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11月勉強会 by 河上あきのぶ [Mail] 2023年11月18日(土) 07時36分
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令和5年11月河上さん勉強会−1(20231112−1)

質問:ありがとうございます。真祈り以外で、普段何気に自分が思っていることの積み重ねが、今、中東で行われている現実になっているということを伺っても、中々、その現実を身近に感じることができません。質問ではないんですけど、現状報告として。

河上さん:あぁ、護摩の時、護摩に一杯邪魔が入って、あの時大変で、お話の方はバババッと言ってしまったので伝わらなかったと思うんです。この前の護摩の話は失敗で、みんなの心に入らなかった。

 要はすべては完璧な一つというところが、この現世といえどもね、例えば食べ物、食べ物だけで見ても、太陽の光があって、地球ができて、大地ができて、そこから芽生えてくるのを太陽の光を受けて、食べ物になるわけでしょ?食べ物を一つとってもね。それって太陽って神さんの命でしょ?だから食べ物は神さん命なんですよ。でも殆どの人は食べ物と自分とを分けるし、まず食べ物を美味しいとしか食べんはな?神さん命としては食べないでしょ?

神さんの命として食べれたら、先生のように水だけで3ヶ月でも平気なの。それくらい分け隔てた意識というのがこの現世の姿なんです。

 なぜ分け隔てるかというと、知恵の木の実を食べるからです。知恵の木の実を食べるってどういう事かというと、過去を掴むということです。過去を掴むというのが、「我(が)、自我」つまり自分が正しいという思いです。最初に大きく過去を掴むんだけど、どんどん小さく小さく掴んでいって溜まっていくのね。過去を掴むのが増えていくほど小さい自分になっていくんです。

 先生はイチョウの木が大好きでイチョウよく言われたんですけども、イチョウの葉っぱって、(元の一本があって、)わーって開いてるでしょ?だから、最初に一瞬一瞬新たな光があって、それがバッと枝分けられして、この世の表現があるわけですよ。

 その表現のところを楽しむだけだったら良いのに自分の物としちゃう。それを知恵の木の実を食べるっていう。自分の物とするというのは、こうすることが正しいとかね、これが一番良いとかね、要するに神さまの命と切り離して物として掴んだら、知恵の木の実を食べるなんです。

 一旦,自分のものとして掴んだ途端に小さい自我、自分が正しいが出来る。それを知識として積み重ねるとね、だから学者は後回しって言うんですけどね、知識を積み重ねると、小さい自分が正しいが凄い強固になって、何も受け入れなくなる。

 でも本当は神さまの命というのは自在応変(絶対に、二度と同じものを作らない)の働きといって、一瞬一瞬新たに(新たに)どんどん変化してるんですよ。

 過去の経験に基づいて解決できることは一つもない。でもこの現世は過去の経験に基づいて判断する。で、過去の経験に基づいて判断するとね、あの時、騙し討ちにあったとか色々あるわけよ。ついつい自分を守りたい為にあえて騙して、こんなんしたとかね、もう全員がですよ、誰もそれのない人はいないの、この現世にいてる人というのはね。
全員がどこかでね。自分を守りたい為に何か嘘ついてきてる。嘘ついて、騙してしてるわけね。

質問:それは過去世の事ですか?
 
河上さん:過去世でも、今生でもそうやって。例えば兄弟でね、このオロナミンCを分けて、一本を二人で分けて飲みなさいと渡すとするでしょ。そしたら兄弟で一口づつ最初は飲んでるわね。だんだん減ってきたら、ちょっと欲しいから一口がちょっと多くなったりするよな。なるやん?それって結局は騙してる。だけど、それ騙していると意識なく皆するわけよ。だから知恵の木の実やね。

 まだ騙してるとかね、相手の為に何もしてないって、分かってしてる内はええねんけどね。何よりも自分のことが最優先やね、みんな。

 尽くし合い、捧げ合いって言うんだけど、神さまの働きは(新たなる下座に立つ絶対奉仕の自分という)助け合いなんですよ。尽くし合いだけなんだけども。

 それって自分のことは後回しなの。だけど殆どの人は自分のことが最優先や。だから自分の思い通りにならなくて、腹立って喧嘩になるね。

 例えばサボってる人を見て腹立つのはね、自分は真面目にやってるのに、なんであいつだけ狡いやないか、というふうに自分の思い通りになってへんから怒るね。

 でも神さまは良いようにしてるからな。サボって大変な目に遭うのはその人であって、自分関係ないね。せやのに、わざわざ自分までサボって大変な目に遭う人のマイナスを背負いに行ってはるだけやねんけどな。それ、ぐっと正確に言うとな。だからあいつサボってるやないか、あいつ狡いやないかって言ってたら、その狡い人のマイナスを、自分が優しく背負ってあげてるだけやねんけどなっていう。それくらい完璧な一つなんですよ。

 自分の身体で言うとよくわかるって、右手器用な人やったら左手不器用でしょ?そしたら、こいつ左手不器用だから邪魔やとは言えへんやろ?それがわからなあかんね。泣いても笑っても理屈抜きにすべては完璧な一つやねん。そっからは誰も逃げられへんねんけど、何とか分けて自分だけ良い目しようという無意識の意識が働くねんな。自分だけ良い目しようとした時に騙したり、まあいったら狡いことするわけや。

 本当やったら、お母さんが子供に物を食べさせとるきそうでしょ?自分食べなくても子供に食べさせようとするやん?あれが神さまの愛の姿よ。自分の事は横に置いておいて、相手の為にしてあげるわけやな。それが結果としてぐるっと回って自分にもしてもらえるわけよ。

 でも自分だけ欲しい欲しいってやってたらな。それが餓鬼道の世界って言うんだけどね、求める心があると餓鬼道に落ちるわけ。自分だけ欲しい欲しいって、お互いに欲しい欲しいって与えあえんからね。

 それを先生は腕より長いお箸を持ってるって言うわけね、みんなね。で、天国の人はお腹一杯食べれるって言うね。長いお箸で食べ物を相手の口に放り込みに行くからお互いに支えあって食べれるね。で、地獄の人は目の前に御馳走があるんだけど、腕より長いお箸だから食べれなくて苦しむっていうわけよ、餓鬼道でもね。それは自分を優先するから長いお箸で自分の口に入れようとするんだけど、腕より長いお箸だから口に入れへんっていう訳ね。

 そういう風に先生を例えて仰ったんだけども、自分を優先するのが仕方ないって、みんな思ってるんや、先ず。自分を守るのは当然やと、自分に余裕ができてから人をなんとか助けましょうっていうね。

 それは神さまの御心とは違うね、それは神さまの御心とは正反対のことやねん。でも、そこがみんな分れへんね。それだけやねんけどね。だから神さまの御心を知ることが悟りやね。神さまの御心を知ったら悟りになるねんけど、御心をどうして知ろうかと思うと、神さまのお手伝いしたいって願ったらわかる、というのは何故かというとね。

 神さまは尽くすだけなの、与え尽くすだけなの。それが分ったら全てが一大循環に入れるね。この現世の世界は一大循環の世界ではないからね、奪い合いになるね。
 だから先生はお風呂でよく説明されたのね、お風呂でお湯を自分の方にやったらね、余計に逃げて行くねんな。相手の方へ相手の方へ温かいお湯を回してあげると、結局ぐるっと回ってきて、自分が一番早く温まるとおっしゃるんだけどね、或いは、お盆に小判を積んでると、自分の方に欲しいから、お盆パッと引き寄せしたら小判が崩れて取れないね。だけど、あなたどうぞと言ってすっと押してあげたら相手の人が受け取れるね。先の長い箸と一緒よ、お互いにあなたどうぞとやったらみんなが幸せになるね。

 だけど例えば食べ物で言ったら、まず自分がお腹一杯になってからや、な?何で自分ががって言うと、自分の体を守って元気だからこそ、人になんとかしてあげられる理屈がある。だからまず自分が元気になって、お腹一杯になってからってするの。

 それが進むとね、前に言うようにいつも言うように100人に100個のパンだけどまず、自分の分を確保して、自分を元気にしとかないと思ってパンを沢山自分の周りに集めるわけやね。結局食べれない人が出てくる。そういう感じのことを無意識にみんな、それが正しいことのように言い訳して生きてるんやな。

 だから実際そうでしょ?先進国の人がお肉を食べるんでしょ?でも牛に食べささずにみんなで食べたら、地球人類全員の食べ物があるのにね、肉や豚にして食べようとするから足らんようになるんでしょ?結局はそういうのが全部積み重なって、争いの心が積み重なって、疑心暗鬼になるわけよ。

 バルフォア宣言という国連の決議があるわけね。その時にナショナルホームという英語で書いてある。ナショナルホームをあの地に作ることを認めます。それは今年の2023年の10月31日まではナショナルホームを作ることを認めますという国連宣言がある。それによってあの中東の地域に入植が始まるわけやけども、ナショナルホームという英語の解釈が難しくて大変になっているだけよ。それって何かと言ったら、仲良く一緒に住んだ良いだけやね、本当は。

 そうやけど、俺のところはここや、お前らは出て行けとかね。そうやけど、そんな人のこと言われへんて、日本でもそうやね。自分のところだけってするねんって。それって笑ってられへんねんて。さっき一番今最初に説明したことやねん。まず自分がお腹一杯になってから人を何とかしましょうという気持ちがね、もう全てなんや。ナショナルホームやったらみんな仲良く一緒に助け合いましょうでええのに、ここは自分のところやからお前らは出て行けってするのはね、先ず、自分が、自分がちゃんとならないとどうこうっていう、我儘(わがまま)というか恐怖感やね。神さまを信じきれない恐怖感がみんなあるの、大なり小なりね。

 神さまをホンマに信じきれたらね。生きるも死ぬのも神さま次第。神さまが一番良いようにしてるとなったら、もし本当に食べ物がなくなって餓死するんだったら、それも良いって諦められる心。死ぬが良ければ死ぬ方がいいようになるんだっていうね、その心がいるの。

 そうやけど、みんなは自分の都合でやで、自分の肉体が安泰で、楽で、まあ言ったら水道も出てね、冷房暖房があってねっていう。ライフラインがね、ライフラインが完備するところにまず自分が住まないとあかんわけでしょ?その心誰一人、私持ってない人、おれへんって。

 人類がそんな心やから、それがどっか一箇所に固まってね、どうこうなっているだけでね。ウクライナのこと、何所でもね、他所事として、ある意味、なんであんな争いするんて、笑ってられへんねんて。悲しんでられへんねんて。結局は自分の責任やね。全員がそれが分ったら一気に世界平和になるねんけどな、まだまだお互いを信じきれない。それは神さまを信じきれないからや。なぜ神さまを信じきれないかっていうと、全ては完璧な一つで、みんな真(まこと)の神さまというところから離れるからや。

 お互い真(まこと)の神さまやから信じきってあげたらええねん。それでもし、この世的によ、騙されて殺されてもそれでええねんっていうのが分ったら一気に平和なるね。

 そうやけど、例えば騙されて行き違いでね。本当は行き違いで騙し合いになって殺し合いになるねんけど、行き違いで殺し合いになったら、昔の日本でいうと敵討ち(かたきうち)でしょ?(お互いに)敵討ちに入るわけや。永遠にきり無いわけや。

 今、時代劇でね、敵討ちの映画って結構あるけどね。敵討ちって、結局は、又、その殺された人の敵討ちを、又、するわけでしょ?敵討ち、敵討ち、敵討ち、永遠に終わらんわけやんか?だけど、やったらやり返すというね、求める心、求める心同士では、もう何も収まれへんね、人類が滅びるだけや。

 でも神さまの御心というのは、みんなの自由意志で一切を報い求めずに与え尽くす心というね、絶対の愛と言うんだけど、にならなあかん。そう言われて、そうしたらいいやなってしている間はあかんね。みんなが自分の自由意志で、一切を報い求めずに与え尽くす絶対愛を実践しようと思ったら、真祈りするしかないねん。ただ真祈りとは何かというね、そこの根本が分からへんから、ぐちゃぐちゃ話になるんやけどね。

 真祈りというのは、真(まこと)の神さまに降り立って頂いて、お祈りすることやねん。もっと具体的にどうやねんと言ったら、相手の心に真柱を立てる真(まこと)の神さまを立てるということや。そこまで先生具体的に仰ったのに誰も聞きに行けへんからね、「真祈りとは、真(まこと)の神さまを相手の中に入って、真(まこと)の神さまを立てること」やとか、「通り抜けること」やとか、一杯色んな説明のし方されたんだけど、それって具体的にどうしたらいいんですかって、誰も聞かへんね。聞かへんけど、(先生このままでは大変になるからもっとみんなが簡単に誰でも出来る)具体的な方法を作って貰わんと、こんな話進みませんでって(先生との話し合いで)なってやね、宇宙神ありがとうございますも、ありがとうございますが、先生はちゃんと答え言ってんねんで。「ありがとうございます」ひたすらこれをね「ありがとうございます」が、真(まこと)の神さまそのもの。「ありがとうございます」が、悟りそのものって先生が仰ってくださってんね。

 先生が仰ったんだから「ありがとうございます」って唱える時は悟りそのものって、どうして信じ切れないかやね。それを信じ切れる者がおらんから「ありがとうございます」で失敗したんや、ってなるんやけど、そんなん怒ってもしゃないからな。もう出来へんもんしゃあないから、なんとか出来るようにしょっていうことで、先生が自分の命を削りに削って印可書を作ってくださっただけよ。

 作ってみたら最初の試作品はね。光強すぎてみんなよう選ばんからっていって、今の改良型があるだけでね。どれ選んで貰ってもみんな自由よ。最初の試作品の光の強いのが好きやいう人はそれ選んだら良いね。どれが良い、どれが悪いじゃないからね。勿論「ありがとうございます」の十文字に立ち返れますという人は立ち返ったらいいしね。どれもこれも今だに生きているんだけど。どれもこれもね、「印可書」を読む時は、「ありがとうございます」と唱える時は、「宇宙神ありがとうございます」と唱える時は悟りそのものだというのを、そこを信じきれなかったら何にもなれんねんて。

 すると絶対奉仕も絶対感謝もね、すっと分かるね。一切を報い求めず与え尽くすという絶対の愛がわかる。そしたら一気に世界平和になるね。外からね。どうこういじったって何も変われへんねんって。変わるくらいだったら、国連がバルフォア宣言をしてね、中東でみんな仲良く住みなさいと言った時に、仲良く住んでるって。なれへんのでしょ?

 それは肌の色が違うからとか。文化が違うからって、お互いに邪魔し合うんでしょ?「出て行け、出て行け」って言ってイケずし合うんやろ?(そんなん)せんでもみんな神さまの命で、みんな真(まこと)の神さまで一緒やのにね。只々、それだけよ。

 だから完璧な一つからみんな逃げれないからね、護摩のときに説明したけども、例えば犬さんとか猫さんが面白いことしてても、あるいはテンゴ(わるさ、いたずら)したって腹立てへんやん、コラって言って終いやん。それは動物と自分らは別ってわかってるからよ。

 でも人間はあの人らは他民族やとかね、肌の色違うとか言いながらよ。完璧な一つから逃げられへんから、誰が何しても腹立ってくるね。サボりおっても、狡いことしよっても腹立つねん。動物が狡いことしても「おもろい事しとんな」で終わんのにな。

 それくらい「完璧な一つ」というのがもう当たり前のことやね。当たり前すぎてみんな気づけへん。只々、それだけやねんけどな。当たり前すぎて気づけへんから、なんか遠くで戦争が起こってるなぐらいしかみんな思えへんね。

 だけど、それは自分さえよければがあるからよ。もっと正確に言ったら、自分が正しいという意識があるからよ。自分さえよければやって言ったら語弊(ごへい)があるからね。自分が正しいという意識があるわけよ。だから自分が正しいから、他人から見たら、あの人自分さえよければしてるやけど、本人にとったら自分は正しいことをしてるや。な?

 他人から見たらあの人狡いことしてる、サボってるやけど、本人から見たら自分は正しいや。

 それくらいみんな自分が正しいというね、過去を掴む意識が抜けへん。

 自分が正しいという気持ちはどうして起こるかって言ったら、過去の経験に基づいて掴んでるからやで。一瞬一瞬新たに真祈りして受け取っていたら、自分が正しいはない。

 これは武道でいうとよくわかるんだけど、剣道でも上段者で剣道をする時は打ち合えへんのよ。もう殆ど構えてするだけで勝ちました。負けましたってわかるね。それ何かと言ったら、武道でも上へ行くほどお祈りに近づくわけよ。だからこう来たらこう討ちましょうとかいうね、過去を掴んでのどうこうのもんはないね。だから本当に一番上の人だったら、打ち合えへんね。打ち合わんと分るわけ。

 もっと具体的に言うと、合気道っていう位ね、合気っていう位でね、お互いが真祈りしているから争いは出へんね。争いが出るのは過去を掴んで、こう打ってきたら右に寄って、こう打ってあげましょうとかね、面を打ってくるから抜き胴で切りましょうとか、過去を掴んでどうこう言うてるうちは争いがあるね。剣道で説明するとね。合気道だとそれはもっと進んでね、試合はないと言ってあるんだけど、まーこれはいいわ。そんな感じでね、過去を掴んだら自分が正しいが出るね。

 過去の経験に基づいて自分の正しいを作るね。作ったとこから知恵の木の実を食べたくなるの。それが分かれへんね。だから殆どの人はね、自分が努力して生活しましょうや。

 自分の力でなんとかして生活していきましょうと思ってる。それが日本でも世界でもそうやけど、それが正しいことだと思ってるわけよ。

 本当はそうじゃないねんけどね。先ず、真祈りして神さまの命を頂いて知恵を頂いて自然に動いて行って助け合っていったらっていうだけやね。

 だけどお金というものがあってね、借金というのがあって、利息というのがあってね、(お金さえあれば、なんとかなる、幸せになると勘違いしているから)、そういうのが見えなくなってるわけよ。それは自分だけがいい目をしたいっていうのがあるからね。自分だけがおいしいものを食べたい。自分だけがアンパンを何個か食べたいやな。
100個のアンパンが100人分しかないのにね。真祈りしてたらね。100人に100個のアンパンしかないって分かる。だからどうこうって思えへんね。

 真祈りしてたら神さまが必要なだけね、いつも出してくださるってのは分かるね。だから真祈りや。でも真祈りが分からんやったら「印可書」読んでる時は、奉読してる時は真祈りそのもの、それを信じてください。

 或いは、「宇宙神ありがとうございます」って祈る時は真祈りそのものやね、悟りそのものやね、そこを信じられなくなったらどれを使たって一緒やん。

 それはなんで「宇宙神ありがとうございます」は悟りそのものか、なんで「ありがとうございます」の10文字が悟りそのものか、なんで「印可書」奉読は悟りそのものかと言ったら、「先生が言葉で定めてくださった」からやん。そこを信じられなくなったら何したって一緒やん。自分の信じることをしてください。それ信じられんかったらな。

 だから今までここを宗教のように勘違いする人も居ったし色々あったけども、どれもこれも一番悟りの要諦、いわゆる真祈りの伝授というところですけども、悟りというのが何かって言ったら言葉ではないというところやねん。不立文字で言葉ではないね。直接響かすしかないね。でも、その一人一人を響かして悟らせて行ってたら、もう間に合えへんから、それを一気に勝負に出たわけよ、先生はね。で、「ありがとうございます」は悟りそのものって、口を枯らして言うんだけど、誰も信じへんね。しゃあないから宇宙神ってつけたけど、また宇宙神を太陽系宇宙の神さまぐらいしか思えへんから失敗してね、で、印可書にしてって色々あるけども、どっちにしてもいまだにどの祈り、言葉も生きています。「天の造化主」も生きています。はっきり言います。

 でも例えば「天の造化主の尊、産霊精霊護り給え、幸栄え給え」は悟りそのものやねん。
僕はちゃんとそれを聞いたけど、あの当時の人はそれを聞いてへんから、天の造化主の尊に失敗してんけどな、だけど別にどれも一緒やん。どれも「先生」が「宇宙神ありがとうございます」って言う時は、悟りそのもの。「ありがとうございます」は悟りそのもの。「印可書」奉読は悟りそのもの。悟りそのものというのは何かとは、真(まこと)の神さまが降りたって下さるっていう事やん。

 そこを信じられへんかったら、何か(わからんけど)印可書奉読したら良いんやなって、何ぼ奉読したって一緒よ。或いは、昔がそう、「ありがとうございます」って言ったら良いんやろうって言ったら、感謝が足らんって、お互いが責め合ってな「ありがとうございます」が足りんのやって言ってな。違うって、「ありがとうございます」が悟りそのものって信じて言わなアカン。

 それは法然さんが南無阿弥陀仏の時にちゃんと説明されているんだけどね。それは昔の話しなんで、今は「ありがとうございます」と、「宇宙神ありがとうございます」と、「印可書」だから、良いんだけど、そういうものやね。

 先ず、神さまと直結できる方がね、イエスさまとか、維摩先生とか、ヨハネ先生とか、お釈迦さまとか色んな方が降りて来られて、天と地を繋ぐ光の柱を立てて下さる訳。

 松下先生の時は「天岩戸が開らかれた」って言って光の柱を建てて下さった訳。建てて下さったら、建てて下さった方が「言霊」で決めて頂いた、「悟りそのもの」という言葉を奉じたら、(みんな光の柱に入れる)皆悟りに入れる。でもその最初のとこを迂闊(うかつ)にも皆、迂闊(うかつ)にも聞き逃しているのか、信じられないのか僕には分らないけど、僕はちゃんとそのように聞いたし。「河上はそんなん言うけど、先生はそんなん言うてへん」っていう人は言いに来てください。ちゃんと録音も何もかもお見せ致しますから、っていうとこやけどな。でもそれはええは。

 兎も角、先ずそこを信じ切れなかったらどうしようもないんよ。もうそれだけなんやけどな。

 だから先輩やからとかね、私はここに30年も居てるからとかね、それで偉いんと違うねんて。祈り言葉が悟りそのものって。「宇宙神ありがとうございます」が悟りそのものって信じ切れる人が値打ちがあるの。偉いとか、偉くないとかは無いけどね。値打ちがあるかどうかやね。

 なぜそれが信じ切れるかと言ったら、みんな真(まこと)の本心の自分、真(まこと)の神さまそのものやからね。だからニャン子さんにね、「宇宙神ありがとうございます」は悟りそのものっていたって分かれへんのよ。勿論、ニャン子さんも真(まこと)の神さまそのものなんやけど、波動圏が違うからね、それはそれで良いんだけど。

 どっちにしたってみんな本来の自分を知っているね。知っているから必ず分るから、先生が言霊で定めて下さったことを信じ切れたらスッと分かるね。でも「いや、そんなことはない。宇宙神ありがとうございますは真(まこと)の神さまではない」って頑固に拒否するんよ。それを遠慮って言うんだけどね。自分が神さまそのものである事を、遠くに慮って離すんよ。自分は神さまでないって言うからややこしくなるの。だから今までの宗教は全部あかんって言うのよ。

 「あなたは真(まこと)の神さまそのもの」って言っていない。生長の家位や。五井先生とこもそうやけどね。でもみんな信者さんは「実相完全円満」を受け取れなかったし、「世界人類が平和でありますように」っていうね、「五井先生ありがとうございます」を受け取れんかった。「五井先生ありがとうございます」は真(まこと)の神さまそのものって言っているんだけど、みんな受け取れんかっただけよ。それはみんな遠慮してね、自分と神さまは別の物やと。で、五井先生は修行して悟られたんだと、お釈迦さまは修行して悟られたんだと、松下先生は修行して悟られたんだと勘違いしているからや。

 お釈迦さまが「苦行は悟りの因に非(あら)ず」「修行は悟りの因に非(あら)ず」って仰っているのにね、遥か昔に。で、松下先生も修行して悟ったんじゃあないって、はっきり仰っているのにね。そういうとこは聞けへんのやな。やっぱり修行して悟るってカッコいいはな。滝に打たれて悟るって格好いいでしょう?

 で、滝に打たれて悟るんと違うね。滝に打たれると自分ではどうしようもないって事がはっきりと分るから悟るんだけどね。悟りとは何かというと、自分が正しいという小さい自分ではどうしようもないんだという事を知ったら悟れるの。

 ああ、神さまだけで何も無いんだって、神さまだけで何もないねんて、ホンマは。だから泣いても笑ってもみんな完璧な一つやね。でも神さま以外の自分というものがあると、自分で思い込んで生きているからややこしんだけどね。だから喧嘩もするの。





令和5年11月河上さん勉強会−2(20231112−2)

質問:考えてみると、肉体を持っているが故の部分で、自分を守るために、正義、自分が正しいんだという気持ちと、で、肉体と真(まこと)の神さま、神さまそのものとは違うんではないかという肉体意識が強く働いているからではないかなと。

河上さん:いや、それはそうやで。だって役者さんがね、役作りをしてその役に入るんでしょう?ね?で、みんな真(まこと)の神さまそのものの自分がね、今回はこういう役で楽しんでみたいって言って役作りして出てくるねんから。役作りした自分は神さまそのものではないわ。それだけや。

 例えば、お洋服ね。例えばウエディングドレスを着たら、あ、結婚式やなっていうことでしょう?結婚式のお嫁さんやなって。違う洋服を着たら違う人やなっていう風な感じでね。みんな自分の好きな洋服を着て降りてきて楽しんでるの。だから、それを映画館で例えてるわけよ。映画、今のこの現世(うつしよ)の映画でもね、例えば自分はヒーローではないけども、ヒーローものの映画を見に行ってヒーローになった気持ちになって楽しむわけでしょう?あるいは自分は不幸な役目ではないけども、例えば「おしん」ですか、おしんとかあるやん、不幸な物語が。あれを見て楽しんでくるわけやろう?でも映画館から出たら自分に戻ってるやん、一緒や。この現世にいながらでも、現世から出たら真(まこと)の神さまそのもの自分が感じるの。みんな映画館に籠もりっきりや。

質問:それは肉体意識が掴み過ぎているということですか?

河上さん:いやだから、知恵の木の実を食べすぎや。過去を掴みすぎや。経験、体験を掴みすぎてるの。みんな、オギャアと生まれてきてね、なんやかんや言いながら生存競争の中にいるわけよ。例えば兄弟多かったら、お母さんがおやつをお皿に盛って出してくれたらね、早く食べないとなくなるわけやろう?その辺から生存競争が始まるわけやん。あるいは学校に行ったら、グズグズしてたら何もないわみたいになってくるやんか。で、そのね、まず自分のことを確保しましょうという癖がついてるわけよ。だからや。それだけやねんけどな。

 それは何かと言ったら、神さまが必ず良いようにするって信じ切れんからや。なんで信じ切れないかと言ったら、一瞬一瞬新たに受け直されへんからよ。要するに、お母さんがね、子どもにおやつをくれましたと。そしたら、もうあと二度とお母さんはくれないと子どもは思ってね、おやつの取り合いをするわけやんか。せやけど、お母さんは必ず、又、おやつをくれるんでしょう?そしたら今回は貰えなかったけど、次は貰えますって安心したら終いやのにな、という感じで、みんな過去を掴む、自分を掴む、財産を掴む、兄弟を掴む、親を掴む。色々あるわな、子どもを掴むとか。

 無限供給やねんて。一瞬一瞬新たに無限供給や。何を怯えるか。仮に供給がこの世的に途絶えて何もなくなったら、あ、やっと映画館から出られるなあと思って喜んだら良いねんけどな。なんとか長生きしたいって思うんやろう?体が動かんようになっても長生きをしたいって、ほとんどの年寄りは、早く死にたいって言う年寄りはおらへんもん。本当に大変になってからでも、もっと生きていたいって言う。まあ、それで良いねんけどね。自殺されたらかなわんからね。

 まあ、それはそれで良いねんけど、でも本当はもっとね、一瞬一瞬新たに受けなおす真祈りができないとあかん。それで真祈りを、「宇宙神ありがとうございます」を信じ切れない人のために、印可書を信じ切れない人のために、先生はまだ用意してくださったわけでしょう?宇宙船護摩木という。「この護摩木を書くときは、真(まこと)の神さまが降りたってくださっているんだ。」と、「真祈りとする。」と仰ってくださったんや。それはもう信じる信じないに関わらずそうなるんだって言って仰ってくださったんや。

 だから(なにもわからない人は、是非だまされたと思っていてもよいから、疑っていても良いから)護摩木を書いてください、護摩木百万枚ぐらいまで頑張ろうってね、後ろから(支えて)押してるわけよ。で、その総決算みたいな感じが毎月一回してるわけで。

 本当は毎日が護摩なわけ。だから護摩木を書いてたら、(理屈抜きで)悟りそのものを体験していくから、無意識に悟れるの。さらに、それに護摩に参加したら、もっと相乗効果で悟りが深まるから、護摩にだけは親の死に目以外は来いって言って。言っても遊びに行って来ない奴もおるけどな。あんまり言わんとくけど。

 そこまで先生がね、もう三段構え四段構えにして、なんとか全員連れて行こうとしてくださってるんだけど、それでも行かへん言う奴は行かへんで良いけど、別にみんなの自由意志や。僕は先生ほど優しくはない。好きにしてください、や。もちろん説明はするよ。護摩木についての説明も、もう何遍もしたけど、また今したけどね。

 だから、何もかも信じ切れへん、そんなん言っても嘘やと思っても護摩木だけは書いてね。護摩に参加できない遠くの人は、そりゃ参加しなくて良いですけど、参加できる限りは来てください。一年に一回でもね。それくらい護摩は大切なものです。

 護摩に参加してたらね、肉体が自分というのは消えていくよ。いつ消すかはちょっと言えないけどね。結局ね、肉体が自分とか、そういう意識は、もう神さまに引き上げてもらうしかない。要するに悟りというのは、神さまがピュンっと引き上げないと悟れないのよ。

 自分から悟るということはないの。なんでかと言ったら自分と言う意識は過去を掴んでるから離れられない。神さまは、もうそろそろ大丈夫やなと思った時、要するにどういうことかと言ったら、バーンと引き上げても過去を懐かしんで降りて行けへんなと分かった時に引っ張り上げるの。で、その場所が護摩の会場ですよって先生はおっしゃってくださっているのに誰も聞いてへんやろう?まあ良いけどな。

 だから滝に打たれても悟れないし、修行しても悟れない。それで本当はね、もうここに居られる方も本当に何人かの方に、先生は特別のおまけで悟らすんよ。でもみんな過去を懐かしんで降りていくの。だからワッと心境が上がったのに、私は先生に悟ったって言ってもらったって言ってしまうの。それは過去を掴んでるっていうのが分からへんの。自分が過去を掴んでることすら分からん。だから誰でも今でも、すぐ全員を悟らせられるねんで。でもみんなすぐ降りるから、もうせえへんだけや。時間の無駄やし、こっちはエネルギーを使い過ぎて大変になるからな。それだけやねんけどね。

 私は光を見たとかな、すごい心境がフッとなってんとか、宇宙と一つになった気がしてんとかってみんな言うの。言った時点で過去を掴んでることに気付かへん。一瞬一瞬新たに無条件の喜びにならないと。本当の真祈りになったら、もう祈ろうとか祈るじゃなくて只々湧き上がるのよ、喜びが。その喜びを具体的に表現したら「宇宙神ありがとうございます」やったり「ありがとうございます」の言葉やったりね、印可書であったりするだけで。もう祈るとか祈らないとかじゃないねんって。真祈りが本当の真祈りやったら湧くだけよ、こんこんと。昔のあれや、「押せば生命の泉湧く」の指圧の宣伝文句じゃないけどね、押さなくても生命の泉が湧くの。そういうもんよ。

 でも、知恵の木の実を食べるのを止めてくれないとあかんの。過去を掴むのを止めてもらわないとあかんの。自分が正しいとか自分でなんとかしようという意識を止めてもらわないと引っ張られへんの。ここまで大おまけの手の内を見せてるから頼むで、みたいな感じやけどな。

 本当にね、引っ張り上げるのは簡単やけど、勝手に降りて行くんやって。もうここまで来たらもう降りへんかなというところでやらないとあかんの。それを先生は僕の体験のためにね、色んな人を引っ張り上げて失敗する例を見せてくださったし、僕も何人かやって失敗したし。本当は今すぐやりたいねんけど、そのウズウズとしてるこの気持ちを抑えて、ひたすら祈ってます。中々こっちはストレス大きいで。

 みんな光やねんて、みんな真(まこと)の神さまやねんて、みんな命、みんな完璧な一つや、みんな光やからな。完璧な一つという言葉にするのも要らんねん、光やもん。分けようがないんやって。光を分けれるか?分けてみいや、無理やろう?

 だから「無限の無限の輝きが無限に無限に一杯!」というのが真祈りそのものやねんけどね。でも、もうなんと言うかな、やっぱりそれも、みんなが信じないのな。どの言葉を使っても信じないから、できるだけ簡単な言葉で勝負したら、またそれも信じないから、じゃあもう説明書付きみたいな感じで印可書ってなってるだけでね。印可書やとウロウロ考えてる暇がないくらい、ようけ(たくさん)あるからな。

 もう、先生はもう本当に頭の良い凄い方でね。一杯出してこられるんだけど、そのうちで「おまえの分かるのはどれや」みたいな感じでね。「これと、これと、これです。」「そしたら、これと、これの中のこれやな」ってことで印可書になったんや。本当はもっと一杯あるねんけど、先生が結局これって決めてくれはったの。

 そうでしょう?みんな仲良く一緒に住んだら良いだけや。せやけどお互い嫌や言って、あんた、あっち行けってするんでしょう?その「あんた、あっち行け」がみんな無意識にあるやん。あいつ嫌いやから、あっち行けって。その「あんた、あっち行け」が戦争の元やんか。な?一緒に仲良く楽しく面白いこと言ってな、笑い合って生きてたら良いのにな。あんた、あっち行けって言った途端にややこしくなるの。

 だから今までの宗教はどれもあかんって言うの。自分のところが一番って言うからよ。自分のところが一番と言うことは、おまえらあっち行けってやってるの。そんな宗教は偽物じゃって言ってるわけよ。そんな宗教を信じてどうすねんって思うけど、まあまあ、みんな自由やから構わへんねんけどな。

 今日は分かりやすいよ。自画自賛。違うか(笑)。

 それくらいな、みんな自分が正しいから逃げられない。難儀なもんや。過去を掴むねんな、無意識にな。自分の体験が正しいと思うの。自分の体験に基づいて判断して生きていることが正しいと思うの。そしたら、その正しいと思った以外は全部受け取れない。だからなんぼ「『ありがとうございます』は悟りそのもの」「『ありがとうございます』の十文字は真(まこと)の神さまそのもの」って先生がおっしゃってもね、「ありがとうございます」というのは、ものを貰う時に受け取る感謝の、相手から物をもらってありがとうっていうね、喜びを伝える言葉くらいしか抜けられへんかった。

 だから、そういう挨拶のありがとうございますとは違うでっていうことで、「宇宙神」をつけるんだけど、やっぱりあかんかってん。

 だから、ほら、「印可書は違う、『宇宙神ありがとうございます』しか聞いてない」って言う人がね、一番面白いでしょう?そない言う人は「宇宙神ありがとうございます」に命懸けてね、悟るはずや。悟ったらそんなこと言わへんねんけど、分け隔てたことは言わへんねんけどな。せやけど、なんやろね、「『宇宙神ありがとうございます』が悟りそのもの」というのが聞こえてないねんな。自分が正しいという意識の中には「こんなんを言ったところで、悟りになれへん」という無意識の思い込みがある。だから短い祈り言葉が失敗したんや。誰か短い祈り言葉で悟ってくれて、「大丈夫!これでもいけます!」って証明してくれると嬉しいんやけどな。そんな勇気のある人は少ない。どうぞ。

質問:真柱を立てるというところの辺りの話に戻って。真柱を立てるというか、すべてが真柱が既にあるという感じかなと思って。

河上さん:そうそうそう。もう、その通りやで。その通りやけど、まず立ってないってみんな思ってるやろう?だから立てるという表現で導入せんとあかんの。

質問:それで、私たちは真柱を共有している感じかなと。

河上さん:だから、光そのものやねん。その中でこの世的な表現としては、あのほら、木がこう立っていくでしょう?ああいう感じで柱が立つの。命の柱が。それで真柱が立つという表現。

質問:それで、それはみんなが持っていて…その…

河上さん:考えると分からんようなるやろう。

質問:祈り言葉を唱えると、真柱全部に響く…となって…

河上さん:まあ、どういう感じのイメージで受け取っても構わへんねんけど、要するに、こういう形で、こういう風にして、こういう風になるんやなという考え方は捨ててね、只々神さまが良いようにすると思って、印可書を奉読でも良いし「宇宙神ありがとうございます」でも良いんだけど、祈り言葉を唱える、神さまに捧げ続けるやね。唱え続けるというよりは、神さまに祈り言葉を捧げ続けたら良いの。そしたらもう、真祈りや。

 その、神さまのお手伝いとして捧げるという気持ちがあったら、お手伝いをしたいという気持ちの中に神さまは降り立つの。で、真(まこと)の神さまに降り立ってもらわないと悟りにならへんの。で、降り立ってもらうためには、神さまのお手伝いをしたいと言うと過去を捨ててるの。自分のことをしたいと思ったら過去を掴んでるの。だからまず、神さまのお手伝い、自分のことは横に置いといて神さまのお手伝いをしたいと思ってね。この世的な仕事とかね、普段の生活は普通にしといたら良いんよ。只々、神さまのお手伝いをしたいと思って祈り言葉をね、神さまに捧げたら良いの。
 
 それをしてるとね、普段してる自分の仕事、例えば、もっと極端に言ったら、顔を洗うとか歯を磨くこととかね、お風呂に入ることそのものが真祈りになっていうことになってることにハッと気づく時があるわ。すると、かなり悟りに近い。一挙手一投足が真祈りそのものになっていくのが分かるの。でも、それは自分のためにしてるんじゃなくて、神さまのために、神さまのお手伝いのために歯を磨きます、神さまのお手伝いのために顔を洗います、神さまのお手伝いのためにごはんを食べますというね、その気持ちになってくる。

 もうお手伝いお手伝い、神さまのために神さまのためにってなった途端に変わるの。

質問:自分と神との境界が分からなくなる…?

河上さん:なるなる。そうそう。お手伝いやから一つになるやん。だってそうでしょう?仕事もお手伝いもそうでしょう?ある会社の仕事のお手伝いをしましょうって言ったら、その会社に入らないとできへんやん。形の上で入らんでもやで、その仕事の内容に自分が入らないとできへんでしょう?。お手伝いというのは相手の中に入らないとできへんやん。仕事のお手伝いでもな。

 それを神さまのお手伝いと思ったら、この世のやってるすべてが神さまのお手伝いになるの。それが分かると無条件の喜びが分かる。それでその、分かるという表現じゃなくて、もっともっと直感的なもんやねんけどね。で、それが分かったらな、子どもが勉強してへんとか考えへんようになる。神さまが良いように子どもをちゃんとしてくれるって分かるの。

質問:だいぶ(子どものことは)どうでもよくなってきた感じです(笑)

河上さん:(笑)

質問:その、祈り言葉で祈ることで、すべてに響かせられるから…

河上さん:そうそう、そこでね、祈るというのを、結局ね、今まで、みんな何が失敗したかと言ったら、自分の力で生きていかなくちゃとかね、自分の力で生活を立てなくちゃっていう意識があるでしょう?その意識の中で、自分の力で祈らなくちゃってあるの。それは神さまのお手伝いと違うの。それで、いくら「ありがとうございます」って唱えていても失敗したの。神さまのお手伝いとしてしないとせんなんねん。

 ただね、「ありがとうございます」とか「宇宙神ありがとうございます」だと、お手伝いと思い切れへんわけよ、簡単すぎて。でも印可書やとね、これを全部奉読するのに、お手伝いと思ったら、なんとなくそう思えるねんな。それで印可書が楽やって言ってるだけで。ともかく、まずお手伝いに入ったら良い。そしたら極端に言ったら、自分のお家のお掃除をするのも神さまのお手伝いなの。極端に言わんでも本当はそうやねんけどな。全部神さまの命でしょう?だから自分のお家のお掃除もお手伝いや。ただそうなると、もっと他も綺麗にしましょうとかね、今自分がやるべき必要なことが自然に分かってくる。

 それを理屈で頭で考えるとね、自分のお家のお掃除だけじゃダメで、周りもしましょうとか、あそこのお家もしてあげましょうなんていうのは要らん考えや。すべては完璧な一つというのは、お互いに支え合ってるから、自分ができることを自在にさせてもらえるだけや。余計なことはしなくなる。

質問:祈り言葉を駆使してお祈りをすることで、すべてに響いていくことで…

河上さん:そうそう。真(まこと)の真柱が立っていくの。

質問:そうですね。ですから、紛争地域でも、すべてに響いていく…

河上さん:そうそう、収まっていくんよ。

質問:だからお祈りだよ、ということですね。

河上さん:だから、本当にそうでね。例えば今の日本でもそうなんだけど、海外から働きに来はるわけでしょう?ね?それ、一緒に隣に住んでも仲良くしましょうが本当やねんけど、やっぱり日本でもそれが出来へんからね。それぞれの外国の人が集まった地域ができてくるわけでしょう?無意識のうちにね。それはやっぱり仲良くできへんからよ。仲良くできてたら、もう本当に家族のように全部一緒やからね。せやけど、やっぱり文化習慣が違うとね、微妙なズレがあるから、ついつい避けるんやな、お互いが無意識に。弾けへんまでも避けるからやねんけど、その避ける心が危ないの、ぐらいね。でも、まず真祈りがあったら、そんなんが消えていくの。もうそれだけやねんな。

 今のバルフォア宣言のナショナルホーム(National Home)っていうね、National Home
っていう英語がね、仲良くしましょうっていう英語やと思うのよ、お家やから。「National」ってすべてのお家っていう意味でNational Homeっていう英語があると思うんねんけどね。それを自分達の国とか、自分達のどうこうって言った途端にね、争いになってるの。それぐらい逆に言ったら、「おまえら、何他所から勝手に来てんねん」というのも、あかん心なの。「困ってるの?そしたら一緒にやりましょう。」って、「ここに住んだら良いよ」ってね。自分の住んでるところを半分にして分けてあげる心が要るの。

 昔、長髄彦(ナガスネヒコ)さんのね、国にね、神武天皇がやってくるわけやけど、その時に「おまえら、なんで他所から来て、出て行けって言うの?」というのは、最初の失敗があるの。他所から来たのを一緒に仲良くしましょうって言える人と、こんなん来てもらったら困るって言う人があってな。で、一緒に仲良くしますって言う人の方が多かってんけど、それでも勝手に来るなよと言う人がおるだけでね、あれだけの争いになったの。
 
 それくらいね、弾く心、要するに、すべて自分という意識が、すべて真(まこと)の神さまの意識がなかったら、争いが、争いの種って炎のように燃え上がるから、ややこしくなるの。そういうもんや。

 だからまずは印可書奉読よ。「そんなん言ったて遠くの世界のこと」とかね、「いや、あんな人ら、やっぱり肌の色の違う人が来たら嫌やわ」とかね、有ってもね、有ってもまず真祈りで変えていかなあかん。「私はやっぱり、それどうしても我慢できない」と思っていても。印可書に替えていったら一気に変えられるの。それで「いや、私はどうしてもね、色の違う人は嫌やねん。」とかね「言葉が通じへんから嫌やねん。」って思ってる人の、その響きの中で、印可書を読んで頂くのが役立つの、いつも言うようにね。
 
 だから、私は嫌やと思ってるねんで良いから、ぜひ印可書奉読の真祈りに持っていってください。もうその、今の、この先駆けとしてね、今先生のもとに集まった、縁あって集まった人のみんなの真祈りが要るんです。それだけで変わるの。「いや、私はもう、そんなんあかんねん。」という、その気持ちが要るねんて。その気持ちで真祈りするのが要るの。でないと通らない光があるからね。いつも言うように。だから、是非ね、印可書奉読は神さまのお手伝い、「宇宙神ありがとうございます」は神さまのお手伝いって信じ切ってね、やってください。そしたらもう、その「私なんて」っていう意識を持っていても消えていくしね。

 なんでかと言ったら、神さまのお手伝いと言った途端に、自分が無限大の外に広がってるの。そういうことなの。なんでかと言ったら、神さまのお仕事は広大無辺、物凄い大きいことだから。例えばね、ある会社のお仕事をお手伝いしますとなった時にね、小さい会社のお仕事のお手伝いだったら、小さい範囲のことをするわけでしょう?でも大きい会社のお仕事を言ったら、大きい範囲のことをするやん。でも、お手伝いと言った途端にその範囲のことが見えてすることになるでしょう?自分が大きくなるやん。

 それが真(まこと)の神さまといったら、もう広大無辺の大きさになってお手伝いやから一瞬で自分が広がっていくの。その広がりを繰り返すことによって、悟りを実感できるの。広がるということは差がなくなってる。

質問:「一つ」が分かるということですね?

河上さん:そうそう。だから、それで分かるというより、完璧な一つなんや、本来な。それから逃げられへんのに逃げ回ってただけやのに、ハっと気付くの。違うと思ってたけど、みんな一緒やったんやって。あの人は色が黒い、あの人は色が白いって思ってたけど、カラーリングが違うだけで一緒やったんだって分かるの。そしたら、ネコさんも一緒やった、イヌさんも一緒やったって分かってな、ネコさんの気持ちが分かるようになるの。そしたら飼い猫さんのストレスが減るで。違うか。(笑)

質問:次に、知識の木の実のことでお聞きしたいんですけれど。例えば私は村に行く時に、去年どんな服装で何を持って行ったかを記して、11月とかは結構(気候に適当な服装や持ち物を)当てにくいので。で、それを見て持って行くものを決めているのですけれども。

河上さん:それで良いの。それで良いねんけんど、それをね、それを掴んで、要するに知恵の木の実を食べるというのは、それにプラスね、絶対にこうしなくちゃってなっていくの。

質問:ですよね。だから、それを参考にするのは良いけれども、今年の今の暑い状況、先週の凄く暑い状況とか今週の寒い所も感じながら自在に決めるっていう

河上さん:自在にできたら良いねん。そうそう。

質問:それが一瞬一瞬新たに受け取るっていうことですね。

河上さん:そうそう。一瞬一瞬新たなに繋がっていくの。うん。だからみんなは自分が正しいと思い込んだら最後ね、そこから抜けへんの。

質問:そう、今までのデーターが正しいから絶対これっていうことが…

河上さん:そうそう、あかんねん。

質問:知恵の実を食べるということですね。

河上さん:そうそう。その通りです。で、その一瞬一瞬新たのところをね、印可書奉読でないと無理や。この世的な情報を何ぼ集めても限度がある。

 せやから例えばね、気象情報で今日は朝はこんだけの温度になりますよって言うけど予報でしょう?実際はもっと寒くなるかもしれへんやん。それは印可書奉読でないと分からへん。で、これからは特にそうなの。もう予測外のことが起こるからね。例えば台風が来ますと。予報では、あの程度の台風やなのにね、いざ来たら凄い風やったって去年でもあったでしょう?大きい台風やと言うけど、そんな強い風やとは思わんかったいうぐらいのね。そういうことが印可書奉読してたら分かって対応できるようになるの。そういうのが分かるようになると、地震も起こらへん。結局、地震は何かと言ったら、自分勝手さやな。

 まあ、せっかくやから、ちょっと言うと、病気ってね、細胞が自分勝手に動いてね、助け合えへんようになるの。そしたら霊的に見ると黒くなってるんよ。で、自分勝手に動いて、要するに信号無視してるの、お互い。お互いが信号無視してぶつかり合ってる状態が病気なの。それを一番するとガンやねんけど真っ黒になってんねんな。で、それをどうするかと言うと、一旦ね、そうやね、光やねんけども太鼓のような光やね、太鼓の音のような光をね、ボーンボーンボーンって送るんよ。送ると、それに揺すられてね、ガーってぶつかってんのがね、ワーッて広がるの。広がってからね、神の御光、御力、御命ってね、光そのものってするわけよ。そしたら、それぞれの細胞がハッと気付いて助け合いになる。で、病気が治るの。

質問:そこは印可書だって良いわけですよね。

河上さん:そうそう。それをね、今はみんな簡単に印可書奉読でやれるから。でも間違っても病気を治そうなんて思ったらあかんの。本来の元の光の状態にするだけって喜んでたら良い。が、病気治しのコツです。

 それで、それがまだプラスね、すぐにならへんの。この世から。それのスペアをたくさん背負ってるから、欲しい人にはその病気をあげられるの。ちょっと冗談やけど。あげようと思ったらあげられる。それくらい、あんまり病気治しをしようなんて思わなくて良いけどね、印可書奉読してるだけで大丈夫やけど。具体的に早くどうこうしようと思うと、そういうものになって、背負っていかなあかん。

 それ、地球霊王さまの分も背負っていくと、こういう状態の体になるだけや。それもわざわざ自分がどうこうじゃなくて、神さまに任せ切ってたら必要に応じて使っていただけるだけって喜んでなあかん。どの時も、「なんで?」って思ったら終わり。全部必要に応じて神さまはしてくださっている、良かった良かったや。いつも言うようにな。神さまは一番良いようにしてるだけや。だから、印可書を奉読してたら神さまのお手伝いって喜んでいたら良い。




令和5年11月河上さん勉強会−3(20231112−3)

質問:河上さんは全てが一つという事で資格というか、とても失礼なんですが、されているのと同時に、私達もそうであるっていう事を…

河上さん:そう気付いていなくてもね、みんな潜在意識で一つというのを知っているの。知っているから責めて腹立つの。

質問:で、何というか河上さんにご相談をしても、まあ大丈夫やって、基本には大丈夫やって返ってくるのは自分もそうであるし、私達もそうである事が深く深く…

河上さん:そうやし。みんな自分の都合で判断している。で、自分の都合で判断して文句を言っているだけ。でも例えば極端な例で言うと、大学も落ちたし高校も行けんかったしってなってもね、その子に取ったら音楽をする方が才能が伸びるとかね、今生でなくてもよ。その子に取ったら音楽するほうが良いとかあんね。それに応じたように神さま持って行ってるだけやね。要するに絶対必要な体験しか神さまさせへんね。無駄な体験は一切無いの。ただ、自分の都合から考えると無駄な体験をしていると考えるから腹立つね、っていう感じやね。だから絶対良いようなっているね。

 それ世間的に後ろ指指されてね、あそこの子は出来へんなって言われても、そんなん関係ないわけや、本当はね。そうだのに皆色々と苦労しはんね。だからあの親の子やからこうならなあかんと言うのは間違いや。そんなん言うと子供が縛られて苦しいだけ。

 だから大体そうでしょう?親が音楽家だからといって子供が音楽家にならへん、殆どな。親が凄い絵描きやけど、子が凄い絵描きには成らへんでしょう?そういうもんやて。うちなんかはズーっと宮大工のアレやったけど、だからといって僕は宮大工の腕は大したことはない。

 だから必要な体験しかないって喜んでたら生きて来るね。それが自分の都合でね、あんな無駄な事してとか、あんな可哀そうなってとか要らん思いを足すのね。足すから結局必要な体験が体験し損なっていく、完璧に出来へんようになって行くみたいなのがあるから。

質問:よくある例として、ブラック企業でご自分が背負わないと、みんな逃げて行って自分がどうしようもなく背負わないといけない立場になって、結局過労で自殺をしてしまったという事があったら、なんて可哀そうな、気の毒なんだとか、会社が悪いとか、そういう思いはいらなくって、世間的に悲しい結果だけども、それが一番良かったと…?

河上さん:勿論勿論。結局ね、みんな自分が正しいから抜けられない間で経験するんやけど、自分が正しいと思っている内は因縁因果から逃げられへんね。過去世でした事は必ず果たさなあかん。只、神さまは愛やから過去世で1000して来た事を今生の10で済まして下さっているわけ。だから今言った内容でも小さく消えただけやねんな。

 だから飲酒運転の人に撥ねられて家の旦那は死んでしまったわって言っても、一番良い形や。極端な例で言うとね。それ位どっちが悪いは無いの、本当は。だから先生は一番極端な例でね、親に売り飛ばされたと、あの親に、自分は人買いに売り飛ばされたという状態でも喜ばなあかんねって言わはった。もっと極端な例で言うと、大戦争の真っただ中にあっても、完全平和を思えって仰るのね。それ位一番良いようになっている。一切の形は無視して真祈りをしているだけ。

 だって11才の頃先生にお会いした頃って、先生の手な、松かさみたいになっているの。それ真冬なのに、ランニングシャツ違うけど半袖のシャツしか着てはらへんしな、足は勿論裸足やし、なんて言うの、寒さを感じん位の状態というか、それ位何もない状態の中で生活されていた。で、何もないから一番喜べるんやって仰っていた。で、積極的にそうして受けとってていたら一番の幸せやねん。それを寒いから嫌やとか、辛いとかって逃げ回っていたらって、僕には言ってくれはった。

 でもそんなん言っていたら、他の人逃げていくからね、それ以降他の人には言ってはらへんけどな。それ位本当はどの状態でも神さまは一番良いようにしている。その先生の話をちょっと柔らかく言い換えて、みんな説明させて貰っているけどね。

 だから突然癌になりましたと、というても喜べなあかんの、本当は。喜べたらアッという間やけどね、色々とあるんや、自分の都合で考えてな。何があっても、一番分かり易いのはみんな美味しいで食べるやろう?お腹すいたから、これ美味しいねんてガツガツ食べるやろう?それがもう自分の都合や。一番分かり易い例。お腹すいた時は脇目も振らずに食べるやろう?お母さんくらいかな、自分お腹すいていても先ず子供に食べさすのは。(笑)

宮野さん:みんな色々やで。

河上さん:色々か?

宮野さん:自分だけ食べるのも居るで。お前だけか、みたいな。

河上さん:お前だけ何か食ったんかって言うて。(笑)

質問:前回も同じような事を聞いたんですけど、今の話しを聞いてて結局、その時に自分が感じて何かしようと思って、しても兎に角、印可書を喜んで奉納出来たら…

河上さん:そうそう。結局ね、理屈で言うと「一切を報い求めず与え尽くす」っていうのが真(まこと)の神さまの働きやね。何ぼ理屈で分かっていても、やっぱりどこか報いを求める心がある訳、肉体を持っている以上は。それでついつい自分を責めてしまって、ややこしくなるから、もう印可書奉読に戻っていたら一番楽。

質問:この前の護摩の話しで、諦めてもう一つだというのを聞いて、仕事とかでも私凄い狡かったり、凄い一杯自分が一番やっぱり得したりとか、そういう思いで一杯一杯の自分だったから、やっぱり何処か責めていたんですけど、諦めて、あー、だから良いんだと思って、そんな自分が印可書を…最低の自分がむしろ価値があるような気がして、

河上さん:そうそう。勿論それでいいよ。

質問:それで良いですか?

河上さん:それで良いです。もし必要ないんやったら、先生が真祈りされてね、この地上に降りられた時点で世界は平和になって全ては終わっている。みんなキレイに清めて終わりや。でも先生の凄いサーチライトのような光では通らんとこがあるんやって。耳糞はスコップでは取れんでしょう?耳かきが要るんやって。みんな耳かきの働きをするね。だからそれで良いです。

宮野さん:忘れない内に、先にお伝えしようかと思うんですが。先程私が席を外しかけた時に河上さんが言われていた、「在庫を一杯持っています」っていうのが有ったと思うんですけども。護摩をやっている時、若しくは護摩の前からそれぞれが一杯寄って来て、在庫を一杯持っている状態になっているんですね。

河上さん:この辺に一杯付いているね。足とか肩にくっ付いているね。だから触らないように。

宮野さん:そう。足とかよく引きずっているのは、それは身体の調子が悪いわけではなくって、そういう在庫を一杯持っている状態になっているので

河上さん:しがみ付いてはんね。

宮野さん:その状態になっている中で、その状態で尚且つ、護摩をするって状態を神さまからさせられる、させられるといえばおかしいけど、そのようにってなっているのを下手に触られると、結局それは邪魔をしている形になるので、知らない方は、「知らなかったから」っていうのは先生の仰る、それは「知らなかったでは済まないね」っていう処なので、折角なのでお伝えしておこうかと思うんで、護摩の時は

河上さん:触らないように。

宮野さん:触らないで下さい。河上さんとか私とかの場合、そのまま(相手の人に病気やもろもろのマイナスが)移行してしまう場合もありますし、それでも自由意志なので喜んで私は背負いますっていう事であれば、それはそれでまあー、どうぞお好きな事なんですけど、それはどんだけ恐ろしい事かはご存じない中で、無知でやられるのは果たしてどうなのかと。護摩を邪魔するだけではなくって、それがどんだけ大変な事であるかっていう。例えばそれが若しも、若しも体が一つ一つ意識がある状態で腐っていく病気になってしまいます。若しくは筋ジストロフィーになって行きます。若しくは脳梗塞になります。若しくは末期癌になります、っという事を持っているんですよ。是非その分を背負っていきたいと思われる方、若しくは財産一瞬で無くなってしまいます。若しくは家の誰かが殺人犯に殺されるかもしれない。

河上さん:もう(そんなこと言わないで・・・)。

宮野さん:まあまあまあ。それ位怖い事が起こるかもしれないという事を自らが持って進んでやろうというのは、それは「我」じゃあないのかと思うんで、自分が何かじゃあなくって、自分が今できる事は今日も言われた、何も出来ない。何も出来ないから、只、淡々と真祈りするだけなんですっていうところを、皆さんがそれぞれ先生からお願いされたところかと思います。

 なので河上さん大変そうやなって思って、より良いと思って触られるのは、逆に言うとそれは大変な事なのでという事を。知らないから今一応お伝えしますっていう話しです。それからはもう自由意志なのでお好きなようにっていうところです。

河上さん:あのね、背負ったらどうなるかと言ったら直ぐには起こらへんね。いわゆる命の働きが緩んで来る晩年に起こる。晩年に苦しむ事になるから、私平気だったわ、ではないという事を知っていて下さい。だから頑張って印可書を奉読して下さい。(僕にさわった人は)誰だったか知らんけど。こっち目をつぶって(お祈りして)いて誰か分かってない。ただ、本当に晩年に出て来る。

 ほら憎まれっ子世に憚るって言うやろ?ああいう風に背負っている人は直ぐに出えへんね。傍目には元気に見えるけど、晩年凄いの。例えば人殺してきた人でもね、本当に死ぬ寸前に大変な目に会う。それはそういう人ほど最後に纏めて(まとめて)凄い苦しみになって出るんよ。(ふつうの人のように、こまめに、小出しにして楽にはさせてはもらえない)

 みんな大なり小なりそんなんを持っているからね、年取ったら病気になるね。何も持っていなかったら病気にならへん。大往生する。でもみんな大なり小なり、私絶対悪い事してへんわって言い切れないやろう?自分の心を見た時にな。それで晩年病気でちょっとな。

 だけどその病気の形で小さく消して貰うんだけどな。どっちにしてもすぐに出ないというのを頭の片隅に入れといて下さい。だから私は平気よではない。どうぞ。

質問:今の話しでピントがズレているかも知れないのですが、周りの人が何か体が痛いとか、そんなん言っていると一応マッサージのお仕事とかしていたし、つい擦って上げたりしたくなるんですけど、

河上さん:いや、それはして上げたら良い。只、印可書奉読しとかないと、結局はどの形でも自分が背負う事になるからね。ただ、全然、自分には何も出ないわって(言っていても、それは)当たり前やて、晩年しか出ないから。みんな晩年に出るの。だから本当、例えば信長さんでもね、もう凄いことするわけでしょう?で、最期まで元気で本能寺でグワッシャってやられるでしょう?ああいう感じで晩年にグワッと来るの。死ぬ間際に。そういう感じやから。

質問者:はい。ありがとうございます

宮野さん:ちょっと怖いこと言いましたけど、あるよね。

河上さん:あ、どうぞ、どうぞ。

質問:ありがとうございます。今のお話で、晩年にそうなる原因っていうのは、元々自分が過去世から積み上げてきた自分であるのか、それとも…

河上さん:自分にあります。

質問者:はい。分かりました。

河上さん:で、勿論、縁者の分もあるわけやけど、でも縁者は自分やからね。先祖は自分やから。そこが分からなあかんの。例えば先祖供養をしないとあかんと言うけど、本当は自分供養なの。その先祖と自分を分けた時点で供養にならへんの。そこがね。だから、お仏壇にね、自分に向いて飾るでしょう?お墓でも自分に向いて飾るやろ?先祖と自分を分けてるのやったら、お墓の方に向けてお供えしいや。仏壇でも、仏壇の方に向けてお供えしいや。せやけど、みんな自分の方に向けるやん。それはやっぱり無意識にね、すべては完璧な一つを知ってるわけよ。先祖は自分、親は自分って知ってるの。それをまあ強いて言えば、親のすがたは過去世の自分やとかね、先生は色々と例えで言ってくれはるけどね。どっちにしても全部自分のものなの。で、それを自分の中で、真祈り出来ない分は死ぬ時の形でするだけ。で、どれを選ぶかはその人の自由意志なの。

質問:そうしましたら今こうやって、お祈りに参加したりとかしている、プラス、最期はそういう形で来ることを心にしなければいけないという…

河上さん:いやいや違うって。だから先生に縁のある人はね、神さまのお手伝いをするやろう?で、神さまのお手伝いをするということは神さまと一つになるから、一瞬にすべては消えるの。それだけや。ただね、一瞬にすべて消えるけど、神さまのお手伝いをして大きくなった分だけ、より他人と思ってた人も自分やから、その人の分を背負ってまた…って続いているように見えるけどね。でも一瞬に消えてるから死ぬときは平気なんや。だから、先生は死ぬ時は苦しまへんかったやろう?

質問:あの日々日々、こう今、私、この間、同じ質問をしたと思いますけど。日々日々、色んな方から忌み嫌われているような状況を私は感じているんですけれども。私なんですけど、それはやっぱり自分の身からでた錆だと認識して無条件に受け入れる?

河上さん:そうそう、あの結局ね、自分と他人を分けてた自分があるわけよ。で、それで相手を責めてるの、みんな。あなただけ違う。みんなね、人を責めてない人はおらへんねんて。「汝、罪なき者、石を持ってこの女を打て」や。誰も、みんな人を責めてるの。責めてる中で、その完璧な一つからは逃げられへんのに責めてる分だけね、自分を責めてることになるの。ね?それで自分で自分を忌み嫌うんよ。もうそれだけなの。で、そこを分かったらな、神さまのお手伝いしますって宣言してね、印可書を奉読してたら完璧な一つに戻るから一瞬で消えるの。

質問:あと、もう一点すみません。先週の護摩の時に、何かこう書き留めるっていうことは過去を掴んでいるので、書き留める必要はないということだったと思うんですけれども。私の場合は最近ちょっと物忘れが酷いというか、バッシングとかもあって。ノートに…

河上さん:だから、書き留めたやつをね、参考にするのは良いねんて。でも、こうしなければいけないってなった途端に、もうあかんの。だから書き留めたのを参考にして、印可書を奉読して湧いてくる知恵に従ったら良い。

質問者:ありがとうございます

宮野さん:先程の話ですけど。多分、皆さんの中の質問とか、思うことと、先程の質問はよく被ってるかと思うんですが。みんな、みんな他人の目が気になる、他人の意識、どういう風に思われてるかっていうことが、すごく気になってきてるかなと思うんですけど、何時も何時も河上さんがよく言われている中で、本当に自分以外の人は自分の思うようにはならんし、好きにしか言わんっていう所は、前もって、そうなんだって思われるととても軽くなります。思い通りにならない、思い通りにならないから面白い訳で、思い通りになったら、世の中なにも面白くないよねって。やっぱり悪く思われる事も、良く思われる事も、結局同じことだって、良いように言われる事は結局,不徳を積む形やし、悪く言われる事は徳積みの一つにもなるわけで、相手の分をその言ったことでもって自分は逆に言うとお祈りさせてもらえるわけであろうし。実際、先生だってみんな100%先生の事いいように思って下さった方ばかりでは無く、陰ではマイナスの事言われた方もあるし、でもそれさえも先生はすべて一つやと思って、万人の方のためにお祈りされたわけで。

 私らは先生からすべて光を下ろして頂いたのだから、同じことを思うように、分け隔てなく、人が何を思おうが、「あっ、おもしろいやっちゃな―」で済ましながら、人は好きに言うんや、思い通りにならんもんやって。
 それは身内であろうが、会社の職員であろうが、みんな一緒かなって思います。ここに同じ目的で印可書を唱えると共にあったとしても、ちょっとの事で、えー、、あの人なんか言いたい事違うん違うの?ってよくある話で。でもそれさえも「おもろいやっちゃなと、だからこそいいんだって」って思うと、もっともっと気が軽くなるんかなっと。何であの人はこんなこと思うんやろ?って思うと、それはもうマイナスの一つになっていくので、掴む事そっちの方が苦しいかな。

 楽しい楽しい、おもしろい、おもしろい、おもしろいやっちゃな、って言うて、印可書唱えるチャンスを頂くっていう事。それがより楽かなって思います。如何がでしょう?
 
河上さん:いいです。はい。みんな好きにするから面白いねん。にゃんこさんでもなんでも言うこと聞いたら面白ない。言うこと聞けへんから面白い。犬はまだ結構人間の言う事聞くからね、面白ない。(笑)猫はホンマ好き勝手する。予測できへん動きが楽しいねんて。ゲームでもそうでしょう?思い通りになったらゲーム違うやん。みんなゲーム楽しくやってるけど、思い通りなれへんから、ゲームのよりステージ難しい思い通りになれへんゲームに行くんでしょ?将棋なんか絶対勝つって分ってたら、せえへんで、もう、アホらしいて。勝つか負けるかがおもろいやん。どうぞ。

質問:先祖供養のお話が出て、本来真祈りと言うのは全ての全てに響くのだから、ご先祖さまにも響いている訳ですね。自分はご先祖様でご先祖様は自分という事で。それを先祖供養という事でお祈りすると、その何というか幅をこう狭めてていうか、狭い範囲のお祈りになってしまうという感じでしょうか?

河上さん:うん。結局ね、先祖と自分をみんな分けているでしょ?人類は。だからその分けている中でね、少しでも完璧な一つに近づかす為に。というのは海外ではね、先祖供養ってあんまりないねん。中国はあるけど、もっと他所に行ったらほんまにないのね。お墓はあるけどね。いちいち先祖供養ってせえへんのよ。それぐらい個人意識って言うの、もう分けた意識が強い訳。死んだ人は全く死んだ人で別だみたいなね。それをちょっとでもね、繋ぐために、一族であるとか、先祖であるとかにして今迄はしてきた。

 でも、いよいよ時間切れなんで、全ては完璧な一つっていうふうにおろしているだけでね。どっちにしてもまだ先祖と思えるだけでもマシで、先祖供養したいって言うだけでマシなんで、お付き合いして上げたらいい訳、どの形も。どの形も良い悪いはないね。もし外国行くとね、それすらないから、あるだけでもマシよ。いう感じで、ただ、その形に捉われてこうしなくっちゃいけないって言い出すと苦しいだけや。せやけど、まあ、ちょっと遊びや思って付き合ってあげたらいいね。

質問:真祈りは先祖供養も含むという考えでいい?

