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4月勉強会 by 河上あきのぶ [Mail] 2024年04月17日(水) 21時13分
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令和6年4月河上さん勉強会(20240414−1)

質問:2人の方から質問預かっています。
 私にとって神書はとても読みやすく、大好きな書物であり、毎日、朝晩、数ページずつですが、気が済むまで読んでいます。一方で、実践するのには非常に難しく、読むたびに、「神さま、おっしゃる通りです、ごめんなさい、全然実践できていません」と気が引き締まります。4月の護摩焚きで、神書はわざと引っかかるように書かれてある、というお話がありましたが、私は、神書を読んでも、全く引っかかりません。引っかかるの意味が分かりません。読みながら全て納得してしまいます。しかし、護摩焚き以来、私は本当に神書を読めているのだろうか、実は何も分かっていないのではないか?そもそも根本的に何かを間違えているのではないか?勘違いしているのではないか?と不安です。今後神書を読むときに、心がけるべきことがありましたら教えて頂きたいです。よろしくお願いします。
 
河上さん:いや、引っ掛かってるやん。実行出来ないって引っ掛かっているやん。それが問題や。結局実行、実行しないとね、意味がない訳です。真祈りも一緒で実行しないと意味ないんで、神書も真祈りも同じなんですけど、真祈りするために神書があり、なんですけど、その神書と神書の奉読と真祈りとが結びつかない。それは何故か、何故かと言うと、先生がプリントですね。A4のプリントにして書かれたやつを集めたのが神書なんですけども、そのA4のプリントはなぜ書かれたかというと、村人とか、ここに来られる方で色んな問題が起こるわけですよ。その問題に対して直接、ああだこうだっていうのはやっぱ相手の自由意志を縛る形になるんで、直接言うことはされずに、神書に書かれたわけです。

 そのときに、あの僕の場合もそうですけど、もう書くページ数決まってるんです。先生はあと何枚しか書けないっていうのはいつもご存知で。だから、A4のプリントにね、びっしりと、もう一行本当にほとんど隙間なく書き込まれたんですね。それは色んな方向の光を全部詰め込まれたということなんですけども、そこまで詰め込んでしまってるんで光が強いのね。だから強すぎて、なかなか受け付けない。薬でも強い薬だとついつい吐いちゃうとかね、あるじゃないですか。そういう感じで強い光なんで、受け取りかねるんですよ。受け取りかねるけども、もう先生の場合はあと枚数も決まってるしということで、そういうふうにされたんですね。

 で、光強いから、読んで意味はわかる。例えば、真祈りしなさい、あっ、したらいいんやな、みたいな感じね、みんな完璧な光や、あっ光なんやなって、神書も理屈では分るわけ。理屈では分るけども、それを真祈りとしての実行に移せないというジレンマもあるわけですよ。そこを本当は聞きに行かなくちゃいけなかったんだけど、もうこれは済んだ話でね、ただそれだけです。だから、その方は十分引っかかってるわけよ。実行出来ないとご存じのようにね、ご自分もおっしゃってるようにね、実行出来ない、出来ないで引っかかってる。

 
 でも本当は神書は実行出来るように書いてくれているんです。でも光が強すぎるんで、もっと公式ですね。数学でも色々と難しいけど、この公式さえ当てはめたら解けるというのがあるじゃないですか?その公式として、真祈りの全体像全体図とはという印可書を作って頂いたわけです。

 だから、もう何もかもよう分らんけど、印可書さえ読んでたら大丈夫という、これさえ読めたら大丈夫というのを作ってくださいということでね。作っていただいたのが、印可書です。
 
 その最初の印可書ですら光強いってみんな弾くんで、今の柔らかい印可書、強いのから弱いのまで、順番に傾斜的にこう書いたやつを作ったわけですけども、もちろんどれ選ぶのも自由ですけれども、神書読んで印可書読めば、神書の内容がわかるようには本当はなってるんです。ただ、ただそれだけ。
 
 その理屈で分ったから、分ったじゃないのね。理屈も分って実行できて分ったなんです。常にここなんですよ。実行出来るか出来ないかなんです。真祈りも一緒で、真祈りしたらいいのは分ってるし、真祈りはこういうもんだっていうのも、大体みんな分ってるわけね、先生が色々と言ってくださっているから。真(まこと)の神さまそのものが、真(まこと)の神さまを褒めたたえることとかね。

 ありがとうございますというのは、偉大な真(まこと)の神さまの働きを褒めたたえてるだけの言葉だとかね、悟りそのものも言葉だとか、もう悟りの結果だとか、理屈は全部先生説明してくださってるのね。でも実行出来ない。それだけです。

 なぜ実行出来ないかっていうと、理屈で分ったから、分った気になって動けないんですよ。で、伝授なんです。伝授というのは、理屈で分ったじゃなくて、理屈抜きに真祈りの全てを相手に引き渡すことなんです。その真祈りの全てって言ったら何かいうたら、真祈りの全体像全体図というのが印可書が真祈りの全てにしてくださったわけね。

本当はもうありとあらゆる言葉をもっと入れなくちゃ駄目なんですよ。でももう公式として印可書にしたら、もうこれだけでっていうのを作ってくださったわけですよ。それも最初のは光強すぎて、今の人類には無理だということで、お前もちょっとお前は弱いのを作るの得意やみたいにぼろ糞に言われてですね、もうちょっと緩いのを作らせてもらったら、先生が「本物が現れた。本物が現れた」ってね、あの沈黙、清則の沈黙のときですら「本物が現れた」って言って待ってくださったわけですよ。

 ここへ夜お祈りに来てるときに、先生、突然来られてね、やはり3回言って帰られました。あちこちでもやっぱり「本物が現れた」って言っていただいたんですけども、誰も気付かないまま来てますけどね。ただそれだけです。もちろん印可書を選ぶのも、ありがとうございますを選ぶのも、みんな選ぶというのをね、自由意志で使おうと自由なんですけども、実行するかしないかだけです。

 だから、宇宙神ありがとうございますというのを本当に自分のね、神さまを褒め称える言葉としてね、どこまで受け取れるかだけですよ。この前の護摩の質問でありましたけど、無限の中に全てが入ってるけども、無限という言葉が小さくしか受け取れない人はね、全て、無限の全ての、とか言うてどんどん入れられたらいいんですよ。

 新たなる全徳の無限の無限の輝きが一杯とか、あるいは新たなる全徳の無限の無限の幸せが一杯というのが真祈りなんです。ただ、それだと一杯入れなくちゃいけないでしょ?だから印可書に集約してくださっただけです。でもともかく最初は唱えてるだけなんですけどね。

 一番の問題は、結局みんな光を受けようとしてたんですよ。先生、ちゃんとテープ、録音でも説明されてますけども、受け取るんだったら、もう小さくしか取れないんだよと。神さまお手伝いする側は光を与える側に、先生のお言葉で言うと、一切を報い求めず与え尽くすという立場に立たないと、神さまお手伝いとして一切の報い求めず与え尽くすという立場に立たないと、真祈りの伝授ならないし、その光を全て神さま全て受け取れないんだっていうことをね、何べんも説明されるわけです。

 そやけどその一切を報い求めず与え尽くすとかね、神さまお手伝いというても、そしたらお手伝いしたらいいんやな。一切報い求めず与えたらいいんやな。は分っても、ではどうするかというとみんな、分らない。

 ありがとうございますと唱えても不安だし、宇宙神つけても不安だし、手振りしても不安だしだったわけでしょ?だからもう一度印可書に立ち戻ったわけですけどね、印可書奉読するときはお手伝いになってるよっていつも説明してますけども、お手伝いをするというだけが大事なんで、そのお手伝いをするというのは何かというと、自分のことは一切横に置いといてね。只々、全ての人の幸せのために、言うだけなんですよ。
 
 だから、達磨大師さん、昔の先生ですけども、達磨大師さんがその壁に向かって祈り続けるんですね。それ、何か言ったら、あの時代の場合はもう人類の救いまでは行けないんで、ただ1人のお弟子さんを作るため探し出すために祈られたわけです。で、そのお弟子さんが現れてきたら慧可禅師(えかぜんじ)ですけども、あの慧可さんが現れたんですけども、慧可さんが現れても、先生は弟子入りを許さないのね、雪の中に一晩立ち尽くしてお願いしても許されない。帰れ帰れって言って弾くんですよ。それなんで弾くかというと、まだまだ自分の都合をね、優先してたからです。それが慧可さんの方も分ってきて、自分の肘を切り落とすんですよ。自分の都合は一切ね、求めてませんって。本当に本当の真理だけを求めてますということを先生に示す為にね、自分の肘を切り落として、血止めもせずに血を流しながら、あの弟子入りをお願いするんです。もうこのまま出血して死ぬのは構わないです。でも、この一瞬だけをお弟子さんにしてください。真理を教えてくださいってお願いするんですね。そして初めて先生が弟子入りを、達磨太子さんが評価されて、それでここ血止めしてですね、達磨大師自ら血止めしてくださって、弟子入りがあって、その瞬間に伝授されるんですけどね、そういうもんなんですよ。それを仏教の場合は剃髪するということで、そこの決意を示すんですね。

 だから頭を剃るというのは、自分の都合は一切、もう自分の幸せは一切捨てますなんです。だから自分の母親とか父親とか、娘とか子供とかね、どんなことにどんなことがあったって、一切構いません。人類のためだけ神さまのためだけ働きますという決意が、本当は剃髪なんです。

 この村でも約2名剃髪された方がいますけども、男と女と1人ずついらっしゃいますけども、その覚悟あるかないかは知りませんけど、今喋りましたから、その覚悟を持ってどんなに自分が不幸になっても文句は言わないように、そのための剃髪です。
次お願いします。

質問:ありがとうございます。2問、質問頂いています。1つずついきます。
 健康障害で話題になっている紅麹のことですが、以前,
 河上さんがおっしゃっていた波動が変わってきたので、今まで身体に良かった炭も悪い影響があるので、村で作った炭のマットや枕も使わない方が良いというお話を伺ったような気がします。それと同じように紅麹も今までとは違う働きになったということでしょうか?私も村で作ったマットを持っていて使用はしていませんが、畑にまくのも止めた方がよいのでしょうか?

河上さん:いや別に畑にまいて大丈夫ですし、真祈りしてたら使えるんですよ.
真祈りしてない人が問題なの。

 で,今回の紅麹の件でも、紅麹だけが悪いんじゃなくて全ての影響があって、たまたま紅麹がね、どうこうって言われてるだけです。でも例えば報道されてる内容で、僕が言うたんちゃう報道されてる内容で言うと、紅麹で3人亡くなられたけども、2人は紅麹だけの原因ではないっていうのは分ってるね。もう1人は現在調査中ということで、やはり確定出来ない。それくらいその食べるもの全てが、変わっちゃったんですよ。
 
 逆に言うたら、栄養学的にね、あれやこれやっていうのを選ばなくても、真祈りしてたら大丈夫という、逆に言うとそういう時代に入った。もっと怖がらせて言うと、食べ物がどんどんなくなるから、ちょっとしか食べなくても平気になっていきますよという事ですけどね。それだけなんですよ。
 
 今までみんないつも言うようにね、食べるものに頼るでしょ?疲れたからこれ食べよう、疲れたのでにんにく食べようとか、なんかあのね、甘いもの食べて元気出してやろうとかね。甘いもの食べていいんやで、食べるなとは言えんけど甘いの食べて元気出そうやなくて、まず真祈りしてね、神さまをお祈りして神さまの命頂いて元気になろう。ほんでお祈りして、自分にね、自分へのご褒美で真祈りしたから、ちょっと甘いもの食べてもいいですよ、がホンマなのね。なのに、元気出すために甘いの食べようとか、元気出すためにニンニク食べようとか色々あるじゃない。その人によってこだわりが、生肉とか何か肉食べて元気出すとかね、みんなあるでしょ?その人の「俺これ食べたら元気出るねん」っていうね、その頼り方が駄目だ。で、潮目が変わったんですけど、そういうものに頼ってもどうしようもない時代に入った。だから本当に栄養学的にバランス取れたもの食べてても、病気になる人はなるんです。

 それは神さまの命を直接受けなくちゃいけない時代に入ったの。今までは食べ物を通して神さまの命を頂けたんですけど、これからは直接受け取らないと駄目なんです。そういう潮目になったね。だから、今年の初めに先生がね、真祈りしない子はもう見捨てるとおっしゃったのは見捨てるという表現はわざと厳しく言っただけで本当は、真祈りしてないとどっちみち生きていけない。

 心に狡さを持ってたら、顔がばあっと腫れるような症状が出る時代に入ったんですよ。顔ががーって腫れるとね、恥ずかしい外歩けないから仕事も何も出来ないよね。だけど狡いからそうなってしまうみたいなね、ある意味厳しい時代。ある意味その真祈り人が、どんどんその真祈りを広めやすい時代になったとも言えますけどね。色んな意味で潮目が変わっちゃったんですよ。だからいわゆる詐欺師が生きていけない時代になったの。だまそうとしても、どんどん表にばれる。

 だから政治家が色々とつっつかれてるじゃないですか。狡いことしたのがすぐばれる時代になったんですね。狡く生きれなくなったの。それだけ。
 
質問:はい、ありがとうございます。最後の質問です。
 京都の亀岡市に祖母の生家があります。以前訪れた時に明智光秀の首が祀られているという谷性寺(こくしょうじ)というお寺があって、嫌な感じはしなく、印可書を奉納しに行きたい気持ちになりました。でも首塚(くびづか)なので止めておいた方がよろしいですか?

河上さん:いや、行っていいですし、第一明智光秀は死んでないからね。そのとき死んでないからね。だから大丈夫ですよ。だから嫌な感じしないんだけど、はい。

質問者:ありがとうございます

河上さん:質問ないという事で、そうですね。今年のお彼岸(3/17〜3/23)あたりが、一つの潮目が変わったときなんですね。だからもう本当に、狡い事してても全部ばれちゃう。
真っ正直に生きてください。あの馬鹿正直言って今までやったらね、あの人馬鹿正直に生きて損してるって言われる生き方でいいですから、でも先ず何よりも、まず真祈りですけどね、真祈りは難しいと思う方は、印可書奉読されたら、特にあの最初の表題から読まれたらいいんですよね。

 「真祈りの全体像全体図とは」って言えば、自分でもよく納得するじゃないですか?周りに誰もいなかったら、できたら声を出して読んでください。声を出してね、3回読むと大体15分経ちますから、回数言うのもあれなんですけど余裕があるんだったら、3回声を出してね、寝る前か、起きたときに読んでください。それすごく効果あります。
 
 でも人前でしないでね、あの人おかしくなったと言われるからね。周りだけ気にしてやってくださいね。でも声出すというのは大事なんです。これ英語の勉強でもそうなんですけど、英語でも数学でもそうなんですけど、全ては暗記なんですよ。数学でも公式さえ暗記さえすれば、簡単に解ける。
 
 英語も一緒で、例文を暗記したら必ず喋れるようになるんですよ。ところがみんなは暗記が苦手だと勝手に思ってるのね。でも、本当は口に出してね、あの覚えようと思うんじゃなくて、口に出してそうして読んでたらいいんです。それだけで響き渡ります。
 
 大体みんな自分は暗記が苦手だって言うてる人に限ってね、例えば、ドラマをね、テレビの人気ドラマをね、覚えるなんて思って見てないでしょ?楽しんで見てるじゃないですか。ほんで次の日ね、おばちゃん同士の話し合いでね、あれどうやった、こうやったっていうか、詳しくあらすじが言える。

 覚えてるやん。みんな記憶力あるんですよ。勝手に自分で縛って、これは苦手だって覚えれないって言ってるだけで、本当はみんな覚えれる。だから覚えようと思うと、覚えれないという自分を作って縛っているから覚えようと思わずに色々やってください。そしたら何でも簡単に覚えていけます。
 
 それもみんな神経過敏なのね。だから、こんだけやってしまわないと覚えたことにならないわって勝手に思ってるんだよ。でもちょっとで良いね、かじりっぱなしでいいから、覚えようと思わずにかじってかじってかじりまくってたら、全部繋がるようになるからね。

それくらい人間の記憶力って、意識とは別にすごいんです。

 だから一杯かじりっぱなしにしておくと、突然全部繋がってわかるようになりますから。で、印可書もね、一々考えんで、覚えんでもいいっていうのはそういうことなんです。只々、奉読してたら、色んな部分がどんどん入ってくるの。ある日突然全部入って、いつか知らんまに覚えてたわってなる。そういうもんですから。これからは、真祈り人は本当に色んなことをしなくっちゃいけないからね。自分でもびっくりするくらい、色んな能力を発揮できます。

 でも発揮するためには、自分はこれ苦手だとか、私これ出来ないわとかいう縛りはやめてください。神さまが必要とされる事を与えてくださるだけ「よかった、よかった」と思ってたら、与えられたことは必ずやれますから、また自然に答えが見えてくる。考えずとも、考えると見えないんですよ。
 
 数学でもね、考えたら分らんようになる。でも色んな公式を覚えてたら、勝手に当てはめれるようになって、さっと解けるのね。数学は要するに省略系です。省略系集めて省略系ばっかり組み合わせたら、また今度省略ができてっていう、計算機のない時代にね、複雑な計算を簡単にする方法として考えだされたのが数学です。例えばね。
 
 だから数学は考えじゃなくて暗記ものなんですよ。それぐらいね、みんな無限の能力を持ってんのね、持ってるけど自分で勝手にね、苦手とか嫌だとか、色々、あるいはこれだけをしないと駄目になるとかね。思ってんの。
 
 いつもこのお祈りの部屋の掃除で説明するじゃないですか。これを全部完璧にしようと思ったら、一生出来ないって。このお祈りの部屋のこの大きさでもね、でも、「出来る範囲をちょっとずつやりましょう」だけで全部仕上がっていくのね。それだけ。
 
 だから結果を追い求めずに、結果は神さまが自在に与えてくださると思ってたらいいんです。またそういうもんなんですね。神さまと一つの自分だから、必要なものはどんどん与えられる。そういうふうになってる。だからあの人勉強出来る人はすごいな、1回教科書読むだけで分りはるっていうのはあるでしょ?あれも一緒でね、その勉強出来る人は一々覚えるなんて思ってないから、テレビドラマ見るように教科書読みはるねん。で、勝手に分ってるわけ。
 
 でも普通の人はこんな難しいの読んだってわからへんわとか、こんなに覚えられへんわと思って読むでしょ。それは覚えられへんわ。覚えられへんって言うてんねんから、みたいな感じですね。
 
 テレビドラマでもそうよ、こんなん全部、あの中身を覚えようと思った途端に覚えられへんし、わかる?楽しんで見てるから、あらすじから話の展開から全部覚えてるやん。そういうもんです。
 
 神さまと供に楽しみ供に喜ばんとしてね、それが真祈りです。ただ真祈りしてるかしてへんか不安だから印可書を奉読するだけと思ってて頂いたら大丈夫。
 
 だから最初は印可書なしでありがとうございますの十文字で進んだんですけどね。ありがとうございますを限定するんだね、みんなね。十文字を限定して受け取るから上手くいかなかったんですよ。僕の感覚で言うとね、ありがとうございますでずーっと祈ってたら、目つぶってても暗くないんです、ていう感憶になるねんけど、皆なれへんかってね。

 それも約30年ほど前ですけど、大分それをみんなに説明したけどみんな分ってくれんかったから諦めたんですけどね。そういうものです。もう光一元になる。光一元なるとね、眩しいとかあんな状態じゃなくって、目つぶってても、明るい。どない言っていいかな?

 ほら、みんな眠ってんのにね、夢の中では明るいでしょ?夢、夢は、真っ暗な部屋で寝てるわけでしょ?でも夢の中で分かる、何かを見てるじゃない?ああいう感じですよ。目つぶってもいつも明るい感じ。それくらい本当は真祈りって難しくないんです。

 自分で勝手にね、出来へんわ、私なんか無理だとかね、縛ってるだけ。その縛りを簡単に解くために印可書あるだけで、別にありがとうございますでも、私なんか無理という縛りさえ、取れば、大丈夫。でも取れないじゃない?

 やっぱり思い込んでるでしょ?思い込んでても取れるのが印可書だと思って下さい、そういう印可書の凄さです。自分なんかお祈り無理だわって、私なんか全然駄目よとか思ってても、印可書を只々、理屈抜きに奉読してたら、もう全部が分ってくるみたいなね、そういう凄さが印可書にはあります。また、そういうものを作ってくださいってお願いしたんで、そういうふうに作ってあります。
 
 だから神書の方は、印可書と逆の方なんですよ。引っ掛かりながら入り込めるようにしてある。だから、読んでてわかるけど実行出来ないわ、こんなん。ていうふうに引っかかるようにしてあるんですけどね。印可書と真逆の方向で入ってあります。だからどっちも良いんで、印可書読んで、神書読んで、神書読んで印可書読んでみたりしてたら。どうしても神書を読むの嫌だというときは無理して読む事もないですよ。印可書だけ奉読されてたらいいです。
 
 ほんまに40年も前、ですけどね、ここへ上がってきた当初に、上がってきた当初ではなくって、神書が出来る前の神書は4部作なんですね。無限の無限の輝きが一杯とか、無限の幸せが一杯とか、4部作5部作やったかな?まとめて神書になったんですけど、その無限の無限の幸せが一杯の纏めたやつを、朗読してね、テープに録音してそれを流そうとしたんですよ、ここで。お祈りの部屋で常時流したら、お祈りする時、それを聞きながらお祈りしたら、し易いんじゃないかということで。そしたら先生が「止めとけ止めとけ」っていうね。そんな流したら誰も来なくなるってね。それぐらい神書は光が強いんです。だから読みにくいのは当然です。
 
 先生が大笑いされた。こっちは真面目にやってるのに、そんなんしたら誰も来んようになるので止めといてとか。あの、岡山のユニバースにも持ってたんですけどね。せやけど先生が流さんでいいって言って、はい。
 
質問:ありがとうございます
 印可書のことで、ある方と話してたときに聞いたことなんですけども、印可書を奉読し続けていたら、先生の最初に出された、あのピンクの印可書、あれをこう読みたくなって、最近はそれをこう読んで奉読していると。僕も奉読まではいかなかったんですけど、そういう方、読んでみたい、僕も思ったんですが、そのときに何かアドバイスってありますか?

河上さん:だからね、先生が最初に作られた印可書は凄い大おまけも付けてあったんですけど、もう今はその大おまけはないですけど、最初の印可書はなんでそう大おまけをつけれたかというと、そうですね、音楽で言うとね、最後まで演奏せんと、途中でポンと止めてあるんですよ。そっから先、ほら、歌謡曲好きな曲ね、途中でポンと、皆さんの好きな歌謡曲を思い浮かべて、それが聞こえてると、それが突然ポンと音止まったときに、やっぱり続けて自分の中で歌うじゃないですか。わかる?そういう感じにしてある。

 だから最初の印可書は素直にポンと読めたら、そのポンと開いたあと自分でやろう、自分で響かそうとしてね、ほんで大おまけを付けれたんですよ。でも誰も選び取りに来ないから先生憮然として怒っちゃって燃やしちゃった。燃やしたということはおまけをなくしたよということです。

 だから突然ポンと切れてあります、ラストの方が。ラストが切れてあるから、後をどう響かせるかはその人次第、そういう難しさです。
 
 で、今、先生が「本物が現れた」と言われた印可書はね、最後まで響かして、ドーンってなったのがどんどん響き小さなって、要するに光が弱くなってっていう感じにしてあるわけですよ。それだけです。

質問:ちなみに、その時に同時に添えていただいた7ページの説明文。あれはもうおまけがなくなったっていうことでその括りもそういう扱いですか。

河上さん:いや、7ページの説明文は印可書じゃなくて、先生の神書と同じですから、どんどん読まれたらいいんですよ。

 だからあの説明文までつけてね。選び取れないというのはね、僕には理解不能です。あの説明文読んだだけでも印可書を読もうと思うはずやし、何よりも真祈りの全体像全体図とはって書いてくださっててね、真祈りできへんって悩んでたらね、これやって飛びつくのが普通や。「弾くってどういうこっちゃねん」って僕はもうずっと思ってたけどね。まあまあそう言わずにと先生が言うて、みんなが受け取れる印可書にしてくれいう事でしたんですけどね。
 
質問:そうするとこう

河上さん:いや7ページの説明文すらね、読めないって言うんよ。ある人に一辺しつこく追求したことある。「なんでやねん」って言ったら、「いや、読むに読まれへんねん」って言うね、光強いから神書と一緒やからね、読むに読まれへんのかもしれんけども、そう言われたら、やっぱり先生の仰るように、印可書緩めたね、皆の入り易いのを作らなあかんということで、今のを作ったんですけどね、それぐらい説明文も光強いです。

質問:表紙から7ページまで奉読するよりも、

河上さん:いや全部奉読された方がいいです。あれの場合は。

質問:あれの場合は?

河上さん:はい。

質問:全文を奉読するっていう、印可書の方で…

河上さん:あれを全部奉読すると、今の本物現れた印可書とほぼ一緒です。

質問:じゃあ、どちらを選ばれても、

河上さん:長いから大変や。

質問:それだけの部分で、効果というか、あの役割的には、

河上さん:でもその本物の印可書よりは光強いからね。誰もが読めるというわけにはいけんと思うよ。読んでても空念仏みたいになる。あの文字を追ってるだけで、いわゆる取扱説明書でよく言うんだけどね。「取扱説明書見たか?」言うたら「見たよ」ってみんな言うんだけどね?「読んだか」いうたら、「うーん読んだかな」みたいな。見てんねんけども分ってないみたいな、そういう状態になると思います。

質問者:分りました。ありがとうございます




令和6年4月河上さん勉強会―2(20240414−2)

河上さん:ともかく宗教団体じゃないんでね。みんなに松下先生が降り立ってくださってるし、もうね、真祈りの伝授を今も続けていらっしゃるわけで、先生はね。それをどう受け取れるかだけです。ただ本物が現れたという印可書を奉読したら素直に受け取れるよ、というだけは説明しておきますけど、あとは皆さんの自由意志で好きにされたらいい。

 ただ、こんなチャンスは2度とないんですよ。あと7年このチャンスが続くわけです。その間に受け取れるかどうかは皆さんの自由意志です。7年後にはなくなります。この大おまけは、印可書を淡々と奉読するだけで、すっと悟れる時代は終わります。

 だからそれまでに本当に全世界に響かせたいんです。本当はね。でもあんまりそんな言うとみんな焦るからね、あんまり焦らずに、必ず神さま良いようにするから。ここは大事なんですよ、必ず神さん良いようにするからって、喜んで信じてゆったりとやらなくちゃいけないんですよ。

 仕事でも絶体絶命のときに焦ったらもう身動き取れないのね。何とかなるさでやっていかないと、ほんで仕事は何とかなるさでいいですけど、お祈りの場合は何とかなるでなくって、神さんは必ず良いようにするからって喜んでしてたら良いです。現実を無視してね。
 
質問:ありがとうございます
 あの世の話ですけど、例えばこの世で地震とか、震度5弱で収まってますけど、向こうの世界ではもう既に起こってるというか、もっとひどいと聞いたんですけど?

河上さん:はい。

質問:例えばよく聞かれるんですが、例えば前に聞いた話で、この世を一旦リセットするのはもう、今回全宇宙リセットすると聞いたので、例えば、私も「何年後この世にいないから大丈夫ですよ」と言われても、それは大丈夫じゃないと、向こうの世界の方がもっとひどい事になってると、そう解釈して…

河上さん:勿論そうです。

質問:で、向こうの世界とかやっぱり…

河上さん:だからね、みんな自由意志ですから、この世をリセットして、新たにもう一遍始まるわけですね、色んな世界世界がね。三千世界って言うんですけども。三千世界と言ったら無限の無限の世界という意味ですけども、新たに始まるわけです。その新たに始まる時にみんな自分の自由意志で好きな所行くの。わかります?だから、食べ物で言うと分かり易い。私、リンゴ好きっていう人はリンゴ食べるわけよ。私、バナナ好きいったらバナナ食べるやん、ね?その場所へ行ってしまうだけです。

 だから怒りっぽい人は怒りっぽい人ばっかりのところへ、又、集まるだけです。それを今柔らかく怒りっぽい人って言ってるけどね、心の中の荒れ果てた状況で凄い台風のような状況のとこへ行くとかね、もっと厳しいことがあるだけで。ただ説明上は怒りやすい人は怒りやすいとこ行くとかね。泣く人は泣く人ばっかりのとこ行くって言うてますけども、そんな生やさしくはないけど、そういう感じで新たに行くだけです。それも今度は肉体の形状も変わっての新たな姿を取ってですけどね。

質問:はい。あの世の人が怒っている。護摩の時言っていた、怒っているっていうのを聞いて…

河上さん:そうよ。いやだってね、真祈りしてね、みんなでワーッとなってね、後もう一辺地上側で、又、大きく新たにスイッチ入れて入れ子構造に膨らまし、奥へ入って頂きたいという事で地上に任すわけです。向こうの世界では、その世界は完璧になるわけですけど、もう一つ奥には入れないから地上を通すわけですね。

 そのスタートのとこでズッコケるからね、だからあれを潰していいかっていうとこ迄言ってくるからね、もうちょっと待ってもう一遍説明するから、みたいな感じでね。でないと癌で死んじゃうんでね。

質問:誰が?

河上さん:いや邪魔した人が。

質問:邪魔した肉体の方が?はい、分りました。
 何ていうか、この世の人が真祈りして全世界の人が真祈りしたら、向こうの世界の大変なのも起こらないから、こっちの世界でも何も起こらない?

河上さん:えっとね、この世の護摩がスイッチになるんですよ。スイッチになって、入れ子構造が膨らむんですよ。護摩が入れ子構造に成功しましたからね。いよいよ出来たんですけど、あっちの世界は、色んな姿を取るわけです。それはみんな心で想像するときに思って。想像しながら色んなシチュエーションを作るでしょ?

質問:はい。

河上さん:そういう感じで、自分の肉体一つだけど、自分の心では色んなシチュエーションを作れるじゃない?例えば明日カレーしようと思ったときにね、食べ物で言ったら分かり易い。カレーしようとした時に、こういう辛いカレーにしようとか、もっとこういうカレーにしようとか、色々バリエーションを考えるじゃない?そういう感じで向こうの世界でぱっと広がるんですよ。マイナスの思いもバット広がるわけ。広がったやつを真祈りでどんどん修正して、変えてしまえるということです。

質問者:はい。

河上さん:もうそれだけなんです。只、どんどん修正するスイッチがね、この世の護摩なんですよ。で、向こうの護摩はその人らが居てる世界だけをポンといけるんですけど、その隣の世界に影響を及ぼせれないから、この世の護摩で、いわゆる横の交流は向こうで終わるけど、縦の交流ができない。縦の交流をこの世の護摩で、要するに入れ子構造ですね、するわけです。

 それどういうことかというとね、宇宙の運行という一大循環の相象(すがた)の入れ子構造があるわけですね。その宇宙の循環の入れ子構造がそのまま肉体の体にもあり、自分の心にもあるんです。それが、この世の護摩のスイッチなんですよ。皆さんの肉体が。
 
 だから皆さんの肉体が自由意志で護摩をして真祈りしてって思ってくださると、入れ子構造的に縦にズバーッと広がるんです。それは「、いや、私はもういつもあのいやらしいことばっかり考えてね、狡い事ばっかり考えて」って思うんじゃなくて、そういう人のいるおかげで地獄に光通るの。分かる?

 だから先生お一人で上手くいかなかったのは、先生は清まった姿やから、地獄に光を通しかねる訳ですよ。でも「私ずっこいねん、すぐ嘘つくねん」とかがあるじゃない?そのおかげで、地獄の隅々に光通せるからね。皆さんの要するに耳かきの働きですよ。皆さんの真祈りがいるんだよっていうことです。

質問:ありがとうございます 
 例えば耳かきの働きの人もおるし、ショベルカーの働きも、みんなもう生まれた時からの役割でそうなっとるか?

河上さん:思う癖です。勝手に自分でね、俺はつまらん男やねん、耳かきやねんとかね、勝手に自分で決めてるだけよ。本当はみんな真(まこと)の神さまとして無限の働き出来るんだけど、演劇するときにね、私は王様の役が良いと言うのとね、私は乞食の役がいいとか、私は端役の後ろ通る通行人の役でいい。通行人やったら1回出たら後、楽でいいからとかね、みんなそれぞれ考えるわけよね。それで好きなことをするの。その姿をこの世に持ってる。だから、みんな男になりたいって男なるし、女になりたいと思うと女になって来るんです。

 で、ただ、いざ生まれてきてね、いや、女に生まれてきたけどやっぱ男の方が良かったわとかね、男に生まれてきたけどやっぱり女の方が良かったわって思い返す人がおるね。それが今、ジェンダーフリーとかいうややこしい話になってんねんけどね、それは思い返したらあかんね、本当はね。本当は生まれてきた以上は覚悟を決めてそれを味わい尽くさないと終わらへんねんけど、みんな未練やねんな。

 それ位ね、この世もあの世も全てそうですけど、一辺決めたら後戻りはできないと思ってください。だから後戻り出来ないんだから、これからどうするかだけをいつも真祈りして考えなくちゃいけない。でもほとんどの人は、私はあんなんしてきたから駄目だわって、後ろを振り返って生きてんの。ほんで振り返ったってどうしようもないって言ったって、振り返って苦しんでるね。それが苦しみがどんどん重なるとね、小さい耳かきの働きで良いわってなるの。分かる?過去をつかむからや。

質問:本人の思い返しで?

河上さん:そやそや。

質問:全員シャベルになる可能性もある?

河上さん:あるある。過去離したら良いね。でもみんな過去を掴むね、掴むなと言うても掴むの。掴むから色んな性格になるの。くよくよする役とかね、すね虫とか一杯おるやん。それ全部過去を掴んだ人の姿や。その過去を離せって言ったって、「どないして離すんや?」って。だから印可書ってなったの。それだけです。

 「ありがとうございます」で行けたんやったら、とっくに此処からもね、ありがとうございますで悟った人がでないとあかんのやけど、出なかったのね。僕はどの祈り言葉かと言うと「実相完全円満」で行ったんやけど、それはもう古い話しやからそんなんどうでもいいんやけどね。

 要は祈り言葉をどんだけ先生を信じてね、大きく捉えられたかだけなん。言葉の内容じゃあなくって。ただ、祈り言葉を大きく誰も捉えることが出来ないというのが分かったから、大きく捉えられなくっても読むだけで何とかという印可書を作って頂いただけです。もうたったそれだけでね、「いや、宇宙神で行くねん」「ありがとうございますで行くねん」という人は行って下さい。別にかまへんよ。みんな自由意志やからね。それだけです。

質問者:ありがとうございます

河上さん:ありがとうございます 
 その過去を離すっていうのが一番大切な事なんやけど、みんな離せへんね。みんな自分はこれだけのもんやって思っているでしょう?思っているのは過去を掴んでいるからや。過去を掴まなかったら自由自在に動けるね、先生のように。で、過去を掴まなかったら目立とうとも思えへんね。虚栄心も出えへんね。過去を掴んでいるから比較してね、名誉欲とか有るじゃあない?権威欲とか、財産欲でもそうだね。金銭欲でもそうでしょ?人より贅沢したいっていう虚栄心なの、な?どれもこれも虚栄心が出るのは過去を掴むからや。その過去を掴むのを離せないから人類は苦しむんやけどね。でも印可書を奉読したら離せるから。

 だからさっきの勉強でもそうなのね。これだけ覚えなくっちゃいけない、これだけしなくっちゃあいけないっていうのは、過去を掴んでいるのよ。結果やろう?結果を掴むっていう事は過去を掴むっていう事や。だから英語を勉強しましょうといったら、こんだけ覚えないと勉強ならないわって勝手に過去を掴んでね、自分で自分を動けなくしているね。

 勉強出来る子は過去を掴まへんね。結果掴まへんね。適当に食い散らかして、あっちこっちと、しててその内に出来るね。そんなもん。神さま良いようにしているからってね、やりたい事淡々とね、色んな事をしたら良いの。「全部中途半端で駄目だわ」って過去を掴むからあかんねんで。中途半端は無いねんって。神さんが必要でさせただけで、必要で飽きさせたん。

 例えば本読んでてね、飽きたっていう時は止めたら良いの。で、こんな途中で止めたら、次読むとこ分かれへんわとかね、次分かれへんことないねんって。それに気付かなあかんねんけど、勝手にね、こんなちょっとしか読んでへんから、又、次最初から読まないとあかんわとかね、自分で決めつけて自分を縛って苦しむの。それを過去を掴むって言う。

 過去を掴むって言ったら、何か自分の小さい時の事をどうこうなんて思っているんとちゃうね。過去を掴むっていうのは一瞬一瞬の結果を掴んでいるの。掴む分だけな、自分を縛って身動き取れなくなっているの。それで勝手に私勉強出来へんわとかね、私は合格出来へんはとか、色々あるわな人によって。私は物凄く不器用やねんとかね、不器用違うって結果を掴んで自分で身動き取れんようにしているだけや。
 
 だから字を上手くなる子は下手に書いても気にせえへんのね。で、練習して上手くなるねんけど、僕、字が下手なのは何でかと言ったら、やっぱり上手く書かれへんはって勝手に掴んでいるから、中々上手くならへん。で、ある時先生から上手く書こうと思うなと、空間のバランスだけ考えて書けって言われてね、それからちょっとマシになりました。
 
 この枡の中にバランスよくハマったら良いから、ハマるように書けってね。その練習の為に丸、三角、四角ってフリーハンドで一つの枠の中にね、〇を一杯一杯書いてみたり、小さく書いてみたり。或いは三角を書いたりね、したんですよ。で、それをフリーハンドで正三角形、フリーハンドで正四角形、フリーハンドでキレイな〇、それだけ練習したら良いって。後は練習しなくっていいって。「ああ、成程」みたいな。先生の仰ることは中々いつもツボを押さえてあるんで、それを素直に実行するかせえへんかは皆の自由やけどな。
 
 印可書も一緒や。もうこれさえしたら善いって、先生ツボを押さえてくれているけど、するせえへんは皆の自由や。字も一緒、丸、三角、四角だけ。後は書いて練習せえへんでいいって言ってね、先生は。新聞とか活字とかね。それでも自信ない時はトレーシングペーパー当ててね、なぞるばっかりしてたら良い。フリーハンドでなぞるばっかりしときって仰って下さって。それでましな字になって来たんだけど、あんまりまだ見せられる字ではないですけど。
 
 それは例えばなぞるっていうのもね、自分は上手く書けないっていう癖を消すだけ。で、癖っていうのは何かと言ったら、自分が掴んだ過去。「わたしはこんな癖があるねん」、嫌、誰も作ってへん、自分がその癖って形を掴んだだけ。それを過去を掴むって言います。本当は簡単な事なんやで。でも思いこんでるね、みんな。「私は女やから」「私は男やから」まあ色々あるやん。その思い込み止めなあかんねんけど、止めれないね。だから印可書さえ読んだら止めれるよう先生して下さっている。
 
 だから素直に印可書読んで呉れた方はどんどん捉われが無くなってね、自在に動けるようになって来てん。そういう人を沢山増やしたいと思っています。この7年間で。

 その為には自分の都合から考えて不都合な事ばっかり起こっても、喜べる心。どの状態も神さまが一番良いようにしてるって喜べたら、過去を掴まなくなる。自分の都合から考えて文句言う時は、文句を言うのはもう過去を掴んでいるね。結果を掴んでいるでしょう?文句っていうのはね。文句言ったら結果掴んでいるから、自分が動き取れんようになる。何があっても、怪我しても、事故にあっても「ああ、神さま一番良いようにしている」って喜んでいたら、結果掴まへんからね、怪我でも早く治るしね。

 先生そうでしょう?凄い怪我されても大体三日ぐらいで治された。先生怪我した状態を掴まへんから。この大引っ越しの時にね、何べんか大怪我されているけど、全然大丈夫でしょう?結果さえ掴まなかったらそういうもんや。で、結果さえ掴まなかったら怪我した時にどう対処するかが自然に分かる。

 肘を切り落とした時でもね、一々紐で先生縛らへんのね。この辺ギュッと押さえてウっとお祈りしはったらパンと血止まって終わりやった。寒い寒い冬でしたが。だって一晩雪の中立っていても許可してくれへんもの、切らなしょうがない。帰るに帰られへんし、今更みたいな感じや、こっちはこっちで。

 でもそれ位ね、本当は真祈りというか悟りに対しては真剣さが要るの。でもみんな真剣さ出せないから、出せずに悟れる印可書にして貰った訳よ、ほんと。「私そんな真剣になれないわ」って言うのは正直な感想やと思うの。わざわざ肘切り落とせないわってね。そうやけど印可書読んでいたら、肘切り落とすと同じ効果がある。(笑)

 だからどんな状態になっても喜べる覚悟さえ持てばね、後は印可書奉読するだけで行ける。でも自分の都合が出たら終り。自分の都合にとって不都合って文句言ったら途端に終わり。でも印可書読んでいたら文句消えるわ。大丈夫。文句出てもええねんで、すぐ印可書読んだらいい。

 自分の都合がなんでアカンかと言ったら、もう自分と他人を分けているでしょう?分けた時点で神さま拒否しているね。神さまを拒否していないというのは「すべて自分、すべて神さま」って分かる事や。

 その最初の第一歩はね、自分にとってどんな不都合があっても構わないっていう覚悟。
昔、五井先生の元に来られている方でね、ご夫婦のお子さんが3人とも亡くなるのね。五井先生とこ来ているのに。でもその時でも五井先生とこ来てね、みんな病気で無くなるわけですけど、みんな穏やかに死ねて良かったですって言って、先生に喜びを報告するのね。で、その時にそのご夫婦悟っちゃうんだけど。それ位ね、大事に育てて来た子供が1年おきに死んだんですけど、大変だったんですけどもね。それをよろこびしたわけですね。そういうもんなんですよ。

 この世の結果は関係ないの。それが分からない内は自分と他人を分けているから、神さまの光を拒否するの。自分と他人を分けた時点で拒否しているの。拒否した分だけ病気になったりね、又、余計色んな事が起こるの。自分にとって不都合な事がなんで起こるかと言ったら、神さまを拒否してきたからやで。神さまといつも一緒やったら不都合にならへんのやけどね。その過去において拒否した分だけが出て来るねんけど、その過去の掴み離したらね、それも消えるんよ。離す方法が印可書って言っているだけでね、勿論ありがとうございますで行く人はそれで行って頂いて良いわけで。いわゆる問題は無いんですけど、何の問題もない。みんな自由意志や。

 ただ、私は真祈り出来ていると思った時は危ないです。「私が」が入っているやろう?真祈り出来ている時は、出来ているとか出来ていないとかじゃあなくって、喜びだけが湧くだけよ。私はなくなって無条件の喜びっていうのは私がないからや。私がある時は条件が付くの。「身内だけが幸せでありますように」とかね。先ず家族が平穏無事でありますようにとか色々あるわ。

 だから五井先生の教えが凄かったのは自分の都合は横に置いといて、先ず「世界人類が平和でありますように」、世界人類が平和安穏でありますようにってね、それもなりますようにじゃあなくって、「既にあります」ってしたのが凄いねんけど、中々みんな自分の都合を離さんと祈るから、失敗してん。

 結局、人類は自分の都合を離せないって分かったから、掴んだままでも真祈りになる方法を作って頂いたという事です。だから文句が出た後でも印可書読んだら、文句が消えます。大丈夫!文句が出るっていうのは自分で掴んでいるからです。ほんなら仕事上ボロカスに言われても腹立てへん。ハイハイって。ぼろ糞に言われて腹立つのは自分が在るからやろう?

 自分にとってどんな理不尽な事を言われても、結局、自分が過去に掴んできたものの結果やね。だから過去を離すために理不尽に言われるんやけど、余計、又、掴み返すねんな。そこが問題やねんけど、それを印可書で消してしまえば一辺に消えて行く。

 神さまの光は大きな大きな凄い滝以上の無限のものやから一瞬で消えるの。ちゃんと差し出せば。でも大概は「糞ったれ」って掴んでいるやろう?「ぼろ糞に言いやがって」って掴んでいるやん。掴んでいるものは神さま消されえへん。「ああ、ぼろ糞に言われて良かったです」って神さまに返したらいい、印可書を通して。

 だから先生は何時も「元より後ろ指、指されるのは覚悟の上やろう」って仰ってたん。はい。

質問:ありがとうございます
 印可書を全世界に広げるというお話しを素晴らしい事だと思っているんですが、何かの時に同じような話をしたかも分らないんですが、やはり全世界に広げる為には英訳とか必要になってくると私は思っていまして、…(聞き取れないので省略します)…ここで言ったらありがとうございますとか祈願柱とか… … ピースポールが立っていて、そこの景色に凄く良いなって思った事があるんですけど、印可書とかをそういう風に何らかの形でピースポールとか、そういう風な事をされる予定とかあるんですか?

河上さん:あの時代はね、例えば「ケアラ.パス.プレパラスカ.ソブレ.ラ。チエラ」って言ってスペイン語に訳したり、色々したんですけど、それはその時代の為に必要であって、今はね、何が分かったかって言うと、みんな自分というのを離せない。で、自分の過去を離せないんですよ。という事は自分という事を離せないという事は、人から何を言われても聞かへんね。

 聞かへんからな、仕事上ぼろ糞に言われたら腹立ってくるね。素直に「はい」って言ったら済むんやで。だけどぼろ糞に言やがってって腹立つんやろう?それ位自分を離せない。自分を離せないという事は、例えば印可書を英語に訳したってどうしようもない。で、日本人だけが全世界の人類の心に響き渡らせる力を持っているの。まあ、ここで初めて言いますけど。だから先ず日本語の印可書の奉読をね、日本人がある一定の数が出来たら、一辺に人類が変わりますから、英訳は要らないです。

質問:それは日本の中でこちらの皆さんが唱えていると思うんですけど、

河上さん:そうです。

質問:それだけで響いて行くという事ですか?

河上さん:そうです。響きます。要するにこの世に出ている結果なんですよ。肉体でも何でもね。映画で言うとね、8mm映画だったら分かり易いかな?フイルムがあって光通って、まあフイルムが幽界霊界ですよ。光通ってこの世というスクリーンに当たって形が出ているでしょう?この世はそのスクリーン上のもんなんですよ。一人一人がそれぞれ心のスクリーンを持っていて、自分の心の中を写して、それを重ねて見て、他人が居てるように思う。重ねているからね。それだけなんです。

 だからこの世のスクリーンに映っているものを、映画ってそうでしょう?スクリーンに映っているものを変えようと思ってスクリーンをイジったって変わらないでしょう?こっちのフイルムを変えないと。分かる?幻灯機というね、フイルム側を変えないとあかんね。神さまという光源は何時も一緒や。光源の前にみんなの思いというフイルムを通してこの世に映し出しているの。この思いを変えないと。この思いの部分はこっちのスクリーンをイジったってあかんね。ここの思いの部分は音楽なんです。響きなんです。だからみんなの正しい印可書の響きを響かしたら、勝手に変わって行くの。それは「光は闇に勝てり」って書かれているようにね、闇っていうのはまだ光が行ってないだけやから、光さえ通したら光一元に変わるね。それだけやからね。それで英語にする必要が無いの。先ず日本人が印可書奉読出来るようになったら変わるの。

質問者:ありがとうございます

河上さん:はい。それで日本人の数をね、先生は1割って仰ってたわけです。最初は。1割という事は日本人が1億人いてるとしたら、1千万人が印可書を奉読したら変わる、だったんですけど、先生特別のオマケでもっと人数を減らして貰いました。だから兎も角護摩をしてね、知らない人は騙して1回は連れて来させて、それで良かったってしょっちゅう来る人は来て頂いて、1回しかけえへん人はもうそれで良いし、という感じでして下さい。

 で、印可書選んで読まれる方が増えて、護摩の会場はいわゆる増幅装置ですから、護摩で唱えて頂くと必ずちゃんと行きます。この7年間で。心配ないです。
 
 だって日本人の大半が知らないのに英訳したってしゃあないやん。日本人位やで、日本語位やで、私がっていう主語が無い言葉って。主語無しで通じるの日本人だけやで。まあ日本人通しでも主語無しで微妙な時有るけどな。まあ大体は主語無しでお互い喋っているやん。それ位私はっていう意識が薄いね。だから日本人が読まないとアカン。

  「ほらー、あれがああしてこうやんか」って言ったらそれで通じているもんな。(笑)日本人だけやで、外人そんなん言ったら「はあー?」って言ってそれで終わりや。(笑)





令和6年4月14日河上さん勉強会−3(20240414−3)

河上さん:だからみんな英語苦手だろうけどね、もうこんだけ、こんだけって、かじりかじり、覚えようと思わずに、この単語はこの意味っていう感じで声出してね。今、携帯で簡単に英語の単語が出て発声して行くでしょ?それを別に覚えようと思わなくていいから、なんか気になった言葉は、それで出して読むっていうのをしてたらいいわ。知らん間に覚えてるから、ここでちゃんと保証しときます。覚えようと思ったらあかんで。なんか気になった言葉があったら、携帯で英語に直してみて。 携帯が喋ってくれるでしょ?今。喋った通りに自分も喋ってるだけでええから。ほんなら知らん間に全部入ってるから。「印可書」読んでる人は大丈夫、できます。苦手って思った時点で全部アウトやからな。なんでもできるって喜んでたらいい。

 だってね、糖尿病になりはってね。で、中々血糖値下がらんで、どうしよう?で、「口養生もできへんし」って言うからね。で、その人、読書好きやったから、色んな本を読むことを勧めて、これから78歳の人やね、「これからどんどん勉強したらええから」って言って。で、95まで生きはる人やからね。普通でも大体100歳まで生きると、みんな覚悟決めてせなあかんねんけど。で、それで色んな勉強させて、頭一杯使わせて、血糖値下がって元気になった。だからちゃんと頭使いや。ぼーっとしてたら余計体潰すで。大した運動もしてはれへんのにね、元気になりはった。

 まず頭使うことが大事やって。体動かすのは、中々みんな邪魔臭いからせえへんからな。
頭は使ってるで、テレビ見てるやん、テレビ頭使わな見られへんで(眺めるだけでは駄目よ笑い)。ラジオ聞いてるやん、ラジオも頭使わな聞かれへん。新聞読んでるやん、雑誌読んでるやん、漫画読んでるやん。漫画なんか特に頭使わな読まれへん。漫画を一杯読んだら血糖値下がる。いや、ほんまやって。そこまで一生懸命みんなせえへんだけ。

 でもみんな出来るようになるからね、保証しときます。「印可書」さえ読んでたら。で、この7年間でみんな色んなことが出来るようにしとくから。みんなが松下先生の働きが出来るようになる、大丈夫。

 まだまだとても先生の働きなんかって思ってるやろ。その思いがあかん。だから今。はいはい、どうぞ。

質問:ちょっとさっきの個人的な話が少しだけ出たんで、ちょっと私も昨今気にしてることを1つだけ確認したいんですけど。大谷選手の通訳の方が、賭博みたいなことで話題になってると思うんですけど。大阪万博の方も、そろそろそういう風に、なんて言うんでしょう、準備が盛んになってきてる中で、カジノとかああいう物を建設しようという動きが大阪の方であったりとかする中で、その1人が、そういう風に、なんか悪いとか、嘘をついてたって言って、1人のせいにして終わらせようっていう風な感じがして、私はちょっとウっと思ってるんですけど。そういう動きで、賭博はいけないとかっていう中で、一方で、そうやって建設して、なんか経済を活性化しようという動きと、2つあると思うんですけど、どういう風に、こう位置づけて、私たちはそういう風な、賭博に対して、どういう心がけをしていったらいいのかということと、今回、悪いことしたっていう言い方で片付けられようとされている方に対して、どういうふうな意識で見守っていけばいいのかっていうのを教えていただきたいです。

河上さん:賭博はね、楽して儲けようというね、狡さでしょ?でも、そのうち顔に出てくるようになるから分かります。もう誤魔化せない時代が来ます。で、カジノを作るっていうけどね、すでに日本にカジノは一杯あるやん。株券というか、馬券、株券、舟券で。あれなんや?競輪やったね。なんて言うかな?

