば、神さまの愛を否定するような想念感情を溜めすぎて、ごう慢(業の想いで一杯)な心になってしまったために、神さまの愛を拒絶したり、また変に遠慮しすぎて、神さまの愛のプレゼントを少なく少なくしか受け取らないためである。真実の幸せは“神さまと人間との一体化”即ち“悟り”によって得られるのである。神さまと人間との一体化のためには、神さまと人間との“愛の交流”、“いのちの交流”、“光の交流”が必要である。そのためには神さまからの愛のプレゼントを“深い深い感謝の心”で人間の側が受け止めてゆくことが何よりも大切なことなのである。

 “この素晴らしい宇宙は神さまから私への愛のプレゼントなのだ! ああ! なんと嬉しい! 有り難い!ことよ。「神さま ありがとうございます・・・」”と深く深く感謝し続けることである。さらに大事なことは、宇宙のすべては一瞬一瞬新たに生まれ変わって進化し続けているのであるから、今受け止めた宇宙のすべてを心から離して、新しい宇宙のすべてを“今”改めて頂き直すことである。この“今の一瞬一瞬”に“新たなる宇宙”をいただきなおしてゆく生き方こそが、“真実の幸せ”をつかむ“絶対感謝の道”なのである。マイナス無限大からプラス無限大に至る全大宇宙のすべてのすべての現れが、神さまの無限の無限の愛の表現である。無限の無限の深い感謝の心が常に沸き上がってくるように“絶対感謝の道”を歩み続けてゆこう。




 悟りへの道、真祈りの道、徹底感謝の道は“神に始まって神に終わる道”である。一瞬間をもゆるがせにせず、常に常に、神さまの御心を思い返しながら歩む道である。神さまとは、本心の自分、真実の自己、全体者である。全体と切り離されて分離し孤立した自分は、偽の自分である。悟りへの道とは、偽我を捨てて真我の自覚を深めてゆく道である。神(全体者)である大きい自分は、肉体(部分)である小さい自分に“今”何を求め何を願っているかを常に考えながら、祈りに祈って素直に行動してゆく道である。神さまはいつも全体のために働くことをもとめている。全体のために奉仕することを願っている。どんな場合にも、決して小さな自己(偽我)中心に考えたり行動してはならないのである。神きまの御心を思い返して、偽我の心を抹殺してゆかなければ、悟りへの道を歩んでいるつもりが、いつの間にか反対に業想念の奴隷になる道、地獄への道を歩んでいることになってしまうのである。

 今の一瞬一瞬に、神さまの御心を思い返し、“すべて御心のままに!”と自分の身も心も生命も神さまに任せ、神さまの御心ならば、どんな厭なこと辛いこと不可能なことでも素直にハイ!と受け入れて付き従ってゆくことが大事なのである。そうすれば過去世から積み重ねた大きな大きな業想念でも、苦しみを軽く軽くして、しかも早く速く消し去ってもらえるのである。その上さらに有り難いことには、神さまの大きな働きに自分を使ってもらえるようになって本当の生命の歓喜が沸き上がってくるようになるのである。神さまと一つに融け合う生命の歓喜は、偽我を抹殺し、神さまの働きに使ってもらえるようになってこそ沸き上がってくるものなのである。だから偽我を自分としてつかんではならない! 決して偽我の奴隷になってはならない! 偽我をのさばらしている限りは、本心の自分は 本当の喜びは 真実の幸福は 業想念に覆い隠されて現れてはこない。

 偽我はつかみさえしなければ自然に消えてゆく。偽我は相手にしなければ勝手に消えてゆく。偽我をつかんで相手にする替わりに、神さまをしっかりつかみ、神さまの御心をいつも相手にして歩むようにすればよいのである。そのためには、常に常に神さまの御心を思い返す練習が必要なのである。“神さまは何を願っているか? 神さまならどのように行動なさるか?”と一旦神さまの立場に自分を置いてみて、そこからすべてを出発させることが大切なのである。それが、今の一瞬一瞬に “神さま ありがとうございます”と祈り続けて、無我の心に神さまの御心を直感して、素直に行動を起こしてゆくことなのである。すなわち それが神さまの御心を現す道、悟りを開く道なのである。





 太初(はじめ)に言(ことば)あり、言は神とともにあり、言は神なりき。この言は太初に神とともに在り、万の物これによりて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし。之に生命あり、この生命は人の光なりき。光は暗黒(くらき)に照る、而して暗黒は之を悟らざりき。・・・・・。( 新約聖書 ヨハネ伝福音書 第一章より )
 言葉には、光明の言葉と暗黒の言葉がある。心を光明に向けるとき、光明のひびきが光明の言葉となって自然に流れ入ってくるのであり、心を暗黒に向けるとき、暗黒のひびきがおのずと暗黒の言葉となって自分の心の中に流れ入ってくるのである。心を光明に向けて歩むものは、自然に明るい言葉を使っているものであり、心を暗黒に向けて歩むものは、知らず知らず暗い言葉を使っているものである。人は自己が明るい言葉を使っているか、暗い言葉を使っているかを点検することによって、自分の心の向きを確かめることができるものである。人は皆自分の自由意志によって、自分の心の向きを選択して、自分の人生を好きなように歩んでいるのである。心を暗黒の方向に向け続ければ、マイナス無限大の暗黒のどん底にまで必ず到達できるものであり、心を光明の方向に向け続ければ、プラス無限大の光明の極致にまで必ず到達できるものである。

 “運命”という言葉は、命(みこと=言葉)という乗り物に乗って進むことを意味している。光明の言葉は光明の世界へとあなたを運ぶ乗り物であり、暗黒の言葉は暗黒の世界へとあなたを運ぶ乗り物である。あなたの運命は、あなた自身が自由に選択して決めることができるものであり、あなた以外のだれにもあなたの運命を決定することはできないものである。あなたの好きな乗り物に乗って、あなたの好きな所へ自由自在に行くことができるものなのである。心の向きを光明の方向に向けさえすれば、光明の言葉は無限の種類の乗り物を用意してあなたを迎えにやってくるのであり、心の向きを暗黒の方向に向けさえすれば、暗黒の言葉は無限の種類の乗り物を用意してあなたを迎えにやってくるのである。

 人は自分の好きな“言葉”という乗り物に乗って、光明と暗黒の織り成す、マイナス無限大の暗黒からプラス無限大の光明に至る、千変万化の無限の無限の世界に自由自在に遊ぶ者なのである。人は決して運命の奴隷では無い。人は“今”の一瞬一瞬に、言葉を自由に選んで、運命を自在に変えてゆくものなのである。人は運命の支配者であり、主人公なのである。




 真実の自己を自覚するとき、人はすでに無限の幸福を手中に収めていることに気付くのである。本当の自分に戻るためには、想念感情という業の心から、本当の心である本心へと自分の心を移すことが必要不可欠なことである。部分にとらわれた心から全体を把握する心へと移してゆくことが、即ち全体を、眺めながら部分の立場に立てる心になることが大切なのである。