河上さん:そうそう。そういう説明でいいと思う。結局、全ては完璧な一つっていうとこが真祈りやから。

質問者:ありがとうございます

河上さん:まあ、どんな形でもこの現世での出来事は何億分の一で消して貰っている事ばっかりやからね、喜んでいたら良いんだけど、より効率よく、より楽しく出来るのが真祈りやと思って下さい。効果が上がるみたいな。そう意味では印可書が出て楽になったと思うのね。素直に信じるとか、信じないとか考えている暇がない。信じるとか信じひんも考えている暇がないみたいな処もあるからな。本当は考えている暇がないが一番や。只々、神さまがあるだけっていうのが印可書やから。

 それで熱も何も無くて元気な時はね、小まめに身体動かして下さい。じっと座っている時やったら、人目が無くて大丈夫な時は貧乏ゆすりとかね、身体を揺すっているほうが良いです。それ位地球霊王様の響きが変わって来てね、動かないと大変になる状態に今あります。だから肉体は動かせる限り、人目ある時はお掃除するとかね、何か拭き掃除するとか、小まめに動く形を取ってしてて下さい。でないと直ぐに熱出たり痰が詰まったりします。

 その人類の意識がね、滞りつつあるんですよ。それが地球霊王様の体に映って滞っているね。で、それは地球霊王様の体は入れ子構造で人間の肉体の体ですから、血液の巡り、リンパ液の巡りがみんな悪くなっているの。それで訳の分からん病気が出て来るんですけど、それは血液とリンパ液の巡りが悪いのね。それって段々社会が便利になって来たんや。

 だから昔やったら洗濯やったらこないせんならんし、掃除でも箒でひゃーって掃かんならんし、拭き掃除せんならんし、ハタキかけんならんしって体を使う事ばっかりやってん。

 今便利になってお風呂一つスイッチ入れるだけで済むやん。焚き木切って薪割りして焚かんでもいいみたいなね。その中で体を動かさんで良くなってきたの。それが人間の肉体の設計上良くないね。

 だからひたすら例えば印可書を唱えるのでも、拭き掃除しながらとかね。何も出来ない時は貧乏ゆすりしながらで良いですから、できるだけ動いてください。そしたらそんなに問題は起こらない。じっとしてると良くない。しんどいから座ってましょうは良くない。しんどいから座ってますでも良いけど、ちょっとこう、貧乏ゆすりでも何でも良いからね、ちょっと揺すって下さい。

 どうせ揺するぐらいやったら、拭き掃除でもってなっていくし、大丈夫。じっとしてましょうが良くないと思って。ほんなら、散歩がええんか?やけどね、散歩は寒いときせえへんやん。雨の時せえへんやん、ていうのがあって、股割りとか色々言うてますけども、

 もし散歩で歩くのやったら、足の指で土を掴むような一歩ごとに指で、土を掴むようにして、足の指で、歩いてください。もちろん散歩以外で普段歩くときもね、足の裏で土を掴むようにして歩いてください。それだけでだいぶ違います。

 それぐらいちょっと色々と地球霊王様の体がそうなったんでみんな大変。もちろん火山も噴火しそうになっているので色々と痒くなってね、ちょっと人間の体もなりますけど、気にせずに痒い時は掻いてもいいけど、後クリーム塗る等していてください。それちょっと地球霊王様の体の方が大変で、真祈り人には色々特に影響出やすいんで、お願いします。


令和5年11月河上さん勉強会−4(20231112−4)

質問:これ、確認なんですけれども。私は正しい、自分は正しいという思いなんですけども。みんなに出るわけではなくて、私の場合は、特に特定の人に出ることがあります。
で、今まで河上さんにお話を聞く中で、そういう方っていうのは、凄く自分自身、よりそのものだ、自分にとっても深い方なんだと思っています。で、自分が正しいと思ってる時は、過去を掴んでいることなんで、一瞬一瞬新たから外れてるっていう風に自覚するんですけれども、そういう時は、本当に自分自身のために、その方が凄く重い方なんです、応援してくれてる、自分を凄く応援してくれてると。本当に今、そこで「印可書」奉納して、本当に面白いと思い続けることが、もう何度も言われてるから、それが本当にお手伝いになるという、もうそういう意識で?

河上さん:はい、それで良いです。もう本当にそれで良いです。

質問者:ありがとうございます。

河上さん:で、身近な周りから言われるっていうことはね、意識を捻じるでしょ?

質問者:はい。

河上さん:ね。それって、ある意味良いことや。で、今、体も一緒で貧乏ゆすりとか言うたけど、できたら捻じってくださいね。うん、そうそうそう。この前、柔軟教えたでしょ?捻じるね。ああいう捻じる形が凄く体を元気に維持しますから。これからは食べるもんだけでは維持できないからね。まあ、今までもそうやってんけどね。現代が楽な社会になりすぎたんやね。ちょっとどっか行くのでも歩いて行かなあかんかったや。昔はそれだけでも健康やってん。今、もうちょっとのことでも乗り物乗るし。別に乗ったらあかんじゃなくて、それに対応したことをしたら良い。

質問:動けない時は捻じる?

河上さん:そうですそうです、はい。だから、もう全く何をどうしたらええか分からん人はラジオ体操第1、第2をやれば良いし、1番わかりやすいやんな。うん。で、やってても誰も怪しめへん。「あっ、ラジオ体操やってはるな」ですむし。

質問:今日、質問しようかどうかちょっと迷ってる中で、色んな回答が私の質問の答えとかぶってたんですけど。今、最後のも、体を動かす話すら繋がってきたんですが。本心16項目の中で、適材適所っていう言葉が出てくるんですけど、 日常で割とその適材適所っていうのを自分の良いように捉えて。

河上さん:そうそうそうそう、そうそう。

質問:得手不得手があるから、 得意なことは得意な人に任せて、不得手なことはまぁ言ったらやらなくて良いというか。そうやって支え合ったら良いよねっていう考えが強まってたんですけど、それを、下手したら逃げる口実にしてたところにも、ちょっとこの頃気づいて。その時その時で、苦手であろうが得意であろうが、その時必要なことを、ま、自由自在に。

河上さん:そうそう。

質問:出来るっていうことが全知全能の無限力なのかなっていう風に繋がってて。

河上さん:そうそう。

質問:で、今の体を捻じるっていう話を聞いた時に、あ、言ったら、不得手なことをするのと…

河上さん:そうそうそうそう、一緒一緒、その通りです。うん、だから、体だけで言うとね、筋伸ばし、 柔軟体操やね、いわゆる。せめて柔軟体操だけしてるだけでも健康なるねん。柔軟体操がね、1番みんな苦手なんよ。痛いもん。 痛いけど、喜んで伸びる伸びるってやってね、してるだけで良いんやけどね。ただ、それを言うと、みんな嫌がってせえへんかなと思って、「ゆすれゆすれ」って言ってるだけで。はい。で、それは仕事も一緒です。

質問:その苦手なことをするにあたっても、嫌な気持ちを持ってても、しかも、その、本当はこのぐらいできなきゃいけないだろうけど、私には無理っていうのは、それでも良いから、出来ることをそれなりにその場に応じてやるっていう…

河上さん:そうそう、だから結果を掴まずに、出来る出来ると思ってしたら良い。その結果出来なくてもかまへん。柔軟体操も一緒やね。実際は伸びないけど、伸びる伸びるってしてたらね、実際は最後は伸びていくのね。でも大概みんな、その最初の柔軟で言うとね、伸びる伸びると思っても「伸びひん、硬い、僕体硬いわ」って言うてね、 止めちゃうんや。

質問:それが結局勝手に自分で掴んでる?

河上さん:そう結果を掴んでるから。だから結果は掴まなくて良い。神さまが良いようにするやからね。でも、その痛いのを嫌がらずにね、苦手なのを嫌がらずに、邪魔臭いの嫌がらずにするのが大事。

質問:それは喜び勇んで…

河上さん:そうです。それが喜び勇んでです。はい。

質問者:はい、ありがとうございます。

河上さん:体を動かさなかったら、柔軟しなかったら、真っ先に痰が絡んでくるから。で、その時に痰が絡んでくると「風邪かな」とかね、要らん事思ってややこししていくね。それだけ分かってて。神さまが良いようにしてるからと喜んで筋伸ばし、柔軟して体動かしてってしてて下さい。後で股割りでいじめるわな。違うか。(笑)やり方間違ってるから。

宮野さん:まさかの今?もう大概言うてきたで。

河上さん:mさん手伝ってな。2人でイジメよ(笑)。

質問:公開で?公開イジメで?

河上さん:別に終わってからするよ。心配せんでも。

宮野さん:公開処刑?

河上さん:いや、やっぱり自分の体の動きやすい形に戻っていくねんな。せやけど、股割でもそうやけど、四股踏みでもね、そうじゃないから、負荷かけるためにしてるっていうのが。

wさん:よろしくお願いします。

河上さん:あ、どうぞ。

質問:しょうもない話しなんですけど。僕は長い間、日記を書いてたんですね。

河上さん:はいはい。

質問:で、 こないだの護摩焚きの時に、日記とか必要ない言われて、もう2、3日前からどうしようって…

河上さん:いやいや、書いて良いんや。止めてもええし、書いてもええねんけどね。それを掴んで、絶対こうしなくちゃってなっていくと、もうあかん。「あー、こんなんがあっておもろかったな」が良いねん。まあ、だけど中々な、日記に書くとな、「おもろかったな」と違って「あいつにあれされたな」っていうとこだけ目につくねん。それにならないようにということ。

質問:止める止めないは別に?

河上さん:別にかまへんで。ただ、どうしてもな、人にイジメられたとか書くやん。ほんだら、日記を見返したとき、そこしか目いけへんね。「これがあって楽しかった、子供と遊園地行って楽しかった」って書いたとこなんか目が行かへんね。

質問:畑してるんやけど、野菜作りの多い時期に、あの肥料をまいたとか、そんなんやったら別に…

河上さん:全然問題ない。

質問者:ありがとうございます

河上さん:ある時、ある方のお父さんの日記が出てきてね、死なれた方の。で、どうしようとなった時に、まあ色々と、あれにいじめられた、あれにこういう仕打ちを受けたとか、いっぱい書いてあったわけね。でも、これは燃やそうって言ったの。そこばっかり目いくからね。もちろん楽しいこともいっぱい書いてあったんですよ。でも、子供が読むと、「親父がここでこんなにいじめられたんや」とか、わかる気になるやんな。それがよくない。もう済んだことやから。

 いつも言うように、一瞬、一瞬、新たにバンって光が広がって、枝分かれして、色んな形ができて、この世と言えども、例えば種からできてね、で、最後は腐って戻るんでしょ?その腐って戻るとこをなんとか、腐らずになんとかしようというのは、やっぱりよくない。いうのを、その知恵の木の実と言うかね、「こうしなくちゃいけない」って掴むことがよくない。こうしなくちゃいけないんじゃなくて、今やったら、「印可書」奉読して、感謝の知恵を頂くだけ。神さまのお手伝いするだけってしたら良いね。で、神さまのお手伝いしたいってなったらね、いらんことせえへん。神さまのお手伝いって言わんかったら、自分に都合の良いことする。ほんでややこしなんねん。

 どうしても無意識にね、自分に都合良いことを優先するって。そんなの人情や。良い悪いとちゃう。やっぱり他所の子より自分の子先にするやん。例えばね、そういう感じで。だから、それで良いです。「印可書」お手伝いで奉読してってくれたら大丈夫。

 ちょっとね、あの護摩の時はね、色々あって、もう僕の方に余裕がなくなってね、説明もこう、非常にギクシャクしたんで、申し訳ない。強い光を出して、護摩の時にね、強い光を出して、弱い光を出して、順番にこう、なんて言うの。お掃除でもそうでしょ?わんってやっといて、あと最後細かく掃除するやん。 そういう段取りでしてるとこ、初っ端に強い光出せなかった。で、一応、宮野さんからオッケー、閉じれるってなって。で、仕上げの、閉じれるのと、閉じのあたりから、失敗したんや。もう、色々ともうちょっと説明しきれんぐらい、どうしようかってなってな。 一応、終われるんやけど、 ボタンをグイチに掛けていくみたいな感じやね。で、一旦ほどいて、かけ直さなんねんけども、もう本当、ウエッてなってな。で、もう申し訳ないけど、kさんに頼んで、もう一回して頂いて。で、あんまり柏手を打ちたくなかってんけども、あんまりあんな目立ったことしたないねんけど、それで、ちょっと強引にしたんで。で、その後やから、もう質問の答えもね、ちょっともう余裕がないんよ。へとへとなって。ごめんなさい。はい。

 中々、護摩をすっと閉じていくのも大変やね。閉じひんかったら、それはそれで大変なことになる。先生がされてきた事って、みんなが思ってる以上に凄い大変なことばっかりやってんけどね。先生お1人で全てされてたから分からんかっただけ、みんなはね。

なんでも聞いて。

質問:ありがとうございます。先ほどの、得手不得手の話に戻ってしまいますけど、 全知全能の無限力だからって、何がなんでも自分がやらなければっていう風になってくると我になるから…

河上さん:そうそうそう。

質問:そこでやっぱり兎に角「印可書」に立ち戻って唱えるって言う所がベース…

河上さん:そうそう。その一瞬一瞬新たに受け直すということやねんけどね。「印可書」に立ち戻るということは、一瞬一瞬新たに受け直して、神さまのお手伝いするってなるから。すると知恵が湧いて、必要なことだけは出来るね。

 ほんで、取捨選択が出来るわけね。これは今自分がしなくて良い、これは何があっても自分がしなくちゃいけないというのがすっと分かるわ。

質問者:はい、ありがとうございます。

河上さん:それがわからないと、効率が落ちるね。自分の意識でやるとね、こっちを優先って思うねや。でも、 えっ?と思うことを優先しとくと、ちゃんとそれでぱぱっと収まんねんな。そういうとこは考えたらあかんという部分なんだけど、 自分が考えたら失敗すんね。神さまの知恵というね。ま、無理な言い方したら、神さんは考えへんねんけど、神さんに考えて頂くっていうことやね。

質問者:はい。ありがとうございます。

質問:もう2ヶ月ぐらい経つんですが、四股踏みのショート動画を作ろうと思って。動画をwさんに撮らせていただいて。ただ、そっから2か月、どうもやる気がしなくて、やろうと思ったら、iPhoneの容量が一杯になってて。

河上さん:正しい四股と踏み違ったから。(笑)

質問:iphoneも買い換えるしかないなって思って。はい。で、ちょうどじゃあ乗り換えの時期だったので、iphoneを乗り換えて、容量ができたって思っても、なんかやる気がしないなと思って、もう今日、正直にやる気がしません。もうなんかやる気がないって言おうと思ったら、今日この答え合わせは、これは神さまが…

河上さん:そうそう、そうよ。だからどうしてもね、「印可書」奉読しててもやりたくないことは無理にしたらあかんね。それで良い。

質問者:ありがとうございます。

河上さん:勉強出来る子ってな、例えばやけど、今物理した方がわかる時と、今数学した方がわかる時とかあんねん。その人によってね。で、それを無意識にわかる子は勉強できんねん。明日数学のテストやのになんで物理やってんの?みたいな感じやけど、 物理わかる時は物理しはるね。自分がその時にわかることしかせえへんねんけど、それ、統一力って言うねんけどね。

 勉強出来るって、過去世での修行の結果、統一力があって出来るね。勉強出来ない子は統一力がないだけやね。せやけど、それも因縁因果で言うた説明であって、もっと正確に言うたら、 勉強できへん状態を楽しみに来てる、勉強出来る状態を楽しみに来てるだけやからええねんけどね。

 でも、その中で、例えば勉強できへん状態を楽しみ来てる人は、それを楽しみながらも、より勉強出来るように自分が努力することを楽しんでると思わなあかんね。自分は勉強できへんから勉強せんでええんや、ではないの。

 お仕事もなんでも一緒やねんけどね。自分はこれ苦手やからしなくても良いじゃなくて、わざと苦手な体の中に生まれてきて、その中でいかにこう楽しんで努力していけるか、工夫していけるかというためにみんな来てると思ってください?だから、わざと頭悪く生まれてきてんねんけど、その中でどうするかっていう。

 だってそうでしょ?あのオリンピックでもなんでも、わざと制限するわけやろ。例えば競歩やったら、かかと地面につけて歩きなさいって制限かけた中で競わすでしょ?そういう風に制限かけて競う方が人間は楽しいね。だから天才で生まれてきてね、この世で勉強ばって出来きて、わーっとなんでもこなしたって面白ないねんって。なんか苦手な中を克服して、1つ1つで上げていくのが楽しみやね。だから、より苦手にもどんどん挑戦して楽しまなあかんね。本当はね、逃げるんじゃなくてね。

質問者:ありがとうございます。

宮野さん:ちなみに競歩はかかと上げてとちゃうよ。両足が地面から離れたらあかんってやつ。

河上さん:あ、そうなん?

宮野さん:だってかかとは上がるで。こうした時に。

河上さん:そうなん。両足が地面についてなあかん?

宮野さん:どっちかがね。

河上さん:え?どっちかちゃうやろ、片足やったら走れるやんな。

宮野さん:何やったかな?

河上さん:知らん話もうええ。興味ある人、勝手に調べて。

宮野さん:追求せなあかんやん。いや、河上さんちゃう事教えてはるわって。(笑)

河上さん:適当に喋ってはるわでええやん。待ちぼうけの歌でボロクソに言われて(笑)。適当やなって。そらそうやって、興味のない歌をちゃんと覚えてない。

宮野さん:あとは水分補給やね。

河上さん:そうやね、あとは水分補給ぐらいかな。でも、体を動かさないと。でも、どうしても動かす気ない時は、こう叩いてさする。さすってください。強くさすらんくて良いから、撫でる感じで。足から。

質問:今、マッサージガンってめっちゃ流行ってるんですけど、あれは?

河上さん:うん、みんな体が影響出てきてるからね。ほんで、あの…

宮野さん:ちゃうちゃう。あの、ほら、使ってるやつやん。ブルブルの、sさんが勧めてくれたやつやん。

河上さん:あ、はいはい、あれで良いよ。 ほんで、本当はね、この首回すのをやってもらうと1番良いんだけど、これみんな得手不得手あるからあんまり言えへんけどな。できたら首回してください。それだけで大きいです。
 あんまり具体的に医学的なこと言うと、治療行為になるから言えへんねんけど、リンパの動きを良くするためには、首をまわすのが1番。 でも、首だけではダメで、全身をゆすらんとリンパは動かない。血液は心臓で動くからね、それなりに流れるんだけど、 リンパは筋肉を動かすことによって、筋肉が動かされて動くからね。で、筋肉を動かすか、撫ぜて動かすかやねんけども。霊的に言うと、リンパ液は首と言うより脳の真下にぴゅっと集まってね。で、そっから血管に戻るね。医学的にはどうか知らんけど。で、それで一気に老廃物が落ちて元気になる。で、年取ると、年取ると言うより、みんな、事務仕事とか仕事するとね、頭動かさないことが多いのね、運転でも。ほんで、首が硬くなって、リンパが戻らないから疲れがたまるようなる。子供の頃は遊び回って好きにしてるからな、リンパが戻んねんけどね。だから、みんな意図的にトイレ入った時ぐらいは首回してるとかね、してください。それだけでもだいぶ違います。

質問:ちょっとしつこいですけど、昭和に流行った足裏ローラーみたいなのも良いですか?

河上さん:良いですよ。良いねんけど、あれ、なかなか続けられへんねんな。それだけや。
続けられへんのと場所が限定されるでしょ。で、それやったら、まだじっとしてる時でも、足の指をグーパーするのが良いと思います。

質問:先ほどからですね、動かす動作の中に8の字が。

河上さん:いや、もちろん8の字も良いんやで。良いけども、それは当然するやろと思っての話でね。只、8の字は正確にちゃんとしたらあれだけでええねんけど、 みんな正確にちゃんとできへんからね、プラス足してるだけで。

 だから、ラジオ体操第1は本当に良いんよ。良いんだけど、ま、あの、場所とね、時間があるから言うだけで。

 で、先生がよく仰ったのはね。怪我したら、怪我が治るまでじっとしてましょうは良くないって仰る。怪我の状態の中で、出来るだけ無理しない範囲で動かした方が怪我は早くなるって仰ってた。

 それは、今言った体動かすなんですよ。怪我してなくても、出来るだけ体を動か方が、体が元気になるということです。無理したらあかんで。そう、それを履き違えないようにね。やれって言ったら無茶して潰すからな。もうみんな極端だからな。

 先生からお聞きしてることですけど、今言った、脳の下に松果体って言うんですけど、松果体にリンパが戻って、体元気になるんだけど。その時にプラス、松の実って売ってるんでね、1日1粒でええから、松の実お食べになるとより効果的です。先生は松の実をよくうるさく言われた。昔はね。僕がお会いした頃はね。松の実と、ま、あんまり、あんまり言わんとこ。やりやすいことだけ言うと松の実だけ。松の実やったら大丈夫。美味しく食べれるから。 もう食べにくいもん言わんとくわ。

宮野さん:食べ過ぎないようにね。

河上さん:うん、食べすぎないようにとね。あと言われたのは虫やからもう黙っとく。

宮野さん:虫はええわ。蜂の子ぐらい。

河上さん:蜂の子とウジ虫と大して変わらへんのにな。

宮野さん:美味しいやん、蜂の子は。

河上さん:形一緒や。大きさちゃうだけ。

宮野さん:味が美味しかったら美味しくしたの食べるよ。

河上さん:でもウジ虫はすぐ手に入る。

宮野さん:美味しくないから。蜂の子の方が絶対美味しいやん。

河上さん:ちょっと炒って食べたら一緒やん。

宮野さん:出したろか。

河上さん:生きてる方が美味しい。せんとこ言うてんのに何でこの話になるん(笑)。

宮野さん:そんなこと言うたらせなあかんのかって思わはるから。

河上さん:うん、せんでええで。本当に食べるものが無くなった時の知識として、ちょっと残しといて下さい。

宮野さん:ちょっといらんと思うわ、真祈りだけで。必要あったら物は来るし、必要なければ食べなくて生きてるし、 それも必要なかったら。

河上さん:でも、お腹すいて辛抱できへんいう人のために。お腹空いたら食べれるようになる。ちゃうか(笑)。ほんで、最後は粘土食べなさいと仰ってた。珪藻土ね。あのねばっとした粘土。

宮野さん:七輪の元?

河上さん:そうそう、粘土で生きていけるから。先に僕はそうなる前にあっち行くから大丈夫やけど、みんな大変やなとか言って(笑)ちゃうか。

宮野さん:そうはいきませんね。

河上さん:なんでや。もうとことん使い切ってるで。

ほんなら、質問なければお祈りして終わります。良いですか?


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11月護摩 by 河上あきのぶ [Mail] 2023年11月11日(土) 02時15分
PC

11月護摩焚き河上さんのお話
 宇宙神ありがとうございます

 令和5年11月護摩焚きで河上さんがお話してくださった内容です。

司会者
 宇宙神ありがとうございます それではここから河上さんに質問させていただきます。事前にお預かりしておりました質問は2つあります。ありがとうございます

質問1
 印可書を奉読する際、同じ箇所で詰まってしまうことがあります。何かしらの意味があるのでしょうか?

河上さん
 ありがとうございます またお会いできて嬉しく思います。

 印可書で詰まるというのはですね。後ろの縁者の方がもう一度そこで、最初から繰り返さなくていいですけども、そこを繰り返して欲しいと言うことです。だから納得いくまで、その詰まったところを何回か繰り返されて奉読していただいたらいいと思います。

質問2
 以前の河上さんのお話の中で、真(まこと)の言葉を駆使することが大切で、たとえ虚の世界でのプラス言葉を使っても、それは結果的には、マイナスになるようなことを確か勉強会でおっしゃっていたように記憶していますが、自分は夜、その日に起こったいいことや感謝したことを思い出して、それを日記に書いたりしますが、そのようなことも虚の世界に囚われることになるので、書かないほうがいいのでしょうか?

河上さん
 基本的に書く必要はないんですよね。日記というのは何かというと、過去を掴むじゃないですか。過去を掴むというのが、虚の世界のプラスの言葉ということになるんです。どういうことかというと、真(まこと)のプラスの言葉というのは一瞬一瞬新たに受け直してバン!と爆発したとこみたいな感じですね。

 その一瞬一瞬新たに受け直してバン!と爆発したのが、ふわっと枝分かれしていくわけですよ。それが、この世のいろんな赤色黄色から、いろんな姿とかいろんな働きとか風の働きとか、太陽の働き、いろんなもう、この現世の姿の全ては、その一瞬一瞬新たに受け直したとこから広がったとこなんですね。

 この広がったものを例えば、木の枝が広がって葉っぱができて散っていくじゃないですか。その(散った)葉っぱをもう一度集めて一つにしようと思っても無理でしょ。そういう感じで、その過去を掴むというのはそういうことなんですよ。済んだことをどうこう弄ろうと思ったって済んでしまってるから弄りようないわけです。でも日記に書くというのは、その過去の経験に基づいてどうこうしようという意識があるわけですね。

 それは、知恵の木の実を食べるというんですけれども、いわゆる輪廻転生の世界に落ち込んでいく最初のスタートなんです。輪廻転生の世界、因縁因果の世界とも言うんですけれども、因果の輪を断ち切らないと悟りに入らないんですけども。ほとんどの人は、自分の経験に基づいて、これしたことが自分が正しいからこの正しいことを今後もしようとかね。そういう感じで経験に基づいて、だから年長者が偉そうに言うわけですよ。「俺の方が経験豊富だから、わかってるから」みたいになる訳ですけれども、そうじゃない。「一瞬一瞬新たに受け直す」というとこが大事なんです。

 その「真(まこと)のプラスの言葉を駆使する自分」というのは、「一瞬一瞬新たに受け直す自分」なんです。その「一瞬一瞬新たに受け直す」というのが言葉ではわかるけども、具体的にどうするの?というとこでね、みんな答えれるほどわかっていないんですよ。なぜ答えれるほどわかっていないかと言うと「一瞬一瞬新たに受け直す」と言う言葉を説明し出すと何時間かかっても切りないんです。

 それは真祈りの伝授という部分で、言葉以前に響くもんなんです。それを不立文字いわゆる文字には立てられないって言ったりするんですけども、その部分を「印可書奉読」に全部ひっくるめて先生が変えて下さったんですね。そこだけを信じて「印可書」を奉読していただくと一瞬一瞬新たに受け直せるわけです。それを信じていれば奉読しているごとに、押し出されて自分のいいと思うものも悪いと思うものも神さまにお返しできるわけです。

 神さまにお返しすることを絶対奉仕と言うんですけども。お返ししようと思うと一瞬一瞬新たに受け直さないと循環しないから返せないんです。それなんです。それを日記に書くということは、返さずに持ってるということ、だからあんまり良くないという意味です。ありがとうございます

司会者
 はい、ありがとうございます では、事前にお預かりしました質問は以上です。会場の皆様の方から何か質問ございますでしょうか?どうぞ。(会場からの質問はありませんでした。)では、お願いします。

河上さん
 ありがとうございます あの、質問がないようなので。例えば、いよいよこう、 この世的な姿ではですね、あの大変な状態にウクライナのことでもイスラエルのことでも、誰の目にも見えてきたわけですね。それを、その形の上を掴んで、どっちがいいとか悪いとかと責めてるうちは、もう因縁因果の世界なんです。さっきの言う経験に基づいてどうこうということなんですね。

 だから、そこをどうするかという、形をどうするかということをいかにやめれるかにかかってるんですけど、あのなんて言うんですか。こう、分けて考えてなんとかしようという意識が基本的に皆さんあるわけですよ。それ何かって言うと、その何がそこで問題が起こるかというと、分けて考えたら責めちゃうんです。面白い奴と言えずに、あんな奴って言っちゃうんです。ところが、あんな奴と言うとね、自分も苦しくなるんですよ。なんでそうなるかというと、本当は、すべては完璧な一つというのがね、そっから誰も逃げれないんです。

 みんな自分と他人は違う、よその家族は違う、外国の人は違うって思い込もうとしてるだけで、 泣いても笑ってもすべては完璧な一つなんですよ。そっから逃げれないから、責めると自分が苦しくなる。本当に他人だったら気にならない、責めるもないんです。

 例えば、わかりやすいことで言うとね、まぁ人間とニャンコさん、人間と犬さんとか、要するに動物と動物がね、なんか面白いことしても責めないでしょう。「あー面白いことしたいなぁ」とかね、「可愛いなぁ」とかだけじゃないですか。でも、人間同士だったら腹立ってくるんでしょう。それは、その一体感があるからですよ。人間と動物言うたら分けてるから気にならない、(でも、人間のことになると)どうしても気になる。

 例えば、ウクライナのことが気になる、人のことが気になる、あー言われるのが気になるっていうのは全部一体感があるんです。逃げようとしても必ず、すべては完璧な一つだから一体なんですよ。一体だから責めるということは、自分を責めてるから嫌になってくるの。もうそれに尽きるんだけども、一体でないとみんな思い込もうとして、この虚の世界を作ってる。

 本来この虚の世界を作るのは、まあゲームに降りてきたって言いますけど、要するに本来、いつも言うように学校としては一つだけど 運動会として楽しみましょうということで、赤組と白組に分けて楽しむわけじゃないですか。そういう感じで、自分を本来一つのものを、わざとこういう小さい自分だとかね、こういうスネ虫の自分だとか分けて、言葉で色付けして 楽しみに来てるだけなんですね。でも、完璧な一つからは逃げれないんですよ。

 その完璧な一つがあるから、自分を責め、人を責めてなってるんですけどね。そこが、あの、諦めてね、諦めて、もう完璧な一つだから、すべて真(まこと)の神さまだけって、先生は答えをおっしゃってくださったわけですけど、すべて真(まこと)の神さまだけって諦め切れると悟りなんです。

 すべて真(まこと)の神さまだけってわかると 一切の文句を言わなくなるんですよ。何があってもいいようにしかなってないってわかるんだけどね。それが分けて考えると文句ばっかりになるの。だから、いつもいつも自分が悟ったかどうかっていうのは、人から言われようが何しようが関係ないの(気にならなくなるの)。

 先ず、自分が本当に悟ってたら、一切の文句が(文句を)言わなくなります。先生のおっしゃる無条件の喜びと無条件の幸せが湧くだけなんです。なぜかというと、完璧な一つだから、すべて真(まこと)の神さまだから、いいようにしかなってないとわかるの。でも、小さい肉体側の意識で見ると、不都合なこといっぱいあるんですよ。それは、あの、いつも言うようにアリさんとゾウさんで例えますけどね。ゾウさんにとって、ゾウさんという大きい意識だったらちょっとの小雨でも、蟻さんという小さい意識だったら、もう水溜りでも大きな湖だし、洪水じゃないですか。そういう感じで、感じ取ってるだけなんです。

 だから、小さい肉体意識に閉じこもって楽しんでる時は、色々と文句があって、文句を言いながら文句を言う楽しみをしてるだけなんです、本当は。本当は文句を言う楽しみ、映画がそうでしょう。わざわざあの不幸な映画を見に行ったりして楽しむわけじゃないですか。なのに、その中に入り込んでるっていうんだけども、みんな本当は楽しみに来てるだけなの小さい意識にして。でも、どう考えたって一つなんですよっていう。そこを 諦めてわかれば悟れるのね。

 それが、今、理屈で説明しましたけども、 そういう言葉で説明したら永遠に何百時間ってかかるんで「印可書奉読」にまとめさせてもらいました。

 本当は「ありがとうございます」は悟りそのものって先生が、2014年頃ですけど、2014年頃も(2014年6月21日のお話)2012年頃(2012年6月30日のおはなし)も、もう昔ですけど、昔はいつも先生はそうおっしゃってくださったんですよ。「ありがとうございます」は悟りそのもの「ありがとうございます」を唱えてる時は、悟りそのものだっておっしゃってくださったのね。それを素直に「はい」っと受けてやれば、それで印可書なんかいらなかった。でも、そう言われても、それを受け取れない、あるいは信じ切れない、わからない、色々ありますけども。

 例えば、すべては完璧なる一つというとこもね。「そんなん私わかってないわ」と言いながら、そっから逃げれないくらい、潜在意識はわかってる。わかってるから辛いんです。人を責めた時に。

 本当に別のもんだったら、責めたって気にならないのね。それぐらい、この完璧な一つという部分を、諦めて受け入れてくださいという理屈で言うとね。でも、「そんなん言うたって、いや、あの人男やけど、私女やわ」とかね、「私、親やけど、あの子、(自分の)子供やわ」とかって、「違うやん」ってみんな思うわけですよ。思うけども一つからは逃げれない。

 だから、「この子勉強せえへんわ」って責めると自分もしんどくなるし、「あの人サボってるわ」って責めると自分もしんどくなるしっていうふうになるわけですね。その完璧な一つというとこは、理屈抜きの伝授の部分ですので、「印可書奉読」で、すっと入るようになってるということです。そこだけを、なんていうのかな、目指すか目指さないかですね。そんなんどうでもいいんよって。今さえ幸せだったらいいんだという人は、そういう自分が正しいと思うことで色々と努力してみたらいいんですよ。

 それで自分で努力してなんとかなると思ってるうちは、 やっぱり、自分で努力してなんとかしようとしないとね、自分の無力がわからないから、自分さえ努力したらなんとかなると、 あるいは、修行したら悟ると思う人は、やはりどうしてもそれをしないと気が済まない人はね、もうそれをされたらいいと思います。

 でも、素直に信じれる人は「印可書」を奉読するだけでフワッといっちゃうんです。もうそれだけなんですけどね。例えば、この虚の世界といえどもね、地球上のこのすべてのものは、 太陽のエネルギーを受けて生成されてるんですよ。動物もこの物質もすべて太陽のエネルギーで生成されてるんです。それは科学的にも証明されてるわけです。ということは、みんな太陽なのよ。わかります。太陽を元にして作っただけで、太陽として一つなの。太陽は神さまそのものですから、完璧な一つからは、この虚の世界でも逃げれない。ただ、完璧な一つだけど、いろんな、まあ、粘土、一つの塊の粘土をね、いろんな形にして楽しんでるだけなんですね。いろんな役割をお互い楽しみ合ってるだけなんですけどね。

 それは、理屈で言うたらそうだけど、そこは後は「印可書奉読」で伝授で受け取らないと得心できない。いろんな宗教団体が出て結局は宗教団体同士が、「うちが一番」と言って喧嘩するじゃないですか。それ、完璧な一つの部分を外すからなんですね。完璧な一つの部分のだけに、まとめてしまうと無色透明になるから、宗教団体、何々教とかね、そういうのが一切いらなくなるんですよ。

 もうただそれだけなんですけども、そこを理屈でわかろうとして分かる部分ではないんですね。なぜかというと、肉体という姿を持って楽しみに来てるからです。もうただただそれだけなんですよ。その肉体という姿は小さくした意識で楽しんでるだけ。例えば、あの、普段はこういう生活だけど、わざわざ映画館のスクリーンを見に行って、要するに小さい世界を見に行って、スターウォーズとかあるじゃないですか、ベンハーとかね、その世界を楽しんで行くわけですよ。

 でも、それを楽しみ行ってるだけで、映画館から出たら面白かったなぁ、良かったなぁ、悲しかったなぁで終わりでしょ。そういう感じで、皆さんの肉体そのものが皆さんの自分で自分のシナリオを書きながら、自分の世界を自分の肉体を通して感じ取ってるだけなんですね。ただただそれだけなんですけども、理屈でいうとね。

 それをもう「印可書奉読」にまとめるか「宇宙神ありがとうございます」にまとめるか「ありがとうございます」の十文字にまとめるかは皆さん自由ですけども、どの祈り言葉使ったって、すべて完璧な一つに繋がるように、繋がるというより、はっと気づくようになっています。だから、もうそれだけです。

 分けて楽しみたい人は永遠に分けて楽しんで、分けて楽しんでるうちは、どんどん身動き取れなくなるんですね。身動き取れなく。だから、悟りというのは、本当に自分が何もできないってわかれば悟りなんですよ。自分でどうこうできると思ってるうちは、色々とあがいてあがいて、段々とあの暗黒の世界に落ちていくんです。それをこの前はちょっと、はっきり言いかけたら先生に止められたんですけどね。

 結局は神さまの生命(いのち)と(すべてを)認めて(いたらいいんですけど)、死んだらですよ、死んだら神さまの生命(いのち)として認めてないものは全部受け取れないんです。だから地獄があるんですよ。で、もう全然神さまなんかあるものかって言うと、暗黒の漆黒の闇の世界まで、無間地獄とか色んな表現をしますけども、自分で降りていくの。認めないものは見えないから。

 まあ、この世界でもそうでしょう?例えば、食べ物がね、食べ物と認めなかったら食べられないじゃないですか。極端に言うと毒入りまんじゅうですよね。おまんじゅうに毒は入ってないけど、「それ、毒が入っていて食べたら死ぬで」って言われたら、もう食べられないでしょう?それくらい、自分で選んで決めて作ってるだけの世界です。

 じゃあ、神さまの喜びそのもの、生命(いのち)そのものの「印可書」を選び取って作れば、無条件の幸せを感じ取れると。それが最初の(本日の質問にあるように)、その虚の世界のプラスの言葉と真(まこと)のプラスの言葉の違いなんですね。だから、真(まこと)のプラスの言葉というのは、神さまそのものを表現してある「ありがとうございます」、「宇宙神ありがとうございます」、あるいは「印可書」を奉読すれば、スッてわかるだけなんですね。もう只々それだけで。虚の世界の言葉で遊びたい人は遊んでいただいたら良いです。

 でも、例えばモーツァルトとか色んな音楽があって、好き嫌いは別にしても悪いものじゃないというのは、みんなわかるんですよ。それくらい神さまの響きに近いものは幸せなんです。より神さまの響きに近いものが祈り言葉、先生が残された祈り言葉だから、それだけですけどね。あとは、皆さんの自由で良いわけです。

 例えば「じゃあ、南無阿弥陀仏はダメなのか」と言う人もいるわけですけど、南無阿弥陀仏で良いんですけども、南無阿弥陀仏を悟りそのものって受け取れない以上、限界があるんですね。「印可書は真(まこと)の神さまそのもの、悟りそのもの」、「『ありがとうございます』の十文字は真(まこと)の神さまそのもの、悟りそのもの」、「『宇宙神ありがとうございます』は真(まこと)の神さまそのもの、悟りそのもの」って受け取れないと意味がない。

 あまり短いと皆さん受け取りかねるから、「印可書」という説明文を先生持ってきてくださったわけです。冒頭に「絶対の中心、無限大の外遥か彼方」って言って小さい自分の意識をね、無限に広げちゃうから無条件に。それでスッと受け入れてわかってくるというだけなんですけどね。

 「宇宙神ありがとうございます」だと小さい意識の自分を無限にフワっと広げにくい。本当は「『宇宙神ありがとうございます』は真(まこと)の神さまそのもの、悟りそのもの」って先生がおっしゃれば、無条件に小さい自分が消えないとあかんねんけど、なかなかみんな頑固だからね。それで「印可書」で、自分で真(まこと)のプラスの言葉を自由意志で読むというというはね、奉読するというのは、自分の自由意志で選び取って読むから変われると。簡単に変わりやすいということですね。もう只々それだけです。

 神さまに対する絶対の信だけのことなんですよ。別に「印可書」を選ぼうが、「ありがとうございます」を選ぼうが、南無阿弥陀仏を選ぼうが一緒なんですけども、選び切れるかどうかというのは本人の自由意志なんでね。できるだけ無条件に選び取れるものをお勧めしてるだけということです。だから、どの宗教におられても大丈夫で、無条件に小さい自分を無色透明に変えれたら良いだけなんですよ。

 でも、そこを要するに何十年(修行して)悟って、あるいは滝に打たれて悟るとかね、という感じで勘違いしてるから永遠に、あるいは座って悟る、座禅して悟るって勘違いしてるわけですよ。座禅したから悟るんではない、滝に打たれたから悟るんではない、修行したから悟るんではないというのをわからないとダメなんですけども。

 例えば、お釈迦さまが「苦行は悟りの因にあらず」っておっしゃてね。修行しても一緒なんだよっていうことを言うんだけど、あの時代から、もうおよそ三千年経つわけですけども、みんな受け取れないわけでしょう?それぐらい、マイナスの虚の世界のプラスの言葉に惑わされて、まあ惑わされてというか遊んでね、遊び回ってるだけということなんですけどね。

 いかに真(まこと)のプラスの言葉を自分の自由意志で選び取れるかだけが大切なところです。それを、それさえわかっていただけてたら、少々何して遊ばれて漆黒の闇まで落ちてしまっても戻って来れますので。やっぱり行きたい人は行きますから、こっちも止めようがないですけども。

 いかにすべては神さまの生命(いのち)そのものって受け取れるかだけなんですね。その辺が中々、みんな、なんて言うんかな、理屈で言ったら「あ、そうなんだな」って、今「あ、そうなんだな」だけなんですね。それが実感として涌くまでが大変で。

 例えばモーツァルトのピアノソナタ5番とか、11番、12番、13番なんてのは、もう凄く真(まこと)の神さまの光そのものがボンっと出てるんですね。音楽だとね、まだ聴いてゆったりしたとか、幸せになったとかね、清められたって感じ取れるんですよ、音楽だったら。

 ところが、祈り言葉になると途端にね、みんなこう、どこか構えるのね。音楽だと構えてる暇なく響いてきて楽しめる。本当は、「印可書奉読」も楽しめないと意味がないんですけどね。音楽だと理屈抜きで響いてきて楽しめるんだけど。印可書とか祈り言葉とか、あるいは南無阿弥陀仏もそうですけど、どこか構えちゃうんですよ、自分が。構えた途端に効果がなくなっていくの。

 音楽は聞こうって構える前に響いてくる部分があってね。音楽は祈りそのもの、それは歌謡曲でもジャズでも、クラシックに限らない。どの音楽もお清めの響きを持っています。ロックでもそうです。だから、みんな音楽を聴いてホッとするんでしょう。心が落ち着くわけですよ。それは清められるからです。でも、もっと強い清めの力が「印可書」にありますよということです。(印可書奉読は)只々それがプラスの言葉を駆使する自分、真(まこと)の本心の自分になるわけです。

 ここまでで何か質問があったらお願い致します。聞いてみて?

司会者
 はい。何かここまでで、河上さんに質問がある方はいらっしゃいますでしょうか?(会場から質問はありませんでした。)

河上さん
 すみません。ちょっと勢い良く喋り過ぎて申しわけなかったんですけども。本当にね、真(まこと)のプラスの言葉を駆使するという部分だけを心に入れて、やってみてください。もうとても祈り言葉なんか、もう無理なんだという人はね、もう音楽に浸ってください、先ず。音楽に浸ってたら祈れるようになってきます。それだけです。

 何と言うんですかね、結局おぎゃあと生まれてね、生存競争があって、自分の力でなんとかしないとどうにもならないんだという思い込みが、みんなあるわけですよ。その思い込みを、要するに自分の力でなんとかしようという思い込みを、どれだけ外せるかだけなんです。

 それって先生の言葉で言うと、絶対奉仕なんですよ。神さまにすべてをお返しするっていう。でも理屈で言ったらそうだけども、一瞬一瞬新たに受け直さないとお返しできないのね。その結局、「一瞬一瞬新た」のところで堂々巡りをするんです、いつもいつもね。

 それは、座禅の時でも、滝行の時でもそうなんですよね。滝行に打たれてどうこうという修行も、千日回峰行でもそうですけども、自分の力ではどうにもならないというのを気付くためにするだけなんですけどね。打たれたら悟れるんだとかね、千日走ったら悟れるんだとか言うと、もう条件が付いてるでしょう?条件が付いてるものは全部悟りではない。

 無条件というものにならないとダメなんですね。そこはもう不立文字で言葉にならないんだけども、それを「印可書」にしていただいているだけです。

 あとは皆さんの自由意志で、音楽を選ぼうが印可書を選ぼうが、どの祈り言葉を選ぼうが、もちろん自由です。ただ感覚的に言いますと、「印可書」を奉読されるのが一番近道でラクかなとは思いますけども。いつも言うように「宇宙神ありがとうございます」と、本当にその中に自分に一切の思いを包み込んで、お祈りして神さまにお返しするんだということを、(それが神さまのお手伝いになるんだ、神さまの)お手伝いするんだって。

 お返しするというのは、神さまのお手伝いをするんだということなんですよ。これだけ返すからなんとかしてくれというのは、もうお手伝いではなくて、それは取引なんですよ。取引というのは何かと言ったら、神さまより自分が偉いということなんです。みんなそれに気付かないんですよ。

 だからほら、神社でお賽銭をあげて、絵馬を描いて、何々大学に合格しますようにってやってるじゃないですか。あれって取引なんですよね。それって神さまをこき使おうとしてるでしょう?そういう点で、もう意味がなくなるんだけど。今までは、もうそこまでしか人類の意識がいかなかった。

 でもいよいよ、皆さんも肌で感じるように地震が今にも起こりそうだし、もう戦争も今にも大きくなりそうだしね。大変なことになっていますから、「印可書」を選び取っていただきたいですね。

 イスラエルのことは色々と深い事情があるんですけど、今日は質問もなかったし、わざわざ言うことではないので言わないでおきます。ただ、皆さんの真祈り次第で、より小さく収まりますけども。お互いに戦争というのは、常にね、お互いに相手を疑心暗鬼で疑って、恐怖感で起こしてるというのを知ってください。

 恐怖感というのは何かと言うと、お祈りができていない、神さまを信じ切れないから恐怖感があるわけです。だから昔、日本で今、なんとか家康ってやってるじゃないですか。日本の戦国時代もあったわけです。あの時でも、それぞれの領地でみんなが仲良くしてるけども、隣は何をしてくるかわからないと言って不安感ですよね。不安感で争いになっていくわけ。その不安感は真祈りの完璧な一つというのがわからないと消えない。

 でも、本当の救いは最初に言いましたように、泣いても笑っても完璧な一つから逃げられないんですよ。もうみんなの潜在意識は完璧な一つというのを知ってるの。知ってるから責めても何しても苦しいの、ということがあるわけで。そこさえわかっていれば、あとは、どの祈り言葉を使って、その完璧な一つに溶け込むかだけです。ともかく溶け込んでください。溶け込むしかないんです。理屈じゃないの、それだけ。

 溶け込むためには、真(まこと)のプラスの言葉を駆使しないと溶け込めないということです。もう只々それだけです。あとは皆さんの自由意志で選び取ってください。

 また来月お会いできることを楽しみにしています。ありがとうございます

 音声はこちらからどうぞ
 https://youtu.be/NKBWZ9GbRec

 宇宙神ありがとうございます

じょうし


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11月光の交流会 by 河上あきのぶ [Mail] 2023年11月11日(土) 01時44分
PC

令和5年11月光の交流会
 宇宙神ありがとうございます

 令和5年11月 光の交流会で聴いていただいた、先生のお話 「我(が)」を先ず自分で叩き潰そうとしないと!(YouTubeありがとうございますmt no188より)です。

質問
 先生の質問なんですけど、自分の大きな我を真(まこと)の神さまに捧げるということについて、そういうマイナスを捧げていいものかっていうのがわからない?

先生
 そんなん、悪い、捧げたらあかん。同じ捧げるのは自分で我を叩き潰して粉微塵にして、小さいものに変えて、煙ぐらいに変えて神さまに返していかないと。大きいまま捧げてもそんなん迷惑よ。

質問者
 そうですよね。

先生
 だから我を叩き潰すのは自分よ。人に叩き潰されたら文句言うじゃない。我を出した時に叩かれたら文句言うじゃない。自分が叩くんだったら文句言わない。我を消すのは自分の責任よ。自分が一生懸命消そうとしたら応援してくれる。そしたら周りから頭叩きに来る(笑)。

 その時に喜べるかどうかじゃない。特に虚栄心の我なんて、なかなか消えない、気づかないから。その時にコテンパンに悪く言われたら、我を虚栄心の我を叩き潰しに来てくれてる姿じゃない。それ喜べないともう神さま消して欲しいなんて願ってないじゃない。

 そうでしょう、虚栄心の我が出た時こそ一番大きい我を消そうとして、コテンパンに言われて叩き潰してくれてる時じゃない。それ嫌やって言うたら、自分は消していらないって頑張ってる、消そうとしてない。

 大きい我を消してちょうだいなんて言うてるのって嘘よ。消して欲しい言うのは、叩き潰して粉微塵にして消して欲しいっていう意味よ。勝手にすっと消えるんじゃない。一回作り上げた、そうでしょう、大きいお城でも全部潰さなあかのよ、大きい我の虚栄心の我のものはね。物凄い大きい我のお城があるんじゃない。それを本当の意味で消して欲しいって言ったら、全部粉微塵に叩き潰さなあかんじゃない。焼き払わないと、どれだけ大変か。

 先ず自分がそれを我を消そうとしていかないと、自分が消そうとしないのに誰も応援しない。助けてくれないよ。だから自分で自分の頭を叩き潰さなあかん。我が出たらハンマーでガツンと我が出るたびに出てくるよモグラ叩きみたいに引っ込んで、また出てくる。だから叩き続けて、叩き潰すまでいかないと油断したら出てくる。それでも消えるんと違うよ、まだね。こう、叩き潰したのを小さくして、小さくして、それで神さまに捧げたらいい。そしたら消してくれる。

質問
 小さな我でも、どうして捧げていいでしょうか?

先生
 見えないぐらいに小さくしたら捧げてるの。お祈りさえ神さまに捧げたら、その流れの中へ埃や煙ぐらい一緒にすーっと入っていって消える。大きい岩じゃダメなのよ、頑固な大きい岩だったらついていかない。お祈りにくっついていかない。先ず小さくして、お祈りの光の流れの中へ入れたら全部すーっといってしまう。

 だから、我を自分が消そうとしたら我を叩き潰して小さくしているから、それでお祈りしたらすーっと消えていく。流れですーっと流されて消えていく。ところが自分が我を残したままだったら、大きい我はお祈りしたって消えない。

 先ずお祈りの力が弱いから押し流されない。本当の真祈りまで祈れる人だったら、先ず我がない。大きい我があったら真祈りまでいってないじゃない。だから祈っても流れがないじゃない。大きい岩みたいな流せない。山のようなものは絶対流れない。だから、先ず我を小さくすること、叩き潰すことよ。どんな我出ても自分が叩き潰さなあかん。

質問
 叩き潰すっていうのは、その現実に出てきてもそれを無視する?

先生
 無視するんじゃない。叩き潰してもらうことを喜ばなあかんやん。マイナスが一杯出た時に喜ぶことじゃない。人から悪く言われても何されても、どれだけ意地悪されても何されても喜ぶことじゃない。これは叩き潰すことよ。嫌がったらもう叩き潰せない逃げてるじゃない。

 だから喜び続けることじゃない。人に悪口言われたら、意地悪されたら、 喜び続けたら、我を小さくしてるんじゃない。それできなかったら、我を大きくしてる。自分の我を大きく出してるじゃない。大きくなるだけじゃない。

 だから、他を責めたり言い訳したりする時は我を大きくしてる。自分の我を守ってるからよ。虚栄心の我をしっかり守ってると大きくなってる。どっちの見方になってるかよ。我を消す方だったら、我をやっつける方に回らなあかん。

 だから、自分の我を叩き潰してもらうんだったら、周りから一杯マイナスの言葉浴びせてもらう方がいい。コテンパンにやられたらいい、小さくなっていく。絶対言い訳なんかしたらダメよ。言い訳した時は、自分の我を守ろうとしてる。守ったら大きくなる我が。

 だから、「ありがとうございます」って受けて喜ばなあかん。意地悪されたら喜ぶことよ。そしたら我が小さくなる。お祈りしてたら、そのまますーっとお祈りの流れで流れるから消える。先ず小さくしてお祈りすることよ。そしたら必ず消えていく。

 難しくない、一番いいのは針でつつくことよ。風船みたいなものよ我って。我って実態ない、風船みたいなものよ。チクリと刺したら風船がバーンと破裂して潰れる。本当に消そうと思ったらそうよ。だから、チクリと一瞬の痛みだけで消える。だから、我が出た時に突き刺してもらえばいいの。一言のキツイマイナスの言葉(笑)。これを喜んで受けたら風船玉が破裂して消える。どんな大きい我もどんどん消える。

 だから褒められたらあかん、褒められたら消えない。悪口言ってもらうことよ、頼み込むことよみんなに。もっと言ってもっと言って、意地悪して、悪口一杯言ってって言わなあかん。それを喜んで受けれるようになったらもう絶対負けない自分。

 断食もそうでしょう。自分からするから断食って苦しくないよね。でも、食べたいのに食べられないって言うて山なんかで遭難したら、すぐダウンするよ。逃げてるからよ。だから、マイナスの言葉から逃げたら自分が弱くなる。自分からマイナス言葉求めたら強くなる。

 だから、マイナスの言葉を一杯浴びせてもらったらいいの。これでもか、これでもかって、もっと言ってもっと言ってってね。一杯浴びせてもらったら強くなる。そしたらすぐに我が消える。何を言われても「ありがとうございます」になったら消える。

 この言葉だけ違うよ、何をされても「ありがとうございます」にならないとダメ。ポカンと殴られても「ありがとうございます」 足を踏まれても「ありがとうございます」 殺されても「ありがとうございます」 ここまでいかないとダメ。そしたら、我がどんどん消してもらえる。

 みんなこれ、我を消す、思いを消す修行みんなしてるのよ。本当に我を消し、思いを消した人は何があっても「ありがとうございます」の練習よ 。何を言われても「ありがとうございます」どんなことされても、どんな仕打ちを受けても「ありがとうございます」よ。それで我が思いが消える。それ以外消す方法ないよ。甘い生き方で消えるわけないよ。

 もっと言ってって頼んどかないとあかんみんなに、面と向かってだけだと足らないから陰でも言っておいてって(笑)。陰でも悪口一杯言ってって頼んどかないと損よ。面と言われたら腹立って怒る。陰で言われても勘ぐって腹立てて怒る、こんなんあかんよ。我を増やしてるだけ。面と向かってもっと言ってって言わないと陰でももっと一杯言って言うておく。そしたら、我がどんどんいつの間にか消えてないの。

 悪口言われて文句言うてるようだったら恥ずかしいでそんなんね。せっかく助けてもらってるのに、我を消してもらってるのに、罰当たりって。だから我が消えない。我の心が一番苦しい。

質問
 嫁さんから言われたチクリとする言葉に、それで2週間、口聞かなかったんです。今でも、そんな状態なんです。

先生
 いい勉強よ。

質問者
 もういい勉強させてもらってます。ありがとうございます

先生
 喜び続けたら大きい我が消してもらえた。

質問者
 喜べない。喜びます。

先生
 喜ばないとな、喜ぶことで自分が我を消そうとしたことになる。どっちを選ぶかっていうの。

質問
 言う方はどうなんですか?言う方は神さまから使われてるんですか?悪口を言う方は?

先生
 言う方、そんなん神さまが使ってるか、その人が言ってるか違う。我を消して欲しいって、我を消して欲しいって言う人にとったら、神さまが人を使ってそう言うてる。我を消して欲しいって言う人のために神さまがそういう姿を取ってるだけの話で、言う方は関係ないじゃない。もしその人がマイナスの言葉を言ってる言うんだったら、マイナス積み重ねてるじゃない。みんな違うよ。

 神さまが使うか使わないか一人ひとりに合わせてしか神さま働かないじゃない。人がマイナス言葉使うようだったら、マイナスを選んでるんじゃない。悪く言ってるんだったら自分も悪く言われるよ。マイナス一杯積み重ねてる。神さまに使われて悪く言ってるなんてありえないよ。そんなんと違う。

質問者
 神さまに使われてる場合と自分がマイナス・・・

先生
 神さまに使われるというのはそんなんと違うよ。神さまが使うのは本心の自分を使うんじゃない。肉体の自分なんか使わない。神さまは本心の自分を使ってくれるんじゃない。そして必要な姿を取って助けるんじゃない。必要な人にとったら、そういうマイナス消してもらってるような姿を取るんじゃない。他の人は無関係、その人だけの話よ。その一人の人のためだけに神さま必要な姿を取って消す。他の人は別な働きよ。他の人は本当に自分の我を消して欲しいんだったら、また別の姿で出るんじゃない。自分がマイナスの言葉を使ってるようだったらマイナス積んでるじゃない。

 そんなんまだまだ自分と真(まこと)の神さまと一対一の関係、全然わかってないからじゃない。自分の他に他人が一杯いてて神さまそっちのけじゃないそれ。そんなん自分が一番低い心境よ。鏡に写ってる姿を自分の姿とは見てないだけの話しよ。自分の他に人がいてるって錯覚してるんじゃない。人なんかいてない自分の姿じゃない全部。

 鏡に写るのも人の目通して見るのも、みんな自分の姿じゃないマイナスは全部。真(まこと)の神さまとして見る時だけが自分にとって真(まこと)の神さまのすがたが降りるんじゃない。その時は悪く言われるほど自分の我を消してもらってるって受けるんじゃない。人ごとのように「あの人が悪く言ってる」ってそんなことありえない、そんな神さまそんなん働いてない。そういう姿全部自分のマイナスの姿よ。

 真(まこと)の神さまを一対一で認めたんだったらそういう言い方しないよ。周りの鏡に写る姿が全部自分の姿って言わないと間違ってる。

質問
 相手を責め裁く話なんですけど、仕事上、部下がした失敗をついつい言って注意をしてしまうんですけど、それが同じ失敗を何回も何回も繰り返すので、ついつい強く言ってしまうんで、それ、もう神さまを完全に無視した悪いことですか?

先生
 そうそうね。

質問者
 わかっておきながら、またしてしまう。

先生
 どこまで神さまを徹底して認めるかよ。それも自分が一番どれだけ謙虚になれてるかって、これも試される時もある。もし謙虚に謙虚になるんだったら、すべてのマイナス、自分のマイナス振り替えて、消してくださる神さまのすがたって見ないとダメ。その失敗が自分のマイナス消す神さまの振り替えの姿だったら、ありがたいだけになる。何回も何回も消してもらって「ありがとうございます」

 もし自分が失敗して消さんなんってなったら大変よ。本当は一つのマイナス消すだけでも、自分の身の上に現して消さんなんかもしれない。マイナスって必ず形に出て消えていくよ。万分の一の姿とってでも出てくる必ず消してもらう時でもそうよね。

 だから、どんなマイナスも自分が全責任持って、そのマイナスを引き受けますって言わないと、まだ大きい自分になれてないかもしれない。その時に、大きい自分になった時に、そのマイナスどう消すかは、これも神さまに任せないとダメ。神さまがいろんな姿で出てきて、マイナス消すための姿をとるかもしれない。

 根本は自分のマイナスって認めないと、そして、神さまの助けで消してもらうっていうふうに言わないと自分がマイナスを積み重ねる可能性もあるよ。消してもらうか積み重ねるかって大きい違いになる。

 消してもらう方法は、謙虚になって神さまに縋(すが)るだけ。そしたら、全部自分のマイナスって認めて、そして神さまに振り替えてもらってるって喜ぶだけ。そしたら、自分のマイナス必ず消してもらえる。

 神さまのすがたは神さまのすがた。

質問者
 ありがとうございます

先生
 でも本当に悟り開きたいと思ったら借金全部消さなあかんのよ。借金ほっといて上へ上がれない。これ、みんな鎖で繋がれて引っ張られるから、上へ上がれない。だから、すべてのマイナス消さないと自由になれない。だから、そのマイナス消す時も、できるだけ早く短期間に楽にっていう時は、自分が全責任持ってマイナスを引き受けて、それでそれを神さまに預けることよ。

 縁者のどうのこうの違う、先ず自分のよ。自分が先ず全部消してもらって、本心に戻って人のことはその後よ。神さまのお手伝いで他を救うのはそうよ。先ず自分を救わないと、他を救う力なんかない。だから他人のマイナスを自分がって言ってたら間違う。どんなマイナスも先ず自分のマイナスって認めないと、そこで引っかかったらもう上がれない。マイナス掴んだら周りの自分で終わってしまう。

質問
 護摩焚きに何回も来てても、そうやって引っかかる時があるので、何で引っかかるのかなぁって思う。我が強いから引っかかってる?消えてないから?

先生
 それで無限のマイナス、無限の我があって、無限の借金があって、無限のマイナスがあってっていう時に短時間でどういう消し方できると思う?一回で全部消えると思う?十回で消える?百回で消える?一万回でも消えないよ。同じことずーっと出てきても、一万回出てきた?

質問者
 いえ、積み重ねてるばっかり。

先生
 いやいやいや、その消してもらってると見ても、十回出てきて消えるか?一万回出てきて消えるか?一億回出るかもしれないよ。そしたら、十回で消してもらったら、飛び上がって喜ばなダメよ。神さまが大きく働いて消してくれる場合でもそうよ。一回で消えたって喜んでも、まだ消えてないかもしれない。奥にあるのはわからない。

 だから、一回出て、二回出たらもっと喜ばなあかんよ。もっと大きく奥から出てきて消してもらってるって言わないと。十回出たら飛び上がって飛び上がって、転げ回って喜ばなあかんよ。こんなにたくさん大きく消してもらったって、本当に奥からの全部消えてるよ。だから、喜び方がないと神さまの助け受け損なってる。

 本当、喜んだ時だけ、神さまの助けが大きく入ってきてる。後からでもいいよ。喜んだら入ってきて助けてくれる。その時は喜べなかっても後で喜べたら同じ効果がある。みんな喜ぶ練習だから。とにかく嘘でもなんでもいいの喜んだらいいの。喜ぶ真似でもしたら効果が出てくる。

 でも、人のことに引っかかるようだったら、まだ心が本心になってない、不動心になってない。偽物よ自分がまだね。だから、それ試されてると思えばありがたいばっかしよ。本当の本心に戻る、不動心に戻るって言うんだったら、「あ、まだ足りない」と思ったら、もっともっと真剣になれる。

 だから、大きい試し受けないと本物かどうかわからない。何が出てきても、心揺れ動かない自分にって大事。あ、いつも喜んで喜んで受けられたらいい。まだ言葉だけなの意地悪されるの、ポカっとバットで殴られるとか(笑)。足で蹴られるとか、そのぐらい頼まなあかんか。バットで殴って(笑)、蹴飛ばして言うて。

 本当は真(まこと)の神さまの愛の働きだけがあるんだけど、こう、一対一の関係忘れると、神さま以外なんか飛び出すのよ。真(まこと)の神さまだけって、定めたら全部ありがたいだけになる。

 音声はこちらからどうぞ
 https://youtu.be/uH1geb5eouE

 宇宙神ありがとうございます

じょうし


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10月勉強会 by kawakami 2023年10月11日(水) 18時13分
PC

令和5年10月河上さん勉強会−1(20231008−1)  

質問:宇宙神ありがとうございます。神書P286頁「本心の心をしっかりと生きようとすること」の項目の中から2点の質問をお願いします。一つずついきます。
「過去の惰性に流されるのも、常に新しい力を加えてゆかないからです。」の中の、「常に新しい力」とは真祈りの事ですか?

河上さん:はい。真祈りというより、一瞬一瞬新たに受け直すことです、具体的には。結局、「一瞬一瞬新たに受けなおす」というところがね、みんな分かるようで分からないわね。それで、「一瞬一瞬新た」というのを、「絶対の中今を生きる」って言うんですけども、「今、今、今、今が、新たかに今が、今が」というね、「今、今、今」って言うわけですけども、みんな、この虚の世界の今を生きると勘違いする。それで、虚の世界の今を、だから現実の今を掴んでね、生きてるみたいに勘違いするから、分からんようになっていくわけですよ。

 で、「現実の今を生きる」というのは、どういうことかというと、まだ文句の出る状態ということです。「なんで?」とかね。「なんでこうなるん?」とかあるじゃないですか。もう悪口言われたとか、色々あるでしょう?どれにしても小さい自分という意識が残っていて、小さい自分という意識で自分が正しい範囲から逸脱したことは全部悪いことね。だから、お給料をたくさんくれない社長は悪い奴やとか、あるじゃないですか。うるさい、ちょっとのことで文句言う客は嫌やとかね。それはもう全部、今を生きてるようで生きれないんですね。その辺が、「絶対の中今を生きる」の「絶対」というところがね、「絶対」というのは何かと言ったら、「自分が正しい」が消えなくちゃいけない。その辺の部分が、先生は難しく書かれるわけですよ。なぜかと言うと、この部分というのは真祈りの伝授の部分で、言葉で説明出来ないわけです。

 だから、本当に一生懸命お祈りしてね、今を生きよう生きようと、こう、神書に書いてるように、生きよう生きようとしてね、どうしても出来ない、どうしてもやっぱり出来ないですって、本当に必死にやったら先生に聞けるんだけど、みんな途中で挫折して、うまく出来ないわ、先生だから出来るけど自分は出来ないわ、のレベルで終わるとね、仮に聞きに行ったって伝授が出来ないんですよ。本当に神さまに対して、絶対の信が持てる持てないではなくて、命懸けでね、神さまと向き合うということですね、まず自分があっても。その向き合うというところが、出来ないのね。

 で、神さまと、まっすぐ向き合えてるかどうかというのは、どこで分かるかと言ったら、思いの心というのは、なんでもストップをかける心なんですよ。それで本心の心というのは、なんでも加速する心なんです。今、そこの部分を言ってはるわけですよ。その動きを加速させる部分のところをね。だから「本心の心を生きる」が「絶対の中今を生きる」なんですけども。その「本心の心を生きる」とこが難しいのね。

 で、ほとんどの人は、例えばね、どこかに、ちゃんと整頓してモノを置いてあるとするじゃないですか。じゃあ、それを持って来て、なんかして、きっちりそこへ戻しに行ってするというのを、「邪魔くさいな」ってやっぱり思うじゃないですか?その「邪魔くさいな」というのが思いの心なわけです。で、先生のように悟りを開かれてね、神さまに対してすべてを投げ出してたら、邪魔くさいがないの。だから自分の小さい、自分が正しいの意識の中でね、一々これを、この道具を、ここやったら工具室に返しに行ってたら、その分の時間がね、手間で効率が落ちるからダメだとかね、要らんことを思わないわけ。

 つまり、常に定量、定数、定位置という、整理整頓ってそういうことなんですよね。例えば、この道具は三つ置いてるとしたら、定数は三つだと。量るものだったら定量で200gのものが一つだとかね、あるじゃないですか?定量、定数、定位置といって、必ず定位置に戻すというのが本心の心なんですよ。戻すことを邪魔くさいとか、効率が落ちるとか思わないの。思わないと本心の心を生きているの。

 ちょっとでも邪魔くさいなと思うと、あるいは道にゴミが落ちててね、ちょっと拾うのが邪魔くさいから、部屋に落ちててもね、ちょっと置いとこう、先にこれをしようなんて、仕事優先で効率優先で、これをしようなんて思うのが、もう思いの心なわけ。

 って理屈では説明出来るんだけども、あ、そうなんだなとみんな納得するけども、じゃあ本心の心を生きるってどうするの?っていうところで、みんな、つまずくわけです。あるいは一瞬一瞬新たに受けるのはどうするのっていうところでね、みんな、つまずくんだけども。それで新たに生きよう生きようとしてね、先生がいらっしゃる頃でしたら、生きよう生きようとして、本心の心で生きよう生きようとしてね、やるんだけど、出来ないですって、本当に必死でやって、出来ないんですって息切れしてね、(そこで必死に)先生に質問したら、ポンっと伝授があったんですけども。そこまでみんな、自分を追い込むというか追及できなかったんですね。

 で、もう、殆ど出来ないなって、先生と二人でね、結局真祈りしかないなと。でも最後の1%は、やってもらわないといかんから、その1%を誰もが出来るようにしようということでね。でまあ、緩やかな真祈りの伝授ということで説明させて貰ってるわけですけど。印可書を奉読してたら、本心の自分を生きることになるよというとこをね。

 本心の自分を生きるというのは神さまのお手伝いをするということです。絶対の中今に立って、光を出す側に入るからね。思いの心というのは、太陽を外に見て、自分が光を受ける側ですけども、絶対の中今、本心の自分というのは、太陽の中、神さまの中に入って、光を出すお手伝いをする側になるわけですね。で、それを印可書を奉読したら、そうなるよということを信じて頂いて奉読したら緩やかに進めるからということで、なってるだけです。

 神書はね、全部わざと、ある意味難しく書いてある。難しく書いてるというより、言葉では理屈では伝授出来ないから、こう書くしかないわけですよ。で、その一瞬一瞬新たに受け直すというところですね、絶対の中今を生きるというところ、本心の自分を生きるというところは、もう印可書の奉読に先生は言霊で定めて頂いたわけです。

 もちろん、「宇宙神ありがとうございます」にすべてを投げ込むということでも、定められてるわけです。それは、真(まこと)の神さまと一対一になるというのが、「宇宙神ありがとうございます」の中にすべて投げ出すという意味なんですよ。だから、どれを選んで頂いても良いですけども、「宇宙神ありがとうございます」の場合は、いつも言うように、本当にちょっとでも文句が出たら、ちょっとでも邪魔くさいなと思ったら、その心ごと「宇宙神ありがとうございます」の中に投げ込まないとあかんわけです。

 それが、「宇宙神ありがとうございます」が出た時にね、「宇宙神」というのは、もう本当に銀河系の宇宙ぐらいにしか受け取らないのね、宇宙というのをね。先生が「真(まこと)の神さまそのもの」とおっしゃったわけじゃないですか。「ありがとうございます」の時でもそうおっしゃったんだけど、それを感謝の言葉しか受け取らないから、わざわざ、「宇宙神」を付けて頂いたわけですね。だから、「宇宙神」って付けたら、「宇宙神」って具体的に?ってよう聞けへんし、適当に自分の、小さい自分の意識のね、正しいという自分の常識の中で、小さい宇宙の神さまぐらいにしかとらないのね。

 でも、先生は「『宇宙神ありがとうございます』は真(まこと)の神さまそのもの」と仰ってるわけじゃないですか。「もう自分は、やっと分かったわ。『宇宙神ありがとうございます』だけや。」って言って、仰ってくださる。「宇宙神ありがとうございます」だけやって先生が説明されたっていうのは、「『宇宙神ありがとうございます』は真(まこと)の神さまそのもの」って言われたことなんですよ。

 で、それが、そう言われてることにすら気付かないくらいね、みんな「助けて欲しい」が先で、自分が神さまのお手伝いとか、投げ出すとかいうところまでに行かなかっただけなんですけどね。

 でも、今でも「宇宙神ありがとうございます」の祈り言葉は生きてますから、ちょっとでも不平不満とか文句が出たり、あいつサボってるとか、いつも言うようにね、出たら「宇宙神ありがとうございます」の中に投げ込んでください。で、投げ込んでるつもりでも、投げ込んでないものがあるから、必死でもうやってください。そしたら「宇宙神ありがとうございます」でいけます。ただ、それではどこかでね、不安が残って、残ったらもう崩れるのね。だから不安も何もかも「宇宙神ありがとうございます」の中に投げ込まなあかんねんけど、投げ込むことは(投げ込むところは)自分の自由意志が要るわけ。その厳しさがあるわけですね。

 印可書は、只々、先生が定めてくださった、印可書ということで、これで読むだけがお手伝いで良かった良かったって喜んで読むだけでね、緩やかに入っていけるんで、印可書を言ってますけど、どれを選ばれても自由です。

 その部分なんですよ。真(まこと)の本心を生きる自分を生きれば加速する側に入るんです。思いの側を生きたらストップする側に入る。それを、流れが緩やかとか加速する側とかという意味合いで説明されています。ありがとうございます。

質問:同じページの「本心の心の自分は、その神さまの最高表現をお手本に、心の創造力を駆使して、自分の世界を表現し続けるものなのです。」の中で、「心の創造力を駆使する」とはどのようにするのですか?