宮野さん:車券。

河上さん:車券か。すでに賭博あるやん。株価ってそうやん。あんなん賭博やんか。

宮野さん:先物もあるな。(笑)

河上さん:先物も賭博や。全部一緒や。

宮野さん:あの土地転がしもある。

河上さん:為替もな。別にカジノだけに限らへん。ただ、カジノは1番手軽に騙されやすいだけやろ?だから、そんなんやる人の方の心の問題やから。楽して儲けようとすると、 先生がいつも仰るように不労所得なわけでしょ?不労所得を積むと大変なって身動き取れなくなるだけや、その人が。それだけのことで。

 だから、「村を閉じよ」というのもね、先生がそういう指令、指示をされていかれたのもやはり同じで、楽をしてるから。だからマイナスが集まってる。本人たちは(楽を)してるつもりはないですよ。そのしてるつもりがないから大変なんです。

質問:ありがとうございます 不労所得で、自分が直接不労所を得てるわけではないんですけど、親がおじいちゃんの土地から毎月お金が入って、その恩恵を受けてるんです。

河上さん:それをどんだけ神さまのために生かして使えるかだけよ。自分の都合に使うかね、神さまの都合に使うかだけ。だから親の財産を相続するとね、大概運命が悪くなるね。
だから「相続すんの嫌や」言う人もおるし、色々あるけども、相続してもいいけどね、神さまのために使えるかどうかだけ。

質問:これはもう「印可書」奉読して。

河上さん:そうそう。奉読してたら勝手にこうしよう、ああしようって決まるから。

質問者:ありがとうございます。

河上さん:それにちなんでですけど、要は村の設立の目的は何かっていうだけですよ。その設立の目的を忘れてね、なった時は「閉じよ」やから閉じるわけ。 村を作った目的は、村人を募集した目的ははっきりしてます。真祈りして貰うためです、専門に。その専門をしないんだったら意味がない。

 6年経ってちょうど半分なんでね。ある意味いいきっかけだったわけ。あと6年、あと7年ですけど、どんだけ真剣になって頂くかだけですね。肘を切り落とすぐらいの真剣さがいります、村人はね。剃髪した方も同じです。

質問:ちょっと日本の国が、国策的に株を買いましょうとかいう動きがあるように私は最近思っていて。自分もだからこそ、今この時期にそういう投資とかそういうことに興味を持たないと、小学校でもそういうの 授業でやってたりとかするぐらいなので、ちょっと置いてかれるんじゃないかと思って、私も遅まきながらそういうことに少し興味を持ったりとか、運用とかで買ったりし始めたんですけど。それは目的はやっぱり村にも何か還元できるかなっていう風なことで始めたりもしているんですが、その心構え的にはいかがでしょうか?やっぱりそういう試みは、そういう、少しでも…

河上さん:いや、所謂、取らぬ宝くじの皮算用と一緒でな、「宝くじ当たったらこうしてあげるわ」って言うてもな、当たった途端にみんな心変わってまう。不労所得ってそういうもんやね。だから、「親の財産入ってきたらみんなに分けるわ」とかって入る前は言えるねんけど、入ったら変わるね。「この膝の痛み取ってくれたら1億円渡します」って言うお婆さんがおってんけど、膝の痛みとって、綺麗に歩けるようにしたら、 あと忘れてはる。だからそういうもんよ、わかる?だから、中々ね、自分の徳というのがない間は、 そういう、何をどうしても大変になって行くだけ。

 「天網恢恢疎にして漏らさず」って言ってね、何があっても神さまは全てを救い取っていかれるわけですけども。その救い取るためには、本人のしたマイナスは全部本人に償わすの。だから真祈りしない限りは大変にしかなっていかないね。一般の人でもね、「善人呆けがっ!」って親鸞さんが怒るんだけどね。「私は悪いことしてへん」って言ってる人ほどね、悪いことしてるっていうね。

 それくらい積極的に真祈りしない限りは、悪いことしてる。「小人閑居(かんきょ)して不善を為す」って言うでしょ?何もしてないんだけど、それがマイナスなんだっていう。積極的に、せめて人の役に立つことね。そやけど、それよりはもっと真祈りすることっていうのが大事なんです。神さまのお手伝いをすることが大事なの。神さまのお手伝いをしないと、全てはプラスに向いていけへん。もちろん別に株に手出してもええけどな、失敗するだけや。

 ほんで、仮に上手く儲かってもね、自分に徳がなかったら、また勝負に出るね。僕の友達におるねんけど、手堅く株をやってはってん。で、どんどん儲かっていってね。ライブドアでね、「もう1億あるねん」って喜んではってん。まだ売ってなかってん。で、0になってん。みたいな感じやな。

 それくらいね、徳があったらね、株なんかせんでもね、なんでも上手く行くねんって。
株をするのはもう元々不徳やからよ。一言でな。で、それがたまたま今までやったら今生で現れなかってん。だから「あの人、株で大儲けして、死ぬまで楽していてはったわ」っていう人は一杯おってん。でも本当、潮目変わったから、全部今生で出るね。だから恐ろしいもんよ、ある意味。

 だから、村人にもええきっかけやったわけですけど、このままほっといたらみんな病気で大変やったから、いっぺん真剣になっていただきます。で、真祈りどうしても出来へん人はね、一般の会社にお勤めされて村出ていかれたら良い。

質問:すいません、先ほどのお話の中で、皆さんそれぞれすごく頑固なところがあって、私もそういうとこあるんですけど。人の言うこと聞かないとかあると思うんですね。で、その人を変えようとしてもそれは無理なので、せめて「印可書」を奉読いうことで、ここだけはもう絶対に私は…

河上さん:そうそう、「印可書」に縋って縋って行ったらええねんって。もうそんなもんな、自分は頑固や言うてな、頑固変えられへんって。そんなん変えれる子やったら誰も苦労せえへん。だから「印可書」を先生作ってくださった。そこで行ってください。

質問:なので、松下先生が「印可書」を、松下先生がっていうのを、そう仰っているっていう風にすれば、皆さんちゃんと腑に落ちてくださると私は思います。

河上さん:落ちへん、落ちへん。落ちたらみんな村人はとっくに「印可書」読んでる。松下先生の作ったものを弾くんやもん。おかしくない?なんで弾くの?なんで嫌って言うの?表題見たらわかるやん。「真祈りの全体像、全体図とは」って書いてるものを弾くんやろ?「真祈り嫌や」って言ってるん。

 それくらいみんな頑固や。だから、表面から言っても一緒。護摩でね、みんなの心の内側に真祈りという真(まこと)の神さまを立ててね、内側から響かさんならんね。真祈りという種をね。真(まこと)の神さまの種をみんなの心の中に撒くの。で、真祈りで光を当てて芽を吹かすの。この7年で大丈夫、出来るから。

質問:予てから今日もピカピカに輝いておりますが(水晶玉が)、本当に結果としては、今その形になってよかったのかなと私は思うんですね。皆さん気がつかなかったと思うんですよ、 その存在に。

河上さん:いや、だから、こう分け隔ててね、「あの人は素晴らしい」とかって言うと、もう偽物になって行く。だから松下先生は「ありがとうおじさん」とかね、名前つけられるの嫌ったわけ。それでも先生って呼ぶ。僕の時代、僕の頃は先生とすら呼んでも怒られたよ。「松下さんって呼べ」って言って、「先生ではない」と。で、「過去世ではあなたは弟子やったけど、今は違うやろ」って。「それくらい分からんのか」って。分かってたけど、一応ね、立てて言うたら、「立てたらあかんねん」って、えらい怒られたことがあったんです、昔ね(怒られたのです。)。

 それくらい、みんな真(まこと)の神さまっていうとこに立たなあかんね。

 今日、光が強いって言うのはね、ちょっと夕べ本当大変で、座ってお祈りしてたら、ちょっとウトウトしたら、先生にバンッて怒られてね、「寝るんやったら立て!」言うて、で、ずっと立って祈ってたんや。ちょっとそれで今日は光強いけど、それくらい、ここじゃなくて、世界が大変なの。そうね、金(曜)が特に大変やったな。金・土と大変で昨日は昨日で大変やったんですけど。ちょっと峠越したんで、こっち来れました。

質問:2点ほどあります。1点目は、もうこれは私の中の反省を語ってしまうんですけれども。今回の事案のことで、改めて先生と面識があったからこそ甘えがあったなっていう風に、それに甘えて…

河上さん:いや、甘えというよりね、先生と面識があった人は、ついつい先生に頼るね。
で、頼ったら最後、もう自分でお祈りしようとせんわ。頼るってそうやろ?自分ではなんとかせんと、なんとかしてください。だから、先生がお話で言うてんねんけど、塾でね、塾で例えば数学教えて貰うとするやん。で、通ってる子供いうのは、問題を黒板に書いてね、先生に解いて貰って自分がわかった気になる。でも試験になったら解かれへん。それを頼ってるっていうね。で、頼ってない人いうのは、自分で一生懸命解こうとして、で、ここが分からんねんっていうのを聞こうとするからね。

 だから、勉強は予習が絶対いるんやけど、ただ、勉強出来へん子は、予習したら全部分からんから、どこが分からんかも分からんから、大変だっていうねんけどな。
 
 で、そういう子は、家庭教師付けなしゃあないというか、直接指導すんねんけど。そういうもんでね、頼ってたら、目の前で先生が解いたら、なんか分かった気がすんねん。で、村で先生の側におったら、なんか悟った気がするんよ。それは、強い先生の光を浴びてるから、気持ちはすっきりすんね。だから、自分もなんか偉らなったような気がするね。本当に悟ってへんから。

 でも、スッキリするから偉くなったような気がして。で、「やっぱり先生について行くだけでいいんや」って、「後ろをついて行くだけでいいんや」って勘違いすんねんな。お祈りせなあかんのに。で、今になってるだけです。
 
 で、先生がいらっしゃらなくなったら、今度は別のそういう先生を作ってどうこうしようとするから。で、それは先生の予言通りやから閉めることになっただけ。予言で厳しく厳命されてたね、「閉じよ」。

質問:とにかくひたすら印可書を奉納するのみというところ。で、2点目です。これは本当にそうなって行くんだろうなって思ったことなんですけれども。先生と面識がない方の方がこれから新たに…本当に真剣なのではないかと私は思います。

河上さん:そうよ。だって頼りようないもん。先生いらっしゃらないから。もう頼るとしたら「印可書」だけやから、そういう人らの方が早く入る。先生と面識あるとね、やっぱり先生すごいからね、こうして先生の勉強会でも参加するだけで、スッキリしてしまうの 。スッキリしたら、スッキリしたから、もういいやと思ってお祈りせえへんね。違うやろっていうとこがな。スッキリした時こそお祈りしやすいねんから、お祈りせなあかんねんけど。

 五井先生の時もそうやってん。五井先生の統一会に参加するとね、スッキリすんねんで。そのスッキリした後に「世界人類が平和でありますように」って祈り続けなあかんのに、 スッキリしたからお祈りせえへんね。
 
 松下先生の時も一緒よ。勉強会参加してスッキリしたから、「あ、気持ちよかったわ」って言って、お風呂上がりのつもりで帰るね。そのお風呂上がりの綺麗な時こそ、お祈りして深めなあかんのにな。そういう感じやけど、今は先生いらっしゃらないから、全然先生知らない方は「印可書」だけを頼りにしてね、「印可書」に縋ってやられるから早いんです。それはその通りです。

質問:とにかく、でも、先生のお役に立ちたい、真(まこと)の神さまのお手伝いをしたいっていう気持ちで、ひたすら「印可書」奉納して行くっていう、それを今からより一層。

河上さん:はい、そういう人ばっかりになります。大丈夫です。

質問者:ありがとうございます。

宮野さん:なんかこの間話をしてた、面白いっていうか、皆さん言ってらっしゃるんだけども、えっ?て不思議だと。ちょっと解釈的に変だなと思ってた先生の話をしましたけど。「神さまどうぞこの命 ご自由にお使いください」って宣言をされて。ありますよね。

河上さん:はい、護摩の会場でもたまにありますけど。「この命、お使いください」って仰るじゃないですか。で、あれを真祈り人から見ると違和感があるんですけど。何がおかしいのかって言うとね、この命というのを1万円に変えたらわかる。わかる?「神さま、どうかこの1万円、神さんの為にお使行ください」って宣言するとするでしょ?なら、1万円出さなあかんやん。それ出さんとやったらおかしいやろ?そういう感じで、「どうかこの命、神さまの為にお使いください」と言いながら、自分の都合を優先してるからややこしい。

 ほんで、それをたとえ理屈で説明してもね、自分の都合を優先する癖が取れるわけないね。わかる?だから「印可書」やねん。それだけやね。

 五井先生も「どうかこの命お使いください」って宣言されてね。で、会員さんも同じように宣言される方が色々いらっしゃったんですけど、五井先生は「この命お使いください」って言ったら、自分の都合を一切捨ててね、「自分はどうなってもいいから」って言って投げ出された。それやったら本物や。でも口では言うけど、投げ出せない、1万円出せないね。そうなるわけです。

 で、剃髪された方は、何があっても投げ出してください、1万円出してくださいっていう感じやね。で、それをしないと何が起こるかというと、投げ出してないというマイナスを積むの。所謂、「小人閑居(かんきょ)して不善を為す」でね。口では良いことを言ってるけども、できてないからマイナス積んで大変になって行く。行為が全てやからね、この世では。だから大変なる。

 ちょっと話題違いますけど、例えば神社お参りされたらね、御賽銭の金額を仰いますよね。もちろん心だけで1円でもいいんですよ。でも、例えば駅に入場するとき、入場券買うやん。今180円ぐらい?入場券。

宮野さん:ICOCAやから分からへん。

河上さん:せやけど、入場券分ぐらいは神社を御参りしたら出しましょうねっていうことです。余裕ない時は仕方ないで。でも余裕ある時はそれくらいは当然でしょって。普通はね、神さんに対して失礼や。駅入るのでも200円はいるわけや、例えばな。なら、200円ぐらいは出しいなっていうとこやねんけどな。そういう感じで、この命をお使行くださいって出したんやったら、ほんまに出さなあかん。ええ格好して言うただけではあかんの。その違和感やった。

宮野さん:ありがとうございます。

河上さん:「命」って言うからわからへんな。「1万円」って言うたら分かりやすい。

宮野さん:それと、この間の護摩で違和感があったのは、真剣と力みの違和感。真剣さで淡々と響いてるのと、力んで 一生懸命っていうの勘違いのような。

河上さん:力みというのはね、何があるか言うと、結果掴んでんね。自分の結果であってもいいし、相手の結果でもええけど、掴んだ時は力みになる。結果を掴まなかったら力みにならない。だから山登りでいつも説明するけどね、 早く登らなくちゃいけないという結果を掴んだら、全力で走ろうとすんね、不可能やのに。結果を掴まなくて、ただ登りましょうやったら、自分の精一杯でやって登りましょうやったら、淡々と登るから頂上まで着くやん。その違いです。

 結果を掴むか掴まないか。結果掴むということは、責めるということです。自分も責めるやん、結果掴んだら。「私、こんなんしかできへんわ」って、自分を責めるでしょ?で、そういう人に限って、人のことも責める。結果掴んだらそうなる。

宮野さん:それと同じように、「印可書」を読んでても、何か悲壮な感じの、響きがあるような感じの。それは結果を掴んだ祈り言葉であったからですか?

河上さん:そう、やっぱり無意識にどっかギブ.アンド.テイク入るんよね。「この苦しい状態、なんとかしてくれ」とかね。色々あると思う、その人によって。すると、そうなってくるね。せやけど、いつも言うようにね、どの状態でも神さまが1番良いようにしてんねんから、 身内が全部死んだって1番良いようになってんねんから、本当は。だから、その覚悟さえあったら掴まないし、力まないし、淡々といけます。

 本当はそうやねんで。3.11の津波でね、1人助かって家族みんな死ぬわけでしょ?結果で言うたら大変やけど、それが1番良いようになってるのがわからなあかん。大犠牲の姿、イエスが十字架に架かった形をね、 津波という形で示されただけで。



令和6年4月河上さん勉強会―4

河上さん:いいですか?

宮野さん:あと、護摩が終わった感じが分からない。この間も終わってないのに終わったような状態になりかけたんですが、その辺は…

河上さん:護摩の終わったのが、みんなが分かるようになってくれたら、僕はあっちへスッ
と帰れるねん(笑)早く分かるようになって欲しいだけで。

宮野さん:そんなこと言ったら帰らして貰えへんちゃうん?みんな分かっても分からへんって言うんちゃうん?(笑)

河上さん:そやけど、要は結果を掴まなかったら分かるんよ。例えばね、護摩の炎がこう変わるから終わりやんなとかね、空がこう変わるから終わりやとかね。雰囲気がこう変わるから終わりなんとかって、結果をまだ掴んでるね、みんなな。で、分からへんね。素直に神さまってお祈りしてたらスっと分かる。それはさっきの勉強の話でも一緒よ。こんだけ覚えないと駄目って思うから覚えられへん。でも、かじりかじりしてるだけでスッと繋がるの。そういうもんで、護摩の終わるのが分かろう分からんなんて思わずにね、只々、神さま神さまと思って印可書奉読してたらスっと分かる。そういうもんやね。で、それを伝授って言うね。だから理屈やないね。だから神書を理屈で理解したところで悟られへん。あるいは、印可書を理屈で理解したところでは悟られへん。

 最初の印可書の頃にね、選んで下さった方がいらっしゃって。今はもうこっち来られないですけど。ある方が選んで下さったんですけど、理屈で分かろうとしはった。だから、「真祈りの全体像(全体図)とは」から読んでね、全部覚えてしはってんけど、それで終わってん。それは理屈で分かろうとしはってん。読むだけで良いって言ってんのに。で、理屈で分かったから大丈夫と思いはってん。
 
 それで、結局、読むから理屈で分かったから悟らせてって、なんで理屈で分かったら駄目かと言うとね、理屈で分かったから悟れるやろって、ギブアンドテイクになってるね。厳しいもんやろう?もうギブアンドテイクになったらあかんけど。只々、神さまに全部投げ出して、神さまのお手伝いしますって投げ出して投げ出して、理屈を超えなあかんねん。だから伝授って言ってるね。

 だから真祈りに1級、2級、1段、2段、初段は無いね。分かる?悟るか悟れへんかだけであって、途中の段階は無いね。真祈りに段階つけようとした人もおったけどね。大きく色々と反対したから止まりましたけど。まあ今の虚の宗教団体はそうやね。マスターとかつくんやろ?段位が。そんなもんと違うね、お祈りというのは。神さまと自分だけのね、一体感だけやから。
 
 で、一体感に大、中、小は本当は無いの。自分が勝手に絞ってるだけよ。ちょっとだけ一体感があったとかね。本当はちょっとも糞もないんで。一体感になった途端に、もう無条件の喜び幸せになるだけ。要するに家族全員がパッと死んでもね、喜べるだけになる。それが全てやねんけどな。理屈で言うと、なんか引っかかるやろ?それだけ、それ位まだみんなね、自分と他人を分けてるし命を小さく分けて捉えてるの。

 だからウサギさんなんかはね、ウサギ族として一つの命を無条件に感じ取ってはるわけ。だからウサギさんを小さい狭い所に閉じ込めて飼っていても、ストレス溜まらへんのよ。草原を駆け回ってるウサギさんの感覚も全部同時に感じ取れてるから。それは鳥さんもそうやね。ニワトリさんでもね。あんなして閉じ込められてても卵産むやん。普通やったらストレスで死ななあかんねんけど、死ねへんやろ?それは鳥族として全体の感覚を共有してるの。で、悟りってそういうものです。すべての感覚を共有してるから、拗ね虫の感覚も共有してるから見捨てへん。分かる?

 先生が誰1人、残さず連れて来いというのはね、全部自分やから、拗ねてる子も、もういじけてる子も全部感覚は分かるの。分かるからするの。するねんって、連れて行くねんけどな。それが分けてる内は、自分とこだけ家族全部死んでどうやとかな、自分とこだけって入るわけよ。自分が入るね。入るうちは違うねん。自分は無いねん。あれがこうしてああなるねん。あれがああするねんやって。はい。

質問:よろしいですか。先ほどの、護摩がいつ終わったかという事なんですけれども。私も別に炎を見てるわけでも、空を見てるわけでも、空気を読んでるわけでもなくても、分からなくて。お二人がなんか目配せしてはるかな、護摩はまだアレやねんなって。(笑)アレやねんなっていうか、終わってないんちゃうかって思うぐらいで。これから来月の護摩にしても、これ護摩は終わったんかなとか、そういうことを考えずに、もう淡々と印可書奉読だけで、分かろうが分かるまいがアレなんでしょうか?それとも意識した方が…

河上さん:いや、だから、それまだ結果を気にしてるやん。分かるという(結果を)ね。

質問:そうですね。

河上さん:そんなん掴まんと、ただ印可書奉読してたら良いの。そのうちね、「あ、今。」
って分かるようになるね。そういうもんやね。だからさっき言ったようにね、英語の勉強と一緒よ。これを覚えなくちゃって言うから出来へんようなっていくね。覚えんでいいから、只々ニュースや会話で気になった言葉をね、スマホで出して、あ、こんな単語なんやだけで、放っといたらええねん。覚えようなんて思わんでええねんで。そしたら勝手に覚えていってるのと一緒で。護摩の終わったのもね、印可書を淡々と奉読したら、ある時、ハッ!て、あっ!て分かるようになるね。

質問:分かったらどうしたら良いですか?

河上さん:分かったら、みどりさんを見たらええねんや。そしたら合っててんなとか、間違っててんなとか。(笑)

質問:え?それで、どうしたら良いんですか?そんで、「終わりました。」とかそんなん勝手に言ったら…

河上さん:言わんでええって。みどりさん見たら分かるやん。お祈り止めてキョロキョロしてる時はもう終わってんねん。

質問:ああ、そうですか。終わったなって。あ、終わってるねんなって、あ、一緒やって。

河上さん:そうそう。答え合わせしたらええねん。

質問者:分かりました。

河上さん:第一、元々空気が読まれへんのに分かるわけないやん(爆笑)。

質問者:別に火を見ても分からへんし、空見ても飛行機雲やって言うしか…。分かりました。ありがとうございます。

宮野さん:すごいな。笑いの神降臨や。(笑)

河上さん:せやから、結果さえ掴まなかったら何でも出来るね、みんな。出来へん人というのは、みんな結果を掴むからよ。例えば彫刻家なんかね、例えば一本彫りとするやん。じゃあ、丸太から、こう、パーって刻んでいって像を作るわけでしょう?そんなもん結果を気にしてたら出来へんで?それくらいね、何でもそうやねんけど、結果を気にしてたら出来へんねんて。一生懸命やってたら何でも出来るねん。でも、みんな一生懸命の途中でね、こんだけ苦労してんねんからって結果を気にするんよ。それで崩れていく。別に苦労しても何しても神さま良いようにしてるってやってたら。そしたら必ず出来るようになっていく。何事もやで。別に護摩の終わる時だけじゃなくてね。

宮野さん:結果を気にするのが、力が入るということですね?

河上さん:そうそうそう。結果を気にしたら全部つまずいていくね。

宮野さん:その力が入ってるのを、自分はこんなに一生懸命やって、一生懸命やってるっていうのが勘違いなのね。

河上さん:そうそう、日本人の悪い癖でね。目的と手段をすぐ入れ替えるんよ。だからあの人は一生懸命やってるからええやんかと違うね。

 そうやね、一番分かりやすいのは、会社の残業よ。真面目にな、一生懸命仕事して残業時間を超さずに終わる人と、真面目にやってへんかやってるか別にしても、残業して一生懸命やってる人としたらね、残業して一生懸命やってる人の方が、よく努力してるって勘違いされるね。な?それ手段と目的が入れ替わってるやろ?ちゃんとな、分かる?

 日本人みんなそうやね、手段と目的を入れ替えてね、あんだけやってんねんからって言うねんけど違うって。結果が出えへんかったら意味ないねんって。その結果を出すのが目的として一生懸命やってるだけで。

 せやのに、そのね、だから村人で言うとね、山仕事、こんな大変な山仕事を一生懸命やってるから真祈りになってんねんっていう風な勘違いや。目的と手段が入れ替わってんねん。山仕事は神さまのお手伝いって決めて、一切文句言わずにやるから真祈りになる。真祈りになったら喧嘩は無い。自分が無いから。自分があるから喧嘩になる。だから、みんななかよしさんは要らんねん。単純にそれだけ。だから村を閉じるってなったんや。

 難しいことは言ってへんで?日本人はみんな、目的と手段を入れ替えてな、あんだけ一生懸命やってんねんから許したれやって言うねんけど違うやろって。一生懸命やって上手い事いかへんだったらどうするかって考えてね、組み替えていかなあかんのに、闇雲に、みんなそうよ、闇雲に祈ろうとするね。闇雲になんかしようとするね。いや、闇雲にやったってしゃあないって。しんどいだけやっていうのがな。分かれへん。はい。

質問:現実のその職場で、この頃すごく思うのが、頼ったらいけないって自分で思って。でも、それは何が何でも私が全部やらなきゃいけないのではなくて、

河上さん:そう。

質問:やっぱり、フワッとお祈りする中で、自然に適材適所で動けるのがベストっていうか。

河上さん:そう。やれるだけやったら良い。そうそう。

質問:ただ、必ずその時に適材適所に行くわけじゃないけど、それもOKで…。

河上さん:OKで、そう。

河上さん:でもやっぱり、つい、この頼らないと思うと、あれもこれもっていう風に…

河上さん:うん、まあそうや。やるだけやるねんで。それで、やるだけやったって、ボロクソに言われるのは一緒やって。そのままボロクソに言われるのはいつも覚悟の上や。

 そんなもん、みんな立場によってね、無理やと思っても言わざるを得ない立場の人もおるしね。もうそれぞれ仕方ない。ただ、現場としては精一杯やれることをやってたら良い。

質問:明らかに、いや、あなたそれ無理やっていうのを、無理にやってたりする時、さっきのお話もそうですけど、言ったら非効率的というか、そんなことじゃなくて他の得意な人がやればいいのっていうのを…

河上さん:それをね、目的と手段を入れ替えてね、いわゆる変に平等意識があるね。それで、みんな平等にあれこれさせなあかんってするねんけど。勿論、それは色んな体験させるのは大事やけどね。でも手段と目的が入れ替わるねんな、みんなな。だから変に悪平等になったり、あるわけ。

質問:だからやっぱり、残業してる人が、なんか善しみたいな雰囲気も漂うし…

河上さん:そうそう。

質問:でも、それって無駄違う?みたいなのがあったりして。

河上さん:違うけどね。そんなん別に理解して貰えんでいいね。真祈りして淡々とやっていったら良い。

質問者:はい、印可書を奉読します。ありがとうございます

河上さん:そうそう。もう本当そうよ。そんなん今の日本の社会でね、そんな分かれ言ったって、大概そうや、あんだけ一生懸命やってたんやから堪忍したれやっていうのがあるやん?違うやろって思うねんけどな。

 そういう空気が社会全体、日本全体を潰すね。本当はね。

 だから、あの戦争の悲劇があったんや。大本営発表でね、こんだけの戦果があったって言っても、みんなあんなん嘘やって分かってきてるのに。分かってきてるのに、日本が負けてるって誰もよう言わんと、負けてるやん。B29も飛んできてるし、おかしいやんこれってみんな分かってても、負けてるとよう言わんと、とうとうあそこまで原爆まで落とされることになってしまったんや。
 
 それはまだ真祈りが無かったからよ。今は真祈りがあるからね。そんな風にはならへん。ちゃんと水差せるって。日本語で「水を差す」って言うねんけどな。その場の雰囲気の空気を潰すのを「水を差す」って言うんだけど。水差す奴、水差す人はみんな弾かれるからな、いじめられるから、中々みんな、よう水差さへんねんけど。日本語は分かりやすいやろ?

 で、日本人がね、なんで真祈り出来るかと言ったら、日本語に既に入ってるのね。「お前、本心からそれ言ってるか?」って言うやん?要するに自分の本心が真(まこと)の神さまそのものって知ってるわけよ。その正しい自分の本心と照らし合わせて、「ほんまにお前は正しいと思うか?」って日本語で聞いてるやん?「お前本心から言ってるか?」ってな。それぐらい日本人って真祈りできるの。だから日本人が印可書を読んだら全世界変わるから大丈夫。な、本心から祈って。はい。

質問:もう一個すみません。かといって、それが自分が苦手だからっていって、無責任に最初から逃げるタイプの人もいるんですけど。それはそれでそれで違うやろっていう?

河上さん:それは勿論違うねんで。違うねんけど、もうそのズルい人はしゃあないね。ただ、ほんまね、これからズルい人は顔が腫れるから分かりやすくなるね。(笑)ちょっと腫れるぐらいやったら良いけど、ウワーって腫れて、外も表を歩けんくらい本当にズルい人は腫れるから。物凄い、そういう意味で潮目が変わった。厳しい。

質問者:はい。印可書奉読します。ありがとうございます。

河上さん:まあ、潮目が変わってね、神さまの本当の姿の出る時代になったからなんですけどね。それを人類が拒否するか、しないかという瀬戸際がこの7年ですね。みんながズルくなくなったら戦争なんて起これへんやん。

 自分にとって不都合でもね、手伝ってあげるし、助けてあげるしってなるよ。今は、例えば経済的に弱い国をね、援助しっぱなしになるわけでしょう?例えば。そしたら損やってなるわけや。その損やというマイナスがやっぱり積み重なって戦争になるの。

 もう色んな意味でな、もうその理屈抜きに損得抜きに、いつも言うように損得抜きにな、お互いがみんな、真(まこと)の神さまの命やからって言って、支え合わなあかんね。今は損得の入る時代やね。損得を入れたらマイナスが出来るね。マイナスができたら最後は戦争になるね。

 いや損得あるからやで?親子喧嘩でも兄弟喧嘩でも。どっちかが楽したいからな、喧嘩になるの。何でも損得抜きにやれたら真祈りよ。せやけど理屈で言うとね、「損得抜きやったら、なんでもやったらええねんな!」とは違うからな。その判別を印可書奉読して決めていかんならん。真祈りで決めていかんならん。
 
 だから真祈りが無いと、全部グチャグチャになるねんけど、今は印可書があるからなんとかなると思います。誰でもが真祈り出来る時代に、素直にできる時代になったんや。だから真祈りしてたら損得感情が出ない。自分と他人を分ける意識も出ない。

 例えば、お母さんと子供やったらね、子供のために無条件にしてあげるでしょう?あれが愛や。それを子供だけでなくすべてが自分って思えて、出来るようになっていくの。

 ただそれを、むやみやたらにね、例えばね、じゃあ自分持ってる100万円、全員に配ったら良いのかではないからね。それが真祈りが要るわけです。はい。

質問:先ほどの水を差すという話なんですけど。この間の水晶の事、やっぱりちょっと思い出しちゃって。私はその場にいたというか、その前に話を一緒に聞いてたので、心の中で印可書奉読してたんですけど、只々。でもやっぱり、なんかあのとき言ったら良かったのかなとか…

河上さん:いやいや、言わんでええ、言わんでええ。言ったって仕方ないよ。

質問:表面で言っても変わらない…

河上さん:うん。そういうエネルギーが溜まってる時はな、言ったって、どうしようもない。第一受け入れてくれへん。

質問:なんか奉読足りなかったかなとか?

河上さん:村にね、みんなの思いが集まるんよ、それを水晶玉に溜めて消してたのを潰されたでしょう?

 でまあ、もちろん1月からお正月からおまけを出さなくていいから、お清めもしなかったのもあるねんけど、お清めをしなかったら余計に水晶玉に溜まってて、余計汚いように思ったんかもしれんし、色々あるんやけど。どっちにしても、村人が一切真祈りしてなかったから溜まっていって。

 で、真祈りしてないから、その変な…何?思いというか話にね、スッと流れた。で、その流れたのをね、その流れたのは仕方ないとしても、信念を持ってするんやったら、まだええねんけど、言われたからした、ばっかりやねん。それが一番大変なことやってん。で、その大元のね、それを指示した連中は誰なんやということまで探る必要ないから。ただ、そんな言いなりになってるようでは、もう村は閉じるとなっただけです。

質問者:ありがとうございます。

河上さん:はい。

質問:前も同じような質問をしたかもしれないんですが、すいません、お許しください。それで、なんかそういうことがあると、みんなサーっと逃げるような感じになって、うやむやにして誰も責任取らずに、なんか日々が過ぎていって…

河上さん:ああそうよ。日本人は空気のせいにしてな無責任に逃げるねん。そうやで。それは別にここだけ違う、日本人みんなそうよ。その場の空気やったら、あんなん言われへんわってみんな言うやん。

質問:で、ちょっとさっきの話にまた戻るかもしれない、アメリカとかだったら、ちょっと待って?みたいな感じで、裁判とかできっちりやりましょうみたいな、きちんとそういう制度的になってるので。

 なんかもうちょっと本当のこと言ったら、例えばこんな言い方をして本当に私も失礼かもしれないんだけれども、その当事者の人が、例えば今日にでもここに来て、あの時はこうでした、ああでしたっていう風に、裁判じゃないんですけれども、なんかこう、きちんとコミュニケーションをとることで、うやむやにしてすっきりしないままモヤモヤしたまま…

河上さん:そんなん、来てよう言えへんって。

質問:ちょっとでも来てくれたら…

河上さん:そんなん来てよう言えへん。平成14,5年ぐらいの話ですけど、僕に何をしよったかっていうだけや。全部言うてもいいけどな。そんなん言わしてもしょうがないやん。本人はよう来えへんわ。

質問:でも例えば、私みたいな外野で申し訳ないんですけど、なんかやっぱりモヤモヤしたまま、なんか月日だけが流れていって、あの時に何かそういうことがあったけど、まあいいか、仕方ないよね、みたいな。なんか誰も責任取ろうとしないし。

河上さん:いや、だからそれはね、もうみんなの思いが村には溜まるから。それを消さなかったから、村人にみんな乗っかっていって、今回なっただけで。今回の事件が起こらなかったら、それぞれみんなが、癌とか色んな症状を起こして、それはそれで大変やってん。病気になる前に、何とかせんなんからね。病気になってからやったら、こっちが大変やから。ある意味、ええ事件やったんです。

質問:そしたら今回のことも、みんなやっぱり、なんやろ、ちょっとどっかで責任は取りたくないし、もうそうやって真祈りして終わりにしましょうっていう…

河上さん:いや責任取りたくないじゃなくてね。村に居てたらね、まあ言ったら生活保護受けてるような状態やんか?衣食住があるわけよ。

 ほんで下の社会で(普通の娑婆世界で生活している人だったら)会社でお勤めしてボロクソに言われてな、ボコンボコンに言われてなそれでも泣く泣く仕事しなくてはならないだけど、ここでは仕事せんでええね。安穏とやってるんよ。で、村人同士で喧嘩してるというのは、それくらい余裕があるということや。余裕が無かったら喧嘩してる暇はないぞ。それだけよ。

 せやけど、お清めする力が無い以上はしょうがないやん。でも、もう村を設立した目的がね、ズレてるから。手段と目的が入れ替わってきてるから、先生の予言通り先生の指示通りで閉めるっていうだけよ。

質問:すいません、私がこういうことを語る立場では全然ないのですけれども、何かちょっと、自分自身がまだやっぱりすっきりしていないところがあったので、質問させていただいたのですけど…

河上さん:すっきりせえへんのは仕方ないって。すっきりしてへんけどな。もうそんなんは、要するに原因がなんやって解明してもしゃあないやん。目的は真祈りすることよ。手段はどうでもええねん。目的は真祈りすることや。だから今回の原因がどうこうなんて究明する必要も無いねん。真祈りすることが目的や。そこを外したらあかんねん。

 村の設立も真祈りする人を作るための設立や。村人募集したのも、真祈り人を作るためにね、普段の仕事してて真祈りしにくい人は、ここへ来たら衣食住を安堵してやるから、ひたすら真祈りしなさいって言って村人を募集したんや。
 
 で、村人になる条件として、真(まこと)の神さまに弟子入りする。それを条件にしたんや。で、みんな弟子入りしたはずや。平成14、5年頃やけど、僕に向かって、真(まこと)の神さまの弟子入りとは、こうこうこうだって、みんなとうとうと言いはったよ。覚えてるか忘れてるかは知らんけど。こっちは覚えてる。

 それくらいね、真(まこと)の神さまに弟子入りするということは、自分の都合は一切捨てるということや。自分の家族は今すぐ全部津波で死んでも、一切文句言わない喜ぶというのが弟子入りや。一切の自分が無くなることが弟子入りや。自分が無くなったら喧嘩なんかあるか。何を言うか。なにが、みんななかよしさんや。何を悩んでるか。たったそれだけやのに。まだ抵抗するから、そしたらもう閉じなしゃあないなってなっただけよ。

 どうしたいのかというのをしつこく聞くんやけど、出て来えへんね。ということは誰かの指示通りでしか動いてない。ええ歳した人がね、自分の信念も、その自分のしたことに対してね、何も言えないはずがない。言えないということは誰かが指示したんや。それに頼ってどうこうしてるという事は真(まこと)の神さまに弟子入りしてないという事や。そしたら終わりや。別に難しいことは言ってないで。

 だから別にその原因を追究する必要はないし、その最初の原因を持ってきた人は、僕に面と向かってものはよう言わんでしょう。色々あったからな。それだけよ。
 
 だから、もう原因なんかどうでもええって。事件の結果は言ったやん。みんなが真祈りしてないことが分かったと。真祈りしてない以上は、村の設立の目的から外れてるから、村を閉じよという先生の指示通りで閉じますと。色んな話があってんけども、町田さんに、はっきり名前言うわ、「町田さんに松下先生が降り立ってる、私達はこの人に付いて行きます」という内容を誰も否定せんかってん。それは宗教団体や。真祈り人の集まりではない。そういう風に「宗教団体になった時は、速やかに閉じよ」という先生の厳命や!だから閉じる。すっきりした?先生の指示通りしてるだけやで。

質問者:ありがとうございます。

河上さん:じゃあ、お祈りして終わります。


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4月護摩 by 河上あきのぶ [Mail] 2024年04月17日(水) 19時53分
PC

4月護摩焚き河上さんのお話
 宇宙神ありがとうございます

 令和6年4月の護摩焚きで、皆さんからの質問に河上さんが答えてくださった内容です。ありがとうございます

司会者
 本日の質問は7件のきています。よろしくお願いいたします。

質問1
 「印可書の中で、子供達や初めての方に一言だけでも覚えるのでしたら、なんと唱えると良いですか?
また最近、背中が少し痛く丸まって歩く時があります。体操を教えてください。

河上さん
 ありがとうございます!また、お会いできてうれしく思います。

 印可書なんですけども、最初の冒頭だけです。「絶対の中心」もうそれだけでいいです。「絶対の中心」が全てです。だから「ありがとうございます」の十文字というのは、絶対の中心が展開していく時の表現で十文字になってるわけですね。本来は「絶対の中心」が全てなんです。だから「絶対の中心」を小さい子に教える時は「絶対の中心」だけ言わしたら大丈夫です。でも「ありがとうございます」をセットにしたら、もっとわかりやすいと思うんだよね。小さい子に「絶対の中心」って何?って言われたら、それは「ありがとうございます」よって言って教えてください。

 背中が丸まってると言うことなんですけども、これ肩甲骨を固めてしまってるんですね。それは、前にやったように8の字のと、もう一つは、肘を組んでですね、首を回していただく、ゆっくりとゆっくりとですよ。ゆっくりとできるだけ大きく回す。背中が丸まるというのは、肩甲骨のとこの筋肉が固まってるんですけど、それがちゃんと緩んで本来の姿になるとこの腕が直角にきます。僕もこないですけど。(司会者:直角っていうけど?)

 そうそう、うん、ここ(肘が胸のあたりまで)まできます。それが本来の、小さい子にやらしたら平気できゅっと。それが本来の状態ですから、そこまで緩めてしまうと大丈夫です。でももう丸まって固まってしまった場合は、それだけではちょっと追いつかないんですよ。中山式なんとかツボ押さえ器(中山式快癒器)みたいな、丸い玉のついたやつが売ってますから、それを背骨の両側に当てて順番に伸ばすということもされたらいいです。本当は、丸太を入れてガッと伸ばしたいんだけど、あんまり無理すると痛めるのでね。

 とりあえずは、お風呂入られた時に湯船の中で、これ(腕を腰に当てて、もう一方の手で肘を胸の方に向かって引っ張りながらゆっくり首を回す)をされるといいと思います。普段もちょっと暇あったら時間あったらするということでやってもらえたら、どの辺まで丸まってるかですけど治っていきます。今すでに立ってる時でも曲がってるのであれば、その中山式なんやったかなぁ?こう丸い玉ついたやつですけど。「中山式快癒器です」。あれ買ってきて、仰向けに寝て、それを当てると筋伸ばしができますので緩やかに、できるだけそれで伸ばして伸ばしてして下さい。一気に伸ばすと逆に痛めるので、ゆっくりと。

 例えば肩甲骨でなくて、この手のここの筋でも、どこでもそうなんですけど伸ばす時、あるいは前屈ですね。前屈で伸ばす時でも、ただグーッと下げるだけでは伸びないんですよ。杭打ちの要領ですね、グッグッグッっていうのがいるんです。無理するんじゃなくて、ちょっと痛いなっていう感じのことをされないと伸びないんですよ。せっかくなんで「ありがとうございます」の十文字入れて「あ」「り」「が」「と」「う」(「ご」「ざ」「い」「ま」「す」)と10回、例えば前屈でもされたらいいし、今のでも色々とされて。普段一番簡単にするのは、頭の後ろで手を組んでください、これが大事です。ちょっとの時は余裕があったら、手を組んでね、近所の人とおしゃべりする時でも、こう手を組んでこうしてください。すると肩甲骨がどんどん伸びます。

司会者
 はい、ありがとうございます

質問2
  護摩木を書く時、自分の知っている身近な人を思い浮かべながら書くことも良いことだと、以前に河上さんはおっしゃっていたと思います。なぜそれが良いことなのでしょうか?その相手の方の幸せに貢献することに繋がるのでしょうか?

河上さん
 はい、結局ね、この肉体を持って、この写し世に降りてきて、色々と喧嘩して、憎しみ合ってっていうか文句を言い合ってマイナスばっかり作るわけですけど、それは何が原因かというと自分と他人を分け隔てる心、これ虚栄心とか自分だけは正しいと思い込む心ですけども、それがあるからなんですね。その虚栄心を消せって言われてもなかなか「あ、消したらええんやなぁ」だけでよくわからないというのが本音の部分だと思うんですよ。

 それで、護摩木を書く時に先ず自分のために書くわけじゃないですか。書くというのは基本的にはね。だけど自分のためだけじゃなくてみんなのためっていうことで思い起こしながら、その人も一緒に自分の手を通して共に書いてると思って書くわけです。それをどんどん広げて全人類が共にこれを書いてるって広げていく。すると無意識のうちに自分と他人を隔てる意識が消えていくわけですよ。「みんなで一緒に書いてる」ということでね。すると自分と他人を分け隔てる意識が消えるから、すると「あの人より私の方が優れてる」とか「あの人より私の方が劣ってる」とか「私のほうがきれい」とか色々ありますけど、そういう意識が消えて「全ては完璧な一つ」、「みんな真(まこと)の神さま」ってもっていけるのでお願いしています。ありがとうございます

質問3
 神書の409ページに「自分だけの幸せを祈るよりも、みんなの幸せを祈るほうがその祈りの効果ははるかに大きいのです。」と書かれています。私は時々「無限の無限の幸せが一杯!」という祈り言葉を繰り返し唱えることがありますが、祈り言葉としては、これに「みんな」をつけて「みんな無限の無限の幸せが一杯!」と唱えたほうが良いのでしょうか?

河上さん
 自分の気の済むようにどちらでもいいんですけど。「無限」というのは、すべてやから「みんな」という言葉が含まれてるわけです。でも自分の中で「無限」が「みんな」と含まれてないんだったら「みんな」をつけたらいいです。別に良い悪いではなくて「無限」という言葉の捉え方が人によって様々ですから、「みんな」って付けた方がすっきりする人はつけられたらいいと思います。その神書の409ページこそ、今さっき最初にお答えした内容と重なってます。ありがとうございます

質問4
 「宇宙神ありがとうございます」 神書を読みたいという友人数人に神書を渡しています。みんな難しいと言います。私も理解はできず、河上さんに質問して少しづつ私なりに理解しているつもりです。これからまだ渡したい人もいますが、神書の学びはどのようにすればよいのでしょうか?

河上さん
 これはどんどん質問して下さい。神書は先生がわざとわかりにくく書かれたのです。それはなぜかというとその神書の書かれた文章に引っかかるじゃないですか。引っかかって聞く時に初めて伝授が起こるんです。そのために先生は、ああいうふうに書かれたんだけど、誰も先生に聞きに行かないのね。なぜかと言うと虚栄心があったから。先生に聞きに行くと「あゝ、あの人わかってへんから聞きに行ってるんだ」って思われるのが嫌で、個人的に聞きに行くことができない時代じゃないですか。先生と何十人、50人とか100人近い方との勉強会の時しか聞けないでしょう。そしたら、注目が集まってる中で聞きに行くというのは、なんか自分が全然わかってないような気がして、恥ずかしくて聞けないというのがあって聞かなかったんですけど。本当は、聞けば聞いた人にだけに伝授があったの。ここがそのわかります?虚栄心も忘れて(時分が消えて)必死でひたむきに聞くという時に心が開いてるの。だから伝授ができたの。

 伝授って何かというと理屈の説明じゃなくて、理屈抜きに相手の心に本心の響きを叩き込むんですよ。それが伝授なんです。だから伝授の部分というのは、不立文字(ふりゅうもんじ)と言うんですけども禅宗でね。禅宗で不立文字というんですけど、言葉言い表せないものだったの。だから「仏とはこれなんなり糞かきべらなり、糞かきべらこれ仏なり」要するにトイレットペーパーが仏だとか水が仏だとか、その時によって答えが変わるのは、言葉に表しようのないものなわけですね。「みんな真(まこと)の神さま」って言葉に表したら理屈ではわかるけど「あゝそうやなぁ」で終わるわけ。でも神書の内容を質問して聞けば直接グッと入るようにされてたんですけど誰も聞きに行かなかったわけです。あと7年僕(河上さん)生きてますから、この7年のうちにわからないことはどんどん聞いて下さい。それにお答えする録音を聞くだけで皆さんがわかるようにしておきますから、お願いいたします。ありがとうございます

質問5
 3月21日に東京で地震がありましたが、これはお話のあった今年震度7クラスの地震が3回起こりますと言われてました時の2回目で、3月の勉強会で言われました。真祈り人が東京で真祈りしてくれたら、震度7が6、5スローステップに代わっていきますから、真祈りで震度5に収まったと解釈してよろしいですか?

河上さん
 はい、その通りです。皆さん、真祈り人は命をかけて頑張ってくださってます。どこに逃げたらいいんじゃなくて、そこにとどまって皆さん祈りってくださってます。はい、その通りです。

質問6
 今回の村の問題は、掲示板(水晶事件の顛末のことです)では、しばらく様子を見るということでした。河上さんがおられたので良い方向に進んでいますが、もしおられなかったらどうなったかと思います。個人の自由意思が尊重されるのは良いですが、正しい方向に進むようにしっかりと舵取りをする、審神者(サニワ)の役目をする方がいないと、Tさんのような偽物の方向へ導かれてしまうのではないでしょうか?皆さん印可書を奉読されて、もう少しで全員が悟れるところまで来ているのに、とんだ邪魔が入ってしまいました。私たちは、ただひたすらに祈ればいいのでしょうか?

河上さん
 はい、ただひたすらに「印可書を奉読」していただけたら大丈夫です。その審神者(サニワ)という人を一人作って、その人について行ったらいいんだってしてしまうとみんなお祈りしなくなるの。最初に先生亡くなられた時にお話したように、皆さんお一人おひとりに松下先生が降り立ってくださって、真祈りの伝授してくださってるの。それは今も続いています。それを1月の護摩のお話で言いましたけど、いつも滝のように降り注いでるわけです。それをちょっと手を出して「ああ冷たい」というか、全部受け取るかは皆さんの自由意志になってるわけです。

 それで、「印可書を淡々と奉読」したら全部受け取れます。受け取れたら、受け取れたら、全員が審神者(サニワ)ができてるわけです。そしたら、もう何も起こりません。ともかく、いつも言うように、ここは宗教団体じゃないので、宗教団体というのは、掲示板に書きましたけど、もう松下先生は「素晴らしい、素晴らしい」って上げておいてね。それの後継者のこの人も「素晴らしい、素晴らしい」って言うてね、自分らは真祈りせずに、全部その人の責任して、ただ、その人の言う通りにしていったらいいんだわーみたいな。実際はしないんですよ、みんな。そんなこと言う人に限って、その人に聞いたから言ってしないんだけど、でも、そういうふうに言って、楽に逃げちゃうんですね。それが、虚の世界の宗教団体。でも、今までは、その虚の世界の宗教団体ですら必要なくらい神さまと思う人が少なかったわけです。神さまと思う人が少ないから、どんな方言を使ってでも、ちょっとでも神さまと思わしたいから、その教祖を作って運動したわけですけど。今はそんな、なんて言うんですか。もうその宗教臭い、ままごとをしてる暇、余裕はもうないんですよ。

 皆さんが真祈り人として、松下先生として、真(まこと)の神さまとして働かれる時代になったわけです。それを色々あるわけですけども。あの水晶は、先生がいわゆるお釈迦様の仏舎利に匹敵する状態ということで 作ってくださいました。今もその先生の、先生そのものとして、あの水晶の存在はあります。でも、今言いましたように、だからといってそれに頼るんじゃなくて、みんなが真祈りするようになっていったらいいわけ。でも、みんなの真祈りが拙(つたな)い間は、あの水晶玉を使って、そのみんなのいろんな不平不満を、あそこへ入れといて、後お前がいった時にどんどん消しとけということでしてたわけですけど。

 今年の最初のお正月の時に、もうおまけを出さなくていいって言われてますし、逆に言うと、皆さんお一人おひとりの真祈りで持っていく時代になったということです。水晶玉に頼っている時代ではないということで、なんていうんですか。いつも言うんですけど、済んだことはどうでもいいのね。だって済んだこと、今更どうしようもない。これからどうするかだけです。だから、これをきっかけにもう水晶玉に頼ることはやめて、一応頼らないように水晶玉の役目を隠したままきたわけですけど、本当にあの状態になったので今は頼れないのでね。

 ただ、真(まこと)の神さま、地球霊王さまの体のおすがたの模型としては残しましたけども、後は、もう皆さんお一人おひとりが真祈り人として働かれる時代です。いつも言うように、その大きな音を出せる人、あるいはトライアングルのチーンとしか出せない人。要するに耳かきの働きもスコップの働きも全部必要なんだというのをわかってください。だから、私の拙い真祈りじゃなくて、私の真祈りで初めて耳クソが取れるんだ。スコップでは耳クソを取れないんです。どの働きも一緒なんだということをわかってね。私なんてと思わずに皆さん、天の岩戸開きの神聖行事というんですけど、真祈りの神さまのお手伝いに参加してください。よろしくお願いします。ありがとうございます

質問7
 水晶玉の台座を作って下さり、ありがとうございます 3月護摩焚きから色々ありましたが、大事な事は河上さんが3月の勉強会で言われているように、これからどうするかだと思います。

 @真(まこと)の神さまだけに心を向け、真祈り、「印可書」「宇宙神ありがとうございます」を徹底して祈る。護摩焚きに再結集し、さらに力強く進める。これしかないと思います。

 A水晶玉の台座が無くなった事によって、大地震及び大津波が起こるように言われていました。最近、隣国の台湾で地震がありましたが、国内では数度の比較的小さい地震で済んでいます。これは、村の掲示板に誰かの書き込みもありましたが、今回、色々あった事で、皆が真剣に祈った事によるのでしょうか?