 例えば、人間の身体を一つの生命体、調和した全体というように考えてみると、身体の各部分は各々個性があり、異なった役割があり、常に全体と一つに融合一体化して生かし合い、助け合い、補い合っていて、どの部分も全体にとっては無くてはならない大切なものばかりである。これを身体全体の自覚をもって眺めるとき、身体のどの部分の立場に立っても、その部分は常に全体によって生かされ、助けられているのがよく理解できるので、そこには全体への感謝の心だけがあり、恩返しとして全体に奉仕することが生きがいであり、喜びであり、幸せそのものであることがよくわかるのである。ところが、全体の自覚を忘れて部分にとらわれたとき、例えばお尻の穴が自分も口と同じように穴があるから美味しいものを食べてみたいといって食べたとしたら、身体は一体どういうことになるだろうか? 全体としての調和が破れ、身体は死んでしまうにちがいない。全体の自覚が無いと、各部分は個性を失い、役割を失い支離滅裂な状態になってしまうのである。

 想念感情という業の心は、部分にとらわれた小さな心であるから、その心を自分であると思い違えると、必ず破滅への道を歩むことになる。だから決して業の心を自分であると錯覚してはならないのである。いついかなるときにも、本心こそが本当の自分であると思い返して、全体を把握する大きい心に戻ることが大切なのである。

 本心とは、太陽のように明るく朗らかで、平等にすべてを愛し、夢と希望と幸せを与える心である。本心とは、水のように自らを相手に合わせて自由自在に変化させて、すべてに生命と潤いを与える心である。本心とは、空気のように自らの存在を主張することなく、謙虚にすべてを生かす心である。本心とは、大地のように踏まれても踏まれても謙虚に下座につき、すべてを支えて奉仕する心である。本心とは、海のように清濁合わせ呑み、すべてを浄化するおおらかな心である。

 本心とは、常に直観的に今の一瞬に、すべての存在に 愛を 美を 善を 光を 知恵を 生命を 素晴らしさを一元的に感じ取る感謝一筋の心である。




 人生とは何か? この問題を正しく解明できた者のみが真実の幸福を得るのである。考えてもわからないからと逃げ口上を並べて避けて通ろうとする者は、結局、空しい、はかない、心の奥底では満足できない空虚な浅薄な幸福を追い求めて一生を終わるのである。人間の心の奥底には本心がある。この本心を欺くことは決して誰にもできない。人間は本心を自覚し、本心を生きるのでなければ真実の幸福を得ることはできないのである。

 本心とは、本当の心であり、真実の自己である。本心とは、永遠なるもの、無限なるもの、完全なるもの、自由なるもの、真・善・美そのものである。本心は常に愛(自他一体感)を生き、理想(真・善・美)を実現するために働くのである。本心を見失った生き方は業想念の奴隷に過ぎない。肉体を自己のすべてと錯覚し、マイホーム主義的に小さな幸せを追い求めて生きるのは、業の奴隷であって、執着心と虚栄心の虜となっているのである。肉体人間として一流大学を出て一流会社に入り、幸せそうな結婚をして幸せそうなマイホームを築き、地位・名誉・財産を得て、一生を平穏無事に終わったとしても、自己を肉体と錯覚していては、すべてが空しく消え去るのみで何の価値があるというのか? 本心はそんな浅薄な生き方に決して満足することはないのである。

 本心の自分にとって満足できる生き方というのは、永遠を見通し、全宇宙を眼下に収め、置かれた立場で真・善・美・聖を表現し、全宇宙のすべての表現を自由自在に味わう生き方である。はかなく消滅してゆく肉体を自分であると錯覚したり、コロコロ変化する想念感情の心を自分と思い違えたり、進化向上する魂を自分としてつかむのは、永遠不滅・常恒不変の本心の自分を見失うことになってしまうのである。太陽である自分を忘れて、空に浮かぶ雲を自分であると主張したり、ダイヤモンドである自分を忘れて、ペンキを塗りたくって自慢している姿は決して幸せな生き方ではない。執着心や虚栄心等の業の心は四苦八苦する不幸な心であり、奥から輝き出る本心の心が喜び一杯感謝一筋の幸せな心である。

 「ありがとうございます」という言葉は 本心を引き出し、本心を輝かすための最高の祈り言葉である。日々瞬々刻々“ありがとうございます”と心に唱え続けて生きるならば、その人はそのまま真実の人生を歩むことになる。人生の真の意義は感謝行によって自然に解明されてゆくものである。



 この短い人生において何が一番大事なことであるか、よくよく見極めなければならない。それは悟りを開いて本心の自覚にかえることである。業想念の奴隷のままで一生を終えたとしたら、いつの日にか本心の自覚にかえることができるのだろうか。本心の自覚にかえることができなければ、この世でどのようなことをしても結局はすべてがはかなく空しく消え去ってゆくだけである。

 ただ生きるだけではどんなに長生きしても、それが一体何になるというのか。おいしいものを食べたからといって、それが一体何になるというのか。美しく着飾ったからといって、それが一体何になるというのか。どんな地位・名誉・財産を得たとしても、それが一体何になるというのか。執着心や虚栄心の奴隷のままでどのような生き方をしても、本心を自覚するということと比較したら全く無に等しい無価値なものである。

 悟り(本心の自覚)を求めてひたすら祈ることと比べたら、この世のどんなことも取るに足りない小事に過ぎない。宇宙大のダイヤモンド(本心の自覚)を手に入れることを忘れて、ごみ捨て場で何か好いものは無いかと探し回っている姿は愚かしい限りである。本当の幸せは本心の自覚にある。その幸せに比べたらこの世のどんな幸せも無に等しいものである。

 この世の人生は短いものである。あと何年ぐらいは生きられるだろうと予定していても、明日には死んでこの世に居ないかも知れない。本心の自覚を得ずに死んだら、何の為の人生なのか。何の修業もせずにあの世へ行ったらきっと後悔の涙を流すに違いない。それはこの世という人生学校で何も勉強せずに遊んだだけなのだから。

 自分には素質が無いから出来ないとためらう者は永遠に悟ることは不可能である。今持っているすべての力を使って努力すれば、素質も能力も奥にある本心から引き出されて大きくなってくるのである。いろいろの理由をつけて今は出来ないと言い訳をするものは、未来永劫そのチャンスをつかむことは出来ないものである。今、悟りを求めてひたすら祈らなければならない。今、小事を捨てて、大事である“祈り”を実行しなければならない。

 チャンスは“今”しか無いのである。“今”を逃せば、チャンスは永久に訪れては来ない。今、祈らなければ、必ず、祈りにくくなる、祈れなくなる、祈らなくなる、永久に祈りを忘れてしまう。今、与えられたチャンスを生かさなければ、条件はますます悪くなってゆくのである。今、祈れば、どんどん祈りやすくなって祈り続けることができるのである。




 光を灯せば闇は消える。本心(光の心・幸せな心)を輝かせば業の心(闇の心・不幸な心)は消え去るのである。本心をしっかりつかみ、本心を真剣に生き、本心を輝かしてゆけば、真実の幸福は無限に深められてゆくのである。

