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5月勉強会 by 河上 [Mail] 2023年05月17日(水) 18時54分
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令和5年5月河上さん勉強会−1前半(20230514)

質問:今日は質問無いです。

河上さん:令和の5年の5月5日を過ぎたんでね、本当にみんなにオマケがないですね。基本的に先生が行かれた後は、先生はみんなに任せていかれたんですね。人類をどうするかを、それ自覚するしないは別にしてね、もう「大丈夫」って言って行かれたんですね。みんなが先生としての働きが出来ることを「大丈夫」って言って行かれたわけで、それは素直に「はい」って受ければ出来るわけ。

で卑下慢になればね、出来ないつもりになるだけ。でも先生と縁のあった人はみんな先生の働きをするというか逃れないというか、逃げれないっていうか自分で選んで先生と一緒に地上に降りて、「人類を救う」という先生の大悲願のお手伝いをしますということで、覚えてるかいないかは別にしてね、降りてきたから、この先生の周りに集まってきた。

色んな人の縁(えにし)を手繰(たぐ)ってね、もう探しに探して集まった人もありますし、すぐそばに縁(えにし)があってすぐ来られた方もあります。色々ですけれどもね。どの状態でも先ず自分が人類救済のために神さまの働きのお手伝いをしたい、ていうそういう悲願を立てて、この肉体を持ってきたわけです。

 その一番大事なことはね、その肉体というのは分け隔てる意識を持たないと持てないんですよ。だって他人になるでしょ?親子でもね。でもまだその分け隔ての意識の中に全て一つの自覚をするためにお母さんになった人はね、子供だけは特別じゃないですか?特別じゃないお母さんもいるかもしれないけど、ね、やっぱり自分から生まれた分身ということで、一つという意識が自覚しやすいですね。女性はそういう意味では悟りやすいんですけれども。でも我が子だけってなったらまた崩れるから、悟りやすいけど難しさがありますけどね。

 どっちにしても、その自分と他人の意識を分ける段階でね、色んな役割をみんな選ぶわけですよ。自分と他人の意識を分けるっていうのは何かと言うと虚栄心です。この虚栄心があるから肉体を持てたんだけど、でも虚栄心を捨てないと人類救済に立てれない。先生の働きが出来ない。先生のお手伝いが出来ないというジレンマにあるわけですね。

それを先生は一括して「みんな光や」とかね、「みんなすでに祈っている悟っている、救われている」て言って一括されるわけです。それを質問に来ればいいんだけれど、「みんなって言うけど全てっていう意味ですか」「みんなってどういう意味ですか」と聞きゃいいんだけど、わざとね、松下先生はみんなって言ったけれども、本当は全てなんですけれども。「全て光や」がほんとだけどね。みんな光やっていう言葉で言われたわけですけど。

 その虚栄心の部分だけがね、いつまでもみんな離せなくて、なんか訳が分からんうちに先生がなくなられた、訳が分からん内にここまで来てしまった、いう人が今でもやはり大半だと思うんですよ。

 その虚栄心があると何が邪魔するかって言うと、そうですね野球で言うたらね、ホームランバッターとかエースピッチャーとか、いわゆる主役ですね、主役をみんなしたいわけ。でも野球ってチームがあって先頭バッターも一番打者もいるし、8番打者もいるわけですよ。で、どの人もみんな支えているからチームとして勝つわけでしょう?

あるいは映画で言うとね、主役の方だけが要するに主役・準主役、2,3人ですよね大概。その3人だけが映画の中でね、演技したって面白くないわけでしょう?後ろにいる美術担当の人とか、道を歩く通行人とが、あって、はじめて映画として一つの世界作れるでしょう?

どの働きも結果として掴んだら、主役がすごいけど、どの働きも大事な働きっていうのを気づくのは虚栄心があるかないかで分かる。虚栄心があると、私はこんだけ要するに耳かきの働きがダメだと思うのね。でも虚栄心がなかったら、耳かきでしか出来ない働きっていうのがあるわけでしょう?

 スコップでは耳の掃除を出来ないからね。そういうことが、虚栄心がなければ分かる。

 虚栄心がないっていうのは何かって言うと結果を掴まないです。結果を掴まないっていうのは何かって言うとね、先生のおっしゃる過去を掴まない。現実を掴まないっていうことです。それがわかったら神さまの働きなんです。で、神さまの御働きはこの前の光の勉強会でも出てましたけど、谷神(こくしん)って言ってね、いつもあちらの世界とこちらの世界を逆裏(さかうら)に出ますので、神さまの大きな働きっていうのは、(この現世→うつしよでは)奥へ奥へ入っていくように見えるんですよ。これを天(あめ)のおしお、天(あめ)のおしころって言うんですけれども、古神道ではね。

 だけどその奥へ奥へ入っていくような働きなんですけど、これは真(まこと)の世界で言うと、どんどん湧き上がってくる働きなんです。その湧き上がる働きの部分をね、どれだけ、なんて言うんですかね、自覚出来るかが、虚栄心が無い・あるなんですよ。虚栄心があると、もう比較しているからね、目立たない自分が嫌んです、になっていくわけね。

 肉体を持ちながら真祈りしないと駄目だから、虚栄心を持ちながら真祈りしないと駄目なんです。ここが難しいところなんです。虚栄心を持つんだけれども、虚栄心にとらわれないっていう、一番難しいところをしなくっちゃいけない。

 みんなね、もうこんなしんどい生活やったら死んだ方がマシだって思うのね。死んだ方がマシだって、本当は死んだ方が大変なんだけれどね、死んだ方がマシだと思うのは結果を掴むからなんです。虚栄心があるからなんです。虚栄心がなかったら別にどの状態でも文句はないからね。

 そこなんですけれども、でも真祈りをするためには虚栄心を持っててもらわないとだめなの。なぜかと言うと人類が虚栄心を持ってメクラに入ってっているわけね

 。虚栄心のために不安がなって喧嘩するわ、戦争するし、会社でもね、あいつサボってるとかね、あいつ大して働いてないのにね、給料をようけもうてる(たくさん貰っている)とか、あるいわこんなに仕事させてるのに、こんなちょびっとしか給料くれへん、ていう文句は虚栄心のせいですよ。

 それは本当はなくさなくちゃいけないんだけれども、でもこの世に降りてきた真祈り人の使命としては、その虚栄心を持ちながら真祈りしなくっちゃいけない。一番難しいところを皆さんにしてもらわないといけないんですよ。

 先生は虚栄心が一切ないからね、先生の真祈りだけでは、人類を清められなかったんですよ。いつも言うようにね、怒る心、ねたむ心を通してしか、怒り心、ねたみ心に光通らないからね。もちろんその怒り妬みというのは虚栄心があるからよ。だから虚栄心を持って真祈りして貰ってこそ光通るからね、自分にまだまだ虚栄心あると自分を責めるんじゃなくって、神さま一番いいようにしているから、この虚栄心のある自分、食欲のある自分、性欲のある自分、お金に執着のある自分、色々ありますよね、みんな、それぞれね。あの権力に執着のある自分、とかがありますけれども、その自分を通して光がとおすんだと覚悟を決めて頂きたいですね。

 「宇宙神ありがとうございます」の祈りでいく時は、虚栄心を消していかれないんですよ。なぜなら「宇宙神ありがとうございます」の中には、自分の全てを投げ込まないと真祈りにならないんですよ。で、自分の全てを投げ込むいうのは、虚栄心が無い状態なんです。なぜ先生が印可書を残され、もうちょっと柔らかい印可書にしろって言われて、「本物が現れた」と喜ばれてね、印可書って言われたのは、その虚栄心がある状態で光を通して貰いたいたいから。

 だから印可書読んでいる時は真祈りとするよという先生と神さまの約束のお陰でね、虚栄心があろうが、だから食欲があろうが、性欲があろうが、ねたみ心があろうが真祈りが出来るわけです。で、その状態で是非、印可書を奉読して下さい。印可書を選べれる人はね、自由意志で。

 選べない人は、もう「宇宙神ありがとうございます」にね、自分の全てを投げ込んで下さい。その「宇宙神ありがとうございます」に自分の全てを投げ込むというのは、どういうことかって言うと、いつも言うように本当に「宇宙神ありがとうございます」に全てを託さなければいけないんですよ。すると何が起こるかって言うと、一切文句を言わないってなる。不平不満が出た時は、投げ込めていない。

 それでは「宇宙神ありがとうございます」をただ唱えているだけで、真祈りにならないわけですよ。それを先生は一意専心とかね、命がけでとか、色んな説明でね、ひたすらとか淡々とか色んな説明で言われるんですけれども、わざとね、自分のすべてを投げ込むとかいうことは具体的におっしゃらなかったです。

 それは聞きに来てもらいたかったから。聞きに来てくれるとその人をぱって引き上げれたの。でも誰も聞きに来ないのね。それでここまで来てますけれども。

 今はもう本当に時間切れでね、令和5年5月5日を過ぎた時点で一切のオマケはもうないんですよ。今までだったらオマケで、まあお祈りしなくても、まあまあもうちょっとなんとかみたいながあったんですけれども、もう真祈りをしないとどんどん病気になって死ぬとか、色んな運命に巻き込まれて死ぬとかね、それも苦しんで死ぬんですけれどもね。要するに翻弄されて運命に翻弄される、病気になるのもそうですけれども、翻弄されるっていうのは、苦しんで死ぬっていうことです。

 よく、朝見たら、お風呂入って亡くなられて、あの人は大往生やって勘違いしてますけど、そのお風呂の中ではもがき苦しんでいますから。もがき苦しんでいるけれども、まだ人の世話をしたりね、助けてきた人は最後は柔らかい死に顔になっているだけで、人をいじめてきた人は苦しんだ死に顔になって死んでいます。

 それもいつも言うように、この世で起こることは一億分の1で済むからね。神さまがその人にとって一番良いようにされた結果なんで、「あの人ももがき苦しんですごい形相で死んだからダメだ」ではないっていうことだけ、先ずわかってください。それだけは分かってください。どの結果もその人にとって一番いいように神さまはされるわけだから。

 だから例えば印可書を自由意志で選び取れない人は、選び取れない役割を持っているわけです。で、どうしても印可書を選び取れない人に光通すためには、その人の存在が必要なわけでね。どの存在も必要でない存在はないんだということをね、先ず分かれば、「みんな光や」っていうのが分かってきます。ここが大事なんですよ。

 あんな奴おってもおらんでも、しゃないわ。みんなついつい思うわけね。「こんな勉強せえへん子は私は私の子ではないわ」って叱るんだけれども、そうじゃないのね。そこが大事なんですよ。どの働きも必要でそうされているだけなんです。その働きが必要でされていると分かったら、もう次の働き出来るから、どんどん変わるんですよ。

 でも「こんなんしかしよれへん(こんなことしか出来ないやつだ)」って言うとね、この働きから逃れないの。それで一番この現世の厳しいところっていうか、面白いところは、相手が怠けているように見えてるでしょ?本当は自分が怠けてるんですよ。

 だから言えば言うほど自分がね、動けなくなっていく。だからその会社の上司っていうのは大概ね、成績あげて業績上げて上役になるわけなんですけど、上役になった途端におかしくなっていくんですよ。それはなまじ自分が仕事ができたからね、出来へんやつをボロクソに言うわけ。「こんなんしとったらあかんやろ、あーや、こうや」ってね。言うた時点で自分がどんどん動けなくなる。

 どういうことかって言うとね、自分の中にないものは見えないですよ。分かる?だから自分に怠け心とかずるい心があるから、相手のずるい心とか怠ける姿が見えるの。だから先生から見たら、ずるい人とか怠けているという人はいなかったんですよ。先生にはないから。よくあの人あんなんで言ってきてもね先生、「ふんふん大変やな」って言ってやっぱり一番最後には、でも「みんな光やからな」とかね、「みんな神さまやから」っておっしゃるんですよね。

 でもそれでは光を通しきれないから、後みんなに任したよ、自分がいてたら自分にみんな頼ってくるだけで意味がないから、神さまが引き上げてくれて行っちゃうみたいな感じで、もう1年だけってお願いしたんだけれども、まあダメでした。本当はもう1年延びる予定だったんだけれども、もう色んなことでね、色んな結果も、ああいう結果になりましたけれども。まあ全てよしですから。

 それで地球の運命も人類の運命も真祈り人が選ぶ通りになります。人類の自由意志に神さま任されているけども、その自由意志の(人類の運命の)総結集は真祈り人の自由意思に任されているんでね。

 もうね、皆さんの選びとられる通りになっていきます。それをよく分かっていってください。

 だから何が言いたいかって言うと責めててもいいけどね、印可書に立ち戻ってねっていうことです。もうそれだけです。難しいことは言いません。

 どの状態でも今の自分の個性が必要で神さま残しているわけですよ。個性と言うか癖ね。人を責める癖とか怒りっぽい癖とか、みんな自分で自分が一番よう知っているわね。それを残してくれているの神さまはね。消そうと思ったら簡単に消せるわけです。神さまは全知全能やからね。

 いつでも消せるのになぜ消さないか、必要だから。それを通して祈ってください。ともかく印可書に立ち戻ってもらったら光が通るんでね、この繰り返しでこれからお願いします。

 本当にね、地球上で人類の人口があと9割減らないと駄目なくらい、もう地球がボロボロなんです本当はね。でも真祈りしたら、みんなで助け合って、なんとかなるようにはなるんです。

 どれを選ぶかも、もうみんなの自由でね、みんなが神さまなんかあるものかっていう人が49%を超えて51%になった途端にね、種まくでしょう。今やったら田植え始まってます。田植え始まったけど秋になっても実がならないってなる。本当に食糧危機が始まって、食べ物ないとね、真っ先に争うのね、人間て。奪い合いが始まるから。もうすごい状態になりますけどね。

 仮になってもね、真祈り人はその現実を掴まずににね、1回は掴んでもいいんですよ、掴まないと光を通せないからね。「わー、大変やねーあんなんして」って1回は掴んでくださいね。でも掴んでください言わなくても掴むから、大丈夫やから。その瞬間に印可書に戻ってもらったらいいです。で、そうして光を通せばどの状態に傾いても(良いように)戻ります。それだけなんです。だから真祈り人次第です。

 そんなん言ったってそんな100人もいないじゃないかってみんな思うかもしれないけども、その最初の100人が大事なんですよ。お猿さんの世界でね百匹目のお猿さんが芋を洗ったとたんにね、全世界のお猿さんが芋を洗いだしたっていうのがあるじゃないですか。あの数をちゃんと先生は用意をして行かれていますから。大丈夫です。もうただただそれだけで、どんどん逼迫してしまって追い詰められて凄い状態ですけれども、あっという間にどっちかに傾きます。どれもみなさんが選べるわけ。そういう状態に入ります。只々、それだけです。

 もう具体的に報道というか、本も出てね色々となっていますけれども、人類の1%の人がね、8割の富を握ってるんですよね。残りの9%の人が、残りの1割の富を握っているんです。要するに人類の10%の人で90%の富を今握っているんですよ。大半の人はどれぐらいの富かって言うたら3%も持っていないのね。そんな状態なんです。それって何かって言ったらお金なくてもみんな生きていけるやんっていうことですよ、逆に言うたら。わかります?一部の人が富持っているんでしょう。ほとんどの人はお金を持っていないわけや。でもみんな生きていけるやん。楽しく生きてるやん、映画見て、テレビ見て、な?ということはお金要らんねん、っていうのが一瞬でみんな気付く寸前まできた。

 で、お金が要らんねん。っていうことは真祈りに入れるって言う事や。みんなお金を稼ぎたくって「そんなお祈りどころやあるかい。仕事じゃ。」とかね、「明日食うご飯ないねらんから、先ず、働かにゃ」とかね、「お祈りの前に先ず働かにゃ」とかなるわけでしょう。それがお金が要らんのやったらもっとワーてなる。

 そのためにはどの人の働きも必要なんだということが、みんなが自覚出来るようにならなくっちゃいけない。要するに「怠ける人の働きも必要なんだ」っていうこと。

 例えばあの人生活保護を受けてってなりますけれども、生活保護を受けた人は生活保護に関するマイナスを一切背負うっていう覚悟なんですよ。本人の自覚は別ですよ。そういうもんなんです。何を選ぶかもみんな自由なんだけれども、先ず、先ず印可書を選んだらいいのね。

 そしたら神さまを選んでいるから自在になっていくんです。それで印可書を選んだ人が自在になっていくと、みんな真似するのね。印可書を読むのがいいんだみたいな。それで一気に変わります。それがこのわずか100名足らずの真祈り人の力でなりますからね、大丈夫です。大丈夫だというのを知っていて下さい。そこが大事なの。神さまが一番良いようにするから大丈夫。

 でも肉体側がね、肉体人間側が印可書を選らばないと動かないんだっていうのも。要するに神さまがなんでも出来るわけですから、一瞬に清めて理想世界を作るのは簡単なわけですよ。

 でもそれをやったら、先生がいつもおっしゃるように、みんなロボットだって。ロボットになっちゃうわけ。それは意味がないのね。動物たちの世界はそうなんですよ。動物たちに自由意志はないの。神さまのほうでパンパンで決めて、動いているだけなんです。

 それは神さまにとったら、まあ本来の本当の姿を現していないわけです。何故かって言うたら、神さまの本当の本来の根本的な姿は絶対の自由なわけです。自由意思ね。だからみんなが自由意志で神さまの御心を選び取ってくれたら本物なんです。

 何故ならみんな神さまの命だから。真(まこと)の神さまそのものだから。真(まこと)の神さまを分けて表しただけだからなんですよ。真(まこと)の神さまの本質という絶対の自由を表してくだされば本来の姿に戻るんです。ただ絶対の自由の表し方がね、わからなくてみんな苦しんだという事です。

 でも印可書を選び取ったら絶対の自由とするというね、「何処でもドア」を先生が作ってくださったからね、印可書さえ読んだら、もう真(まこと)の神さまになっているという、「何処でもドア」です。だから印可書を通してね、いつも真(まこと)の神さまのすべてに立てるという、真柱を立てる行為をね、してくれたら大丈夫です。神さま働きという、そういう絶対の自由の完璧な働きが起こるんですよ。

 その絶対の自由を分かるか、分からないかなんですけどね。みんな自分の好き自由にやってると、好き勝手にやってると思うんですね。本当は好き勝手にしてないんです。運命に翻弄されているの。わかります?

 このここが一番難しい分かりにくい所なんですね。絶対の自由と好き勝手にやっているは別なんです。例えば食欲があって、もうどうしても色んなものが食べたい、あるいは性欲があってどうしてもあちこちでエッチをしたい、あるいは金銭欲があってね、人を騙してでもどんどんお金を稼ぎたい、というのはこれは絶対の自由じゃないんです。これは自分が積み重ねてきた言葉、マイナスの言葉。

 なんでマイナス言葉を自分が作ったかって言ったら肉体を持つためにはマイナス言葉で形作らんと肉体が出来ないから、仕方ないんですけれども。そのマイナスの言葉のエネルギーに押し流されているだけ。運命に翻弄されるって言うんですけれども、だけなんです。みんなが好き勝手にしている状態は。

 で、絶対の自由を発揮するときは、神さまの御心が発揮出来る時は、絶対の自由です。それで、じゃあ神さまの御心を発揮したら絶対の自由なるんやな、どうしたらええんや?になったわけですね。絶対の自由がわからんのに「絶対の自由を発揮せえ」言われてもわからへん。

 前はそんな言われても「先生絶対の自由って何ですか」って聞きに来てくれたら伝授できたの。でももう伝授いちいちしていられないから、印可書を出されたんだけれど、誰も選べへん。約12名しか選ばなかったんで、色々と先生が苦慮されて「宇宙神ありがとうございます」にしてみたんだけれども、やはり選び取れない。「宇宙神ありがとうございます」になり切れない。で、もうちょっと柔らかい印可書ということで、作ってですね、「本物が現れた」って喜ばれて、「もうこれで安心や。任したで」ていうことで今の印可書になっています。

 だから今の印可書を通して絶対の自由を発揮できますから。虚栄心を消そうと思わずに、出た時点で楽に印可書を読む。それを淡々と奉読してくださいとかね、色々手を変え言葉を替えして説明していますけど、そういう意味なんですよ。

 だから自分はまだまだこんなんで駄目だと思ったらあかん。ダメじゃなくて「こんなんで面白(おもろ)いわ」で印可書読んでくれると、うまくいきます。ここ大事だからね。私もまだまだあの、ご飯いっぱい食べたいの、色々とエッチしたいの、「ダメだ、ダメだ」って思った時点でアウトなんです。「なかなか面白い自分」と思って印可書奉読して。まだまだこんなん思える面白い自分と思ってね、要するに面白い演技ができている自分なんですよ。「ダメだ」なんじゃない。だって名演技でしょう。ダメだって言うから名演技を否定しているからややこしいなる。

 みんな名演技をしているだけやからね。真(まこと)の神さまが。だから面白い自分だと思いながら印可書読んでください。そしたら一気に、本当に全てが一気に変わりますから。本当に毎日が大奇跡の連続になります。

 まあある意味このお話が出たというのはそれぐらい色々切羽詰まったとも言えるしね。色々ありますけど、どんなに切羽詰まってもね、うわーこんな、例えば大津波が来ちゃてね、わーとなってしまって、ぐちゃぐちゃになってしまって、「ダメだ」と思ったらあかん。「面白い状況になったな」言うて印可書に戻ってください。するといけるんですよ。

 だから自分にとって都合悪いこと嫌な事をね、しましょうねっていうのはね、何かって言うとね、自分にとって都合の悪い事っていうのは要するに「自分がダメ」だって思ってるからよ。わかります?

 面白い自分と思っていたら都合悪いことも、結果気にせずに出来るのね。ダメだと思うのは結果を気にするからよ。じゃまくさいなー、っていうのは結果を気にするからよ。でも面白い自分だなーって、「これ嫌がるのはなかなか自分は面白い」って言ってやったら、とにかく面白くて楽しんでやる。そしたら無条件の喜びが分かる。

 ともかく「ダメだ」って言わないことよ。「ダメだ」っていうのは結果を掴んでいるから、もうそこから身動き取れないのよ。でも「面白い自分」て言ったとたんに結果掴んでないから、スルスルと行けるの。そう思ってやってみてください。するとね、重いものを持ったりとかね、そのしんどい仕事が楽になります。逆に言うと結果を掴んでいないから、その人にとっては3回運ぶだけで終わりでいいっていうのが分かるの。

 結果を掴んでるからね、みんな10回この重いの運ぶのに、私も10回運ばなくって言って嫌になっちゃうの。こんな面白い自分でって喜んでやってみてください。するとね、みんな自分がやっているって、勘違いするからね、邪魔くさいとか嫌だとかだめだがあるんだけれども、本当は自分がやってることなんてひとつもないの。自分が指を動かしてると思ってるでしょう。でも違うの。神さまが動かしているんよ。でも自分のマイナスの言葉で自分がしているって決めつけただけ。決め付けたぶんだけ「だめだ」っていう結果を掴んでね、余計に身動き取れない。

 だって掴んでるんだから。離したら走れるのにね。運動会で用意ドンって言ってるのにね、何か物を掴んで動けないわーってやっているようなもんです。結果を掴むっていうのはね。

 例えばそうでしょ?運動会で用意ドンでもゴール向こうでしょう。あんな遠いところ行かれへんわ、って思ってゴールをつかんでいるわけよ、みんな。分かる?結果掴むって現実を掴むってそういうことなの。

 常に常にね、未来しかないの。現実ってないねん。運動会の用意ドンがそうでしょう?ゴールは、遥か先や。50mか100mか色々あります、10mとかね、幼稚園行ったら10mかな?駆けっこがありますけれども、結果は未来でしょう?今ないね。ないのにあると掴んで、それをマイナスの言葉って言うんですけれども、あるとつかんで縛るわけ。

 縛るから身動き取れない。だれもあなたを縛っていない。自分で自分を縛ってるだけ。だから私はあれが苦手だって勝手に縛っているだけでね、本当は何でも出来る自分なんです。先生は本当に何でもできたけどね。何でもご存知で数学的なことでも、もうすごかったですけれども。一切見せない。見せる必要もないしね。そういうもんなんです。だから先ずね、「中々、面白ろい自分」やと思ってやってください。ダメな自分と思わない。

 ダメだと言った時点で結果を掴んでいるからね、もう本当に身動き取れないから。それは別に僕でもそう。駄目だと思った途端に動けないから。当たり前や。駄目なとこつかんでるもん。それ、分かってくださいね。出来るだけ今分かり易く言ったつもりなんだけどね。質問してください。はい、お願いします。どうぞ。


質問:ありがとうございます。以前説明していただいた、この世に生まれてくるのは難しいゲームを楽しむためにきている。ということで今日の話では虚栄心を持ちながら、真祈りをするという・・・

河上さん:それは難しいゲームや。そうそう。

質問:それを楽しみにきている?

河上さん:本当はね。本当は楽しみにきているから、先生が無条件の喜び、無条件の楽しみとおっしゃる。だってゲームかって難しいゲームを楽しんでやってるんやろ?

質問:はい。

河上さん:あんな難しいルールで縛る必要あれへん。将棋でも、はさみ将棋だけにしたらええねん。そしたらややこしないやん。な、だけど難しいせんと面白くないやろ?

質問:虚栄心を持ちながら真祈りっていうのは、やっぱり難しいこと?

河上さん:一番難しいことですね。

質問:それをこう・・・

河上さん:だって自分と他人ってないねん。全部光やから、全部自分とか全部真(まこと)の神さまなわけよ。それを無理やり分けれない光を無理やり分けてやで、困難を作って、するわけでしょ?まあ言うたら、わざわざ冬山登山に行きはるわけやんか。わざわざ崖っぷちをロープ掛けて登るんでしょ?あれなんて言うの?ロッククライミングっていうの?わざわざするんやろ?そういうことをみんな大なり小なりどんな姿であっても、しに来ているわけよ。

 だからわざわざ男と女に分かれて出て来るね。ほんでエッチしたい、結婚したいっていうけどね、みんなね。分けてるから結婚したい。男と女のその区別消すとね、何もないね。或いは食べ物でも美味しいもの食べたいと思うやろ?それは色んなもの分けているからよ。全部一つにするとな、味も何もない。無色透明や。光がそうでしょ?色んな光全部集めたら無色透明になるんでしょ?わざわざプリズムで分けて楽しんでいるわけやんか、この世は。

 本来は無色透明の真(まこと)の神さまの光だけや、な?それをプリズムで色んな色に分けて、その色を組み合わせてというのを、過去に、過去を、言葉に言葉を重ねて色々言いますけど、作るわけや。

 まあ映画で言うとね、台本ってそうでしょ?この人は悪役で、こういう役でどうこうと、言葉で重ねて物語創るわけでしょ?で、ヒーロー作る為にね、あの極悪非道の大悪人みたいなのを作るわけでしょ?あの悪代官を作るわけでしょ?水戸黄門を上に光らす為にね。お代官、悪代官様を作っりとか、色々するわけでしょ。

 それも本来は光のものを、光無いって決めてるだけで、みんな光は変われへんね。でもその中にはまっている中からね、ハマり切った中から出て来るのは大変なんです。だって将棋がそうやんか。あのややこしい飛車は横で角は斜めでとか、ルールつくっているけどな、そんなもん、ルール無しでやったらええやん。せやろ?せやけどわざわざ縛った中で苦しんで苦しんで言うか楽しいんでしてるわけでしょ?

 でも僕は将棋嫌いやから、苦しみでしかないけどね、あれは。でも楽しい人は、あれはもう楽しいんでしょ?そのそこで楽しみにいてたらええのが、苦しみになっただけやからね。でも苦しみに落ちるのも、先刻分かっている中で神さまが、もうひたすら救いに救いに救いを重ねてという形で、オマケにオマケを重ねてね、全てを救い取ろうとして来られているだけです。

 その神さまの、もうオマケのオマケの中で皆さんが今言うた最後のね、印可書読んで喜びまわるという事、入れるわけです。

質問:難しいゲームをクリアーすると喜びが大きいから難しいゲームにチャレンジするのでしょうか。

河上さん:そうですよ。みんな例えば、模型創りの好きな人やったらね、最初は既成のプラモデル作るわけや。だけど、この頃テレビでやっているやん。わざわざ部品創って、模型作るんやろ?作って完成したら「ああ完成した。よかったなあ」で、もうそれ要らんねや。模型創りの人は面白いわね。完成したらもう要らんね。完成したら誰かもうてくれれへんかな、みたいな。僕のスピーカー作りでもそうやけどね。完成したら誰か貰う人おらへんかな、みたいな。そしたら何のために作るねん、やけど色々と困難を楽しむわけでしょ?