 Bあちらの世界の護摩焚きは、午前2時から始まるとお聞きしました。9時頃にこちらの護摩に引き継がれるそうですが、その前後、印可書、神書以外の話しをするとあちらの護摩焚きの邪魔になるとお聞きしました。又、以前あちらの世界の全階層の人は、この肉体界を見ているとお聞きしています。特に護摩焚きは特別な思いで見ておられるように思います。そういう時に、あちらの護摩焚きの邪魔をする事は絶対にしてはならないと思います。護摩焚きに参加する全ての人が謙虚に、真(まこと)の神さまだけに心を向けて、神さまのご御用に使って頂く気持ちを持って臨むことが大事かなと思います。質問ですが、あちらの世界の護摩焚きもここでやられているのでしょうか?それとも時空を超えて全大宇宙規模で行われているのでしょうか?お願いします。

河上さん
 時空を超えて全大宇宙規模で、護摩は行われていますけども、その起動スイッチは、ここの会場になるんですよ。だから、ここの会場がすごく大事で、そのためにいろいろと今回も大変だったわけですけども。その、どういうことかというと、向こうの世界は同じことの繰り返しなんですよ。だから怒る人は怒る人ばっかり集まって怒ってるばっかり。もう泣く人は泣く人ばっかり集まって泣いてるばっかりで、こちらで言うと、同じビデオ、DVDを映画を繰り返し見てる状態なんです。だから自分のいてる世界に飽き飽きしてるんだけど、その真(まこと)の神さまを思い切れないから抜け出せないの。それで、この地上界はいろんな魂の人が肉体を持って降りてますから、いろんなDVDがあるわけですよ、まあいえば。お一人おひとりがそれぞれの人生という、運命というか生活を作ってるじゃないですか。だから、それぞれの縁のある人はそれぞれ縁のある体を通してですね、いろんな人生体験を楽しんでおられるわけですよ。向こうから見ると、肉体を通してDVDで映画見てる感じなんですね。それだけなんですよ。

 だから、こちらで護摩という真(まこと)の神さまだけ思うというスイッチを起動させると、向こう、全世界に全宇宙にその真(まこと)の神さまだけっていうて響き渡っていくわけですね。それが、この現世というのは、いつもそうなんですけども、肉体的、物質的に具体的に現れる前からいろんなものが動いてるわけですよ。それが、午前2時からのスタートなんです。それが、いよいよこの9時に引き継いで、この実際の護摩木を燃やすとか、いろんな行為に具体的な形になるじゃないですか。それで完結していくわけです。その引き継ぎのとこで、そのちょっと雑談する程度ね、「ああ、お久しぶり」とかいうのはいいんですよ。でも、その真(まこと)の神さま以外の話をされると、すごく邪魔になる、それだけなの。どうしてもお話したい方は、2時、1時半ぐらいから、ここに来られてお話されたら、それは、大丈夫です、スタート前だから。でも、この9時頃というのは一番ややこしい大切な時なので、できたらやめていただきたいということをいろいろ通して言うんだけど伝わらないので、ここまできてますけどね。

 いろんな意味で護摩が、皆さんが思ってるよりすごく大切な、すごいことなんです。「真祈りにそんなん言ったって、私、全然真祈りできないわ」という方でも、護摩木を作る、いつも言うようにね。護摩木を作る。護摩木のお金を出す。護摩に参加する。護摩木を書く。その全てが真祈りの代わりとするよという先生の大おまけなんですよ。

 この大おまけは後7年は絶対続きます。ですから、その間にね、もう全然お祈りすること自信なかったら、ぜひ護摩に参加し続けてください。そしたらお祈りってわかってきます。お祈りというのは理屈で言えばね、例えば「ありがとうございます」だけを唱え続けることだとか、「宇宙神ありがとうございます」を唱える事だとか「印可書を奉読する」ことだという理屈で言えばそれだけですよ。でも、それでは伝わらないのね。伝授というのはそういう部分じゃないんですよ。もう、こっちで音叉を鳴らすとこの世でもそうですけど、こっち音叉鳴らすと同じ、こっちの音叉が勝手に鳴るじゃないですか。そういう感じで響き渡らせるもので理屈ではないんです。

 だから、それの例えば印可書を選べない人でも、護摩に来ていただいたら響かせれるよということで、護摩を先生は残してくださった。本当は全員が印可書を選べるんだったら護摩はいらなかったんですけど、印可書をどうしても選べないという人がいるのは、先生はもうおわかりで、だから護摩を。護摩にも参加できない人は、せめて護摩木を作れとかね。護摩のお金を出せとかっていろいろと先生は言っていてくださったわけです。それは録音にも残ってますし、本にも書いていただいたのもあるんですけども、村のホームページの護摩の説明のところには無いわけですね。だから、その部分で不安なまま、ずーっと来てますけども、ここまで盛大に皆さん集まってやっていただいてるので、あんまり心配はしていません。

 最初の質問の方を忘れちゃった。

 いろんな大地震ありましたけども、それは皆さんの真祈りで、あの程度で済んでるわけですね。台湾の地震は、本当に必要で起こしました。あれは起こしたんです。もうあれがないともっと大変なことがあったんです。それは何が大変かは言えませんけども。3,11の時もそうなんです。あそこの大津波が、ああゆう全世界に報道されるくらい大変なことがないと、もっと大変なことがあったんで、ありました。台湾のもそうです。次、やっぱり能登の時もやっぱりそうなんです。もっと大変なことがあるところをあれで止めました。それが後、日本で後2回、7クラスであります。それは今年からこの3年間にかけてなんですけども、もう真祈りが足らなかったら今年に連続してくるだけですね。そういう感じになってます。

 だから、どんな時も一番にいいようになってるというのだけは、この絶対の信だけは持ってください。どんなに悲惨に見えても一番いいようになってるんだという、そこがいるんですよ。それはちょうど、この世は映画なんですね。みんなが自分の心でシナリオを書いて作っただけなので、映画ってそうでしょう。面白おかしく、例えば「おしん」の不幸な物語でも書いて、悲しんで楽しむ。喜んで楽しむ、怖がって楽しむじゃないですか。そういう感じだけのもんなんですね。でもそれを、あんまりひどくならないように神さまが修正してくださってるというのが本当の事です。

 でもそれをもっと、神さまだけに押し付けるんじゃなくて、みんなが真祈りして、やっていこうというのは、先生と地球霊王さまとの約束なんです。地球霊王さまのことは、もう55年ぐらい前の話になりますけども、もう人類は原水爆を持って、もうどうしようもないから、今回の人類のものはもう一旦ご破算にするということだったわけです。先生が「もうちょっと待ってください。みんなの真祈りで、人類の方で真祈りして、ちゃんとしますから」という約束でここまで来てます。やっと皆さんが真祈りしてくださるところまでこぎつけたわけです。後は、この真祈り人がある一定の数になった途端に全世界に広がりますから、いらない事を考えずに「淡々と印可書を奉読」しててください。

 次3番、3番は言ったね。これで全部ですね。はい。

司会者
 はい。ありがとうございます 前もっての質問はこれで終わります。会場の方で質問のある方は、こちらの方までお越しください。ないでしょうか?会場からの質問はありませんでした。河上さんお願いします。

河上さん
 ありがとうございます 今年から新年早々、先生が、もうおまけを出さなくて良いって、みんなの真祈りに任そうということになりましたので、色んなものが起こりました。それはその、村という中心に、みんなの思いがやっぱり集まるんですよ。村をみんな心の支えというか頼りにしてますから、集まってくるんですね。先生がいらっしゃれば、先生がすべてをそれを消していらっしゃったわけですけども、それが無くなったので、お前が代わりにおまけを出しとけということできたわけですね。

 今年は、もう(おまけを)出さんで良いということで、止めてみた途端に大変になってきたわけですけども。ある意味、皆さんの真祈りで支えていくんだという、一つのきっかけだと思うんですね。今までは、こっちでおまけしてを出して消してるんだということも言わないし、なんとなくこう皆さん来られたと思うんですね。これからは、もう不平不満が出ても、みんなの自分の真祈りで全部、全部消していくんだっていうね。お清めというのは、「印可書奉読」したら自信があるないに関わらず、お清めになります。これだけは覚えておいてください。

 「宇宙神ありがとうございます」は、本当に色んな思いを「宇宙神ありがとうございます」の中に込めて包み込んで、神さまは、まあ人間でもそうですけど、例えばゴミを出されたって嬉しくないじゃないですか。綺麗なものを出されたら嬉しいでしょう。「印可書」は人間のマイナスの思いというゴミを、「印可書」というプラスの紙に包んでスッと持っていけるので楽なんですよ。「宇宙神ありがとうございます」というのは光が強い。「印可書」は、弱い光から強い光まで順番に入れてあるので包み込めるわけ。でも、「宇宙神ありがとうございます」はちょっと強い弱いを作ってあるんですけど、「ありがとうございます」なんかは最初から強い光だけなんですよ。その中に色んな自分のマイナスの思いを入れかねるんですね。

 だから逆に言うと、「ありがとうございます」って、いくら祈ってても何も変わらないとかね。「宇宙神ありがとうございます」と祈っても全然心がすっきりしないっていうのは、入れかねて弾かれてるわけですよ。だから自分が「宇宙神ありがとうございます」と言った途端に、自分のマイナスが弾かれて余計感じるみたいな感じで、選び取れないので「印可書」を作っていただいたんですけども。

 でも、どうしても印可書が嫌だという人は、頑張って護摩木を書くか作るか、護摩に参加するか、もしくは「宇宙神ありがとうございます」か「ありがとうございます」に、自分の不平不満をうまく包み込んで祈ってください。それはなかなか大変ですけども、それを選ぶ人は頑張ってやっていただくしかないですね。そういう感じのものなんですよ。皆さんが真祈り人に簡単になれるように、「印可書」を作ってもらいました。だから、「印可書」の冒頭に、「真祈りの全体像(全体図)とは」と先生が書いてくださったわけですよ。僕が書いたん違うよ、先生が書いてくださった。「真祈りの秘奥義を伝授するための印可書」って書いて、あとカッコ( )して「真祈りの全体像(全体図)とは」って書いてくださったわけです。

 そしたら、真祈りしたいって願ってる人は、それを見ただけでもね、「これや!」って僕は思った。でも、なんで弾くの?なんで嫌だって言うの?っていうのは素朴な疑問ですね。真祈りしたいと願うんだったら、先生が「真祈りの全体像(全体図)とは」って書いてくださってるのを読めば良いじゃない。なんで読めないの?っていうものなんですけど。あんまりややこしいこと言ってても仕方ないので。好きな方法で、神さまの中にすべてをお返しする、これを恩返しっていうわけですけどね。「絶対の恩返し」っていうんですけども。「絶対の感謝」とか「絶対奉仕」とか、どの言葉も一緒ですけども。神さまの中に、なぜ神さまの中に投げ返さなくちゃいけないかというと、すべては神さまの生命で始まってるんです。それを人間の方で適当にシナリオを書いてマイナスにしたりするわけですよ。

 まあ言えば、小さい子が真っ白な紙を無色透明の光と例えますとね、小さい子が紙に字を書き殴ったとか絵を書き殴った感じですよ、この世の人間の思いで作った運命というのはね。書き殴ったものは、クシャクシャと丸めて捨てるんですよ、この世では。でも、神さまの世界では、元々神さまの生命ですから、書き損じたものでも神さまにお返しなくちゃいけないわけ。それを恩返しって言うんですよ。

 神さまにお返ししないから、溜まっていって爆発して戦争になるの、最後は。戦争になる手前は何かと言ったら、会社の中で派閥争いとか、家庭の中で親子喧嘩とかきょうだい喧嘩とか、学校の中のいじめがあるじゃないですか。あれが、その小さい争いですよ。そういう争いが、どんどんどんどん溜まっていって、神さまに返さないからね。それで、戦争になっちゃうということです。だから、真祈りして神さまにすべてをお返ししていけば、それがお清めですから、すべては自然に収まっていくんですよ。

 だから、例えばウクライナの戦争でも、みんな自分には関係ないと思ってるの。悪いのはプーチンと、あれで喧嘩してるだけやみたいにしか、余所事(よそごと)のように思ってるんですけど、そうじゃないんです。皆さんが思った色んな不平不満、「あいつサボってるな」、「あいつズルいな」、色々ありますよね。それが溜まっていっただけなの。どれもこれも自分の責任であることには違いないんですよ。ただ神さまは、プラスのものは比較的早く現わしてくださるんです。でも、マイナスのものは、出来るだけ途中でお祈りして、思い返して消して欲しいから、すぐに現わさないように法則的に作られたんです。

 だから、それが逆に、すぐに現れないから自分と関係ないと思っちゃうんですよ。だから、皆さんの人生で、すごい不運なことが起こるじゃないですか。事故があったり色んなことがあると思うんですけど、それ自分のせいだと思わないでしょう?でも、本当は自分が昔に作ったマイナスが、やっと時間遅れて出てきただけなのね。せやけど、その時間遅れて出てきた、時間が遅れるからこそ本当に今、「印可書を奉読」されて真祈りされたら、現れずに消えていくばっかりなんですね。それだけです。

 だから、もうこれからは、水晶玉に頼れませんから。皆さんお一人お一人が、松下先生として真(まこと)の神さまとしてね、真祈りをされて、人類の運命をすべて清めていくんだって、その覚悟を今月は最初に持っていただいて、あと2039年までずっといろんな山あり谷ありですけども、頑張っていきたいと思います。

 はい。え?あと何年て?計算してみて、2039年から24引いたらしまい(笑)。だから、なんて言うんですか、真祈り人が増えれば、もっと早く終わります。でも今の状態だったら、2039年あたりまでフラフラしてます。本当は、あと7年で仕上げたいんです、正直なところ。僕の生きている間になんとかしたいというのは僕の勝手な願いです。でも、もし7年後にうまくいってなくてもね、2039年までを目処に、皆さんがお祈りしていただいたら、そこまでは地球は滅びるとこまでいきませんので、なんとかなります、ということです。だから、出来たらあと7年で仕上げましょうということで。また来月お会い出来ることを楽しみにしています。ありがとうございます

 音声はこちらからどうぞ
 https://youtu.be/0uMaeYmtA5s

 宇宙神ありがとうございます

じょうし


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4月光の交流会 by 河上彰延 2024年04月11日(木) 12時45分
PC

令和6年4月光の交流会
 宇宙神ありがとうございます

 令和6年4月光の交流会で皆さんに2012年11月10日先生のお話を聴いていただきました。
 
◎一大循環の相象(すがた)は、真(まこと)の神さまの愛のプレゼント、受け方によってすべては決まる。

 真(まこと)の神さまの愛のプレゼントは一大循環の相象(すがた)で厳然と降り注いでる。だから、それをいかに受けるかによって、一人ひとりの「これが自分」また、「これが自分の世界」、「これが自分の運命」って決まる。でも、この見方は、まだ虚の世界の思いの自分の見方なの。言葉通りに受けられると言っても、真(まこと)のプラスの言葉をしっかりと駆使できたら、神さまのプレゼント受けられるよ、一大循環の相象(すがた)を観じ取れる。でも、普通のプラスの言葉だったら、虚の世界になる。マイナスの言葉だったら、もっと低い世界になってしまう。

 マイナスの言葉は、黒い煙みたいなもの。太陽が輝いてるけど、黒い煙を一杯出したら太陽見えなくなる、隠れてしまう。プラスが見えなくなる。虚の世界のプラスの言葉って言っても、これも煙よ、白い煙よ。白い煙が一杯上がって、これも太陽を隠す、直接見えなくなる。暗くはならないけど、太陽そのものは見えなくなる、隠されていく。

 真(まこと)のプラスの言葉だけが光の言葉よ。黒い煙でも白煙でもない、光の言葉だから、太陽のような光源を隠さない。だから、直接太陽の光浴びられる。これは、虚の世界から見て、思いの世界から見て、受ける生き方。受けるだけでは、どうしても小さくなるの。太陽の光全部受けられるかって、受けるだけっていうのは受けてない。本当に無限分の一よ、太陽の放射している光の無限分の一、自分に来た光を受けているの。

 だから、真(まこと)のプラスの言葉を駆使して、一生懸命受けようとしても小さいの。これでは本当の幸せから程遠い。今日はみんなのために別の話が出てくるのよ。受ける話じゃないの今度は、人間が人が本当の自由意志を与えられてるのは、受け方の自由じゃない、与える自由。どれだけ大勢にどれだけ大きい幸せを与えていくかって。与える自由がみんな違う。どれだけ大きくでも与えられる。 どれだけまた小さくでもいいの。それはその一人ひとりの自由なの。受ける自由ではなしに与える自由が違うだけの、自由の発揮っていうのが。

◎真(まこと)の神さまのお手伝いに生きる

 真(まこと)の神さまは、常に一大循環の相象(すがた)で最高のものを与え続けるの、そのお手伝いよ。神さまの助けを受けるんじゃない、お手伝いに生きようという気持ちが、やっぱり大事になってくる。神さまの側に立つ。神さまのお手伝いに生きる。だから、悟りを求めて、どれだけ難行苦行して真剣に修行しても、この悟りは偽物なの。神さまから離れたものが、どれだけ神さまに近づいても、神さまとは一体化しない。いつまでたっても本物にならない、悟りじゃないの。離れたものは、くっつけてもダメ。

◎本当の悟りとは?

 本当の悟りは、真(まこと)の神さまが一大循環の相象(すがた)で現れてくる。それを受け取らないとダメよ。真(まこと)の神さまが真(まこと)の自分っていうふうに、受けた時が元から悟った自分になる。これでないと、本当の悟りじゃない。

◎悟りの浅い深いの違い

 だから、一瞬一瞬の新たな受け直しによって、どれだけ真(まこと)の神さまを大きく受け取れるかよ。観じ取れるか。これが、その悟りの浅い深いの違い。だから、一瞬一瞬、新たな受け直しよ。でも、この新たな受け直しは、受け取ったらダメなの。受け取ったら掴んでしまう。それを全部離すのに、また時間がかかる。全部離してもまた新たに受け直すその時間が邪魔してる。だから、受け続けるわけにいかないの。求めて受けようとするのは。だから、この循環を絶対止めたらダメ。一瞬でも止めたらダメなの。

◎与える側に立つとは?

 そのためには、やっぱり与える側に立たないと神さまと同じように絶対の中心から、無限のスピードで、最高の与え方をずーっとし続ける。その神さまの一大循環の愛の働きと一つになっていく。神さまも側に立つっていうね。そうすると、大きく与えようとする人に大きく、神さまの無限力、愛の働きが流れ込んでくる。小さく、末端で小さく与えようという人には、そのそれに必要なものが流れ込んでくる。

◎一大循環の相象(すがた)の本当の意味

 だから、真(まこと)の神さまの助け、常に後ろからの後押しよ、応援よ。人の自由意思を尊重して、その人の自由意思に応えて、必要なだけを与えてくる。これが、この一大循環の相象(すがた)の本当の意味よ。みんな与えてもらって喜ぶ世界じゃないのよ。与え合いの世界、支え合いの世界になっている。末端に置かれてる人も同じなのよ。小さく与えてるのよ。小さく支えてる。受けようとしてない真実の世界のすがたは。与えるだけの世界、 支えるだけの世界なの。与えるだけ、支え合いのすがたが全体が大きく調和している。一大調和のすがたを取る。常に全体が一つになっている。

◎本当の自分の生き方→光源の立場に立って・・・・(印可書の奉読)

 だから、神さまのこの愛をどれだけ深く大きく観じ取るか?大きく与えるほど、大きく流れ込んでくるから観じる、大きく観じる。だから、与える対象を大きく広げないとダメ。だから、絶対の中心にどれだけ自分がこう近づくかよ。与えることによって、後ろから後ろから、自分の後ろから後押しして、応援してくれて、必要なものを一杯与えてくる。それによって自分が大きくなる。ただ今、自分の見ている世界で、光源から幸せ一杯浴びようとしても、無限分の一。でも、自分の見てる世界全体に、光源の立場に立ってプラスのものを幸せを与えるとしたら無限倍になる。だから、常に与える側に立って、神さまの後押しを受けたらいいの。そしたら、常に無限倍になった入れ子構造的に一段上へ上がる自分よ。それを繰り返すと入れ子構造的に大きな自分に、どんどんどんどん戻っていく。絶対の中心へどこまでも近づく。そしたら、無条件の幸せって、いつも湧き上がる自分。これが本当の本心の自分の生き方よ。

◎求める心の落とし穴

 ちょっと油断すると、でも、思いの心が、やっぱり絡んでくるの。思いの心は我の心よ。我の心は、どうしても求める心になる。求めたら受けようとする。どうしても小さくなる。だから、思いを全部消さないと我を一切の我を全部消してもらわないとダメ。だから、循環を早くする生き方、循環を妨げない生き方が一番最短コース。黒い煙でも一杯出して循環しなかったら、風が吹かなかったら、そこへ一杯溜まるよ。溜まったら、もう一面真っ暗闇になるよ。風が吹いて流れたら、ちょっと、そうでしょう、煙が消えていくよ。

◎一大循環の中へ

 だから、循環の中へ早く置かないとダメよ。黒い煙でも、白い煙でも循環の中へ置いたら早く消える。この循環を早くする方法、一つだけよ。ありがとうございますって真(まこと)の神さまを呼ぶだけよ。ありがとうございますは、真(まこと)の神さまの名前、真(まこと)の神さまの働き、真(まこと)の神さまそのものよ。ありがとうございます呼ぶことが、一大循環の無限のスピードの流れを呼ぶことになる。そしたら、マイナスの言葉の黒い煙もすーっと消えていくよ。これが一番の最短コースになる。だから、本当の自分、本心の自分。常に神さまを呼び続けないと。そして、神さまの側に立たないと与える側に立たないと、どうしても循環止めたらダメだから、与える側に立ち切って、そして後押しを受けたらいいの。

◎本当の神さまのお手伝いとは

 だから、神さまの手伝いって言うけど、「この命、神さま捧げます」って言っても、どうしたらいいかって普通、具体的に何もわからない。何をしたらいいか?でも、神さまの側に立ったら、立ったらわかるの。与える側に立ったらわかる。神さまの その助けが流れ入るから、神さまの心が流れ自分の心になるから、神さまのこの自覚が、自分の自覚として湧き上がるからよ。神さまのしたいことがよくわかる。知恵も力も湧いてくる、自然にすーっと湧いてくる。そしたら、自然にすることが神さまの願ってる働きになって、本当のお手伝いになっていく。これ自然になるのよ。

◎自分がしているは、神さまの邪魔をしている

 だから、「自分が」「自分が」ってしてることは本当は全部間違いよ。「自分が」っていう「自分が」するのは、みんなマイナスなの。神さまの助けを邪魔してるかもしれない。自分が消えないと本当に「100%神さまのお陰です」って言えないとダメよ。

 「何から何まで全て、一から無限まで全て、100%全て神さまの働きだけ!神さまのお陰です」って言えないと。これはもう、本当の全託ができないと。

 ありがとうございますは、本当の全託の行よ。もう一瞬一瞬ありがとうございますで任せ切って、100パーセント任せ切って、もう神さまの働きだけに任せるの。そしたら、一大循環の相象(すがた)となって、「真(まこと)の神さまは真(まこと)の自分」「一大循環の相象(すがた)となって、厳然と今此処に」っていうふうに本当の自分が出てくる。その時に自分が何をさせてもらうかよ。何をみんなに与え尽くしていくのがいいか?何を与えて欲しい?みんな。

 一番幸せになる方法でしょう。もし、ありがとうございますって、この本当のありがとうございますを知らなかったら心の幸せってある?絶対ないよ。虚の世界を何億年以上彷徨うよ。七難八苦で、この永遠に続くかもしれない。本当の自分に戻る、この方法、そうでしょう。教えてもらったことが、どれだけ幸せか。無限の価値がある。だから、その、やっぱり自分もその幸せを観じたんだったら、その幸せを先ずみんなに与えていこうというのが本当は、恩返し、お手伝い。

 恩返しっていう気持ちがないと、こう、真剣さがないのよ。いくら愛の心で与えるからって言っても、そうでしょう。余ってるものを与えるだけの気持ちじゃ真剣さはない。本当に必要のものを与えられない。本当の神さまの愛の心一つになったら別だけど、受けて喜んでるような心では、いくら愛してるって言って必要のもの与えようとしても無理なのそれね。やっぱり恩返しが本物なの。自分が本当に困ってる時に、本当に苦しんでる時に与えてもらったものはよくわかる。本当にありがたい。本当にありがたいっていうものがあった時に恩返しの気持ちが出てくるの。

 だから、これ、本当に何を与えたらいいかって真剣になってわかるの。恩返しに生きた時に、神さまのお手伝いができる。この恩返しの心がどれだけ出てくるかよ。恩返しに生きたら道が開ける。自分の進む道が前に開けるの。神さまの後押し応援が一杯になるの。最初は小さくてもいいのよ、恩返しって、小さくてもいいけど、恩返しに生き始めた時から道が開ける。全方向、塞がってても天だけは開いてるっていう。神さまの方向へは開くのよ、必ず。そして、大きい力を添えてくる。次、循環してきたら周りの四面楚歌の壁が全部消える。吹っ飛ばせるよ。だから、道は全部開けるの全方向に。

 だから、今日ここに集まった人は恩返しに生きようという人よ。特別に、そういう話になるっていうのが決まってたの。本当の自分とは何か?人は何のために生きるのかって。人生の目的は?本当の人生の何かって、これ一番大事な問題よ。何のために生きるかっていうのが本当にわからなかったら、人生の生きがい、喜びないの。本当の正しい人生の目的って、なかなか掴めない、わからない。虚の世界では、それぞれにいろんな人生の目的って、こう考え出してる。でも、偽物ばっかりじゃない、それは。本当の人生目的はどうかって、これ本当に自分が納得できないと偽物よ。人はそれぞれに、いろんな人生、目的を掲げてる。でも、それで本当かどうかわからない、まだ。

 だから、本当の人生の目的は、本当の自分に戻らないとわからない。真(まこと)の神さまが真(まこと)の自分って。真(まこと)の自分の人生目的が出てこないとダメ。真(まこと)の神さまの目的が、本当の自分の目的。そこまでいかないと いくら人生の目的、答え出して偽物よ、まだね。だから、この世に生まれてきた目的はって、この世に生まれてきた目的なんかないのよ。真実の世界から、虚の世界に転落して、落とし穴にはまっただけじゃない。 わざわざ落としにはまる目的なんかない。虚の世界に転落する目的なんかない。あの世からこの世に肉体持って生まれてきて、この魂の生まれてきた目的はなんて言っても虚の世界の目的じゃない。答えにならないよ。いくら考え出しても本心の本当の自分から見たら、みんな答えになってないから、どっか違うなって思うの。満足できない。いつまでも悩む。

 この世でどんな目的立てて、そうでしょう、実現して成功したって言っても、そんなもので人は満足しない絶対。それで終わりかって実現した途端に虚しくなる、儚いものに感じる。だから、どんな願いや思いを叶えてもダメよ、そんなんでは答えにならない。全部もう捨ててしまうしかないのそんなのは。だから、虚の世界は全部そうよ。無から生まれて、無に戻るだけだから、みんな儚く、虚しく消えるだけだから、そこには絶対答えはないのよ。だから、真(まこと)神さまの一大循環の流れの中へ自分を戻さない限り、本当の幸せ、無条件幸せは湧き上がってこない。

 だから、与え尽くす側に立つことよ。だから、ありがとうございますは与え尽くす側に立つ自分に戻るためよ。本当の自分に戻るためにある。ありがとうございますっていうこの祈り言葉。また、ありがとうございますは、みんなにこの最高のものを与えてる愛のすがたよ。 みんなの中に真(まこと)の神さまを呼び出してる。拝み出している。最高のプレゼントを与えてることよ。だから、ありがとうございますを唱えるのでも、そういうのを与える、与える側のお祈りがいるの。どれだけ大きく幸せを与えていくかよ、愛を与えていくかよ。

 これは、ありがとうございますって祈る目的。本当の人生目的。

 だから、真(まこと)の神さまはみんなを拝み続けてくれてる。一大循環の愛のプレゼントを与え続けてくれてる。本当の自分を生きられるように助け続けてくれてる。それを観じ始めたら、そのままほっておいたらダメよ、恩返しに生きて、さらに大きい助けを受け続けることが必要になる。恩返しに生きなかったら、また止まってしまうよ。恩返ししか循環を助ける方法はないよ最初はね。助けてもらって喜んでる時は、止まってしまうのそれで。一回助けてもらっただけで終わってしまう。それ、恩返しに生きたら流れる、循環する。また大きい助けが流れ込んでくる。また恩返しする、また大きく流れ込んできた助けを受ける。その繰り返しで本当の自分に戻れるの。

 だから、恩返しが大事なのよ。世界の中でも日本民族が一番恩返しの民族っていう。恩返しを心掛けるから、みんな本人が輝いてる。これがもうお金儲けに走って、求める心の側に立ったから思い一杯背負って苦しむ人が一杯増えてしまっただけなの。元々は恩返しの民族よ。だから、高い魂の民族っていうの。我を捨てて調和だけを願う自分なの。

 日本のあり方は、そうでしょう。太陽の日の丸の姿を現してるのと同じよ。太陽、日章旗の日の丸、与え尽くすだけの姿を表現してるのよ。日本民族は、太陽のように与え尽くす生き方を取る民族だっていう意味よ。世界の他の国が太陽を日章旗にしたらいいのよ。同じ旗を作ったら良さそうなのに作らない。日本だけじゃない。本当の太陽を旗にしてるのは、国旗にしてるのは。太陽をちょっと使ってても違う、ちょっと。日本の場合は白地にそうでしょう。純白の中に太陽一個輝いてるじゃない。太陽だけを出してるじゃない。真(まこと)の神さまだけを、真(まこと)の自分だけを与え尽くすだけをって、これを目指してるんじゃない。

 だから日本の伝統、風習、いろんな生活の中にでも、あるものは全部、我のない生き方よ。まず言葉の使い方が、普通、「私が」、「私が」って我を出さない、昔からそうよ。子供が学校行く時は、「私が学校いってきます」なんて言わない。「いってきます」だけなの。帰ってきたら「ただいま」って、「私が帰ってきた」なんて言わない。「私」って出さないの。本当にそうなのよ。それで、いろんな風呂敷でもそうでしょう。着物でも下駄でも草履でもって、大きい人も小さい人も全部使えるのよ。誰でも、そうでしょう、抱擁するんじゃない。大きい下駄で小さい子が履いても歩けるのよ。靴だとそれできないよ。型にはまってしまう。洋服もそうよ、着物の方がいいよ。

◎本当の民主主義

 だから、日本の民族は我を出さない民族って、自分を主張しない民族だから、なんか頼りないように思うのかもしれないけど、そうじゃない。本当の民主主義を生きてる。本心の自分を生きてのよ。偽の思いの心を生きてるじゃない。思いの我の心を主張し合ったら、みんなこのぶつかり合う。だから、多数決で決めるしかないって。でも、多数決で決めても反対者は一杯いてるから上手くいかない。でも日本の場合は違う。本心の自分を生きるの。本心の自分の多数決っていうんだけど、もう多数決はいらない。本心の自分は、神さまを受け直すから、神さまを中心に置くから、最初から衆議一決よ。みんなの意見が一致するの。だから、誰が意見を出してきても、その意見が神さまの御心に叶った正しいものだったら、みんながすっと賛同する。だから、多数決はいらない。これ本当の民主主義よ。

 一人ひとりが本心の側に立った時、本当の自分をしっかりと生きてるの。民主主義って、民(たみ)が主(しゅ)っていう誰かに支配されるんじゃないよ。一人ひとりが中心者、主体者になるのよ。だから、本心の自分が主体者になった時が、本当の民主主義。思いの心を生きて、我の心を生きて、それ我が中心になって生きてる時は、偽の民主主義。日本人は本心を生きる。本当の自分生きるから我のない生き方になって全体を調和させる。だから、日本民族がお手本を示さない限り、世界は良くならない。だから、お手本を示す意味で、日本列島が世界の縮図になっている。日本列島が世界の大陸の本当の縮図、そっくりよ。何故ここまででするか?

 やっぱり日本民族がお手本を示さないと世界はその通りならない。そこにちゃんと模型的にも証を示してる。言葉でもそうよ。日本民族は本当のプラスの言葉を大事に使った、言霊の幸はう国っていうのはそういう意味。言霊っていう意味。言霊の魂の霊っていうのは神さまの言葉っていう。本当のプラスの言葉っていうのが言霊なの。本当のプラスの言葉の幸はう国、いっぱいな国っていう。

◎真(まこと)の言葉には実現力がある

 だから、言葉に実現力がある。それが元にあったのに、みんなつまらん言葉を枝葉の言葉使い始めたら、虚の世界のプラスの言葉、マイナス言葉になるの。だから、枝葉に分かれた言葉は、虚の世界の言葉よ、マイナスの言葉よ。だから、乱れる、世の中乱れるのはそこにある。言葉が神さまの言葉に変わってこないとダメ。言霊の幸はう国に地球自体がならないとダメなの。

◎ありがとうございますは一大循環そのもの(ありがとうございますを展開すると印可書)

 だから、ありがとうございますっていう言葉がなぜ、日本に降ろされてるかよ。本当は、これ宇宙語よ。世界共通語よ、言霊の言葉よ。絶対の中心から無限の無限の輝きが螺旋状に降り注いで、一大循環してる。このすがたをありがとうございますって言霊の言葉で現してるのよ。

 恩返しに生きるとよくわかるのよ。恩返しに生きる人は、自然に湧き上がる。感謝、お礼で湧き上がるのと違うの反対なの。自然に神さまの心が、本心の心が湧き上がる。呼吸のように循環するのありがとうございますが。

◎本当の与えあいは支えあい

 本当の与え合いっていうのは、支え合いよ。支えるっていう言葉はプラスが上にあって、又になってる。支える人っていう、支え合うっていう人ってゆう字もそうなっている。支え合ってるっていう。もたれ合ってるのと違う、支えるは。本当にプラスを与え合うっていうのが支え合いよ。だから、本当に助け合わないと大きくなれない。一回、虚の世界へ転落してマイナスの世界へ落ちても、 神さまは、それを救い上げるために救いの網を入れるよ。でも、救いの網の目も、天網恢恢疎にして漏らさずっていう言葉があるけど、大きいものは大きいものを作り上げる網よ。小さいものは小さい、細かいものを救いあげる網よ。本当は絶対に破れない網だけど、でも、早く上へあげてもらいたかったら、細かい弱い網であげてもらうより、粗い大きい網で上げてもらう方が、スピードは速いの上へすーっと上がっていく。

 だから、自分が大きくなればいいんだけど、それが、一足飛びにいかないから、そしたら、みんな手を取り合ったらいいのよ。自分一人がって言わずに、みんな一緒にって言えば100人よって100倍になるの大きさが。そしたら、救い網からは落ちない。でも、自分一人だけがっていう人は小さくなるから、救いの網の目から落ちて、落ちこぼれるの。特にマイナスの言葉を一杯使ったら、網の目を切っていくの。切ったら網の目が大きくなる、自分は小さくなる、すぐに落ちる、落ちこぼれる。神さまの方は、何回も網を入れるよ。入れても入れても、落ちこぼれる人は落ちこぼれる。本当は、一本釣りで釣り上げたいのよ。神さまありがとうございますっていう、この一本釣りで釣り上げたいの、早く。ありがとうございますをもうずーっと唱え続ける人は、 一本釣りでいけるの。

 ありがとうございますって、この祈り言葉を手放さなかったら、しっかりと握ってたら、ずーっと引き上げてもらえるけど、でも、最初は無理なの忘れる。やっぱり放してしまうから、そのために網を入れるのよ、落ちないように。一回手放したら、どーんと下まで行ったら大変じゃない。また下から救い上げてこないとね。だから、手放しても途中で止まるように網を入れて支えてる。もう至れり尽くせりよ、神さまの助けって、虚の世界に転落して一人を救うのでもそうよ。

◎ありがとうございます護摩の真意

 それで、みんなが支え合うのがいいの。特にこの自分は一番最後でもいいからって、みんなを先に悲願に渡そう、悟りの世界へ渡そうとする。こういう人は一番早く悟るのよ。だから、与える側に立ってるからよ。与える側に立つほど大きくなるのが早い。みんなをこう、やっぱり支えてるっていうのは、みんなと一つに大きくなってるから。だから、網の目から絶対落ちない。上がったところから絶対下へ落ちない。どんどんどんどん上へ引き上げてもらえるから、早く大きい力つけるの身につくの。

 もう、自分のことは、もう考えないでいいよ。自分のことはもうほっといたらいいの。自分の問題なんかは、どっちでもいいの。周りの人の問題を解決してあげる方がいい。それは、そこへ神さまを呼び出してあげることじゃない。プラスの言葉を加えてあげることじゃない。それを一生懸命してたら、その助けは全部自分を通して流れるの。周りへ与えてるプラスのものを全部、自分を通して、そこへ届くのよ。そしたら、全部自分もらってるのよ。受けてないけどもらってる、もうね。だから、大きい自分に変わってる。プラスの大きい自分に変わってる先に。だから、どんどんどんどん大きい自分に、本心の自分に戻っていく。だから、人のために祈ることよ。周りのために祈ることよ。全てのために祈ることよ。「みんな、真(まこと)の神さまそのもの」だって、そこへ神さまを呼ぶことよ。

 最初は本物でなかっても、呼び続け、拝み続けて、そう観じ取ろうとするだけで神さまは応援してくれる。神さまは、いつも応援だから後押しだから、自分が方向付けしないとダメだから、呼ぼうとしたら、呼べるようにしてくれる。拝もうとしたら、拝もうとしたら、拝めるようにしてくれる。神さまはそこに見出せるように観じ取ろうとしたら、観じ取れるようにしてくれる。神さまの助けは絶対裏切らない。ちゃんと本当の願いに対して答えてくれる。

 昔からそうよ。本当に真剣に、そうでしょう。悟りを求めた人、みんな自分の命と交換するぐらいの気持ちで悟りを求めたのよ。だから、祈って、祈って、祈り続けて、神さまを観じたいという人は、やっぱり真剣に祈る。もし、神さまを観じさせてくれなかったら、私は死にます。首吊って死にますって言うて、神さま脅せばいいの。そのぐらいの迫力あったの昔は。人生短かかったよ。寿命が短かかったよ。長く生きて40年ぐらいの寿命の時は、一生懸命生きてきて、後わずかっていう時に悟りを求めて、真剣に生きるんじゃない。だから、一年っていうのは、ものすごく大事な時間よ。

 だから、一年間で、本当に、この神さまと一つになりたいっていうような気持ち起こすよ。祈り方が違うでしょう。もう真剣に祈って、答えがなかったら、もうこの命を捨てますっていう、そのぐらいの迫力がいる。そしたら、ちゃんと神さまの方が心配して出てくる。絶対答えてくれる。

◎真剣さが大切

 だから、その真剣さの問題よ。どこまで真剣に神さまを呼んでるか、出会おうとしてるか。その、人の自由意思を最高に尊重して本当に必要なものを与えてくるのは神さまの働きだから、自由意志が本当にそこにあるかどうか見てる。本当に真剣に自由意志を発揮して願ってたら答えてくれるのよ。もう絶対答え出てくるよ、必ず。本当に必要な答え出てくる。

 私も小さい時、人生の目的考えたことある。人は何のために生きるのか?本当に寝ても覚めてもそのことだけになってしまって、何のために生きるのか?あの時はまだ、肉体が自分っていうぐらいの感覚で考えたからダメだったんだけど、肉体が自分だったら、どんな生き方しても、本当の人生の目的わからないっていう感じで、ものすごく悩んで、悩んで、悩み続けた。そしたら、自殺、もうするしかないなともう心に決めてしまった。今死んでも、100年後に死んでも同じっていう感覚。人生の目的わからないからって。でも、そこまで、自殺するぐらいの気持ちで真剣に悩んだおかげかもしれないけど、ちゃんと答え与えてくれる。ちゃんと閃いてくる、神さまの言葉が。本当の答えじゃないよ、これ。人生の目的を追求することを人生の目的にしなさいって言って、死ねない。答え見つけるまで死ねない。上手やね。

 人生の目的を追求することを人生の目的にしなさい。でも、これは、考えて答えが出るのと違う。やっぱり、お祈り。お祈りして、 一生懸命お祈りしたのよ。中学の時も、高校の時もって、休み時間はいつもお祈りしてたの。ちょっとでも時間あったら祈ってた。20歳の時、やっぱり祈り続けてると肉体の自分や魂しの自分なしに、無限大の大きい自分にすーっと戻ってしまった。本心の自分かなっていう感じ。まだ、本物じゃなかっても、 大きい自分に戻った。そしたら、人生目的、すーっと出てくる。だから、本心の自分が人生目的知ってる。肉体の自分や、魂の自分や思いの自分じゃわからない。本心の自分の答えが本当の答えよ。その時は、真(まこと)の神さま、神さまの目的を自分の目的にするっていう。これは、本当の人生目的っていうのがわかった。それで、神さまの目的とは何か?与え尽くすことよ、やっぱり。みんなを幸せにしていくことよ。

 それで、悩まなくなったけど。大きい自分戻れんかったら悩んでたと思う。これも、ありがとうございますの祈りのおかげよ。ありがとうございますを唱え続けて、大きい自分に戻す、戻してもらってる。

◎真剣に祈るために

 だから、その祈り方が、やっぱり真剣かどうかよ。真剣に唱えたら本当の答えは、すぐに出る。例えば、病気一つ治すのでも同じよ。病気を治したいと思って唱えてるのは、まだ病気を掴んでるでしょう。掴むようだったら真剣に唱えてないよ。我(われ)を忘れて、自分のことなんか全部忘れて、ありがとうございます一つに一辺倒にならないとダメよ。ありがとうございますに成り切ったら、真剣に唱えたことになる。そしたら、いつの間にか消えてる病気の方は。だから、病気を治そうっていうのは、まだ求める心の側に立って祈ってないでしょう。

 だから、どんな問題も同じなの。問題を掴んでる時は、そのマイナスの言葉よ。言葉通りになっていくよ。でも、全ての言葉を全部捨て切って、祈り言葉だけになったら、現実は眼中にないのよ。神さまだけになっている。真(まこと)の神さまだけ!、真(まこと)のプラスだけ!っていう、こういう感覚になった時に問題、全部消えるの。奇跡が起こる。そこまで祈れるかどうか?真剣さよ。もう一心不乱に祈り言葉を唱えて、その中へ融け入らないとダメ。その練習よ、祈りの練習って。だから、短時間の祈りがいいの。1分間の祈り。呼吸を止めての1分間の祈りぐらいが一番いい練習よ。長い時間するのは、ダラダラして過去を掴んでしまってダメよ。一呼吸する祈りよ。もう死に切る祈り。このまま祈って死んでもいいっていう。いや、そのぐらいの気持ちがいいのよ。

◎一呼吸ごとに宇宙神ありがとうございますと籠めて

 だから、一呼吸の祈りがいいのよ。そしたら、我が消えて力みが消えるの。無心の祈りになる。力む間は、まだダメなのよ。力んで祈るのはまだ違う。思いの心で祈ってる時よ。だから、お祈りでも、この力みが消えないと無心の無我の本当の祈りにならないと、湧いてくる祈りに変わらないの。だから、自分を消すっていうのが大事なんだけど、もう、自分を消す方法、一番早く消す方法は、最初に言った通り、与える側に立つだけがいい。神さまの側に与える側に立って、神さまのお手伝いに生きようとするだけがいいの。そしたら、我が消えていく。一番早く消える、我が消える方法よ。

◎自分を消すために、我のない自分になるために

 我の心では、我は消えないよ。黒い煙がたくさんだから、黒い煙でいくら祓っても消えないよ。神さまの側に立ったら流れが、光の流れが早く出てくる。一大循環の光の流れが、すっと入ってきたら、どんな煙も吹っ飛ばされて消える。だから、我を消す方法は、神さまの側に与える側に立つことよ。与える側に立って、ありがとうございますを唱える。恩返しの心とか愛の心でありがとうございますをみんなのために唱えたら、我のない自分にすぐになれる。本心の自分に戻れる、すぐに。戻ってますね。

 これからは、過去を全部消すお祈りが必要になる。だから、お祈りする人もただありがとうございます唱える人じゃ役に立たないの。本当の祈りができる人でないと過去を消せないから、これからは 神さまの側に立って、ありがとうございますを唱える人が必要になる。それが、過去の思いを消して、 みんなを本人の側へ戻す。それが、神さまのお手伝いになって、お手伝いする人が手を取り合うと相乗効果の大きい働きになって早くみんなを救い上げられるっていう。これからそういう時代に入っていく。

 だから、2012年12月23日から暦(こよみ)が消えるっていうのは、そういう意味よ。過去消す働きが加わるのよ。過去を相手にしないのが一番いいよ。一大循環の今を捉える。前の回は今っていう言葉を説明したけど、全(まった)きいのちの働きは、一大循環の相象(すがた)の働きよ。一大循環の相象(すがた)をしっかりと認めていくっていう、しっかりと観じ取っていく。今を生きる生き方。過去、現在、未来はいらない。いつも神さまと共に最高の生き方をする。真(まこと)の神さまと一緒に生きるだけっていうのがいい。一大循環の愛の相象(すがた)だけ!みんなと支え合うのがいいよ。力が大きくなる。

 はい、ありがとうございます

 音声はこちらからどうぞ
 https://youtu.be/0uMaeYmtA5s

 ☆「暦(こよみ)が消えるっていうことはどういうことでしょうか?」という質問が2012年12月15日前半の先生のお話の冒頭にあります。YouTubeありがとうございますmt 通し215:永遠の中今の今とは!URLを載せておきます。  https://www.youtube.com/watch?v=W0NbMNyGBDg&t=3s

 宇宙神ありがとうございます

じょうし


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水晶事件の顛末 by 河上彰延 2024年03月31日(日) 17時06分
PC

 小学(朱子門下劉子澄編集より)にあり

 飽食暖衣、逸居して教(眞祈り)なければ即ち禽獣に近し・・・、今回の水晶事件は一言で言って、これだけです。しかし、先生より、お前は、難しく言い過ぎる、IQ80対応でいけ(誰でも分かるように書け)と、厳重に注意されているので、今回の顛末を以下に報告します。

 今回は、先生から厳命された、村の存続に関わる決断に関することなので、慎重に慎重を期しました。厳命された内容は、村が眞祈りを選ばず、真(まこと)の神さまを選ばないときは、速やかに村を閉じよ!・・ということであります。

 今回の事件の概要は、ある若輩が村に来て煽動したことから始まっています。
 独身時代も知らず、柏田時代も知らず、三洗荘時代も知らず、元水茎時代も知らず、天之岩戸開きに苦闘された時代も知らず、先生のことを何も知らず・・の若輩者が、さも、すべてを知っているような顔をして、村人を煽動し、一部の村人がそれに同調して、すべてを昌代ちゃんの責任にして、逃げ回った所から、起こったことであります。

 この若輩者は、かつて村人としておられた方でありますが、いろいろ問題を起こし、村を出て行かれたのです。その頃のご実家の方の述懐では、病的なほどなにごとにも敏感で恐ろしく高いプライドを持っているということでありました。
 ですから、そのプライドを少しでも傷つけられると、怒り狂って、家具等々いろんなものに暴力を振るって、周囲を威嚇するのであります。
 この習癖から、ご実家では、ご本人を病院に入院させられたのです。いつ退院されたかは、さだかではありませんが、今回村に来て、器物損壊、窃盗の罪をおかされたのであります。村人の証言が少ないので、告訴には、至りませんが、そういうのが事件の経過であります。

 プライドとは、虚栄心であり、欲望でもあります。これがあると、眞祈りはできません。まさに、高ぶりは滅びに先立つであります。

 今回の一番の問題点は、眞祈りをしていると公言し、一部の村人には、松下先生が降り立っていると、決めつけ、ご本人も又昌代ちゃんもそれを否定せず、まさに、村を虚の宗教団体のように振る舞ったことです。(本当は、今現在も、すべての人に松下先生が降り立ち、すべての人に眞祈りの秘奥義を伝授されつづけておられるというのに・・・・)

 しかし、村人の実際のところは先生が逝かれて6年も経っているにもかかわらず、眞祈りは出来ず、先生の神書等々の御本も読まず、先生の録音も聞かず、先生のおっしゃったありがとうございます護摩の大切さも知らずという・・それが露見したのが、今回の事件でありまして、真(まこと)の神さまを選ばず、眞祈りはせず、もちろん眞祈りの全体像(全体図)とは、と先生が表題された印可書の奉読はできず・・・だったのであります。

 このようになることを予言されて、そのときは村を閉じよ!と厳命されておりましたので、今年の諮問は終わっておりますので、来年に村を閉じようと決意したのであります。まさに書経にある、畏れざれば畏れに入る、であります。しかし、宮野みどりさんの、今一度という強い希望がありまして、先生と相談の上、もう少し、眞祈りを選ぶ機会を与えよとのことでありましたので、今しばらくは、様子を見ることにしました。

 水晶事件で、窃盗された台座は、村人の証言によれば、すでに、燃やされたということでありましたので、新たに、作りました。
 
 その形状について、ご質問が殺到しておりますので、お答えしますと、あまてらすおおみかみ、いみはたやに、ましまして、かむみそ、おらしめたまうとき・・と古事記に記された神御衣であります。

 具体的には、地球霊王さまの、おからだを顕しております。横から見れば、前方後円墳の形であり、上から見れば、かむみそであります。

 この形の中にフリーエネルギーの秘奥義が隠されておりまして、いずれ、Sの若き方がその秘密を数式にして解明されることでありましょう。

 宇宙神ありがとうございます

 河上彰延

 


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水晶事件に鑑み元日のお話6年から by 河上彰延 2024年03月31日(日) 12時48分
PC

令和6年河上さんの新年のお話
 宇宙神ありがとうございます
 
 新年あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

 令和6年元旦 河上さんの新年のお話、冒頭30分の文章化です。後半部分は天の岩戸開き(http://lmt1945.livedoor.blog/)にてアップされますので、そちらをご覧いただけますようお願い申し上げます。

河上さん
 新年あけましておめでとうございます。

 今年は辰年なんですけども、辰年でも甲辰(きのえたつ)って言って、一番最初の辰になるんですね。24年前になりますけども、同じ辰年の時に先生がですね、この新年のお話の中で「これから、太陽がますます光を強くする。要するに神さまの光が年々強くなっていく最初の年です。」ということを宣言されまして、それから年々光が強くなってきてるわけです。

 いよいよ今年からは待ったなしで、本当の光が出ます。出ますので、甲(きのえ)というのは神さまのいのち、気ですね。気が延枝(きがのえ)隅々まで広がるという意味です。

 神さまの気が隅々まで広がって、真祈り人の真祈りによって、すべてのすべての人に真(まこと)の神さまが降り立つようになる最初の年です。

 ですから、どういうことかと言うと、本当に光が強いので、損得勘定で生きてる人は生きていけなくなる時代に入るということです。だから既存の宗教のような損得勘定を基準にしているところは、全部組織的に維持できないというか、組織に携わっている人がどんどん炙り出されて損得勘定の損得を炙り出されて要するにマイナス、損得というのはマイナスの思いです。マイナスの思いが炙り出されて、いろんな病気で死んでいく時代に入りました。またそうしないと戦争でむちゃくちゃになるんでね、地球が。神さまの方でそうなる前に強い光をいよいよ出すというのがこの甲辰(きのえたつ)、これはもう24年前から決められてたんですけども、今、初めて明かすということです。

 なぜ明かすことができるかというと、皆さん一生懸命、護摩をしていただいてね、護摩木を書いていただいて、護摩木を作っていただいて、あるいは護摩木を作るお金を出していただいて。先生が人類最後の大きな護り、神さまの大きな護り、人類最後の救いであるという護摩を盛大にやっていただきつつあるので、もうお話しても大丈夫だろうと。また逆に言うと皆さんに自覚はなくても真祈りの伝授ができた人が大体増えてきましたので、それと両方です。