 本心(真実の自己)とは、
 永遠不滅の完全円満な霊的実在の金剛身である。

 常に無限の歓喜が泉のように沸き上がる幸せ一杯の常楽身である。

 いまだかつて罪を犯したことのない 汚れの無い 清浄身である。

 宇宙のすべてを自己の内に包容する無限に大きい 虚空身である。

 どんなものにも決して縛られることの無い自由な 自在身である。

 太陽の無限億万倍の大光明を全宇宙に放射している光明身である。

 自己がすべてのすべてであり、すべてが自己である絶対身である。

 本心とは、愛であり、知恵であり、生命である。

 本心とは、真・善・美・聖である。

 本心こそが真実の自己そのものに違いないと、ほんの少しでも信じて受け入れることのできる人は、業の心の雲の裂け目から本心の太陽の光が射し込んでいるのを感じ取っている人である。その光が例え一筋の細い光であっても、その光をしっかりつかんで放しさえしなかったら、必ずやその光をさかのぼって本心である光源にまで戻ることができるのである。しかし、その光を手放してしまったとしたら、光の無い世界を、暗闇の中を、業の心の中をさまよい続けることになってしまうに違いない。だからどんなことがあっても決してその本心の光を手放してはならないのである。

 それがどんな小さな明るさであっても、決して暗いという言葉を使ってはならないのである。“私は明るいのである。本心の底抜けの明るさを今輝かしつつあるのである。”と断定的に真理の言葉を使わなければならないのである。例えどんな大きな借金を抱えていても、貧しいという言葉を決して使ってはならないのである。“私は豊かである。本心の無限の豊かさを今引き出しつつあるのである。”と断言しなければならないのである。本心の自分を生きようと願うならば、常に真理の言葉(光の言葉)を駆使して、更に大きく本心を引き出してゆくようにしなければならない。現実にとらわれて業の言葉(闇の言葉)を使うことの無いように、本心の素晴らしさだけを心に受け入れてゆくことが大切である。




 年の始めといい、月の始めといい、日の始めといい、何事も始めというのはすべて神さまの中から心新たにいただきなおす節目となるものである。神さまは常にみんなの為に 知恵を愛を生命を放射して 無限の幸せを与え続けているのである。その無限の幸せをどれだけ受け取ることができるかは、一人一人の心次第なのである。

 それではその無限の幸せをつかむためには どのような心の持ちかたが必要不可欠の条件であろうか? まず第一に 心を神さまに向けることである。心を神さまに向けるとは、例えば太陽(神さま)からは無限の光が放射され続けているが、太陽(神さま)に背を向けていてはその光(幸せ)を感じ取ることができないのだから、太陽(神さま)の方向に真っすぐ向くということである。そうすれば太陽(神さま)から放射されている光(幸せ)をどれだけでも受け取ることができるのである。 第二は 心の目を開くことである。 心の目を開こうとしてもなかなか開くことができないのは、目やに(業想念)が付着していて邪魔しているからである。その場合には 祈り言葉を唱えて守護の神霊の加護をいただいて、目やに(業想念)を取り去ってもらうことである。

 神さまという一大交響楽団の奏でる至美至妙なる幸せのひびきは、全宇宙に永遠にひびきわたり続けるものである。その幸せのひびきのすべてを十分に味わいつくすには、今の一瞬間に すべてのひびきを受けて味わい、同時にそれを心から放ち去り、次の一瞬間にまた すべてのひびきを受けて味わい、同時にそれを心から放ち去り、というように今の一瞬一瞬に新しいひびきを受け止めてゆくことが大切なのである。過去のひびきをつかみ追い掛けていては、決して新しいひびきを受けることができないのである。新しいひびきを受けないということは、無限の幸せを放棄したことになるのである。

 決して決して過去をつかんではならないのである。神さまから与え続けられている無限の幸せを放棄してまでつかむ価値あるものは過去には無いのである。過去をつかむのは愚かである。過去にとらわれるのは愚かである。神さまは今の一瞬一瞬に新しい全宇宙のすべてと現れて、無限の祝福を与え続けて下さっているのである。 心を神さまに向けよう! 心の目を大きく開こう! そして神さまの至美至妙なる愛の表現を心行くまで味わって生きよう! 何者もあなたの幸せを邪魔することはできないのである。あなたの心の持ちかただけが、あなたの幸せの程度を決めるのである。神さまの中から一瞬一瞬新しく生まれ変わって出てくる本心の自分が、一瞬一瞬新しく光輝いて出てくる全宇宙のすべてと、感謝一筋の心で、いのちの交流・光の交流・愛の交流を行ってゆくことが真実の幸せへの道なのである。



 昔昔 ある奥深い山寺に4人の小坊主がおったとさ。ある時、その寺の和尚さんが小坊主たちに次のように教えた。“何よりも大切なことは、仏さま以外のことを心に思わないことである。見ざる、聞かざる、言わざるの修行が第一である。”それを聞いた小坊主たちは早速みんなで無言の行をしてみようということになった。そして蝋燭に火をつけて無言の行を始めたのであった。しばらくすると一陣の風が吹いてきて蝋燭の火を消してしまった。すると一人の小坊主が“あっ蝋燭の火が消えてしまったぞ。”と叫んだ。そしたら二人目の小坊主が“黙れ、黙れ。”と小さな声で言った。すると三人目の小坊主は“今は無言の行だぞ。”と言った。4人目の小坊主もたまらず“無言の行に物を言うやつがあるか。”と大声を張り上げてしまったとさ。

 どんな行もわき目も振らずに一心に取り組んでこそ遂行できるものである。祈りの行、感謝行も他人のことが気になるようではなかなか実行できるものではない。他人のことは気にかけずに、ただひたすらに自分が実践してゆくことが大切なのである。他人が祈っているように見えても見えなくとも、そんなことは一切おかまいなく自分がただひたすらに祈りに祈ればよいのである。それが一緒に祈りの行を励んでいる仲間達の行を助ける一番の力になるのである。祈りを深める秘訣は、他人のことは一切気にかけないで、ただひたすらに自分が祈りに祈ることである。そしてその祈っている自分をも忘れて祈りに祈って祈りそのものに成り切ることである。

 “ありがとうございます”という言葉の真実の意味は、宇宙絶対統一神なる天照大御神の無限の無限の大光明が全宇宙に満ちわたって、マイナス無限大からプラス無限大に至る無限の無限の表現として、一切皆善至美至妙完全円満大調和の神の御心が光一元に輝きわたっているということを示しているのである。自分の、今、立っている場で、天照大御神を仰ぎ見て、無限の無限の大光明を感受してゆくことが真実の祈りであり、感謝行である。“ありがとうございます”という祈り言葉には、天照大御神を呼び出し輝かす絶大なる力が秘められているのである。感謝三昧に至れば地獄も一瞬に極楽に変わるという神秘不可思議なる力が発現するのである。今、自分の置かれている場が地獄であっても、決して恐れることは無いのである。赤ん坊が母親に甘えるように、すべてを神さまに任せて、ただ無心に“ありがとうございます”を心に繰り返せばどんな地獄も極楽に変貌するのである。ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。・・・・・・・




