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5月護摩のお話 by 河上彰延 2021年05月06日(木) 22時41分
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5月護摩焚き河上さんのお話
 宇宙神ありがとうございます

 令和3年5月の護摩焚きで、河上さんがお話してくださった内容です。

質問1
 神社に行って印可書を唱えると、神社の神さまが本来の働きを100%発揮出るようになる手助けができるようになると、お聞きしましたが、神社に行く余裕がない時など、家でその神社の写真を見ながら唱えても、その効果はあるのでしょうか?

河上さん
 あります。

 今月もまた、みなさまとお会いできまして、嬉しく思います。ありがとうございます

 神社に印可書を唱えに行くのはですね、先ず、みんな神社にね、自分の要らない願いをお願いに行くんですよね。それって何かっていうと、神さまの力を信じてないから、神さまを自分の召し使いのように、使っているということも気付かずにですね。

 例えばですよ、例えば大学に合格したいっていうことを絵馬に書いて奉納するじゃないですか、それって神さまに対してですよ、「お前俺が大学に行くの知らんやろう、だから合格するか、しないかもわからんやろう。だから今、俺大学受けるから、ちゃんと合格するようにせいよ」って神さまに命令してるようなもんなんですね。そういう神さまの力を信じ切れない思いっていうマイナスの思いが、お願いごとなんですけども、そのお願い事をみんな神社にするわけですよ。健康でありますようにとかね、色々ありますけども、そのマイナスの思いが神社の表面を被さってしまってですね、神社本来の光が発揮できなくなるんですね。

何で(なぜ)神社の神さまは、じゃぁ、そのマイナスの思いを消せないかっていうと、その神さまにお願いに来てるから神さまは無下に祓(はらえ)ないんですよ。そういう人間の自由意志を大事にするのが神さまですから、神さまはお願いに来ると中々祓ない、勝手にね、(消すことができないと)いうとこがあって、それを印可書を奉納することによって、そういうマイナスの思いが全部消し去ることができるんですね。消し去ると神社の(神さま)方は本来の自分の本来の神さま、そこの土地に応じた神さまの働きが、できてですね、本来のすがたが出て、地球が平和になっていく、地震も起こらなくなっていくというふうになるわけですね。

 神社に行ってすればいいし、例えば写真を見てしたって同じことなんですよ。ただ写真を見てするよりは実際に行く方が実観(感)が伴うから行って下さいって言ってるだけで、写真を見ていくだけで充分効果はあります。

 ただ写真を見てもね、印可書を唱えたくない時は唱えないで下さい。写真であっても実際に行っても一緒ですけども、印可書を唱えたくない時は唱えずに、ただただお参りして帰ってきて下さい。それだけはお願いします。必ずしも印可書が必要という場合は、ないんですよ。その時の働きに応じて、いわゆる色んな色彩の光を出す役割の神さまがいらっしゃるのでね、あんまり印可書の無色透明の光(で、その神社特有の色彩の光)を薄めることは、よくない場合もあるので、印可書を唱えたくない時、その時は唱えないでくれというふうに、神社の神さまの方が響いてきますので、するとなんか唱えたくないなぁと思って、きますので、それを無理に唱えなおいようにして下さい、それだけが注意事項です。ありがとうございます

質問2
 以前、河上さんの話の中で、ここの護摩焚きがなくなったら、昔のムーやアトランティスの時みたいに、世界が滅びるようなことを仰っていた気がしましたが、護摩焚きがなくなったら、地球のみならず、宇宙全体にも悪影響を及ぼすのでしょうか?

河上さん
 はい、今回、本当に最後ですので、もしこの護摩がなくなればですね、虚の世界を一旦ご破算にして消し去る。それは、その人間側の自由意志を超えて、一旦ご破算にして消し去るということになっておりますので全部なくなります。

質問3
 宇宙神ありがとうございますの祈願柱の意味を教えて下さい。大きい物と小さい物で違いはありますか?また設置場所はどこが良いですか?

河上さん
 祈願柱はですね、大きさに効果の変わりはありません。祈願柱の意味は何かというと、そこを中心に真祈りをしますという宣言です。その宣言が、ずーっと響いていくということですね。今ここ会場に貼っているこの無尽灯のシールがありますけど、無尽灯のシールの場合はいいんですけど、普通の祈願柱は朽ちてきたら入れ替えて建ててもらう方がいいです。それ位のことですね。祈願柱の立てる場所は自由自在でいいですけども、やはり先程神社の印可書の奉納と一緒で、どうしても立てたくない場所がありますので、そういう時は無理に立てる必要はないです。

 その、やっぱり懐中電灯の光が必要なとこにですね、いきなり太陽の光を当てても仕方がないです。そういうのがありますのでね、どういうたらいいんですかね、例えば、ゆっくりと、人間の体で言いますとね、汚れてるじゃないですか、それを、やはりお風呂でゆっくりと綺麗にするから気持ちいいんでしょう。それ今、テレビショップでやってますね、高圧洗浄機、あれでギャーって洗うと痛いじゃないですか、そういう感じで、祈願柱は高圧洗浄的な働きをしますので、場所に応じて立てたくないところは立てない方がいいです。ありがとうございます

質問4
 深夜勉強会で、印可書を文字起こしする場合「真祈りの秘奥義を伝授するための印可書」という冒頭の文を入れる必要があるとのことでしたが、普段、心の中で奉納している時は、そこを飛ばしてきました。その部分も奉納した方がよろしいですか?それとも自由自在でよろしいですか?

河上さん
 はい、普段は自由自在で大丈夫です。ただいわゆる、全世界に広める、響かしていく時はですね、いわゆる、主目的。印可書の本来の働きというところを示したいので、真祈りの秘奥義を伝授するための印可書というのを頭に入れてほしいということです。ありがとうございます

質問5
 3月の護摩焚きから続けて質問させていただいてます。三度目の続いての質問です。
 自分で生命をたちました。その時、テレビが(音声だけが)中断しました。次の日も音声一時消えました。私、見舞いにも行ってなくて、何か変と話していたら、連絡ありました。会いに来てくれていたのでしょうか?いい人だったです。神さまは、この道を選ばれました。私は、ただ祈るだけですね。よろしくお願いします。

 娘は仕事しています。ありがとう村に連れてきたらいいんでしょうか?私、娘に印可書の裏の真(まこと)の自分とは、本心の16項目を護れなくて、ついキツイ言葉で言い、見舞いも行かず、それでも、宇宙神ありがとうございますを唱えていました。神さまではなかったのです。私の言い方、ひとつで彼の運命変わったのでしょうか?私もすごく因縁深く苦しむ方が多かったです。それを先生に助けてもらってます。

河上さん
 はい、本当に自分の自由意志で自殺した場合はですね、そういうふうに動き回れませんので、例えばテレビの音声を一時的に止め出すというみたいなことはできないです。ただ無理やり自殺させられてますので、他殺に近いので、会いに来た時に音声が途切れるということはあります。

 自殺が何故ダメなのかということですけども、自分の自由意志で、いのちを断つというところですね、そこが一番の問題なんですね。何が問題かっていうと、いのちというのは神さまの響きそのものじゃないですか、その神さまそのものを否定してしまうから、自殺は大変なことなんですね。ただそうして否定してしまって、地縛霊として、こう地上にとどまるわけですね。そこに大きなマイナスの渦巻きができますので、ちょっとマイナス思考で文句を、たらたら言うてる人がそういう場所に行ってしまうと、吸い込まれて同じような形の自殺に連れ込まれるということです。

 何が大事かっていうと結果じゃないんですね、この世的な、すがたじゃないんですよ。ただただ全ては神さまの御働きだけというところに、いかに立ち戻るかだけなんです。その神さまの御働きだけっていうことを色んな説明の仕方、この前の深夜勉強会でも、ちょっとしましたけども、神さまが、例えば自殺のすがたを演じて楽しんでいらっしゃるというところまでわからないとダメなんですよ。

 どういうことかっていうと、この世の全てはね、神さまのいのちで動いてるの、神さま以外のものはないんですよ。なのに神さま以外のものがあると思ってやるから、ややこしいし因縁因果っていって苦しむんですね。全てが神さまのいのちで動いてるのは、誰も否定できない、神さましかいないからね。でもなんか自分で、やっている。或いは人に何かされた、わかります?「あの上司のせいで俺の出世が遅れたんだぁ」とかね、「あの上司のせいで俺は首になった」とか、まぁ色々ありますけど、人のせいにするじゃないですか。でも、それ人っていうのは神さま以外のものって認めてるわけね。でも本当は、全て神さまのいのちなんです。神さまが色んな条件を自分に言葉でつけて、色んなすがたを演じて楽しんでいらっしゃるだけなんですよ。それに気付くために理屈抜きに、気付くために印可書があります。印可書を淡々と奉納したら、全ては神さまの御働きだったんだなぁっていうのがわかります。それがわかると因縁因果を超えれるんですよ。

 今までの宗教が、良い悪いじゃないですよ。今までの宗教は時代に合わせて作られたものですから、良い悪いじゃないですけど、今までの宗教は、神さま以外のものを認めてきたんですよ。なぜ認めてきたかっていうと、認めないとみんながついてこれないから認めてきたわけです。神さま以外のものを認める、例えば悪魔という力ですらね、神さまのいのちなんですよ。それに気付かないとダメなんですね。だからよく悪魔祓いとかするじゃないですか、お祓いとかね。それ神さま以外のものを認めてるからややこしいので、本当は神さまが演じてるから、演じてるのを、もう名演技はわかったから、もういいよっていうのが本当のお清めなんですね。それ悪い奴や、あっちいけっていってるお祓いなわけですけども、お祓いとお清めの違いなんですけども。その演技してるだけなんだよっていうのを気付かされるためには印可書の奉納がいるという、それだけです。もうたったそこだけなんですね。今のお話でも、その神さま以外のものを認めて苦しんでいらっしゃるわけですけど、本当はその自分の自由意志で自殺された方も神さまそのものなんですよ。神さまが自分の自由意志で自殺するという言霊を使って、そのすがたを楽しんでいらっしゃっただけなんです。

 冬山登山で言いますけども、わざわざ重いリュックを背負って山、寒い中登るわけででしょう、それって、わざわざそれを楽しんでるわけじゃないですか。みんな一緒なんですよ。全ては神さまが楽しんでおられるだけ、それを理屈抜きに観(感)じるとるために、印可書の奉納があります。常々に困った時は印可書を淡々と神さまに奉納するところに立ち戻っていただきますと、全ては解決します。ありがとうございます

質問6
 すべてが神の化身とすれば、コロナウイルスの意識体も神の化身と思われます。なぜ神の化身が悪さをするのか、日本も感染者が全国的に急増しております。世界中を脅威にさらしております。私は持病を抱えているので正直怖いです。コロナウイルスに絶対に感染しない方法があったら教えて下さい。後、いつ頃コロナウイルスが終息するのか教えて下さい。よろしくお願いします。

河上さん
 コロナウイルスはね、もう終息する方向ではじまってるんですけどね。その、まずウイルスっていうのをね人類は、まだわかっていないんですよ。ウイルスは宇宙の入れ子構造で言いますと虫なんですね。虫のすがたが、入れ子構造的な最終的なこの世での小さい、一番小さい形がウイルスっていうことになります。そのウイルスっていうのは、人体にとって必要か必要でないかっていうと必要な存在なんですね。ウイルスがないと人体の、この今の肉体の生命活動が維持できないんですよ。その人に応じて、例えば水疱瘡とかね、麻疹とかあるじゃないですか。或いはマラリアとかね、これ全部(たとえば)マラリア、マラリアはマラリア原虫が原因だと言われてるわけですけど、マラリア原虫の中のウイルスが原因なんです。

 だから例えば、マラリア、或いは水疱瘡でもそうですけど、かかって治る(とする)じゃないですか、でもウイルスは体から出ていかないんですよ。背骨の中に住んで血液を浄化する働きをして下さるんですね。これは医学的にも浄化する所までは気付いてないですけど、背骨にウイルスが残っているっていうのは、医学的にも証明されています。

 そういうふうにウイルスっていうのは、体に必要でねあるんですよ。コロナウイルスもこの今の放射能を除去するために人体からね、必要で現れたんですね。背骨の中に住みついて、みんな、もう住みついてるんですよ、はっきりいいますけどね、みんな住みついていますからコロナウイルスが背骨に、放射能を除去して下さるんです、本当はね。でもコロナがダメだ、ダメだってマイナスの言葉を重ねるじゃないですか、重ねることによって本当にダメだっていうマイナスのすがたを自分がとるだけです。たったそれだけなんです。もう理屈を言い出すときりがないんで、印可書を奉納していただいたら済むだけですけども、まずウイルスっていう存在が、そういう神さまの働きそのものなんだぁっていうことに気付いてもらうと、怖いも怖くないもないんですけどね。

 例えば花粉症ってあるじゃない、花粉症ですね、スギ花粉とかでアレルギーが出るっていいますけど、花粉も一緒で最小単位はウイルスになってるんですよ。それも体に入ることによって免疫機能が改善されるんですね。でも花粉はダメだダメだってね、アレルギーになるって言葉で言っちゃうと本当にアレルギーになって苦しむんですね。それも、なる人とならない人があるというのは、自分の使う言葉によって食べる物の嗜好が変わるんです、わかります。自分の使う言葉によって食べる物の嗜好が変わってアレルギー反応をおこす体になるんです。だから、今みなさん、例えばお食事されるじゃないですか、その時に本当に食べる物を神さまのいのちっていただいてる人、はい手を挙げて下さい、って言ったら少ないね。もう本当に神さまのいのちって思って食べれたら、病気にならない。必要な物しか食べない。でも食べ物だと思って食べるとね、例えばチョコレート大好きな人はチョコレートばっかり食べて、糖尿病になるとかね、あるじゃないですか、嗜好の中に自分の好みの中で、そればっかり食べて調子を崩すわけですね。でも神さまのいのちとして食べたら必要な物、必要なだけしか食べないから、食べ過ぎないし万遍無く色んな物を食べるから元気一杯で死ぬまで病気一つしないの、そういう、それも何が原因かっていったら、普段自分が使う言葉なんですよ。

 普段自分が使う言葉で何が一番問題かっていうと、神さま以外を認める言葉、要するにマイナスを認める言葉です。あの人は何もできないとかね、あいつは怠け者だとか、色々あるじゃないですか、そういう神さま以外のものを認める言葉を出してる人程、病気になっていくの、お年を召された人の方が病気になりやすいのは、その人が生まれて死ぬまでの間に、たくさんのマイナスの言葉を重ねちゃっただけ。だから自分は、いっぱい人を責めてきたから、これ大変やと思う人こそね、印可書を読んで元に戻して下さい、そしたら(印可書を奉読すると過去現在未来にお清めとして働きます)大丈夫ですから、それくらい言葉の使い方が大変なんですよ。でもほとんどの人は自分の体験で良い悪いと判断して、良い事と思うことをしてきてるんです。その(自分が)良い事と思うことがマイナスの言葉使いだったということに気付かない、そこだけなんですね。

 要するに何で、自分でいいと思うことが悪いのかって言うと、自分と言って自分と他人と分けた時点で(神さま以外のものを認めたことになるから)、全てはマイナスなんですね。自分と他人を分けて良い悪いと判断した時点で、全部マイナスなんです。良いも悪いもないの、だから、みんな年を取って病気になるの。その自分という意識を消さなくちゃいけない。でもそれを消すのにみんな苦労してきたの。

 でも先生がね、印可書を淡々と奉納するだけで、真(まこと)の神さまの立場に戻すよって仰って下さってるわけですね。印可書を淡々と奉納したら、自分と他人を分けないの。分けないから全て真(まこと)の神さまってわかって、プラスの言葉、いわゆる真(まこと)のプラスの言葉を駆使する自分になれるんです。わかかります、真(まこと)のプラスの言葉を駆使する自分っていうのは、宇宙神ありがとうございます 宇宙神ありがとうございます を言い続けてることじゃないのね。

 自分と他人を分け隔てなくて、全部真(まこと)の神さまってわかることが、真(まこと)のプラスの言葉を駆使する自分なんです。駆使だからね、言い続けるとは先生、仰ってないでしょう、駆使するというのは、そういう事なんです。だから印可書を淡々と奉納してね、自分と他人の区別がなくなって、全部真(まこと)の神さまの御働きってわかれば、それだけで、全ては解決していくんです。たったそれだけです。ありがとうございます

質問7
 今のお話とこれもコロナウイルスに感染しない方法、並びに、いつ頃終息するかっていうお話と、それから私の兄の癌の治療法を教えて下さいっていうか。

河上さん
 癌というのはね、マイナスと見てるじゃないですか。でも、その癌は必要で現れてるっていうのをみんな気付かなくちゃいけない。必要で現れてるのは何かっていうと、癌って品物を山のように積む病気って書いてるでしょう。品物の品っていうのは、マイナスの言葉っていうことですよ。

 全部神さまの物でしょう、例えば。全ては神さまの物なのに、これは自分の物だと決めて、抱きしめるから癌になる。例えば品物でいうとね、或いは、それが権力とか立場でもあったり、或いは、その色々ありますけどね。
 要するに自分と他人を分けて、これは自分の物、これは大事な物と言う程、癌になっちゃうんですよ、誰でもね、それだけです。だから自分と他人を分ける意識をどうして消すかだけ、要するに自分という意識をどうして消すかだけなの。だから印可書を淡々と奉納してたら、全ては解消しちゃうわけです。もう一つは何ですか?

司会者
 コロナウイルスです。

河上さん
 コロナウイルスも一緒です。

質問8
 以前の勉強会で出された質問に対して、直径15cm以上の木は、ただ切ってはいけない。命があるので供養しなくてはならないと河上さんがお返事なさっていました。その頃、実家で何本か庭の木を伐採をした後でしたので、気になっております。切った後の供養でも大丈夫でしょうか?切るように言い出した母の状態は、その頃から落ち着いてきてはおります。いつもYouTubeで勉強会の内容は聴かせていただいております。よろしくお願いします。

河上さん
 勿論、切ってからですね、切株もしくは、切株を取ってしまったら、切った場所で印可書を奉納していただくだけで大丈夫です。印可書というのは、時間・空間を超えていますから、一瞬で消えるんですよ。だから自分は過去にね、いっぱい人を虐めてきた、或いは人を殺してきたとかね、あっても印可書を奉納するだけで、一瞬で消えるの。だから、「善人なおもて救われる、況(いわん)や悪人をや」親鸞さんが仰ったんですよ。よろしいですか、はい、次お願いします。

司会者
 いただいた質問は、これでお終いですが、会場にいらっしゃる方で、どなたかこの場で質問がございましたら、前に出ていらっしゃってお願いします。いませんか、河上さんお願いします。

河上さん
 ありがとうございます
今日は、とても雨を止めるだけの自信が、なかったので、前で早くお祈りしていただいて、なんとか上手く間に合って、よかったと思います。
 まず、みなさんが印可書を奉納するという実践編に入っていただきましたのでね、その実践編の何が大事か、だけなんですね、これからは。それはもう、何も願い事を籠めないことです。ただただ奉納というのは、ただただ神さまに捧げるということですね。
 
 印可書というのは、自分の本心の代わりなんです。本心そのものなんですけどね。でも、ちょっと印可書と自分が分かれている間は、自分の本心の代わり、自分の代わりに印可書を神さまに捧げる。その内に印可書と自分が一緒というのがわかって、自分が神さまに捧げてる、その捧げるが、もっとわかってくると、真(まこと)の神さまと不離一体の自分っていうふうに、自覚が変わってきますのでね、どうか淡々とね印可書を奉納し続けて下さい。それは、神社に行く時であろうが、普段お仕事されている時であろうが一緒です。常に常にそうして下さい。

 そして、印可書、仕事してる間はね、印可書を奉納すると(いうのは)、ちょっと難しいじゃないですか、仕事しながらっていうのはね、その時は「宇宙神ありがとうございます」或いは「ありがとうございます」を籠め続けていただいたらいいです。その「ありがとうございます」「宇宙神ありがとうございます」を、ある程度、言葉で展開したのが印可書ですから、全ては完璧なる一つであることは、かわりないです。

 最終、切羽詰まった時は、「あ」「う」「す」のどれを使うだけで大丈夫です。勿論「ありがとうございます」の10文字のどれを使ってもいいんですけど、無意識に、ハッと出る言葉といったら、「あ」とか、「う」とか、「す」なんで、それを使ってお仕事をされると大丈夫です。あっと驚くって言うじゃないですか、驚くというのは、新しい、新しい表現を見た時なんですね。あっという神さまのいのちの響きがあなんですね。
 動くとか、力を出す時にうーって言うじゃないですか、これも内側から神さまの響きが湧き上がる力の言霊なんですね。だから、「あ」「う」なんですね。「す」というのは、ひたすら神さまの清めの響き、澄み切りということです。だから、すーっというと、もうひたすら清まっていくんですよ。だからその3文字を基本的にお使いになれば、切羽詰まった時でも、ちゃんと解決していきます。

 今日は質問がないということなので、ウイルスのことに関して申し上げますと、ウイルスというのは、虫、虫が入れ子構造的に最終的な、すがたがウイルスなんですけども、この虫のすがたっていうのは何かといいますと、人間の肉体を支えるすがたなんですね。
だから、例えばシラミ、ノミ、ダニという形のもの、今はシラミとかノミはなくなりましたけども、ダニというのは、みなさんと共存してるんです、今でもね。そのダニのダニがどんな役割をしているかは、医学的にわかってないだけで、本当は必要で、みなさんと共存しています。それくらいね、全ては要するに、必要ない事は一切なんです。これをね、わかって下さい。全ては神さまが必要で現わされているんです。それを喜んで受け取っていたらいいんですよ。でもそれをみんな、こらはダメだとか、ノミ・シラミはダメだとかね、するじゃないですか、ゴキブリはダメって、だから、本当にダメだってなるんですけど。例えばゴキブリの必要性は色々ありますけども、一番みなさんに、わかり易くいうと、ちゃんとお片付けして、綺麗にしてないと湧いてくるよ、だから綺麗にしようねっていう意味でゴキブリはあります。だから綺麗にしていたら来ないじゃないですか、でも残飯とか何か残ってるからゴキブリ出てくるじゃないですか。そういうもんですね。どれもこれも必要なんです。

 だから会社なんか大きい組織になると、大きい組織じゃなくてもそうですけど、必ず人が集まると、よくできる人と上手くできない人になるんです。組織の効率で言うと、よくできる人だけが偉くてね、上手くできない人は、どんくさいやっちゃなぁ、使いものにならんなぁ、使えんやっちゃなぁと言われてですね、虐められるわけですけども。

 本当は神さまが必要で現わされてるんですよ。どういうことかといいますと、色んなことができる人のマイナスの部分を全部背負って現わして下さってるのが、どんくさい人とか怠け者なんですね。それに気付かないとダメなんですよ。全ては完璧は一つの中で、この世では役割分担して振り分けて働くんです。それに気付くとね、体は大人だけど、心はまだまだ小さい子なんだなぁってわかって、いじめることはないんです。小さい子は小さい子なりにできることをさせるじゃないですか。小さい子がお父さんのお手伝いをする時にね、お前使い物にならん、邪魔やあっちいっとけとは言わない。ちょっとでも手伝ってくれる、その気持ちが嬉しくて何かさせるじゃないですか、そういうことなんですね。

 だから、体は大人だから余計に腹が立つんだけども、ちゃんとできるんちゃうんかみたいなね、腹立つんだけど、そうじゃないんです。体が大人でも心が幼いままの人は、一杯いるの、それを大事にしてあげなくちゃいけないね。それは神さまが必要でそこに現わしてるからです。

 そのどんくさいできない人程ね、病気に強い抵抗力とかいう因子をもっているんですよ。その人が、その団体で一緒にいるだけでね、そういうウイルスじゃないんですけど、ウイルスみたいなものなんですけど、そういう因子を病気にかかりにく因子をみんなにわけてるんです。一緒にお食事するだけで、一緒に生活するだけで、だからみんな気付かないけど、形の上では邪魔な人だけど、使いものにならない人だけど、ちゃんと役立ってるんですよ、それに気付かないとダメなんです。神さまが本当に必要で全ての人を現わしてるということをね。

 だから、単なる効率主義でいけばですよ、使いものにならない人は、それこそ殺していったらいいんでしょう。極端な話、極端な表現で言えばね。でもそういうわけ、そういう問題じゃないでしょう。神さまが必要で現わしてるから存在してるというのにね、まず気付かないと文句が出るの。文句が出ると自分が損、マイナスを使ってね。だから、まず神さま、全ては完璧なる一つ、神さまが必要で現わしてて、必要に応じて色んな働きに振り分けただけっていうのに気付いて下さい。そうしたら、みんな仲良く助け合えるの。今はね便利な時代で水汲みなんかはポンプがするじゃないですか、水道が水を運んでくるからね、単純作業っていうのが、人間しなくていいんで、余計あんまり不器用な人っていうんですか、上手くできない人が目立つんだけど、本当は、そういう人は掃除だけしておいてねとかね、お風呂掃除だけ毎日してくれたらいいからとか、本当にね、その人のできる範囲のことだけお願いしていったらいいんです。それでいいの、それで必要が纏(まと)まって、すーっと収まってるの、それに気付かないとマイナスを言いやい(合い)して、そのマイナスの言霊がどんどん溜まって、今のように世界中が戦争になっていってる。

 結局戦争になるというのは、あいつ足手まといやって言うてるわけでしょう。あそこの国だけが、お金、借金一杯してね、何で、その国の為に、わしらがその借金肩代わりせなあかんねんって言うてるわけでしょう。どことは言いませんけどね。結局それだけのことじゃないですか。そんなん言わんとみんな仲良く助け合えば、いいだけのことでしょう。もう本当に全ては完璧なる一つっていう印可書そのものなんですよ。だから理屈で説明すると長々とね、こういうふうになりますけども、ただただ、ひたすらね印可書を淡々と奉納して下さい。そしたら、全ては完璧に収まっていきます。そのために先生が、自分のいのちと引き換えに残していただいたのが印可書ですので、これを大事に大事に使っていきたいと思います。

 質問ありますか?ここまでで。

(ここから会場からの質問です。)

質問9
 印可書の中で「皆共に行き巡り合い合い働くなり!」とありますが、これは真祈りの結集というか、護摩焚きのようなことと解釈したらいいですか?