河上さん:はい。それ、先生が生きておられる時に、先生に質問に行ってたら良かったのにね。そしたら、その人悟れたのにね。もったいないけど、もう今更あれですけども。

 心の創造力というのは、真(まこと)のプラスの言葉を駆使する自分のことです。もうそれに尽きるんですよ。やっぱり、本心の16項目がありましたね、あれも結局、質問に来るように、先生はあれを作ったわけですよ。でも誰も質問に来ないんだけどね。真(まこと)のプラスの言葉を駆使する自分って、どうするんですかって聞かなあかんねんけど、みんな聞くところまで駆使しようとしなかった。あるいは、真(まこと)の言葉って何かを突き詰めようともしなかったわけですね。

 だからフワっとしたままね、本心の16項目を覚えなさい、覚えたよで終わったわけ。覚えただけでどうすんねん。それって電化製品の説明書を見ただけみたいなもんや、読んでない。理解してないね。そういう感じなんですけどね。

 その「真(まこと)の言葉を駆使する自分」のとこが、もうみんな困り抜いてます。「宇宙神ありがとうございます」が真(まこと)のプラスの言葉なんだけど、信じ切れずにね、ウロウロしてますということは、先生には申し上げました。で、もう、これは真祈りしかないなっていうことで、真祈りだけでずっといかれるわけですけども。やっぱりということで印可書なんですね。

 もちろん印可書が先に出て、「宇宙神ありがとうございます」が出て、それで、改造の弱い印可書というふうになってますけど、流れとしてはね。今、説明の都合上、もう「ありがとうございます」のことを「宇宙神ありがとうございます」で言ってますけども。

 ともかく、もう99%、みんなの心を、先生は真祈りで、僕もお手伝いさせて頂きましたけど、お清めしといて、最後の1%を印可書ということでね。それも強い印可書では、よう受け取れないんで、「おまえ、弱めるの得意やから弱めえ」って言って、今の印可書にしてますけどもね。

 その、「真(まこと)のプラスの言葉を駆使する自分」というのを、本当は「宇宙神ありがとうありがとうございます」を呼吸に込めなあかんのです。「ありがとうございます」の十文字でもいいですけどね。吸う息にありがとうございます、吐く息にありがとうございます、あるいは、前に説明しましたけど、ありがとうで吸って、ございますで吐くとか、やり方は色々あるんですけども。宇宙神で吸って、ありがとうございますで吐くとかね、あるんですけど。

 ともかく、自分の全呼吸に込めなくちゃいけないんですよ。それは思い出した時にね、呼吸に「宇宙神ありがとうございます」って言ってるのは、それ込めてるとは言わないの。言ってるだけ。もう本当にね、もう自分の呼吸すべてに「宇宙神ありがとうございます」って込めていくとね、もう、神さま、神さまだけになってきてね、フッと入るんですけどね。

 僕がそうだったから、説明してみたんだけど、やっぱり出来ない。出来ないからもう、こうなって来て…ね。

 2018年に先生が逝かれたわけですけども、もう2023年ですね。何年経ったんだみたいな感じですよ。「宇宙神ありがとうございます」って聞いてる人が真剣に込めてたら、もうこんだけの年数経ったらね、みんな悟れてる。石の上にも三年って言うじゃないですか。先生が真祈りの祈り言葉を定められたわけですから、三年間でみんな悟れるの、本当はね。印可書が出て、もう三年以上経ってるけどね。みんな一緒よ。どれもどれも、もっと真剣にしたら3年でみんな悟れるのにね。というところなんですけどね。もうその部分だけです。

 例えば、奥さんは印可書を反対してないけど、奥さんが反対されたから、私たちは選ばなかったという人がおるんですよ。じゃあ、今、奥さんが印可書を選んでおられるんだったら、奥さんを信じてるんやったらよ、奥さんが今、印可書を選んでんねんから、あなた方も印可書を選びなさいよって僕は言いたいけども、自由意志やから言いませんけどね。

 それくらい、みんな人のせいにして、奥さんのせいにして印可書はダメだって言ってるだけよ。そういうのを無責任っていうの。自分が本当に印可書を読んでみて、自分には、やっぱり無理やから、これとかね、決めるのが責任ある態度、総責任者の立場です。

 誰それが言ったからどうこうやったら、奥さんは今は印可書を選んでんねんから、みんな印可書を選ばんかい、おかしくないかい?っていう感じですけど、人のせいにしてる間はね、何も分からない。結局、自分が一番無責任でズルいだけ。誰それが言ったからじゃないよね、っていう感じ。

 それで、創造する言葉、要するに、いつも言うように、この虚の世界は、お一人お一人が自分の世界を作ってるだけなんですよ。で、それが重なって見えるから勉強になるだけ。だから先生のお作りになった完璧な世界を、重なって垣間見れるから、先生のところにみんな寄って来た、慕って寄ってきたわけですね。今も一緒なんですよ、みんなそれぞれ自分の世界を見てるの。

 だから同じ「宇宙神ありがとうございます」という言葉を見ても受け取り方がみんな違うのは、自分の世界が違うからです。その、自分の世界をどんだけ「無限大の外遥か彼方」って、印可書の冒頭にある、「無限大の外遥か彼方」まで大きく出来るかだけ。大きくなったら悟りなの。

 いつも言うように、インク壺が自分が正しいと思ってる意識だとしたら、琵琶湖が絶対の世界だとしたら、インクをポンっと琵琶湖の中へ落としたら、全部無色透明に戻るじゃないですか。無色透明の水にね。そのように、いかに自分の小さい意識を無限大に広げられるかが悟りなんですね。

 その無限大に広げるところは、神さまと真(まこと)の本心の自分という、神さまと同じ自分がね、言霊を使って広げるわけです。だから真(まこと)のプラスの言葉という、真(まこと)の本心の自分という、真(まこと)の神さまという言霊を使って広げなくっちゃといけない。

 それは「宇宙神ありがとうございます」、あるいは印可書です。どっちを使われても大丈夫です。

 ただ、「駆使」やから。「駆使する」やから。「宇宙神ありがとうございます」の時は、今言ったように呼吸に込め切って一切途切れたらダメです。僕はそれを11歳の時に、もう、先生は呼吸に込めなさいと言わんけど、自分で考えて呼吸に込めるしかないということで、やって込め切れなくて、泣いて先生に謝って色々あっただけですけども。「宇宙神ありがとうございます」を選ぶ人は今からでも遅くないです。是非、呼吸に込めてください。で、もうそんな難しいことできへんと思う人はね、いつも言うように柔らかく伝授できますから、印可書を隙間なく奉読。印可書が良いのはね、隙間なく奉読をしなくても大丈夫だからです。ひたすら印可書を読もう読もうとして奉読してください。それが創造する方法です。

質問者:ありがとうございます。

質問:質問二つあります。一つ目。前世の記憶

河上さん:はいはいはい。

質問:あるサイトの番組を見ていたら、人類は6回滅びていると紹介されていて、ここで聞いた話と一緒だと思って。普通は前世の記憶がないので分かるわけがないんですけど、ひょっとして前世の記憶が残っている人があるということですか。

河上さん:はい。あります。あるからややこしくなって余計迷うんねんけどね。なぜかと言うと、滅びたわけでしょう?滅びるくらい、みんな悪いことしたわけや。だから記憶があったら、こんな悪い自分はどうしようもないって言って、また自殺しちゃうからね。だから、基本的には記憶があるといっても、ちょっとしか出ないようになっています。それだけのものですね。で、過去を掴んでどうこう言うのは、もう、すでに悟りから遠い話でね。

 だから、今までの宗教が何がダメなのかと言うとね、過去を掴ますわけですよ。教えを立てる、組織を立てるというのは過去を掴むの。いつも先生がおっしゃるように、真(まこと)の神さまは、一瞬一瞬新たに、新たなる真(まこと)の神さまとして現れてこられるっておっしゃてるじゃないですか。ということは、その一瞬新たに現れた真(まこと)の神さまを表現した教えがあったって、次の瞬間には、もうそれは過去の教えで偽物なわけです。だから、教えを立てたらダメなの。あるいは組織も一緒ですね。真(まこと)の神さまの響きに合わせて、ある組織を作ったとしても、次の瞬間には、もう、その組織は過去のものなんですよ。その過去を掴むというのは、すべて偽物だし、迷う元なんですよ。

 だから、みんな、済んだことをね、掴んでどうこう言う人は永遠に迷うわけですよ。サラサラと流せる人がね、良いわけですけど。どこに流すかといったら、真(まこと)の神さまに流すんですよ。ということだけなんですけどね。そういう意味です。

質問:ありがとうございます。二つ目が、うちの町にもいるんですけど、行方不明になった人が見つからないんですけど。ひょっとして神隠しに遭ったかなと思って。その方々はどこへ行ったかのかなということで。まあ、どこへ行っても結局は神さまが救うから問題ないと解釈してもよいのですね。

河上さん:いや、神さまはいつもね、救うからじゃなくて、救い取ろう、救い取ろうとしてるんですよ。でも、本人の自由意志の問題なの。だから、ちょっと護摩の時に怖い話をしたけどね、

 何かと言うと、みんなね、神さまを拒否するんよ。例えば空気があるのは当たり前と思ってるでしょう?すると死んだ時は空気のない世界に持って行かれて、苦しむの。水や空気があるのは当たり前で、死んでからね。それで光があるのは当たり前と思ってるでしょう?そしたら死んでからは、当たり前ということは神さまを認めてないのよ、そしたら認めてない世界に行くの。真っ暗闇の。という感じで、その行方不明になる人は、この世的に色んな形がありますけども、

 別にこの世で行方不明にならんでもね、みんな死んでから行方不明になるの、真っ暗闇の世界に自分で降りていくの。要するに認めてないものは現れないの。この地上はね、少々何をしてもオマケがあるから、楽しめるけども、死んだら自分の認めてないものは一切見えないわけ。

 だから、目蓮(モクレン:お釈迦さまの十大弟子の一人)のお母さんてね、優しくて食べるものに困ってる人には作ってあげたりね、してたのに、餓鬼道に堕ちてるわけですよ。目蓮さんは、あんな優しい、誰でも助けるお母さんだから天国にいると思ってね、極楽の世界を探しに行くんだけど、いないわけね。それであちこち探し回って、初めて餓鬼道に堕ちてるお母さんを見るわけ。で、なんでね、餓鬼道にお母さんが堕ちてるかというのを、お釈迦様に聞くわけですよ。あんな優しいお母さんやったのに、なんでですか?みたいにね。その時に、お釈迦様がちゃんと目蓮さんには説明するのね。お母さんは、食べ物を神さまの命と思って食べてなかった、作ってなかった。だから神さまの命と思って食べ物を作ってないでしょう?食べてないでしょう?ということは、神さまの命として食べ物を認めてないから、食べ物のない世界に堕ちるの。たったそれだけ。

 で、みんな気いつけや。ほんまに印可書を奉読してないと、今当たり前と思ってるものは、死んだら全部なくなるからな。で、なくなるというより、自分が認めてないから、認めてない世界に降りるわけ。で、絶対無の真っ暗闇の世界でね、例えば、声が聞こえるのも神さまの命なわけですよ。でもみんな当たり前に思ってるやろ?だから絶対無の世界に降りたら声も聞こえへん音も聞こえへんの。見えてるのも神さまの命なの。でも思ってへんやろう?だから見えへん世界、真っ暗闇の世界に降りるの。自分の認めたものしか出えへんから。誰も、誰もオマケはないぞ。

 それで、すでに時間切れですので、次この地上に生まれてくることは、もうほとんど、大半の人はありません。

質問:最後?最終回?

河上さん:最終です。はい。ありがとうございます。
みんな、また生まれ変わって、なんかしようなんて甘い考えを持ってる人が多いけど、生まれ変わりはないのだ。

宮野さん:先程、「ほとんど」って言った。

河上さん:そりゃそうよ。印可書を選び切って奉読できた人は大丈夫や。当たり前や。神さまがすべて。真(まこと)の神さまがすべてっていうのが印可書ですから。印可書を選び取って奉読できてたら、すべて真(まこと)の神さまって無意識に思えてるから大丈夫やけどね。印可書を選び切ってなかったら、「食べ物」と思って食べてるわけやろう?な?神さまの命に立ってへんわけや。そしたら死んだら何もないで。自分が認めてないもん。すべて真(まこと)の神さまで、すべてみんな光やと先生は説明してるやん。

 でも光でないって決めてるわけやん、当たり前と思うことは。そしたら着るものもないし、温かいものもないし、寒い寒い真っ暗闇の世界に堕ちて、堕ちるというより自分が行くんや。認めてへんから。この服でもね、神さまの命と思ってへんやん。死んだら、神さまと思ってへんねんから、服もないわい。当たり前やろう?自分の認めたものしかないんやから。別に神さまが突き落とすん違うで、自分が勝手に選んで行くだけよ。

 ただ、今までやったら、三途の川があってね、それにもうちょっと気付くように、石積みをさせるわけよ。ああ、やっぱり神さまのおかげやってんなって気付かせるためにね、色々とあるんだけど。もうそれももう、いよいよどんどんなくなってきて、もう色々ありますけども。

 だから、いきなり暗黒の六日間が始まるというのは、そういうことなんですよ。みんなが神さまを認めてへんから、神さまがない真っ暗闇の世界に、みんなパンっと行ってしまう、自分でね。
 その中で真祈り人だけが灯台のように光るから、その光に向かって素直に来れる人は良いけども、あの光は怪しいって言って逃げる人が多いねんな。それで、あんまり眩しいって言って逃げるわけよ。怪しいというか、眩しいって逃げるから、ね、(それで)このたくさんの真祈り人を作って、強い光の人、ハイ、弱い光の人、ハイ、耳かきのような小っさい光の人、ハイって言って、先生が作れるようにして行って下さったから、印可書奉読してやってお願いするわけ。

 私の働きなんか大した事ない、じゃないんですよ。本当に線香のような光だから来れる人もあるわけ。その人達のためには、線香の光しか出せない人が要るの。

 僕はそんな器用なこと( 大きい光から小さい光までこまめにだすような器用なこと)出来ないから、出来る人にお任せするということです。みんなで真祈りして完成なの。誰一人、真祈りしない人がいたら未完成なの。もう、それだけなんです。

 だから私なんてじゃなくて、私のそのちょっとの光が要るの。その暗黒の六日間までいってしまったらな。で、そこまでいく前になんとかしたいから、一生懸命説明はさせてもらってますけど、自由意志で選ばんとあかんからね。

 だからもう、既存の宗教は全部ダメなんですよ。組織があって教えがあるから。過去のものを掴ませるから。相手の自由を縛るから。ここでもそうやね、河上の話は聞くな読むなという人がいてるらしい。それで相手の自由を縛ってね。結局、相手の自由を縛って自分が動けなくなって、死んでから自分で動けない世界に降りるんですけどね。

 自分が認めたことしか起こらないからね。みんな自由意志だから、別に僕の話を読むな聞くなって言うのも自由だし。それを聞いて受け取る人も自由です。

 でも、読むな聞くなって言われてね、無責任に言いなりになる人は、言った人以上に無責任だから、もっと下に落ちてるんです。説明だけはしときます。信じる信じないは勝手。僕の話や文章を読んでみてね、それで、これはやっぱり違うわと思ってしないという人の方がまだ正しいです。読みも見もせずにあかんと言う人は、大変罪作りです。だって無責任でしょう?ね?理由なく差別してるわけや。それは一番神さまから離れた心やからね。

 でも既存の宗教というのは大なり小なり、そういうことをするわけ。要するに、よその宗教を見たらあかんとか、あるやん?あるいは、よその神社で拝んだらあかんとか、あれがそういうことや。大なり小なりね。だから既存の宗教では、もうどうしようもないんだ。

 で、ここは、だから宗教ではないの。教えを立てない、組織を立てない。みんなが自由自在心で自由自在に、自分の意志で真(まこと)の神さまを選び取るだけ。選び取る方法は「宇宙神ありがとうございます」か「ありがとうございます」か、「印可書」か。「天之造化主尊」もあるし、「神の御光、御力」もあるし、やりやすいやつをね、自分の好きなのを選んでくれたら良いの。先生は沢山残していったから。ただ、やり易いのを説明させて貰ってるだけです。
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令和5年10月河上さん勉強会お−2(20231008−2)

質問:話は変わりますが、今年の6月に奈良市の富雄丸山古墳で 国宝級の発見と騒がれたものが出土しました。1つは縦型の銅鏡、鏡です。 もう1つは2メーターを超す蛇のように曲がりくねった蛇行剣(だこうけん)。とても興味を持ったんですが、何かこのことについてお話があれば聞かせてください。

河上さん:螺旋やろ、あれ。螺旋を描(えが)いてんね。ちゃんと公表されてへんけど、左旋回の螺旋を描いてんね。

質問:蛇行剣が?

河上さん:何が聞きたい?何が知りたいの?

質問:鏡と剣で、パッと三種の神器を思いついたんですが、それとは…?

河上さん:いや、だから、三種の神器はね、神武天皇が持ってたやろ?例えばな。その時に葛城の一言主の命様も持ってたんやろ?葛城一言主の命様というのは、具体的には過去世の先生の、 長髄彦さんやけどね。長髄彦さんも持ってたわけよ。お互いに天津彦であると宣言し合った時に、「じゃあその証拠を見せろ」って言ってね、お互いに出したのが同じものだった。

 それがどういう意味を成すかがみんなわからんねやろ?だから、入れ子構造やからね。その第6文明が滅びて第7文明が始まるように、第7文明の中でもね、 その新しい表現体としての王朝とね、交代するわけですよ。それだけなんだけどね、

 長髄彦さんが、地震が起こって、火山が噴火してね、まだその当時は地面がものすごい緩くてね、1日、2日の間に50センチぐらい、地面が上下するような状態の日本だったわけですね。で、それを言霊を使って色々とされて鎮めて、仁徳天皇陵のあるあれをお作りになったわけですけども。仁徳天皇陵っていうのは、本当はもっと古いんだけどね、そういう意味ではね。あるんですけども、そんなんどうでもええね。

 ただ、そうして地固めした後を新しい人たちがやりたいということで任すわけです。その時に、まあ、西郷さんの時もそうですけどね、任すと言うけども、古い人間は、「わしら、長い間ここ住んでたのに、なんでどかなあかんねん?」ってなってね、色々と軋轢(あつれき)があっただけですね。それがいろんな、古文書で残ってるだけですけども。

 なんて言うのかな、みんなそれぞれね、1度は食べたい激辛カレーで、勉強、体験しないと納得しない部分があるから、色々と起こるだけです。要するに、いろんなゲームをして楽しんだだけみたいな感じやね。

 だから、その出土したのは、それ、いつの時代のかっていうのは、長髄彦さんの時代よりまだ前のもんで、 色々別にあるんですよ。で、柿本人麻呂であられた時に、最後の日本の、この日本というより今度は地球レベルでね、造り納め固めなせを成功させていかれた。

 で、最終完成で、今、先生と現れて、色々とされて、でも、その 本当の完成は、みんなが神さまのお手伝いするという、みんなが真祈りすることで、本当の完成だから。自分がいてたら、 自分に頼るばっかりで、真祈りしようとしないから、一旦引くけども、あと任すけども、とか色々あっただけです。

 それで、勿論、その前にね、この2人に負担かけないために、ここの後継者を作ろうと先生は たくさん苦労されました。順番に名前あげてもええけど、もう失敗した話言ってもしゃあないからね。それぞれみんな受け取り損ねたんや。護摩の時にちょっと説明しましたけどね。光を見たり、あるいは悟ったって言われた時に、その響きにすっと溶け込まなあかんのに。「自分が」が残ってるから、「自分が光を見た」とかね、「自分が悟ったと言われた」とかね。「自分がずっと祈ってる自分を感じた」とかね、言った時点で、それは虚栄心なんで。

 自分というのは虚栄心だから。虚栄心が出たら全部崩れるの。なまじ上の方にいてるから、滑り落ちるのも凄い。それだけです。でも先生は殆どの人に平等に、古い人にはちゃんとチャンスは 与えられました。どれもこれも失敗しただけ。

 「お前専属でこの2人見い」って見させられた人もあったし、僕も失敗しましたから。人のことは言えない。それぞれ最後の虚栄心でみんな「自分が」が出て崩れるの 。五井先生が仰る「一切文句を言いなさんな」というのは深い悟りなんです。

 だからそれをね、神さまがいつも1番良いようにしてるって僕説明してるじゃないですか。「何が起こっても1番良いようにしてる、神さまありがとうございます」って言えたら悟りなんですよ。でも、ちょっとでも「なんで怪我したん?」「なんで痛いん?」「なんでお腹空くん?」色々あるやん。みんな何でって出たら、もうそれは悟りちゃうね。自分があんね。虚栄心があんねん。分け隔てた意識があるわけ。

 いくら自分がお腹空いてて餓死しそうでもね、みんながお腹一杯で幸せやったらよかったと思える心が悟りです。「自分が」が無いから、自分の方のお腹すいたとか、今すごい、僕、熱ありますけど、熱あるとかは関係ないの。分かる?それだけなの。

 でもそれを理屈で言うたって「そうやな」で終わるやろ?で、真祈りの実践の部分で先生が実践出来るようにね、いろんな祈り言葉と「印可書」を残してくださっただけです。だから、ぜひ実践してください。

質問者:ありがとうございます

河上さん:時間切れでちょっと厳しいこと言ってて申し訳ないんだけど、ちょっとほんと時間切れで切羽詰まってるんでね。

 切羽詰まっても、皆さんは自由に自分の好きなとこ行くだけなんですよ。生きてても死んでてもね。ただ、今の状態で行ったら真っ暗な世界で自分で選んで行くでって言って、今、理屈で説明したわけ。

 全て神さまと認めへんねんやったら、神さまのない世界に堕ちるんや、真っ暗の世界へ。当たり前や、自分が選んで行くんやもん。自分の認めてるもんしか現れへんね。この現世だけはおまけで神さまと認めなくても 感じさせて貰ってるだけよ。空気として、光として、水として、食べ物として。はい、どうぞ。怖なってきたやろ?

質問:肉体がなくなった時のお話ですか?

河上さん:そうです。

質問:死んだ時の話?

河上さん:はい。みんな死んでからな、天国に行けへんまでも、それなりに行けるかなって勘違いしてるから説明しただけ。

質問:その虚の世界がなくなるっていう話と…

河上さん:虚の世界なくなるとちゃうねんて。虚の世界は常に真(まこと)の本心の自分がね、ゲームとして作って遊ぶの。だから、真(まこと)の本心の自分の自覚を取り戻すだけよ。取り戻したら、自分の作ってる、だから、先生がお作りになった虚の世界は完璧な世界で作られたからね。

 先生の周りで話聞くときはみんなええ子やってん。外では悪い子でも。そういう意味や。わかった?何がわからん?

質問:虚の世界がなくなっても、死んだ後の世界があるということですか?

河上さん:せや。だから自分の世界を常に持ってるわけや。肉体を通して見るか、肉体なしで見るかだけや。

 ただ、肉体を通しての時はおまけがあるからね、色々と楽しめるけども、肉体なしやったら、なったら、自分の認めてないものは一切見えないから。神さまを認めてなかったら一切何も無いとこへ。だって自分認めてへんから、あるわけないやん。

 ゲームでもね、これがこのパーツ、これはこのパーツで作ってゲームするわけでしょ?でも、このパーツも何もかもないんやって決めてるようなもんや。

 わかりやすいやろ?ちゃんと神さまの命と思って食べるんやで。(笑)

質問:生きてるうちに?

河上さん:生きてるうちにも違う。肉体があるうちにな。
 その癖をつけとかないと。だから、ご飯食べる時でもね、神さまの命って思えなくても、縁者の方、後ろに一杯縁者の方が来て、一緒に楽しんで食べてと思って食べなさいよって説明するわけ。まず最初はそっからや。

 要するに自分1人じゃなくて、 ほんとは全て自分やねんで。だけどちょっと響きを小さくして、縁者も自分ということでね、死んだ縁者の方と一緒に、この自分の肉体を通して楽しんでご飯食べましょうね、から入りって言ってるわけや。そうしてるうちに、神さまの命を頂いてるってなってくるから。勿論、「印可書」奉読しながらやで。祈り言葉を唱えてやで。

 だからその時にね、「宇宙神ありがとうございます」が厳しいのは、ご飯食べてる時でも途切れたらあかんね。僕はそこで潰れたんや。ご飯食べるときに切れんね。

 ほんでもう先生に「食欲ごときで真祈りが途切れるような自分はダメです」って謝りに行ったんや。1番食べるとこが怖い。美味しいで食べるやろ?美味しいで食べた時はすでに「宇宙神ありがとうございます」を忘れてる。ただ「印可書」やったら、後で唱えても間に合うよっていう凄さがあるからって説明してるだけでね。「宇宙神ありがとうございます」は途切れたら終わりや。もうちゃんと説明しとかんとな。

質問:おいしいと思って食べても、後で、あぁ、先にでも「印可書」奉読は…

河上さん:だったらね、有効やねんけどな、「宇宙神ありがとうございます」は途切らされへんね、あの頃は「ありがとうございます 」でもなくて、もうちょっと違う祈り言葉でしたけども。それが、ご飯食べる時はな、途切れんね。つい美味しいで食べるんよ。だからアウトや。

 先生はそんな細かいこと説明せえへんで。でも自分でそう思ったわけ。呼吸に込めてんのに、 水飲む時、お茶飲む時、ジュース飲む時、ご飯食べる時は途切れるね。

 これはあかんと思ってね。食欲如きで途切れるようでは話にならんわとか思ってな。で、謝りに行ったら笑い飛ばされたわけや。「河上さんの本心はずっと祈ってるやないか」って。

 具体的には言葉なしでまず響いて、で、あって思って、ふっとなった時にもう一遍言葉で足して頂いてた。その言葉でふわっと中入っただけやねんけどね。それも自分が入ったんと違う。先生がふぁんとしはったんや、こっちが投げ出してたから。こっちに自分があったら、その自由意志を先生尊重されるから、そのまま、なんもなしで終わる。

 でも、いつももうちょいという人には、先生はそのおまけを全部出してきたんや。でもみんな「自分が光見た」とかね、「自分が悟ったって言われた」とかな。自分出して崩れんね。最後の卒業試験、要するに最後の1パーセントや。

 「印可書」奉読してってな。どうぞ。

質問:最後の1%を自分が正しいと思っている?

河上さん:(その自分が正しいという)意識を消さなあかん、神さまに投げ出さなあかん。

質問:ただ、その最後の1パーセントは護摩だったかの話で、縁者の者が一旦はスッキリするけど、また縁者の者が来ていうことで、それが永遠に続く…

河上さん:いや、だから縁者って言うけどな、本当は全て自分なわけよ。でも、最初は自分に関連したものが一杯あるわけ。過去世で積み重ねたものがね。で、それを全部自分が責任持って神さまに投げ返さなあかんからという意味です。

 いや、それはね、緩やかな真祈りの伝授やから、ひたすらこうなるよって言ってるわけ。

質問:いずれはそれを消し切ったら悟り?

河上さん:もちろん。その方が楽やね。僕は11歳の時でしたけども。 ま、基本的には年齢は関係ない。先生は20歳の時に悟られたわけやけど、それは、先生の場合はもう何も無いとこからされて20歳ですけどね。僕は先生にお会いしたから11ですけども、年齢は関係ない。で、その、何て言うんかな、神さまにどんだけ投げ出せるかだけを、別の言い方でね、「1番良いようにしてる」とか、五井先生やったら「文句を言いなさんな」とか、あるわけですよ。

 もう、只々、まず最初は何が起こっても喜ぶだけなんです。どんなにボロクソに言われようが、なんと後ろ指、指されようが喜べる、神さまが良いようにしてるって喜べたら、もうかなり自分が消えてんね。でもちょっとでも自分があったら、「くそったれ」ってなるわけやん。「馬鹿にしやがって」とかな。その間は話なれへんね。門前払い。

 でも、最後の1パーセントは自分で投げ込んで行かなアカンねんな。

質問:その最後の1パーセントは、今は緩やかな伝授だからずっと続くんで…

河上さん:そうです。僕の場合やったら、一瞬で全部がパンって清まったからね。すると、 小学校5年、6年の子供がね、全部透き通るように見えるわけですよ。で、友達が、なんか言ってきても、こっちわかってるけど、下手に言えないじゃない。で、言えないから黙ってると、「お高く止まってる」とかな、「偉そうにしてる」とかな、「人を小馬鹿にする」とか、もう一杯言われたわ。それくらい大変なわけよ。

 でも、ゆっくりとの伝授やったら、日常生活も普通に対応しながらね、どんどん自分の心境が透き通っていったら楽やからそれにしたわけ。

質問:ゆっくりだから焦らずお任せで?

河上さん:あ、そうそうそう。焦ることはいらんね。だから言ってるやん。今、神さまが1番良いようにしてるって喜べって。喜べたら大丈夫や。でも、喜べんかったら、まだまだ自分が正しいが残ってるね。わかった?

質問:縁者のものが来てちょっと重たくなった時はもう「印可書」に?

河上さん:そうそう。説明の都合上、縁者って言うてるけど、ほんとは自分やね。肉体側に近い自分と、もうちょっと離れた自分の積んできた罪、思いがそれ。

質問:でも、この1パーセントで周りを清めていくから、これはやっぱりもう…

河上さん:そう。要するに、最後の1パーセントぐらいはね、神さまのお手伝いしてる人で働けよと言うことですよ、な?要するに、お手伝いする側にならんと意味ないわけよ。

 だから100パーセント清めてドンってするのは簡単やけど、それやったら、お手伝いしてへんから、結局は意味ないね。お手伝いする側に自由意志でなってくれるから、役立つね。役立つでなくて悟るね。要するに、真(まこと)の本心の自分を自覚出来るね。

 で、100パーセント勝手にパンって清めるやろ、ほんなら何が起こるか言うたら、「気持ちよかったな」で終わるね。それは五井先生の統一会が、そうやってん。もう、毎週の統一会に参加するとね、ほんとにスッキリして、もう悟った心境になるわけ。

 五井先生は優しいから、100パーセントお清めになるわけよ。ほんなら、「あー、統一会参加して気持ちよかったな」だけで終わんね。で、一般の生活に戻った途端に、ワァーッてマイナスを言うてね、自分で。見て、言うて、背負い込んで、元に戻るね。で、また1週間経ったら五井先生が100パーセント綺麗にしてくれんね。

 で、その繰り返しの中で、五井先生はいつかは気付いてくれるやろうと一生懸命されてんけど、誰も気づけへんから、神さまが引き上げた。で、その形は先生は取らないと仰ってね。色々あったわけですけども、やっぱり色々あったから今になってるだけです。

 で、そのやり方も気に入らんかったら、どうぞご自由に。一応必死で説明はするから、なんでも聞いてください。説明はします。

 神さまに全部投げ出せるかどうかだけです。だから、一切人に頼らないです。人や物に頼らない。頼らないというのは、人や物のせいにしないです。何があっても神さまが1番良いようにしてるからって喜べることです。だから、明日食べる米がなくてね、もう何も、水も、なくて餓死するしかないでも喜べる心です。それが悟りの心。

 すると、無限供給がおこって何にも困らへんねんけどね。先生がなんぼ断食しようと思っても、口に食べ物を押し込んでくるっていう説明されてますけど、そういうことなんです。

質問:じゃあ、最後の1パーセントは、それぞれが自分の…

河上さん:自分の自由意志で神さまに投げ込むしかない。

質問:役割として?

河上さん:役割です。はい。

質問:いつ消えるのかな?1パーセントが消えるのかな?じゃなしに…

河上さん:あ、そんなん考えんでええねんて。考えるいうことはすでに神さま疑ってんね。もうひたすら投げ込んでいくだけ。で、一大循環の姿が完成する。

質問:はい、ありがとうございます。あと、「印可書」は先生が自分の命を削って…

河上さん:そうですよ。

質問:残されたものなんですが、それを護摩とか今でも言霊で定めてくれたって仰られてるんですが、どういった意味になるんです?

河上さん:いや、だから「印可書」を例えば知らん人が見たらね、「いや別に言葉並べただけやないか」ですよ。そうでしょ?理屈で言うたら。「宇宙神ありがとうございます」もそうだけどね。ただ言葉があるだけでしょ?

 これは昔、法然さんが南無阿弥陀仏を定められた時も法然さんが言霊で決められたから効果があったわけです。それがもう今、賞味期限切れになってるだけですけどね。あんまりそんなん言うと他の宗派に怒られるけども、実際そうなんよね。

 で、今は先生が言霊でね「宇宙神ありがとうございます」、もちろん「ありがとうございます」の10文字も、「印可書」も言霊まで定められたわけです。ただ、言霊での定め方がね、「印可書」が1番みんながやりやすいような定め方をしてくださったという意味です。
 「宇宙神ありがとうございます」の定め方は説明しました、今ね。ご飯食べる時でも「宇宙神ありがとうございます」が途切れるようではダメだって。
 どれもこれも、先生が祈り言葉として、真(まこと)のプラスの言葉として言霊で定められたからです。柿本人麻呂であられた頃は、別の言葉を定めてくださってますけど、もうそんな古い話はいい。

質問:言霊で定めるのは先生だから出来る?

河上さん:そうです。悟った方だから出来るわけです。

質問:僕らが言霊で言うのは響きが…

河上さん:そんなん出来ない。出来ないから、決めて頂いてたやつを使って、なんていうのかな、引き上げて貰うだけなんだけどね。引き上げて貰うんだけど、自由意志で、その引き上げて貰うロープは掴まなあかん。先生の言い方で言うと、「自由意志でエレベーターには乗らなあかんよ」と。でも自分があったらね、エレベーターから手や足が出てるからどうしようもないよっていう事をエレベーターで説明されましたけど。

 僕式に言うと自由意志でロープを素直に掴むというのは全てを投げ出すということで、ちょっとでも文句あったら掴めてないよということ。だから、ちょっとでも文句が出たら「しまった」と思ってね、「印可書」に投げ込んでください。「宇宙神ありがとうございます」に投げ込んでください。

質問者:ありがとうございます

質問:ちょっと話があまりにも変わりすぎるんですけど。

河上さん:はい。

質問:質問を2点いただきまして。その1、 化学調味料、うま味調味料などと呼称されるグルタミン酸ナトリウムは体に悪いから使わないという人や、グルタミン酸をなめると頭が良くなるという人がいます。実際のところはどうなんでしょうか?

河上さん:いや、まあ、それは毒饅頭と一緒です。おいしいお饅頭をね、「毒入りだよ」って言われたら、舐めるのも舐めかねるでしょ?極端な表現で言うとね。だから、グルタミンソーダが毒や、体に悪いって決めたら、悪いもんなります。頭が良くなるもんやって言ったら良くなります。もうそれだけです。

 もっと具体的に分かりやすく言うと、例えば体が年取って固くなってくるじゃないですか。 で、筋伸ばし、柔軟体操して体を柔らかくするでしょ?でも同じように柔軟体操するんだけど、 柔らかくなる人とならない人があるんですよ。で、その差は何か言うたら、こんなんしたくらいで伸びひんと思いつつしはんね。それは無駄。「伸びる、伸びる」と思ってせな。

 で、それも神さまが伸ばしてくださるでやったらすっと伸びるのにね、いう感じで、自分で定めて使うだけです。次へ。

質問:はい、わかりました。ありがとうございます。質問2です。日本の生物学者が発見したイベルメクチンはどのような薬なのでしょうか。ネット上には、イベルメクチンを飲むことでコロナの改善だけでなく、様々な数値が改善されたという投稿が多く見られます。この薬はコロナに感染した人やワクチンを受けた人にどのような影響を及ぼすのでしょうか?イベルメクチンを摂取しない方がいい場合もあるのでしょうか?

河上さん:それはイベルメクチンがものすごい効くと思って飲めるんやったら飲んでください。さっきと一緒。「こんなもん効くかい」と思うんやったら飲まん方がええ。お金の無駄 。

 いや、ご飯がそうやんか?これ毒入りのご飯と思って食べたってな、まあ言うたら、 このご飯食べたってあんまり体の栄養になれへんねんと思いながら食べたってなれへんよ。神さまの命って食べるから、なんでも役立つんでしょ?だから、自分の言霊で定めてお使いください。

質問者:わかりました。ありがとうございます

質問:最近、今までよりも文句が出るような気がして、なんか逆行してるじゃないけど、諦めずに印可書を…

河上さん:そう、それでいいです。「印可書」奉読するとね、本当にこびりついたもんまで剥がして出てくるね。だから、コップにこびりついた汚れをね、普通しゃーって揺すってらとりあえず綺麗な水が出てくるように、綺麗になったなと思うじゃないですか?でもこびり付いてるとこを、何かで擦ってやったらまた出てくるでしょ?そういう効果が「印可書」にあるから、「印可書」奉読すると一杯出てくるなと思うんですよ。だからいつも言うように、神さまはいつも1番良いようにしてるから、それを喜べたらいい。

 だけど、「なんや、「印可書」奉読したら余計マイナスの思い出てきてあかんやないか」と思う人はもう読まん方がいいよ。あかんと思うだけ無駄やもん、みたいな感じです。

質問:なんか神さまを信じきれてないのはあれだなぁと思って…

河上さん:そうそう。どんどん投げ出していったらいいね。信じきれないのは当然やね。肉体を持つ以上は。それをまたどんどん投げ込んでいくだけ。 はい、お願いします。

質問:それとこの間、仕事で初めてのことを今、色々してるんですけど、 なんかすごい大変なことっていうか、自分に初めてなんで、

河上さん:はいはい。

質問:で、もう考えても無駄だからって「印可書」奉読しながら、何も考えないでやってたら、なんかスッと終わって…

河上さん:すっと行くやろ。

質問:でもそれはそれで、なんか物足りないような…

河上さん:なかなか贅沢やな。(笑)

質問:なんか前言ってた、暇なら暇で、暇って怒って、忙しかった忙しくて、あ、こういうことかなって。

河上さん:そういうことです。

質問:なんか自分がやった感が無いっていうか…

河上さん:うん。その「自分が」がなくならなあかんからね。その自分のやった感も神さまに投げ込んで、すべて喜びだけになっていきます。無条件の喜びになるの、それが悟りです。もうちょっとや。

質問者:ありがとうございます

質問:今の質問と、とても被る部分があるかと思うんですけど。以前の勉強会でも河上さんが仰ってくださってたんですが、 朝仕事とか行く時、誰でもがやっぱりどっかがちょっと嫌っていう、
でもそういう思いが、要はその世の中のマイナスの事象をやってるみたいな話…

河上さん:集まっていってね、それがより集まって、集積して争いの思いになっていくねんけどね。

質問:を伺っていながら、朝仕事行くの、ちょっとどころじゃなく、嫌な気持ちに…

河上さん:いや、みんなそうやて。心配せんでも大丈夫。喜んで仕事行く人は悟った人。

質問:なので、そこで、でもやっぱりそういう思い湧いてるやんって自分を責めるんじゃなくて、そこで「印可書」を奉読?

河上さん:うん、神さまにいかに放り込めるかやね。

質問:そこを、その思いが湧いたおかげで、その思いの私…

河上さん:を使って、神さまに投げ出すチャンスを、また神さまがくれるみたいな。

質問:そこを喜ぶっていう。

河上さん:そうです。

質問:そうですよね。

河上さん:もう神さまはあらゆる機会を掴んでね、あらゆる機会を捉えて、救い取ろう、救い取ろうとするわけ。で、あらゆる機会を捉えて、真祈りに持っていこうとするからね。

 だから、虚栄心を使って頑張らそうともするし、ま、あるわけですよ。で、どれもこれもいつも言うようにな、何を使っても神さまが良いようにしてるわけや。

 自分の小さい意識では、「これは虚栄心やからダメだ」とか、「仕事行くの嫌と思ったからダメだ」とかって、小さい意識では思うけど、神さんはそれを使ってありとあらゆるチャンスを救いに、光に、悟りに持っていってくださるからね。神さまが1番良いようにしてるわけ?

 だから、何があっても喜んで、真祈りに、「印可書」に投げ込んでね、神さまが一番良いようにしてるって喜んでたらいい。そしたら、最後は無条件の喜びになるわけ。さっきと一緒でね。無条件の喜びになった時は、悟り。もう理屈抜きに嬉しいだけ。神さまが良いようにしてるって喜べるだけって。嬉しいだけって言うより、神さまが良いようにしてるって喜べるわけ。ほんならもう交通事故で大怪我になってもね、喜べるようになる。

質問:先ほどの質問の答えを聞いてて、あ、そういうことかなと思ったんですが、最後の1パーセントっていうところがそこなんですか?

河上さん:そうそう、そこです。

質問:どんな思いが湧いてても…

河上さん:うん。湧いて来ても自分の自由意志でそう。それをね、思い湧いてきた時に「こんな思いが湧く自分が悪い」って思ったら、自分の自由意志で掴んでるから。

質問:いや、もうそんな1日、文句言ったら終わりって言われてるのに、文句なんてもう些細なことで、もう一杯一杯になってるので。

河上さん:一杯あるやろ?「こんなとこに置いときやがって!」とかね、「ちゃんと掃除しとらんやないか!」とかね、色々あるやん。それをいちいち掴むからあかんわけで、全部神さまに、神さまにって。要するに、マイナスの思いだけを神さまに投げ込めないんよ。だから、「印可書」というプラスの思いに包んで投げ込むねん。

 そういうことやね。それで、「宇宙神ありがとうございます」やと光が強いから、包みかねるね。分かるかな?「印可書」はね、ほんまにふわっと包んでくれんねんけど、「宇宙神ありがとうございます」は本当に光が強いから、マイナスの思いを自分の自由意志でぐっと押し込まんなんねん。それが大変なんよ。

 だから、ご飯食べる時に途切れんね、というのが分ってんけども、そういうとこの最後の伝授の部分は、前は先生と直接のもんやったからね。なかなか、ある意味自分がないと(ダメなんで、ちょっとでも自分が正しいがあると)全部落第して大変だったわけね。

 で、今は落第がないね。「印可書」さえ選んでたら。これがすごいとこやね「印可書」の。 「印可書」を自由意志で選べたら落第はないから。

質問者:とにかく淡々と「印可書」奉読します。ありがとうございます

河上さん:ありがとうございます



令和5年10月河上さん勉強会−3(20231008−3)

質問:最近、兄の長男から電話がありまして、「間もなく兄貴の寿命もないだろう」と医者に言われていると。それはそれでいいんですけれども、先祖の位牌を兄貴はずっと持っていまして、その息子は自分では位牌をどうしようもないと、どうしていいかわからない・・

河上さん :おじさん持ってくれと。持ってあげたらいい。

質問:はい、即、僕は引き取ると言ったんだけれどね。前に河上さんが護摩炊きの護摩の中に仏壇を入れたらいいと(笑)言われたのを思い出しまして 綺麗にしてからですね、護摩の中に一緒にお焚き上げをして…

河上さん:いいですよ。

質問: お焚き上げをして神さまのお役に立つかなと?。

河上さん:そうです。それでいいです。

質問者:分かりました。

河上さん: ただね、そうしようと思ってもできない時があります 。それはもうちょっと待ってくれと向こうが言うから、もうちょっと位牌に向かって印可書を奉読してあげて、それはちゃんと響いてきますからね。 もう抵抗あるのに無理に燃やしただめよ。その位牌という、まあ言うたらラジオですね、ラジオを通してですね その方にまず 印可書を響かしていかないと。

質問者: 分かりました。

河上さん:だからお墓もそうなの。お墓をなくしてもいいんですけれども、その前にまずお墓を通して印可書を奉読してね、本当にすっきりしたら撤去できますけれども、しないうちはしてはだめ。

宮野さん:すっきりと言うのは?

河上さん:喜びがわくだけになるの。

宮野さん:もっと具体的に例えば言えば、例えば「よし、もう位牌を手放そう 」若しくは 「よし、墓をもう片付けよう」と、墓終いしようと思う中で いざ,しようと思うと、いやちょっと待てよ、せやけど…

河上さん:あっ、ていう時は駄目。

宮野さん:ということは、もう少し待って、印可書を読み続けてそれがすっきりなくなって、「あっもういいや」ってすっきりした時にですね?

河上さん:そう、例えば、その燃やす時でも嬉しい、あるいは、墓石撤去する時でも嬉しいいう時は大丈夫やねんけれどもね、「うん?」となる時にはまだまだ。

宮野さん:ということは、よし今日、次の護摩の時持って行こうとまで思って、今の朝の朝まで思っていたのに、入れようと思ったら、ちょっと待てよと思った時は?

河上さん: 朝までも違って、 護摩壇の前まで行って抵抗あったらやめる。

宮野さん:また、次回に、持ち帰るっていうことですね。

河上さん:そうです。

質問者:わかりました。

河上さん :それをね 無責任に燃やすっていうのは、やっぱり無責任なわけよ。頼っているね、護摩に。

宮野さん: まあ神さましてくださるから いいやろっていうね。

河上さん: それはあかん。というのは縁者も先祖も自分だから。自分の一部を崩しているようなもの。そこが縁者と先祖をね、離してみるからややこしいね。 自分の迷いが写っているという表現も違うねんけど。自分の一部なの。だからすっきりするまでは要らん事を出来へんね。ああ、どうぞ。

質問:先日、村に行っている人の又聞きなんですけれども、その方は木を切る仕事をされていて、切ろうとした時に木が「切らないで」って言われた。

河上さん: 普通は言います。 どの木でも言います。

質問:ああ そうなんですか。印がついていて切らなきゃいけない木だったから「ごめん」って思って切って、また次の日に謝りに行ったって聞いたんですけれども、それは?

河上さん:もう基本的にはどの木も切ってはダメです。

質問者: あ、そうなんですか?

河上さん: 本当はね。うん。ただ「みんなのお役に立てるように使います」ってお願いして切らして頂くだけなんですよ。それで山が 一大循環の再生する新たに生まれ変わる最中の時を、八専と言うんですけれどもね。 暦でいう、その八専の時期は一切切ってはダメ、 何があっても。 そういうものなんですよ。木は神さまの命そのものですから。だから命の木(気)なんですね。

 だから本当は昔はね、ちゃんと木を切る前にお酒をまいて、ロープ(しめなわ)巻いてお祈りして切ったものなんです。 今はどうしているか知らないですけれども。 ほんで山に入る時もまず 山の神さまにお願いをして「みんなの役に立つように使いますから」いうことで山に入ります。今は知らないですけど、昔はそうだったです。

質問:主人は林業なんですけれども、あんまりそんなん全然関係なく 仕事なんでバーってやってるんですけれども。

河上さん:まあ 今の流れやから仕方がないんですけれども、一番山で大事な木をうっかり切ったら、だいたいお腹の病気になられます。腸とかね、大腸癌とかね、お腹の病気になるのね。 その時はもう謝りに行って間に合うかどうかわからないけれども、そういうものです。だからあなたが印可書を奉読してあげたらね、ご主人を通して印可書が響くから大丈夫。そういう意味では夫婦という縁は大事です。

質問: 自然に大事な木は切らない?

河上さん :切れない。仕事上も切らずに済むようになるし。

宮野さん: 突然その時体調が悪くなるとかさ、

河上さん:色々あります。

宮野さん: 本人が切れない状態に入る。 その代わりしっかりと真祈り奉納を。自分の一部じゃない、ご主人も。

質問者:はい。ありがとうございます。

質問:はい。やり方を具体的に教えて頂きたいんですけれども 毎日生活して、仕事に行ったりして、いろんな人と関わっていくと、すごい周りの人が物凄い、色々な姿を見せてくれる。 例えば 仕事は本当にこの範囲だけっていう風に割り切って凄く家族を大事にされている姿があるとか、本当にもう「自分が正しい」っていうところで、そういう自分の姿が見えるんですけれども、そういう姿を見た中で、こう自分がまあ反応したり、羨ましいなって思ったり嫉妬したりとか色々な気持ちが湧くんですけれども、その中で河上さんに教えていただいた「おもしろい」 面白がろうとする中で、この前は面白がれたのに…

河上さん:今回はあかん。(笑)それは当然や。

質問:同じシチュエーションなのに、それで まずは言葉からと思って「おもろい、おもろい」って言ってるのになぜか腹が立つとか。(笑)

河上さん: その腹立つ縁がね、腹立つ縁は本当に自分に近い不離一体の部分なんですよ。だから自分で自分を許しにくいのね。だから本当に形は他人ですけれども、ものすごく自分と同じ魂というか、木の枝分かれで言うと、同じ根っこの部分の人なんですね。

宮野さん:めっちゃ言う。(笑)

河上さん:だからおもろく思えないんよ。あなたは自分を責める癖が残っているからね。そういういう部分だけです。 ひたすら 印可書をその時は奉読してください。おもろいと思わずに。(笑)

質問者:はい。ありがとうございます。

河上さん:思えないものね。

質問:はい。本当にこの身近なサンプルに関わって生きているかと、でも一番いいようになっているという・・

河上さん:やっぱり関わらずを得ないというのは、それだけ自分の中に色々掴んだものがあるっていうことです。

質問者:ありがとうございます。

河上さん: 自分の中に掴んだものが無かったら、要するに自分がないわけやから。何もない。先生のようになる。

質問:一番よくなってるっていう?

河上さん:そうです。そうです。先生のようになるとね、(光が強すぎて、ひびきがちがいすぎて)先生のお話がみんなに通れへんのよ。だから先生のテープを聞いても今一 よくわからないっていう人が多いのはそれなんよ。

 で、僕はわざと色んなん、(みなさんのマイナスをダメなやつと)掴んどいて、しているから、河上の話分かり易いというのは、(僕が)わざと掴んでいるからなの。ただ掴んだ分だけ、体に凄い来て色々ありますけれども。言うてられない。時間切れやからな。(あえて) 言うと特別大サービスでやらせて頂いています。

質問:いいですか。

河上さん:どうぞ。

質問: ありがとうございます。 先生のお話はホンマに、さらさらとした感じで分かりづらいんですけれども、その中でも神任せ・ 神もようし・神ながら?これもさらっと言われていて、よくわからないんですが、この違いっていうのを教えて頂きたいのですけれども?

河上さん: 全部同じ意味です。ただどれもこれもね、「自分が正しい」があるうちはわからない。惟神(かんながら)の道って言うんですけれども 「自分が正しい」があったら全然わからない。 それって具体的には何かと言うとね 「人のせいにするとか、人に頼る、もののせいにするとか、ものに頼る」っていうのが 「自分が正しい」という心です。 ちょっとでも人のせいにしたりな、 何かものに頼ったり、あるやん、みんなな ?それがあかんわけや。

 それで 先生は最後の方は総責任者の自覚とおっしゃったわけよ。全部自分の責任やねんから 文句言うなっていうことやってんけども、総責任者の自覚とおっしゃって、勉強会ずっとされるんだけれども、誰も具体的に質問をせえへんのね。で、先生はしまいに、邪魔くさくなってやめてしまったわけ。 総責任者の自覚というのは「文句言いなさんな 」と。五井先生が「文句言いなさんな」と同じ意味やったんですけどね。

 別の言い方をしたら神さまが一番いいようにしているから、で、もっと具体的に言うたら、人のせいにしない、もののせいにしない、人に頼らない、ものに頼らない、人の援助に頼らない、国の援助に頼らない。色々ありますけれども、人の助けをあてにしない。

質問:神さまと不離一体という状態?

河上さん:そうです。はい。自分がなかったら誰も当てにしません。

質問:それと一緒で空、無為、全託、無心、無我、無欲。

河上さん:全部一緒です。

質問:これが?

河上さん:自分がないという意味です。

質問:一体化するためには これら全てが必要ということですか。

河上さん:必要です。

質問: よくわかりません?

河上さん: いえいえ、だからその人によっての捉われの部分があるから、いろんな表現を使われただけで、具体的にいうたら 「自分が正しいという思い」ね。 もっと具体的に言うたら、何かのせいにする思い、何かに頼る思い、あてにする思い、全部ダメです。

 だから仕事をしていてね、「大変やから誰か手伝ってくれへんかな」と思うのはダメなんですよ、本当は。自分で一生懸命なんとかやろうとしてどうしようも無いから「ごめん、ちょっと」っていうぐらいはいいんですけれどもね。何もせんと「助けて、ちょっと手伝って」いうのはあかんの。 自分がもう神さまと一緒で必死にしていて、ほんでっていうぐらいでないとダメなの。
 それぐらい当てにしたらあかん。 頼りにしたらあかん。当てにするっていうのはもう人のせいにしているね。 1つ 間違うとね。もう自分が全力を尽くして限界だから、お願いするはまだいいですけども。自分が何も大してしていないのにね、助けてやって言うのはあてにしているからあかん。だから先生は「生活保護は絶対にダメだ」とおっしゃった。

質問:ありがとうございます。あとこうやって話されている時に、よく皆さんに話されているんじゃなしに後ろの方に、話してますっていう?

河上さん:勿論そうよ。 先生は特にそうです。

質問: その後ろの方が納得して帰られましたっていうのは、どこに帰られているんです?

河上さん:一大循環の世界や。

質問:悟られてに帰られて、大きく言えば自分が…

河上さん:そうです。そうです。 肉体がない時の方がある意味悟りやすいんです。ただ肉体を通してしか聞けないんでね、っていうことです。 はい。

質問者:ありがとうございます。

宮野さん:肉体を通してしか聞けないから護摩の時には何の予定を置いてでも来なさい。

河上さん:あ、そうそう。「親の死に目以外は来い、 親の葬式以外は来い」って言っている。はい。肉体を通さないとどうしようもないからね。

質問:ありがとうございます。今の質問の中で 私にもちょっと組織で仕事をしているんですけど、拙い自分のこの能力ではありますが 人に頼らずにまあ言ったら 個人商店的な考え方でよく仕事をしているんですが。

河上さん:どんな大きな組織であろうが小さい組織であろうが基本はそうよ。

質問:はい。ところがですね、 その姿勢をちょっとシェアした時に、かなり批判が来て、組織なので、なんで自分で仕事を抱えるんだ?ということで、 自分の主担当な仕事を最近ちょっと業績から取り上げられるような事がありまして、自分がこれからちょっとやろうと思っていたのですけれども、その前のやっつけ仕事をしようとしている中で、今からもうちょっとしたらできるっていう部分を、もう私にはさせなくていいという・・

河上さん:おいしいところ持っていかれたんやろう?

質問:そういう感じです。

河上さん:それでいいやんか。

質問:それが…

河上さん:それが新たなる下座に立つ真の本心の自分の働きやん。

質問者:はい。ていうことはもう基本的には 自分が全責任を負うという気持ちで個人商店的であろうが、

河上さん:だから全責任を負うということは「結果に一喜一憂しない」っていうことや。 結果に一喜一憂しているということは人のせいにしている。美味しいとこ持って行きやがってて、な?総責任者やったら全てが自分やから、どんどん助けてあげたらいいだけやからな。

宮野さん:仕事が途中であっても、っていう事ですよね。

河上さん:9割仕上がってあとちょっとの完成は、美味しいところあげたら良いね。まあラグビーで言うと、自分がトライできる位置にあるねんけれども、隣に同僚が来ていたら、その人にパスをしてその人にトライさせてあげるみたいな感じや。

質問:最後が見えてなくてまだまだ途中段階なんですけれども。それを全部、 言ったらことばは悪いんですけれども、自分がやるものを、全部情報共有もなしに、この周囲の方たちだけでやるという命令が入った時は。

河上さん: そんでええ。

質問:甘んじて受けて、自分が主担であっても?

河上さん:大体国ぐらいの大きい組織になったらな、配置換えがあるやん 毎年、春にね。 その時一切申し送り無しやで。それが基本やね。なんで申し送り無しかわかる? 総責任者の自覚があるからよ。申し送りがあったら前任者の責任にして逃げれるからな。 だから情報の共有はない方がいい。

質問:それともう1点なんですけれども、私、親しい代議士がいまして、その代議士が、常々松下幸之助さんの塾に行ってた方なんですけれども。松下幸之助様は本当に今後の日本の国をちょっとすごく憂慮されて、ご自身が100億円ほどのお金を投じて政経塾を作られたと。でも本当は自分が政治家になりたかったけれども、なんか周りの人から止められて、それだったらもう若い人達に託そうということで、そういう塾を作られたっていうことを、先日その代議士がおっしゃっていたんですね。で日本の国のことをやっぱり同じように案じていらっしゃって、子供たちにもっと潤沢にかけて、今、すごく世界的に見ても日本の教育力が非常に落ちてきて、その結果として、やっぱり企業とかもね、トップ100とか トップ50とかに 昔は一杯入っていたものが、もう今は1社とかいろんな形になってきているというお話を先日伺ったのですが、今後、その代議士さんが憂いるように、子供たちにもっと教育費を投入してですね、それで日本の国をなんとか、もうちょっと昔のようにトップ100に何社か入れるように、そういう風な国際競争力に勝っていけるような国にしていけるようにがあるのか、それともそうじゃなくって、 日々日々昔のようには行かないので、今ある状況の中で、こういうところ、皆さんが真祈り…

河上さん:いや、真祈りしかないねんけどね、まず国のお金を投じて教育をさせようとするでしょう?それは税金というマイナスのお金やから余計にみんな勉強できないようになるの。で、一番スタートの幸之助さんが周りに止められたのと違って、幸之助さんは誰に相談したか。その人に相談してその人の指示、 指示と言うか相談した結果ね、政経塾を作られたし、政治家になるのを諦めたのも その方に相談した結果です。周りではないです。

質問者:ありがとうございます。

宮野さん:トップ100とかって、その勝ち負けにその意識を置いていることがどうなのかと。

河上さん:あー、だから真祈りしかないって。結果に一喜一憂している間は何も始まれへん。 結果に一喜一憂したら戦争になるの。勝った負けたの世界や。やったらやられたの世界や。メンチ切ったか切らないかの話や。顔立てたか立てへんかの世界や。義理を通す通せへんの世界やな。そんなんは、戦争になっていくだけや最後は。

宮野さん:みんな1つなのに。

河上さん:みんな1つやのに。

宮野さん:日本人だけじゃなくって、みんな人類は一つなのに。人類だけじゃなく全てのものが一つなのに。何故?

河上さん: 分ける意識がな、争いの元でしょ?もう国と国を隔ててほら、「入って来るなー」からもうややこしい訳でしょう?みんなどこでも自由に好きに働いたらいいのねんにしたら良いのに。そうやのにもっとこれだけ働いてんからもっとお金をよこせいうのがおかしい。お金はいらんって言うくらいになったら、一気に平和になるけれどね。

 だってそうでしょ?もの売ってお金を儲けるということはある意味騙して儲けているね。安く出来るのを高く売っているの。そうやろ?だからお仕事でたくさんお金儲けをするというのは人を騙して来たという事や。

 例えばね、一軒のお店で、ものを売るんだったら大してものを売れないから、それなりの利幅がいるわけよ。でもテレビショップとかね、通販になると、ものすごくたくさんパンって売れるわけ。 数時間の間にね。なのにお店と同じ利幅を取るから、通販をやっていると凄いマイナス背負って大変になっていく。例えばね。 そういうもんやね。だから通販やったらたくさん売れるから安く売りますよって本当は言わなあかん。でも今はね、お金を儲けた人が偉い時代やからね。ややこしい。

質問:はい。違いに教えて頂きたいんですけれども。先程のお答えいただいた中で、「人に頼るな、組織に頼るな、モノに頼るな」っていうことをおっしゃっていて。自分を振り返った時に自分でやり切る前にまず人に頼り切ろうとするところがあったな、っていう思い当たる節がすごくたくさんありました。

河上さん: 気づくだけで大したもの。

質問:はい、それで後はまず自分でってなった時に、これは完全に過去なんですけれども、独りよがりに自分でやってしまった失敗談みたいなものが浮かぶ時もあるんですけれども、やっぱり毎日毎日一番いいように、一番いいようにしていただいているという、代表例の中で。

河上さん:例えば仕事やったらね 、その独りよがりでまずする方が大切やね。独りよがりでやってみて、色々と上手く行かない事が、要するにまず自分にとっての問題点がよくわかるね、独りよがりでやってると。だからそこから人に頭下げて尋ねる時によく分るね。せやけど、自分何もしていなくてね、 「やり方教えて」ってやると問題点が見えないから、永遠にうまくできへんね。
 一度機械修理の話で説明したんやけどね、機械修理もまず自分で機械つぶれてもいいから、色々やってみて、それで上手くいかない問題点が見えてから 聞くと分るねんけれども、「 やり方教えて」だけやったらちょっといかへん。どんな仕事でもそうよ。「やり方教えて」ではちょっと行けへん。

 だから西岡さんやったかな、 宮大工の話し、本に書いてあるんやけどね。いわゆる見習いとしてね、まずお弟子さん入ってきたら料理当番させるっていうわけや。それは料理っていうのは、段取りと組み立てができんと、うまく料理できないからね、段取りと組み立てをする癖、勉強をさせると、料理で。その次にカンナ引く、あるいはカンナの刃を研ぐ。手を取って教えへんのね。 先輩と一緒にさせる。まず刃研ぎからさせる。先輩がやっているのを見て自分の中で組み立てていくみたいにするわけね。それでやってうまくいけへんねんけど、その繰り返しで行くんやけども、そのわざと教えないで、自分なりに考えてさせて、自分なりの問題点がわかるまでは放っておくわけよ。それが見えてきたら初めてそこでポンとものを言ったら通じるわけ。

 これお釈迦様の対機説法って言うんだけどね。相手が受ける時来るまで、ものを言ったらあかん。 だから先生に相談してもほとんどもの言ってもらえんかった人は、いつも言うように真剣になっていなという言い方しているけれども、そうじゃなくて、自分なりに色々ともう頭をぶつけて、どうしようもなくて聞きに行っていたら、僕のようにポンと行けたんやけれども、適当に聞くから適当に返事されるっていうことや。もうただそれだけ。だからそないやって、独りよがりでやる事の方が近道です。

質問:はい。繰り返しになるんですけれども、やっぱりこう独りよがりになってるかなと、自問自答しながら 印可書を奉納していく中で、やはりこっちの方がこういうやり方の方が、もっとお役に立てるかなっていう風に考えてしまった思いの心で、結局神さまのたぶんお役からは遠ざかっていくだろうと思うんですけれども。

河上さん:うん。でもそう考えて、その神さまのお手伝いをしたいと思って考えて、ひらめいて湧いたことは、やってみた方がいいの。 その時に初めて本当にいいのか悪いのか見えてくるから。だからそれでいいです。

質問者:はい、ありがとうございます。

河上さん:まず総責任者として人から後ろ指さされるのは覚悟の上で、失敗するのも覚悟の上で、まずはやってみることが大事で。何もやらんと教えて貰ったって身につかない。

 でも、ほとんどの人は楽しようとしてな、そのやり方を教えてもらってそのやり方をマネするね。でもどんな仕事でもそうやけど体格とか、性格とかあるから、教えて貰ろうた方法でやったら上手い事いけへんね。体力とかね色々あるやん、集中力とか。

 今日はちょっと清め過ぎそうになって、一瞬焦って戻しました。で、ちょっとお祈り長かった。ごめんね。今、全部綺麗にしたらまたみんな ふわっとなって失敗するから。でも1%は自分でやってください。昨日遠くまで走ってかなり無理して帰ってきてしているんで、こういう体力的にギリギリの時って力の制御が難しい。ウワーんって行ってしまって、ごめんなさい。



令和5年10月河上さん勉強会―4(20231008−4)

質問:ありがとうございます。睡眠の時間とか寝る時間について聞きたいんですけれども、以前の仕事が昼始まりの夜遅い仕事をやってたんですけれど、そのパターンで今は違うんですけれども、仕事変わりましたけれども、ズルズル来てまして、同じ遅く寝るのが癖になってしまって、下手すると2時頃になってしまったりするんですね。1時半、1時ぐらいに寝るようになってしまってて、その1時っていう時間は、以前聞いた時にあまりよろしくない時間で?

河上さん:いや、遊び惚けて、1時過ぎまでいてたら宜しくないって意味だから。そんなん言ったら、警察官とかタクシーの運転手さんもそうやけど、24時間勤務やんか、その中で夜勤明けっていったらそうなったりするやん。そんなのは違う。ゲームとか遊び惚けて、そんな時間まで起きておくってのはよくないよ、って意味です。

質問:そしたらその時間に護摩木に宇宙神ありがとうございますと書いても大丈夫ですか?

河上さん:大丈夫、はい。

質問:最近睡眠時間が短いと病気になるとか、

河上さん:だから自分の言葉で毒饅頭と一緒やん。さっきのあれ、言葉で決めるだけやから、先ずはどの状態、例えば仕事変わったけど、前の仕事の関係で寝る時間がどうしても早くできないわ、でしょ?どの状態も神さんが一番良いようにしてるって喜べたらいい。そしたら睡眠時間が短かくて、次の日眠たくても自分を責めないからスーッと戻るね。大概は早く寝なかった自分が悪いから眠たくなったんだとかね、具体的に自分を責めてないけど、無意識に自分の行動を責めるんよ。

 それが掴むということやね。掴むなって言われて、みんな掴んだらアカンねんなって位しか受け取れないけど、具体的に掴むというのは、今言ったように自分の行動をやっぱり無意識に責めて掴むのね。で、掴んで余計動けんね。さらさらと印可書で行ってください。

質問者:ありがとうございます。

質問:以前教えていただいた真祈り体操があまりできないので八の字、八の字体操とその流れで最後四股をしているんですけれども、八の字体操は一大循環の流れにそのまま入っていくという感じが凄く分かるんですけれども、四股の場合ですね、今はそんきょ(体勢)から反動つけずにゆっくり上げてゆっくり降ろすと、すごく筋力とバランスと

河上さん:良くなって来たやろう?

質問:そうなんですけど、いいんですけれども、真祈りとしては土俵入りみたいにバシーンと(踏みつけたり)した方が真祈りなんかなと思ったりもするんですけれども?

河上さん:身体に負荷をかけたいからゆっくり下ろしているんでね、土俵入りは、お客さんに見せる部分があるからな、雲竜型とか、この手の平返したりな、お客さんに見せんなんや?殺風景のこれだけでは喜べへんからな、柏手もな、それであるだけで。

 負荷をかけて強くしたいんだから、ゆっくり上げてゆっくり下ろす。出来らた、上げれるようになったら、できるだけ高く上げる。それも足の指は土を掴むようにしてせいというのは、足の指も強くして負荷をかけるためです。それで人に見せるためにとちゃうから。そういう意味です。

宮野さん:背筋を伸ばすのと腰を曲げるのと。

河上さん:そうそう、背筋を真っ直ぐしないとね。曲げてると腰を痛めるから。で、四股踏みで足を上げるときに腰のバランスが戻って腰痛は治るんですよ、本当は。ただちゃんと背筋を真っ直ぐしていないといけないからね。あまりそこのところを具体的に言わないんですけど。

宮野さん:間違って伝わってるところがあるよね。

河上さん:だから必ず最初は壁とか柱に背中をくっつけてやってください。無意識に体が前かがみになっているから。八の字も一緒よ。壁につけてやってね。やっぱり八の字をやろうとして前かがみになる。

質問:四股踏みも真祈りに直結するわけですね?印可書を唱えながら。

河上さん:そうです。四股踏みをすると全身の血流がぐっと巡るんですよ、一段と。要するに一大循環の相象(すがた)に近づくから、形の上からも近づけようという深慮遠謀です。真祈り体操でもいいけど、あれは長いからね、みんな中々出来ないし、もう出来ないのは止めにした。いつでも簡単にすぐ出来るやつがいいやん、ということです。

宮野さん:おまけなくなったらからね。

河上さん:そうそう。おまけで病気治しないからね。みんな自分の体は自分で守ってねっと。自分の体の手入れは自分でしてくださいねって。

宮野さん:腰が悪くなったりとかするんじゃない、皆さん?そうなので足を鍛える。大腿四頭筋、ハムストリングをしっかりと鍛えていくと、大きな筋肉を鍛えると全体的に体のバランスがしっかり保たれるので、下半身強化。下半身強化しながらの腰が大丈夫になって、腰が大丈夫になると全体的に芯が出来るので、皆さん健康を保ってくだされば、よりお祈りに集中できるのかな、という。

河上さん:そう。で、四股踏みもしんどくなったらすぐ止めてね。無理したらあかん。四股踏みの良さはそれやね。いつでもできるし、しんどくなったらすぐ止めて、またすぐ始めれるという。体育会系やないからね、無理しないでね。

宮野さん:膝すりすりの場合は若干間違ってますね。

河上さん:膝すりすりは必ず背筋を真っ直ぐというのが基本です。曲がったらもうダメですから、真っ直ぐして真っ直ぐしてこうやると(両手を交互に前後する)この辺の筋が全部伸びるのね、腰から。でも身体曲げてこうやるとどこも伸びないからやる意味ない。

宮野さん:手をすりすりしているだけの話ではないので、しっかりと伸ばすところを伸ばすということの方が大事。

河上さん:だから、膝のこれもできたら壁に身体付けといてやれば分かり易いと思います。壁か柱にね、身体をこう付けて。

宮野さん:膝すりすりも立って膝をすりすりしなくて、この前教えていただいた手法でやってますけど、あれでも良いですね?