 、それは生命の萌え出る季節である。宇宙大生命の大きな営みは、縮図として小さな一本の草花の姿にも写し出されている。五感・六感の感覚だけでは、生命の働きも生命そのものも直接感じ取ることはできないが、生命の歩んだ足跡・生命の営みの結果を移り変わる姿としてとらえることはできる。その移り変わる姿を通して、生命の働きを・生命そのものを直接感じ取ろうとする生き方が、祈り(感謝)に始まって祈り(感謝)に終わる生き方である。

 生命は常に、マイナス(ハンディキャップ)を克服し和らげる働きとプラスを加え光輝かす働きの二つの働きを同時に行っている。その一例として草花を観察してみよう。ここに一粒の種子がある。生命はまだその活動を開始していない。今、草花の生命はこの地上に美しい花を開かせて自己の天命を完うしたいと願った。その願いに応えて、宇宙大生命はその一粒の種子を土壌の上に降ろしたのであった。春の陽光の柔らかい光がその土壌を暖め、地下水はほど好い潤いを種子に与え、適当な温度と水分が発芽に必要な環境として整えられた。いよいよ草花の生命は自らの力を発揮して素晴らしい自己表現をするための第一歩を踏み出すことになったのである。ます最初に殻を破り、根を出し、子葉をもたげていった。草花の生命は堅い土壌(困難・ハンディキャップ)を克服して根を広く張り巡らしてゆかなければならない。行く手に岩石があれば、それを溶かし、砕き、全力を振り絞って前進してゆかなければならない。また行く手にどんな厭なもの(動物の死骸・植物即ち仲間の死骸・糞尿等々)があっても、その中から自分に必要な栄養分を吸収して突き進まなければならない。次に草花の生命は、根から吸収した養分を材料にして、明るい太陽の光の助けを最大限に受けて、美しい花を開くという最終目標に向かって、一歩一歩着実に素晴らしい表現を積み重ねてゆかなければならない。そして、どの段階の表現においても大事なことは、根からは必要な栄養分を最大限に吸収することであり、地上においてはすべての枝葉を総動員して太陽の光を最大限に受けることである。そうすれば必ず、たくましい幹に大輪の美しい花を開かせることができるのである。

 人間一人一人も生命の自覚をもって、各自の天命を完うして、美しい花を開かせ、幸せ一杯の地上天国を、美しい花園を造り上げてゆかなければならない。そのためには、どんな苦労・困難にも勇気をもって立ち向かい、しっかりした根を張り、必要な栄養分を吸収するとともに、毎日毎日を祈り(感謝)によって、明るく楽しい幸せ一杯の生き方をして、常に前向きに建設的に進むことが大切である。宇宙大生命の最高の自己表現の場が人間なのである。どのような傑作が次々と誕生してくるのか楽しみである。人間は自ら最高の自己表現をするとともに、宇宙大生命の表現を眺めて生命の賛歌を歌い続けるものである。



 “礼拝”とは、マイナス無限大からプラス無限大にわたる無限の無限の表現を、マイナス無限大の極の立場から光一元に感謝を積み重ねて、プラス無限大の極のすがたを“無限の無限”の深い感謝の心で受け止めて、その感謝の極致において唯一絶対の相をしっかりと把握することである。また“感謝”とは、唯一絶対の相(一切皆善至美至妙完全円満大調和)の現れとして、すべての表現を光一元に受け止めてゆくことである。感謝が真実の感謝であるためには、常に感謝の対象の奥に唯一絶対なるもの(大自然・神・仏)をしっかりと認めてゆくことが大切なのである。この礼拝感謝の心をしっかりと自分のものにすることが、本心の自分にとって何よりも何よりも大事な大事なことなのである。

 その昔、光明皇后様が一千人に施浴しようという願を起てられて、礼拝感謝の行をされたことがあった。種々様々な人が現れたが、そのどの一人に対しても“このお方は尊い仏様の現れである。私の過去世からの業因縁(心の汚れ)を振り替えて身に受けて、今、洗い清めて下さるのである。ありがとうございます。”と礼拝し感謝し続けたのであった。あと一人で一千人というときに、最後に現れた人は、全身血膿にただれて、見るからに痛ましそうな、近寄りがたいほどの臭気を発した醜いらい病患者であった。”ああ! なんと痛ましいお姿なのでしょう! これほどまでに私の業因縁を背負って消し続けて下さるとは何と有り難いことなのでしょう。仏様 ありがとうございます、・・・・・”と感謝の涙を流しながら、そのらい病患者を浴室に入れて背を流そうとされたのであった。その時、その病人は “私のこの病気は一生涯治ることは無いと思われます。ただし、この全身の血膿みを慈悲心をもって口で吸って取り除いて下さるならば、必ず全治します。”と言うのであった。それを聞いた皇后様は、“仏様は 今こそ この私の心を すべてを仏様として拝める心にしてやるぞとおっしゃってくださっている。ありがとうございます、・・・・・”と感謝の涙を滝のように流しながら、全身の血膿みを口で吸い取ってゆくのであった。するとどうだろう! 今まで悪臭を放っていたその病人の全身から、突然まばゆいだかりの大光明が放射されたのであった。そして東方阿しゅく如来の姿となって現れて、“汝 よく仏を拝み出すことを得たり。善哉、善哉、汝の行願達成せり。”と言って消え去った。ここにすべての人を仏様として礼拝し感謝する千人施浴の行願は達成されたのであった。

 私達も宇宙のすべてを、道路の小石をも、宇宙絶対統一神・天照大御神の無限の無限の大光明の現れとして礼拝し感謝し続けてゆきたいものである。



 神さまと人間との関係は、母と子の関係に類似している。神さまの人間に対する愛は無限に広く無限に深い絶対の愛である。母の子に対する無償の献身の愛はその写しである。子は母の胸に抱かれているときに本当の安らぎを覚え、無上の幸せを感じるのである。そのように人間は神さまの絶対の愛に抱擁されていると自覚するときに真実の幸せを感じることができるのである。幼子はどんな遊びをするときも、母の顔を見て母の存在を確認して、始めて安心して遊びに熱中することができるのである。もしそばに母が居ないことに気付いたら何をさておいてもまず母を捜し求めるものである。人間は親である神さまからこの世というおもちゃを与えられて遊んでいるのである。みんな仲良く色々な遊びを楽しめばよいのである。そのためには常に神さまに見守られているという事実を十分に確認しながら、この世の人生を楽しむことが大切なのである。

 親である神さまは、人間に必要なおもちゃをいくらでもあたえてくれるのである。子である人間は、お互いにおもちゃを奪い合い喧嘩して泣き叫ぶ必要はないのである。みんな仲良く与えられたおもちゃで楽しく遊べばよいのである。幼子は最初の頃はわがままを言って自分勝手なことばかりすることもあるかも知れないけれど、成長するにつれて、お互いの立場を理解し、譲り合い助けあって仲良く遊べるようになるものである。人間も本心開発が未熟で幼すぎるときは、自分のことしか考えない利己的な生き方をするものである。だんだんと成長するにつれて本心に目覚め、本心を開発して、神さまの愛の心を輝かすようになるのである。