河上さん
 そうです、そうです、全てに当てはまるんですけども、みんなができることを、いわゆるギブアンドテイク、求める心なしに、淡々と神さまに奉納するだけなんです。だから先程、説明したように、器用な人はね一杯仕事をしたらいいの、でも不器用な人は自分のできる範囲を精一杯淡々としたらいいの。それで全てが収まるんです。それがわからないと、ぐちゃぐちゃになるの。効率主義になったらダメなんですよ。それが、全て行き巡り合い合い働くなり!行き巡りっていうのは、一大循環の相象(すがた)の、この世的な形をいうわけですけども、組織ってそうでしょう、殆どが1割の人で、1割2割の人でもっているっていうんですよね。1割2割の人が8割の仕事をしているっていうんですけど、それでいいんですよ。その1割2割の人が8割の仕事をするためには、残りの8割の人が支えなくちゃダメなんです。支える仕事というのは効率悪いから、使えないように思っちゃうの、でもその人達がいるからこそ組織が成り立つんですよ。それがわからないと本当の大成功というか、大平和、完全平和に成らないんですね。そのすがたの一端(いったん)をですね、合い巡り合い働くなりと言っております。ありがとうございます

質問10
 ありがとうございます
 実は、今日まで言えなくて、辛かったんですけど、26年前に阪神淡路大震災があって、親元の愛知県に帰ってきたんですが、わかってもらえなくて、戦争体験のある人には、戦争と比べたら震災なんか小さいもんやって言われて

河上さん
 その通りです。

質問者
 そうかと、それで、もっていきどころがなくて、色んな境遇を恨んだり色々しておりましたが、お陰さまという言葉を、ありがとう村で覚えさせていただいたお陰で、色んな目にあってもコロナになっても、コロナのお陰さまでと、あるところで言いましたら、あんたはなんちゅう人やとまた、色々言われましたが、

河上さん
 それはね、人に言うから

質問者
 言うからですね。とんでもない人やと言われました。

河上さん
 それは人に言うたら、反発くらいます。

質問者
 私、頭がちょっと悪いから、色々正直に言ってしまって後悔しましたけど、今日のお話で黙って実践します。ありがとうございます

河上さん
 実践報告でしたね。(笑)

 本当にね護摩がね、みんな心が一つになってきたのね。だから一瞬でね、わーっと完成しちゃうんですよ。今日でも本当に雨が降るまでに終われるかなぁっと思ったら、もう降る前に完成して、まだちょっと護摩木が残ってる状態でしたけども、それくらいみんなが、護摩に関しては立場を超えてね、護摩は一生懸命神さまに捧げようということで、心が一つになってきたと思います。本当によかったです。印可書を読めない人もね、護摩に来て護摩に参加して下さい。印可書を読む効果に、一緒の効果がありますのでね。
 護摩は、みんなの幼い、拙い真祈り(を)です(ね)。幼い、拙い真祈りをね、本物の凄い真祈りに変えてくれる大切な場所ですから、できる限り最後まで維持して、最後までやっていきたいと思っています。

 みなさんも是非ね、色んな形でよろしいですので、協力して下さい。お金で協力する、時間で協力する、色々あると思いますけども、村のお仕事どれ一つとっても、お掃除一つとってもですね、護摩木を作るための、今、説明したように、支える仕事ですので、私、直接護摩木を作らせてもらえないなんて言わずにね、村に来たら村の人が、これしてあれして言う事をね、喜んでしてあげて下さい。

 例えば10これだけして下さいねって言われてもね、一生懸命やって1,2しかできなかったら、ごめんね、これだけしかできなかったけどって言って、それだけでいいです。結果は関係ないんですよ。神さまにいのちを捧げるっていうことが大事なんですよ。その神さまにいのちを捧げるっていうのが、中々みんな理屈ではわかるよ、神さまにいのちを捧げたらいいねんなぁ、全託って神さまにいのちを捧げることやねぁ、一切文句を言えへんことやなぁ、理屈ではわかりますよ。でも実際じゃぁどうするのって言うと中々わかんないんですね。

 でもこの護摩木を作ることは、神さまに、いのち捧げることに直結していますので、是非ね護摩木を作ることに立場を超えて、みんなで、わっしょいわっしょいってね、御神輿のようにやっていきたいと思います。本当によろしくお願いします。また来月お会いできることを楽しみにしています。ありがとうございます

 本当にね、みなさんの心が護摩で、ガーっと澄み切るので、喋る内容がなくなります。だから話が短くて、ごめんなさい。ありがとうございます

 音声はこちらからどうぞ
https://youtu.be/-Bnecp0qgQo

 宇宙神ありがとうございます


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5月光の交流会 by 河上彰延 2021年05月03日(月) 22時58分
PC

5月光の交流会
 宇宙神ありがとうございます

令和3年5月の光の交流会で聞いていただいた、先生のお話です。

 はい、ありがとうございます

 みんな今、真祈りの特訓を受けているのよね、本当に本心に戻すための神さまの働きが大きく降り立っているね。ここで、この最近特にね、本心の自分として神さまの教えを受けて、そして、正しく受けて、正しく実行するっていうのが必要なのね。今までは肉体の自分が、受け取って勉強しているね、間違い。肉体が自分って掴んでいるのは、我の心、思いの心よ。肉体を自分と思うのは大きい間違いなの。真の神さまが真の自分、これが本当の自分と定めないとダメね。本心の自分が、神さまの教えを受けて、正しく実行して、本当の悟りを開く。ここが一番のポイントね。だからガラッと切り替える必要がある。そうしないとね、全ての教えが正反対に受ける。我の自分と本心の自分の受け方が正反対、一番大事なポイントね。

 例えば支える。本当の支えるとは何か?表面で助け合うことじゃないのよ。思いの心・我の心は、まだ表面的に支え合う、助け合うと思っている。違うのね。神さまは一大循環の相象(すがた)で、必要なものを的確に与え続けている、これが本当の支えよ。必要なだけを的確に与え続ける、全てに対してね、盤石の支え、無限の無限の支え、これが神さまの支え方よね。この支えを受け入れたら、自分の中に神さまの支えが通り抜けるよね。その時に、自分が支える生き方をとるのよ。自分が支えるんじゃないの、神さまの支えが自分を通り抜けた時に支える生き方に変わるの。
 だから自分の支えじゃないの、神さまの支えなの。だから神さまの支えを大きく受け入れる、これが一番最初の大事なことよ。どれだけ、凄い支えかって、これに気付くために、やっぱり言葉が、一番先に必要になる。

 真の神さまの無限の無限の支えが、無限に無限に一杯!これを言い続けないと、気付かない。言葉通りの信念ができ上がるね、信念通りに受け取れる。今、一つ言葉に使っただけで、すぐに受け取れるのじゃないの。信念にまで変えないと、受け取る受け場ができない。だから常に、真の神さまの無限の無限の支えが無限に無限に一杯!言い続ける、唱え続ける、そしたら神さまの支えが、どれだけ凄いかって信じられるようになる、そしたら受け取れる。
 神さまの支えを受け入れたら、自分は支える生き方をとらせてもらえる、実行できるの。そこに、いくまでは、まだ支える生き方になってない。それで支え合うとなったら、全ての人が同じように、神さまの支えを大きく受け入れて、それを全部一つに力を合わせて、大きい働きをすることよね、これが支え合うよ。自分一人支える生き方になっても小さい。みんなが支える生き方になった時に、無限倍に大きくなる。その時に、本当の支え合う働きになって、全てを大きく変化させる力になる。
 だから徹底して、真の神さまの支えを受け入れることよ。これだけが大事なことよ。肉体の自分が、思いの自分が、我の自分が何かすることじゃない、したらダメなの、邪魔するだけ。神さまが全部してくれている。その邪魔さえしなかったら、全てが完璧なすがたで降りてくる。

 神さまの世界は、受けると与えると、本当は分かれないからね、一つだから、受けると同時に与えている、与えると同時に受けている、循環だから、上下は無いの本当はね。ただ、上手に受けた方が、たくさん与えられるから与える方が上って言うんだけど、本当は神さまの世界は、上下は無い。受けたら即、与えている、受けただけを与えている。与えたら即、補充がくる。本当の循環だから全部そうよね。
 でも虚の世界は、やっぱり上下が付く、プラス・マイナスがあるから、相対に分かれているから、求めるよりも受ける方が上、受けるよりも与える方が上。どちらがプラスが多いかによって判断できる。与える方がプラスが大きい、受ける方はその一部しか受けていないから小さい。求めるは、もう一つないからプラスがないから求めている、だから差別がつくの。

 だから、みんなの本当の目的、肉体の人間の目的じゃないのね。本心の自分の本当の目的。真の人生の目的、何か?元々、一切の我のない自由自在心、無色透明の自由自在心。この自分が何を目的とするか?神さまの目的を自分の目的にする、神さまの願いを自分の願いとする。神さまの御心のままに、神さまと共に生きることよね。そしたら一大循環の流れのお手伝い。本当に必要なものを、的確に与え続けるお手伝い。小さくも大きくも、全部そうよね。だから、どれだけ大きい力がいるかよ、一人の人に必要なものを、的確に与えるだけでも、大きい力が必要よ。本当にその人の変化を見抜かないとダメだし、一瞬一瞬、必要なものは変わるから、与えるだけでも大変よ。一人の人に与えるだけでもね、与えるものをたくさん用意しておいて、瞬間に、何でも与えられるようにして与え続けないとダメだから、それを無限の人に対してできるかって考えたら、本心の自分ですらできない。
 そしたら真の神さまだけに、すがるしかない。虚の世界の自分がすがるのとは違うのね。本心の自分ですら、全知全能無限力と言いながらできないの。本当の神さまの働きには、及ばないよ、全然ついてもいけない。だからこそ、本心の自分は謙虚に、真の神さまに全託する。大きい本心の自分に戻るほど、全託が深くなるの。まだ小さく与えている間は小さい本心の自分よね。この時はまだ、ちょっとは可能性があるのよ。自分の力を与えられるかなって、錯覚を起こすかもしれない。でも大きくなればなるほど、もう途方に暮れてしまうよね。今、与えられる自分の能力を無限倍にしたら、無限倍のものを与えられるけど、神さまの世界は入れ子構造だから、一段上がるごとに、無限倍のものを与え続ける、この働きが必要になる。不可能、絶対不可能よ。

 だから真の神さまに降り立ってもらう、自分を通り抜けて使ってもらう。神さまに本当の全託が必要になる。そしたら、いつも神さまと共に歩む。無条件の喜び・安らぎ・喜び・幸せが全部湧くように出てくる。与えただけが幸せが大きくなる。この生き方だけよね、本心の目的は。
 だから虚の世界に転落して、苦しみの苦海に落ちて、どうしようもないっていうのは自分を小さくしたからよ。小さくなればなるほど、苦しみの苦海に沈んでしまう。自分が大きくなったら、全部抜け出るのよ。だから大きくなるほど、大事、幸せなの。

 だから、大きくなる方法、一つだけじゃない、神さまを受け入れるだけよ。神さまを大きく受け入れたら、大きい自分。小さくなったら小さい自分になる。だから、どれだけ大きく受けても、まだ神さまの方が大きい。無限に無限に受け入れても、まだ神さまの方が大きい。どこまでもどこまでも、大きく受け入れることが、まず一番大事な必要なことよね。

 それを言葉で定める、まず。言葉が、まず先にくる。真祈りっていうけど、真のプラスの言葉は、何か?
これは、もう絶対の中心から、新たに新たに、降り注いでくる神さまの働きの言葉よ。その言葉を本当の意味で駆使する。これは、真の神さまの一大循環の相象(すがた)、与え方よ。これをしっかりと受け入れることよ。そしたら、すぐに大きい本心に戻る。言葉通りの自分になる、全て言葉通りになる。
真実の世界も言葉通りの自分。虚の世界も言葉通りの自分。全て、言葉通り。どういう言葉を、自分がたくさん使っているか。全部言葉通りになっている。だから大きい本心の自分の生き方は、大きいプラスの言葉が必要。だから大きく支えに生きようと思ったら、必ず、真の神さまの無限の無限の支えが、無限に無限に一杯!って、常にそれを受け入れようとしないと。そしたら必ず大きく支える自分に、言葉通りに置き換わってくる。それが全てよね。言葉を変えたら、変えた言葉通りになってしまう。

 普段、日常生活で、何を言葉にしているか。虚の世界があるって言ったら、虚の世界に転落している。ここが神さまの世界って断定すれば、断言すれば、神さまの世界になる。だから真祈り、祈り言葉、なにを使っているか?「真の神さまは一大循環の相象(すがた)で厳然と、今ここに在します」なぜ断言するのか、断定しないといけないのか、それを言葉にしないとその世界に住めないからよ、それを観(感)じる自分になれない。現実に、今ここに神さまの世界があるのに気付かないのは、言葉が違うから、言葉で波が合わないのよ。

 祈りの力って言葉の力よね、全部言葉の通りに実現している。言葉さえ正しく選んだら、大丈夫。「新たな、真のプラスの言葉」これが最高の威力を持つの、過去を全部消せる。最高のすがたを現実化できる。どこにも問題はないの最初からね。だから本心の自分に戻って、もう一回、神さまの言葉を理解しなおさないといけないと思う。

 例えば、ありがとうございますの16項目があるよね、その中にありがとうございますは、真の神さまへの恩返し。そしたら、真の神さまへの恩返しって何か?虚の世界の解釈とは全然正反対よ。虚の世界は与えてもらったものを受けて、喜んで万分の一でも返そうとしている、これが虚の世界の恩返しのすがたよ。でも真の恩返しはそうじゃないよ。どんなすがたで理解するかよ。本心の自分の、真の神さまへの恩返しという意味は、恩返しの恩、因の元の心ね。一番の本源の心、真の神さまの絶対の中心、ここへ立ち返る。
 絶対の中心へ、いつも立ち返るのが恩返しよ。そこから出発して、真の神さまを与え続ける生き方をとる。常に、そこへ返らなかったら、本当のお手伝いはできない、恩返しじゃないの。
 だから一瞬一瞬、絶対の中心へ立ち返るのが真の恩返し。受けたものを、ちょっとだけ残して、お返しするのとは違うの。常に、絶対の中心へ、一瞬一瞬返ることよ、立ち返ること。そしたらどんな言葉もそうよ、本心の理解と解釈と、思いの心の理解・解釈、全然正反対になっている。

 今までの肉体の自分としての解釈は間違ってる全部。もう一回本心の側に立って、もう一回全ての教えを受け直したら、本当の理解が進む。神さまのことが、よくわかってくる。神さまと一体感が深くなる、実観(感)できる。もう一回、本心の自分に立ち返っての勉強し直さないとダメね。これ今、神さまが真剣に願ってくれていることよ。そこへいかないと、真祈りの伝授が不可能なの。肉体の自分が真祈りの伝授を受けることは、できない絶対。思いや我では、神さまの光を受けたら、降りたら、瞬間に消えるだけなの、何も残らない。悪魔やサタンというようなね、大きい思いや業の大きい塊、これが真の神さまの無色透明の光、ちょっと降りただけで、とろけるように消えてしまう。神さまの光が降りて消えるようなものはダメなの。我や思いは全部瞬間に消える。こんなものに頼っても何もならない。
 本心の自分でないと、真の神さまを受け入れることは不可能。だから本心の自分に立ち返って、そこで真の神さまを受け入れる。

 だから本当に、自分が無色透明の自分に戻らないと、神さまの世界の無色透明の世界が見通せない。本当の水晶のようなね、中が無色透明で全部奥が、すがた・かたちが、ちゃんとあるの、入れ子構造のすがたで厳然とある。それを奥の絶対の中心まで全部見通さないとダメ。無色透明だから見通せる。見通す自分は、無色透明の自分でないとできない。だから元は、一切の我のない無色透明の自由自在心、これが本心の自分の定義よ。この自分に立ち返って、神さまをしっかりと受け入れる、これが必要なの。

 そしたら、この世の生き方なんか無関係よ。本当に本心の自分に立ち返って神さまを相手にするんだったら、この世の変化なんて自然に移り変わって消えているだけのすがたよ。本心の自分がしっかりと生きたら、真のプラスだけが降り注ぐ、全てがプラスだけに置き換わる。プラスが減って無くなるんじゃないの、反対よ。無限の無限のプラスが無限に無限に一杯!っていうふうに降り注ぐだけ。

 だから勇気を持って、本心の自分に戻ることよ。虚の世界は捨てたら消える、無くなる。でも本心の世界、本心の自分にとったら反対なのよ。自分を空っぽに、すればするほど、神さまが流れ込む。大きく流れ込む、循環する。だから与えることが即、受けることになる。与えれば与えるほど、大きく受けることになってる。プラスだけの本当の循環が起こってくる。そしたら永遠の本当の幸せが保証される。
 この世だけではダメよね、この世の幸せなんて、儚い虚しいもの。この一生が終わったら、何もなくなってゼロよ。でも永遠の幸せをしっかりと把握しておかないと。あの世へいったから幸せになるんじゃない。虚の世界を抜け出て、本当の神さまの世界に住める自分に変わらないと、永遠の幸せは保証されてない。

 問題は、本心の自分に立ち返ったら一切の問題はなくなるの、消えてないの。後、神さまを深く、体感・体得する喜びだけが待ってくれているの。神さまの理解が深くなればなるほど、幸せが大きくなる。神さまの支えが、どれだけ大きいか気づくほど、幸せが大きくなる。

 同じ虚の世界を眺めるのでも、本心の眺め方と思いや我の眺め方とは、正反対よ。本心の自分だったら虚の世界の一番下に立つ。地獄のさらに下に立つ。そこから、光一元、プラス一元に、真の神さまだけを見つめる。そして、神さまの全てを受け入れようとするのね。だから、マイナスの極で受け入れるほど、神さまのプラスの価値が増す。
 ただ、真の神さまだけを相手にするのよね。真の神さまだけしか見えない、マイナスの極に立っているから。途中そんなん、いい加減なものは見ない、全部プラスに見える。

 だから、本心の立ち方は違うよね。常に、一番謙虚な心で、プラス・マイナスの立場に立ってないの。一番謙虚な立場に立っているだけ、真の神さまを受け入れる為に、それも全てを受け入れる為にね。もう全ての段階、全部受け取るのは一番下じゃない。自分の立場が上だったら、上のすがたしか受け取れない。絶対の中心からは全てを与えたらいいの。その全部を受け取るのだったら一番下から受けないとダメよね。
 本心の自分は、自由自在心だから、同時に絶対の中心に立ち、同時に一番下に立つの。立場が変わらない、同じ立場にいるの。絶対の中心と一番虚の下のマイナスの極と、同じ立場に見れるの。極端に離れたものを一点に見るの、そこで与えて受けるの、できるのよね自由自在心は。
 上下は無いのよね。与える・受ける、分かれてないの、同時に両方一つになる。だから、虚の世界があるから、マイナスに引っかかることはないの、それは。真の神さまだけなの常に。ただ、真の神さまの凄さを、入れ子構造で見通すだけなの。一番幸せな受け方になるだけよね。

 これが真の本心の自分に戻るだけで、できるようになるの。我が思いがあるから、できないのと違うよ、反対よ。本心の自分を生きないから、我が残されている、思いが残されている、それだけの話。何も無いよりは、ちょっとでも残像でも残した方がいいだろうと、この程度よ。本心の自分は、いつでも生きられる。元々本心の自分が全てなの、自分にとったら。その他に自分はないの。思いの心は色んなものを掴んで、これが自分というけれど、これは、みんな偽物よ。本心の自分だけが本当の自分。思いの心で掴む自分って、みんな偽物だから自分じゃない。

 だから、全てを受け入れる、真の神さまの与えてくる、全てを受け入れる。これが本心の自分よ。それで、真の神さまの全てを与え尽くす、与え続ける、これも本心の自分。だから全部、全部自分よ。本心の自分そのもの全部自分よ。真の神さまが真の自分というね、本心の自分、これが全てなの。その他に自分はどこにもないの。虚の世界に無限の次元があって、それぞれにね自分の分身がいてるなんて、そんなん間違った考え、錯覚。真の神さまとしての自分だけがあるの。それだけが厳然とある、実在している。これもやっぱり、言葉で定めないとね、言葉で定めないとわからないよ。言葉通りに観(感)じる、実観(感)する。つまらないマイナスの言葉を使ったら虚の世界に転落する、それを観(感)じる、それも言葉通りよ。

 だから、もう一回、ありがとうございますの16項目、本心の心で、もう一回、見直さないとダメ。本心の16項目も同じ、本心の心で見直したら、深い理解が進む。全然、理解の仕方が変わると思う。
 それで、真の問答集を、これからみんなで作ってもらうというのもね、その勉強。本心の世界は、質問が即答えなの、わかる。分かれてないの、質問と答えが分かれない。質問したら、即、答えになるの。本心の質問は、即、答えが出てくるの。神さまの世界は、そうなの、いつも自問自答なの。理解を深めるためだけの働きよ。
 だから、真の問題集をしっかりと作り上げたら、神さまの理解が、深く深くなって、一体感が進むの。その為の勉強になる。だから、しっかり本心の側に立って、もう一回勉強し直す。それが本心の自分の自覚を大きく深めることになる。それで、幸せを大きくする。気付きがどんどん増えると思う。それで、神さまの支えも無限に無限に一杯って、よくわかる。

 もう既に与えられている、支えられているって気付く。これから支えてもらうのでも、与えてもらうのでもない。もう既に与え続けてもらっている、これに気付く。今まで気付かないのは、思いの側に立ったから。本心側に立って勉強したら、すぐに気付く。この一大循環の相象(すがた)に気付いたら、その時に真祈りの伝授を受けたことになる。真祈りが、一大循環の相象(すがた)そのものよ。必要なものを全てに的確に与え尽す、神さまの愛の働き、これが一大循環の相象(すがた)よ。これを観(感)じ取ったら、本当の祈り、神さまの祈り、真祈りを伝授を受けたことになる。必ず、真祈りを伝授してくれる神さまはね。その為に今、一生懸命神さまは働いてくれている。ただ、自分が本心側に立たないと、受け取れない。全て本心の自分が動かしているのよ。本心の自分をしっかりと生きたら、我の自分に、思いの自分に惑わされない。

 惰性というのはね、惰性だけがあるんじゃない。本心の自分の、発揮した力の余分なものが惰性。車でもそうじゃない、車を運転する時、アクセルをふかす、惰力が生まれているじゃない。出しすぎたら、ブレーキを踏む。足りなかったら、アクセルを踏み返す。アクセルもブレーキも踏んでない時、本心が働いていないのかというと違う。惰性で動いている時も、本心が働いた結果が惰性になっているだけ。だから、常に本心が、働き続けているすがたよ、必要なだけ。そしたら、我の力で思いの力では何もしていない。それは、錯覚よ、間違いよ。常に本心がしている。本心の自分の働きだけが常にあるの。正しく理解できたら、そうわかるはずよ。
 常に、本心側に立ったら、本心の働きが何をしているかってわかるはず。我や思いは、何もしていない。本心の働きの惰性、痕跡だけじゃない。そしたら、自分を掴むのをね、そうでしょう、我や思いが自分なんて掴まない。本心だけが自分、常に本心だけが自分。それ以外に何もない。

 言葉が大事よ。肉体が自分、我が自分、思いが自分なんていったら間違っている。そうじゃない、本心だけが自分。もう常に、本心だけが自分、断言する、断定しないとダメ。そしたら、本心の自分がしっかりと出てきていきる。それだけよね大事なのはね。

 ハイ ありがとうございます

 音声はこちらからどうぞ

https://youtu.be/k2QT9cVAsBw

 宇宙神ありがとありがとうございます

じょうし


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令和3年4月深夜勉強会ー1 by 河上彰延 2021年04月26日(月) 04時43分
PC

令和3年4月深夜勉強会ー1(20210417−1)

 だから先生が早くから答えを言わはったね。「真(まこと)の神さまは一大循環の相象(すがた)となって、厳然と今ここにまします」ってね。厳然と今ここにましますって言ってるのにみんなピンとこなかった。

「みんな真(まこと)の神さまだけ」って言ってもピンときいへんし、「神のみ光、み力、み命」って言ってもピンとけえへんし、もっと昔やったら「みんな光や」の一言やったの、って言ってもピンときいへんし、先生はズーっと答えを言ってはるねんけどね。「みんな既に悟っている、祈っている、救われている」って、「神のみ光、み力、み命」って、どれも同じ意味や。

 ヨハネ先生の時もそうやね、「御国が来たれり、悔い改めよ、御国は来たれり」ってね、って言うんだけど、今はその翻訳しか伝わって来てへんけどね。その当時は先生は、ヨハネ先生は「天国は今ここにあり」やってん。それを引き継いでイエスが「be heaven at hand:天国は今ここにあり」全て神さまって言うんだけど、誰にも伝われへんみたいなな!