令和5年5月河上さん勉強会―1後半(20230514)

質問:そうすると虚栄心を持ちながら、印可書を奉読・真祈りをすると、ゴールというか、そのゲームをクリアーしたその先には、神さまの無条件の喜びというのが・・

河上さん:先生が仰っていたのですけど、ズーっと真(まこと)の世界に住んでいる人と、一旦地上に降りて来て戻る人と、真(まこと)の世界での尊敬のされ方が全然違うねんって仰るんですけど、それは11歳の時に先生にお会いした時に先ず聞いた話ですけどね。

 凄く体が僕は大変でしたから、喘息も大変だったから、大変でどうこうで色んな話をしていたら、ワザとその状態になるようにして降りて来たんやと。自分でもそう思っているから「そうなんすんですかね?」って聞いたら「そうや」っていう事で言われたんですけど、その中で本当の真(まこと)の神さまの響きをもう一度発揮してね、戻ると真(まこと)の神さまの凄さがより分かると仰った。

 どう言ったら良いんだろう?より深く真(まこと)の神さまを知ろうと思ったら、より困難中からクリアーして行くから、神さまの凄い霊妙不可思議な奥深い働きが分かるんだって仰った。

  それを分かるためにしてるんだみたいな仰り方をされたわけで、本当にその通りで。だから例えば開拓者、開墾してされる方って結構晩年スッキリされている訳、その苦労を乗り越えているからね。そういうもんで制限を受けた中でして乗り越えていくから楽しい。なのに「こんな病気で苦しい」とかね、「こんな生活で苦しい」とか制限に文句言うからややこしい。

 で、文句言っている内はまだ良いですけど、こんな生活に苦しんでいる自分は駄目だって言った途端に、凄い運命に翻弄される虚の世界に落ち込んでいくの。マイナスにマイナスを重ねてっていうね。自分は駄目だって言った途端に落ち込むの。実際言葉の上でも落ち込むしね、駄目だって言った時点でね。だから「面白(おもろ)いやっちゃ」と思って楽しんで行くと良い。

 一番大事な事は成功したかしないかじゃあない。結果じゃあないっていうのがね。だってゲームってそうでしょう?クリアーしなかったら、又、次のゲームしようで終わりや。アカンかったな、又、一辺やり直そうとかね、これおもろない、これ上手くできないから違うゲームしようとかするやん?あれで良いのにね、これ出來へんかったから死ぬしかないってやるわけでしょう?結果掴むと。

 だから結果掴むから苦労しに行けへん。楽しようとする、みんな。結果掴まなかったら喜んで大変な事して行くよ。自分にとって嫌な事が有るっていうのは、苦労をしたくないの、楽したいからや。自分にとって嫌な事は、大概自分にとって辛い事や、な?結果掴むからや。

 結果を掴んだら辛い事や。掴まんかったらどの状態でも楽しい事や。だから何時も言うようにね、この部屋全部掃除しましょうって言ったら辛いの。ここだけで良いからやりましょうって言ったら楽しい。すると知らん間に全部出来るようになるの。結果掴んでいないからな。結果掴んでいたら「こんだけしなくちゃあいけない」って先ず掴むや。自分の思うとおり綺麗にするには3時間はかかるって思うや。するとその3時間どうやって作るねって思った途端にもう嫌やって、動かれんへん、動かれへん。部屋の掃除一つとってもそう。それは仕事の上でも何でもそう。

 運動会の駆けっこでもそうや、ゴールを見たら嫌になるって。みんなゴール一着で着きたいって思ったら嫌になるって。

 だけど(みんな)あんまり考えずに走っているだけや、みんな、運動会なんかはな、結果が重大で無いから。だけど運動会の駆けっこで一等は1億円とかなった途端にな、辛い。要するに結果掴んだからや。結果掴まんかったら楽しめれるね。それ分かって、そしたら駄目な自分って思わなくなるから自由に動けて何でも出来るようになるし、何よりも楽しくなる。

 楽しくなったらアッという間に地上天国や。いまの地上が大変ていうのは、駄目な自分とかね、色々とマイナスで否定したからや。それは国どうしでもそうでしょう?「あの国は駄目だ」ってやるわけでしょう?まあ日本でもそう「今の首相は駄目だなんだよ」って、野球で考えたら分るやん。「あの監督だったらダメや」ってやってややこしくしてるだけよ。

  その駄目だっていうマイナスを使わないように、「面白くやっている」「中々面白い状態や」って言って楽しんだら良い。今、凄い大事なとこやねんけど。(すごく大切な大事な悟りの要諦を言っているんだけど)そしたら気楽になるし、スルスルと動けるの。

 どうしても生存競争の中でね、結果主義でしょう?全世界的に。もうキャリアがどうとか、何所の大学出たとかね。その結果主義の中で結果を掴むっていう癖をみんな持たされている訳やけど、その結果を掴む癖を離したらいい。そしたら何でも出来るようになる、先生の様に。

 だから先生の場合はある凄い大学にね、合格してたんですよ。でも出来なかった。もう言って良いんかな?良いでしょう。先生やのに名前書くのを忘れはった。で、通らんかったんやけど。

 (まわりの家族は)神さまに聞くわけやね。先生は(神さまの)御心やからって聞かれないんですけど、周りの人が(清則が合格しないのは)おかしいって言ってね、先生のお父さんに聞きはって、お父さん(を通して神さま)から降ろしてきた言葉が色々あったんですけど、どっちにしても、このまま行かしたら虚栄心で崩れるみたいな。要するに経歴(という結果で)で崩れる。だから有名な大学出たっていうだけでね、縛りが出るっていう事で駄目だったんですけどね。

  それ位、今の世界っていうのは結果を気にする。だからどこそこの大学出た人の言う事やから正しいとか勘違いするやろう、みんな。そういう所で判断しようとしているや、無意識に結果を掴んでいる。それを止めたら良い。止めたら結局は自分が楽になる。みんな結果を掴んで自分で自分を縛っているだけだから。

  だからそれぞれみんな色んな立場に立たされているわけよ。それ必要で立っているのに気付いたら楽になる。「何でこういう境遇に私はいるの?」って思った途端に、駄目な境遇って思っておるわけ。で、駄目って言った途端にもうそれを掴んでいるから動けへん。

 必要で楽しい境遇、楽しい運命をさせて貰っているって思ったっらね。そしたら無限力が発揮できる。みんな結果掴んで有限力なの。で、疲れたからもうダメ、動けない、もう死んだ方がましだ、見たいになるの。

  本当は無限供給だからね、ちょっと休憩したらスグ元気になるんだけどもね。それをこんだけ働いてしんどいから、1時間寝なくちゃあいけないとかね、みんな勝手に自分を縛るわけよ。

 こんだけの物、食べんと(疲れたからこれだけの食べ物を食べないと)元気にならへんとかな、分かる?

 アッしんどいから甘い物食べて元気出しましょうとかな((笑)、勝手に自分で縛っているだけやで。先生みたいに「お水飲んでいたら元気になる」って言っていたらお水で元気になるのにな。

   お水ではあかんのやろう?色の付いた甘いもんでないとアカンのやろう?((笑)どれもこれも結果掴んでいるだけ。だから。

 はい、どうぞ。

質問:以前にも教えて頂いたと思うんですけども、結果を掴まないという事で、仕事が途中で終わってしまったと。その時も他の人から「なんや途中迄しか出来てへんやないか」とか「こんなんでやりぱなしや」とか言われた時にも、「アッ出来ませんでした。すみません」で良いのか・・?

河上さん:良いの、良いの。

質問:私はこう思いましたとか言わなくても?

河上さん:そんなん言わんで良いの。それで「何や、こんなんしか出来へんのか?」って言わして、言わした言葉を自分が印可書を奉読して消して上げたら良い。するとみんなマイナスを言わなくなって行くの。折角言ってくれた、その人が「あんたこんだけしか出来へんでどうしたのよ?」って言う、そこに光を通せるのよ。

 先生の立場やと先生に向かって、「あんたどうしたん」って言えへんわな?みんな。(笑)そうしたらそこに向けて通す機会がなかった、先生は。だから皆の真祈り人の働きが要るわけ。だからボロ糞に言われて何ぼや!お願いします。

質問:はい、ありがとうございます

宮野さん:先程のちょっと戻りますが、先程の難しいゲームをしに降りてきている、という中でゲームその物が肉体を持って降りてきたために、虚栄心が必要で虚栄心だらけで降りて来るわけですけども、虚栄心その物は気が付かないっていう状態が結構多いい思うんですね。

 虚栄心って何やろうって、多分皆さんの中で人と比べてみたいな感じなんですけども、虚栄心そのものが罠みたいなもんで、

河上さん:そうよ。だから虚栄心って結果を掴むのを虚栄心って言うんだけどね、そのみんな結果を掴むとこを虚栄心って思っていないだけ。

宮野さん:虚栄心があるから結果、人と比べる、分け隔てをする、自他を分け隔てする、物を分ける、なので虚栄心ですよね?人と人を比べるから、あの人より自分が良く思われたい。先程の質問にあるように、あの人にこんな事を言われた。「いや、私あの人より出来ていないんやろうか?」「なんであんな風に言われるんやろうか?」それ分け隔てしているから、結果虚栄心ですよね?

河上さん:言う方も言われる方も虚栄心。

宮野さん:そう。そして結果を気にするっていうのは何も、誰も自他の分け隔てしていなければ結果を気にすることは無い、評価を気にすることは無い。そして虚栄心があるからお金に執着をする。自分の立場に執着をする。物に執着をする。

河上さん:そう。自分を守ろうとするのね。

宮野さん:そう。この世にある全ての物は虚栄心があるから故に成り立っている事なのかなっと思うけど、実は自分が持ち続けている事に気が付かない事の方が恐ろしいかなっていう。「アッ、こんなとこに自分は虚栄心を持っていたんだ」という?

河上さん:そうそう、そういう難しいゲームをしに来ているからね、楽しみに来ているって言っているの。

宮野さん:なので「アッ、自分にこんな虚栄心がまだ残っていたんや」。それは虚栄心の中でも大きい小さい、人から見て「ああ、あの人虚栄心だらけやな」と思う人もあれば、「いや、あの人にあんなところ有ったん?」位の気が付かない虚栄心もあるけど。でも虚栄心に大きい小さいは無くって、全て虚栄心ですよね?その虚栄心に気が付いたって処でもって光が通せる。

河上さん:そうです。一番大事なのは自由自在心というか、自由意志ですね、自由意志でするというとこが大事なんですよ。

 今までの宗教の問題点は何かと言ったら、自由意志を縛ってね、これを信じなさいやね。それはな、逆に言うと縛っている虚栄心なの。縛るっていうのは虚栄心なの。

 だから今までの宗教では救いがなかった。只々、それだけなの。ここは宗教ではないって言うのは、みんな自由意志を発揮して楽しんで喜んでいるから。こうしなさいっていうのは一切無いの、此処には。だから「宇宙神ありがとうございます、一本で行きたい」「行って下さい」なのですよ。是非それで行って下さい。それだけ。

 只、やり方は余計なお節介やけど、わざわざ余計なお節介させて貰って説明しているだけです。「宇宙神ありがとうございます」だったら、自分の一切をそこに投げ込みなさい。虚栄心であろうが、何であろうが、欲望であろうが一切を投げ込みなさい。そしたら何々したいっていうのが無くなるから、投げ込んでいたら。

 投げ込んでいない間は、「こうしたい、あゝしたい、あいつあんなん駄目だな」って思うの。それは自分が残っているから。どうこう思う自分を全部「宇宙神ありがとうございます」の中に投げ込まないと駄目なの。それを一意専心とかね、ひたすらとか、淡々とか色んな表現をしますけども、呼吸に乗せるとか。呼吸に乗せるっていうのは思う暇がない、本当は。

 宇宙神ありがとうございますで呼吸に乗せていたら、あいつアカンとか良いとかな、自分駄目だとか思っている暇はない。呼吸乗せるのに必死やから。そしたら全て投げ込めるんやけど、出来へんのやろう?っていう事で先生がもう一辺、印可書を作れっていう事だけなんですね。

 先生が「新たに印可書作れ」、そして「本物が現れた」っていう時にね、必死で先生の食い下がってね、「どの本物が現れたんですか?」って聞く人も居ないし、もう色々ありましたけども、別に責めて言ってるんと違うからね。みんな救われたいが先やから、そこまで進まんかっただけです。

 でも自分が救われたいも横に置いといて、楽しんでくださいってお願いしているわけです。救われたいっていうのは結果を掴んでいるでしょう?結果を掴む間はそれ虚栄心だから、救われたいっていうのはそれ虚栄心なのよ。此処大事やで。

 自分救われたいって思うのは虚栄心なの。要するに、自分だけが先に救われたい訳やから。だから今までの宗教がおかしいのは、教祖だけが悟ったって言う訳よ。それ本当は虚栄心よ。皆が悟って本物の悟りやって先生仰ったでしょう。

 だから「あなたは悟った」って言われたら、「いや、先生それおかしい。まだ他の人悟っってない」って言わないとアカンのやけど、「私は悟った」ってみんな舞い上がった。それ位虚栄心がある。という位色々あるんですけども、兎も角、ひたすらね、何事も楽しんでください。面白い自分やなって思って。駄目だと思ったらあかん。面白い自分やなって思って、例えば一杯美味しい物食べたかったら食べたらいい。チョコレート食べたかったら食べたら良いし、面白い自分と思いながらね。こんだけチョコレート食べてしまって駄目だとかね、思うと駄目。駄目だって言うと掴んでいるわけ。どんどんチョコレート食べたい面白い自分と思うと、掴まないから食べづに済むんです。

宮野さん:虚栄心の見つけ方が多分皆さんの中でどうやって見つけるのかな?って、

河上さん:結果気にした時は虚栄心。

宮野さん:ですよね。なので何時も言われている事で、自他を分け隔てする、結果を気にする、不平不満を言わない、今が一番良いようになっているっていう、ここら辺を押さえると・・

河上さん:そう。それで今が一番良いようになっているっていうのを結果を掴んで言う人が居るから、ややこしい。今が一番良いようになっているっていうのは、結果じゃあなくって、どんどん良くなっている姿なの。なのに今が一番良いようになっているから何もしなくってっていうのは、今という今を掴んでいるからな、それ掴んでいるから良いようになっていないの。掴んだら駄目な状態やっていう部分があるねんけどね。でも今が一番良いようになっているって表現しか出来ないからしてますけど。

宮野さん:後は先程の掴んでいるっていう処で言うと、どの状態も良いっていう、ねばならないっていうのは決して、それは自由自在ではないよねっていう話し。

河上さん:こうしなくっちゃいけないとか、こうなっていなければいけないとか、こうでないととか言ったら、もう結果を掴んでいるよね。

宮野さん:大きくなると仕事の事とかなると思うんですけど、もっと日常的に身近な事で言うと、例えばスーパーに買い物に行きました。「いや、これ何時もやったら定価で買う奴やけど、今20%引きや。いや、あの人30%の持っていはるや、どないしよう?」とかっていう、ちょっとした事でもそうやけど、これはやっぱり見栄で「私こんなに安い物買っていたら貧乏人に見られるやろうか?」みたいな虚栄心だったりするんですよね。(笑)心の中では20%、30%あの人のあれ欲しいわって思っているんやけど「いやいやいや、さっき知り合いに会ったしな、私こんな20%貼っていたら恥ずかしいしな」とかしょうもない事やって思うんですけど、そういう事だったり。

 でもそれは20%がアカン、定価で買わないとアカンという話しでは無い。どの状態でも良くって自分が自由自在にっていう状態ですよね。日常的にそういうのを自分自身でやっている行動がどの状態でもOKだと、ねばならないという事は決してないと。

 だから何時も何時も自分にOKを出して「あゝ、神さまありがとうございます」って

河上さん:喜んでいたら良い。

宮野さん:そう。ちょっと回りを気にするっていうのは、そこで自分自身について下さっている神さまを否定するっていう感じですよね。それこそ虚栄心。「あっ、今虚栄心が出たな」って思う時が真祈りチャンス。そう。「あゝ、やってしまった」じゃあなくって、「あゝ、チャンスやわ。今、真祈りをするチャンスを貰ったんやわ」って気付きを頂いたっていう。

 印可書、真祈りそのものは時間空間を全然問わないので、思った瞬間。その時にスーパーで買い物していて「いや、今日酢豚買わないとあかんのやけど」って思いながら、「印可書読まれへんわ」って思うかもしれないけど、冒頭の部分だけでも良いから、一節でも良いからちょっとお祈りをするってなれば変わりますよね、っていう。

 それが真祈りチャンスって何時も何時も癖を付けておられると、日常的に自他を分け隔てる事もなく、結果に一喜一憂する事もないし、他人の言葉、目を気にする事がドンドン少なくなって来る。

 実際には気にしているんだろうけど、それをあまりサワサワっていう事が無くなって来るっていう、そうゆう風にして、いずれ肉体を外して行って、結果虚栄心が無くなるという事は、肉体とバイバイってする恰好でしょう?その時は神さまの世界に戻して貰うのに一杯汚れ付けていたんでは、離れたいのに離れないんだねっていう、重い重い泥だらけの汚れの付いた服を着てなアカンという状態になるんで、ドンドンこの世界、肉体を持っている間に真祈りチャンスを掴んで消していく。消えゆく姿を経験して頂くのが良いのかなと思ったりしますが、どうなんでしょう?

河上さん:その通りです。はい。

質問:2点あって、1点は確認で、1点は質問です。1点目なんですけど、自分を振り返ってみた時によく出る虚栄心が、相手の姿を見て「こういう事をされていると、凄く勿体ないな」とか、「そういう事をしたらいけないのに」っていう風に相手を評価してしまう時があって。で、今、一番必要な勉強を神さまから頂いているっていう風に、そこで印可書を奉納していくっていう事が一番大事だっていうとこが、いつの間にかズレていくっていうその時に、仰ってたみたいに結果を気にせずに少しで良いから、何かをする印可書を奉納したりするっていう事と、後それでもズレるなっていう時が有って

河上さん:あのね、結局みんな本当の事を言えば、自分の世界しか見えていない。どういう事かと言ったら、相手が鏡やね。自分の姿しか本当は映していない。たったそれだけや。

 自分の姿しか映していないから、喜んでいたら良いだけやね。面白いなって言って。相手が勉強してないとか、サボっているとかじゃあなくって、本当は自分がサボっているだけやね。

 さっき別の言い方でね、自分にサボる気持ちが無ければサボるのが見えないって、例えばね。そういう感じで結局全部自分の世界なんですよ。だから先生は自分の世界をお清めできるけど、相手の世界に中々干渉し切れなかった。で、今は皆さんの心を使って色んな世界に干渉できる状態に先生がいらっしゃる訳、印可書を通して。

 だから印可書を奉読して頂いたら、先生がその印可書を通して皆をお清めして下さるの。本当言うとね、あんまりややこしく言うと又、あれなんで印可書を読んでね、で済ましていますけどそういう事です。その確認ですね?

質問:はい。そこで楽しむっていう事を、面白い自分だなって言う風にしていけば良いてすね?ありがとうございます

 2点目なんですけど、質問で絶対の自由、神さまに自由を捧げるっていう、それは我儘な自由ではなくって絶対の自由を捧げるっていう。それは神さまに印可書を奉納するっていう事が

河上さん:そうです。それで結局、絶対の自由を捧げれたら何が起こるかって言ったら、先生の仰る無条件の喜びが湧く、無条件に幸せになれる。一切条件が付かないわけよ。ひたすら嬉しい、楽しいってなるの。それ具体的には神さまの働きを褒め称えて、喜んで、感謝してっていう感じやね。

 で、先生はよく「褒め称えて、喜んで、感謝して、待っていてくれたら良い」って仰ったんですけど、その褒め称えるっていうとこがね、みんな神さまが働いているのが分からへんから、ピンと来いへんわけよ。で、褒め称えるのが印可書になる訳ですよ。印可書を読むと神さまを褒め称えているの、讃嘆しているのね。

 褒め称えるっていうのは相手と一つになれるの。だから先生が褒めてくれた時って物凄く嬉しいでしょう?それ先生とその時一つになっているから。それ位褒めるっていう事は凄い事なの。

 でも神さまが働いて全てが動いているって、みんな気が付かないからね。本当は神さまが働いて全てが動いているし、決まっているの。なのに自分がしたと思って文句言っている訳。分かる?只々、それだけなんですよ。どの状態でも何時も一番良いようになっているっていうのは、それは神さまが働いてるっていう意味なの。神さま働いているから良いようにしか成っていない。

 でも小さい自分の都合にとったら、都合の悪い事が一杯ある訳よ。分かる?

 アリさんの立場で見たらちょっとの雨でも大洪水やけど、象さんの立場で見たら小雨でしょう?そういう感じで意識の広がりで喜びが変わるだけなんです。

 絶対の自由というのは一番無限に広がった状態ですから、喜びだけなんです。それをいわゆる「秘奥義のありがとうございます」とかね、先生は色んな表現をされるわけです。絶対の自由を発揮するというのは「秘奥義のありがとうございます」のとこなんです。

 で、印可書はラストの{秘奥義のありがとうございます}で纏まるでしょう?だから喜べるの。でも「そんなん言ってても、私喜びが湧けへんわ」で良いから、ここが大事。印可書読んでも喜びが湧かない私は駄目だって言った途端にぐちゃぐちゃになって行く。駄目だは一切ないっていうのを分かって下さい。どの働きもどの姿も神さまが働いた結果なんで、駄目なものは無いんですよ。良いようになって行く途中の姿なのにね、人間の方が勝手にダメって決めてマイナスの響きを重ねて、先生の表現で言うと色眼鏡で見てしまうからややこしくなって行くだけ。

 何時も言うように、火山が噴火する事によって色んな養分が出て来てね、食べ物でも出来るわけですね。砂漠では何もできないでしょう?でも溶岩が有って、火山の噴火の養分で色々と変わって行くんですよ。でも火山の噴火だけ見たら凄い都合の悪い事でしょう?その辺が立場小さいと分からない。自分の立場を絶対の自由という真(まこと)の神さまのそのものの処に持って行けるのが印可書だから、印可書を読んでいる時は絶対の自由を発揮できているから。

質問:自由って言うと全てがそうだと思うんですけど、自分の言葉の解釈で凄くおとしめて、、浅い意味で受け取ってしまう事がよくあるんですけど、

河上さん:好き勝手と自由を一緒にするわな?

質問:そうです。此処で言う絶対の自由っていうのは、真(まこと)の神さまを褒め称える事を絶対の自由っていって

河上さん:そうそう。真(まこと)の神さまを褒め称えたら、真(まこと)の神さまのみ心を自分が実行できているね。神さまを褒め称えるが全てなの、本当は。だからみんな褒められたら喜ぶの。誉めそやされたら喜ぶの。褒められただけではお金くれへんのにな、褒められただけで喜ぶやろう?いや、褒めんでも良いからお金くれって言ってたら良いけど、言えへんや。それ位褒めるっていうのは神さまの本質なんでね、喜びそのものなの。だからそれで良い。

質問:ありがとうございます

河上さん:印可書読めば褒め称える事になるから、自然に喜びにかわる。でも印可書読んでも何も分からない自分を駄目だって言わないっていう事が大事。駄目だって言った途端に、いわゆる結果に、過去を掴んで、現実を掴んで、未来を掴んで、掴む状態を重ねて分からなくなって行く。駄目だって言う事はそういう事なの。

 駄目だってそうでしょう?あの時は駄目だった、今も駄目だし、こんなんだったら先も駄目だわって、な?

 駄目だって言う言葉は全部を掴んで縛るの。それで分からんようになる。本当は自由自在に動けるのに。はい、どうぞ。

質問:真祈りの事に戻るんですけど。みんなと全てというのが考えていて、みんなというのが例えばご飯粒々だけど一個というのと、全てはお餅みたいに分けれないというイメージ?

河上さん:そういう意味でもありますけども、要は何かというと、みんなと言うと肉体人間のみんなって思うわけですよ。でもこの虚の世界と言えども石ころ一つ、水滴一つ、水蒸気の一粒々すべてがっていう事で、

質問:全ての全て、みんなって言うと人間だけっていう

河上さん:人間だけっていう風に勘違いする。でもわざと先生は引っ掛かるように言われたわけです。引っ掛かるように言われた訳だけど、みんなはそこまでに引っ掛かる前に、助けて欲しいが先よ、この病気治して欲しいとか、この職場での苦労何とかしてほしいとかな、そっち先で見えんかっただけ。本当はすべてなの。

 例えば肉体人間側の感覚で言うとね、バラバラになったものをもう一辺、お結びのように一つに纏めるのを良いと思っているでしょう?でもそうじゃあないんですよ。絶対の中心から湧き上がってくるのを直接受け取れたら完璧なの。絶対の中心から湧き上がって来て、どんどん枝分かれして最終この現世になっているわけですよ。どれもこれも神さまの命には違いないけど、枝分かれしたやつはそのまま流し続ければ良い。

 噴水で言うと噴きあがって来る水だけを受け止めれたら良いわけ。それで色んな形を作っている訳よ。でも作った奴は流し去るやろう?流し去らなアカン。でもその流れさしてる水をもう一辺集めて一つにしようとして、この現世っていうか、この地球人類が苦しんでいるの。

 国際連合にせなアカンとかね、一つの政府にせなアカンとかやっているやん。で、民族的にどうこうって言うけど、無理やり一つにしようとしているからや。一つにせんで良いの、この表現の世界は。それぞれの個性を、癖を楽しんだら良いだけ。だから楽しんだら良い。

 だって民族的に言うと色んな世界が有って、生まれついて食べる物から全部違うわけでしょう?生活習慣が。それを一つにしようなんて無理や。やっぱり日本人は味噌汁が良いわけや。味噌味が良いの。外人さんに取ったら味噌は、或いは納豆は変な臭いって言うんでしょう?

 日本人は納豆が良いけどね。或いは関東は納豆は良いけど、関西の人は納豆嫌いやとかあるやん?それを無理に一つにしようっていうのは間違いなの。それはどんどんサラサラ流して喜んでいたら良い、お互いを。その喜ぶ一つ手前としてね、「みんな面白いな」って言っていたら良い。駄目って言うからややこしくなるの。そういう意味。


令和5年5月河上さん勉強会−2前半

質問:ちょっと戻るんですけど、さっき河上さんが、いよいよになった時でも、「印可書」奉納したら変わるけど、その変わった先を選ぶのは真祈り人って仰ったと思うんですけど、選ぶって別に何も考えなくて、「印可書」奉納してたら。

河上さん:そうそう、さらさらと流せたら完璧なんですよ。でも、その時でも掴んでしまってもいいからっていうことです。掴んでしまったから失敗だ、じゃないの。ここやね。掴んでしまってもいいけど、失敗じゃなくて、ダメだじゃなくて、おもろかったなぁにしていかないと。

  映画がそうでしょ?いろんな映画見るけどね。結果も掴むわけやんか。主人公があんなことになってしまったとか、でも、どんな悲劇的な映画でも、面白かったなぁで終わるでしょ?悲しかったなぁで終わらへん。あのオカルト映画がそうや。怖かったなぁやけど、面白かったや、その最終は。本当に怖かったら、もう現実の生活戻られへん。映画のようにいつも面白かったなぁで最後終わってるわけよ。悲しかったなぁの映画でもね、本当に悲しかったら、掴んでたら、現実の生活に戻られへんって。ずっと悲しみ続くから。でも続かないでしょ?さらさらと流して、面白かったなぁやんか。どのスタイルの映画でも。

  それは現実も一緒やね。だから掴んでもいいけど、面白かったなぁに持っていかなあかん。
で、その現実で掴んでしまって面白かったなぁに持っていこうと思うと、「印可書」読むしかないんよ。そこだけやね。それがわかったら、要するにダメだと思ったらあかんよ。ダメだというのは掴んでるから。面白かったなぁやったら掴んでへんね。わかる?ちょっとの差やけど凄い大きい差やね。

質問:嫌だぁ、逃げたいと思って、面白いって思えば…

河上さん:うん。だからその間を「印可書」で繋いだら、面白かったなぁに思い変えせるから。最初は嫌だっていいよ。せっかく嫌だと思ったから、嫌だに光通すために「印可書」読んだら面白かったなぁに変えれるから。最初は「印可書」読んでも嫌だのままだから、それでいいね。だけどダメだと思わないように。

質問:それでもいいっていうのが…

河上さん:そうそう。お願いします。

質問:ありがとうございます。

河上さん:ありがとうございます。
  
質問:先般は地震活動のことを聞きまして、あの、珠洲市の方でもついに被害が出るような地震が起こってしまっております。で、私の知り合いが、珠洲市に住んでいらっしゃる方がいらっしゃって、年賀状のやり取りぐらいしかないんですけれども、こういう時っていうのはやっぱり、そういう、まあ、知る者としてお見舞い申し上げますとか、というのが、こう、世間一般的な、まあ、社交辞令とかあると思うんですけれども。でも、ここでそのお祈りをするものについては、まあ、「印可書」とかお祈りをするっていうことの方が、まあ、大切っていう風にも受け止められるんですけど、ただ、気になる時は、どうですかとか、お見舞いとか、そういう風なことはしても構わない。

河上さん:いや、それは言ってあげたら、相手喜ぶやん。喜ぶことをする、いいんじゃないですか。

質問:それと、その他の地域でも連動しているように、起こり始めておりまして。例えばご家族が、東京の方に住んでいる方がいらっしゃったら、やっぱりすごく心配されたりとか、いう風なお話を聞くんですね。で、そういう中で、お祈りをする者においては、お祈りをして、それで、そういう風な、震災にならないように、お祈りをするという姿勢でよろしいでしょうか?