 神の子である人間は、無限に成長することによって神さまになるのである。神さまは、みんなの幸せのために、自分のすべてを与えて与えて与えつくすことによって自他一体感“愛”を成就し、愛の表現を完成させているのである。人間も本心開発に比例して、神さまの愛の心をより一層輝かし、自分をより多く与える生き方に変化してゆくのである。幾ら他から奪っても奪っても自分の器に入るだけのものしか残らないのである。いずれは疲れ果てて何も残らなくなるのである。その愚かさに気付けば、与える生き方を必ず選ぶようになるものである。神さまの愛“自他一体”の働きによって、与えて空っぽになった所へは必ず神さまの愛・知恵・生命・喜び・豊かさ・幸せ・感謝等々が大きく流れ入ってくるのである。与えれば与えるほど、神さまからはより多く与えられ、更に与えて与えて与え尽くせば、神さまからは更により多くのものを与えられてゆくのである。その循環の速度が速くなればなるほど、その人の幸せは無限に大きく深いものになってゆくのである。ありがとうございます。



 真実の幸福を得るためには本心の自分を自覚し、本心の自分を生きることが大切である。本心の自分を忘れて、想念感情の業の心を自分の心であると錯覚し、つかんでいては、真実の幸福は決して自分のものにはならない。業の心を一時的にいかに喜ばせ満足させようとも、それらはすべてはかない空しいものであって、やがては必ず四苦八苦するものばかりである。例えば、肉体が自分であるという業の心の考え方にとらわれると、必ず死の恐怖が襲ってくる。もし医者から“あなたの生命は後三ケ月の寿命です”と言われるだけでも大きなショックを受ける。肉体の寿命は一応運命として定められているのに、その死ぬ日が明日かも知れないのに、いつまでも生きていたいと願うのである。肉体の死を予測するだけで苦しみ悩み、肉体の死に出会うとこれ以上の不幸は無いと嘆き悲しむのである。肉体は必ず死ぬのである。寿命が来れば必ず死んで灰になって消えて無くなるのである。今日死んでも、百年後に死んでも死んで灰になるのは同じなのである。肉体を自分であるとつかむ心では、仮に百年生きることができたとしても、死に対する恐怖・苦悩が百年続いただけで、死苦から解放されたわけではないのである。業の心は必ず苦しみに到達するのである。

 業の心をつかめばやがては必ず苦しむ! 人間は苦しみに出会うことによって業の心を放し、本心に戻ることができるのである。業の心でつかめる幸せがどれほど大きくても、そんな幸せは無に等しいものである。本心の自分に戻ってつかめる幸せはその無限億万倍の大きな大きな幸せなのである。だからこそ、いつまでも業の心をつかんでいたら苦しむように、神さまの愛の摂理によって仕組まれているのである。業の心に自己満足して、いつまでも業の心に止どまっているのは愚かである。一刻も早く、本心の自分に戻れ! 本心の自分に戻って無限の幸せ一杯に生きよ! 神さまの愛を、無限の無限の大光明を常に全身に浴びよ! 神さまを褒め称え、嬉しい・楽しい・有り難いと全身にその喜びを表現して、無限の無限の幸せを自分のものにせよ! いついかなる時にも感謝一筋に生きるのが本心の自分である。業の心から本心の心へ戻るためには、どんな方便を使ってでも明るく思い返し感謝を積み重ねてゆくことである。例えば、病気に感謝せよというのも、病気からいろいろと学ぶことができて有り難いと感謝する方便の感謝から、神さまの完全健康の大光明が無限の病を消し去って、後わずかな病が勉強の為に残されているだけであることを十分に認識して、無限の無限の大光明が既に自分に与えられていることがこの上なく有り難くて感謝せずにはおれないので感謝するという本道の感謝まで種々様々である。いずれにしても“ありがとうございます”という感謝の言葉は“無限の無限の大光明遍照!”を確認し、実現するための神秘な祈り言葉なのである。



 お祈りは 悟りを開くためのものである。即ち 神の御心に波長を合わせ、神の御心と一体化し、神の御心を行じ、神の御心を現すことがお祈りである。逆に言えば、神の御心に波長を合わせなかったら、神の御心と一体化しなかったら、神の御心を行じなかったら、神の御心を現さなかったら、未だお祈りにはなっていないのである。祈り言葉は 天と地をつなぐ光のエレベーターなのである。祈り言葉によって天に昇り、祈り言葉によって天の光を地にもちきたすのである。祈り言葉によって天に昇れるのは、あくまでも天より降り来った光の自分(本心)のみである。地上より涌き出た雲(業想念)は決して天に昇ることはできないのである。だから業想念を決して決して自分であると思い違えてはならないのである。業想念をつかんではならないのである。業想念を相手にしてはならないのである。業想念は地上への執着から生まれ出てくるものである。地上への執着は業想念(雲)を生み出し、その業想念は本心の自分が天に昇るのを妨げようとする。

 天に昇るためには、地上のいかなるものにも執着してはならない。執着している限り地上に縛り着けられて決して天に昇ることはできないのである。頭上を覆う業想念を相手にしてはならない。相手にしている限りは業想念の場から離れて天に昇るというわけにはいかなくなってしまうのである。業想念はあの手この手とありとあらゆる策を練って、天に昇ろうとするのを、誘惑し、脅迫し、妨害してくる。業想念を否定し、無視し、決して相手にしてはならないのである。相手にすれば業想念の思う壷にはまってしまうことになるのである。なぜならそれは業想念と同じ立場に立てば決して天には昇れなくなるからである。次に心すべきことは、業想念は多くなればなるほど、その誘惑と攻撃は大きくなって天に昇るのを妨害してくるのであるから、頭上を覆う業想念の雲を今以上に厚くしないことである。そのためには地上の一切のものに執着しないことである。更には業想念の付着したものを自分のものにしてつかまないことである。とりわけ不労所得には想像を絶する多くの業想念が付着してきて、天に昇るのを妨げられるだけでなく、いずれは業想念の渦巻きに巻き込まれて四苦八苦することになるのであるから、決して安易に不労所得を私物化してはならないのである。業想念に負けることのない光の強い自分になるまでは、できるだけ業想念の厚い場所に物に人に近寄らないのが賢明である。何よりも何よりもまず真実のお祈りが出来る自分になることこそが大切なのである。業想念の奴隷にならないためには、常に本心の自分を光輝かしていなければならない。心から一切の業想念を捨て去り、神の御心のみを受け入れてゆくことである。ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。・・




 肉体は本来 神さま(本心)の使い給う道具であり、器であり、宮である。心が空(神の御心のみを受け入れる状態)になれば、神(本心)入り来りて、その肉体を真・善・美・聖を現すために使い給うのである。それでは心を空にするにはどうすればよいのか? それは守護霊・守護神に一切を任せ、感謝し続けることである。過去世から積み重ねて来た業想念は無限無数無量のものである。それら一切の業想念のすべてを浄め、消し去るということは、守護霊・守護神の大きな大きな愛の働きが無ければ不可能なことである。この世にどのような七難八苦が現れてこようとも、すべて業想念を速やかに消し去るために、守護霊・守護神が大難を小難に軽く軽く済ませて消し去ってくださる愛の働きであると、心の底から喜び感謝し続けることが何よりも大切なことである。