 真祈り人の使命はますます重くて、ともかく淡々とひたすら損得勘定抜きに「印可書」を奉読する「宇宙神ありがとうございます」を祈り続ける。「ありがとうございます」を祈り続ける。どれを選ばれても自由ですけども、ひたすら真祈りに励んでください。

 本当に真祈りが深まると、自分の呼吸が真祈りそのもの。自分の一挙手一投足が真祈りそのものって、ある日わかります。わかっても人に言わないでね。そうなると本当に真祈りの中に入っていって、神さまの本当のお手伝いになっていきます。

 その神さまの御心に添うっていうのが、どの宗教でも言うわけですけども、神さまの御心が何かわからないから、御心に添うがわからないということだったわけですね。

 神さまの御心というのは何かと言ったら、もういわゆる「新たなる下座に立つ真(まこと)の本心の自分」って言いますけども、みんなを下から支えていく力。絶対の下座に立っている。要するに絶対のマイナスに立ってすべての人を支えていく力を神さまの御心って言います。

 だから、新たなる下座に立つのはどういうことかといったら損得勘定を持てないということです。新たな下座に立つということは損ばっかりするということです。損ばっかりするけども、ひたすら神さまの御心に添って、ただただ新たな下座に立って、すべての人を支えていくということです。

 神さま、真(まこと)の神さまというのは、絶対に相手の自由意思を縛らないのね。だから、今までの宗教は「こうしなさい」「あぁしなさい」あるいは、戒律で「こうしてはいけません」「あぁしてはいけません」っていう縛るわけですよ。縛る宗教でないとみんながわからなかったから、あったわけでいい悪いじゃないんですよ。今までは縛らないとみんなわかってくれないので、縛る宗教があったわけですけども。

 真(まこと)の神さまの真(まこと)の教えというものは教えもない。一切の縛りがないわけです。じゃあどうするかって言うたら、ただただ、すべての人を新たな下座に立って支えるだけなんですね。それは、大自然の姿、空気、水、光、すべては人類に与え切りに与え切るだけであって、一切の報いを求めないんでしょう。損得で言うと損ばっかり真(まこと)の神さまはされるということです。ただただ無条件に与え切りに与えてるだけ。無条件ですから一切の結果を求めない、神さまの方はね。一切の結果を求めずにただただ与え続けてひたすら、支え続けてというのが、神さまの大きな大きな愛です。

 だから、こちらから何々して欲しいってね、願うなんてことは一切必要ないわけですよ。何々して欲しいと願うということは、「神さま、あんたわからんやろ。わからんからこれして欲しいって教えてあげるから叶えてくれ」って言うて、神さまを侮辱してるわけですけども。その損得ですよね、何々して欲しいっていうのは。その損得を持った途端に、神さまの御心から離れるわけです。

 何で損得があるかと言ったら、自分のものとして持ちたいから損得があるわけですよ。自分のものとして持った途端にマイナスを積むことになるんです。そのマイナスを人類は無意識のうちに積んで積んで積み重ねて、今に至ってまして。その結果がね、そういう特定の場所に戦争や争いの形で起こってるわけです。それが、いよいよ吹きに吹き出して、ちょっと収まる見込みがつかなくなってきたんですね。

 だから、本当に今年からは、甲辰(きのえたつ)という、もうすごい年に入った、時期的にも入ったし、またその時期に間に合うように、真祈人が真祈りの伝授を自覚は無いですよ。なくても、受けれた人が沢山増えましたので、いよいよ勝負、神さまの勝負の年に入りました。

 ここから、あんまり年数言うのもあれなんですけども、ここから3年6年9年12年だいたい3年刻みで、大きな大きな色んなことが起こりますけども、今年が最初に色々と起こりますけども、それをその起こったことに心奪われずにね、神さまが一番いいようにしてるんだからという喜びだけで、真祈りをしてください。

 真祈りしない方は、護摩木を書いてください。護摩木を書く時は、真(まこと)の神さまが降り立って、手を添えて、一緒にお祈りしてくださるからという、先生が言霊で決めてくださったことですから、損得を抜きにね。「護摩木書いたら病気治してくれ」とかね、損得抜きに書いてください。もちろん損得付きでも効果ないことは無いですけど、本当の効果は損得抜きですることです。

 神さまは損得抜きで皆さんにすべてのすべてを与え尽くしておられるんだからね、それを真似て自分たちもすべてのすべてを神さまにお返ししていくわけですね、損得抜きに。そのお返ししていく方法がね、直接神さまにお返しする方法もあれば、すべての人を通してお返しする方法もあるということです。

 その辺を理屈で考えると、なんかもう受け取ったら、すぐ神さまにお返しするんだみたいな感じですけど、そうじゃなくて、水が染み渡るように、すべてのすべてを通して、神さまにお返ししていく。もちろん直接お返しするのも一瞬一瞬新たという形であるわけですけども。どの形をも通っていきますので、ただただ、ひたすら「印可書」を奉読していただけたら大丈夫です。もうそれだけです。

 「宇宙神ありがとうございます」の場合は、自分がマイナスに引っかかった部分を「宇宙神ありがとうございます」に包み込んでお返ししなくちゃいけないんでね、ちょっと大変だと思いますけど、好みですから、自分の好みにあったのを選んでいただいたら大丈夫です。

 ただ今年からは、そういう意味でオマケなしで厳しくて、だから損得勘定を持って、損得勘定を持つというのは何かというと、自分のものって掴むんですけど、自分のものって掴むとマイナスを積んでいくんですよ。ただ今年からは、その積んだマイナスを強い光であぶりだされていくんです。それが皮膚病になったり、内臓の病気になったり、あるいは癌になったりとかいう形でね、どんどん出ます、出るようにしてます。

 何故かと言うと戦争で消すよりは、ずーっとマシだから。神さまの方で強い光にして、それぞれの病気の形にしてます。例えば、今は大変あんまり報道はされてないですけど、梅毒とエイズが重なった状態になってきてね、そういう病気が増えて、一応ガンで死んだって発表されますけども、そういう形で死ぬ人も増えてるしという事です。各自治会の遺体を焼く場所ですね。それが間に合わないくらい、ちょっと増えてきてますけども、今年からはいよいよそれが増えます。

 なぜ人口がどんどん減るかと言うとそういうマイナスを積んでいた人を一番楽な形で消すために病気で死んじゃうのもありますし。人類が大自然から奪い取り過ぎてるんですね。その奪い取り過ぎてる形をちょっとでも消していくためにも人口は減ります。大体10分の1までは止めようがなく減ると思います。でも、真祈り次第ですけどね。

 あんまり大きな節目の年がいつかと言うのは言わないでおきます。何故かと言うと護摩次第でどんどん延びて、表さずに済むのが理想ですから、色んなことを先生から託されたし、だいたいこの年にこうなるからということも聞いておりますけども、それは誰にも言わずに、そうならないようにしろということでね。

 例えば、3月11日の東北の大地震の時もそうなんですけど、本当は、あれは大地震じゃなくて、あることが起こるというふうに聞いておったわけですよ。これは、もう大変で、お前の担当分はこれやと言うことで、あの頃は熱出して大変だったんですけども、なんとか上手く地震の形に変えれたというだけです。

 これから毎回毎回ちょっとそういう大震災クラスが起こりかねないし、起こるかもしれませんけども、どの時もその形で一番小さく消せれたと喜んでいただいて、結果に心奪われずにですね、ひたすら真祈りしてください。

 例えば津波で亡くなられた方は気の毒だということですけども、その形で一番大きな神さまの働きをお手伝いができたということは間違いないんでね。もちろん亡くなられた方に哀悼の意を表するわけですけども、どの形も神さまの大きな愛の中で、一番いい形でなってるということだけは、肝に銘じててください。肉体の目で見たらね、こんな悲惨なことということがいっぱいありますけども、それでも一番小さい形で済んでます。

 だって、ムー大陸やアトランティスの時のようにね、大津波が来て大陸が沈んで、火山が噴火してなんて大変でしょう?そこまでもっていきたくないんで、大国主命さまは地球霊王さまはもうそうするって。あのそうですね、三洗荘(さんせんそう)に先生が移って来られた頃に仰ったんです。その頃に三洗荘(さんせんそう)では、もうひたすら先生お祈りされてたんですけども、大国主命さまとの話し合いの中でね、自分が責任をもって人類に真祈りさせるからもうちょっと待ってくださいということで、ここまで待ってもらっています。

 本当はもう、とても予定より早めて、あの頃に全部御破算にするみたいなことがあった訳ですけども、先生が責任もってするという事でされました。いよいよ、先生最後まで責任もってされる予定だったんですけども、今、本当のこと言いますけど、血の涙を出されても止めれないくらいの事になってきましてね。何が起ころうとしてたかは、ちょっと今言いませんけども。それをもう一度来る時は、僕の命に代えて止めますから、後はみなさんでやっていただきますけども。

 ともかく小さく消して上手くしたということだけはわかってください。先生も予定の命を縮めて縮めて、後の人のためにさらに縮めて「印可書」を作っていかれたということです。説明は、お前に任したということで、説明役だけで、それまでは、先生はもう地球人類全体のことなんで、個人の病気治しは、お前の担当ということでね、二人三脚できたわけですけども、これからはもう、個人の病気は、それぞれ皆さん自分で真祈りしてください。後は、もうひたすら神さまの御心をこの世に降ろすために真祈りするだけです。そういう年が今年から待ったなしに始まります。それを甲辰(きのえたつ)と言います。

 厳しい話と違うね、みんなが本当に真祈り出来るようになったからこそ、またそれに間に合わされて、間に合わすことが出来たのでね、ちょっと肩の荷が下りてホッとしてます。「そんな言うても私らようわからんわ」でいいんですよ。でも、毎月の護摩を大切にしてね、護摩木を作って、護摩木をひたすら書いて、護摩を盛り上げてください。それが大きな真祈りですから。それさえしていただければ、自然と普段も真祈りするように変わってきます。

 その一番の大きな皆さんのネックは何か言ったら、自分で自分を縛るんですよ。その自分で自分をどう縛ってるかというのもわからないから大変なんです。いよいよ今年なので、甲辰(きのえたつ)なので、どうして縛ってるかって言うと自分で何とかしなくちゃと思って縛ってるんです。わかります?神さまが一番いいようにするから自分で何とかする必要はないねん。でも自分で何とかしなくちゃっと言って縛る。

 ただ理屈でこう説明するとじゃあ寝てたらええんかって勘違いするので、ここが問題なんです。その神さまの御心を知ることが大切なんですけど、神さま御心はどうして知れるかって言うと先生のお言葉で言うと限界破りをしなさい。限界破りをしなさいと言うのは、山登りを走って登るんじゃなくて全力を尽くすということです。走って登るというのは無茶をするということです。わかります?

 限界破りって言うとみんな無茶をして潰してきたんですよ。先生はどう説明したらわかるんやろなって、僕には、「お前の真祈りが足らんからみんなわかれへんやないか」って怒られるわけですけども、要は限界破りって何かって言うたら、自分にできる精一杯の全力をいつも尽くしてるということです。無茶をするんじゃないですよ。だから、眠たくなったら寝たらいいんですよ。限界破り言うたら、じゃあもう寝るのも辛抱してやらなくちゃいけないとかっていう無茶をやろうとする。無茶じゃなくて、自分のできる誠意を持ってやれる、精一杯のことを常に何事においてもするという。

 その精一杯をしてる時に初めて理屈抜きに自分では何もできないってわかるんです。ここなんですよ。自分でも、自分では何もできないって知らないと神さまの御心はわからないとかね、理屈では説明できるけども、みんなも理屈では自分では何もできないんだって思うとするんです。そう思うと理屈で思うと理を曲げてますから「じゃあ寝てたらいいんやなぁ」と自分は何もしないでこうしてたらええんかっていうふうに勘違いするわけです。

 そうじゃなくて神さまの御心を知るというのは、理屈抜きのいわゆる何て言うんですかね、魂と魂、心と心が神さまと命と命が響き渡る部分なんですね。その響き当たる部分というのは、小さい自分のこちょこちょした思いを精一杯全力尽くしてね、出し尽くすわけですよ。出し尽くす時にすっとわかるんです。それが神さまの御心を知るというコツなんです。だから先生は、全力を尽くしなさい。人の3倍働きなさい。10倍働きなさいって言うんだけど、みんな無茶をして潰れてできなかったんです。今、正確に今、説明しましたからね。

 だから、悟後の修行(ごごのしゅぎょう)と言って悟ってからの修行の方が大変なんですよ。みんな悟ったら別に何もしなくてもじっとしてたら何でもわかって、楽に何でもこなしていけると思うでしょう。そうじゃない、悟るといよいよ全力を尽くさなくちゃいけない。全力を尽くせなかったら、すぐ悟りから落ちるんですよ。天人五衰(てんにんのごすい)と言うんですけどもそれくらい悟後の修行(ごごのしゅぎょう)って厳しい。

 ますます神さまを真似て全力を尽くしていかなくちゃいけない。真(まこと)を尽くしていかなくちゃいけない。真(まこと)を尽くすと言うんですけどね。それを肉体的に言うと全力を尽くす、誠意を尽くすということです。それをひたすらしてたらいいんです。だから、悟る悟らないじゃなくて、悟りていうのは、いつもそのギリギリのとこにいつもあるわけです。だから、いつもそのギリギリのとこに精一杯するというね、無茶をするじゃないですよ。精一杯するということをいつもしてないと悟りではない。

 最初の悟りが来るといつもその精一杯しようとして休むという気がなくなるんですけど。逆に言うと精一杯してたら、神さまの御心がわかるから今は休むべきだという時は休める。自由に休めるようになるわけですよ。そういうことになりますのでね、ただただひたすら何事においても損得感情を捨てて、すべての人に役立つようにひたすら働きましょう。

 でもそれを結果掴まないということが大事なんです。自分は一生懸命やってるけど何の役も立ってないんじゃないかと思った途端に自分でどこしようと思ってる。わかります?精一杯してたら神さまいいように使ってくださるのね。そのいいように使ってくださる結果は、いつも言うように耳かきの働きなのか、大きな除雪機のパワーシャベルの働きなのか、スコップの働きなのかは、神さまがしていることで、こっちでどうこう思う必要はないわけです。でも耳かきでないと耳クソは取れないのね。スコップでは取れないでしょう。絶対にどれもこれも必要な働きなんです。ただ肉体側からの意識から見たら、ちょっとしかやってないと思うだけ。そのちょっとがいるというのがわからない。

 お掃除の時でもそうでしょう。ホウキで掃くけども、木の桟(さん)とか狭いところは、この筆のような刷毛で掃き出さないと埃は取れないわけじゃないですか。掃除機を使ったって、筆で掃き出しながら吸うわけでしょう。だから、回転ブラシ付きの掃除機まであるわけでしょう。そういう小さい働き。いわゆる回転ブラシの先の働きというのは、ちょっとの働きなんですけど絶対にいる働きなわけですね。だから、あの結果に心奪れずにひたすら誠意を尽くして、自分なりに全力を尽くしててください。それが真祈りです。もちろん「印可書」を奉読し続けるのは大事ですけども。

 なぜ「印可書」を奉読し続けるかというと人間というのは、自分の口から出す言葉以外は受け取れないんですよ。ここが大事なんです。だから、今までの宗教があったわけです。というのは神さまを思えって言っても、みんな思ってくれないからお陰がある。要するに損得、みんな損得で動いてるからね。損得を餌にして、お取り合いをしてですね、損得で釣っといて、ちょっとでも神さまを思わせようとしたのが今までの宗教です。

 でもいよいよ、もう待ったなしなので、今までの宗教では、どうしようもないとこまで来ましたので、損得抜きで真祈り人は是非全力を尽くしてください。もうただただそれだけで、すべてはうまく好転します、嘘っていうくらい。そのイエスが3000人に8個のパンを配れたように8個のパンが3333人分に増えたように、嘘というような奇跡が自分で起こせますから、でも起こした時に自分がしたと思っちゃダメですよ。イエスが言うように「すべての栄光、すべてのお陰は神さまに返さんがためなり」って言うね。「神さまの栄光を現さんがためなり」って、イエスは言うんだけど、「すべては神さまのお陰です、ありがとうございます」先生流に言うとね。「すべては神さまのお陰です、ありがとうございます」神さまがされたことばっかりなんですよ。

 何で神さまがされたことばっかりかというと自分と真(まこと)の神さまは不離一体だからです。ここが大事なんです。自分と真(まこと)の神さまと不離一体、理屈抜きにその時にわかるんです。もし自分がしてるのに何でって思った時は、不離一体からズレたわけね。だから文句を言ってしまった時、「何でこうなるの」って言ってしまった時ですね。そういう時は不離一体からズた。真祈りからちょっとずれたなぁと思って反省して、また「印可書」奉読に戻るなりね、精一杯全力を尽くすなりしてください。でも山を全力で駆け足で登るんじゃないからね。これだけはわかってください。無茶をするんじゃなくてひたすら淡々と精一杯するということ。それはお掃除でも何でもいいんです。何をされても大丈夫ですから。

質問
 ありがとうございます 総まとめ的なお話ありがとうございます 今、最後にひたすら淡々と(全力を尽くす)全力を尽くす、(誠意を尽くす)誠意をを尽くす。よくわかりました。さらに真祈りを深めるっていうところでそれプラス、真(まこと)の神さまが一番いいようにしているんだっていう信、信じる気持ちを乗せていくっていうことの?

河上さん
 だから、その絶対の信って理屈で言うとね、「ああ絶対の信がいるんやなぁ」なんですけど、理屈ではわからない部分なんですよ。だから真祈りの伝授。先生は伝授という言葉を使いなれたんですね。絶対の信も伝授だったんです。その伝授の部分をもう一人ひとり、その伝授してる暇がないので、今、言う全力を尽くして、ひたむきに淡々と誠意を尽くすとね、その自分の力を出し尽くした時に初めて、先生の表現で言うと自分が全力出すから初めて神さまが後ろから後押してくださるという。神さまの光りが初めて本当に降りるんですよ。

 自分が何もしてなかったら余裕あるから自分でやりなさいって言って、神さまは手を出して助けてくれない。自分がもう精一杯して、もうこれ以上自分ではどうしようもないってなった時に初めて、じゃあ助けて上げる、後押ししてあげよって言って光が降りてくるわけですね。それが悟りなんです。それが絶対の信なんです。悟りも絶対の信も全部同じ意味なんですけども、理屈ではない。

 例えば昔だったら、全託とかいう言葉を使ったけど、「全託したらいいんやなぁ」「すべてを神さまに託したらいいんやなぁ」って理屈ではわかるけど、どう託すかはいつもわからんかったんです。昔は「全託しようと頑張るんだけど、どうしようもないんです」って泣いて先生に聞くくらいの僕のような人がいなかったので、先生は直接伝授ができなかった。本当は必死で先生のおっしゃることを真似てやろうとして、ひたすらやって、やっぱり自分ではどうしようも出来ないって言って、泣きながら先生に尋ねに行ったら、その人は悟らせてもらえた。引き上げてもらえた。

 悟りというのは自分から登るんじゃなくて、引き上げてもらうしかないんですよ。でも引き上げてもらおうと思うと自分が全力を出し尽くした時にしか引き上げれない。本当は、どんな状態でも引き上げれるんよ、神さまは、全知全能だから、でも楽してる人間引き上げると落ちていくねん。はっきり言うとな。見本を先生見せてくださって、お前も一度引き上げてみいって、僕も何人か引き上げてみて、落ちて潰してますけど、その誰とは言いませんけどね。

 そのようにして、みんな落ちていく時は、今いてる場所よりももっと下へ落ちていくからね。そうだけど全力尽くしてたら、ちゃんとすっと上がっていける。それは、結果も気にしない。すべて神さまのお陰っていうのが、もう無条件にわかる。要するに無条件になるためには、全力を尽くすしかないねん。余裕があったら条件がつくのよ。「これだけしたから悟らしてくれ」、「これだけ印可書を読んだから悟らしてくれ」。

 だから、「印可書」の読む回数を指定しないのは、例えば100回って言うでしょう。1日1万回でもいいわ。1万回「印可書」を読んだら悟れるって言うたら、「1万回読んだらいいんやなぁ」って言うて条件、交換条件。損得になるわけです。それは、もう違う。条件ついたあかんねん。無条件に神さまに投げ出さなあかん。無条件に神さまに投げ出そうと思ったら、もうひたむきに、ひたすら淡々と誠意を尽くして精魂込めるしかないねん。そしたら、無条件になるからパッと悟るねん。もうそれだけよ。

 今までは、先生が全託せいと言ったら、必死で全託しようとしてね、或いは真祈りせいと言ったら、必死で真祈りしようとして、どうしても自分でも、どんなに頑張ってもできませんって泣いて聞きに行って、初めて僕のようにっ引っ張り上げてもらえるんだけども。誰もいなかっただけや。今度は、もう時間切れやから一斉に同時に一度にやりますから、そうやけど、一度にやるけど、全力尽くしててくれないとほっていくからな。真祈りしない子は見捨てるからな、全力尽くせへん子は見捨てるからなっていうことです。

質問
 今のお話お聞きしましたらね、「蜘蛛の糸」ってお話があるじゃないですか、杜子春(とししゅん)。杜子春(とししゅん)の蜘蛛の糸。結局二通りか何かの時に杜子春(とししゅん)が蜘蛛の糸を見つけるんですね。それに縋るんですね。「ああ助かった」って地獄からもう引き上げてもらうんですね。ところがその細い細い蜘蛛の糸に縋った杜子春の後から又候(またぞろ)地獄から這い上がろうとしてる人たち乗ってくるわけですね。杜子春(とししゅん)は思うんですね。「俺だけが助かろうとしてるのに後から」

 ☆「蜘蛛の糸」の主人公は、カンダタですが音源のまま、掲載させていただきます。ありがとうございます

河上さん
 自分の足元で糸切ったらよかった。

質問者
 それ言うたんですよ。そしたら全部落ちたんです。杜子春(とししゅん)も落ちたんです。

河上さん
 そりゃあ落ちる。自分だけという意識は無理やね。損得を考えたら、あかん。ちょっとでも損得を考えたら、ああしまった。ちょっとでも文句が出たら、ちょっとでも「あいつサボってるやん、俺だけ何でこんなしんどい目してんねん」っていうのは、損得なんですよ。

質問者
 それを今、感じました強く。ありがとうございます

質問
 思いを尽くす。

河上さん
 誠意を尽くす。思い違う違う。思いを尽くしてもしかたない。

質問
 取り直して、誠意を尽くす。

河上さん
 誠意を尽くすと言うのは、損得感情を抜きでするということ。ギブアンドテイクなしでするいうこと。だから、それをただ働き一番いいって先生よくおっしゃってたんです。

宮野さん
 それって、あれですね、評価もなしですもんね。

河上さん
 そうそう、だから結果は一切関係ない。

質問
 先に一番後に戻ってもらって、三つの秘訣、誠意をを尽くす・・・?

河上さん
 ひたむきに淡々と全力を尽くす、誠意を尽くす、いのちを尽くす。それは損得勘定抜きということや損得感情があったら、人間って肉体を持ってるから肉体を持ってるいうのは、ある意味悟りにくいねんけど逆に言うと悟りやすいの。どういうことかと言うと肉体持ってるからしんどいってなるでしょう。ひたむきにやってたら、疲れてくるじゃないですか。疲れてきてしんどいから損やって、みんな損得勘定に入ってしまう。それで肉体は罪深いとか言うわけです。汚いとかって言うねんけどね。そうじゃなくて、損得勘定抜きになるとしんどくなってきても動ける範囲は動こうとするんですよの。それが全力を尽くすなんですよ。

質問
 わかりました。全力を尽くす、とことん尽くすっていう、とことん尽くすことと淡々と「印可書」を奉納するということは?

河上さん
 同じ意味です。同じ意味だけど淡々と「印可書」を奉読してたら、ひたすらに全力を尽くそうとするようになっていくの。そやけど損得勘定で「印可書」を奉納してる間は、「印可書を読むから悟らしてくれ」とか「印可書を読むからいいことあるやろ」とか無意識にですよ。そんなん露骨に誰も思えへんで、でも無意識にどっか心の底に損得勘定が忍び込むの。忍び込んでる間は、なかなか動けへん。

 だから動きたくないなぁと思った時は損得勘定が忍び込んできたなと思って、それで一生懸命やってたら疲れてくるじゃないですか、疲れてきても疲れてきた範囲の中で動ける限りは動こうとするのを全力を尽くすと言います。無茶をするというのはもう疲れてきてももうこのままいったらぶっ倒れるわと思いながらぶっ倒れるまで走ってしまうことを無茶をするって言います。だから、一生懸命走ってても疲れてきたら、歩いて一歩でもいいから前へ進もうとするのが全力を尽くすです。

質問者
 ありがとうございます

追記、きのえたつでありますのでl、一切のおまけは無くなりました。その結果の水晶事件でした。河上
 音声はこちらからどうぞ
 https://youtu.be/LAcrjLYYHqQ
 
 宇宙神ありがとうございます

じょうし 2024/01/03(Wed) 09:15 No.3124


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2011-3-5 by 河上彰延 2024年03月24日(日) 13時29分
PC

2011年3月5日先生のお話
宇宙神ありがとうございます

改行の一文字下げの修正すると時間切れで投稿できませんので、今回はこのまま投稿します。ありがとうございます

2011年3月5日先生のお話の文章化です。

質問
ありがとうございます この言葉を日本から世界へ、平和運動っていうの広まるサポートという形を私の体験として気付いたんですが、どうなんでしょうか?

先生
どうですか?

まず、ありがとうございますがやっぱり段階が色々ある。同じ伝えるんでも本物を伝えないとダメね。本物を伝えるためには自分が本物になることまず、一番難しい。

だから、波がやっぱり無限の段階の波の違いがある。真(まこと)の神さまの名前っていうふうに捉えても、ありがとうございますが奥深い。

ありがとうございますを伝えるって言っても、どの程度の伝え方をするかって。またそれ伝えていいかどうかも、 もう色々ある。何を伝えたい?ありがとうございますの何を伝えたい?

質問者
私は、前、お祈りしていた時に、お祈りは、自分の中で体験として、世界平和に繋がるっていうことが理解できていなかったんですが。私の体験として偶然の一致(途中から聞き取れず)お祈りは、世界平和につながると思いました。

先生
それで、お祈りを世界に伝えたい?みんなもそう思いますか?

でも、一番大事なことって本当の自分は何かでしょう。本当の自分をしっかりと掴まないと心が揺れ動くよ。平和でも幸せでもなんでもないよ。だから、本当の自分とは何か?これ一番大事な問題、命題よね。

だから、ありがとうございますっていう言葉。真(まこと)の神さまの名前っていうふうに捉えて、真(まこと)の神さまの自覚を自分の自覚として体現する必要があるのよ。その時、本当の悟りをえて心が安らぐ。

だから、真(まこと)の神さまが自分っていう自覚がいるのよ。本当の心の安らぎには。だからそれは、どういう自分かでしょう。肉体でもない、魂でもない、小さいものじゃない。

真(まこと)の神さまはどんなもん。言葉では表現できないかもしれないぐらいものすごいもんよ。

まず真(まこと)の神さまと一体の自分に戻ることの方が大事でしょう。そしたら、世界を変えようとするかな。世界を平和にしたいっていう気持ちがどこから来てる?真(まこと)の神さまのところへ戻ったら、既に平和じゃない、完全じゃない。

だから、この世は、なぜ存在するの?この世はどういうもの?どうしてこの世が生まれたの?どこから来て、どこへ消えていくの?どのくらい悩んだ?

もっともっと悩まなダメかもしれないけど、本当の自分とは何か?人生の目的とは何か?本当の神さまとは何か?って一番根本の問題をしっかり考えて、考えて、考え抜いて。悩みに抜かないとダメよね。

真(まこと)の神さまは完璧よ。一つよ、唯一無二、 絶対よ。永遠の存在。もう最高の理想の言葉いっぱい並べ立てて、まだ足りないぐらい。どんなんやろうね、本当の神さまって。

この世とかあの世と虚の世界の姿とは全然違うのよ。そんなつまらんもんじゃないのよ。虚の世界は全部対立してるのよ。対立っていうのはプラスとマイナスに分かれたり、光と闇に分かれたり、 相対の両極に分かれて、その組み合わせで全てのも生み出されてるけど対立するようなものは、本当の神さまじゃないよね。

この世、全部対立してるでしょう。全てがそうよ。対立してるから本物の神さまでも本物の世界でもないよ。虚の世界よ。そしたら、虚の世界どこから出てきたかでしょう。みんな本当の神さまを知ってるはずよ。そこにいてたはずよ。そこから虚の世界に落とし穴にはまったように落ちたんよ。なぜ落ちたか?って。

この生まれてくる目的があって落ちたんちゃうよ。この世は本当は出てきたらダメなのよ。虚の世界のへ転落したら本当はダメなんだけど落ちてしまったの。その落ちた原因?

この肉体界に生まれてくる人生目的とかいろいろ言うよね。あの世からこの世生まれてくる人生目的とか。色々言うけど、そんなん本当の人生目的でもなんでもない。みんな偽物よ。虚の世界に生まれてくる目的なんか本当はないのよ。

反対よ。虚の世界から真実の世界へ早く戻らないと本当の人生の目的はないの。だから、真(まこと)の神さまをどういうふうに捉えるかって一番大きい大事な問題。

まず、対立がないっていうふうに見ると、みんな一つにならないとダメなのね。もう完璧な一つにならないと。また、差別はないのよ、一切の差別がないって 上下関係あったらダメ、役割の違いがあったらダメなの。

だから、たくさんのものが本当に一つになるっていうたら、もう、いろんな意味合いで想像絶するような働きがなかったら一つにならない。

例えば、米粒をいっぱい集めて、塊を作ったって、これ、バラバラのが集まってるんでしょう。それで、お餅みたいについたら一つになるって。ついた時どうなるやろ。みんなついてもらう?つくって言ったらどうなるんやろう?自分が消えてしまうよね。でも、そんな程度では本当の完璧な一つにならない。

これやっぱり真(まこと)の神さまの本当の完璧な一体感って、一体っていう意味が、本当の一大循環の相象(すがた)を取るの。入れ子構造のすがたを取るの。重層構造ってね、ところてん式にずーっとつななるのよね。全方向にいっぱい満ち渡る。これ全部一つにならないと、これ ほんと一つにならないのよ。

だから、完璧な一つの真(まこと)の神さまをみんな共有してる、もってるのよ。

みんなそこから離れるわけにいかない真(まこと)の神さまだけが真の実在。それを全部与えてもらってる。そして、神さまの心も自由自在な心も与えてもらってる。ただ、一人ひとりの違いは受け方が違うだけ。こう、一瞬一瞬、新たに新たに循環してくる相象(すがた)をどう受け取るかっていう違いだけ。大きく受ける、小さく受ける、浅く受ける、深く受けるいろんな受け方があるの。それも、一瞬一瞬がどの程度の一瞬かでしょう。一秒の一瞬もある。万分の一秒の一瞬もある。無限分の一の一瞬もあるのよ。この一瞬一瞬も違う受け方がね。

みんな本当は真(まこと)の自分、真(まこと)の神さまに戻りたいって願ってるはずよ。そこへ戻る以外に心の安らぎ絶対ないから。ただ、思いの心に陥った時に思い通りになって、束の間の有頂天になって喜んでる時間はあるかもしれないけど、でも、それでは絶対心安らがないから、虚しい、儚い気持ちに必ず襲われるよね。

自分とは何か?何のために生きてるんか?って、みんな悩むはずよ。目の前の、ちょっとしたことに心奪われてる間は、それ忘れてるだけ。でも、すぐに寂しくなるよ。本当の自分に戻らない限り。肉体が自分なんて思ってたら、もう早く死んだ方がいいって思うぐらい追い詰められるぐらい儚い虚しい気持ちになるよ。

百年生きたって、何のために生きるのかって思っただけで自殺したくなるはずよ、本当は。本当の自分、本当の人生目的がしっかりわからないと生きていけない。だから、思いの心に陥って、それで七難八苦の悩みをやっぱり背負ってる。生きるだけでも苦しい。

生老病死って、そうじゃない生きる苦しみって、儚い虚しいからよね。老いて、醜くなっていくのも苦しい。病気になって苦しい。 私に訪れたらもっと苦しいって、そうでしょう。生老病死ってそうじゃない。

七難八苦の方の四つの方は愛別離苦(あいべつりく)って、大事な人と別れてしまうんでしょう。愛別離苦っていうのは、その苦しみがある。怨憎会苦(おんぞうえく)っていうと嫌な人と出会わなければならないという苦しみじゃない。求不得苦(ぐふとくく)っていうのは自分の思い通りにならない。求めて求めても何も実現しないっていう苦しみがある。五盛陰苦(ごうんじょうく)って肉体を持ってるっていうだけで、ものすごい苦しみ味わうの。

八苦って言うだけでも大変じゃない。そこにまだ七難ってつくの。 火難なんて言うたら怒りの心が天まで届くぐらいに湧き上がったら、苦しくてたまらないじゃない。憎しみの心もそうよ、末代まで祟ってあげるなんて言うて、憎しみ続けたら大変なことじゃない。恨みの心もそうじゃない。だから、七難なんていうのは、ものすごい心の苦しみじゃない。七難八苦っていうのは、思いの心の姿よ。

だから、それをみんな、思いの心が自分って思ったら、みんないつも影のように背負ってるの。 それで幸せなんか絶対なれない。だから、思いを全部消さないとダメ。

だから、思いっていうのは過去を掴んだ残像よ。過去を掴んだ残像が思いになる。真(まこと)の神さまは一大循環の相象(すがた)をとって一瞬一瞬流れてる、絶対の中心っていう無限大の外遥か彼方から螺旋状に入れ子構造的に循環してきて、それもところてん式にピタッと連続して、 それで、お互いが全部重なり合いながら、全方向から循環して戻っていくすがたをとって、目の前現れるのよ。

その一大循環の輝いた相象(すがた)をちょっとでも掴んで、自分のものにした時に過去の残像を掴むの。掴んだ時が掴んだと思った時が過去の残像の姿で思いの自分になる。

だから、絶対一大循環の相象(すがた)を掴んだらダメなの、本当は掴めないの。絶対掴めないんだけど、 掴んだと思ったらダメなの。無限のスピードで循環してる神さま本当の光を掴むことはできないの。本当のすがたは絶対掴めない。掴めないのに掴んだと思うの。止めて、見て、掴んで、これ残像として持つのよ。その時に思いの心に陥ってくる。それで真(まこと)の神さまと離れた小さい虚の自分に陥っていく。それで思いの世界に、虚の世界に転落した。

もう一回戻らないとダメ。そのために必要なことは、新たに新たに受け直す自分になることよ。過去を掴まない自分。新たに新たに受け直す自分になって、掴みそうになったら、全部お返しする、恩返しの自分にならないとダメ。

受けると同時にお返しする、これもう遅いのよ。受けた途端に掴んでるじゃない、それでお返ししても、短い時間でも掴んでしまってる。やっぱり掴まない自分っていうのは、受けながらお返ししてないとダメ。流れる循環のままに受けながら、お返し同時にしてないとダメなの。これ自分っていう器があると掴んでしまう。自分の器の中に取り込むから取り込んだものを出しても器があるだけ掴んでしまうの。この器はなにか?

そうね、流れを通すパイプでもダメ、パイプも器と同じよ。神さまの光を通すパイプにって言っても、パイプがある間はダメよ。みんなこれ思いの自分よ、それね。これが自分っていう思いの心なのよ。これが器になりパイプになってる。だから、自分があったら神さまから離れてしまう。

だから、自分をなくすのはどうしたらいいか?

真(まこと)の神さまだけっていうふうに認めないとダメ。自分も、自分のものも何もない。人も他人も他人のものも何もないって、真(まこと)の神さまだけっていう見方が絶対必要になる。それはどうしたらできるか?

悟りへの道って色々あるのよ。悟りも無限の段階があるから、どの悟りへ到達するための道かってなるのよ。虚の世界でも、これが悟りっていうのは無限の段階に色々あるのよ。虚の世界でもそうよ。ここまで来たら悟りっていうのがいっぱいあるの。虚の世界の悟りじゃダメなの。虚の世界の悟りは、小さい自分がどんどん大きくなって、高いとこへ上がってっていう、ある目標に向かって、そこまでいって悟ったと思うんだけど、そんなん悟りでもなんでもない、本当はね。

真(まこと)の神さまの本当の元へ戻らないとダメでしょう。真(まこと)の神さまの自覚にまで到達しないと。だから、自分があったら間違うの。自分じゃないのよ。自分があったらダメなの自分を消すことよ。でも、自分を消そうとしたら、また自分を掴んでしまう。これもダメなの。

それで、真(まこと)の神さまだけを肯定していかないとダメ。もう自分を相手にしない。真(まこと)の神さまのだけっていうふうに断定しないと自分を掴んでしまうからダメなの。

全て言葉通りになるっていう法則があるの。これは宇宙の厳然たる法則。言葉通りの自分になるの。自分の選んだ言葉通りになるの。選ぶっていうことは見ることも聞くことも言うことも全部選んでる。どんな言葉を見ても、聞いても、言っても、自分の選んだ言葉よ。その言葉通りに自分がそこに生まれてくる。現実化してくるから。ただ、その言葉は、文字の言葉だけじゃない。映像もそうよ、音楽もそう全部言葉よ。だから。言葉通りの自分になるっていう実例。虚の世界、この世でいっぱいあるじゃない。

だから、胎教って、お母さんがいい、いい絵をよく見るんですよね。赤ちゃんが宿ってる時は、美しいものを見るんじゃない。そしたら、赤ちゃんが美人に生まれるとか、いい子に生まれるとか言うじゃない。

また、職業でも警察官でも刑事さんでもそうでしょう。ヤクザを相手にする刑事さんは 顔がヤクザになってくるじゃない。そうじゃない、実例色々あるじゃない。やっぱりそっくりさんになってくるじゃない。

嫁姑の関係でもそうじゃない。嫌な姑さんをいつも見てたら、自分もそっくりさんになって嫌な姑になってしまうという、見るだけでそうなるのよ。見るっていうことが選んだ自分の言葉よ。これ、また聞くだけでもそうよ、睡眠学習もそうだし、いろんな言葉で洗脳されるのもそうよ。言葉で自分を作ってしまう、作られてしまうのよ。

だから、どういう言葉を選ぶかで、みんな今の自分が出来上がっている。過去にどういう言葉を使ってきたか? それだけじゃない。どういう言葉を見てきたか?聞いてきたか?で全部自分が決まるの怖いぐらいよ。

今の国会の様子なんか見てたらよくわかるじゃない。人の揚げ足取りばっかりしてるじゃない。そうするとどうなるかでしょう。自分もそっくりさんになっていくんじゃない。人のマイナスを掴んで攻めさばいたら自分も同じようにされてるよね。同じこと繰り返してる、怖いぐらいよ、それね。

だから、虚の世界の言葉を使ったら、虚の自分になる。だから、真(まこと)の神さまの世界、真実の世界の言葉を使わないと真実の自分には戻れない。そしたら、真実の言葉はどういう言葉かでしょう。プラスの言葉って言っても虚の世界の比較上のプラスは本当のプラスじゃない。マイナスとプラスと対立して存在するプラスは、虚の世界のプラス。真(まこと)の神さまのプラスはプラスだけ、循環するプラスだけなの。それも新たな無限の無限のプラスが無限に無限に一杯っていう大きいプラスよ。

だから、全然こう力も違う、同じプラスでも、 虚の世界のプラスはマイナスに対抗する力って、同程度の力しかない。真(まこと)のプラスは 無限大の大きい力がある。無限倍よ常に。虚のプラスより虚の世界のプラスと比較したら、真(まこと)のプラスは無限倍の力がある、いつも。 全然違うの。

お祈りもそうなの、虚のお祈りでは力はないの。マイナスとプラスと打ち消しあって、ゼロになるぐらいの力よ。真(まこと)のお祈りは、常に無限倍のプラスの力があるから、一瞬にマイナスも虚のプラスも消しさるの。全ての思い、瞬間に消せるの。どれだけたくさんの思いでも瞬間に消せるの。真(まこと)のお祈りになれば。

ありがとうございますも段階が色々ある。虚のありがとうございますもあるの。虚の世界のお祈りのありがとうございますでは力がない。真実の世界のお祈りには力が備わる。同じありがとうございますだけど違うの。

普通、ありがとうございます 虚の世界では単なる感謝っていうのは多いよ。これ、お祈りじゃないよ。ありがとうございますをお祈りっていうふうに捉えると、虚の世界の定義がお祈りっていう、こう定義が加わると祈り言葉にはなるよ。虚の世界の祈り言葉よ、まだね。

それでは、まだ何万回、何億回唱えたって、あまり力はない。真実のお祈りに変わらないとダメ。それも段階が色々。大きく分けて、天照大御神さまっていう最小単位、無限大の完璧な光源の表現としてのプラスの無限のチャンネルの表現としての すがたをしっかり捉えるお祈りになったら、真義、真(まこと)の義って、真義のありがとうございますになる。まだ表現よ、まだ天照大御神さまの表現を捉えてる段階だから、そうなの。

次は天照大御神さまの光源を直接捉えたら、本義のありがとうございますって言える。これがまた入れ子構造の天照大御神さまのすがたを捉えたら、奥の義って、奥義のありがとうございます

さらに奥に入らないとダメ。絶対の中心って、本当の中心へ心を向けて、入れ子構造を捉えて初めて、秘められた奥義、秘奥義のありがとうございますになっていくのよ。この間の段階の変化って、やっぱり無限の変化があるのよ。

これは、この真(まこと)の神さまの大きい力で循環してくる。押し上げてくれる、無限倍の力で押し上げてもらわない限り、体得できないの。自分が登っていくこんなんではできない、絶対。無限倍の後押しがいる。上へ上へ入れ子構造って登っていくためには。そのために必要なことは、恩返しの絶対奉仕ってね。 神さまに自分の全てを捧げ尽くすっていう生き方が絶対必要になる。そうしないと循環しないのよ。

恩返しの絶対奉仕っていうのは、神さまに何も求めない。全部お返しするの自分っていうものがあったら、自分のものがあったら、全部神さまお返ししないとダメよね。全てをお返しして、全てを捧げて、神さまの方へ向かないとダメ。そして、後ろから後押ししてもらう。入れ子構造で出てくるのはみんな、Uターンして循環してるからUターンする無限倍の力で後押ししてもらわない限り、上へ登れない。

だから、この恩返しの絶対奉仕の生き方は、プラスの言葉だけを使わないとダメ。そして、新たに新たに受け直す心にならないとダメ、過去を絶対掴んだらダメ 。全てを神さまに捧げてお返しする生き方をとるの、与え尽くすっていう。

これが逆になると逆流を起こす。純流じゃないし。逆流になると流れが反対になると弾かれる。弾き返される、弾き飛ばされる。これ逆流っていうのは、マイナスの一言使ったそうよ。マイナスの言葉は反対に向いてる。求める心も反対に向いている。過去を掴んでは反対に向いてる。

過去を掴むって、みんなこの世を生きてるのほとんど掴んでるよ。現実を掴んだら過去を掴んでる。現実を掴むっていうのは、もう既に過去なの。遠い過去の残像というぐらい、この世の現実は、現実を相手に掴んでるのは、過去を掴んでることになる。だから、この本当は、みんな逆流を生きてることになってしまうのね。

それで、まだ、この現実の言葉で虚の言葉、マイナス言葉いっぱい使う。これもマイナスの逆流じゃない。そして、求める心を生きてる。ああして欲しい、こうして欲しいって。欲までいかんでも、人に与えてもお返し求める。これ、みんな求める心よ。これは全部逆流になってる。だから、逆な生き方を反対にプラスの生き方に順流へ置き換えていかないとダメ。それで、言葉をプラスに変える。それも最高のプラスに変えるために。ありがとうございますが生まれてるの。ありがとうございますが最高のプラスの言葉よ。真(まこと)の神さまの名前でもあり、真(まこと)の神さまの働きの全て。真(まこと)の神さまそのものっていうぐらいの無限の価値のある言葉よ。プラスの言葉よ。だから、ありがとうございますをまず選びなさいって言ってくる神さまはね。

そして、新たに新たに受け直しなさい、一大循環の相象(すがた)を新たに新たに受けたら、常に無限倍のプラスに置き換えて与えているからっていうわけよ。どの段階に入ってもそうよ。どの段階に自分がいてても、必ず無限倍のプラスが加わってくる。だから、今、掴んだのを離した方がいいよっていう。常に新たに新たに受け直す、この練習、生き方をしなさい。

それでもまだ掴んでしまうから、恩返しに生きなさい。全てを元に戻しなさい。お返ししなさいっていうの。その練習をしっかりしないと真実の世界には戻れない。戻れないっていうか波が合わないのよね。真実の世界が、新たに新たに受け直す最高のプラスの言葉だけを駆使する。恩返し絶対奉仕の世界。もう全てが神さまから与えられたものばっかり。だから、自分のものなんて何もないっていうぐらいに、徹底してるの。

自由っていう言葉一つとってもそうよ。自由っていうのは、虚の世界は自分勝手な自由よ。思い通りになんでもできるっていう自由を自由って思ってるかもしれない。でも、本当の神さまの世界では、自由っていうのは、捧げ尽くして、絶対奉仕に生きる自由。自分のためには絶対使わない自由よ。神さまのために、全体のために、自分の全てを捧げ尽くして、絶対奉仕に生きるのが自由なの。だから、全体から同じようにしてもらう。だから、無限倍の自由を与えてもらって、絶対奉仕を受けるのよ。全体から無限倍の自由と絶対奉仕を与えてもらうのが本当の自由よ。だから、誰も絶対、自分の自由縛ってこない。絶対縛られない自由を。絶対奉仕してくれる。全部が、これが本当の自由なの。

だから、神さまの全徳って、全ての働きと徳が全部そういうふうになっているの。全部神さまから与えられて、それを与えるために与え尽くすために全部、それを使うのよ。幸せでも同じなの。自分の幸せのために掴んだらダメなの。みんなを幸せにするためにって使わないとダメ。だから、自分の幸せを考えたら間違う。

みんなの幸せを考える。そうすると全体から同じように幸せを与えようとしてもらえる。 だから、全体から与えられる無限倍の幸せが、本当の幸せなの。だから、小さくなったら虚の世界に転落する。反対なの。虚の世界と全く正反対になるから。

それで、本当の自分を自覚するために、本当の神さまを自覚するために、どう生きるかっていうね、これが一番大事な問題。常にチャンスっていうのは今しかないの。いつ悟るかって言われた時に一年後にって言うたら、もう、常に一年後に先送り。言葉通りになって永遠に悟れない。十年間修行してから言うたら十年後になるでしょう。修行ばっかりして、永遠に悟れない。悟るのは今よ。今の一瞬に悟らないと、永遠にその悟りはやってこない。

だから、ありがとうございますがなぜ悟りへの言葉かって。ありがとうございますは、真(まこと)の神さまの自覚そのものになるのよ。ありがとうございます唱え続けるだけで、真(まこと)の神さまの自覚になるのよ。だから、これが真(まこと)の最高の悟りになる。

言葉通りになる。言葉通り。他の言葉じゃそんなん言葉ないと思う。いろんな神仏の名前いっぱい唱えたって、虚の世界の神さまじゃダメよ。元から離れた神さまと自分とが一体化するって。ピタっとくっついたって、くっついたって一体化しない、そんなん。離れたものをくっつけてもダメよ。元から一つになっているものでないとダメだから。

一大循環の相象(すがた)を受け直して、一体なの。それで自分がなかったら、本当の真(まこと)の神さまの自覚になる。

ありがとうございますの本当の意味がどれだけ奥深いものがいっぱいあるかって。これ、自分がしっかりと 探し求めないとダメなの。みんな最初は、ありがとうございますって素晴らしい言葉やと思って唱えてる。そんなんまだ何もわかってない唱え方なの。「ああ、心が幸せになりました」って、そんなん偽の心の安らぎ。本当の悟りとは全然無縁よ、そんなん。 ちょっと思いが少なくなったぐらいではダメなの。

全ての思いを消し切っても、まだ最初の出発点よ。全ての思いを消し切ってもらったのが、最初の出発点、お祈りの。 そこから深くならないとダメ。大きくならないと入れ子構造的に奥へ奥へ入っていかないと、真(まこと)の神さまと本当の一体感っていうのは、入れ子構造的に大きくなったら自覚なの。いくら宇宙が全部自分って言ったって、入れ子構造の小さい自分じゃダメよ。どこまでもどこまで大きくなっていくのよ。

だから、ありがとうございますって唱える、唱え方が、どんどん変化しないと毎日毎日、一瞬一瞬変化し続けないとダメ。今、唱えるありがとうございますよりも、次の一瞬唱えるありがとうございますが更に大きく、深く、価値のあるものにならないと同じ言葉唱えてるようだったら進歩ないのよ。

一瞬一瞬って言うと大変だから、毎日毎日唱える、ありがとうございます 価値が変わらないとダメ。そのぐらい、ありがとうございますが奥深い。自分の見出した価値の通りに神さまのプレゼント受け取るの。価値を見出してなかったら、受け取る価値は、ちょっとよ。ちょっとしか受け取れないと思う。無限の価値を見出したら無限のものを受け取る。無限の無限の価値を見出したら、無限の無限のものを大きく受け取るのよ、大きく。全部、言葉通りに受け取る。

だから、幸せっていう言葉を使って、幸せって言ってても、こんなんは、虚の世界の幸せよ。真実の世界の幸せは、無限の無限の幸せが無限に無限に一杯よ。これも今の一瞬じゃダメよね。新たに新たに、常に新たに新たにって、大きくなる幸せよ。だから、新たなるってつけるの。新たなる無限の無限の幸せが無限に無限に一杯って言わないと。無限の無限の幸せっていうのは、入れ子構造の幸せよ。入れ子構造的なってる幸せが無限の無限の幸せで、それが無限に無限に一杯っていうときは、全方向に無限で奥にところてん式に全部、無限に連なってるっていう意味よ。

それが全部、完璧な一つになっている。バラバラな幸せじゃない、寄せ集めじゃない。本当に循環して無限のスピードで循環して、部分と部分を切り分けが絶対できない幸せなの。元から完璧な一つの幸せなの。それも新たに新たに循環する幸せ。絶対なくならない幸せ。

虚の世界は、全部無から出発して、相対の両極に分かれて組み合わさって生まれて、また無に戻るの。無から出て無に戻るの、虚の世界は全部。 でも、真実の世界は、現れて消えるの違う。常にあるの循環してるだけで、常にある。絶対なくならない。常に、真実の実在としてある。循環してるっていうだけよ。絶対の中心から現れて絶対の中心に戻る循環を繰り返してるだけよ。組み合わせが変わるだけよ。だから、全然違うの。

だから、真実の世界には、虚しさや儚さってなにもないよ。プラスだけだから、本当の心の安らぎが、平安がいっぱいなの。でも、これは、言葉通りに全部受け取れるの。真実の世界も、虚の世界も全部、言葉通りに受け取れる。

だから、真実の世界を言葉にしないと、 真実の世界は受け取れない。虚の世界の言葉だったら、虚の世界しか受け取れない。だから、小さいプラスもマイナスの言葉も、虚の世界になるからダメなの。虚の世界は全部、自分のマイナスが自分に戻るのよ。純流の流れと逆流の流れがあったら、虚の世界は逆流よ。虚の世界は全部、順流の流れに弾かれる。跳ね飛ばされる。だから、鏡になって全部はかえるのよ。マイナスの一言、自分の選んで発したマイナスの一言、全部、純流の神さまの光の流れに弾き飛ばされて、鏡になって戻ってくる。

だから、全部自分に戻る。マイナス全部自分のマイナスよ。どんなマイナスもそうよ。虚の世界のプラスも全部そうよ。自分の言葉が全部跳ねかえるから。だから人は無関係なの本当は。他人のマイナスが自分にやってきてっていうのは絶対ないの。自分のマイナスが自分のプラスが、虚の世界、全部跳ね返って全部、自分に戻るだけよ。

真(まこと)の神さまと一対一の関係なの全部。これに気付かなかったら解決できない。人のマイナスって言ってる限り、またマイナス何倍も積み重ねる。どうして?