河上さん:ただ座った状態でないと腰の筋伸ばされへんから。

質問:そうですか?

河上さん:あれは腰の筋伸ばしたくてやってるから。

宮野さん:でも応用されながら、

河上さん:そうそう正坐できない人もいるからね。膝をすりすりするのをあんまり言わんようにしてる。もちろん正坐できない人はこのように椅子に座ってやったらいいわけでね。

宮野さん:肩をしっかり入れる。

河上さん:イメージとしては、地面に対して肩がいつも水平のつもりで、実際は入れたら下がるけどね、でも水平のつもりでやると背筋がまっすぐになるからね。

質問:わかりました。ありがとうございます。それとその流れで八拍手、今やらせて貰ってますけど、河上さんは凄い音を出そうと思ったら出せると思うんですけど、いつも割と軽く、ポンポンと

河上さん:ああ、音はね、自分が消えたら強い音が出る。自分が叩くと思ったら、何ぼ力を入れたって音出へんね。自分が叩くんと違って神さまが叩くんよ、柏手っていうのは本来ね。  神さまが叩くってどういう事か言った、自分が正しいの自分がないわけ。ただ「パン(柏手)」だけ、そんなら自分が叩いてへんから音出るわけで、自分で叩こうと思ったら出ない。何ぼ力んでも無理。

 だから先ず今が一番良いようになってるとかね、自分を無くす。自分が正しいという意識をどんだけ神さまに投げ込むかが大事。
 
宮野さん:音を出すのが目的では無くて、光を出すのが目的で、

河上さん:そう。光を出すのが目的で、音はそれに付随して勝手に出ただけで。

宮野さん:光の方ですね。

河上さん:力入れて叩かなくしたって、

 力入れても出えへん、出えへん。太鼓やないから。

宮野さん:小っちゃくするのもあるから、小っちゃく叩くのもあるから。どっかに奉納してて、あんまりパンパンパンってしてたら、「何や、あの人?」みたいになるじゃない?相手にマイナスの思いを抱かせない方が大事なので、音を立てずにトントントントンと、トントントンとしたからって、光が小っちゃいとか大きいとかではないので。

河上さん:そう。陰楊、プラスとマイナスでスパークさせるようなものやから。

質問:聞く人がハッとするような場合はあまり?

河上さん:全然知らん人がな。ここやったらみんな分かってるからあれやけど、外の人にビビらせたらあかん。

 前、一回ある神社を参りしてね。無意識にやったらほんまに無意識に柏手2回打ってん、そしたらパーンって響いたんよ。そしたら神主さんすっ飛んできて横で柏手打って、勝とうとしやんねんや。(笑)あれから控えるようにしてるね、あれから。もう全く何も考えずにフワッとやったらピーンって響いて、遥か離れた社務所の神主さんがブワーッと飛んできて、横で「神の何々・・」って言っても柏手たたいても、大きな音が出へん訳よ。申し訳ない事でした。

質問者:ありがとうございます。

宮野さん:あと、ついでに八の字見せて、ここで。もう一度八の字をこちらで。

河上さん:だから一番簡単に誤解無いようにやると、片手で手の平で八の字を描く。

宮野さん:手の平で?手の平で空気を描く感じですね?

河上さん:手の平で分かる?

宮野さん:手の平に物を乗せてる感じ?

河上さん:そんな変なこと言わないで。ここに八の字があって、八の字の棒がこうあったら、それにいつも直角の感じで、手の平を八の字片手で先ず描いてね、それに添えるだけ、もう一つの手を、と思ってください。

宮野さん:もう一回やって。

河上さん:こう八を描くわけ(片手で)。こう八を描いておいて、それにもう一つの手を添えて描いてください。両手添えたら中々描かれへんけども、イメージはそのつもりでやってたら描けるように、ここは緩んで柔らかくなってきます、いう事。肩甲骨とか肩周りがね。そしたら肩凝りがなくなるし、何よりもこれやってると、凄い全身に血が巡るから元気になります。若返ります。

宮野さん:あっ違う。そうそうここでひっくり返す。そうそうそこでひっくり返す。

河上さん:片手だったら簡単にひっくり返るだろ?両手だったらひっくり返らへんけど、イメージはそのつもりでね。

質問:できるだけ手を伸ばした方があれなんでしょうかね?

河上さん:まあ伸ばした方がいいけど、伸ばすとシンドイから最初はできる範囲でやったらいい。

宮野さん:多分、下の方はよくね。みんな手首が変わるところが分かりにくかったりするよね。

河上さん:ここがな。常にこう8の針金の棒があるとするやん。それに手の平が何時も直角にこういう感じやねんけど、これを添えた(両手にする)途端にできへんから、イメージはそれでやってくださいという事。でもちゃんと柔らかくなったら添えていってもちゃんとこう描けるわけ。で、8の字の大きさは大きくても小さくてもいいです。だからトイレの中で小さくもやれます。

宮野さん:印可書を読みながらね。

河上さん:うん。そしたらお祈りして終わります。


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10月護摩 by kawakami 2023年10月05日(木) 16時21分
PC

10月護摩焚き河上さんのお話
 宇宙神ありがとうございます

 令和5年10月護摩焚きで河上さんがお話してくださった、内容です。

質問1
 神書 292ページですが、何事も『正しい』と言えることの項目の中の「移り変わるすべての状況に、最高最善の対処をするには、神さまの導きに100パーセント従うのが最良なのです。その為には自分の心を常に、謙虚な・素直な・澄み清まった状態にしておく必要があるのです。そして常に心を澄まして、神さまの導きに耳を傾けていなければならないのです。」とあります。神さまの導きは、どのように表されるのですか?
 私自身は、瞬間閃いた時に実行すればスムーズに事が進んで行ったのに、あれこれ考えた末に実行して、最初に閃いた通りにすれば良かったと思うことがあります。それは自分の心が、神さまの導きに謙虚で素直でなかったからでしょうか?

河上さん
 ありがとうございます また、お会いできて嬉しく思います。

 真(まこと)の本心の自分という部分ですね。この現世における自分という意識、そこ違いが、みんなごちゃ混ぜになっていくんですね。ごちゃ混ぜになった結果、何が起こるかというと、自分は正しいと思い込んで、それは、みんな自分が正しいって思い込むのは、真(まこと)の本心の自分の自覚があるから自分が正しいと思うので当然なんですね。別に悪くはないんですよ。

 ただ、真(まこと)の本心の自分の意識に立ってたら正しいんですけど、肉体側の肉体の都合の自分の意識に立って正しいと思うから話がややこしいわけです。

 だから、神さまを呼ぼうとか神さまに心を合わせようとか、いろいろ言葉では言えるわけですけども、皆さんが受け取る神さまという大きさが、みんな自分が正しい、肉体の自分が正しいの範囲の小さい神さまなんですよ。

 だから、いくら神さまに謙虚に素直に、みんな言うわけです。あるいは絶対奉仕やとか絶対感謝やとか神さまに対して全て投げ出してとかって言うわけですけど、その投げ出す神さまが小さいから投げ出したつもり、神さまのために働いてるつもり、神さまのためにどうこうしてるつもり、色々ありますけども、どれもこれもが結局は正しくない。

 先生はそれを「無色透明の自分になれ」とおっしゃるわけですよ。「無色透明の自分」というのは真(まこと)の本心のの自分のことなんですけども、それって「真(まこと)のプラスの言葉を駆使する自分」なんです。そこが一番の問題なんですよ。

 もう謙虚とか素直とか説明してもいいですけど、そんなん、もう説明するよりダイレクトに何が問題か?何が皆さん自分が正しいと思って正しくない、正しいと思ってるのに正しくないって言われてもわからんわね。何が正しくないかとかそんなんじゃなくて、真(まこと)の本心の自分は無色透明の自分で正しいわけです。神さまの御心とピタッと一つなわけですよ、総責任者の自覚も持ってね。

 真(まこと)の本心の自分とは何か?無色透明の自分とは何か?と言えば、これが、この世的なレベルの肉体意識におろしてきた時に、具体的に何なんだというのがわからないと(あれこれ迷うわけです)、本心の自分がしてることは真祈りだけです。でも肉体側の自分は何をどうしたらいいのって言うことですよね。そこでみんな迷っているわけです。その肉体側の自分が何をどうしたらいいかと言ったら、真(まこと)の本心の自分に添うことですよ。

 真(まこと)の本心の自分って何かって言えば、真(まこと)のプラスをプラスの言葉を駆使する自分なんです、この世的な響きで言うと。だから、真(まこと)のプラスの言葉を駆使さえしていれば、いわゆる知恵の木の実を食べたことにはならないわけです。知恵の木の実を食べるって言うわけですけども、要するに神さま以外のものを言葉で表したら、知恵の木の実を食べたになるんです。

 皆さん、無意識に神さま以外のものを言葉に現してるわけですよ。それは口から発することもですけど、見るもの聞くものも全部同じです。

 例えば、一番具体的にわかりやすいのは「あいつサボってる。俺と同じ給料もらってるのに、あいつ4も仕事せえへんとこっちは12も20も仕事してんのに。もう本当に必死でやってんのに、あいつのらりくらりしてうまいこと逃げてこうしよる」って思うでしょう。それ現実的に実際そうなんだからそう思うんだけど、それってもう神さま以外のものを認めている状態なんですよ。

 どの形も、すべて神さまが一番いいようにしてるんです。なんで、じゃあ、怠けてる姿が一番いいようにしてるかって言うと、その怠けてるご当人がマイナスの言葉(神さま以外の言葉)を使って、神さまの導きを拒否するわけですよ。(その拒否する本人の自由意志の範囲内で、神さまはできる限り一番よいようによいようにされている)。

 要するに自分が正しい、みんなが思う自分というのは、結局自分の思っている神さまと等しいの。だから自分が正しいと思うのは、自分の神さまが正しいなんですけど、自分の神さまが小さいわけです。正しいと思っている自分以外のものは受け取らないのよ。

 そうでしょう、自分がそらそうやなぁと思った分だけ受け取るわけです。そのそらそうやなぁと思う正しいの範囲がすごく狭いの。狭いと神さまの本当の響きを受け取れないから結果としては、怠けてる姿をとるわけですよ。

 じゃあ、なんでわざわざそんな事するのというとね、いろんな体験を積んで楽しみに来てるからいつも言うようにゲームを作って楽しんでる、映画を観て楽しんでるみたいなもんです。映画でもわざわざ、不幸な物語作って楽しむわけでしょう。映画館から出たらさらりと忘れるじゃないですか。でもこの世の映画は忘れずに掴んでいくわけですよ。その掴んだものがたくさん重なって、重なって、神さま以外のものは、本来存在しないんだけど、自分の真(まこと)のプラス言葉の、言葉以外の言葉でね、要するにルールですね。ルールで縛って、そういう色んなマイナスを自分が作っただけなの。自分が作ったものだから、怠けてる姿がわかるの。神さまの方は怠けてる姿ないから、怠けてても怠けてるように見えない。無理に説明したら、ちょうど長い間休憩してはるなぁみたいな感じ。だから、おもろいやっちゃなんですよね。怠けてて悪い奴じゃないわけですよ。

 そういう感じで、真(まこと)のプラスの言葉から見たら全部プラスなんですけども、「既に悟ってる、祈ってる、救われてる」という姿に見えるんですけど、小さい自分の神さま、自分という正しい意識から見たら全部マイナスに見えるの。意識の小さい人ほどマイナスばっかり見えて、虐められはしないかとか、後ろ指さされないかとかね、もうそればっかりが心配になって余計に身動き取れなくなるわけです。

 今の(神書での)先生は、わざと難しく説明されているわけですよ。それで「印可書→神書の言い違いです。ごめんなさい、河上」のここの部分が、今、質問に出ましたけど、その感じで先生に聞きに行ってるとね、先生の場合はこんな優しい言葉で説明せずにダイレクトに心に響かせてくださって本当はわかったんです。

 でもみんな先生に聞きに行く勇気がなかったの。なんでかって言ったら、先生に聞きに行けるくらい命懸けで真剣にみんななってないのが自分ではわかるから。みんな命懸けで真剣になってたら、もうたまらずに聞くんですけれども、やっぱり自分はちょっとサボってるなぁとか、お祈りせえ言われてもあんまりしてへんなぁとか思ってると中々先生に聞きに行けないんですよ。そういう感じでここまで来てるわけですね。

 今、質問があったんでそれを具体的に、後の人が、この録音を聞いてもわかるように細かく今説明させてもらっているわけですけども。いかに自分が正しいと思ってる、その自分というのが自分の神さまと等しいんですよ。その分、受け取れないから色んな姿になるんですけど、その姿を現してる人もその姿を認識できる人も、みんな自分が小さいの。小さいから悪い奴やって言うてしまうしね。自分が大きかったらおもろい奴やと言ってしまうとなるわけです。

 その自分をちょっとでも大きくしてもらいたいから、悪い奴や、サボってる奴やあかん奴やって言わずに、おもろい奴やって、まず言葉で言えといって説明したわけですけど。おもろい奴やって言うてるとどんどん自分が大きくなりますから大丈夫なんですよ。

 その自分の信じてる神さまをどうして大きくするかですね。そうすると無色透明の自分になって、その神書に説明されてるように瞬間になんでもわかる以前に、こなしていけるわけですけれども、それって「印可書」を奉読すると小さい自分を大きくできるわけです。

 「絶対の中心無限大の外遥か彼方」って、初っ端にですね、小さい自分ととこういう世界の自分ってこうね、自分とはこういうもんだとかいう意識がですね、「絶対の中心無限大の外遥か彼方」って広げてしまうわけです。もう有無を言わさず、自分は小さいからこうして広げるんだという説明もなしにダイレクトに響くようにしてあるわけ「印可書」は、そこが凄いんですけど。

 だから、意味わからずに読んでても、知らず知らずのうちに自分が無色透明の自分に変わっていくわけですね。だから今は「印可書」を淡々と神さまのお手伝いだと思って奉読していただくと自分がどんどん広がって、広がるということは無色透明でしょう。

 真っ黒な墨インクだと思ってください。それで、琵琶湖が真(まこと)の神さまだと思ってください。その無限大の外が真(まこと)の神さまの琵琶湖が真(まこと)の神さまの大きさと思えば。琵琶湖にインク瓶一個ポンと落としたって、わーっと広げたら無色透明じゃないですか。

 そういう感じで、みんな無理せずに無色透明の自分、真(まこと)の本心の自分に戻れるわけです。戻れば、すっとわかる以前に、もう一瞬一瞬新たに、そこが一瞬一瞬新たなんです。一瞬一瞬新ただから考える必要がないの。だから、ちょっと引っ掛かるように考えたらあかん、考えたらあかんって言って説明してますけど、それは考えたらあかんじゃなくて、考える間もなくできちゃうんです。そこまでいったら無色透明の自分なんですよ。それだけのことなんです、そこに説明されているのはね。

 ともかく無色透明の自分になるのが目標、目標というとまたね、今の自分が無色透明でないと思うからそれも良くない。だから淡々と「印可書」を奉読してください。それは本来、無色透明の自分だから淡々と「印可書」奉読してたら、自然にそこにすっと戻るんですよ。

 「印可書」は、真(まこと)のプラスの言葉を駆使する状態ですから、完璧なんです。

 なんで、あれだけ短いので完璧なの?って言ったら、それは、松下先生が言霊で、そういう響きだよということを決めて下さったんです。だから、それを素直に信じて淡々と読んでたら、こんなん読んでて大丈夫かな?と思いながらも少なくとも、いつも言うように、でも、これを読んでると神さまのお手伝いになってるんだというとこだけは信じてやれば、無色透明の自分になって、その神書に書かれている内容が一瞬で心に入ってきてわかります。

 すると将棋の対局してて、すごい難局に来た時に、あっとこう手が動く、仕事でも、もうお客さんに怒られて八方塞がりになってて、もうこんなもんどうしようもないわって言う時でも、なんか裏技ができるみたいな、なんて言うんですかね。必ず解決するという、絶対の信と言うんですけど。この世的な感覚でいうと安心感ですね、不安がなくなります。そういうことを言ってます。

 これでいいかな?質問があれば、ちょっと聞いていただいて、良ければ、このままの今の質問の答えにします。

司会者
 今の河上さんの説明で何かご質問のある方、会場の皆さんいらっしゃいますか?よろしいですか?(会場から質問がありませんでした。)ありがとうございます

質問2
 「世界人類が平和でありますように」という言葉は、まだそうなっていないという状態という事ですか?「世界人類が平和です。宇宙神ありがとうございます」と祈る方がいいのでしょうか?

河上さん
 「世界人類が平和でありますように」という祈り言葉なんですけども、これをみなさん誤解するんですね。世界が平和でないから平和になるように祈ってる言葉なんだって。五井先生はそういうふうにおっしゃってないんですよ。でも白光(びゃっこう)の会員さんですら誤解されている方が多いんです。

 それ、今、世界が平和でなくて平和にするための祈り言葉だったら、「世界人類が平和になりますように」です。そうじゃなく、五井先生は「既にあります」って言ってるわけです。

 「世界人類が平和であります」って言うと、みんなちょっと抵抗あるじゃないですか。だから「ように」ってこう柔らかく響きをこう、ふやっとされたわけですね。あの頃は、それでないと受け入れてもらえないから、五井先生の苦労の策なんです。

 だから、今の「印可書」奉読と全く同じなんですよ。それは「宇宙神ありがとうございます」もそうなんですよ。どれもこれも「既に祈ってる、悟ってる、救われてる」「既に絶対平和である」と言うことを言ってるんですけど。みんなが受け入れやすいように五井先生は「ありますように」ってつけられたし。松下先生は、色々とみんなが言いやすい言葉を祈り言葉を出されたわけですね。出されてでもダメだったと言うことで、「印可書」、先生が出された「印可書」でもキツすぎるから、「お前、ちょっと柔らかくして」と言う今に至っていますけども。

 「宇宙神ありがとうございます」だったら、「既にみんな悟ってる、祈ってる、救われてる」というとこを信じなくちゃいけないです。

 本当に、既に「みんな光や」とか「既に祈ってる、悟ってる、救われてる」という「神の御光(みひかり)、御力(みちから)。御生命(みいのち)」とか全部同じ意味ですけど、それを信じて言った時は、一切の文句が出ないんです。すべて神さまが一番いいようにしているとわかる。

 なぜかと言うと、どの祈り言葉も一瞬一瞬新たに受け直す言葉だからですよ。一瞬一瞬新たに受け直せたら、文句は出ないんです。

 「宇宙神ありがとうございます」も「世界人類が平和でありますように 五井先生ありがとうございます」で完結なんですけども、「五井先生ありがとうございます」って言ったら、既に光だけって言ってるんです。だから白光なんですよ。でもみんな、そこに意識がいかないから、「宇宙神ありがとうございます」もそうですね「ありがとうございます」の十文字の時もそうなんですけど、中々いや私たちは迷ってるから、お祈りして悟るんだみたいなね。修行して悟るんだみたいな勘違いがあるわけですよ。

 そんなもんね、「既に祈ってる、悟ってる、救われている」「既に世界は絶対平和である」を前提にしないと実現しないのに。実現しない、既に実現してるんだけど、みんなの心が曇ってるだけなんだけども。その心の迷いも払えないくらい、みんなは、それを謙虚なつもりなんですよ。「既に悟ってる、救われている」そんな事はない、私はまだまだですって言って、謙虚になってるつもりなんですけど、それは卑下慢なんです。増上慢の正反対にある卑下慢で虚栄心なんですね。

 もうただただそれだけなんですよ。だから、白光真宏会のは、すごい素晴らしい教えなんですけども、会員さんが神さまを小さく受け取るんです。ここでもそうです、人のことは言えない(よそさまのことは言えない)。

 ここでも「宇宙神ありがとうございます」なのに「宇宙神」を小さく受け取るから、唱えてると不安が出るんです。本当に「宇宙神」と言うのが「真(まこと)の神さま」そのもの「絶対平和」そのものって受け取れたら、喜んで唱えれるだけなんですよ。それが不安になってくるというのは、神さまの捉え方が小さいの。

 その最初に言った自分が正しいという、自分の神さまの捉え方が小さいから話がややこしくなっていくわけですけど。その最初の「みんな光や」というですね「絶対平和だ」というとこをどう説明してもみんなわかってくれない。これもう本当正直な感想。

 先生と僕が、どない言ってもみんな受け取れないなというのがあったわけですけども。それで、先生が自分の生命(いのち)を本当にすり潰されて「印可書」という形にして、「どうやこれで」っていう感じで出されたわけです。「これは光強すぎる」ってこっちは一瞬思ったけど先生がされることなんで、そのままスッといったら、案の定、光強すぎて、みんな受け取らないから今に至ってますけどね。

 でも「宇宙神ありがとうございます」って聞いて、私たちは、これが絶対だと思ってると思う人は、本当にそれに命懸けに、自分の不平不満を投げ込んでください。不平不満が出た時は、絶対には思ってない。神さまの光を100%受け取れてない。受け取れてないから不平不満が出るわけ。でも、出るのは仕方ない、でも、どこへそれをお返しするかっていうこと、これを「絶対奉仕」というんですけどね。それを全部、神さまにお返ししなくちゃいけないんですよ。

 それで、真祈りとは「絶対奉仕」なんですけども、「絶対奉仕」というのは神さまに自分の生命(いのち)もすべて投げ出すこととか説明はしますけど、みんな投げ出すことなんやな、自分が投げ出すことなんやねんなって勘違いするわけですよ。その勘違いがあるために、先生がどれだけ「絶対奉仕」って言われてもみんなわからない。「宇宙神ありがとうございます」って祈れって言われても祈り切れないがあったわけです。

 なんでお返しできないかって言うと、それは、一瞬一瞬新たに受け直してないから押し出してもらえないの。新たに受け直すから古いのが押し出されるわけ、それを変なところへ捨てずに神さまという器に投げ込むわけ。琵琶湖という器に投げ込むから綺麗になるので、その辺の道端にインク落としたって黒くなるだけじゃないですか。そういう感じで、一瞬一瞬新たに受け直して、投げ出すわけです。それを「絶対奉仕」。

 そこへ、一瞬一瞬新たに、自分のすべてを文句も不平不満も喜びも全部投げ出して、要するに投げ出すということは、神さまのお手伝いをします、神さまのお仕事をします、ということですけど、投げ出すわけですね。投げ出すと神さまの方からは、無限の無限の形で返ってくるんですよ。その無限の形を受けたら、すぐまた神さまに投げ出すわけです。すると無限の無限の形で返ってくるんです。その無限の無限の響きをまたすぐ神さまにお返しするわけです。すると無限の無限の無限の無限の響きで返ってくるんです、こういう感じです。

 倍々ゲームで増えていって、絶対の本当の中心に立てるようになるんです。立てるというか中心に立ってる自覚がわかってくるんです。これが真祈りなんですよ。いわゆる「秘奥義のありがとうございます」なんです。

 その受け直すとこがね、一瞬一瞬新たに受け直すことがみんな出来ないし、苦手だし、わかってくれない、でどうするかということで「印可書」を作りました。

 だから、「印可書」を読めば神さまのお手伝いになるというとこは信じてくれって言ってましたけど、もう一つ足しておきます。「印可書」わからんでもいいけど素直に読んでいただいたら、それが、一瞬一瞬新たに受け直す事ですから、受け直したら、勝手に押し出されて出てきます、いろんなものが。それをいかに神さまに向けてお返しできるかです。

 それを「あいつサボってる」ってね、要するに「サボってる」っていう意識が(一瞬一瞬新たに新たに)受け直したら浮き上がってくるわけですよ。「印可書」選べない人って言うんじゃなくて、「印可書」読んでるとなんか過去の思い湧くねんっていうことやと思うんですけども、湧いた思いを「あいつサボってる、あいつあかん奴や」っていうふうに捨てずに「神さま、ありがとうございます→宇宙神ありがとうございます」というとこへ投げ込んでいただくのが「絶対奉仕」である。それには「印可書」を使うのが一番楽ですけど、みなさんご自由にやり易い形をとってくださいということです。ありがとうございます

質問3
 この頃、とても眠い日が多いです。夏が暑かったせいか、糖質制限をしているせいか、食べ過ぎなのか、体力のせいか、夜に浄化してもらっているのかと、色々考えてしまいます。原因と対策を教えて頂けたらありがたいです。よろしくお願いします。

河上さん
 はい、まあ、時間切れもあるし、八月八日も過ぎましたし、ちょっと厳しい怖い話でお答えしたいと思います。

 今の質問はね、皆さん共通してある、大なり小なり持っていることだと思うんですよ。何が一番問題かと言うと、まず、食べ物があることが当たり前。食べ物を美味しいと思って食べている。あるいは体力を作るために食べている。神さまの生命(いのち)と思ってないわね。

 例えば、空気があることが当たり前、水があることが当たり前ですよね。なんとも思ってないでしょう?そこが一番問題なんですよ。摂り方とか色々説明はしましたけども、まず最初に、「すべて神さまのおかげです。ありがとうございます」、最低限ね。それだけでは、本当は緩いんですよ。(きびしく言えば)「すべて神さまの生命(いのち)です。ありがとうございます」なんです。食べる時も空気を吸う時もね。

 だけど、それを一々思わんでいいんですよ。でも、その意識さえ持ったら変わるわけですよ。でも、それを持たないから「印可書」って言ってるだけで。「印可書」を奉読していると、本当に真剣に「印可書」ばかり奉読するようになるので、それで変われるわけですけど。

 それで、なんで真祈り人の使命が重要かというと、真祈りできる人がものすごく限られた数なんですけど、今、ここに集まっておられる方の「印可書」奉読によって、皆さんの縁者がすべて救われるんです。「印可書」奉読に変わっていくんですよ。それを先生は、「宇宙神をね、すべての人の心に立てる。」っておっしゃったわけです。

 真祈りとは、宇宙神をね、真(まこと)の神さまを「宇宙神」と言っても良いし「真(まこと)の神さま」で良いんですけど、表現は色々ありますけど、「真(まこと)の神さまを、すべての人の心に立てることだ」とおっしゃったわけですよ。

 それを聞いて、「どうして立てるんですか?」(どのようにして建てるんですか)って聞きに行かないからね、ややこしいんだけどね。先生は聞きに来てくれたら、言葉を越えた伝授で悟りを与えれたわけです。それで、「私らもらってないわ。」じゃなくて、ほとんど全員に先生は、ちゃんとされていったんですよ。でも、ほとんどの人はね、例えばね、「護摩の前に、すごい幸せな気持ちになって、祈ってる自分に気付いたんです。」って人に言ってしまうの。あるいは先生に言ってしまうの。それね、そこで崩れてるの。

 悟りというのは、自分から悟るんじゃなくて、神さまが引き上げてくださるんですよ。先生は平等に皆さんを引き上げたの。その時に、色んな人が色んな感覚でね、感じてるんですけど、その時に、その感覚にスッと入らなあかんねんけど、入れないんですよ、嬉しすぎて。それは普段の、言って悪いけどね、普段の真祈り、祈りに対する真剣さですよ。そのためなんですけどね。

 どの人も、僕もいただいたし、みんないただいてるんだけど。例えば、お祈りの部屋で光が見えたとかね、色んな体験が、皆さんあるはずです。大なり小なり。その、見えた!の時に、スッとそこへ入らなあかんねんけど、入れないんですよ。それは、まだ自分というものが小さいから。でも、小さくても素直にフワって投げ出せたら良かったんですけど、投げ出せた人がいなかったんですね。

 僕の場合は、「あぁ、河上さんの本心は祈ってるやないか。」ってポンっと言葉以前でおっしゃったわけですよ。真祈りできなくて、もう11歳の時ですけども、先生のおっしゃるようにお祈りするけども、できない。もうこれは、とても先生に付いていけないし、先生の働きの邪魔をするだけだからって言って、泣いてお詫びをして、お暇乞いに行ったわけですね。とても自分には、そんな器じゃないみたいなね。言った時に、先生がハハっと笑って、言葉以前で、「河上さんの本心は祈ってるじゃない、ずっと祈ってるやないか。」っていうのが来たわけです。その時にそれにフワっと入ったわけです。入るくらい真剣に祈ってたからね。入ったから全部わかったわけですけど。

 その辺がなかなかね、みんな考えてしまうとか、なんて言うんですか、嬉しくて人に言いたくなるとかね。あるいは色んな形があるでしょう?「お前は悟った。」って先生がおっしゃてくれる場合も、直接おっしゃってくれる場合もあるわけです。悟ったと言われて、「私は先生から悟ったと言われた。」って人に言ってしまって終わりなんですね。「悟った」「はい、ありがとうございます」ってスーっと入っていったら、パンっと広がったとこが、琵琶湖にインク瓶をポンっと落としてんけど、自分で受け止めたみたいな感じやね。もうちょいやったのに、というとこなんです。

 それを今は、「印可書」を通して、絶対奉仕として神さまにどんどんお返ししていくだけで、緩やかにいけますからね。緩やかにいく方がラクなんですよ。一瞬でパンっといかれると、後、この現世(うつしよ)との調整がすごい難しい。

 僕は小さい時から、偉そうにしてるとかね、人を小バカにしてるとか、一杯言われるわけです。言われるって、透き通るように見えるから、うかつに返事できないし、こう…してるじゃないですか。そしたら、お高くとまってるとかね、もう凄いあつれきがありました。だから、今の緩やかな真祈りの伝授をしますって言って、先生が亡くなられた直後の護摩から宣言したわけですけど。この緩やかな真祈りの伝授が終わったけども、もう皆さんは、どんどんどんどん投げ込める状態にあるんですよ。あるんだけど、ちょっとみんなちゅうちょしてるから、今、事細かく説明しています。そうして投げ込んでいただけたら、全部はもう解消します。もう、たったそれだけです。

 だから後は、細かいことは勝手に自分でできるし、例えば、熱が出て病気になって、あるいは癌になってもね、素直に「印可書」奉読してたらスッと治るんですよ。だから、これから、もし、癌って医者に言われてね、素直に「印可書」奉読してて治らなかったら、まだまだ自分が、これお手伝いになってるって信じ切れてなかっただけなんだなと思って、もう一度、要するに投げ込むことが、一瞬一瞬新たに受け直すことが、「印可書」奉読が、簡単に受け直す方法なんだから、「印可書」奉読して、新たに受け直したら、自然に神さまにスッと返していけるんだというのを、もうちょっと信じ直していただいたら、いつも言うように、イエスの奇跡を誰でも現らせれるようになります。

 もう、本当に皆さん、後の1%だけやからね。これだけは自分で投げ返してもらわないと困るんですよ。それなのに、一瞬一瞬新たに受け直さずに、現実の文句を言ってるでしょう?それがいかんのよ、それが。一番良く皆さんが現実で文句を言ってるのは、「しんどいなあ」「疲れたなあ」、朝起きて「これから仕事行くの嫌ややなあ」ってね。これですよ。これって神さまの生命(いのち)を汚してるの。神さまの生命(いのち)は無限の無限の輝きで、絶対の自由だから、「しんどい、疲れた、嫌だなあ」はないんですよ。

 「しんどい、疲れた、嫌だなあ」って言った時は、既に自分が、小さい自分、小さい神さまを受け取っているわけ。ということでわかりますので、一切の。文句が出ても良いんですよ、出た文句は全部、「印可書」奉読しながら、神さまにお返ししてください。それだけで、もうあっという間に悟れます。本当の無色透明の本心の自分が自覚できます。ありがとうございます

司会者
 ありがとうございます それでは、会場にお越しの皆さんの中で、何か河上さんに質問のある方はいらっしゃいますか?(会場からの質問者がありました。)

質問4
 はい、ありがとうございます いつも興味本位の質問で申し訳ないんですけれども、先日、とあるブロワーの方が、ミシャグジシン。

河上さん
 何それ?

質問者
 ミシャグジっていう地域、長野県で信仰されていた、信仰されている神様の名前らしいんですけれど。

河上さん
 道祖神(どうそじん)でしょう。

質問者
 道祖神(どうそじん)。由来は、大昔に地球にやってきた宇宙の方々で、今でも 地下に住んでおられるというようなことを書いておられて、自分が元々住んでいる所が近いんですね。それで、ずっと不思議だったのが、諏訪の神様と言える所とかぶってるんですけれども、もし、 お話できる範囲で宇宙の由来の道祖神(どうそじん)様になるの?

河上さん
 いや、だから、波動として違いますけども、この光が30万キロメートルという周波数の世界が、この地上なんですよね。それで、30万キロ以上の光の世界。要するに、ラジオで言う1150ヘルツとか、666ヘルツとかいうふう周波数の違いなんですよ。周波数の違いで、この地底にも人は住んでいます。周波数の違いで、火星にも、水星にも、金星にも人は住んでいます。30万キロの周波数で見たら見えないですけどね。ラジオもそうでしょう。周波数合わさないと聞こえないじゃないですか。そういう感じだけのもんです。道祖神(どうそじん)は、地上に対する、お清めのためのアンテナです、地底人の。

質問者
 地上に立ててるアンテナ。

河上さん
 要するに、光を出す灯台です。

質問者
 一杯おられると思うんですけれども地下に。その中の、とある一つの種族ってことですかね。

河上さん
 いえ、種族とかそういうもんではなくて、生命(いのち)そのものです。だから、この光が30万キロの周波数の世界で見るとね、肉体があって、黒人、白人、黄色人種、要するに、青人、赤人、黄人、白人、黒人というね、5色の人種がいるような感じでと思うでしょうけども、正確に言うと、光が30万キロプラス重力がいくらという掛け合わせの周波数の世界なんですよ。

 だから、地球でも重力がもっと軽い時代があったんですけど、その時代は恐竜の時代なんですよね。アトランティスの時代とも言いますけども。色々あって、どの時代も、どの姿も、人間の方が、真(まこと)の本心の自分がね、いろんなルールを作って、この程度の引力で、この程度の酸素でとかね、自分でルールを作って、表現を楽しみに来てる世界だけなんですよ。地底人も一緒です。その表現を楽しんでるうちはいいんですけど、表現を掴み出しってややこしくしてるのが、今の地球人類だということです。地底人は掴んでないので、さらさらと流れています。それでいい?

質問者
 はい、ありがとうございます

河上さん
 ありがとうございます

司会者
 ありがとうございます その他、会場の皆さまの中からご質問のある方いらっしゃいますか?よろしいですか?(会場からの質問はありませんでした)引き続き河上さんの話をよろしくお願いします。

河上さん
 するとね、もうともかく、空気があるのが当たり前、水があるのは当たり前の気持ちで死んじゃうとね、何が起こるかというと、水も空気もない世界に追いやられるわけです。追いやられるというより自分がないと思ってるから、ない世界に自分が行くんですけどね。行ってから不便さで苦しむだけです。空気も水も食べ物も、すべて神さまの生命(いのち)そのものなんだというのを素直に受け取れたら、またぱっと現れるわけですね。

 だから、地獄というのは、狭い、暗い、小さいとこというのは、神さまを拒否して、拒否して、拒否していくと、そういう世界に落ちる。最終は神も仏もないものかというと、絶対無の世界に落ちるんですよ。それは無限地獄よりも下です。まだ無限地獄は見えるものがありますけども、もう神も仏も何もないって言ったら、本当に何もない世界行くわけですね。そこで、全く漆黒の闇ですから、前にも後ろにもどこにも行けないし、何も聞こえないしという、もう、なるわけですよ。

 そこで初めて、神さまと呼ぶまで、自分で自分が、そういうルールを作った世界で楽しむ。やっぱり、それも、苦しくても、楽しむなんですけどね。でも、あると思ってるから(掴むから)苦しむんですけどね。気づくまで一人楽しんでる。彷徨うという表現は使わないでおきます。楽しんではるわけですね。そういう感じになります。この世の普通の人の大半は、そういう世界まで、すーっと降りてきます。落ちていくというよりも、自分が降りていくの。だって、認めないんだもん神さまを。

 この現世といえども、すべて神さまの生命(いのち)できてるんですよ。当然でしょう、光でできてるんだから。その光すら認めないから光のない世界。神さま認めないということは、光の光を認めないから(闇の世界へ自分で選んでいきます)光の世界へ(大丈夫行けるから)、私は大丈夫よっていう人はいないです。「印可書」を奉読する以外は、みんなそこまで自分で行きます。だって自分が認めてないからね。

 「印可書」を奉読するとすべて真(まこと)の神さまって、自然にわかるので行けるわけですけど、その辺だけなんですよ。ちょっと今日は、わざとじゃなくて、怖い話をしてるのは、もう8月8日過ぎたのでね、本当に皆さんの体に、いろんな意味で、下手に、「あいつあかん奴や」とか、「ロシアは悪い奴や」とかね、あるじゃないですか。そういうこと言って跳ね返ってくるのは自分なんです。本当に8月8日過ぎたのでね、どーっと出てくるんですね。もう出てくるのが早いので、そうなる前に「印可書」を素直に奉読し続けてると楽なんだけどなぁぐらいの話です。別に脅かしてないです。本当にそうなるのでね、なってからだと、例えば、癌が全身に吹いてね、痛みが走り出してからだったら大変じゃないですか。だから痛くないうちに奉読できる人はしましょうねという。

 「宇宙神ありがとうございます」選んだ人は、本当に「あいつあかん奴や」という思いをいかに投げ込めるかです。いかに投げ込めるかです。そやけどちょっと残るのね、癖としてね。残った分が病気の姿やいろんな姿になります。そういう、本当に、時間切れっていうのは、そういう意味なんですよ。

 そうですね、 今2023年ですから、2030年ぐらいまでをピークにどんどん大変になります。いろんな意味で。どの形になるかは、人類、全人類の総合的な自由意志の選んだ姿ですけどね。もうどんどん護摩成功してますから、その30年ぐらいをピークにどんどん真祈りが広まって収まっていくと思います。だけど、この護摩がうまくいかずに中止になったり、失敗はまあないと思いますけども、中止になったりして真祈りがぐっと落ちちゃうと、その30年に向かって本当にぐちゃぐちゃになって。地球霊王さまの方は、もう人類が真祈りできないんだったら、もう待てないからっていうことです。

 どういうことかと言うと、地球霊王さまの体と私たちの体は一つで一緒なんですよ。でも、地球霊王さまの御心に添わない、真(まこと)の神さまの御心に添わないことは、地球霊王さまの御心に添わないということですから、だから、地球霊王さまの体を使って、この肉体を作ってますので、地球霊王さまから見たら、その神さまを信じない肉体人間ていうのは、(肉体人間で説明すると、健康な生命の働きを無視して勝手に増殖する)癌細胞なんですよ。人間でも、癌細胞は、放射線当てたりとか切り取ったりとか、払うじゃないですか。このままいくと、地球霊王さま、もう今の人類、一旦、払ってしまいにすると、アトランティスが滅びた時のようにね、いろんな、今は第7回目の文明になるわけですけども、あの第7回目もなしにするってなるわけですね。

 もう本当にはっきり申し上げますと、もう、今地上に生まれた人は、次、この地球に、ほとんどの人は、もう生まれて来ません。落第して、そういう幼稚園の星に行くか、色々ありますが、あんまり詳しく言うなって、今止められたので、 それくらい、時間切れは、時間切れです。ですから、ぜひね、「印可書」を淡々と奉読できる方は、神さまのお手伝いだと思って、そして、一瞬一瞬新たに受け直すことだと思って読んでください。

 「宇宙神ありがとうございます」選ぶ方は、もう真剣に、本当に真剣に投げ込んでください。ちょっとでも文句出たら、しまったと思って投げ込んでください。それが真祈りです。

 ただ、「宇宙神ありがとうございます」の場合は、何が一番難しい言うたら投げ込むというよりも
一瞬一瞬に受け直すができないんですよ。なんでかというと、自分のものを持ってるから、それが問題なんです。その自分のものを持ってるというのが、自分という神さまが小さいということなんです。

 すべて真(まこと)の神さまで、すべて真(まこと)の神さまのものだから自分のものが何かあったら無色透明の自分になっている。単純なとこなんだけど、自分のものにする癖がついてるからね。これだけ一生懸命開墾して畑、田んぼ作ったのに、誰も引き継いでいかなくてもったいないとかね。これだけ会社を大きくしてちゃんとしたのに、うまく、自分が死んだらうまくいかなくてもったいないとかね。みんな何か掴んでるんですよ。それはもう大なり小なり、この世の形の大なり小なり関係ないの。掴んだ瞬間に受け直せないから真祈りができなくなっていくんです。

 だからいつも言うように、どの形になっても一番いいようになってるということをまず無条件に受け入れていただかないと真祈りが進まないんですけどね。これはお釈迦さんの時代がそうなんですけども、釈迦一族が本当に滅ぼされるんですね。その時にお釈迦さまがいらっしゃるのになんで止めてくれないとか、もうみんな文句言ってくるんですけども、お釈迦さまは滅ぼされる因縁を持ってる以上は、滅びる形が一番いいんだということをおっしゃるんですけど、わかる人が少ない。

 もうちょっとそれを柔らかく、今が一番いいようになってるって僕が説明してますけど、それも真祈りなんです。一瞬一瞬、新たに受け直すことができるから、今が一番いいようになってるってわかるわけで。一瞬一瞬、新たに受け直さなかったら、そんなもん痛いからなんでやねんって、こんなに苦しいのにってね。こんなに熱出てんのに、こんなに咳出てるのに、こんなに借金まみれになってんのにもう何が今が一番いいようになってんねん、アホかいなってこうなるわけですよ。それは、一瞬一瞬新たに受け直してないからです。

 それって、肉体だけの形で説明しますと、息を止めてる状態なんです。空気を自分のものやと思ってね。この空気、自分のものやなって、こう自分の中に溜め込んでるのね。苦しくなってる状態が今の人類の状態です。素直に新しい空気を、素直に今の溜め込んだ空気を神さまにお返しして、新しい空気を吸うだけなんですよ。

 だから、本来皆さんは一瞬一瞬新たな状態をね、呼吸で体験して、(まぶたの)瞬きで体験して、 心臓のドキドキで体験して、自覚してるんですよ。自覚してるのに、一瞬一瞬新たに受け直せない受け直せないって駄々こねてる状態です。それでも、どう説明しても、なかなかみんな癖があって受け取れないから、「印可書」を先生作ってくださったんです。だから、ぜひね、せっかく先生が生命(いのち)、生命(いのち)をすりつぶして作ってくださった「印可書」を大事にして奉読してみてください。すると一瞬一瞬新たに受け直すというのが理屈抜きにわかって、本当にすーっと一大循環の相象(すがた)になっていきます。よろしくお願いします。また来月お会いできることを楽しみにしています。ありがとうございます

 音声はこちらからどうぞ
 https://youtu.be/aJBgyq9w99g

 宇宙神ありがとうございます

じょうし 2023/10/05(Thu) 14:16 No.3058


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10月光の交流会 by kawakami 2023年10月05日(木) 15時25分
PC

令和5年10月光の交流会
 宇宙神ありがとうございます

 令和5年10月光の交流会で聴いていただいた先生のお話です。

 本心の自分を生きる

先生
 本心の自分に戻ったら本物よ、神さまと波が合う。ただ、神さまに波があったら本物よね。この波合わすっていうのが一番大変よ。本心の自分にも波が無限の段階がある。

質問
 秘奥義のありがとうございますを唱えています。こういうふうにしても、私はよく滝に行ってるとか、ありがとうございます唱えるように、言葉通りっていうことで、そういうふうにしてやることをやってるんですけど・・・。

先生
 だから、言葉だけではまだ違うよ。そこまで大きい自分にならないと本心でも大きい自分になったら秘奥義になるけど、この波の合わせ方っていうのが大事よ。でも、より高い波で合わした方がプラスが大きい。低い波で合わしたらマイナスが大きくなる。だから、高い波を自分がいつも保つっていうのは、本心の側に立たないとダメ。本心の自分に戻ると波が高くなる。思いの心の奴隷になったら波が低くなる。だから、波を高めるために、本心の自分に戻ろうとする。本心の自分をしっかり生きようとするだけよ。高くなったら、神さまの世界に戻れる。

 仏教で出家っていう言葉ある、出家ってね。在家の生活を全部捨てて仏門に入って、ひたすら修行するっていうね。でも、本当の出家は、そういう一面だけじゃないよ。例えば、お釈迦さんも出家っていうね。王子として生まれて、家柄が尊い一つっていうな感じ、尊い一族っていう感じで財産が一杯あるじゃない。奥さんも子供も居てたんじゃない。それをわざわざ全部捨てるんじゃない。29歳の時、全部捨てて、本当に何もない状態に自分を置くんじゃない。それで修行に入るために苦行、苦行に励むんでしょう、6年間でしょう。苦行っていうのは厳しいよ。単なる質素な生活とは違う。単なる質素な生活って言ったら楽よね、一番楽よ。でも、苦行ってなると、物凄い厳しいよ。それはもう過去世の色んな思いを溜めて、借金をした分の借金返しよ、自ら願うのね。思いを早く消したいからって、借金を早く無くしたいからって、それで苦行に励む。

 断食ぐらいじゃないよ全身痛めつける。痛みを与えて思いを消そうとする。だから、6年間苦行をした後、どんな姿をとってるか?本当に地獄の餓鬼みたいな姿よ。本当に醜い姿よ、幸せがどこにあるかっていう感じ。でも、なんでそこまでするか?

 虚の世界は、みんな贅沢三昧してるのは、本当はプラスじゃない。みんな、借金で生かしてもらってる。波の変化って、みんなそうよ。波っていうのは、上がったら必ず下がる。下がったらまた上がる。上がるのは低い波に、低い波に、下の波に支えてもらって上げてもらった、借金。借金したら、今度、借金返ししないと下に落ちる。この変化の連続よ。波が細かい方が、まだ楽なの。波が荒くなるほど、波乱万丈よ、大変な人生を送らなんね。

 波っていう字ね、さんずいに水に皮でしょう。皮っていうの表面よね。海だったら海の表面の一枚皮が波じゃない、水の本質じゃないよ。波の変化っていうのは、あるようで無いの。水は実態としてある。でも、波の変化は、現れたらすぐ消える。実態が何も無い。これは、虚の世界よ。

 だから、この波の変化を喜ぶようだったら、本当に幸せになれないよ。あの時も、もうね、王様になって、贅沢三昧できたって、上に上がったと思ったら、必ず落ちてしまうよ。落ちた時の方が、苦難の連続、大変よ。虚の世界の波の変化で幸せなんか得られないの。だから、この波を沈めたいと思うのね。

 心の安らぎを求める人は、七難八苦の苦しみから逃れたい。こう借金が多い人、借りが多い人、これはもう過去に、過去世で贅沢したからよ。必ず、借金が多いから、借金返しの七難八苦の苦難の道が待っている。その時に、それをいかに耐え抜けるかよ、練習がいるのやっぱりね。贅沢なところから、ドンと落ちたら、もう、物凄い苦しみ。今でもそうでしょう。今の生活程度を半分に落としなさいって言われたら、地獄みたいに苦しむ、落とせない。半分にするだけで大変よ。

 だから、苦行に励む人は、まず、苦痛に耐えて、苦労に耐えて、そして心の苦しみを少なくしようとする。自ら苦行に励んだら七難八苦の苦しみが軽く済むの。贅沢三昧して楽な方選んでたら、この差が大きいだけ苦しい。だから、その借金返しの苦難の姿とギャップを少なくするため。そしたら楽に耐えられる。

 そのために苦行に励んだ、みんな。でも、苦行したから悟れるんじゃないよ、悟りとは無縁よ。大きい苦難の苦しみを楽にするため、苦行に励んだ。そうしたら苦難に耐える力が出てくる。差が少ないだけ耐えられる。でも、悟りはそういうのとは無関係よ。虚の世界の波の変化じゃないから本心の自分に戻らないとダメ。本当の自分に戻って、真実の世界へ真(まこと)の神さまの世界へ、戻らないと神さまと一体化しないとダメよ。

 だから、虚の世界で思いの世界で、いかに苦労を少なくしたってダメよ。まだまだ、それでは、本心に戻るのとは違うのよ。本心に戻るのは、やっぱり言葉がいるね。本心の自分を思い出さないとダメ。思い出すっていうのが必要なのよ。そして、本心の自分に戻ろうとしないと。これ、やっぱり、言葉の力よ。これはもう、真理の言葉の力が必要になる。

 そして、本心の自分を呼び出せたら、本心側に立てる。そして、本心の自分生きたら思いを消していけるよ、消せるのよ。光の自分は、闇を消せる。本心の自分は、思いを消せる。プラスの本当のプラスの自分は、マイナスを消せる。そしたら、本心の自分さえ生きたら、思いに負けなくなる。

 出家っていうのは、本当の出家は、思いの心の奴隷状態から抜け出て、本心の側に戻ることよ。思いの雲の上へ抜け出ることよ。本心側に立ったら、本当の出家。だから、今の生活そのままで思いの心から本心に戻るのが出家。形を破壊してもダメよ。思いの心のままだったら、まだ出家でもなんでもない、形じゃないのこれは。思いの心を捨て切って、本心の自分に戻ること、これが出家。

 出家して、本心の自分は、真(まこと)の神さまへ弟子入りするのよ。それで、真(まこと)の神さまを助けを大きく、受け直すのよ、ずーっと。そして、神さまと一体感を深めていく。これが真(まこと)の悟り。

 まず、本心に戻らないと真(まこと)の神さまへの弟子入りは不可能、できない。だから、虚の世界の思いの心で弟子入りしても偽物よ、みんな。すぐ自分の心もコロコロ変わる。一貫性もないし、自分が師匠より偉くなる。すぐ離れる。そんなんでは、本当の師弟関係なんて生まれない。

 だから、本心の自分に戻って初めてね、真(まこと)の神さまへの弟子入りが可能になる。真(まこと)の神さまは、自分に合わせて色んなすがたで導いてくれるよ。必ず、無限倍の力をもって導いてくる。これ入れ子構造の仕組みだから、自分が立派になったら、更に、その無限倍の力で導いてくれる。これ永遠に続くものよ。

 だから、本心の自分に戻って、真(まこと)の神さまへ弟子入りをしない限り、心安らがない。思いの世界で、いくら思い通りになってもダメよ。思いを溜めて、借金が一杯だったら心の底から七難八苦が湧き出る、逃げられないよ。思いの心イコール七難八苦の心よ。もう消えるんじゃないよ、消さないとダメだから、消す方法は、本心の側に立つことよ。本心の自分の側に立ったら思いを消してもらえる、自分も思いを消そうとできる。

 だから、自分がしっかりと定めないとダメ。思いの心の奴隷状態から本心の自分に戻るんだって、本心の自分をしっかり生きるんだって、これを決めないと思いに負けるの。みんな、他と戦うんじゃないよ。自分との戦いよ、自分っていうたらなんだけど、思いの自分との戦い。

 本心の自分と思いの自分との戦いよ。本心の自分が勝ったら、常勝不敗よ。ちょっと心がぐらついただけで思いの奴隷になったら負けてしまう。どの分野でも同じよ、本心の自分との戦いになってる。だから、本心の自分をしっかりと生きようとしないと出てこない。

 だから、本心の自分は、甘い生き方では出てこないのよ。いつも限界を破って困難と戯れるような気持ちでないと本心の力、必要ないの。本心の無限力って必要ない。本心を引っ張り出すには大きい目的を定めないとダメよ。この世的な小さい目的だったら本心は出てこない。この一生を安楽に暮らしたい、こんな程度じゃ出てこないよ、絶対出てこない。

 少なくとも仏の四弘誓願(しぐぜいがん)っていうのは、目的を定めないとダメよ。みんなを悟らせたいって、みんなを救いたいって、そうでしょう。大きい願い持たないと本心の出てくる必要はないのよ。だから、本心を引っ張り出すために大きい目的を定めないと。そしたら、本心に戻りやすくなる。

 でも、本心に戻ったら、もっともっと真剣になるよ。本当の神さまと一対一で対面したら、本当の神さまの凄さがよくわかる。本当に弟子入りしたいって願う。弟子入りした後は、本当の恩返し、絶対奉仕。もうそれだけよ。いつも無限倍の助けを受け続ける生き方になるの。

 だから、この世的にも本心の自分に戻ってね。本心を輝かしたいっていう人は、人の十倍働かないとダメよ。そのぐらい目標持たなダメなの。人の10倍働いて本当に必要なものを的確に与え尽くすような生き方がいる。10倍働いても必要ないもの、人の欲しがるもの、贅沢の与えたらマイナスよ。必要なもの与え尽くす生き方がいるのね。これは神さまの働きと波が合っていくの。

 神さまの一大循環の相象(すがた)は、みんな必要なもの、本当に必要なものだけを的確に与え尽くす。必要なだけを与えるの、余分に与えないからね。必要なだけを与えたら一番幸せよ。残り全部Uターンさせるのよ。神さまの方へお返ししてしまわないとね。良いものだからたくさん与えたら人を幸せにするのかと違うのよ。必要なだけがその人を幸せにする。

 お菓子が美味しいからって、子供が欲しがるからって一杯与えたら、虫歯になって、病気になって、子供がマイナスと借金いっぱい背負うよ。そんなん幸せにしてるのと違うよ。本当に必要な時に、最高の菓子を一つ与えたらいい。 それはもう、その子供、最高の幸せに導くの。

 すべてがそうよ、必要なものを的確に与え尽くす生き方を、この世でも練習していかないと。そのための十倍働く働きがいる。そしたら本心が輝く。本心が出てきたら思いが消える。マイナス一切起こらない、全部消えてしまう。でも、怠けてたらダメよ、怠けてたら人の助けだけ受けてたら、これ借りばっかり作るから、仮は思いを一杯溜めていく、借金よ。

 借金イコール思いよ、思いが一杯溜まったら思いの奴隷になってしまう。そしたら、働けなくなる。病気になったり何もできなくなる。どんな理由をつけてもダメ。借りを一杯作ったら、みんなそうなる。だから、思いの奴隷からその状態が抜けられなくなってしまう。

 本心の自分を生きたら、徳の貯金が増える。思いの心を生きたら借金がどんどん積み重なる。だから、借金の生き方から貯金の生き方へ変わるのは、物凄い力がいるよ。自分では絶対できない、 無限の高利の借金を持ってる人が、どれだけ働いたって利息の一部すら返せないから、どれだけ働いても借金増え続けるだけよ。利息で増えるのよ。だから、返しようがないよ。それを無限の貯金のある、そうでしょう、自分に変えてもらわないとダメなの。何もしなかっても、貯金で利息が増えて、貯金が増えていくっていうぐらいまでならないと本当のプラスになってない。だから、思いの奴隷状態から本心の自分に戻るために何が必要かでしょう。

 守護霊さん、守護神さんは、夜も寝ないで一生懸命清めてるよ、思いを消し続けてるよ。夢の形で全部、みんな寝てる間、夢の形で全部マイナス消してる、思い消してるよ。守護霊さん寝てないよ。24時間勤務で、みんなが寝てる時に一生懸命思い消すために、夢の中で形に現して消すのよ。みんな覚えてる夢は起きがけのちょっとだけよ。みんな寝てる間、ずーっと夢見続けて消してもらってる。運命を修正してもらってる。守護神さん、副守護神さん、もっと大きい働きしてるよ、思いを消すために本当涙ぐましい働きよ。それだけじゃ足りないのよ、過去世の無限の借金を消せない。

 だから、救済の神さま、大勢の高い神さま一杯、この人っていう時に大挙して応援につくよ。一生懸命たくさんの神さま応援して思いを一気に消そうとする。その時はチャンスよ。思いの心から本心に戻るチャンス。このチャンスは何回もないのよ。みんな、それちゃんと与えてほしいと思う、一人ひとりね、誰でもそうと思う。でも、みんなに平等になんてできないのそんなん。物凄い力がいるから、守護霊さん、守護神さん、救済の神さまが大挙しても一人の人を救うだけでも大変なの。

 それは、全員にっていってね、全員にっていうたら、もうね、力を分散したらできない。それはもう、守護霊さん守護神さんだけで助けるっていうのと同じよ。ついてても無限の借金なんて消せない。今、新たに積む借金ぐらいなんとか減らそうとするぐらい。そのぐらいで終わってしまうじゃない。だから、その虚の世界の救済の神さま加わっても、まだダメだから、真(まこと)の神さまが大きく降り立つのよ。本当の神さまが、本心の心に戻そうとする。本当の神さまのするのは、 その人の持ってる半分消すの。半分消して、波を合わせて色んな助けを一杯加えてくる。これ物凄い大きい消し方じゃない。

 だから、そのチャンスを生かせるかどうかよ。だからこれ、真剣さが必要なの。チャンスって何度もないのよ。昔から言うけど、チャンスの神さまは後ろ髪がないって。チャンスの神さま前髪だけ。出会ったら、掴まなかったらもうついていけないよ。チャンスの神さまは前髪だけ。出会った瞬間に掴まないとダメよ。後でって思っても後ろ髪がないから、すーっと滑ってしまう。

 大きい目的も本心に戻るのが、まず一番大事なの。本心に戻るっていうのが、一番大き目的じゃない。本心に戻ったら、さらに真(まこと)の神さま一体化を深めるっていうのは、これはもっと大きい目的。だから、虚の世界で自分の溜めた思いを借金を消してもらうために、大きい目的を持つっていうのは、まだ小さいよ。これまだ自分のことだけ考える利己的な思いの心と比べたら、みんなを幸せにしたいっていう思いは大きいよ。

 他を優先する方が本心側の生き方と近い。本心の自分は、愛の心そのものだから、報い求めず、与え尽くすだけっていう本心の自分はそうよ。それに近づけるって言ったら、自分のことを忘れて他のためにっていう生き方が一番、それに近くなるからね。それも大きく見た方がいいよ。みんなを幸せにしたいっていう大きい目的の方が、本心の心に近くなる。でも、本心はもっと大きいよ。

 本心の心は、虚の世界を全部自分の中に収めてしまうよ。虚の世界の一部をどうのこうの違うよ。本心の自分は、虚の世界なんか小さく収めてしまう自分の中に。だから、本心の自分に戻れたら大きい。でも、本心に戻るためにね。

 だから、大きい願いを立てた方がいい。そうすると、自分も本人側に早く戻してもらえる。だから、悟りを開きたいっていう願いはいいけど、でも、自分を一番最後にする方がいいの。みんなを先に渡すってね。この方が、神さまの愛の心と波が合うからよ。

 神さまは自分のこと考えないね。他を幸せにすることしか考えないからね。自分のことを、ほっといていいの。他を幸せにしたい、他を悟らせたい、本心に戻したい。この願いがあったら、自分も、自分の方が先に助けてもらう。神さまの側に立ってるから神さまに近いからよ。

 神さまの助けを先に自分の中に流れるの。そしたら、先に助けてもらう。 他の方は後よ、自分の中を通って神さまの助けがいくだけだから、他の方が後回しになるの。だから、先に他を救いたいっていう願いがいいの、自分が一番先に救われる。でも、それも期待したらダメよ。期待したら、また求める心になるよ。そうじゃないよ、純粋に 純粋に求める心なしで与え尽くす心になると神さまの愛と波が一致する。

質問
 その願いの立て方っていうのは、四弘誓願(しぐぜいがん)をそのまま唱えるんでしょうか?

先生
 でも、それもまだ願いよ。求める心、思いの心になりやすいの。それよりも真(まこと)の神さまだけって言った方がいい。真(まこと)のプラスだけ、一大循環の愛の相象(すがた)だけって、神さまの世界を断定的に言葉にする方が、それを受け入れる方が、そうでしょう。あの人を幸せにしたいっていうよりも、あの人は既に悟って幸せだっていう方が正しいの。

 本当のお祈りが一番いいのよ。でも、思いの心は、どうしても願いになりやすいの、本心側は神さまの世界を断定的に言葉を使って受け入れようとするの。だから、本心側に立つ方が大事。本心の自分をしっかりと生きようとする方がいい。

 達磨大師って禅宗の開祖でしょう。座禅ばっかりして、お釈迦さんと同じような悟りを開いたって凄いよ。面壁九年って、壁に向かって九年座り続けたって凄いことよ。足立たないよね。だから、達磨。歩けなくなるぐらいまで座ったんでしょう、それも何のためか?本当の弟子を生み出すためよ。

 拝み続けてるんじゃない。弟子が一人でも出てくるのを、本物の弟子が出てくるのを拝み続けてるんじゃない。弟子入りしたいからって来たって本物になるかどうかわからんじゃない。でも、本心を拝み出してもらえた人は、 そうでしょう。本当の願いを持って弟子入りしてくるかもしれないっていうね。一人出て来たんでしょう。

 第二祖の慧可(えか)禅師って一人雪の中で入門を請(こ)うわけ、何回請(こ)うてもダメだって断られる。本当の真剣さがあるかないか試してるの。いくら頼んでも許してくれないからって、その慧可(えか)禅師っていう人は、自分の左肘落とすんじゃない。切り落として、これを捧げて「私は、この世の何も願ってない」「本心の願いしかない」ってね。「悟りしかない」って、これを示すんじゃない。やっと入門を許してもらうの。

 だから、本心の自分に戻ったらそうよ。肉体は単なる道具だから、本心の自分を傷つけるんじゃない、道具の腕一本ぐらいなんでもない。悟りを開くために肉体の腕一つなかったら悟れないのと違うからね。それより入門許してもらえない方が大事なこと、一大事よ。入門を許してもらえなかったら助けてもらえないものね。だから、どんなことがあっても入門したい。弟子入りしたいのよ、助けてほしいのよ。だから、やっぱり入門を請(こ)うわけよ、命かけて。

 だから、ここへ来る人でも、本当にそのぐらいの気持ちで、お祈りに来てるかって考えてごらん。どういう波で、ここに波合って来てるかって、この波色々よ。遊びに来る波の人もあるし、お祈り来る波の人もある、本当に絶対奉仕に生きて、恩返しに生きてっていう人の波もあるよ。でも、どの波に合うかによって助け違うよ。高い波に合うほど、大きい助けを受ける。思いも大きく消してもらえる。思いを消してもらうよりも本心を拝み出して引っ張り出してもらえる。この方が大きい助けよ本当の助けはそうよ。

 だから、最初の人はみんな世間的にパッと来るだけよ。ここに来て本でも、シールでも、ただで貰ったら喜んで帰るだけ、恩返しの心何もない。こういうのは、その時だけの助けよ。色んな縁者が一杯ついて来て、その縁者は助けてもらってるけど、そういう人がやっぱり多いよ最初はね。

 でも、段々と背後の人の願いも高くならないとダメよ。それよりも、自分の願いが高くならないと、 高い波に自分が合わさないと、大きい本物の助けって受け取れない。やっぱり、波の合うものしか受け取れないよ。

 だから、本当の神さまへ恩返しに生きて、絶対奉仕に生きてっていう、本当の全託生きてっていう、こういうしっかりした気持ちを一大決意をしっかり定めないとダメよ。だから、この一生、過去世の借金返しのために七難八苦が連続して一生続いても軽いもんだっていうぐらいの気持ちがいるの。本当に借金消えるんだったら、毎日七難八苦の連続でいいのよ。そのぐらいの気持ちで借金返しをしようとする方が正しい、楽な方を選ぶ方が間違いよ。でも、それが来るかどうか別よ、来ない。

 そのぐらいの気持ちになったら出てくる大難が無難に消える。大難が小難にっていう必要はないのよ。本人が命かけて消そうとしてるから、大難を小難に現して気づかせる必要ないからよ。だから大難が無難に消えるの。難は出てこない絶対。でも大難を消してもらってるよ、毎日毎日ね。それでないとそんなん思い全部消えるわけないからね。でも、その覚悟はあるかないかって大事よ。この一生連続して七難八苦でいっぱいでも構わないって言わないとダメ。その覚悟を決めた方が楽になる。逃げないよ、借金返しから逃げようとしない。そしたら、それがすぐに恩返しに変わるのよ。神さま認めるから借金返し、命かけてしようとする時は、 神さま認めてくれる。これ、神さまが認めないと、恩返しの生き方と違うの。

 借金返しの真剣さを見て、神さまが認めたら即、恩返しに変わるの。その時から神さまが借金の肩代わりをしてくれる。神さまが全部引き受けるのよ、借金の引き受け。だから、恩返しに生きるのが一番幸せなんだけど、でも、恩返しになるまで、なるまでが大事よ。自分が真剣に命かけて借金返しをしようとする覚悟がいる、これは甘いことないよ。自分には借金ないなんて言い張ったらダメよ。謙虚さも素直さも全然ないことになる、真剣さもないことになる。

 考えたらわかるじゃない。元から神さまの世界を眺めてて、それを掴んで自分のものにした、これが泥棒じゃない。その虚の世界へ転落してからどれだけ、虚の世界は神さま助けないから自分の贅沢は全部借金でしてる贅沢じゃない。借金を積み重ねて、思いをやっぱり無限に積み重ねてるの。いつ自分がそれを消したかって、消した時なんか一回もないじゃない。借金を積み重ねたばっかりよ、みんな。

 だから、どれだけ膨らんでるか?無限の借金っていうだけで済まない、無限の無限の借金よ、本当は。それを一生懸命に助けようとして、消そうとして、守護霊さん守護神さん救済の神さま一生懸命消し続けても、まだ消えないっていう物凄いことよ、これは。自分が責任もって消そうとしたのと違うよ。縁(えん)のある神さまが一生懸命助けても、まだ消えてないのに、その苦労を思ったら自分がどれだけ、恩返しに生きなダメかってわかるはずよ、迷惑かけないようにってね。だから、贅沢は絶対ダメよ、新たな借金を積むから必要なだけで喜べる自分にまずならないとダメよ。 後、借金返しを真剣にしようとして、本心の自分の側に立って、必要な働きをしっかりとしないとダメ。それも三倍はダメよ、三倍じゃダメよ。十倍を目指すぐらいの気持ちが必要よ、三倍って世間並みよ。

 三倍働くのは過去の借金返しと、今の自分の生活と他を助けるための働き。三倍は、まだ、この世、この世の生き方なの。この世の浅い意味の幸せな生き方っていうね。でも、過去世の思いを全部消してっていう生き方は違うよ。十倍目指さないとダメよ。それはもう本心の力が出てきたら、働きが本物になって大きくなるからよ。

 必要なことを的確に見抜けて、それをできるようになるから無駄なことしても、本当の働きじゃないものね。本当の必要なことできたら働き大きくなる。だから、本人側に立って働くようになったら、大きい働き、十倍の働きに変わる。そしたら、神さまの助けと波が合ってくる。だから、どんな働きも必要な働きをスピード化しないとダメよ。スピード化って絶対必要よ。神さまの世界、高い神さま、虚の世界の高い神さまの世界はスピードが速い。スピードが速いほど、高い神さまの護り受ける、波が合うから。

質問
 十倍働きたいと思いましても肉体的に、その許せない状況があったりして、こういう場合はどうしたらいいですか?

先生
 その反対されるのは、何か反対が出てくるのは本心の自分を生きてないからよ。どんな邪魔するものが出てきても本心の自分を生きる時は、絶対妨害ない、反対ないの。

質問
 例えば、治療でもって時間が制約されるとか?

先生
 そんなのは取るに足らないことよ。本心の自分を生きたら自由自在じゃない。縛り全部消える。必要なことをちゃんとできるようにすぐに変わる。運命ガラッと変わるのよ、全部。 変えていけなかった本心じゃないよ。

質問
 その働きってっていうのは、労働だけですか?それとも、お祈りとかそういうのも全部含めての働き?どうなんでしょう?