 守護霊・守護神の愛の働きを信じて感謝できる心は本心の心である。現在の自分の心の状態が無限の業想念で一杯で真っ暗闇に思えても、守護霊の愛を信じて感謝することができるならば、そこには本心(宇宙神・守護神・守護霊)の光が射し込んで心を明るく照らしてくれているのである。始めは蝋燭の灯のような小さな光で心全体を明るく照らすことができないかも知れないが、感謝の積み重ねに比例して、だんだんとその光は明るさを増して、無限の大光明に変化してゆくのである。そうなれば一切の業想念は消え去って、心は空になり、神(本心)入り来たりて、本心の自分として自由自在に明るく楽しく幸せ一杯に生きることができるのである。

 この世に神の国(地上天国)を実現させるには、本心の自分が自由自在にこの肉体を使って、真・善・美・聖を表現してゆかなければならないのである。この大切な肉体をいつまでも業想念の奴隷にしておいてはならないのである。一日も早く 本心こそが真実の自分であると思い返して、業想念を自分としてつかむのを止め、守護霊・守護神に一切を任せて感謝し続けることによって、すべての業想念を消し去ってもらい、この肉体の場に本心の無限の大光明を輝かせてゆかなければならないのである。業想念{五欲(財欲・名誉欲・色欲・食欲・睡眠欲)、三惑(むさぼり・いかり・おろかさ)等々}をつかんでその奴隷となり、七難八苦を引き寄せて地獄絵図を描くのは愚かしいことである。この肉体の場に本心(神の御心)を輝かせてゆくことが、即ち 神の愛を・神の知恵を・神の生命を輝かせてゆくことこそが、真実の人生の目的なのである。そのためには何よりもまず、徹底感謝の心で神の御心(神の愛・神の知恵・神の生命)を受け入れてゆくことである。ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。・・・・・・・




 どんな習い事でも、我流のままでは進歩が遅いし、奥義を極めることは不可能である。正しい型を学び、それを繰り返し繰り返し練習するのは、我流の癖を取り除いて、心の奥に存在する本心の完全な相が歪みなく自然に現れてくるようにするためなのである。たとえ正しい型を学んで、それを身に付けたとしても、その段階では、未だ型に縛られた奴隷に過ぎない。すべての縛りを捨て去ったときにこそ、本心の自由自在な働きが具体化して現れてくるのである。

 それでは 真実にお祈りを深め、悟りを開くためには、どのような心構えをもって練習を積み重ねてゆくことが大切なのだろうか? まず第一に お祈りをするのも、悟りを開くのも、あくまでも本心の自分であって、決して業想念の自分では無いとはっきり区別することである。そして 常に常に本心の自分を思い返すことである。 第二に 神は絶対の愛であるということを、本心の立場から具体的に感じ取ってゆくことである。換言すれば、本心の自分を忘れ、本心の力を発揮しなかった過去無限の年月の間に積み重ねた業想念は無限に大きなものであった。それを一個の表現身の自分が背負うとしたら、永遠に地獄の苦しみを感謝の心で受け続けたとしても清算できるものでは無い。そこで 絶対の愛である神さまは 無限の人格神を派遣して、その重荷を分担して背負って助けて下さっているのが地獄の世界の姿なのである。このように思い返してまず深く深く感謝を積み重ねてゆくのである。さらに無限の人格神を派遣して、無限の愛の大光明を放射して地獄絵図を和らげ、段階を追って より一層素晴らしい世界にと変え続けて下さっていることに深く深く感謝を積み重ねてゆくのである。そして 全大宇宙のすべてが 無限の無限の愛の大光明の具象化されたものであると具体的に一つ一つ確認しながら、神さまの愛をしっかりと心に受け入れてゆき、神さまの愛に絶対抱擁されている自分を確認するのである。 第三に 本心の自分は自由自在に全大宇宙のどの部分にも立つことができ、その立った部分を宇宙の中心に眺めて、そこから無限の無限の大光明が輝き出るように、拝み続け、感謝し続けるのである。そして 宇宙のどの部分もすべて天照大御神(宇宙絶対統一神)そのものであって、それぞれを中心にして、無限の無限の大光明が放射され、輝き渡っているのであると確認してゆくのである。

 本当の正しい祈り方は、業の願いを交えず純粋に本心の自分を思い返し、神さまの絶対の愛を確信し、「ありがとうございます」という祈り言葉を心に唱え続けながら、祈り言葉の指し示す「天照大御神 今ここに在ます。 無限の無限の大光明遍照。 一切皆善至美至妙完全円満大調和」という内奥のひびきを深く深く感じ取ってゆくようにすることなのである。




 人間にとって何よりも大事なことは、本心の自覚を深めてゆくということである。本心とは、本当の心であり、真実の自己であり、無始無終の永遠不滅の生命である。本心の自己は、金剛不壊身であり、歓喜常楽身であり、真清浄真無垢身であり、宇宙遍満の虚空身であり、何ものにも縛られない自由自在身であり、無限の無限の大光明身であり、すべてのすべてなる絶対身である。この本心の自覚は、真理の言葉(祈り言葉)によって、呼び醒まされ、引き出され、深められてゆくものである。そして 本心の自覚の深まりに比例して、その人の感じ取れる真実の幸福は、無限に大きく深いものに変化してゆくのである。

 この反対に、真理の言葉(光の言葉・明るい言葉・善い言葉・美しい言葉・真実の言葉・慈愛の言葉・賛嘆の言葉・感謝の言葉等々)を駆使することを忘れ、怠っていると、いつの間にか“迷いの言葉”(闇の言葉・暗い言葉・悪い言葉・醜い言葉・虚偽の言葉・残酷な言葉・けなす言葉・不平不満不足の言葉等々)の奴隷となって、本心を覆い隠し、本心の自覚をくらまし、本心から遠ざかり、四苦八苦の不幸のどん底にまで落ち込んでゆくのである。

 人間は 本心の自分をしっかりと生きることによって、真実の幸福を無限に深めてゆけるのである。本心の自分を忘れたり、見失っていては、真実の幸福は決して手にすることはできないのである。業想念の奴隷となって、感覚の喜びだけを追い求めても、その喜びは偽のつかの間の喜びであって、必ず苦痛に変ずるものである。例えば 美味しい食物も 食欲の奴隷となって食べすぎれば胃が痛くなって見るのも厭になるだろうし、美食に慣れると美味しい食物が手に入らなくなったり、病気で食べられなくなったりすると、餓鬼道に落ちたように苦しんだりするものである。五感の感覚の舌からくる味覚の満足だけを追い求めていては、その喜びは必ず苦痛に変じてゆくところの浅い浅い偽の喜びでしかないのである。どんな食べ物も神さまの生かす力の現れであり、神さまの生命であり、神さまそのものである。自然に与えられるものを食べるということは、本心の自分にとっては、神さまとの生命の交流・光の交流・愛の交流・心の交流であって、本心の自覚を深めてゆくための神聖な行事なのである。それは食べ物を神さまと拝み、徹底感謝で受け、神さまと一体化してゆくことなのである。

