41中心は天照大御神

天 ・・ 時間的にも空間的にもすべてを尽くす、三世十方に渉る無限の法界、全大宇宙。

照 ・・ 自ら照り、他を自然に照らす、テル・テラスを一如に、自他一如の、大光明遍照

 

 

 天照大御神は絶対統一神です。

天照大御神出生前の一切の神々は、天照大御神を顕わすための出現であり、出生後の一切の神々は、天照大御神の神性神徳を顕わすための出現です。

 隠身(かくりみ・絶対)(天之御中主神から・・・・)

仮凝身(かごりみ・創造)(伊邪那岐神から・・・・)

の一切の神々を総括して、

天照大御神(統一)は神身変換の焦点に立ち、

駆身(かけりみ・自由自在)

限身(かぎりみ・限定)

            の一切の神々として自らを展開させてゆくのです。

駆身・限身の一切(無限無数無量)の神々は、天照大御神の分身のです。

 天照大御神の外に一切の万神・万生・万有は存在しないのです。

 

天照大御神は常・楽・我・淨を根本神性に持っています。

 

常・・常住不滅(永遠の生命)楽・・無限の法楽(真歓喜)

我・・唯我独尊(絶対の尊厳)

 

淨・・絶対の清浄(真清浄)

 天照大御神は真・善・美・聖であるのです。

 

 私達が、天照大御神の信仰に没入し、絶対信順するとき、常・楽・我・淨を自覚し、真・善・美・聖を表現するに至るにです。そして寝ても覚めても、ああ嬉しい!ああ楽しい!ああ有り難い!という無限の歓喜心が泉のように沸き起こってくるのです。

 

 真実の幸せは、他から奪ったり、他に求めて得られるものではなく、禊ぎ払いを修して、天照大御神の無眼の神力に絶対抱擁された時に、自然に授与されるのです。 

 

 禊ぎ払い(みそぎはらい)とは、上面に付着している汚濁を単に洗い落とすというようなことではなく、有相のすべてを祓って祓い尽くし、有相のことごとくを離脱し、最極低に到達して、一切万神万生万有の発現の本であるところの天照大御神を、しっかりとつかんで顕示してゆくことなのです。

 

「天照大御神の他には何ものも無い!

すべては天照大御神!大光明燦然!ありがとうございます!」

 

 真の中心は、天照大御神さまです。全大宇宙のすべてのすべてに、新たなる全徳の無限の無限の輝きを永遠無窮に与え続けることのできるのは、天照大御神御一神のみなのです。その天照大御神に、御稜威の輝くところが、それぞれの中心となるのです。

(1)   一切の責任を自己に帰すところに、

(2)   大犠牲精神を発揮するところに、天照大御神は最優先して、助けに降りて下さるのです。その天照大御神の助けを感謝を深くして受けることによって、すべての問題は根本から解決されるのです。すべての問題を解決して、調和をもたらすのが、それぞれの中心の役目なのです。

天照大御神から、一瞬一瞬新たに、全徳の無限の無限の輝きを感受して、無限に無限に輝いている本心の自分であっても、真の中心にはなれないのです。天照大御神の助けが無ければ、自分自身は全く無に等しいからです。真に無限に無限に輝いている本心の自覚があればあるほど、無限に無限に謙虚になるしか無いのです。ただただ天照大御神の御稜威を讃えるのみなのです。

 

 自分は偉いのだと微塵でも思ったら、真の天照大御神を無視しているのです。過去を掴み、比較上の世界に自分を置いて、いかに優越感に浸ろうとも、それは本心の自分から遠ざかるだけです。過去を掴む小我の自分と比較すれば、本心の自分よりも、天照大御神は更に無限に無限に偉大なのです。だから自慢をすればするほど、上に立てば立つほど、自己の程度の低さを、喧伝(けんでん)していることになるのです。

 

 無限に無限に謙虚なところへ、天照大御神は降り立って下さるのです。そしてそこがそれぞれの中心となるのです。無我無心無欲のところへ、感謝の深いところへ、天照大御神が降りたって、そこを大きく光輝かせて下さるのです。真に尊敬と信頼が向けられているのは、あくまでも天照大御神に対してなのです。そのことを微塵でも忘れたら、本心の自分は常に常に、天照大御神への徹底感謝に生きるのみなのです。

 

 肉体の自分が偉いのでは無いのです。魂の自分が偉いのでは無いのです。本心の自分が偉いのでは無いのです。天照大御神のみが、無限に無限に偉大なだけです。惟神道(かんながらのみち)では、天照大御神の御稜威を讃え、感謝するのみです。天照大御神への感謝に始まり、感謝に終わるだけです。天照大御神の全徳の無限の無限の輝きを、しっかりと認めるだけです。無限に無限に高く・広く・深く、感謝三昧の境地を極めてゆくだけです。感謝の真祈りによって、天照大御神を拝受することが、真実の無限の無限の幸せなのです。

 

 ありがとうございます