 その時に「悔い改めよ、天国は近づけれり」って表現してるんだけど、それは受け取る側の意識やね。先生はもっとはっきり言っているんだけどね。ただ、それは何で悔い改めよかと言うと自分で良い悪いという判断は止めよという意味や。その当時はちゃんとそう言うっているんだけど、その頃の人にはそこまで受け取られへん。それだけ。

 でやっと先生は祈りに祈ってね、もう言葉で言ったって全然通じいへん、言葉で理屈言ったって、自分の意識で良い悪いを判断してしか聞けへんから、もう全然分らへん。

 だからある時から先生は勉強会は本当に減らしてね、お話しされるのも少なくして、只々、祈りだけに専心された。僕にも「ひたすら祈れ、夜も寝るな、祈れ」ってね、祈って祈って清め尽くさなアカンって言って。もう清めて清めて清め尽くしてね、で行かれた。で「もう大丈夫、清め尽くしたからもう安心や」って行かれた。

 そっからが大変やこっちはな、安心やと言われた以上は責任ある、任された以上はね。みんなに分かって貰う為に色々とこう、右いったり。左いったりでこう揺すりながら、やっとみんな分かってくるところ迄来た。

 でここで未だ分からん人は分からんで下に(地獄に)降りてね、又、それなりに神さまに使って頂いってって事になったからね、最後の答えを言ったんだけどね。

 とにかく神さま以外の物が見えたら、要するにマイナスが見えたら、ね?神さま以外のもんていうことはマイナスや!自分にとって都合悪いという事があったら、虚栄心という事や、自我という思いがあるっていう事や。

 自分という思いが無かったら、全て真(まこと)の神さまだけ、真(まこと)の神さまの御働きだけ。もう只々、「神のみ光、み力、み命」、イエスで言う「神の栄光を現さんが為なり」、先生の言う「無限の無限の輝きが無限に無限に一杯」っていうそれだけやね。だけどちょっとでも自分が出た途端に、マイナスが見える。自分にとって都合が悪い。

 だけど色々と翻訳して言っているんやで、今が一番良いようになっているとね。全知全能の神さまが良いようにしかしてへんとかね、言ったて、理屈で言ったて分からへんやろう? 

 理屈で言ったて分らへん。そうだけど先生がお祈りして下さって、清めて下さって、理屈を超えて分るとこまで来たんや。だから本当に良かった!

 ここでまだ抵抗する人は抵抗したらいい、(ご自身の自由意志で)地獄降りて手伝って貰う。

 みんなの自由意思(次第→しだい)やね。スッと神さまの世界に行きたい、真(まこと)の本心の世界、真(まこと)の一大循環の相象(すがた)をそのまま受け取りたいという人とね、地獄行きたいという人は、みんな自分の自由意思で選ぶの。こっちが突き落とすんと違うからね。こっちはちゃんと一大循環の相象(すがた)やでって、神さまが一番良いようにしてるでって、今ここが天国やでって言ってるやん、ちゃんとな!

 それを聞けへん人は聞けへん人で本人の自由意思や、それも良いしね。

 だから奥さんが生きておらっしゃる間はここ来るけど、居られなくなったらもう来ないというのも、虚栄心やね。その虚栄心の中で、その人に縁ある(オリンピックに関する)マイナスを全部引き受けて消して下さるわけや。だからどの形を見たってね、一番良いようになっているね。

 そんな河上の言う事は嘘やって言うふうな人でもね、そういう事によって色んなマイナスを背負って消して下さる。どの形で背負って消すかは本人が選ぶの。こっちからは強制出来へんの。ちゃんと一番良いようなマイナスの背負い方をみんなしてくれてね、消してくれるの。

 そのマイナスというのは存在しないの、だけど人間が自分の都合でね、魂って作って、良い悪いって付けて、マイナスを決めつけてきたん、言葉で。その言葉を、言葉として残っているのを、みんなが一遍食べてね、身体の中に入れて消すわけ。それだけやね。

 ここでちょっと聞きますけど、言霊と言葉の違いは何か分かる?意外とみんな分らへんな?

Aさん:神さまの響きが入っているかどうか。

河上さん:そうそうそう。言葉と言霊の違い。だから「ありがとうございます」って祈るでしょう?でも言霊で祈っている人と、言葉で祈っている人が、な?「宇宙神ありがとうございます」って祈るや。「宇宙神ありがとうございます、宇宙神ありがとうございます」って先生の録音が流れるやん、ここは、な?先生の録音は言霊の「宇宙神ありがとうございます」って言うてはるわけや。

 バーと来るね、サーっと来るね、ガーやって先生説明するな?あれが言霊や。だけど皆は「宇宙神ありがとうございます」って言葉で言っているわけ、だから飽きるの。分る?言葉て言ったら飽きるの。言霊で言ったら飽きへんの。その違いは何所にあるでしょうか?

 って言ったら意外とみんな答えられへんやろう?みんな真剣に考えてないね、真剣に祈ってへんて、これ責めて言うてるとちゃうで。だけどそこまで本当に命がけになって欲しいのね、先生はな(みんなに)。

 だけど皆はやっぱり先生に頼っているから、そこ迄命がけにならない、祈り言葉一つとってもな。責めて言ってるんちゃうで、勘違いせんとってな。

質問:投げ出して祈っているかどうかですか?

河上さん:そうそうそう。ホントそうやねん。だから易しい言い方で、今が一番良いようになっているっていうのを素直に信じ切れるかや、一番易しい言い方で言ったらね。神さまの全知全能、いわゆる絶対の信やね、難しくいうと全託って言うんだけど、本当に全託し切れているかやね。

 で先生が全託し切れているかって聞くや。するとみんな、しているとか、してへんとか言うだけやね。自分のが全託になっているか、なっていないかを考えへんね。そういうレベルやったんや。そんだけ先生に甘えてた。

 先生がね、全て神さまの為に、神さまどうぞお使い下さいって投げ出しなさいって言ったら、あぁそうやなっていうて、言葉では言うんやで。

 ホンマは、どうぞ神さまお使い下さいって言ったら、後は一切文句を言ったらアカンの。な?それがスッと分からなアカンのやけど、言葉では「どうぞ神さまお使い下さい」って言葉では投げ出しいる積りやけど文句言っているわけや、普段の生活で。それ投げ出してへん。

 本当は簡単な事なんやで。だけど先生に甘えているから、先生の前で投げ出している時と普段の生活が剥離する。それって結局は虚栄心なんやね。普段の生活で文句言うのはやっぱり虚栄心や。あの人と比べて自分の方が損やって言うて文句言うわけでしょう?まあ言ったら。比べるっていうのが虚栄心やね。

 その言霊と言葉の違いっていうのは、本当に自分の意識があるか無いかだけよ。自分の意識って何かというと、文句を言っているか言っていないかだけや、簡単に言うと。文句言わんようになったら自分は無い。何時も何時も神さまが良いようにしてるってね、

 イエスの言うように「be heaven at hand:ここが天国だ」っていうのを素直にハイって言えたら、自分んが無い。ちょっとでも自分があったら、もう文句を言い出すね。神さま以外のものを(言葉で)作り出す。

 無色透明の自分だったら神さましか見えない。(自分の都合という)カラー、色合いつけるからマイナスが見えるの、な?それだけやね。

 無色透明の自分になったら、宇宙神ありがとうございますっ言ってても飽きない。飽きたら自分が出てるの、それはすぐ分かるの。マイナスが見えるもの。マイナスが見えないから宇宙神ありがとうございますや。な?宇宙神ありがとうございますって言っている時に、何か自分にとって都合が悪いとかマイナスに見えるわけ。途端に宇宙神ありがとうございますが言われんようになる。

 そこでもうみんな困るから先生が印可書を作ってくれた。その印可書も自分の都合で読んだら印可書でない、言葉や。な?で淡々と奉納して下さいって、神さまに只々、捧げる意味で読んでねって言ったら、それはもう自分が無いから言霊になる。その状態で読んだ時は真(まこと)の本心の自分に戻すよっていう神さまと先生の約束やから、これほど楽な時は無い。

 で印可書を信じ切れない人は自分の意識で読んでいる。それはもう印可書と違って単なる言葉を読んでいる。言葉を読むっていう事は、今までの宗教で言ったらお経を読んでいるようなものや。

 だから般若心経でも、どんなお経でもそうだけど、神さまに奉納するだったら言霊になるの。だけどみんな助けて欲しいとか色んな願いを込めて読むやん?それは言葉やから効果がない。たったそれだけや。

 この電気消せるかな?眩しい、丁度ぼくの目に・・(暫し椅子を下げる)
人工のレンズやったらもろに目に刺さってくる。・・・

 ちょっと話が途切れてしまったけど、
 その本当の真(まこと)のプラスの言葉っていうね、とこだけやねんね。それが真(まこと)のプラスの言葉が言霊や。真(まこと)というとこが無色透明な自分でないと出されへん、という。で無色透明な自分って何かといったら、もう一切もんくを言わないとか、何時も一番良いようになっているとか、神さまは全知全能で何でも出来る方やから、一番良いようにされているとかね、それだけやね。

 例えば、「右手でした事を左手に伝えてはいけない」ってイエスが言うやん。あれ何でやと思う?例えばね、あれも一緒やね、言葉と言霊の事や。何で言葉になるかと言えば自分がしてるや、な?自分が喋っているから言葉やね。自分が喋るその力ってどこから来てるのって、みんな考えへんのやな。喋る力、生活している力、動いている力、顔を洗っている力、歯を磨いている力、何でも良いのやけど、みんなそれ自分がしてると思っているんだけど、神さまがしてる。

 神さまがしてる事だけであって、自分がしてる事は一つもない。だから右手でしてる事を左手に教えたらアカン。全部神さまが良いようにしているから。そうやのに、右手でした事を左手に教えるっていう事は、自分がしましたって言ってるわけ。自分がしてないのに、(自分がしたと言ってしまったら)そしたら全部崩れていくの。

 そのちょっとでもマイナス言った途端に神さまから離れる。具体的には神さまの大きさが、本当は数値で現せへんけど、仮に100としたら一回マイナス言ったら自分は50の小ささになる。次にマイナス言ったら25になって、ドンドン小さい自分になって、小さい自分になればなる程、光を受け取れなくなってという、悪循環やな、まあ言ったら。そうなって行くの。

 そうなった人は例え僕の話をいくら聞いても分らへん。自分の都合で聞いているから、受け取られへん。或いは印可書なんぼ読もうとしても、自分の都合で読むから読んでも分らへん。それで分からんでも良いから、神さまに奉納しなさいって、素直に言えたらいいけど、分らへんのに読まれへんて理屈言うわけよ。それで(真(まこと)の神さまが遠慮して)引くんやけどね。それも本人の自由意思やな。こっちがどうこう言っても仕方ない。

 で仮にこっちから、或いは先生がね、印可書読みなさいって言った途端にね、何が崩れるかと言ったら、その人が自由意思で読まなくなるから。

 先生に言われたから読むという無責任になる。自由意思でやるっていう事は、自分が総責任者っていう事やね。自分が全責任を持ってしますっていうのが、自分の自由意思や。だから自分の自由意思で印可書を選び取らなあかんかった。

 その為に先生はわざと奥さんに反対させた。な?奥さんが反対しようが何しようが、これは先生が書かれたもので本物やって自分が選び取らなアカンかったけど、先生は最後の卒業試験をそうしはった。で奥さんが読まんで良い、神棚に祭っていたら良いって風に煙幕張らしはった。

 で無責任な人は奥さん言うてるから(と責任を奥さんに押しつけて)そうやって逃げたの。だけど総責任者の自覚を持ち出して、自分の全責任においてって思った人は、印可書を読んだらこれは凄いってなったわけ。

 それでその時に奥さんのせいにして逃げた人は、(先生に)みんなバイバイって言われた。「バイバイ、あぁバイバイって言っちゃった」っていって。(あるいはもう来ないからなって言われた)(つまり)「あんたら落第よ」って先生出て行った。

 (ええー)その人らこっち(ぼく)に振るんですか?みたいな感じやった「え!」みたいな。「可愛い可愛いしたったら良いんや」みたいに先生言うしね。

 だから印可書を拒否した状態から持って行くの大変やった、結構な。それはもう言葉ではなかった、こっちがひたすら祈るだけみたいなね。だけど護摩があったから助かった。護摩の時はみんな祈ってくれるからスーと持って行き易かったね。護摩なかったら無理やった。だから先生はちゃんと後やり易ようにしていって下さった。

 いや、最後やから全部種明ししていますが。(笑)

質問:河上さん、今も又、最後のって仰ったんですけど、無間地獄の方のそれを急いでいらっしゃるんですか?

河上さん:先生(が)先に行ってるやん、先生一人に任しとかれへん。先生との約束やもん。「地獄が無くなる迄、一緒に地獄行ってくれるか?」「はい」っていう、間髪入れずハイって言った約束はずーっと生きてる。その時は何も考えなかったけどね。只々、先生に沿いたい、お手伝いしたいだけやったから。

 そうやけどみんな護摩で、兎も角、何かよう分からんけど護摩で一生懸命お祈りしましょうってするだけで良い。只、毎月1回の護摩はあくまで総集編というか、総決算であって、毎日毎日の護摩木を書く事(宇宙船護摩木を書くということは真(まこと)の神さまが降りたってくださって書いてくださるということ→神さまとの不離一体を体験できるということ)、作る事、祈る事というのが本当の毎日の護摩やね。

質問:行こうとされている、河上さんを引き留めるのは?

河上さん:200人の真(ま)祈り人。今年中に出来るか出来ないかで決まるでしょう。

質問:出来れば・・

河上さん:だから出来るて、護摩で。本当にね、理屈抜きに護摩は先生が「やりなさい」って残された大事な事やね。だから護摩に関してはみんな力合わせましょう、で良いの。もうお互いに立場有る人も構へんね。本当は立場無くしてやらなアカンけど、立場というのは自分という意識やけどね。自分という意識あっても良いの、護摩の時は自分という意識があろうが無かろうが、真祈りにするよっていう先生と神様との約束毎やからね。

 だから護摩の会場に中々来れ無い人でも、せめて1年に1回は、2年に1回は来てね、みたいな事を言うのはね、そういう事。

 で遠距離の人程、たった1回の参加で大きく変わるの。だから是非無理をしてでも来て頂きたいけど、只、そうするためにはね、普段の毎月の護摩でみんなの真祈りがわーっとこう盛上って行かなアカン。

 だってお祭りもそうでしょう?大きいお祭りだったらわざわざ観光客行くやん。でも小さいお祭りだったら誰も行けへんや。ああいう感じや。

 でも今ね、みんな護摩木作ろうとしてくれるし、ワッとこうなって来てるから大丈夫やと思うで。

 そのここが割れるの嫌やったから色々としたんやけど、もう先生もこのままパッと行けっていうから、パッと行くけどな。

質問:で200人集まっているんですか?

河上さん:いや200人集まったら次の段階が有るから、僕(が)居てやんと次どうするか分からんと皆困るやろう?200人集まったら、次これって示していかな。オーケストラの指揮棒振るようなものやからね。正確には采配っていう、采配の棒を振らなあかん。

 で采配の本当の意味知ってる?采配を振るの?采配って神社で紙の付いた白いフワフワの紙付いたのこうするやん。あれが采配やの。だから昔戦国時代にね、大将が持っているのもそれや。采配を振る棒ってこうなっているやろう?あの細かいの、あれ光が分れている状態や。神さまの光が、その人に応じて的確に行くっていう状態を、采配を振るって言うの。で振ってその人らが背負っているマイナスを全部、その中心者が受けて消すから采配や。

 指揮する人が中心者が全部背負って消さなん。だから200人出来たら、する?中心?って言って。(中心に立ってみる?)嫌やろう?だから居てるけどな。

 そして大きく大きく入れ子構造状にね、全世界に、全宇宙に広がる。みんな地球だけやと思っているから甘い。そういうもんでは無い。

 だけど200人出来たら、ピラミッドの秘密も何もかもが全部透き通るように見えて来てね、分る。あぁそういう事やったんだって。

 みんな肉体人間て意識あるでしょう?本当はこれ一つ一つ細胞や、こういう、みんなの肉体の形で、又、一つの人間が作られているの。まあ簡単に言うとな。だからみんなバラバラやと思っているけど、一人の肉体や。という感じで入れ子構造になっているの。

 だけど自分という意識があるとね、お互い他人やと思っている。

 その先生がみんな光やって言うのは深い深い意味が有るの。分かり易く今、簡単に言ってみたけどね、もっとこうあるねんけど。そのお互い他人やと思っているけど、お互い一つの肉体や。だってこの肉体の細胞もそうでしょう?あの原子の段階でいったら凄い離れているんでしょう?な?バラバラや、バラバラやけど一つや。一緒や。

 だから全ては完璧なる一つって印可書に書かれている。それを肉体で、もうちょっと簡単に言うと、みんな指先が別々の個人みたいな感じ、だけど一つやろう?それも入れ子構造に右手と左手と一つで両肩でって、結局中心のお臍(へそ)で一つになる、っていう入れ子構造になっているわけやな。

 本当は簡単な事やってんけど、分けて分けて見るから分からんようになって行くの。

 機械でもそうやんか?部品バラバラにしたら分らへん。組み合わせて一つに見るから、あっ、こういう風に動くんや、扇風機ってこう動くんやなーだけどね、これ扇風機でもプロペラとモーターと全部バラバラにして、バシャ―ってこうして(広げて)み、な?

 一つに纏めて一つというのが見るから分かるの。一緒よ、みんな。理屈というのはそうして分けてみる癖やから分からんようになる。だから自分の意識で良い悪いって判断しているのを理屈っていうけど、自分の意識で良い悪いって聞いていたら、どんなお話を聞いていても分らない。

 先生はずーっと昔から、三洗荘の頃から仰る事は一緒なんやで。一緒だけどみんな分からんかった。それである時から説明するのを止めはった。だから最近のお話しでもね、説明するのを止めて話してはるから、分り難いやろう?みんな、あーそうかなって聞いてるだけで、誰も質問に来ないって先生怒ってたけど。わざと分り難く言ってはったけどな。それの答えを僕いま言ってるだけやけど。

 それって神さまって本当に求めずに、只々、みんな先生に甘えてた。でもその甘える子が可愛いって先生言ってはった。

質問:神さまは全部楽しまれてるだけなんで、只々、全部喜んで待っていれば良いって事を勉強会で聞かせて下さってるんですけど、その時に余計な意味付けは要らないんですか?

河上さん:要らない。だから先生は良く言ってはった。「喜んで、感謝して、待っていたら良い」って、「喜んで、感謝して、待っていたら良い」って何時も仰ってた。

 待っていたら良いというのは、自分の自我の思いでどうこうするなや。何でも素直に「ハイ」で(今が一番良いようになっていると喜んで)待ってくれてたら良いって。

質問:何かこう、それって大難を小難にのかも知れないのですが、何かが起った時に、例えば会社でイジメられた時に・・

河上さん:あのな、例えば好転反応とか、大難を小難いして貰ったとかって先生説明するや。それは未だみんなが現実を掴み過ぎていたから。だから現実を掴んでいる人にね、いきなり一番良いようになっているって言ったって「何を言ってるんや、こんな痛いのに」とか「こんな、ぼろ糞に言われているのに」と言って頭から受け付けんでしょう?

 だから先生は、同じようにみんなの意識まで降りて、一旦現実を掴んで、でもこうなる事で、この痛みは好転反応で良くなるよとかね、言ってくれはった。それだけや。でも本当の事を言うと一番良いようにしかなってない。

 その「be heaven at hand」ってのは幸せは何時もここにありっていう意味ね、天国というけどね。何時も何時も幸せは全ての全てが幸せなんだよってイエスは言うわけ。

 先生の言う「無限の無限輝きが無限に無限に一杯」って何時も何時も仰るわけ。だけどみんな「そうかなー」や、現実掴んでたら。現実掴むって何かと言ったら、小さい自分の立場の意識に閉じこもっているって事や。魂に閉じこもっているの。その魂を開放する、人間解放が良い。

質問:今こうなっているのは、今ここをお清めする為やとか、そんなちいっこい・・

河上さん:そんなん要らん、もう神さまが良いようにしてるだけや。何でかと言ったら神さまが楽しんでいるだけだから。それは何遍んも説明しているやん、8時からテレビ見んでも、8時40分から見たら水戸黄門なんかあっという間に解決するのに、なんで8時から見るん、って言って。

 漫画でも第1巻と最終回見たら良い、真中要らん、やろう?だけど見るんや、真中、極端にいったら最終回だけで良い。な?やっぱり、そうやって色んな条件つけて楽しむん、人間でもな。

 それは人間は神さまの愛し子だから、神さまとピタッと一つやからね、神さまと同じ事をしてんの。だから雪山登山もするし、みんなそれを楽しんでいるの。でも現実を掴み過ぎると、楽しんでいる事を忘れるの。で文句を言う、文句を言ったら何のために生まれてきたか忘れている。楽しむ為に生まれてきたの。

 だから現実掴んでいるから自殺しようとするね、死んだら楽になるって勘違いしているから。葬式とかするや、あれ何でするか分る?本当は理由あるの。あんな、死んだ人に、あんた死んだよって教える為。

質問:そっちなんですか?

河上さん:うん、何でかと言うと、死んでも死んだと思わないの、意識あるから。で 一生懸命に話しかけるのに誰も返事してくれへんわってなってるわけ。それで死んで地上に残ると(どうなるか?というと)、(みんな)肉体があるから一瞬一瞬新たに(少しは→少しだからだんだん歳とっていく))受け直せてるね。

 肉体無くなると地上に残っていたら、一瞬一瞬新たに受け直されへん。だんだん体が分解していくね。腐って行く、簡単に言うと。髪の毛だけは伸びる。だから幽霊って髪の毛長い。古い幽霊程な。

 それで腐って行くから、足先から腐って行く。で古い幽霊ほど足ない、新しい幽霊は足ある。それは地上に執着しているから、肉体に執着しているから地上に止まってしまう。素直に「あなた死んだのよ、次の世界に行きましょうね(って守護霊さまが迎えに来るけど)」「ハイ」って付いていったら良いんだけどね、一応お迎えは来るんだけど「嫌や」って行けへん時は自由意思が優先されて地上に残るの。それ地縛霊って言うんだけどな。

質問:肉体ないのに髪の毛伸びるんですか?