 本心は常に神さま(無限の無限の幸福の本体)を仰ぎ見て、降り注がれて来る幸福をより多く受けようと感謝一筋に生きる心であり、業想念は常に神さまに背を向けて、過去の消え去ってゆこうとするもの(しゃぼんだまのようなもの)を追い掛け、つかんで、消えたときに、嘆き悲しみ苦しむ心なのである。本心を生きるか、業の奴隷となるか、その選択は各自の自由に委ねられている。本心を生きる為には、すべてを神さまの現れと常に拝み続けてゆくことである。




 “神は絶対の愛である!”ということは、神の愛の外には何ものも存在しない、神の愛に相対する何ものも無い、即ち 全大宇宙のすべてのすべては神の愛の現れ、神の愛そのものであるということなのである。この絶対の真理を理解し、把握できる心は、業想念の心ではなく、本心の心だけなのである。例えて言えば、太陽を神の絶対の愛であるとすれば、神の愛は太陽から放射されている光線のように、あまねく全宇宙に放射され満ちわたっているのである。これは厳然たる事実ではあるが、その事実をありのままに見て理解し、把握できるのは、青空のように澄み透った清らかな心である。空に浮かぶ黒雲のような業想念の心では、自分の周囲に見えるものは黒雲のような業想念ばかりであって、太陽の光のような神の愛を感じ取ることは全くと言ってよいほどできないものである。

 神の愛に絶対抱擁されている自分を実感できたときに、人間は何ものにも替えがたい真実の最高の無上の幸福を感ずることができるのである。そのためにはどうすればよいのか? 雲のような業想念の心は自分の心では無いと否定し、青空のような本心の心のみが真実の自分の心なのであると肯定してゆくことである。今の一瞬一瞬に 業想念の心を否定し、本心の心だけを肯定する生き方を、どこまでも粘り強く繰り返すことなのである。真理の言葉によって業想念を否定し、真理の言葉によって本心を思い返し、呼び覚まし、引き出し、輝かし、本心の自覚を深めて、宇宙のすべてをありのままに受け入れる青空のような本心の心に成り切ることなのである。

 本心の心は 常に常に 五感六感を超えて 神の愛を直感する。五感六感で感じ取れる現象界の移り変わるいかなる姿にも 決してとらわれることなく、いついかなる立場に立っても、常に今・ここに 神の愛を感受するのである。たとえ地獄絵図が眼前に現れても、そのすべてを神の無限に深い愛の現れであると ただただ感謝一筋に受け入れることのできる心が本心の心なのである。本心の心は いついかなるときも すべての責任は自分にあると知る心である。過去の長年月の間に、本心を忘れ、本心を輝かすことを怠ってきたその付けが無限の業を積み重ねる結果となったのであるとまず認識するのである。そしてその業を一身に背負うことは不可能であるから、愛の天使たちが分担して振り替えて背負ってくれている姿が地獄絵図と現れているのである。“ああ! 私の積み重ねた無限の業苦の重荷を少しでも軽くしてあげようと、みんなが分担して背負ってくださっている! なんと有り難いことだろう!”と苦労を共にしてあげようという神の愛の働きの姿に、喜びの涙を流して感謝しつづけることのできるのが本心の自分であるのである。 本心を自覚せよ! 本心を自覚せよ! そうすれば 無限の幸せは 既に与えられ済みであることにきづくのである。




 神はすべてのすべてであり、神の外に何者も存在しない。これは絶対の真理なのである。本心(真実の心)をもって神さまに相対するとき、宇宙のすべては神さまと神さまの現れであることが実感されるのである。ところが、業因縁の心(我の心)をもって神さまに相対するとき、神さまは鏡(《かみ+が》即ち《かがみ》)となって現れてくるのである。
立ち向かう人の姿は鏡なり 己が心を写してや見ん
立ち向かう人の心は鏡なり 己が姿を写してや見ん
三界(業因縁の存在する世界)は 唯心所現の世界なり。
 これらの真理はいずれも、もしこの宇宙の中に、一つでも神さまと神さまの現れ(真・善・美)で無いものを感じたとしたら、それは自分の業因縁の心が鏡に写っているのを見ているのであり、また業因縁の心の色眼鏡を通して神さまの世界を見ているものであることを示しているのである。

 人間は本心の心を輝かして生きているときは、宇宙のすべてに神さまの愛を、真・善・美を光一元に感じ取ることができるものである。ところが本心の心を輝かすことを忘れていると、いつの間にか業因縁を積み重ね、業因縁の心を自分の心であると錯覚してしまうものなのである。そうなると神さまを直接に実感することができなくなってしまうのである。あたかも目の上に泥が覆いかぶさり、何も見えなくなった状態と同じことになるのである。もしその状態が何万年、何億年と続いたとすれば、神さまを忘れ、神さまの存在を信ずることができなくなるのも無理は無いのである。

 人間が真実の幸福を手にするためには、業因縁の心から本心の心へと自分の心を移し変えることが、何よりも大切なことなのである。そのためには目の上の泥(業因縁)を神さまに取り除いてもらって、目をしっかりと見開くことなのである。神さまに助けてもらう一番簡単な易しい方法は、祈り言葉を繰り返し繰り返し心に積み重ねてゆくことである。祈り言葉は神さまから投げ与えられた命綱であり、光のカプセルであり、光のエレベーターである。祈り言葉さえしっかりと握っていたら、後は神さまの愛を信じて待っていればよいのである。神さまの愛が、真・善・美のひびきが感じられてくるようになれば、本心の心に戻りつつあるのである。更にしっかりと祈り言葉を握りしめて、神さまの御心(真・善・美・聖)を大きく受け入れてゆけばよいのである。

 心に神さまの完全平和の世界を受け入れることが祈りなのである! そうすればこの世に具体的に地上天国が現れ出てくるのである。祈りの力は絶対なのであり、最高最大の力なのである。ありがとうございます。・・・・・・・・




 天国の扉を開く鍵は、幼子のように神さまにすべてをお任せすることである。肉体人間には一瞬先に何が起こるかということもわからない。仮にわかったとしてもどうすることもできない。肉体人間には何事も為しえない。全くの無力なのである。だからこそすべてを神さまにお任せすることが大事なのである。神さまの生命を頂かなければ、一瞬たりとも生きることはできないのである。神さまの守り・導きがなければ、一瞬にして地獄のどん底に転落するに違いないのである。神さまに生かされ、守られ、導かれているからこそ、今の幸せな状態が存在するのである。それを肉体人間自身の力で幸せに生きているのだと思うのは、大いなる錯覚であり、大きな誤りであり、恩知らずのごう慢な考え方である。肉体人間にとっては、神さまの導きに素直になればなるほど幸せは大きくプラスされてゆくのであり、我を主張してごう慢に為ればなるほど幸せはマイナスされてゆくのである。