自分の出したマイナスだったら、それだけが自分で変える。人のせいにしたら人のせいでないのに人のせいにしたら、 損害賠償払わなあかんよ。それも神さまに向かって、そうでしょう。このマイナスは神さまのせいだって言ってるのと同じだから、どこに向かってやっても倍では済まないのよ、損害賠償額。 車でも高級な車と安い車と同じ事故になっても安い車、賠償金少ない。高級な外車なんかだとそうじゃない。十倍以上高いじゃない。それだけ余計払わなあかん、同じ事故になってもぶつけてもそうじゃない。神さまの方はものすごい高級車。百倍や千倍で一万倍でちょっと足らないかもしれない。

だから、どこへ向けても神さまに悪く言ったことになるのよ。神さまを悪者にして神さまのせいにしてることになる。濡れ衣を着せたってなるのよ。だから、人のせいにした時は倍では済まない。常に たくさんのマイナスを跳ね返される。だから、全部自分のマイナスって気づかない限り、このマイナス消せない。少なくならない。人のマイナスって思っただけで自分で増やしてるのよ。たくさんのマイナスを自分で、かき集めてるような感じ、だから怖い。だから、人のせいにする人は、マイナスを人のせいにする人は、運命絶対良くならない、そこよ。どんどんマイナスが増えるのがそこなの。自分が勝手にマイナスを増やしてる。

たいてい仏教だったらそうよ。仏様を誹謗する、悪く言ったら地獄に落ちるって教えてる。それ仕方ないよ。お釈迦様のような立派な方を悪く言うだけでお釈迦様は悪くないよ。救うばっかりじゃない。陰で救って救って救い続けてくれるお釈迦さんじゃない。自分の気付かないところで大きい助けを受け続けてるのに、それを恩を忘れて悪く一言言うだけで地獄に落ちるっていうじゃない。

それ、やっぱり自分のマイナスが大きく増えて、そのマイナスを消してもらえないから勝手に落ちてしまうのよ。だから本当の神さまに向かっては絶対マイナスの一言向けられない。全部跳ね返される。だから、人のせいにしたら損する。マイナスは全部自分のマイナスと言わないと損よ。人のマイナスも自分のもんだって言わないと。本当はそうなの。自分の見てる世界にあるのは全部自分のマイナスって言わないとダメなの。あの人のマイナスって言ったら馬鹿よ、みんなね。プラスは神さまのプラスって言えば良い。マイナスは全部自分のマイナスって言わないとね。そしたら消してもらえる。ごめんなさいって言えば消してくれる、神さまはね。

だから人を悪く言ってる人を見てたらわかる。人相がどれだけ悪くなっていくか。人相だけじゃないよ、心がどれだけ荒んでいくかね。マイナスが全然消してもらえないのよ、怖いぐらい。本当はすぐ地獄に落ちるぐらいのマイナス積むの。地獄の形相になるの本当は。それでも助け続けてもらって軽くしてもらってるのね。ちゃんと与えてもらってるんだけど。でも、それを繰り返したら、やっぱり、助けを拒絶してしまう。

虚の世界の救済の神さまも一生懸命頑張って助けてくれてても、追い付かない。大勢の救済の神さま、虚の世界に一杯いててね、一生懸命助け続けても良くならないのはそこよ。助けを受ける側が間違っているから。心得違いよね。だからマイナスは全部自分のマイナスって受けるのが正しい生き方。

そのマイナスは自分の選んだマイナスの言葉だから、言葉の選び方を変えたら良いだけよ。言葉をプラスに変えたら、マイナスなんかさっと消える。だから絶対マイナスの言葉使ったら損してるのよ、大きく。今、出てるマイナスが全部過去のマイナスが出てるのよ。過去のマイナスの言葉が現実化して消えていってる。虚の世界はそうね。まだ残ってるかもしれないよ、心の中に一杯。それは全部出てきて消えて無くなる。

でも今使うマイナスの言葉は、必ず未来に出て来るよ。未来に必ず出てくるよ。今、選んで使った言葉全部ね、過去の溜めたのが全部、形に出て消えたら、その後を追って出てくるよ。だからマイナスがある時ほど、プラスの言葉使わないと駄目。マイナスだからマイナスを言葉にしたらダメよ。また、マイナスを増やしてる。どんどんマイナス増やしてるから、いつまでもマイナス出続けるよ。出てくる。だからマイナスの多い時ほどプラスの言葉を加えないとダメよ、虚の世界はそうよ。

プラスばっかりでも、そうでしょう?マイナスの言葉加えたい?加えたくないわね。絶対使ったらダメよ、だからマイナスの一言。プラスでも虚の世界のプラスは要らないの。虚の世界のプラスも消してもらわないと本当は損するの。本当の幸せから遠ざかっていくから。

雲でも、白雲と黒雲ってあるでしょう?白雲はプラスに良いように思うけど、光と雲とは違うよ。光の方が本物で、白雲なんて、そんなん幸せって本当の幸せじゃないよ。それが白雲が集まったら厚くなった黒雲になるよ。厚くならないから白雲なんよ、光がちょっと差し込んだら。だからプラスの思いも本当はマイナスなの。光から見たら光を遮る。だからすべての思いは、全部消してもらわないとダメよ。虚の世界の言葉、プラスもマイナスも全部消し切ってもらうのが一番必要なの。

だから、お祈りが本物のお祈りにならないと全部消してくれないから。だから、ありがとうございますが本物のありがとうございますになることが一番必要なの。

単に唱えていて良いのと違う。ありがとうございますの中身をしっかりと理解しないと価値を見出さないと、同じ唱えても力が無くなる。だから真(まこと)の神さまそのものっていうぐらい、やっぱりありがとうございますを唱えないとダメ。

それで神さまを呼び続けてるというぐらいの気持ちで唱えたら、それは本当の祈りになる。祈り言葉を唱えるのと祈りとは違うから。祈り言葉を唱えても神さまが働いてくれなかったら祈りにならない、力が無い。祈り言葉だけでは力が全然無い。

マイナスの言葉とプラスの言葉と並べて、苦境の世界では順番に出てくる程度のプラスの言葉になってしまう。マイナスを打ち消すことも出来ない。でも、祈りになったら、思い全部消せる、プラスもマイナスも全部。虚の言葉全部消し切ってくれる。瞬間にサッと消えるのよ。

だから祈り言葉を祈りに変えないとダメ。だから、ありがとうございますっていう祈り言葉も、祈りになるようにしていかないと。だから常に真(まこと)の神さまを呼ぶようにして唱える、恩返しの気持ちで唱える。色んな意味合い一杯あるじゃない、ありがとうございます、全部束ねて唱えないとダメ。

そしたら、ありがとうございますがもっともっと進化するのよ。同じ唱え方も一回一万円の価値では、まだ虚の世界の唱え方よ。一回一億円で、まだダメ、虚の世界よね。無限億万円を価値を見出さないと一回のありがとうございますに。無限億万円の価値があるって言わないとダメ。そしたら思いを消す力が降りてくる。

やっぱり神さまって価値を見出してくれんかったら出て来てくれない。一億円の価値の神さまって言ったら出て来こない。一兆円って言っても出て来ない、真(まこと)の神さま絶対に。無限億万円の価値のある神さまって言ったらちょっと顔出してくれるかって。ほんのチラっとよ。そのぐらいよ。

真(まこと)の神さま、大きいから、そのぐらいでないと一回のありがとうございますが無限億万円の価値があるって、それ以上の価値があるって言わないとありがとうございますを唱えても、真(まこと)の神さまは飛び出して来てくれない。そのぐらいの誉め言葉でないとダメなの。

ありがとうございますが最高の誉め言葉っていうのを、新たなる全徳の無限の無限の輝きが無限に無限に一杯という意味を持っているから最高の誉め言葉なんだけど、本気で最高の誉め言葉って自分が理解して信じて使っているかって。まだ使ってないかもしれないね。本当に最高の誉め言葉って自分は確信を持って唱えていたらお祈りになる。

ありがとうございますが最高の、これ以上の言葉はないという褒め言葉よ。神さまの新たなる全徳の無限の無限の輝きが無限に無限に一杯!という、すべての徳をまとめて褒めてる言葉よ。素晴らしいなんて言葉と違うよ。そんな程度じゃない。言葉を超えた最高の誉め言葉よ、最高のありがとうございますがね。それをしっかりと自分が認めたらお祈りになるの。

それで、感謝の、この真祈りっていうのが、なんでこんなんわざわざ護摩木にも書かせてきてるんかって、最高の誉め言葉であるっていうことを心の底まで叩き込むためよ。感謝の真祈りの祈り言葉を護摩木に書いて、ありがとうございますを書いて、してる本当の意味は、ありがとうございますが最高の誉め言葉っていうのを実感できるようになるまでするの。そしたらお祈りになる。神さまと出会えるお祈りよ。必ず神さま出て来てくれる。出て来てくれた時が真実の世界に戻った自分よ。本当の自分、悟った自分に戻った時よ。

こういうありがとうございますを伝えなあかんねんけど。でも世界へ伝えるって、自分がそれ出来ないと伝わらんのよ。自分が実行しないと伝えようがない。だから人に伝えようなんて思わんで良いのよ。もうひたすら神さまの中へ飛び込む溶け入る、これだけよ。

神さまと一対一の関係になるだけが良いのね。自分の他に神さましかないって言わないとダメ。人をどうこうしようと思ったら間違う。虚の世界に転落するの。だから止めなさい。しない方が良い。人に伝えようなんて考えない方が良い。人を救おうなんて思ったら大間違い。自分が救われてないのに悟ってないのに、人を救おう悟らせるなんて出来ない。反対よ。真(まこと)の神さまへ心向け続けるだけでないと、そこへ戻れない。そうね。

質問
人に伝えるっていうのは、それはどうなんでしょうね。良い事のような気もするんですけど。正しいことを伝えるっていうのは良いことでは…。

先生
それね、神さまから与えてもらったものを、自分のものと独り占めしないというのは良いのよ。自分のためにっていうのがダメなの。みんなのためにっていうのは良いのよ。神さまが与えてもらった真理の言葉でも、自分のためだけにっていうのは利己的よ。求める心よ。でも、自分を通して、みんなのためにっていうのは、これ恩返しよ。

質問
そうすると、外国のみんなのためにっていうのはやっぱり良いことじゃないですか。

先生
だから、それが本当に出来てるかどうかよ。恩返しになってる?本当の恩返しにならないと出来ないじゃない。本当の恩返しは、自分が無いのよ。自分が無くならないと恩返しの絶対奉仕じゃないのよ。だから、自分がするっていうのは、みんな間違うのよ。自分が自分がと思いの自分が出て来たら、何してるか分からなくなる。反対になってしまうから。だからしたらダメなの。

自分がすることは神さまに心を向けて溶け入るだけよ。あと神さまが勝手にするのはお任せよ。神さまが自分を使ってくれてすることは、これは神さまのすることだから絶対奉仕よ。自分のするのは絶対奉仕にならない。つまらん奉仕よ。でも、自分は神さまに全托して。ありがとうございますは全托行。ありがとうございますと唱えて続けて全托行を徹底してたら神さまは使う。使いやすいから使う。その時にすることは、神さまのすることだから自分はしてないの。絶対奉仕よ。何しても絶対奉仕に変わる。

だから真理の言葉を伝えてくれるかもしれない、神さまがね。必要なところへ必要なものをちゃんと与えてくれる。これを自分がストップかけたらまた間違うよ。神さまがしてくれることは絶体奉仕だから。使ってもらうほど、神さまが降りて働くから輝くの自分が。ストップかけたら輝かなくなる。この辺もお任せよ。自由自在にならないと出来ないよ。

だから、自分がしなければならないというのは間違いよ。自分のすることは神さまに心を向けることだけ。後は神さまに使ってもらうことだけ、一番大事なのがそれよね。邪魔しないことよ。すべて神さまのお陰っていうのは100%神さまのお陰よ、本当に。自分は何もしてない。

だから自分が消えないと消えないと絶対奉仕にならない。自分というのが出たら邪魔してる、我が出てるから。すべて神さまのお陰っていうね、100%神さまの働きだけっていうふうになったら、自分が消えてるから絶対奉仕。ありがとうございますを唱えるのも、恩返しの絶対奉仕のありがとうございますを唱えるのも大事なことなの。

ありがとうございますって唱えるお祈りが、本当は最高の恩返し絶対奉仕。一回のお祈りが無限億万円の価値があるんだったら、大きい絶対奉仕。でもこれも自分が祈ってるって言ったら我の祈りよ。価値が小さくなる。我の祈りになるほど小さくなるの、価値が。自分が無くなるほど大きい価値が生まれる。神さまが祈ってくださってるっていうのが本当の祈りよ。そこは無限の価値がある、そこに。備わってくる。

だから常に本物を、本物をしっかりと見極めないとダメ。惰性に流れたら偽物になる。常に新たに新たにって、本物を見出していくのが正しい。過去の惰性に流れたら偽物に陥っていく。厳しいですね。でも楽しい。新たに新たにって生きられたら楽しい。ちょっとわかってくれた?

まだまだ浅いのよ、これは。まだ奥が奥が深いよ。本当の神さまへの弟子入りが要るのよ。弟子入りしないと本当の守りがないのよ。弟子入りは、恩返しの絶対奉仕に徹底しないと厳しい。自分が弟子になったつもりじゃ、まだ弟子と違うのよ。神さまが弟子入りを許可しないと弟子じゃないよ。それを認めてもらうまで、しっかりと恩返しの絶対奉仕に生きる練習を積み重ねるの。認めてくれた時が弟子入り。

恩返しも、恩返しになるかどうかが問題なのよ。みんな無限の借金を持ってる。思い一杯というのは。それも高利の利息付の無限の借金と同じ。でも、これは自分が死に物狂いで働いて返そうとしないとダメなの。怠けていては返せない。利息すら一部も返せないですね。だから死に物狂いで働いて返そうっていう気持ちが絶対要るの。だから、その働きを大きくして返そう返そうって一生懸命に与え尽くす生き方が良いのよね。

だから借金返しでもタダ働きでないとダメになる。タダ働きが借金返しの気持ちを持ってるって言えるのよ。その借金返しを神さまは見てるのよ。どれだけタダ働きして一生懸命返そうとしてるかって、それで神さまが認めてくれた時から、それが恩返しに変わるの。自分が恩返しに切り替えるわけにいかないの。自分はあくまで借金返しなの。神さまが認めてくれた時に恩返しになる。神さまが借金を肩代わりして棒引きにして消してくれる。一生懸命生きてるから助けようとしてくれるだけのこと。それを認めてもらうようにしっかりと生きないと恩返しに絶対になれない。自分が言ってもダメなの。自分が恩返しに生きてるって言っても通用しない。借金取りが次から次へやってくる。

神さまが肩代わりしてくれるようにならないと恩返しって言えない。借金取りを追い払ってはくれない。だから、働きを大きくしていく、みんなを幸せにしようと一生懸命働くというのは大事なの。一生懸命、すべてを捧げ尽くして借金返ししようとすることは必要なの。そうしないと神さま認めないよ。怠けていてはダメなの。

だからお祈りで神さまのお役に立ちたい、借金返ししたいって、これもありがとうございますと唱えるのでも、そこまで真剣に祈らないとダメ。真剣に祈ったら、こう借金返しのありがとうございますが、恩返しのありがとうございますに変わるよ。価値が無限に、無限倍になるの。

同じありがとうございますを唱えても、借金返しの時は、まだ微々たるもんよ、返すのも。同じありがとうございますを唱えてても。それが恩返しに変わった時に、それが無限倍の働きに変わる。だから、同じありがとうございますを唱えてるんでも、一生懸命唱えないとダメ。認めて貰えるまで唱えないと。一心不乱に唱えるほど認めて貰えるよ。

だから、報いを求めないっていうのが一番のポイントよ。お返しを求めたらダメなのよ、どんな働きしても。仕事をして、お金を貰う仕事でもそうやけど、お金を貰おうと思ったら損するよ。ただ働きの気持ちだけで働いといたら良いの。貰った時は貰ったで良いけど。その時は神さまから頂いたっていう気持ちで受けたら良いだけで。これだけ働いたからお給料貰うって言ったら間違うよ。

お祈りもそうよ。これだけ祈ったのに、なんで良くならないの?って言ったら大間違いよ。求めてるから神さまの助け無くなるの。こんなちょっとしか祈ってないのに、こんなに幸せにしてもらってって言った方が良いの。これ反対の人いてるよね。これだけ祈ってるのに病気一つ治らんって言う人いてる。これ、絶対治らないよ、保証する。神さまに対して無礼千万だからよ。こんなちょっとしか祈ってないのに、こんなに幸せ一杯にしてもらってって言う人は助けてもらえる。これも言葉がプラスに向いてるから神さまは助けやすいのよ。

だから、気付かないことって一杯あるよ。正しいと思ってて正しくないかもしれないしね。だから、そういう気付きを与えてもらうのも、やっぱり本物を目指さないとね。気付きが次から次へと与えてもらえないから。それで、小さい気付きで喜んで満足してしまったらダメよ。最高の悟りまでいかないと。真(まこと)の神さまの近くにまで戻らないとダメよ。そこまで行かないと。

はい、ありがとうございます

音声はこちらからどうぞ
https://youtu.be/XMUcBoHNlxw

宇宙神ありがとうございます

じょうし


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2012-12-22 by 河上あきのぶ [Mail] 2024年03月18日(月) 11時55分
PC

2012年12月22日先生のお話
 宇宙神ありがとうございます

 2012年12月22日の先生のお話です。

先生
 何か質問は?

質問
 言葉を書き出しはじめたら、質問を考え始めたら、ものすごい言葉の数で。神さまの意図がわかったっていうか、真実の世界の辞書になるんだって思ったんです、これは。それがハッキリとわかったら、いろんなことがスッキリすんだなっていうのがハッキリしてきた。それぐらい混沌としてんだっていう、それがわかったんです。

 そいつは一大循環の流れになる、そのものになるっていうのがやっとわかった。全体になってるっていうのは、まだまだですけどね。でも、ああ、部分と全体とかって言ってたの、そう違ったのかってのはわかってきて、すごいなって。

先生
 それで何が聞きたい?

質問
 新しい話。与える側に立つっていうのだけ、がーっと聞いてるから、それはわかりました。でも、それができなきゃしょうがないしな。自分が実行するしかないんで聞きたいことって言われても困るんです。思いだしってなっちゃうし。ただ、着実に変えてってくれてるっていうが感じるから・・・。

先生
 どんな問題もそこに答えをもってきたら消える。神さまの世界は答えだけなの。

 まず、時間と空間。これ虚の世界は、相対の両極の姿を取る、時間と空間。それを組み合わせて宇宙、世界生まれる。時間も過去、現在、未来って無限の年月が広がる。空間もそうよ、入れ子構造的にも大きく広がる。真(まこと)の神さまの世界は、そのすべての時間と、すべての空間を本当一つに束ねて収めてる。ものすごいこと。だから、全部を束ねてるから問題がないの。すべて満ち足りてるの。それを時間でも、空間でも広げてしまったら全体じゃない、足りなくなるから問題が出てくる。不足してるっていう姿。

 幸せでもそうよ。神さまの世界の幸せは、無条件の幸せっていうのは、一つ一つ数えないっていうのは、新なる無限の無限の幸せが無限に無限に一杯っていうすがたを取るから、幸せが満ち足りてるの。だから、幸せを求めない、探さないし、数えない。すべての幸せを一瞬一瞬与え続けてもらって、味わい続けて、これ永遠に続いてるもの。幸せの答えが既にある。

 これが本当にわかるかどうかが一番大事なポイント。わかるためには、もう神さまの側に立たないとわからない。何度も例えで言うけど、太陽の光を求めて受けるって、その時に受ける太陽の光は一筋の光よ。太陽の放射してる、たくさんの光を受けられない。自分の方向へ流れてくる一筋の光。だから、無限分の一よ。太陽は他へ、無限の方向へ放射してる光。放射してる光は無限倍。太陽の側に立ったら光がよくわかる。これが光なんだって、みんなを幸せにする働きなんだってよくわかる。

 神さまの働きがそうよ。太陽の無限億万倍以上の大きい光を与えて、与えて、与え尽くしてくる。でも、その神さまの光を受けようとしたら、小さい無限分の一以下の光よ。求めても、もっと小さくなる。だから、神さまの側に立って、与え尽くそうとした時に、初めて、神さまのすごさが実観できる。

 だから、与えて、与えて、与え尽くすっていう神さまの側に立てばいいよね。本当に必要なものを、すべてに対して的確に与え尽くしてくる。本当に的を的を得て、確実にって、的確に、絶対間違わない。本当に必要なものを与え尽くしてくる。

 何が本当に必要かって的確に見抜く、そして与えてくる。だから、与えてもらう側も段階が色々、無限の段階もあるし、何が必要か全部違うし、この無限の段階の違いが見抜けないとダメだし。何を本当、本当に必要としてるかを、もう細かいところまで見抜かないとできない。

 今、お茶一口だけ飲みたいっていうのにコップ一杯もいらない、一口だけでいいのにね。それもちゃんと、どれだけが本当に必要かって見抜いたら最高の状態で与え尽くしていける。それが、やっぱり一瞬一瞬新たに与え尽くす働きが神さまの場合完璧なの。もう、すべて取り揃えて、なおかつ必要なだけを与え尽くしてくるっていう。そのすごさが、もう言葉では本当は表現できない。 愛の深さ。

 ただ神さまの愛を本当にちょっとでも観じ取ろうと思ったら、神さまの側に立って、神さまと同じようにみんなを愛するっていう、働きの方へ心向けなダメ。愛を求めてる間は、本当にわからない小さい。だから、与える側に立った時に初めて 実観させてもらう。最初は小さかっても、どんどんどんどん大きくしてもらえる。

 神さまの働き、常に後押しよ。真(まこと)の神さまの働きは常に後押しなの。一番下から支えて押し上げる働きよ。虚の世界の神さまは上に立つ。上に立って引っ張るっていうような感じでも成り立つのよ。虚の世界の神さまはそうよ。上下の差別がある。でも、真(まこと)の神さまはそうじゃない。一番下から支える。どこまでも後押しなの。だから、神さまに代わって、みんなを幸せにしようとして与え尽くしたら、 いくらでも無限倍、無限倍って、いくらでも支える力を与えてくる、循環させてくる。もう絶対不足することはない。

 この一大循環の流れの中へ、自分が置けたら、幸せって絶対崩れない。本物っていうのは、一大循環の流れの中へ入ったらいいだけなの。ありがとうございますって、お祈りも同じなの。ありがとうございます唱えて、求めるお祈り、受けるお祈りはまだ偽物。与え尽くすお祈りになったら本物。ありがとうございますも真(まこと)のありがとうございますに段々となってきてるの。神さまの側に立って一大循環の愛の相象(すがた)を与え尽くそうという働きになってきている。

 真(まこと)のありがとうございますを受けるようになってきた。量よりも質の方が大事なんです。低い段階で、いくら数が増えても量が増えても邪魔になるだけなの。質をどこまでも高めないと、まず質を高めて、これが本物ってなったら、今度は量が増えても大丈夫。みんなを本当の意味で幸せにしていける。ありがとうございますをただ唱えたから、たくさんの人が唱えたからいいのかって、そうじゃない。求める心でありがとうございます唱えてくれたって、大したことない、邪魔になるの。

 南無阿弥陀仏っていう、この祈り言葉も同じよ。南無阿弥陀仏、本当は阿弥陀様と一体化するための光の言葉だけど、でも、お葬式の時に南無阿弥陀仏唱えるでしょう。そうすると段々とお葬式の念仏になる。お葬式を思い浮かべて南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏が汚れてくる。マイナスのお葬式の念仏になってくると唱えるほどマイナスが増える。同じ南無阿弥陀仏なのに。余計なものをくっつけたらそうなる。

 ありがとうございますも本当はそうよね。余計な願い、思いをくっつけたら、マイナスになるの唱えるほど。だから、神さまの本当のお手伝いじゃなしに邪魔してることになる。思い一杯まき散らすような働きになるからよね。だから、本当のありがとうございますになった時に、初めて神さまの本当のお手伝いなってくる。だから、真(まこと)のありがとうございますっていう本当の意味をわかってきた人は唱えるほど、神さまのお手伝い。一大循環の光を与えるお手伝い。本物だったら、いくら広がっても大きくなっても大丈夫。みんなを輝かすだけなの、みんなにプラスを大きく与えるだけよね。

 だから、これからよね。本物の真(まこと)のありがとうございますがこれから広がる。今までは、質を高めるために色々、神さま助けてくれた。これからはもう、本物のありがとうございますになったから大きい助けが循環してくる。真(まこと)のありがとうございますをみんなが生きるのよ。これはもう、真(まこと)の神さまが、真(まこと)の自分っていうすがたで生きる。本当の一大循環の相象(すがた)となって生きる。だから、すべてに対して、本当に必要なものを的確に与えていこうという働きのお手伝い。

 神さまの教えも方便の教えも本物の教えも一杯あっても、本当に必要なものを的確に与える働きが 本当の神さまのお手伝い。単に単に教えを説いたから正しいんかって違うよ。

どんな質問に対しても本当に必要なだけを答えていかないダメ。同じ一つの質問でも段階がいく通りもあって、その答え方も幾通りも段階に合わせて答えないとダメ。それでいて、一貫して真(まこと)の神さまと繋がるような答え方がいる。だから、どういう言葉を、どういうプラスの言葉を、こう、すべての人に対して与えていくか?これも大事な与え方よね。

 ただ、ありがとうございますを与えたらそれでいいのか?ってそうじゃないの。細かいところまで行き届いて、必要な言葉を的確に与え尽くしていくのが必要なの。

根本は、真(まこと)のありがとうございますがバックについて大きい光を振りまいてくれるけど、枝葉の細かいところは人の役目よ。本当に必要な言葉を的確に見抜いて、与え尽くし合うようになってくると、神さまの一大循環の相象(すがた)の中へ入っていくの、みんながね。そしたら、真(まこと)の神さまの世界になってくる、必ず。それができないとまだ必要なものが手に入ってないから、不足の世界、虚の世界になる。

 だから、いろんな質問、問題って一杯ある、世の中に。不平、不満、不足の世界はそうよ。千や二千じゃない。例えば、「戦争はどうして起こるの?」って、答えるって大変よ。いろんな立場から、いろんな角度から、ちゃんと検証しないとできないよ。原因がたくさんある。また、「戦争をなくすにはどうしたらいいか?」って答え方も一杯ある。また、軍備って、「軍隊って本当に必要なのか?」っていう質問があっても、どう答える?みんな。 「軍隊がなぜ必要か?」って。でも、「本当に必要か?」正しい答えがいるのよ、やっぱり。それも段階段階に応じて、いろんな、必要な、的確な正しい答えが出てこないと問題解決していけない。

 だから、その時、その時、全部答え方が変わらないとダメ。本当に必要な言葉を、本当に必要なプラスの言葉を加えたら問題消えるの、順番に消えいける、消していける。だから、(ありがとうございますは)一番高い、大きい光の言葉だから、これだけ加えたら全部消えるんか?そうじゃない、消えない。受け付けない、まずね。

 そうでしょう、戦争状態の中に置かれた人が、本当に無抵抗で命投げ出して、お任せできますか?って言ったってできない。でも、本当の答えはそうよ、神さまに全託すればいいことなんだけど。すべてを神さま任せれば解決することだけど、今、戦争状態で身内の人が殺されて、バンバン弾が飛んでくる中で、本当に無抵抗になれるか? 難しいよ。→これを十字架に上るという。河上註

 だから、その時のその時、状況に応じて必要な解決方法って順番に出てこないとね。だから、人の心を癒す言葉もそうよ。順番に必要な言葉が的確に出てこないと人を救えない、答えにならないから。

 だから、例えば、千の質問を用意しても一つ、一つ、一つの質問が、また細かく枝分かれする。同じ一つの質問に対して答えるのでも、幾通りも答えを出さないとダメ。いろんな角度からいろんな立場から、どの立場まで引き上げるか?っていう答えが必要になってくる。

 こういう本当の正しいプラスの必要な言葉を与えるっていう勉強も大事よ。神さまの側に立ったら、よくわかってくるよ。どういう言葉が必要か?って。そして、本当の必要性がわかった時に自分の身につく。問題が消えて答えが、そのまますーっと観じ取れるようになるの。どんな問題も解決するための鍵がいる、鍵がね。

 これからそういう勉強をみんなしないとダメよ。一人ではできない。神さまの世界は元からみんなが支え合う。みんながプラスを与え合って、支え合って、一つの大きい働きをする。だから、自分一人で全部できるのは不可能なの。それじゃ、自分だけが悟るだけでダメ。みんなが悟るっていうのは、みんなが同じように、そういう働きを一緒にしないとダメ。

 支え合って、助け合って世の中のすべての問題を解決するために、本当の答えを的確に出し合ってこないと。そして、それをみんなに伝えていかないとみんなが手を携えて、支え合って、助け合ったらすぐできること。

 そして、与える側に立った人は神さまと一つになる。本心の自分に戻って、神さまの知恵をもらう。本当に幸せな自分に変わる、すぐに。だから、与える側に立つことが、これからの本当の生き方よ。真(まこと)のありがとうございますを生きる。真(まこと)の神さまを生きるのよ。本当の自分を生きること。

 これはもう、これからみんなを幸せにするために何を与えたらいいか?ここから出発よ。それで、プラスを与えて、与えて、与え尽くすだけでいいのよ。マイナスをどうのこうのじゃない、プラスを与えたらマイナスが消える。光を与えたら闇が消える。どれだけ光をプラスを的確に与え尽くしていくか?これだけよ。だから、これから本物の時代になっていく。もう、マイナスや闇と取り組むのと違うの。自分が光になればいい。自分が光を放射すればいい。

 この真実の世界の最小単位の天照大御神って、天照大御神っていうのは、一つの光源よ。「あま」っていうのは、全大宇宙っていう意味よね。天照大御神という言葉はどういう言葉かっていうと、自ら照り輝きながら、なおかつ、全大宇宙を照らす働き。自らが光になる、光源になって、なおかつ、全体を照らす。照らし合うみんながね。これが天照大御神っていう言葉の意味。虚の世界の比較上の、この神さまの言葉じゃないの、真実の世界の天照大御神という神さまの名前の言葉の意味よ。だから、入れ子構造の天照大御神さまが、真実の世界には無限に無限に一杯よ。そのすべてが本当に支え合ってるの。支えるっていうのはプラスを与え合ってる。必要なものを的確に与え尽くし合ってる。自分は全体を相手に、自分のすべてを与え尽くしていくのよ。そうすると、全体が自分に対して必要なものを的確に与え尽くしてきてくれるの。だから、そのプラスの循環、交流だけプラスがどんどん増幅して大きくなるだけなの。元からそうよ。一大循環の相象(すがた)がそうなの。一大循環の相象(すがた)そのものが、支え合いのすがたをとっているからよ。

 その支え合いの世界へ飛び込むの。これが、みんなが手を取り合って、支え合って、一つの目的に向かって、神さまのお手伝い、与え尽くす生き方をとれば、その元からある一大循環の世界に真実の世界に、すっと戻れる。だから、虚の世界を消すも何もないのよ。一大循環の世界の中に入ったら虚の世界はないの。

 だから、真実の世界に戻りたい人は、その真似事をするだけ。神習いって、神さまの生き方に習って、真似事をすることによって一大循環の相象(すがた)の中へ戻っていく。
→これの簡単な実行が印可書の奉読です。河上註

 そして、神さまの世界だけっていうのを実観する。だから、神さまの世界から、どっかに落ちてしまった、落とし穴に、はまったから虚の世界。だから、神さまの世界に戻ったらお終いなの。元から落とし穴ってなかった。

以下で言うありがとうございますを展開すると印可書になります。河上

 (神さまの側に立って→神さまのお手伝いとして)ありがとうございます一言唱えるだけで、一大循環の相象(すがた)となって、大きい働きをする。ただ、ひたすらありがとうございます唱えるだけでいいの。神さまの側に立って唱えたら、大きい光は降り(ふり)まいてるすがたよ。一大循環の相象(すがた)になって、大きい光を全体へ降りまいてるすがた。ありがとうございますにその大きい力があるの。本当に霊妙不可思議な神秘の力があるの。一大奇跡を起こしてくれる。本当の言霊の力がある、ありがとうございますに。その、ありがとうございますをひたすら唱え続けるだけがいい。そしたら、一切の我は消える。真(まこと)の神さまだけが、新たに新たに現れては、真(まこと)の自分っていうすがたで働いてくれる。

 ありがとうございます唱えるだけが無条件の幸せを実観する。本当に湧き上がってくる幸せを実観する。真(まこと)の神さまと出会うって言うけど出会うって言うけど、目の前に現れたのを見るのと違うよ。真(まこと)の神さまの自覚になる。目に見えるのは大したことないよ、そんなん。太陽が目の前に現れたって、太陽を見たって、太陽と一体化してない。真(まこと)の神さまと出会うのは、そんな出会い方じゃない。

 真(まこと)の神さまの自覚になる。神さまの側に立って本当の出会いになる。だから、一対一の本当の対面っていうのは、本当に神さまの他に何もないっていう出会い方になる。だから、五感の感覚も、六感の感覚も全部、虚の世界の感覚よ。時間と空間に、その対立させて広げた世界は本当の全体のほんの一部分よ、部分だけを見てるだけよ。本当の足跡、残像よ。時間でも無限の年月見てない。その中の一部だけ、無限分の一だけを今っていうふうに捉えてるだけです。だから、いかにこの五感、六感の感覚は、つまらない、頼りないものかってね。

 だから、全部、始めがあったら終わりがある。必ず消えてしまう。マヤ暦では、今日が終わりなのよ。終末なんよ。世界が滅ぶっていうふうに予言を、予言的に感じて言うてる人、大勢集まってるらしい。本当はそんな意味じゃないけど、でも、それ言葉通りだから。マイナスに言葉を使ったらマイナスに感じたりする。でも、虚の世界も現れたら必ず消える。だから、一日でも朝があり晩がある、月の始めがあり月の終わりがある。一年の始めがあり、一年の終わりがあるって、長い周期でも、そうでしょう。必ず始めがあって終わりがあるのよ。だから、暦(こよみ)も同じよ。大きい一つの周期を表してる。だから、その一つの大きい周期が終わったっていうだけよ。でも、それも、もう一つ大きい周期の中に入ったら、まだ途中よ、みんな。

 虚の世界の考え方は色んな考え方一杯あるの。マヤ歴もいろんなことが一杯、わかりやすく模型的に解いてるって言ったらそうだけど、日本の古事記の神話も、あれも本当の仕組みを地球じゃ最高の解き方をしてる。でも、虚の世界の成り立ち、それは。

 まず、一つのものが二つに分かれて、それぞれ、順番に組み合わせて作っていくにしても、一が二なり、二が四になりって、更に八になって、十六になってって、十六菊って、皇室の紋章じゃない。三十二になると今度、仏の三十二相っていうじゃない。完璧な姿をこの三十二相っていう姿に見るんじゃない。それをどんどん膨らましていくのよ。そしたら、いろんな周期の姿がいろんな姿で出てくる。一年の四季の変化でも順番にいろんな姿を辿るよ。同じ状態は続かない。必ず虚の世界は、みんなそうよ。相対の両極の全てが組み合わさってできるもんだから、夏が来たら冬が来る、春が来て秋が来てっていう、やっぱり循環する姿を全部取るからね。だから、その組み合わせで、いろんな周期を考えてる、みんな、言葉で考えて、それを、虚の世界では活用する。

 ただ、どんな移り変わりでも、全部プラスに見ようと思ったら見れる。春が来たら春を最高。夏が来たら夏を最高って、これ全部最高に見たらいいだけなのよ。言葉の使い方一つよ。これを一つの立場に縛られたら、夏がいいって言うて、冬が寒いって言う。マイナスって本当はマイナスじゃないのに、言葉がマイナスって言ったらマイナスになるの全部。ご馳走ばっかり食べて、お腹満腹っていうのがプラスじゃない、食べ過ぎたらしんどい。運動してお腹減らした方がプラスの時もあるの、気分爽快。

 本当は、すべてプラスなの。移り変わる姿をすべてプラスの言葉で受けたらプラス。虚の世界ほど言葉通りに感じる世界。でも、真(まこと)の神さまの真実の世界は、もう全部、すべてを一つに収束して、一つに束ねて収めてるからプラスばっかし。比較しないから対立させないから本当のプラスばっかりの一大循環の相象(すがた)をとり続けている。→このうつしよの感覚では、印可書を奉読している状態。河上註

 なんかありませんか?答えは?

 この日本の国を良くするためには何が必要なんですか?って、今のままでいいでしょうかね?いろんな問題一杯あるでしょう。国内の問題も外国の問題も一杯ある。いろんな問題どうしたら解決できるか?本当にみんなが調和して幸な状態にならないと解決じゃないもんね。この領土の問題でもそうよ。どうしたら解決できるか?執着して、これが自分の国の領土ってしがみついたら絶対解決しない。でも、執着して離さない人にどうして解決していくっていう答えを与えていくかよ。やっぱり順番がある。最後は全部、神さまにお返ししないとダメよ。自分のもの絶対掴まないようにならないと、神さまから一瞬一瞬受け直さないと。そしたら、自分のものは掴まないし、人のものを奪おうとしないし争わない。元からみんな支え合って助け合ってる姿ばっかりだから、全部みんなの幸せのために使えばいいだけ。大体、国の境界決めること自体が間違ってる。でも、段階をおって解決していかないとそれ本当の答えにまでいかない。だから、順番に解決していかないと。

 軍隊もつのでも同じ。軍事費に使うお金ってすごいお金よ。そんなお金があったら、相手の国の幸せのためにそのお金全部あげたらいいのにと思うけど、相手喜ぶ。相手も同じように与えてくれる。与え合ったら幸せが大きく増幅する。でも、マイナスの言葉で疑ったら、もうどうしようもない。相手が敵だと思ったらもう、どうしようもない。マイナス言葉が幸せを破壊する。

 元からそうよ、信頼関係ってみんな言葉がマイナスになった時に崩れる。現実がどうのこうのじゃなしに言葉がマイナスになった時に全部崩れていってる。言葉をプラスに変えてたら崩れない。言葉がやっぱり大事。プラスの言葉だけを使って褒め称えて、感謝して、喜んでる限りは絶対崩れない。現実はどうあろうとそんなの無関係。言葉だけがプラスだったらプラスが現実化してくる。でも、言葉がマイナスになったら現実プラスでもダメよ。言葉がマイナスになったら、すぐ全部マイナスになってしまう。プラスが破壊される全部。いかに、このプラスの言葉を一杯みんなが使えるようになるかよ。本当は言霊を、言霊を使いこなさないとダメ。言霊っていうのは神さまのプラスの言葉よ。プラスを現実化する本当の言葉よ。ありがとうございますも言霊のありがとうございますをしっかりと使ったら、神さまが現実化する。

 与え尽くす、与え尽くす言葉を一杯持たないとダメ。プラスの言葉を一杯与え尽くしていかないと、使いこなさないとダメ。本当に自分の見たり、聞いたり、言ったりする言葉、全部、自分の選んだ言葉、全部現実化するよ。言葉通りになる。見るだけで聞くだけで、全部自分の選んだ言葉になったら、言葉通り自分になってしまうの。だから、プラスの言葉をしっかりと選ばないとマイナスをマイナス言葉を見たり聞いたりしてしまう。だから、真(まこと)のプラスの言葉だけをもう真剣に使いこなしていかないと。その練習って大事。 それで、ありがとうございますをしっかり唱える。隙、心の隙を出さないようにしてしまわないと。ありがとうございますだけにしてしまわないと余計な言葉が入り込んでくる。ありがとうございますだけを唱えたらプラスだけになる。調和だけ。

 現実が先じゃない、言葉が先。過去の言葉の結果が現実化してても、それはもう、今、プラスの言葉を使ったら全部消える。心に溜まって残ってる間、現実化する前の言葉も全部消えるよ。大体、マイナスの言葉は実現力が遅くなるようにしてくれてるの。プラスはすぐに実現しても良いけど、マイナスは反省期間を置いてくれてるの。だから溜まっていくの。溜まってる間に消せば良いだけなんだけど。そのプラスの言葉、選び続けたら心に溜めた分は消えていくすぐに。現実化させずに済むのよ。

 だから、与えるっていうのも、やっぱり心で唱えないと与えてないよ。しっかり心で唱えた時、与えてる。ありがとうございますって唱えた時に与えてる。ありがとうございますって、護摩木に書いたら与えてることになる。ありがとうございますしっかりと、そこのシールをしっかりと心に焼き付けたら唱えたことになる。見たり聞いたり言ったりする言葉。本当に自分が選んだ言葉が与える言葉になる。

 だから、大きい与え方よ。大きい与え方っていうの、真(まこと)の神さまのすべてを与え尽くす働きなの。一大循環の相象(すがた)を与える働きよ。この、真(まこと)のありがとうございます、このありがとうございます唱えること。真(まこと)のありがとうございます唱えられる人はそうでしょう?一大循環のすがたを与える働きをするの。大きい与え方。だから、神さまの大きい徳を循環させてもらえる。神さまの徳をもらえるの。小さい徳を積むのと違う。神さまの徳を循環させて、すべてをもらえるの。

 虚の世界は、小さい徳を積み重ねるんだけど。全部、借金と帳消し。徳を積んだと思ったら借金の方にスッといってしまう、消えてしまう。だから、虚の言葉じゃ足りないよ、プラスでもね。虚のプラスの言葉じゃ、マイナスと帳消し。でも真(まこと)のプラスの言葉はそうじゃない、神さまの力ある言葉を使うことになる。神さまのお手伝いだからプラスの循環だけになる。

 本当に「真(まこと)の神さまの相象(すがた)だけ!」「真(まこと)の神さまの世界だけ!」他になにも無いって断定的に言葉を使わないと。「みんなが支え合ってる」って言わないと。本当は、みんな本当はそうなの、元の神さまの世界はもう、本当のプラスの支え合いだけど、虚の世界でも、「支え合ってる」という言葉を使った人は支え合ってるの。みんなが助けてくれてる。マイナスでも自分が背負わんなん(背負わないといけない)マイナスをみんなが背負ってくれてる。どんなマイナスも消し続けてくれてる。人のマイナスじゃないの。自分のマイナスを身代わりに背負って、助けて支えてくれてる。プラスも、同じようにみんなが与え続けてくれてる。だから「支え合ってる」って一言あれば全部支え合ってる。

 マイナスの一言さえ使わなかったら全部良いのにプラスになっていく。わざわざプラスなのにマイナスの言葉を使うからダメなだけで、マイナスなんか本当はどこにもない。本当のプラスだけの支え合いだけのすがたよ。

 だから、世の中がマイナスが悪いって言ったらダメなのね。「大きいマイナスを背負ってこんなに軽くして消してくれてる」って。「本当の大きい働きをしてくれてる」、「支え合ってる」って言った方が良いよね。「プラスだけ」って言った方が良いよね。本当はプラスだけよ。「もう一つ大きいプラスばっかり」って言えば良い。「真(まこと)のプラスだけ」。どんなすがたもプラスの言葉を使ったら、小さいプラスから大きいプラスまで、幾通りもプラスの解釈を施してプラスを受けられる。最低10通りって言うけど、10通りじゃないの。本当は無限通り。一つのすがたを見ても無限の、この大きいプラスの解釈を施したら良いの。すべてプラス、プラス。

 だから、色んな問題があって、これはマイナスって言う人がいてても、そこへそれはプラスだっていう答えを出していけば良いのよ。どんなマイナスもプラスになるよ。こう、直線的な答えではプラスでなかっても、螺旋的に動いたらプラスになる。だから、一部分だけ見てもダメだよ。全体を見て、モグラたたきみたいなものよ。一つ引っ込んだら他から飛び出すっていうふうに。全体を見てたら、ここがマイナスでも他が大きいプラスが出てたら良い。モグラが叩かれて引っ込んだマイナスって。他にモグラが三つか四つポっと飛び出したら、他で大きいプラスってなるじゃない。だから全体を見たら大きいプラスっていうふうに。こう、考え方は色んな考えが一杯出てくる。だからプラスにプラスに言葉を使ったら、たくさんのプラスの解釈を施していける。本当は元からそうよ、プラスばっかりって言えるの、本当の正しい見方よね。プラスの言葉の使いこなせる自分に能力を高めていくのが大事。

 これも受ける側だったら、わかるのはちょっとだけよ。与える側に立ったら、無限倍になってくるよ、気付きがね。どうプラスに受け直したら良いかっていうんでも、与える側に立ったら一杯知恵が湧いてくる。大体、ユーモアとか冗談というのはそうでしょう?全部をプラスに笑い飛ばすんでしょう。立場が上の方から与える側に立った時は冗談が一杯飛び出すのよ。与える側、上が、上は上段(冗談)よ。(会場から笑い)

質問
 言葉を考えていて、昔の日本語だったら言霊の言葉ってあったのかなって思ったりとか、あと、諺(ことわざ)ってあんまりプラスでとってるものってないよなって思って。でもこういうのも全部プラスに変わるの、変えていくのが与える立場。すごいよなと思って。これは確かにもっともっと色んな見方をしてたら、一つの言葉もプラスに見えるんだろうなとは思うけど、すごいですね。

先生
 全部、プラスの解釈を施せば良い。

質問
 もう、答えの方を考えようかなと質問の方を考えているとマイナスになってくるの。

先生
 ならない。(質問者:ならないの?)質問に対して答えを出さないと全然、本当の答え出ないよ。

質問:
 だからもう、答えの方を考えた方が良いんですよね。変に言葉を一杯出してきても、もうなんかモヤモヤになって。やっと出てくるわ。知らない言葉が。

先生
 もっと一つの質問も掘り下げないとダメよ。たくさんにならないと。同じ一つの質問でも色んな質問に分かれないと深くならない。(質問者:凄い量)それに対する答えを引っ張り出さないとダメだから。

質問
 だから、今出した漠然とした言葉が色んな質問が出来るわけでしょう?それが、また色んな段階の答えが出て来るわけでしょう?凄い量と思った。

先生
 「自由とは何か?」って。「本当の自由とは何か?」って、難しいよ。どこから答えるかで答え全部違ってくるから。「平等ってどうか?」って平等も難しいよ。現実だけ見てたら平等なんてどこになるかわからない。

質問
 それに、さっきので聞いてたら、世界的にも考えないといけないとか、環境が全然違うところの立場にも立つわけでしょうって言ったら凄い。

先生
 同じ質問でも違うでしょう?だから同じ質問をしてくる一人一人の質問の中身が違うよ。同じ言葉で質問しても。それを的確に見抜いて答えないと。だから、一つの質問に対して最低十通りの答えを出さないとダメ。これから、そういう勉強をみんなでしていく。良い答えが出たら、小冊子にしてみんなに配って、それを参考にしてもらうのが良い。

質問
 あらゆる立場、今まで自分がなってきたものすべての立場っていう感じでしょう?すごいね。

先生
 だからこれ、自分が求める側に立ったら自分の体験した立場しかわからない。でも、与える立場に立ったら、すべての人の立場がわかる。答えも的確になるけど。全体を自分の中に全部収める立場にならないとわからない。

質問
 だって、それってあの世もこの世もだし、宇宙もでしょう?すごいね。すごい質問量になりそうなの。

先生
 だからどんな問題でも、片っ端から即座に解決していくだけのものがいる。どんな問題でも一瞬に消せないとダメ。すぐ答えがパッと出てこないと。どんな問題もすっと消えるのが良い。言霊を駆使するっていうのは、みんな、一瞬に消したのよ、マイナスを。

質問
 言霊を駆使するって、高いところの言葉だけじゃないんだ、低い言葉も言霊を駆使してることなんだ。(先生:みんなそうなるよ)消せれば言霊だもんね。

先生
 問題を消したら良いの。一瞬に消す力が言霊の力、神さまの力。

質問
 要するに、目の前の人が納得すれば良いっていう感じだね。

先生
 問題が消えたら良いんでしょう?順番に片っ端から消していけば良い。これから、みんなに宿題を出さないとあかんな。

質問
 やってみたら面白いよ、すごいよ。

先生
 今週のテーマ。(質問:一つくらい?一つじゃないの?)一つでもいいけど。順番に答えを出していこうか?

質問
 やってみよう。別にそういうの手紙に書いても良いんでしょうか?手紙に質問を考えてたら、自分の分野ではわからないっていうのが出てきた時に、本業の人達に聞いたら早いのではと思ったんです。そうしたら、そういう人達に教えてもらうというか、参加してもらえば良いでしょう?って思った時に、ああ手紙だって思ったんです。だから今度の手紙にそういうのを呼びかけようかなと思います。別にいない人でも良いのでしょう?来れない人でも参加できますよね。そんなのではダメですか?

先生
 いや、良いんだけど、みんなそれぞれ全部そうして誰が束ねるかよ。この束ねる、一つにまとめる力が一番大きい力が要るでしょう?(質問者:それ会議の時に出せば)それを全部一つにまとめるのは、我を一切消さないとできない。我のない本心の自分に戻らないと。良いものは良い、悪いものは悪いって的確に見抜ける自分でないと、意見が一致しないでしょう?

質問
 先生、それって真(まこと)の神さまにならなければダメなの?

先生
 ダメなの、ダメなの。だから真(まこと)の神さまに戻るために、我を消すために、必要なものを的確に与える練習をするの。だから、良い答えが出たら我が消えてる。みんなの意見が本当に一致したら、みんな我のない生き方とってる。意見が対決するようだったら、我の出し合いになる。多数決で決めても決まらない。本当に、あるこの答えが素晴らしいって褒め称え合えたら本物になる。だから、答えを、本物の答えまで高めないとあかん、みんなで。そしたら、本当の必要なものを的確に世の中に全部与え尽くしていけたら、幸せになる人がどんどん増える。

 だから、自分一人でするのは不可能、出来ない。だから、みんなが支え合ったら力が相乗効果で大きくなる。お祈りも同じ。こういう働きも同じよ。100人寄ったら万倍になるよ。だから、そういう力を活用しないと神さまの力じゃない。

質問
 それを、そんなに詳しく知らないで、ただ、これはこうと教えてきた人というのは、「我」だからダメいうことになりますか?別にそれだって、その人達に必要な答えとしは良い答えだってなるのでしょう?

先生
 なるけども、最終までいくかどうかよ、答えがね。(質問:それはそうだけど)途中で止まって満足するようだったら答え方が間違ってる。止めてしまったら間違いなの。

質問
 それをこちらで何かを付けてはダメなんですね。その人が持ってきた答えはそのまま使うという感じでしょうか?そんなこと無いですよね。全部、みんなで話し合ってそれを一つの良い答えに持っていけば良いんでしょう?その参考でもらったもの(答え)を。ですよね?

先生
 だから同じ質問に対しても、例えば学校だったら、小学生、中学生、高校生、大学生がいてて、その全部に対して同じ答えはしない。小学生は小学生に合った答え方しか出来ない。だから、簡単に、そうでしょう?簡単に省略して答えるの。大学生になったら詳しく答える。だから、その違いをはっきり理解出来るようにしてあげないと小学生は中学になって高校になって大学に行こうとしない。

質問
 歴然となっていないと?

先生
 ちゃんと筋がすーっと通ってないとバラバラな状態だったら、そんなん、今の自分だけで良いのよ。次の段階へは行かない絶対。だから一貫してないとダメ。最終の答えまで一貫してて、初めて参考になるの。

質問
 ということは、もらった答えに、その段階、10段階をちゃんと、どこかにそれを入れながら、作れば良いわけですよね。だからどんどん参加してもらって良いのですね?

先生
 参加してもらって良いけどね。低い段階ではまとめる力が全然ないよ。ただ、真(まこと)のありがとうございますを唱えられるようになった人しか出来ないよ。(質問:まとめるのはでしょう?)

先生
 まとめるのは。(質問:だから、会議するのはでしょう?)