河上さん:髪の毛っていうのは、例えば土葬の時、土葬って知らんか?掘り起こしたら髪の毛だけ残っている。髪の毛、神さまのカミって付くだけあって特殊なもん。命の根本的な部分にあるのね。だから幽霊って結構髪の毛長いやろう?男も女も、それ古いから。で足先から腐って行くから古い幽霊は足が無い。見ん(見ない)ほうが良いけどな。

 見てしまった時、印可書をスッと読めるようにな。古い幽霊さんの時は大変やから、一生懸命印可書読んだら良いの。だけど自分の前に出て来はるっていうのは縁があるからね、(印可書を奉読することを通して)可愛いい可愛いいしてあげたらいい。怖いじゃなくて、例えばね。

 で自殺というのは、この世をはかなんで死ぬや。(つまり)この世を掴んでいる、だから行くに行かれへん、自殺すると。それでもう本当に、幽体の顎がバーッと伸びて来るの。何でか分かる?「苦しー」って叫んでいるけど、動かないから(それで幽体のあごが伸びていく)。

 その肉体があると苦しいと気を失って、痛かったら気を失って助かるやん。でも死んだら肉体が無いから痛みがズーっと続くの。その自殺した時の状態の痛み、電車に飛び込んだらあのガンな。首吊っても。

 (なぜ自殺するか?)それはこの世を掴むから、この世を嫌になる。掴まなかったら楽しみに来ているのが分る。ゲームでもそうやんか?そこに入り切って、神経衰弱でも何でも勝ちに行って、ゲームの結果に拘(こだわ)り切ったら苦しいやん。な?トランプでも楽しんでたら良いけど、勝たなアカンとなった途端、麻雀でも多分そうだと思うけど苦しいと思う、色んな意味でな。それ現実掴んでいる。自分でこの現世というゲームを設定して楽しみに来ているのに、だから結果気にするなっていうの。結果じゃなくて楽しみに来てるの。

 で失敗する結果を楽しみに来ている場合もあるからね、それ忘れたらアカン。その難しい事をして失敗するのを体験したい場合もある。まあ、それはそうやろう?何でも成功する体験ばっかりだったら面白くない。な?ワッと苦労してアカンかったという体験があるから、そういうゲームを一杯するから、達成した時のゲームが楽しいんだろう?

 まぁ言ったらな。それだけやね。だからあの人運悪くって可哀想やったって言うけど違うの。


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令和3年4月河上さん深夜勉強会−2 by 河上彰延 2021年04月26日(月) 04時39分
PC


令和3年4月河上さん深夜勉強会−2(20210416−2)


 この現世的に見てもね、必ず神さまは平等やから、ずるい事をしたらそういうずるい運命を体験して消すようになってある。だけどそれも狡い事をわざとして、狡い事を消す運命を楽しんでるだけやねんけどな、本当は。だけど苦しい中へ入り込んでしまうと、そういう説明をせなあかんみたいな。

 だから本当は全部楽しんでるだけやね。楽しみに生きてるって思ったらね、結果を気にしないから楽になる。でもみんな何が苦しいかって言ったら結果を気にするから。(
これを現実を掴むという)大学受験に合格せなあかん。ね、何かの資格試験を通って取らなあかんとかね、英語喋れなあかんとかね、結果を気にするから苦しい。結果を気にせんでいいのね、英語は一言だけ喋れたらいいとかね。諦め切ったら楽になる。

 あれもこれもせなあかんと思うからあかんのね。本当はこの現世と言うのは1つだけを楽しみに来てるだけなのね。だから先生はよく「この世に降りて来ても、殆どは1つ2つ3つ落ちるだけや」って言うねんな。本当は2つ3つしか、しに来てないのに、それの結果を気にして落ちてしまうの。神さまが1番良いようにしてるってわかったらスっと上がるの。何でかって言ったら現実を掴まない、結果を掴んでないから。結果を掴んだら下へ下へ降りて行く。それで極端に結果を掴むと自殺する。結果を掴むって何かと言ったら条件つけてる。それで条件つけるって何かって言ったら虚栄心。人と他人を比べてな、「あの人より偉くなりたい」とか色々あるやん。だから虚栄心が1番問題やね。でもその虚栄心があるか無いかは自分でみんなわからへんのよ。わからないけど神さま以外のものが見えたら虚栄心。

 最初に説明したように肉体が1つの細胞で、この肉体1つ集まって1つの人間を形成してるの、本当は。だからみんな1つやね。自分という立場を捨てれたらスっとわかることばっかりやな。「自分の家族が」とかね色々あるやん、「親が」とか。自分の立場っていう意識を持つとバラバラになってどんどん小さい意識になって。蟻さんから見たらちょっとの雨も大洪水や。象さんから見たら小雨や、みたいな感じで意識が大きいか小さいかでそんだけ差がある。その小さい意識を撃ち破るために、先生が色んな祈りの方法とか色んな方法を言ったんだけど、みんなしないから「印可書」を奉納するだけってなった。

 それもしない人も自由やから大丈夫。全員させなあかんと思って大分困っててん。こんなん無理やしみたいな(笑)ほんならみんなの自由意志で大丈夫、って下に降りる人どうするん?って思ったら「こういう風に使う」ってこの前なったからね。

 僕を嫌う人は思いっきり嫌っておいてくれな、じゃないと下で出会った時に気づかない。「何でおるん?」見たいな(笑)。だから霊能力とかあんなんでも虚栄心やね。本当はたいした力じゃないのにな、「あの人の過去世が見える」とかなあるやん「心が読める」とか「トランプの裏から見える」とかなユリゲラーさんやったらスプーン曲げれるとかな、やっぱり所詮は虚栄心。人に見せんとやってたら虚栄心違うけどね、もう見せる段階で虚栄心でしょう。

 そんなんスプーンなんか別にペンチで曲げたら終いや、曲げたかったらやで(笑)なぁ、そやのになんか無駄なことでしょう。まぁ今年は真祈りの実践編やから、みんな運命的にも仕事の上でも色んなことが起こると思うんですけどね、是非「一番良いようになってる」って、「天国は今ここにあり」って思って乗り越えて下さい。その乗り越えるのが楽しみのはずなの。

 それで自分で設定したら、こんな大変な事は普通よう選ばんっていうことが来るわけ。だからこそ楽しい。自分で選べることやったらたいしたことないし避けれる。でも絶対避けられへん状態が来るから楽しめるのね。そこだけやねんね、だから「末期ガンです、あと3ヶ月です」って言われた時にどれだけ喜べるかやねんな。ガンになりたいと思ってもなれないわけでしょう?自分で選ばれへん、その選ばれへんことを乗り越えれるのは凄い楽しみやね。ってわかるとね、例えばガンになっても、ガンが治ろうが治らまいがいいってなるから、無色透明になれてパッと変わる。治さなあかんって掴むから治らへん。治さなあかんと言う事はもう神さまを信じてないでしょう?

 神さまが良いようにしてるんだから、ガンで死んでも良いわけ。本当はガンで死ぬ方がその人にとっては1番楽な筈やね。せやのに文句を言うてるの。

 人を虐めて苦しめてきた人はね、やっぱり痛い痛いガンで末期は痛がるの。人を痛めつけてきた人はな。「痛い痛い」言うて痛がって死ぬんやけど、この肉体で痛がるのは向こうの世界の何十万倍やからね。ちょっとで助けてもらってるの本当はな。それは戦争で悲惨な状態になっても一緒やね。あんな死に方してやけどそれで小さく消えたの、

 本当は。あんまりそんなんを録音で言うとまた怒られるからあんまり言わないけどね。でも本当は全部神さまが1番良い状態にしてくれているっていうのは間違いない。その時に文句を言わなかったらすっと消える。痛がって死んでもやで。だけど文句を言うとちょっと半減する(笑)文句を言った分だけ自分が受け止めきってないから。喜んで受け止めていかな。

 何でかと言ったら自分の体の中が無限大の大きさやから。みんなブラックホールなの。全部吸い込めるの。全部自分の中に入れれるの。喜んで入れたらいいね、ほんならスっと消えるのにな。入れたない(入れたくない)って言うから痛いねん、それ嫌って(現実から逃げようとして)言うから。だから覚悟を決めて受け止めていくと結構スっと済むのにな。だけど逃げると大変やね。

 だから「無条件」って言うの先生は。「条件つけるな」って。条件つけるっていう事は自分で良い悪いっていう条件でしょう。だから先生は答え言ってる、「無条件の幸せ、無条件の喜び」って答え言ってるねんよ、みんな「うーん…」って(笑)なんで条件って言ってはるんかなって考えてくれへんかったんや。

 自分で良い悪いって言うから条件がついてるって簡単なことやってんで。だけど「聞きにも来ない」って先生が言うから、「ほんならこっちから言いましょうか?」って言うたら「お前はいらんこと言うな」って言うて(笑)「お前は性急に過ぎる」とか言って。「1番いいちょうどいいタイミングがあるんや」ってよく怒られた。じっと我慢してきて、じっと我慢してきて、もう言っていいって言うて喜び勇んで言ってるけど。

 だから誰が中心とか誰が偉いとかね、違うねんて。みんなで楽しんでる。だから組織も教えもいらん。ただお互い楽しみ(合って)やってるんですよって教え合うぐらいはいいけどね。もうやっぱり組織にした途端に教えてやろうっていうのがあるやん。「上から目線で」とかいうて文句言われるしな。どっちにしたってややこしいねんけど。

 結局組織や教えっていうのは、要するになんで組織や教えがあかんかって言うたら神さま以外のものって認めてどうこうしようとするからや。みんな神さまやから組織も教えもいらんの。只々、喜び合うだけ。支え合うだけやねんね。それで本当の支え合いって何かっていうのみんな考えてくれへんねんな。

 いつも先生の憮然(ぶぜん)としたの、今どんどん思い出してるけど、支え合いって言ったら、本当の支え合いってどうするかってみんな考えてくれへんの。それは総責任者ってどうするかって言うのをみんな考えてくれへんのと一緒や。本当の支え合いと総責任者は一緒やね。相手に真(まこと)の神柱を立てるとか表現色々あるの。真(まこと)の神さまを建てるとか、真(まこと)の神さまに通り抜けてもらうとかって表現色々あるけど、どれもこれも、只々、みんな真(まこと)の神さまの御働きだけって言ったら支え合いや。ちょっとでも真(まこと)の神さま以外のものを相手に認めたら支え合いにならない。真(まこと)の神さまを相手に認める為には喜び楽しんでるって言うのを知らないとあかんのね。「そんな言ったってあの人苦しんでるやん」って言った途端に神さまから離れる。

 だけどそういう苦しみを楽しんではるっていうのわからないとね。神さまから離したらマイナスに見えるねんけど神さまと一つやから神さまは楽しんでるって見える。理屈で言ったらやで。それもこれも「印可書」を読んだらわかる理屈抜きに。「印可書」の凄いのは理屈抜きに全部わかる。あれが1番いい、こんなん理屈でわかったっていうのは結局はわかってない。

 だって理屈でわかるんやったらイエス(生誕から)2000年経ってるね。聖書があるやん、聖書という理屈でみんな悟らなあかん。例えば。或いは先生のこの「神書」が出て何年経つ?この「神書」でみんな悟らな。読んでもわからへんねんやろ。理屈言ってもわからへんで。はっきり言うけどな。

 結局祈るしかないね。だけど祈るというのがみんな苦手やから先生が「印可書」を作ってくれた。「印可書」を淡々と奉納したら真祈りとするっていう大おまけや。それをどれだけみんなが喜んで受け取るかだけや。嫌な人は嫌でいい。でも素直に淡々と「印可書」を奉納すると心境がどんどん変わるからね、見てても楽しい。お祈りもしやすいやん、お祈りの時にひたすら「印可書」唱えてたらいいねんもん。それだけでググって奥へ入って行ける。それが実感としてわかるようになるしね。

質問:このお祈りなんですけど、この前読んだ本の中に、その時は禅定する時に目連尊者(もくれんそんじゃ)はこの眉の間に集中したら入りやすいみたいなことを仰ってたんですね。でもその時々によって色んな自分の場所があるから、そこに集中するとお祈りっていうか、しやすいって言う様な説明をされてたんですけれども。

河上さん:「印可書」のない時代の話やな。

質問:あっ、そうですか。

河上さん:目連尊者(もくれんそんじゃ)はね自分のお弟子さんに、「あっ、この人は胸」、「この人おへそ」とかね、「この人はここ」とかって言って、まぁチャクラの位置やねんけど見抜けるわけ。そういうふうに指導して。それで中々、通力を授けないの。まず統一出来ることが、神の御心に沿うことが大事だから。

 で十力迦葉(じゅうりきかしょ)さんという人はバーゲンセールでな、どんどん通力を授けるのね。ほんならそれはそれで念力に変わっていってね。

 提婆達多(だいばだった)さんなんかは十力迦葉さんから通力を教えてもらって「自分は釈迦と同じ様な事が出来るんや」って崩れていくねんけどね。

 十力迦葉さんもちゃんと教えてるねんで。教えてるねんけど、あんまり簡単に渡すと自分というのがどんどん前に出てきて念力になる。念力と通力の違いは何かと言ったら、通力は神さまを通る力と言ってね、自分がないの、無色透明だから。念力と言うのは自分があるから、コンセント抜く感じや。コンセント抜いて自分のバッテリーだけで動くのね。それで使い切ったら潰れるの。

 だからスプーン曲げをあんまりやると運命が悪なるの。だから小さい時にようけスプーンを曲げした子は大きくなってから運命悪いやろ?だってどこに行ったか分からへんやん。運命悪なったんや。エネルギーを使い切って。

質問:でも今は「印可書」があるからどっかに集中してっていう、そういった事は考えなくていいと?

河上さん:「印可書」を読んでたら自分がどこに集中するか勝手にわかる。只、それがわかれと思って読んでたらあかんね。淡々と「印可書」を奉納してたら自然に透き通るようにわかるだけ、必要なことを。全部わかったらややこしくてしゃあない。その時に必要なことが的確にわかることが1番良い。

質問:@いいですか?先日の勉強会で「印可書」をローマ字で響かせるとありました。文字起こしを始めたく思っております。全て大文字がよろしいでしょううか?

河上さん:自在でいいです。

質問:A「真祈りの秘奥義を伝授する為の印可書」と、1番上からでよろしいのでしょうか?

河上さん:そうです、そこがいります。

質問:B「新たなる真(まこと)の神さまだけ」からはV字型になっていますが、この形を取り入れた方がいいですか?

河上さん:入れた方がいいです。

質問:はい、ありがとうございます。

河上さん:確認の質問やからね。わざとV字形にしてね、「えっ?」て、こう引っかかってくれた方がいいのね。あれは入れ子構造で1番小さいけど1番大きくなってあるのね。1番大きいけど1番小さくなってあるっていうのがね、引っかかるからわかる。ピラミッドってそうでしょう、大っきい底辺から小さい点になんねんけど、その向こうでもう一遍大きくなって、永遠にこう繰り返すんやけどね。それが入れ子構造やね、点と無限が交互に来る。まあ、この世的な宇宙で言うとブラックホールの向こうに宇宙があるんやけどね。それって無限大と点とブラックホールっていう点とまた広がっての入れ子構造やねんけどね。

 ブラックホールの向こうが何でわからへんかって言ったら次元が違うから。ピラミッドのキャップストーンの先端がブラックホールなんやけどね、本当は。だけどそこは今は隠してあるのね。その辺あんまり自我の意識でいじると、戦争に使って大変な事になる。いわゆろ、通力と念力の違いやね。横取りになるの。

 今のこの電気なんかはかなり横取りに近いからあんまり良くないの、本当は。だって磁石をくるくる回したら電気が起こりますでしょう?発電機ってそうやんか。磁石とコイルの間をくるくる回して、こう回したら電気が起こりますやけど、なんで電気が起こるかっていったらわからへん。もっと言うとな、電線に電気流てるやん、あれなんで電線に電気流れるかは今の科学ではわかってない。要するに電線の中をどういう風に電気流れているかっていうのは今の科学ではわからへんのね。それで押しくらまんじゅうしてて、こっちからトン押すからこっちにポン出るんやとかな、色々説はあるんやで。だけどどれも証明されてない。それぐらい電気というのは、ちょっと次元が違う物やね、本当は。あんまりいじられへんねんけどね。

 或いはバッテリーでああした途端にね、ボルタ電池って言ってね、酸と2つの金属の間に入れたら電圧が出るんねんけど、じゃあなんで電圧が出るんって言ったらわからへん。或いはこの静電気。こうやってバシンってなるやん、あれもなんで電気起こるんていったらわからへん。色んな説はあるけど証明はされてない。1番の不思議はな、氷と氷を擦るやん、静電気起こるのね。ほんなら今の科学ではもうそうなったら全然説明できへんね。でも現象としては起こるの。それくらい電気ってわかってない、わからんと使ってるの。怖い話やろ?

 だから感謝して使わなアカンし、できるだけ無駄な電気は消して回らな。必要のないところは消してとかなあかんね。それを消さんとする人はね、その人が全部背負って(マイナス背負って)降りて行ってくれはるだけや。必要なのは点(つ)けといたらいいで、だけど無駄なのは消さなあかん。

 だから先生はこまめに電気を消しはったはずや。電気の怖さを知ってるから。だけど先生が言うとみんな怯えるから言えんかった。僕位が言うんやったら大丈夫(笑)

質問:じゃあ、ある日突然パタっとなくなっちゃう?

河上さん:そんなレベルやない。

質問:そうなんですか?

河上さん:この空間全てが消える。この空間を構成してるのが電気や。

質問:最近はその電気の元が原子力だったりするんで…

河上さん:いやだから原子力やけどな、例えば原子力やったらなんであんだけの熱反応が出るかっていうのは未だにわかってない。E=M掛けるCの2乗(じじょう)っていうね、アインシュタインの公式は出てるけどそれが完全に証明されてない。アインシュタインも証明せんうちに行ってしもてん。要するになんで熱で出るのか?光で出るのか?ってね。光と熱の関係は何なんだ?要するに今の科学で言うと大統一場理論でしょう。やねんけど。だんだん難しくなるからあんまり言わんとくけどな(笑)

質問:ぽかーんとしてます。

河上さん:えっ?強い電磁場と弱い電磁場と・・、あったけどそれが全部同じものやといいうことが証明できない。すべては完璧なる1つやから全部同じもんやね。でも証明できない。だから電気も光も熱も同じもんやね。同じものやのに電気だけは何で沸くかわからへんわけや。それって空間を歪ましてるの。要するに空間を崩していってるの。だからある日突然空間がグチャッと崩れるの、はっきり言うけど。だから地震が起こるの。だからムー大陸が沈んだんや、いらんエネルギーを使って。アトランティスも一緒やけど。笑いながら怖い話してるけどな。だからもう後が無いんやって。ほんまに後が無いの。真祈り人次第や。どの時代も真祈り人さえできたら何とかなったんや。今回も一緒や。それも人類が選ぶ。だから相手の国が攻めてくるからっていって原爆を持ったりしてるやん。もうその原子力爆弾の状態を持つだけでも空間が歪むの。もう色んな意味で人類は大変なことをしてるの。

質問:じゃあ原発のある所はその歪みが結構、害が大きいって言うことですか?

河上さん:勿論。でも原発を止めたってね、200年近くかかるんでしょう?最後。止めるに止められへんところまで来てるんや。だけどどっかで止めなアカンのね。でもみんなよう止めないのね。でもドイツは止めたやんな。だからコンクリートが放射能でボロボロになっていくの、だからどっかで止めなしゃあない。

質問:その真祈り人、200人っていうのは…

河上さん:真祈り人が出たら新しい知恵が湧くやよ。ほんなら漫画で言うコスモクリーナーやな。放射能除去、綺麗にするやつができるわけよ。宇宙戦艦ヤマトやったかな(笑)あれもそうやな、地球が放射能でこうなってんのをコスモクリーナー貰いに行って帰ってくるんやな。

質問:それを作るのはみんなの真祈り?

河上さん:真祈りが無いと無理。要するに自分の立場でどうこう言うことじしんが空間を歪めてるのね、本当のことを言うと。空間を歪めて地獄ができるの。な、なんであんな小さい所にみんな集まってこうなってんねんて言ったら空間が歪むからや。こっちは歪め方はあんまりわからないから歪め方を知っている人が先に行ってくれたらそれをツテに行けるっていうだけ。わかりやすいやろ。

 なんで無間地獄があるかって言ったら人間の自分の立場という都合で空間を歪めていくの。それで自分の立場を主張する人ほどな、どんどん言うやん。どんどん空間を縮めるから、死んだときに小さい所に落ちるの。神さまだけってね「無限の無限の輝きが一杯」って言ったら空間が広がるやん。広がるもクソも空間そのものがないわけや無色透明やから。だからスッと上に上がるの。

 簡単やろ?だから教えも教義もいらんの。だから言ってるやん、「この罪悪深重の凡夫(ざいあくじんじゅうのぼんふ)め」ってね、親鸞さんが怒るんやけどそれは「自分の都合で、自分の立場で、、判断して良い事しかしてきてへんって言うてる、この善人ボケ共が」って言うて怒るわけ。それでみんなはっと気づいてね、妙好人ができるの。今回はそんなきつい言い方をせんとやってるつもりやけど。毎回苦労してんねんで。その自分の都合で良い悪いっていうことが悪いことやっていうのがね、気づかなあかんね。

 だから真祈りせん限り(しないかぎり)は一遍(護摩のお話のときに)「真祈りせん限り(しないかぎり)は地獄に落ちます」って言うたらえらい怒られたけどな。あれがほんまやね。真祈り以外は自分の都合言うやん、文句言うやん、なっ。

 感謝だけって言うのは結局文句を言わないって言うことや。簡単やろ?もう実にわかりやすいやろ?それでもみんな抵抗する人が居るから楽しい。みんな苦しみを楽しんではるからな。ほんまの話やで、嫌味で言ってないからな、みんなそうやって楽しんでいくの。だからその空間を歪めて小さい所に入るのが楽しみなのね。だってスキューバダイビングってわざわざ行くわけやろ?あの水圧の小さい所へね、まぁいったら。みんな色んなことするやん、一緒よ。

 もうなんか最後の答えを言ったからめっちゃ気が楽でね。あとみんなで楽しんでねって。ほんまやって、みんなどう楽しむかが自由に選べるの。

宮野さん:ほんならもう次の勉強会無しなん?

河上さん:みんなの希望次第(笑)

質問:質問もあるかもしれんし。

宮野さん:それで良いんじゃない。


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令和3年4月深夜勉強会―3 by 河上彰延 2021年04月26日(月) 04時37分
PC


令和3年4月深夜勉強会―3(20210416−3)

河上さん:一度は風呂入りたいな。風呂入る体力もないな。この辺擦るとボロボロ垢が出るね。

宮野さん:ええやん、本物で。

Aさん:こうやって前に出て来て下さったら、そこそこ元気そうに見える。

河上さん:いや、結局ね、先生が10倍働きなさいって言うやん。3倍や(3倍ぐらいやったら)足らんて言ってな。それ何かと言ったら、神さまは本当に下支えと言う働きでしょう?支えて貰おうと思うと本当に全力を出し切らないと神さま(は)支えへん(支えられない)。

 自分の力でやれるうちは見てはるの。とことん出し切ってゼロなって慌てて支えて下さる、慌ててやないけどな。だから3倍超えて10倍(に)持って行くの。

 だからそれを先生の言葉で言うと限界破りしなさいっていうね、言葉たけどね。

 だから先生ここ(村)に上がって(引っ越し)来られてね、本当先頭に立ってね、倒れるまで何時も色んな作業をされたと思う。それを見てね、先生を真似ようとした人が居らんかったね。あの時作業だけで先生を真似て必死で作業して気を失う位にした人は悟れた。

 要するに何かと言えば、先生のみ心に沿おうとしたら良かった、僕の様に。それが作業通してか、竹刀振るかを通してかは色々有ったん、ここで座るかとか。橿原神宮で座るとか色々有ったんわけや、その人によってな。そうやけどみんなそこまで出来なかった。先生だから出来るけど私ら無理やって言って壁作ったから。壁作ったのは自分や、先生は作ってない。

 だけど真(まこと)の神さまに通り抜けて貰おうと思うと、こっちが全力尽くし切って、出し切って行かなならん。もう本当に倒れてしまうという時になって始めて神さまの力が入ってくる。それが真祈りや、本当はね。そうだけどそこ迄みんな出来へんから印可書やね。 

 だから本当に印可書は得やで。狡いわと思う、僕らにしたら、それはずっこくないって思うんだけど、それすら選べん人がおるんやから、大変やなーみたいに見てるけどね。

 これ以上進めようがない、後はみんなの自由意思で読んでも貰らわないとね。本当はムチ持ってでもしばき倒してでも読ませたいけどね。それではあかん。

質問:印可書を自分の意思で淡々と奉納できる人が真祈り人?