 今自分がどんな環境・立場に置かれていても、どのような心の状態に置かれていても、“ただ ひたすらに「ありがとうございます」と神さまの中へ融け込むこと”即ち“祈り”を続けてゆきさえすれば、過去の業想念の自分は知らず知らずのうちに消し去られ、神さまの光を携えた本心の自分として、一瞬一瞬新たに生まれ出てくることができるのである。今自分の置かれている環境・立場・状態というものは、神さまが今の自分にとって一番必要な勉強の材料として与えて下さっているものである。無限の完全な知恵の持ち主である神さまが、一つとして必要の無い、無駄なものを与えるわけがないのである。すべては神さまの絶対の愛の現れである。ただそのように受け止めて感謝し、喜べないのは、自分が幼稚で、受け止めかたが未熟で下手なだけである。だからこそ うまずたゆまず練習を積み重ねてゆくことが必要なのである。

 “宇宙のすべては神さまの絶対の愛の現れである!”と断言せよ。そしてこの真理の言葉を 繰り返し繰り返し 心の中にたたき込め。そうすれば 次第次第に神さまの愛を深く信ずることができるようになってくる。この信の心が神さまの愛を感受するアンテナの役目をしてくれるのである。例え地獄のような環境に置かれても、心が業想念で一杯の状態であっても、一切拘わりなく、“宇宙のすべては神さまの絶対の愛の現れである。”と一瞬一瞬思い返しては、ただひたすら「ありがとうございます」と感謝し続けてゆけばよいのである。そうしているうちに必ず現象のすべての移り変わりの中に、神さまの愛を見い出し、感受することができるようになってくるのである。すべてのことに感謝できる心、これが悟りの心即ち本心(本源心)なのである。



 宇宙絶対統一神の自己表現のすがたが、マイナス無限大からプラス無限大にわたる無限の無限の種々様々な世界と現れているのである。例えば、明と暗について考えてみると、神の本質は絶対の光(無限の無限の大光明)であり、その光を暗(表現の場・素材)に向かって放射してゆくと、表現の最初の出発点であるマイナス無限大の暗(無限の大光明を吸収してしまうブラックホール的暗)は、加えられた光の量に比例して段々と和らいでゆく。そしてマイナス無限大の暗は、無限の大光明を吸収して“0”の暗にまで変化してくるのである。更に光が加えられるにつれて、小さな星明かりのような状態から、段々と青空に太陽の輝くような明るさに変化してくる。そして無限の無限の大光明が加わると、プラス無限大の明るさがそこに表現されてくるのである。即ち神・絶対の光・無限の無限の大光明が、暗という素材(表現の場)を使って、そこにどれだけの光が加えられたかということに比例して、明るさを光一元に表現しているのである。

 人間は神の分身として、各自の自由意志によって、どの段階の表現の場にも自由に立つことができ、その表現をどのような角度からでも自由に眺めて楽しむことができるものなのである。光源に背を向けて、影を映して、より一層暗く眺めるのも自由なら、光源に真っすぐ向いて、降り注ぐ光を浴びて、より一層明るく眺めるのも各自の自由なのである。そのように人間一人一人は神に代わって、いろいろの立場に立って、いろいろの角度から、神の自己表現のすがたを、自由自在に眺めて楽しむ役目を与えられているものなのである。それとともに人間各自の立っている場に、人間自らが本心の光を輝かして、その場を更に明るく変えてゆくこともできるし、想念感情の業の心を積み重ねて、神の光を遮って光を和らげることも自由にできるものなのである。神と人間の共同作業で織り成す妙なる表現を、ある時は神という立場から、ある時は一人一人の人間という立場から、自由に眺めて自由に楽しんでいるわけである。

 全大宇宙には上記に例としてあげた明と暗だけではなく、善と悪、愛と憎、正と邪、楽と苦、自由と束縛、美と醜、真と偽、信と疑、上と下、大と小、幸福と不幸、平和と戦争、・・・・・・・・・・等々、対比されるものは無限に存在するのである。神の御心の中には、絶対の善(無限の無限の善)、絶対の愛(無限の無限の愛)、絶対の正(無限の無限の正)、絶対の楽(無限の無限の楽)、・・・・・・・・・・、というように絶対なるものが無限に存在しているのであり、それらのすべてが善一元に、愛一元に、・・・・・・・・・・、というように、マイナス無限大からプラス無限大の表現をとっているのである。瞬々刻々移り変わる全大宇宙の表現を、“今”の一瞬に、どれだけ楽しむことができているであろうか? 感謝行の大切さを痛切に感じる次第である。



 は 神さまの愛を発見したときに、幸せを感じ、感謝の心が自然に湧き出てくるのである。人生の真実の目的とは 神の愛を発見してゆくことである。人は 宇宙絶対統一神(天照大御神)の無限に広く、無限に深い、絶対の愛を探し求めているのである。否 探し求めているというよりは、絶対の愛の実態をより深く、より詳しく、理解し、把握しようとしているのである。例えれば絶対の愛を純白の光とすると、純白の光が七色の光に分かれるように、絶対の愛も種々様々な愛に分かれて現れてくる。絶対の愛を純白としてのみ理解するよりは、七色の光を内に持っている純白であると理解するほうが、より深く理解したことになるはずである。だからこそ 絶対の世界に居る本心の自分が、神さまの絶対の愛をより深く、より詳しく、理解し、把握するために、現象界(表現の世界)の種々様々な場に移り住んで、絶対の愛の実態を学び取ろうとしているのである。

 “宇宙のすべては 神さまの愛の現れである”と思い返して眺めて見ると、それらの一つ一つが 神の愛の光で輝いた素晴らしいものに感じられてくる。太陽は 私達に 明るさ・朗らかさ・暖かさ・優しさ・情熱・勇気等々を与えようとしている。青空は 寛容・清浄等々を、大地は 忍耐・謙虚・慈愛等々を、海は 清濁合わせ呑むおおらかさ・底知れない無限力等々を、水は 自由自在・謙虚・生かす力等々を、草花は 美しさ・生命力等々を、小鳥は 陽気・楽しさ等々を、というように 宇宙のすべての存在がそれぞれに私達に何かを与えようとしてくれている。

 太陽が私達に明るさを与えてくれるとき、その明るさは私達の内奥の本心の明るさを引き出してくれる。そして その引き出された本心の明るさは、太陽から更に大きな明るさを受け止めることができる。その受け止められた明るさは本心から更に大きな明るさを引き出してくれるのである。このようにして太陽の明るさと本心の明るさとが交流されて、一体化したときに、神さまの愛を明るさという一つの性質を通じて強く感じ取ることができるのである。神さまの所有する無限の中の一つ(例えば 美しさ)が、それに相応する本心の所有する無限の中の一つ(美しさ)と相交流し、相融合して、一体化するときに、その一つ(美しさ)を通じて神さまの愛を強く感じ取ることになるのである。無限の中のどの属性を通じるにせよ、神さまと本心の自分が交流し、融合し、一体化するならば、そこに神さまの愛を強く感じ取ることができるのである。果たして 神さまの絶対の愛を 私達はどの程度感じ取っているだろうか?