河上さん:だからお祈りというのが何かやね、もうそれが全てなんですよ。だから、今言ったようにね、ダメだと思った時点で、もうお祈りにならない。ここが大事なんですよ。

  あいつサボってる、ダメだってなった途端にね、どんどん崩れる。地震が起こった、ダメだと思った時点で崩れるの。地震が起こった、大変だ、ぐらいまではいいのね。でも、もうダメだって言ったら、ほんとに、マイナスを重ねてしまうの。

  だから、腹立つわーでいいねんけど、あんな腹立つやつ、ダメだ。あんな嫌なやつ、ダメだと思った途端に崩れるね。「わー、嫌だわー!」はいいね。「地震、火山、大変だ!わー!」はいいねんけど、ダメだって思わないようにする為に「印可書」があります。それが、真祈りです。

  普通のお祈りというのは、願い事なんでね。地震が起こらないように、地震が起こっても大変ならないように、ということをするんだけど,それは何がダメなのかというと、結果を掴んでいるからです。結果がまた良くなるようにというのは、もう違うの。要するに、結果を弄(いじ)るどうこうしようと思っているうちはね、マイナスを重ねているから、ますます崩れていくの。

  で、常に常に、一瞬一瞬、新たに新たに、受け直すって、先生は仰るでしょ?それは、結果を弄るんじゃなくて、より真祈りして、新しいものを受け直すという風な。で、その受け直すというとこをね、今日は、私ダメだわって思わないようにって言っているわけです。

 私ダメだよって言った途端にね、(ダメになっていくんです)まず自分の真祈りが中心ですから、どれもこれも皆さん、ご自分の世界しか見えないからね、当たり前なんだけど。

  だから、まず自分を否定しないことです。私ダメだわと思った途端に、自分の世界を全部否定してグチャグチになっていくね。で、運命に翻弄される。

  だから、もうどうしてもチョコレート食べたい、どうしてもお金欲しいって言っているのは、自由意識じゃなくて、好き勝手に、好き勝手というのも、好きにしているんじゃなくて運命に翻弄されてる。

  なんで運命に翻弄されるかと言ったら、私ダメだわって言ってマイナスを重ねたから。
マイナスを重ねるでしょ。重ねると先生の表現で言うとね、録画予約をしている状態やね、
分かる?これが怖いねんって。

  例えば、現実的に悪いことをするのは一回で済むわけよ。でも心に思うというのは何回もできるやろ?ところが、現実にする以上に心に思うことって予約録画が大きいね。で、私ダメだわダメだってやったら、ダメだという私を、もの凄いたくさん予約してしまうね。で、その予約に応じて現実に現れてくるの。

  肉体を持つというのは、これのプロセスを作って肉体を持つのよ。私はこういう出来ないこういう人間、人間って一杯ね、まず録画予約をするわけ。それによって初めて肉体が形付けられるの。

  本当は自分の体ってむちゃむちゃ大きいから、こんな小さくできへんのよ。で、小さくするために、まず一回マイナス言って半分にするわけ、マイナスの予約してね。で、またマイナス予約して、4分の1にして、小さく小さくして初めて受肉という肉体を持てるわけ。そこまでたくさんマイナスを予約して初めて肉体を持てたから、肉体を持ってからみんな苦しいわけよ。

  でも、その苦しい、でもそれをね、何でわざわざそれをしたかって言ったら、難しいゲームが楽しいからやね、本当は。本当は肉体を持って楽しんでみたいから、わざわざマイナスを重ねたんや。で、マイナスに翻弄される状態が肉体や。だから肉体を持った時点で、何て言うかな、原罪とかね、罪人とかいろんな表現するのはそういう意味なんですよ。本当に悪いじゃなくて。

  で、その録画予約をどのようにして消すかだけなの。で、録画予約を一瞬で消す方法をね、「印可書」というので先生が決めてくださったから楽になったの。前は予約したものを、録画予約したものをひたすら「宇宙神ありがとうございます」に入れるしかないね。ひたすら入れなあかんね。入れてる間は文句出ないね。でも入れんの忘れた途端に、止めた途端に、しんどいわ、辛いわ、嫌やわって、ダメだわって文句出るね。出たらまたマイナス予約を重ねるから、もの凄く、賽の河原に沈むじゃないけどね、凄い大変なわけよ。「宇宙神ありがとうございます」で行くにはね。

  で、そんな大変なのを皆ようしませんでって、僕が文句言うもんやから先生が「印可書」を作って下さったんです。でも誰も選び取れんから、みんなが選べる、お前やったら出来るやろ、みたいなね。お前の方がマイナス得意や、みたいに言われてね。ボロクソに言われてるけど(笑)で、ちょっと柔らかい「印可書」にしただけでね。そういう意味です。

  だから地震が起こっても何が起こってもね、まず大切なことは、もうダメだと思わないことです「。大丈夫だったですか?」とかね、勿論、言ってあげたらいいんですけど、もうあんなんで、あの人とこはダメだわと思いながら言うんだったら意味ないです。そういうことです。今ので良い?

質問:もう一点だけ、先ほどのお話の中で、例えば自分以外の方に何か言われたときに、その人が自分が持っているからその姿を見せて下さっているというお話があったと思うんですけど。

河上さん:それだけですよ。

質問:私、絶対それじゃないって言い切れるぐらい、その人の姿や言葉を聞いてギョッとなるようなことを最近よく言われるんですね、職場とかで。

河上さん:それは過去世の問題だからね。要するにね、初めてこの肉体を持って生まれてきたんとちゃうからな。じゃあなんでその過去世の記憶消しちゃうの?ややこしいやんって思うやろ。

 ところがな、過去世のマイナスの予約録画を全部出したらな、すぐ自殺してしまうね。もうこんな私では無理だわって言って。ダメだわじゃなくて、無理だわになる。

 だから神さまがね、過去の分を一旦棚上げ。神さまは消せるねんで。過去世の分をパッと消せるんだけど、なんで消さないかというと、本人の自由意志でね、神さま消してくださいって言わないから。その自由意志を超えてもね、でも半分は消して下さるんだけど、それでも残りの半分は棚上げしてあるわけ。

  色んな意味でそういうのをね、最終、先生が綺麗に綺麗にされても、最後にその人の卒業試験でね、あなたは悟ったって言うわけよ。その時に虚栄心が残っている人は崩れるんだけど、それくらい過去世に棚上げされてるからね。ただ、そろそろこの人にはこれくらい見せたって大丈夫だな、お祈りできるなっていう部分が出てくるの。それでとても自分にはないと思うことが出るんよ。出るけど本当は過去世のもんやね。

  ただ、あんまり過去世を説明するとね、また結果をつかみ出すから、あんまり説明せずにさらっとね、ダメだと思うなと、おもろいって思えって言っているわけです。

質問:ありがとうございます

河上さん:はい。

質問:確認と質問が合わさったようなものになるんですけれども、この勉強会も含めなんですけれども、本心を開発するっていうことが目的だと思っています。

河上さん:そうよ。

質問:お祈りを深めることと。それで一瞬一瞬新たに自分にとって不利益なことがあったとしても、一番いい、一番的確のものを神さまから頂いてるっていうところに立ち戻って、本当にそれを実践、日常でしていくっていうことが一番お役に立てることっていうふうに理解しているんですけれども。この一瞬一瞬新たっていうのを、もっともっとお役に立てるように祈っていきたいと思っているんですけれども、もうそれは力まず?

河上さん:力まず淡々と「印可書」奉読やね。

質問:淡々とですね。

河上さん:結局ね、みんなね、本当に自分が幸せな立場に置かれていることを自分のマイナスの言葉によって気づいていない。例えばね、今、水道ひねったら水出るわけでしょ?薪拾いに行かなくてもガスが出る。それだけでもすごい幸せなのに文句言っている。

 仕事の上とか、旦那があれやとか、子供があれやとか。このまま荒野へポンって放り出されてみ。自分で薪拾ってきて、家も建てて、もう家が間に合わなかったら穴掘ってちょっと屋根掛けて住まなあかんと思ったらね、すごい今は幸せな状態にあるにも関わらずやで、私はダメだってやってるわけや。わざわざマイナスを重ねてるね。だからマイナス重ねんでいいからね、おもろいおもろいって言ってたらいいね。これだけクーラーもあってね、暖房も楽なんでしょ?ちょっとひねるだけで済むわけやん、今。

  だから後あることなんて知れてるね。「おもろい事や、おもろい事や」って言ってたら良いのにな、ちょっとのことをダメやダメやってやってるわけや。で、余計マイナス重ねて身動きとれんようになっているだけよ、っていう部分です。

 だからそれに気付けって言うたって、理屈で言うたってね。そんなん言ったって今しんどいもん、辛いもん。あいつに言われて腹立つもんになるから、「おもろいやっちゃと思って印可書奉読して」って。そしたら自然に変わって来れるからっていう事に先生がオマケを付けて下さっているわけ。

  その大オマケを利用するしないはみんなの自由意志でね、「印可書」奉読という大オマケを使えば楽やし、使わない人はひたすら「宇宙神ありがとうございます」に文句も何もかも投げ込まなあかん。「宇宙神ありがとうございます」に文句投げ込んでたら、あいつの言ってることは違うとかね、あいつダメだとか、あいつ怠けてるとかね、一切出ないんです。

 出る間は、『宇宙神ありがとうございます』に投げ込めてない。

  それくらい、「ありがとうございます」の祈り言葉も「宇宙神ありがとうございます」の祈り言葉も「天之(あめの)造化主尊(ぞうかぬしのみこと)、産霊聖霊(さんれいせいれい)、守り給え、幸枝へ(さきはえ)給え(たまえ)」も一緒なんですけど、今までの祈り言葉もどれも厳しいんですよ。その祈り言葉に全てを投げ込まなあかん。一切の文句出ないくらい、厳しい。

  でも「印可書」は文句出しながらやってくれということなんでね。ただ、ダメだとは思わないでくれなんです。それが今日の先生からの、特にここは伝えてくれというのが「ダメだと思うなと」。せっかく「印可書」でプラスに変えてるのに、またマイナスを重ねてどうするんやみたいな感じです。分かり易いやろ?今日は。

質問:力むっていうのも虚栄心?

河上さん:力むも虚栄心です。そうです。山登りに私は走って登れるよってやってるようなもんや。息切れして潰れるのにな。自分のできる範囲の中を喜んでしてたらいい。そんなら、どんどんできる範囲が増えるのね。

宮野さん:この世はほとんど虚栄心だらけやね。

河上さん:そうそう、虚栄心があるから肉体を持ててん。

宮野さん:遠慮っていうのもそうやし。

河上さん:神さまを遠くに慮(おもんばか)るというね。でも、神さまを遠くに置かんと肉体を持たれへんからね。

宮野さん:なかなか矛盾してますね。遠くに置かないと持てないけど、でも神さまをひたすら恋願うわけでしょ?

河上さん:恋願う、本来神さまそのものやからね。ただ、本来神さまそのものの自分やからね、悟りを求めし、恋願うしやね。神さまって呼ぶしやねんな。

 ただ、神さまって一つになるとな、肉体持ってても、例えば、昨日ちょっとガックリ来てんけどな。チョコレート食べても甘くないね。コーヒー飲んでも苦くないね。一切の味がなくなっていくねんな。だからある程度はみんな楽しんだほうがいい。あんまり一気に行くと楽しみないで。チョコレートなんかな、甘なかったらな、ネバネバするだけで、難儀なもんや。

 チョコレート大好きやったのに、とうとうこれもなくなったのかみたいな(笑)。

宮野さん:罰ゲームが出来るね。

河上さん:罰ゲームか。これは罰ゲームやったんか?(笑)。

宮野さん:わさび入れたりとかさ。

質問:ちょっとパターンが違うというか、子供が、あの、俺はもうダメやし、ええねんみたいなことを言って…。

河上さん:結果を掴ましすぎたんやな。

質問:いるけれども、なんていうか、その、まあ言ったら勉強分野だけはもういいねんみたいな。あとは、まあ多分楽しく生きていける子やなっていう。

河上さん:勉強もね、結果を掴まさないような教え方したらいいだけよ。だから、数学苦手、国語苦手って勉強できへん子ってみんなそうやねんけど、結果を掴むんよ。だから、例えば数学やったら、結果を早く出したいから、公式を丸覚えして解こうとする。その時は解けるわけよ。でもちょっとひねった問題とか、パターン変わったら、公式当て嵌めかねて解けなくなる。

  それ、結果気にしてるからよ。答え出さなあかんって。そうじゃなくて、この公式を数学で言うたらよ、この公式になるためにはどう考えたらこの公式になったんかなというのが分かったらね、公式忘れても大丈夫やね。

  大体、凄い勉強できるというか、東大の数一、数二のところに、理学部とか行かれた方って、大概の人は公式なんか覚えてない。公式の出し方を覚えてるだけ。だから、毎回聞いても面白いのは、公式を言うたら、何やそれっていうね。分かる?いちいち公式覚えてはらへんわけよ。でも公式を見せ出す思考パターンを知ってるから、さっと解けるね。それくらい結果を気にしたらあかんね。

  だから、面白いのは、すごい数学できる人と食事行くやん。で、割り勘になるやんか。ほんなら、二人の時はええね。三人、四人なったら計算できへんね(笑)。面白いで。それくらい、逆に単純なことは公式的なパターンがないから理解できへんね。で、電卓ないんか?とか言って(笑)。そういうもん。

  だから、結果を気にしないことをもっと教えたらいい。勉強も成績上がらんでいいから、どう解くんかとかね、そんなんだけを言っていったらいい。そういうことを教えれる家庭教師をつけたらいいやん。

質問:それを、介入するべきか、本人に任せるべきか。

河上さん:説明をしたらいいよ。結果を掴むから嫌になるんやでって。別に数学にかからず、人生すべてがね、結果を掴むから嫌になるね。頭のいい人ほど自殺するんよ。何でかと言ったら、結果を掴み出したらな、何でわざわざこんな苦しい事をせんなんねんってなるね。どっちみち100年したら死ぬんやろってなるの。そしたら今死んだ方が早いってなる。芥川隆之介なんか、そういうことをちゃんと書いてある。書いて死にはった。頭が良すぎたんや。

 あの人の文章を見たら、こんな頭の良い人がって言う。それは三島由紀夫さんでもそうやけど、みんなそうやで。

  だから、結果を掴んだらあかんね。頭が良い悪いと違ってね。

質問:例えば、反復練習とかができないっていう子は、その先の結果を掴んでるからやらない。

河上さん:そうそう。結果を掴むから反復練習できへんね。反復するんじゃなくて、どう考えるかだけ分かろうとせえって言うたらええね。語学がそうやねんな。語学の事はあんまり僕、人のこと言えんけどやね。単語を覚えようとして反復練習したら覚えられへんね。語学で単語を覚えるコツはね、覚えようとしないことやね。ほんならは覚えれる。

  だから、要するにどういうことか言ったら、例えば英文の下にね、日本語で意味書いて言うわけよ、単語の。でも毎回目通すけども、例えば、(カァンファタァブル)気持ちいいって書いてね、(カァンファタァブル)気持ちいいって覚えようと思わんと、何遍も読んでたら勝手に覚えてるね。(って)いう部分やねんな。

  勉強できへん子ってみんな、覚えなくちゃいけないって縛るんよ。ほんなら覚えられへんね。喜んでたらええ、楽しんでたらええ、おもろいって言ってたらええだけやのにな。

  だから漢字なんかね、読めない子がおるんやけど、ルビの振った漫画を読ますのね。漫画は読めるから。そしたら漫画のルビのとこに漢字にルビ振ってあるわけよ。吹き出し言うんか、吹き出しのとこに色んな漢字書いてあるんだけど、どんな漢字でもルビ振ってくれてあるね。で、それをバーっと何回も読ませとくやん、色んな漫画。漢字書かれへんけどな、みんな読めるようになる。それは覚えようとは思ってない。楽しんで漫画読んでるだけや。その辺をうまく持っていける家庭教師と、親もそういう感じでうまく持っていけたらいいね。

 念力でな、結果を掴まそうとしてるんや、あなたは。

  一緒に考えてあげな。子供と一緒に子供の思考パターンで考えてあげたら納得する。だから学校行くと何が苦しいかと言ったら、本人の能力のペースとは別に学校のペースがあるでしょ。それでみんな嫌になる。でも家柄によったらね、出身校とか大学とかってうるさく言うからね、子供は余計苦しみになる。別に大学に行けなくてもいいよって、しとかなあかんねんけど、今の世の中は大学出てへんかったら相手してもらわへんからな、色々あるけど。 

  それでも今の世の中で、大学出た人で値打ちある人は少ないけどね。何でか分かる?大学卒業できる必要条件ってあるね。英語は喋れなくても読み書きできる。これができないと大学は卒業できへんね。大学卒業した人はみんな英語喋れないけど読み書きできるはずやん。英字新聞は読めるはずやんって、いじめたら凄いことになるからしたらあかんで。大学出たんやろ?読んでくれっていじめてみ、えらいことになるから。

  勿論、大学出ても当然のように読める人もいてるんやで?だけど今の日本の大学では少ない。だからそんなんが海外にバレてきてね、とうとうこの前は、日本の医科大学を卒業してもアメリカの医師の国家試験を受けれなくなってん。すごいそれは屈辱やけど、向こうは実利主義やからね。日本の医科大学出ても医者としてのあれが全然備わってないって判断されたのね。

 だから国家試験を受けさせてくれへんねんから。受けてあかんかってダメよって言うのやったら分かるけどな、まず受験資格をもらえなくなった。

  それくらい今の日本の大学制度がね、ちょっと崩れてるけども。それでもその大学に行かしたいんやったら、行かすためには子供の思考パターンに合わせて色々と説明してあげるしかない。でないと結果を掴ましていくと本人が嫌になって一切せんって言う。頭の良い子ほど、芥川龍之介やないけど。どうせ100年後に死ぬんや、今死ぬほうが早いわってなるね。
結果掴むってそういうことよ。

  そうやろ、みんな100年経ったら死ぬんや。何をわざわざ苦しむん(苦しいことするの)?今死んだ方がマシやってなるで。結果だけ掴んでたらな。

 それよりも、もっと色々と楽しいことしたいと思ってる人は死なんで済むけどね。どれもこれもつまらんと思った人は死ぬね。

質問:はい、ありがとうございます。

質問:確認なんですけども。今、本当に必要なことを的確に現れてくる、的確にキャッチするっていうことがすごい大事かなと思ってるんですけども。よく職場でも堂々巡りをして、自分も含めてこう掴んで楽しんでるなっていう方を拝見することがあるんですけども。
それは自分自身が姿でもあるし、すごく演技を楽しんでるっていう風に色々なものを。

河上さん:結局ね、みんな得心するまで終われへん。得心というとこやねんな、納得じゃなくて。

 だから自分にとって嫌だと思いつつも、それが好きでしてるのばっかりや。過去世のことを入れるとね。ただ過去世を棚上げしてあるから、自分にとって嫌なことだと思ってるだけで、過去世から足すとね、自分のやりたいことやってん。っていう部分があってね。

 だからみんな死んでからな。神さまは地獄に突き落とせんねんで。自分で地獄を下りるんや。

 この地上でやるべきことを逃げ回ってしなくて。要するに、真(まこと)の神さまとしての、真(まこと)の本心の自分があるでしょ?それが本来の自分や。その本来の自分、肉体が無くなって死ぬとね、その本来の自分がはっきり自覚できるね。

  それでも、真(まこと)の本心の自分でも大きさが色々あるわけよ。で、小さい真(まこと)の本心の自分だから、大概の人は。で、小さい真(まこと)の本心の自分の正義感から比較してな、こんなに怠けてきた自分はダメだって言って、もっと苦しまなあかんって言って地獄を降りる。それだけや。で、それのちょっとした地上版が今言ってる堂々巡りや。
  
質問:とにかくどんな姿も、真(まこと)の神さまの現れだと。

河上さん:そうです。

質問:思い定めて、「印可書」を本当に淡々と。

河上さん:喜んで。

質問:喜んで奉納していくっていう。

河上さん:そうそう、楽しんでたらいい。もう、嫌だと思っててもな、おもろいやっちゃ、おもろいやっちゃと思ってたらいい(笑)。悪いやっちゃって言うからね、マイナスを自分に重ねてしまうね。何でもおもろいやっちゃって言わんなんね。あいつ怠けてるって言うから、自分が怠け心出てくるの。おもろいやっちゃ、おもろいやっちゃ言ってたら、おもろいで終わっていく。楽しんで終わっていける。

  だって、落語の話ってそうでしょ。怠け者の人と、色んな人が出てきて、おもろい話になるわけや。そやけど落語の中でね、何やかや言いながら、その怠け者の人を責めてへんね。おもろいで終わってるやろ。だから落語が続くね。あれ落語の中でな、あんな怠け者はあかんね、もうどうしようもないねんって責めたら落語になれへんし、そんなの続けへんね。落語の世界こそ悟りの世界よ。おもろい、おもろいで終わらすの。そこが大事。何でもおもろいと思わさな。

質問:責めるっていうのも虚栄心。

河上さん:そうそう。

質問:喜んでいくってゆう。

河上さん:だから落語は一人で演ずるわけよ。だから全部おもろいで終わらせるね。あれ、二人でやるとちょっとけったい(おかしい)。

質問:ありがとうございます。

河上さん:落語はね、もう先生が徹底して研究しろって言うから、やり尽くしたよ。どの古典落語でも現代落語見ても、おもろいで終わってんのね。先生が研究するようにって言っただけの値打ちはあってんけど、それくらい何でもおもろいで持っていかなね。でもどうしても癖があっておもろいって思えない時は、「印可書」読んでおもろいと思おうとしていってください。お願いいたします。

  昔はね、(僕は)人と会うのが嫌でね、人と喋るのが嫌で、人前で喋るなんてもっと嫌やってん。

 ほんなら先生が徹底して落語を研究せえって。で、古典落語の演目をたくさんネタふりして覚えて、徹底してたら、そういう、どんなに物語上、怠け者とか出来損ないとか出来る人とかの組み合わせで演目はできてるんやけども、みんなおもろいで終わるようにしてあるね。

 それが全てやってん。ダメや、こんなんしてたらあかんわ、あかんわって言うたらもう終わりや。ダメやって言うたらあかんね。おもろいわって言っていかんなんね。

質問:先ほどね、ボロカスに言われたりとかすると、そこから光り通すっていうこと、それはもうよく分かってるんですね。

  ちょっと言うのをはばかったのはね、すごい褒められるんですよ。褒められるし、それから私が代表やってる会とかあるんですけど、それが凄く上手い事良くんですね。いって、それで、上手い事行かそうと思ってないけどうまい事行く。で、集まる人たちが、ちょっとやらしいんですけど、みんな私のファンになって、すごい褒めて、一生ついてきますじゃないけど、そんな感じになる。これっていうのは悪い気はしないけど、どないなんかなって?

河上さん:だから嫌なやつ、ダメなやつね、あかんわって一切言わないでしょ、あなたは。
だから一切のマイナスが無いからプラスにプラスが重なっていくだけやね。相乗効果的な。

 もしちょっとでも、もし虚栄心が残ってたらね、そこで褒められて、ついつい舞い上がって、ドンッという時もあるやろし、もし残ってたらね。だけどそれはそれで楽しんだらいいというとこやね。ここが大事や。虚栄心があってもいいのよ。あって色んな事が起こってもそれを楽しめたら。おもろかったなっていうふうに、楽やないけどね。持っていけたらどんな状態に来てもおもろい、一言(笑)。

質問:今はおもろがってたらいいんですね。

河上さん:そうそう。

質問:昔やったら有頂天になって、私ってすごくないかって思うけど、今は思わない。



令和5年5月河上さん勉強会―2後半(20230514)

質問:それがその、昔やったら有頂天になって、私ってすごくないかとか思うけど(笑)…

河上さん:思えへんやろ?