先生
 神さまの働きどんな働きよ。本当に必要なものを与える働きじゃない。一人ひとりの幸せに本当に幸せを与える働きじゃない、無駄なこと違うよ。これがなかったら絶対幸せになれないっていうものを与える働きじゃない。それを見抜いて、それをしっかりと 働いていく働きじゃないとダメじゃない。だから、みんな世の中の人は贅沢ばっかり願って生きてる人の求めるものは全部必要でないよ。必要でないものを与えてもマイナスを与えてるよ。

 だから、働いたからって、形じゃないよ。本当に必要なものを見抜いて、これも神さまの願いと自分の願い一致してこないとわからないよ。だから、神さまを願い生きるっていうのが一番必要になるの。だから、本心の自分をしっかり生きないと生きようとしないとね。本心の自分は、神さまの心を生きるの。必要なものだけを的確に与え尽くそうとする、それもスピード化して、さっと与えたいとね。それをいつも練習しないと本心じゃない。

 みんな思いの心は、やっぱり自分を縛るよ。みんな、今ここで火事やって言ったらどうする?火事消しに行かなあかんでしょう。でも、自分は嫌って言うたら行かないよ。他の仕事してる言うたら、行かない人多いよ。そんなん、ほっときなさいってなるよ。何が必要かって、その時、何が必要かってわからんでしょう。これが神さまと本心の自分とで波が合ってたら、ぴたっと波が合ってたら、必要な時にすーっと行っての先に、火事だからって行くんじゃないの。火事になる前に行って火事ならないように止めてるの。ここまでいかないとダメよ。

 いつも神さまから導かれてて、初めて必要なことを的確にできるのよ。だから、「ありがとうございます」って、いつも本当のお祈りすることは一番大事よ。神さまを呼び続けて、神さまと波を合わすっていうのは、これ一番大事なことだけど、ただ座って祈るだけじゃダメよ。片手落ちよそんなん役に立たない。自由自在になってないと本心じゃないの。だから、自由自在に動ける自分が必要なの。座って祈る自分が必要なのと違う。神さまは自由自在に動いてくれる道具が必要としてるんじゃない、そうでしょう。神さまは本心に大きい力を添えてくるよ。でも、虚の世界だったら、この道具がいるじゃない、肉体の道具が。この道具を使いこなしたいじゃない、正しく。だから、その訓練しとかないと能力高めとかないと必要な時に使えないじゃない。同じこのマイナスを消すためでも、色んなマイナス消すのでも、肉体を使って消す方が楽じゃない。細かいところを行き届いて消せるかもしれない。

 だから道具っていうのも大事に使ったら、必要な時はちゃんと役に立つじゃない。だから、色んな意味でたくさん勉強あるよ。でも、思いに縛られたらできなくなる。自己限定して過去のことばっかり言って、本心側に立とうとしないから神さまの助け、まず循環してこない。

 だから、本心の側に立つということは、いつも今、新たに自由自在にっていうのが鉄則よ。そして神さまの力で動かしてもらう。神さまが働き始めたら全部プラスに変わる。

 だから、高い神さまは必要あって、すーっと神憑りしてきた時、一瞬に高い波に変わるのよ。その時は過去は無関係よ、物凄い力発揮する。だから、過去とは無関係なの本心の自分生きようというのは。本心の自分を生きよういうのは、そうでしょう。神憑りしてくる虚の世界の高級心霊と比較しても、本心の方が上なのよ、もっと上なのよ、大きい。全知全能の本心よ。虚の世界の神さま全部、自分の分身みたいなものよ。守護霊さん守護神さんも小さい分身よ。本心の自分から見たらそうなの。本心の自分を生きようとすると本当は、大きい力が下りてくるのよ。自己限定なんか一切ないの本当は。だから、本心をしっかり生きようと、この願いを立てる必要がある、絶対、これが出家よ。

 思いの自分から、本心の自分に戻ろうという、これが本当の出家よ。悟りへの本当の道よ。本心に戻ったら、悟りを得たって言うんだけど、まだ小さい悟りよ、そこからよ。悟りを深めるのは、無限に無限に深めるの。本当の神さまと一体感を大きく、深くする。それが本心の本当の目的よ。

 虚の世界をどうのこうの、そんなん本当の目的と違うよ、偽物よ。本当の世界を虚の世界に映し出すのが目的なんて笑われるよ、反対よ。虚の世界は転落しただけじゃない。落とし穴にはまっただけよ。早く抜け出すが正しい。虚の世界をよくしたってダメ。虚の世界から抜け出ること、思いの世界から本心の心に戻って、神さまの世界に早く戻ることよ、大事なのはね。

 はい、ありがとうございます

 音声はこちらからどうぞ
 https://youtu.be/DXUWxseLNGo

 宇宙神ありがとうございます

じょうし 2023/10/02(Mon)


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9月勉強会 by kawakami 2023年09月15日(金) 21時53分
PC

令和5年9月河上さん勉強会お話し−1(20230910−1)

質問:ありがとうございます。先月の勉強会でも、お二人が分かりやすく説明して頂いたんですが、「真(まこと)のプラスの言葉」と「虚の世界の両極に分かれたプラスの言葉」の違いなんですけども。どうしてもプラスの言葉だと、無意識の癖で安心してしまうところがあって。でも、説明では、お話の中では、真(まこと)のプラスの言葉以外は、すべて、プラスもマイナスも、マイナスなんだというところのお話がありました。中々、その違い、区別というところが無意識のうちにできなくて。何度も説明を聞くと思うんですけども、今回の説明をお願いします。

河上さん:はい。虚の世界のプラスの言葉というのはね、自分にとって都合の良いことをプラスに言うの。小さい自分にとってね。だから、自分にとって都合が良かったらプラス。だから、家族が健康でありますようにとか。身近な例で言うとね、娘が幸せでありますようにとか、お父さんが病気が治りますようにとかね。年を取ってきたら、親父が病気が治りますようにとか、治って良かったとか、健康で良かったとかね。自分にとっての結果が、都合の良いこと、プラスですけど、それってマイナスだというのが、中々、みんな分からないんですよ。その虚の世界の結果をね、要するに現実を掴むと言うんだけど、それが、どうこうというのが、なんで意味を成、中々、みんな分からへんのね。
 それって、もうちょっと分かりやすく言ったら、ゲームで勝った負けたと言ってるだけで、分かります?ゲームで勝ったても負けてもというだけで、ゲームで勝手も負けても、まあ一緒やろ?楽しんだだけで。それだけなんですね。だから虚の世界での、その人にとってのプラスというのは色々あってね。例えば、冬山に登るのがプラスの人がおるわけでしょう?あるいは42キロのマラソンを走る人が楽しくてプラスなんでしょう?あるいは野球でも将棋でもそうだけど、麻雀でもそうだけどね、ポーカーでも。ルールで縛って、その中で勝った負けたをプラスマイナスと言ってるわけ。小さく言ったら、そういう形やし、大きく言ったら、自分の生活での幸せとか幸せでないとか言うのを、プラスマイナスだと言ってるわけね。

 でも、自分にとっての幸せは、他の人にとったらマイナスなんですよ、この虚の世界では。例えば、たくさんお給料を頂くということは、儲けたということでしょう?それって他が安月給で働いた人がいるからのおかげで、自分にたくさんのお給料が来てるだけで。それって、先生のお言葉で言えば、ようけ(たくさん)給料を貰うのは借金なんだと。

 それの最たるものが、宝くじに当たるのが一番の大きな借金だとおっしゃるわけだけど。だから、虚の世界のプラスって宝くじが当たったら幸せってなるわけですよ。極端で言うと分かりやすいと思う。宝くじが当たったら幸せ。でも本当は、みんなのマイナスのお金を集めて、当たるんでしょう?宝くじって喜んでお金を出さないよね。ギブ&テイクで。当たったら取らぬ宝くじの皮算用やと言ってね。当たったら皆におごってあげるからなとか、色々言うわけだけども。実際はマイナスのお金を貰うから、ものすごく不幸になるんですけどね。宝くじで言うとね。

 でも、それは普段のお給料でもそうよ。大して働いてないのに、ようけお給料を貰う人ととね、一杯働くけどもお給料をあんまり貰えない人とあったら、どっちが幸せかと言ったら、先生は、一杯働いてお給料を貰えない人の方が幸せだと言うわけですよ。

 だから、お釈迦さまはね、阿難さんに、托鉢に行く時に金持ちの家は行くなと。明日食うお米にも困っているような貧乏人の家に行って、托鉢をしてこいって言うわけですよ。阿難さんは、そんな生活に困ってる人からお金を取ってどうするんですかって。素直だからね、阿難さんは素直に聞けるのね、虚栄心がないからね、聞くわけ。そしたら、お釈迦さまはおっしゃるわけね。今、先生のおっしゃったようなことを。金持ちのお金はマイナスで意味がないんだと。貧者の一灯がね、本当のプラスで値打ちがあるんだとおっしゃるわけですけど。本当にその通りで、この世のプラスなんてのは所詮マイナスなんですよ。

 いつも言うように、100個のあんぱんを、100人に神さまは用意してるわけ。だから要するに、今が一番良いようになってるっていう意味ですけども。ちゃんと今が一番良いように、全知全能の神さまが、この虚の世界といえどもしてるわけ。その人にとって一番のことしか神さまは用意してないの。でも、みんな文句を言ってね。あんぱんで言うと、私は5つ食べたいわとか、あるいは明日のあんぱんも確保しとかなくっちゃって、3つ4つって取るわけでしょう?要するにお給料をようけ取るわけや。そしたら、あんぱんを食べられない人が出てくるわけでしょう?100人のうちからね。そういう感じで、自分にとってあんぱんをたくさん取ったというのはプラスです。でも、食べられないマイナスの人が出てくるの。それって借金なんです。

 だから、この世は言葉通りになるって言ってね、自分は幸せになるとか言うのは間違いなんですよ。それを先生は口を酸っぱくして色々と説明するんだけど、みんな分からへんの。言葉通りになるという、自分に都合の良いところだけを捉えてね、プラスさえ言っていたら良いんだみたいにやるわけですよ。現実を掴んでな。現実を掴んだ時点で、要するに、今の自分がマイナスだから将来プラスになりますようにって、現実を掴んで言った時点でマイナスを積み重ねていることすら気付かないくらいにね、みんな自分が正しいと思ってるの。この前の護摩の話じゃないけどな。それで何も分からんようになってるわけよ。もう、只々それだけよ。

宮野さん:多分、先程の、その自分に関しての話を多分ね、自分にとっての話を分かりやすく、まあ、分かってるとまでは分からない、なんとなく理解はできるんやと思うんですね。ただ、例えば、人に対しての言葉、「私、病気になってん」とか言う時に、「え!大変やな、大丈夫か?」とか言うね。もしくは、その人にとって、なんか悪いことが転じて、良くなったのって、「ああ、良かったな」っていう、その「良かったな」という言葉はプラスの言葉やないのか。その人にわざわざ嫌なこと、マイナス的な言葉をかけることが、どうなんだろう?それ。プラスの言葉で言ったことやのに、そのプラスの言葉が、あかんのちゃうか?という風なところの、その見極めが難しいのかなという。

河上さん:いやいや、実際はあかんよ。

宮野さん:そりゃ、勿論あかんねんけど、そこが分からないんじゃない?

河上さん:実際はあかんねんけど、因縁因果も何も知らん人にね、「病気になって良かったな」って言ったら叩かれるからね。その慰めの言葉としてね、好転反応とかね、どうこうというのは言ってあげたら良いですよ。この世の、ある程度の常識の線で従ってやらないと、後ろ指を指されるからな。それは適当に合わせてあげたら良いけども。でも、ちゃんと本当のことを知っておいてね、印可書をね、その人に気付かれないように奉読してあげることが、真(まこと)のプラスの言葉を駆使することになるわけですよ。

 だから、この世の虚の世界のプラスをどうこうっていじったって、結局はマイナスを重ねているだけというのをね、要するに現実を掴んでどうこう言うのはマイナスを重ねているだけっていうのに早く気付かないとあかんねんけど、みんな現実を掴んでどうこうしましょうってなってるわけ。現実を掴んでどうこうしますってどういう意味かと言ったら、自分の力でどうこうしましょうってやってるわけよ。

 真(まこと)の神さまだけってなったら、神さまが一番良いようにしてるだけ、しか出えへんの。真(まこと)の神さまだけになったら、そしたら自分の我も真(まこと)の神さまなんかっていう言葉は出えへんわけよ。もう神さまが一番にしてるだけって喜ぶだけなの。喜んだら現実を掴んでへんから、サラサラと流れて、すべては良いように変わるんやけどね。現実を掴んでいる間は変わらへんの。

 現実を掴むということは全知全能の神さまを汚しているでしょう?この世を作ったのは神さまと違うの。みんなの言葉で作ったの。マイナスの虚の言葉で。虚のプラスであろうがマイナスであろうが、虚の言葉で作ったことであって、神さまをお作りになった世界ではないの、この世はね。皆が自分の言葉で、自分のルールで自分を縛って、色んなすがた形になって、いろんな能力になって楽しみに来てるだけよ。映画館に入っている状態よ。そうでしょう?映画館に入ったら、その映画の主人公に、みんながなって見るわけでしょう?楽しいも悲しいも色々あるけど、どれもその状態に、みんなそれぞれ自分の映画を作って楽しんでるだけよ。

 なのに、その自分が作った、自分の責任で作った現実を掴んでな、「神さまはこんな不幸なことを(自分には)してる。」とかね、「神さまは私にこんな目に遭わせてる。」とかな、神さまを汚すわけでしょう?それって自分が正しいと思ってるからや。神さまが正しいと思ってへんの。全知全能の神さまを信じ切れたら、自分の力なんかこれっぽっちもないって分かるから、文句は言えへん。

 だからいつも言うように、ちょっとでも文句が出たら、「宇宙神ありがとうございます」に投げ込まないと、真祈りの伝授を受けてないんや。先生の中で一番古い大先輩の言うこと一つよう聞かない。自分が正しいと思ってるからや。(僕の言うことを試しに)聞こうともせえへん。

 別に聞かんでも良いけどな。それくらいね、みんな自分が正しいから抜けへんの。現実を掴んで。それで現実を掴んで文句を言うわけよ。

 でも、その現実は誰が作ったん?あなたや!ということすら気付けへんぐらいな、ゲームの中に没頭してるの。だからほら、映画、怖い映画を見てね、小っちゃい子がそうでしょう?怖い映画を見て、それにもう抜け切れないから、夜寝るのが怖いって言うわけでしょう?「あの映画のオバケが来るから怖くて寝られへん、お母ちゃん寝られへん。」って言ってる状態よ、みんな。もう、その映画を見てることすら忘れてる。

 でも、どの運命も、どの自分の運命もね、今やってる仕事も、もう、その男という役割も女という役も、全部ね、自分でこれをやりたいって言って選んで、これを味わうと言って選んで来てるだけや。自分で選んで来て、何を文句を言うか、やねんけども。映画に没頭したら、普通はオカルト映画を見ても、怖かったなあって、楽しみやけど、本当に小っちゃい子みたいにのめり込んだらね、もう夜も眠れないくらい怖くなるはずや。あるいは、昔やったら、石原裕次郎の映画を見たらね、みんな裕次郎の歩き方をして映画館から出てくるくらいな、それになり切るみたいな感じやな。その状態になってることすらみんな気付かない。

 それで、尚且つ(なおかつ)、人の助けを求めてね、助けてもらって良かったってなるの。生活保護を受けられて良かったな、なんてのたまうひとが出てくるの。大変やからそれは早く抜け出さないとって教えれる人も一人もいない。先生の教えを50年受けてきた人間ですら。それくらい、みんな現実を掴んで現実から逃げられへん。でも、その現実を作ったのは自分だって気付かないと抜けられへん。まあ、抜けなくても良いんだけど、楽しんだら良いだけなんだけどね。

 楽しまれへん。現実をもっと楽しまないとあかん。自分が楽しむために来てるのに。それがプラスとマイナス、現実の虚の世界の。

 ちょっと質問して。よく分からない顔してる。

質問:マイナスの事柄とか、自分で文句を言うということは、比較的気付きやすいんですが、例えば、周りの方のプラスの行い、プラスのすがた、まあ現実を掴んでると思うんですけども、それに対して褒めることっていう、そのプラスの言葉…

河上さん:それは褒めておいたら良いけどな、褒めてサラサラと流しておいたら良いの。要するに掴まないというのが大事なの。だから結果に一喜一憂するなって言うやん。例えば、良いことをその人がしはっても、結果的にうまくいかなかっても、褒めておいたら良いということよ。そうだけど、現実の言葉、現実を掴んで、現実のプラスの言葉に振り回されてマイナスになっていくのはね、結果を掴むからや。

 あの人は勉強できへんとかな、あの人はサボってるとかな。色々あるやん?結果を掴んでしまったら、もう本当にマイナスを駆使したことになる。本当の駆使になっていくんや。

 サラサラと結果を掴まないで、この世的に合わせてね、楽しんでいたら良いの。演劇やからね、映画やからね。落語の世界よ。「なんか面白い奴が集まってワーワー騒いでおります。」やったら良いわけや。そうやのに、落語やったら、「ちゃんと取った出汁を捨ててしまったんか、アホたれが!」って言ったら、それはもう現実を掴んでるの。「あーあ、せっかく出した出汁を流してしまって、もう面白いのばっかりが集まって、ワーワー騒いでおります。」って言ってたら良いの。

 そこがな、大事やねんけど、中々、みんなサラサラと流されへんの。だから先生は手振りをつけて、サーサーサーってサラサラサラって言ってるのにな、変な宗教みたいに言うから、それも、凄い言霊やってんで。「宇宙神ありがとうございます、サーサーサー」というのはな。凄い言霊やってんけど、みんな分からへんし、先生を疑うからや。先生が仰るんだから間違いないってやったら、ちゃんとみんなあの時スッと悟れてんけどね。疑ってやな、変な宗教みたいに言うからやな、もうそれやったらって言って終わるの。

 先生の苦労が色々あるねんけど、みんな分からへんけどな。分かる?今ので分かった?結果を一切掴まない、サラサラと流したら、この世的に適当に合わせてね、褒めてあげたり慰めてあげても構わないの。でも、「本当に、がんになって大変ね」って掴んで慰めたってあかんの。相手にはね、「がんになって大変ね、きっとなんとかなるよ。」って言っといたら良いの。で、印可書を奉読したあげなあかん。「宇宙神ありがとうございます」の中に全部投げ込んでいかないとあかん。

質問:がんを掴んで、それをプラスに変えようというのが掴んでること?

河上さん:もうマイナスにしてる。神さまはがんを作れへん。人間が勝手に作ったやつやから、神さまに任せたら簡単に治るんや。でも、人間がな、どうしようって掴むんや。風邪ひいた時もそうや、熱が出てきた、どうしようって掴むから余計に悪くなるの。「ああ、これで神さま、ちゃんとしてくれた、良かった。」って言ってたら良いのにな。

 だから先生は、熱を出そうが、咳痰が出ようがね、「神さまはラクさせてくれへんな。」って感想は述べられるけども、それで辛いとかは一切おっしゃらない。喜んではっただけや。

質問:現実を掴んでプラスに変えようということが、既に掴んでるマイナス…

質問:そうそう、だから先生のセクハラ騒ぎの時でも、僕はその騒いで先生を疑った現実を掴んで怒ったから、めちゃめちゃ先生に怒られた。「現実を掴むんやったら、当分来るな。」って言ってな。

 分かる?だから何があっても印可書に、印可書奉読に戻ったら掴んでても離して貰えるから印可書がラクなの。「宇宙神ありがとうございます」でいくんやったら、掴んだ自分を必死で自由意志で「宇宙神ありがとうございます」の中へ投げ込んでね、気にならなくなるまで「宇宙神ありがとうございます」の中に投げ込まないといけない。ひたすら。「宇宙神ありがとうございます」で祈っても、「あいつ、あんなんしてる。」とかね「あの人がんやって。」思ってしまう間はあかんの。先生から「宇宙神ありがとうございます」って聞いてんやったら、そこまで真剣にやらなあかん。みんな先生を疑っているから真剣にできへんの。「宇宙神ありがとうございます」を祈っても何も変わらへんわってどこかで思ってるから、こんな面白い事になってるんや。はっきり言うけど。

 印可書はな、本当に印可書読んでいても大丈夫かなあ?と思っていても、それを吸い込んでくれるように先生がしてくれてるから、僕は印可書をお勧めしてますけども、「宇宙神ありがとうございます」でいけるで。その代わり、本当の真剣さが要る。もうお祈りができなくて、もう先生に迷惑がかかるから、もう…って泣いて先生に謝った、僕のような感じの真剣さが要る。この中で誰がな、必死で先生の言うとおり、お祈りしようとしたけど、できませんって言って泣いて謝った人がおるか。みんな甘すぎるんや。でもそんなん言ったら付いて来られへんから印可書って言ってるやん。

 これで大体分かった?もうちょっと?

質問者:いや、かなり…。

河上さん:質問してや。今、大事なところやからな。あなたを責めて言ってるのと違うし。だけど、みんなが思ってる疑問なの。代表して聞いてくれているから、本当に、ちょっと徹底して質問して。

質問:今ので聞いた理解なんですけども、がんを掴んでいる周りの方がいてて、「あ、良くなったら良いのにな」っていう、そのプラスの思いは虚のプラスの思いで、掴んでる思いだから、マイナスだという。

河上さん:そうです。

質問:神さまは一番良いようにしてるんだから、サーサーサーと流していればよい。

河上さん:そう。それでサーサーサーって流されへんやろう?本当は、あの人ががんやって掴んだ思いをね、必死で「宇宙神ありがとうございます」の中に投げ込むの。宇宙神ありがとうございます、宇宙神ありがとうございます…まあ、僕の時は「ありがとうございます」やったけど、本当は「天之造化主尊」やったけど、ありがとうございますの中に投げ込んでね、あの人ががんっていうのを忘れるくらい。絶対健康って思う必要もないの。もう神さまだけって。要するに、神さまだけってなったら良いの。すると病気は治るの。これが病気治しの秘儀やってん。

質問:それが今では、印可書というプラスの言葉で…

河上さん:そうそう。誰でもできる状態に、先生がしてくれはったんや。だから先生やったら病気を治してくれたのにとかね、甘えている時代ではないの、もう。それは、おまけで先生が、みんなの甘えを聞いてくださった時代で。これからはみんなが先生の働きをするんやって言ってるやん。

 それで、働きをするためには、印可書が一番ラクで、先生の神さまのお手伝いになるからね、印可書を奉読してねって、ここまで柔らかく言って分からんのやったら、好き勝手したらええんねんけどやな。「宇宙神ありがとうございます」に、ただ本当に投げ込んでいかなんね。「ありがとうございます」の十文字でもそうやねんけどね。

質問:がんの方が今までいてたとしたら、治りますように、というマイナスの思いをしていたけども、今与えられている印可書で、真(まこと)のプラスを…

河上さん:ひたすら奉読するだけ

質問:奉読すれば、神さまが一番良いようになってるんだなっていうことが分かる。

河上さん:そうそう。

質問:縛りが取れたということですね。

河上さん:そうそう。だからね本当はね、この世的なゲームでルールで、要するに自分の言葉で縛って楽しみに来てはるから、がんを楽しみに来てる人もいるの、本当はな。だから絶対に治さなくちゃいけないはないの。

 ただ、印可書はね、凄いもので、こっちが奉読するだけで、むこうの心にも印可書が響き渡るんよ。そしたら、その人が、がんを楽しもうと縛ってる、楽しもうのルールを外すから病気が治るの。それを昔は、「天之造化主尊」でね、放り込んで、病気治しをしてたんよ。でも、なんぼ病気を治してもな、喉元過ぎたら熱さを忘れて元に戻っていくからな。もうこんなんしてても意味ないなってことで、おまけは止めはったんや、先生。

 で、まずはみんなが印可書できるぐらいまでは、綺麗にしようと。自分が正しいとの思いを消そうと。お前の真祈りが足らんからって怒られてやね、ひたすら本当にしたんや、ひたすら、命を削って。本当に削りに削ってしたんや。だから本当はもうちょっと早く死ぬ予定やねんけど、なんかおかしい状態やけど、そないしてしたんや。それで99%、この前の護摩で言ったように、みんなの「自分が正しい」という思いを消しました。本当に消してるからね。でも残りの1%は自分の自由意志で投げ込んで貰わないと、悟りって言えへんの。それだけや。もう、そこだけや。

 だから、この現実を掴んで、病気が治るとか治らへんとか要らんの。いつも言うように、神さまが良いようにしてるだけで、あとはサラサラ流していったら良いねんけど、流されへんから印可書奉読に持っていったら良いというのがラクかなあと。テレビショッピングと違いますけどね、個人の感想であって(笑)。

宮野さん:あの、「投げ込む」っていう、先程のね…

河上さん:「投げ込む」が難しいんやな?

宮野さん:そう。「投げ込む」が難しくって。必死になって、例えば「宇宙神ありがとうございます」の場合、護摩の時も必死になって…

河上さん:淡々と読むだけ。

宮野さん:そう。「淡々と」なんだけど、先程言ったみたいに、がんだったのを忘れるぐらいに必死になる時に、必死になると「我」が入る場合と「淡々と」の、その差が難しいところかなと。

河上さん:うん、だけど、その「我」が入っても良いから、「宇宙神ありがとうございます」に投げ込んでね、そのがんを忘れる状態に持っていかんなんね。それがその、「ありがとうございます」とか「宇宙神ありがとうございます」とか「天之造化主尊」もそうやってんけど、ある意味難しいわけやね。そこまでひたむきに神さまを信じ切るという。それで、印可書は何が凄いかと言ったら、「本当に真(まこと)の神さま、(ちゃんといいように)してくれるんかなあ。」みたいなね、不安があったままで大丈夫やから凄いの。

 要するに、小っちゃい子がね、「お母ちゃん、お手伝いするよ、ちょっとキュウリを切らせて大根を切らせて。」って来るわけや。お母さんがお料理しててね、トントンと大根を切ってるキュウリを切ってる時にね、小っちゃい子が来てね、「お母ちゃん、お手伝いさせて。」って来るわけや。そしたら、そんなん、手伝いをさせたら余計時間がかかるし、まともに切られへんのも分かってても、そのお手伝いする気持ちが嬉しいから、お手伝いさせるのね、親というのは。神さまもそういうものなの。

 だから、印可書を奉読するというのは、もう本当に拙いね、真祈りにもなっていない状態でも、「お手伝いをしたい!」という気持ちの隙間を通して神さまがパンッ!と(光を通して)してくれるの。

 だから、印可書は神さまのお手伝いというところだけは信じ切ってくれて、やって頂かないと。「印可書を読んだらええんやろ?」ではあかんの。それで、奉読って言わせてもらってるわけ。

 印可書を読めとは言わへんのね。先生も読めとは言わなかったんは、その「お手伝い」というのが分からないとあかんから。でも、奉読というのは「捧げ奉る」やからお手伝いになっていくんでね。「奉読」という言葉を選びましたけども。それだけやねんな。

 で、要するに、現実無視できる、現実を掴まない、現実無視できるのが一番大事やねんけど、現実は、先生の言葉を借りて言うと、遠い遠い過去の結果なの。で、色んな人は、マイナスの、今言ったね、現実を掴んでどうこうっていったマイナス言葉を積み重ねてるから、今使った言葉が現われてこないから、余計現実は変わらないものや、正しいものやって勘違いしていくの。

 本当に先生のように真祈りに入ってしまうと、出した言葉はすぐ出るから、なんでも言葉通りに現実も変化するというのが分かるからね、言葉も選びはるし。だから滅多なことで、「あの大バカ者め」っていうことを先生はおっしゃらないけど、まあ何人かには言いはったけどね。それくらい先生は言葉を選びはったの。でも今は印可書があるから、「あのサボったヤツめ」とか「あのアホタレめ」とか言っても、印可書でなんとかなるよというだけです。そこまで小っちゃい子がやれるように先生がしてくださったのね。

 それでも、「宇宙神ありがとうございます」を選びたいという人は、そりゃもう、それで良いって。でも、本当に命懸けでやったら良い。「聞いてる」ではあかんの。「私たちは『宇宙神ありがとうございます』って聞いています。」ではあかん。聞いたら実行せえよ。なんで実行せえへんねや。

 だけど出来へんねんって。最初にね、呼吸に「宇宙神ありがとうございます」って乗せましょうね、真祈りは難しいから、そうして乗せましょうねって言ってね、乗せ切れた人が一人もおらんの。まあ乗せきれないのを分かっていて言ってたんだけどね。それぐらい、その簡単な言葉ほど逆に言うと難しい。一呼吸ごとに「宇宙神ありがとうございます」を乗せるだけやねんで。でも忘れるやろう?で、忘れた自分をね、責めてもあかんし、なんて言うんかな、責めずに「ああ、しまった」と思ってひたすらしないとあかんのやけど、それすらもできへんの。まあできへんのは承知の上でやっててんけどね。だから印可書だよっていう風に持っていくのに時間をかけてるんやけど。

 印可書やったら、ひたすらしょっちゅう読まれへんからね。読める時にひたむきになっていくの。ちょっとトイレに入っている間にとかね。ちょっと、さあ寝ましょうって寝る時に寝ながらとかね。自分の中で絶対に印可書が読めるという時間ってあるわけやから、その時にひたむきになっていくから、その時に、さあ寝ましょうという時に印可書を読むだけで神さまのお手伝いになるってこんなラクなことないの。

 でも、それをそこまで詳しい説明をせえへんのは、それはみんなが創意工夫をしてね、自由意志で、創意工夫をしてやって頂きたいから。あんまり、そこまで言ったら自由意志を縛り過ぎになってね、こっちの体が、あと動かんようになるから、言えへんと言って、今言ってるけどな。

 もう難儀なものやな。みんなが自由意志で創意工夫をして神さまのお手伝いをしようとしたら良い。

 神さまのお手伝いをしなさいって、先生がこの本のポスティングの時に、言いはったわけやね。だれも聞いてへんの。聞いてたらな、「私たちは『宇宙神ありがとうございます』って聞いています。」なんて無責任なことは言えへん。聞いてるぐらい分かってるわい。実行せえよ。実行せえへんやったら何にもなれへん。神書も読まないと何にもなれへん。飾っといてどうすんねんとか思うけどやな。まあまあ、それは良いから、とりあえず印可書を読んだら神さまのお手伝いになるから、しようねって言ってるだけ。で、この世的な…
 ああ、どうぞどうぞ。

質問:この間の護摩で、護摩の時の話で、知恵の実を食べるっていう。それを聞いてから日常生活を送っていると、100%知恵の実を食べながら生きてるということに気付いて…

河上さん:そりゃ、みんなやってるよ。それを現実を掴むっていうの。

質問:だから、何かをする前に、自分が、そのどうしても過去の経験が浮かぶので、印可書で消して…

河上さん:そうそう。せめて、「神さま!」って呼んでからする。そうそう。

質問:で、そしたら、神さまの知恵で、考えてやるんじゃなくて…

河上さん:すっと動く。

質問:そういうことだったんですね。

河上さん:そうです。そうそう。

質問:それが分かったというか。

河上さん:あの映画の「ランボー」の話で良く分かるやろ?現実を掴んで、結果を掴んでするんやったら、みんなも怪我したらな、あのマッチの頭の薬を削ってな、(傷口の上に)並べて火をつけないと(笑)

質問:それが、最初に聞いた時は、どうやって…?だって絶対考えてからやるんで、どうしたら、それで印可書を…

河上さん:そうそう。だから、みんな「自分が正しい」があるからね、正常な意識を保ってるしね、自殺をしないで済んでるから、凄い微妙なバランスやねんで。だけど、その「自分が正しい」と思った分だけ、神さまの光を受け損なってるの。要するに「自分が」というのは「神さまとは違うもの」と分けてるからよ。で、真(まこと)の本心の自分になったら良いだけやな。で、そこを印可書を通してなれるよというだけでね。それで普段も、自分でどうこうって思ってもね、まず「神さま!」って思ってからする癖を付けていくとね。

質問:印可書までじゃなくても、その時に一瞬、「神さま!」って…

河上さん:そうそう。だから、印可書がない時代はね、「お祈りをしてからせえ!」って、(みんなに言ってん、それで)僕は、うるさい言って嫌われてんけどな。みんな、その「お祈りをしてからせえ」の「お祈り」が分からへんから。

 それは、やっぱり自分の判断で自分が正しいと思っているから。そしたら、先生の話を聞いても分からんしな。そりゃ、自分の正しい範囲以外のことは受け取られへんもん。そしたら永遠に「因縁因果の輪」や言うねんけど、堂々巡りするわけよ。自分の正しい常識の範囲以外は一切受け取れへんから。でも大概の人は「常識に従って」とかね、「過去の経験に基づいて」ってやるわけよ。それで、この因縁因果の世界へ流転するの。

 で、この世界で流転してたら良いねんけど、最後は地獄で流転するの。それで、血の池地獄とかね、八寒地獄とかね、八熱地獄とか恐ろしいところへ連れて行ってもな、自分の判断の中で逃げ回るの。中々、みんな頑固やねんで。あの針山を登る苦しみの中でも自分の判断から離れへんねんな。もう散々やって疲れ果てさせて、初めてな、自分では無理って分かって地獄から出てくるねんけどね。それを追い回す鬼さんの役目は大変やねんから(笑)痛いの分かっててさせなんからね。

 でも、痛いでないと気付けへんの、みんな。幸せやったらな、今で良いって思うの。でもそれは違うのっていうのがな。要するに現実のプラスがプラスでないねんっていうのが、中々、みんな。「今、幸せやからええやん。」て言うわけよ。「今、家族が健康やからええやん。」って言うの。いや違うねんっていうのがな。今、家族が健康ということは、将来、大変なるよということなの。この世はプラスとマイナスがね、糾える縄のように交互に来るわけ、誰でも。

 で、お釈迦さまはせめてちょっとでもと思って「中庸(ちゅうよう)が良い」と(おっしゃった)。幸せ過ぎてもあかんし、不幸すぎてもあかんし、中庸で喜んどけって言うわけ。今が一番良いようになってるというのを、あの時はもうちょっと柔らかい言葉で言ったわけやけど。

 今が一番良いようになってるのだから喜べ喜べって、お釈迦さんもちょっと言うねんけどな、中庸という言葉で。分からへんの。「大金持ちになりたい」ってみんなやるわけよ。「良い車に乗りたい」とか「良いお洋服を着たい」とか。それで、次、大変にな目に会っていくねんけどね。

 でも、所詮は虚の世界のプラスマイナスなの。それを乗り越えるのは、「自分が正しい」という「自分」を捨てなあかんねんけど。それが、みんなできへんから、自分というのを「我」というねんけどね、自分というのを消せないから印可書奉読で。で、普段は「神さま!」って呼ぶ癖を付けたら良い。そしたら分かってくるわ。だけど実際ね、車の運転でもそうやけど、いちいち過去の経験に基づいて運転してたら事故起こすで。一瞬の判断でやってるやん。ああいう感じになっていかないと。

 だから野球でもそうやけど、ホームランバッターっていうのは、もう、いちいち、練習に練習を重ねた結果、「自分がバットを振る」を超えるねんな。そしたら、ホームランが出るの。だけど、過去の経験に基づいて理屈で言ってる間は、「ストライクが来たら、振ろう」ってやってるわけよ。「ストライクが来たら振ろう」と言ってるうちは当たらへんの。自分が振ろうとしてるから。

 それは剣道でも、なんでもそうやんねんけど、自分がどうこうと思ってるうちは達人になれへんの。達人になると、その自分が消えてるねんけど、それだけではあかんわけよ。「神さまだけ!」ってなるまで行かないとあかんのやけど、殆どの人は、イチロー選手でもそうやけどね、名人・達人の段階で止まるの。神さまと繋がれへん。で、先生は印可書を作ってくださったわけ。この世的に、名人・達人にならんでも、印可書を読んだら、真(まこと)の本心の自分を自覚できるよって。
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令和5年9月10日河上さん勉強会−2(20230910−2)

質問:テレビで指の生まれつき指のない男の子が、施設に預けられたんですけど音楽を聞いてるうちにピアノを弾きたくなって、ある日弾いてみようと思って触った事もないのに指もないのに全部弾けたっていうのを、やっててそれはそういう、だから教わらなくてもできたりするのですか?

河上さん:ああそうそう。だからその人はそういう自分にルール作ってね、指が動かないとか、いろんな縛った状態でそういう事ができるように楽しむためにこの世に来はった訳や。で、またそういうのを見て他の人が感動するでしょう?「人間の能力は無限やな」って、その為やね。

 マラソンの選手でもそうでしょう ?なんであんな40何kmもひたすら走るんと思うけどやね、近道したら終いやん(笑)。そうやろ。それをルールにのっとってその40何キロのコースを坂ありね、もう必死で走るわけでしょう? あれも自分で色々な状態を限定作って、ルール作ってね、その中でどんだけ神さまの命を発揮できるか、楽しんでいるだけよ。 走るのが苦手な人から見たら苦痛やけどな 、走るの楽しんだ人にとったら楽しみや。 それは冬山登山でも何でもそうやん。 ラグビーでもサッカーでもね。 サッカーなんか手を使ったらあかんわけでしょう?あんなん手使ったらしまいや。で、その手を使わないという縛った中で、どんだけ、できるかをお互い楽しむわけでしょう?

 だから本当にみんな自分で作って、自分の運命も作って自分で楽しみに来ているだけやね。 それに気づいたら楽しみに来ているだけやから、結果どうこうて気になれへんね。気になれへんようになったら、苦しみと違って楽しみやね。で、マラソンでも本当にオリンピックで優勝できる人は限られているわけやんか。そしたら普通はそんなもん自分なんか絶対無理やっていう人でも、ボストンマラソンなんか走るわけでしょう?それは楽しみやからや。結果掴めへんから、ボストンマラソン出場できるんや。結果を掴んでいる人やったら 、優勝ね、せめて3着までに入らないんやったら出られへんってなっていくけどな。 オリンピックでもみんな出るわけでしょう? 結果掴まないからや。掴んでいるようやけど、掴んでへんからや。

 で、又ね、そのように頑張ったな、凄いなってみんな褒めてくれるわけでしょ?金メダル取れへんかったからあかんとは言えへんやん。今ちょっとややこしい風潮はあるけどな、だけどなそういうもんや。みんな楽しみに来ているね。 結果は関係ないね。

 だから空海さんはね 高野山でもね、ほとんどのところは 未完成で残しはった。それは結果を掴まさないっていうのと、もう一つは一瞬一瞬新たに変化していくっていうのを、示しはったわけやね。わざとどっかを未完成に置いてあるわけやけどね。東寺もだけど。京都の東寺もどこか未完成で置かれているのは、その一瞬一瞬新たを教えたかった。その一瞬一瞬新たが分らなあかんのだけれども、一瞬一瞬新たは印可書を読まないと分かれへんね。自分がどうこうしようと思っているうちは、一瞬一瞬新た違うね。自分がどうこうしようとしているのは結果を掴んでいるからや。今の結果も過去の結果もね。で、その辺が理屈で言ってそうかなーじゃなくて、もう実感として、湧くまで行かなあかんからね。

 「宇宙神ありがとうございます」はそこまでたどり着くのに大変なわけよ。本当にその人が神さまに対して 絶対の信があって真剣でないとあかんね。私たちは「宇宙神ありがとうございます」で聞きました、では困るね。でも大概の人は真剣さがないからな、いや、ないのが普通やねんで、責めて言うてるのと違うで。

 だからそこに投げ込まれへんねんな。で、真剣さがなくてもちゃんとお手伝いになっているって信じてくれたら印可書奉読は、神さまがちゃんと連れて行くよっていう最後の大おまけ、若しくは護摩木を書いてくれたら連れて行くよっていうね、護摩に参加してくれたら連れて行くよっていう、もう最後の先生の大おまけよ。病気直しの大おまけをしても仕方がないっていう事でね、

  先生がこのシステムで行くという事で、事細かい事を指示していかれた。そんでそんなん言われても「 僕の言う事なんて誰も聞きませんで」って言ったら、先生がニッと笑って、神さまはちゃんとするやろって言って、「ああ、はいはい」。文句言ったらあかんな、でここまで来てます。

質問者: ありがとうございます。

河上さん:どうぞ。

質問:先ほど人類の言葉で、この社会ができているという事ですが、本当に正確に言うと自分の見ている世界がという。

河上さん: そうそう。うん。だから自分の見ている世界しかないね。ただあっちの世界、死んだらね、本当に自分の見ている世界しか出ないから、余計に堂々巡りするね。で、この肉体があるこの世界だけが、自分の見ている世界、あなたの見ている世界、あなたの見ている世界が重なるの。だからちょっと他人の世界を垣間見る事ができるわけ。それが救いやね。

 だから先生は先生の描いている理想世界を皆さんの心の中に重ねてくれはったわけよ。だから先生を慕ってくるんやけどね。で、理想世界を重ねるという事は光を重ねるからお清めができたの。お清めの原理やねんけどね。病気直しの原理でもあるねんけれども。そういうのができるのがこの現世の大おまけや。

 だからお釈迦様は肉身得難しと言うねんけどね。肉身得難し言うて、こんな大事な世界に大おまけの時に生まれているのに粗末にしたらあかんて 言ってお釈迦様は言うんだけれども、みんな文句を言って、私はこんな不幸でこんなダメで言って、みんなお釈迦様に文句を言いいにくるわけよ。それをそんなもん言うててもあかんのじゃ言うてもあかんから、合わして合わしてね、いろんな方便を使ってくださったわけ。

 だからみんな自分の世界しか見ていない、本当はね。でも先生の良いプラスの世界を見せてもらっているからね印可書を読もうかなっていう気になる。もう先生が自分の体に全部ふりわけて、自分の体で全部消してしてくださったんや。ちょっとぐらいお前もこの後ぐらいはせいとか言われて、一杯ありましたけれども。

質問:まあ見ている世界はそういう事だと思うんですけれども、例えば自然そのものは神さまが作られたわけですね?

河上さん:そうです。だから 自然、動物もみんな神さまがちゃんと作られてね、ちゃんとしてあるの。でも人間の側の思いをつけて人間側の思いから見てね 色々なマイナスをのせるのね、

 だからせっかく神さまが チャンとした絵を書いているのに、それに落書きをするわけよ、思いで。それでどんな落書きをするかといえば、例えばね、人間の思いで見たら、自分が正しいっていう思いで見たら、弱肉強食の世界でしょ? 動物は。でも本当は捧げ合いの世界やね。だから上の方の虎さんとか、大鷹とかね、駆除してしまうとねずみさんがいっぱい増えるとかね、鹿さんがいっぱい増えるとかオオカミ駆除したから鹿さん一杯増えるとかね、いうて弊害が出るでしょう?ちゃんとしたバランスが勝手に崩れるわけよ。人間の勝手な思いで。

 それは今、石油掘ってね、勝手に使うんでしょ?人間が。それ地球霊様の体や。それを勝手に使うから、だんだん崩れて凄い状態になっているね。ちゃんと木を植えて炭にして燃料として使っていたらええねんけど、人間が増えすぎてるのもあるし、贅沢しすぎているのもあるし、もうぐちゃぐちゃやねんて。それの集約した形が戦争として出てくるけどね。でももうそれももう追いつかなくて、でも護摩でだいぶ消しているねんけれども、いよいよ切羽詰まってきて、また今地震があったでしょう、外国でね。いう感じであれがが止まらずにどんどん来たらちょっと大変やね。

 土曜日のそうですね、朝9時半頃がもの凄く大変でね、もう日本が揺れそうで大変やってんけど、どうなるかと思ったぐらい、もう何とか消しましたけれども。いつまで先生がそのおまけをしていいっておっしゃるかは、僕には分らないからね。おまけがあるうちにみんな印可書を奉読してください。本当にお願いします。

 消せる限りは消すし、止めれる限りは止めるけど、先生がもうええ言ったら終わり。 僕の意志ではどうしようもないです。そういうぐらい切羽詰まっています。

 人間が何でも食い尽くすやろ?木も山もお魚も何もかも 食い尽くして。みんなで分け合ってね、捧げ合ってやってたらこんな食いつぶしは無くていいのにな。そのようになっている事を、自分はみんな関係ないって思っているやん。そんな事はないで。この日本で極楽のような生活を送っているのは食い尽くしてるで。

  栓ひねったら水出るねんもん。その動力から何からどこからとってんねん? 地球霊王様の体から取っている。本当は水を汲みに行くか、山の水を引いてくるかとかせんならんのに。ポツンと一軒家見たらわかるやろ、水の大変さ。「 田舎暮らしはな、大変なんじゃ」と言って、お婆さんが凄い山登って水場を整備しに行くやん。あの水場でも枯れるんよ。枯れるからまた湧いたところに行って、そう引いて来るとか、もう大変やねんな。だけど皆そんなせんですむわけや。

 勝手に命の大元である 琵琶湖の水を飲んでいるね、みんな。 関西の人はな。関東の人は、霞ケ浦 の上の何とか湖の水を飲んでいる。どっちも大きな湖は全部、命の素やねんけどね。それも必要なだけ使ったらいいんでしょ?でもみんな贅沢に使うやん。

 先生はお風呂に入る時ね、洗面器いっぱいのお湯しか使われへん。だから先生の服すぐこの首のところ 垢だらけになって 奥さんがよく困ってはった。それぐらい 洗うのでも石鹸でも水でも始末してね(大事にしてね)、石鹸っていうより、水を始末して入られたからね。でもあんまりそんなん言うと、また色々あるから言わんまま来ていますけど。みんな先生の真似をしようとして体調を崩すからな。体調を崩したら意味ないから。

 先生が3週間断食をされて1週間食べはってっていうのを続けてはったんやね。それはようせんから3日断食して1日だけ食べてってやってて、栄養失調なって倒れかけたから、先生は断食やめられて、食べるようになりはった。僕のように自分の側の勝手な思いで真似をしたらあかん。

 でも本当はみんな今食べている3食をね、1食にするだけで十分やね。本当はな。でも3食を食べなあかんて勝手に自分で縛って無駄なものを食べてるね。これ忘れてや、極端な表現で言っているからね。だけど本当はそないしたら人類全体に食べ物が行き渡るからね、戦争も起これへんね。だけど、今そんなん言ってもね、無理やから、先ず印可書奉読してください。印可書奉読をしたら神さまのお手伝いになるから。そしたら大きく変わります。

質問: 少し話は変わるんですけれども、先月の勉強会で祭壇はいらないと話がありまして凄く心に来たんですけど、もう少し詳しくお話しして頂けませんか?

河上さん:祭壇を作ると、まあ形式ができるやん。形式出来ると自分のところが一番って思いたがるね。で、本当は「宇宙神ありがとうございます」を出した時はね、先生はこれを作る予定と違ってん。だけど何もないとみんな不安がるから、これをしてん。でも護摩の会場の額は何れ燃やしたいと思っています。あそこにこの「宇宙神ありがとうございます」の額を置くと舞台が祭壇になってね、これが一番って言い出して全部が崩れるから、何れ勝手に燃やします。勝手に撤去して燃やします。はい。みんなの総意でって言ったらまた揉めるから、もう僕の責任で燃やします。護摩の会場のは、いずれ。それぐらいね、その自分のところが一番って言った時点で偽物になるの。要するに自分の所って言ったら神さま以外のもの作っているでしょう?真の神さまだけやから一番もクソもないね。でも教えを立て、組織を立てたらこの教えが一番、この組織が一番ってなるね。もうなった途端に全部崩れるね。

 それは一番最初は「ありがとうおじさん」って勝手にみんなが名前付けてん。先生は「つけたらあかんあかん」て言うねんけれども、みんなつけるから、押し切られてやってて、ぐちゃぐちゃになったんや。名前でもね。

 だからもう先生って呼ぶのは松下先生お一人で十分っていうて、先生を作ったらこの先生が一番って言い出すね。そしたらもうあかんね。真の神さまだけあって誰もないね。「みんな真の神さま、みんな光」やって言っているのに。「光分けられへん」って言ってるのに、まだ分けようとするか、みたいな感じやねんけどな。それは結局自分が正しいってね、自分の経験に基づいて判断する癖があるから、自分のところが一番って言いたなるね。

質問: まあ私の部屋の床の間と言うんですか、いつのまにか祭壇風にまつっているんですけど・・

河上さん:いやいや自分がね、自分の好みでするのは構わへんね。でもそれをね、これが標準形式であるとかね、これええやろって人に見せたらあかん。だからホームセンターで売っている神棚を買ってきてな、自分がそれを気にいってたら祀っても構わないけれども、それを人に見せたらあかん。あるいは見せても、「これが一番や」って言ったらあかん。それだけよ。

 だから五井先生は「神」っていう字を書いてしはっただけやけれども、本当は五井先生もあれは作りたくなかってんけれども、みんなが不安がるから作っただけや。真の神さまだけっていうのは空気・光・水でしょ?無色透明やから作りようがないんやて。 作りようのないものを作るからややこしいね。 でもな、どうしても「自分のところ一番」って言いたいね、みんな。言いたいからほら「日本が一番」とか「アメリカが一番」とか「ロシアが一番」とか言いたいから戦争になって行くんやんか。みんな、動物、マウンテング(自分の方が相手より上と示そうとする行為)するんやな、上に立ちたがる。

質問: 家の祭壇をですね、全て無くすと凄く自由だなと感じたんですね 。

河上さん: うん。ほんなら無くしたらええやん。

質問:無くして良いですね。まあアドバイスが頂ければ。自分の思う通りやったらいいですか?

河上さん:適当に叩き壊してゴミ箱に捨ててもいいし、それが いややったら 護摩のところに持ってきて最後に燃やしたらいいやん。

質問:はい、分かりました。ありがとうございます。もう1点ですけれども、昔、先生が例えば給料なんか貰ったたら、一度神棚に、供えて…

河上さん:そうそうそう。

質問:お礼して神さまから頂くと。

河上さん:そうそう。だから形をした方が神さまから頂いたって言う気持ちになる人は形をとったらいいし、そんな一々とらんでもな、会社の社長から貰ったと違って神さまから頂いたって、すって思ったらええだけやね。 でもその辺が微妙に思えんかったら 印可書奉読したらええだけや。いう感じやねんけど。

質問:だから神さまが無限大の外、はるか彼方と

河上さん:そうそう。

質問:思えたら、そう思えたら、何所の場に居っても、その場でありがとうございますと?

河上さん:だから印可書は凄いやろ?あの冒頭がすごかってん。だから逆に言うとね、自分が正しいと思いこんでいる人は印可書を選ばれへんね。だって「絶対の中心、無限大の外遥か彼方」って自分を退きひらくやん。自分が消えるから不安でしようがない。で、その人らのために「 宇宙神ありがとうございます」をね、先生は残してくださった。で、どうしても,今生で選びきれない人のためにね、最初の強い光の印可書はね、わざとね、みんなの目の前で燃やしてしまいはった。でないと印可書を選び取れない人が行き場を失うからね。先生は「全員連れて来い」っていう指示やから、全員が連れて来れるようにしています。そんで 「宇宙神ありがとうございます」を選んだ人がどうしても投げ込み切れんかっても、必死で投げ込もうとしてくれていたら、引っかけて来れるけどもね。私ら「宇宙神ありがとうございます」って聞いています、だけでやろうともしない人は引っかけようがないから、もうそれは仕方がない。 本人の自由意思やね、やっぱり。神さまの方に向いているか、向いていないかっていう事や。

 まず神さまに向かなあかんね。で、恥ずかしがらずに呼ばなあかん。でもその呼ぶ神さまが小さいからややこしかった。でも印可書やったら無限大の真の神さまとしてね。「 宇宙神ありがとうございます」を選ぶ人は「宇宙神 ありがとうございます」は真の神さまそのもので信じ切ってくれなあかん。「 宇宙神ありがとうございます」で大丈夫やろうか?とかねやっぱりどこかでみんな否定するからややこしい。

 だから「宇宙神ありがとうございます」って言いながらね、殺人を犯してもええんか?とかね。呼吸に「宇宙神ありがとうございます」を乗せましょうねってやった時にね、次の護摩で質問が来たわけよ。呼吸に「宇宙神ありがとうございます」を乗せたら真祈りしているんだから 呼吸に「宇宙神ありがとうございます」を乗せながら殺人をしてもええんか?強盗してもええんか?っていう質問が来たんだけど、そんなん論外や。もう根本から先生の事を信じていないし、聞いてへん。

 そんな理屈を言っている暇はない。まあ理屈言うてる人は好きにさせるけどね。「全て真の神さま」って先生 言ってるやん。「みんな光」やて言ってるやん。それをよけといて、自分は正しいって判断するからそんなおもろい質問が来るね。自分の我も真の神さまか?とかな、おもろい事言うのは自分が正しいから抜けきられへんね。「全て真の神さま」って言ったら「自分が正しいはない」んや。自分が無いねんから。

 だから印可書はね、自分が信じきれんかっても冒頭で自分を無限大に広げていくからね、大丈夫よって言っているね。印可書の凄さやね。あれを最初みた時に震えた。こういう風にするんかみたいな。先生が命に代えて作ってくださった印可書や。本当に命と引き換えにあの冒頭を作ってくださった。でも自分が正しいと思っている人はもう拒否して拒否して拒否した。責めて言っていると違うで。

 だから選べない人はどうぞ 「宇宙神ありがとうございます」に縋ってください。「 宇宙神ありがとうございます」が「ありがとうございます」が 光そのもの、真の神さまそのものって信じきってね、縋ってください。単なる言葉やと思ったら何の意味もないです。

 だけどそんなもん印可書もそうやろ。単なる言葉やいうたら何の意味もない 読むだけで、分らなくても読むだけでお手伝いになっているところだけは信じてください。そこだけは要ります。

 それでも印可書が真の神さまそのものと思うよりは楽やろ?お手伝いなるって思う方がな。それぐらい印可書はおまけが多い。「みんな真の神さまを思え」って言うたってな、思われへんねんて。みんなの思う神さまは小さいね。

 で、今までは「真の神さまを思え」っていうのは不可能やったから、いろんな宗教の形にして色んな色合いに付けた光にして神さまは降ろして下さったわけや。それぞれの何々の大神とかね、色々な神さまの名前がついた宗教があるわけ。あるのに自分ところが一番って言い出してな、喧嘩になっているわけでしょ?神さまが絶対の愛なのになんで神さま同士で喧嘩になるねんっていうのは、「自分が正しい。自分のところが 」って言って それぞれの教えを汚していっているだけやねんけど、汚している事すら気づかないぐらいね、自分が正しいと思ったら何も見えへんね。でも自分が正しくないと思うと自殺するからな、正しいと思っていていいから 印可書奉読してたら神さまのお手伝いになるよ、っていうのが一番楽やと思うね。

 もう終わりが近いから(河上さんの寿命)本当に最後のところを説明してます。後3年あと4年,3年で終わるからな それまでに みんなしっかりと悟ってな。

宮野さん:「悟ってな」っていうのと8月8日と、悟っているとの関連性を・・

河上さん:いやもう既に悟っているから自覚してほしいだけよ。 ただ 8月8日過ぎたから、なんて言うの、まあ練習やね。真祈りの練習に、本当に真祈りの練習に入った。要するに神さまのお手伝いしてっていう練習に入ったわけやね。それだけに逆に言うとつまらない思いを入れていたらどんどん病気になるよっていう、つまらない現実を掴んでね、マイナス思ったらおまけが無くなったから、どんどん病気になるけど、それはそれでその形で使って頂けたっていう事を分かって欲しいという。病気になって、ああこういう風に使って頂いてよかったなあや。「なんで病気になった?」と 思わないでね、という事で8月8日以降はそうなったんでね。

 ただ肉体に現れてくるのは3ヶ月とか半年とかな、せやろ?悪いものを食べていても影響が出てくるのはズレるやん。 それはある意味救いやから。うっかり現実を掴んでマイナスを作ったんを忘れて印可書に戻っておいたら大丈夫やけど、ずっと楽しく現実を掴んで遊んでいたらそれなりの状態に体がなります。これからは。

 なっても修理をしないからね。言うてこんかったらおまけをせん事もないけど、言うてきたら知らんからなって言って、言うて脅かしてな、真剣になってもらおうと思って。

 まあそれぐらい その8月8日を過ぎて地獄とこの世がピタッと一つになってきたんでね。 色んな意味で、逆に言うたら病気も治りやすくなったっていう事です。逆に言うたらややこしい病気も出やすい。どっちも両方向に出ます。だから印可書奉読をひたすら、自分が奉読したら縁者に全部響くからね。親類縁者兄弟友達に響いていくから、皆さん印可書奉読は責任重大です。

 深夜勉強会をやめたのはそれくらい体力的にググって落ち込んできてん。色んな意味で大変やねんけどね。だけど約束やから、あと4年間は持たせますけれども。もうかっくん行けるかな? はい 。

質問:なぜ4年なんですか?

河上さん:先生がそれでええって言ってるから。僕の都合はない。まあ先生がいて、神さまの都合やな。神さまの都合、神さまが良いって言ったら、ただそれだけ。

質問: 護摩焚きの成功が続いていけば結果次第でどんどん状況も変わっていく?

河上さん:勿論、そらそうよ。だけど今の状態では。だって誰も護摩の会場の額を下ろそうなんて言い出せへんもん。 誰か何時か言ってくれるかなって思っていたけど、もう勝手に自分でやります。ここはね、まあちょっとお祈り来るときでも何か無いと不安やから残しておきますけどね。でもこの形が一番とかいらない事を言わないようにね。ちょっとした墓石のようなものやね。

 モニュメントやね。で、こんなん言うとな、理屈言いはな、そしたら印可書ここに書いたらええやん、とかな言い出すからな、そういう問題ではないね。本来は一切の形はいらんね。 組織も立てない、教えも立てない、そういう事は一切の形を立てないや。だから護摩の時に ほら貝を吹かへんしな、白い衣装を着てこうしないしなっていう。ほら貝吹いたらかっこええでやっぱり、始まる時。そのために大きいホラ貝も用意をしてんけどな。「吹いたらあかん、ほら吹くな」って言って怒られた。(笑)

まずその「教えを立てない組織を立てない」という意味をね、実感として分って下さい。 みんな光やから「みんな祈っている悟っている救われている」やね。 「みんな既に悟っている救われている祈っているや」、もうそれだけ。「みんなみんな神のみ光み力み命や」。分けようがないねんていう。そこが実感として分かったらもう何の怖いものも、不安もない。怖いでなくて 不安が無いねんな。死ぬとか生きるとかもうない。すると、このもう尽きた寿命をどう延ばすかも分るから無理に伸ばしてるけど、もう、ちょっと、あんまり文句は言わんけど。死ぬ時って体が硬直するやん。 それ毎晩硬直する訳。毎朝伸ばさなあかんね。結構大変やねんで。

 大体死ぬ時ってな、先言うといてあげるわ。本当に体ぶわーって(熱く)なってね。次にバーッて冷たくなるね。それで無色透明になっていくね、思いが無かったらな。思いがあったらその思いの世界が見えてくるね。で、見えた世界に自分が行くの。それがどんなに掴んでいるかによったら地獄やったり、決まった世界に連れて行かれるじゃなくて、自分がそこへしか、そこが良いと思って行くんよ。

 護摩の時に話したように 神さまの世界は光そのものやから、掴みようがないの。そしたら自分が光やったら掴みようがあろうがないとか関係ない。だから大丈夫やけれども、地面ないと不安な人は、ふっと見ても地面なかったらな、地面のあるところまで降りるわけよ。 地面のあるところはあちらの世界で言うと地獄なんよ。もうちょっと気持ちが薄い人はって順番に上がっていくだけ。それでもみんなが思っている天国っていうのは、まだしょせん形があるわけよ。 極楽って言うでしょ?まだ形があるのは偽物よ。 無色透明の輝きだけになるね。はい。

質問:死にそうになった時は印可書を奉納?

河上さん:印可書を必死で奉読したら無色透明になって大丈夫。だからな、本当に自分の心に沁み付くぐらい印可書を奉読しとかんとな、うろ覚えやったら死にそうになったら、思い出されへん。で、その時慌てても、もう目も開けられへんから読まれへんからな、それを言ってねんけどな。

 だから、音楽ってあるでしょう?音楽っていうのはまあ真の神さまに近づいていく響きそのものやね。 音って見えないじゃないですか? みんなが感じる音楽っていうのは丁度肉体が踊る感じの響きやね。でも本当の音楽は数式そのものやね。で、数式というのは本当は光そのものやね。一番奥の奥のっていう感じやね。だけ、を言うとくわ。分る分らへんは別にして、一応説明しておかんとな。 やねんけど、その数式ですらね、一々に考えなくても閃いて分るというものばかりなわけよ。 音楽ってそうでしょう?いちいち考えなくても響いてきて感じるじゃない?ああいう感じで音楽の真髄というか、本当の部分は数式で感じれるね。それは見事に美しいものよ。

 それはみんなが思っている極楽世界があってね、このきらびやかな、どうこうっていうそんなものじゃない。本当の重層構造に重なった、先生のおっしゃっる無限の無限の輝きが無限に無限に一杯で美しいねんで。

 本当はね、その世界にいつも自分が立っているのよ。皆さんもね。それが自覚できたらこの肉体がペットのような存在である事がわかるわ。自分のペットよ、可愛い。するとね、ペットにちょっとこういう何て言うの?猿回しがね、お猿さんに芸を教えるじゃない。 そんで 色々な事をさせるやん、そういう感じやね、皆さんの肉体というのは。

 それでその優秀なお猿さんを持ちたい人は優秀なおさるさんを持ってきて色々な事をするしな、ちょっとどんぐさい子で行きたいなっていう人はどんぐさい子でいって。ただそれだけ。たったそれだけやね。その動き難いものを動かして楽しむか、自在に動かして楽しむかだけでね。

 でもゲームでもあんまり簡単やったら面白くないや。だからこの世で IQ 200以上でね、天才で何でもこなす人という人はある意味面白くないわけよ。そんなん別に真の世界行ったらもっと凄いねんから。だから余計に凄い人ほどね、わざとどんくさくして降りてくるね。

 それ分かってな。そしたら本当に楽しんでいるのわかるし、で、そのペットの方が印可書を奉読してくれたら、もろに真の本心の自分が使いやすいねんな。で、本当に自在になっていくね。

 本当は真(まこと)の本心の自分が(肉体という)ペットを作ってやってんねんけれども、ペットの方が勝手に自分が正しいってやっているからな、勝手に動き出したわけよ。で、ややこしいね、今。でも印可書を奉読してくれたら真の本心を自分が(ペットの肉体の自分を)自在に動かせるから一気に治まるね。だから肉体が少々ね、つらい状態になっても文句言ったらあかんね。

 だからね、走る事で真(まこと)の本心と自分が繋がっている人はマラソンが苦痛じゃなくて楽しみなわけよ。 雪山登山で登山の部分で真(まこと)の本心の自分とつながっている人は 雪山登山が楽しいてしゃないね。 みんなそれぞれ他の人から見たら何やねんと言うのを楽しいやろ。 それは本当は仕事も楽しんでるはずやね。うるさい、小うるさい上司で、給料ようけ貰えんでこき使われているの楽しんでいるはずや、本当はね、でも文句を言うからいよいよ分らんようになってくるし。大事なところやで、今。


令和5年9月河上さん勉強会お話しー3(20230910−3)

質問:この事とずれるんですけど、この間からも噂話がダメっていうので。そう聞くと、なんか常に噂話しかしてないなと思って。

河上さん:そうよ。だからその噂話には乗ってあげたらええけどね、「印可書」奉読して消していったらええ。

質問:自分もしてて楽しいなって。(笑)

河上さん:楽しまな乗られへん。せやろ?噂話してる時にね、1人しらけててみ、 「なんやこの人!?」とかって怒られるで。だから楽しんであげたらええねんで、キャッチボールをな。だけど、「印可書」奉読して消していくね。

質問:してもいいけど、楽しんでさらさら流して、「印可書」で。

河上さん:そうそう。 映画でもな、あれ作りものって分ってるけど、楽しめるでしょ?そういう感じよ 。ほんまに作りもんって思い込んでしもたら、この前説明したけど、オカルト映画見たっておもろないで。 「あー、ここでびっくりさせるためにあれがびゅっと出てきよるねんな」とかね。「お、天井走っとるやん。どないして撮影したんかな」って思ったら面白くないやん。でも、「いやー」ってこう、みな楽しむやん。そういう感じで楽しんだらええね。 でもすぐに真(まこと)の(本心の)自分に戻さなあかんから、「印可書」奉読したら戻れてるわけ。

 「印可書」奉読してる時は真(ま事)の本心の自分と繋がるの。その繋がり方が、奉読が深まればね、余計深くなるしっていうだけやね。 でも、1回でも奉読して頂くと、繋がるんでね。で、それは護摩も一緒やから、騙してでも1回は護摩に連れて来いって言ってあるんだけど、 なんとか本心と繋がらそうと思って言ってますけども。ちょっとでも繋がったら、それが機縁になって。水でもそうでしょ?ちょっとの穴から漏れ出したら、 どんどん大きくなる感じでね、色々とやっています。

質問:先生の録音を聞いてる時にぱっと聞こえた事で、「どこかに探しに行くんじゃないよ」っていうような事を言ってらっしゃった時があって、私、その話を今回初めて聞いたかもしれなくて、その時に、あっ、 今更だけど今が1番に良いようなってるって言い聞かせつつも、やっぱりどこかに探しに行こうかと思っていた事に改めて気付かされる…

河上さん:みんな隣の芝生は青いやから(笑)

質問:やっぱり現実のマイナスを掴んで、それを「印可書」で消そうみたいな事をしちゃってるやん。違うやん。もう今ここは…

河上さん:ここがそのままやねんけどもね。 だから、イエスの言う「be heaven at hand」やねんね。「天国は今ここにあり」やねんけど、みんな気づけへん。

質問:実際現実でも、現実的に、私が周りの人に感じてる時の方が、多分、ひたすら「印可書」にすがるしかなくて、 多分「印可書」ガァーっといっぱい言えてて、で、その後、ちょっと現実的なプラスの事が巡ってきたりしちゃうと、多分自分でいる。で、またガァーっときて、うわーだから「印可書」やんかみたいな。

河上さん:だから、現実のプラス来たら、次は必ずマイナス来るからね。

質問:だからやっぱりその波に溺れちゃって。

河上さん:その因縁因果の波というのは、結局は地獄と一緒で、神さまは気づかすためにそういう風にしてあるの。 ただ、マイナス来た時にね、みんな耐えられんで余計崩れるからな、中々加減が難しいね。それで、殆どの人は プラスがあって、マイナス巡る時のマイナスには大おまけで消してんね。それすらも気付かんくらい、みんなね、流されてる。 だけと、そうして戻っていったらいい。

質問者:もうひたすら「印可書」奉読します。ありがとうございます。

河上さん:そうです。だから地獄と今繋がってるからね、こうしてお話すると、地獄の人が今大きくな、かなり改善できた。よかった。みんなのいい質問でした。

 そういう意味では本当に一気にどっちにも変わる時代になったの。みんながマイナスで辛い辛いって言ったら、ほんまに一気に地球が滅びるし。ただ、もうどうしても「印可書」選びとれん人いうのあるからね。絶対にその人はおもろいやっちゃ以外言うたらあかん。頼むで。うっかり「あの人ら選ばれへん」って言うたらえらい事になる。マイナスに思ってるからな。

質問:今本当に目の前に強烈におもろい人が居てるんですけど。

河上さん:強烈におもろいやつね(笑)。

質問:後ろから、羊飼いのようにっていう教えもよぎるので。でも、それがよぎる時って、やっぱり、どこかで自分が上に立って、この人なんとかしたらなっていう虚栄心が同時発生してる。

河上さん:そうそう。虚栄心を使ってね、愛の心を呼び起こすからね、一概にどうこうではないね。

質問:日頃の仕事にしても、私、虚栄心のお陰で動けてるって本当に思えちゃってて。

河上さん:虚栄心で一生懸命させるとこがあるからね。だから、さっき言ったように、ただ自分が正しいと思ってるから、気狂わずに、自殺せずに済んでるとこがあるわけよ。だから、その微妙に虚栄心の心というのは必要なんやね。真(まこと)の本心の自分を自覚するまでは。

  だから、虚栄心って消しにくいし、最後の虚栄心が消しにくいのはね、最後の虚栄心消すときは凄い不安なんよ。もう誰もがね。で、今のあなたの形で持っていってたらええねんけど、先生はもう、先生を慕って、村人とか来た人とか、そういう人にはね、もう大おまけでお清めして、もう後ちょいというとこまで持っていくわけよ。

 それで、もう最後の虚栄心だけは自分で消してもらわなあかんから、「あなたは悟った」ってやるわけ。それで、うっかり人に言うて崩れるねんけど。それぐらい、その虚栄心というのは、最後まで持っとかなあかんし、消さなあかんしというね、微妙なバランスのものなので。 1番大事なのは、虚栄心のある自分を責めない事よ。要するに、虚栄心すら神さまがいいように使ってるからね。それが分かると楽なんねんけど、自分の虚栄心と思うやろ。それ結局自分…

質問者:そうですね。

河上さん:うん、そうやねん。結局、なんやかんや言ったところでね、自分のものは一切ないね、本当は。だけど、自分が正しいと思った時点でね、自分のものを作るわけよ。で、虚栄心も自分のものとするから、ややこしくなっていくね。 神さまから頂いたものとしてたらね、ちゃんと神さまは虚栄心を利用して、肉体の特性のためにね、虚栄心を利用して肉体って動きたがれへんわけよ、しんどいの嫌なんや。でも、虚栄心を使って、限界破りさせるとかね、ちゃんと使ってきてるわけ。 だから、「いつも喜んでたらええで」やね。今が1番になってると喜んでたらええというのは、その、自分が虚栄心が出ても喜んでたええ、一生懸命したらええねんっていう部分なのね。

 で、間違ってもその虚栄心を責めるとね、結局は全部神さま命でできてるから、虚栄心でも、食欲でも性欲でも、神さまの命でできてんね。当たり前や。みんな光やから。で、神さまはそれを利用して、なんていうんかな?肉体側を上手く使ってるだけやからね。それを責めたりしたらあかん。

 例えば、1番分かり易いのは性欲やね。性欲というのは子孫を作るためだけやったらな、こんなに沸かんでええねん。動物ってそうでしょ? 繁殖期だけ性欲出るわけや。普段出えへんね。

 それは子孫作るためだけのもんやからね。で、人間はいつも出んね。それなんでか言うたら、男と女と分けた時点で、男と女が本来1つのものだよと知るためにあるね。でも、喜んでしてたらええのにな。こんな性欲してて、汚い自分やとかって変に責めるから、もうややこしなんね。

 それはお釈迦さまでもイエス様でもね、尼さんとこう、分けてどうこうだって一切してないのに、後の人間が分けてね、一生結婚したらあかんとかって、いらん事を、結局自分とこ1番にしたいがためにね、結婚したらあかんとか、するわけよ。で、それが逆に性欲を変に歪めてしまうねんな。それだけやねんけどね。

 もう、全然イエスさま、お釈迦さまの言う事、みんな聞いてへんね。それは、教えを立ててね、組織を立てて、祭壇作ったからや。そしたら、他所よりも凄いと思わさんなんから、もう仏門に入ったら、結婚したらあかんとかな、あるやん?尼さんになったら結婚したらあかんとか、もう凄い、(いろんな縛りを)作るでしょ?