河上さん:うん、今はね。要するに一々理屈も何も考えんし、印可書読んで悟るとか、要らんこと考えたらあかんから奉納。只々、神さまに投げ出すっていうね。で印可書は真(まこと)のプラスの言葉(だけが)わーって書いてあるから、考えてる暇がない、さーって読んでたら。考えてたら詰まって読まれない。詰まるように書いてあるし、考えたら。引っ掛かるようにしてある。考えたら引っ掛かって読まれへん。だって真(まこと)神さまだけって言ってるのに新たなる真(まこと)のプラスの言葉だけってね、えってみたいになってるやん。だけなのに。

 でも実は全部同じこと言ってるの、そうやけど同じこと言ってるんやなって考えた途端、又、分らなくなる。だから考えるなって。そんなん真(まこと)神さまのね、複雑怪奇というか、叡智そのもののお相象(すがた)なんてな、分るわけがない、理屈で。

 高等数学を一杯重ねたようなお相象(すがた)なんだけどね。もうちょっと分かり易く言うと、数列を一杯重ねると神さまのお相象(すがた)。等差数列、階差数列、要するに漸化式(ぜんかしき)を一杯重ねる。漸化式って分らへんやろう?

Aさん:漸化式って初めて聞きました。今。

河上さん:大学行ったんやろう?受験したんやろう?

Aさん:行ったけど、文系だったから。

河上さん:いやそんなん言い訳や、漸化式は高校の時習うから。えー言うてるし、数UBで出ますから。今、数UBって言えへんからね、言い方違うの。そんなんどうでも良いけどね。

 数列を一杯並べると、古事記(ふることふみ)、天之尾羽張(あめのおはばり→あまのおははり))になるんやけどね。だからホームページの古事記(ふることふみ)のところは天之尾羽張(あめのおははり)を数列で書いてあるんやけどな、誰も見てくれへん。無駄だった、あんなん書かんで良かった。印可書で済んだや、何であんなん書く必要があったや、謎やって文句言っているし。(笑)

宮野さん:結果に一喜一憂したらアカン。

河上さん:みんなずっこいは印可書で済むんやもの、違うか。

宮野さん:作戦やね。

河上さん:先生の深慮遠謀には勝てん。チャンと先生が完璧に手を打ってあるから今回は大丈夫って分かる。只、結果だけ見てると本当崖っぷちやけどね、だけどロープを歩く人おるやん。綱渡りなんて下から見てたら落ちるんちゃうかと思うけど、平気で行きはるやんか、ああいう感じやな。こうなってるんやけど、左右に揺れてるんやけど平気で渡って行くみたいな。その真祈り人が増えたら、その持っている棒がどんどん長くなって安定するみたいな。

 総責任者の自覚っていうのがみんな一番分かり難かったのと違うかな?総責任者、例えば作業するのにね、全員が総責任者やったら、指示する人が一杯出て、グチャグチャなるんちゃうんていうのが分けた意識の感覚や。お互い立場があって、お互いやろうと思う事が違うのに、全員総責任者だったら作業が纏(まと)まらへんやろうみたいなね。

 それが自我、分け隔てた意識なの。本当の総責任者って全ては完璧な一つって分かるから、自然にスッと纏(まと)まるの。

 その音楽でいったら例えば、ベートーヴェンの第九を演奏しましょうって言って分るわけ。後はそれをどうスッと一つにするかを指揮者に託すだけで、みんなは第九を楽譜通り演奏するわけやんか、そういう感じ。だってオーケストラの場合全員が(それぞれの楽器の演奏の)総責任者やん、誰一人手を抜かれないやろう?ああいう感じ。それが山作業でも、みんなが総責任者でするというのは。例えばこの作業は、この目的のためにしますっていうのが分かってたら、それによってみんなが出来る事したらいいの。その時に10出来る人と、1しか出来ない人を分かたらアカンの。その形はお互い大人やけど子供もおるというのを分からなアカン。ちっさい子がちょっとしか出来へからっていって弾(はじ)けへんやろう?それが大事やね。だけど大人の癖にサボりやがってとかね、あいつ何も出来へんアホやとかね、やるわけよ、それがアカン。

 それは職人の世界で、職人の技を伝授する時はそんなんと又、違うで。伝授やから。だけどみんなが協力し合ってやる時は、ちょっとしか出来へん人を責めたらアカン。

 オーケストラでいったらトライアングルでカンって打つだけでも必要なの、それが分からなアカンのやけど、同じだけ大飯食らいやがってとかな、言うわけよ。そうじゃ無いねんていうのがね。神さまが必要でその人をそこに置いてるっていうのを分からなアカン。

 神さまは全知全能やから無駄な人は一つも置いてないの。だから今で言ったら、身体が生まれて不具合な人をね、イジメて追い出すんか?や。(ろくな仕事できないからって)ご飯食べさせへんのか?違うでしょう。みんなで助け合うんでしょう?それが当たり前や。

 それがたまたま身体は五体満足やけど、能力的に劣ってる人も一緒やね。それをちゃんと分かってみんなで支え合わなアカン。だから上手く出来ない人は掃除だけで良いからしといてって言わなアカン。だから昔の方がやり易かった、水汲みだけしといてや、みたいな感じで頼めたの。今は便利になって来たから簡単な事は機械がやってしまう。

 余計人間がサボってるように見えるの、で余計弾く(はじく→いじめ出したり)の。今は組織的な効率を優先する時代やんか、現代というのは。だから余計やね。

 だけど村こそはそんなんしたらアカン。護摩木作りでみんな集まってくれてもね、手の遅い人とか、どんくさい人は、どんくさいという表現も申し訳ないけど、作業が上手く作れん人は作れない人なりの事をして貰ったら良いの。私一杯出来るから偉いとちゃうの。

質問:イエスの言う赦し?

河上さん:赦しというより、それが愛やね、もう赦すとか赦せへんと違ってね。愛っていうのはひたすらなる一体感。だから「汝ら罪なき者は、石もてこの女を打て」やね。

 みんな一つやってイエスは言ってるんやけどね、後の解釈は大分ズレるね。みんな一つやから一緒やで!責めるとか責めないとか違うの、親指と小指位の違い位のもんやっていうのがね。その当時の言葉がヘブライ語でしょう。そのヘブライ語ですら、周りの人がちゃんと受け止めれてない、自分の立場で考えるから。だからどんどんズレて伝わるの。

質問:勿体ないですね。

河上さん:でも仕方ない、親鸞さんの言葉でもな、「罪悪深重」だけしか残ってない。前の方残ってないやろう?最初の大事なところほどみんな受け止め切れない。それで受け止め切った人は妙好人としてなるけど、その妙好人、いわゆる真祈り人沢山作ったから、この今の日本の繁栄が有るの。もうそれは間違いない。あの時はあの時で大成功だった。それ位法然さんは凄かった。

 親鸞さんは法然さんが清めた後、ちょっとしただけや。今回と一緒や。(笑)いつも先生には勝てん、先生の凄さには足元にも、爪の先にも及ばない、何時も。何時もホンマにそうや。

 その次元のレベルが全然違う、立っている(次元のレベルが違うの)。要するに真(まこと)の神さまそのものの方が肉体を持って降りてきたっていうのが一番正しい表現やね。それは凄い事や、毎回毎回。でも誰も分れへん。言ったて多分誰も分らないと思う。

質問:そんな本当の先生の姿を、分かってらっしゃる人は分かってらっしゃる?

河上さん:分かった人一人も居らへんのと違うか?分かってたら、兎も角、もっと手伝ってくれているよ。みんな真祈り人を作るために。先生行かれた後な、右往左往せんとまっすぐ手伝ってくれるよ。誰も手伝ってくれへん、あー一人いてた、分かっている人一人いてた。はい。

 だけど只々、光を出すだけで良いって先生に言われた。出したら勝手に回りが清まるから勝手にみんな分かるからみたいな。でその通りだった。

 でその出し方が極端でよう怒られた。だけど先生が亡くなられてからは相手に応じて出すようにした。極端にだすと、物凄く相手に嫌われる。痛いから、精神的にも、肉体的にも色んな意味で痛いから。そうやろう?真夏の海岸でたらめちゃ熱いやろう?ああいう感じ。砂漠で焼かれるような感じよ。こっち邪魔くさがりやろう、強よう当てといてやろうみたいな感じ。ついついやってしまう。

質問:最近特になんですけど、何かこう寝てるかも分らないんですけど、一瞬目をつむったつもりで、えっと思うと15分20分30分あっという間に経ってて、今ちょっと目をつむっただけなのになって?

河上さん:そんだけ現実掴まなくなってきた。

質問:寝てるだけかなと思うんですけど?

河上さん:違うんやて、それが真祈りの一端を掴んでいるの、もうちょいや。でも人によって感覚違うからな、それだけが正しいと違うから、あんまり説明せんとくけど。だから本当に、その度に淡々と印可書読んだら良い。そういう感じだった時こそな、だからトイレに貼っとけっていうの。トイレ入った時は淡々と読んだら良いっていうね。

質問:段々短くなって来て、河上さんが言ってらっしゃた・・・

河上さん:時間と空間が、絶対の世界って過去も現在も未来も同時に有るの。それで時間と空間がぐっと一つになっているな。そっから自在に展開して遊べるわけよ。だから時間の概念がどんどん無くなって行くの。何時も絶対の中心に立っていて、自在に過去未来のとこに立てる。それを簡単に説明してビデオ屋さんに行ってるみたい、或いは、図書館に行って好きな本を選んで読めるみたにな。でも何時でも本と閉じて戻って、戻れるみたいな。それが絶対の中今(なかいま)というとこ。

 何時もみんなそこに立っているね、立っているのに本を読んでいる自分に入り込んでいる。何時でも本を閉じて本棚に戻したら、真(まこと)の世界なのね。本を開いて本の世界に没頭してはんの。

 だから本もそうやんか、最後だけ読んだら良いのに途中読むやんか、一緒やんか。結果だけ見たら良いのにな。皆楽しんでいるでしょう?本読む時でもマンガ読む時でもな。漫画喫茶行ったってみんな楽しんで読んでるや。色んな物語をね。それがこの現実という漫画を読んでいる状態だけどね。だからみんなこの現実を楽しんでいるの。なのに文句を言うと抜けられなくなる。

宮野さん:文句言うの分かれへんな。面白いのにね。多分自分では考えつかない事が起るから楽しい。次の展開が読めないからもっと楽しい。

河上さん:そうそう、次の展開読めないから楽しいやろう?分かってたら面白くない。

Aさん:そうですね。

宮野さん:楽しい楽しい楽しいっていう、その何、この世的にプラスの事では無いんだろうけども、それでも凄く楽しい。どこまで身体が持つんだろうとか、どこまでとか、そんなのが楽しくて仕方がない。そう、食事をするのもしんどいなーって思う、寝る事もしんどいなーって思うのに、でも次の日の朝にはちゃんと仕事が行ける状態、ギリギリ行ける状態になっている。凄いなーと思って、それが嫌だとか一切思わない。ただ面白い。うーん凄いなーって思って。

河上さん:その楽しむっていうのは全託してるみたいな感じやな。痛みでも何でも楽しむというのはね。「痛い」っていったら「辛い」っていったら文句言ってるから楽しんでない。

宮野さん:この状態からどうなるのやろう?っていうのがわくわくするから、よりその人形に命吹き込んで貰って楽しませて頂いているんだなーっていう実感がひたひたと沸いてくるんじゃないんかなと思う。何か楽しい事、本能的に楽しい事ばかりだときっと飽きちゃうと思うよ。体験できないような事が起こるから面白いし、神さまの前にグッと向き合えるんだと思う。楽しい、自分にとって良いなって思える事ばかりだったら、最初は「あー神さま、ありがとうございます」って言いながら、すぐに自分のやった結果じゃないかって思う。誰々さんのお蔭ですとかね、運が良いからとか、神さまの事など誰も思わない。少し思う、パーセントととしていくらなんだろう?でそれがもっともっと火だるま式によくよくみたいな、そのしんどい事っていうのは自ら選ばないから、次どんなんかなっていう程ね、でも面白い。その人に応じたものが来るから、それが病気の人もあれば、お金の事の人もあるし、身内の事で心配な事があるだろうし、そうでなかったら地域の人の事だったりとか、○○○の事だったりとか、震災の事とか病気の事とか、色んな事がね。その人に応じてエーみたいな事が起こるね。

河上さん:必ず乗り越えられる、耐えられる事しか来ないんだけど、感覚的には絶対不可能に見えるから面白い、結果見えてたら楽しくないけど。

宮野さん:絶対越えられる事なんだけど、でもそれには全託だから絶対の信が無ければじゃない?

河上さん:限界破りが無いと無理。

宮野さん:命が無くなっても良いって、これが終わるのがもしかしたら來生かも知れないな、肉体が無くなってからも知れないな、でもこれが良いんだと思う時からパッパッと変わって行くんだろうけど、でも大抵の場合は、そう一瞬は思うんだけど、その次の瞬間「いやいや、どうなるんだろう」みたいな心配の種探しをするわけじゃあない?何でマイナスを掴みに行こうとするかな、みたいな。
 わくわくして待っていれば良いのになーって思うのに、マイナスを掴もうとして神さまと自分を遠いとこに離してしまう。すると苦しんだり肉体だけの世界に残っているみたいな。そしてお祈りも出来なくなってしまうみたいな。
 楽しんでワクワクしてたらしんどいんだけど、大変なんだけど、どうにもならないんだけど、何か知らんけど勝手にお祈りがあっちこっちに回っているみたいな。それこそ神さまが自分の肉体を使って真祈りして下さっているんだなーって事にはっと気が付く。
 なので真祈りしてる?印可書読んでる?うーんって言うんじゃなくて、実はしてる事に気が付くという。意識的に読んでいるとかは多分もう忘れている事が多いんだろうけども、そうじゃなくて、あー神さまが読んでいて下さったんだなって、はっと気が付くだけの話で。それにはさっきみたいな、如何にマイナスの事を、この世的にマイナスの事がある事は何と楽しい事なんだろうと思うけどね。(笑)
 だって自らステージ4の癌になりたいですなんて言わないじゃない?例えば自ら進んで殺人者になりたいです、なんて人いないじゃない?でも殺人者の役はしたいなって思うかもしれない。意地悪をする、シンデレラのお母さんの役はなってみたいって思うけど、本当にその意地悪な人になりたいと思わないじゃない。意地悪な人の役はやりたいなって。役をやっているのにみんな、既にその役を通り越して意地悪をやろうとしているみたいな。そこは現実を掴むとこなのに、何でわざわざそっちを掴みに行くんだろうな?役やってたら意地悪なお母さんの役終わった、次はじゃー、ロミオとジュリエットみたいな、ジュリエットの役かも知れないわね、とかね。それ終わったら次はお信みたいなね、次々違う役がやってくるのに、自分でそこ掴みに行くから、そこから離れなくなっちゃう。凄くとても簡単な事だったんだなって事に思うね。答えを言ってしまってるね、最近は。だから・・

河上さん:神さまと自分を離した意識に成った途端に、楽しまれへん。神さまが楽しんでいるっていうのは神さまと自分が一つでしょう?

宮野さん:この間も歩けなくなったの、ちょっと歩けない、突然歩けなくなって、歩けない足動かないって思うんだけど「アッツこんな事滅多ないぞ」って、そしたら、あぁこんな歩けないのちょっと面白いかもって思って、気のせいじゃないの、「ちょっと足、面白いね!」って話しかけると、すぐに動けるようになるのね。

河上さん:だから動けない状態は体験したから、もう楽しんだと離したら次のが出るだけや。

宮野さん:もうこれで終わたん、あれなんやたんみたいな、感じやね。

質問:そこで、わー何でこん事なったんと思ったら駄目なんですね?

河上さん:掴んでるからずーッと続く。

宮野さん:役割がシンデレラのお母さんの役になってたのにシンデレラのお母さん、自分が持つと現実のその世界になっちゃったという事でしょう?足が不自由だという役を今ちょっと与えます。キャスティングしましたよっていうとこなのに、家に戻ってもその役をやっているような感じや。
 それってそれを楽しんでみたいですって言えば別だけど、別に他にも一杯やりたいことがないの?て思うわけ。
 神さまはきっと色んな事を楽しませて下さろうッていう、折角肉体を持って降りて来たんだからって思って下さるんだろうって思うよ。なにの勿体ないなって思うわけよ。一つの役掴んで、私は何でこんな大変な目に遇っているんだろうとか、こんだけ金儲けして、こんだけになったぞ、どうやみんな!とかね、そんな役よりももっともっと一杯楽しめる事があるのになーって思うのね。
 そうすると今、期間限定の役やっているんですって、その期間限定の役を楽しもうって思っていた方が良いね、わくわくするから。その時は次の展開自分でしようと思わないから、わくわく度を楽しんでいるから、神さまと共に楽しんでいる、凄く。
 そうしてる時って、凄くしんどい時は勝手にお祈りが出来ているっていうのを、それも体験させて貰える。なんと何重にもありがたいなって思うね。きっとその、あっ、そうやそうやって何か思う時にね、その度に期間限定の奴やっているんか、楽しまないと、と思うようなって感じで、こうスッと癖付けすると良いんじゃないか。
 肉体を持っていると、どうしても自分というものが、存在しているんだって意識が強いんだよね。それがあっ、いやいや今そうゆう役をやっているだけやねんて思うだけで、グッと変わってくるだろうし、楽になるし、お祈りもし易くなるし。
 そうすると役やっているだけやから、同じ舞台に立っている人だなって思うから、他人を誹謗中傷する事も無くなるし、あっ、あの方も中々大変な役やっているなっていう感じでしょう?
 何時も何時も面白い、嬉しい面白い楽しいみたいな感じやね。変わって行くんやと思う。だから不快な気持ちも楽しめるみたいな。「あー嫌やわー」っていうのは現実を掴んで言うのじゃなくて、舞台の中の嫌やわーみたいなだけの感じで、その嫌やわーを楽しむみたいな感じ。こう嫌やを楽しむ、凄く不思議な感じやけどね。


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令和3年4月河上さん勉強会−1 by 河上彰延 2021年04月26日(月) 04時35分
PC

令和3年4月河上さん勉強会−1(20210411−1)

河上さん:では質問を。

質問:4つあります。深夜の勉強會で、河上さんが太陽にも人が住んでいると言われましたが、この地球の地下もマグマばかりでなくて、インナーSUNがあり、地球人類より、はるかに高度な知的存在が住んでいると言う説があります。松下先生が隠してあると言われている、真祈り人は、その方達ですか?

河上さん:次元がね、入れ子構造になってるっていうのが平面的に捉えてはるのね。それだけやねんけどな。

例えば幽界があって霊界があるってみんな言うやん。この地上にもあるわけでしょう。それってどこにあるのって言ったら、例えば幽界がどこにある?って言ったらみんな答えられへんね。霊界はどこにあるの?神界はどこにあるのって、みんなどこにある?って答えられへんな。一緒やね、そのすべては今ここにある、もうそれだけやね。だからそれを表現的に地面の中にあるとかね、あの山の上にあるとかね、邪馬台国はどこにあったみたいな感じになるわけやけど。全部すべては今ここにあるや。

だからすべては真(まこと)の神さまやねんけどな。それを小さい意識になると分けて考えるの。

 虚栄心があると悟りやないわけやな。虚栄心があったら何もかもわからなくなるんだけど、そしたら虚栄心って何?って言われるとねみんな結構はっきりと答えられへんね、虚栄心って何って言うとな。虚栄心って他人と引き比べる事やとか色々表現するけどね、まず虚栄心があったらどうなるかって言うと、真(まこと)の神さま以外のものが見えるね、分る?

虚栄心がなくなったらすべて真(まこと)の神さまって分る。これが深い深い悟りの要諦やね。

 だからみんな大なり小なり虚栄心があるから自分以外のものの存在として認識するの。その虚栄心を消すために夫婦になったり、親子になったりするの。なのに親子でも自分と子供を分けるしな、夫婦でも自分と奥さんを分けるんや。何のために夫婦になったのか、何のために親子の役割を持ったのかっていうのがわからないのね。

すべては真(まこと)神さまと言う、すべては一つと言うのを勉強するために夫婦になり親子になり(と)するねんけど。自分の親はあんなんやねんとかね。自分の子はこんなんやとかな、うちの嫁は、うちの旦那はこうやねんとかやってるわけ。それ虚栄心やっていうのがわからないね。だから例えば旦那さんを他人の旦那さんと引き比べてうちの旦那はあかんとか色々あるやん。全部それやねんけどね。

 でも本当は全部真(まこと)の神さまだけやね。そこがわからなアカンねんけど中々言葉や理屈ではわからへんね。もうそこだけやねんけどな。それでその言葉や理屈ではわからないから、一気に分る方法として先生が「印可書」を残して下さったというだけです。その「印可書」を読めない人と言うのはね、虚栄心が大きい人ほど読めないのね。

 何故かと言うと虚栄心というのは自分の立場って掴むのね。一生懸命自分の立場を築くわけよ。それでせっかく築いた自分の立場が「印可書」で一気に崩れるの。そしたら不安になるの、それで余計に読めない。って言うたらまた余計に読めない人が増えたらアカンねんけどね。だけど本当はそういうことなのね。

 虚栄心と言うのがもうすべての、何事もわかりにくくしている大元やねんけどね。でもここが大事なんだけど、わざと虚栄心を作って神さまが楽しんではるっていうのがわからなあかんのね。いつも説明で言うようにね、みんな自分で自分のストーリーを作って楽しんでるんやでって言うてね。だから俳優さんが悪い役、極悪非道の役、善人の役、正義の味方の役って配役を分けてもらってそれぞれ演じてるでしょう。演じてるけど俳優さんとしてはみんなね。だからこの世で言うとみんな演じてるけど真(まこと)の神さまを(を、と聞こえましたが、が、なんでしょうか?→をでいいです。入れ子構造重層構造ところてん構造なので、演じる側も演じて表現している側も真(まこと)の神さまなんです。河上)演じてるだけやね。

 それも真(まこと)の神さまが自分で自分のストーリーを作って演じてるね、演じて楽しむの。俳優さんがシナリオを貰って色んな役を演じて楽しむようにね。

 だから俳優さんは演劇とか映画を楽しんでいるからお家に帰ったら普通の人に戻るでしょう。お家に帰ってまで鉄砲を振り回さない、刀を振り回さないでしょう。葵の御紋を出さないでしょう、お家に帰ってな。もうそれだけよ。

 だからすべて真(まこと)の神さまって言うのはそこやねんな。自分で自分が自分のストーリーを作って演じてるの。その演じる為には虚栄心と言うのを作らなあかん。演技もそうでしょう、自分は善人やけど悪役やねん、悪人やねんって決めるわけ。その決める為には虚栄心がいるのこの世では。要するに全部自分やねん、本当は。全部自分やねんけど、全部自分やったら演じられへんから他人っていうの作るために虚栄心を作るの。で縛っていくの自分でね。

 演技ってそうでしょう、私は悪役、極悪非道の大悪人やっていう、或いは高利貸しやって言葉で縛って演じるわけや。それをこの現世でも言葉で縛って自分をね。自分で自分を縛って演じるの。もうそこだけやね。それも演じて楽しんでるね。楽しみに来てるだけやね。だからそれはどこで分かるかっていったら、いつも言うように野球のバットでもそうだけどゲームでもそうだけど、はさみ将棋では面白くないやろ、あの難しい将棋にするから面白いわけでしょう?わざと色んなルールを作って縛って楽しんでるの。

 簡単なはさみ将棋のルールにしたらあっという間に勝負付いて済むのにね。

 すごろくでもそうや、サイコロの目が出てちゃんと上がりに行かなかったら戻らなあかんっていうルールを作るわけでしょう。あんなもん6出たらもう上がりに行ったらそれで全部終わりやねん、って言ったら簡単やねんけど、それでは面白くないわけや。ちゃんと最後のコマの数のサイコロが出るまでは終わらへんようにして楽しむわけでしょう。

 みんなそれで(難しいルール、この世では不運不幸)楽しんでるはずなの。

 だから例えば自分の運命が悪い、自分は不運やって言うけど、不運を楽しみに来てるだけやで。そこが分からないと縛りから解かれへん。でもそういう理屈で説明してもキリなくなってきてな、もうどうしようってなってきて、それで「印可書」が出ただけです。

 「印可書」読めば一切の縛りが解けます。何故かと言うと「印可書」は真(まこと)のプラスの言葉だけで書かれてるのね。それって何かって言ったら真(まこと)の神さまそのものやね。「ありがとうございます」も真(まこと)のプラスの言葉やから、真(まこと)の神さまそのものやねんけども、みんなは中々そこまで信じてくれへんかったから、理屈の上でも信じやすいように「印可書」が出ただけです。 
 