質問:うん、思わない。

河上さん:だから、それはそれで良いやん。

質問:だから、あんたら言い過ぎやでって。あんたらっていうか、皆さん言い過ぎですよ、みたいな。

河上さん:言い過ぎでもな、プラスを言ってるうちは喜んでたら良いの。マイナスをちょっとでもね、あかんわとか言い出した時は、「そう言ったらダメよ。」って言うと、またこっちがマイナスを重ねるからね、そう言わないように持っていかなんねん。

 だから先生が難しかったのは、色んな人がマイナスを言ってくるやん、それを「そんなんはダメだ。」って先生は絶対おっしゃらないんですよ。それは先生がマイナスを重ねたら大変やから。それで先生は絶対「ダメだ。」って言わないわけ。そしたら「先生に言っても、するなとかね、ダメだとか言わなかったから私は正しい。」って、みんな勘違いしてややこしくなっていくねんけど。

 (ほんとうは)先生が、ちゃんと「みんな光や」とか説明してるやん。光やから、もうマイナスを一切言わないってね。真(まこと)の神さまだけって、先生は宣言してるわけやから。

 先生に何を聞いたって、まともな返事をされない時は、あかんことやっていうのが分からなあかんねんけど。みんな分からんとね、「先生が、したらあかんって言わなんかったからやっても良い。」みたいに勘違いしてぐちゃぐちゃになっていくねんけど、それでも先生は相手の自由意志を縛らないから言わない。ただ、ひたすら祈ってるになるわけ。

 だから、もしマイナスを言い出したらね、まず自分の真祈りが足らんと反省して、ひたすら印可書奉読していくしかないの。

 それでも、先生でもね、(先生の周りでお弟子さんになるといった人でも)こんだけマイナスの中でグチャグチャになる人がおったくらいね、みんなの自由意志を縛らないから、どの状態になっても「面白(おもろ)かったなあ。」にもって、自分をね、もっていかないとダメなだけですね。

 それくらい、みんなの自由意志を縛れないし、大変なの。それぐらい、みんな好き勝手にしたい。自由意志じゃなくてね、好き勝手にしたいわけ。過去世の色んな思いに、自分の思いに押し流されてね、好き勝手にしたいがあるんですよ。でも、先生が良いって言ったってふうに勝手に自分で解釈して、グチャグチャなことがいっぱいありましたし、今もありますけどね。

 「あなたは悟った。」っていうのは、その最たるものやね。先生がわざわざ「悟った」って言ったら怪しい(笑)。悟りなんて言われんでも分かることやからな。それもそれくらいも分からんくらい、みんなね、甘えてたんよ、先生に。

 本当は命懸けで悟りたいんやったら、そうはならへん。でも、それもそれぞれの人の立場と経験と得心やからね。良い悪いではないです。みんな勉強なの。色んな意味で色んなすがたで、色んなとこで色んな勉強をして、みんな変わっていくんよ。喜んでいくやけどね。変わっていくというより、喜んでいくだけやねんけど。

 神さまが、今言ったように、難しいゲームでね、喜んでるだけや。そのゲームの途中でね、行き詰って苦しんでるように思うだけ。ゲームってそうでしょう?最後には喜べること、途中は非常に苦しむやん。難儀なパターンなったな、みたいなね。どないするねんこれ、みたいなのあるでしょう?そういう感じだけなんですね。でもゲームのように、もうあかん時はクリアじゃ、止めじゃ。また別のことするわで本当は良いのよね。

 (でも)もう、こんなんしたら俺の人生終わりやみたいな、勝手に結果を掴んで苦しむの。

 だから、どんな恐ろしい結果になってもよ、「面白(おもろ)かったな」にもっていかなあかんの。ゲームがそうしょう?どんなに、難しいゲームでも「面白かったな」やん、本当は。野球がそうやんか。ツーアウト無死満塁とかになってな、もうここで逆転、押し出しても何やっても負けみたいな、胃の痛くなるようなゲームがあるわけでしょう?それでも見る訳やろ、楽しんでるわけやんか。胃が痛くなるくらい心配するわけでしょう?打たれたらどうしようとか、あるいはフォアボールやったらどうしようとかね。なんでバント一つも打たれへんねんとかね、みんな勝手に苦しんで、なんでこの監督ここでこんなんしやがってんとかね、勝手に苦しんでるの、

 ゲーム見て。でも楽しんでるやん。「面白かったな」や。いつもそれを忘れたらあかん。
 
 だから野球で説明したら、みんな、そのツーアウト無死満塁のところで、打球をずっと掴んで苦しんでるようなもんよ。野球やから、どう苦しもうと終わるわけや。でも自分の人生は掴んだら終わらない。掴んだら苦しい時が続くの、野球と違って。映画とか野球は自分がどうしようが(なにがあっても)終わるんや。映画やったら必ず「おわり」って出るの。野球やったら、必ずどっちかが勝つか負けるかで結果が出るの。自分がどう思ってようと。でも自分の人生は、掴んだ苦しい状態が続くんよ。

質問:肉体が死んでもですか。

河上さん:勿論、だから、できるだけな、面白いなって喜びやって言ってる。

質問:面白がる方法としての、落語ですか。

河上さん:うん。

質問:興味を持ったんですけども、おススメの落語はありますか。

河上さん:あのな、それはもう甘えてるの。例えば昔、先生にね、「どんな本を読んだらよいですか。」って。悟るためにね。「どんな本を読んだ良いんですか?」って聞く人がおった。で、先生は怒るのね。「そんなもん、自分で探さなあかんやろ。」って言って。それ、何が問題かと言ったら、甘えてるんよ。甘えてるうちは何も分からへんの。例えば塾で言うとね、数学の問題を解いてくれっていう生徒やねんな。それで、黒板にバーっと解いてみたら、それを写して、できたわってみんな勘違いするの。だからその問題を解けるけれど、ちょっと捻ったら解かれへんようなるねんな。要するに先生に解かせて、先生に答えを言わせて納得してるうちはあかんの。

自分が解かないとあかんの。現実の問題の解き方は、面白いなって喜ぶことや。そこだけよ。

 だから落語、なんで今、どの演目が良いかって言わないかと言ったら、自分に合った演目ってあるの。嫌な演目を言わしたら読まれへんって。落語の研究するのでもね、自分が読める楽しい演目から入らなんねん。楽しい演目をネタ振りして、ネタ振りというのは、何回も何回も読むということやけどね。落語用語でね、ネタ振りって言うねんけど、覚えるんじゃなくて、ひたすら読み込めっていうの。ネタ振りって言うの。

質問:聞くと思ってたんですけど。

河上さん::違う違う。

質問:演じるんですか。

河上さん:違う。演じるんじゃなくて読む、まず。演じるなんて、そんなん遥か先の話。まず、ネタ振りよ。それも、ありとあらゆる演目がネタ振りできるようになるまで読み込んで初めて、な。落語はそうやけどな、今やったらな神書があるの。

 誰が神書を読み込んでるか。(あっ)今の話(神書の読み込み)は忘れて。

 今は印可書があるからな。そうだけど、印可書がない時代はもっと神書を読み込まないとあかんかったんや。それくらいね、みんな甘えているだけで、真剣さがなかったんや。はっきり言うけどな。

 せやけど甘えてても先生の縁を頼って来てるだけでもね、真祈り人の値打ちというか資格があるわけね。だから「みんなに任せたよ。」って行かれたわけ。その資格があることは忘れないでください。

 ただ、その資格をね、発揮しようと思ったら、「ダメだ」とか「あかん」って言ったらあかん。「面白かったな」でいかないと。だからもし詐欺師に会って、詐欺に遭ってもね、「面白い奴やったな。」なの。

 「あんな悪い奴おらへんわ。」って言った途端に自分が悪くなっていくから。分かる?

 どんなに騙されても、「面白い奴やった」って言わなんねん。「あいつはあかんで。」って言ったらあかん。「あいつサボってるで。」って言ったらあかん。「面白い奴や」って言わな。それくらいプラスにプラスにもっていかないと。

 落語っていうのは、どんな演目見ても、「面白い奴」で終わってるんよ。「こんな失敗ばっかりするアホの奴や」とは思ってへんわな。全部面白い奴で終わらしてある。それがすごくうまいの、落語は。だから落語って続いてるんよ。あんなもん、「あんな八っつぁん、アホであかんわ。」って言ってたらな、落語なんてもう続いてへん。

 それで先生は落語をせえ、研究し尽くせって指示があってしたわけですけども。一緒でね、もちろん落語やってみたら、やったら良いねんけど、演じるん違うよ。まず、読み込むことよ。それもまず、自分が読めるものから読む。耳じゃなくて読まないとあかん。聞くでは入らないの。

質問:入らない。

河上さん:だから英語がそうやねんけどね。昔よく、聞く英語?聞き流すだけで喋れるようになる英語ってあったやろ?あんなん大嘘やし。そんなんで喋れたら誰も苦労せえへん。まず、英文を読まないとしょうがない。読むために読んでくれてるのを聞いたら良いねんけどね。せやけど、その読む英文でも、自分が読める英文を探さないと。ケネディ大統領の演説だけとかね。色々その人にとって興味のあるものがあるやん。例えば英語で説明したらよ、とりあえずケネディ大統領の演説だけを読んで覚えましょう、それだけは聞くだけで分かるようになりましょうってしたらね、それがある程度重なった途端に全部分かるようになるの。そういうもんや。それくらい、その甘えてたらあかんのな。自分からしないとダメ、自分の自由意志で。

質問:聞いて楽しむっていうのも甘えてることですか。

河上さん:いや、聞いて楽しむは良いけど、それでは全然入っていかへん。だから、先生は、先生のお話をね、文章化せえって言ったわけ。にもかかわらず、文章化しただけでみんな終わってるの。分かるか?

 先生(の話)を文章化せえと言ったら、厳しいもので、とことん自分がその文章を理解するまで読み込まないとあかんかったんや。先生の話を文字起こしして、尚且つ読み込んでいかないとあかんかったのが、分かったつもりになるの。っていうくらいな、師に対して真剣ていうのはそういうもんなの。

宮野さん:目的が違うんじゃない?楽しそうやからちょっと落語やってみようかな、聞いてみようかなっていうぐらいの確認じゃないの?さっきのは。

河上さん:そ、そんなん言うたったら(質問した人の)立場があれへんやんか。そんなん分かってるけど言うてへんのに。かなわへんな。(笑)身も蓋もないことは言わない。あ、ここ録音で消すわ(笑)かなわへんな。

宮野さん:でもさっきの、あの読み込むという、なんかね、読み込むっていうのは、英語でもね、口で出して発音できることは耳で聞き取れるっていうのね。これは英会話の学校でもみんな言ってて。発音できたことは聞き取れますって言って。いうんであるから、だから実際に、この聞き流すだけで、いわゆるなんちゃらラーニングがあったと思うんですけども、ああいうのも勉強の仕方が、ちょっとまた違うと思うんですけども、ネイティブの人達が早く勉強、英語を喋れるようになるっていうのは、まず口に出して口で覚える。発音することを覚えて、そして聞き取れるっていう。発音したことは必ず聞き取れるんで。

 そういうのと同じように先程の話も読み込む、読み込んだ分だけ入っていくっていう。印可書も覚えようと思ってるうちは中々覚えないけど、でも、ずーっと、ひたすらひたすら見て読んでたら、勝手に口をついて出て来るよねっていう話で。覚えようと思ったっていうんじゃなくて、ただ、見ないと全然読めない、間違えてはいけないからと思って、みなさん最初は多分ずーっと見てやってらしたと思う。見てやってたらそのうちに気が付いたら、あ、覚えてたわ、っていうなもんで。落語の先程の分も、読み込むっていうのはそこなんだろうな、と。

河上さん:そうそう。語学ができる人でも、勉強できる人って何が違うかと言うと、映像で思い浮かべられるんよ。

宮野さん:右脳。

河上さん:うん。だから文章を読んでも映像が作れるの。だから映像やから覚えてるの。映画ってそうでしょう?映像やから結構中身を覚えてるの。あれ、映画のシナリオだけ見たって中々覚えられへん。せやけど、勉強ができる人は、結構、文章から映像が思い浮かぶの。

 その辺をね、苦手な人でも、さっき言ったように、例えばケネディ大統領の演説を何遍も読んで聞いてしてたら、映像的に動き出して、それを何回か重ねると、何でも映像的に動き出して分かるようになるの。それで語学の得意な人は何ヵ国語も喋るんよ。それは、どの単語をやってる時でも、頭の中で映像が出るわけっていうことやねんな。だから一番英語が進みやすいのはね、できるだけ標準的な英語で喋られている映画を選んでね、自分の好きな映画をやで、選んで、そのセリフの、あれ何て言うの?シナリオっていうの?セリフのあれを取り寄せてね、それを全部訳して自分なりに見といて、それで映画を見たら良い。そしたら映像と言葉が全部同期やから映画の英語を覚えやすい。例えばね。

宮野さん:別に英語を覚えなさいっていう話じゃないからね。

河上さん:それくらいね、それって何かと言ったら、楽しんでるの。楽しんでなあかん。嫌々いうのは、やっぱり無意識にマイナスで否定しているからな、何事もできへん。だから落語も一緒でね、自分が楽しめる演目を読み込まないと。入って来ない演目をなんぼネタ振りしたってな、無理なの。それでどれが良いっていうのは言いにくい。

質問:落語も映像ですね。

河上さん:そうそう。映像や。

質問:中で入ってる。

河上さん:完全に映像ならんとあかん。うまい落語家はそれを喋るとね、聞いてる人がみんな頭の中に映像を浮かべられるの。でその…まあ、落語の話してるのと違うから。あれや、もうやめとこう。これ喋らせたら、ひたすらキリがないから。

宮野さん:昼が夜になりますね。

河上さん:そうそうそう。そのみんなの心をこう、いかに引き摺るかとかね、突き放す言葉という、独特の落語の世界でのテクニックっていうんかな、なんか技があるねんな。その技も分かって忘れた時にできるようになるの。これが一番大事なの。技を分かった段階ではできない。技を分かって忘れたらできるの。

 合気道でも色んな技をするねんけど、技を忘れた途端に使えるようになる。それって何かと言ったら、「自分がする」が消えるからよ。そこまでね、神さまがすべてされるって分かるためにね、印可書を奉読したら良いって言ってる。自分がすると思ってるけど、印可書を奉読してたら、「自分がする」が消えるの。それくらい印可書はすごいもの。だから何があっても苦しかっても辛かっても、面白かったと思って印可書を奉読しなおしてやってるとね、「あ、全部神さまがされてたことなんだ。」って分かる。分かったらラクなの。

 自分がしてると思うから苦しい。自分がしてると思うから疲れる。自分がしてると思うから嫌になるの。全部神さまがされてたことなんだってある時気付くわ。それが悟りや。だからあなたは悟ったって言われた、言われる必要はないのよ。「あ、全部神さまがされてるだけだ。」っていうのが自然に分かるから。自分がしてると思う間は悟ってないの。

 だから自分がしてると思うからな、嫌なことがあるの。邪魔くさいことがあるの。自分がするんやから、辛いことがあるの。「自分がする」が消えたら全部できるねんけど。それ理屈で言ったらそれだけやけど、それを具体的に実感してもらうために、人にとって違うで、自分にとって辛いこと、嫌なこと、邪魔くさいことをね、喜んでするようにしたら良いって言ってるだけ。

 それでも邪魔くさいことは嫌やと思ったら、印可書を読んでまたやってなって。それも結果を掴まずに、このお祈りの部屋だったら、この1uだけお掃除できたら良いわと思ってやるだけで良いんだよって説明してるわけです。

 うまく、お祈りの話にもどって良かったわ。このまま落語の話で流れていくかと思った(笑)。

質問:私もちょっと確認なんですけども。先程、詐欺に遭った時の、詐欺師も面白いやっちゃなって思っておいたら良いとおっしゃって。そういう時、詐欺に騙されて…

河上さん:遭わないように逃げるのが一番良いねんで。騙されてしまってからの話。

質問:騙されてからの話。うん、会いに行く必要もないですよね(笑)その時に騙された自分自身を、ああ、あかんと思わずに、ダメやなあと思わずに、そういった騙されて…

河上さん:騙す方も騙される方も面白い奴や。

質問:困ってる自分を楽しむというか。

河上さん:そうそう。その難しいゲームをさせられて良かったなあ、や。

質問:どっちも面白いなって。

河上さん:だって、みんなな、平々凡々やったら退屈で堪らんわって言うやん、誰でも。何もせんでええわ、食事も全部用意するから何もせんでもええって言われたら、もう退屈で退屈で堪らんって文句言うやん。

 せやのに難しいことが起こったら、また文句言うんやで。どないせえ言うねん、みたいなとこやけど。でも本当は難しいことが起こった時の方が楽しい。だから、ほらプラモデル。プラモデルみたいに最初から部品あるのを作るよりは、一々部品を作って、ややこしいことをするのが面白いわけでしょう?難しいことが面白いねや。プラモデル作りやったらやるくせにな、現実やったら嫌っていうのもおかしな話。現実こそもっと楽しめるはずや。より困難やから。

質問:ありがとうございます。

質問:他の方から良く相談されるシチュエーションとして、職場だとかで、すごくボロクソ言われてしまうと。でもその時にお祈りをすることで光が行くんだよっていうことで。私は、ボロクソ言う立場の方なので、お祈りをしつつ、子どもに毎日ボロクソ言ってると。いうことを、もうずっとやってる。これをどうしようと。

河上さん:いや、自分の寿命を縮めるだけや。子どもにボロクソに言うやろ?子どもの方が素直やからな、「うるさい、お母ちゃん、お母ちゃんなんか死んでしまえ。」って思うんや。

質問:あ、良く言われます。

河上さん:なら、それが結局?年後に死ぬことになるの。死ぬ本人も子どももすごい悲しむんやけどね。そういう結果になります。はっきり言ったで。

質問:はい。

宮野さん:このお祈りの部屋で言っちゃったからね。

河上さん:あとは印可書を奉読して進んでください。

質問:今までのお話を聞いてると、ボロクソ言う方に光が…なんていうんかな、ボロクソ言う私は結局も何もしてない…

河上さん:そうよ。だからちゃんと説明してるやん。子供の思考パターンに降りて一緒に考えてあげないと。なんぼ相手の自由意志を縛ってね、こうしなさい、ああしなさい言ったって相手は動かへんよって。大人、子どもに関わらずやけど、特に子ども。

 ましてやお母さんと子どもの関係やったら余計やねんな。それだけです。だから、ちゃんと子供の思考パターンに沿ってね、一緒に考えてあげないと、お母ちゃん死んでしまえって言われます。親子の場合はそのエネルギーがきついから。すぐに実現させたら大変やからね、ちょっとずらしてですけど実現します。それまでに印可書を奉読して変えてください。

質問:はい…はい。

河上さん:まあ、おまけがなくなったからな、はっきり言っていくしかないの。本当やったら言わんと消すんやけどな。おまけがないんで消されへん。自分でお祈りしてください。

質問:はい。

河上さん:まあ、そのくらいね、おまけがなくなったというのは裏返して言うと、みんな真祈りできる状態になるということです。神さまのお手伝いができる状態にあるということだから、もっと喜んでね、面白い面白いと思ってやっていったら良い。

 面白い面白いと思ってたら真祈りになるのよ。でもあかんとか、嫌や嫌やと思いながらやるとね、真祈りにならへんの。だから何でも面白いと思い返して。そうしたら、真祈りに変わっていくから。印可書奉読する時でもね。あいつ怠けてる、腹立つと思って良いから、でも面白い奴や、と思って印可書を奉読をしたら、より光が通ります。

 念力で縛り過ぎやね、子ども。好きにさせたら良いの。羊飼いと一緒やからね。羊は好きにしかしよらへんの、動きよらへんの。でもこっちに行くほうが面白そうやなって羊に思わせるのが、アルプスの少女のハイジの話や。追うて行くんやけど、一緒よ。子どもがそっちをやる方が面白そうやなっていかに思わせるかが親の責任。縛り過ぎるとね、本来の子どもの能力を発揮できへんの。

 それで、よう小さい時から勉強できるとかよくできる子というのはな、親が全然縛ってない。お片付けさせるのでもね、「片付けなさい。」とは言わへん。「一緒にしようね。」から入ってね、「こうした方が結局はラクでしょう?」というのを得心させる。お片付けした方が次する時ラクでしょう?なの。

 お片付けしないとグチャグチャにしたら、次それで遊ぶ時でも一々探すの大変っでしょうっていうのを得心させられるんよ、例えばね。その為にはもっと親が勉強しないとあかん。

質問:はい。

質問:確認なんですけれども、虚栄心から来る質問と、本心からの質問っていうの…

河上さん:どっちも大事です。

質問:はい。すごく、それは自由なので、すごくどれも大事だっていうふうに思っていて。その中で、自分自身はやっぱり神さまから一瞬一瞬新たに一番良いものを今頂いている。それを的確に受け取っていくっていうことが一番大事だと思っていて。そうなった時に、本当に必要な自分に勉強っていうのは、とにかく印可書を奉納する、真(まこと)の神さまを褒め称えるっていうことを、徹していくことを、これはもう本当に繰り返しの確認なんですけど、それに尽きる…

河上さん:もう、そう。そこを徹するしかないの。本当に悟るとね、もう一切文句出えへんのよ。喜べるだけ、幸せ感一杯なだけなの。理屈で言うとや。でもそれが分からないからみんな困るわけでしょう?

 その一つ手前はね、神さまを褒め称えていくだけなの。印可書を奉読したら褒め称えになるから、まずそこから始めるしかないねんな。結局、大なり小なり無意識に結果を掴むから、幸せ感、喜びがないの。無条件にならへんの。大なり小なり結果を掴むから何か条件ついて、文句、不平不満、色々出るわけ。幸せにならへん。喜びにならへん。

 そうだけど、もう一切無条件にってなるためにはね、無条件というのは、神さまの絶対の自由と同じ意味なの。神さまは一切の条件を付けないわけよ、人間に対して。只々、すべてを与え尽くしてくださるだけでしょう?どんな我儘な子の心臓も動かしてくださるわけや、無条件や。

 その無条件の神さまに沿おうとしようと思うと、無条件に印可書を読んでたら無条件に沿えるの。無条件に重ねたら、無条件に神さまを褒め称えてるから神さまと一つになれるの。それだけ。

 だから、喜びや幸せが湧かないうちはな、どこか条件を付けてると反省して、無条件に印可書を読んでください。

質問:ありがとうございます。

河上さん:もちろん、条件を付けて読んでても良いのよ。でもそのうちに印可書を奉読してたらな、条件を付ける暇がなくなってくるの。まだまだ条件を付けてる間は、自分という意識に余裕があるねんな。

 だから先生がほら、全力を尽くしなさいとかね、もう一杯言いはったでしょう?それは自分という意識に余裕をなくならすためや。自分という意識に余裕が無くなってきたら、あ、全部神さまが動かしていると分かるわけ。だから山仕事にでも先生は追い込もう追い込もうとしはってん。

 せやけど、なかなか、みんなな、しんどいの嫌やからな、精神的にも肉体的にもね、どんなすがたでもしんどいの嫌やから逃げるのね。邪魔くさいことから逃げるんよ。もちろん結果を掴んでるからやけどな。そうだけど、その結果を掴む癖がないと肉体を待たれへんという堂々巡りの中にあるからね、印可書でその輪を断ち切ってくださるというだけです。

 だから結果を掴んでも良いしな、あのクソって思っても良いけども、面白い奴やと思い直して印可書を奉読してください。そして、何をするにしても全力を尽くしてね、全力を尽くすというのが、自分でどうこうするという意識が消えていくの。消えると神さまがされてるのが分かってくる。

 だって心臓を動かそうと思ってないのにしてるんでしょう?それ、別に心臓に限らへんの。手でも、今こんなに喋ってることでも、神さまがされてるだけやねんて。自分がというのはないの、本当は。ないのに、わざとマイナスのエネルギーを色々つけてね、楽しんでるからさ。

 さも自分が、あいつが悪いと思ってると思ったりするの。さも自分が「あのクソボケめ」と思ってると、思うだけで。思うだけや、本当は事実ではないの。すべてはそこに尽きるのね。

 だから事実ではないから、「面白いこと」や「面白い奴や」にしたら良いわけ。それをちょっとでも、「あの人あかんわ。」「あんなんしてたらあかんわ。」って思った時点でな、自分を縛って苦しくなるの。「あんな面白い子おらへんわ。」って喜んでたら良いの。そのために印可書があるからね。

 だから子どもに本来どうしたら良いかと悩む間はあかんの。印可書をひたすら読んでたら自然にできるようになるから。そこがみんな分からへんねんな。仕事でどうこうしようって悩むからあかんの。悩まんと。一々考えんで良いって言ってるやん。ひたすら印可書奉読してたら自然に動けるから。

 動かれへんうちはまだまだ印可書をね、神さまの方を称えるのがまだまだ足らんのやと思ったら良い。自然に動けるようになるのが本当やね。それはさっきの落語で言うとね、色んな技が分かるんやけど、その技すら忘れた時に初めていけるの。

 合気道でも色んな技を習うねんけど、例えば合気道で言うと、相手がこう来た時に、こうしてこうしなさいっていうふうに技は習うわけよ。こっちに右によけて、クルっと回ってこうしてやりなさいみたいなね。そうだけど、実際の時になったら、相手がどう動くか分からないわけでしょう?そうだけどその技、どうこうする技すら忘れたら自然に動くんよ。

 そのくらい、自分がするという意識を消さなあかんねんけど。自分がするという意識を消すねんっていうのは理屈や。実際に消すにはもう、印可書を奉読するしかないから。

 もちろん、「宇宙神ありがとうございます」の中に全部を投げ込んだら同じことが起こります。

 でもどの状態の時でも、文句が出たり、不平が出たり、自分でどうこうしようと思うのが出てる間は、まだまだ投げ込めてないの。「宇宙神ありがとうございます」の中に投げ込むのはものすごく大変なわけよ。でも印可書奉読の時は投げ込もうと思わんでも進めるから。どっちを選ぶのも自由です。でも、そこまでいかないと、本当の神さまのお手伝いになっていかない。もちろん、印可書奉読するだけでも、お手伝いになるからすごいねんけどね。

宮野さん:悪かったなあ。

河上さん:もう、おまけがなくなったんでね。ちょっと厳しいようやけど、はっきりと言って。でも分かりやすくて良いやろう?

質問:はい。

河上さん:だから色んな立場に神さまの方から必要で立たせてくださってるだけっていうのをね、まずそれを分かってください。

 だから自分は(今の)この立場に立たされてるんです。神さまが必要でその立場に置いてくださっただけ。

 それを喜んで喜んで、やっていったら良いだけよ。

 なのに自分の都合で考えてな、辛いしんどい不幸や嫌やっていうからややこしくなる。

 そこで(ダメだと)マイナスを重ねんと面白いわ、面白いわと言ってったら良いの。ちょっとのことやけどすごい差なの。ついつい無意識にね、(もうダメと)いらんマイナスを重ねてるんよ。

 面白い面白いって言ってたら良いのに。だからみんな落語を聞きたいわけでしょう?それはなんでかと言ったらマイナスを重ねへんの。面白い面白いで終わっていくわけよ。

 八っつぁんや、なんやかんやしてこう、寅さんやら出てきてね、ハチャメカをするわけやんか。

 ハチャメカするねんけど、まあ、貧乏長屋でもそうやけど、こんにゃくを刺身と思って食うの、そこがあれやとか言って。「そこで気を練るんや、刺身や。こんにゃくやと思うからこんにゃくなんや。刺身と思って食べるんだよ。」って言ってね。「この番茶をお酒と思って飲むんや。」って言って、やるわけや。それマイナスを重ねない、面白い面白いって言って重ねていってるわけよ。あれを見習わなあかんの。「こんにゃくやん、これ。」「これ、沢庵やん。」「違う違う、これを刺身やと思って食うんじゃ。気で気を練るんや。」って言ってね。あの気持ちが要るの。

 面白いっていう。

 それを現状を掴んでね、「こんな沢庵なんで刺身やねん。」って言うからややこしくなるの。

 でもみんなはそれをやってるんよ。わざわざマイナスを重ねてるの。マイナスを重ねんで良いねんて。

 刺身は食べれないけど、沢庵を食べる立場にあるだけでも喜ばないとあかんのにね。何もないよりはあるんやから。「お酒はないけど番茶やけど、番茶があるやないか。なんでそれを酒と思って飲めへんねん。」って言って花見に行くわけや。貧乏長屋へな。

宮野さん:貧乏花見。

河上さん:あ、貧乏花見か。そういうプラスにプラスに重ねる気持ちが要るの。それを今「面白い奴や」ということで説明しました。だから面白い面白いでやってください。そしたら、お祈りして終わります。ありがとうございます。


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5月護摩 by 河上 [Mail] 2023年05月12日(金) 13時53分
PC

5月護摩焚き河上さんのお話
 宇宙神ありがとうございます

 令和5年5月の護摩焚きで、河上さんがお話してくださった内容です。

質問1
 以前から質問されている方の続きの質問です。

 ごめんなさい、自分の情けなさを痛感しています。悪い言葉を使って周りの人を傷つけました。又、一からです。人のされるとおりにして、たえる事ですね。先生にとってもらっていたのに、一から言葉にして出しました。しっかりとお祈りもできていなかったと思います。人が悪いと思っていました。やり始めた頃のノートを見ると、その言葉を出してから見ましたが、恥ずかしさと生きていてはいけないという感覚がしばらく続きましたが、みんな神さまなのに。なんであの言葉を出したのだろうと思っています。ただ祈り続けます。変な質問ですが、よろしくお願いします。

河上さん
 ありがとうございます 又お会いできて嬉しく思います。ありがとうございます

 今の質問ですけど、まず何が問題かというと、虚の世界に立ったままの自分意識をどうこういじろうとされているわけですね。虚の世界に立ったままだと傲慢になるか、謙虚なふりして傲慢になるかしかないんですよ。

 それどういうことかというと、この虚の世界はすでにあるエネルギーをプラスとマイナスに分けて表現してるわけですよ。だから今、自分にとって都合のいいことがある場合は、下に自分にとって都合の悪いことが支えているわけです。

 今、自分にとって都合の悪いことが出てる時は、下に自分にとって都合のいいことが支えてるんです。それが一生の間に交互に出てくる場合もあれば、生まれ変わって出てくる場合もあります。

 何でそういうややこしいことになってるかというと、虚の世界に立ってということに気付かすためにですね、わざとゆっくりと出てくるんですけども、虚の世界が全てだと思っていると、今のような苦しみになるんですね。

 いつも申しますように、常に、みんな自分にとって都合のいいことはプラスに思えるよね、
でも自分にとって都合の悪いことは、どうしてもマイナスに思っちゃうわけですよ。

 それ何かって言ったら虚の世界の宿命として、自分と他人を分け隔てて、あいつより自分の方がいいとか悪いとかって思うから、自分にとって都合のいい悪いが出るわけです。

 全てはそこなんですよ。それを差別とか分け隔てとか色んな表現できますけども、分けた時点でアウトなんです。

 先生が、いつもいつも、もう50年前からね、もう55年、56年なっていきますけども、いつも「みんな光や!みんな神さまや!」としか仰ってないのに、みんなそれに抵抗するんですね。

 どうすれば、その虚の世界から抜けれるか?ということですけども、一番簡単には、自分にとって都合悪いマイナスのことを喜べたらいいんです、理屈で言うと。そやけどね、自分にとって都合悪いこと喜べって、喜べないから苦しいやんな。喜べたら誰も苦労しやへんわ(しないわ)となるわけですよ。

 じゃあ何で自分にとって都合の悪いこと、邪魔くさいこと、嫌なことがあるのかというと結果を掴むからですよ。何で結果を掴むんかと言うと、自分と他人を分けるからよ。「あの人より私の方が出来てない、出来てる」って結果掴むから、自分にとって都合悪いこと出るわけでしょう。

 結果がどうこうじゃないっていうのに、まずわからないとね、現実を虚の世界を掴んじゃうわけですよ。虚の世界を掴んだらもう身動き取れなくなるの。結果でどうこうはしないんだって理屈言われたって、そんなに言うたって、気になるから腹立つんでしょう。?