先生
 会議だけって違うよ。まとめる、本当のまとめる働きは、真(まこと)のありがとうございますを唱えて、本心の自分が出て来ないと絶対にできないよ。自分の勝手な質問を出して、答えを出しているようだったら我があるから、邪魔になるだけ出来ないよ。そんな人いくら集めたって、無限に世の中の人を全部集めてするような感じじゃない。そんなつまらない質問だったら、みんな自分のしてきた体験だけでもわかる。一応、みんな、自分の体験してきたことだけでも、色んな質問出せるじゃない。似たような体験は一杯あるんだし。その為に自分も色んな体験をさせてもらってるんじゃない。似たような人に答えるために。でも、それを本当の答えに変えるのが一番難しい。だから、質問なんか聞きあたるものと違うよ。そんなん、質問を集めるだけで一生かかっても出来ない。みんなの質問を聞いて回っても意味がない。

質問
 質問というか、この間言っていた、例えば病気。病気とは何か?ということと、病名が付いている、一個一個別々で。それに対する治療法も山程あるしという、色んな方法、漢方か西洋医学から色々ありますよね?それ全部、一つの病気に対しても一杯の答えがあったら良いと言っていたでしょう?そういうのを「漢方ではどうですか?」とか、「西洋ではどうですか?」とか、「東洋医学ではどうですか?」そういうのは?そいうのは、それは本を見れば調べられるんですけれど、そういうので参加するっていうのは、参加じゃなくて、そういうのは要らないということですか?

先生
 そんなん全部集めてたら振り回されるよ。偏った人は全部我が強いのよ。これしかないっていう答え方しかしないよ。他の解決法なんか相手にしないよ。今の西洋医学のお医者さんにそんななこと言ってごらん、そんなもの全部ダメって言うよ。だから、全体をやっぱり一つに見通せる人でないと、だから、みんな本心側に立たないと、色んな意見をそれぞれに良いところを見抜いて受け入れることは不可能なの。

 宗教の教えでも同じよ。一つの教えに凝り固まった人は、絶対他宗を排斥するだけよ。良いところなんか取ろうとは絶対しないよ。

質問
 でも、その冊子は、そういう人達に、凝り固まった人達が読んで次の段階に進めるようなものなんでしょう?

先生
 そういうふうにするんだけど、していくんだけど。凝り固まった人に力を借りてするのと違う。そんな人、一人入ったら、もうめちゃめちゃになって全部ダメになる。だから本当に全部を生かしてまとめるのは、真(まこと)のありがとうございますを唱える人よ。誰でも入れて良いのと違う。我の強い人が入ったら全部破壊されてしまう。

 大体、本心の謙虚な人は自分の意見を出さないのよ。我の強い人だけ意見を出して、意見がまとまったら、その通りになってしまうじゃない。我のない人がまとめるから神さまの意志が降りるんで。自分の意見を言って、それが正しいって主張するんだったら、我の主張よ。それだったら絶対まとまらない。

 だから、今こうやってまとめる勉強をしようというのは、ありがとうございますも本物になったから、そういうチャンスが与えてもらえるようになっただけの話で。みんなが我を付き合わすんだったら、こんなこと絶対しない。喧嘩になるだけよ、喧嘩になるだけよ。意見が違って文句の言い合いになって喧嘩になるだけだったらダメよ。

 だから、みんなが心を一つに支え合ってっていう気持ちになってこないと良い意見がまとまらない。本当の支え合いなの。自分を出さずに。支えるというのは、自分が一番下からみんなを押し上げる働きばっかり。みんなの意見を、良い意見をそっと生かして生かしてっていう。また、周りの人も自分の意見を生かして生かしてっていう良いものを押し上げてくれる働きでまとまるの。自分の意見出すのと違う。まず、みんなの意見を生かそうとするの。そしたら、自分の意見も生かしてくれる、いいところへ選んでくれる。それで一つにまとまったら本物になっていく。だから、自分がまとめてあげるという人は入って欲しくないの、そんなん、絶対ダメ。

 みんな、テープ起こしをしてもらって、その中から良い所を抜き出してもらってっていうても我の強い人は、おかしい所を抜き出すよ。自分の都合の良い所だけ抜き出して、これが資料って出してきたら間違うよ。本当に必要なものを選ぶっていうのでも難しいよ。だから、自分が一番謙虚に支え合う気持ちで、みんなを支えてっていう気持ちで、一段一段下へ降りて、一番下からみんなを支えないとあかん。一番下積みの生き方をとらないと。その人が一番神さまの助けを受ける。その本当0の勉強になる。

 だから、今、能力があるかどうのこうのは関係ない。みんなを支える働きをしたいという人が神さまの力をもらう。今、何も能力もなかっても、神さまが使ったら能力が天才的な能力がパッと出る。だから、その気持ち。支え合いの気持ちだけがあったら大丈夫。


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3月勉強会 by 河上あきのぶ [Mail] 2024年03月14日(木) 21時38分
PC

令和6年3月河上さん勉強会−1(20240310−1)

河上さん:質問ない?

質問:預かってません。

河上さん:預かってない?何もないですか?

質問:何もないです。

河上さん:はい。日本人の悪い特性でね、空気を読むとか読まないとか。或いは、「あの時の雰囲気やったら、とても言い出せんわな」とかね、そういう無責任さがあるんですよ。だから、分りやすいのは、 会社なんかの会議でね、社長も交えての、ちっさい会社の場合ですけど、大きい会社やったら部長も交えて、みたいな会議の時に、会社の方針とか、前提という独特の空気があるじゃないですか。だから、その空気に沿った以外のことは、言えないというね、雰囲気があって、あんまり会議では、建前は言うけど本音は言わない。で、会議が終わってから居酒屋行って、 「うちの社長、あれじゃあかんのや」とかね、本音が出るわけ。

 で、その会議で言った建前と、居酒屋でボロボロ言う本音との間ぐらいにね、真実があるわけですよ。で、それを日本人は、自分が責任負いたくないもんだから、空気に流されたフリをする。「あの時は、ああ言わざるを得なかったんだよ」って。でも、結局破滅するのは、自分たちなんだけどね。そういうのが、日本人の特徴にあるわけですね。で、それが日本に、いろんな新興宗教団体がね、たくさん発生した理由なんですよ。

 「教祖に神さまが降り立った」、或いは、「キリストが降り立った」とか、みんな色々言うじゃないですか。その前提のもとに、その空気に反するのは、全部弾かれるか、いじめられるかね、色々あるわけですけども、そういう形のものが、虚の世界の宗教団体。

 なんで虚の世界の宗教団体と言うかというと、空気に沿ってどうこうというのは、損得で動いてるでしょ?自分が損得で動いてるでしょ?で、それはもう神さま事じゃないのね。神さま事というのは、自分というのが消えないとダメだから。だから、ここは宗教団体ではないと言うのはね、昨日、突然来た人でも、それこそ僕のように60年以上おる者とね、結局は一緒なんだっていうのが、わからなくちゃいけない。

 でも大概は、年数の空気とか、まあ色々ありますわね。そんなんで、縛り合いしていくんですけどね。ここはそういうのはありません。只々、真祈りをするだけなんです。だから先生は「教えを立てない、 組織を立てない」と仰って。教えを立てない、組織を立てないというのは、要するに、前提という空気を作らないということです。みんな自由自在なんだよっていうのが、無理に教えと言えば教えなんですけど、教えにもならないよね。「みんな光や」って、「みんな既に祈ってる、悟ってる、救われてる」っていうね。みんな、真(まこと)の神さまだけであって、あと何も理屈はいらないね。だから、みんな自由自在に真祈りして下さい。

 で、真祈りについては、もう色々説明しますけど、説明しても難しくて、みんなわからんからって、僕が泣き言を言ったもんだから、先生は寿命を縮めてですね、「印可書」は真祈りそのものという「印可書」を作って下さったわけです。

 だから、印可書を損得勘定抜きでね、只々、神さまの「印可書」を奉読したら、神さまのお手伝いだということを信じて奉読していただいたら、それは真祈りなんだよ。それも苦手な人は、護摩木を作ること、護摩木を書くこと。或いは、護摩木のお金を出すことが真祈りなんだって、先生が言霊で決めていって下さった。

 だからここの護摩は、普通の世界の護摩とは違うんですね。普通の世界の護摩は、病気を治してほしいからとか、家内安全とか、色々ありますけど、そういう願い事をして、ギブ&テイク的な護摩なんですけども。ここの護摩は、純粋に護摩をすることが、神さまのお手伝いになるというだけのものです。
 
 だから、護摩に参加したから頭が良くなるとかね、病気が治るとかね、それは付随した出来事ですけども、求めてはダメ。何故かと言うと、神さまの働きは与え尽くしに、与え尽くすだけであって、一切求めてはこられないのね。
空気も水も、いつも言うように、太陽もね、全部与えられるだけであって、それについて、「お金くれよ」って神さまは仰らないのね。

 で、それを見習うだけの1番の純粋な体験が、護摩に参加すること。或いは、護摩の会場を設定する事とか、色々ありますけど、護摩に関する事に関わると、それになるわけ。だから、駐車場係をしてても、護摩に参加して、深い真祈りになってるということを先生は仰るわけですね。そこだけなんですよ。でも、無責任な人というのは、要するに総責任者の自覚があるから、護摩に参加して真祈りになるし、色々あるわけです。

 でも、無責任な人は、「護摩に参加するから助けてくれや」、「護摩木を作るから助けてくれや」。村で言うと、「村の作業してるから 、真祈りにしてくれや」という求める心があるわけです。で、求める心がある間は、何をしたって無駄なの。そこを先生は、幾度も説明されるんだけど、みんな聞こえないのね。それは、無責任な人は、もう何々してるから大丈夫ということを、自分に言い聞かせて逃げるのね。
 
 だから、先生に付いて行ったら大丈夫。先生が生きておられる頃はね。先生に付いて行ったら大丈夫って自分に言い訳して、自分を無責任にやってるわけ。だから、いくら山の作業しても、ご奉仕してもね、心境が進まない。で、もうそれを先生は幾度も与えきりのほうにってね、求める心を捨ててとか、もういろんな表現で言って下さったわけですけども、みんなわからないのね。助けてほしいが先だから。

 で、とうとう神さまの方で、先生は「あと1年」というのは仰ってたんですけども、もう神さまの方で、もう引き上げるとなりまして。で、ちょっと強引に先生の側にいて、あと1年留めようと思ったんですけど、先生の方から「もういい」って仰るんで、今の状態になってます。

 で、先生からは6年というのは聞いておりましたので、6年で僕は本来、寿命が終わる予定なんだけど、なんかまた伸ばされてしまってという繰り返しますけど。もう、次はないです。あと、だから、先生が亡くなられて13年以上は、僕は生きてませんからね。

 その13年の間に、6年過ぎましたから、あと7年ですね。でも、具体的に僕が動き回れるのは、あと4年ぐらいです。 こうして元気に動き回れるのは、あと4年ぐらいですので、それまでにね、みんなが総責任者の自覚持って、護摩を遂行して下さい。 で、この村の存続に関してですけども、護摩をする限りは続けます。でも、護摩をしないということになれば、この村は閉じます。もう先生から、そういう風に厳命を受けてますのでね。先に答えを言っておきます。皆さん、色々とご心配なされるだろうから。先生からの方針は、それだけです。そのために、僕にいろんな鍵を預けていかれた。

 先生のされる事にね、なんと言うか、もう完璧よ。だから何があっても護摩を最優先にしてやって下さい。 だから、護摩に参加するだけで本当に悟れるからね。求めたらダメよ。「護摩に参加するから悟らせてくれよ」って言ったらダメなんですよ。神さまの手伝いとして、どんどん護摩を遂行してください。

 で、普段も護摩ですから。普段の護摩は何かというと、皆さんの普段のお仕事。女性で主婦の方だったら、家庭でのおさんどんです。これが護摩なんです。それが、家族の犠牲になって、 私は洗濯して、掃除して、おさんどんの準備してると思ったら、もうダメなんです。
 
 只々、神さまのお手伝いとしてやって下さい。それが大事なんです。何をするにあたっても、神さまのお手伝いとしてやる。で、神さまのお手伝いだから、手は抜かない。
手は抜かないけども、いつも言うようにね、全力で、全速力で山を駆け上がるんじゃなくて、 1歩1歩着実に、自分のやれることをコツコツと休まずに、弛まずに、淡々とすることが全力を尽くす、誠意を尽くすということです。
 
 神さまにお休みはないのね。僕らは、夜は寝れるけど、神さまは24時間働き続けられるわけです。本当はそこを目指さないかんのですけど、一足飛びにそんなこと言うと、またあれなんで、まず淡々とね、 ひたむきに、自分のやれることを精一杯、尽くしてやってください。それをしてると自然にね、2、3時間の睡眠でもごく平気になっていきます。

 でも、無理にそれを目標にするんじゃなくて、ともかく今は、自分のやれることを精一杯、淡々と、神さまのお手伝いになると思ってね。「印可書」奉読しながら、もしくは「宇宙神ありがとうございます」と込めながら、もしくは「ありがとうございます」と込めながらして下さい。それだけで大丈夫です。あと、 目標は4年ぐらいで完成させたいと思ってますから。今ちょっと水晶玉の事件があってね、東京がダメなんですよ。 で、申し訳ないけど、東京にお住まいの方は現在地を動かないように、そこで真祈りして覚悟を決めて下さい。真祈り人が東京で真祈りしてくれたら、震度7が6、5、或いはスロースリップに変わっていきますから。

 関東方面の方は、これが最初の試練だと思って頑張って下さい。逃げないように。真祈り人は、逃げたらあかんのよ。もうどこにでもそこに踏みとどまって、真祈りするんだっていう覚悟をね、持ってください。「どこに逃げたらいいんですか?」と違うからね。

 色々と質問が来るんですよ。どこそこが揺れると言うとね、「どこ逃げたらいいですか?」って。違うやろって。真祈り人は逃げずに踏みとどまってもらわな困る、いうことです。ここまでで質問があったらね、して下さい。

質問:お話して頂けるとこだけでもいいんでね、水晶玉について教えてください。

河上さん:基本的にはこっちが松下先生で、こっちがマサヨちゃんの依代(よりしろ)なんですけども、もっと正確に言うと、真祈り人がね、もう全員を同時に悟らす作戦で今回来てますけども、そこへ行くまでの水晶玉はみんなの身代わりをしてくれる働きなの。だから、これをなくすと、その4年の猶予がなくなるみたいな感じで大変になっていくんです。要するに松下先生の時代は、先生お1人が真祈りされて、人類のマイナスを清めて、地震も止めてってされたわけですよ。

でも、みんなが真祈りしなくちゃいけないんだっていうのを、散々説明させてもらったつもりです。その人のできる精一杯をする1つ1つの働きがいるんだってね。オーケストラというと、ただトライアングルを最後にチンと鳴らすだけだけども、鳴らす音はチンが1つだけど、それでしか曲が完成しないんだということをね、色々と説明させて貰いました。 
 
 だから、皆さん拙い真祈りと思っていいからね、 自分なりにできる精一杯の真祈りをそれぞれしてもらわないと、完成じゃないんですよ。で、そこ迄の間の身代わりとして、水晶玉を先生は置いていって下さったわけです。そのマサヨちゃんは、もちろん自分の身代わりであるのを知っててですね、これをさせられたという苦しい立場にあるんでね。なんとかマサヨちゃんが楽になるようにと思って、色々と掲示板に書き込んでおりますけどね。マサヨちゃんの自由意志を縛って強制する人間が、誰とはもう特定しませんけども、自由意志を縛って強制しないように警告しましたからね。今後、自由意志を縛って強制したら、 本人の体に影響が出ます。もうおまけは出しません。そういう働きです。ほんで、台座がないとね、スイッチが入らないんですよ。で、まず台座がどうなってるかを知りたいんだけど、誰も言わないのね。で、台座がどうなってるかがはっきりわかったら、 例えば、燃やしてしまったとか、捨ててしまったというのがはっきりわかったらね、新たに作るかなんか考えます。だけどまだ分らないんで、できるだけ戻して下さいってお願いしてます。そういう今は状況です。

 で、先生が、いわゆる、維摩の沈黙百雷の如しでね、先生は維摩先生だったわけですけども。清則の沈黙百雷の如しを、約3年間されたわけですね。その時に受け取れるものをたくさん受け取ったから、あの水晶玉の件もその時に受け取ってますし、この村をいつ閉じるかというのも、その時に受け取っています。それで来てます。
 
 で、ほんまはそれを明かさないまま、行きたかったんだけど、もうちょっと、もうこれ、仕方ないんで、明かしてしまいましたけどね。 どっちにしたって、僕があとよく生きて7年ですけども。7年後はこの村は存続できないです。もう国と話できる人間はいませんので。だから、この7年が勝負だから、みんな真剣にね、護摩して下さいね。はい、ありがとうございます。

質問:それに関連した質問なんですけど。台座がないと本来の水晶にスイッチが入らないということをお伺いしたんですが、水晶自体は無事というか。

河上さん:いや、傷ついてるよ。見てみ。金槌で叩いたような跡がある。何をどうしたんかは誰も言えへんから分らんけどね。

質問:裏返ってたから分からなかったです。

河上さん:いやいや、表に出してあってんけど、誰かが裏返したんやろ。

質問:ということは、そのスイッチとなる台座が見つかるにしろ、新たに作られるにしろ、揃ったとしても、 本来のセットの働き、陰陽の水晶の働きというのはどのような?

河上さん:どのようなって?

質問:今現在、台座がない状態でスイッチが入らないという風に伺ってまして。で、その台座が見つかったにしろ、新たに作るなり、作り直したにしろ、その水晶と台座がセットになった状態で。で、今ちょっと傷ついてるのを初めて目撃したんですけど、その台座が揃ったとしても、スイッチが入ったとしても、本来のその水晶の働きというのは以前とはまた違う?

河上さん:だから、要するに、例えばね、これ傷ついたから、まあ、せっかくだからこれより大きい水晶玉を買ってきて入れ替えようという感覚のもんではないわけです。先生が言霊でね、その働きを込めていって下さったものだから、 傷つこうが割れてない限り大丈夫です。で、その台座も先生が言霊で作っていって下さったんで、セットなんですよ。

でも、もう燃やしたとかね、捨てたとか、もう兎も角どうしようもないんだって誰も言ってくれないんで、ということは、まだ戻って来るなと思って待ってるわけですけど、もうどうしようもなくなったんだと言うんだったら、皆さんにも呼びかけますけど、みんなで真祈りして頂いて、その間に台座を作ろうとは思っています。只、どっちにしても、このタイムラグが出たんでね。東京も揺れるし、ちょっと今年揺れると言ったのは、この事やったんやな。なんで今年揺れると出たんかと思っててんけど、もうちょっと大変なんですよ。でも色々と昨日も八鹿の方まで、宍粟市を越えて八鹿の方まで行って、もう色々ほんと大変だったんでね。殆ど運転で走り回って、ちょっと今疲れ果ててますけども。

 それぐらい、その大事なポイントのとこで揺れないように抑えてきました。せやけど、もう大変や。言いようがないわ、ほんまに。だから人の自由意志を縛るのは大変なことよ。困ったもんや。散々説明してきてんねんけど、河上の話は聞くな、言うなということは、聞くな見るなやったらそれは説明なんぼしてても知らんわな。

 せやけど、知らん罪ほど大きいからな。 焼火箸の例えがあるでしょ?焼火箸と知って握るんやったら、パッと離すけど、焼火箸を人参と思って握ったら大やけどするっていうお釈迦さまの話があるわけですけど。知らず知らずに犯した罪の方が重いですからね。大変は大変。
 
 で、今回、1番の問題が何かというと、 タケダという方に先生が降り立ってるみたいなね、前提を作って、要らん空気を作ろうとしたことが、1番先生を怒らしてるわけ。もういろんな事がありますけど、何でそれをするかですね。1人1人の真祈りが必要だって説明してるじゃないですか。 で、最初に先生亡くなられて、最初の護摩の時にね、皆さん、1人1人に松下先生が立って下さったんだよって。あとは自覚したら先生の働きができるんだよ、お清めできるんだって、散々説明したじゃないですか。なのに、なんで今またそんなおもろいことするんか、みたいな感じですね。
 
 正確に言いますけど、この椅子に座るとね、自分の思いがあったら、約3年で発病して、6年で死にます。 実際、ここに座った人、約2名おられて、2名ともややこしくなったんですけど、もうすでに亡くなられておられますけどね。 それぐらい、ここ(お祈りの部屋の椅子)、これはこっち向き(正面を背にして座る)でこうしてね、やるときは厳しいものなんです。で、6年経って死なないから、自分の思い無くやってこれたなと、ホッとしてますけども。
 
 そやけども、それくらいね、ともかく厳しい、厳しい、何と言うんですか、神さまのお手伝いするというのはね、妥協が許されない。もういつも背水(はいすい)の陣を敷いてね、絶対絶命の立場で動かざる、動くしかないんですよ。もうこっから後ろには絶対引かないっていうね、 その覚悟がいるんです。
 
 だから、もちろん、皆さん何されても自由なんですけども、自分が神さまの御心に沿ってるということを、まずね、「印可書」奉読出来る人は奉読して、その自信というかな、確信を持ってね、やって下さい。その確信があれば、不退転の決意って言ってですね、もう何があったって、こっから後には引かないって言って、祈り続けれます。 そしたら、この世的にはもう八方塞がりでどうしようもなくてもね、天が、空が開いてますから、必ず解決するんですよ。

 で、殆どの人はそこの自覚がね、 ないわけ。ほんで、真祈りしたらいいんだよって以前はあったわけですけど、真祈りが分らんのにどうするんだ、ということだったわけですね。で、先生が「印可書」を作って下さいましたから、 ともかく「印可書」奉読して、確信を持って、不退転の決意でね、やって下さい。もうそれだけです。

 「いっぽんどっこ」の歌っていうと、もう皆さんお若いからわからないですけど、「いっぽんどっこ」というのは九州弁で、どんな組織にも属さずね、自分1人でやるんだという、そういう向こうの方言です。組織に属すると、ほら、組織に甘えとか、組織の名前とか看板で動くじゃないですか。そうじゃなくてっていう、自分の実力だけでやり抜くんだっていう歌があったわけですけど。その真祈り人っていうのは「いっぽんどっこ」なわけですよ。それを先生は、総責任者の自覚って仰ったわけです。 お1人お1人が真(まこと)の神さまとして本来の働きをなす、それが総責任者の自覚です。

 だからもう、只々それだけでね。もう分りやすいのは、例えば、水晶玉を傷つけたんが誰かもわからないし、何をどうしたかも答えてくれない、誰も。で、台座をどうしたかも、「どうもタケダさんが持って行ったらしい」ぐらいしか言ってくれないので。それはわからないんだったら、無断で持ち去ったんだから、盗んだんと一緒やなっていう風にこっちは判断して書き込んでますけどね。

 それだけです。で、そのタケダという方が、本当に松下先生が降り立っておられるんであれば、不退転の覚悟を持ってされたんだから、せめてここへ来て言うて下さい。 ここへ来なくても、掲示板にちゃんと自分が正しいことをしたということをね、書き込んで下さいって言うと、イジメることになるからもう言えへんけどな。

 そやけど、それくらいね、真(まこと)の神さまに関することは、そんな遊びじゃないからね、甘くはないんですよ。

 ほんで、みんな無責任にね、「あ、この人に付いて行ったらいいんだ」では困るんです。

 それは、今までの虚の世界の宗教団体。「教祖に付いて行ったらいいんだ、この強化部長に付いて行ったらいいんだ」っていうね、狡さです。それは、教祖が狡いんじゃなくて付いて行こうとする無責任なみんなが狡い。

 ここはお1人お1人が真(まこと)の神さまとして、松下先生として、真祈りの松下先生のような働きをするんだという場所です。それだけをね、絶対忘れないで下さい。だから誰それに付いて行こうとかね、 誰それが松下先生の声が聞こえるからどうこうなんていうのは全部違います。皆さんお1人お1人が受け取れるんですよ。
 
 だから今回、手厳しくこっちが後に引かないのはね、松下先生が言うてきたら、護摩やめるという声が聞こえた。それを聞いてきた人がおったんで、それが又聞きの話なんで、実際そうかどうかは分りませんが、嘘でもそんなことは言わないと思う。

 で、今だにそんなこと言うてるようでは、村を閉じます。でも、遂行できる限り護摩をやります。護摩をやる間は閉じません。必要ですからね。もうそれだけです。

 先生が僕に村を閉じる鍵を預けていかれた、いろんな理由がありますけど、護摩を遂行するためにまず預けていかれてます。遥か昔に代議士秘書らしきものをやってましたので、その関係のものなんですけどね。先生はよくそれをご存知で、色々と僕を手伝わせました。はい、それだけです。

 だから、昔だったら村人がね、先生と手を繋いで輪になって(一緒に祈っておったら)、先生に天国連れてってもらえる、みたいなおもろい話があったわけですけど、もうそういう血迷いごとはやめて下さい。皆さんお1人お1人が先生として、神さまとして働かれる時です。

 水晶玉はそれでいいかな?

質問者:はい。

河上さん:だから勝手に持っていかないようにね。これは屑水晶を集めて固めた人工的につくられたものですけど、水晶としては成分は一緒ですけど、人工的に作られたものだよというのは言ってました。

 天然の水晶は必ず曇りが出るんですよ。この大きさで無色透明いうのは無いんです。ただ、先生がこの大きさの無色透明の水晶を好まれたのは、「無色透明の輝きというのがこれで分かるから」って仰るわけです。「無色透明の輝きだったら何も見えないじゃないか?」という質問が昔あったんですね。で、その時に、この水晶のようにね、「この水晶は無色透明じゃないか」と。「でも、玉としてわかるやろ?」、そういう感じで、絶対の中心というね、絶対の世界は無色透明の輝きで実感できる世界なんだという説明をされて、 そういう水晶が象徴的なそういう意味合いを持ってるんでお好きだった。で、こういう働きとして置いていかれました。
 
 でもね、何でそうしたかを言わないっておかしいでしょ?未だに、何故そうしたか、誰がそうしたのか、 誰が持ち去ったのか、誰が傷つけたのか、言わない。でも、そんなんどうでもええことやけどね。まず護摩を遂行することが第一ですから。

 でも、言えないくらい自分たちにとって不都合なことがあるのかなって勝手にね、推測でものを言いますけど、これは真実じゃないですよね。
 
 だから今後も、7年たつと僕死んじゃいますけども、それ以降でね、この人に神さまが降り立ってるから、この人に松下先生が降り立ってるからみたいなことは、間違ってもしないで下さいね。皆さん1人1人が神さまとして、松下先生として働くんだというのがね、教えを立てない、組織を立てないっていう先生の意向です。

 その教えを立てない、組織を立てないの意味すら分らんままね、来ちゃったのが問題なんですけどね。何故質問しなかったかと思いますが、先生が「教えを立てない、組織を立てない」って仰られたのは、もう遥か昔ですから。

 済んだことはしゃあないですけどね、これからです。済んだことは本当はどうでもええね。これからどうするかだけ。

 昨日はちょっと、八鹿まで行ってましたんで、運転も長かったんで(昌代ちゃんからの)電話に出れないままなんですけどね。 その、一昨日の電話は出たんですよ。でも結局、肝心の事を聞くと答えられないから。それは話し合いじゃないしね、 もう出らんでいいと思ってたんで、余計に昨日は出なかった、それだけですね。
 
 で、知らない電話番号からもかかってきたんで。で、これ、変な勧誘と言うかね。なんとか詐欺やったら困るから。今、知らない電話番号出るだけで課金が始まったりするんでしょ?だから、出れないから出なかったんですけどね。

 本当に必要だったら、ショートメールって言うんですか、電話番号メールで、「この電話番号は自分なんで、出てください」ってまず入れてくるのが筋でしょ?でも、入れてこないから、どっかの詐欺のあれやなと思って、出なかったんですけどね。
 
 だから気をつけときよ、知らない電話番号はあんまり出たらあかん。全部が課金始まるとは限らないですけど、そういうフィッシング詐欺っていうのね、あれ、電話でもやれる。

 インターネットの画面は危ないですよ。フィッシング詐欺にかかったら、銀行の画面とそっくりなんやね。それで、ポンポンと、あ、いつもの自分の銀行のネット銀行の画面やと思ってやって取られるとこあるんですよ。 で、いつもだったらパスワード入れさせられるのに、入れんと動く時ある。気つけて下さい。

 でも、何回もやってると慣れてしもうてね、パスワード入れて動いてたら、やってしまうのね。フィッシング詐欺って。だからパスワードを入れない画面は気つけて下さい。で、電話の場合は、そのパスワード無しで起こりうるんでね、気をつけて下さい。

 ほんまはここまで明かしたくなかったんですけども、今回、仕方ない、非常事態で。八鹿には仲間がたくさんいるんで、もう向こうの人がえらい怒ってるんでね、なだめに行くのもあって、色々と大変やった。

 結果じゃないんだってね。これからどうするかが大事なんだってなだめて来ました。まず、真祈りしてくれと、済んだ事を一々突かなくてええから。先生として、真(まこと)の神さまとして働くことが大事でしょ?過去を振り返ってどうこう言ったってしゃあない。これからどうするかだけよ、常に。

 それは、会社でも家庭でも、一緒やと思うんですよ。何か起こっても、起こった事件をどうこうするよりも、じゃあこれからどうするんかだけでしょ?

 それだけのことです。


令和6年3月河上さん勉強会‐2(20240310−2)

河上さん: (質問が)何もない? 終わろうか。終わっていい? はいどうぞ 。一応 概略 全部言っちゃったから今。水晶玉の件も。

質問:ありがとうございます 村の事情は よくわからないんですけど、 ほんまにあの最終局面で本当にどちらを選ぶか、真の神さまを選ぶのか、他のものを選ぶのか。

河上さん: そうそう。

質問:選んだことによっても。この虚の人類・・・

河上さん:人類の運命も変わるし色々な物が全部変わっていきます。村が、先生がこの地球世界の象徴として作っていかれましたからね。だから結局確認できない、2,3人を通して伝え聞いたことしか僕の手元に来ないんでね、断定はできないですけれども、誰かに松下先生が降りていると、それでその人の言うことを聞くのが正しいんだ、というふうになったらしいです。

質問:そんな事なんですか?

河上さん:へーっていう事で。(笑)色々あったんですけれども まあ そらみんな自由意志だからね 好きにしたらいいのだけれども、まず水晶玉を取り戻さなあかん。そしたらjさんがどこそこにあったって言うてくれたんで、「すぐお祈りの部屋に置いておいて」と頼んで安置しに行きました。それで台座の問題があるからっていうんだけれども、だれも口割らない。でもどうも、タケダさんが持って行ったらしいという推測があるので、そしたら誰も知らなくて持っていったんだったら、盗んだんやな、ということは窃盗ということで警察に告訴せなあかんな、いう段階ですね。その前に内容証明を送って本人の確認を取りたいので本人の住所を教えてくださいと言うと、 教えてくれないのが今の状態です。

質問:もし他のものを選んでしまったら、その分・・・

河上さん:まあその時は 護摩をしてくれる限りは村閉じませんけれども、護摩もしないで神さま以外のものを選んだっていうことになれば村は閉じます。簡単に閉じれます。

質問:閉じるということは護摩もなくなるんで、

河上さん:いや、だから村が護摩をしないと言い出したらね。何やかや言いながらね、護摩の会場をセッティングして護摩木を作ってお手伝いをしている間は何もしません。護摩をやろうとしてくれている間は。でも護摩を小さくしようとかね、止めようとかしたら、その時は先生の指示通り。人類を見捨ててもいいという先生の指示だから、 はっきりと言っておきます。その時は見捨てていいって。 今年の初めは 真祈りせん子は見捨てると言っていたのですが、今度は 全部見捨てていいみたいな。

質問:結局、虚の世界を閉じてしまうみたいな。村を閉じたら全部虚の世界も閉じてしまうと解釈して良い?

河上さん:そうです そうです。だから先生が虚の世界の雛形として村を作って行ってくださっているわけですよ。だから昔から先生がいらっしゃった時からですね村人の間で、喧嘩が絶えないんですけれども。それは世界の国が戦争をするじゃないですか?あれが写っているだけです。だから常にたとえば喧嘩になってもね,その喧嘩の原因とかどうこう、うんぬん責めるんではなくて、「じゃあこれから皆どうするんだ?」でやればね、戦争なんかも収まるんですよ。そうやけど「あいつあんだけしよったからやり返さんと気がすまん」ってなるわけでしょう?やったやられたの世界ね、そしたら永遠に戦争は続きますよ。それが村人の心に写ってね、やったやられたの世界を今までしてきたわけ。今もしているのかどうか知りませんけれども?

質問: 世界で起こらなければ村も何も起こらない。

河上さん:いや逆に雛形だから村が真祈りに完全に心が統一したら一気に世界は変わるということです。

質問者: ありがとうございます。

河上さん:だから 真祈りのやり方はね、印可書奉読をするなり「宇宙神ありがとうございます」でも「ありがとうございます」の 10文字でもいいですけれども、いつも説明するように真の神さまそのもの、悟りそのものの結果と受け取って唱えないと意味がない訳ですよ。そしたら宇宙神ありがとうございますが悟りそのもので言われても「へっ?」って一瞬なるじゃないですか。ありがとうございますが悟りそのもの、真の神さまそのものって言われてもやっぱり一瞬「へっ?」ってなるわけですね、 普通の人は。

 だからもう言葉で真の神さまを細かく説明してくださったのが最初の印可書で本当にね、あれは 読むだけでね 悟れるすごいものですけど、誰も受け取らないから先生「やめじゃ」ってなったわけですよね。それだけです。今の印可書は柔らかくしてある分だけお手伝いしたい人は奉読を足さないとダメなんですけれども。でもその方がね、ギブアンドテイクが出にくいからいいかと思う。で、勿論、ありがとうございますの10 文字をね、悟りそのものと思って唱えて頂いたら3ヵ月で悟れます。 それはちゃんと断言しておきます。先生がそうおっしゃっているから。もっと具体的には 40日ですけれども。もうひたすら「ありがとうございます」を唱えてくれたら40日で悟れると仰っている訳です。録音にもあります。出来ないでしょ?だから印可書が出来ただけです。ここでもそうでしょう? 印可書でなくて私たちは「宇宙神ありがとうございます」って聞いていますって、6年経ったんや。 何していたんや。「聞いたんやったら実行せえ」って言ったら、きついからあんまり言わないけれどもね。

 そうだけど、そういう意味では印可書を奉読して選んだ方がどんどん悟っているのね。でもちょっと閉じておいて一斉に、という今回の作戦ですから、ひたすら 喜んで奉読しておいてください。大丈夫です。はい。

質問:ありがとうございます 先ほどからのお話を聞いていて ちょっと私自身の個人的な考えなんですけれども、そういう方がたは古い時代の今から15年ぐらい前に村にいらっしゃった方々で、急にこういうところに戻ってこられると同窓会みたいになって、その当時はこうだったよね、ああだったよねって、あの時の方が良かったね、みたいな今はここにきても、その当時とちょっと空気感とかが違うので自分の居場所がないっていう中で、なんかそういう、その当時の感覚に戻したいとかいう思いが出てきてそれに同調する人達が集まって・・

河上さん:ああ、違う。

質問:そういうのではないですか?

河上さん: ないです。もっと無責任に単純に先生が降り立ったという人についていくだけで、楽やからね。自分に責任ないから、ついていくだけいいから。その無責任さのせいです。

質問:その降り立ったからにはなにか、そのどっぷり感ないんですけれども、あたかも何かその人としゃべっていると先生を思い出したりとかいうので。なんかこう、気持ちに起こりうる・・・

河上さん:それは勘違いです。具体的に言うとね、先生とピタッと響きを合わせれたのは僕だけですけれども。合わせれたら悟ります。みんな合わせられずに表面の先生のね。要するに僕と先生がお会いした頃はすごい強い光やったわけですよ。ほんなら生長の家とか色々ありましたけれども、どの時も先生の周りに人が集まらないのね、光が強すぎて。 ほんで先生は生長の家を辞められて、結婚もされて、光を弱める練習をされたんですよ。その弱める練習の最中に弱めすぎたり、色々あって肺結核になられてね、入院されたりとか。要するに弱めすぎたら何が起こるかって言ったら、先生は無色透明なんで人類のマイナスが一杯来るわけですよ。一杯来過ぎて息ができなくなってしまわれた、完全に。それで入院されたわけですけれどね。それは色々ありましたけれども。

 で、先生は光を弱める練習をされた。強める練習と違ってね。弱める練習をされているからその弱めている状態の先生の光の雰囲気を先生やとみんな勘違いをするわけ。ほんでその先生の雰囲気に近い人を選ぶんではなくって、自分の思っている先生の雰囲気にプラス、今の自分の心境に近い人を選ぶ。気が合うっていうのはそういうことなんですよ。わかります?

 あの人と何か気が合うというのは自分とそっくりだからなのよ。気が合わないというのは自分と違う人だから。で、自分とそっくりな人を選んで先生って言ったわけです。今回ね。その結果ここは真の神さまの光が降り立っているから大変なことが始まった訳です。もうちょっと放っておいても良かったんだけれどもね、もうちょっと放っておくと、現実にもここで色々なことが起こるんだけれども、先生がまあまあって言うからちょっとしましたけれどもね。それぐらい厳しいものです。

質問: 今回の場合は原因をもう少し明らかにして○○終わりにするのか それとも

河上さん:いや、原因は明らかにできません。しゃべらないもの。「なんでそうしたの?」 って言っても誰も言わない。

質問: 周りの人も口を閉じてしまうというこの状況もそれはそれで 。

河上さん: 無責だから。無責任だからしゃべったら都合が悪くなったら自分が困るから、だんまりを決めるだけ。一番無責任な奴です。会議で言うと発言せんとその場の空気に合わしてるやつがいる。それで居酒屋に行ってから文句を言うやつな。そういう人に限ってな。

質問:そこでだんまりのまま、今回のこともスルーしちゃうと また同じようなことが起こらないかっていうことが私は心配します。。

河上さん:それはそうです。でももうオマケがないからね。今回なんやかや言ってオマケちょっと出したけどね。オマケ出さんでいいからそういう風にしたら、もう本当に体が動かなくなったりね、しゃべれなくなったりね、いわゆる脳梗塞の症状みたいなものがどんどん出てきて。脳梗塞の症状の小さなものが癌なんです。脳以外で起こったらそれは癌という細胞に変化するんですよ。まあそういう形のことがどんどん起こります。まあここ(お祈りの部屋の椅子に玄関に向かって座る)へ座られたお二方もそういう状況で亡くなられております。

質問: 皆様、こうやって顔見知りであったりお話ししたりとか、心安くしてくださっていた方々がそういう状況になるのはやっぱり私自身としては他人事では無いので、そんな風にならないようにやはりお祈りをするとか・・・

河上さん:だから印可書を奉読されるのが一番簡単で楽。要するに真の神さまって理屈でわからなくても、本来理屈でわかるものではないんですけれども、奉読だけですっと入れるようにしてあるからね、印可書は。楽だとは思いますけれども「 宇宙神ありがとうございます」で行くんでだったらそれに命をかけなあかん。

 要するに 「宇宙神ありがとうございます」と祈った以上は何があっても一切文句を言わないっていう覚悟がいる。「ありがとうございます」の祈りも一緒です。先生がちゃんとそういう風に説明されている録音もありますけれどもね。だからそれって厳しいでしょう?
 
 この前の護摩でも言ったけれども 肉体がある限りね、腹も立つし、怒りが出るのは当たり前や。実際そうなの。印可書だったらそれでも乗り越えて行けるわけ。でも「宇宙神ありがとうございます」とか「ありがとうございます」の10文字は 怒りが湧いてしまうと崩れてしまうのね。それはもう大変困るから、まあなんて言うんですか、色々とちょっと今回はオマケ出しましたけれども、次はもうオマケがないから、各自の自己責任でやっていくだけです。
 
 要するにね、本当後がないので神さまが(その具体的な働きである護摩と印可書を)邪魔をすることを許されないんですよ。本人は邪魔をしているつもりはないやろうけれども護摩に関連する あるいは 印可書に関連すること全てですけれども、護摩と印可書に関連すること邪魔したら 神さまを邪魔しています。印可書を選ばないのは自由だけれども、「印可書を選んだらだめだ」とかどうこうっていうのは邪魔をしていますから。

質問者:ありがとうございます
 
河上さん:だから総責任者の自覚ってね、先生が亡くなられる一番最後のところは総責任者の自覚を強調されたわけです。その総責任者の自覚っていうのは全ての責任は自分にありですし、それよりももっと総責任者としては光を全ての人に出すという責任があるわけです。でもどうしていいかわからない、それを印可書奉読するだけで光を出す側になるよって、先生が決めて行ってくださっているわけね。だから印可書を奉読するだけでお清めになるわけ。それだけは分かっていてください。
 
 だから行き詰まった時、困った時はまず印可書をひたすら奉読してください。必ずひらめいてきます。大丈夫です。で、お一人お一人が先生として、神さまとして働かなくちゃいけない。その体の大きい人が力持ちでね、体の小さい人が力ちょっとしか出せない。女性はちょっとしか出せないじゃないですか?だから力の出す大小、量は関係ないんですよ。それぞれにやれる全力精一杯を尽くしたらそれが大きな大きな神さまへのお手伝いですし、神さまとしての働きです。
 
 その光を浸透させるために、水がそうでしょ?パンと撒いたら色々細かく別れてしみ通って行くじゃないですか?その細かく分かれてしみ通る働きをするために皆様が肉体を持って降り立たれた。だから細いところに行く人はいわゆる耳かきの働きだから、この世的にはちょっとやと思うけれども、でもそれがないとだめだ、という事が分かるでしょ?スコップで耳かきは取れないのね。耳かきちょっとですけれども取らないとしんどい。そういうどの働きも大事だということが分って、ひたすら自分の尽くせる全力を淡々とひたむきに尽くしてください。

 皆さんの場合はまだ比較的楽な立場にいるんですけれども、村人の場合は厳しい立場にいているんですよ。何故かと言うと。衣食住確保されてね、それなりの(二桁の)お金を頂いて生活している訳ですね。という事は本当にひたすら祈り続けないと、マイナスを積んでいくだけなの。先生は真祈りをしたい、真の神さまに弟子入りしたいと願う人だけを、村人として許可しているんですけれども、真の神さまに一瞬一瞬新に弟子入りするという事をみんな忘れているのね。真の神さまに一瞬一瞬新に弟子入りするという事は、さっき言うたように何があっても文句を言わない。文句言わなかったら喧嘩にはならない。この前の護摩で説明したように、頼ると縋るの違いです。ひたすら真祈りするというのは縋るです。でもギブ&テイクで文句を言うのは頼るです。村人で文句を言う人がいたら頼っているんやなって思って、冷ややかな目で見ていてください。いちいち説明する必要はない。

 もう甲辰(きのえたつ)やからある意味楽になっている。もう包み隠さずにバンバン光を出しているし、本当のことを言っていいからね。僕はストレスたまらない。だから掲示板にもできるだけプラスになるようにプラスになるように書き込んでいる積りやねんけれどもね。よう分らんな。できるだけ褒め讃えている積りやけど。
 
 以前は印可書ない前は神書を読むなり、この問答集を読んだりね、真祈りの本を読むなりして真祈りするしかなかったわけです。でも読んで分らんのでしょう?だから印可書を作ってもらったんだけれどもね。「読んで分ろうが分かるまいが、読んだだけで分かるようにして下さい」と言ったら、先生の命を縮めて言霊として響かせてくださったわけ。それが印可書と神書やこっちの本との違いです。
 
 もちろんこれ読むなって言ってるんじゃなしに、読んだらいいんですよ。読んで分らへん時は印可書に立ち戻って読めば必ずわかるようになっていますから。それぐらい印可書はすごいものです。だから護摩でこの本の質問とか色々来るじゃないですか。聞いてすぐに僕が答えるでしょう?真祈りしていたら大丈夫、答えられますから。だからこれ読んで分らんところあったらまだまだ真祈り浅いなと、自分で反省してください。

 まあ水晶玉のことでもね、もうなんか知らんけど、こう思ってこうしてしまいましたとかね、正直に言ってくれたら、「しゃあないな、もう、こう対応しようか」とかあるんですけど、あるいは台座も燃やしちゃったとかね、捨てちゃったとかね、さき言ってくれたらいいんだけれども、黙るでしょ。そうすると、有るんだったら作らない方がいいんです。無いんだったら作るしかないから、僕の命をちょっと削って作ります。どっちでもいいんだけれども、まず、黙っているから今動きが取れない。
 
 この玉を置いていくにあたって 先生は命を削っておられるんだからね。それは分かってください。新たに台座作る時は僕の命を削って作りますから それも何とかしますけれどもね。まず台座があるかないかや。頼むわな、正直に言ってーな。済んだことは責めへんからどうするかが大事。そうでしょ?どんな事もそうですよ。済んだことを責めていたって何も進まないの。もうそうなったら「しゃあないな」だけや。もう後どうするかが総責任者の自覚よ。済んだことをぐちゃぐちゃいうのは現実を掴んでいるって言うね、過去を掴むって言うね。
 
 ただ誰それについて行こうとかね、そういう甘えた考えは捨ててください。自分が真祈りをして自分が神さまの働きをして、自分が先生の働きをするんだって覚悟を決めてください。大変だけれども逆に言えばこんなに素晴らしいことはない。悟らなくてもできるという、すごい状態を先生が作っていってくださった。以前だったら本当に無色透明の悟りにならないとお清めができなかったんですけれどもね。僕のようにね。でも今は悟りの自覚があろうがなかろうが印可書を奉読したらお清めができるって先生決めて行ってくださったのね。だからもう行き詰まったら 印可書を奉読してお清めしてください。そしたら必ず四面楚歌でも天は開いていますから、なんとかなります。道は開けます。

 昔、先生ある団体の陰謀に引っかかってね、セクハラ騒ぎっていうのがあった訳ですけど。その時に先生をちょっとでも疑った人は本当に反省して印可書を読んでくださいね。凄いそれだけでも運命を悪くしていますから。人に言わなくても自分でわかるでしょ?それでやって下さい。
 
 それはね、その時いずれ僕がこの立場に立った時にその団体からセクハラの罠にかけられるからと先、先生おっしゃって、その当時。で、自分が先かかって消しとくからって仰った。そんなやめてください「 僕は僕でできますから大丈夫ですから」って言ったけれどもニコじゃなくてニッと笑いはってね、「元より後ろ指さされるのは覚悟の上やろ」先生に言われたら敵わない。それで粛々とセクハラ騒ぎを受けとりはったわけですね。その時に信の浅い人はどっちみち、いずれ逃げて行くからね。その時逃げていった人は信の浅かった人だけですけども。
 
 今回 2、3年前ですけれどもセクハラの疑惑をかけられそうになっても、その時先生がね 「兎も角そうなるから 業務日報やね、いわゆる今日何々したっていうのを事細かく日記に書いとけ、何時にはこれって全部書いとけ」っておっしゃったわけ。で、それをちゃんと守ってやっていますから、向こうが何をしても問題はなかったわけ。
 
 一番面白かったのはうちの家内のところに「僕と寝た」って言いに来られました。だけどね、みんな知りはれへんかったやろうけど、うちの家内のところには目の覚めるような凄い美人がね、しょっちゅう「僕と寝た」って言いに来るんですよ。もう慣れてるのね。ほんでいつも目の覚めるような美人が来るのに何で今回あんなおばさんが?知らんがな。関係ないって言って大笑いやったんですけれどもね。(笑)それくらいね、何というか、その色んな団体は陰謀が好きなのね、難儀なものや。そんなことをしたら自分らがもっと大変になるっていうことは分らへんねんね。

質問:2点あります。個人的な意見ではあるんですけれども、今回のことでまず1点目。 一般社会でも広まっているという事は大変無責任だなという風に感じました。2点目は改めて誰かが立てた人を信仰しているのではない。真の神さまのお役に立ちたいと思って、 本当にそれを願っているっていう、すごく気分が悪いなって思いました。出来事に。

河上さん:だから 責任感のある人はね、素直にそう思えるわけですよ。無責任な人は自分楽な方に行きたいから誰かについて行くだけでええわって安易に思うのね。あるいはお布施しているから助かるみたいなね。免罪符やろ?それって。そんな感じやね。無責任やから、お布施を出すから助かるみたいなね、なんかもう。先生はそんなことを言っていないのにね。

 だからしつこく「ここは 宗教団体ではない」って言わしてもうてますけどね。まず教えを立てない組織を立てないでしょう。立てる必要ない。みんな真の神さま、みんな光やから。もうそれだけは。それを自覚するために印可書があると思ってください。

質問:すいません。私は宗教団体の事は詳しくないんですけれども、団体と言うか、陥れようようとした団体ですかね、何の得があるんですか?その団体、そんなことをして。

河上さん: ここにある資金が目当てです。

質問: お金がある、ここに?

河上さん:はい。先生が護摩をするために集められたお金です。

質問者:ありがとうございます

河上さん:現状の規模の護摩を10年以上できるだけのお金は集めておられます。金額的にあまり言わんときますけれども聞いたらみんなびっくりします。だって村の維持費に年間1000万いるんでしょ? 何もしなくても。1000万で効かんと思うけれども。




令和6年3月河上さん勉強会―3(20240310−3)

質問:話は変わるんですけれども。今日も大雪が降ってますけれども、前々回に、地球の地軸がブレて寒くなったり暖かくなったりっていうことを言われていますが。天気予報をずっと最近、よく聞くんですけれども、そのことに一切触れないというのは、分かってないということなんでしょうかね?それとも…

河上さん:いや、天文台は分かっていますよ。

質問:敢えて言わないということなんですかね?

質問:言ったら大騒ぎで済まないでしょう。それこそ、どこへ逃げたら助かるかになってね、金持ち(の家)がようけ建ってる所に逃げたら助かるんやろうって、そこにみんな集まるやん。もう大騒ぎで済まへんやろう?