 そしたらなんで私だけこんな損な役回りしてるんって言うけどね、神さまはすべて真(まこと)の神さまだから本当はみんな一つで、完璧な一つで平等やねん、いつもいつも。

 それをルールと言うゲームを作る為にね、わざと段差を作ってその段差を埋める楽しみをしてるの。例えば登山がそうでしょう、ヘリコプターで頂上に行ったらええねん、そしたら簡単やん。それを歩いて登りますって言うルールを作って、それも重いリュックサックを背負って登りますって言うルールを作って苦労して登るから頂上立ったときの達成感がすごいねんってやるわけでしょう。山登り興味ない人やったら、あほちゃうのって言うてしまいやけどやな。やっぱり一遍その頂上に登ったあの達成感があるとね、ケーブルカーで登ったら良いわけやん。だけどケーブルカーに乗らんとみんな歩いて登るんや。そのほうが楽しいわけでしょう。

 本当は楽しみに来てるの。もうそこを絶対に忘れたあかんね。楽しみに来てるっていうの忘れて苦しむ。苦しみを楽しみに来てんねんで、登山がそうでしょう、わざわざ重いリュックを背負って歩くのを楽しんで頂上上ってよかったってするわけやん、もう一緒。その色んな食事もろくに取れないような貧乏で大変って言うのを楽しみに来てるの本当はね。その貧乏があるから今がすごい幸せってなるわけ、いろんな意味でね。みんなそれをやってるだけやのに、何で私だけこんな辛い目に会うのって言って、文句を言った途端に楽しむことを忘れて苦しみになる。

 どれもこれも本当は楽しみでやってんのに苦しいって言って文句を言った途端に苦しみに変わるの、言葉でな。分る?登山もそうやんか。登山もなんでこんな重い荷物を背負って歩かなあかんねんって文句を言った途端に苦しみや。そしたら頂上まで行けない。楽しんでるから行けるの。

 それも言葉で楽しいむの。食事を考えたら1番わかりやすいね、食事は言葉で楽しんでるね。だからお刺身おいしいって言えるね。魚の死骸おいしいって言ったら食べられへん。いつも言うようにな。ご飯がおいしいって言うから食べれるけどな、こんな蝿の幼虫みたいなって言ったら食べられへんね。みんな言葉で楽しんでるんよ。だからもう食事が全部そうやけど、例えばそれ毒入ってるご飯ですよって言われた途端にもう味ないよ。なっ? 言葉で決める。

 そしたら1番良い言葉は何かって言ったら真(まこと)のプラスの言葉を駆使する自分が1番いいね。それは「印可書」ってなるわけ。「宇宙神ありがとうございます」ってなるね。だけど「宇宙神ありがとうございます」を真(まこと)のプラスの言葉って受け取れへんから、「ありがとうございます」を真(まこと)のプラスの言葉って受け取れへんから「印可書」になっただけ。だからいつも「印可書」に立ち返って「ありがとうございます」に戻ると凄い変わるねんけどな。それも自分で好きにしたらいいけどね。

でも本当は楽しみに来てるの、だからわざとマイナスの言葉を使って楽しむの。演技がそうやろ?私は高利貸しです、難波(なにわ)の銀次郎ですって言うて、言葉で演技作って自分で演じるわけであって、その言葉の縛りを解いたら普通の人に戻るね。

 で、みんなは「印可書」で言葉の縛りを解いて真(まこと)の神さまへ戻れるの。で戻ってこの現世の姿を楽しんだらいい。いつもいつも自在に戻れるから楽しめるね。例えば山登りもそうや、頂上に立ってる真(まこと)の本心の自分って言う素晴らしさに立ち戻れるから登れるね。苦労して登ったからこそ達成感があるね。ケーブルカーで行ったって面白くないわけや。葛城山ってあるのね、奈良にね。ケーブルカーがあるのね。まあケーブルカーで登ったら一気に頂上へ行ってしまうねんな。だけどやっぱりあれは歩いて登るのが達成感がある。だから楽しんでるわけでしょう?

 それで特に神さまの楽しみはね、きつい汚い危険やね。なんでかって言ったら支え合いの心だから。だから昔からトイレの掃除をしたら美人になるとか、心境上がるとか言うわけ。それはきつい汚い危険の支え合いの極致みたいなところやからね。だけどトイレの掃除をしたら美人になるんやなーって言った途端に崩れるね。何でか?何故か?求める心やから。これしたらこうなるって言って求めた途端に崩れるね。

 だから夫婦でも喧嘩になるのはね、これだけしたのにあいつはわかってくれないって言って求めるから。ただただ淡々と支えあってたらお互い幸せやのになぁ。私これだけしてるのに、これだけ毎日おさんどんしてるのにまずいって言って文句を言うっていって求めるからあかんね。まずかったら食べんときでいいね。

 だから「印可書」も一緒やね。「印可書」を読んで悟れるんかって言った途端に求める心が出て崩れる。だから淡々と奉納する。それは普段の生活も同じやね。自分が文句言ってる仕事でしょう、まぁ言ったら。何で毎日会社に通ってね、上役にぼろくそに言われてね、こんな仕事せなあかんねんて文句言うから苦しい苦しいやねんな。だけどそれ自分の為、会社の為、家族の為にしてると思ってるからやね。求めてるのね。

 神さまに奉納するだけにしたら楽しみになって行くのね、なんでもね。奉納するというのが今一分からないんだったら、神さまの為にするで良い。でも神さまの為にするで良いけども、それで何も求めない、奉納って求めないっていうことやね。求めないというのはもう与え尽くすって言うことやねんな。与え尽くすというのは神さまの本心やからぴたっと一つになれるね。

 だから奉納と言うのはそこだけやねんね、それは「印可書」だけに限らず普段のお仕事も神さまに奉納するが大事やね。或いは毎日お食事するやろ、お食事するのも本当は神さまに奉納してるの。それがわかったらな病気にならない。でも自分の為に食べるやん。おいしい為に食べるやん。食欲を満たす為に食べるやん。それで食べ過ぎて病気になるね、いらん物を食べてな。お酒も飲んでってなってくるね。神さまに奉納するってなったら、お酒でもお神酒になってちゃんとお薬になるのにな。もう全部そこやねんけど。

 それって何かって言ったら、全ては楽しむ為にあるっていうとこに尽きるの。なんで?って言った途端に楽しみじゃなくなる。なんで私だけこんなんせなあかんねんって言った途端にね、私って言って全部(全体と)分けてしまうね。

 分けた途端に苦しみになる。それ人間の体の指で言ったら分るね。親指は親指の役目があって小指は小指の役目があるね。なのになんで私小指の役目しか出来ないのって言った途端に小指は苦しみや。右手と左手もそうでしょう、右手は器用な人、左利きの人あるけどなんでこっちばっかり働くのみたいに、もし言うたらやで、苦しみや。だけどすべては1つってわかってて支え合ってるからお互いに楽しんでるね。体でもね。

 だから文句言う人は病気になるね。なんでかって言ったら内臓もお互い文句言う人の響きに合って文句を言い出すんや。なんで私だけ、心臓だけ一生懸命毎日休みなく働かなあかんのって言って心臓病が始まるの。簡単なことやね。或いは、要らんもんを混ぜるんやね。捧げ合いになったらもう要らんものを混ぜないんだけど、求める心になったらいらん事をするのね。そしたら血液にも要らんものが混ざってな血液の病気、高血圧とか糖尿とか白血病とか色々あるけどなってくるのね。それは神さまの御働きだけって言うのを忘れるから。忘れて自分で要らんものを足すの。

 だから教義も何もいらんのね、全部自分が自分で楽しむだけっていうのがわかったらね。それで教義や教え作るとね、組織を作ると教える人と教わる人が分かれるやん。もうそれが間違いやね。自分が自分で楽しんで自分で喜んで自分で分るだけや。その自分と言うのは真(まこと)の本心の自分やね、今言った自分と言うのは。

 その真(まこと)の本心の自分に立ち返る簡単な方法が、「印可書」を読む事だけってなってる。先生が神さまと約束して決めていただいたことやね。そこだけは信じてもらわないとどうしようもないけどね。でも淡々と「印可書」読んでたら自然に分るわ。

 真(まこと)のプラスの言葉だけやから勝手に真(まこと)のプラスの言葉を駆使する自分になってるから。本心の一六項目が自然に達成される。本当に真(まこと)のプラス言葉を駆使する自分って聞いてね、あぁそうなんやでみんな終わるんやな、それが1番問題やねんね。

 だから今でもあまり答えを言ったら本当はあかんのがね、ああそうなんやで終わってしまうのね。あっ「印可書」呼んだらいいんやなぁって言って読まないのね。もう実に難儀なとこやねんな。

 例えば真(まこと)のプラスの言葉を駆使する自分って言ったら、そしたら真(まこと)のプラスの言葉って何って聞きに行かなあかんねんけどみんなよう聞かんかった。

 そこまでやろうとしてなかった。駆使するってどういうことって聞きに行かなあかんねんけど。それは実際にそうしてみようと思って色々と努力というか苦労するから聞きに行くんやけどね。みんなそこまで真剣にせんと、「あっ真(まこと)のプラスの言葉を駆使したらいいんやなぁ」で終わる。中々虎の巻を出すとそれはそれで終わるし難しいとこやけどね。

 それで真(まこと)のプラスの言葉を1番簡単にしたのが「印可書」になった。「ありがとうございます」が真(まこと)のプラスの言葉やでって言っても信じてくれへんわけよ。「宇宙神ありがとうございます」が真(まこと)のプラスの言葉やねん、真(まこと)の神さまそのものやねんて先生口酸っぱくして言うんやけどみんな「あーそうなんや、でもわからへん」。でも「印可書」はわからないけど読んでたらググって入るようになってあるね。それだけは信じてやってみてください。

 それで2つ目の質問。

質問: ありがとう、ありがとうございますを唱えると体内に光が入ると、かとうはるかさんの本に書いてありました。ありがとう、ありがとうございますを唱えると本当に体内に光が入るのですか?

河上さん:嘘です(笑)説明いるかな?それは嘘です。どういうことかと言うと今言った話なのね。「ありがとうございます」が真(まこと)の神さまそのものって信じ切れないと無理、それだけやねんな。でもそこがやっぱりみんなの中々関門というか障壁やったんやね。「ありがとうございます」が真(まこと)の神さまそのものって先生何度も仰ってたのに「あっそうなんや」で終わって自分の体に染み込ませようとしない、心に染み込まそうとしない。

 それはきつい言い方をしたらね、真剣に悟りを求めてない、真剣に神さまを求めてないっていうことやってんけどな、まぁそんなん今更言っても仕方がないから。神さまと一つになりたいって、神さまのお手伝いをしたいって願ってたらね、そしたら「ありがとうございます」だけやなって なってんけど、みんなは先生に助けて欲しいやってん。

 何とかして欲しい、自分では何も出来ないけど先生何とかしてやってん。だから実行せんかった。それでとうとう神さまも、先生は残ると仰ってたんたけど、でも神さまの方が引き上げてしまった。で先生何とかしてっていうとこを取ったんや。で、あと「印可書」に頼るしかないでっていうとこに持っていってる説明に時間かかってますが申し訳ない。

宮野さん:さっきの、「ありがとうございます」と唱えたらと言うのも又ちょっと違ってるよね。只、唱えたらなるとかってね、何もならないじゃない。別に「印可書」を読んだって心境が変わるわけでも無いしって、先生もハッキリ仰ってるように「ありがとうございます」を唱えたから光が入るわけでも無いし、何かがあって結果があるわけでは無いよね、まずそこを。どうぞ。

河上さん:はい、補足します。結局「ありがとうございます」だけやね。「宇宙神ありがとうございます」だけやね。「印可書」だけやね。どういうことかって言ったら、結局本当の事は真(まこと)の神さまだけやね。今日の冒頭に言ったようにね虚栄心というのを作って真(まこと)の神さま以外のものわざと認めただけで、本当は真(まこと)の神さまだけやね。だから体に染み込むとか染み込まないとかじゃなくて、すでに真(まこと)の神さまだけやね。先生の仰る「すでに祈ってる悟ってる救われてる」って言うやつやねんな。もうそこだけやねん。

 でも自分で違うって言うわけよ。それを虚栄心って言うんやけどね。卑下満も虚栄心なんよ。私はダメですっていうのも虚栄心なの。その真(まこと)の神さまだけっていうのはもう「印可書」しかない、それをスッと分かろうとするとね。もうそれだけやな。 
 好転反応って言う言葉がなんであかんかって言うとね、まず現実を掴んでこんなマイナスがあったからこれからよくなるって言ってるやん。そしたら永遠にマイナスが続くね。もう先生が現実無視って言うでしょう、真(まこと)の神さまだけやね、本当は。その真(まこと)の神さまだけって何かって言ったら、楽しんでるだけやねん。楽しんでるだけいうのを楽しみを忘れるからややこしい。文句を言うから楽しみが苦しみになる。

 山登りがそうやね。なんでこんなしんどい目をせなあかんのって、文句言った途端に登られへん。特に富士山クラスになってくるとな、とても登られへん。やっぱり頂上に立つ楽しみがある、喜びがあるから登れる。その富士山ですらね、ヘリコプターで行ったって楽しくない。結局はありとあらゆる場に自由自在に立つ自分がいてるんやけども、それを不自由にして立ちに行くって楽しむんやけどな。

 まぁゲームがそうやんか、簡単なルールにしたらすぐ終われるのにな、それでは面白くないんやろ?わざと難しくして楽しんでるんよ。それの究極のゲームがこのみんなの人生や。わざと難しい人生にして楽しんでるの。人からボロカスに言われるとかね、色々あるけどな。めちゃめちゃ差別されたとかな、いじめられたとか色々あるけどそういうのを楽しんでるの、本当は、演技でな。だって俳優さんってそうやって楽しむわけでしょう、演技して楽しむんやんか。

 いつでも俳優さんはお家に帰ったら普通の人に戻るように、いつでも「印可書」を読んだら真(まこと)の神さまの真(まこと)の本心の自分にスっと戻るの。いつでも戻れるからいつでもこの現世を楽しめるの。

 中々「印可書」を読めと言っても読んでくれないし「印可書」をわかってくれないのも楽しめるの。それだけやね。先生はいつも楽しんではったけどね。だけど(みんな先生に)頼って来たからああなってしまったの。「先生何とかして」って言い出したら真(まこと)の本心の自分でないのね。全部自分ができる、真(まこと)の本心の自分、真(まこと)の神さまとして。全部自分で解決出来ることばっかりや。それは楽しんでるから出来る。苦しんでたら出来ないで。文句言って神さまと自分を離してしまうからな。(どんどん凄い苦しみになる)

 次お願いします。

質問: 印可書の二十一行目から、新たなる真(まこと)の十界だけ!新たなる真(まこと)のプラスの言葉だけ!新たなる真(まこと)の真(まこと)の十界だけ!の箇所の、十界と真の十界と真の真の十界の説明をお願いします。

河上さん:それは入れ子構造の説明をしてるのね。真(まこと)の十界と言うのは神さまの光を受ける側の立場を言うのね。この現世じゃなくて一大循環の相象(すがた)の1番端っこやねんけど。それは光を受けて喜ぶ。先生の昔の表現で言うと受けの達人になるっていうとこやねんな。それで真(まこと)の真(まこと)の十界っていうのは真(まこと)の神さまの側に立っている表現やね。真(まこと)の神さまの側に立つと今度は光を与える側、与え尽くす側になる。もうその違いをもっと深くそこは入ってるねんけど、簡単に説明したらそういうことやね。だから間に真(まこと)のプラスの言葉だけ、要するに真(まこと)の神だけって言って、真(まこと)の神さまだけを真(まこと)のプラスの言葉だけってちょっと表現を変えて言ってるだけでね。その真(まこと)のプラスの言葉だけっていうのが「印可書」。だから「印可書」の中心に入ってるやろあれが。これが「印可書」だ、みたいな感じやな。

 今までの宗教との大きな違いは何かって言うとまず教えや教義があるとね、お清めが出来ないのね。お祓いしかできない。

 例えば護摩の会場でお話しをするでしょう、そしたらお話しした人の全てのマイナスを自分が一身に背負わなあかん。背負ったら綺麗にお清めせなあかんね。だけど普通はお祓いしか出来ない。お祓いとは何かって言うと後(肉体の背後の存在)の人が肩代わりして背負ってくれるだけやね。だから今までの宗教で病気治しっていうのはね、実際病気治るけど、それは後(背後霊)の人が背負ってくれただけやから、いずれは利息つけて返されるの。だから晩年病気治してもらった人でも晩年になったら大変になるの。

 お清めとは何かって言うと今の真(まこと)のプラスの言葉だけやねん。新なる真(まこと)の十界だけのとこじゃなくてね、新なる真(まこと)の真(まこと)の十界だけっていうね、真(まこと)の神さまの座に立つ自分や。すると光源と光の流れ、その今簡単に説明して光を与える側って言ったけどね、与えるだけと違って自ら照り輝かなあかん。そうしないとお清め出来ない。それはイエスの言葉を借りて言うとね「我が技をなすにあらず。すべては神さまの栄光を現さんが為なり」って言うね。「無限の無限の輝きが無限に無限いっぱい」って言うだけやって、真(まこと)の神さまだけやってイエスは言うんやけどみんなわからへん。先生もみんな光やとかね、みんなすでに祈ってる悟ってる救われてるとか色んな表現を使って言うねんけど、みんな違うって否定するの。

 その否定する思いがマイナスの思いなんでそれをこっちが背負って、こっちが真(まこと)の神さまだけって祈り直してプラスに変えるね、それをお清めって言います。

 その真祈りが出来る出来へんだけやね。出来へん人がやっているとドンドン背負い切ってその重さに耐えかねて無間地獄に降ります。だけどここで大事なのは無間地獄に降りるのも真(まこと)の神さまやね。それがわからなあかんね。ここが1番わかってるようでみんなわからないのよ。「あー無間地獄に落ちはった」って言うねんけど違うね。

 その無間地獄に落ちるのも真(まこと)の神さまが楽しんで降りはるの。だから全てにマイナスは無いの。色んな役割を真(まこと)の神さまが自分で縛りを作って、ルールを作って楽しんでやってるの。只、楽しむのを忘れてしまってる状態の人が多いから、みんなもそうやけどな、楽しみやってんでって言ってしてるだけやね。「あっ楽しみやってん」ってわかった途端にみんな自在になってね、縛りが解けて変わる。いよいよ最後だからちょっと本当の答えも言うて色々と大おまけも一杯出してと言う大バーゲンセールに入ってるのね。在庫払拭大バーゲン棚卸しセールみたいな、大安売りに入ってるねんけどな。

宮野さん:さっきの沸き上がってる質問を引出したんですけど。2つ質問のうちの1つは、護摩の時、護摩の会場でって言うのは、護摩をする日、護摩の会場で、例えば護摩じゃない時も護摩のあそこで作業する…一緒。護摩が始まってようが…

河上さん:あの会場は特別やね。あの会場は特にね、色んな世界とつながる交点にしてあるのね。だからなんで護摩の会場が怖いというか、大変かっていうのはもうそこで一切を背負わなアカンねんな、中心に立つ人は。喋るというのは中心に立つという事やから。責任持ってもって消し切らなあかん、それだけ。だけど消し切れないルールを作ってね自分で、要するに自分が真祈りしてるって言うルールを作ったら、真祈りになってないから降りて行けるんやね。降りて行くのを楽しむの。そこやねんな。

 真(まこと)の神さま以外のものは一切無いの。真(まこと)の神さまがそれぞれ色んな立場に立って楽しむの。そこわからないとね、悟りと違うね。もうそこだけ、もうすぐ僕行っちゃうからそこだけを大事に今言ってるねんけどね。もうほんとに真(まこと)の神さまだけなの。真(まこと)の神さまが自分で自分のルールを作ってね、いろんな役割を演じて楽しんでるの。

 だから人殺しでもね、観世音菩薩ってお釈迦様が言うわけね。提婆達多でも観世音菩薩になって永遠に我を導くのであるって言って阿南さんを怒るねんけどね。阿南さんは神さま以外のものを認めてものを言うわけ。「提婆達多はどこにいるか?」「無間地獄に落ちているようでございます」って返事するわけ。それって無間地獄に落ちてマイナスの塊やみたいに言ってるわけ。それでお釈迦様が怒るわけ、違うよって、みんな光やって。もうそこだけやねん。ちょっとでも落ちていく人もやけどそれを見てる人もね神さま以外として認めた途端に自分も無間地獄に落ちるんよ。それで阿南が落ちないようにお釈迦様が怒って止めるんやけどね。

 分るか?大事なとこやねんで、「あー。あの人無間地獄に落ちはった」って言った途端に自分も落ちるね、認めてるから。真(まこと)の神さまは楽しんではるんやっていうのが分かったら本当の悟り。そしたらすべては完璧なる一つやから無間地獄でも光そのものやね。当たり前やねんけどな。本当は地獄でも輝いてるの。ただ光り輝いてないよというルールを作って楽しんでるだけや。遊園地がそうやろ?わざわざこういうジェットコースターですよって言って楽しむわけで、それはジェットコースターって言うルールがあるからや。分るかな?みんな遊園地で楽しんでるだけやね。色んな乗り物があってね、その中に無間地獄のアトラクションの乗り物があるというだけ。只、乗る為の切符を買う為には細かく自分をちぎってね、小さい意識にしないと載せてもらえないって言うだけ、乗り物がちっさいから。


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令和3年4月河上さん勉強会―2 by 河上彰延 2021年04月26日(月) 04時32分
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令和3年4月河上さん勉強会―2(20210411−2)

宮野さん:もう一つの質問です。先の続きで、病気治しができると、病気治しがすることがお祓いの状態だと、一旦病気は治るんだけども、後で大変な目に遇いますよって話し。じゃー、それはお浄めをした方が背負って下さるわけでしょう?

河上さん:いや、お祓いした人が背負っているんだけど、結局相手に返す形になる。

宮野さん:という事は例えば、身体悪いねん、脳梗塞やねん、とか言って直して下さいとかね、言ってきてハイハイ治して上げますよって言って、治しました。お清めじゃなくてお祓いをしました。一旦良くなりました。お蔭さまでありがとうございますって言って、その時は治っているんだけども、後日、又、何かの形でその方に戻って行くという事ですか?

河上さん:そうそう、だから一生懸命、その教団に教祖にお金を出しいる内は良いの。出さなくなったら「返そうか?」って返してくる。それだけや。

宮野さん:分かり易いかな。

河上さん:お金とかご奉仕とか色々有るけどね。先生の場合はお清め綺麗にされているんやけど、本人の意識が変われへんね。おまけで綺麗にして病気治しているのに、本人の意識は神さま以外のものを認めている訳。それで同じ癖で結局は同じ病気になる。

 先生は何時も本人に気付かれないん内に治すからね、脳梗塞でも気付かん内に治しているわけよ。でも切り無いの。で最後はオマケが終わるの。それで先生とこ来てんのに何で病気なるのって、文句言う人おるしな、だけどみんな好きにしたら良い。

 だけど今究極の答えを言った「みんな真(まこと)の神さまとして楽しんでいるの」。だから脳梗塞の姿を楽しんでいるの、それ分かったら一気にみな治るんやけどな。楽しんでいるの分かったら治るんやけどな「何でこうなたん?」と言った途端ずーっと苦しむの。何故かというと「何で?」って言った途端、掴んでいるの。「この演技を楽しんでいる」って言った途端に掴んでいないから演技は終わるの。

 そうでしょう?俳優さん、例えば病気の演技するわけやんか。末期がんの演技するわけ、例えば。でもその撮影終わったら戻るやん?楽しんでいるやん演技を、な?でも「何で私、癌になったん?」とか「なんで糖尿病になったん?高血圧になったん?」とか言った途端、永遠に続くね。

質問:それは病気が悪いと思っているからですか?