 気になるから相手を罵倒するわけでしょう。どうしようもないところに、みんな、何て言うんかな?堂々巡りするわけですね。

 そのために、先生は印可書を残してくださいました。だから、その度に印可書奉読して進んでいくしかないです。

 しかし、印可書を選ばない人はどうするかというと、自分にとってですよ、他人にとってじゃなくて、自分にとって都合の悪いこと、嫌なこと、邪魔くさいことを、一歩一歩、結果を気にせずに進もうとやろうとする事です。

 例えば、お部屋のお掃除でしたらね、「全部きれいにしなくちゃいけない」と結果掴んだらもう邪魔くさくってできないよね。でもお部屋の中の、この自分の机のこの引き出しだけ、この引き出しの一部だけきれいにしましょうと言うんだったら出来るじゃないですか。そういう感じで自分にとって嫌なこと、邪魔くさいことを喜び勇んでやる、やろうとしていけばいいんですよ。

 喜び勇めるためにはどうするかというと結果を掴まないことなんです。結果を気にせずに一歩でいいから進もうという気持ちになったら変わります。

 「千里の道も一歩から」って言うじゃないですか。千里という結果は、気にしたら「こんな遠くの距離どないして歩くねん、無理」やってこうなるわけですけども、一歩だけでも進んだらいいんだと思って、喜んで一歩進む、一歩、本当は自分が一歩進むんじゃなくて(真の神さまに)一歩進ませてもらってよかったなんですけどね。

 一歩進ませてもらってよかった、ちょっとでも、半歩でも前進できてよかった、神さまにしていただいてよかったって喜んでいたら本当は一瞬で千里行っちゃうんです。この現世といえどもそういう奇跡の連続の世界なんですよ、本当はね。でも自分で結果を掴んで奇跡が出ないようにしているだけなんですけどね。

 何と言うんですかね、いかに現実を掴まないかなんですけども、もう結果を掴まない、気にしないなんですけど。その一番根本は自分と他人を分けた時点です。

 先生が「みんな光や!」光は分けれないでしょう。分けなければ、印可書なくったって出来るんですよ。

 「宇宙神ありがとうございます」という真祈りですけれども、真祈りの仕方が問題なんですね。ただ、「宇宙神ありがとうございます」って唱えてるだけだったら、これは真祈りじゃないんです。単なる唱えてるだけなんですね。

 「宇宙神ありがとうございます」一本でいく場合は、自分の全てを「宇宙神ありがとうございます」に投げ込まなくっちゃいけないんですよ、理屈で言うとね。

 この理屈で言うと、自分の全てを「宇宙神ありがとうございます」に投げ込むというのはどういうことか?と言うと、今説明した自分にとって嫌なこと、辛いこと、しんどいことを喜び勇んですることなんです。

 その、どうしたら喜び勇んでできるんかというと、今言いましたように結果掴まない、自分と他人を比較しないという事をして、なおかつ自分がしたと思わずにね、神さまにしていただいてよかった、動かしていただいてよかったって喜んでたら一気に変わります。

 そこまで命懸けで「宇宙神ありがとうございます」を唱えれば「宇宙神ありがとうございます」一本でいけます。

 でもなかなかね、くじけるじゃないですか。くじけた時でも印可書奉読ならそれでいけるから印可書、もうくじけてくじけてどうしようもないんだっていう人は、印可書を選ばれたらいいし、いや何があっても「宇宙神ありがとうございます」でいくんだという方は、それでいかれたらいいです。

 どっちにしても今やり方を出来るだけわかりやすく説明したつもりです。後でいいですから、このことについての質問があったら、またご質問下さい。ありがとうございます

質問2
 松下清則先生の「宇宙神ありがとうございます」の祈りは、数十パターンの祈り方が録音で残っていますが、中には意味を知らないと奇異に感じる祈り方がありますが、その意味を教えてください。

河上さん
  これは、どれもこれも深い意味があるんですけども、まず一番大事なところは、素直に「はい!」というとこなんですよ。神さまに弟子入りする、村人は神さまに弟子入りしてるんですけども、先生に弟子入りしてるわけですね。

 弟子入りするというのは何かと言うと、師匠の言うことに素直に「はい!」なんですよ。一切文句言わない。これこれしなさいって言われて、そんなしんどいことと思ったらアウト。
言われたから喜んでする。

 「宇宙神ありがとうございます」も、もう一切疑問を抱かずに、ただただする。でもそこで「宇宙神ありがとうございます」で疑問を抱くんでね。「宇宙神」ってどんなんやろって、みんな考えちゃうわけですよ。考えるなって言ってんのにね。

 考えるのは仕方ないと、じゃあ手振り入れるから言うた通りスッとしろよ、ということで手振りを入れて下さったんですけど。最初の手振りをまた疑問、考えちゃうわけですね。疑問入れてということで、その疑問を引きずらないように違うパターンにされたということです。また疑問入れる、又疑問入れるということで、とうとうもう手振りもなくなって、もう一度印可書をみんなの唱えやすいようにねと作らされたわけですね。

「本物が現れた」と喜んでいただいて、今の印可書がありますけども、その「宇宙神ありがとうございます」の手振りはそういう経過で変化していって最後は手振りが嫌だという人がありまして、中止になりました。

 先生は相手の自由意志を絶対縛らないので、嫌だという人が一人でも出たらやめられた、それだけです。そういう理由で色んなパターンがあり、その時その時の文句の具合に応じた変化があったということです。ありがとうございます

質問3
 自分がよく行くお寺には、不動明王や阿弥陀如来の像が設置されています。行くたびに像に向かって印可書を唱えていますがこれは良いことですか?もし良いことだとすればどのような理由で良いことなのですか?

河上さん
 はい、いわゆるこの世の現れる働きの形として不動明王であるとかね、観世音菩薩であるとか名前がつくだけで、すべては真(まこと)の神さまの御働きであることには変わりありません。だからどの状態でも唱えていただいたら、真(まこと)の神さまの御働きが大きく出るんで良いことなわけです。

 ただ、わざと大声で、周りの人に聞こえるようにわざわざするというのは、ちょっとおかしくなるんですね。それだけのことです。(それは虚栄心であるからです)。だから、どこでどんどん唱えていただいたらいいんですけども、出来るだけ心の中で唱えていただけると、本来のすがたになると思います。

 要するに何かと言ったら、虚栄心があったらダメということですよ。人前で、誰も知らない人の、印可書を知らない人の前で、不動明王さんであろうが観音様の像の前あろうがですけども。大仏さまの前でも一緒ですけども、印可書を知らない人の前で大声出して言うというのは虚栄心そのものですよ。

 その虚栄心は、真祈りとは正反対のところにあります。要するに分け隔てる心ですから、真祈りにはなってはいないので、全然効果はないことはないことはないですけども値打ちは少ないです。ありがとうございます

質問4
 真(まこと)の自分の16項目の中に「一切の責任を自己に帰す総責任者の自分」と言うのがありますが、これに関連して「私は地球を守る総責任者です」と決意してこのフレーズを時々唱えたりしています。このやり方は間違ってないですか?

河上さん
 はい、間違っていますということで。全然間違ってはないんですよ。でも、どう間違って、どう違うかというと総責任者の自覚というのは、まず最初はね、みんな小さな自分で掴まえて小さな自分を掴んで身の回りに悪い起こる自分にとって不都合な事は全部自分の責任だと思おうとするわけですよ。それが総責任者の自覚だと思うわけですよ。今の地球どうこうというのも、地球に起こるいろんな悪いことの責任は全部自分だと思おうとしている意味での総責任者の自覚で、要するに小さいわけですよ。

 本当の総責任者の自覚というのはすべての人に真(まこと)の神さまを立てることなんです。「すべて光や!みんな光や!みんな真(まこと)の神さま!」としてね、真柱(しんばしら)をみんなの心をみなさん全ての人の心の中に立てるのが総責任者の自覚ですって、理屈で言うとね。

 真柱(しんばしら)立てるってどうするの?

 先生の表現で言うと、「真(まこと)の神さまを相手に通り抜け自分の中を通り抜けて、まず神さま相手に」という感じですで説明されるわけですけれども。それも理屈で言われてもわからない。

 その真(まこと)の神さまをすべての人の心の中に立てることを真柱(しんばしら)を立てると言うわけですけれども。それが総責任者の本来の自覚なんですけれども、その立て方を印可書奉読によって、なんで言うんですか、奉読することによって立てれるようにするよ、ということで印可書がでました。

 だから、真祈りを伝授するためのって書いてありますし、真祈りの全体像とはと書いてあるわけです。全体像というのは、もうすべてのすべてという、それが総責任者の自覚です。ここも大事なところなんで、わからなければ後でご質問ください。ありがとうございます

質問5
 河上さんがよくおっしゃる、「みんな既に悟っている、祈っている、救われている」という言葉ですが、この言葉を繰り返し唱えることも真祈りと考えてよろしいのですか?

河上さん
 はい、その通りです。ただ、この「みんなすべて祈っている、悟っている、救われている」というのは、その「みんな」というのをね、分け隔てた「みんな」という意味じゃないんですよね。

「すべて」という意味なんです。そこがわかっていただくと良いんですけど、先生はわざと引っ掛かるように、「すべて既に祈っている、悟っている、救われている」と表現されずに、「みんな既に祈っている、悟っている、救われている」と表現されたわけです。

 それは質問に来て欲しいからね、そうおっしゃったわけですけど。誰もそのことに関して質問に来なかったんで、その形で終わっていますけど。本当は「すべて」という意味です。ありがとうございます

質問6
 八拍手、真祈り体操をする時の心構えを再度教えてください。ありがとうございます

河上さん
 自分のすべてを真(まこと)の神さまに投げ込む、それだけです。具体的には一切文句を言わないとか、今が一番良いようになってるとか、一瞬一瞬新たに良くなってるとか、思い返せることです。もっともっと具体的に言ったら、結果を掴んでどうこう思わない気持ちですね。もっともっと言えば、さっきの「千里の道も一歩から」の「一歩」を、「一歩、歩ませていただいて良かった。」という気持ちです。だからもう、只々、させて頂いて良かっただけ。「すべて神さまのおかげです!ありがとうございます」の気持ちです。ありがとうございます

司会者
 はい、ありがとうございます それでは、ちょっと雨ですが、会場の中で河上さんに質問のある方お願いします。(質問がありました)

質問7
 はい、ありがとうございます 日本の作家さんで、作家さんの一人なんですけどもMと言う人で、Mさん。今、御存命なんで名前は・・・。また最近、新作出されたり、結構、海外でも読まれてる方なんですけども、自分も読んで見て。ああいう物語を上手く書いてるっていうことは、かなり音楽に近いような効果はあるんじゃないかなぁと、自分が中々真祈り一本にいけない時に、物語に感情移入するっていうのは、自分を切る時には、共感できる部分は、いいですかね?

河上さん
 いや、その小説のね、響きの世界に自分が落ちていくだけです。もうすべては、作家とか新聞記者とかね、物書きさんというのは、死んだらみんな地獄に落ちてしまうって言うんですけども、それは神さま以外の世界を書いて、みんなを神さま以外の世界に引き連れて行ったからです。それだけです。共感を持つっていうのは、自分の響きに合った作家の方というだけで、神さまのことが書いてないね、すべて真(まこと)の神さまという。

 小説っていうのは、分け隔てをしないと書けないでしょう?分け隔てしてるだけでマイナスの塊なんですよ。映画でもそうでしょう、戦争映画であってもどんな映画でもね、喜怒哀楽という分け隔てて、色んな不幸があって、それを乗り越えて幸せになるとかね。マイナスを表現しないと作れないじゃないですか、マイナスを認めた時点で、要するに結局は地獄に落ちていくわけ。

 この世は、虚の世界っていえども、すべて神さまのいのちできてましてね、一切のマイナスは本来ないんですよ。一切のマイナスが本来ないというのを知っていただくために、先ほど説明した、自分にとって都合の悪いこと、嫌なこと、辛いこと、邪魔くさいこと、自分にとってマイナスでしょう?それを喜んでできたら一切のマイナスがないって自覚できるから、この前(の勉強会)あたりからね、自分にとってですよ、他人じゃなくて、自分にとって都合の悪いこと、嫌なこと、邪魔くさいことをね、結果を気にせずにしていったら(結局)喜んでできるから、一歩ずつでもやっていきましょうねって言ってるのは、そのためです。一切のマイナスを認めないっていうのを別の言い方で説明しています。

質問者
 仏典なんかでも、物語を利用してるようなところ、仏典とかでも物語を使ってなんか、例えば法華経の須弥山(しゅみせん)にみんな集まるようなもの?

河上さん
 そりや如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)に書かれていることですけどね、その須弥山(しゅみせん)という言葉をどう捉えるかとかね、色々ありますけども、どっちにしてもマイナスをちょっとでも表現したら偽ものだということです。方便ということです。

 すべて真(まこと)の神さまだから、説明のしようがないんですよ、本当は。みんな光だからね、みんな光。みんな光っていう役者さんなんですよ。でも自分で好きな台本を書いて、色んな役を演じて楽しんでるだけなの。楽しんでるってわかったら悟りです。

 でも、さっき一番最初のご質問のようにね、あいつ嫌だ、どうこうってマイナスで責めちゃったわけでしょう、それは楽しんでないわけ。楽しむためにはどうするか?すべてどんな自分にとって都合の悪いことでも楽しむためにはどうするかっていうことでね、自分にとって都合の悪い嫌なこと、辛いことを結果を気にせずに一歩でもやる。その時に自分がしたと最初は思ってもいいんですよ。

 でもちょっとずつやるうちにね、自分にとってこんな嫌なことでも神さまがさせてくださった、よかったよかったって喜べるようになるという。喜べたら、すべてがプラスでマイナスは一切ないって、みんな光や、みんな真(まこと)の神さまやってわかる。実感できるっていうことです。

質問者
 なんか申し訳ない、最初のその作家さんが今回書いたっていうのは、若い頃に書いた物語に納得できなくて、一回書き直して、また更に今回・・・。

河上さん
 どう書き直そうとね、みんなを地獄に誘ってるのは間違いないです。だから、物書きさんは大変なんですよ。特に新聞記者なんかはね、マイナスの、マイナスのニュースの方が売れるからね。マイナスの記事を必死で書くのね、新聞売れるために。ワイドショーがそうでしょう、人の不幸を話てやるじゃないですか。ああいうふうにして、マイナスを掴んでどうこう言うとどんどん地獄に向かって落ちていくわけです。

質問者
 なかなか作家さんで過去みても、うまく成仏された方は、やっぱりなかなか・・・

河上さん
 いないです。だってマイナスを表現してるもの。

質問者
 映画監督なんかもそんな感じですか?

河上さん
 そうです、そうです。だってマイナスを表現しないと楽しめないでしょう。物語にしなくてもね、運動会でもそうでしょう。紅組と白組に分けて楽しむんでしょう。本来は分かれてないのに。そうでしょう、分けないと楽しめないじゃない。よーいドンというてね。赤組、白組、赤がんばれ白がんばれってやるわけでしょう。そうして楽しんだだけであって、無理やり分けただけであって、赤がプラスか白がプラスかっなんてわかんないでしょう。だから運動会は赤、白ってやってるわけ、白、黒って言わずにね。赤組、白組って言ってるのは、どっちもプラスだから、でも映画とかになると悪者を作らないと正義の味方が活躍できないでしょう。マイナスを認めちゃうじゃないですか。マイナスを認めた時点でアウトなんですよ。

質問者
 結局、ラストで悪役が本当はまぁ、ただの役だったんだよっていう落ちが最近の、でも主流だと、思うんですけどやっぱりそれでも、なかなかマズイ?

河上さん
 みんな真(まこと)の神さま、みんな光だってもっていかないとマイナスには変わりないです。普通の人間やって言うたらダメですよ。みんな真(まこと)の神さまって言うから正しいので。

質問者
 物語的に落ちになるのはどうしても、その結局マイナス。

河上さん
 だから、野球でもね、ジャイアンツが正義でタイガースが悪者だとしないでしょう。12球団みんな競い合うだけで悪い球団っていないでしょう。それだったらいいんですよ。そしたら、今年のペナントレースはヤクルトが優勝したなぁとかね、それで済むわけ。でも、あいつが悪いってやったら最後は戦争になるの。今やってる戦争ですらね、どっちが悪者は本当はないんですよ。お互い恐怖心で戦ってるだけ、本来はね。なのに悪いって決めつけて戦うとする。大義名分を作ってね、なんかしようとするから、どんどん不幸が増えるんですけどね。

 それの大元はそういう物語とか新聞記事なんですよ。マイナスを認めた。それは、なんでそんなんが出て来るかって言うと、みなさんが普段の生活で「あんたもっと勉強しいや」って責めてるでしょう。例えばお母さんが「うちの旦那もっと働かんかぁ」とかね、旦那の方は「お前もっとここ掃除せいや」とかね、あるじゃないですか。その責め合いが戦争になっていくんですよ。

 だから、一切のマイナスがないっていうとこにもっていかないといけないので、本来は一切のマイナスはないんですよ。ないのを実感としてわかってもらわないと、理屈ではね、一切のマイナスはない、みんな神さまや、みんな光や、あーそうかで終わりなんです。それでは何の意味もなさないの。実感としてわからないとダメ。

 実感してわかると先生の仰る無条件の幸せ、無条件の喜びって喜びだけ湧くの、その為の実感をわかってもらう為に、自分にとって嫌なこと、都合の悪いこと、辛いことをね、結果を掴まずに、淡々とすることによって、ちょっとでも進めたら神さまがさせてくださった、神さまのお陰で出来た、よかった、よかったって喜べるようになって、結局マイナスって自分にとってマイナスと思ったけどマイナスは一切ないんだなぁって実感できて悟れるわけです。はい、ありがとうございます

司会者
 他に会場で質問される方、おられませんでしょうか?ないようですので、河上さんお願いします。

河上さん
 ありがとうございます ともかくね、理屈で言ったら、「みんな真(まこと)の神さま」「みんな光や」だけなんですよ。でもそれを実感にしないと、なんの意味もないの。実感にするためにどうするか?

 まず最初の一歩は、「もう腹立つねん、泣くねん、嫌やねん」というね、いうとこを印可書奉読に立ち返ってやりましょうね、ということでお願いしてますけども、印可書は絶対嫌だという人がありますので、それなら「宇宙神ありがとうございます」でいっていただいたらいいんですけども。

 どれを選んでいっていただくにしても、まずマイナスを一切認めないということが必要なんですよ。で、マイナスを一切認めないためにはね、自分と他人の分け隔てを止めないといけないけども、分け隔てするなって言ったって分けちゃうでしょう?

 じゃあどうするかと言うと、自分を神さまにすべて投げ出したら投げ込んだら、「宇宙神ありがとうございます」という祈り言葉に、自分のすべてを投げ込んだら、分け隔てが消えるんですよ。そこまで「宇宙神ありがとうございます」に、すべてのすべてを尽くさなくっちゃいけないんだけども。只々、病気が治って欲しいから「宇宙神ありがとうございます」では分けてるの、まだ。分けてるうちはダメなの。

 でも、その投げ込むというのが、なかなか難しいから、「投げ込まないままでも真祈りにするよ」という印可書が楽ですよって言うて、テレビショッピングしてますけども。でも「宇宙神ありがとうございます」でいきたい人は是非ね、自分のすべてを投げ込んでやってください。そして、自分にとって都合の悪いこと、嫌なこと、邪魔くさいことをね、もう結果を気にせずに淡々とやっていかれたら、喜び勇んでやれるようになりますから、すると変わります。

 その、先生がね、昔、市川に行かれたことがあるんですよ。その時にその、住まわれた安アパートですけども、本当にあばら家の安アパートに住まれたわけですけども。その周りが雑草だらけだったんですよね。それを別に大家さんに頼まれてもいないのに、全部刈って綺麗にされたんですよ。その時に(先生が)僕におっしゃったことはね、この現世というのは、みんなが自分と他人を分け隔てて、マイナスを認めている世界だ。それが、この現世の環境に現れてね、雑草がボウボウと生えるんだ。

 あるいは部屋だったら、別に何もしてないのに埃が溜まってくるのはね、そのせいなんだ。それをね、お掃除とか、そういうのは、一番効率の悪い仕事なんですね。お金にもならないし。でもその一番効率の悪い、邪魔くさい、人の嫌がる邪魔くさいことをね、まずしなくちゃ、真祈りになっていかないんだっていうことをおっしゃってですね、率先してやられたわけです。

 だから村人にも山仕事をさせようとしました。山仕事って、今、山はね、もうツルが生えて雑草が生えてすごいんですよ。その雑草を全部どけて本来の木が育つようにするというのが、真祈りに繋がるし、真(まこと)の神さまが降りたって働くすがたになるんで、山仕事をさせようとされたんですけど。なかなか、そういう説明も先生は何回もされてるんだけども、録音にも残ってるんだけども聞いてくれない、ということで今に至っています。

 もう、どうしても「宇宙神ありがとうございます」でいきたい人は、いってください。別にみんな自由意志だからね。どれが良い悪いかなんて僕は一言も言ってません。ただ、「楽な、できるだけ楽なようにいった方がええんちゃうん。」とかいうことで楽なことを説明してますけどもね。

 そうだけど、別に印可書はね、印可書奉読してる時は、自分が意識しなくても、自分のすべてを神さまに投げ出してる状態に、先生がするよ、ということなんで楽なんですよ。でも「宇宙神ありがとうございます」の時は、先生がちゃんと説明されていますけども、「宇宙神ありがとうございます」の祈り言葉に、自分のすべてを投げ込まないとダメなんだ。そこまでしないとダメなんだっていうことは、何回も録音にも残してくださっています。

 是非ね、「宇宙神ありがとうございます」を選ぶ方は、その録音を探し出して。どこに何年何月のいつなんて一々もう言いません。それくらいは自分でお探しなさい。それくらいの真剣さは必要ですけども。ちゃんと録音に残っていますからそれを聴いてね、僕が言ってるんじゃない、先生が言ってるんだから、「宇宙神ありがとうございます」の中に自分のすべてを投げ込んでください。

 投げ込めば一切、自分にとって不都合なことが起こっても文句を言わなくなります。だって自分を神さまに投げ込んでるんだから、自分にとっての不都合もクソもないだけです。もし文句を言いそうになったら、まだまだ投げ込んでるのが足りないなって反省されて、投げ込まれたら良いです。ひたすら。その繰り返しによって悟っていけます。

 ありがとうございます また来月お会いできることを楽しみにしています。ありがとうございます

 音声はこちらからどうぞ
 https://youtu.be/Ltpmd5cbqU8
 
 宇宙神ありがとうございます

じょうし 2023/05/11(Thu) 05:51 No.2933


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5月光の交流会 by 河上 [Mail] 2023年05月10日(水) 15時11分
PC

5月光の交流会
 宇宙神ありがとうございます

 令和5年5月の光の交流会で聴いていただいた先生のお話です。今回みなさんにお渡ししましたプリント、かなりの間違いがありました。申し訳ございません。

質問
 一番下に立って、全体を支えるだけ、与え尽くすだけ、愛するだけということについて、 以前の先生のお話の中で、一番下が絶対の中心という言葉があったのですが、その一番下という意味と絶対の中心について教えてください。

先生
 支えるっていう立場に立ったら、こう持ち上げないといけないよね。だから、下から支える感じよね。一番下に立たないと、ちょうど人間ピラミッドがそうよね。 順番に一番力のある人が上を支えてしていくわけですけど。

 ただ、その大きく支えるのは、絶対に中心じゃないとできないよね。一番大きいところよね。だから、無限大の外遥か彼方、無限の無限の彼方が、一番大きいところが絶対の中心で、そこが一番下になる。一番謙虚な立場。

  真(まこと)の神さまは、自分を絶対出さない。なぜかと言うと自分がでしゃばると、みんな消えてしまうのよ。あまりにも光が強すぎるからみんなを消してしまう、邪魔してしまうのね。だから、自分を絶対出さない、必要なだけの光を出して与え尽くしてくるだけだから。

 だから、一番大元は絶対の中心で、なおかつ全部(の)すがたをまで(すべて)隠してしまうところなの。だから、表面に出ない、上に出ない、隠れて隠れて、ちょうど谷のように隠れて隠れて下へ下へ降りてしまう。山は上へ上へ出てくるよね。谷は下へ下へ掘り下げて、下へ下へ降りていくわけね。千尋の谷にぐらいじゃないの、無限の無限の奥深い谷よね。

 それで、真(まこと)の神さまのことを谷神(こくしん)って、谷の神さまのことを谷神(こくしん)っていうのね。本物は谷神(こくしん)っていう。自分は絶対表に出てこない、上に出てこない。全部下から支えるね、 絶対の中心から 谷の底から支える働きをするのね 。それがもう一番謙虚な、一番大きい立場よね。

 単に支えるって言うけど、支えるっていう言葉自体がね、この押し上げる、プラスを与える、色んな意味があるよ、支えるっていう意味もね。それで自分は表に出てない、縁の下の力持ちよね。それはもう、真(まこと)の神さまの愛のすがたそのものよね。支えるって働きはね。この支えるっていう生き方が身についたら本物なの。

 例えば一つの家庭を支える、支えるって言う人は全体をいつも見てる。一人一人を的確に見てるよね。 それでいて、必要なものをしっかりと捉えて、与えようとしている。全体の調和を常に考えてるよね。

 一つの会社でもそうよね、一つの組織だったら、組織の本当の責任者は支える働きをしている。上に立つのはダメよね、上に立つのは、もう支えてないから全然ダメよね。支えるというのが、その組織を守っているという人よね。

 権力者が国を支配する、それは違うのね 。支えじゃないよね、支配している。自分の思い通りにしてるだけの話。みんなから奪っているだけの姿よ。

 支えるって言うのは 、一番下から全部を支えて、押し上げて支えて、調和をしっかり守っている姿よ ね。だから自分は全部、与え尽くして消えてない。自分というのがなくなったら支えてる。

 難しいね、これね。完全に自分を消してしまわないとダメ。その消し方が与えて与えて、それで死に切って消し切るっていうとこまでいくのよね。過去の自分を全部なくしてしまう。色んな色んな我(が)、我(が)っていうより自分って出てくるよね。

 マイナスの自分は元々消した方がいいんだけど、プラスのいい働きをしたものまで消さないとダメなのね。それは何故かっていうと最高のいいことをしたっていう自分が、今ここにあるとしたらね、真(まこと)の神さまの働き、新たなすがたもっと上なの。もっと無限倍素晴らしいすがたで出てくるから、これが自分が最高っていうふうに出てきたら、もう過去の残像の虚の世界へ転落するの。飛ばされてしまう虚の世界へ。

 無限倍素晴らしい、真(まこと)の神さまの愛のすがたが出てきたら比較にもならない。どれだけ今の自分が最高に素晴らしい姿っていってもね、ダメなのね。だから、もう常に最高のプラスの自分まで消し切っていかないと新たな真(まこと)の神さまの与えてくるすがたを受け取れない。

 だから、お祈りが神さまの一大循環の相象(すがた)を新たに新たに受け直そうとする働きっていうんだけど、でも新たに新たに受け直してもね、受けた時は掴んでるよね。一瞬でも掴んで自分のものにしてるね。そしたら、それを掴みを離すために、またそれを与え尽くして空っぽにしないとダメ。