だいたい、自分が助かろうという魂胆が間違いやからね。何があっても自分は踏み止まって真祈りして、一切の災害を止めるんだという覚悟が要るのに、逃げてどうするねん。真(まこと)の神さまやろう?松下先生やで?逃げる必要はない。

 先生のお話の中にあるけどね。大地震の時でも真祈り人の家は潰れずにね、横の家はぺっしゃんこって仰るねんけど、その通り。
 
 昔の先生のお家というのは畑の作業小屋やったんです。作業小屋を借りてお家にされてたんですね。それで、いわゆる第二室戸台風が来たときなんです。僕は小学校2年の時ですけども。本当にすごい風でね。結構な家も家ごと飛ばされていくんですよ。その中で先生の小屋は無傷だったというくらいね、真祈り人は神さまそのものですから。影響を受けないんですよ。

 で、そこでね、その時「私は大丈夫かな?」ってちょっとでも不安に思うようだったら、もっと印可書を読んでねっていうことです。今、聞いてね、「ちょっと私は、うちは大丈夫かな?」なんて思うようではまだまだ困ります。もっと印可書を奉読して完璧なる安心感になってください。神さまが良いようにするっていうね。

 だから、3年4年ぐらいはもの凄く暑くなりますよ。そこから先はもの凄く寒くなります。で、どっちにしても灯油とかね薪とかエネルギーが入らなくなるから。みんな、着込んで寒さを凌ぐ方法を知っておかないとあかんのと、寒い時は、もう先に言っておきますけどね、頑張って洗濯しなくちゃいけないんです。寒いから着込むし洗濯できないじゃないですか。するとシラミが湧くのね。シラミが湧くと何が起こるかと言ったら、発疹チフスが出るんです。発疹チフスが出たら、こんなストーブも何もない状態やったらコロコロ死ぬからね。だからどんなに寒くても一週間に一回は下着を替えて、石鹸が無くても水でね、洗うとかね。という覚悟をしてくださいね。その頃、僕はおらへんから(そういう目にあわないから)大丈夫やねんけど。大丈夫かな。先に逃げとくか。違うか(笑)。

 でも、それくらい厳しいことを通さなあかんくらいね、それの方が凄い地震とか津波より良いでしょう?という状態なんですけどね。今現在の状況で言うと、今の日本人は10人のうち3人しか残りません。今の状況はね。でも護摩をちゃんとしたら全員残るようになっていきます。それくらい護摩は凄いことなんですよ。大おまけの凄いことなの。だから護摩だけは絶対に止められない。だから、村が護摩を止めようとしたら村を閉じるのは当然です。護摩のために作った村です。

 だから、親の死に目以外はね、来てください、近くの人は。遠くの人は無理は言いませんけど、何年かに一回は来てください。遠いとね、費用かかるからね。なかなか大変やと思う。

 だから先生が仰っていたように、あちらの世界では色んな姿があります。大きい台風の時、大きい地震の時、大きい竜巻の時とかね。もう本当に色んな姿が今現在あるんですよ。それを護摩で消していくだけなの。消し切れなかったらこの世に出てくると。そう思っておいてください。それで、どうしようもない、本当にどうしようもないのは、先生が血の涙を流してね、もう本当にどうしようもないのは消してくださったわけです。その消した後、この二人には「もうこれでええか?」と仰っただけです。後は任せたでということでね。任された以上、全力を尽くしていきますけども。人類の総意として護摩をしないということになればね、村がしないというのはそういうことですから。それはその時の対応を聞いているということです。

 それで、一番ね、みんなが勘違いしてるのは、この世のことはやってみて駄目だから、やっぱり止めときます、は通らへんのです。簡単に言うと、切腹してみたと。極端な表現で言うとね。お腹をグーっと切ってみたと。痛いからやっぱり止めときますわって言ったところで怪我してるでしょう?そういう感じで、やる以上はすごい責任と決断と責任いう結果を伴うわけですね。だからちょっと試しにやってみよう、だからちょっと試しに護摩を止めてみようというのは無いんです。止めたら最後。だから、1月2月は護摩をしない時があったんですけども、こっちでやりました。

 もう一つは、もう前も説明してんけどね、午前2時から護摩が始まってるんですよ。で、9時あたりからこの世の人間に引き渡されてるわけ。だから護摩は午前2時からやからね。その護摩の最初辺り(9時ごろ)で喋って邪魔をしてもらったら困るんです、本当は。それは何遍も人づてに伝わるように言ってるんだけど伝わらないんで、もう一遍ここで言っておきますけど。体が大変になるで知らんで。オマケないからね。護摩で喋りたいんやったら、午前1時半に行って、会場で喋ってください、スタートで喋る場合は。(9時の護摩の引き渡しの途中でみんなというか多数に向かってしゃべって邪魔するのは)向こうの世界の人が怒るわけですよ。

 だから、(護摩は)9時か9時半始まりですけども、その手前はもう、向こうの世界の護摩が全部盛り上がっていってるわけですね。その最中に邪魔されるから。あれ、なんとかしてくれって言うんですけど、できるだけ言うけども自由意志やからね。後は本人次第です。

質問:大事なことなんで確認したいんですけど。その喋るっていうのは、護摩で喋るっていうのは…

河上さん:いや、印可書奉読するとかね、神書を読むとかいったら分かるけどね。どうでも良いことを喋ったら困る。せやけど、みんながちょっと雑談程度で喋ってるのは邪魔にならへんねんって。集めて喋るというのは真祈りの行事の中を、進行を止めてることになる。

質問:場所で言うと、護摩焚き会場?

河上さん:いや、そんなもんな、時空を超えるからね。だから全国の人が何年かに一回で良いから来るだけで良いっていうのはそういう意味で。それぞれの場所が全部護摩会場になるの。そやから、例えば護摩の時にここ(お祈りの部屋)で喋ったって一緒よ。邪魔や。いや、「ああ、久しぶり」とか言って二人で喋るのは関係ないで。

質問:ということは、場所を問わず午前2時から…

河上さん:始まってる。

質問:護摩に関係のないお話をするのは神さまの邪魔をしているという?

河上さん:もちろん。

質問:護摩会場以外でも。

河上さん:うん。だから甲辰やからね。オマケ出されへんから先に言っとくだけ。もう一度。もう何回も言ってるけどな。

質問:今まで聞いていたのは護摩会場だけの話だと思っていました。

河上さん:だから、神さまは時空を超えるからね。過去も現在も未来も無いんよ。だから毎回護摩で過去、現在、未来のすべてを変えていってるわけよ。そういうすごいものや。だから、なんかみんな勘違いがあるけどね、先生の作られた護摩は、それは凄いものなんや。空海さんがされた時の護摩もそうやってん、最初は。でも後からね、お金集めのためにね、護摩木に願い事を書いてするような護摩に今は変わってるけどさ。でも本当はそういうものではない。仏教に火を焚いてどうこうというものは無いんよ。空海さんが作った。

質問:密教?

河上さん:いや、密教やなくて。あんまり過去の話をするのはあれやけど。もっと前の時に、先生が火を使ってのことをされた。それが形を変えて今の護摩になってるだけで。

質問:ということは、2時から護摩が終わるまで?

河上さん:うん。

質問:護摩が終わるというのは?

河上さん:僕の話が終わるまでやな。

質問者:はい。分かりました。

質問:まず、私自身の疑問があって教えて頂きたいんですけれども。最初の護摩の始まりというのが、ある個人の方の御子息様が関与されて始まったという風に私の記憶の中にあるんですけど。その関係というのが…

河上さん:最初の護摩?一番最初の護摩?

質問:はい。

河上さん:ヒロシ君が行水に使った金ダライでやった護摩か?

質問:すみません、私、それではございませんで…。

河上さん:それが、金ダライでやったのが最初の護摩や。覚えてる?金ダライで護摩を燃やしたの。

Iさん:そこでやった時ですよね。

河上さん:そうそう覚えてるやろう?

Iさん:一回目のことを仰ってるんですかね。あっち、御陵の所でやった…

河上さん:御陵の所やったんかな。(ここ村でやったと思うけど)金ダライを使ったんやな。

Iさん:火を使ってへんか…?

河上さん:いや違う、金ダライで護摩したやんな。火を使って燃やしたやん、あそこで。

Iさん:ええ。

河上さん:それが最初や。

質問:すみません、著書にもあると思うんですけど、護摩の本が出てたと思うんですけど。私の記憶の中では、ある個人の方の御子息さまが、小さくして、されて、そこから、その護摩をしましょうとかいうお話…

河上さん:うん、だから最初はその金ダライでしたんだけど、それを見て、お金を払って高野山のね、大阿闍梨の称号を取った方が、「私は大阿闍梨の称号を持ってるんで、護摩のあれをします。」って言って始まった。弁護士の方です。

質問:はい、そうですね。そことの護摩の、その成り立ちの関連というのは…

河上さん:いや、だから先生は自由意志を縛られないからね。積極的に是非したいと言う時は止められないです。だけなんですよね。で、その導師として護摩木を入れる場合は死んでもその席を立ったらあかんのです。そういう厳しいものなんですよ。でも途中で席を立たれたことが何回かあってね。暑くて。もう甲辰やからな。なんでも言って良いって言うから。それで、ある意味資格を失ったわけですね。それで、僕が、ありがとうございますの掲示板にね、「護摩は全員が参加して全員が護摩木を放り込んでするべきものだ。」って言って書き込んでおいたわけ。で、先生がそういう風にされていった。

質問:そしたら、今の護摩というのは、最初の出だしというのは、そこだったかもしれないんだけども、今ある護摩というのは河上さんの…

河上さん:いや、だから全員の真祈りが要るって言ってるでしょう?だから全員が護摩に参加しなくちゃいけないから。そしたら、ただ護摩木を放り込むだけじゃなくて、だから今、全員が前に出て真祈りするじゃないですか。そういう、みんなが、オーケストラがそうでしょう?一人が弾かへんかったらあかんわけやろう?一人ぐらい、あれバイオリンを弾かへんくてもバレへんねんで。主席のバイオリニストの弦が切れたらね、隣の人がバイオリンを渡すんよ。順番に回していって、一番後ろの人がその弦を張り直して、また参加するねんけどね。それくらい、一人くらい弾かんでも分からへんねんで。せやけど、分かる分からへんじゃなくて全員が参加せなあかん。そういう護摩に、理想の護摩に今はなってるということです。

質問:ありがとうございます。

質問:すみません、話が変わりますけど。ごはんっていつ無くなりますか?

河上さん:え?

質問:食べ物っていつ無くなりますか?

河上さん:だから、無くならないようにしたいから護摩をするねん。

質問:護摩をしてたら無くならない。

河上さん:そうそう。

質問者:分かりました。ありがとうございます。

河上さん:だから護摩を止めるわけにはいけへん。

質問:じゃあ、4年後は?

河上さん:だからそれまでにな、みんなが、みんなが本当に真(まこと)の神さまの自覚を持って、先生の自覚を持って動けるようになってもらわなあかんねんやんか。もう後は無いんや、あんまり。あんまりのんびりしてる暇はないねん。だから言ったやん。ちょっとでも自信ない、その時にそうなった、そういう立場に自分が立った時にね、自信ないと思う人は、自覚できるまで一生懸命印可書読んでって言ってるやん。普段から一生懸命読んでたら、絶体絶命の立場に立たされてもね、うろたえへんし、神さまとして先生としての働きが出来るの。一歩たりとも退かないという決意が要るねん。

今回は大事な水晶のことがあるから一歩たりとも退かないです。とことん行きます。どうでも良いことはね、まあしゃあないなで終わるんですけども。まず台座が戻ってこないと困る。

 懐かしいよな。ヒロシ君の金ダライでしたの。

Iさん:ね。色んな色の、なんか緑とか色が、色んな色が出て、ウワーすごいって。

宮野さん:炎色反応(金属が燃えると、その金属特有の発色をする)ね。

Iさん:そう。違うとか言ってましたね。

宮野さん:大阿闍梨の称号はお金で買えるんですか?

河上さん:買えます。そんなん、高野山を維持せなあかんのに。誰が何も無しで金を出してくれるん。どこで出すかは言いませんけど。そんなん自分で調べて。だってナイトの称号でも買えるんやで。

宮野さん:サー(Sir)。

河上さん:あ、ナイト違う、サーか。

宮野さん:サーですけど。サーの称号です。

河上さん:ごめんなさい、サーの称号です。お金で買えるんやで?なんでも買えるよ。大丈夫よ。値打ち在る無いは関係ない。

 まあ、ある意味、護摩はすごい大おまけやと思うよね。参加してね、何かよう分からんうちに燃やしに行ってね、何かよう分からんうちに前に立ってお祈りしてね。それだけでも凄い真祈りになるようになってんねんから。是非、真剣にね参加してください。少々の用事は断って。まあ、親の死に目で葬式といったら親戚がうるさいからね。放っておかれへんやろうけど。少々のことは是非おいでください。近くの人は得ですね。遠くの人はね、お金も先立つものが要るしな。中々大変ですけど。
 
 ただ、本当に全世界同時に護摩っていうくらいに人類の意識が広がれば、もう大丈夫なんですけどね。まだ時間空間の感覚のズレがあるでしょう?それが無くなるまで。真祈りというのは、もう時間空間のズレが無いんですよ。過去も現在も未来も今ここにある。で、それが分かると不退転の決意というか、安心立命という表現では足らんくらいの凄いものがあります。

 今、首とここが腫れて、もの凄く痛いんですけど喋れるのね。さっきちょっとサンドイッチを半分だけかじったら痛くて必死で飲み込んで終わったんですけど。それでも必要な時は喋れる。それくらい何があってもね、神さまが良いようにしてるっていう確信が要るんですよ。これと同じような話を昨日、八鹿(ようか)の連中にしています。もう怒りまくってるから、まずそれを抑えに行かないといかんから。水晶事件で怒ってはるねん。ほぼ同じ話。要はもう、真(まこと)の神さまの自覚をね、皆さんお持ちになるということが大事。で、それは印可書奉読だけで持てるからという。そこだけは信じてください。

 まあ、大事なことは、肉体を持ってるとね、腹も立つし、悲しいし、辛いしとか、しんどいし、とかあるわけですよ。それは肉体を持っているから当然なんです。で、その時に、例えばしんどい時にね、しんどいから甘いものを食べましょうとか、しんどいからリポビタンDですか、なんか栄養ドリンクを飲みましょうとか、それが極端になると覚せい剤に頼りましょうとかね。なんかドラッグに頼りましょうみたいになるわけですけど。そういう物に頼らずにね、肉体が持てるからこそしんどい時があって、だからこそ、よりお祈りができるんだと喜んでもらうことが大事なんです。肉体を持ってるからこそ腹が立って人を憎みたくなるんですけど、そのお陰でより深く印可書を奉読できるって喜んでください。それが大事なんですよ。

 皆さん、肉体を持っていない本心の自分の時と、今の肉体を持っておられる時のギャップが大きいから、ついつい肉体の自分を責めてね、色々と挫折するんですけど。挫折するんじゃなくて肉体だからその反応が出て当たり前なんだ。例えば若い男性女性だったら、お互いに異性を意識してね、性欲が出るのは当たり前なんだと。まずそこで割り切って、後は印可書奉読ばっかりっていう感じでね。要するに神さまに心合わせるんだっていうことを分かってください。物に合わすんじゃなくて。神さまに心を合わすことが大事。それが真祈りなんです。

で、神さまに心を合わすというのは理屈で、「どないして合わすねん?」っていうことが今まで困ったわけですね。それを印可書にしてもらっているということです。あるいは護摩にしてもらってるということです。だから護摩をされている時は、色んな雑念があろうが神さまにピタっと心が合ってるんです。それは信じてください。そこを信じてもらえたら、護摩に参加した後の自分の変化が全然違います。今はまだ護摩に参加されててもね、なんか惰性でしてるというか、「いや、これで大丈夫なんかな。」とかいうのが微妙にあるんですね。それ止めてください。護摩は凄いことですから。

 もう、護摩にどんな色んな雑念が出ながらで良いから、護摩に参加したらグッと心境が上がるというのを信じてください。凄い大事なことです。だからこの勉強会には来なくても、これは録音で聞けるからね、来なくて良いけど、護摩だけは何があっても来いというのは、それくらいね、大事な大切な大おまけのある凄いことなんです。

 で、これは先生が最初に出されてここに置いてあった赤い印可書ですね。あれがその大おまけが付いてたんですよ。僕はそれを知ってるから、まとめて持って帰ろうと思った。でも先生があかんって言うのね。「みんなが自由意志で選び取って行かなあかんから置いとけ。」って言うから置いてあったわけ。そしたら誰も自由意志で選び取っていかないから、大おまけを燃やしていかれた。それだけです。甲辰やから本当のことが聞けて嬉しいやろ。本当は貰ってても、もう一部取りに来てたら良かってん。済んだから言うけど。

 で、水晶は今まで置いてあることも気付かないくらいの状態だったでしょう?あれがホンマなんですよ。これが目立つような感じになってたら、また水晶という物に頼る心になってね、偽物になっていくわけです。ちゃんと先生は言霊で目立たない状態にしてあったんですけどね。ちょっと今回の事件で微妙に…。また、あと調整を苦労してなんとかします。まず台座。

 それでまあ、普段の会社とかね、お勤めに行っておられるところで、会議で適当に空気に流されながら上手くやってくださいね。変に正義感を出すと叩かれるからね。それは会社の中で印可書を心の中で奉読して光を入れて、ゆっくりとしたら良いことで。ただ、会社とか組織やと組織全体の運命に関わるからね。そんなに無責任にみんなゾロゾロ出来へんよね。ただ、宗教団体になると無責任にくっ付いて行こうとするからね。で、駄目なんです。だから今までの宗教団体の中からね、悟ったという人が出て来ない。それは無責任にこの人に付いていったら良いわってやってるからよ。それは祈りではない。無責任な狡い心や。

 だから先生は生活保護は駄目だって仰ったんや。無責任な狡い心やから。でも、この村も一つ間違うとね、生活保護と変わらへんからな。必死でこの部屋へ来てお祈りしてもらわないと。自分の運命がこれからは大変になる。甲辰やからね。もうおまけを出さなくて良いって言うから。本当に出さへんで。また出す余裕ないって、一杯一杯になってきて、もう無理。そこへこれ増やすやろ。この水晶の手間は増やすし、もう。なんでこのややこしい時に手間を増やすかや?ねんけど。

 正直に、「こうなって、こうやったから、こうしました。」って言ってくれるとね。「もう済んだことはしょうがないから、もうこれからこうしよう。」ってこう言えるんだけど。言えへんねんな。難儀や。ということは、言えへんというのはどういうことかと言うと、本人が過去を掴んでるということや。それはもう本当に光を通しにくいの。
 
 「その時は、こうだと思ったからこうしました。」って言ってくれたら、もう過去を離せるようになってるねんな。だからキリスト教でね、あれ何?告白っていうのがあるの?牧師さんの前で告白して悔悟するの。

宮野さん:懺悔(ざんげ)。

河上さん:懺悔か?懺悔があるでしょう?あれは本当はそういうもんや。過去を喋ってしまって、もう離すというね。本来はね。今はどうってるか知らん。

 でも、あの掲示板に書き込んでくださってるのを見て、どの方のもみんな心境が高くて嬉しかったです。ありがとうございます。神さまだけに心を合わす。ああいう文章は良いよね。
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令和6年3月河上さん勉強会―4(20240310−4)

質問:先月、無条件というお話しをして頂きまして、神さまの愛が無条件で絶対の愛だっていう事で理解できるわけですけど、日々の生活の中でどう無条件に生きていくかという事を考え出すと中々?

河上さん:先生の表現で言うとね、「真(まこと)の神さまに一瞬一瞬新たに弟子入りする」という事。弟子入りって何かと言うと、もう師匠に無条件に「はい」なの。それって何かと言ったら、「一切文句を言わない」。 だからさっき言ったように自分の出来いる事を精一杯淡々としてね、淡々としてもぼろ糞に言われても、あゝ良かったって言えるのが無条件。

 だから人それぞれ能力の差があるじゃあないですか?だからこの現世で言うと能力の差で評価されるけども、能力の差ではなくって、淡々と自分のやれる事を精一杯やっているっていう事が大事なの。それが無条件の真祈りなのです。護摩なのです。

 そこをさえ分かれば良いのですよ。評価うんぬんというのはこの現世の分け隔てた世界での基準であって、「みんな真(まこと)の神さま、みんな光」という基準の中では評価は要らないのですよ。人間の体で言うと、何時も言うように右手と左手ね、右手器用、左手不器用。左利きの人は逆やね。左手器用で右手不器用。だからといって評価してどうこうはないでしょう?命として一つじゃあないですか?もう全くそれだけなんですよ。それが真祈りなんです。すると喜びだけになる。

 クリスマスツリーで色んな光を出すじゃあないですか?個性としてね。で、キレイなって喜べる。一つ一つ小さい光が分かれて暗いじゃあないかって言えへんね。綺麗なって喜べる。蛍さんの光、蛍の光で本を読むって言いますけど、そんなん出来へんほど弱い光でしょう?でもそれが夏飛んでね、綺麗なって言うんでしょう?結果じゃあなくってね。その喜べる心が要るんですよ。あいつ怠けているって、何言われても自分が精一杯やっていたら大丈夫なんです。大丈夫だと喜べる心ですね。

 それで外人さんは農耕民族でない感覚がありますから、成果優先主義なんですよ。で、成果優先主義で行くと、開墾とか開拓とか征服とかね、そうした目標がある内は持つんですよ。でも目標を失った途端にバラバラになるの。だからモンゴル帝国って昔あったんですけど、バーッて攻めていくんですね。征服することが目的やから。でも征服する場所が無くなったんですよ。ほんだらアッという間に滅びたでしょう?

 だけど日本は、日本人は何が違うかというと、成果優先主義では無いんですよ。一生懸命やる事を喜ぶ。で、出来る者が出来ない者を支えてやるだけでね、支えたからって文句を言わない。

 だから日本の場合、お年寄りをね、どうでもないしょうもない生き方をして来た年寄りでもね、はっきり言うけど。カスみたいな生き方をして来た年寄りでも、年寄りになったらみな大事にする。だから世の中が上手く行く。

 で、外国はどっちかというと年寄りを大事にしないのね。だから喧嘩も多いいし、戦争も多いいし、色々あるんですよ。
 だからやった成果で、成績でどうこう言わなくなったら良いの。神さまに心が向いているかどうかだけで判断するようになったら絶対平和の世界になるの。でもともすれば成果、成績でしょうとする訳よ。

 だから会社で言うと、昔少数精鋭主義が良いって言ったの。でも少数精鋭主義で行った会社はみんな長続きせえへんのよ。ある程度大きい会社で、お前は使えんやっちゃなって、一杯おる中で、こうやって行く方が強いねんな。それ位分かれて見えるけど、一つとして動く時は強い訳よ。

 でも分かれて4人、5人の精鋭だけでね、やったって続けへんね。形の上の結果では少数精鋭主義の方が、バーッて出るんよ。出るねんけど長続きせえへんの。日本のようにちびちび行くねんけど、シュシュってしてるのが大事なの。それが大和という大調和の心というね、大和民族っていう、日本民族っていう本来の心なんです。

 それを先生は桜に例えられて、散り際の良さって言われたの。散り際の良さって何かって言ったら、「一瞬一瞬新に受け直す」っていう事です。一瞬一瞬新に受け直すから、「さー、これからどうするや?」「サー、これからどうするんや?」だっけであって、「お前こんだけしか出来てないやないか」ではない。

 それが出来たら、勉強が出来ない子でも勉強が出来るようになるんですよ。「なんや、お前こんなんしか分かれへんのか?」って言ったらもう最後やね。勉強嫌い増やすね。まあそういう感じの事で良いですか?もうちょっと説明しますか?

質問:先ず、文句を言わない。無条件に喜ぶ?

河上さん:その文句を言うのは分けて結果を気にしているからね。結果じゃあないんだよっていうのが。だから分けて結果を気にするとね、誰それに神さまが降りて凄いってやり出すんですよ。結果を見ているやろう?そうじゃあなくって「一瞬一瞬新に真(まこと)の神さまに弟子入りしている」から結果やないね。それが真祈りやね。

 誰それに神さまが降りて予言したとか、病気治したとか、そんなん大した事はないねんて。結果を見ている間は全部偽もんや。神さまに心合わせてるかどうかが本物や。結果は違うねんて。

 そんなんで言ったら大自然の姿なんか、台風が来て崖が崩れてグチャグチャやってことやんか、結果だけで言ったら。でもその結果新しい土壌が出来たりとかなる訳でしょう?もっと長い目で見たら。で、日本民族って言ったら、長い目で見える余裕があるはずや。すぐ結果を出そうなんて思えへん。それが大事やね。

 そうやけど今回の水晶事件でもね、誰も物言わないっていうのは、結果を気にしているからや。結果を気にしているから、もう怖くなっているんやろう?だけど結果やないって何時も言っているやんか。神さまに心合わす事やって、それが真祈りやって。

 だから神さまにどうして心を合わすかってなったから、印可書を作って貰たって、何回この説明をするか。(笑)後は選び取るのは皆さんの自由です。

 ここが分かったら良いんですけどね。やっぱり競争社会じゃあないですか?日本でもね。会社の業績でも競争し合うし、株価でもね、有るやん。で、ついつい責め合う心になるんねんけどね。そうじゃあなくって助け合ってやって行くっていう。全員が助け合っていくようになったらお金要らん。助け合われへんから、お金を媒介にしているだけや。そこまで行かなあかん。この5年で。行けるよ。

 幸いにね、デジタル通貨になって来たでしょう?paypayとか紙の通貨無くなったじゃあないですか?だからみんなが真祈りしてくれたら、ある日こんなpaypay要らんなってなるの。必要な人に必要なだけ渡して上げたら良いんやって、支え合いになる。そしたら大量生産で無駄な車作らんで済むよ。

 車でもね、必要な人がお互いレンタカーの様に共用して乗ったら良いんでしょう?じゃ、地球の資源も痛めんわけや。今は1台でも多く売らないとあかんから、1台でも大量生産で安く作って売りつけようとするわけや。だけどそれってモンゴル帝国やないけどね、行き着く先は決まっているやん。何ぼ大量生産で安く作ったって、みんなが車持ったら要らん訳でしょう?それに誰も気付けへん。大量生産で安く作ったらみんな幸せって勘違いしてるねんけど、行き着いたら終わりや。だから行き着かないように人口増やさなあかんとか、又、訳の分からん事言ってな、切りの無い話にしてるね。

 だけど地球霊王様の中で住める人口の数って決まっているからね。人類は地球の資源を食い尽くすからな、増え過ぎたらあかんね。で、増え過ぎたらあかん為にも、みんな長生きするようになる。真祈りしだすとね。長生きするから子供をたくさん産まんでもいい。

 ちゃんと理想の世界に持って行けますから、護摩をしてたら。大丈夫です。

 これを理屈で持って行こうとしたら失敗するんよ。理屈では人は言う事を聞かん。何時も言うように、我が旦那、嫁さんでもいう事を聞かんのに、他人が言う事を聞くわけないやろうって。何でそれ気が付けへんのって何時も言ってるやんか。我が子でも言う事聞かへんのに、何で他人が言う事を聞くねん。ええ加減にせえよ。(笑)真祈りしか変わらへん。中からしか変われへん。

 みんな真の神さまの自覚を持っているからね、それを大きく大きくするだけ。それは印可書を奉読して、みんなの心の中に印可書を響かせていくだけよ。

 だからご夫婦でも、うちの嫁は何でも言う事を聞いてくれるっていう時は怖いんやで。だから家の旦那は何でも聞いてくれるっていう時は怖い。何でかと言ったら、相手が無責任になっているから。だから歯止めが利かなくなってぐちゃぐちゃになり易い。

質問:先生が皆に降りたって下さっている。なのでここに来てる人とか、お祈りをしている人とか、印可書を読んでいる人とかじゃあなくって、全ての全てですよね?

河上さん:全人類。はい。
 今も降り立っているし、今も伝授はズーっと滝のように降り注いでいます。後は受け取る側の問題。

質問:私たちが印可書を唱えたり、真祈りを深めていくことで、その人達…

河上さん:そう。自分の縁のある波の人に響かしていける。前に言ったように、こっちの音叉をピンと鳴らすと、こっちの音叉が何もしないのに共鳴して鳴り出すやないですか?ああいう感じで101匹目の猿効果って言うんですけど、何人かが真祈り完成したら、全人類の心に響くんです。

  それは何でかと言ったら「みんな光や」っていうね、「みんな真(まこと)の神さま」っていう、潜在意識という共通意識ではみんな一つだから。一部が大きく音叉を響かしたら、全部に響き渡る。それは間違いない。それを増幅する為に護摩がある。護摩は増幅装置なんでね。

 だから護摩で神さま以外の話をすると、凄い邪魔をしている事になる。だから護摩で神さま以外の話しをあんまり私語でもしないようにね。「久しぶりやな」って言うのは出来るだけ護摩が終わってからして下さいね。

質問:以前はトイレ辺りが一応結界というか、護摩の会場でね、簡易トイレを設置してあるあの辺当たり迄、ちょっとおしゃべりしたりとかだったら、それより先(外)でした方が良いという事を聞いたような気がします。

河上さん:そのね、絶対喋ってはアカンって言ったら、みんな苦しいやろう?だからちょっと前提をね作ってね空気を作って、その辺やったら良いってしとかないとな、みんなパンクするやん?もうそれだけ。本当は地球全部が護摩をしているからね、何所の場所も一緒なんですけどね。だけどちょっと息抜きないと、大変やから。それだけです。

質問者:ありがとうございます

河上さん:普段のお仕事でも仕事でも、何が起こっても、「じゃあ、これからどうしよう?」だけやから。そしたら過去を掴んでいないから現実掴んでいないから大丈夫。でもこないになってどうしようって言ったら、そっから身動き取れんようになってね、余計悪くする。

 だから相手に悪い事して謝っても許して貰えなくても、謝るだけ謝って後は気にしないという事。許す許せへんは相手の勝手になって行く、そうなるとね。

質問:地球全部が護摩をしているという事はどういう事でしょうか?

河上さん:だから「みんな光や」って言う事です。神さまは絶対の愛やから、常に常に「悟っている、祈っている、救われている」状態にして下さっているんですよ。だけど人間の方が勝手に私まだ悟ってない。私まだ駄目だわ。私は無責任だわとか勝手に自分の言葉で縛ってね、楽しんでいるだけ。

 お芝居で今日は男役で行きましょう。宝塚であるじゃあないですか?今日は女役で行きましょうとか言って、劇が有るでしょう?ああいう感じで一時的に台本で自分を縛って楽しんでいるけども、本来の自分は真(まこと)の神さまそのものというのは絶対的に変わらない。変わらないからこそ悟れるの。悟りが分かる。そこだけなの。

 だから何時も何時も護摩の状態なの。護摩って何かと言うと、悟っている状態を偉大な護りって言って、偉大なおまけって言ってね、より分かり易い状態にして下さっているという事。で、先生が全体を護摩にして行って下さった。その時に僕の負担が減るように水晶玉を置いて行って下さったという事です。

 ちょっと今暫く機能しないからね、あっちこっち地震起こりかねないから、各自、余り動かないで自分の居てる場所で祈るように。動かんで良いからね。どこに逃げましょうではないで。不退転の決意を持って祈って下さい。そしたらスロースリップって言ってね、ゆっくり揺れるだけで終わりますから。

 この前、去年ですけど河内長野が震度3やったんですね。でもゆっくりやった。ドドドんって来なかった。だから家の工場の場合でしたら、整理できてへんから棚に一杯積み上げてあるね。それが崩れづに済みました。ただキャスターの付いた車の付いた物などは
大きく移動してました。ここに置いてあったのが、2メートル程向こうに移ってるね。で、最初、エッて意味が分からん。ゆっくり揺れたから、その時僕おらんかったから、息子しか居らんかったから。ゆっくり揺れたから勝手に走って行った。

 それ位真祈りを何時も響かせていたら、揺れてもそれ位で済むわけですよ。だから真祈り人の使命ですから、各自いま居てる住んでいる場所で頑張って、せめて寝る前は3回読むとかね。読まなくっちゃあいけないとかでなくって、自分なりに納得する数を決めてやって下さい。別に100回でも良いんですよ。でも納得する数やけど無理をしないようにね、続ける事をやって下さい。寝る前3回くらいは出来るので、今、3回って言いましたけどもね。別に寝る前でなくっても夕食前とかね、家に帰って来た時とか、自分がちょっと余裕があってやれる時にして下さい。それだけで十分効果があります。

 もうみんなが真(まこと)の神さまだけ。宗教団体違うからね、みんなが教祖ではない。みんなが真(まこと)の神さま。勘違いしないように。みんなが松下先生。働きの大小はそれぞれの個性に応じてあるだけで、良い悪いではないと分かって下さい。耳かきの働きが大事だっていうのを分かって貰ったら。

 ちょっと東南海と関東と、関東のが先かな?ちょっと止められへん。台座早く帰って来てくれや。無いんやったら無いって言ってくれ。頑張って命削って作ります。

 出来るだけ命削らんとね、出来るだけみんなと長く居たいからね、台座が返ってくるのを待っているだけやからね。ほんまに無いんやったら無いって言ってね。

 先生のされた事を何で疑うかやな。僕には謎やわ。必要で置いて行かれたん決まっているやん。だって必要のない物全部燃やしていかれたんでしょう?これも必要ないんやったら燃やすか、捨てるかされているわ。

 さっきどうしようもない生き方をして来た年寄りの面倒みないとあかんと言いましたが、み過ぎたらあかんからね。必要最小限で良いですから。カスみたいに生き方して来たおっさんて居てるからね、身勝手に。それでも年取ったら面倒みやんならん。

 でもみ過ぎんで良い。生きれるギリギリにしてやって下さい。文句を言ったら「文句を言いなさんな」ってイジメてな。(笑)
 でも全ては完璧な一つやから、働け無くなってね、あまり動けなくなった年寄りでも必要なんです。神さまは必要でないものは置かない。それが分っていたら出来ます。ただ、必要以上に面倒を見る必要はない。生きれるギリギリでイジメましょう。ちゃうか。(笑)

質問:先生が必要な物を残されて行った。今回の件で言うと水晶玉。後、神書であったり、

河上さん:そうよ。必要やから残していかれた。

質問:その中に五色のシールがまだ残されているですけども、みな残されたものにはそれぞれ役割役目が違うと思うんですが・

河上さん:五色のシールは無尽燈です。永遠に光が出るシールです。黒いシールはこれは蓄電池みたいなもんで、いずれ効果は消えます。だから具体的にもっと正確に言うと、お釈迦様の仏舎利ってあるじゃあないですか?それです。先生の仏舎利。

 だからこのまま大事に置いといて、本当に全世界に真祈りが広がる時にそれぞれの国に1枚づつとかね、お渡ししなくっちゃあいけない。無尽燈だから沢山貰っとこうなんて思わんといてね。(笑)真祈りしてんから、要らんやろう?(笑)水晶玉のように真祈りがまだまだ進んでいない所にこれを置くの。

質問者:ありがとうございます

河上さん:ようけ(たくさん)持って行ったらあかんで。1枚は持っていても良いけどね。

質問:セットで?

河上さん:いや、セットは要らん。1枚で。

宮野さん:5枚セットやで。

河上さん:5枚セットやけど、1枚でいい。

宮野さん:いや、あかんて。1セットです。

河上さん:まーまー、1セットでいいわ。ほんなら。だけど、いずれ1セットが足らんようになって来る。

質問:数からみて1セットでは足りなくなる?

河上さん:だから1セットで持って帰って大事に置いといてください。いずれバラバラにして渡さなあかん時が来ます。

質問:自分の以外の?

河上さん:勿論。真祈り人は自分の為を考えんでいい。

質問:人の為に置いとくという事ですね?

河上さん:そう、そう。水晶玉みたいに、又、何かしおったら敵わんからな。(笑)もう、手間な!思わずぼやきたくなる。

 ほんとね、みんな簡単に考えてるけどな。もう人類のギリギリのとこが、ホンマここ10年無いんねんて。それ乗り越えてしまえば良いねんけど、乗り越えれんかったら終わるの。終わる時ってね、アトランティスとかムー大陸が沈む時と一緒よ。沈む前日までごく普通の生活しているんやで。で、ある日突然あないになった。一緒よ、今回も。何時も通りの生活しているんやけど、明日はない。知らんほうが幸せやろう?僕は知っているから辛い。

 だからどうしようとなった時に護摩があるって言ってるやん。で、護摩を宗教臭くせんとね、宗教でないわけですから。どの宗派を信じている方でも楽に参加できる形に先生して行って下さった。だから宗教臭くないでしょう?形の上でも。会場も質素やし、それは宗教ではないって事を先生はされている訳ですよ。

 昔、五井先生が世界平和の祈りってお作りになられて「世界人類が平和でありますように」って祈り言葉があった訳ですけども。五井先生は白光真宏会の物とも何とも言わず人類のものだって仰っていた、世界平和の祈りを。ところが五井先生の気持ちが分らずにね、これは白光真宏会の祈り言葉だからって言い出してね、駄目になっちゃった。

 で、松下先生も「世界人類が平和でありますように」っていう祈願柱をね、お作りになってあっちこっち建てていたんですよ。ほんなら白光会から文句が来たんですね。白光真宏会の物であってどうのこうの、勝手にするなって。それ位宗教臭くしたらアカンし、宗教の物としたらあかんの。だからここは宗教じゃあないし、真祈りは全人類の本来の響きや。それだけなの。だから祭壇を作ろうなんてしたらアカンの。どの形であっても祭壇みたいにしたらアカンの。もうこれがギリギリよ。(後ろの宇宙神ありがとうございますの大シール)ここへローソクとかなんかを立てだしたらアカンの。

 でも祭壇とか宗教臭くしたがる人って言う人は無責任なんよ。分かる?こころを真(まこと)の神さまに合わそうとするのを止めて形にもたれかかる。形を作ってそれをしてたら助けて貰えるみたいな無責任さがあるのよ。でも祭壇に向かって祈ったかって何もあれへん。こころが真(まこと)の神さまに合うから凄いんよ。だからここは宗教団体では無い。祭壇は要らん。

 護摩の会場とここは、何もなしやったら皆が来えへんようになるっていう事で、先生がお作りになっただけ。いずれはそんなん必要ないってみんな分かり出したら変わる。一人一人の真祈りが全て。一人一人が真(まこと)の神さまに心を合わせるのが全て。心を合わす方法が印可書って言って下さったから、何の難しいことはない。

 ちょっとでも無責任に狡くなったら形に頼ろうとする。数珠とかな、有るやん?お守りとか。それは宗教や。要らん。

 昔、先生に頼まれて作った僕の作ったシールがね、いろいろと効果が有ってん。するとお金で買おうとする人出て来てね、「お前あれ止め、あれ持って帰れ」って持って帰った事がある。それ位宗教臭くなる事を先生嫌がられた。そのシール貼るだけで病気治るからね、お金払ってシール持って帰えろうとしだして。もうあれは止め止めっていって。どのシールかはもう言いませんし、持って帰ってもう無いしな。真剣に光込めすぎやって怒られた。いや、やれって言われたらするわな?先生の依頼やったら。

 如何に完璧な一つのところに意識を持って行くかやね。で、理屈で言ったら全ては完璧な一つという意識であるねんけど、それは理屈であって実感湧かないでしょう?で、全ては完璧な一つという実感は印可書を奉読したら出来るから、もうそれだけです。で、全ては完璧な一つって自覚出来たらね、必要以上に助けへんけど、必要な事は助けるの。ここが大事なの。支え合うって言うと、必要以上に支えてしまったりする。それは違うから。

 何でかと言ったら、必要以上に支えるっていうことは、相手を甘やかすやろう?だからさっきお年寄りにね、必要最小限、生きれるだけ以上したらあかんと言うのは、甘やかしたらあかんの。お年寄りでも甘やかさんと出来る事は自分でどんどんさせないとホンマにボケるし、身体弱るしやな。だから必要最小限だけして後は自分でしっていって、イジメていかなあかんの。違うか?(笑)そういう事。それはホントに印可書奉読でしか分からへん。

 特に介護の現場の仕事の人は特にそうやと思うわ。どこまでして上げたら良いのか、何時も悩みやと思う。だけども必要最小限でやれる事やらさないと。まあ、パジャマのボタンがね、お年寄りになると指がこうなって出来へんようになって来るんや。でも1時間掛かってもさせるようにせんならん。

 特にこのカッターのボタンが入れれんようになって行くねんけど、それでも入れれんようになって来て、こっちが手伝うと本当に出来なくなって行くね。仕事も何も無いんやから1時間かかっても入れなさいって、入れさせなあかん。それが本当の支えや。そうやってイジメるんやで旦那も。違うか!(笑)

 先言ったろくでもなく生きて来た年寄りって言うけどね、神さまが必要で現されているのは間違いないのね。だからホンマに人を騙してカスのような生き方しとっても、必要であったという事を分かってあげないとあかん。だから必要最小限に生かさなあかん。でも甘やかしたらあかん。

 その辺が分かってきたらね、いまの介護の問題でももっと進むんやけどね。今はやりすぎる所が多いい。やり過ぎるから余計年寄り動かんようになってな、余計手間増えるの。

 で、出来るだけ年寄りにさせようとしたら、イジメているみたいに思われるしな、難しいところやな。そうやけど出来るだけ本人にさせていかなあかん。

 責任感のあるお年寄りはね、最後までやっぱり動くし、元気でなくても自分の事もして動くわ。やっぱり無責任な人は助けてくれ、助けてくれって言うの。だから真祈りしてみんな総責任者の自覚でね、なって行ったら年とってもボケへんし、動けるから。年取ってボケるっていうのはやっぱり無責任で狡い人や。

 それと体痛めるのは口が卑しい人な。(笑)ついついようけ食べるとか、糖質を一杯食べる人な。それは身体痛める。有る寿命縮める分があるわ。若くないんやから、年取ったらおかきや、ご飯や、うどんというのは諦めないと。食べるなとは言わんけどホンマに「エッ、こんだけ」っていう位で良いの。

 で、不思議なもんでね、先生よく断食されてたでしょう?3週間断食して、1週間食べておられていたんですけど。本当に断食されておられる時はね、爪も髪の毛も、伸びへんの、髭も。体がその栄養状態に合わせて対応するんやな。それで断食明けの1週間食べられたら、バーッと爪も伸びるし、髪も伸びるの。もうそれは凄まじかった。それ位ね、人間の体は無限力でどないにも成るんやっていうのを分かってて。これだけは食べなくちゃあ駄目とかね、この量は食べなくっちゃ駄目とか、要らん思いで自分を縛っているだけやからね。それで全員がこれだけの量で良いんやって言うんじゃあないからね。その人によって必要な量ってありますから、それぞれ真祈りで決めて行くしかない。

 まあ大概は好きな物を食べ過ぎて潰すね。お酒であったり、色々あるわ。その人によってね。そんなん言っても美味しいもんって言うけど、それ神さま以外の物に頼っているやろう?ご飯やお菓子に頼っているわけや。それが真祈りしていたら頼らんようになるから、必要以上に食べなくなる。だから印可書奉読が基本になってくると思います。そんなん「宇宙神ありがとうございます」で行けるんやったら、印可書先生出せへんって。

 呼吸をね、ズーっと吐き続けて、一切途切らずに吐き続ける状態で「ありがとうございます」まあ「天の造化主…」どれでも良いんですけども、続けるんですよ。ほんならスッと神さまと一つになるの。ところがそこの部分がみんな出来へんのやな。どっかで途切れるの。それ位難しい、やっぱりな。

 それで印可書にして貰った。印可書だったらそんなややこしい事考えんで済むから。その呼吸が途切れないで何時も吐き続ける状態になるっていうのは、もう理屈じゃあなくって自然になるの。必死でやっていたら。それももう今更説明しませんけどね。ただ、印可書はそういう状態に自動的にして貰えるって思って下さい。

 病気治しの基本原理だったんです。息を一切途切らさずに、そしたら病気が治るの。技術的な事で言うと、コップに水を入れて、あんまり真似せんでいいからね。水入れてストローでぷくぷくって吹く訳。ズーっと吹きながら鼻から吸って、吹きながら鼻から吸って
ってして、何時もぷくぷくと出る状態を作れると真祈りになるねんけど、一つ間違うと、神さま以外を思ってそれをやると、念力に落ちてダークサイトに落ちる。スターウオーズで言うダースベイダーになるからな、あんまり技術的なことは説明せんかった。

 今は印可書があるからね、そんな苦しい事せんでいいって。大変やで、ズーっとぷくぷくと息が出るように鼻で吸いながらそろえるの。mさんは出来るからやってみたら良い。山登りしているから肺が強いのな、だから出来ます。だから吐きながら鼻から吸えるっていうのが。理屈ではそうやけど、感覚やから説明出来へん。先生はそれを吸い足しって表現された。吸うじゃあなくって。
 それが出来たから祝福の伝授を受けて。祝福するって何かと言ったら、相手の寿命を伸ばすって言う事。こっちの寿命を削ってね。でも先生がやれって言ったらします。オマケ出すっていうのはこっちの寿命を削ってという事です。その祝福っていう言葉を今風に言い変えるとね。でももうお前、出さんで良いって言うから、もう出さない。そんなんで宮野さんの寿命随分使いました。使ってくれって言うからね。

 だから日本人だけやねんね。一生懸命努力したから結果出なくっても良いやないかって褒めてくれるのはね。外人は一生懸命しようが、適当にしようが結果が出るか出ないかだけ。日本以外の国はね。

 ただ、日本人が落ちり易い一番危ない落とし穴は、一生懸命やったから良いやないかって言うのは狡い。分かる?そこだけは間違わないように。神さまを思ってひたむきにするだけであって、ガムシャラに一生懸命やったからね、構へんやっていうのは違う訳。そこが真祈りにいれる難しさがあって、今は印可書があるからちょっと楽になった。

 で、一生懸命やってるから良いやないかっていうのが、要らん空気になってね、あの場の雰囲気やったら、そんなん言われへんわっていう狡さが出て来る。日本人の難しいとこやね。陥り易い欠点なんやけど。その中で印可書を奉読して内側から変えていくと。誰も表面から変わらんからね、誰も口で物言っても変わらへんからね。内側から変わるだけです。この勉強会も口では説明してますけど、皆さんの心に真祈りを入れてますから。

 なら、お祈りして終わります。ありがとうございます


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3月護摩 by 河上 [Mail] 2024年03月08日(金) 15時17分
PC

3月護摩焚き河上さんのお話
 宇宙神ありがとうございます

 令和6年3月の護摩焚きで、皆さんからの質問に河上さんが答えてくださいました内容です。ありがとうございます

司会者
 はい、それでは読ませていただきます。今日は4人の方からご質問をいただいております。

質問1
 「すがる」と「たよる」の違いについて、「何事にも頼るのは違う、全て自己責任」と実感するのと同時に、「自分では何もできない、印可書にすがるしかない」と謙虚に謙虚に印可書を奉読するだけという実感も強まっています。印可書にすがるは、下手をすると、「印可書を唱えていればいい」と、投げやりな思いになることもあるのです。この違いを教えていただけますか?宇宙神ありがとうございます

河上さん
 はい、ありがとうございます また今月もお会いできて嬉しく思います。

 すがると頼るの違い、一言で言うと報いを求める心があるかないかです。頼るというのは報いを求める心がある。要するに損得というんですか、これをすることによって利益がある、お蔭がある。色々表現がありますけども、それだけです。

 すがるというのは一切を神さまにお返しして、自分も真(まこと)の神さまそのものですから全力を尽くすのは当然なんですよ。その全力を尽くすというのも走って山を駆け登るのではなくて、自分のできる精一杯をいつも淡々とするということです。その状態で出てきた結果を掴まない。自分にとって不都合な事、要するに損得で言うと自分にとって損なことばっかりが続いても、神さまが一番いいようにしてると信じ切れる心がすがるです。頼るというのは報いを求める心があるということです。その違いです。

 だから「印可書」を読もうが「宇宙神ありがとうございます」と言おうが損得を考えて、要するに神社でいうと「これだけお賽銭出してんねんから、願い叶えてくれや」みたいな感じですよね。「これだけ印可書唱えてるから病気治してくれや、願い叶えてくれや」みたいな感じになるとそれは頼ってるということです。

 すがるというのは自分が尽くせる全力を淡々と尽くして、その結果、全部自分にとって不都合なことが起こっても「あゝ神さまが一番いいようにしてくださってる」って喜べる心です。この辺が非常に難しくて、今が一番いいようになってるんだから、「何があってもいいんだ」みたいな投げやりな言い方というか損得が入った言い方をする、誤解される方があるわけですけども、そうじゃなくて、すべて真(まこと)の神さまと不離一体なんですよ。皆さん自覚するしないに関わらずね。だから真(まこと)の神さまとしての働きを皆さんできるわけです。

 ただ肉体という表現をとった時に他の人の平均値よりも、他の人が10できるとしますね、平均としてね。自分は鈍臭くて不器用だから自分は8とか6しかできない、という状態でもいいから自分のできる精一杯をして、その結果、人からボロクソに言われても喜べる心が、すがるなんです。それだけです。だから損得が入らなかったら大丈夫です。ありがとうございます

質問2
 自分と他人の分け隔てについて、自分を攻撃してくる相手に対して怒りが湧いたり、それどころか、こちらも相手を攻撃してるイメージが「わーっ」と湧いてしまうことがあります。こういう時こそ、ただひたすらに「印可書」にすがって淡々と奉読するでよろしいでしょうか?自分と他人を分け隔てないとか、現実を掴まず、さらさらと受け流すとかの実感は深まっている気がするのに、そういった攻撃するような思いが、むしろ以前より強く湧き上がるとこがあります。どうしようと思うことがあります。よろしくお願いいたします。

河上さん
 それはもう肉体を持っている以上、当然のことなんですね。どういうことかと言うと、いわゆる本心のレベルでは、みんな真(まこと)の神さまなわけですよ。その本心のレベルの光を使って、わざとキャンパスが真っ白で、無限の無限の輝きが一杯と例えますと、そこに黒とかいろんな色を使って表現するわけじゃないですか。それは無限の無限の輝きの真っ白から比べたら限定された姿ですよね。そういう形で、皆さんも自分の好きな好みの形に肉体を限定させて不器用とかね、天才とか凡才とかいろいろありますけど、いろんな表現を皆さんは楽しんでおられるだけなんです。だから、表現上は腹も立つし、引っかかるし、イライラするしと言うのは当然なんですよ。

 そこで何が問題かと言うと、いつも本心の自覚に立ち戻れたらいいわけですよ。立ち戻るために「印可書」があるわけで、肉体側の意識をどうこうしようと思って、「印可書」を読むとさっきで言ういわゆる損得になってくるわけ、わかります?

 「印可書」読んでんねんから、肉体側の意識も松下先生のように怒りが湧かずに、すっきりさせてくれや、というのがちょっとでも入ると崩れてくるわけですよ。そこだけなんです。だから「現実を掴むな」とか、「現実に捉われるな」とか、「もとより後ろ指刺されるのは覚悟の上やろ」とかいろんな表現しますけれど、どれも結果に一喜一憂しないということが大事なんです。

 それは何故かというと今、言ったように本心という自分の無限の無限の輝きの光をわざと限定して、いろんな顔形、姿形、男、女、いろんな表現を今回は女で楽しみましょう、今回は男で楽しみましょうとか、ものすごく鈍臭くてボロクソに言われる役を楽しみましょうとか。映画でシナリオをいただいて主役の役をするとか、端役をするとか全部するじゃないですか。でも結果だけで見たら端役なんて大した事してない、主役は一杯してると言うことになりますけども、でも主役だけの一人芝居見たって面白くないのね。いろんな端役の人が支え合って、一つのドラマ、映画として完璧なものができるわけじゃないですか。

 だから、どの働きも全て必要なものなんですよ。それをこの世の成績評価的に言ってですね、結果的に「あの人大した事してないじゃないか」ってそれが極端に言うと、「あいつと俺と給料一緒やのに、あいつは働けへん、俺は働いてる」みたいな評価になっていくわけです。あるいは男と女で「女は男を支えるだけで文句言うな、黙ってついてこい」とかそういういらん評価を勝手に作って揉めるわけです。でもその揉めるも楽しんでると言えば楽しんでるんですけど。そこに心を奪われて、もうダメなもの自分にとってですよ。ダメでマイナスに見えるものは叩きつぶしてしまわなくちゃいけない位に腹が立ってくるんですね。

それを「印可書」奉読して、消える消えないは関係なく奉読して神さまに投げ込んおけばいいんですけれど、ほとんどは「印可書」がないんで、もう怒った思い、マイナスに見た思い、いろんな思いを溜めていくわけですね。それが溜まっていくと国同士の争いのレベルになるわけです。個人でも疑心暗鬼になるわけですよ。

 だから、今の社会だと契約書っているでしょう。契約書って何かと言うたら、相手を信じてないからよ。そうでしょう。お互い信じてたら契約書はいらないし、仮に契約書がなくて騙されても「あーおもろい奴やったなぁ」で済むわけですけど、騙されたくないし、相手を信じてないから契約書がいるわけですよ。

 それぐらい今の、この写し世というのは、肉体側の意識に流されて、肉体側の思い通りになることが正しいことだと勘違いしてるんです。でも肉体側の思い通りになる事は正しくないんですよ。一番簡単な例で言うと交通ルールですよ。肉体側の思い通りだったら、信号無視してピァーと行ったら一番(早く)目的地に着くわけでしょう。でもみんなが信号無視したら、もう交通事故起こして、しっちゃかめっちゃかじゃないですか。だから急いでるんだけど、信号が赤になったら止まるわけです。そういうことが交通ルールを作らなくてもルールを作らなくても自然にできるようになるのが真祈りの世界なんです。

 そのためには「印可書」奉読をすることによって、自分のいろんな思いを全部神さまに投げ返せばいいですよということです。もちろん「宇宙神ありがとうございます」でもそれができるんですけど、「宇宙神ありがとうございます」を唱えている人は、その肝心の「宇宙神ありがとうございます」を信じないのね。信じてる、信じてるつもりだけど信じてないんですよ。だから、先生亡くなられて6年経ってもみんな変わらないのね。「印可書」は信じる信じないにかかわらず、効果があるようにしてあるので「印可書」を奉読されている方はどんどん変わってきているという、それだけの事ですけどね。どれもこれも皆さんの自由意志ですから、どれが良い悪いはありません。ただ「印可書」は楽で良いですよって言うことをテレビショッピングしているだけですね。ありがとうございます

質問3
 神さまの作られたものには悪いものはないとありました。私の部屋は2階にありますが、1本の枇杷の木が植えてあり、毎年、花や枇杷の実がなって収穫しながらいただいていますが、枇杷についての事なのですが、破産や没落した物件のみを扱う不動産屋さんの話では、そういう物件の家に必ず植えている植物では、藤の花、紫陽花の花と金木犀の木、それと私の部屋から見える枇杷の木が植えてあったそうです。それ以外にも不思議な花や木の場合もありますが、母親から聞いたりしましたが、はっきり言って怖いと思いました。それでも神さまの作られた植物にしても悪いものはなく植えていても大丈夫なのでしょうか?私は破産もしたくもないし、不幸にもなりたくないです。自己破産や没落も嫌です。どう対処したり考えたりすれば良いですか?