 で、それをする事によって、一般の人からね、「あの人らは性欲を克服してる凄い人たちや」って。要するにあれは虚栄心やね、本当は。だから、親鸞さんはね、結婚したの。で、おめかけさんも作ったの。そういう、誤解を消すためにね。だけど、みんなはね、「親鸞は汚れてる。結婚しよった、子供作りよった、あれを作りよった」って、ボロクソに言うね。親鸞さんの方は元より後ろ指さされんのは覚悟の上やから、 なんでもするんやけどね。そういう部分や。

 だから、虚栄心が あるからどうこうって思わずにね、もう全部神さまが必要で揃えてるというのは間違いないね。怒りっぽい自分も神さまが必要で揃えてるんよ。それによって体験する事で知る事があるからよ。優しい自分というのもそれによって、その人にとって必要な体験を勉強させたいから神さまが用意してるだけやね。

 だから何もかもどれも喜んでて、神さまが1番良いようにしてるっていつも言うやろ。神さまが1番良いようにしているって喜んで、その中で反応してる自分を楽しんだらいいね。ただ、自分の中で自分を思わず責めそうになったら、「印可書」奉読したらいい。

質問者:はい、ありがとうございます。

河上さん:それで、うっかり人を責め続けるとな、もう誰も口聞いてくれへんようになるからすぐ分かるわ。人を責めすぎたって(笑)。 それは言葉に出さんでも、心で責めてたって、相手は気づくもんやで。恐ろしいもんやで。で、口聞いてくれへんようになる。僕の中学校時代とか、そんなんがそうやってん。なまじ全部見えて分かるから、ついつい、しらけるねんな。そしたら、「偉そうにしてる」とかな、もう本当に無視された。「人を小馬鹿にしてる」とかな言われて嫌われた。

質問:面白い、面白いっていう風に思う、その事にする事が、 徹する事だ、「印可書」奉読をす事が徹する事にも繋がるというか、イコールだっていう風に思っていて。 で、ほんとに、実際そう思うと面白いんですね。色んな人が。

河上さん:みんな面白い事するやろ?

質問:面白いし、自分自身も滑稽というか、凄く面白いし。自分でゲームを作っては、上手くいかない事、上手くいかないゲームを作っては、上手くいかない事を確かめてるみたいな。

河上さん:上手くいかない事こそ面白いな。ゲームってだからステージ上がるようになってある。

質問:面白いな、面白いなって、思い続けていて、実際渦中にあって、後で見てもやっぱり面白いなと思える。で、その中で、どこかこう、面白い面白いって思ってると、凄くこう、 おぼつかない感じになって。で、前のパターンに暗示しようとする時が出るというか。

河上さん:あ、それは出るで。もう癖として残ってるもんは、最後の最後まで絞り出してくるからね。

質問:で、徹するっていう事を考えた時に、考えるというか、した時に、本当に徹し切るっていうところが、やっぱり、甘いなって自分が 思う事がありまして。で、その、本当にこうもうひたすら「印可書」を奉納し続けるだけだと思ってるんですけれども、やっぱり甘さっていうところを、自分の甘さをやっぱり許してあげるっていう事が大事だなと。

河上さん:大事です。甘い自分を許さなあかんねんで。先生のようにな、厳しく厳しくできる人はおらん。 先生だけ。でも、先生は昔はそのまま厳しかったからな、僕には厳しかったよ。 でも、厳しくしたって誰もついてけえへんっていうのを、先生お分かりになられて、本当に優しくなられた。そんなに先生甘いの?優しいの?っていうのは(僕は)いつも思ってたけど。

 でも、それはなぜかって言うと、今言ったように、甘い自分という材料を使って神さまが教えてる部分があんね。だから、どれもこれも必要な材料やねんな。で、それを、お料理がそうやねんけど、 どれも残さずに全部食べたら、栄養が偏れへんねや。だけど、お肉好きやからお肉だけしか食べへんって言うたら、栄養偏るでしょ?あるいは、野菜しか食べへんっていうのも、それも偏るわけ。全部全体的に食べてこそ本物やろ?

 そういう感じで、自分に与えられて持ってきた素質というのはね、全部必要やね。甘い自分も必要やね。怠ける自分も必要やね。で、その例えば怠ける自分があるからこそ、怠ける人が分るね。勉強できない自分があるから勉強できない人の気持ちが分かるね。それくらい必要なもんや。それを責めたらあかん。

 なまじ勉強できると教える時に難儀するんよ。なんで分かれるのかなってね。それで、勉強できへん状態にまで自分をいっぺん落として、 落としてっていう表現もちゃうねんけど、制限して、そっから立ち戻って教えるんやけどね。そういう感じやね。だからもう統一力やねんけど、神さまって呼ぶ力、神さまって縋る力がいるねんな。まず神さまやね。

 だけど、みんな「自分が正しい」があるからね。甘い自分とか、考える自分とか出てきて、何もかも見えんようになっていくね。甘い自分、怠ける自分、考えてもわからん自分という材料を使って楽しまなあかん。本当はね、その勉強がいるね。

 だからなまじ何でも出来る人は神さまと繋がれへんもん。できてしまうからな。できへんからこそ、神さまと繋がる。僕はお祈りできなかったから、繋がってん。どうしても先生の言うように呼吸に込めて、(その当時の昔に→50年前)先生に教わったわけよ、呼吸に込めなさいというのは。

  で、1分間息を止めて、ひたすらに祈って、そのあと息を吸って、僕の場合はね、一呼吸毎みたいに甘くはなかった。1分間息止めて、ひたすらに祈って、で、1分間息して、また1分間息止めて、ひたすら祈ってっていってね、仕事のない時、そうして。で、仕事とか動居てる時は、 一呼吸ごとに乗せてって言うて厳命されたんや。で、もうなんぼやっても、どっかで途切れて失敗すんねんな。で、もう泣いて先生に謝って、「もうとても先生の期待通りできないんで」って言って謝った時に、ボソっと先生が仰った、笑いながら。 「河上さんの本心は、ずっと祈ってるやないか。」それで、はっと気づいてんけど、それはなんで気づいたか言ったら、そこまで必死でもうね、したからや。でも、それもお祈りできへんからしたんな。

 だから、お祈りできへんから、お祈りできへんって思い込んでる皆にお話ができるね。 最初からできてたら、話してもみんなに通じんない。だから「印可書」も、「お前やったらもうちょっと光弱めれるから弱めといてくれ」って言って、第二の「印可書」を作らされたわけや。それは、お祈りできへん苦しみを知ってるお前やったらできるやろ、という事やってん。みんなの気持ちが分かるやろという事でしました。

 だから、河上の作った「印可書」嫌いな人は「宇宙神ありがとうございます」言ってください。あるいは、先生のお作りなった「印可書」でいったらええねんけど、燃やしたからあれはあかんねんと思う人はね、「宇宙神ありがとうございます」が残ってるから、それで行かれたら大丈夫です。

 でもお願いだから神さまを呼ぶ事を忘れないでね。もう間違っても、神も仏もあるものかって思わないでください。もうそこまで思われると持っていきようがないね。やっぱりちっちゃい子でもね、「お母ちゃん、お母ちゃん」って来るから連れていけるんで、お母ちゃんもなんもいらんねんってどっか行きよったら、もう探しようないって。やっぱりちっちゃい子はどっか行ってもお母ちゃんって泣いててくれるから、要するにお母ちゃんって呼んでてくれるから探せるわけでしょ?

 だけど、神も仏もあるもんかって言ってしまうと、もう泣きもせえへんから、どこにおるかも分らへんっていう状態になって。どこに居るか分からんって、こっちは居てるとこ分るねんけど、引っかけても手掴んでくれへんわけよ。で、全ては綱引きやね。ロープは垂らするけど、自由意志でロープを掴んでくれんと連れていかれへんねん。で、必死で光の強い人には太いロープを垂らせるわけよ。で、光の弱い人には細いロープを垂らすね。で、どっちにしたって掴んでくれなあかんね、自由意志で。選んでくれなあかんねんけど、選んでくれない人は連れていきようがない。

 そういう問題やな。だから、色々と苦労してます。苦労してるというより色々と楽しんでます。おもろいなって。良い?

 結局はみんなの自由意志です。自由意志で何を選び取るかが全てです。だから、神さまが絶対なんとかしてくれるわ、でいいんだけど、なんとかしてくれと言った直後からは、一切文句言ったらあかんね、喜んでなあかん。ちょっとでも文句言うたら、なんとかしてくれてへんってなるから、神さまを離した事になってね、で、地獄落ちる。

 だから地獄に落ちてもね、神さまが何とかしてくれる、神さまが良いようにされているって喜んでたらスっと上がるんよ。でも、「なんでこんなとこで、こんな痛い目せんなんの?こんな熱い目せんなんの?」言うてるうちはあかんね。「自分が」があるから。

 だから、三途の川をね、本当は渡らんで、スっと済むねんけどね。だから本当は地獄よりも楽なね、三途の川の石積みをさせるわけよ。で、石を積み上げていくねんけど、鬼さんが来て、蹴って倒すねん。「なんでここまで積み上げたら行ける言うてんのに、倒すねん」って文句言うてるうちはあかんわけよ。「もう神さまが1番良いようにしてるんだ」って、倒されても喜んで積んでたら、自分が消えるから、地獄行かんと悟れるねんけど。そこでまだ文句言うてるとしゃあないから、三途の川を渡らされて。渡ったら最後、地獄の大アトラクションに入れる。入場券を買ったようなもんやな。

 で、その三途の川の石積みでもね、人をいじめてきた人は、その河原で積ませて貰われへんねんな。冷たい川の中へ入って、 川の中の石を拾ってきて、積まされるねんな。余計大変やね。

 まだ人にええ事してきた人は、 あったかい状態で積むだけで済む。それでも自分が正しいが皆あるからね。その自分が正しいが消えるまでは石積みさせられる。それでも「自分が正しい」って言ってる人は三途の川を渡らされる。

 神さまは気づくように気づくようにしてるんやで。でも、「自分が正しい」と思ってうちは気づけへんねん。「なんでこんな目に合うん?」って言うね。1番ええ目にあってんねんけどな。それを先生は「大難を小難に。小難を無難に」って仰ってくださってるのに文句言うね。五井先生が「文句言いなさんな」って言うのにな。文句言った時点で神さまを離してる。 

 「喜べ喜べ喜べ」って先生言うのに。「こんな痛いのになんで喜ばなあかんねん」って文句言うね。本当はそれだけの痛みで済んでんのに。

 本当は簡単な事やねんけどね、自分が正しいと思ってたら、もう不都合な事ばっかりやね。自分が正しいじゃなくて、神さまがいいようにしてるって喜んでったらええね。もう難しい理屈もいらんね。そしたら教えも組織もいらん。みんな光や。そんなん教えのうち入れへん。みんな真(まこと)の神さまや。 神さまが1番良いようにしてる。今が1番良いようになってるだけや。

 教えって言えへん。組織もいらん。教える人もいらん。文句言うたら、言うた文句を祈り言葉に印可書に、どっちにでもいいけど投げ込んだらいいだけや。組織もいらんし、 お金を出さんでもええし。ただ護摩は維持したいからね、護摩木の分ぐらいはみんな出してねってお願いしてますけども、出せる範囲はね。

質問:先ほど動物のお話とかが少し出てたと思うんですけれども、私が比較的近い地域に熊が出まして、とあるの方の手を、噛んだりとか…

河上さん:熊を撃つわけでしょ?

質問:で、その後は、ちょっと私、どうなったかは存じないのですけどやっぱり、住民の方が非常にやっぱり心配されてますし、で、観光地でもあるんで、非常に有名な…

河上さん:だけど大元はね、人間が勝手に木切って、どんぐりの木を切り倒すからや。どんぐりの木を残しといたら、クマさんの食べ物残ってるから降りてけえへん。人間がクマさんの食べ物を奪いとったから、どんぐりの木を切ってね、勝手に杉を植えたんや。杉を植えたってクマさん食べられへん。それが大元の原因や。本当は上の杉の木を切ってね、どんぐりの木をどんどん植えていったらね、クマさん困らへん。食べるもんないから、そら食べもん探しにくるよ。人間でも食べるもん奪われたら、他所に食べるもん奪いに行くや。それが戦争でしょ?で、大元の原因は全部人間が作ってる。動物のせいではない。

質問:最近は、非常にやっぱり、どこの地域でも、大雨が降りますと、山からスライド…

河上さん:そうよ、どんぐりの木やったら山崩れ起これへん。杉やヒノキはね、根が浅いね。だから、保水力もないし、土砂崩れ起こすね。でも、どんぐりとか、ナラ、クヌギとかはね、こういう木は、根が根深って言うて、根が深いね。保水力もあるし、山は崩れへんね。

質問:それで、あちこちで、そういう地滑りで、もう山肌があちこちで出始めてるんですね。

河上さん:出てる、出てる。

質問:で、やっぱり急斜面のところが、もう山肌がこう現れて、もう本当に、私がもう今までに見た事のない光景が、もう普通にどんどん、どんどん、それが広がってきている状態が…

河上さん:そうよ、もう最後やもん。地球霊王様も怒りまくってるもん。それで。

質問:それで今から、どういう風な心がけや。もし、その…

河上さん:いや、まず真祈りよ。まず真祈りしないと。例えば山の地主さんはね、スギ、ヒノキを植えて儲けたいわけでしょ?で、また国の補助金が出るから、スギ、ヒノキ植えるには、植えたら補助金出て生活できるからね、それを植えるしかないんや。でも、みんなが真祈りしてね、そういうのではなくて、っていう風に行くしかないね。理屈で言うたら、みんなの利害があるから誰も動けへん。で、果たして間に合うかどうかぐらい、本当はせっぱってんねんけどな。ウクライナの問題でもそうだけど。

質問:うち地域の中に、本当に、こちらにまつわる、お墓参りしたり、天皇のお墓だとかいうのがあったりもして、かつて私もそこには行ったりできたんですけど、やっぱり、クマさんのエリアになっているので、やっぱり、もう…

河上さん:もう行ったらあかんよ、危ない。

質問:そしたら、そこが、もう誰も、人たちが入らなくなると、もう、ますます、あれって言ったら変なんなんですけど、そうなっていくのをただ放置するだけで宜しいですか?

河上さん:だから、利害が絡んでるからね、勝手な事が誰もできへんのよね。本当は、クマさんのためにね、どんぐりの木をようけ残さなあかんかってん。どんぐりの木は強いからね、何しても育つから。だけど、人間が石油焚いてね、原子力焚いてね、色んな事するから、どんぐりの木すらも今は病気で枯れるね。だから人間が刈らんでも勝手に枯れ出してる。色んな意味でもう凄い状態やね、本当は。もう地球霊王様はね、松下先生が待ってくれ言うから待ってるけど、「もう待てん、もう待てん」って。「お前にできるんか?」って僕は怒られてんねんけどやね。「みんなに真祈りしてもらいます」しか言いようなくて、護摩を頑張ってね、してますけども、それでも護摩を一時中止しようとする状態に一時なったぐらいね、もう大変なんが来てる。

 いざ、もうノアの洪水のようにね、あれは地軸が傾いたんやけど、いざ、地軸傾き出したら、もう万事休すよ。で、その時の状態の事をもう想定して、色んな話し合いをしてます。イエスの奇跡を表わせるからとかね。それくらい切羽詰まってます。もう今更、あの利害が重なっててね、対応のしようがない。

 ただ、みんなの真祈りが深まったらね、あの山の地主さんも分ってくれてね、「じゃあどんぐり植えよ」とかってなってくるけどね。まず地主さんの了承がいるもん。そんなもんどうしようもないよ。色んなとこで、もう昔とは全然違う状態にね。先生が柿本人麻呂であられた頃に色々とあちこち作ってくださった大事な場所も、もう木が生い茂げて近づかれへん状態になってる。

 危なくて行けないし、まず何よりも生い茂ってね、50年経ったら道も分らへんね。全くもう、この山でこっから入ってんって言うんやけど、もう生い茂って道もないし、ハチさんはいっぱい居てるし、近づく事もできへん。本当は近づいてお祈りしたいんだけど、できないっていうぐらいの状態。本当に、最後の最後に来てるんやって。みんなのんびりしてるけどな。 別にかまへんねん。みんなの自由意思やから。

 先生が僕に仰った事は、きついようやけど、「お前に任すけども、別に人類が滅びても滅びなくてもどっちでもいい」って言われてる。要するに、「みんなの自由意志に任せなさい。 だから一生懸命説明はしてくれ。でも、みんなが自由にどうするかはみんなの総意。」

 ただ、護摩のとこのあの額だけはね、みんなの総意って言うたらまた揉めるやろから、勝手に燃やしますけど、護摩の会場の額は。

 ここのお祈りの部屋のは残します。

質問者:ありがとうございます

河上さん:別に厳しい事言ってないからね。ごく普通に今の状況を説明してるだけですから、脅かしてもないです。 本当に色んな意味で、例えば、北極の氷が溶けてきたりね、もう なるんですよ。で、北極の氷が溶けると地軸が傾くの。重さのバランス崩れるから。で、地軸が傾くとノアの大洪水みたいになるわけ。先生はどの状態に地軸が傾くまでは僕に教えていってるんで、そうなる前になんとかせえよって言われて。そうなる前、あと4年。 みんなね、例えば電気でもなんでも無駄に使いすぎるんや。もっと本当にね、みんなで助け合って、せんなんねんけど、みんな各家族ごとに分かれて住むやろ。暖房1つとっても、電気1つとっても、ようけいるわけや。もっと、仲良く集団生活したらな、食べ物でもロス減るし、電気でもちょっとで済むわけやんか。

 だけどな、できへんやろ?まだ。それは真祈りが沁み渡ってないから。自分たちが正しいがあるからや。その自分たちの正しいをどう真祈りで消していくかや。自分たちが正しいって言ってる間は、教えも組織もいるし、ウチとこが1番、自分とこが1番、自分とこは真(まこと)神さまやから大丈夫とかって言い出すね。違うやろって。その自分というのが間違いやって言うのが分らへん。

 「みんな光や」って先生言うてるやん。「みんな真(まこと)の神さま」って先生言うてるやん。なんでそれが信じれないか。 簡単な事を先生言うてんねんけど、みんな自分が正しいで受け取れへん。

 「そんなん言うたって顔も形もちゃうし、分かれてるやん」。 いや、全部別やから1つやというのが分らへんねんな。同じもんが2つあったら、2つや 。1つって言えへんねんな。全部違うから1つやね。それがわからなあかんねんけど、自分が正しいという過去の結果に基づいてどうこう言ってるうちは崩れるね、バラバラなっていく。

 特にこの現世は、いっぺんバラバラになったものはマトメられへんからね。サラサラと流して消し去っていかなあかんねんけど。 前も説明したように、光の状態やったら、プリズムで七色に分けても、またその七色を合わせると無色透明に戻るんだけど、この現世はその光の反射した、もう一旦反射した段階のとこやから。絵の具がそうやけどね、 絵の具は光を反射して発色してるだけやから、絵の具をいっぱい集めたら黒になる。だからこの世には地獄がある。

 全部1つにしましょうって勘違いして1つにして地獄ができる。一瞬、一瞬、新たに受け直さなあかんのにな。現実を掴んで過去を掴むから、その現実を掴んで過去を掴んで合わせていくと真っ黒になって地獄なる。地獄で済んだらええけど、漆黒の闇までできてる。

 だから一瞬一瞬新たに受け直さなあかん。それを難しいやろから「印可書」奉読でって言ってるわけで。その説明が沁み通らんかったら、人類がそういうのを選んだというだけの事やから。


令和5年9月河上さん勉強会お話しー4(20230910−4)

河上さん:あまりに責任が重いから「先生、そんな絶対みんな好きにするから無理ですよ!」って言ったら、先生が笑って、「好きにさせたらえねん」って言いうから、「お前はひたすら説明だけしてたらえねん」って言うから、聞く聞けへんは皆の勝手と思って説明してるんだけど、ちょっとでも聞いて欲しいから、みんなの自由意志を縛ってね、印可書奉読を言ってるだけで。 

 この世のもんで永続的なものは一切ないというのに気づけばね、一瞬一瞬新たに受け直すしかないって分かるねんけど、何時までも若いと思うやろ?それが一番の問題やね。
 
質問:2点あるんですけれども、1点目は先程のみんな何時までも若いと思うやろ?それが問題なっているという事をもう少し教えて頂きたいです?

河上さん:だからね、本当に一瞬一瞬新たに受け直してたら、死ぬまで若い姿で死ぬね。先生そうやろ?お年寄りの姿と違ったやん。死ぬと思わんかったやん。そないして一瞬一瞬新たに受け直してる見本を見せてくださった。みんなもな、年寄りになってきたら恥ずかしいと思わなあかん。一瞬一瞬新たに受け直してたらな、若い状態で死ぬ。

 やっぱりこの世で自分の選んだ宿命があるから、要するに命を宿すって宿命って書くわけやけど、100年とか50年とか30年とか10年とか60年とか80年って自分でまず長さを決めて降りてくるんよ、その長さ分は嫌でも死なれへんけども、そこから先は嫌でも伸びへん。

 でも、ちゃんと一瞬一瞬新たに受け直してたら、80って決めたら80までは若いままで死ぬ。みんなね、年取っていたから物忘れが多いとかね、年取っていたから体が硬なったとか、勝手に自分で縛っていくん。一瞬一瞬新たに受け直してたら大丈夫やねんけどね。

 ただ肉体が車でもそうやけど、古くなってくるから、手入れとしては毎回筋伸ばさなんとかね、若い時以上に手入れに手間がかかるのは仕方ないよ。車でも中古車になってきたら手入れに手間かかるやん。それは仕方ないけどね。その手入れに文句言い出すからややこしいね。

 ご飯ようけ(沢山)食べたらあかんようになってきたとかね。食べんで済むようになったって喜ばんとあかんのやけどね。お腹一杯食べたいとか文句言うからあかん。ちゃんと真祈りしてたら必要以上食べる気になれへんね。でも食べたら美味しいで食べるやろ?で、必要以上食べて病気になる。その量はあかんやろっていうのを食べるもんな、みんな。気持ちは若いからな、みんな。気持ちはみんな10代の青年少女や、少年少女やな。みんな10代から意識が変われえへん。

質問:2点目の質問です。言葉の使い方の確認です。みんな光、みんな真(まこと)の神さまが,この後何ですけども,みんな不器用を楽しんでるっていう言い方は、落としめてる言い方になるんでしょうか?

河上さん:落としめてる言い方はなれへんけどね。みんな不器用を楽しんでるというと、不器用をうっかり掴むからな。だから、そういう表現をせんほうが良い。落としめてはないけど、怠けてておもろいやっちゃって、僕言ってへんやろ?おもろいやっちゃって言えって言ってるやん。

 うっかりマイナスの表現のほうは一切使ってはあかん。先生も一切使えへんね。おもろいやっちゃだけ。先生の場合はもうちょっと違ったけど。

 だから先生はダメって言われへんわけよ。で、先生に聞いてね、先生がダメって言えへんだったから自分は正しいって、みんな勘違いしてぐちゃぐちゃになっていくねんけど、そうなるのも百も承知で先生は真祈りだけって僕に厳命しはってん。

 もう(全然みんなわかってないから)僕が喋ります、説明しますからって言っても、お前は喋ったらあかんってずっと怒られて。それはまず真祈りでお清めせんとね、何も始まれへんって。

 でも最後の1%は皆にして貰わなあかんから、説明する時期に入った。

質問:おもろいやっちゃって言い切る。もうそれをひたすら繰り返す?

河上さん:もう言い切ってたら良いやん。

質問者:ありがとうございます

河上さん:みんな光やからおもろい芸をしてんね。悪いことはしてない。どうぞ。

質問:もし、答えを仰ってたら申し訳ありません。ぼーっとしてたんかもしんないんですけど、先ほどの三途の川と地獄の話何ですけれども、石積みのところで終わる人と、三途の川を渡って地獄のアトラクションを楽しみに…

河上さん:殆どの人は渡る。

質問:渡っちゃう?その境目って自分で行っちゃうとは思うんですけれども、三途の川を渡ってアトラクション…

河上さん:今が一番良いようになってるって言ってね。結果を掴まなかったら。(大丈夫なんです。それは、具体的には、自分の石積みは横においておいて、ほかの人の石積みをたすけるようなことです。)

 そこまではみんな思い切れへんけど、「鬼さんが蹴り倒すのはそれだけの理由あるんやろ、すいません」って言って、素直にまた積み直せたら結果を掴んでないでしょ?結果掴まなくなったら大丈夫。でも結果はみんな掴むね。段数まで言わんけど、ある高さまで積まなあかんというのがあってね。又、それ言うと、死んでからみんな苦しむから言わんとくけど、それを積もう積もうとするわけよ。そうじゃないね。積むじゃなくてっていう、神さまが一番良いようにしてるだけど、もう分かるかな。結果を掴まなくなったらええね。

質問:文句も言わなくなったらええ?

河上さん:鬼さんが蹴り倒すのはそれだけの理由あるんやろ、すいませんって言って、素直にまた積み直せる人は結果を掴んでへんやんか?だからええね。だけど「蹴り倒しやがって、また積まんねん、何であんな悪さすんね、てんご(悪さ)しやがって」って言うて、みんな文句言いながら積むんや。そう言う時点でもう結果掴んでるやろ?結果掴むって決まったら、もっと掴みたくなって川渡る。

質問:川渡っちゃうのはやっぱり、よっぽど自分であっち行かなあ、あたしあかんわみたいな感じなんですか?あっちいってちょっとあったら...

河上さん:身体がものすごい熱くなってくんね、怒ってるから。ほら、火吹きダルマっていうか、ほら怒ったら真っ赤かに、漫画でも描くやろ?ああいう感じでチンチンなんね、チンチンって。この辺でやかんがチンチンって言い出すわけよ、頭のやかんが。熱うて敵わんから川入りはんね、本当の事言うてしまった。これ知ってても熱なって敵わんから入るよ、みんな。怒るね、みんな蹴られて。「クソタレがって」。

 それで今やったら肉体持ってるからな、みんな怒っても熱なるのがしれてるやん?あっちはな、肉体ないから限度がない。本当にチンチン、真っ赤かになる。

質問:すいません。石積みで、鬼さん何か理由があるんやろうなって思って…

河上さん:要するに文句言わんようになるわけや。「倒されるだけの落ち度が私にあって、ごめんね」とか言うて、すいません、すいませんって言うて、喜んでたらええねんけどな。それは結局喜んでる形やから、文句言ってないからね。

質問:それで許してもらえる?(笑)

河上さん:そうよ。だからトイレに鍵かけられても、怒らんと文句言わへんからスッと行くね。そういう感じでこの前質問あったけど、「トイレに鍵かけられて入られへんようにしましてん」って言うて喜んではるわけよ。だからスッとするね、この世で言うとね。

 石積みも一緒よ。積んでも積んでも倒されても「やっぱり私に悪いことあるんやろう、ごめんね」って言うて積んでたら、結果を掴まんしね、それは結局は喜んでる形やからええねん。

質問:許して貰って...

河上さん:許して貰うんじゃなくて、自分が結果掴めんからスッと行くんや。

質問:そう何ですか?賽の河原…

河上さん:要するに、鬼さんと自分と分けて考えてる人は、そういうのが分からへんね。だけど鬼さんが何かの理由でね、してくださってるんやって言うていくと、自分と鬼さんが一つになってる。鬼さんって真(まこと)の神さまやから、一つになる範囲が大小あろうが、ちょっとでも繋がったらわざわざ降りていくことはない、上へ上がれるやん。神さまと繋がったら無色透明に近づくから、それだけよ。

質問者:分りました。ありがとうございます

河上さん:だから感覚で言うと、宇宙空間にパッと放り出された場所が真(まこと)の神さまの世界や。無限無限の輝きで、あんな真っ暗じゃなくてね。それって地面も何もないわけよ。空中にポンやね。それを喜べる人はいいけどな、大概は不安なわけよ。落ちるんちゃうかな?とかね。ほんで降りていくね。

 その落ちるんちゃうかなという意識というのは、自分が正しいとか文句言う気持ちよ。だから肉体あるうちにね、「宇宙神ありがとうございます」に「放り込む癖」をつけとかないと、どうしようも無くなるなるね。印可書を読める人は「印可書を読む癖」つけとかんとね。

 死んでからやったら、宇宙神ありがとうございますも出えへんね、えぇかげんな気持ちでおったら、「宇宙神ありがとうございますって言われました」というレベルではな、死んだら「宇宙神ありがとうございます」を忘れるね。で、賽の河原から川渡る。それくらい自由意志というのが大事やね。

 だから自由意志で「宇宙神ありがとうございますって言われました」という間はな、自由意志で選び取ってへん訳や、祈り言葉は。

 だから肉体を失うと忘れるね。自由意志で選び取ってたら、もうこれしかないと選び取ってたら、忘れてへんから大丈夫や。それでも投げ込むのが大変やから色々と苦労しはるけど、その苦労もその人にとって必要な体験やからね、別に良い悪いではない。その人の自由意志で選んだ楽しみや。

 そうだけど、地獄も本当は楽しみや。そこまで分ったら地獄からすっと戻れるねんけどね。何事も楽しみってわかった良いねんけど、苦しみって言うから、もうややこしくなるねんけどな。

 だからマラソンで説明するとね。あんなしんどいこと何でするんと思うけど、走ってる人は苦しみと違って楽しみでしょう?っていう。真(まこと)の本心の自分と繋がってる部分はみんな楽しみやね。水泳が好きな人ってね、泳ぐの苦手な人から見たら何で泳ぎに行くんとか思うけどね。面白いんやろ?水上スキーでも何でもね。そういう部分は神さまと本心と繋がった部分やから楽しめる。

 この世に色んな趣味あるけどね、何であんな邪魔臭いことするの? 昆虫採集でも何でもそうやけど、興味ない人からみたら、何でお箸の袋集めてる人なんか何が楽しいねん?と思うけどね。

 それ本心の部分と繋がっててやってたら、それは楽しみなわけよ。だからどうこうじゃなくて、真(まこと)の本心の自分と全部繋がったら、全部が楽しみやね。

 でも自分の自由意志で真(まこと)の本心の自分と切ってね、苦しいって言ったら、自分の自由意志で真(まこと)の本心の自分と切ってるわけよ。切った分だけ苦しい苦しって言って、地獄に流転するのよ。で、苦しいに飽きるまで流転するのよ。でも最後は飽きるわけよ、疲れ果てて。もう無理って「神さま助けて」って言ったらすっと上がるね。

 それでも一番上まで上がらへんけどね、そのレベルではね。それでも神さまって呼べなあかんね。神さま呼べない人が地獄流転する。何でこんな目にあうねんってばっかり言ってるの、地獄降りた人は。自分で降りてんねんけど。そうやろう?「何でせっかく積んだ石、蹴るねん?アホたれが」って文句言うからや。

 ちゃんと神さまの方はその人の自由意識で気付くように気付くようにしたアトラクションを用意してくれてる。

宮野さん:結局神さまと分け隔て、分けてる?

河上さん:そうそう分けてる意識がなくなるまで楽しめるね。

宮野さん:自分っていう物を掴んでるって事を手放すのは自分しかないから、自分自身で手放さないとどうにもならない。それが印可書である。ひたすら印可書を読み続け、自分ってものを何もできない、何もないって無色透明、全て神の神さまだっていうところまで行くってことですね。

質問:そしたら河原で石積みをしたり、川を渡ってアトラクションをしなくても、それはこの世でも十分に出来てる事ことですよね?

河上さん:だからこの先生のところに集まった皆はね、後1%だけまで清めたから、この1%くらいは印可書を奉読してやってよって、宇宙神ありがとうございますってやってよってお願いしてるだけよ。それも自由意識だから、そこから先を強制できない。好きにしてくださいとしか言われないけどね。でも、テレビショップで個人の感想であって、効能を示しものではありませんと言いながら印可書、印可書と囁くね、耳元で。

宮野さん:確認ですけれど、肉体を維持するのに多少なりとも無色透明になってしまうと、肉体を維持するのは難しいので、先ほど言われた1%というところを虚栄心であったりとか、

河上さん:そうやね。だから、癖とかを持つことによって肉体を維持できる。その虚栄心とか癖とかを全部自分が楽しめたらいい。そうやけど、楽しまないと責めるからややこしい。

宮野さん:若しくは掴む、後生大事に。これが自分だと思うから。

河上さん:そう、「こんな怠けておもろいやっちゃうな」って自分で自分をおもろいやっちゃうと言ったらいい。そしたら掴めへんからサラサラと変わって行くんだけどね。

 それでも色んな個性でその人なりのカラーを持ってないと肉体を維持できへんからね。色々と持つねんけど、だんだん持つのがなくなってくると、もう無理かなって、後4年くらいかなって思ってるだけです。
 
宮野さん:それでも神さまは色んな形で使い切られると思うので、必要あらばどの状態も展開はあるってことですね?

河上さん:そうそう、神さまは無限の無限の輝きやからね、みんなの自由意志、ようするに皆の希望に沿ってくださる。

宮野さん:今のところ、皆さんが短い、後わずかな時間がないところでもって、して頂くというのは、「自分の我を外す」「自分の一番大事なものを捨てる」っていう…

河上さん:「自分が正しい」を、どれだけ「おもろいやっちゃうに変えれるか」や。

宮野さん:それが印可書?

河上さん:印可書。印可書を奉読していたら、食欲のある自分、性欲のある自分、色んな自分を楽しめるね。でも印可書を奉読していなかったら、こんな私って自分を責めるんよ、無意識に。それが病気の原因やねんけどね、本当は。あんまりそこまで言うと、みんな病気なるからあんまり言えへんけど。今うっかり言ってしまったけど。色んな意味で病気なんのはそれやね、自分を責めるからや。

宮野さん:自分を責めるっていうのは、自分ってものを掴んでるってことですね?「自分が」

河上さん:或いは、何があっても自分とは関係ない、私関係ないわっていう気持ちやね。

宮野さん:両方ですね?

河上さん:両方。

宮野さん:私関係あるも、私関係ないも同じですね?

河上さん:うん。まだ自分を責めてる人の方が助けようがある。

宮野さん:助けようが?

河上さん:ある。分かってるから。自分と関係ないって言うてる間は自分のこと全然分かってへんから、どうしようもないとこ。だから先生は総責任者の自覚って言うて、全部自分の責任やって一生懸命言うてくれはってんけど、みんな他所事や。おもろいで!

質問:8月8日に真祈りの伝授が完成したというお話の中で、みんな印可書を選び取った?

質問:そう選び取った。印可書を選び取ろうとしてた人はね、選び取れた。
 「選び取れた」と、「自分が正しいを印可書に投げ込んだ」とは別やからな。

質問:ちょっと固まりました。もう一度。(笑)

河上さん:だから自分が正しいがいつも出てくるやん?その「自分が正しい」の「自分を責めず」に印可書を奉読出来たら良い。自分が正しいを何とかする為に印可書を使ったらええ、って選び取れたという。

質問者:はい、分りました。

河上さん:それで護摩の時に説明したけどね。それで「自分が正しい」を印可書に放り込んで一瞬はスッキリするけど、またワッとなるって言うてる。それは縁者やからって言うてるやん。それが最終的に全人類になった状態になったのが先生。なんぼ無色透明になっても、次、背負って消して、次、背負って消してってされたのが先生。その一部は僕はしてます、今もね。

 そういう感じで、先ずみんなは自分の縁者から。縁者が終わったらっていう順番に、永遠に切り無いけども楽しいわけよ。無限のアトラクション。

質問者:分りました。ありがとうございます。

河上さん:ただね、その印可書を選び取れない人が当然ある、っていうのをあまり言いたくなかったんだけどね、8月8日過ぎたから言いますけど、印可書を選び取れないおもろい人があるのは先生の想定内で。で、宇宙神ありがとうございますも残してくださった。

 宇宙神ありがとうございますの場合はね、何があってもとことん筒一杯(精一杯)行ったるぞっていう気迫がいるんよ。ちょっとでも文句を言ったら「しまった」って思って、また「宇宙神ありがとうございます」ってね、もう凄い気迫がいるね。だけど殆どの人は途中で挫折するからね。それでも選んでてくれたら何とかするよ。

 でも「聞いてます」では選んでないからどうしようもない。ちょっとでも宇宙神ありがとうございますのに投げ込もう、投げ込もうとしてたら選んで取ってるけどね。宇宙神ありがとうございますって聞いてるから、何とかなるやろって。選んでないやろう?それ?聞いただけや。電化製品の説明書、取扱説明書をね、見ただけや、読んでない。

 この前有ってん「ホンマに取説読んだんか?」って言ったら、「読んだよ」って「嘘つけ、見ただけやろ?」って言ったら、「うん、確かに見たな」って言うてるの。「あんたな!」って。(笑)

 ランプついたら充電完了やのに充電できへんって怒ってんねんや。「いや違うの、ランプが消えたら充電完了で、ランプがついてたら充電中やって意味や」って言ったら、「そんなことあらへん、ランプついてるから充電完了や」って聞かへんわけ。それで「お前、説明書読んだんか?」って言ったら「読んだよ。取説読んだよ」ってな。「見て、みいや」って言ったら。「ああ、見ただけやったな」って読んでない。

 それくらい皆ね、自分に甘いんやな。取説を見てもう分かったつもりや。ハンディの按摩機やねんけど、繋いだらランプついて充電中って出るの。消えたら充電完了やねんな。そんな簡単なもんやからもう一々読めへんわけや。取り敢えず使い切って電池なくなったから充電しはるわけや。で、ランプついてるから充電完了やな、動けへんねんって、壊れてるわってやってるわけや。

 そんなもんや、みんな。見ただけ、聞いただけやねんな。見ても聞いても実行せんかったら意味がない。実践しなくては意味がない。

 その実践の度合いは神さまは問わへんね、本当は。ちょっとでもしようとしたら行けるね、小っちゃい子のお手伝いと一緒でね。でもどっちにしたって印可書も宇宙神ありがとうございますも、それが神さまお手伝いなんだという部分を信じてくれないと、どうしようもない。

 宇宙神ありがとうございますに投げ込んで行く事が、神さまのお手伝いになるって信じてくれんとね。そこだけは絶対外されへん。ただ、「宇宙神ありがとうございます」って言ったらええんやろでは、それは信じてないからあかん。

 印可書も一緒や、印可書読んだら神さまのお手伝いなるって信じてくれないと。印可書読んだらええんやなでは全然あかんね。そこだけは外せない。先生が先生の言霊で宇宙神ありがとうございますに、ありがとうございますに、印可書に、真(まこと)の神さまそのもって決めてくださって、これを読むときは神さまお手伝いになるって言霊で決めてくださった。そこは信じやんとあかん。そこは先生に対する絶対の信が要る。先生が命に変えて作ってくださった印可書や。それだけは奉読することが、宇宙神ありがとうございますに祈ることが、宇宙神ありがとうございますに自分のマイナスを文句を投げ込むことがね、神さまお手伝いになるというのはそこは信じてください。

 それを信じやんとな、ただ読んだらええんやなって言ったら、それは単なるギブアンドテイクや。神さまを召使いに使っているというだけや。 

 宇宙神ありがとうございますって言ったら、神さま助けてくれるんやろ。印可書読んだら、神さま助けてくれるんやろって。それって神さまを召使い扱いしてる。失礼にも程がある。そこだけは間違わないように。だから印可書は奉読って言ってます。宇宙神ありがとうございますは真祈りって言ってます。真祈りというのは、神さまをこき使う事とちゃう。神さまのお手伝いすること。それを履き違えないようにね。

 宇宙神ありがとうございますしか選び取れない人でも、そこだけは間違ってはあかん。だから宇宙神ありがとうございますって聞いてますではな、全然お手伝いになってない。

質問:仰る、宇宙神ありがとうございますと聞いているという方は?

河上さん:大半や。方がじゃなく、殆どの人がそれで終わってる。

質問:今、お話を集まって聞いてる方、録音で聞いてる方も全てですが、印可書を選ぼうとされている方が多いと思うんですが、宇宙神ありがとうございますって聞いてますっていう方は、多分聞かれない方が多いと思うんですけども。

河上さん:印可書を選ばないよな。

 だから、最初に先生から、本当にすごい人類の命運という責任を受けたわけやけど、余りの重さにね、「やるのはかまへんけど、誰も僕の話し聞きませんよ」って、先生にはちゃんと言うた。

 なら「別に聞く聞けへんはかまへん。お前は、只、ひたすら説明したらええねん」って。で、自由意志縛ってまで説明せい、とは先生おっしゃらなかったけど、ちょっと僕のおまけでしてるけどな、それ以上はええねん。

 そんなもん選んでへん人に何ぼ言ったって、どっちみち聞かへんって。そこは自由意志がいるの。それはみんな真(まこと)の神さまそのものやから、その人の自由意志が最優先される。そんなのはどうしようもないよ。それでええねんって、ほっといたらええねん。

 だから言ってるやん、地獄の体験が必要な人は必ず体験するねん。一度は食べたい激辛カレーよ。二度と食べたくないけども、どんな味かなとは、やっぱ思うもん。

質問:聞く聞かないっていう結果に捉われてるんではなくて、説明だけはさせて貰っているっていう事なんですね?

河上さん:そりゃそうや説明はするよ。だって、大先輩やん、あんまりこんな事言いたくないけどな。みんなから見て僕というのは本当は大先輩や、先ず一度は大先輩の言うこと聞けよ、本当は。聞く気も無いんやろ?聞きたくないんやろっていう人は、それは自由やって。

 普通は先生、亡くなられてね、残された者の中で、一番最初に、22歳のころの先生にお会いしたん僕やから、本当に大先輩やし、先生と一緒に病気治しもしてきたし、古い人はみんな知ってるよ。空飛ぶ円盤作ろうとして色んな事をしてる事みんな知ってるよ。そんな古い人、ほとんどここへ来ないようになったけどな、そういうもんや。

 そうしたら信じる、信じへんは別やけど、一度は聞けよ。聞く気もないんやったらその人の自由やって、そこまでは縛られん。

 一度は聞いて本当にええんか、悪いんかね、判断しはったら良いと思うけど、聞く気もない人は聞かんで良いって。そんな自由意志縛られん、みんな真(まこと)の神さまやで。 

 だから光の勉強会始めるときにね、念を押したんや。「みんなすでに祈ってる、悟ってる、救われてるって思えんかったらすぐやめてください。絶対ここから外れたらダメよ」って。何をしてもいいけども、「みんなすでに祈ってる、悟ってる、救われてる。」みんな光やっていうね。「神のみ光、み力、み命。みんなみんな神のみ光、み力、み命」というとこから、ちょっとでも自分の意識がずれて、みんな悟ってへんと思ったときは、すぐ中止してくださいって厳命した。

 それを守ってくださったから、光の勉強会はうまく来てるね。

 一緒や。それは何か?と言ったらみんなの自由思想を一番優先しなさいや。みんな光やからその人の自由意志が一番大事や。だから、みんな好きにさせたらええんや。勿論、要らんお節介して宇宙神ありがとうございますを選ぶんやったら、こうやでっていうのは、勿論、言ってええよ。

 言うてええけど、普通聞かへん。自分が正しいと思ってるから。

 ここよ「自分の我」というのは、自分が正しいと思ってるから、自分が思う通りにしか宇宙神ありがとうございますを選べへん。そんなら宇宙神ありがとうって言ったら助けてもらえるんやろって勘違いするわけや。それもその人の自由思想やからほっといたら良いの。あとは、体験として分かり合うわけや。

 できたらわざわざ苦しい体験せんと分かって欲しいから、要らんお節介は精一杯するけどね、

 それでもいよいよ、時間が迫ってきただけや。時間が迫ってきたからついつい本当のことを言ってしまう。
 
宮野さん:肉体が全てやって思ってはるからな、みんな。自分が正しいと、死んだ先の事なんか分からないと思ってるから、今が良かったら良いっていう。肉体がある時だけが良かったらっていう意識に、やっぱりどうしても捉われやすいんじゃないかな。

河上さん:肉体の時間ってな、長くて100年。向こうの時間の方が長いっていうのをみんな忘れてん。地獄で何億年って楽しみはんねんで、みんな。

宮野さん:長いアトラクション、お楽しみやな。

河上さん:時間切れないから地獄は。ここで一旦閉園しますとかない?今日は休日ですわ。365日休みなし。

宮野さん:一応説明はしたしね。

河上さん:質問がないようやったら。みんなすっきりしたやろう?もう綺麗にお清め終わってるからね。1%は残ってるから頼むで、印可書で宜しくお願いします。そしたらお祈りして終わります。

 本当に自分の自由意志というのを絶対忘れないで、何々言われたからしなくちゃじゃないからね、自分の自由意志で好きに選んでくださったら良いだけで。もう本当それだけ。それぞれ自由意志で選んだ通りの自分の選んだ楽しみ方をするだけやね。ここだけ忘れずにね、楽しみ方をするだけで、苦しみちゃうからね。

 だから地獄の鬼さんに石を蹴られても楽しいなって思えたらええのよな。文句言うからややこしい。文句言った時点で、神さまから大きく離れた自分っていうのを気づかなくちゃあだけどな。

 中々肉体が全てと思っている人には、肉体にとって都合良い時は良い。だからお酒大好きやね。お酒大好きなのは、本当はお酒飲んだら体、肝臓痛むわけでしょ?脳細胞がプチプチ死んでいって、ボケが早なるわけやんか。でも肉体のその時の気分の良いのが好きで、お酒やめられへん。

 タバコ吸う人でも、甘いの好きな人でも色々あるけど、肉体のその時の一時的な楽しみを掴むわけよ。肉体が全てと思ってるから。で、いずれまた色んな体験して気づくからね。

 でもやっぱり何事も楽しんだよっていうのだけ、ちょっと片隅に入れて貰うと気づきやすい。ではお祈りします。


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9月護摩 by 河上彰延 2023年09月09日(土) 23時03分
PC

9月護摩焚き河上さんのお話
 宇宙神ありがとうございます

 令和5年9月の護摩焚きで、河上さんがお話してくださった内容です。

司会者
 事前にお預かりしました質問がありますので、質問からお願いします。お一人の方から2つ質問をいただいていますので一つづつ読ませていただきます

質問1
 いつだったでしょうか、神さまのためではなく自分のために生きると死んだ後、大変なことになると河上さんは前におっしゃっていましたが、そのことについて詳しくお話ししていただけませんでしょうか?よろしくお願いします。

河上さん
 ありがとうございます おもろいでまた今月もお会いできて嬉しいく思います。

 先生がいつもいつもおっしゃってたことなんですけれども、「一番大切なものを捨てなさい」まず「一番大切なものを捨てないと悟れない」と言うと、もう最初の頃はですね、50数年前ですけども、いつもいつもそれをおっしゃったわけです。

 でも誰もね、「一番大切なものを捨てる」って、その一番大切なものは何なんですか?って誰も聞かないのね、聞かないというか、聞けないというか、その捨てる勇気もないから聞くとこまでいかないと言うか…。別に責めてるわけでもなくそういうものなんですよ。「大切なものを捨てろ」というだけで、「お財布なんかなぁ?」「仕事なんかなぁ?」「生活なんかなぁ?」

 例えば大切なもの何ですか?って聞きに行ってね。生活です、仕事捨てなさいって言われても怖いし。捨てる勇気もないから、誰も聞きに行かないまま終わってるわけですけども。一番自分にとって大切なものというのは「自分」なんですよ。

 だから自分が正しいが基本なんですね、みんな。自分のやってきたことは間違っていないが基本なんですよ。その自分が正しいと思ってるうちは、もう何も見えなくなるんですね。これが自分個人じゃなくて、いろんな団体とか組織になれば、自分とこが正しいってなって、自分とこ以外は間違ってるってなるわけですよ。やっぱり何もわからなくなる。

 その自分というのを捨てないと大変なものになっていくわけですね。その自分が捨てれないまま死んじゃうと自分が正しいでしょう。だから、神さまは正しくないんや。逆の言い方したらね。自分が正しいということは自分以外のものは間違ってると神さまを拒否するじゃないですか。拒否するから勝手に落ちていくんですよ。

 その神さまというのは具体的に、この世のもので例えて、わかりやすく言おうとすれば、空気なんですね。神さまって空気のような存在なんですよ。空気って、息をみなさん止めたら15分も止めたら死んじゃうじゃないですか?15分も普通止めれないけどね。でも空気はなければ生きていけないものです。もう絶対必要なものなんですね。だけども掴みようがなくて、しがみつきようがなくて、頼りようがない。本当は呼吸することによって頼ってるくせにね。頼り甲斐がないみたいな…という感じになるんですけれども。

 真(まこと)の神さまというのは、そういう存在でおられるわけですね。生命(いのち)そのものでおられるから、生命(いのち)として頼ってるわけです、みんなね。本当は頼ってるというより不離一体のものですけど。それをわからずに自分だけが正しい、自分の力で生きている。ほとんどの人そうなんです。自分の力で生きているがある。

 だからこの前のお薬の質問の時に言いましたけどね。病気になった、じゃあどうしよう?自分の力で薬を探して、あるいはお医者さんに行って何とかしようっていうね。その自分があるうちは死んじゃうとね、神さまに縋れないというか頼れないのね。神さまを拒否してるから。拒否した分だけ、例えばこの世でもそうでしょう。空気にはしがみつけないから、掴みやすいものに掴みに行くでしょう。木とか柱とか地面とか、そういう感じで死んじゃうと、地獄の方が、あっちの世界に行くと地獄に行くと物があるんですよ。神さまの世界に行くと光だけで物がないの。

 だから掴みどころのない所は不安で仕方ないから、自分があるまま死んじゃうと、掴みどころのある地獄に自分で降りて行くの。自分で降りて行って、自分が正しいと思ってるから永遠にわからないのね、意味が。自分が今どんな状態になっているか。それを地獄を流転するって言うんですけども。→因縁因果の輪から抜け出せない状態、河上註

 その自分ではどうしようもないのだというのを気付かせるためにですね。神さまは神さまの愛で針山に登らせたり、あったかい臭い温泉や、熱い温泉に入れてみたり、極寒地獄、冷たいところに置いてみたりしてですね、「ああ自分では、もうどうしようもないんだ」って気付くまでいろんなアトラクションを楽しめるわけですという感じのことを、自分があって死ぬと大変なことになるという意味です。いいかなぁ?

司会者
 はい、ありがとうございます 続きましてもう一つの質問です。

質問2
 以前の河上さんの勉強会の中で、1枚の護摩木を書いたら100人以上の縁者を救うことができるというお話が確かあったと記憶しておりますが、これは本当でしょうか?

河上さん
 はい、100人どころではないんですけど、あんまりすごい数言ったらそんなもん嘘やろって言われるんで、まあ100人レベルの話しにしましたけどね。字を書くというのは、自分が書いてるようで書いてない状況になるんですよ。だから昔お勉強でね、お経でもそうですけど、写すじゃないですか、写経って言って。あれ写すのは何かというと、自分がお経を読むとね、自分が読んでるつもりになっちゃうの。でも写してるとひたすら写すのに必死になってるうちに自分で書いてるのが忘れるじゃないですか?それで書くという行為というのは、真祈りに近づけれるわけですね、自分が消えるから。

 それを護摩木という、宇宙船護摩木って先生が言葉で決めてくださったので、宇宙船護摩木には搭乗人員に限りないって先生おっしゃってくれてるからね、本当は100人どころじゃないんですけど。その護摩木に書く行為ということで、例えば「宇宙神ありがとうございます」って書きますけども、自分が「宇宙神ありがとうございます」と祈ってるという意識が消えるんですよ。

 特に護摩木に書く時は、真(まこと)の神さまが降り立ってくださって、手を添えてくださるというふうに先生が言霊で決めてくださいましたので、自分で護摩木に「宇宙神ありがとうございます」と書いてるつもりでも、自分を消えて書いてる状態に大おまけでするよという、先生の大おまけの分が護摩木なんですね。

 それで、その自分が消えて書くということは真祈りですから、真祈りになるともう書いた時点で多くの人に光がいくわけです。それをなおかつ、ここで炎として燃やすことによってですね、この地球上で起こる大噴火とか大火災とか、今、森林火災始まってますけども、ああいう火の洗礼をこの護摩木の洗礼でお清めで小さく収めてるということです。

 火の洗礼から始まる。火の洗礼って何かというと火事であり、あるいは戦争(人々の間の争いであり)ですね。そういうものをこの護摩の会場のこの護摩木を燃やすことで小さく消してるということです。

 だから本当は100人どころじゃないんですけども、まあ皆さんのイメージの中でね、こんな小さい護摩木だから100人も入るかなぁという意識があったので100人って言いましたけど、本当は、本当にたくさんの方の縁者の方に光が行きます。そういう意味です。ありがとうございます

司会者
 ありがとうございます お預かりしています質問は以上ですけども、会場の方で何か質問がありましたら前の方までお願いします。ないでしょうか?すみません、では、私の方から質問一つよろしいですか?

質問3
 最近、河上さんのお話のCDを、3年とか4年くらい前のお話を聞くことがありまして、なんか最近言われていることと、3年前4年前に言われていることと、大きく違わないし、なんでわかってなかったのかなぁとか。こっちの方が、3年前4年前のお話の方が、なんか良くわかるというか。今の自分にとって、足りないことをズバっと言ってもらっているなぁという気がしています。なにかその…。

河上さん
 ああ、「違い」ね。

質問者
 違いっていいますか…はい。お願いします。

河上さん
 これはね、結局、今言った「自分が正しい」がある間は何も見えないんです。だから自分のとこの教えが一番とかね、自分とこの組織が一番、自分の会社が一番とかって言い出すと、何も見えなくなるんですよ。それの一番小さい形が、今の自分が一番正しくって、っていうのがあるわけですね。だからほとんどの人は、大阪のおばちゃんなんか多いんですけど、「あの子あんなことしてるわ、言ってやらないと」ってやってるわけですよ。自分が正しいと思ってるからね。本当は違うんだけど。

 その自分が正しいと思ってるうちは何も見えない。その自分がね、「印可書」を奉読することによって、どんどん、どんどん消えてきたから、自分がなくなるとなんでもわかるの。それがもっと進んで、「印可書」を奉読して、無色透明になった途端にね、もう透き通るように全部わかりますから。話を聞かなくてもわかります。そういうものなんですよ。

 だから、いつも勉強を教える時に子どもに言うんですけど、「考えるな」と。考えるとわからなくなるんですよ。英語でも数学でもそうですけど、勉強ができる子というのは、例えば英語の単語なんかは、覚えようとして覚えてないの。だから、自然に入っちゃうの。でも、できない子というのは、「これを覚えなくっちゃ」って言ってね、一生懸命に単語を何十回も書いたりするわけ。そしたら「覚えなくちゃ」って言うて単語を書くと、絶対覚えられないんです。何故かわかります?「自分は単語を覚えられない」って決めてるから。自分は単語を覚えられないから、50回か100回書いて覚えましょうってしてるわけですよ。でも「覚えられない自分」って決めている間は、何をやったって覚えられないの。で、それは数学なんか算数なんか特にそうなんですよ。考えないとわからないと思ってる子はね、考えるわけ。考えようとするわけ。でも、最初に「考えないとわからない」って決めてるでしょう?もう「わからない自分」って決めてるから、なんぼ(どれだけ)考えてもわからない。そういうものなんです。

 だから、勉強も統一と一緒なんですけども、神さまに統一、五井先生の言い方ですとね、神さまに統一できたら、松下先生の言い方だったら、真祈りができたら、すべて透き通るようにわかる。それは自分が消えるから。だから自分が消えるまでは、ひたすら「印可書」を奉読されてたら、色んな縁(えにし)のものを聞けば、「あ、本当はこういうことを言っていたんだ」ってわかりますし、先生のお話のテープを今聞き返されたら、「あ、本当はこんなことを言っていたのに、なんでわからなかったの?」ということばかりです。でもそれはわからなかったんじゃなくて、自分が正しいと思ったら、自分の正しい以外のことは受け取れないじゃないですか、みんなね。だから、わからなかっただけなんですよ。

 無色透明の自分という真祈りを駆使する自分になれば、全部わかる。真祈りを駆使する自分というのは、「印可書」を淡々と奉読してたらね、自然になります。そしたらわかります。

 でも、一番難しいところは、結局、ついつい自分でなんとかしようとするのね。例えば風邪で熱が出たと。そしたら、まずは薬を買いに行かなくっちゃ、お医者さんに行かなくっちゃって、「自分が」行かなくっちゃというあるわけですよ。それがあるうちは、ちょっとどうしようもないっていう部分なんですね。それが業の流転とか、運命の流転とか、因縁因果とかっていう部分なんですけどね。自分がどうこうしようとしてるうちは、因縁因果の鎖から抜けられないんですよ。

 「間違っている」、「正しい」とか、色々ありますけど、「正しい」ということは、「間違っている」ことを認めているし、「間違っている」ということは、間違いばっかりにしてるしみたいな、マイナスをどんどん掴んでいくんですね。それで何もかもわからなくなるんで。

 まず自分でどうこうしようとする意識をどう消すかだけなんですよ。それで、その自分でどうこうしようという意識を消そうとする自分が出てきて、またその自分を消すためにっていう、永遠の堂々巡りをするんです。これ、泰山の蛇って言うんですけどね。だから自分でどうこうしようというのを止めて、もう只々、「印可書」を奉読するだけでいかれたら、自分が消えてわかるようになります。

 それで、「宇宙神ありがとうございます」を選ばれる方は、自分でどうこうしようという意識が出た途端に、「宇宙神ありがとうございます」の中に自分でどうこうする意識を投げ込まなくちゃいけないんですよ。でも、そこで何が難しいかというと、自分でどうこうしようとしていることすら気付いてないんですよ、みんな。わかります?みんなその、パッと瞬間的に色んな判断して反応するんですけど、自分でどうこうしようとしてるから苦しいんです。

 なんで自分でどうこうしようとすると大変になるかというと、過去の経験に基づいて判断するからです。この過去の経験に頼る、基づいて判断するのは過去の経験に頼ってるんですけども、過去の経験に頼るということを「知識(知恵)の木の実を食べる」って言うんです。知識を得て「ああ、そうなんや。面白いな」っていうのは良いんですけど、それに頼るとややこしくなるんです。

 それを、もう少しわかりやすく言うとね、例えば映画を見に行くじゃないですか。昔、映画でランボーっていうのがあったんですけども。ランボーさんが怪我をするわけですね。そしたら、火薬をその怪我の上にブーっと塗ってね、でパっと火を付けて消毒するわけですよ。それで、「ああ、すごいことするな、うわー」って言って楽しんでるうちは良いですよ。でも、もしその経験に基づいて、どうこうしようってやることを、「知恵の木の実」を食べてるわけ。ああ、映画であんな風にしてたから、自分も怪我したら火薬を塗って火を付けましょうなんて言うと、「知恵の木の実」を食べたってなるわけ。

 今、極端な表現で説明しましたけども、それをみんなね、無意識にやってるわけ。やって、余計に迷路に入っていって、その迷路に入った人がいっぱいになると、戦争が起こるわけですよ。相手を信じられなくなって。相手が自分を騙すんじゃないかなって。ともかく、相手を信じられないから戦争、喧嘩になるわけですよ。抗争とか争いってそうでしょう?それって、なんで相手を信じられないかって言ったら、「自分が正しい」から入ってるから。自分の過去の経験が全部正しいと思ってるからという部分なんです。

 その「自分」というところでお話を聞いてもわからなかった。やっぱりどこかに、「自分が正しい」というのがあるから、自分の判断基準以外のことは受け取らない。「先生は、そんなん言ってるけど違うわ」って言ってるわけですね、そういう部分です。本当は、お話も文章も読まなくて良いんですよ。真祈りしてたら全部透き通るようにわかるの。わかれば自在に動けるの。

 だからその、野球で言うとね、ホームラン打つのがそうなんですよ。理屈で考えて良いボールが来て、それにバットを当てたらホームランになるわけでしょう?理屈で言ったら。でもそれ、過去の経験に基づいて、そんなんを判断してたら空振りになるわけ。自分というのが消えて本当に…ってなった時にホームランが出るようになるわけですよ。バットに球が当たるようになるわけです。ヒットが出るようになるわけですね。そういう、もうその過去の経験に知恵の木の実を食べない、過去の経験に基づいて、過去の経験でしたことが、自分が正しいというのを消しさえすれば、すべて自由自在になるんですけどね。

 それを中心に立つとか、総責任者の立場に立つとか先生は色々と表現されるわけですけども。そこの部分、「中心に立て!立て!立て!」って先生はおっしゃるわけですよ。じゃあ、中心に立つってどういう意味かみんなわからない。中心に立つというのは、絶対空の世界というね、自分のない世界に入ることを中心に立つっていうんです。「絶対の中心」というのは「無限大の外遥か彼方」でしょう?それって空の世界なんですけども。そこに立てれたら、全部がわかるわけです。自分がないじゃないですか。自分、作れないよね、「無限大の外遥か彼方」だから。それで「印可書」を奉読すると、まず自分を消すわけですよ。「絶対の中心 無限大の外遥か彼方」、自分自分って思おうとしてるんだけど、最初に自分の言葉で「絶対の中心 無限大の外遥か彼方」って空に消しちゃうからね。それで、「印可書」を奉読してると、だんだんなんでもわかるようになってくるということです。

 「宇宙神ありがとうございます」の場合は、その自分という意識があるかないかわからなくても、不平不満が出た時は自分があったという、自分でどうこうしようという、「印可書」読んでる方も一緒ですけども、不平不満が出た時は「なんでこんなことになるの!なんでこうなるの!」って言った時は、自分でどうこうしてる時なんですよ。その時は、「印可書」の方は「印可書」に戻る、「宇宙神ありがとうございます」の方は、「宇宙神ありがとうございます」の中に、「なんでこうなるんよ!」っていう自分の意識を自由意志で投げ込んでいただくということをされたら、自分が消えていきます。

 「印可書」の方がそこは楽かなあと僕は思いますけども、「宇宙神ありがとうございます」でいかれる方は、それで必死で投げ込んでください。ただ、必死になると「自分の必死」が出るから、またその「自分の必死」も「宇宙神ありがとうございます」に投げ込んでという大変さはありますけども。どっちにしても、ひたすらな真剣さが要るわけですよ。

 ただ、「印可書」だと淡々とね、「もう、なんかようわからんけども、この印可書に縋るしかない」みたいな感じでいくだけで吸い込んでもらえますので、「印可書」が楽かとは思いますけども。

 ともかく、その自分が消えたか消えないかで、特に先生の神書なんかそうなんです。神書を読むと、本当に凄いことが書いてあるんですけども、自分があるうちは読んでも全然わからない。自分がなくなれば、「あ、それが絶対の中心に立つことなんか」、「あ、それが総責任者の立場だったんだ」とかね。「結局全部同じこと言ってるやん、みんな既に祈ってる、悟ってる、救われているを、先生が言葉を変えて言ってはっただけやん」っていうのがわかるんですけども。自分のあるうちはね、自分が正しいでしょう?自分が正しいと思ったら、みんな既に祈っている、悟っている、救われているって思えないの。思えないと、(自分以外は自分も含めて)悟っていない人が一杯と言うと、本当は他人も自分も一緒だから、(やはり)自分も悟ってないとなって、わからなくなっていくという。結局、自分の正しいをどうするかです。というところで、どんどん自分が消えてこられたから、わかるようになったということです。

質問者
 わかりました。ありがとうございます

河上さん
 ありがとうございます

司会者
 ありがとうございます 他に何か会場の方から質問などありませんでしょうか?(会場からの質問はありませんでした)では、ないようですので、河上さん、お話よろしくお願いします。

河上さん
 ありがとうございます おもろいで1ヶ月過ごしてこられたんでしょうか?あんまり人をマイナスに見ないようにね。これは、普段の生活もそうですけど、趣味の世界になるともっと面白いんですね。趣味の世界になると、どんな絵であろうが、歌であろうがそうなんですけども、直接的な利害関係が発生しないから、もろにね「あいつの所はあかんねん」って、俳句でもね、川柳でもなんでもそうですけども、 僕のやってるオーディオなんか特にそうなんですね。「TANNOYのスピーカー以外はあかんわ」とかね、「そんなんJBLでないとなあかんわ」、「あいつはアホじゃ」とか言って やるわけですよ。

 それくらいね、自分が正しい、自分のとこが一番て思ってたら、もう何も見えなくなるのね。本当はそれぞれに良さがあって、それぞれに、なんて言うんですか、神さまの愛の響きが響いてるわけですよ。ただ、この世は、いろんな種類に、要するに右手と左手に分けて響かすようにね、光の色合いをつけて楽しむ世界ですから。それこそ、ある時は猫さんに生まれてみたり、ある時は犬さんに生まれてみたりね、それぞれの姿を楽しむわけですよ。 楽しんでるのに、「あんなんは脳なしや」とかってみんな言ってるのね。本当は神さまそのものなのにね。そこだけです。

 だから、いかにすべて真(まこと)の神さまってこうわかるかだけなんですけども。その真(まこと)の神さまって、わかるためには、今言った自分が正しいを消さないとダメなんですよ。でも、 自分が正しいを消すとね、一つ間違うと自分はダメだと思って自殺しちゃうのね。だから、あの微妙なバランスの中で、みんな自殺せずにすんでるわけです。真面目な人は、自分が正しくないと思った途端にね、「自分が悪いんだ、悪いんだ、もう自分なんか消してしまないとダメだ」って思って、まあ、会社なんかそうなんですけど、営業に行っててね、もううまく営業ができなくて、部長さんから、もういっぱい責められてね、「お前はダメな奴だ」、「ダメな奴だ」って言われると自殺しちゃうじゃないですか、それこそ追い詰められて。

 それって、「お前は正しくない、正しくない」って言われて、それで、本人も真面目だから、「あ、自分は営業で正しくないんだ」って思った途端に、もう死ぬしかなくなっちゃうのね。だから、微妙なバランスで自分が正しいって思っていないと正気を保てないというのはあります。ありますから、なんていうんですか、自分が正しくないとかね、いらないことを思わずに、ただただ神さま、神さまと呼ぶのが、一番自然な姿なんですよ。その神さま、神さまって呼ぶんだけど、神さまと呼ぶ神さまがね、みんな小さいの、自分の。

 そうでしょう、一人ひとり自分が思ってる神さまがあるんです。その自分の思ってる神さまというのは、真(まこと)の神さまから比べたら、もう遥かに小さいの。だから、ややこしくなっていくんです。じゃあ真(まこと)の神さまってどんな存在だというと、最初に説明したように、空気のような存在ですから掴みどころがないわけですよ。

 そしたら、神さま、神さまって、真(まこと)の神さま、真(まこと)の神さまって呼んでるんだけど、相手は空気や光ですね。空(くう)という、光も無色透明じゃないですか。空気も無色透明、掴みどころがないから不安で仕方がない。で、わからないってなっていくわけですね。真(まこと)の神さまそのものというのを、先生は「印可書」に集約された。あるいは、「宇宙神ありがとうございます」に集約された。あるいは「ありがとうございます」に集約された。集約されたって、それがそのものだって、言霊で決めてくださったわけですよ。

 先生が言霊で決めてくださったので、「印可書」が素晴らしいではないんです。先生が言霊で「宇宙神ありがとうございます」って決めてくださったから凄いんです。「ありがとうございます」の十文字を真(まこと)の神さまそのものっていうのを先生が、言霊で真祈りで決めてくださったんです。それを素直に信じれたらいいんだけど、信じれないから話がややこしい。

 本当は、「ありがとうございます」の十文字だけって先生おっしゃったんだから、それだけですーっといけるんだけど、みんな物を貰ってのありがとうございますから抜けれないのね。それで、宇宙神をつけてみたんだけど、抜けれないから手振りもつけてくださったけど、今度は手振りがね、変な宗教みたいっていらない(余計な)思いつけるから、これもやめて「印可書」にしたんだけど、今度は、光、強過ぎて受け取ってくれないからっていう、いろんな段階で今の「印可書」があります。今の「印可書」が凄いんじゃなくて、すべて先生が言霊で決めてくださったからなんです。それがわかれば、それをいかに信じ切れるかどうかだけです。

 「印可書」だったら、迷ってようが悩んでようがね、自動的に吸い込んでくれる力があるんで楽ですけども、「ありがとうございます」も「宇宙神ありがとうございます」も自分の自由意思で投げ込んでいかないといけないという厳しさがあります。どっちを選ばれても自由ですからただただ、いわゆる五井先生のお話で言うと「恥ずかしがらずに神さまを呼ぼう」なんですよ。恥ずかしがらずに呼べばいいんだけど、呼ぶ神さまがみんな小さい。それでわからない。白光真宏会も素晴らしい教えなんですけども、五井先生がおっしゃる神さまとみんなが受け取る神さまが大きく違う。ここでもそうだったんです。「ありがとうございます」の十文字が真(まこと)の神さまそのものって、いくら先生が言っても、みんなそう思えない、思わないというところです。

 でも、真(まこと)の神さまを呼ぶしかないんですよ。でも空気のような存在、空気を呼ぼうですよね。光を呼ぼうと言われても、「え!」みたいな感じじゃないですか、無色透明だからね。それを「印可書」に凝縮していただいたから、「印可書」をひたすら読んでると神さまを呼んでることになるんです。「印可書」が読めない人があることを当然、先生は想定内です。それで、護摩木を書いてくださいっていうことになってるわけです。護摩木も書きかねる人は、ここへ来て護摩木を燃やすのをお手伝いしてね。あるいは護摩木を作るのをお手伝いしてね。あるいは護摩木を作るお金を出してねということで、護摩にかかわる全てのことをお手伝いしたら、真祈りにするよ、神さまを呼んでることにするよって先生が言霊で決めてくださったわけです。

 だから、そこだけは信じていただかないと、「そんな護摩に出て何になるん」とかね。「護摩木書いて何になるん」とか言ってる間は、ちょっといかないですけどね。でも、どっかで神さまを呼ぶしかないのね。それはなんで神さまを呼べるかというと、皆さんが真(まこと)の神さまそのものだからです。

 ただ、真(まこと)の神さまである自分を忘れ去ってるから、それをどう思い起こすかというと、言霊、真(まこと)のプラスの言霊を駆使することによってしか思い起こせないわけですよ。その真(まこと)のプラスの言葉を駆使する自分というふうに先生言ってくださったけど、みんな駆使できないのね。要らないこと思うわけですよ。「あいつ間違ってるやん」かとかね。「俺は正しい」とかね。「俺よりあいつの方がわかってる」とか、俺の方があいつよりわかってるとかね。それが、マイナスの言葉というのがわからないの。

 真(まこと)の言葉を駆使する自分というのは、すべて真(まこと)の神さまといったら、真(まこと)の言葉を駆使する自分なんですよね。でも、すべて真(まこと)の神さまって言いつつね、自分の我(が)も真(まこと)の神さまなのか?っていうくらいわかってない。

 だから、やっぱりどうやっても自分が”正しい”から、誰も抜けれないんだっていうのを先生がもう色々とね。本当に 先生も、こんなん言うと怒らんけど、本当、先生と二人で苦労しましたよ。どう言ったって、みんな神さまというとこに辿り着かないなぁということで、先生が、もう最後は、これはもう何をしても無駄だと、真祈りだけだ。

 お前の真祈りが足らんから、どんどん予定が遅れるじゃないかと怒られてね。先生の真祈りにプラス、このピラミッドのように裾野の真祈りがいるんですよ。その最初の一段目がお前なんだから、お前が真祈りできなかったら何も始まらんって怒られっぱなしで、50年きたわけですけども、それがちょっとずつ成功して、護摩が始まって、どんどん裾野が広がってきたんですね。それが広がってきたから「印可書」が進めれるようになってきました。

 だから、最初の護摩で「印可書」を使えなかったのは、そこまで裾野が広がらなかったからなんですけども、 今は「印可書」があるので、一気に、本当に一気に変わっていくと思います。そのためにも、淡々と「印可書」を読める方は読んでください。読めない方は護摩に関するお手伝いをしてください。「護摩木を書いてください」あるいは、「宇宙神ありがとうございます」に自分の不平不満を全部投げ込んでください。ともかく、不平不満が出た時は、自分が正しいと思い込んでる時よ。そうでしょう、自分が正しいから正しくないこと見えて不平が出るわけ、わかります?