河上さん:そうそうそう。病気の状態を楽しんでいると思った途端に変わるけどな。それも真(まこと)の神さまが楽しんでいるねん、もうここやねんて。

 自分と真(まこと)の神さまを離すからややこしい。「真(まこと)の神さましかない。みんな光や」って先生言っているやん。光を小さくちぎって楽しんでいるの。千切ってって千切られへんけどな、その光をルールで縛って、こう魂という入れ物に入れて楽しむ。ルールで縛るって魂という入れ物に入れるね。

 で魂ってどういう物かというと、自分の経験で私はこういう物って作って行ってやつ、体験で、それを魂。だからあの人は心の大きい人とか、魂の大きい人とか、腹の大きい人というのは、そういう器の大きさを示すのだけどね。本当は無色透明な自分だから無限大の大きさやね。

宮野さん:病気っていうのも、病気そのものも、例えば治っている。まー真(まこと)の神さまと不離一体の自分やから、この状態を楽しめば良いんやねって楽しんでて、でも医者がこう言いますからとなると、いや、そんな事はどうでも良いねんって、私の体は無限健康であると、でこの状態を敢えて楽しんでいますよと、っという風にしとけば、その状態が・・

河上さん:死ぬまで続いても別に問題は無い。

宮野さん:続いてもそれが寿命とは何の関係もなく、自分のやりたいことを普通にやって行けるし、仕事もやって行けるし、必要であれば健康な人以上の事が出来るって事ですよね?

河上さん:そうそうそう。だから障害っていうルールを作って楽しむの。山登りと一緒よ。わざわざリュック背負わんで良いんでしょう?でもわざわざ重いリュックを背負って登るんやろう?又、そのリュックを背負わないと登れないようなところを行くわけでしょう?その辺の低い山に行くんだったら、ハイキングぐらいの軽装で行ける訳やけど、それでは面白くないわけや。

 だからこの肉体世界で楽しむためにはね、健康で何でも出来たら面白くないの。だから色んな障害を作ってね、あんまり動けない状態で楽しむの。

宮野さん:面白くないっていうのは真(まこと)の神さまの方を何時も向いときたいからという為に、敢えて・・

河上さん:いや、向いときたい違って、やっぱり難しいゲームが面白いと一緒よ。わざと障害を作って楽しんでいるだけやけどな。何時も神さまと不離一体で、神さまの方向いている向いていないと違うね。わざと神さまを離した自分を楽しんでいるだけやね。俳優さんてそうやんか?普通の人がわざと大悪人という意識を持って楽しむわけでしょう?それだけやけどな。それ自分が納得して得心するまで、一生楽しむ人もいるし。

 凄い事今言っているんやけどな、録音をよく聞き直してみて下さい。この楽しむっていうとこが大事で、その楽しむっていうとこが真(まこと)の神さまの本質や。楽しむという事が自由自在という事や。そうでしょう?楽しんでいる時って、心、自由自在や、な?

  で「辛い苦しい嫌や」って文句言っている時は、もう心が不自由そのものや。だから楽しい事って時間がすぐ立つや。嫌な事は時間が長いや、な?不自由やから時間が長い。自由自在やから一瞬やね、何時も。で一瞬一瞬新たに成れる、楽しんでたらね。

 で喜べ喜べ、嬉しい楽しいって言うのにな、先生が何遍も言ってくれたのに、皆な、文句言ってな。(笑)

 で先生が文句言って楽しんでいるんやなって、清めてくれはるんやけどな。

宮野さん:何かしんどい事をしないと、苦行的な事をしないと、何かをしないと悟れないという意識が刷り込まれているんじゃないだろうか?

河上さん:そうやね。まーそうだけど、悟れないよりやっぱり難しいルールを楽しんでいるのが大きいのやけどな。だからそれだけやけどな。だってみんな今、携帯でゲームするんやろう?簡単なゲーム飽きて段々難しいゲームするやん。難しいほど楽しんでいるやん。もうそれやねんけどな。みんな本質的に楽しみたいね、難しい事をして。

 それって神さまが自由自在やからや。自由自在やからこそ不自由を作って楽しむの。でも何時でも真(まこと)の神さまの座に戻れるから楽しめれるんであって、戻れなくなったら苦しみなの。

宮野さん:掴まない。掴まないで・・

河上さん:そうそう、だから一瞬一瞬新たにってなったら、真(まこと)の神さまの座に立てるから楽しみばかりになるの。その一瞬一瞬新たに真(まこと)の神さまの座に立つのは、印可書を読んだら成れるよって先生が決めてくれたから、今回はみんな楽にやれるでって言ってるわけや。良い?

質問:印可書の新たなる秘奥義のありがとうございますの意味をおしえて下さい。

河上さん:秘奥義な。要するにね、秘奥義以外はね、全部受ける側やね。どんだけ大きく受け取るかの立場なの。どんだけ大きく神さまの光を受け取るかの立場が、それまでのありがとうございます、で秘奥義のありがとうございますになると自らが照り輝きながら、要するに印可書に書いてる「光源と光の流れが」というやつやね。一瞬一瞬照り輝きながら光を放射し続けている状態や。それを別の表現で言うとダイヤモンドの中心に立っている、絶対の中心ってダイヤモンドの中心に立っているような感じやねんな。ダイアモンドの144面カットとか色んなカットの仕方で色んな種類の光を出しますっていう事。それが秘奥義のとこやね。良い?

質問:印可書の質問は以上のとこで終わりでした。

 次は
 
 お釈迦様の弟子マハーカッサパが入滅(にゅうめつ)する時、又、五井先生も言われていましたが、弥勒仏(みろくぶつ)マイトレーヤが兜率天(とそつてん)から、この世に現われておられますか?松下先生とのご関係はありますか?

河上さん:だからみんながマイトレーヤーや。地涌(じゆう)の菩薩って言うでしょう?地面から湧き出るようにしてって言うね。みんながマイトレーヤーや。そのマイトレーヤーの自覚を持たすのが印可書。そのマイトレーヤー、いわゆる弥勒菩薩さまというのは楽しむために来ている。楽しむっていうのが分ったら弥勒菩薩の自覚が得られる。

 まあイエスキリストの自覚が得られるとも言うけどね。救世主の自覚やね。救世主の自覚というのは楽しむや。

 だからイエスは十字架上に上ってね、喜びです、楽しみですって言ったの。でもそこ、楽しむ為にしているっていうのをみんな気が付かなアカン。この現世の毎日のお仕事もね、楽しむ為にしているっていうのを。だから会社のお仕事も神さまの為にするってせなアカン。家族の為に働く、自分の為に働く、会社の為に働くって言ってる内はアカンの。

 印可書読むのでもね、自分の為に読むから分かれへん。神さまの為に読むの。神さまの為に働くって言ったら一切報いを求めない訳よ、神さまの為にやから。

 只々、神さまのお手伝いをしたいだけでするの。毎日のお仕事が神さまのお手伝いにつながるの。なのに自分の為にって思うからね、山仕事でも辛くなる。神さまの為にするって言ったら喜びや。

 だから結局ね、マイトレーヤーが出てますか、出てませんか?って言うのは、何所が大きな間違いかって言うと、神さまと自分を分けてるでしょう?分けた途端に全部分らへん。それを虚栄心て言うんやけどね。要するにマイナスの存在があってそれを消す為にマイトレーヤーが来るって思っているわけ。要するに神さま以外のものを認めた時点で何も分からなくなる。

 みんな弥勒菩薩や、みんなイエスキリストや、みんな真(まこと)の神さまやって言ってるやん。みんな真(まこと)の神さまやって言うてるやん、真(まこと)の神さまの中に弥勒菩薩もイエスキリストも全部含まれる。
良い?

質問:はい、ありがとうございます 以上です。

河上さん:そんなんで、兎に角ね、喜びであるというのが分からなアカン。それってそんなん言って私苦しいやん、生活大変なんやっていうけどな、だけどゲームわざと難しいのするやん。な?それだけやけどな。

 例えば会社のお勤め毎日通うのでも、駅まで15分歩かなアカンのやって言うけどな、その15分を神さまの為に歩くってしたら楽しみになるね。だけど本当は全部神さまの為にしてるの。

 何でかというと自分が神さまそのものやから。為にも消えるんやけどね、本当は。だけどちょっと意識が離れている内はね、神さまの為にってしたら良いの。そしたら一瞬で喜びになって行くのにな。そしたらキツイ汚い仕事も喜んでできるの、神さまの為にやから。

 なのに何んであいつの為にこんな仕事せんならんねんって言うからややこしくなるの。

宮野さん:神さまの為にやけど、結果を気にしてはいけないし、報いを求めてはいけない。

河上さん:そうそう、報いを求めないから結果は関係ないの。

宮野さん:神さまのために、神さまのお役に立っているやろうかと思ったらダメなのね。

河上さん:一生懸命するっていうのが役に立っているっていう意味。真剣にするっていうのが役に立っているんで、ええ加減(ちゅうとはんぱ)にするっていうのが役に立ってないだけやな。そうだけど最初はええ加減から入っても良いの。ちょっとづつ変えて行ったら良いの。

 小っちゃい子見てたら分かるやん。最初歩けないからハイハイしてるやんか。そうなのに何で立って歩けへんのって言わないやろう?だから最初の入口は何でも良いの。だけどみんな困難を楽しんで、その為に生まれて来ているの。困難を楽しむからね、赤ちゃんの時にハイハイしてて歩けるようになるの。これ、歩くの苦しみやから嫌やねんて言ったら、一生ハイハイしてるけど、みんな歩いているやん。難しいのやで、歩くっていうのは。ちっさい子見てたら分かるやん、最初はこう手でバランスとって10歩あるいて喜んでいるやん。あれ苦しみを楽しんでいる。みんな忘れているけど本当は楽しみに来ているんやで。だから歩けてるの。それを思い出して下さい。もうそれだけやけどな。

質問:確認なんですけど、楽しもうって言葉を使った時に、自分を分け隔てした立場で楽しもうとしたら

河上さん:無理です。全部真の神さま、って思えないと楽しめない。別の言い方したら全部自分と思えないとね。全部自分やから楽しめる。この人の為に、こんなんしたって所為(せい)ないって思うから苦しみになる。何で私だけ、こんな結果も出ない事をさせられて嫌やって言うわけでしょう?全部自分やから結果も糞も無いの。

 人間の体を見たら分けるの。肛門の部分なんて何時も汚れ役で、敵(かな)わん敵(かな)わんや、本当は。ね?で何の結果も無いみたいなもんや、臭い臭いだけで。でも必要なんでしょう?理屈も文句も言えへん、で理屈も文句を言うと大腸がんになる。分かり易いやろう?(笑)

 理屈も文句も言う人が大腸がんになる。それを化学物質のせいやとか環境のせいやとか、癌になるのはこれを食べたからやとか、色々言うてるけどそんなん違う。

 喜び勇んで全ては自分て分かってたら、何を食べようと問題はない。

 だから本当に全部自分、全部真の神さま、先ずそこに立って、後は真(まこと)の神さまの自分が、自分で色んなルール作って縛ってその役割を楽しんでいるだけ。

 とうとう全部言ってしまったから、これ以上喋る事は今は無いんですけど、ちょっと質問して下さい。その全部真(まこと)の神さまというとこで疑問の部分があったら。

質問:提婆達多さんが観世音菩薩となって、という観世音菩薩についてちょっと・・

河上さん:全部真(まこと)の神さまとなってやけどね、観世音菩薩という形は、いわゆる相手のマイナスの響きに合わせて、自分のプラスとこう溶け合わせてね、要するに黒い水と透明な水があると、それを混ぜて薄い黒い水になるね、その状態を観世音っていうの。後は真祈りして、真祈りしてという事はどういう事かというと、一瞬一瞬新たに受け直すっていう事。それでどんどん光の流れが来て、無色透明になって行く働きを観世音菩薩と言うね。

 で提婆達多さんが神さま以外の様に思う人の為に、あの姿を取って、みんなの思いを引き寄せて消して下さるという事を、お釈迦さまは説明するわけ。だけどみんなは、よう分からんけど、分からんけどマイナスではなかったんだって事だけを、分かってくれたら良いよっていう説明やけどね。その時に未来の事を言ったってみんな受け取らへん。中々な。だから色々有るねんけど。

 神さまが慈悲慈愛って言うでしょう?で何があっても赦して下さるっていうでしょう?それは全部神さまだから。神さま以外のものが無いから赦して当然、認めて当然。

 それって要するに楽しんで当然や。もう映画の中の世界見たらわかるやん。大悪役の姿も楽しんはるるやん、演技で。もうそれだけやけどね。只、映画以上にこの現世は難しく楽しめっようにしてあるから、映画だったら配役取って(演技終わって)家に帰ったら終わりやけど、この現世では真祈りするという事になっています。

 真祈りは色々有ったんだけど、もう簡単にしたわけ、大オマケで。印可書を読んだら、淡々と神さまに奉納したらスッと無色透明な自分に戻れるっていうね。それを観世音の働きで、今の一瞬相手と染まってカラーリングするからね、印可書読んでいる時に色んな思いが沸くの。でもそれも神さまが良いようにしてるって、色んな思い返し方を使ってね、楽しむ。だから事故に会って、例えば片腕失う事があってもね、それが一番良かったいう事が分からなアカン。一番楽しめる形になったんやみたいなね。

 例えば脳梗塞になって半身不随になったら、半身不随の立場を楽しめるわけ。中々、半身不随に自分ではなられへんから、そうやろう?なろうと思ってもなられへん。それがなれたって喜ばなあかん、本当はね。そうなのに不便になったって文句を言うから余計苦しむの。

 癌にかて中々なられへん。中々それを楽しまれへん。笑っているけどホンマやねん。癌に成ろうと思ってもなられへん。じゃそれを楽しまなね。

質問:冒頭に先生が居らっしゃる時に、みんな真剣に悟りを求めてなかった、

河上さん:助けてだけやった。

質問:真剣に神さまと一つになりたいと思ってなかった、っていうお話しがあって。今、悟りの真髄というところで本当はどんな形も楽しむというお話しで、その真剣に悟りを求めるというところと、

河上さん:真剣に悟りを求めるとね、喜び楽しみだけになるの。だから真剣に悟りを求めて(その結果、結局)文句を言う人が多いいのね。こんだけ滝に打たれたのに、こんだけお祈りしたのに、こんだけお祈りの部屋に通ったのに、何も変わられんて文句を言うのね。それで苦しみになる。

 只々ね、神さまが良いようにしてるから良かった良かったって言ってたら良いね。そしたら喜びだけ沸いてパッと変わるのにね。そこをみんな分かれへんね。だから今が一番良いようになっているっていうのをどこまで分るかや。今が一番良いようになっていると思わんと文句言った途端に崩れていくの。折角そこまで行っているのに。

 もうちょっとが(あと少しのところで)みんな崩れるのね、ついつい(自分と他人と分けて、自分と神さまを分けて)文句言ってしまう。それって神さまと自分を離した意識やからなんやけどね。今が一番良いようになっているというのは、神さまと自分がピタッと一つになっている状態やの。だから喜んでいたら良いね。先生が何時も喜んでいたら良いねんって言うんだけど、その喜んでいたら良いねんと言うのがみんな分から無いわけよ。こんなしんどいのに何で?って言うの。

質問:その喜んでたら良いねんというのと、楽しむ、積極的に楽しむという事は一緒?

河上さん:一緒。表現をどう変えたかだけやね。だからボロクソに言われながら働くのを喜ばなあかんね、本当はね。だけどこんなボロクソに言いやがって、こんなところ居てれるかって、みんな辞めて行くの。勿論、会社の方は使い物にならないから、ボロクソに言って辞めさせようとしているけど、勿論な。だけどそれでもそれを喜んで行かないとあかん。そしたら本当に変わるんだけどね。

 今が一番良いようになっているというのはどういう事かというと、神さまに対する絶対の信が確立してる状態だから、神さまと響きが合ってバーッて変わるの、答えも分るの。

質問:逆に言うと、今が一番良いようになっているっていう風に、思い定めていく事が真剣に・・

河上さん:そうそう、勿論、真剣に思い定めないと、あんなん良いようになっているって思われない、こんなしんどいのに何でやねんって。(笑)あんな河上さんあんなん言うけどめちゃめちゃしんどいし、そんな熱もあるし、どないするんみたいなね。だけどそれは結果求めているから、な?神さまは結果違うねん、真剣さだけや。出来る出来へんと違う。だって小っちゃい子ハイハイしてるのね、お前いつまでもハイハイして歩かれへんなって、結果求めて言えへんやろう?ああこんだけ歩けて良かったね、良かったって褒めるだけや親は。で1歩か2歩歩けたら、わー歩けた歩けたって褒めるやんか?1歩か2歩しかお前歩かれへん、お前アホかって言えへんや。だけど会社では、お前仕事出来へんてボロクソに言われるだけや。

 だけどそれは表現変えているだけで褒められてるんやで本当は、ボロクソに言われてるのは、って分かるわけよ。今が一番良いようになっていると思ったら(ね)。

 それが一番良いようになっていると思えへんから、ボロクソに言われたら腹が立つね。本当はボロクソに言われたら自分のマイナスがどんどん消えるね。だから本当は喜べるんやで。

 要するにどういう事かというと、ボロクソに言うという事は、相手が自分のマイナスを背負ってくれているという事やから、自分が清まる。

宮野さん:わざわざ、わざわざ背負って下さるのね。

河上さん:そうそうホンマや。ホンマにそうなんやで、だから今が一番良いようになっているんやけどね、なっているけど文句言うと切り無い。

質問:じゃあ印可書とセットで、今が一番良いようになっていると組み合わせて行くと、

河上さん:最強の組み合わせになるから、あのもうみんな大丈夫やし、僕も帰れるなと思う。

質問:それは困ります。

河上さん:もうこれ以上言う事無いで、そうやけど。

宮野さん:老兵は去るのみ。

河上さん:そうそうそう。年よりはもう帰らんならん。


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令和3年4月河上さん勉強会―3 by 河上彰延 2021年04月26日(月) 04時27分
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令和3年4月河上さん勉強会―3(20210411−3)

質問:印可書の説明で、以前教えて貰ったのが、ちょっとあやっふやになってしまったので。「真の(まこと)の神さまの座に立つ」というのと、「真の(まこと)の神さまに立つ」の違いを?

河上さん:神さまと不離一体が何%か、みたいな感じやね。

質問:「立つ」はもう不離一体の状態?

河上さん:もう「立つ」が消えるね、最後は。だから、最後は「新たなる真の(まこと)の神さまは、新たなる真の(まこと)の本心の自分」って言うや。それで不離一体。それで「真の(まこと)の神さまの座に立つ自分」て言っている間は、ちょっとズレている状態だけどね。

 只、ちょっとズレている状態を作ってあげないと、周りに光が行けへんの。要するに何億万ボルトをバンて出したら、みんな困るや。やっぱり100ボルトに持ってこないと使いにくいでしょう?そういう感じで印可書も、入れ子構造的に色んな光が出るようにしてあるの。

 それで極端に言うとね、読み易いとこだけを読んでくれたら良いよ、って言うのはそうゆう意味なん。その場に立ったら、ここしか読まれないっていう場所もあるの。それはそこだけで良いの。この印可書を全部読まなくっちゃーっていうのは捉われやね。

 印可書はどれを読んでも完璧にしてあるの。どこを言ったって完璧やね。それやけど、光を調整できるようにしてあるの。だから、その弱い光を出す部分を作れって言って、作って、先生が喜んでくれはった。強い光の部分は先生作ってくれはったんやけどね。そういう風に上手くしたの。

 「ありがとうございます」やと、それが微妙に調整し切れんかった。それでその「ありがとうございます」がグッと前に出なかったの。それでちょっと調整できるように「宇宙神ありがとうございます」にしたのだけど、やっぱり上手く行かなかったので、「印可書」これでどうやっていう感じ。それで「もうこれで安心したわ」って言うて「もう大丈夫やって行きはったんやけどな」。
 でいよいよ今、最後の分言ったからもう大丈夫やろう!

質問:その「ありがとうございます」は光を調整出来ないっていうのは、どうして?

河上さん:いや、本当は出来るんやで、本当は出来るんだけどみんながね、「ありがとうございます」をね、信じ切れへんわけよ。で印可書は信じ切れる、切れないじゃなくて、もう言葉として作ったから、やり易くなった。

 「ありがとうございます」が真の(まこと)の神さまそのものって絶対の信が立てたら、今が一番良いようになっているってスッと分かるんだけど、成れへんかったやん?それで使いにくかった。

 で先生がもうみんなの為にね、祈って祈って祈り抜いて、考えに考え抜いてじゃないの。祈って祈りに祈り抜いて、真の(まこと)の神さまにお願いしてね、表現で言うとね、みんなが使えて、誰でもがっていう、全ての人の救いの御船っていう、大きなバスというか、船というか、宇宙船やね!を作って下さったのが印可書です。

 只、どうしても印可書を読めないって言う人の為にね、宇宙船護摩木を書いて下さい。宇宙船護摩木を書く時は、真の(まこと)の神さまが降り立って下さるからという約束事にして下さった。只、真剣に宇宙船護摩木書いていたら印可書を読めるようになる。

 ねえ、この前、宇宙船護摩木に印可書を書いて良いですかってみたいな、(みんな心境が深く)進んで来たけどね。

 只、外国の言葉に翻訳したらアカンのでね、印可書もローマ字でどんどん世界に広がります。それは音楽がね、世界共通語でしょう?そういう感じで、あの印可書の日本語のローマ字の音(おん)の響きがね、世界共通語になります。

 是非楽しんで下さい。楽しめない時はね、自分と神さまを分けたと思って下さい。分けたらどうしようもなくなるの。で行き詰って、苦しみを楽しんでいるんやけどね。苦しみを苦しんで、楽しんでいる。

 でも究極はそこなんやで、「苦しい、いやや、辛い」って言いながら本当はそれを楽しんでいるの。自分で意識していないけど楽しんでいます。楽しんでいるから逃げへん、逃げられへんというか。
 でも何時も山登りとか難しいゲームとかを思い出して下さい。難しいから楽しんでいるって。

 だって簡単過ぎたら、みんな平凡で退屈やって言いだす。言えへん?退屈で、退屈やねんって文句言っているやん。で難しい色んな事が有るから幸せやね、本当は。だのに「辛い」って文句言うから、「どないせえ(どうしろ)って言うねん」みたいになって来るんやけどね。

宮野さん:今、拾った感じ。苦しい事、同じ楽しめるんやったら、もっとお金持ちだったりとか、思い通りに成るようなんで苦しむ、そっちの楽しむ系は無いんやろうかという?

河上さん:いや、お金持ちはもっと苦しいね。

宮野さん:と、そのように説明して下さい。

河上さん:みんな勘違いしている、お金持ちはなった事無いから。(笑)お金持ち程、苦しいもんは無いんで。何でかと言うと、信頼できる親友って一切おらない。みんなお金を求めて近づいてくるだけ。ホンマやで。本当に信頼できる人が出来ても、その人を信じられへん。

 ビルゲイツとか億万長者いてるやん。みんなその孤独の中で苦しむね。その方が辛い。

宮野さん:どの形で苦しむのを楽しむかですね?

河上さん:そうそうそう。財産あったらどうして子供らに分けようかって苦しまなアカンしな、大変や。死んでからも心配する。ちゃんと仲ようやっているかしら。何にもなかったら心配せんで良い。なのにな、その財産を狙って、画策しはる皆な。面白いな!要らんって言ったら終いやのに。

 舞台装置を欲しいって言っているようなもんや、な?この映画の中の、このお城のセットが私欲しいねん、って言ってるようなもんやね。財産欲しいって言っているのは。
 死んで持って行けないものはみんなマイナスで有り、虚やって言っているのにな、分らへんのやな!

質問:手振りか何かで護摩の時に、以前、三々七拍子みたいな感じで言われたんですが、その三々七拍子の意味が・・

河上さん:宇宙創造のね、働きがね、1が2になってね、2が4になってというんと、1が3になって、3が6になってというんと、要するに2進数、3進数、4進数、5進数、6進数、7進数、って全部ね、10進数。表現する世界によって全部違うね。

 それを護摩の場合は色々と重ねなならんから、この地上は10進数や。だから1が2になり、2が4になり、4が8になり、8が16になり、16が32になりっていうような表現の世界。

 だけど金星に行くとね、これがね、もうあんまり・・5進数の世界とかね、で7進数の世界とか有るの。要するに7進数て何かと言うと1から7迄に行ったら、次の桁に上がるとういう事や。分かる?16進数って言ったら16まで行ったら一つ次の桁に上がるという事や。

質問:無理数で次の螺旋が始まる・・

河上さん:そうそうそう。そういう表現の為の色んな、ある意味ルールやけど、その世界の響きに合わせて、表現の世界の響きに合わせて有るの。
 護摩の時は色んなのを全部、纏めなアカンから五七五とか三々七とかね、タンタンタタタタとか色々言っているけど、その時によって必要なのがどんどん出ます。それはこれが正しいじゃない。全てが正しい。

 要するに全ては真の神さま。提婆達多が真の(まこと)の神さまだったようにね。それが分ったら自在に動けるようになります。

 で岡山で台風の動かすのお願いしたんだけど、取り敢えず1回目はHFさんとOKさんとでやって下さい。

HF:分りました。

河上さん:後はやりたい人が出て来たらして貰うし、出てこなかったらどんどん指名していって下さい。(辞退されたら最初のお二人でやってください)そうしてみんなが同じ体験を積んでいく。そういう感じでね、何が正しいじゃなくて、みんな自在にならなアカン。

 その為には印可書を読んだら自在になる。印可書を読まんと話し合ってとか、相談してとかいうと思い巡らすから崩れて行く。そういうもんや。

宮野さん:指名もあれやね、お祈りしてたら湧き上がるように、パッとこの人にしようって。だからこの人がどうやから、あーやから・・

河上さん:だから印可書必死で読んでな。必死で読んでフット思い浮かんだ人に決めたら良い、言ったら良い。

宮野さん:その人がするしないは別もん、もうそれは自由意思なんで。そうやね?