河上さん
 神さまは、一切のマイナスをお作りになりませんけど、この世を作ったのは神さまじゃないですよ。さっき言ったように、自分の本心の光を使って、いろんな表現を皆さんがお作りになった世界です。その皆さんの一人一人がお作りになった世界のスクリーンを重ねて、今の現実と言う世界があるだけで、神さまが作った姿じゃないです。だから神さまが戦争という姿を作ってるのではありません。それ先ずわかってて下さい。

 庭に藤の木とか植物いろいろとありますけども、どの木を植えたって問題は無いんですよ。ただ言霊として、例えば、水仙と言ったら滅んでいくみたいな、そういう、アザミと言ったら復讐と言うんですか、花言葉あるじゃないですか。そういう言霊を勝手に人間が足してるだけで植物のほうに罪は無いです。ただ、人間がその木に対して、いろんな言霊の名前をつけて呼ぶじゃないですか。例えば、ざくろだったらざくろ割れだから良くないとかね。勝手に言霊で人間が決めただけであって、神さまがお作りになった植物の方に罪はありません。動物の方にも罪はないです。人間の方の思い。

 だから、凶悪な動物(獰猛な猛獣)でもね、ライオンさんでも寅さんでも人間を襲うって言いますけれども、人間側に恐怖がなかったら襲われる事は無いです。それはお釈迦様がですね、お釈迦様を憎んでいる人が、お釈迦様をわざと虎の穴とか熊(の穴)でしたかねそういうところへ(お釈迦さまを)泊まらすわけでしょう。そしたらお釈迦様が(穴の中の動物たちに)説明するんでしょう。「みんな御仏の命だ」って言ってね。そしたら、熊さんも虎さんも猫のようになって、お釈迦様と一緒に寝て、朝になってお釈迦様が無事で出てこられたと言う、そういう逸話があるわけですけども。人間の方の勝手な思いで、いろんなことが起こっているだけで。いわゆる「印可書」という真(まこと)の神さまの響きを出しておれば、なんの問題もない。そういうことです。これでよろしいですか?

司会者
 はい、ちょっと読み忘れたところがありまして、「必ず不幸になる花には白粉花(オシロイバナ)もありました。」とありますがこれも一緒ですね。

河上さん
 一緒です。だから必ず不幸になる花だって、人間が言霊で決めただけで、白粉花の花に罪はないです。

司会者
 わかりました。ありがとうございます

質問4
 人の心や身体の痛みを分からない、分からなかった人達は、死後に何処へ行くのでしょうか?これも河上さんにお聞きしたいです。よろしくお願い致します。

河上さん
 いわゆる因縁因果の世界ですね。虚の世界というんですけども。その世界ではプラスとマイナスが拮抗してるわけですよ。だからプラスが出たら下からマイナスが押し上げてるのね。マイナスが出たら下からプラスが押し上げてるという繰り返しなんですね。それを因縁因果っていうんですけどね。輪廻の輪というんですけども。

 その世界のことですから、人を貶めたり云々すると同じ運命を自分が背負って、要するに人を貶めたり恨んだりどうこう言う時は、自分が良い目をしてるわけでしょう?自分が大変な目に遭ってる時は恨んでるとかそんな余裕も無いからね。人を恨むというのは自分が余裕がある証拠なんですよ。わかります?

 皆さん勘違いしてるけどね。人を恨んだりとかどうこうというのは、まだ自分に余裕があるの。本当に余裕が無くなったら、もう生活するので精いっぱいで恨むとか愚痴を言ってる暇も無いのね。そういう因縁因果の世界ですから、自分が余裕があるのに文句を言ったら、文句ある立場にまた自分が置かれるという繰り返しだけです。

 それで、先生が絶対奉仕、絶対感謝、あるいは恩返しって仰るわけですけども。それはどういう意味かと言うと、この世的に恨んだりどうこうした気持ち、マイナスをね、置いとかずに神さまにお返しして消してもらうのが良いんだよということなんですよ。

 ただ、神さまにお返しするのにね、例えば自分でもそうですけど、ゴミを貰っても喜ばないじゃないですか。でも良いものを貰って喜ぶでしょう。神さまも一緒で、神さまを褒め称える言葉という、神さまそのものである言葉という「印可書」をいただいたら喜ばれるけども、マイナスの思いばっかり出されても、喜んで貰えないわけですね。だから「印可書」に包んでお渡しするわけです。あるいは「宇宙神ありがとうございます」に包んでお渡しして消してもらうわけです。ただ、それだけなんです。

 ただ、その時にあまりこの説明をしないのは、「印可書を読むから消してくれや」「宇宙神ありがとうございますを読むから、お祈りするから消してくれや」という、いわゆる損得のギブアンドテイクの感覚が入ったら、それは祈りではないので神さまが受け取ってくださらないということです。

 それで、神さまに受け取って貰おうと思うと、神さまの心にならなくちゃいけないんですね。ここが一番大事なところで。ただ「宇宙神ありがとうございます」と祈るから良いんではなく、ただ「印可書」を読むだけだから良いのではなく、いつも言いますように神さまのお手伝いをしたいと願うことによって、神さまと同じ仕事、神さまの立場に立てるわけです。同じ立場に立てるから受け取ってもらえるわけですよ。そこが大事なんです。

 人類のために神さまのお役に立ちたいっていうね。だから神さまのお仕事をしたいっていう、その願いが要るんです。だから「印可書」も「読む」と「奉読」という言葉で、「読む」と言わずに「奉読」と言わせて頂いているのは、神さまのお手伝いをしたいから奉読なんですね。

 だから「宇宙神ありがとうございます」も一緒です。神さまのお手伝いをしたいと願ってしないと。効果がないとは言いませんよ、でもあまり効果が無いんですよ。ギブアンドテイクが入ってきてね。

 なんで神さまのお手伝いをしたいって願えって言うかいうと、神さまのお手伝いと言う時はギブアンドテイクの気持ちが入れられないの。わかります?仕事の雇用関係じゃないからね。これだけするから、これだけの報酬をくれやっていう感じですよ、ギブアンドテイクというのはね。それは神さまのお手伝いじゃなくて神さまに雇っていただくということです。

 皆さんは大体、神社のお願いでもなんでもそうですけど、神さまに雇っていただく、もしくは神さまを召使のようにこき使うという感覚ですね。これだけのお賽銭を出すから、この願いを叶えてくれとか、どの宗教団体もそうですけど、(お布施がたらないから願いがかなわないとか)あるじゃないですか。その感覚があるうちは、真祈りになってないので、因縁因果の世界で出したお金の分のことは効果あるけども、後でその分をお返ししないといけないという因縁因果の繰り返しになるだけです。だから一時的に病気が治ってもまたぶり返すとか、今生は治っても来世はまた大変な病気で苦しむとかですね、その因縁因果を越えられないわけです。

 因縁因果を超えようと思うと、神さまのお手伝いをしたいと思えば損得を超えますから、スッと真祈りに入っていける。それを「印可書」は比較的その辺が、強く神さまのお手伝いって願わなくても効果があるので「印可書」と言ってますけど、「印可書」も同じです。神さまのお手伝いしたいとまず願って。それで、ただ、神さまのお手伝いをしたいと願っても何をしたらお手伝いになるの?っていうのがみんなあるじゃないですか。でも先生は「印可書」を読んだら必ず神さまのお手伝いになるよって決めていってくださったから、「印可書」が楽なんです。

 「宇宙神ありがとうございます」の時は本当に神さまのお手伝いをして、自分が本当に願って「宇宙神ありがとうございます」を祈らないと駄目なんです。なぜかと言うと「宇宙神」をみんな小さく受け止めるから。「ありがとうございます」を小さく受け止めるからです。先生がなんぼ口を酸っぱくしてですね、「ありがとうございますは悟りそのもの」「ありがとうございますは真(まこと)の神さまそのもの」、結果なんだっていうのが、みんな受け取れないの。

 これ、なぜかと言うと、宗教団体がそうなんですけども、手段が目的に入れ替わっていくんですよ。わかります?本来、宗教というのは悟るため、神さまの御心と一つになって立派な人間になるためにするんじゃないですか。だからそのために宗教に入るんですよね。大体、真面目な人はね。でも、入ったら今度は宗教の方で、これをしなさい、お金を出しなさい、色々ありますわね、色んな宗教によってね。これをしなさいとなるわけです。この「しなさい」が手段なわけですよ、本来は悟るための。それが途中で目的に入れ替わっていくの。

 それで、なんでみんな目的に入れ替えるかと言うと、目的にしておいたら自分が楽だから。わかります?要するに、「お金を出すことで悟れるんだ」とかね。「この奉仕をすることによって悟れるんだ」「この奉仕をするから立派なんだ」って手段が目的になっていくわけです。そうなると、今までの「虚の世界の宗教団体」って僕は表現してますけども、虚の世界の宗教団体になって。すると悟る人が出て来ないんですね。色んな宗教団体があるけど、悟ったっていう人がまず出て来ないっていうのはそのせいです。

 村人も一緒で。奉仕作業が手段であって目的ではないわけです。でも奉仕作業が目的になって、奉仕作業をしてるから悟れるとかね、良い事があるっていうふうに変わっていくわけですよ。それではいくら何をしたって一緒なの。ここは口を酸っぱくして宗教団体ではないと言ってますけども、それは手段と目的が入れ替わらないようにお願いしたいからです。

 だから、みなさんね、「印可書」奉読はその手段ですけども、比較的、目的と一致するんですよ。先生がそういうふうに決めてくださったからね。だから神さまのお手伝いとして「印可書」奉読していただくのが一番楽ですよとは言ってますけども。もちろん何をされても自由です。

 「印可書」奉読が苦手な人は、「護摩木作りに参加しろ、護摩木を書くことに参加しろ、それも神さまのお手伝いにする。」「真祈りにする。」って先生が宣言していってくださったから、それは楽で良いですよってことで。あるいは護摩木を作るお金をちょっと入れろとかね。それは良いんですけども。それ以外のことでやる時は、本当に目的と手段が入れ違わないように。

 只々、別に、この山の、村の作業だけではないんです。皆さんの普段の会社のお仕事もそうなんです。すべて神さまへのご奉仕なんですよ、本当は。ご奉仕だけども、まあ苦労したやろうから、これだけお給料あげようと思って会社から頂いてるだけだから。お給料が多い少ないで文句を言っては本当はいけないんだけどね。まあ、あんまりそんなことを言うとキリが無いんで。何をするにしても神さまのお手伝いだと思ってすれば、それは真祈りになっていくんですよということだけはわかっていてください。

 だから「私、こんな仕事しかしてないのに…」じゃなくて、その仕事を通して神さまのお手伝いになってるんだということはわかってください。ありがとうございます

質問5
 粘土について質問します。食べられる粘土の種類は、どんなものでしょうか?焼き物に使う様な上質な粘土でなくても、田んぼの土で大丈夫ですか?食べ方についても教えて下さい。みそ汁に溶かす、炒めるなどを考えていますが、もっと美味しさを引き出す食べ方はあるでしょうか?又、土の中の土壌菌を生かす食べ方の方が良いでしょうか?

河上さん
 その粘土を食べなくてはいけない状態に持っていかないように護摩があり、真祈りがありますので。その非常事態にならないことが一番の願いですけど。先生からお聞きしていることは珪藻土(けいそうど)です。これは九州で良く出るんですけど、別にどこでも珪藻土の土というのは出ますから。それを食べて頂いたら大丈夫です。

 あまり熱を加えずそのまま食べて頂くのが良い。それと地表付近ではなくて深いところにあるやつが大事。これは、なんというか、地中にある菌というのは神さまの響きを良く受けていますのでね。あんまり録音に言うのもあれなんですけども、本当に昔、すごい貧乏の頃はね、腐りかけたハムがあると、どうしたかというと土の中に埋めるんですよ。土の中に一日か二日埋めてから出して来て食べると、お腹あたらないの。あんまり録音で言って真似しないでね。本当に非常事態以外は真似しないように。それくらい土壌菌というのは凄いんですよ。だから動物の遺体とかね、埋めても綺麗に分解して腐らない。腐るというか、あまり腐敗しないでしょう?それは、その土壌菌のお陰なんですね。真似しないように。

司会者
 はい、ありがとうございます。

質問6
 私は生涯を通じて印可書を奉読するつもりです。ところで私は、真(まこと)の自分の16項目の一番最後の「無条件の幸せ・喜び・安らぎで一杯の自分」のところが好きで、この部分だけを唱えることもあります。ここを繰り返し唱えることも真祈りであると考えてよろしいでしょうか?

河上さん
 はい、その通りです。ただいつも言うようにギブアドテイクでね、これを読んでるから何とかしてくれって言うたら、どれを使ってもダメです。神さまは、完全な愛ですから肉体側の意識では損得で文句が言いたくなる内容でも一番いいようにされてるのは間違いない。ただ一番いいようにされてるというのがわかるためには、自分のできる精一杯を常に尽くすことです。何もせずに寝転がっててね、一番いいようにしてるって言うたら餓死するだけですから勘違しなようにお願いします。ありがとうございます

質問7
 いつだったか、しばらく以前に河上さんのお話の中で、ここでの護摩焚きがもしなくなったら、今回は地球のみならず、物質的宇宙全てがなくなるようなことを確かおっしゃっていたように記憶しているのですが、再度確認しますが、その情報は本当ですか?

河上さん
 本当です。これは別に僕が言ったことではなくて、五井先生が言われたこと。五井先生が、みんなが世界平和の祈りというのがあったんですけども、最後「五井先生ありがとうございます」までがワンセットの世界平和の祈りっていうのがあったわけですね。その祈りを会員さんが真剣にしないの。しない時に五井先生が会員さんに対して、すごく怒られたんですね。「地球が滅びるだけじゃないんだ、この虚の世界の全宇宙が消えるんだよ」って言うて怒られたんですけど、本当その通りで。今は、その世界平和の祈りが、この「印可書」とご護摩に移ってますから、同じことです。この虚の世界全部が消えます。だから、いわゆる宇宙人さんもできるだけ応援しようとなんて言うんですか、下支(したささえ)に入っていただいています。

 基本的には、いつも言いますように相手の自由意志を縛らないというのが絶対条件ですから、宇宙人さんの方から、こうだああだというのはないわけです。だから宇宙人の存在を感じれないだけで、地底人の存在もずっと(人間世界を)支えてくださってるのは間違いないです。ありがとうございます

司会者
 はい、ありがとうございます 質問は以上です。会場の方で質問ある方おられますか?(質問が)ないようなので、よろしくお願いします。

河上さん
 ありがとうございます ともかくね、ここは宗教団体ではないので、それだけは皆さん勘違いしないでください。

 宗教団体というのは何かというと誰か一人を祭り上げて、ここで言うと松下先生の心がわかる人とか言うて、その人を中心にどうこうしようというのが宗教団体です。虚の世界のね。松下先生が亡くなられた時に僕ちゃんと説明したはずです。皆さんの中にお一人お一人に松下先生が立っていただいたからそれを自覚していただいたらいいだけなんです、目的はそれだけですよということは、お話したはずです。

 だから、宗教団体じゃないから皆さんお一人お一人が松下先生として働かれる。要するに真祈り人として働かれることが目的です。その手段として「印可書」奉読とかありますけども、今も言ったように宗教団体だとその手段が目的に変わってね、「印可書」さえ奉読してたらいいんだ。あるいは「宇宙神ありがとうございます」って言い続けてたらいいんだっていうふうに手段と目的が入れ替わるわけですけど、それは宗教団体であって、ここは宗教団体じゃないので手段と目的を入れ替わりません。

 「宇宙神ありがとうございます」って、真祈りする時は、宇宙神を大きく、ありがとうございますは真(まこと)の神さまそのものって受け取り直さなくちゃいけないんですよ。ところが、その人間というのは自分の口から出した言葉しか受け取れないのね。だから、いわゆる風俗習慣の違う外国に行ってね、これが食べ物だって言われても、「え!こんなん食べていい?」みたいな感じに、食べ物で言うたらあるじゃないですか。これが、例えば、ご飯という言霊で、ご飯だって思うから食べれるので、いつも言いますけど、うじ虫の塊や言うたら食べれないでしょう。それくらい言葉から出したものが食べれるわけです。受け取れるわけですよ。

 それで「印可書」が何がすごいかというと先生が「印可書」に真(まこと)の神さまそのものの言霊を全部を入れてくださったわけです、わかりやすく。だから、真(まこと)の神さまの言霊を口から出すから真(まこと)の神さまの全てを受け取れるわけです。

 「宇宙神ありがとうございます」も先生は、まず最初はありがとうございますでしたけど、ありがとうございますの十文字は悟りそのもの。真(まこと)の神さまそのもの。それも結果そのものだってね。ありがとうございますと唱えて悟るんじゃないんだよ。何度もおっしゃってるわけですよ。でも未だにね「宇宙神ありがとうございます」唱えて悟る。ありがとうございます唱えて続けて悟るから抜け出せないのね。だから「印可書」が出たわけです。ただただそれだけです。

 だから、私たちは「宇宙神ありがとうございます」って聞いてる(と主張される)方はね、もう6年も経ったんだからなんで心境が変わらないのって言うと怒られるからもう言いませんけどね。それはなぜかというと先月、滝で説明しましたけどね。神さまからは、滝としてたくさん流れてきてるわけですよ。でも自分の出した手の分しか水を受け取れないでしょう。それと一緒で自分の口から出した言葉しか受け取れないの人間はね。だから「印可書」で真(まこと)の神さまを口から出したら、自然に受け取れるから楽なんです。ただただそれだけなんですよ。

 だから、先生は亡くなられてからも亡くなられる前もずーっとですけど、皆さんに均等に平等に真祈りを伝授されていったんですよ。滝の水のようにね。でもみんな口から出す言葉が小さいから一部しか受け取れてないの。それでもなんか受け取れてすっきりするから皆さんここに集まってくださってるわけですけども。その全てを受け取ってください。誰か、誰かだけに真祈りを伝授したんと違うの。全員にしてるの。それを素直に「ハイ」って受け取れたら、ここに立ってる、こういう状態になるだけで「ハイ」って、みんな受け取らないのね。自分の都合だけ受け取るの。その分だけ歪になってるだけでね。

 今、素直に「ハイ」って受け取れたらいいの。その素直に入って受け取れる一番楽な方法が「印可書」奉読ですよということでお願いしてるだけで。もちろん「宇宙神ありがとございます」が真(まこと)の神さまそのものってね。そう唱えることが真(まこと)の神さまのお手伝いになると信じ切ってやっていただいたら、もちろん「宇宙神ありがとうございます」でも大丈夫です。ただなかなか「宇宙神ありがとうございます」が真(まこと)の神さまっていかないので、「印可書」。

 もう先生にお願いして作っていただいたんですけどね。本当ことを言うとね。もうみんなが、いくら「ありがとうございます」が悟りそのものって言うても、みんな全然受け取ってくれないし、聞いてもくれないじゃないですかって泣き言を言ったのは僕です。それで「印可書」を作っていただきました。

 最初の「印可書」は、すごい大おまえけ付きで作っていただいたんですけど受け取ってもらえないので、先生はやっぱり「印可書」では無理だからということで「宇宙神ありがとうございます」を出してくださいました。でもまたうまくいかなかったので、色々ありましたけど結局今の「印可書」になりました。その時、本当に本物が現れたって喜んでくださったんですけども、誰も気付かないまま、今ここに来てますけど。

 後どれを選ぼうと皆さんの自由意志ですから構わないんですけども、一番わかっていただきたいことは、ここは宗教団体ではないんです。だから、目的と手段が入れ違わないように皆さんお一人お一人が松下先生として真祈り人として働かれるということだけはわかっていてください。

 先生は、先生に縁のあった人全てに真祈りを伝授していってくださったんです。それは、今でも有効です。でも受け取るのは皆さんの自由なんだって、そこだけです。

 先生亡くなられて6年も経つからもう手遅れじゃないんですよ。未だに先生は皆さんに真祈りの伝授をし続けてるの。でも、みんな受け取り切れないんよ。

 滝にちょっと手出して、「やー冷たいわ」っていうみたいな感じかなぁ、僕が言うと。

 その自分の都合は関係なしに「印可書」を口に出してね、全てを素直に「ハイ」って受け取ってください。そしたらもう全部すーっといきますから、ただそれだけだと手応えなくて不安だから護摩という形を通しています。だから、どうしても自信ない時は護摩木を書き、護摩木を作り、ここへ燃やしに来てください。それで大丈夫ですからありがとうございます

 また来月お会いできることを楽しみにしています。ありがとうございます

司会者
 はい、どうも河上さんありがとうございます

 3月の護摩焚きに集まった護摩木の枚数は9万1477枚でした。ありがとうございます

 音声はこちらからどうぞ
 https://youtu.be/jxFudjpw6co

 宇宙神ありがとうございます

じょうし


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3月光の交流会 by 河上あきのぶ [Mail] 2024年03月04日(月) 20時05分
PC

令和6年3月光の交流会
 宇宙神ありがとうございます

 令和6年3月光の交流会

 2月の護摩焚きの時に森本さんが、「印可書について2 神さまからの大きいプレゼント(平成26年8月3日護摩焚き当日)」のCDを作っていただいた先生のお話(所々カットして時間が短くなっています)を聴いていただきました。

 真祈りの秘奥義を伝授するための印可書を皆さん受け取られたと思いますけども、神さまの大きいプレゼントで0す。

 真(まこと)の神さまの世界は、一大循環の大調和の世界。一切のマイナスのない世界。ところが思いを溜め続けると思いの霧が立ち込めて、本当のすがたが見えなくなってしまう。それでマイナスがあるかのように錯覚する世界が虚の世界。

 まず、この虚の世界がなぜ生まれたか?真(まこと)の神さまの働きは、すべてに対して、本当に必要なものを的確に与え尽す愛の働きだけですね。大きく大きく、愛を与え続けるだけ。一番大きく与える立場から、本当の一点にまで与え尽してくる。ところが、無限大から無限小へ降りる時に一番小さいところに来ると与え方が小さくなる。大きく与える立場に立ってる時は良かったんだけど、同じ神さまと共に与え続けていても、下へ降りるほど、小さくなるほど与え続けるのを忘れてしまう。その時に残像を掴んでしまう。

 真(まこと)の神さまが真(まこと)の自分って、本当の本心の自分は、真(まこと)の神さまと同じように与え続ける自分。それも、大きく大きく与え続ける自分。この本当の自分の生き方を一瞬でも忘れた時に過去の残像の中に、はまり込んでしまう。そしたら過去の残像っていう思いの世界が本当にあるのか?本当は無い。与え続けるのを忘れた一瞬の姿。虚の世界は本当は無い。マイナスの世界は一切無い本当は。思いの霧が立ち込めた、本当は思いの霧も本当は無いの。

 真(まこと)の神さまを与え続けることを忘れただけの話。本当に無いものをあるかのように錯覚するのが虚、嘘なの。与え続けることを忘れた自分は思いの奴隷になってしまう。思いの霧の中にどっぷりつかってしまったような錯覚を起こす。それで、この虚の世界があるように思う。マイナスが一杯の地獄絵図まであるように錯覚する。

 でも本心の自分に戻ったら、無かったことに気付く。元々どこにも虚の世界は無い。本当は思いも無い。真(まこと)の神さまの本当の輝きだけがある。これを本当の意味でみんなにわからせようとしてくる神さまは。

 真祈りを伝授する。真祈りというのは、真(まこと)の神さまの祈り、真(まこと)の神さまの働き。本当に必要なものを的確に与え尽す、愛の働きそのもの。だから真(まこと)の神さまが降り立ってるすがたなの。

 今ここに真(まこと)の神さまだけっていう、この見方が真祈り。だから常に真(まこと)の神さまに降り立ってもらうこと、これが真祈りを祈る本心の自分に戻ること。そのために何が必要かってなる。いったん思いがある、虚があると錯覚した自分がどうしたら元に戻れるか?もう一度、本来の与え続ける自分に戻ればいい。これが恩返し。

 一番末端に降り立った時に、与えるのを忘れる。結局恩返しを忘れたことになる。恩返しを忘れなかったら循環が止まらない。掴んで、残像、思いを溜め続けることは絶対にない。恩返しさえ忘れなかったらよかった。それをもう一回、恩返しを思い出して実行する。

 虚の世界でも、残像の世界でも、真(まこと)の神さまの素晴らしさが一部映ってる。どれだけ霧が立ち込めても、明るさ、光は届いてる。プラスがないんじゃない。本当の漆黒の闇のような真っ暗闇じゃない。どれだけ霧が深く立ち込めてもそうよ。本当に身動き一つ出来ない、手かせ足かせで、本当にがんじ絡めに縛られたような漆黒の闇じゃない。

 だからプラスを数え始めたら、無限にある。虚の世界に堕ちているから、何も与えてもらってないんじゃない。虚の世界でも、無限の無限のプラスが、一杯降り注いでる。それをプラスを数えあげたら無限に一杯。そしたら恩返しの心を起こせるはず。

 神さまは無償で全てを与え尽してくれてる。本当に必要なものは、与え続けてくれてる、虚の世界においてもこの世でもそうよ。何が必要か?太陽が必要だったら、太陽を与えてくれている。空気が必要だったら、空気を与えてくれてる。水が必要だったら水を与えてくれてる。本当に必要なものは、的確に循環させて与え続けてくれてる。これは真(まこと)の神さまの世界の、真実の世界の残像でも映しでも、ちゃんとそこに素晴らしいものが一杯備わっている。

 だから、どれだけ神さまからのプレゼントが降り注いでいるか、これに気付くことよ。プラスを数え上げること。そしたら恩返しの気持ちが自然に起こる。万分の一でも、億分の一でもいい、恩返しの心を起こしたら循環が始まる。恩返しを忘れたら循環を止めてしまう。それが一番の大きい問題になる。溜まっていくっていうのは、循環を止めたからよ。ちょっと恩返しを起こすだけで、恩返しの気持ちを起こすだけで循環が始まる。どんなマイナスの運命でも、運命が開ける。本当に必要なものが次から次へと奇蹟的に循環してくる。

 まず第一番目は恩返しの心を恩返しに生きること。次に神さまのお手伝いに生きる、神さまに使ってもらうこと。神さまに降り立ってもらうこと。そのためには、自分の命を「この命を神さまの御用にお使い下さい」(無条件でハイと従う為です。神書P630より)とひたすら祈ること。

 真(まこと)の神さまは人の自由を絶対に縛ってこない。強制的に、奴隷のように扱ってこない。人の自由意志を最高に尊重して使ってくれる。だから「この命を神さまの御用にお使い下さい」真剣に、ひたすら祈り続けること。そしたら真(まこと)の神さまが自分の中に降り立って下さる。そしたらどうなるか?

 真(まこと)の神さまは無色透明の輝きよ。この輝きという言葉は、光と光源の進軍。雄々しく突き進む、進軍と軍隊の突き進む姿と同じ。大きい光源が天照大御神さまの入れ子構造の大きい光源が、無限のスピードで進軍する。光が大きく流れる。本当の無色透明の輝きとなって降り注ぐ。そしたらどんな思いでも、どんな我でも、どんなマイナスも一瞬に消える。どれだけ濃い霧が立ち込めても、すーっと消える。そしたらマイナスが無かったとすぐに気付く。視界がさーっと開ける。

 本当に虚の世界がある、マイナスがあるというのは本当の錯覚よ。霧が晴れたらプラスだけってよくわかる。だから思いをどれだけ消してもらえるか?思いを消す力は、真(まこと)の神さまにしかない。虚の世界のどんな神仏も、思いを消すわけにはいかない。虚の世界の姿ではダメなの。真(まこと)の神さまが降り立ってくれたら、虚の世界の思いが消える。

 そのために、「この命を神さまの御用にお使い下さい」って投げ出す。そして神さまが降り立って自分の中を通り抜けてくれる。そしたら過去の無限の思いも我もすーっと消える。だから本気に、本気になって、この命を投げ出せばすぐに変わる。ところが思いが一杯溜まっていると投げ出せない。そしたらどうしたらいいか?

 思いを消して欲しいという人が、本心の自分に戻りたいという人が、支え合って相乗効果を起こすと神さまが降り立てる。この護摩焚きもそうよ。大きい相乗効果を起こすために、護摩焚きを行っている。一人一人のお祈りだけでは、なかなかまだ真祈りが祈れない。「この命を神さまの御用にお使い下さい」って、いつもひたすら祈り続けることもできない。それを大きくカバーしてもらうために、お祈りの相乗効果を起こすようにしているわけ。だから一人で祈るお祈りじゃ力がない。何億年、自分一人で祈り続けても大したことは無い。だからこの百年、祈り続けても大きい変化は起こらない。本当に思いを全部消せるか?消せない。

 真祈りって言うのは、言葉だけじゃない。本当に真(まこと)の神さまが降り立ってくれないと真祈りにならない。そしたら、真祈りは神さまの降り立つすがた、支えるすがただから、普通の祈りを真祈りに変えるためには、一日24時間祈り言葉を唱え続ける、この自分を大きく支えてくれるすがたが出てこないとダメ。これが24時間+αの祈り。+αがどれだけ加わるか。これによって決まる。この+αとは何か?

 自分は24時間ひたすら祈り続ける、これを目指せる、でも小さい。まだ真(まこと)の神さまを、呼んで降り立ってもらうところまでいかない。そしたらこの+αがどれだけ大きく加わるかによって決まる。

 まず肉体人間を背後で守護霊さん、守護神さん、守護の神霊が大勢護っている。御先祖様も護ってくれている。救済の神々さまも一杯護ってくれている。その支えを受けてお祈りをしている自分になるかどうか?

 自分一人で祈るのでは支えを受けていない。背後の全ての護りを本当の支えとして受け取らないとダメ、しっかりと認めないと。守護霊さんだけの護りでもそうよ。守護霊さんを無視していたら助けを受けられない。いつも守護霊さん「ありがとうございます」と感謝する人、認めてる人は大きく助けてもらえる。だから背後から大きく助けてくれてる、支えてくれてる全てに対して、感謝し続けないとダメ。

 そしたら虚の世界でも+αが大きく増えてくる。そしたらその+αが真(まこと)の神さまを呼んでくれる。真(まこと)の神さまの働きが本当の意味で加わった時が本当の+α。この時のお祈りは真祈りに変わる。真(まこと)の神さまが降り立つ祈り。そしたら思いは絶対出ない。片っ端から消していける。そしたら思いの霧はすぐに晴れる。

 今、ここが一大循環の神さまの世界ってわかる、実観する。だから、この真剣さがいる。24時間祈り続ける真剣さがいる。それにプラスして、本当の支えてくれてるという、この力をしっかりと認めること。そしたら、真祈りの練習も本物になる。これ一番大事なこと。

 次に護摩焚きも同じ。真祈りを沢山集めて総結集して相乗効果を起こす。そのための護摩焚き。その時に自分がお客さんとして小さく入ったらダメ。総責任者になること。護摩焚きの総責任者。すべての祈りを総結集する、総責任者になること。

 元々本心の自分は、一切の責任を自己に帰す総責任者よ。なぜ総責任者が大事か?みんなの支えが良くわかるのよ。自分一人の時は周りの支えが何もわからない。自分が本当に総責任者になった時は、自分一人では何もできない。でも周りの全てに助けられて、一つのことが出来るようになる。どれだけ助けてもらってるか、支えてもらってるか、これに気付く。総責任者の立場に立った時にそうなの。浅い意味でも、深い意味でもそう。そしたら真(まこと)の神さまの本当の支えが、本当の意味で降り注ぐのに気付く。そしたら真祈りに変わる。常に真(まこと)の神さまが自分の中に降り立つの。

 一人ひとりではダメなの。みんなで力を合わせないとダメ。支え合いにならないと、真(まこと)の神さまの働きは小さくしか降りない。支え合いの姿をとった時に、本当の意味で、大きく真(まこと)の神さまが降り立って下さる。そしたらどれだけ思いが消えるか、大奇跡が起こるか。想像を超えている。

 今の地球だけを見ても、解決不可能な問題が山積み。どうしたら解決するか?考えたら考えるだけ絶望感に陥る。どの問題一つ取ってもそうよ。でも、この思いを消してもらったら全部消えてしまう。思いを全部消してもらったら一切の問題、全て消えて無くなる。解決不可能と見える全ての問題、瞬間に消えるの。そのために、思いを消してもらう運動を起こしている。真(まこと)の神さまに降り立ってもらうことだけを唯一無二の目的にして、みんなで支え合って運動をしている。

 この支えるというのは一番力が要る、縁の下の力持ちっていう。下から全部を支えるって一番力が必要なの。真(まこと)の神さまの助けは必要なだけが降りてくる。自分が上の方にいたら必要な力ってほとんど要らない。一番下から全体を支えようとすると大きい力が必要となる。無限の力が必要になる。そしたら真(まこと)の神さまの支えが出てくる。必ず自分の中に真(まこと)の神さまが降り立って助けてくれる。これを自分の自由意志で選ばないとダメなの。待っていても降りない。

 だから、自分を一番責任の重い立場へ置くこと。今の自分では何もできない。でも全体を支えたい、みんなを支えたい、この立場に置けば、必ず真(まこと)の神さまが力を添えて出てくる。でも自分が自由意志で選ばなかったら永遠に降りない神さまは。これは、もう本心の自分を生きようとしていないとダメなの。思いの自分ではダメなの。

 本心の自分を生きる、総責任者の自分を生きる。ここへ真(まこと)の神さまは、無限の無限の後押し、応援をして下さる。そういう人が沢山になれば、本当の支え合いの姿を取るの。一番真(まこと)の神さまが降り立ちやすい。常に降り立って思いを消せる。

 一人の人が本当に真祈りを祈れて、そこに真(まこと)の神さまが降り立って下さる。どれだけ大きい力かわからない、無限の力が降りる。でも真祈りでなかったら、何万人祈ろうが思いを消せない。消す力がない。浅い祈りだったら一万人集まっても力がない。思いを消すわけにはいかない。いくらプラスの言葉を使ってもプラスの思いを溜めるだけ。思いが増え続ける。いくら白い綺麗な霧だ、煙だと言ってもダメ。厚くなったら黒雲に変化する。

 だから、真祈りを本当に祈れるまでにならないとダメ、数じゃない、質が大事。真(まこと)の神さまに降り立ってもらえる祈りが必要なの。だから支え合いが必要なの、絶対支え合いがないと降りない神さまはね。自分が表に立って、上に立つようでは絶対降りない。

 本当の支え合いの中にだけ、真(まこと)の神さまは降り立って下さる。この支え合いがどれだけ大勢の人の輪になっていくかよ。自分一人くらい抜けていいのと違う。自分一人だけでもっていう総責任者の気持ちが大事なの、必要なの。今の自分に何の力が無くてもいいの、「神さまの御用に使ってほしい」、この気持ちが大事なの。

 絶対奉仕というのは自分が消えないとダメなの。神さまだけの働きに変わらないと絶対奉仕にならない。だから恩返しに生きて、絶対奉仕に生きて、神さまだけを前面に出さないといけない。

 恩返しでも、恩返しの恩って、因(もと)の心と書く。いん、原因の因(いん)。一番元の心、本源の心。恩返しは、真(まこと)の神さまにまで届かなかったら恩返しじゃない。本当の恩返しは、真(まこと)の神さまにまで届けた時に恩返しになる。途中で止まったのは、全部恩返しじゃないの。みんな浅く見ていると間違う。この世の人に、色々と助けてもらった、その恩返し。これは恩返しにはならない。真(まこと)の神さまを完全に無視してる。どんな恩返しも、真(まこと)の神さまへ届けないとダメ。そしたら、真(まこと)の恩返し。本当の意味の正しい循環が始まる、起こる。

 絶対奉仕もそう。自分が、人がしている奉仕は絶対奉仕に絶対ならない。神さまに使ってもらう、神さまが自分を通して働くだけっていう、100%神さまの働きだけが絶対奉仕。この時に、真(まこと)の神さまが本当に降り立って下さるから思いも消える、我も消える、プラスだけになる。

 もう一つは全託。なぜ全託が必要か?神さまは全てを先を見通せる。思いの心では、絶対先が見えない、読めない。そしたら途中で方向が間違う。神さまの導きの方が先を読んでるから、どこを通ったら最短コースってわかる。でも人の方は先が見えないだけに順番がわからない。迷路のような通路を通り抜けようと思ったら、全体を上から見通して、迷路が全部わかる人でないと出来ない。グルグルと同じところを回るかもしれない。今、自分が右に行って正しいと思う。神さまの方は、自由自在に一番最短コースを選んで導こうとする。

 でも、思いが、我が勝ってると、それに従えなくなる。マイナスに見える方へは行かない。そこから逃げようとする。表面マイナスに見える方が最短コースかもしれない。そこをすり抜けたら、ゴールに早く近付く。プラスの方へ行ったら遠ざかってるかもしれない。ゴールからは遥かに遠ざかってるだけかもしれない。だから遠ざかったら、ますますマイナスの世界に入っていく。

 全託というのは、神さまの本当の愛を信じないとダメ。神さまが絶対の愛、完璧な智恵で護り、導いてくださっている。何から何まで全て、一から無限まで全て、100%全て。本当の神さまの愛の働きだけがあるんだっていうふうに信じないとダメ。これ本当の意味で信じ切ったら全託よ。何が起こっても心を動かさず、プラスだけ、プラスだけに。

 今日のプリントの中に十界っていう、虚の世界を大きく分けて十の階層、十界に分けている。そこで、真(まこと)の真(まこと)の十界と、真(まこと)の十界と、単なる十界と、ミニ十界と4つに分けてる。ここで本心の自分の生きる生き方としては、この十界をどう捉えるか?バラバラに見ているのは思いの見方。この十界全体を自分そのものと見ないとダメ。

 本心の自分はもっと大きい。虚の世界の十界どころじゃない。本心の自分は無限に無限に大きい。虚の世界の全てを自分の残像として見るの、過去の残像としてね。そこへ真(まこと)の神さまの降り立つすがたを捉えないといけない。それも本当の意味で、真(まこと)の神さまと自分とを一対一の関係に置くこと。これが信仰の極意。虚の世界から抜け出すための唯一の極意よ。

 十界をバラバラに見て、どこかに自分を置いているようだったら虚の世界から絶対に抜け出せない、永遠に抜け出せない。十界を自分そのものとして捉える全体を。そしたら、過去に自分がどういう言葉を使い、どういう思いを発して、どういう行いをしてきたか?この十界の中に全部含まれている。まだ全部消し切れていない、地獄絵図がある。

 そこへ真(まこと)の神さまが降り立って、半分ずつ振り替えて消し続けて下さっている、減らし続けてくれている。それを大きく助けてもらってるっていう、大きいプラスに受け直さないとダメ。本心の自分は全体を自分として、大きいマイナスを半分消し続けてもらってる。思いを消し続けてもらってる、こういう受け方をする。これが本心の自分の受け方よ。

 そしたら思いが、すーっと消えていく。半分ずつ消し続けてもらったら、どんどん減る。新たに新たに半分ずつ取ってもらって、どんどん減っていく。思いのない自分にすぐに戻れる。

 でもこれをバラバラに見て、今「自分は菩薩だ」偉そうに言っていてもダメ。地獄や餓飢道の思いは消えない。自分が消せるかって消せない。全部自分を縛ってくる。どれだけ菩薩になって、仏になって立派になったと言っても出来ない。地獄、餓飢道、全部救えない。そしたら全部自分のマイナスよ。そこに縛り付けられる。

 だから十界全部を自分の姿として、受け直さないとダメ、大きく。そこへ真(まこと)の神さまに降り立ってもらう。本当は常に降り立ってくださっている、真(まこと)の神さまは。思いを消し続けて下さっている。元から消し続けて下さっている。それをしっかりと認めること。そして喜び続けたら全部消える。

 今度は与える側に変われる。十界を消す側の立場に立てる。真祈りを祈り続けて、無色透明の光を与え続けて、全ての思いを半分ずつ振り替えて取り続けて、大きい神さまのバックアップで、大きい力をもらって消し続ける。こういう立場に立ったら、本当の意味で、真(まこと)の神さまの本当の支えがわかる。どれだけ大きく支え続けてもらっているか気付く。そしたら本心側に戻る。そこからが本当の悟りへの道なの。

 虚の世界から抜けて、本心の世界に戻った、これはまだ違う。本心の自分に戻ってからが、真(まこと)の悟りへの道が始まる。真祈りの秘奥義っていうのは、「絶対の中心から、真(まこと)の神さまを、すべてのすべてへ与え続ける立場よ。」大きい、一番大きい立場。そこへ戻るためには、どこまでもどこまでも大きい自分に戻らないとダメなの。これが本当の悟りのすがた。

 本心の側に立った、これはまだ出発点。その後、真(まこと)の神さまの助けが必要になる。大きい自分に戻っていくために。そしたらどうしたら、真(まこと)の神さまの助けを受け続けられるか?ここで真(まこと)の神さまへの本当の弟子入りが必要になる。

 真(まこと)の師匠、真(まこと)の神さま、ただひとり。他のものは本当の師匠じゃない。真(まこと)の神さまだけが本当の師匠。そしたら真(まこと)の神さまへの弟子入りはどうしたら出来るか?本心の自分の全てを捧げ尽くさないとダメ。本当の弟子入りは、自分の全てを捧げ尽くして、本当の意味で恩返しに生き、絶対奉仕に生き、全託に生きること。そしたら弟子入りが許される。本当の弟子になったら、師匠の真(まこと)の神さまは護り続ける責任が生まれる。どんなことがあっても護り続ける、これが必要なの。自分で修業して上がって来なさいじゃないの。本心の世界の昇り方は違う。神さまが助け続けて心境を上げるの。そして、実観を与えてくる。

 本当は出発点から見たら、無限の段階の難関を突破していかないとダメ。色んなテストがある、厳しいテストが。それを乗り越えるために、真(まこと)の神さまの護りと導きが必要になる。1段階上がるだけでも大変なの。これを真(まこと)の神さまが全部してくれる。必要な力を添えてくる。神さまの働きだけで心境を上げてくれる。順番に上げてもらうの。

 だから、この印可書は神さまからの約束よ。護ってあげるという約束、御護り。自分から願ってする、もらったものではない。神さまの方から与えてもらったもの。これを大事にする人は護り続けてもらえる。でも反対に粗末にしたらそれっきり。自分が弟子になるのを拒絶したことになる。弟子入りがどれだけ大変かわかってない。

 本当の弟子入りは、微塵も我を出せない。本当の全託はそうよ。我を出したら、全託が破れている。一瞬でも我が出て、全託が破れたら弟子でなくなってる。そのくらい厳しいものよ。だから、思いがあって、我があって、なおかつ、本心の自分を生きようとして一生懸命になっているから弟子入りを許そう。大まけにまけた神さまの愛の計らいよ。一人でも多く本心に戻したい、真祈りを祈るように変えてあげたい、何億年に一回降りるチャンス。だから、真剣に恩返しに生き、絶対奉仕に生き、全託に生きること。

 本当の支え合いで、本当の力を合わせないと。自分の救われなんか考えていたらバカよ。自分は一番最後でいい。みんなを本心に戻す、真祈りを祈れるように変えてあげたい。その為に自分が縁の下の力持ちでいいのよ。みんなを支える方へ回ったら、自分が同じようにみんなからしてもらえる。必ず、自分の姿と同じ姿でしか、神さまの支えは出てこない。これ十界の全てそうなっている。自分が地獄の生き方をとっている人は、周り全部地獄よ。同じ姿をとって現れてる。でも、真(まこと)の神さまはマイナスを消し続けてる姿で出て来ている。地獄絵図がマイナスを半分取った姿で出て来ている。でも、自分の姿と合わせてくれている。違う姿だったら受け取れない、波が違うからダメなの。

 だから、自分が本当の支え合いの姿をとったら、周りの人をみんな支え合いの姿をとってくれる。必ず、自分を支える姿で出てくる、大勢が自分を支えてくれてる、それに気付く。そしたら、本当の支え合いのすがたが、真(まこと)の神さまの世界のすがたよ、そこへ近付いていける。だから、思いの心の自分と本心の心の自分の、この違いをはっきりさせる、これが一番大事。

 次に、本心の自分をしっかり生きようとすること。そしたら、神さまの教えでも、思いの心では、正反対に誤解して受けている。本心の自分が正しく受けている。思いの心は、歪めて受けるの必ず。正しくは受け取れない。必ず歪めて歪めて受ける。だから、間違った受け方をする。本心は、正しく受ける。それも、深く深く受け取れるようになる。だから、今の自分の心境に合わせたものしか本当は受け取れない。

 例えば、ありがとうございますの本当の意味は何か、16項目を挙げている。また、真(まこと)の神さま、真(まこと)の自分って、真(まこと)の自分とは何か、これも16項目挙げている。でも、心境が違ったら、全部理解の仕方も違う、受け方が違う、全部違う。自分の心境が1段上がるごとに、もう一回受け直さないとダメ。中身が全然違うように変わる。同じ受け方は絶対ない。だから、心境が大きく変化したら、中身がどんどん変化する。

 例えば、16項目、真(まこと)の自分の16項目でも、一切の責任を自己に帰す総責任者の自分、この言葉を聞いた時に、どう受けるか?思いの自分だったら多分、一切の責任、最初はみんなマイナスと思っている。一切のマイナスの責任が自分にあると思っている。本当のプラスを与える側なんて気付かない。本心の自分はマイナスを相手にしてない。本当のプラスを大きく与え続ける自分という責任。いくらこの虚の世界の思いを消すという立場に立っても、それは無限に小さい。本当のプラスを与え続ける方が大きい。この責任の方がもっと大きい。だから自分の心境に応じて受け方が全部違う。だから、どの項目を見ても同じ。常に、点検してみたらよくわかる。

 だから、神さまから降りてくる言葉、全部そうなの。思いの心で、我の心で受けるのは、全部歪めて間違えて受け取っている。本心側に立って初めて、正しくプラス側に受け取れる。でもまだ受ける方。受ける方は一通りにしか受け取れない。ここで与える側に変わらないとダメなの。本当の与える側に立った時に無限通りがわかる。一つのことを観ても、無限通りが降りてるってわかる。受ける方は、一通りにしか受けない。

 与える側に立った時に初めて、神さまの無限通りの与え方がわかる。同じものではないの。もっと奥に入ったら無限の無限通り。もう、こんなん想像を超えてる。それだけのものを神さまは、常に用意して与えよう、与えようと準備している、与え続けようとしてくる。

 今回をきっかけに、みんな求める側から本当の意味の与える側に変化する。大きく大きく、全てに、全てだけじゃない、全ての全てに真(まこと)の神さまを与え続ける。こういう生き方に変化する。本当の意味のプラスの側の総責任者になる。その為に、神さま、護り続けてあげるという約束事が降りている。

 印可書が、単なる修了証書や卒業証書だったら何の意味もない。そんなんは、虚の世界の印可書。真(まこと)の世界の印可書は反対。神さまが与え続けて、助け続けて、心境を上げて、その心境の実観を与える、それが神さまの世界の印可書。それを順番にずーっとしてくれる。どこまで神さまの愛が大きいか、深いか。本当に想像を超えている。

 だから、「真(まこと)の神さまだけ!」あまりにも大きい。虚の世界なんか相手にならない。虚の世界は、本当の無の一点にしかならない。「真(まこと)の神さまだけがすべて!」「真(まこと)のプラスしかない!」これも徹底して、真(まこと)のプラスの言葉を駆使しないとダメ。マイナスの一言を使っているようでは、また巻き込まれてしまう、虚の世界に。「真(まこと)のプラスの言葉を駆使する自分」

 真(まこと)の自分の第一番目に出て来る第一項目、「真(まこと)のプラスの言葉を駆使する自分」「真祈りを祈り続ける自分」この自分が全てを支配する自分。自分の運命全部、自分の選んだ言葉通りになる。神さまからどんなプレゼントを受けるのも、自分の選んだ言葉通りにしか受け取れない。虚の世界は、言葉通りに虚の世界の錯覚を起こすだけ。だから、虚の世界なんか相手にする必要はない。

 でも、真(まこと)の神さまからのプレゼントも言葉通りにしか受け取れない。ボーっとしていたら、何も受け取れない。真(まこと)のプラスの言葉を駆使しないとダメ。真剣に駆使して受ける。それも、言葉をどんどん大きくしていかないと。そしたら、与える側の自分にすーっと戻っていく。

 与える側が大きいプラスの言葉を駆使しているから。受ける側は、小さい受け方になっている。新たなる無限の無限の幸せが無限に無限に一杯っていう言葉を使っても、受ける側では小さい。与える側が唱えたら、無限倍大きい。同じ与え方でも、そこまで大きい変化がある。受ける側ではダメ、小さくしか受け取れない。自分の受けたものを与えたって、大したことがない。本当の意味で、真(まこと)の神さまを大きく与える側に立たないと、本当の与え方にならない。

 いつも絶対の中心から一瞬一瞬新たに、真(まこと)の神さまを与え続ける、真(まこと)のプラスを与え続ける、一大循環の相象(すがた)を与え続ける、この言葉が必要になる、大事になる。そしたら、思いの世界なんか絶対自分入っていかない。真(まこと)の神さまだけに、思いの世界なんか本当にないって、ないってわかる、断定できる。

 本当の人生の目的、真(まこと)の神さまと共に生きること。大きく与え続けること。肉体の自分の人生の目的なんかない。答えなんか出てこない。肉体がどんな生き方をしても、死んだら消えて無くなる。目的なんかある訳がない。魂も同じ。虚の世界の全てがそう。生きる目的も何も、成り立たない。本当の人生の目的は、本心の自分が真(まこと)の神さまの目的を生きること。大きく与え続ける自分になること。

 本当の意味で真祈りを祈り続けてほしい。神さまが一番願っている。本当の幸せ、無条件の幸せ、本当の意味で湧き上がる自分になってほしい。湧き上がるって循環する幸せ。全ての幸せが自分の幸せになる幸せ。循環しない幸せなんて取るに足らない。無限のスピードで循環する全ての幸せが自分の幸せという循環の幸せ。この自分に早く戻ってほしい。ひたすら神さまは願って祈っている。それに応えていくのが恩返し。

 神さまのプレゼントは降り注いでる。それを受けて本当の意味で喜ぶのが恩返し。そしたら、助けを受け続けられる。それが本心の自覚を深めていく。本当の幸せが大きく近付く。

 だから、もうこれからは、過去を言葉にしないこと、マイナスの一言を絶対に使わないこと。常に新たな大きいプラスの言葉を連発することよ、連発しないと。それが神さまのお手伝い。そしたら、必ず神さまは降り立って下さる。自分が何もしなくっていいの、神さまが降り立って下さったら全部して下さる。本当の支えが全体から出てくる。

 今日は、そういう意味で、全く正反対の生き方に大きく変えて下さる。その時期になったの。
ありがとうございます

 音声はこちらからどうぞ
 https://youtu.be/Y4icpsFFeOU

 宇宙神ありがとうございます

じょうし 2024/03/03(Sun) 13:24 No.3225


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