 だから、不平不満が出た時は「印可書」に「宇宙神ありがとうございます」に投げ込んで、投げ込んで投げ込んで、それもできない時は、もう文句言いながらいいから「護摩木を書いてください」それで 進んでいこうと思っています。

 ともかく、自分が”正しい”を消すだけなんですよ、理屈で言えばね。理屈で言うてわかるくらいだったら、とっくにね、 先生が50年間されてきたことで成功してるはずなんですけど、結局、みんなの自由意思で選び取っていただかないと進まないから、みんなの自由意思で選び取ってもらえるまでは、どうしようもないんですよ。

 でも、みんなの自由意思でなんで選び取れないかというと、いろんなマイナスの思いを自分の中に重ねて見えなくしてるんです。自分が”正しい”というマイナスの思いが、 自分がというマイナスの思いで、みんな見えなくしてるわけですね。

 先生は僕におっしゃったことは、ともかくね、もう何をしてもこれはもうダメだと、病気治しようが何をしたって、みんな、一時、喉元過ぎれば熱さを忘れるね、変わらないということで、もうひたすら、真祈り以外は何もないんだということで(眞祈りひとすじに命をかけることができない僕に)怒られました。

 ひたすら真祈りで、皆さんの自分が正しいって意識をね、どんどん消したんですよ。本当にね、今、はっきり言いますけど、99%消すのに成功してます。でも、残りの1%は、何があっても皆さんの自由意思で消していただくしかないんですよ。全部100%消すことは可能なんですけれども、100%消すと、みなさんは単なる操りロボットで、真(まこと)の神さまの絶対の自由は発揮できてないから、なんて言うんですか、悟りにならないの。

 真(まこと)の神さまというのは、絶対の自由ですから、その自分が正しいというマイナスの意識を、自分の自由意志で神さまに投げ込んでいただくしかないんです、最後の1パーセントは。それを今、この護摩を通してやっていただいてます。「印可書」を通してやっていただいてます。宇宙神ありがとうございますを通してやっていただいています。

 「宇宙神ありがとうございます」でやられるときはね、投げ込みにくいから、「手振り」を入れると投げ込みやすくなります。「手振り」入れてるうちは、あんまりものを考えてる暇ないからね。だから、いろんな自分のやりやすいことを使ってですね、その自分が”正しい”というマイナスの思いを、最後の1%、本当にもう皆さん、最後の1%だけにしたんよ。後、本当に綺麗にしたからね。その最後の1%は、皆さんの自由意思で投げ込んでください。

 皆さんが投げ込んだ途端に縁者ががっと来て元に戻りますから、また投げ込んでください。そうして、自分の縁者のものを全部投げ込んだら完成なんです。それが続くだけです。だから一瞬なんかすごくスッキリしたんだけど、また元の木阿弥(もとのもくあみ)やねん、私あかんわと思わずに、あのどんどん。なぜかというと、先祖も自分なんですよ。先祖と自分を切り離してるうちはわからない。縁者というのは全部自分の先祖ですけども、死んだ子供も、お父さんも孫も一緒なんですけども、全部自分なんです、本当はね。

 自分だから自分に縁があったんですけども、それを全部、 その方々がみんな悟れなかったのは、自分が”正しい”と思ってるから。

 その自分が”正しい”というマイナスの意識を、どんどんどんどん「印可書」と「護摩」と「護摩木」と「宇宙神ありがとうございます」と「手振り」を通してね。自分の自由意思で投げ込んでください。それによって 一気に世界が変わります。皆さんが変わるだけじゃなくて、本当に世界が一気に変わります。

 これからはね、本当に海外の人がすごく日本を頼りにしてくるんですよ、無意識に。それで日本に頼ってくるの、それこそ、小さい幼稚園の子のようにね、お母ちゃんって言って頼ってくるんですよ。その時に日本人が母性愛を持ってね、受け入れてあげれないとダメなんですけども。今、真祈りしてたら大丈夫ですよ。真祈りしてたら、よしよしってやれますけども、真祈りしてなかったら、なんやこいつら来やがって、仕事減るし、生活苦しくなるしってなってね、それこそ地球が滅ぶるんですよ。もう本当にね、お母さんってそうでしょう。自分食べるもんがなくなってきたら、自分の食べるものを減らしてでも子供に食べさすじゃないですか。その愛がいるんです。それは真祈りを通してしかできない。これだけしかパンがないのに、こんなにようけ人いてるのに、1個のパンでどないするねんじゃないんですよ。

 真祈りしてたら、イエスのおこなった奇跡は皆さん現わせますから、その時ちゃんと実感できますから、今から真祈りしててください。「印可書」を読んでてください。「宇宙神ありがとうございます」と「手振り」をしてください。「護摩木を書いてください」そしたら、本当に食べ物はないんだけども、ちゃんとみんなに分け与えられるようになります。

 その奇跡を見せることによって、みんなが真祈りを真似してくれてね、一気に世界が変わります。本当にね、もう全世界の人が日本目指してきますから、皆さんがちゃんと受け入れることができなかったら、大変になるんですよ。そのためにも、「みんなおもろいやっちゃ」でいってください。「あいつダメやなぁ」って言わずにね。みんな、世界から来た方も、皆さんおもろい奴やと思ってよしよしとしていかなくちゃいけない。

 それが、ちゃんとできますからね。イエスの奇跡なんて簡単なことなの。自分が”正しい”と思わんかったらできる。自分が”正しい”と思ってるうちはね、例えば、こんな1個のパンを、例えばこの会場の100人の方にね。分けようないやんって。

 それ、自分が”正しい”と思ってるからですよ。(過去の経験に基づいて判断しているから)。

 神さまが絶対の愛だったら、ちゃんとするっていう信念だけの問題なんです。イエスは、自分が正しいなんて思ってないから、3333個にあの時、分けれたんですけども。みんな、本当に欠片しかもらってないんですよ。でも、その欠片を口入れるだけで、1個のパンを食べただけの効果があったわけです。

 そういう奇跡はちゃんと起こせますからね。それが実際起こせるようにならないと、世界変わらないから。皆さんができるんです、それを。先生やったら病気治してくれたりとかね、もうそういう時代は過ぎたの。甘える時代は過ぎたの。皆さんがすべての人に愛を与える時代が、これからは来るんです。皆さんはちゃんと真祈りできて、できますから。そのためにも、最後の1パーセントはね、自分は正しいを祈り言葉に、「印可書」に投げ込んでいってください。もう、後は、そのちょっとの練習だけです。それができたら、本当に、何事も悩まずに透き通るようにわかるという表現も本当は違うんですよ。悩まずにすっすっすっとやっていったら、あ、うまくいけたっていうそういう感じです。わかるじゃなくて、わかるとわからなくて、もう自然に体が動いてるんですよ。

 合気道の達人がそうなんですね。相手を投げようとか云々は思ってない。自然に構えられて、相手が倒れてるとなるんですけど、その領域に皆さん、もう、もうすぐなりますから、後は自分が正しいと思ってる意識を「印可書」に、「護摩」に 「宇宙神ありがとうございます」に、「手振り」に投げ込んでいってください。よろしくお願いします。また来月お会いできることを楽しみにしています。ありがとうございます

 音声はこちらからどうぞ
 https://www.youtube.com/watch?v=5zRCZUzGHYM&t=238s

 宇宙神ありがとうございます


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9月光の交流会 by 河上彰延 2023年09月09日(土) 22時11分
PC

令和5年9月光の交流
 宇宙神ありがとうございます

 令和5年9月光の交流会で聴いていただいた先生のお話です。

 自由自在もね、本当の自由自在っていうのは、真(まこと)のプラスの言葉を選べるかどうかで決まるのね。自由自在に選べるかどうかってね。本当に選べたら自由自在が本物。でも現実に心奪われたり、また、その心に溜めた思いに負けたり、色んな他に影響を受ける場合は自由自在じゃないよね。全て言葉通りになるっていうのが絶対の法則だけど、最高のプラスの言葉を選べるかどうか?真(まこと)の神さまから自分に必要なものを的確に受け直せるかどうかよ。

 真(まこと)のプラスの言葉を自由に選べたら、全部支配できる。自分自身も言葉通りになるし、自分の住む世界も言葉通りだし、自分の運命も言葉通りだし、全て新たに、今、選ぶ一言で支配できるの。だから、過去は関係ない、現実も関係ない。今、新たに一言。本当に自由に選べたらいいよね。そしたら、その人は本当の自由自在になってるって言える、本心の自分よ。

 本当の幸せっていうのは、この真(まこと)の神さまからの愛の贈り物、一大循環の相象(すがた)をしっかりと受け取ることよね。受け直せて幸せなのね、本物。思いの世界はそうじゃないよね、思いの世界は思い通りになって喜ぶだけの世界ね。一大循環の相象(すがた)を受けてるんじゃないよね。思いの世界は小さい思い通りになってるだけの姿よね。それが自分の都合のいいものをプラスに感じて、それで喜んでたら、思いの心を積み重ねるだけになる。

 一大循環の相象(すがた)を受けられたら、過去全部消えるの。神さまの光が強いから。愛の光が強いから過去を全部消し切ってくれるの。思いを全部消してくれるよね。だから、さらに自由自在になれる。最高のプラスの言葉を選べて、また一大循環の相象(すがた)を受け直せるようになるのね。だから、思い通りになって喜んだらダメなの、それも思いを溜める、積み重ねるの。

 だから神さまのプレゼントを一大循環の相象(すがた)を受け直さないとね。それは本当のプラスの生き方になる。

 だから、自分の選んだ言葉で、真(まこと)の神さまから何を受け取るか?受け取る、受け取り方が本物でないとダメよね。小さいもんだったら偽物。だから元は一大循環の相象(すがた)無限のスピードなのね。無限のスピードだから、それもお互いが与え尽くし合って、支え合って、部分と部分が区別できない状態よね。お互いが交流し合ってるから、もう無限に複雑に入り組んでしまうでしょう。だから、部分と部分の切り分けができないよね。だから、本当の全体が一体感を保ってるのね。

 ところが、その流れを止めてごらん。流れを止めたら、全部、部分と部分が区別つくじゃない。部分と部分の区別がついたら、これバラバラに見えるの。流れ止めた世界が虚の世界よ。だから、流れを止めたら虚の世界に転落するのね。これは、思いの心が過去を掴んで止めてるからよね。本当は循環の流れを止めるわけにいかないよね。誰も止める力なんかないからね。ただ、思いの心で過去を掴んで止めてるの。止めたのは過去の残像、足跡、思いの姿よね、止められるっていうのはね。

 過去の一瞬を掴んで止めた状態に思いの残像として見てるだけなのね。それは、虚の姿よ偽物なんよね。それでバラバラに見える。みんな、部分と部分の違いがわかる。対立しているのが見える、差別がわかるっていうのね。みんな、虚の世界よね、

 思いの残像の世界、みんな。これ、流れをもう1回戻さないとダメよね。一大循環のプラスの流れに戻ったら、また全部が一つに見えてきてね。だから、真(まこと)の神さまの、最高のプレゼントを受けるのは、一番早い、スピードの早い循環のすがたを受けること。末端にいくほどスピードが緩やかになってくる。それが止まったら虚の世界よね。逆流を起こしたら、もう一つマイナスが大きくなる。

 虚の世界、五感や六感の世界いるけど、虚の世界も循環してるよ。循環してるけど、みんな、多分思いの心だと循環してるように見えない。太陽から来てる光、無限に早いスピードで受けられないよね。光がそこに一筋あるって向いてるだけで止めててね、1秒間で地球を7周半するって言ったってね、見てないよね、そういうはね。

 もう、全部そうなんよ。大きく変化してるっていうふうに見て、初めて虚の世界でも循環ってわかるのよね。でも、虚の世界においてすらね、まだ、止めて止めて止めて見てるじゃない。過去を掴んで、さらに過去を掴んでよね。今じゃなし過去を掴んで止めて見てるよね。これを止めないように流れを元に戻していくようにしていくのが必要なの。

 虚の世界においても、常に新たに受け直すっていうね。真(まこと)の神さまの世界とは、全然違うけどね、虚の世界でもスピード緩やかでも、新たに受け直すっていうのがいるよね。ちょうど循環が戻ってくるでしょう。それが、もっともっと、スピードが早くなってくるほど、真(まこと)の神さまの世界に近づいてくる。

 だから、循環を元に戻す方法、与え尽くすだけがいいよね。それも、恩返しが一番いいのね。全体から与えられてるものを恩返しの心へ、全体へ返していくの。その循環が、だんだん早くなってくる。与え尽くす心でなかったら、逆に求めたら逆流を起こす。プラスの循環が止まるだけじゃないよね。逆流、マイナスの循環になる。そうなったらマイナス増える。

 だから、恩返しだけが正しい生き方よね。与える与えるばっかり、報いを求めないで与えるばっかりっていうのが恩返し。これも虚の世界の恩返し、まだね。本物の恩返しは、一大循環の相象(すがた)を絶対に掴まない。自分のものにしないっていうのが恩返しよね、本当の恩返し。

 一大循環の相象(すがた)をただ眺めるだけ、無限のスピードで循環してるのを眺めるだけよね。止めて、掴んで止めて、自分のものにしてお返しするんじゃないのね。流れるまま、それが真(まこと)の恩返し。そこまで行かなかったら恩返しになれないよね。掴んだら、もう恩返しじゃないのよ。掴んだら虚の世界に転落する。真(まこと)の真実の世界っていう、ここはもう掴まないのね。循環の流れを掴まずに、ただ褒め称えて、感謝して喜ぶぐらいよね。

 そしたら、いつも神さまの全体を受け直せる。掴んだら小さい部分を掴んでしまうのね。小さく小さくなっていく。掴まなかったら大きく大きくなっていく。だから、新たに新たに眺めるだけっていうのが恩返し、真(まこと)の恩返し。

 幸せも虚の世界の幸せと真実の世界における幸せと大きく分けられる。でも虚の世界の幸せでも、これも本物と偽物があるよね。思い通りになるのは偽物ね。借金いっぱい積み重ねるから偽物になる。本物の幸せ、虚の世界における本物の幸せは、新たに新たに受け直す生き方よ、受け取った幸せよね。借金のない幸せ。本物の世界が写し出されてくるような幸せよね。でも、まだ本物じゃないのね。本物が写し出されて見えてくるっていう、思いの色眼鏡を通して。

 虚の世界におけるのは、二通りあるのよ。真(まこと)の神さまに向いた時は、色眼鏡を通して見るのよね。色眼鏡を通して見ると、光は真(まこと)の神さまから全部くるのよね。プラスは全部、真(まこと)の神さまくるんだけど、それが色眼鏡を通しただけがマイナスされるよね。でも、真(まこと)の神さまの光やプラスが映ってくる、見えてくるのよね。

 その太陽が輝いてる時に、空に雲があったら、雲が思いの色眼鏡よね。黒い雨雲だったら太陽見えないよね。薄雲になったら太陽光入ってくるよね。そんな感じよね。思いの色眼鏡が薄くなるほど光が感じられる。それは全くね、全く神さまの方へ向かなかったら、色眼鏡を通すんじゃないね。今度、逆に光の方から闇の暗い方へ心を向けたら、神さまに背を向けた時、これは小さいものに心向いたらそうなのね。

 神さま、無限大の外遥か彼方だから、全方向どっち向いても遠くを向くと神さまの方に向いてるの。でも、小さい部分へ心を向けた時は、反対に背を向けてるね、神さまにね。その時は闇にマイナスに向いてるのね。その時に周りが全部鏡になる。

 ちょうど窓ガラスがあるじゃない。お昼は外が明るいから外の景色見えるの、でも、夜になると外が暗いじゃない。暗い方を向いた時の窓ガラスは鏡になってるじゃない。同じよね。神さまに背を向けた時、小さい部分に心向けた時、この時に闇に心向けてるのね。だから全部自分の姿を鏡に写してる、写し出されるよね。その時に見えるマイナス全部、色眼鏡を通しても鏡写しても全部、自分のマイナスの言葉よ。

 そういう世界があるんじゃないのね、色眼鏡のマイナスの言葉。自分の溜め込んだ思いのマイナスの言葉。だから、マイナスは全部自分のマイナスっていうのが正しい見方なんですね。自分の世界のどこかにマイナスがあって、自分と関係のないマイナスっていうのは間違い。本当は、マイナスは全部自分のマイナスって見ないと消せないのね。

 神さまは、真(まこと)の神さまはプラスだけ。どこにもマイナスはないのね。だから、神さまから一大循環の相象(すがた)を受け直してる限りは、真(まこと)のプラスだけが降り注いでる、大きく大きく。

 だから、マイナスがちょっとでも見えて、感じられたら、ごめんなさいと謝らなダメ。神さまごめんなさい。神さまにはマイナスがないのに、「あ、マイナスを見てしまって、掴んでしまって、言葉にしてしまってごめんなさい。」って謝る。そしたら消してもらえる。「真(まこと)の神さまだけ!」「真(まこと)のプラスだけ!」「ありがとうございます」って言えるよね。

 本当にね、例えばマイナスの言葉使う人あるとするでしょう、人のこと言ってるようだけど違うの、自分のことを言ってるのよ、みんな。人がマイナスっていうのは違うの、自分が同じマイナス持ってるから言うの。自分が神さまの世界に心向けて、プラスの言葉を使ってて、思いを消してもらって輝いてる人は、人を見てマイナスには見えないし、見ないし、言わない。幸せだけで喜んでるだけ。言葉はプラスの言葉しか使わない。

 マイナスの言葉で人を攻めてる人、見てたらよくわかるね。その人が同じマイナス持ってる。そっくりそのままに持ってる。だから、自分のことを言うのよ、みんなね。言葉で表現する時は、自分自身を言葉で表現してる。だから、人のことをマイナスに見て言ってるって言うんじゃないのね。自分が、その同じマイナス持ってるって言ってるのね。恥ずかしいよね、本当はね、マイナスの言葉をそういうふうに言うと、自分自身の表現なの。

 隠せないよ、これも同じよ、鏡に写るように写る。自分自身、どれだけマイナスあるかをやっぱり見せつけられる。実際、周りに写る環境は、自分の心の鏡よね。そしたら、自分自身の持ってるものがマイナスなの。

 だから、それをもう一回、過去を掴んだ、現実を掴んだ状態で、この言葉にしたらマイナスの言葉になるの当たり前よね。そこでやっぱり大事なのは、新たに選ぶ一言。本心の側の自分が自由に選んでこないとダメ。思いの奴隷になっててね、本心の自分を自由自在な力を発揮しなかったら、結局発揮しなかったっていう自由を発揮しているのよね。本当の自由自在を発揮するようになったら最高のプラスの言葉を選んでこそ、本当の自由の発揮よね。

 でも、それを、力を使わなかったっていうのも自由の発揮だけど、積極的な力発揮じゃないね。持ってる力を出さなかったっていう、消極的な自由なの。そしたら、運命の奴隷になって、惰性に流れていく。それもその人の自由だけど、幸せにはなれないよね。

 だから、本当の幸せ、本心の自分の幸せは、真剣に本当に命がけで、神さまのプレゼント受け直さないとダメ。だから、真剣な努力が必要なの。新たに新たに、一瞬一瞬、新たに新たに受け直すっていう努力が必要なのね。一回プレゼント受け取ったから後もう惰性に流れていいんじゃないのね。常に新たに新たに、神さまの最高のプレゼントを受け直す。

 一瞬一瞬、真剣でないとできない。新たに新たに受けるんでもね、過去の全部を神さまにお返しして、お返して、新たに受け直さないとね、忙しい。そこまで真剣にならないと、神さまの最高のプレゼントを受け続けるわけにいかないよね。一回だけ受けていいんだったら惰性に流れてもいいんだけど、永遠にずーっとね。さらに大きいプラスのプレゼントを受け直そう思ったら、一瞬一瞬が真剣勝負よね。

 常に今よりもさらに大きくプレゼント受けないとダメだから、油断できないよね。その真剣な努力を神さまが要求してくる。無理やり与えて、そのままってないよね。受け取る自由意思をしっかりと確認するために、その真剣さを要求する。無理やり押し付けてないよっていうだけよ。一大循環の相象(すがた)、必要なものを的確に与え尽くす神さまの愛のプレゼントでもね、無理やり押し付けてない。受けるに任せてる。その人の自由に任せてる。だから、真剣に受け直してくれないと、受け取れないっていうふうになってる。

 ただ、その真剣って言うんでも難しいことじゃないのよね。一瞬一瞬、新たに受け直すっていうんでも眺めてるだけでいいの。ただ眺めてるだけで受け直せるの。難しいことを要求してないよ神さまはね。ただ、眺めて、褒めて、感謝して喜べばいいだけよね。だから、プラスの言葉をしっかりと使いこなせばいいのね。言葉通りのものを受け取れる。

 虚の世界は過去の言葉を全部積み重ねて溜めてるからね。同じ言葉通りになるんでもすぐに出ない。たくさん溜めた人は、今使う言葉、後になって出てくるね。過去に使った言葉が先に出てくるから。マイナスの言葉でいっぱい溜め込んだ人は、マイナスを先に現実化するから、今プラスの言葉使ったからすぐにプラスが飛び出すかって、そうでもないからね。

 でも神さまの一大循環の相象(すがた)は、真(まこと)のプラスの言葉を今、選べたらそれがすぐに、波が合えばすぐに受けられる。過去を無関係にしてね。過去の全てを消せるのよね、神さまの大きい光はね。

 だから、同じことなのね、過去世の無限の借金でも、借金返し、本当はしないと早くしないと損するんだけど、同じ借金返しでも、早くするほどいいよね。利息はつかないから、早く減っていくよね。でも、それも本当は大変なのよ。七難八苦の姿は、みんな借金取りの姿よ。借金を取りに来てくれてる姿なのね。その借金取りが来てる中で、しっかりと働いて、プラスの与えて返さないとダメなの。借金取りが来てるから、働かないで返せなかったら、借金増えるのよ。全然返してないってなるでしょう。

 いろんな理由つけてもダメなのね、借金取りはいろんな姿で出てくるね。七難八苦っていうのもそうね。七難の火難って怒りの心でも天まで登るぐらい燃えさかる、これ火難の一つでしょう。腹立つから、もう仕事辞めたって言ってね、仕事せんとふてくされたら、もうそれだけで借金取りが来てるけども、何も返してない状態で借金を増やしてる。

 水難って悲しみに溺れて涙を流して、何もしないっていうのも同じよね。これも借金取りの姿よね。そのまま仕事も何もせずにじっとしてたら、恩返しも、借金も何もできないね。そしたら借金がまた増えていく。

 八苦の中でも例えば、病苦って病気の苦ってあるじゃない。病気だから何もせず寝てたら、病気治ってからって言うてたら、借金取り来てるけど、何もせずに返してないことになる。だから、七難八苦関係なしにどんな状態でも、こう働いて、プラスのもの返していかないと借金減らない。

 でも、いくら働いてもね、返せるどおりがないのね。利息が高いから返しても利息の方が増え続けて、借金を増やしてる。それでは永遠に返せないからって、うまく救済の神さまが守護霊さま守護神さま含めてね。救済の神さまが応援に、応援に立ってくる。本当に借金返しする気持ちがあったら、肩代わりして助けてあげるよっていうふうにね。その時に恩返しの心を起こせばいいね。借金返しの気持ちだと永遠に不可能だけど、恩返しの気持ちを起こして、同じ働きするんだったら、この肩代わりしてもらえるね。

 守護霊さんも守護神さんも救済の神さまもってね、一生懸命身代わりになって、背負って消し続けてくれる。それが恩返しの生き方になるね。それでも恩返しでも、まだまだ本物じゃないから。ただ、真(まこと)の神さまの大きい力まで受け取れないから最初はね、これが本当の恩返しになったら、一大循環の無限倍の大きい支えの力で押し上げてもらえたら無限の借金、瞬間に消える。

 だから、本当の恩返しの気持ちになったら、過去世の借金、マイナス、思い、全部すぐに消える。ただ、本当の恩返しになるまでが、やっぱり虚の世界だから、いくら救済の神さまが力があっても、守護神さん、守護霊さん、一生懸命働いても限界がある。徐々にしか消せない、大変なのよね。だから、どれだけ早く本物の恩返しの心になるかどうかよ。

 だから、表面的に良い事があって喜んでたら、これ、借金返しと反対なのね。借金増やしてる方なの。借金をしてプラスが与えられてるって状態ね。それは、借金が一方で増えてるの。思い通りになったっていうのはね。これもある意味では怖いのよ。それよりも七難八苦が来てる方がいいの。七難八苦が来てて、なおかつ一生懸命働いて、借金返ししてる方が、借金が減っていく可能性が大事。それを見てて守護霊さんも一生懸命応援する。守護神さんも一生懸命助ける。救済の神さま大勢が快挙して応援につくのね。それで、借金を思いをどんどん減らしてくれる。そしたら、本当の恩返しの気持ちにどんどん、どんどん変えてきてくれる。

 それで一大循環の相象(すがた)を受け直せるような恩返しの生き方になったら、思いが全部消えて、虚の世界が消えて、そこまで行かないと本当の喜び方にならないね。同じ幸せって言っててもね、思い通りになっての幸せは偽物。思いをどんどん消してもらうのが本当の幸せ。思いがどんどん消えていって、心が軽くなって、幸せな心が湧き上がってきてっていうね。これ、まだ本物の方へ近づいていける。

 本物の本心の心になった時は、恩返し一つにならないからよね。与え尽くすばっかしの心になったら、無条件の幸せってね、無限に無限に湧き上がってくる。与え尽くすことが幸せっていうね。無条件幸せってそうよね。条件がつかないっていうのは与え尽くして湧き上がる幸せなのね。求める心の、思いの心の幸せは条件つけての幸せよね。全部そうよね。条件をつくのは、思いの心の、求める心の幸せよね。これ、みんな偽物だから借金。

 だから、最高のプラスの言葉だけを使わないとプラスを与える本当の働きにならない。肉体使ってする働きは大したことないのよね、言葉よ。本当のプラス言葉を選んで、それを使いこなせるかよ。これは本当のプラスの働きなるね。でも、マイナスの一言は、これみんなプラスを破壊するの一言で。これは大きいマイナスの働きしたことと同じなの。だから、絶対マイナス一言相手したらダメなの。見るだけで、聞くだけでね、ダメなの。マイナスの一言選んだらダメなの。これは大きいマイナスの働きになるから恩返しや借金返しにならない。大きい借金を積んだこと、増やしたことになる。

 だから、一瞬一瞬、新たな一言、最高のプラスの言葉を選ばないと、後は自然に任せる。まず、プラスの一言選んでお任せよね。そした借金返しでも万分の1の軽さで消してくれる。マイナス絶対出ないから言えないよね。借金返し早くしよう思ったらマイナスが出てくるけど、ただ、軽く済むの。「ああ、万分の1に済ましてもらえてありがたい」って言わないとダメ。「マイナスが出た大変」って言ったらね、またマイナスを積むの。必ずプラスの言葉で受け直さないと。何かマイナス出た時にね、「ああ、こんなに軽く済ましてもらえた」って言わないとね。プラスの言葉で受けないと反対になるよ。

 病気になったら「ああ、ありがたい。」って言わないと。「大きいマイナスを消してもらえた。」「大難を小さい小難に変えてもらった。」もう本当は普段からみんなそうなんだけどね、何も出ない時は、大難を無難に変えてもらってるんだけど気づかない。それで、小難を出さないとダメって言ってね、出してくるんじゃない。無難に変えてしまったら、みんな気づいてくれないから恩返しの心を起こさないからダメだってね。だから、ちょっと気づくように残しとかないとってね。だから、大難を小難に出してきても、また文句言う人あるよね。ちょっと病気しただけで、「ああ大変」病気を治さんなんて思うよね、反対よ。「ああ、病気になって心を清めてもらってありがたい」って言わないとダメなのに。そしたら勝手に消えてしまうのに。やっぱりマイナスを掴んで言葉にしてるから、これが恩返しじゃないのよね。マイナスを積み重ねてることになる。

 だから、マイナスの一言、絶対相手にしない自分っていうのを目指さないとダメ。どんな時もそうなのね。必ずプラスに翻訳するって。本当の「ありがとうございます」を言えば、真(まこと)の神さまと出会うんじゃない、最高のプラスだけの神さまと。

 そこでね、現実はどうのこうのって言うたら選んでないんじゃない。マイナスの言葉選んだことになるじゃない。過去の残像、過去の言葉の現実化した古いものを選んだことになるよね。そうじゃないよね、今、新たな一言。真(まこと)の神さまと出会うための言葉でないと、最高のプラスの言葉でないと選び方が自由になってない。

 周りのせいにして、環境のせいにして色んな理由をつけても、みんな他のせいにしたら、マイナスが何倍も増える。自分が増やしてることになる。自分の一言がこだまする。あちこちの鏡にぶつけるから、全部跳ね返って返ってくる、何倍にも増える。他のせいにしたら、全部そうなのね。自分の一言じゃない。自分のマイナスの一言、これ、自分に返ってくるだけなんだけど、たくさんに反射させたら、みんな何倍にもなるよ。大きく反射させたら万倍にも億倍にもなるよ。自分の一言がね。

 だから、他に、他のせいにしたら、みんなそうなるのよね。世の中のせいにしたら、世の中全体から跳ね返るのよ。あの人のせいや言うたら、あの人から跳ね返ってくる、何倍にもなってね。絶対違うの。みんな自分の言葉、自分の言葉だけが自分に返るの。真(まこと)の神さまにはプラスだけだから、マイナスはないよ、絶対ないよ。「真(まこと)のプラスだけ!」どこを探してもプラスだけなのね。それをマイナスの言葉で思いの残像の中へはまり込んでね、マイナスを感じるのね。でも、マイナス感じたって自分の心の中だけで感じてるんだし、現実と違うよね。思いの残像の中で感じるだけの話だから、言葉変えたら全部消える。

 だから、本当の自由自在な自分を生きるっていうね、これが一番必要なの。真(まこと)の自分。真(まこと)の神さまが真(まこと)の自分。これ本当の自由自在の心を生きることなの。悟りを開くってね、仏教だと仏になるって言うんだけど、仏っていうのは、ほどける。いろんな縛りからほどけて、自由自在になるっていう意味よね。だから、仏教の悟りの極致は、自由自在な心っていうよ。

 本心の自分に戻る、本当の悟りはね。本当のプラスの言葉だけを、新たに新たに選び続ける自由があるっていうところでね、そこが本当の自由自在。言葉選びが他のせいでって言うんだったら、もう奴隷よね。だから、病気してても、「無限健康」って言えないとダメ。「完全健康」って言えないと、無限に元気に働くって言えないとダメなの。「ああ、しんどい」って言うたら、もうダメ、反対よね。現実をもう本当に完全に無視しないと自由に言葉使えない。

 本当に自由に言葉を使えたら、その言葉通り全部なる。全部支配できる自分になる。本当に言葉通りよ。「ありがとうございます」だけが正しいよね。「真(まこと)の神さまだけ!」「自由自在心だけ!」「真(まこと)の自由自在だけ!」絶対、他のせいにしたらダメ。

 自由自在になりましたね。

質問
 世の中の人ってスケジュールに縛られ、時間に縛られ、予定に縛られてっていうのもあるじゃにですか、そういうのも変わってくるんですかね?

先生
 自分が縛れてる。世の中の人って言うたらダメね、自分の中にある全部ね。だから、自分が自分を縛っているよ。みんな自分の縛りマイナスって言わないとね。真(まこと)の神さまには一切の縛りがないって言わないとダメなのね。言葉変えたら全部消えていくね。

 だから、虚の世界でも無限に段階があるよね。マイナスの世界無限にあり、プラスの世界無限に段階があるね。だから、因縁因果って言うけど、因縁因果でも不昧因果、因果昧(くらま)さずってね、悪いことをしたら必ずむくいがくるとかね。良い事をしたらプラスのおかげが出てくるって言うけどね。でも人間も本当にそういう因縁因果の世界を超えないとダメよね。虚の世界でもね。因縁因果に落ちないっていう世界ね、プラスだけの世界に戻っていかないとね、虚の世界ですらそうなのよ。

 不昧因果じゃなしに落ちない不落因果にならないとダメなの。高い世界へ上がったら、虚の世界で高い世界上がった人は、もうね、全部生まれ変わりなんかないって言うの。元からないって言うのね。魂の生まれ変わりなんてないって言うね。因縁因果に落ちない、断言するの。どこにもマイナスはないって言うのよね。そこまでいったら、不落因果の世界でね、虚の世界でもね。

 言葉が違ったら、そういう自分の世界が全く言葉通りの世界になるから、他の世界とは全然違う世界になる。不昧因果で因縁因果でっていう世界は、その言葉通りの因縁因果よ。マイナスある。悪いことしたら罰を受けてむくいを受けるっていうね、これ言葉なのよ。そういう言葉使ってる限りはそうなる。でも、プラスだけなんだって言ってね。不落因果でね、そんな落ちないっていうふうに本当にプラスの言葉だけ使い続けた世界は、虚の世界だったら、本当にプラスだけの世界。だから、全然違う世界。言葉通りに違う。だから、波の違いは、全部言葉の違いなの。本当に言葉の違いで、波が違う、世界が違うのね。

 だから、その言葉が、本当のプラスの言葉になったら、真(まこと)の神さまの世界を現す言葉になったら、真(まこと)の神さまの受け直しができる。これはもう、最高のプラスの言葉になったら、そうなる。だから、言葉だけで変わる。だから、自分の使う言葉通りの世界に住んでる、本当はそうよね。だから、自分の言葉を変えていかないとダメよね。

 現実の世界こうだからっていうふうに言葉を使ったら、やっぱり、その世界に自分が住んでるのよね。だから、その世界の言葉をまた繰り返してるとまた同じってことになるからね。だから、現実を言葉にしないっていうね、完全に無視して、プラスの言葉を選ぶ方がいいよね。そうしたら変わってくるのね。自分の住む世界が変わる、まずね。まず、自分が変わって、自分の世界変わる。波が変わってしまうから違う世界になるのね、自分の世界がね。

 だから、他の人を変えるんじゃないのよね、自分の世界を変えるんじゃないのよね。自分を変て、世界を変えて、波を変えるだけ。他の人の自由を縛って、変えられない。みんな自分が変えるの自分の世界を自分自身を。どこまで変えて神さまの世界に戻れるかよね。神さまの世界を受け直せたら本物になる。本当の自分に戻ったって言えるね。だから、自分自身を変えるだけよね。世の中を良くするんでも、人を変えるんでもないの。自分の言葉を変えて、自分を変えるだけ。それが正しい生き方よね、それでないと変わらない。

 はい、ありがとうございます

 音声はこちらからどうぞ
 https://www.youtube.com/watch?v=8pOyl5_nifc&t=404s

 宇宙神ありがとうございます

じょうし 2023/09/03(Sun) 22:18 No.3024 [返信]


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8月勉強会 by kawakami 2023年08月18日(金) 21時58分
PC

令和5年8月河上さん勉強会−1前半(20230813−1前半)

質問:質問3つ預かってます。1つずつ読みます。宇宙神ありがとうございます。いつもありがとうございます。
 いつも食事の支度をする時など、「印可書」の録音を流し唱えながらやっています。私はイヌを1匹買っているのですが、 「印可書」を聞いているのでしょうか?その時に何か思ったりしているのでしょうか?この世には動物と話の出来る人が何人かいるようなのですが、言葉というよりテレパシーみたいなもので会話しているようです。っていう質問です。

河上さん:あー、はいはい。全ては完璧なる一つなのね。みんな真(まこと)の神さまで、 ニャンコさんもイヌさんもね、おサルさんもシカさんもトラさんもライオンさんも、みんな真(まこと)の神さまには変わりない。 で、それを、この世的なゲームでね、意識的に分けてるから、分からないだけで、分けなければ、自然に響き渡るから。テレパシーとかそんなんじゃなくて、本来一つやからね。
 右手の感覚から言うて、左手がちょっと痛いなとかね、そういう感じの伝わり方です。だから、みんな自分の言葉で縛ってルールを作るの。だから例えば、イヌさんの言葉は分からないって、自分で縛っているから、イヌが何喋ってるか分からないってなるだけでね。縛らなければ、分かるようなるんです。で、その縛りを解く方法、それが「印可書」であり、宇宙神ありがとうございますなの。
 で、「印可書」の場合はオートマチックにその縛りが解けますけども、宇宙神ありがとうございますの時は、 イヌの言葉が分からないという気持ちを、宇宙神ありがとうございますに投げ込まないとダメなんですよ。イヌの言葉が分からないというのが 消えるまでね。で、それは自分の自由意志で投げ込まないと受け取って貰えないんでね、宇宙神ありがとうございますの厳しさですけども。どれを使っても、そういう風にしていくしかないんですよ。

 で、なんて言うのかな、先生がね、「教えをたてない、 組織をたてない」と仰ったことが、今だにみんなよくわかってないね。教えも組織もたてなかったら、バラバラになるんじゃないかみたいな感覚なんですけど。バラバラじゃなくて、本来真(まこと)の神さまで一つだから、教えも組織もいらない。なんで教えも組織もいらないかって言うと、教えというのは私の教え、 組織というのは私の組織というてね、自分という神さま以外の存在を認めると、組織や教えがいるの。神さま以外のものを認めなかったら、全部真(まこと)の神さまだから、自分というのが消えるんですよ。

 で、その最初の全て真(まこと)の神さまというとこをね、理屈で考えて、すべて真(まこと)の神さまって言うてる人は受け取ってないから。例えばね、この前質問があったらしいんですけども、「全て真(まこと)の神さまやったら、自分の我も神さまか?」みたいな質問が来たというわけですよ。それってね、自分で全て真(まこと)の神さまと言いながら、真(まこと)の神さま以外の自分を認めてね、 自分の我がどうこうって言ってる単なる屁理屈なのね。

 全て真(まこと)の神さまと言ったら、もう自分は無い。だからちょっとでもその自分の我というのがあるうちは、それを全部宇宙神ありがとうございますの中に投げ込まないと。
「印可書」読んでない人に限って、そういう屁理屈言うんだけど、全てもう真(まこと)の神さまやったら、もう自分はないの。

 自分がある内は全ての真(まこと)の神さまって言葉を言ってるだけで、響かせてない。祈ってないって言うんですけどね。それだけなんです。だから、それが進むとね、「祭壇がいる」なんて言い出す。「祭壇を作りましょう」とかね。

 先生は祭壇を一切作られなかったでしょ?それは、祭壇を作ったら、自分の祭壇という神さま以外のものが出てくるから。

 だから、今までの宗教が全部ね、虚の世界の宗教だというのは何かと言うと、自分のというのがあるわけ。それを先生は宗教の縛りって言うんですけどね。組織の縛りって言うんだけど、自分の宗教が1番だという縛りを作った以上は、そっから抜けれないの。「自分の」という意識から。

 で、「自分の」という意識があったら、全て真(まこと)の神さまにならないから、もう身動き取れないんですよ。 で、中にはね、バカバカしい宗教があって、「うちは真(まこと)の神さまだから大丈夫だ」って言うわけです。真(まこと)の神さまと言う時は、「ウチは」はないの。「自分とこは」というのはないの。 なのに、真(まこと)の神さまだから、自分とこは大丈夫だっていうね。そういう矛盾してることを言ってることすら気づかない状態に、自分で自分を縛っちゃうの。

 良い悪いを言ってるんじゃないですよ。自分という意識、神さま以外を認めた時点で縛っちゃうの。縛ったら、自分で縛ってるから、自分の縛りだから解けない。誰も解いてあげることもできない。自分で自分を縛ったからね。自分の自由意志で縛ってる以上は、自分の自由意志で解くしかない。

 その全て真(まこと)の神さまというとこ。それを絶対の信とか、色々表現しますけども、神さまが1番良いようにしてるとかね。 そこがみんな分からないのね。で、自分と他人を分けて、「あいつは良い目してる」とかね。「あいつとこは良い」とかね、「うちの方が良い」とかね、「自分とこの方が優れてる」とかね、「自分とこが1番だ」とかって やるわけ。それはゲームの世界でしょ?

 学校の運動会で言えばね、本来は同じ全校生徒じゃないですか。でも、わざと赤と白に分けて、どっちが勝ったとか負けたという運動会というゲームをしただけで、「赤勝て、白勝て」ってやってるだけで、終わったらおもろかったなでしょ?

 なのに、この虚の世界に自分で自分を縛ってしまうとね、「あいつとこより俺のとこの方が優れてる」とかね、色々やり出すわけ。それゲームでやってるんやから、別に、負けたら負けたでまたゲームをやり直したら良いだけなのにね。そのゲームというのに気付かない。虚の世界というのは、ゲームだというのに気付かないとこが全てです。ゲームだから、神さま以外のものをルールとして作っただけで、 本来は真(まこと)の神さま以外は何もないというとこですね。

 それがイヌの言葉が分からないっていう、ごく、みんな常識としてね、イヌの言葉分からないって決めてる部分は、みんなで常識として、みんなで自分を縛ってるだけ。誰もあなたを縛ってないんだけどね。

 だから、その縛りが解けたら、「印可書奉読」してたらね、イヌの言葉も、ネコ言葉も分かります。言葉が分かるというより気持ちがすっと分かります。

質問:ありがとうございます で、同じ方から翌日に質問が来ました。昨日、 我が家のイヌについて質問しましたが、元々心臓に持病のあった愛犬が 午後急変し亡くなりました。まだ実感が分からないのと、ただただ寂しく辛い思いがあります。イヌにとっても突然のことで、今空の上で何を思っているのか気になります。亡くなったイヌに「印可書」を唱えても良いでしょうか?よろしくお願いします。ありがとうございます

河上さん:唱えてあげてください。でもね、唱えてくれてるのはイヌの方なんだけどね。人間の方は自分とイヌと分けてるでしょ?イヌさんの方は飼い主と自分を分けてないの。で、飼い主さんが心臓病で倒れそうだから、喜んで身代わりとなってね、倒れてくださっただけなのね。

 だから、イヌに本当は教えて貰わなあかんけどね。イヌさんの方が「印可書」をたくさん奉読してたと思います。で、もちろん奉読してあげてください。 ありがとうございます

質問者:ありがとうございます

宮野さん:それ、先ほどの話の中で、元より心臓病があったイヌとなってるけど、そういう縁で来たの?

河上さん:心臓病のあったイヌじゃなくて、飼い主のを移してくれただけ。 だから、なんていうのかな、もちろん縁というか、この世のルールはね、 過去世の記憶を消してるから、分かりにくいけど。でも、消してるからこそ、イヌの姿となって来れたわけ。

 もし、過去世の記憶を消してなかったら、お前なんか来るなってなるんでね。で、人間で近寄られると「お前なんか来るな」ってやっぱり言う縁があるから、「お前なんか来るな」って言われない姿となって来てくださっただけです。それで良い?

質問者:はい、ありがとうございます

質問:宇宙神ありがとうございます。先日の護摩炊きでのお話で、 マイナスを認めず、「おもろいやつ、おもろい人やな」と言って受け直すと仰っていました。とてもよく分かりました。
 私は身内のことになるのですが、「おもろい人やな」はちょっと他人行儀っぽくなってしまいますので、「ほんまにおもろいわ、おもろすぎる」を使っているのですが、これで大丈夫でしょうか?

河上さん:大丈夫です。心でマイナスと思っててもね、言葉で受け直すからね、 少々心でマイナスと思ってても、「おもろい、おもろい」って言ってたら、プラスに変わっていきます。だから「印可書」なんですよ。

 あいつ腹立つなと思いながらでもね、「印可書」奉読すると、自動的に消して貰えるのは、そのためなの。只、宇宙神ありがとうございますは、なんて言うんかな、もうちょっと光が一筋の強さだけなんですね。「印可書」はいろんな強さの光を、散りばめてあるから、自動的に弱いとこから吸い取って貰えるんだけど。宇宙神あありがとうございますは、強い光で、ドンって来てますので、自分の自由意志で、どんどん投げ込まないとダメです。

 で、緩やかな真祈りの伝授を、頑張ってしてきたわけですけど、この8月8日をもって、一旦終了になってしまいました。

 で、この8月8日以降はね、本当にマイナス思ったらもろに自分に現れますから、頑張って真祈りしてください。

 だから、宇宙神ありがとうございますを選び取った人は、 ちょっとでも文句が出たらね、ちょっとでも「あいつ怠けてるやないか」とかね、色々あるじゃないですか。「もっとしっかりせよ」とかね、「言ってやらなあかん」とかって思った時は、その気持ちを宇宙神ありがとうございますに自分の自由意志で投げ込んでください。投げ込めたら一切文句言わなくなります。

文句言うてるうちは投げ込めてないから真祈りになってないと反省して頑張ってください。

 で、「印可書」の人はもうちょっと緩やかに、もうなんか出るごとに、ひたすら悩むごとにね、ひたすら「印可書」奉読してください。もう8月8日以降は待ったなし。まあ、本当の時間切れになっちゃってね、大変なんですけど。 ある意味、それぞれ皆さんが自分の選び取った役割で、いろんな形で消していくということになります。

 で、「印可書」選び取った人は何回も洗い直して消せるし、宇宙神ありがとうございますを選び取った人も、本当に投げ込めたら何回も洗い直して消せます。

 只、投げ込まずに文句言ってたら、 その文句の状態を体に表して消すだけです。どっちにしても、その人にとって1番の得意技ということになりますから、良い悪いではないです。

皆さんの自由意志で選び取った姿を取るだけです。だから、「癌になりました」って文句言ってこないでね。自分で選んで癌になるだけです。ありがとうございます

質問者:ありがとうございます 以上です。

河上さん:質問ありますか?

質問:基本的には「印可書」奉読なんですけど、真(まこと)のプラスの言葉を駆使することで、「印可書」奉読では長いという場面では、宇宙神ありがとうございますや、ありがとうございますを…

河上さん:そう、あのね、駆使するというのは、本当に、駆使なんです。ということは、ちょっとでも文句出たら駆使してない。

 だから出ても良いけどね、出る毎に、ほんとに 宇宙神ありがとうございます、ありがとうございますに投げ込んでいかないとダメなんですよ。それで、投げ込めたら、受け取って貰えたと信じきれないとダメなの。

 「印可書」はその辺がね、あやふやでも大丈夫なんだけど、ありがとうございますとか、宇宙神ありがとうございますが、なんで上手くいかなかったか言うと、その、投げ込んでるつもり、自分は。つもりだけども、「これで、大丈夫かな」ってまた自分で疑うのね。自分で自分を。それで潰しちゃうの。

 だから本来真(まこと)の神さまの自分だから、必ず宇宙神ありがとうございますに投げ込める、受け取って貰えると信じ切れなあかんねんけど、中々その辺はね、真(まこと)の神さまと1対1という厳しさがあるんで、そう思ってやってください。 はい。

質問:あと、「印可書」の話で、「印可書はダブルの螺旋」って仰られてて、 その意味がちょっと分かりづらかったんで教えていただけますか。

河上さん:あ、ほんとは三重の螺旋なんですけどね。螺旋というのは何かと言ったら、強い光と弱い光と真ん中の3つを組み合わせて螺旋構造を描くわけ 。それは何かというと、網目なんですよ。強い光と言うのは大きい網目。真ん中の光はもうちょっとちっさい網目。で、弱い光というのは細かい網目です。要するに、心の小さな人を拾う為に弱い光がいるわけ。細かい網目でないと抜け落ちるでしょ?でも、弱い光のままだったら、いつまでもラチあかへんから、 弱い光で拾っといて真ん中の光持って行って、強い光で焼き殺すみたいな(笑)。焼き殺すという表現はあかんけど、焼き消してしまう。

 神さまと自分といって、神さまから離れたマイナスの思いを消してしまうということです。
それが「印可書」の場合は、三重螺旋構造で自動的に引きずり込んで消すわけですけど。宇宙神ありがとうございますとか、ありがとうございますの場合は、自分の自由意志で投げ込まないとダメなの。それがね、投げ込んでるつもりだけど、さっき言ったように投げ込んだけど、投げ込めたかなとかね、 受け取って貰えたかな、とかね、これで大丈夫かなって思っちゃうわけ。思ったら投げ込んでないんや、それは。という厳しさがあるということ。 どれを選ばれても自由です。

質問:「印可書」の場合は不安があっても大丈夫という?

河上さん:そう。自動的に吸い込んで消してくれるんでね。それで一生懸命「印可書」って言うんだけど、みんな自由だからね、自由意志だから何を選ぼうと自由ですよ。どれが良いじゃないです。

 只、やはりこっちの方がやり易いんちゃうんっていう、テレビショッピングしてるだけで、あくまで個人の感想であって、効果効能を示すものではない、個人の感想です。(笑)

質問:宇宙神ありがとうございますも本来はダブルだったのが?


河上さん:いや、そんなことはないです。宇宙神ありがとうございますをダブルにしようと思うと手振りを入れたら良いんです。分かるでしょ?手振りって考えてる暇ないでしょ?要するに、考えてる暇がなくなったらオートマチックになってくるんですけど、考える隙間がある時は厳しいという事。

質問者:ありがとうございます

質問:ありがとうございます 8の字体操、四股踏みを素直に体験された方の感想なんですけども、「若返ったんちゃうの」とか、「なんか肌つやようなったね」って言われてるそうです。

河上さん:そらそうなります。なるって言うてるやん(笑)。

質問:実際、僕がそういう風に聞きました。で、僕の感想なんですけども、 8の字体操も、四股踏みも、ちょっと体が硬く感じる方は、 真祈り体操から始められると、真祈り体操っていうのは、全身運動だと思うんで。

河上さん:いや、そうだけどね、真祈り体操を出来へんから作ったんだから。逆に、どっから入っても良いのよ。四股踏みもね、最初はもうほんとに、足がこう外向かなくても、普通のこの状態でね、こうしたら良いのよ。そうしてるうちにどんどん筋肉がつくし、柔らかなるしで、理想の形に持っていけるけどね。その最初から5分間しなくちゃいけないとかね、縛ったらもうできなくなるし、体潰すの。

 で、四股踏みは特に、しつこく言ってるんだけど、「やっててしんどなったらすぐ止めてね」って何遍も言うてんのに、しんどなってもするから、ややこしなるね。

  で、真祈り体操はね、最初から最後まであるから、途中でしんどいなって思っても止めにくいでしょ? それで四股踏みにしたの。この8の字もね、「印可書」読みながらって言ってしまったから、「印可書」終わるまで止めにくいじゃない。それで取り敢えず、それもやって良いけど、四股踏みやったら、「ちょっとしんどなったら止めてね。で、また思い出した時にしてね」っていうことで言ってます。

質問:じゃあ、最初から本来の形を求めるんではなく。

河上さん:うん。だからね、結果に縛られるなとか、結果を掴むなって言ったって掴むじゃない。だから、四股踏みの場合は、「しんどいという結果があったら止めてね」って言ってるから、結果を掴むでも、無理がない。

 5分間 と違うからな。只、本当に慣れてきたら四股踏みをしながら「印可書」読めるよとかいうのは言いますけど、しんどなったら止めてください。その代わり、四股踏みの場合は思い出すたびに(しょちゅう、どこでも)出来るじゃない、場所問わずに。だから凄く良いって言ってるの。

 真祈り体操とか、この8の字はね、場所と時間取るでしょ?すると、やる回数が限られるじゃない。その方が悪い。しょっちゅうするっていうのが良いね。

 なんで思い出した時にしょっちゅうすぐ出来るのが良いかって言うたら、それは一瞬一瞬新たに近いから。本来みんな一瞬一瞬新ただから年取らないね。でも、自分で縛って、一瞬一瞬新たに自分は受け取れないってやっぱりするねんな。先生やから出来るけど、私らできへんわって無意識に自分で縛ってんねんで。先生誰も縛ってないのにな。それで、年取るね。 

 それで年取ったから物忘れひどくなったとかね、年取ったから歩けなくなってきたとか、年取ったから体硬なったとかな、なんらと自分で自分を縛って、自分で言い訳するし、縛りをしてな、するわけよ。で、これが進むと、宗教カルマって言って、自分とこの教えは1番だって言った途端に、自分で自分を縛って、一切見えなくなっていく。

 自分とこが1番じゃない。全て真(まこと)の神さまというのが中々みんな分からへん。なんとか自分とこってしたい。で、した途端に全部分からんようになんねん。

 だから、この宇宙神ありがとうございますの額もね、作るなって言うのは、祭壇みたいにしようとするんよ、みんな。で、祭壇にした途端に、この宇宙神ありがとうございますが1番って言い出すね。

 だから それは自分とこが1番だって言った時に全て帳消しなるの。 みんな真(まこと)の神さまって言うてるやん、もう分からんかなみたいな感じや。

 それ、自分とこがって言うた途端にね、国と国との争いまで発展するわけよ。でしょ?だから、「お前とこから来て働くな」とかね、「勝手に国入ってくんな」とかってやるわけでしょ?自分とこって言うてるからや。みんなどこ行っても自由だし、どこで働いても自由だし、どこで遊んでも自由だし、どこで何食べても自由だよってしたら喧嘩ならないのにな。来るなとか、来る以上お金払えとか。関税でしょ?

 或いは、他所へ物を売る以上はお金払えとか、消費税やろ?あないして縛り合いしてやな、喧嘩なんねん。

 その自分とこはというのがあるうちは偽者。みんな真(まこと)の神さまというのは、自分がないということやね。もうそこを、ほんとね、そこをもう分からなあかんねんけど、理屈で考えるとすぐ分けようとするね。

 理屈で考えるなというのは、考えるというのは、自分とどうこうって考えようとするから。で、そのスタートで自分って言うた途端に崩れるね。何もかも見えなくなる。

 だから、「ここは宗教ではない」って何遍も言うてるやん。「教えも組織もない」って。それは自分がないから。自分があったら、自分なりの教え,自分なりの組織ができていくの。すると、「 あいつ、わし先輩やのに顔立てんと勝手にしよった」とかな。どこでもやるやん。ブロック長の顔立ててないとかね、あれがそうや。自分があんね、あるうちは偽物や。

 それで此処でもそうや、僕の方が古いのにとかってみんなやるわけや。だから先生は1番古い僕を隠しときはったんや。いざとなったら1番古い人間出してきて、「ワシの方がここに古くからおる」って言うてね、自分という意識を持たさんように、先生が用意周到に隠して隠して。

 それで先生亡くなられた後の、最初の護摩に喋って良いですかって(先生の奥さんに)言ったら、(許可をもらえて)喋らせて貰えて、ああしてスタートしたわけや。

 それでスタートにね、55年以上の古い人は僕以外におれへんから、誰も抵抗できなくなって、自分が出しにくくなったから、上手くここまで来たんや。これ、自分を出してたら、「私の方が教えの先輩だから」って言って、ぐちゃぐちゃなってるよ。

 その「自分が」っていうのがあかんねんて。「私が」っていうのがあかんのよ。これが分からなあかんね。「全て真(まこと)の神さま」って先生言ったやん。「みんな光や」や、別の言い方したら。光というのは分けられへんね。 分けた時点で偽もんや。だから組織も教えもいらんね、みんな光やから。それ以降は何の説明がいるか?だけやねんけどな。

 あまり簡単すぎてみんな不安なって、なんかこう作ろうとすんね。作るなよって、先生作ってないね。もう50年前から先生は「みんな光や」って言うてんね。もうって思うけどね。

 だけど考える癖があるやろ?で、考えるいうのは自分と分けて、相手と引き比べてどうこうかなってするわけや。で、引き比べたら虚栄心が出るわけや。それで、あいつより偉いか負けてるか、勝ってるか負けるかになるわけやな。そしたら卑下満なるか増上慢になるかどっちかや。もう永遠に分かれへん縛られて、自分で自分縛ってるだけやけどね。「あいつより俺の方が偉い」って言った時点で自分縛ってるから見えんようになんね。

 「みんな神さま」と言ったら縛りがないから透き通るように全部分かるんやけどな。それを何度も先生は説明してんねんけど、誰も受け取らんとここまで来たんや。でも、光の交流会を起こしてくれてね、あの、先生の昔話をもう一遍起こしてくれたら、ちゃんと言うてはること変わらへんねんで。(と改めてみんなわかるはず)。

 それが未だに分からんのは困んねんけど、でも、護摩のおかげでね、やっとみんな分かるようになってきたんや。良かった。

 だけど、「自分とこが1番」とか、「自分が」とか、「この祭壇」って言う時点で自分の祭壇や。「この額が」って言ったところで、自分の額、自分のとこの額になんね。そしたら分け隔ててるから、神さま以外のもんなってしまう。

「宇宙神ありがとうございますの祈り言葉だけ」って言うたら、分け隔ててるから偽物なっていくね。 だから先生はいろんな祈り言葉を残してくださってんけどな、すぐ、なんか自分の選んだんが1番みたいな言い方をしたいから、「これだけ」とかって言い出すねんけど、「これだけ」って言うたら、もう偽物よ。

 「全て光や」って言うてるやん!「全て神さま」って言ってんのになんで分からんかっていう感じで、おもろいなと思っていつも見てんねんけど。

質問:そういう分け隔てる気持ちを持ちながらでも素直に「印可書」を淡々と奉読することによって、縛りも解ける?

河上さん:そう、「印可書」か護摩やね。「印可書」か護摩はオートマチックにそれしてくれてるから。だから、「印可書」選べなくても護摩だけはな、何しても来てくれって言ってお願いしてるわけ。

  騙してでも連れてこいって言うのはね。でも、あんまり言うと、また語弊があるから言わんとくけどな。だけど護摩に来てください。はい。何があっても、ちょろっとで良いから。最初から最後までおらんで良いから、ちょろっとでもええから来てねって言ってます。

 或いは護摩に関するお手伝いしてね。護摩の会場に来なくても良いけど、護摩に関するお手伝いしてねって言ってます。

質問:または、来たくても来れない方、行ってみたいって誘ってみたい方に、護摩木を書いてもらって、参加してもらうことも、護摩炊きに参加することに等しい。

河上さん:そうです。でも、刑務所入ってる方だったら、護摩木がないからね、もちろん紙でも良いですよということ。でも、護摩の会場を維持するためにもね、護摩木を買って頂きたいから、護摩木って言っています。

質問者:分かりました。ありがとうございます

河上さん:もう兎も角ね、「みんな光や」から離れたらあかんね。みんな光やから、「すでに祈ってる、悟ってる、救われてる」や、光やもん。 でも、自分でね、カラーリングするわけよ。

 自分はどんくさい奴やとか、自分は勉強できへん奴やとか、色々あります。自分は男やとか、自分は女やってして、その役を楽しんでるだけよ。本当そうなの。で、ニャンコさんも「今回は自分、猫で行きたいわ」って言って、ニャンコさんなってきてるだけよ。それ、勘違いしたらあかん。イヌさんも一緒やけどね。

 「あの人に恩あるから、あの人のお手伝いしたいから」と言って、でもイヌでないといけないから、今回はイヌで行きましょうって来るだけやからな。だから、イヌ、ネコやから、アホやから分からへんとはちゃうからな。その辺は恐ろしいもんやで。

 ちゃんとみんな助けてくれる。

 本当にね、どれもこれも助けてくれるだけやね。只、小さい自分の意識から見たら、「あいつてんご(悪さ)しやって(しよって)、あいつ邪魔しやがって」ってなんねんけど、本当はその形で助けてくれてるだけよ。要するに、「あの人が邪魔して、この仕事上手くいかなかったわ」と言ってもね、本当やったら破産するぐらい大変なことを、その形で消してくださっただけなの。
本当の話よ、これはね。

 だけど、ちっさい自分の意識から見たらね、「あいつ邪魔しやがって、てんごしやがって、わけ分からんことしよって」とか言ってね、文句言ってるわけや。

 或いは怠けてる姿で目の前に来る人もそうよ。本当やったら、自分が 調子悪くて動けなくなるのを、その人が身代わりに怠けてる姿で、動けない姿を(身代わりに背負って)見せてくれてるだけなんだけどね。本当はたったそれだけやねんけど。

 だから、「立ち向かう人の姿は鏡なり 己が心を写してや見ん」やけど。本当はもうちょっと進んでね、「立ち向かう人の姿は、真(まこと)の神さまなり、己のマイナスを消してくれてるだけ」やねんけどな。だから今が一番良いようになってるって言うてるやん。

 今が一番良いようになってるって言うてるのに文句言うからややこしいね。只、文句言うたら「印可書」か「宇宙神ありがとうございます」に投げ込んでください。言うなって言ったって出るからね。それは癖のもんやから仕方ないよ。でも、出ても投げ込んで消したら良いだけ。

 もう8月8日過ぎて待ったなしやから、色々、 うっかりマイナスに思いすぎて「印可書」とか真祈りし損なった人は体に不調が出ますけども、こっちに持ってこないように(笑)。自分で頑張って「印可書」読んでください。

 その、本当にね、もう地球霊王様が、先生に任せますということで、先生との話し合いでね、地球霊王様と先生の話し合いで、先生に任せますだったんだけど、本当に待ちきれないって地球霊王様が言ってきてるんで、だからもう仕方ないんで、8月8日から以降は、 みんなの自由意志で選び取った姿を現してもらって消す形にしますから、もうちょっとだけ待ってくださいと(地球霊王さまに)お願いしています。

 だから、「印可書」奉読頑張ってしてね。し損なうと体に色々と現れますけど、現れた形で消えたからよかったと思ってくださいね。そしたら、すっと消えるから。それを「こんな病気になってどうしよう」って言った途端に掴むじゃない。だから、なかなか楽しめるよ。はい。痛みを(笑)。



令和5年8月河上さん勉強会1−後半(20230813−1後半)

宮野さん:確認なんですけれども、今が一番良いようになっているというのは、よく護摩の時皆さん宣言されている、「どうぞこの命、神さまの御用にお使いください」って言っている事とは一緒ですね?

河上さん:そうです。だから「神さまどうか神さまの御用にこの命をお使いください」ってね、本当の自分の本心から言ってなくても、口に出したら、それは有効やから使って貰うようになったわけです。(本当は、どうかこの命神さまの御用にお使いください。と投げ出したら一切の文句が出なくなるんだけど・・・(笑))

 だから真祈りが出来ていなくても「私は真祈り出来ていますから真祈りの伝授を受けなくても大丈夫です」って言い切ってくれた人は、そのまま使って頂けるって言う事です。

 だから一応色んな人に古い人にも特にね、「お祈りしてますか?」って僕はたずねたの。そしたらみんな「してます」って言ってくれたから「良かったなあ」です。

 やっぱり神さまに使って貰えた方が良いからね、それが一番。で、その病気になった時に文句を言うでなくて「使って頂けて良かったな」って思えたら大きな働きになりますから。だからこっちに持ってこないでね。説明したやろ。持って来なかったら黙って消すんだけど、持ってきたら知らん顔するからね。

宮野さん:それは持って来ない、持って来るって言うのは、今の状況に文句を言って、何とかしてもらおうってギブアンドテイク・・・

河上さん:そうそう。文句言うぐらい迄やったらまだ良いよね。ただ(なんとかしてくれといろんなものに)頼ったら終わりや。頼ったら、もう神さまの側に立っていない。

 神さまのお手伝いをしているうちは救いの側ね。神さまの働きの側に立っているからすっと消えるわけ。そこなんですよ。この病気治して欲しいって言った途端にね、神さまに頼っているわけ、甘えているわけ。今までは先生は甘えてきても直してあげたわけ。だからよく「先生だったらすぐ直してくれたのに」って言う声を聞くんだけれども、それは甘えても良い状態の時だったから、これからは甘えて頼っている人は見捨てられるの。

 先生のお話のようにね、神さまのお手伝いの側に立ってくれ、一切の報いを求めずに与え尽くす側に立ってくれって、ずっとずっと同じ話をされて来ているわけよ。その通りに皆さん実行されたら良いの。だから病気になっても喜んで「ああ、使って頂けて良かった」って言うたらスッと消えるんだよ。「こんな病気になってどうしよう?何とかしてくれ」って言った途端に、酷くなっていくね。

 逆に言うとね、これからは皆さんがご自分でどんどん奇跡が現していける訳。神さまのお手伝いが出来て良かったと思った途端に。

 でも「こんなんになって、どうしよう」と思った途端に、すごく悪化します。どれもどれも必要な体験だからね、やっぱりお手伝いの側に立つのが良かったんだと分かるまでは、色んな事を、勿論、自分の自由意志で選んでいるのよ、そうでしょう?神さまのお手伝いに立ちたいっていうのも自分の自由意思だし、助けて欲しいっていうのも自分の自由意志だから。神さまはその自由意志を大事にされますから、どうぞ色々と体験してください。

 ただね、本当に8月8日が過ぎたから、どっちにでも、極端にスッと現れるから、あの病気も神さまのお手伝いに使って頂いて良かったと思ったらすっと消えるます。本当にそれが極端ですからね、「どうしよう?助けて」って思った途端にどんどん悪くなりますから。大丈夫。

 ただ先生に縁のあった人はね、大なり小なり神さまのお手伝いをしたいと思うから、先生に近づいた。先生のところに来たの。そうでしょう?先生のところに来た人は本当に人数が知れている(少ない)わけでしょう?全人類から見たらね。

 その何故かと言ったら本当に神さまのお手伝いをしたいっていう人はこれだけしかいない。でもこの人達がお手伝いの姿、要するに真祈りの姿を現したら、全人類に響くの。あの音叉で説明したけれどもね、こっちの音叉ピンって響かしたらこっちも響くでしょ?それは本当に真祈りの響きが出たら最強だから、真祈り最強だからアッという間に変わるのよ。ただそれを相乗効果で先生のおっしゃる相乗効果でね、みんなで真祈りをしたら何億倍なるからっていうんで、それの一つの象徴が護摩です。でも毎日毎日が護摩ですからお願い致します。

質問:このまま護摩焚きが進んでいけば、地球霊王様は喜んでくださいますか?