 それを一瞬一瞬し続けないと新しい自分になれないよね。そんなんできないね、不可能よね。受けて掴んでは離しってね。掴んだら、なかなか離せない。全部捨て切るまで時間がかかる、大変なの。

 お祈り「ありがとうございます」のお祈りは、受けるんじゃないの。受けるお祈りは、偽の間違いのお祈りよ。神さまの愛を、一大循環の相象(すがた)を、新たに新たに受けるっていうのね。受け直すっていうのは 間違ったお祈り。

 そうじゃないよね。真(まこと)の神さまの側に立つことよね。真(まこと)の神さまが真(まこと)の自分。一大循環の相象(すがた)となってね、厳然と今此処(ここ)にっていうふうにね。与え尽くす側に立つことよ。

 (一切を報い求めずに→無限供給というところてん構造を自覚すると、一切を求めることはなくなる)与えて与えて与えて尽くす側に立った時に、はじめて掴む必要がなくなるね、与えっぱなしでいいの。与えたら絶対の中心から必要なものが流れこんでくる。流れっぱなしよ。だから、自分は与えるだけでいいのよね、与えて与えて与えるばっかりがいいのね。そうすると必要なものは次から次へと絶対の中心から(奥の奥から)流れ込んでくる、流れるだけよ。

 絶対掴まない。(中心に立ったら掴めない→掴んでしまう間は、まだまだ絶対の中心はるかかなた・・に立っていない)だから、掴まないから(掴めないから)、 もう掴みを離そうとする必要もなくなる。もう一瞬一瞬が大きい流れだけよ。神さまの愛の流れだけがあるのよね、それが循環してくる。そこに入ったらもう一番楽よ。

 神さまの愛の流れだけが、一大循環の愛の働きだけが本当にあるんだっていうことよね。わかってくる 実感できる。単なる神さまの愛っていったってね、静止した静かなものじゃないよね。本当に躍動した、本当の無限の無限の愛が無限に無限に一杯って本当に働いてる愛よね。与え尽くし合ってる愛よ。もう全ての全てと縦横無尽に与え尽くし合う、与え合う愛なのよね。

 離れてるものと離れてるものとをくっつけたってダメよね、そんなんね。米粒を一杯くっつけてもね。本当の一体感じゃないよね。本当の一体感は、もう区別できなくなるまで与え尽くし合わないとダメね。それがスピード早く。無限のスピードで与え尽くし合ったら区別つかない、絶対ね。もうそれ全てとよね。
全てとの与え尽くし合いの循環交流融合一体化があれば本当の完璧な、永遠、完全極まりない一体感ね。完全って言ってもまだ本物かどうかわからないよね。

 本当の神さまの完全っていうのは、極まるところがない完全性よ。行き止まりがない有限じゃないね、行き止まりのない完全性よね。完全極まりない一体感になるのよねどこにまで行ってもまだまだ与え尽くし合いが起こるっていうね。行き止まりがない、これだけしたから充分っていうのと違うね。まだまだ足りないっていうぐらいの感じで与え尽くし合っていくの。

 だから、真(まこと)の神さまの世界には、与える側と受ける側っていうふうに分かれて存在絶対しない。対立して相対の両極に分かれてね。与える側と受ける側、救う側と救われる側とかね。こういうふうに分かれた時は、虚の世界よ。真(まこと)の神さまの世界は 対立するものを全くないのね。だから、与える側だけ、助ける側だけ、救う側だけ。だから与えるだけの働きが、それだけあるのが、真(まこと)の神さまの世界、真実の世界、一大循環の世界よ。

 だから、与えっぱなしでいいの、与え尽くすだけでいいの。その与え方が、本当に必要なものを本当の本当に必要な時に、本当に必要なところへ、本当に必要なだけをって、過不足なく過普及なくってね。もう本当にピタッと決まらないとダメね。それで最高の状態で的確に与え尽くしていくってね。これが神さまの愛の働き、本当に与えるっていう働きよ。

 この愛の与え尽くす働きだけが循環してる世界が真(まこと)の神さまの世界よ。本当の自分は、真(まこと)の神さまが真(まこと)の自分っていう一大循環の愛の相象(すがた)をとっている自分が本当の自分よ。これ以外ないよね。後は、みんな偽物ばっかり。本当の自分を忘れたら偽物の自分になる。本物で本物だったら偽物ではないの。本物でなくなったら偽物よ、みんなね。

 真(まこと)の神さまを真(まこと)の自分っていうふうにね、受け直せて、実感する自覚するっていうとこまで入らないと偽の自分を掴んでしまってる。それは、本物を掴まないから偽の自分になるの。

 虚の世界を消すには、実の世界を持ってこないと消えない。思いを消すには本心をしっかりと生きないとダメ。虚の世界でね、マイナスを消すためにプラスを持ってくるっていうこんなんと違うのよ。これは、まだ虚の世界の話だからね、これではまだダメなのね。

 腹立つ思いを消すのに腹立たない思いを持ってきたら消えるとかね、この程度じゃダメなのね。この過去を掴む心を、すべての心を、また虚の世界の全部を、全部消さないとダメでしょう。それ全部消すのは、真(まこと)の神さまを自覚しないと、本当の自分を自覚しないとダメ。

 だから、真実の世界にいてても心の目を閉じたら光見えないよね。輝いたすがたが見えない。目を閉じたらそうよね、心の目を閉じてしまったらそうなる。一大循環の愛の輝き一杯の世界が感じられたら、真実の世界に住んでるのね。でも心の目を閉じて感じられなかったら、虚の世界になる。

 残像の中に生きてても本物じゃないよね。目を閉じて残像をいくら感じても本物じゃないね。本物と残像の違いって大きいよね。太陽を眺めててね、一瞬目を閉じて、瞼の中に浮かんでる残像の太陽なんて小さい。でも、虚の世界は残像の光がプラスの側になるのね。残像もない方がマイナスになるね。虚の世界のいいもの全部、プラス側全部、残像よ。残像というのは どんどんどんどん 薄らいで消えていくから 虚の世界にも無限の段階が生まれるの。プラスの側って言うてもね、無限の段階に応じてプラスの側のものが、大きいものから小さいものまで順番に変わっていくわけ、消えるに従って小さくなっていくのね。

 もう一回目を開けたらいいんだけど目を開けないのね。心の目が開かないから、新しい光が入ってきたらまた残像も明るくなるんだけど、一回目を閉じるとね、どんどん残像の光が和らいで消えていくの。そうするとマイナスの極に地獄のどん底まで落ちていくの。もう一回光の方へ引き戻すために、末端の光を与えたんでは足りないから、そこで瞼を通して強烈な光を与えたら、目を閉じていても明るく感じるでしょう。普通だったら末端の小さい光で済むんだけど、それでは瞼を閉じた中までは大きい明るさがないのよね。だから、もう一つ強烈な光を与えると瞼の中の虚の世界の残像の世界もパーッと明るくなるよね。

 そういう形で、真(まこと)の神さまは虚の世界に救いに立つのよ。光の強さを加減して、必要な光を与えて、光の世界に戻りたいっていう心を起こさせようとする。それはもう色んな方便を使って、光を加減しながら導くのね。だから、わざわざ残像の虚の世界に入り込むのと違うよ。瞼の外から光を加減して必要な光を、その時、その時、必要な光をどういう光を与えて加減するかによって変えてくるの。

 真(まこと)の神さまの与えてるのは、強烈な光だけなの。本物の光だけを与えてるね。それが虚の世界では、色んな明るさになって変化する。

 真(まこと)の神さまの光は強烈よね、入れ子構造の仕組みでね。どれだけしても大きい強烈な光になっているから、どんな光でも与えられる。瞼を焼くぐらいの光。瞼を焼いてしまったら、目を閉じられない。開けっ放し。ただそれは、人の自由意志を無視してはできないからね。これもやっぱり光が恋しくなった時に大きい光を与えて虚の世界をちゃんとするの。
 
 やっぱり自分から光、明るさを求めないとね、そういう心にならないと闇を必要としてる人には、やっぱり強烈な光は逆になるからね、与えようがないのよね。もう常に、本当に必要なものを与えてくれる。一番幸せなように与えてくる。これどんなものもそうよね。

 真実の世界の入れ子構造の世界のね、色んな段階のすべてに対しても必要なものを与えるの。虚の世界に対してもそうよね。虚の世界のすべての次元の世界に対してね、一番末端の地獄のどん底の人に対してもそうよね。本当に必要なものを与えてくれる。余分なものは与えない。本当に必要なだけを与えてくれるから一番いいのよね。

 これも常に、そうよ、真(まこと)の神さまは、すべてのすべてに対して、本当に必要なだけを与え尽くしてるの、常にそうしてくれている。だから完璧な護り、盤石の支え、本物の愛の働きだけがあるのよね。ただ、それに気付いてるかどうかだけの違い。気付いた人が幸せ、気付かない人はまだ足りないね。

 「ありがとうございます」って唱えるのは、真(まこと)の神さまの一大循環の相象(すがた)これが厳然と今ここに在るって実感するための言葉よ。そのために自分も神さまの与え尽くす愛の側に立つ。

 真(まこと)の神さまが真(まこと)の自分。一大循環の相象(すがた)で厳然と今此処(ここ)に在るってね。自分が、このすべてに対して、必要なものを与え尽くす生き方を取ろうとするの。そしたら神さまの側に立ってるから神さまの愛がよくわかる。受け取ろうとしてもわからなかったのがね、自分が与える側に立ったら神さまの愛のすべてがわかる。

 ちょうど太陽の光を受けようとすると一筋の光しか受けられない。全方向の無限の光受けられないよ。自分の方向へやってくる一筋の光だけよ、受け取れるのはね。受けようとしたらね、いくら太陽の光受けようとしてもそうよ。太陽の全部の光受け取れないね。一方向からの一筋の光だけが受け取れる。でも太陽の側に立つ、与える側に立った時に全方向へ、全方向へ与え尽くす、この光全部わかる。太陽のおちてる、与え尽くす光、全部自分のものになるよね、太陽の側に立ったらそうよね。無限倍の、この与え尽くす愛の心が自分のものになるの。
 
 真(まこと)の神さまの愛は、この太陽のようなものじゃないけどね、もともと大きいよね。絶対の中心を元にしたね、与え尽くす愛だから、太陽みたいに一点から与えるふうじゃないからね。そんなん比較にも何もならないけどね。でもどちらの側に立つかっていうことがよくわかるよね。受ける側に立つのがいいか、与える側に立つのがいいかってね。与える側に立った時が本当によくわかる身につくのよ。

 だから、悟りを開きたいって言うんでもね、自分が悟りたいって言う時は、自分が受けようとしてるからダメよね。反対ね、みんなを悟らせたいっていう立場(みんなすでに祈っている悟っている救われているという心境の立場)に立ったら悟った自分になる。みんなを救おうという立場(みんな真の神さまと実感できる立場)に立ったらいいのよね、そしたら救われた自分になる。この違いは大きいよ、無限倍になるよいつもね。

 「ありがとうございます」って唱えても受ける側の「ありがとうございます」は小さい。与える側の「ありがとうございます」は無限倍大きい。だから「真(まこと)のありがとうございます」は与える側に立つことよ(与える側に立つことを覚悟するために、真(まこと)の・・とつける、覚悟がついたら、つけなくて良くなると実感できる)、救う側に立つこと、助ける側に立つこと。

 同じ唱えても立場で全然変わってしまうの。

 音声はこちらからどうぞ
 https://youtu.be/au-Z07xPZqQ

 宇宙神ありがとうございます


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4月勉強会 by 河上 [Mail] 2023年04月14日(金) 14時50分
PC

令和5年4月河上さん勉強会−1前半

河上さん:質問。

質問:はい、お願いします。2つあります。松下先生のお話の中で、「執着しているものは、神さまから盗み取ったもの。」とありました。私は過去の楽しかった出来事をけっこうしょっちゅう思い出してしまうのですが、たとえ思い出すことによって明るい気持ちになれるとしても、過去を掴んで執着しているので止めた方が良いのでしょうか。

河上さん:ああ、その通りです。執着とは何か。執着とは何かっていうのがみんな分からへんのね。それはなんで執着してることが、まあ悪いことでも良いことでもそうですけど、イエスが「心に姦淫をおこす者」って言うくらいね、その心の中で掴むことが、執着というのは現実的よりも、まず心の中で掴むことが問題なんですけども。

 掴むことが良くない。なんで掴むことが良くないかと言ったら、それは一瞬一瞬新たが分からないから。一瞬一瞬新たが分からないから、楽しかったことがもう二度と来ないと思うのね。二度と来ないと思うから掴んどくわけ。もうそれに尽きるわけ。

 極端に言うと、本当は一瞬一瞬宝くじに当たってるのにね、一億円が当たってるのに、もうこれが当たったら次はないわと思って掴むような感じですね。

 まず一瞬一瞬新たが分からないと掴むことも離せない。だってそうでしょう?どんどん、ところてん式にね、無限に無限に湧き上がってくるの。それが分かっていたら、要するにまあ言ったら、綺麗な泉がね、綺麗な水がどんどん湧き上がってきているのにね、わざわざこの溜めた古い水を持ってないでしょう?普通ね。でもその湧き上がってきてるのが分からないから、まあ水でもなんでも囲い込むわけ。

 いつも言うように、100人の人に100個のパンを神さまは用意してるわけ。だから、次1000人になったら1000人分用意してくださるわけよ。

 でも100個のパンしかないから、これ人数が1000人になったら足らないようになるから、私ちょっと確保しておきましょうってなるわけね。それはもう常に神さまの一瞬一瞬新たが分からない。なんでその一瞬一瞬新たが分からないかと言ったら、神さまが全知全能でね、絶対愛でね、なんでも分かっていらっしゃって、その人にとって一番良いことしかなさらないということを信じ切れないから。

 その極端な例が、絵馬に書いたりね、なんとか祈願とか、なんとか退散祈願とかあるじゃないですか、願い事ね。東京大学に入学できますようにとかね。そういう願い事が神さまを侮辱する最たるものね。その人にとって必要なものを必ず神さまは与えているから、例えば東大に入学して色々とする必要があったら、絶対に入学できるしね。その人にとってこの世でしなくちゃいけないことをちゃんと神さまは用意されるわけ。なのに「神さまは分かってくれてへんから、絶対来ない。」と思って掴んじゃうわけ。ここがすべての苦しみの始まりになるというのも気付かないのね。

 簡単に言うと、お料理で言うとね、この美味しいお料理ってあるわけでしょう?でもお料理は腐っていくじゃない。でもね、この美味しい料理を次も食べたいからって言って、明日も食べましょうって置いとくわけよ。本当は腐っていってるから、それを食べたって美味しくないし大変になっていくんだけど、次が来ないと思ってるから、それでもなんとかと思ってみんな掴むわけ。

 それでまあ言ったら、思い返すというのは(たとえて言えば)腐ったものを食べてる(ような)わけよ。それで結局お腹痛を起こすというのがね、この世的な苦しみになっていくみたいな感じです。 

 それは残像に残像を重ねてという先生の難しい説明がありますけど。残像を掴んで、その掴んだ残像をもう一辺掴んでっていう、残像に残像を重ねていくの。その残像をいっぱい重ねた状態を地獄っていいます。という感じなのね。

 一瞬一瞬新たのとこだけやねんけどね。神さまの絶対のを信じ切れるかどうかだけやねんけども。

 みんな結果を掴んでどうこうと思うからね、余計掴むんやけどね。そうだけど本当は神さまが一番良いようにしてるからね。何も悩むこともないし、なんですよ。

 でものその、神さまが一番良いようにしてることが、なぜ、要するに神さまは全知全能で絶対の愛というのが、なぜ信じ切れないかって言うと、それは自分と神さまを分けてるから。せめて、神さまの子どもぐらいには思わないと、せめてね。本当は不離一体だけど、せめて神さまが親で自分が子どもぐらいには、せめて思わないと、と思ってイエスが説明したら、それはそれでまた、変に分けてね、ややこしくなるんだけど。この説明あんまりしたくないんだけど。

 でも例えば、親を手伝いたいと思う子どもがこの頃減ったから、説明も良くないんだけど、せめてね、親を手伝いたいと思って下さいということです。それって先生の言葉、難しい言葉で言ったら、総責任者の立場に立つということです。総責任者の立場に立たないと、何も分からない。それが総責任者の立場に立つとね、何が嫌なんか僕には分からないんだけど、みんな嫌で立ちたがらないのね。

 要するに絶対の愛というのは何かと言うと、絶対の愛というのはもう、本当にオールラウンドでオールレンジなんですよ。すべてのすべてなの。そのすべてのすべてって何かって言うとね、皆さんに分かりやすく言えば、自分にとって凄い嫌なこと辛いことが喜んでできることなの。何で皆さんは、自分にとって凄い嫌なこと辛いこと邪魔くさいことをしたくないかと言ったら、苦手だから。なんで苦手って思うかと言ったら、さっき言ったように自分と神さまを分けちゃったから。

 神さまは全知全能でなんでもできる方でしょう?だから神さまはどんな嫌なことでも辛いことでも喜びだけでやれるわけよ。なんでもできるから。そして神さまは結果を掴まないから。

 大自然ってそうでしょう?結果を掴んでたらね、「お、台風が来て山が崩れてしまったじゃない。」だけど、その崩れることによって、新しい川ができたり、新しいことが展開するわけでしょう?「火山が噴火して大変になったじゃないか。」って言うけど、それによって新しいことが展開するというね。神さまは結果を掴まないから、サラサラとドンドン完成していくわけですよ。

 でも人間は結果を掴むから、邪魔くさいこと辛いこと、自分にとってよ、自分にとって邪魔くさいこと辛いこと嫌なことが嫌なの。

 本当にね、その掴むというとこがね、悟りに程遠い状態なんですよ。どの時もね。悟ったというのをね、悟ったというのを思った人はね、悟ったというのを掴まないの。何も掴まなくなったから悟ったの。最後までみんなね、その過去を掴むことからね、逃げられない。なんで逃げられないかと言ったら、虚栄心なんです。

 もう虚栄心だけが最後の最後の、最後の最後の大きな関門でね。虚栄心だけが最後まで残るの。虚栄心があるがために悟る寸前まで行って落ちちゃうの、みんな。

 先生は、最後のその人の虚栄心を取ろうとしてね、昔はね、ここで名前をあげても良いんだけど、何人かの人には「あなたは悟った。」って言われてるの。それを言われた時ね、口で直接言われた場合と、一緒にお祈りして凄い心境の上がった状態で悟ったと思った人と、二種類の言われ方がありますけども。どっちにしても、先生が「悟った」って言うのはね、最後の卒業試験なんです。

 本当に悟ったらな、言われなくても分かる。分かりますか?本当に悟ってたら言われなくても、「すべては完璧なる一つ」っていう喜びが無限に涌くからね、分かるんだけど。喜びが無条件に涌かない状態で「悟った」ってみんな言われるわけです。言われた時に「いや、自分は無条件に喜べないから」って気付く人は良いんだけど、たいがいは気付かずにね、虚栄心をくすぐられるわけよ。それで「私は『悟った』って言われた。」「私は『悟った』って先生に言われた。」ってね、うっかり人に言っちゃう。

  もう、僕の知ってる、その先生が僕に見せてくださった、最後の卒業試験を与えた人すべてがね、みんなね、人に言っちゃった。で、言った時点でアウト。卒業試験に失格です。ギリギリまで行ってるのに、そこで滑り落ちるから本当にガックリ落ちちゃうのね。もう気の毒だけど。でも自分で、自分の虚栄心で自分で落ちてるんだから、どうしようもないんだけど。こっちからはどうしようもないんだけどね。そういう感じ。

  それくらい掴むというのが大変で、その掴むというのは結局虚栄心なんです。要するに虚栄心というのは、自分と他人を比べて他人より自分の方が良いようにしたいのが虚栄心です。卑下慢の形になってね、「あの人の方が凄いから私ダメだわ。」というのも虚栄心ですけど。それも結局は自分の方が上だと思いたいという虚栄心なんですね。どの形をとってもね。その虚栄心がある間は不離一体ができないでしょう?神さまと自分を分けてるようなもの。自分と他人を分ける時点で、本当は神さまと自分を分けちゃいけないのに、それ以上に分けてる自分同士を他人として分けるからね。分けるから、先生に「悟った」と言われたら言いたくなる。それで言ったらもう落第。もうその繰り返しでした。

 先生にしたら、もうちょっとだから、あとこれでポンっとやれるということで、最後の虚栄心のね、最後の一つくらいは自分で取らなくちゃいけない。ほとんどは先生が取ってくださるけど、最後の一つは取らなくちゃいけない。その最後の一つが、みんな取れずに落ちちゃうの。それくらい虚栄心というは難しいもんだったんだけど、その虚栄心がどこから来るかというのは、その掴むという。掴むというのはどこから来るかというのは、一瞬一瞬新たが分からない。一瞬一瞬新たがどこから来るかといったら、神さまは全知全能で絶対の愛でね一番良いようにしてくださってるのが分からないから文句を言っちゃうわけ。文句を言った時点で一瞬一瞬新たも分からないし全部崩れていくんですけどね。

 これ、話が終わらないんで、ここで一旦切って次の質問で。今のことで疑問があったら後で質問して下さい。

質問:「さらさら受け流していたら、必ずもっと良いものが来る。」とお聞きしました。
今現在、虚の世界で辛い状態なのですが、「必ずもっと良いものが来る。」というのは、今現在の状態が良くなって辛さから抜けられると考えて良いのでしょうか。考え方が小さすぎでしょうか。

河上さん:はい。考え方がまったくなってないです。質問の方には申し訳ないけどね。何がなってないかと言ったら、現実を掴んでるでしょう?掴んでしまった時点でもう全部身動きが取れないのね。神さまは誰もね、あなたを縛らないの。みなさん誰も、神さま絶対、相手の絶対の自由を縛らないんですよ。

 みなさんは絶対の自由を持ってるから、自由自在にね、なんでもこなしていけるの。なのに、なんでそうなるかと言ったら現実を掴むから。「私はこんなに今不幸な状態だわ。」って自分で自分を縛るの。誰もあなたを不幸の状態にしてないよ。あなたが自分で自分を縛って自分で身動き取れなくして、しんどい状態にしたから、しんどいから不幸だわって言ってるだけなの。ということにすら気付かないくらいね、自分で自分をみんな、がんじがらめに縛るのよ。

 その縛りをね、スパッともう、タコ糸が絡んでる状態なんで一々解けないんよ。それでキリをスパッと切ってね、外しちゃうの。それがいつも先生の救いで引き上げてもらうんだけど。でも最後の一筋は自分で解かなくちゃいけない。それが虚栄心。

 今のことでも、現実が苦しいというのは、今の状態がどうこう言うのは、他人と比較してるでしょう?自分一人見たら、例えばお家があって、それなりにね、贅沢はできなくても食べるものもお水もあってね、着るものもあってね、本当は幸せいっぱいじゃない。でも人と比較したら確かに不幸かもしれない。でも比較するというのはすでに虚栄心なの。それに気付くまではどうしようもないんだけど。

 もういくらどうやっても、例えば「あなたは悟った。」と言っても落ちよるし、どんなに説明してもダメなんで、「宇宙神ありがとうございます」だけにね、先生は最後はもう、印可書を出しても受け取ってくれないから、「宇宙神ありがとうございます」に絞ってくださったわけですよ。

 その手前で、いわゆる沈黙という状態でね、悟りという救いを先生は与えてくださったわけですよ。先生が喋れなくなったというのはそれなんです。その沈黙の時にスッと先生の為にお祈りしてたら受け取れたのに、「先生が喋られなくなった。私たちはどうしたら良いの?」って求めたでしょう?それで分からなかった。「維摩の沈黙百雷の如し。」って言ってね、維摩先生はその最期の沈黙で多くの人を悟らせたのに、今回は失敗したの。みんなが頼ってるから。

 それで先生は仕方がないから沈黙を破ってね、喋ってくださった。「宇宙神ありがとうございます」って喋ってくださった。それを「はいっ!」って受け取められないのね、みんな。もう一番大きい問題だったんです。「『宇宙神ありがとうございます』って私達聞いたわ。」で終わりなの。聞くだけではダメ。実行しないと。誰も実行してくれない。「いや、私達1日に1回は言ってるわ。」「100回は言ってるわ。」そういう問題やない。命を懸けて。自分のすべてを懸けて祈り言葉に投入しなくちゃいけない。

 でもそれはできないだろうから、せめてと思ってね、「呼吸に『宇宙神ありがとうございます』って乗せましょうね。」って言ってんけど、乗せれないんやろ?で、それもしんどいんやったらって言って、「『ひざももすべり』でやってね。」ってやって、さあ、どんだけの人がしたんかっていう感じで。いや責めて言ってん違うで。それぐらいね、みんな命を込めれない、懸けれない。なぜ懸けれないかというのは、求める心だからです。

 例えば、「宇宙神ありがとうございます」って祈るから幸せにしてくれ、印可書読むから幸せにしてくれ、ありがとうございますって言うから病気を治してくれとかね。そういう心がある間は祈りじゃないの。なぜかと言ったら、神さまが完全円満というのを否定してるでしょう?今の自分で一番良いようにしてくださってるということを信じ切れないから、「この祈り言葉を唱えるから悟らしてくれや。」とか「病気治してくれや。」とかあるわけ。

 それが邪心だということすら気付かない。それが一番の問題で、でもいつまでも人類がその状態だから、神さまが先生を引き上げちゃった。でも先生は、本当に先生は優しいからね、最後まで最後まで印可書を残していってくださったりね。僕の方が先に逝く予定だったのに逝かせてもらえないまま今こうなって、こうなってますけども、ということです。

 だからまずね、その神さまの絶対の愛、完全円満完璧な真(まこと)の神さまを受け入れなくちゃいけない。信じ切れなくちゃいけないんですよ。それって今が一番良いようになってるはずなの。でも、それも一瞬一瞬新たが分からないと、もうね。例えば着ていくものでも古くなっていくじゃないとか、お家も傷んでくるじゃないとかって、みんな掴むわけよ、現実を。掴んでしまったらサラサラと流れない。そこだけですよ。如何にあばら家でも、雨露しのげるから良いじゃないって喜べないとあかんのに、文句言い出すと崩れていって分からなくなっていくの。

 だから例えば、すごく足が痛くなってきましたっていってもね、「ああ神さまに使って頂いてよかった。」「腰が痛くなった。神さまに使って頂いて良かった。」って思えたら良いんだけど、文句を言うんやろう?頭がフラフラしますって言って文句を言うの。言った時点ですべてが終わってるんだけど、まだおまけを出して、そうやったらこうしなさいってまでね、先生が言ってやれだから言うんだけど、実行しない。誰も。ここにいてるみんなそうよ。実行してへんの。実行しないとそれは無理です。

 実行というのは何かと言ったら、もうひたすらそれにね、全部の自分のすべてを捧げ尽くさなくちゃね、いけないんだけど。だから印可書が選べなかったんだったら、「宇宙神」っていうね、「宇宙神」って先生は何遍もおっしゃってるのに、そこまで、ウンって宇宙って奥に入れないのね。入れないからひざももをやってるんだけど、とにかく奥へ奥へ入らなくちゃいけない。そのためには、今の自分の幸せとかね、この世的なものはどうなっても良いです、神さまにすべて投げ出しますっていう気持ちが要るわけ。

 そこがみんな覚悟できへんわけよ。それでその、理屈言いはね、「じゃあ、もう普段の生活を全部投げ出して、財産も全部ね、例えばこの村に寄付して生きたらいいんか。」みたいな訳の分からんことを言い出すわけ。そういう「形」じゃない。なんぼ(いくら)形を投げ出しても、心が現実を掴んでる限りは一緒なんですよ。

 もう多くの宗教とか色んな宗教がみんなそれで崩れていくんだけど、教祖はすべてを投げろって言うのに、みんなは自分の持ってるものを投げるわけ。それで自分の持ってるものを投げたって心が病気を掴んでたら一緒やろ。心が不満を掴んでたら一緒やろというのが分からへん。その投げ出すとこが一番の問題で、結局どの形、どの祈り言葉を出しても投げ出してくれないから印可書にしてます。

 印可書だったら、投げ出そうとか要らんことを考えなくても読むだけで、読むだけでね、奉読するだけで神さまに捧げるだけで、もう真(まこと)の本来のあなたの自分、新たな状態に戻すよっていう先生と神さまと約束事にしてくださったからね。印可書がラクです。