河上さん:そうです。

宮野さん:だから渡したからっていって、自分は放っとくでなくって、自分はひたすら盤石の支えとなってお祈りするだけの話しやね。

河上さん:護摩もね、やり方をどんどん自在に変えて行ったら良いね。今だったら一人一人が前に出て「宇宙神ありがとうございます」やっているけど、もう10人一斉にやったら良い。で護摩壇を囲んでね、一斉に20人,30人でやっても良いね、という風に自在になっていくから。もうこれでないと駄目って言った途端、崩れるの。神さまは自由自在やから自然に収まって行くの。スッと。

宮野さん:今でもあれやね、お子さんを連れておられる方は、お子さんと一緒に何人かでやって下さったら、ああゆう自由が良いね。

河上さん:それをみんな好きにしたら良いんやけど、ただ真のプラスの言葉以外の事でやるのは間違いっていうだけ。

宮野さん:いくらこの世的に、3次元的に良い言葉であっても、それは真のプラスの言葉で無いって事ですね。

河上さん:だから「宇宙神ありがとうございます」か「ありがとうございます」か「印可書」だけにして貰うか・・

宮野さん:16項目。

河上さん:16項目もね。

質問:どうしても印可書とか唱えられない時は、音楽が好きだから、音楽を聴きながら

河上さん:そう、音楽を聴きながらやれば良い。それはクラシックでもジャズでもね、歌謡曲でも良いの。その曲の響きに合わせた人を呼べるから。自在で良い。
 だから後ろの人が願うから、そういう曲を聴きたくなるしね。まー、食べ物でもそうだけど、自分辛い物が嫌いなのに食べたくなるとかね、なるの。大丈夫。

宮野さん:否定しない事ね。

河上さん:そうそう、なにしか全部な、楽しみに行かなアカン。本当に大変な事に直面する程ね、「あっつ!大きく楽しまして貰える」と、思わなアカン。
 えーこれでも未だ、こうせなアカンのって、いう位、今僕有るねんけど、楽しませて貰ってます。
 今日は朝、足も動かんかったね。今日は到頭止めなアカンかなと、宮野さんだけに行って貰おうかと思う位、動けんかった。だけど、それはそれって喜んでたら。要するに現実を無視するていう事やけどね。この現実だからどうじゃなくて、これはこれやったんやって、これで終わったんやって言った途端に変わって行って、ここまで来れたけどね。
 ちょっと車の中でも倒れたままで、ほんまに黒丸あたりで元気になって、車の中の人にもお話しできて。ちょっと身体大変やからゆっくり走って貰いました。揺らさないで。(揺れると体が痛いのでね。だから少し遅れました)
 だけど喜んでいたら良い。喜ばないと辛くて居てられへん。

質問:そこで喜ばないで落ちてしまうのは、神さまが(それは)違うからと、お教えてくれる為なんですか?

河上さん:いやいや、ホントは落ちるのも楽しめるね。それはその自分の意識をどれだけ小さくしたかだけやね。それもわざと小さくして楽しんだだけやね、本当は。

質問:それも含めて神さまが楽しまれている?

河上さん:うん、それをね、ちょっと説明で自分を小さくしたから、ちょっとしか光受けられないから苦しんやでとか言うのは、みんな苦しいと思っているからそういう説明しているけど、本当は小さくして楽しんでいるだけや。

質問:楽しむしか実(じつ)はないんですか?

河上さん:そう本質は楽しむだけ。だから皆な、赤ちゃんに生まれて本当は苦しみやろう?不自由で歩かれないで、な?でも苦しかったって言わない、楽しんだ。だから歩けてるの。

質問:だから楽しむと解決するというのは、そういう事なんですね?

河上さん:だから赤ちゃんは楽しんでいるから歩けるの。あれ苦しんだら歩かれへんて言って すねるで。でも回りも (赤ちゃんが)すねんように、「あー歩けたね、良かった良かった」って褒めるやん。だからみんなも褒めなアカンの。

質問:赤ちゃんの時は我がないから掴まずに済んでる、歩けなくても?

河上さん:そうやね、子供の時は、3才未満までは神さまが一時的に(その子の一切のマイナスを)預かって下さるから、その赤ちゃんて3歳未満の時は光そのものや。

質問:だから歩けないって悩まないで済むんですね。

河上さん:そうそう、ある程度したら神さま(その子に持っているマイナスを)戻すんで、3歳過ぎると、ある程度自我というものが出て来るね。

質問:そこから悩みが始まる?

河上さん:そうそう、15歳になると神さまが全部戻しちゃうの。で昔は15才で元服っていう。15才からはお前が全責任を持って行動しろよっていう事でね。本当は今も15才でそうしてあげんとアカンの。そうしたらみんなもっと責任を持って動けるんやけどね。まだ15才は子供やなんてやるから、言われた方も甘えるし、色々問題がある。

 本当は15才で一人前。ただ15才で一人前にして、二十歳迄みんなで上手く見守ってあげるから、本当に一人前になる。

 それを二十歳からとんと押し出すから崩れるの、本当はな。だけどみんなが良いように決める事や。
 そうだけど「喜び、褒めて」っていうのが大事やね。褒めるっていうのは何かと言う、結果を気にさせないっていう意味。褒め上手っていうのは結果を気にさせないっていう事。だから「こんだけ出来た!そしたらもっとこの方が面白いよ」って言って、して行くのが褒めるやね。「あー、上手上手」だけではアカン。だから褒めるのは難しい。けなすほうが楽や。だからみんなボロカッスに言う。

 もう疑問も質問も出ない位に、完璧に今日は行きましたので、違うかな?(笑)

 本当にね、喜びに楽しみに来てるっていうのだけを、絶対、頭の片隅に置いといて。そしたら文句言わなくなる。中々ね、そんな困難作ろうと思っても、作られへん事が起こるわけよ、人生って。だから楽しめるね。例えば自分からわざわざ熱い風呂に入りに行かないね。敵(かな)わんから。でもどうしても入らなあかんように、追い込まれると楽しめる訳やな。そういう物なの。

 で熱い風呂好きには、水風呂に入れられるみたいなな、それぞれに色んな体験が有るから全てが喜びに変わるのね。山登りもそうでしょう?登る苦労が有るから、頂上に立つ楽しみが有るのであって、ロープウエイやヘリコプターで行っても楽しくない。

 それを日常生活で言うと、暇でな、何もする事が無くて、敵(かな)わんねんって言う言葉や。暇で暇で嫌やねんて、な?暇やったら文句言うの、で忙しっていうと文句言うの、で、どないせえって言うの(笑)面白いやろう。自分で考えてみ?暇やしなって文句言ってるし、忙しい忙しいって文句言っているし、永遠に文句言っている。文句言う毎に自分を小さく縛って、より高度な苦しみを楽しむの。

 縛るのも解くのも、本当は自分が自由自在にやっている。自由自在にしているけど、ほんのちょっとのとこだけ見ると凄い不幸やとかね、大変やって見えるんだけど、わざとして楽しんでいる。

 だからわざわざ激辛のカレー食べに行くんやろう?一回は。1回食べたら2度ともうええわ(要らない)って言うんだけど、1回はやって見るわけでしょう?

質問:名前の由来なんですが、目連さんはお花の目連から来てるんですか?

河上さん:いや、違います。日本語に翻訳して目連ですけどね、本当は神通自在でしょう?目連さんて?その神通自在の意味の象徴的な響きやったんだけどね。

 でマートレーヤーっていうでしょう?弥勒菩薩って。「まー」というのは何かと言うと完璧な光って言うのを「まー」って言います。だからまん丸とか真(まこと)とか、完璧な光やから真(まこと)やね。あー、真(まこと)の場合は完璧な言霊やから真(まこと)って言うの。 

 そしたら新たなる真の(まこと)の神さまだけってね、「まー」って言うのはそういう響き。そういう響きに合った名前が付くだけ。

質問:真(まこと)って言うのは絶対って意味がある?

河上さん:いや、真(まこと)っていうのは真(まこと)の言霊で真(まこと)やね。絶対というのは本当は言葉に表せなくて無色透明だけ。

質問:印可書の無色透明の輝き、で括弧(かっこ)で光源と光の流れで、光の流れも実体なんですか?

河上さん:実体です。

質問:虚の影が消え行く相象(すがた)ですか?

河上さん:ではないです。一大循環の相象(すがた)そのものが流れ。只、一大循環の相象(すがた)の流れだけども、その流れの一筋が絶対の中心で無限の無限輝き一杯という。その中心の中に又、絶対の中心があって、無限の無限輝きがあってという。を一大循環っていう。だから無限循環て言わない、無限循環て言うと平たくなるの。一大循環って言うとどんどん入れ子構造になる。

質問:光の流れとは表現してますけど、存在している実在という?

河上さん:実在です。

質問:存します(まします)というか・・

河上さん:そうそうそう。

質問:ありがとうございます

質問:楽しむ為にやってきているって話しで、真(まこと)の神さまはもう戻っておいでよというのは、楽しんでいる所から戻っておいでよ、と言っているのですか?

河上さん:いや、自在に楽しめるようにって言ってはるの。

質問:遊んでいるのを戻っておいでよって言っているのは、そういう意味?

河上さん:だから役者さんがね、役者って自覚して演技して楽しむやん。だけど役者というのを忘れて極悪非道の人間てなったら、戻って来られへんやろう?役者って自覚しながら極悪非道の人間を演じているわけや。演じて楽しむの、だから演じれている。役者やっていうのを忘れたら、本当の極悪非道の人間になって苦しむやん。みんな今その状態やの。だから真の(まこと)の本心の自覚を得て貰うだけ。自由自在にね。

 だから本当は、本当は、言って良いのかな?本当は虚の世界も消えへんのやけどな。自在にみんなが自在に楽しめるようになるだけやねんけどな。でも一旦虚の世界を消さんと、みんな気付かへんから今は消すになっているんだけどな。でも自在に楽しめる新しい世界が来てるだけやけどな。

質問:それが自在応変という事なの?

河上さん:そうそう、自在応変の働きやね。

質問:自由自在心に戻る?

河上さん:真の(まこと)の神さまて自在応変の働きって言ってね、同じものは2度と作らないね。そういう縛りを付けているね。それ位、真の(まこと)の神さまの働きって凄いんだけど、その自在応変の働きをしてるんだけど、皆もう真の(まこと)の神さまというのをを忘れて自分がね、自分が真の(まこと)の神さまというのを忘れて、或いは、自分が真(まこと)の神さまや、要するに自分が真(まこと)の神さまって言った時点で違うだけど、自分が真(まこと)の神さまって言ったりね、ぐちゃぐちゃになっているから一旦これ中止。

 だから輪廻転生の輪を松下先生が切ってしまってね、今回は死んだら次、生まれ変わりは有りませんよ、ってなっている訳。
 要するに全員、俳優の自分を自覚する場所に戻しますよ、無理やり。今回は無理やり戻すの。だけど自由意思で戻って来て欲しいから色々言っていますけど、自由意思で戻らん人は無理やり引き剥がして良いって言われているんで。

 要するに地獄に降りるっていうのは、こうベチャってシールを貼るようなもんや。で自分でシール貼ってはる訳やな。それを自分で剥がしてくるまで放っときなさいだったの、今までは。今回はベリベリと剥がして連れて来いやから、凄い気い楽になった。そんなん得意です、みたいな。(笑)大好きそれとか、痛がるのバリバリするの大好きみたいな、違うか。(笑)

 そんなんで今回は一旦、一旦全員ご和算にしますは間違いない。そうだけど又、自在に

 新しい世界を開きます。

質問:本来は同時一切多という事で、自由自在に好きなチャンネルを・・

河上さん:そう!それがみんな不自由になっているからな、「違うんやって、演技してるんや」って気付かす為に色々と苦労している訳。

 それで印可書読んだら気付くようにしたんだけど、それも読めへんやつがおるから、それはそれで頼むでみたいに言われて、「任しときなさい、引き上げてきますわ」って言って。西部劇でロープで縛ってロープで引きずり回すやん、ああいう感じ。無理やり縛って引っ張って来ないとアカンからね。で引っ張られる方は「嫌じゃ―」って逆らうから、余計引きずられるねんけどな。ちょっと相手の自由を縛っても連れてこいやね、今回は。

質問:只、こういう機会は本当に何百億年に・・

河上さん:もう1回です。

質問:本当にそんな凄いタイミングなんですけど、直面している自分らはピンとこないというのは?

河上さん:だから演技を楽しんでいるのを忘れているから。

質問:本当はこの機会は凄いタイミングで、凄い宝くじというか、ダイアモンドを掘り当てたというか機会なんですけどピンとこないのは・・

河上さん:だからみんな癖やね。例えばゴミ溜めの中にダイヤモンドがありますよって言ったら、必死で探すやろう?本当は。だけどみんなはダイヤモンドがあるという事も忘れて、ゴミや、ゴミやって文句言ってるの、それだけや。本当は全部がダイヤモンドだけどな。ゴミやゴミやって言うからゴミになっているだけやね。ホンマそれだけや。

 だから「みんな光や」って先生言うんだけど分かってくれへん。「みんな悟っている、祈っている、救われている」って言っても分かってくれへん。もう先生色んな表現使って下さったけど、みんな分かれへんから「この印可書でどうじゃ」って言ってなっている訳。この印可書に乗れへんだったら乗れへんで好きにせえ。後はお前引きずって来い、みたいな。引きずるの得意です、みたいな。(笑)

 だからあっち帰してもらうと、地獄降りてみんなを引きずりますから、するとこの世か一気に崩れる。それ迄に印可書を読んで下さい。アッと言う間やで!

 でもね、素直に淡々と印可書を奉納したら自然にスッと今は分る。そうゆう風に今は神さまがしているから。さっき言ったようにゴミの中にダイヤモンドあるって言ったら必死で探すでしょう?

 「印可書がダイヤモンドだから素直に読んで」って言ったら素直に読んだら良いの。そしたらゴミやって思っていたのが全部ダイヤモンドって分かる。
 言葉で、だから「お刺身美味しい」って言うんと「この魚の死体美味しい」って言う、言葉だけやった。言葉だけ!だから「完璧な言葉だけの印可書」って。もう本当の答えを言っている「言葉だけやねんて」。

 みんなな、言葉で変われへんて思っている、違うって。もうお刺身を死体って言ったら食われへん。な、豚の死体の揚げた奴って言ったら味無いで。トンカツって言うから美味しいね。もっと豚の遺骸を揚げたやつなんて言うてるねん(笑)もう食べられへん。言葉で食べている。みんな言葉で食べている。

 じゃー完璧な言葉、真(まこと)のプラスの言葉、「印可書」を読んだら全てが真の(まこと)の神さまだけって分かる。実に簡単な事やで、だけど言葉だけって言うのがみんな分かれへん。こんだけ言ってもな!

質問:言葉?言霊?

河上さん:そう言霊だけやけど、言葉で良い。この現世的にはな。そうやろう?豚の遺体を揚げたやつ食べているやろう?魚の死体の集めたやつのどんぶり食べてるの、海鮮丼。(笑)
 
質問:それこそ、こんだけ河上さんが言って下さっているのに、受け取れないっていうのは、それは自分の立場を未だ掴んでいるから?

河上さん:いや、違う。言葉では何も変わらないっていう信念が有るから、それだけ。その信念をどうして崩すかって先生が色々と苦労されてね、もう印可書を淡々と素直に理屈抜きにね、読んでくれたら良いだったんだけど、それをどう説明するかで色々困って奉納という言葉にしています。神さまの為にって言っても、やっぱり自分がちょっと残るから。奉納だったら自分も無くなっちゃうので。でそれはお仕事も普段の生活すべて神さまに奉納するってして、したら全てが印可書に変わる。そうしたら魚の遺骸を揚げた天ぷらも美味しい。(笑)

 良いですか?11時なのでお祈りして終わります。


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眞祈りは人間解放・・・・・ by 河上彰延 2021年03月27日(土) 15時45分
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眞祈りは、人間解放・・・・

現在、主人が癌の治療中です。
このタイミングで起こる事ですので
結果にとらわれず
しっかり印可書を唱えるだけなのですが
主人の家族は宗教を持ってまして
皆で病気が治るように毎日、真言を唱えています。
皆で集まって唱えるのですか
そんな時はどうしたらいいのでしょうか。
ひとりだけ行かないのも違うと思いますし
ひとりだけ声に出さず印可書を唱えればいいのでしょうか。その場は合わせて一緒に真言を唱えればいいのでしょうか。
回答をよろしくお願いいたします。

・・・というご質問ですが、この方のこの世での存在を感じることができませんでしたので、一般的なお返事にさせていただきます。

 眞祈りは人間解放なのです。人間解放とは、肉体が自分とおもっている思い込みで、小さい意識に閉じこもっている(自分ではなにもできない、あるいは、自分はなんでもできるという自分という意識)から、自分という意識を解き放ち、本来の自分である真(まこと)の神さまと不離一体の意識を自覚しなおすことです。

 そのためには、自分の現在から過去にいたる経験によって良い悪いと判断する癖をやめ(なぜなら、自分は悪いことはしていない、良いと判断してきたことばかりしている、という思い込みもすべてマイナスの行為で→思い巡らすことにはかわりないからであるからです。)

 さて、では、自分という意識を捨て、真(まこと)の神さまと不離一体の本心の自分に立つことが、正解であるのですが、本心の自覚とは、すべての人と行為を自分の中に納めることであるのです。
 それを、具体的には、真祈りの伝授をするための印可書を読むことで、成就することができるのです。

 ご質問の内容は、自分という小さい意識から、思い巡らせて真言を唱えるのはいいのか悪いのか?と悩んでおられることでありますすが、これは、今までの宗教にありがちな人間差別の意識なのです。
 家族という集団にかぎらず、4人から30人ぐらいの集団になりますと、効率主義から何でもできる器用な人間、もしくは、霊的に何でもわかるかもしれないと思われている人間を頂点にヒエラルキー(階層)を作ってしまい、あれは、怠けているあるいは不器用でなにもできないからあるいは祈っていないからと口もきかず無視したり、下に置いたりしてしまうのです。
 このようにして、生物学的人間として何一つ差のないにもかかわらず、人は合理化という名目の分け隔てが大好きなので、すぐに効率化、合理化を進め、会社組織のような生産性を作り出し、上下関係を生み出してしまうのです。
 これでは、思い巡らす意識で構成してきた今までの社会や宗教団体とと本質的に何も変わらないことになってしまうのです。
 それでは、すべては真(まこと)の神さまの御働きだけ、真(まこと)の神さまだけという真(まこと)の人間解放を実現することはできないです。

 眞祈りとは人間解放なのです。思い巡らす意識から解放されて、真(まこと)の神さまの御心にままに行動する自覚を得ることなのです。
 人間は高い知能があり、それは他人との比較のなかで鍛えられてゆくと思い込み。競争は知能を高めると思い込み、それがゆえに、人生や社会や集団での競争の勝者は、弱者を支配しようとするのが正しいと思い込み、できない不器用な人間を無視したり差別していじめ出したりするようになり、又、この行為を容認する集団意識が生まれるのです。
 権威を勝ち取った勝者は必ず奢るようになり、弱者を見下すようになり、序列と差別が自然発生してくるのです。どこやら集団でもその傾向が長い間続き先生を悲しめたのです。

 人類の長い歴史を俯瞰すれば、この矛盾が、思い巡らす意識でいい悪いと判断して善悪を作り、出来の悪い不器用な人間は差別されて、白い目で見られ続けたのです。
 
 いろんな集団は、ある意味、不器用で能力が無い人間に精神的な重荷を強要する社会なのです。(不器用な)本人にとっての苦役の強要、差別の強要、序列の強要、その果ては気に入らない人間を組織からいじめて追い出しをはかり、あるいは、よく似た組織同士が横のつながりを持って協力しあおうと言い出す始末なのです。この行為は先生をこの前大きく怒らせることになったのでありました。

 今までの宗教団体は、組織と教えという縛りがある以上、眞祈りの総責任者の自覚を持つ者とは又眞祈り人の集団とは、横のつながりを持つことは不可能であり、ご質問でいう、一緒に真言を唱えることは不可能なのです。

 しかしながら、眞祈りをしていれば、すべてを自分の中に納めることができますので、(なぜなら、眞祈りをする=無限大の外遙か彼方という無限大の大きさの自分になるからすべてを納めることができる)ゆうゆうと、すべての親として、小さい幼子の唱える真言を見守りながら、形の上では一緒に、真言を唱えるということが抵抗なくできるようになるのです。

 ですから、眞祈りの総責任者の自覚を持つ者は、こうした集団や組織による精神的な苦役から苦しめられている立場の人間を解放されたい。人に序列をつけ、他人を差別し、見下し、ありもしない権威の虚構にさも洗脳されたような愚かな集団から抜け出したいと願い、すべての人々の自分という思い込みの呪縛から解放されたいと願うのです。
 真(まこと)の人間解放という眞祈りの人生を目指したいと願うのです。

 ご質問のように、この癌を治したいと癌をすでにあると掴んで祈ることは、真(まこと)の神さまに対する侮辱であるのですが、今までの宗教は、その矛盾にすら気づかないのです。

 人間解放とは何か?

 それはいろんな集団で、もっとも人々を拘束し続けてきた(虚構の)序列という価値観からの解放であるのです。

 しかし、それは、思い巡らす意識からの解放であるともいえるのです。
 自分という思い巡らす意識からの解放は、真祈りの伝授のための印可書を奉読することが一番の近道であるのです。

 テレビ番組のポツンと一軒家をごらんなさい。

  基本は自給志向で、生産・家事・子育て・介護などを分担しながら共同体を結成しているではありませんか?。
 それは、過疎の田舎、山奥に、山林、農地とともに、すべてを共有する生活スタイルになっているではありませんか?。

 アルプスの少女ハイジのようにたくさんの家畜を飼育して、子供たちは動物たちと一緒に育ってゆく。家事や介護、子育ては、共同することで単独で生活することの数倍の効率をお互いに支え合い助け合いの理想をもって楽にこなせるようになるではありませんか?
 眞祈りによる尽くし合い捧げ合いという共同体への帰属意識が眞祈りを通して高まれば私利私欲は自然に消えてゆき、利己主義的発想が薄れ、捧げ合いという尽くし合い捧げ合いという生き方に真(まこと)の喜びを感じる人生が理想世界が実現するのです。
 
 先生の願われた理想世界の実現がそこまで来ているのです。

 そのためには、眞祈り人の大菩薩行が必要なのです。

 眞祈り人は、この現世(うつしよ)のマイナスのすべてを、ご自分の体内という無限の無限の宇宙ににすべてを収納して消し去り、一切を無限の無限のプラスという真(まこと)の神さまそのものに解放しようではありませんか?

 宇宙神ありがとうございます


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真祈りの伝授を受けたら・・・ by 河上彰延 2021年03月18日(木) 03時29分
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 真祈りの伝授を受けて、深い真祈りに入れば、具体的にどうなるか?・・・・
 
 というご質問ですが。

 深く真祈りになると、具体的に眠らなくなります。ですから、眠っている(惰眠をむさぼっている)間は、まだまだなのです。各自、ご自分で判断して、反省されると良いです。

 もっと具体的に言うと、寝ているけれども、眼をつぶって横になっているけれど、周囲のこと、世界の事が、手に取るようにわかる状態です。

 形の上では寝ているけれども、真祈りしているのです。(笑)今年は、皆さんがその心境まで到達できるので、よろしく真祈りのほどお願いします。

 そのためにも、寝ていても、ひたすら、宇宙神ありがとうございますとあるいはありがとうございますとあるいは印可書を奉読し続ける決意が必要です。

 唱えている内に眠りに陥ってもOKですので、よろしくお願いします。

 宇宙神ありがとうございます


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