河上さん:そらそうよ。もちろん真祈り、真祈りの響きがドーンと響いていったらね。でも護摩が中止になったら、またその時、神さまはどうしてくるのか分からないけど、はい。その仮の話は止めとこう。

質問者:ありがとうございます

河上さん:だから本当に真祈りの伝授を先生から受け止めれていたらね、数式も全部受け止めているから、「私は先生から真祈りの伝授を受けた」っていう人は、どうぞ数式を出してください。もう出しても大丈夫です。言って意地悪言うてるか?(笑)

 本当ね、色々あるんだけれども、ただ数式を出してもね、みんなは数学苦手だからね、もう出さずに行こうという事にしています。だから護摩で行こうという事になったんで、護摩で行きたいと思います。

 もちろん真祈り出来ている方には随時数式はうつして(伝授して)いますけれども、気づかないだけ。はっと浮かび上がるようにしてあるから大丈夫です。

 先生のやり方ね、真(まこと)の伝授。まず相手の本心を響かす、で本心から湧き上がってくる。でも「私は受け取ってないわ」とか、「私は分からないわ」とか、「私はお祈り出来ないわ」とか勝手に自分で縛って、気付かないだけ。

 で、いつまでも気づかないとね、すごい地震とか津波とか来てね、食べ物とかなくなった時に、イエスのような奇跡を現さなくちゃならないの。その時に現せるようになって初めて気づく。

 そんな状態で気づくよりは、ごく自然な状態で気づいてほしいからね、頑張って護摩もして、印可書も奉読してお願いしますって言っているわけ。

 「宇宙神ありがとうございます」を選ぶ人は覚悟を決めて投げ込んでください。ちょっとでも文句が出たら「宇宙神ありがとうございます」って祈り切れていない、反省してね。だからどれを選んだって本当に大丈夫だからね。

宮野さん:あのね、たぶんね、さっきから「投げ込んでください」っていう表現が、中々たぶんちゃんとピンと来にくいと思うのですが。

河上さん:文句が消えるまで祈り続ける、唱え続けるという事です。

宮野さん:はい。ありがとうございます

質問:そういう場合、無意識に文句を言っている場合はどのように投げ込むのでしょうか?

河上さん: 文句が出ないぐらい「宇宙神ありがとうございます」って言い続けるんだけどね、 だから印可書が何でオートマチックかというと、長いから 文句言っている暇がないんよ。「宇宙神ありがとうございます」は、短いからな、 言っているうちについつい文句出てくるね。その難しさってって言っているだけ。だから文句の少ない人は「宇宙神ありがとうございます」でいけるの。大丈夫、大丈夫。 人を責めない人は大丈夫。「おもろいやっちゃ、宇宙神ありがとうございます」でやってください。

宮野さん:あの「印可書の吸い込んでいく 」という表現も前にされていたと思うんですけど、その特性も文句が出ました、でもあの…

河上さん:うん、 文句あってもね、要するにね 、文句が出ましたというのを気づかんで出る人が多いわけよ。それが難しいね。真祈りの難しさやね。文句言ってないつもりで文句を言ってるのよ。 みんな無意識にな。 それが 印可書 やったらさっき言った三重構造だから順番に こうベルトコンベアで引き上げていく感じでね、 エレベーターなんだけれども印可書は、どんどんエスカレーター なんだけれどもね。引き上げて行って消すから、「もう、何かもう」と思った時は印可書、印可書ってお願いしているわけです。

 だけど、「宇宙神ありがとうございます」やったら自分文句言うてないからな、文句をほんまは言ってるねんけども、言っている場合があってね、中々大変なわけです。

 ただ文句を言いなさんなやね、文句が出る間は偽物なの。「全部自分やで」って先生言うてるのにね。真の神さまやっでって言うてるので、文句の出るはずがない。出た時は真の神さま以外のものを認めているわけ。

 それを祈り言葉、真のプラスの言葉でしか受け止めれないから、真の神さまは。

 真の神さまが降り立つのは真のプラスの言葉のところだけなんです。

 だから最初に先生は本配りをしようと言ったわけよ。真のプラスの言葉だけを書いた本をポスティングする事によって、日本全国に真の神さまが降り立てる場を作ろうとしてはったわけや。で、実際その本を読む読まないに係らず、ただ置くだけでね、真の神さまが降り立つ場を作って行けたんだけれども、その配る人が、「ただ配ったら良いやろ」ってなってね、真の神さまが降り立てないようにしちゃったの。その本は素晴らしいんだけれども、その本の上に「配ったらええんやろ」ってね、「これを配る事によって病気治るんやろ」とか色々あるんですけれども、マイナスを被せちゃったのね、それで一旦中止になった。「護摩だけで」、「印可書だけで」ってなっていったんですけどね。

宮野さん:多分「配ったらっ良いんやろ」っていう意識じゃなくって「配らなアカン」っていう感じが・・

河上さん:ああ、どっちも一緒やな。

宮野さん:多分そんなふう言わないと、多分、そんな風に思っていないのにって。

河上さん:そうかそうか。「配らなあかんねやろう」っていうのも、その自分の自由意志に

宮野さん:「あかんねやろ」じゃあなくって、「配らなあかん」ていうこう、言われているから数字を出さなあかんていう感覚?

河上さん:自分の自由意志でなく、配っているというのがマイナスなんです。配りたいで配らなね。で、その辺が難しいから、印可書やったら、どうこう読むだけでって先生持っていってくれはった。最後の大おまけよ。どう思っていても印可書やったら、っていうふうに先生してくださっただけ。

宮野さん:どの形であっても先生が残された物っていうのは神さまの方を向くようにっていう

河上さん:そうよ。神さまに向くようにっていう神さまの愛が、色々な形となって現れているだけです。

 だから「天の造化主の尊、産霊精霊守り給え、幸栄え給え」って言うとパッと光差し込むんやけどね、ほんまにこんなんで通るんかなって思うから、ややこしくなってね。

宮野さん:ほんまにっていう疑いがあるから、ほんまにっていう疑ったままの、自分の言葉通りの

河上さん:そうそうそうそう、そういう事。で、印可書はほんまにそうかなって思っていても、「そうかな」って思うマイナスも吸い込むように先生が作られたわけね、それだけ。長いもんな印可書、考える暇なくなってしまうわな。

宮野さん:その印可書であっても8月の8日をもって、一旦伝授が終わる?

河上さん:伝授が終わったの。後はもう選び取って読むか読まないだけで。もちろん他を選んでも別に間違いではないからね。ただ、難しいよっていうだけで、それだけですね。

 だから体不調が出てくる人があるんでね、その時の説明を今したわけ。だから不調が出てきても「使っていただいて良かった」と思ったら、後それで印可書を読めたら良いけどね。「どうしよう」って言ったら「どうしよう」になってくる。

宮野さん:その体が不調であるだけでなくって、身の回りで起こる・・

河上さん:もちろん生活的な色んな。

宮野さん:災難あったりとか、

河上さん:車の事故とか色々あると思うよ。

宮野さん:よく最近ある、水の事故だったりとか?

河上さん:そうそう。

宮野さん:そういう事ですね。

河上さん:本当にね、地獄とピタッと一つだから。向こうからちょっかい出しやすいね。けど逆に言うとピタッと一つやから印可書読んだらいっぺんに向こうが消える。分かる?今までみたいに遠くないからね。だから表裏一体やから。

宮野さん:チャンスタイム。

河上さん:チャンスタイム。どっちとっても自由です。

河上さん:どうぞ。

質問:ありがとうございます 護摩の日が今年は元旦という事で祝日と重なったんですけれども、今回8月6日は広島の原爆の慰霊の日と重なったのですが、それも何か?

河上さん:そうそう、もう、いよいよもう節目でね。節目もあるし地球霊王様が「本当に待てない」って言うわけ。「ほんと待てない」って言うんで、まあちょっと地獄と一つにして、色々頑張ってるんですよね。

質問:慰霊の日と重なる時は相乗効果ある、お清めは?

河上さん:そうそうそう。だから地獄と表裏一体にしたから、護摩が慰霊の日と重なったりとか、チャンスになるわけ。

質問:護摩がオートマチックに始まっているのはその日の護摩が一遍は閉じて、来月までは・・

河上さん:いや、ずっと毎日護摩なんですよ。護摩なんだけど、その何て言うんかな、それを再確認してそれを象徴的に広げる意味で毎月の護摩があるわけです。で、護摩がなくなるとね、向こうの世界から見て真祈りなくなったって見えるわけ。するともう大変になっていくんでね。

 今、結構大きい台風とか来ていますけれども、あっちの世界はもうとっくになっているのね、先生が生きておられる時から もう何遍も先生仰ったんだけれども それを何とか押しとどめて、ここまで持ってきましたけれども、もう押し止めなくて良いからっていう事なんです 。それぐらい真祈り人が増えたし、少々何が起こってもみんな心揺るがないって、先生言うんでね。

 だから行きましょうか、みたいな感じで、待ったなしで。いよいよ今までの机上の練習は終わって実施訓練みたいな。まだ実践と違って実施訓練です。この実施訓練のうちに慣れておいてくださいね。

質問: 以前は歩いている時とか、「転ばないように気をつけてください」て仰っておられたんですけれども、 今は車の運転とかも

河上さん: もちろんそう。だから一呼吸ごとにね「宇宙神 ありがとうございす」って乗せて運転した方が良い。歩くのでもね 。

質問: 普段のすべてにおいて気をつけて?

河上さん :そうそう、だから 「う」 だけでも「あ」だけでも「す」だけでも良いって言ってるようにね、本当は「ありがとうございます」で良いんよ。なんて言うんかな、「あ」が1でね、あんまり本当の事言って良いのかどうか、あれなんだけれども。 5が中心なんですよ。5という数字が。「ありがとうございます」の「ご」が「5」なんですよね。でそれを中心に5+5が10でしょう。「あ」が1で「す」が9なんです。「あ」と「す」足しても10 でしょう。「り」と「ま」 を足しても10なんですよ。数字の数霊学、言霊的に言うとね。全部10になるようになってある。で、「ありがとうございます」が真の神さまそのものの響きになってあるわけですよ。

 でも物を貰っての「ありがとうございます」って、なんぼ先生が(ありがとうございますは真の神さまそのものって)言ったって、物を貰っての「ありがとうございます」から(なかなかみんな)抜けへんから、あえて宇宙神を足しています。そういう意味ですね。

 それでもまだみんな分からんから(また)印可書になったわけで。もう只々、本当は「宇宙神ありがとうございます」と手振りだけでね、行けそうだったんだけれどもね。惜しかった。

質問:印可書以外にでもどうしても他の祈り言葉を唱えたい時は、手振り?

河上さん:そうです。要するにね、先生がいくら祈り言葉出しても、みんなの自由意志で喜んでしないと意味がない。それが手振りの時は、みんなの自由意志で喜んでしなくなったの。これ変な宗教みたいだとかね、これおかしいわと思う人がね、増えたの。そんなんもあって立ち消えになっちゃったんだけど。本当は印可書よりも覚えやすいし手振りしやすいしな、簡単で良かったんだけれども、まあみんなが選んだ結果印可書になった。

 あくまでも先生はみんなの自由意志の中でみんなが一番やりやすいみんなの総合的な意思の中で作り上げて行かれるからね、それで印可書になっただけです。
 
質問:8月8日以後、プラスもマイナスも極端に出るという話はよく分かる分かるんですが、伝授が終わったっていうのがもう一つピンとこないです?

河上さん:ああ、だから伝授が終わったっていう事は印可書を選び取れた人が、もう確実にみんな印可書を選び取れたっていう事です。あの私印可書を読もうとしているけれども、読んでるけど「本当に大丈夫なん」と思わなくても大丈夫です。やっと伝授が成功したんです。 

 だから護摩でもね、護摩の時のお話でも、この前の護摩のお話はやっと本当の事が言えたっていう事です。今までの宗教はね、みんな自殺という事を問題にしてぐちゃぐちゃ言って、それで神さまは救うのか、救わないのかって言ってね、神さまの事を言って。

 それで「お前とこの神さまはよう救わんけど俺とこは救うんじゃ」みたいな、そういう物言いする宗教が多かったわけです。

 もう「それ止め(もう、それやめ)」と。ワシとこが1番、自分の所が1番と言うのをやめ、と言うのが中々言っても分かって貰えないのが、この前やっと人類的にね、受け止めて貰えそうだったんで、この虚の世界がゲームであるのがすっと通ったと思います。

 だから自殺もそういうゲームの中に入って楽しんでいるだけ。それを迷路の形で説明しましたけれどもね。あれでうまく説明できたと思っている。

 ハッと気付いたらね、「僕もこのゲーム止め」で、そうでしょう?ゲームって上手くいかなくてもスイッチ切ったら終いや。もう失敗したから「このゲームやめ」でええわけや。

 なのにやめようとしないで掴むからややこしいんですけどね。そういう意味では護摩のおかげで、皆さんの印可書奉読のおかげです。

 自分の所の教えが一番って言うバカタレがもう要らんていうのが、皆もう分かって来たと思います。だから祭壇もいらないし、教えもいらんし、組織もいりません。

 だからちょっとでも自分のところ一番っていうたら、自分が残っているからね、全て真の神さま、全て光やっていうのが分からんっていう事です。

 全て光やが分からんっていうのは、神さまを否定したという事。神さまを否定したっていう事はゲームの世界に入ったという事です。ゲームってそうでしょう?神さま以外のものを作って楽しむわけや。敵と味方を作って楽しむわけや。神さまは敵と味方はないの。だからいつも言うように学校の全校生徒は仲良しやけれども、運動会ていうゲームにして赤と白に分けて競うけど、終わったら楽しかったなという、勝っても負けても楽しかったなあや、ていうのがホンマやのにな。

 負けたから次こそ闇討ちしても勝ちに行こうとかね、するのはね、そこを掴んでしまっているだけよ。運動会で赤組に負けたから次、給食出さんようにしてでもやり返そうと思えへんやん?

 何でそこは分からんかな、やけどね。でも自分の所が一番っていう教えの縛り、組織の縛りがあったらもう抜けられへんのね。

 で、「自分とこ一番っていう」のは気が楽なんよ。自分が何もせんで良いから。全て真の神さまって言ったら、ひたすら印可書を読んでね、神さまに添うとしようしかないけど、「自分の所が一番」って言ったらもう何もせんでも安泰やから。それで俺は先輩やから、お前ら分かってないから、てなるわけや。みんな光やのになあ、おかしいなーって感じやねんけど、それも分からんぐらい自分を自分で縛って見えなくなる。

 だからね、みんな真(まこと)の神さまやったら自分の我も神さまか、みたいな、わけ分からん事を言い出すわけよ。

 みんな真の神さまやったら自分がないんや。だって自分で宣言したんやろ。みんな真の神さまって、そしたら自分の我もない、神さまだけや。

 っていう簡単な事がなあ、教えの縛りに入ったら、組織の縛りに入ったら分かれへんね。それも自分が縛って分かれへんね。だれも分からんようにしてるんと違う。自分が自分で分からんようにしているだけ。

 だからここは便宜上この額があるけどね。みんなこんな額を作らないようにね。お願いだから。こんなん作った途端に自分のところ一番って言いたがるね。言うたらもう終わりよ。 

 「みんな光や」どの形の光をとっても良いね。だから先生は「どの宗教も間違ってへん」っておっしゃるわけや。だけど自分のところが一番て言ったらそこは間違い。だから宗教同士が争うでしょ?自分のところ1番って言ったからや。

 みんな真の神さまって言ったら真の神さまの現れが片方はこの形であらわれ、片方はこの形であらわれる、言うだけでね、喧嘩にならへんのにな。おかしな話や。だいたい戦争の大元は宗教どうしの争いやからな。何のために神さまは救いの光を降ろしているか分かれへん。 

 神さまがあくまでもね、ちょっとでも小さい子に分かるようにね、限定した教えというのを作られただけでね、その最初の本意を忘れてね、「自分とこ一番」って言うからややこしい。

 だからイエスが白人のように言うんやろ。白人と違うのに。自分の所一番やからや。そない言うたらもうおかしなる。

質問:だからこれから印可書を選ばれる方も当然、伝授できる?

河上さん:伝授出来る。うん。これからは皆さんが印可書奉読されたら、多くの人に伝授していけるわけよ。音叉をポンって響かせるとね、周りに鳴らしてない音叉も響きだすね。そういう時に入った。

 逆に言うと「あいつあかん」って言い出したら、そのあかんが増えるからな、「おもろいやっちゃ」で行ってやっていう。うっかりな「あいつ、サボってるな」って言うたらな、そんな人ばっかり周りに集まってくるから大変やで。「おもろいやっちゃ」で行こう。

 それで「働く人ばっかりや、ええね」っていうのも逆の言い方であかんね。分かる?虚の世界のプラスマイナス言ったらあかん。なんしか「みんな真の神さま、おもろいやっちゃ」で行かな。

 例えば「よう働く人ばっかり周りに居てて、良いわ」で言うのは逆に言えば「働かへん人おるわ」って決めているわけよ。常にマイナスを言っているわけ。だから虚の世界のプラスマイナスっていうのは、もうどっちも決めてるから大変なん。だから「おもろいやっちゃ、真の神さまがおもろい演技しているだけ」で行かな。それで「おもろいやっちゃ」って言ってる。「楽しいやっちゃ」「真(まこと)の神さま楽しい事をしてる」「中々抜群の名演技で楽しい事をしてはるな」でやって行かな。そしたら、真のプラスを駆使する自分で行ける。

 でも「よう働くわ」とか「ようサボるわ」は、あかんね、どっちも。「よう働くわ」って言う事は「サボる人がおるわ」って言ってるわけやし。

宮野さん:あれやね「あの人良い人ばっかり、ええ人ぎょうさん集まりはんね」とか「ええ人ばっかりやな」って言うのも一緒やね。

河上さん:一緒、一緒。

宮野さん:ええ事一杯あるねという事も、無いっていう事の裏付けがあるから。

河上さん:だから「今が一番幸せ」って言っているのにね。これからもっともっと幸せになるよってそんな事言うからマイナス作る。「もっともっと幸せ」っていう事は「今はマイナス」って決めているわけよ。今が一番幸せって言ったらずっと今が一番幸せ。もっともっと幸せもくそもない。

宮野さん:誕生日とかでそれをね、良く言われる。ますますって言われるんだけれども。

河上さん:「ますます」って言ったら「今あかんで」って言うてるから、マイナス。

宮野さん:よく聞きますけれども。ますますが結婚式で、益々のご繁栄、ますます円満なとか言われるじゃない。それはこの世界としてはとってつけて、セットもんで言わなあかん言葉ってあるでしょ?

河上さん:虚の世界の特性としてね、比較してどうこうっていう世界、ゲームってそうでしょう?比較してどうこうの世界だから、どっちを言ったって、もう特定していくからややこしなるの。

宮野さん:これはあえて別にこの世のゲームを楽しんでるという意味では、あえてわざわざその例えば結婚式だとか、お誕生日とか誰かのお祝いとかする時に…

河上さん:ますますのご繁栄とかね、言っても良いよ。

宮野さん:言っても良い?

河上さん:言って良いけどな、後、印可書を読んでおいたら良いね。

宮野さん:そういう事ですね。

河上さん:でも印可書を読む事によって、その集まりにきた人の心に響くからね、また、その時読まなくても後で読むだけでね、だから変わります。だから○○だけが1番とかね、(大変になるだけ、でも、自由意志だからね)どうぞどうぞ。


質問:ありがとうございます 柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)さんの歌で「敷島の大和(やまと)の国は 言霊(ことたま)の 佐(たす)くる国ぞ 真福(まさき)くありこそ 」って言うお歌があるんですけれども。その「まさしくありこそ」っていうところが分かりづらいですけど?

河上さん:真のプラス、真の光だけ、無限の無限の輝きで一杯とかみんな光やっていうのがそれや。

質問者:ありがとうございます

河上さん:だからまさしく、真がつく。「ま」ってまさしくとか真(まこと)のとかね、真祈りとかね、無限の無限の輝きっていう意味が「ま」。まったき、完璧とかね。

 だからお家の色んな宗派とかね、真言宗とかあるいは天理教とか色々な宗教に在籍されていて良いんですよ。印可書を読まれたら、その宗派の響きに印可書が響き渡りますから。そのためにも縁があって在籍してるんだから。自分の意思があるないに関わらずですけれども。お嫁に行ったらね、嫌でも何々宗、になってしまうしね。今やったら。



令和5年8月河上さん勉強会―2前半

質問:私は仕事がら不特定多数の方とお会いするんですけど、これから出会う未知の不特定多数の方々に対しても、印可書をお薦めというか、お伝えする機会があると思うんですが、8月8日が過ぎても真祈りの伝授は私自身のあり方で出来るということで・・

河上さん:そう。だから8月8日を過ぎたから、皆さんが真祈りの伝授をするようになるわけ。要するに、今印可書を選び取ってくださった方への真祈りの伝授が完成した,自覚あるないに関わらずやで。

 だからこの人には印可書を渡したいな、という時は、渡されたら響き渡ります。勿論、形の上で渡さなくてもひたすら印可書を読まれたら、自分に縁のある人がどんどん変わります、という時代に入った。そのために、地獄とピッタっと一つにしたからね、どの形でも響き渡るようになっています。でもあいつ怠けてるわとか、あいつずっこいわって言ったらえらいことになるよっていう。

質問者:ありがとうございます。

質問:8月8日の日というのは、真祈りの伝授が完成した日、真祈り人が伝授を受けた日?

河上さん:完成したの。自覚あるないに関わらずやね。だから自信があろうがなかろうが関係なく、今まで通り印可書を奉読してくれるだけで良いの。ただ、これからは皆さんが印可書を奉読したら、本当に自分の親戚とか色んな縁のある人に本当に響くようになるから。

 でも諸刃の剣(つるぎ)だからね、あいつ怠けてるみたいなマイナスでうっかり言ってしまうと、自分に縁のある人がどんどん自分に悪さしてくるという事よ。色んな意味で自分に悪さしてくることが増えたら、印可書を読めずにマイナス言ってたなと思って。だから間違ってもオモロイ奴やでって言ってる。

質問:諸刃の剣ということは草薙の剣の働き?

河上さん:いやいや、言霊は本来そういうもんなの。だから、真(まこと)のプラスの言葉を駆使する自分になれって先生仰るわけで、プラスの言葉を言う人間になれとは仰らないでしょ?

 だから、草薙の剣というのはプラスの言葉とマイナスの言葉の両方の働きという意味や。
だけど真(まこと)のプラスの言葉を駆使する自分は真(まこと)の神さまの「みんな光や」が響き渡るという事。そこが大事。

 今の宗教はプラスを言えとかね、プラスを言ったら将来良うなるとかね、所詮プラスマイナスの世界をやってるわけよ。虚の世界をいじろうとしてるね。虚の世界をいじったって直れへんの。虚の世界をいじろうとするから俺とこが一番や、自分とこの教えが一番やって言い出すの。虚の世界をいじってる暇はない。真(まこと)のプラスの言葉を駆使したら、真(まこと)の世界がそのままここに現前するようになる。「みんな光や」になんね。みんな演技してるけど、「光や」を自覚してやね、演技してる自分を楽しめるようになる。そしたらどんくさい自分を演じながらも、何でも分かる自分が分かる。

質問:おめでたい日だったんですね。(笑)

河上さん:そうそう。

宮野さん:めでたい、めでたいけど、気をつける。

河上さん:厳しくなる。不用意な事は言えんで。

宮野さん:本当に真(まこと)のプラスの言葉だけしか使えなくなるとこだよね。

河上さん:だから何があっても「オモロイやっちゃ」やで、「楽しいやっちゃ」!

宮野さん:この世的に言うプラスの言葉は必ずマイナスがセットされている。うん、そう。「ありがとうございます、あなたやっぱり金賞ですよね、ありがとうございます」って言われたら、それは出来てない人がいるから、あなたがプラスな人なんでしょ?この世的にプラスな人なんでしょって褒められる言葉であったわけです。真(まこと)のプラスの言葉ではない。

 何かと比べて光ってるからあなたが上に上がっただけの話。という事はあなたは何かを、下を踏みつけているよねって話だよね。そこらへんがセットもんやから、本当にこの世のプラスの言葉っていうのは決してプラスではない。真(まこと)のプラスの言葉を駆使するっていうのはそこじゃない。この世のプラスの言葉を何万回、何千万、何兆回言わせたって、そんなものは何の

河上さん:役にも、たたない。

宮野さん:はい、ありがとうございます(笑)
 
質問:ただ単にお目出度い日ではなかった。(笑)

河上さん:そうそうそう、そんな皆が思う程単純なもんではなくって、大きく光が通った。もう護摩のお陰よ。

 要するにね、何でかって言うと、護摩以外だとやっぱり要らん事を考えるの。考えたらその分さっき言ったように、良い人って言った時は、悪い人がいるから良い人やって言ってるわけで、要らん事が響くんだ。

 護摩の場合はその同じ状態でやってるんだけど、護摩の会場で印可書読む、宇宙神ありがとうございますって言うことは、増幅効果を持たせてあるから少々のマイナスをどんどん消していってね、という事です。

 それから、例えば暑い暑い日やったらね。「楽しい暖かさやな」、寒い寒い日やったらね。「クーラーが効いてよく効き過ぎてるな、楽しいな」って言わんなんの(言わないとあかんの)。

 「寒くてかなわんわ」言うとあかんの。「暑くてかなわんわ」言ったらマイナスにとってるから何でも「楽しいな」って。

 だから先生は真夏に厳冬の冬を思えでしょ?真冬に真夏を思えって仰るのは、本当はそういう意味や。なんでも「嬉しい。楽しい」。でも嬉しい楽しいって思えって、先生が言うとね、言葉だけでね、「嬉しい、嬉しい、嬉しい、楽しい、楽しい、楽しい」って言う人が出たからその説明もやめたの。中々難しいんだよって、本当の意味を伝えるのはね。

 形の上だけで。嬉しい嬉しいって言ってる事は悲しい事があるって言うことになるから、あかんの。形の上だけで楽しい楽しいって言うことは悲しいことがあるから楽しいって言ってるから、結局意味ないの。

 真(まこと)のプラスの言葉を駆使するっていうとこが大事やねけど、真祈りをするって言うとこが大事やねんけど、そこが中々な、みんな分かってくれへんかった。でも護摩のお陰でやっとこの前かなり説明できたと思う。

 自分のとこが一番という自分が在るうちは偽物やっていうのが分かってくれたと思う。自分があったら違うね。自分があることは、みんな自分は正しいと思ってるでしょ?という事は、自分があることは、自分以外の他人は間違っているって、やっぱり無意識にどこか思ってるわけや。

 そしたら自分がって言った時点でマイナス認めるから永遠に苦しむ。只々、それだけ。「楽しいやっちゃ」ばっかりで行かんと。「みんな楽しいやっちゃ」って。

宮野さん:無色透明だもんね。

河上さん:そうそう。

宮野さん:不離一体の自分。自分というのを真(まこと)の神さまと不離一体。そうすると無色透明。そうしたら自分ってもんは存在しないじゃない。ただこの世と肉体としてこの状態を遊んでるだけ楽しんでるだけっていうだけ。そうしたら「我」ってもんは存在しない。そうしたら不平不満がない。只々、おもろいやっちゃで、

河上さん:文句が出るわけがない。

宮野さん:そう、面白い事起こってるなぁ!次はどんな風に楽しませて貰えるのかな!ワクワクするなぁと、色んな事を只々、楽しむだけ。

質問者:きっちり楽しみたいと思います。(笑)ありがとうございます

河上さん:だからね、若い時は思い切り苦労せいって先生は仰る。どういう事か言うと、先生、だからこの村でもね、先頭に立って倒れるまで作業された。それどういう意味か言うたら、自分の力ではどうしようもないというのを自覚してほしいから。自分という意識の力では何事もできないというのが、それやったら分かるの。だから先生を見習って必死でやった僕は大丈夫やったけど、誰が必死で他の人がやらんかった言うだけ。いや、責めて言うてんちゃうで。それくらい若い時は突き詰めてやらないと。だから本当に夜寝られへんじゃなくて、(疲れ果てて)こてっとしか寝えへんくらいな、必死でやったもん。

 この村でもね、ご飯食べた後、みんなゆとり持ってやってるからね、「先生、甘すぎませんか?」とか言うたけど、これ以上やったらみんな逃げるしなとか言ってはって、それはそれで。いや、責めて言うてるんちゃうで、みんなに合わせて先生してくださっただけ。ただ甘くした分だけ分かりにくくなったいうのもある。

 それは仕方ない。でもそれくらいね、真(まこと)の神さまだけってのは、自分がどうこうしようと思ってる内は分からへん。でも殆どの人は何かあったら自分でどうこうしようと動くんよ。病気してもな、薬買いに行かなくちゃとか。お医者さん行かなくちゃっていうのは自分でどうこうしようと思ってるわけ。

 それが一番の問題やねけども、中々自分でどうこうっていうの消えへんね。それはもう色々と若いうちやったらガムシャラにするとね、自分ではどうしようもないんだって分かってくるね。

 分かってきたら本当に神さまに投げ出せるようになって自在になんねんけど、投げ出せないわけよ、みんな。神さまに投げ出せずに何とか自分で何とかしようとしてんね。何とか出来へんくせにな。それだけやねんけどな。

 それは本当に自分が必死で色んなことをせんと分からへん。やっぱりどっかで自分で何とかしようと思ってるから、何とかしようとやってやって失敗して失敗して初めて自分ではどうしようもないんだって分かって初めて悟れるねんけどな。

 だけども、そんなん言うてたら誰も悟れんからな、印可書読むだけで良いって言って、大まけにしてるから。でも印可書読むだけやけど、若いうちは必死でやれ!やらないとやっぱりどっかで若いだけに自分でなんとかしようとしてしまう。

 年取るとな、もう疲れ果てて動かれへんからね、自分で何とかも出来へんねんけど。若い内は体動くだけにな、ついつい自分でなんとかしようと思ってしまう。

宮野さん:優秀な人もだよ。

河上さん:優秀な人もな、勿論そうやね、そんなん別に、みんな○○けどね。

質問:確認なんですけども、お話を伺って、日常で自分の個性で求める気持ちとかマイナスを心で思うことっていうのがあるんですけど、やっぱりそうであっても、今のお話からお聞きして真(まこと)の言葉を駆使するってことに徹するっていうことは、そういう気持ちが湧いてきた中でも、自分で選んで印可書を淡々と本当に奉納し続ける。

河上さん:そうそう、もうそれしかない。

質問:それ以外の言葉を使うとしたら面白い…

河上さん:そうそう、楽しい状態やね。

質問:違う言葉を挟んでしまったら、間髪入れず次の瞬間に印可書を奉納するという。

河上さん:そうそう、それで仕事の上で追い詰められたら、「楽しい状況になってきたな」って、野球で言うと、2アウト無死満塁やから楽しいや。何もせんと完投でピッと勝ったらゲーム見たって楽しくないやん?どっちが勝つか分からんっていうのが楽しいわけでしょう?で、一緒で、自分の仕事が行き詰まって本当に出口がわからんようになった時にこそ、楽しい状態って思ったら出口も見える。楽しい状態のいうのは自分でどうこうしようと思ってないから。自分でどうこうしようと思っている時は、もう苦しい大変やって言ってるわけ。

 でも楽しい状態の時は神さま任しきれてるわけ。「もう八方塞がりで楽しい状態になってきたわ、神さまどうするのかな、楽しいわ」って言えるわけやね。でも自分でどうこうしようと思ってたら、こんなのもう自殺するしかないんちゃうんってなってしまうけど、最後はな。

質問:細かいところなんですけども、印可書を奉読する、面白いということが大原則っていうところはあった上で、今こそ神さまだっていうところが少し外れて言いずらくって、みんなお身内だと意識で印可書を奉読することは?

河上さん:良いです。それで良いです。

質問:すごい困ったなっていうことが起こった時に、印可書見ながら必死でちょっと助けてって、思ってる瞬間あると思うんですけど、とにかく必死で印可を奉納し続けるっていうことも時としてはありうる?

河上さん:あります。楽しいって思いたくても思えないくらいね、やっぱりどっかに自分で何とかしようと思うから詰まるんやけどね。どっかで自分で何とかしようというのがあるから自殺せんで済んでるしな、微妙なバランスのとこにあるから、「ひたすら自分で何とかしようというのは印可書奉読することだけ」って思い定めてやって下さい。そこが大事なの。「自分で何とかしようという意識は印可書奉読するだけ」って思ってたら、自分で何とか神さんのお手伝いしたいになっていくから変わる。

 自分で自分のことを何とかしたいと思ってるうちは苦しいよね。でも自分で神さんをお手伝いしたってなった途端に自分が消えるから楽になっていく。
 
質問:今質問された事とちょっと被るんですけれども、先ほどから伺ってると、自分でプラスと思ってる言葉にはマイナスがついてたりとか、自分が良いって思って言ってることが実はそうじゃなかった。じゃあ、これ言ったらどうやねん?とか、これ言ったらこうなって、ああなってとか、そうなる前に分からなくなったら…

河上さん:印可書。

質問:印可書を奉納しとくと。

河上さん:みんなね、自分が善いって思ってる基準があるでしょ?でも相手はその基準と違うんよ。それに何で気づかないかって言ったら、やっぱり無意識にね、みんな光や、みんな神さまやと思ってるから、自分の基準も相手の基準って思いたくなる。それは真(まこと)の本心、真(まこと)の神さまという自覚があるから余計そう勘違いするんだけど、でも自分の基準は偽物なんやな。

質問:偽物なんですか?

河上さん:そうそう、神さまの基準だけは本物や。それは印可書奉奉読して出てくる言葉だけを選んだらいい。そういうもの。

質問:自分の基準は今までの経験値みたいなのとか、そんなんで自分の基準を決めちゃってるんですか?

河上さん:そうそうそう、自分と他人分けだして、あの人の方が偉いとか色んな中の基準があるやん?あの人より私の方はここがええわとかね。あの人より私の方がここがあかんわとかいう基準の中でね、やるから「増々幸せになるよ」とかね、要らん事言い出すね。今が一番良いようにしかなってないのにね、増々も糞もないね。

質問:またその時に分け隔ては止めとこうってまた思っちゃう。

河上さん:止めとこうと思ったら分け隔ててんねんな。「みんな光や」やのにな、分け隔てって言葉は説明の言葉であって存在はしない、というのが分かったら良いんだけどね。「みんな光や」で分かれへんから分け隔てやめとかね、説明してるけどね。

質問:その言葉を使う事によって、分け隔てしてますよって。

河上さん:だから先生は本当にね、口で説明するのをやめられたわけ。諦めはってん。

 もう祈りしかない。お前もしっかり祈らんかって、むちゃむちゃ怒られてな、命をかけて、命を削って祈れって怒られてね、で、命を削って祈ったから後4年なっただけやけどな。別に大したことはあれへん、先生の指示通り。

 もうそれぐらいね、真(まこと)の神さまだけって持って行かないとあかん。
 
質問:日常生活で話をすることあっても、先生がされたようにその言葉じゃなくお祈りって?

河上さん:そうそう、だから普段から印可書を読んでいたら勝手にね、心が神さまに響くからね、ちゃんと正しいことが言えるようになる。

質問:あと世間一般でよく聞く言葉なんですけれど、聞くっていうか、私が勝手に聞いてるんだと思うんですけれど、いや、なんかこう会話聞いてたら、「なんかね、元気そうやね」って言ったら、「いや、そんな事ないね、あそこが悪くって、ここがどうの」って、それってやっぱりあれですよね、本当に神さまにケチ付けてると共に、

河上さん:大体50過ぎた人の特徴ね、病気自慢。「ここ痛いねん、あそこあかんねん」って病気自慢しだすね。そうしたら「いやいや。私はここ痛いよ」ってもっとあいての上を言い出すんだよね。向こうも負けんとこと思って「もっとここが痛いね」って言い出してね、大体、みんな50過ぎたら病気自慢する。「私はね、血糖の平均値がね6.5よ」とかね、「お前7か、あかんな。俺6.5やぞ」とかね、違うやろ?6以下でないとあかんのじゃとか思いながら聞いてるけど、面白いやろ?

 結局はみんな、自分と他人比較した中で自分が上に立ちたい、マイナスのことでも。

質問:自分でそういう会話だったら、お互い自分で自分を縛りにかかってるみたいなところもある?

河上さん:縛りにかかってるけど、大阪のおばあちゃんの場合はお互い投げ合って受け止めへんから完璧よ、発散するだけみたいな。全然相手の言うこと聞けへんから。聞いたらあかん。相手の言うこと、聞かんと違うこと言ってるもん。お互い違うこと言い合いして会話が成り立つのは受け流してるの、完璧や。現実無視の最たるもの。(笑)

質問:ちょっと見習うところは見習っていいですか?(笑)

宮野さん:先ほどのしたらあかんの話で、大阪のおばあちゃんの会話の中で乗ったらあかん、言ったあかんじゃなくて、それを「オモロイやっちゃ」なと楽しんどけばいいのよね。

河上さん:そうそう、楽しんでみてたら良いね。空間が歪んでるやんすごいなー。お互いの会話が全然別のことやのに成り立ってる。凄いやんとか。

宮野さん:いつも最後おさまる。

河上さん:収まる、不思議やな。何故か収まる。

宮野さん:技、大阪の。

河上さん:大技やな。
 結局みんな自分の自由意志で色んなものを選び取ってるわけや。その選び取った縁を通して、光を通して頂くだけなんでどの形でもいいです。怠ける形でも基本的にはいいんですよ。

 只、大変な役割になるだけです。だから何を選び取るも重要やし、でも選び取った姿を通して光を先生が通していかれるだけです。その時に体に不調が現れても、何が現れても文句言わずにね、使って頂いて良かったって思い直せたら大丈夫。どうしようって思った途端に、或いはこんだけしかお金ないから不自由や、どうしようなんて言ったらあかん。そのお金の中で喜んでたら良いの。

 でも、みんなの思う幸せと本当の幸せは違うところにあるからね。それが中々微妙なとこやね、小っちゃい子で説明したら分かりやすいね。小っちゃい子の幸せはね、アイスクリーム食べてお菓子食べて一日過ごしたら幸せや。そんなしたら病気になるやん栄養失調になってね。だから、お母さんはね、ご飯食べなさいってやるわけでしょ?これもあれも食べなさい。でもほうれん草嫌いや、あれ嫌いや」ってやるわけやない。

 小っちゃい子にとったらお母さんの言うことは不幸や。でも本当の幸せはちゃんとご飯食べることでしょ?小っちゃい子にとってね。それと一緒で、みんなも自分の要らん欲望を満たすことが幸せやと思ってる。でも本当はそれが苦しみや、というのが分からへんな。

 それは真祈り通して、印可書奉読通してしか気付けんから、「あんた、そんな思ってたらあかんで」って言ったって意味ないの。それって相手の自由意志縛ってるだけやから、余計反発も食らうし、どっちみち言うこと聞かへんて、どっちみちみんな好きにする。

 だから内側から響かすの、印可書で。だから内側からみんな変わるから、いつも先生は僕に中から段々と徐々に変わっていくから、焦るなって仰ってた。

 先生は先生の真祈りを通して、皆さんを中からどんどん変えていかれた。それが護摩の形を通して大きく現れて今に至ってます。全て先生の真祈りのおかげです、本当を言えば。でもそんな言うとね、先生とこの教えが一番とか、又、言い出すからあんまり強調しませんけど。そうじゃなくて、みんなの真祈りで全て変えて行けるという事を分かって下さい。

 みんなの印可書奉読で全てが変わる。それだけ。自分でどうこうしようとは思わないでね。

質問:はい確認です。何回も言って頂いている事なんですけれども、仕事をしていたり、一緒にいると自分と同じものが目の前に現れるということ、目の前に現れてしまって、ついうっかり真(まこと)の言葉を駆使するっていう事から外れそうになるんですけれども、そういう怠けている姿を取って頂いている人を見たときに、何かして頂いているみたいに、なんと面白いんだろうということを繰り返す。その事と印可書を奉納する事が神さまに対する絶対の信に…

河上さん:繋がります。兎も角ね、やっぱりみんなね、どんな仕事に対してもそうやけど、嬉しいってせえへんやろう?やっぱりちょっと嫌やなって思うやろう?そのちょっとが怠けてる人の姿で自分の前に出て来る。狡い人の姿で出て来る。難しい仕事になった途端にね、やっぱり喜んで出来へんやろう?ウワッて思うやん、そのウワッが危ないんやけど、それは仕方ないから印可書を奉納して消していってねって言う事です。

 何で怠けている人出るねんって言ったら、一番の理由がそこやね。仕事の内容は何でも良いんですけど、例えばこの村の敷地を全部掃いて綺麗にしてくださいって言われたら大変や。それを1時間でしなさいって言われたら「うわ、どうしよう?」って思うやん?その「どうしょう?」が危ない。その「うわ、どうしょう?」って言うかと言ったら、結果掴むから、何時も言うようにな。ちゃんとしなくちゃあいけないとか、どうこうしなくちゃあいけないとか勝手に自分で縛って、それで出来へんわって思うから、嫌やわってなるの。結果掴むからなるの。ちょっとでも出来たら良いんだからって喜んでいたら良いのね。

 要するに「元より後ろ指指されるのは覚悟の上や」って、人から何か言われると思うから結果気になるの。人は好きにしか言えへんって明らめたら楽になる。そしたら何でも喜んで出来るようになる。難しい事は難しい事なりに、簡単な事は簡単な事なりに。それだけやねんけどな。

 「うわー、どうしよう?」ってなるの、結果掴んでいるから。どうせ人は好きにしか言えへんって。上手い事やったって、ぼろ糞に言われて何ぼや。

 そういう意味でこの日本という国は凄い国でね、狭い因習に縛られた詰まらん国やって、みんなマイナスに受け止めるんやけど、日本ほど自由自在に動ける国はない、本当はね。それは真祈りしていないと分かれへん。

 先生が柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)であられた時にね、「言霊の幸(さき)はふ国」って言って言霊だけで出来た国っていう風にお清めして下さったから、出来てることやけどね。でもみんな自分の都合で良い悪いって決めて縛り合ってね、この日本はなんて狭い、しょうもない国やって勘違いしているの。それで余計神さまを否定するの。神さまの響きだけで出来た国っていうのが日本の国。それが「言霊の幸(さき)はふ国」って言うの。

 「あしびきの」って言う意味です。光が全てに広がるのを「あしびき」って言います。まあ、あんまり枕詞を解説しても歌のお話しでは無いので。

 まあ兎も角、結果を掴まない事よ。この現世の特性として光が七色に分かれて、現世で無い時は(虚の世界ではなくて真の神さまの世界では)七色の光をもう一辺戻すと、無色透明に戻るねんけど、この現世という物質化した途端に、もう一辺戻すと黒くなるのね。絵の具がそうやろう?

 プリズムで分けた光をそのまま戻すと無色透明に戻るね。でも一旦絵の具という形で受け直したら、絵の具は全部混ぜたら真黒くなるの、灰色にな。この世はそういう事。だから色んな国を一つに纏めて仲良くしようというのは良いけども、一緒くたにしようとしたらあかん。お互いにそれぞれの個性と特性を認めて喜び合ったら良いのにな。そんなん一緒くたにするんだったら、肌の色まで一生懸命色塗ったりややこしい事起こるわな。な?

 だからお互いの個性を楽しんで喜び合うのが良いのにね、何とか一緒にせなアカンとか、お給料を一緒にせなアカンとかね。「同じ給料なのにあいつ働いてへん」とか言うからややこしい。働けん人は働けへん人の働きがあるの。ゴミ箱としてのね。わざわざすることはないけども、して下さっているんやから喜んでいたら良いの。

 怠けもんってそうなんやで。皆のマイナスをゴミ箱に集めて自分で地獄に降りて燃やして下さるだけ。あんまりしたくない役割り。それが分かったら別にな、嫌やって思わへんのやけど、「楽しい人やな」って。



令和5年8月河上さん勉強会−2後半(20230813−2後半)

河上さん:でも、あくまで、例えば、怠けてる人の地獄に降りて燃やす役割でもゲームやからな。それを忘れたらあかん。みんな本物と思うからややこしいの。この現世(うつしよ)は全部ゲームやから。何時も言うように、全校生徒を赤と白に分けて競うようなもので。あくまでゲームやからね。良い悪いはないの、一切。全部楽しい演技、面白い演技、素晴らしい演技や。役者さんってそうでしょう?どんな大悪人を演じても、役者に戻ったら普通の人やん。名演技やん。この現世は常にそればっかりやねんけどな。でも、入れ子構造で色々と重なってなってるから分からんようになる。一番分からんようになる理由は、「自分とこが一番」って言った途端や。

 なんでこの現世というのは「自分のとこが一番」と言ったら分からないかと言ったら、みんな光やから。神さまの光で全部出来てるの、どの姿も。だから自分とこも糞もないの。それを光でないって否定するからよ。神さまでないって否定したら、自分とこが一番って言えるの。そしたら、この額(後ろの大シール)を作ろうとしだす。そしたら、これが一番ってなってくの、無意識のうちにな。形を作ったら、祭壇を作ったら、そしたら、自分とこが一番ってなるの。「自分とこ」って言った途端に神さまを否定してるんよ。それが分からないとあかん。「自分が」って言った途端に、神さまを否定してるの。

 だから、みんな光やったら、「自分が」の我も、「自分」の我も神さまか?みたいな分からん質問が出て来るのはね、「自分が」って言って神さまを否定してるの。なんぼ(どれだけ)みんな光やと言いながらも、「自分の我」と言って神さまを否定して言うから、そんな質問が出るの。

 みんな光やったら、もう自分はないの。だから、良い悪いもないねんけどね。みんな、楽しいおもしろい演技って終わるんだけど。

 そこが絶対の信って言うんだけど、中々みんな、自分のとこが一番って言いたいねんな。それは虚栄心やな。で、それが教えとか組織とか立てると、個人の虚栄心が寄せ集まってね、身動きが取れん位のすごい虚栄心になるの。で、自分の先生は一番って言いだすの。で、先生の方も、おまえら悟ってないって言いだすの。おまえら悟ってないんと違う、「みんな光」や、「みんな既に悟っている祈っている救われている」や。神さまを否定したら分からんようになる。

 それが、自分が動く、自分がなんとかする、自分とこが一番という「自分」や。それが、自分と出た途端に神さまを否定するから、何もかも分からなくなって苦しくなる。で、自分で神さまを否定してな、光がないないって言って、苦しい、闇だらけや、辛い、悲しいって、自分で目を瞑(つむ)って言ってるだけやねんで、本当は。

 みんな光やから苦しいもくそもないのに。まあ、ゲームの上ではな、苦しい苦しいがあるわな。勝ちたいから。でも終わったらしまいや。どうぞ。

質問:私も、「神さまがいるし、我もある」という風な感覚を思っていたことがあるんですが、今の話を聞いての確認で、その、「我がある」っていうのは、我があるっていう演技をしてるっていうことで…

河上さん:そうそう、そうです、そうです。

質問:「我のある自分」という「自分」も、一瞬一瞬掴んでるもので、掴んでは離したら消えていくものっていうこと…

河上さん:そうそう。演技してるんやけど、演技してる自分を忘れてね、演技に入り込んでるの。それを目覚めさせるための印可書なの。で、目覚めたらね、歌舞伎の世界の演技がそうなの、歌舞伎って本当に現実にはない演技でしょう?あるいは能。能とか言ったら、本当に現実的な動きをしないやん?特に能なんかやったら面を被るから、表情を表せないやん。その表せない面で色んな表情を演技するわけでしょう?それ位のものになってる時は、演技してる自分に気付いてるわけよ。

 だけど、いわゆる名演技っていうのはね、それになりきるやん。なりきって抜けれないようになるの、役から。という感じのことになってる訳よ、この現世はね。能や歌舞伎の状態やったらええねんけどね。それで、どうしても、例えば「自分は女」って思い込んでるわけ。あるいは、「自分は男」って思い込んで、そこからが苦しみやねんけどね。女って思った途端に男が欲しいってなるんよ。どの状態でもね。男って思った途端に女が欲しいってなるの。だけど本当は、両方持ってるの。演技をしてるだけっていうのが分かったら、結婚出來ても出來へんでも良いしっていう自在が出來るわけ。でも男って思い込んだら、結婚しないと、女って思い込んだら結婚しないと、結婚して子供を作らないととかね、要らんことを思い出して、そうなると、この一族を守らなくちゃとかね、自分でなんとかしなくちゃって、どんどん入り込んでいくの。で、それをどうしても、そこの入り込んでしまった自分に気付かないからね、

 普通は。名演技だから。本当の名演技だから、迫真の演技になるともう、なりきってるやん。なりきったら気付かへんの。それをどつき倒して気付かせるか、緩やかに気付かせるかやねんけど、どつき倒したら、たいがいみんな嫌がって逃げるからね。それで印可書で緩やかに気付いてもらって。この前はあなたは、8年後に死ぬって言ってちょっとドツイたけどね(笑)たまにはドツキます(笑)

質問:じゃあもう…すごく具体的な事例を言いますと、宿題をしない次男にムカつくけど、それはもう宿題をしない演技をしてるんやなと思って印可書を読むと。

河上さん:そうそう。印可書を読んでたら良い。だから、八方塞がりになっても、楽しい状態やなって思えたら、ちゃんと知恵が涌くから、大丈夫。結果さえ掴まなかったら知恵が涌くの。ところがみんな、せっかく知恵が涌いてるのに、そんなん恥ずかしいわとか、結果を掴んで、ようせえへん(出来ない)。惜しいの、神さまの方からちゃんと知恵を与えるんよ、八方塞がりになっても。その知恵の通りにやれば良いねんで。でも、それカッコ悪いわとかね、そんなん嫌やわとかって、また要らん自分の思いが出るの。結果を掴んで。それで、その知恵を消してどうしようもなくなって自殺ってなるの。たいがいの人は。だから印可書を読んどいて。大丈夫。S先生がちゃんとするし大丈夫。

質問者:ありがとうございます。

質問:ありがとうございます。先程のお話で、8月8日以降というお話があったと思うんですけれども、それで、今後は例えば私の場合ですと、最近コンサートに行ったりだとか、これからの予定としてはお能の鑑賞とかがあるんですけど…

河上さん:いや、楽しんだら良いんやで。

質問:あるんですけど、そこの先々で私は印可書を唱えるさせて…

河上さん:そうそう、それで良い、それで良い。

質問:それは、逆にそういう風な所に行き始めると、逆にこちらに来る機会が減ってしまったりっていうことはあるんですけど、その辺の兼ね合いはどういう風にすれば良いでしょうか?

河上さん:録音があるやん。録音を聞いたら良いやん、こっちの分は。そのコンサートやお能はね、時間が決まってるでしょう?でもその場に行ってお祈りする必要もあるからね。色んな形のお祈りが必要だから、どの役目も果たしたら良い。で、楽しまなあかんで。嫌々行ったらあかんから。それだけや。一番大事なのは嫌々行ったらあかん。例えば、神社にお祈りに行ってくださいという時でもね、嫌々やったら行かん方が良いの。楽しんで行ってください。どの形でも。

質問:ありがとうございます。それと、ごめんなさい、すみません。私の身体上の問題でやっぱり、ちょっとお祈りがちょっと足りない…

河上さん:いや神さまに使って頂いて良かったって思ったら良いの。

質問:で、ちょっと心身に不調きたすことが多々あるんです。

河上さん:不調という形で使って頂いて良かった、だけや。

質問:その不調を抱えながらも、そういう所に行くっていうのは…

河上さん:そうよ、楽しんで行ったら良いの

質問:よろしいですか。

河上さん:例えばね、先生は生活保護は受けたらあかんってずっと仰ってたわけや。でも生活保護を受けざるを得ない立場に追い込まれる人はおるわけよ。その形で色んなものを神さまの働きとして動くだけ。それが生活保護の形なのか病気の形なのかね、痛い形なのか、人によって自分の得意技のところになるんよ。その人にとって一番ラクな得意な分野で神さまが使ってくるだけ。だから、

 私なんでこんなに腕が痛くて上がらなくなったの、じゃなくて、それがその人が一番耐えられる得意なところやから、その形で神さまが使うの。それは肺の病気であろうがなんであろうがね、一緒よ。その人が耐えられるからその形で色んなマイナスを肉体を使って消すしかないからね。

 先生がそうだったでしょう?肉体に熱を出されたり、咳を出されたり、痰を出されたりして、五井先生もそうだったけれども、消されていったわけですよ。どうしても最初は肉体に現せざる得ない部分っていうのもあってね。今日は、ちょっともう足が動かなくてどうしようと思ったけど、そういうのがあるわけね。でもそれを喜んでいたら良いのよ。そうしたらスッと消えてくるの。で、消えなくても喜んでいたらよいの。その、先生がそうじゃない。一生、痰が詰まり、咳が出て、熱が出てね、本当に先生が元気な時って数えるほどよ。それ位ずっと一生ね。でも神さまに使って頂いて良かっただけじゃない。その先生を見習ってね、文句を言わずに頑張りましょう。

質問:ありがとうございます 実は私、今、朝方、河上さんを高速道路のパーキングエリアでお見送りした時に本当にもう、私も周囲の方々も涙が出る位、本当にあの…

河上さん:あんまり人に見せたくなかってんけど、ちょっとどうしても脚が動かなくってごめんな。

質問:本当にお脚がね、本当に私が見逃すのが逆にそれは人間としてどうなのかと思うぐらいの、そういうお痛みのお姿でいらっしゃったんです。

河上さん:あれな、8月でお盆やん。一杯ここに(足にみんなが)縋ってきてな。運転してて、してる時はまだ気付けへんのよ。降りた途端にな、もう氷のようになってアレやってんけど、こんなんでも喜んでたら、こないして、ちょっと動いてお話出來るようになるでしょう?

 ちゃんと神さまが良いようにするから、常に。自分にとって良いようじゃないよ、神さまにとって良いようにするからね。どの形でも喜んでたら良いの。そこが大事なの。どの形でも楽しいなって喜べたら良いんだけど、自分の都合で辛いな、痛いな、嫌やなって言った途端にな、そのマイナスの言葉でより辛くなるの。

 だから今日でも、足が動かなくて冷たくて痛くて歩きかねててんけど、かなわんなとは思ってないの。

 神さまに使って頂いてるからな、と思って。ちょっと目を瞑ってお祈りしながら歩いてからね、気付かんかったんや、ごめんやで。だけど、そないして喜んでたらこうして戻るからね。

 だから、それは先生から伝授を受けたお姿のすべてや。先生は何があっても喜ばれただけ。「これからますます良くなる」なんて、そういうマイナスの言い方はされなかった。何時も々、今が一番って喜ばれただけ。それを何時も僕は見せてもらってきた。先生は何時も言葉に表されないのね。形にして、姿で見せてくださるだけ。

 それを真剣に見るか見ないかだけやから。別に責めて言ってるん違うで。先生から言葉で説明して貰おうと思ってるから、気付かんかっただけや、みんなな。こっちは先生が、元々お会いした時から、滅多に口に言葉に表されないし、僕の場合なんか特に厳しくて、うっかり聞くでしょう?先生に。これはこうなんでしょうかね?とかね。そしたら、じっと目を見つめられるだけよ。

 (お前やったらそれくらい)分かるやろ、それ位みたいな感じでな。もっとお祈りせなあかんのじゃみたいに無言で示されて、常に常にそれやったから、分かっただけでね。

 大丈夫、みんなこれから印可書あるから。そのために印可書があるから大丈夫です。印可書を読んでいてください。はい、ありがとうございます

質問:今、自分の知識で分からなくて、ちょっと興味があって。「エントロピー」をなんとか自分の中で理解出來るようにしたいなあという感覚があるんですけれど。それって、「我」になって、そういう知識を広げるというのは避けて、お祈りの方に自分の時間をエネルギーを注ぎ切るというものが良いのか、自分がエントロピーを理解するっていうのが楽しいと…

河上さん:いや、したいことはな、どうしてもしたいから、そんなん好きになるよ。だけど一番大事なことは、知恵の木の実を食べないことなの。アダムがね、知恵の木の実を食べて、虚の世界に堕ちるんだけど、知恵の木の実というのは知識よ。で、知識を持つのは良いけど、知識に頼った途端に知恵の木の実を食べるということになるの。分かる?

質問:すみません、もう少し分かりやすく…

河上さん:要するに知識を持つのは構わないの。ああ、こんなことがあってんやなあ、ぐらいはね。だけど、それに頼ってしまうの、みんな。

質問:頼る?

河上さん:うん、過去の経験に基づいてどうにかしようとするの、自分が。それを知恵の木の実を食べるっていうの。知識と言うのは過去の経験や。その過去の経験に基づいて、自分がなんとかしようとし出したら、知恵の木の実を食べたっていうの。過去の経験の映画のように見ても良いけども、神さまが良いようにされるって喜んでいたら、エデンの園に居れるんよ。

 でも自分がどうこうしようと思った途端に、お前の好きにしてこいやって言って。エデンの園は神さまが良いようにするって喜べる場所なの。でも自分がどうこうしようという時はエデンの園には居れない。この地上に降りないとあかん。それで、みんな地上に降りて、自分でどうこうしようとしてもがくの。自分ではどうしようもないのに。そこだけよ。

 だから、エントロピーの法則を知ろうとするやん。分かろうとするやろ。じゃあ永遠に分からへんの。なんでか分かる?エントロピーの法則が分からないから、自分が分かろうとしてるやん。分からないと決めているから永遠に分からへん。分かる?

 勉強出來る人ってな、分からないって思わへん。何も考えへん。考えんと読んだらスッと分かる。だから、エントロピーの法則を知りたかったら、何も考えずに読んでみ?分かる。それで、分からなかったら、自分はこんなん必要ないんだと。逆に言うと、読んで分からないのは自分には必要ないなと思って印可書に戻ったら良い。

質問者:はい。ありがとうございます

河上さん:この知恵の木の実というところがね、中々みんな分かったようで分からへんねんけど、神さま以外に頼ったら知恵の木の実を食べたってなる。神さまだけやねんな。

 自分でどうこうしようと思うことを知恵の実を食べるということ、自分でどうこうしようというのは過去の経験に基づいて自分でどうこうしようやからね。すると知恵の木の実を食べたことになって苦しみが始まる。だって状況は刻々と変わるわけでしょう?過去の時と違う状況やのに、その過去の事例を当て嵌めてどうこうしようとするんやん。それでみんな上手い事いかへん。発明、発見って過去の事例とは違う、まったく別のことを発見するから上手く行くんよ。それは知恵を得てるの。分かる?

質問者:はい。ありがとうございます

河上さん:だから、聖書はちゃんと正しいことを言ってるねんけどね。受け取るほうが分からへん。それは自分でどうこうしようと思って受け取るから。神さまが良いようにされるって喜んで聖書を読んだら全部分かるねんけどね。

 あと4年しかないからね。聞きたいことは聞いといてください。はい、どうぞ。

質問:7月の護摩が終わった後に、深夜の勉強会はもう、体がもたないからされないということで、僕は聞いたんですけども。

河上さん:はい。あと4年、何があっても持たさないとあかんからね。もう無理はしない。ただ、あと4年のうちに、出來るだけ多くの人にと思うから、不定期でする場合はあります。

質問:番外編のような。

河上さん:そうです。ちょっと自分の体と相談してやから、いつって決められないだけです。それで良い?

質問:はい。あとは、有名な方に…

河上さん:それはずっとやってます。はい。

質問:うまく広がっているということですか。

河上さん:いわゆる、あんまり有名な人というのは、あいつあんなところであんな話聞いてるって後ろ指指されるでしょう?だから凄い有名な方だけど、親しい方ばっかりが集まって頂いて、してます。もう、それは世界的な超億万長者とかね、一杯ありますけども、どの方もして頂いています。どの方もお金を出そうとされるけど断っています。そんなの必要ないからね。真祈りが必要であってお金は要らない。という形です。それとは別に、出來るだけもうちょっと、なんとかしようとは思っています。

質問:色んな分野の有名な方が集まられているんですね。ありがとうございます

河上さん:だから、ちゃんとすべてに真祈りが響くようにね、先生の深慮遠謀の中で、色んな人脈を僕は作らされてきたんでね。だから、「え?それをせな(しないと)あかんのですか?」みたいな感じの中でね、先生がせえっ(しなさい)て言うことは全部したわけです。例えばコンピューターのプログラムとかね、色々あります。どれもそれも、「ええ?そんなん要るん?」という風なことでも、先生がせえって言うからして、それが今にあるだけです。

質問:じゃあ、今後は番外編に、楽しみにしておきます。

河上さん:ああ、そうしてください。それで、ちゃんと録音を出すようにしますから。少なくとも、録音は聞けます。

質問:まあ、今も4年5年と過去の音声があるから、それを興味があれば聞けば良いですね。

河上さん:勿論そうです。

質問者
:ありがとうございます。

質問:印可書の言葉の中で、かっこ付の箇所ありますが、「新たなる真(まこと)の神さまの座に立つ真(まこと)の本心…」、(真(まこと)の神さまに立つ…)、そして(恩返しに立つ真(まこと)の本心の…)、ということがありますけれども、先生の話を聞いていますと、恩返しが大事やとよく言われていまして、あまり、「神さまの座」とか…

河上さん:「恩返し」っていうのがみんな分からないでしょう?「恩返しするためには、神さまの座に立たなあかん。」って言っても分からないでしょう?そうやねんけど。色々あるけど、入れ子構造的にわざわざ組んだの。自動で吸い込んでくれるようにね。そういう意味です。だから、恩返しが分かったら悟りなの。その恩返し、恩返しっていうのは因(もと)の心に戻ることなの。な?だけど、みんな恩返しと聞くとね、恩を受けたから、何かお返しせなあかん位にしか思ってないのよ。本当の恩返しというのは因(もと)の心、漢字がそうやねんけど、因(もと)の心を恩っていうの。因(もと)の心に戻ることや。そしたらね、こないして説明するやん、そしたら、「因(もと)の心に戻ることやねんな」で終わるわけよ、みんな。それをもうちょっと入れ子構造に組み込んで、巻き込んでいきたいから、色々としてますけどね。

 それを別の言葉で言うと、「宇宙神ありがとうございます。」に不平不満も不安も全部な全部投げ込めというのも恩返しなんです。

 要するに一切文句が出なくなったら恩返しが出來ているの。ちょっとでも文句とか、あいつ怠けてるとか思ったら恩返し出來てないんよ。もう、それだけよ。あるいは自分とこが一番って言ってね、自分が出たら恩返しが出來てないの。「自分とこ」という「自分」も神さまに返すの。自分では自分を消せないの。神さましか消せないの。だから何が出ても、神さまに返すのを恩返しというの。それで、その返すというのは、神さまの座に立たないと返せない。神さまの座というのは印可書奉読になる、今ではね。

 ということで、色んなことを入れ子構造的に組んで、光を和らげて過去にすることによってね、光をちょっと和らげられるから、色々と深慮遠謀のもとに、大変色々と苦しみながら作りました。

 困りながらというか悩みながらというか。悩みながらでもないんだけど、楽しんで作ったんですけどね。

 コンピューターのプログラムでいうと、サブルーチンを重ねて、エクセルでいうとマクロ的な働きをするようにね。自動運転が出來るようにしたの。

 それで、印可書の最初一行を読むだけで全部が響くように、ちょっと組んでんけどね。だからまあ、楽しみながら印可書を読んでいてください。印可書読んでたら良いことがあるし、ぐらいで良いから。

質問者:はい。ありがとうございます

河上さん:本当、恩返しが一番分かりにくいねんな、ある意味ね。で、先生が、恩返し恩返しって言った時に、「いや、恩返しって具体的にどうするんです?」ってしつこく聞く人もおらんかってな。聞くのも恥ずかしかっただけやねんけどね。みんな虚栄心があって。本当は虚栄心をかなぐり捨てて、「先生、そんなん言うけど、恩返しってよく分からんわ。」って言えたら良いねんけど。言える人が少なかった。それ位虚栄心の中でね、大変だったんですけど。

 そりゃ、虚栄心があって消せないぐらいは、先生は百も承知で。それは、先生の真祈りで消すとなって、ここに来てるわけよ。僕の話が分かりやすいと違うの、先生の真祈りでみんなの虚栄心が消えて、沁み込むようになっただけ。ここを勘違いしたらあかん。

 河上の話が分かりやすいん違う。先生の真祈りでみんなの心の壁が消えたの。で、それを印可書で増幅してな、あ、印可書と違う、護摩で増幅して、ちゃんと先生の予定通り来た。だから護摩が中止にならなくて良かった。中止になりかけて焦ったんですけど。

 だからもう、何があっても神さまにお返しするというところが大事やねんけど、やっぱりどこかでね、自分で何とかしようと思って掴むんよ。ここが問題なの。「もう八方塞がりでどうしようもないから、楽しい状態になったわ」って言ったら掴んでないの。でも「八方塞がりで、なんとかしよう」と思うと掴んでるから、恩返し出來てへん。

 これも恩返しやねんな。楽しい状況になってきたわという時は恩返し出来てるの。そしたら神さまの知恵を受けれてなんとかなるの。

 でも、自分でなんとかしようと思ってるから、神さまの知恵が降りてきても、そんなんカッコ悪くて出來へんわと思うねんな。で、思った途端に全部崩れて、またややこしくなって。余計ややここしくなるねんけどね。だからもう、ボロクソ言われてなんぼや、何でも楽しい状況やって開き直れたら良いねんけどね。「なるようになるわ」ってやつやね。

 まあ、別の言い方で、「何時も神さまが一番良いようにするわ」。その中には自分がボロクソに言われることも入ってるわけよ。「ボロクソになっても神さまが良いようにするわ」、や。その結果を掴まないというところが恩返しでもある。

 結果を掴むということは自分でなんとかしようと思ってるから恩返しにならないの。分かる?恩返しってそれ位奥が深いの。自分がなんとかしようと思ってるうちは恩返し出來ていない。

 でも、そんなんしたら恥ずかしいわとかね、結果を掴むというのは自分がなんとかしようと思ってるの。神さまがするってやったら、何を言われたってやるよ。先生の言う、「もとより後ろ指刺されるのは覚悟の上や。お前もボロクソに言われるのは覚悟の上やろう!」とかって言って、よく怒られてん。覚悟してるのにまだ気になるか!とかって言ってよく怒られてん。

 逆に言うと、その結果ね、自分の身内が崩れていくのも覚悟の上でないとあかん。大きく神さまのためだけに働くから、自分の身内とか自分の一族なんか気にしてたらあかん。そりゃ厳しいもんやで。

 そんな中でもな、あの人、今、どこに誰と住んでるやろうなとか、しょうもないうわさする人もいるけど、放っといたら良いの。言うだけマイナスを掴んではるの、みんな。

 マイナスを掴んで自分で地獄へ降りて行くの。先生が、噂話はあかんって言ってるのにね。推測でものを言ったらあかんってあんだけ先生が言ってもね、分からない。この神書にも書いてあるわ。噂話はあかんっていうことはな。でも分からへん。噂話はな、噂話を出す人よりも、その話を聞いてそれをもう一遍言った人の方が罪が重い。マイナスが重い、多いねんな。要するに(聞いて、言って、想像して思いめぐらすから3倍に)増幅してるから。それ位な、しょうもない噂話に乗ったらあかん。神さまが良いようにしてるだけ。

質問:例えば、テレビのニュースのテレビで見たのっていうことを話題にするっていうのは、それは噂になりますか。

河上さん:なるなる。だって、ニュースって本当か嘘か分からへんやろう?なあ。特に今インターネットが出てね、いわゆる色んな外国のニュースが聞こうと思えば聞けるわけやん、英語やけど。文字でも見れるわけやんか。自動翻訳もあるわけや。そしたら、外国のニュースと日本のニュースを比較してみ?全然内容が違うから。だけど、外国のニュースが正しいとは限らへんで。そうやろう?それ位ニュースといえでも、まあ、適当や。その適当に合わせて適当に逃げとかな。

質問:凄く凄く厳密に言うと、例えば、海外の日本人の野球選手がホームランを打ったんやで、とかいうのもあんまり?

河上さん:いや、喜んでたら良いの。喜んでたら良いわけやんか。良いニュースは喜んでたら良いねや。だけど、悪いニュースをな、どうこうって言ったって、本当のところは分からへん。録音には絶対言えん位、中々ドロドロしたもんや。知らぬが仏が良くてな、知ってるとそれをお祈りして消して行かなあかんから大変やで。分からん方がラクやで。

質問者:はい。ありがとうございます

河上さん:これで、恩返しも分かったやろう?自分でどうこうしようと思ったら恩返し出來てない。自分のとこが一番と言ったら恩返し出來てない。何時も々、神さまが一番良いようにしてる、やねんけど。

 そのためには、本当にね、自分、先生で言うね、人の三倍働きなさい、人の十倍働きなさい、や。すると、自分でどうこうしようという意識が消えるから、ラクやねんけど。まあ、そんな厳しいことを言ったら、みんな付いて行けないから、ひたすら印可書を奉読してください。そういうことでお祈りをして終わります。ありがとうございます


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