 でも「宇宙神ありがとうございます」で行きたい方は本当に命を懸けて下さい。特に先生が最後の方に残された録音がありますね。「宇宙神ありがとうございます」っていうね。この「宇宙神」ていうね、ここをもっとあのテープを聞いてね、「宇宙神ありがとうございます」で行きたい人はね、あのテープを聞いてされないとダメです。それができないんだったら印可書をされたら良い。それもご自由に選ばれたら良いですけどね。それくらい現実を掴むことは大変なんです。

 でもみんなは神さまの御心に沿ったら良いんだなあと思いつつ、「自分の思い通りにしたい。」が出てくるわけです。今更もうそれね、自分の願いを横に置いといて神さまに全部とか言ったってな、もう出来へんのはもう先生は分かったよ、と。あなた方出来ないのは分かったと。

 だから印可書で行くよということを、お前説明せえと。そんなややこしいことを説明させられたってってみたいな感じで。そんなん先生、僕の言うことなんて誰も聞きませんでって、何遍も言うんだけど。先生の返事はね、いつも一緒だったんです。「本物が現れた。」って。いやいや、そんなん言われても…みたいな感じのまま来てます。

 それが先生のすべての答えだったんですよ。本物が現れた、要するに真(まこと)の神さまが現れたっておっしゃってるの。それだけだった。だから、先生のあの「宇宙神」の最後の録音でもね、「サーサーと本物が現れるだけや。」「本物がすべてや。」っておっしゃってるはずです。

 あれを何回みなさん聞いたか。「宇宙神ありがとうございます」を選んだ人はね、何回聞いたか。大して聞いてへんねんな。聞いてへんから分からへん。あの録音でも凄い深い事が一杯入ってるんだけど、誰も受け取れない。受け取れないんだったら印可書で行ってよ、お願いだからっていう、こっちのみなさんお願いだからと言って、ちょっとみなさんの自由意志を縛って無理して言って説明してますけどね。

 それぐらい現実を掴むなって言ったって掴むしね、文句言うなって言っても言うから、「もう文句言った状態でも良いから、現実を掴んだ状態でも良いから、自分はこんなんだって卑下した状態でも良いから、ひたすら印可書を奉読して下さい。もうそれだけですべて変わります。それだけで総責任者の立場に立てて先生の働きができます。みなさんお一人お一人が先生の働きができるの。

 その働きの状態はね、耳かきの働きもあるし、大きなスコップの働きもあるし、雪上車としての働きもあります。除雪車の働きもあります。でも、どの働きも大事なことは何遍も説明しました。だから皆さんそれぞれの、自分が受け持たされた役割をね、印可書を奉読することによってね、果たして下さい。総責任者としての立場を果たして下さい。総責任者の立場と言うと、大きなことをすることだとみんな勘違いするんだけど違うんです。みなさんが一人一人この世に生まれてくる時に選んだ、自分の使命を果たすことです。その使命は分かってなくて良いの。印可書を奉読したら果たせるから。是非それでね、果たして下さい。するとそういう苦しみも消えます。ありがとうございます

質問:ありがごうございます

河上さん:もう時間切れなんで、本当にどんどん本当のことを言ってますけども。数式も一緒でね。本当に今の科学は、要するに現実を掴むってそういうことなんですよ。分析をして今がどうこうだから、ああしようこうしようなの。今がどうこうはないのね。済んだことだから。神さまが一番良いようにしてるだけで。だから数式で表したら、その根本の響きのE=MC2とそのいくつかがポンと出るだけで、すべてOKなんだけど、今の量子力学なんかはね、∫(インテグラル)が要るわけ。積分が要るわけ。色んな現象を数式に表した、その数式を集めてきて纏めたら宇宙を表してるって勘違いしてるわけ。その分析した時点で済んだことを見てるから間違ってるのに分からない、みたいな感じですけどね。数式的な物言いで言うとね。一般的な物言いはさっき説明しました。

 是非ね、今、凄い今日は大事なお話を、先生がせえって言うんで、できるかなと思ったら、ちょうど質問に応じて展開しましたから、今、分からなかったことはね、本当に今聞いて下さい。後で聞くんじゃなくて、今聞いて。そしたらこのテープを聞いてる人の疑問にもなりますので、是非今聞いて下さい。

質問:いいですか。機械とかでも一緒ですか。

河上さん:一緒です。

質問:自分の中でやっぱり機械というものに苦手っていうものを、ずっと持ってるというのがあったら…

河上さん:そう、自分で自分を縛ってるだけ。

質問:やっぱり素直にバンと現れてくるっていうのは、そういうことですね。

河上さん:そういうことです。はい。

質問:ありがとうございます。

河上さん:一番大事なのはね、例えば自分にとってよ、自分にとって嫌なこと辛いこと邪魔くさいことを掛かるのが辛いのは、やっぱり神さまを信じ切れずに自分ではできないと縛ってるからですけども、自分ではできないと縛ってても、喜び直してね、やって下さい。それで何が大事かと言ったら、例えば機械でしたら、機械が故障したと。自分でも、もう一辺思い直してね、喜び直して修理しようとすると。出来なくても良いというのが分かって下さい。ここが大事なんですよ。

 何でみんな邪魔くさい、嫌だ辛いって逃げるかといったら、結果を掴んで完成させようとするからよ。いつも言うようにね、車でも新車がどんどん出るんでしょう?出る時は完成した車だけど、より完成した車が出るんでしょう?完成なんてないんよ。それは自分にとっての完成はないと思って下さい。人にとっての完成と自分にとっての完成は違うんだと。

 だから自分がひたすら淡々とできたら、結果、例えば修理できなくても良いの。でもそれをしたことによってね、誰かに助けもらって修理してもらったら、「あ、こうして修理するんか。」って分かるの。でも最初から「こんな機械、私、修理できないわ。」って誰かに投げてしまったら永遠にできないまま終わるんよ。今は機械修理で言いましたけど、それは何事においてもそうです。

 だから子供にね、数学とか教える時でもそうなんですけども。まず如何に、その子が「私、数学が苦手、出来ない、分からない。」という気持ちをどう解くかなんですよ。そこが問題なの。

 それで勉強できない子に限ってな、解答を求めるの。解けることを求めるの。えらいウケてるけど。だから解けなくて良いんだって。解答を計算間違いで間違えても良いんだって。解き方が分かっていくのが大事って教えていくんだけど、その解き方も本人の思考パターンに沿って教えていくんですけどね。

 そうだけど、この現実世界という、みなさんの場合は家庭教師いないから、塾の先生いないからね。自分なりに結果を掴まないんだと。ひたむきに淡々とするんだっていうね。どれも未完成で良いんだってまず明らめて下さい。そうしたら霧が晴れます。はい。

質問:ありがとうございます。

質問:先ほどの方の、一つ目の質問と被るんですけど、やっぱり掴まないようにと思っても、思いがこう、思い出して出てきた時に、最近では、もう思ってもいいやって。思ってもいいやで印可書を…

河上さん:そう。そうですよ。思っても良いんです。そうですそうです。そのための印可書です。はい。

質問:大分、なんか思うことに罪悪感がちょっと減ってきた…

河上さん:そうそう、自分を責めないが大事でね。本当はね、「宇宙神ありがとうございます」でも「ありがとうございます」の祈り言葉でも、思いが出てきても大丈夫なんですよ。でも、祈り言葉が簡単すぎてね、余計、自分が引っ掛かるし自分を責めちゃって、要するに自分を責めるというのは、本来、真(まこと)の神さまの命そのものだから、真(まこと)の神さまを否定することになるの。だからそれが怖いんですよ。そこだけ分かって頂いて、印可書を奉読したらっていうことでやっていって下さい。それで良いです。

質問:はい。あと、凄い相手のことを嫌に思ったりとか…

河上さん:そうです、そうです。それで逆に言うとね、相手のことを嫌に思ってあげないと、全然真祈りと関係ないと思ってる、神さまと関係ないと思ってる人に光が通らないの。ここが大事なとこなんですよ。

 先生がお一人来られて、先生の真祈り完璧じゃない。なのになんで人類が全部清まらずに先生が引き上げられちゃったかっていうのは、先生には怒り妬み、羨ましいとかね、あの人嫌いだわとかね、先生にはないからね。そしたら、そういう嫌いだなあと言う人とかね、そういう人に光が通らない。

 それで今ここ、先生に縁のある真祈り人の響きが要るんですよ。それを別の言い方でジグゾーパズルで説明しました。どのパズルも必要なんだよ、あるいは耳かきで説明しました。そういう感じです。それで耳かきというのは、あいつうっとうしいなとかね、あいつ鈍くさいなとかね、あいつ怠けてるなとか、あいつ嫌いだわとかいう思いを持ちながら印可書を奉読することが大事です。それでお願いします。無理にね、「あいつ嫌いだな」って思えって言ったって思えないでしょう?だから思えた時がチャンスです。よろしくお願いします。

質問:ありがごうございます。

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令和5年4月河上さん勉強会−1後半(20230409−1後半)

質問:今年ちょっと子供の入学・卒業が重なりまして、写真を撮るという機会がとても多かったんですが、写真と、どうなんだろうと今のお話を聞いて・・・

河上さん:いや写真とったらええんよ。撮って懐かしいなあ、で良いから。

質問:でも、それは過去を

河上さん:ただね、写真を見てね「良かったなー」って思い出すと苦しい訳。「懐かしいな」のうちは喜べるでしょう?

質問:はい。

河上さん:でもこの時凄い良かったなあ、お母さんも生きててとかね。(笑い)言うから苦しみになるから、その辺だけちゃんと教えといたら大丈夫です。

質問:はい。ありがとうございます。

質問:悟りの話で先生が最後にテストの関門ということで、悟りを与えました。

河上さん:あるいは「悟ったよ」って言って。

質問:そうすると人に話をすると一気に落ちてしまう。

河上さん:落ちるよ。人に話をするのはもうすでに悟ってないもん。

質問:今のそのお話を聞いた時に、今の状態であれば僕だったら人に言ってしまいそうなんです。

河上さん:虚栄心があるからね。いや恥ずかしないで、みんな虚栄心あるからね、大丈夫。

質問:で、その最後の虚栄心、そのテストに合格する。まあ本当に悟りを実感できるという、その状態になるのは、最後の・・・

河上さん:要するにね、最後の99.本当にね、99.99%は先生が、神さまが清めて取っちゃうの。でも真(まこと)の神さま、真(まこと)の本心の自分ていうね、自由自在の自分が残っているでしょう?

質問:はい。

河上さん:本来のね?

質問:はい。

河上さん:その最後の0.00何%のね、虚栄心ぐらいは自分で消しなさい、なんです。そのことなんです。その最後のちょっとの虚栄心がみんな消せずに(虚栄心が目覚めて)起きるの、中々ね。説明しても本人虚栄心だと思っていないから、難しんだけどね。

 要するに他人と分け隔てるうちは悟ってないんよ。なのに先生は「悟った」とおっしゃるの。その恐ろしい卒業試験にみんな気づかずに舞い上がってしまう人ばっかりだったんですけどね。

 そこで舞い上がらずに、いやまだまだ自分は人を責めてしまうとかね、と想えたら、先生に「いや、先生そんなん言うけど、自分はこうでこうで」僕がそうやったんやけど、「こうでこうで、とても本当のお祈りができないから、先生にこれ以上迷惑かけれないから」って言って泣いてお詫びしたことがあったんです。先生が「悟った」って言われた時にね。「そんなん仰るけど、そうじゃないです。それは先生の誤解です」って言うて、泣いてお詫びしたんですね。そのとき初めて先生がニッって笑ってね、ぱっとこうあったんですけどね、そんなんはいいけどね。それぐらいその最後の虚栄心というのは難しい。

 要するに分け隔てていたらあかんし、自分にとってちょっとでも、自分にとってよ、鬱陶しい、辛い、嫌だと思う事から逃げてるうちはダメなの。それが自分にとって悟っているかどうかのね、判断基準にしたら良い。

 要するに他人を他人と思っているうちはあかんしね。要するに本当はみんな光だってみんな自分やって思えたらたら良いんやけど、そこまで行かないまでも、自分にとって辛い事、嫌な事、邪魔くさい事が本当に嫌だと思う内は駄目。喜んで最後の自分の虚栄心を取るために神さまくださっているんだ、良かった位に思ってね、喜んでかからなくっちゃいけないんだけれども。

質問:それは印可書で奉読で行けるんですか?

河上さん:そのために先生、印可書を残して下さったの。もういちいち一人一人相手にね、している余裕も時間切れでないからね。だからこれからはね、皆さんはその病気を治してほしいとかね、この不幸を何とかしてくれとか、あるじゃないですか。そんな事いちいち願わなくていいの。

 神さまちゃんとするから。それよりはその例えば、まあ例えば脳の脳梗塞でね、右半身不自由だったら不自由になった状態で、喜び勇んでやり難(にく)い、わざわざやり難くして下さった訳や。それやり難くなった事を喜び勇んでしたら良い訳、例えばね。自分にとってやね、人にとってじゃなくて。自分にとって辛い嫌な苦しいことを喜び勇んでやろうやろうとしていったら良いね。それだけで悟れるし、その時に色んな辛いことをやるだけに、色んな事を思い湧くわけや。

「あいつがちゃんとしとれへんから、俺こんなややこしい事を又、もう一遍せなあかん」とか、あるじゃない?それが出たら印可書を奉読してやって行ったら良いわけです。はい。

質問:日常の中で辛いこと嫌な事っていう形で、先生がまたテストを・・

河上さん:いや、本当は自分が自分にしてるんやけどね。自分が自分に課しているね。要するに真(まこと)の本心の自分の部分がね、本心でない自分の部分に対してね、死んだらみんなそうなんよ。みんな死ぬとね、真(まこと)の本心の自分が自覚できて、それで真(まこと)の本心の自分でなかった部分をどうこうして、反省して、その分を消すためにこの地獄に降りますとか言ってみんな降りて行くの。

 要するにあっちの地獄いうのはこの世で言うと、つらい、しんどい、嫌なことをするのが、この世の地獄でしょ?そういう感じや。だからそれから逃げ回ってたらな、今の肉体を持っている状態はね、この世で1円払うことはあっちで1億円ぶんの効果があるっていうじゃないですか。100億円分の効果があるとかね。だから、この世で辛い嫌なしんどいこと逃げ回っていたらな、利息が貯まってな、死んでからが凄い楽しい楽しい地獄温泉巡りが出来るようになるわけや。怖いやろ?

質問:だからあの世の地獄も自分の身に振りかえる形となって、印可書を奉読することが清めに繋がる。

河上さん:でもね、あの世で地獄に降りようと思う人はもう印可書を奉読できない状態よ。それぐらい印可書奉読というものは肉体のあるうちはある意味簡単にできるよ。でも死んだらな、出来へんね。特に自分の命に響かせていないと。要するにどれだけ真剣にね、印可書奉読してきたかが、問われるわけ。真剣に奉読出来て無い分だけ、要するに奉読しているつもりで読んでるだけみたいなね、或いは、願いごとにしている、印可書奉読するから病気治してくれやとかね、言うてる間はそれは奉読になってへんから、要するにギブアンドテイクの時は一つになれへんわけや、祈り言葉と。

 祈り言葉と一つになるいうのはギブアンドテイク無くならなあかんね。「この祈り言葉をするから病気を治れ」とかね、言うてるうちは、祈り言葉と違うね。それは願い言葉や。願い言葉と祈り言葉を皆ごちゃ混ぜにしているだけや。読みは一緒やで。「ありがとうございます」とか「宇宙神ありがとうございます」や「印可書」とかね、読みは一緒やけど願い言葉にしているうちは効果ないね。

 でも印可書は願い言葉でも、効果を出すようにするからって言う先生の愛や。だけど肉体があるうちに印可書を祈り言葉にまで持って行っておかないと、祈り言葉になっていないってことは、魂に入っていないから、死んだら印可書を唱えれない。そしたらこの世で印可書を唱える人を探してウロウロせんならん。だけど今度はこの世がなくなるからな、大変や。だから時間切れやって言うてんね。この世があと何百年も続けへんからな。

質問:よく分かりました。ありがとうございます。

河上さん:はい。

質問:しつこいようですが(笑)

河上さん:どうぞ。

質問:その嫌なことがあった時につい、やっぱり、心から喜び勇んで

河上さん:勿論よ。心から喜び勇めるのは先生だけよ。でもそうやったら、神さまから遠く離れた人に光送られへんからね。だから思えていいから、その中々な、あいつ憎たらしいと思ってないのに憎たらしいと思えないやん?思えるのはせっかくのチャンスやから、思いながら印可書を読んだらいいね、例えばね、憎たらしいと思いながら。そしたらその憎たらしい人に光が通って、上手くなっていくね。そういうふうに先生がみんなを使うよって言って行かれたの。そういう使い方をお前がちゃんと説明せいと。ジグゾーパズルで説明しようとしても、みんな分かりよれへんから、もう一辺お前が説明し直せていう事で、やっとジグゾーパズルの話まで持って来れて。苦労してんねんからこっちは。ありがとうございます。

質問:あと嫌なことからついやっぱり逃げちゃった時も・・

河上さん:そうです、印可書読みながらもう一回向かったらいいね。うん、だからその嫌なことにね、100%向かわなあかんっていうのが既に逃げているわけよ。結果を掴んでいるわけよ。

 だから「嫌なことに1%でもいいからやりましょう」でええね。そこが大事やね。その「千里の道も一歩から」言うてね、千里もあるから、そんなとても無理やから言うて、みんな最初から歩けへんわけよ。一歩でいいから2歩でいいから歩きましょう、っていうたら、いつか知らん間に行けるわけでしょう?

 だけどね、みんな「そんな距離無理やわ」って言って最初から逃げるね。「そんな嫌なこと嫌や」って言って逃げるね。けど、ちょっとでいい。例えばトイレ掃除で言うとね、ちょっとその、便器のちょっと1カ所だけを拭いときましょうでいいねんて。その最初のそれがいるね。それができたら自然に出来るようになるね。そういうもんやね。でも最初から逃げたら、もう永遠に自分を縛って、その自分の縛りは自分でしか解(と)かれへんねんけども、その縛りをちょっとしたっていうことで解けたでしょ?解けたらスルスルと解けるね。でも「出来へん」て言ってたらずっと縛ったまんまやから、永遠に解けないの。そこが大事や。いいかな。どうぞ、どうぞ。

質問:最近、仕事とかでも、ああ、ちょっとめんどくさいなとか。

河上さん:一杯来るわなあ。みんなそうやで。

質問:でも何かやる事が一杯あって、他の事をしている間に他の人が結構先回りしてやってくれる。

河上さん:やってくれる。

質問:やってくれていることは多くて。

河上さん:それはそれで喜んで、お祈りしたらええね。そやけど、ずるくね、自分がしなくても誰かしてくれるわって思ってしまったらアウトや。

質問:でもはい。

河上さん:自分が出来る限りは自分がしましょう。という中でしてもらったらありがとうでいい。

質問:ありがとうございます。

河上さん:はい。

質問:ありがとうございます。私の身近でいる方が最近倒れられて、結局すごい重篤な状態になられたんですね。そこまで仲良くないんで良く分からないんですけど、要は本当にお元気な方、本当に元気な方で若くていうような方が最近そういう事が起こっていると。私の友達もまだまだ若いのに、まぁ結局河上さんが以前河上さんがおしゃっていた血管とか

河上さん:身体が腐っていくから。

質問:ちょっとその関係

河上さん:外で腐るか中で腐るかの違いだけやなあ。

質問:非常に増えていて、救急も一杯で。

河上さん:その腐るっていうのはね、神さまを拒否したぶんだけ腐るの。それで今まではオマケでね、平成の時代までは。オマケがあるわけですけれども、令和の時代になるともうオマケはないの。だから神さまを拒否している人はどんどん腐って死んで行くの。それだけです。

 だから例えばここに来ている真祈り人でもね、お祈りをしなければ一緒。神さまを拒否しているから。神さまを拒否するというのは、ギブアンドテイクで祈り言葉を唱えているのは神さまを拒否しているんやん。ね?そうやろ?お前の力ないから俺の病気治れへんね。だから「ありがとうございます」言うから直してくれや。極端な表現で言うとね。それぐらい神さまをバカにしている訳。神さまを馬鹿にした人は皆、要するに真祈りを実行できない人はみんな腐っていくの。そういう時代です。令和ですから。はい。

質問:周りの方々が、この話を知らない方々なので、私との信頼関係もそこまでない方々ばかりなので。そういう方にやはり印可書を淡々とっていうことになるのでしょうか。

河上さん:だから今話したようにね、あいつ憎たらしいって、折角、思えてんから印可書を奉読したら、その憎たらしい人に光が通るよ、と一緒で、あいつ病気で倒れたっていうたって、知らん人倒れたって言ってもようわからんけど、自分が印可書を奉読したら光が通ります。

質問:すみません。それと因果関係の中で、どうしてもワクチンの副反応ではないかと、自分もそれがちょっとあるんですけれども、と思ってまして?

河上さん:だからワクチンがどうこうでなくて、自分が神さまを拒否したかどうかだけです。そんなん言うたらこの世にね、危ない食べ物一杯ある訳よ。危ない食べ物一杯あるけど、もう勝手に混ざって入ってるわけやんか。スーパーでハンバーグ買おうがソーセージ買おうが、危ないも一杯入ってんね。ワクチンなんか比較になれへんぐらい怖いものも、一杯入ってんね。虫さんも入っているしな。だけどそれ食べたってね、神さまを拒否していなかったら大丈夫なの。神さまを拒否したら、拒否した分だけは出るの。

 それって神さまに願い事をしないと、神さま叶えてくれへんみたいな事が、もうこれからは通じないっていう事です。

質問:あときっと他の方が質問されるから私は言わないでおこうと思っていたんですけど、先般の自衛隊の事故のことについて何かありましたら教えてください。以上です。

河上さん:録音で残して良いのかどうか、あれですけど、すでにね、自衛隊員を退役して、一般の人間として、一般人の身分として約3000人以上の方があちらに行かれて、戦闘に参加されています。既に。もう今やったらもうちょっと増えているかもしれません。1万人になっているかもしれないけどね。既に日本は戦争に巻き込まれているんですよ。

 でも大きく国としてのレベルが巻き込まれないようにね、色んな小さい形の事故っていう形で表れているだけです。地震の代わりに先生の体にね、熱と咳とか血の涙で消したようなと、同じことがこれからは起こります。で、折角のこの話の流れのついでですんで、先生に縁のあった古い方から順番にそうして使い潰していきます、真祈りしていない限りは。でも遠慮なく使い潰せていうことなので、古い方から使い潰していきます。自衛隊のヘリコプターが落ちたように、肉体が腐っていきます。以上です。
 
 厳しいようですけどね、先生に縁(えにし)があるというのは、先生の為に命を捧げますって言ってこの世に生まれてきた方なんです。自覚するしないに関わらず。だからその本当の希望を果たすって言うだけです。本人の自覚とは別です。

 でも古い縁(えにし)の人ほどそういう先生に命を捧げますっていう深い縁(えにし)があって、だから僕が一番最初に先生と縁があったわけで。はい。

質問:ありがとうございます。預かってきた質問があります。ちょっと長いんですけれども。

河上さん:良いです、良いです。

質問:はい。読ませていただきます。長い間医療の世界で働いてきましたが、定年を迎えて3年が経過しました。仕事ではやりがいもあり、定年後も同じ職場で働けるかなと思っていましたが、最後の1年、夫のアルコール問題でうつ状態になり、再休職・復職を繰り返し有終の美は飾れませんでした。今は細々パートで福祉施設で働いています。気持ち的には抜け殻のような老人性の鬱(うつ)なのか、感動も感激もなく、仕事で疲れて帰り、ご飯を食べて寝て、4時頃トイレに目が覚めて、なかなか眠れず、朝を迎えます。印可書を読めば良いのでしょうが、ついこの先、アルコールで弱っていく夫と気力も体力も衰えていく自分がどうなっていくのか、不安ばかりが頭をよぎります。印可書に縋(すが)るしかないと、言われそうですが、縋り切れないのか、光が私には届かないのか、今の自分の状況を理解して前向きに生きていく、どのようにしたら印可書に縋る生活を送ることができるのか、ご助言ください。

河上さん:はい。あの先ずね、体力的に疲れ果てているのね。それで、それ、なんで(なぜ?)疲れるか?。

 うどん、そば、ご飯食べるから、砂糖、それ一切やめてください。で本当にアーモンドとかね、ナッツ類とチーズとか、お肉とか、ソーセージとかね肉類、タンパク質類、たまごでもいいです。ナッツ類とかを食べて頂いてね、たまには甘いものも良いだろうから(カカオ)72%以上のチョコレートを食べて、みたいな感じでしてみてください。

 そしたら、もうちょっと気力が湧くんで、印可書奉読して立ち向かっていけます。糖質を食べ過ぎ、先ずそこです。年齢の割に。もうその質問の方の年齢であれば糖質は一切食べちゃダメ。

 砂糖入れて飲むのって、甘いの飲むのって論外って言うといてください。ビールお酒ダメよ。せめてアルコールを飲みたかったら焼酎ね。あのね、糖質を取りすぎるとね、まず皮膚にきます。年を取ったら。シワだらけになってくる。

質問:先ほどの悟りの最終試験のお話で、その最後の虚栄心ぐらいは自分でっていうところがもう少し、自分で・・

河上さん:だから本来真(まこと)の本心と不離一体の自分でしょ?だからいわゆる真(まこと)の神さまそのものの自分があるわけでしょ?だからその人にとって自由意志が持たされているわけや、ね?だから99%神さまに捧げますって言っても1%をやりたいことがあったら、まずそれをしておいでっていうぐらい、神さまはその人の自由意志を大事にするわけ。

 という事は虚栄心もその人が自由意志で持っているわけや。だから自由意志で離さなあかん。最後の1%でも、0.001%。もうそのぐらいの虚栄心は貴女が自分でお祈りをして消せるよっていうことを神さまは示すんだけれども、そこで虚栄心が出るね、又、という厳しさやねんけどね。

 だから例えば護摩の時にね、もう本当にひたむきに神さまにお祈りして、前で印可書を奉読出来る方もあったら、人目を気にして奉読する人もあるわけ。それはそういうことすらも気づかない状態にみんなおるんやけども、少しでも自分は人目を気にしてるって思った時には、もう一辺印可書にね、大きく戻らなくちゃいけない。それぐらいね、自分の自由意志が大事。

質問:ありがとうございます。その99%を消してくださるのは神さま?

河上さん:要するにね、もう本当にタコ糸がもつれたような状態でね、タコ糸ガーってもつらせたらな、解きようないやろ?それが99%。それをスパッと神さま切ってくださるわけよ。最後の一筋だけ残っているの。タコ糸こんだけ山のような状態にあって、こうなっているわけよ。それをスパンと切って一番最初に縛った自分の一筋だけ残してくださるの。その一本ぐらいは自分の自由意志で外してくれないと、全部取ったらね、それは神さまにとって、神さまから見てその人は単なる奴隷や。ロボットや。それは意味ないね。そして最後の一つにが残るの。で、その最後の一筋が、みんな、中々越えられへんね。それぐらい虚栄心というのは恐ろしいもの。

 で、何時も何時も自分と他人との分け隔てがないかだけをね、この世的な言葉で言うと差別やね。差別がないかや。あの人の方が優れているとか劣っているとかね、サボっているとかね、あいつ何もしよれへんとかね、もう色々あるやん。その結果を掴んでどうこうっていうのは差別な訳。分け隔てな訳。結果を掴んでどうこうやったら、自分の手でもそうでしょう?右手は器用やけれども、お前左手はでけへんやないとかな、自分の体で言い合いしていることを、皆さんやっているわけよ。「あいつ仕事しよらん」とか「使えんやっちゃなー」とかな。あるやん、一杯。その能力のあるなしでなくっていうね、そこの部分が虚栄心です。それは自分で解いてもらうしかない。

 だからあのほら、「俺悟ったわ」なんて言うのは、虚栄心の最たるものや。本当に悟ったら喜び湧くだけやから、人に言う必要はない。逆に新たなる下座に立つ真(まこと)の本心の自分やからね、悟ったいうのは。

 新たなる下座に立ってひたすらに皆を支えるように動くだけよ。ひたすら支えに動くとね、「あの人を全然村には来てなかった」みたいに僕のように言われる訳。

  僕は色んな人から「あの人はね、長い間村には来ていない、先生にも会ってない」みたいに言われ方するんやけれども、それは下支えに入っているから、目立てへんだけや。だけど、分からん人にはわからん。

質問:ありがとうございます。

河上さん:はい。

質問:2点あります。本当に虚栄心、虚栄心がもう毎回毎回どこでも湧いてくる。悩んではいないんですけれども・・

河上さん:だけどな、その湧く虚栄心が大事やね。その虚栄心がないと虚栄心のある人に光が通れへんから。で、ここを分かって欲しいねんけれども、毎回印可書を奉読する毎に、自分の虚栄心は解(ほど)いて取れているんや。

 だけどその響きに自分を合わせやすいから、虚栄心のある人のことが可哀想と思って、こうミニ循環をしてしてね、光を通しているだけや。それが分かってこられるとね、だから最初の印可書奉読であなたの虚栄心は消えているんよ。消えているけど一瞬一瞬新たやからな、要するに雑巾で言うたら最初に印可書奉読で真っ白になってんね。でも一瞬一瞬新たやから、また次の汚れを吸い込むから、吸い込んだ時に、また虚栄心が湧いたわ、又、性欲が湧いたわとかね、又、食欲が涌いたわとかね、思うだけで、そのシステムがわかったら、気楽に虚栄心を出しながら、印可書奉読出来るからお願いします。

質問:虚栄心が湧いて、一瞬一瞬新たに、印可書奉納というふうにと、自分の生活を振り返った時に、家に帰って凄くこう、虚栄心が湧きながらお祈り出来ているかなって思える時と、なにか後ろめたくて・・・

河上さん:ああそうそう。だからそれはね、自分の心をどこに置いているかだけやね。

質問:そうなんです。

河上さん:それは神さまが必要に応じてね、本心の側に降りたり、思いの側に降りたりしてくださっているの。印可書を奉読する人には、ね。神さまは一番にどこに降りただけやから、思いっきり性欲湧く人とか、思いっきり虚栄心湧く人って印可書奉読してもあるんだけども、その先端の方に神さま光通したいと思ったら、その人の心を掴んで持って行くからね、そうなるだけです。だから後ろめたさがあってもいいです。

質問:後ろめたい時なんかは勉強会の YouTube とか先生の YouTube をもの凄く後ろめたいところがあるので、それが敢えて今はちょっと横に置いて聞いて

河上さん:そう。それで良いの。

質問:自由自在に虚栄心というのも神さまに使って頂くんだって、喜んで印可書を・・

河上さん:だから無条件の喜びって先生おっしゃるでしょう?

質問:はい。

河上さん:その無条件っていうのがもの凄くある意味厳しいのよ。後ろめたさも湧くのも無条件や。すごい虚栄心が湧くのも無条件や。凄い性欲が湧くのも、すごい食欲が湧くのも無条件や。その時に如何に神さまに使って頂いて良かったって喜び直せるからや。そしたらすっと印可書奉読に入っていける。お願いします。

質問:湧いてる虚栄心も楽しみながら。

河上さん:そうそうそう。楽しめたら完璧や。はい。なかなかそこまで行けへんけどな、楽しむっていうことはもう無条件に入っているね。な?苦しむっていうことは条件ついているわけよ。こんな私でどうするのって、な?「条件付けるな」って「文句いいなさんな」って先生言うのに、みんな条件付けて自分に文句言うね。

質問:確認最後なんですけれども。これはもう今お答えを教えていただいたのですが、ひたすら実践だけだって思っているんですけれども、日常まあ私は仕事をいただいているので、職場で多分使っていただいて、そこで周りは本当にずるい人、無責任な人ばっかりなんです。私は・・・

河上さん:それは職場やもん。

質問:そうなんです。ずるくて私がずるくて、そして・・いうところもたくさん見えてから、それは本当にこう・・ええと・・

河上さん:得難い職場やで。

質問:喜んで喜んでひたすら喜んで使って頂けるんだっていう風に思っとくという。

河上さん:お願いします。ありがとうございます。中々あんな凄い職場はないから。

質問:そうなんです。本当にありがとうございます。いつも思います。

河上さん:ちょっと車で寝ておいでや。大丈夫か。

宮野さん:大丈夫。

河上さん:ちょっと死にかけたな。

m:二度ほど・・


令和5年4月河上さん勉強会―2前半

河上さん:本当に悟るとね、時間の感覚を完全に超えます。だから時間経つとか経たないとかは無いです。そういうもんです。それも自分の判断基準にして下さい。自分と他人を分けるとかね、色々ありますけども。先ず無条件の喜びやね、一切条件付けなくて喜べるようになったら本当の悟り。条件ついている内はまだまだ。

 今日は突っ込みないから話しし易かった。(笑)無茶無茶良い話やったけどな。

宮野さん:失礼やな。(笑)ちゃんと分かり易い話が出来た?(笑)

河上さん:そう。完璧や。自画自賛、自分で言って自分で突っ込む。どう?

宮野さん:それなら、次から質問がないっていう話しやね。

河上さん:そうそうそう、質問は無い。だって今、全然質問無いやん。完璧や。

宮野さん:次質問あったら、分からんかったっていう事やね。

河上さん:そんなん言ったら誰も質問できなくなるやな?

宮野さん:違う、説明が悪かったという事やな。

河上さん:そういう事にしとく。(笑)だから今日は終われる。完璧や。ね、もう大丈夫でしょう?

Aさん:終わってからの質問無しですね?(笑)

河上さん:勿論。でないと、この録音聞いている人がこういう質問したいなっていうのが、時空を超えて響いてきているからね、それを今此処でして貰えないと、結局、ここへ来れなかった人が聞けないという事になりますから。だから自分が質問していると思っているけど、自分の質問ではないっていうのを分かって下さい。

質問:先程、宇宙神ありがとうございますという事で、奥に奥にという事で、その響きから言いますと丹田に深く深くという事だと思うんですけど。

河上さん:そうですそうです。

質問:先生は全方向に無限大の外遥か彼方にといわれましたけど、それをどう統合したら良いんかなという?

河上さん:だからこの世と現世と、真(まこと)の世界とは逆裏(さかうら)に出るんですよ。例えば仏壇にお水を備えるでしょう。この現世ではコップの水ですけども、向こうの世界では琵琶湖よりも大きい広い水なんですよ。線香もこんな細いもんですけども、向こうでは光輝くものなの。だからそれが護摩だったらもっと凄いんだけど、それ位この現世は逆裏に出るんで、肉体的な中心、或いは地球の中心って言ったら核じゃあないですか?それで肉体の中心はその丹田なの。それは真(まこと)の世界でいうと、無限大の外遥か彼方なの。

 それを数式でいうとね、折角だから数式でいうと、この世は光で満たされているんですよ。光で満たされて縦横無尽に光一元なの。だから光は無色透明なの。無色透明だったら、映画で言ったら、フイルムなしで光のスクリーンを見ているだけでしょう?それはそれで良いんだけれども、やっぱり映画にしてみんな楽しみたい。そういう感じで無色透明な光を端見えって言って、陰と陽にパンと分けるんですよ。そしたら二つに分かれて太陽から左旋回の円偏光っていう、左旋回の光が来るんですけど。そういう感じの左旋回と右旋回の光にパンと。割れるの。割れたものがぶつかり合った時に物質化するんですよ。その物質化する中心がね、地球でいうと核ですし、人間でいうと臍下丹田(せいかたんでん)。臍下丹田から物質化して肉体が形成されます。だから本当に臍下丹田に込めてお祈りできると、肉体は健康になるんですよ。

 そういう感じで、例えば数式で言うと分かり易いのは何故というと、例えば太陽の回りに地球が回っているって言うでしょう?だけど本当は地球は、太陽と地球という物質化した状態で意識できるとこはここですけども、本当は太陽の回り全部が地球のエネルギーなんです、本当は。偶々、みんながスクリーンとしてみる時はそこに地球があるように思うだけで、全てにあるんです。というのが数式では出るの。

 要するに簡単に言うと、太陽の回り地球が回っているでしょう?そしたら人間でいうとね、真ん中の人が誰かの手を持ってこう回しているわけや、な?そしたらホンマにそうして振り回しているんやったら、中心の人ブレて来るよ、引っ張り合いして。ブレへんでしょう?それは波として、光として、帯として存在しているから。ただその意識したとこにこの現世が見えるだけなの。

 だから過去も現在も未来も同時なの。地球は周回しているんじゃあなくって、過去も現在も未来も同時にあって、色んな状態を見るというふうな物なの、本当は。それを説明の便宜上、太陽が有って地球が有ってって言うだけでね。例えば太陽系で言うとね。それが数式でいうと「あっ、エネルギー体なんだな」って分かるんだけど、まあ、あんまりチョットという感じです。

 だから臍下丹田もそういう事で、エネルギーが一番集まる場所なの。エネルギーが一番濃く集まるから、ぶつかり合って物質化した状態に見えるんです。見えるけどもぶつかった次の瞬間は、元の光に戻るの。だから一瞬一瞬新だし、理屈抜きにね、文句言っても言わなくっても一瞬一瞬新ただし、サラサラと流れてるの。その流れて消えていく姿をね、みんな在るとして掴むから苦しいね。消えていくものを掴むから苦しいんやで。新たに受け直したら良いだけやのに、な?

 この世のものでもそうやんか。服でもね、新しい服買たってドンドン古びて行くわけでしょう?消えていくもんや。そんなん古い服掴んでやんと、新しい服買ったら終いや。だけどみんな掴むわけや「これお気に入りや」とか言って。でも崩れていくもんや。音楽で言ったら「ビーン」って響かしたとこだけが全てやのに、その消えていく「ワ〜ン、ワ〜ン〜」、あれが良いって掴むわけや。で、掴んだらどんどん消えていくから、余計不安になって苦しいっていうのが現実を掴むっていう事。数値的に言うとね、響き的に言うとね、という感じです。

 だからその丹田が分かり易いように、膝ももマッサージを先生が「言え、言ったれ」っていう事で言いました。だからこれをしながら印可書を奉読するなり「宇宙神ありがとうございます」って行くなりして下さい。ただ、「宇宙神ありがとうございます」っていうのは本当に「う〜」って入らなアカンの。宇宙神は宇宙神で難しい。でもそれは先生、テープで残されているから、あれをよく聞かれたら分かると思います。

質問:良く分かったと言い切れないですけど、分かりました。ただ、先生のお話しでよくこの世は1点に集中するお祈りだと、それは小さくい小さくなっているとうお話しを結構聞いているんで、それがちょっとイメージに出るんですが、そうではなくこっから(丹田から)無限大に広がっているんだと、自分でこう・・

河上さん:先生の仰る1点というのは、その光が充満しているのが、絶対の中心(無限大の外、遥か彼方)すべてのすべてが光という電磁波で満たされているわけですよ。それが全てなんです。その1点というのは光が沢山交差してぶつかり合ったとこが、光子という形で物質化して見える場所なの。要するに1点に集中するのは何かと言ったら、この世の結果を掴むという事です。

 そうですね、一番分かり易いのは、噴水がね、新しい水がどんどん出て噴水の形が出来ているだけじゃあない?でもその1点に集中するというのは、その形だけを見ているという事です。

質問:流れではなく?

河上さん:そう、だから「宇宙神ありがとうございます サーサーサー」なんですよ。サーサーサーで一瞬一瞬新たに流れて行くのを、先生は「サーサーサー」って言っているのにね、みんなは真剣ちゃうから、こんなん言ったら怒られるけど、真剣でないから受け取れへんわけよ。真剣というより助けて欲しいが先に立っているから。(わからなかったの)

 (本当は)一瞬一瞬新たにサーサーと流れているの。

 噴水の水ってそうでしょう?水で噴水の形は作っているけども、本当はサラサラと流れているだけじゃあない?で、1点に集中するのはその形だけを何とかしようとして、集中する祈りになっているの。要するに結果を求めている祈りよ。1点に集中するというのはね。この願い届けってやっている訳。それをこの世の祈りっていい、先生仰ったの。良いですか?

質問:良く分かりました。ありがとうございます
 で、もう1点ですけど、虚栄心を取るという事で、「5色のありがとうございます(シール)」を前に頂いていますが、あれを持ったら自分の願いは・・

河上さん:願いは一切達成できない。だから先生のね「虚栄心取る」よっていう事を、言葉で「虚栄心取る」って言ったら相手の自由意志を縛るでしょう?だから別の言い方をされたの。でも誰も気付いてくれへん。まだあのシールを持ったら願い事が叶うみたいに勘違いする人も居って、車に、板に貼って持って回った人もいるけど、そういうものです。

 それ位ね、虚栄心というのはみんな自分で持っている事すら気付かない。

質問:例え5色のありがとうございます(シール)を持っていても、やっぱり最後は自分で取らなければいけない?

河上さん:だから5色のありがとうございますを持ってたらね、自分の願い希望が一切通らなくなるわけですよ。その度にね、自分で虚栄心があるから願いがあるんだっていうのに気付かなくっちゃあいけない。

 要するに自分の願い希望っていうのは何かと言ったら、虚栄心よ。

 そうでしょう?人よりも良くなりたい。人よりも賢くなりたい。人よりも仕事できるようになりたい。色々ありますけども、全部自分と他人を引き比べて人よりも自分が立派になりたいとか、あるでしょう?それ虚栄心や。それ虚栄心だと思わんと、自分の希望や望みやとみんな思っているの。病気治りたいかて一緒や、人と比べて、あの人健康やけど私病気やから治りたいって、それ虚栄心だって気付かなあかんのに。今オマケ出し過ぎて(笑)、まあ良いや。それが虚栄心なの。それ位希望、望みっていうのは虚栄心だっていうのに気づけば虚栄心は消えます。

宮野さん:冴えてるね、今日は。

河上さん:だから突っ込みなしやって言ってるやん。(笑)

宮野さん:分かり易いやん。

河上さん:敵わんな。いつも分かり易いの。(笑)

質問:もしギリギリ願いで赦されるとしたら、神さまのお手伝いをしたい?

河上さん:そうですそうです。その通り。だから虚栄心ってみんな気付かないから、せめて神さまのお手伝いしたい、神さまのお役に立ちたい、この命お使いください、から入ってくださいっていう事はお願いしています。

 その虚栄心を利用して、逆に虚栄心を消すっていう最後の手段として、「この命、どうか神さまの御用にお使いください」って先生祈れって言ったんだけど、中々みんな「御用にお使いください」って祈りつつも自分を投げ出せないでいる。

 要するに自分を投げ出せないっていう事はどういう事かと言ったら、今が一番良いようになっているって思い切れない。ついつい不平不安が出て来る。或いは嫌な事、しんどい事を「辛いな、嫌やな」って逃げるのも一緒です。今が一番良いようになっているいうのを今は、別の言い方で説明しているんですけどね。

 だから神さまの働きっていうのは、新たなる下座に立つ真(まこと)の本心の自分ですから、一番嫌なしんどい事をされるという事です。新たなる下座に立つっていうのはそういう事です。

 だから、自分にとってよ、人にとってじゃあなくって、自分にとって一番嫌なしんどい事を喜び勇んでするようになってきたら、「あぁ、虚栄心も取れてきたな、自分はだいぶ神さまに添ってきたな」って喜べたら良い。

 そうなると条件つかないの。無条件に喜べるの。神さまは喜びそのものだから。それは説明では分からなくって、実践して頂くしか分からない。その為に印可書奉読でね、色々と自分を責める思いを消しつつ、お願いしているわけです。

質問:ありがとうございます 今、その大変な事があって、それをするんですが、それは神さまのお役に立っている?

河上さん:立っています。立っています。はい、大丈夫です。だから結果を掴まないのが大事なのです。こうでなくっちゃいけないと思った途端に動かなくなるからね。何時も何時も一瞬一瞬神さまが一番良いように、一番良いように持って行って下さっているんだ、その結果この世的に大変な事になっても大丈夫なの。だから大きな事故になってもね、結果を掴まずに喜べる状態だったら、凄い大きな事故だったのに怪我しなかったとか出て来るわけ。それは例えば事故にあった人がそれだけ悟りに近い状態に、本人の意識とは別にね、印可書の奉読になっているわけですけど、それすらも思わずに、兎も角、結果を掴まない事だけを念頭に置いてください。結果を掴むっていう事は、結局は虚栄心なの。こんな結果にしてしまって人はどう思うか思うと苦しいの。

 人は好きなように言うって。(笑)

 ホンマやって。どない言ったってみんな好きなようにしか言わないって。僕なんかぼろ糞に言われぱなっしやね、それで良いの。だけど如何に神さまに添ってたかだけや。だから印可書さえ奉読していたら、沿っているんやから、精一杯したからそれで良いんだって、そういう風に一歩一歩進んでたら良いです。大丈夫だから。大丈夫、大丈夫。

質問:これがいつまで続くんだとか?

河上さん:あのね、これは必要なだけ続くの。だから今は必要だから続くんだって喜んでいたら良いの。で、どうしようもなくなったらね、構わないから休んでください。もうそれは結果を掴んでいるから休めないの。

質問:でも私が休んだら他にする人が居ないので。

河上さん:勿論分かるよ。分かるけども、それだけ手を抜いて良いっていう意味よ。そんなに100%完璧にしなくちゃあって思わずに、今の1/3も出来たら良いんだって手を抜いて行って下さい。その結果悪くなっても大丈夫だから。それ人目を気にし過ぎている。後で世間は好きなように言うけれど、別に言われても良いんだから。

宮野さん:100%思うように結果が、みんなが素晴らしいと思うような事やったとしても、絶対文句言われるの。

河上さん:そうそう。何したってぼろ糞に言う人は言うよ。

宮野さん:言う人は言いますし。で、もしも自分が倒れたらね、誰もいないって言ったって、どうにもならないじゃない?ならばどっかでちょっと休憩するというのも、全然それはね、先言われたように、人の事を、人の目を気にする、自分の足かせを外すっていうのを少し緩めるだけで随分楽になって、違う展開が変わるかも知れない?自分を縛ってるから縛った分だけ身動きが取れなくなると思うのね。

 でもどっかで自分を許して自分を緩めて上げると、そしたら違う動きが、又、変わって来る。周りに影響を及ぼす事も変わってくるから、もっともっと楽になるのかなっと?真面目な人ほどこうしなくっちゃーいけないっという囚われにあると思うんですけど。どの状態になってもみんな好きに言うし、でも神さまは絶対その人にとって必要な事しかされないから、ホントに無条件の愛しか与えていらっしゃらないから、どの状態になってもOKなんです。

質問:私は周りから言われる事は無いですが、私がしなかったら母が凄く困ってしまうっていうのが目に見えているんです。

宮野さん:そうですよね。でもそれはお母さんの業を消す、お母さんの役割だったりする事もあるんですよ。だからその分は大変な状態であっても、お母さんに役割をして貰わないとあかん事やと。

河上さん:そう。あんまり楽させてもマイナスを積む事になるからね。

宮野さん:その間は休みながらお祈りをする。休んで周りから見たら「手を抜いてんの?」って思われるかもしれませんけど、その間はお祈りをする。ズーっとお祈りは続けていらっしゃると思うんですけども、その間敢えて、敢えて肉体的に3次元的に休めた状態でお祈りに特化する。そしてリフレッシュした状態で又、肉体的に動く。そうする事によって、同じ作業をしている状態であったとしても、もっともっと楽になって来ます。

 確かにその状態で、言葉は悪いですけど、みんな生まれて来て死がある訳ですけど、死って言ったって一大循環の相象(すがた)に帰って行く形なので、どうやって送り出してあげるかって事なんですね。どの状態でも。

 それが例えば、お年をめしているから亡くなる訳ではない。寿命が来たから亡くなる訳ですから、何時も何時も誰かがそうやって、自分がやらなかったからこんなになったのかなーって事は無いんですよ。その方のお役が終わったから一大循環の相象(すがた)に帰れるっていう事だけなんで、それ迄、じゃあどうやってその方と関われるのか?じゃ―何かっというと、関われるものって何もないんです。私たちが出来る事はお祈りしかない、真祈りしかないんですね。

 この世的には例えば、何かお洋服を着るのを手伝ってあげる。で、ご飯を食べさせて上げる。トイレ連れて行ってあげるとか色々あるかもしれません。でも私たちが出来るのはそんな事ではなくて真祈りしかないんです。真祈りする事によって、その方がどんだけ楽になるかっていう、その為にここに存在している。肉体的にも状況的にも何も変わらないんですけど、でもやっている方はもっともっと気持ちも楽になりますし、されている方も楽になって行くと思います。

 真祈りをするチャンス、深めるチャンスかなっていう形で、もっと呼吸しましょう。(笑)ね、深呼吸しましょう。

河上さん:今の1/3くらいしたら良い。ある意味苦労させないとあかんしね。

質問:今、ほぼ毎週東京から大阪に帰ってきているんですけど、それも1/3位?

河上さん:そうそう。今色んなサービスがあるからね、どの形にしても例えばお母さんが果たさなくちゃいけない、苦痛、苦労というのがある訳ですよ。さっき言ったように自分にとって嫌な事、辛い事をね、それは果たさなくちゃあいけない事ばかりが出て来るの、自分にとってよ。それはお母さんにとっても一緒なの。その果たすべき事を、あんまり介助して取ってしまってもあかんのね。だからその辺は良く分かって下さい。

 結局は死んでしまってからの方が大事だから。この世では先生が何時も仰るようにね、この世では七難八苦の連続が一番良いんだって仰るのは、この世で払う1円がね、向こうでは何十億円、何百億円になるから、この世で苦しむほうが良いんだっていうのがあるのです。だから、あまり優しすぎる。

質問:はい。

質問:膝ももマッサージ、

河上さん:膝ももマッサージ、どんな呼び方でも良いんですけど。

質問:教えて頂きまして、皆さんここで一緒にお祈りする時に、たまにちらっと見ますと、手だけが動いて肩が入っていない人が多いんですね。魂入れてないというか、やはりそれは肩をグッとと入れないと

河上さん:説明をちゃんと聞いてないわな。「肩を入れてください」って何遍も言っている。一応説明終わっておるから、あんまり何遍も言えへんけどね。みんな好きにするから。でも今聞かれたから、もう1辺説明します。

 肩をグッと入れるから、膝の向こうまで手が入るんで手だけやったってあかん。グッと肩を入れる事で臍下丹田がグッと決まるのね。

質問:肩甲骨も緩みますよね?

河上さん:勿論、だから肩甲骨が硬い人がね、肩を入れにくいんだけど、でも頑張って肩を入れて行かないと、本当に肩甲骨を固めてしまうと、背が曲がって来るの。で、腰が曲がって来るの。そうなると本当に大変。

質問:それからですね、これはちょっと言い難いんですけど、護摩の前日なんかみんな来てお祈りするんですけどね。膝ももマッサージをする訳なんですが、されない方も居られるんで、

河上さん:そんなん自由です。

質問:いえ、音がうるさいので、鳴らないような服装にするとか

河上さん:だからみんな集まっているとこはね、音鳴らないように手を浮かしてやれば良い。

全員:うわ〜!

宮野さん:空気椅子みたい。

河上さん:本当は手を浮かさなくちゃいけないんですよ、本当は。でもそんなん言うとね,説明上ややこしいしあれやから、分かり易く何時でも出来るし、体にとっても健康なんでマッサージを入れてますけど、本当は手を浮かすんです。

宮野さん:シャドーボクシングみたいなもの?

河上さん:だから空手で言うとね、有るじゃあないですか、これ。(左右の正拳突きの形を示される)これでも良いんだけどね。要するに肩をグッと入れる事がだいじなの。合気道的に言うとこれが有るんだけど(股間前下に、正拳突きのように突く)だけどまあそんな・・

宮野さん:でもどっちにしても衣擦れの音があるから。

河上さん:うん。あるからね、あんまり細かく言うと又、それに囚われるんでサラッと流しますけど。兎も角、おへその臍下丹田に力が、自分にとって力が籠る方法を自分なりに見つけて下されば大丈夫です。

 ただ、お祈りの時にね、音が気になるようでは、まだまだその、現実を掴んでいるの。それこそ維摩先生なんかはね、本当に横にカミナリがガンって落ちたって気にならなかった。で、お釈迦様はもうちょっと浅いから、横にカミナリが落ちた事すら気付かなかったっていうのはまだまだ浅いのです。維摩先生のように、カミナリが落ちた事は分かっている、分かっているけどピクリともしないっていうのが本物です。だから衣擦れの音位で心乱れているようでは、維摩先生、松下先生に笑われます。

質問:分かりました。ありがとうございます

質問:これは確認なんですけども、先程にちょっと戻るんですけど、願いや希望というのは虚栄心だという事を仰られて、自分を振り返ってみると願いや希望のような物っていうのは、
無意識に小刻みに色んな願い、希望っていうのがあるような

河上さん:だから願いや希望をね、出すのは構わない。ただ、何が問題かと言ったら、結果を掴むから。願いや希望は出せば良い、「神さまになりたい」とか「先生になりたい」ってね。でも成れるか成れないかは神さまが自由にされるっていうとこ。結果は神さまが一番良いようにされてるって事さえ分かってれば、どんな願いや希望を出したって大丈夫。

質問:虚栄心という事だったんですけど、逆に虚栄心に気付けて、気を使って頂いている。本当にプラスに喜びに喜びに変えて行くっていう事も、兎に角

河上さん:そうそう、そうしてたら良いです。本当に神さまに対する絶対の信が出来たらね、もう願いや希望も出ない。喜べるだけになりますけども。そうなってしまうとね、皆に光通せないから、そうなる前の印可書奉読をお願いしています。その引っ掛かる皆さんの心が必要なんです。耳かきとしての働きとして必要なんです。

 先生の様に大きな除雪車でグワーンと大半はキレイにして行って下さったんですよ。でも、道路の除雪がそうでしょう?除雪車でグワーンってやったって、人が歩くところはやっぱりスコップで取るしかないじゃあない?そういう感じの働きを皆さんにして頂きたいっていう事で、先生が最後ジグゾーパズルの話しをされたんですけどね、「どのピースも一緒で、どの働きも必要なんだよ」って事を仰って下さった訳で、やっとその説明まで辿り着きました。ありがとうございます

河上さん:まあ、兎も角ね、総責任者の自覚を持つという事なんですよ。今日のお話しはね。それが本当の、要するに、結果を気にせずに真祈りするっていう事がね、総責任者の自覚を持つという事なんです。で、本当に印可書を奉読することによって、先生と同じ働きが出来るわけですね。ただ、働きの仕方が耳かきの働きが必要なんで、皆さんを使うっていう事です。なのに耳かきしか出来ないって卑下せずに、喜び勇んで印可書を奉読し続けて下さい。それが先生の願い。それによって一気に人類は変わります。それを護摩を通して持って行きたいと思います。

 それで色々と日本も戦争に巻き込まれつつありますのでね、突然ガラッと世の中が変わって大変になって、こうしてお会い出来なくなる可能性もあります。その時こそ皆さんの総責任者の自覚というね、結果を掴まずに印可書を奉読、真祈りをし続けるという事が問われますんで、先に言っておきます。宜しくお願いします。ありがとうございます

 ならお祈りして終わっても良いですか?質問が有れば、良いですか?

質問:1個だけあります。今が一番良いようになっているっていうのは、これ迄もお話しして頂いた事もあると思うんですが。だからといって何でもそのまま放っといても良いっていう事ではないですね?やらなければいけないって湧きあがってきた事は適切にやらなければいけない。お祈りを込めながら?

河上さん:そうです。その放っとくっていうのは現実を掴んでいるっていう事です。

質問:そこをはき違えそうになったりして、

河上さん:現実を掴んでなくってサラサラ流していたら、放っとけない。例えば川の流れがサラサラ流れているでしょう?大雨降って石がこうなって、川の水がこっちに来てるってなったら、やっぱり石どけるじゃあないですか?だけど今が一番良いようになっているって屁理屈を言ったらね、川の大きな石が流れて来て、川の水がこっちの家の方にドンドン流れてきているんだけど、「あっ、一番良いようになっている」って言ってるようなもんや。そうではない。

質問:放っとけなくって動いている内に、私が何とかしなきゃあって、私が入っている感じが?

河上さん:だから入ったチャンスに印可書で、耳かきとして使って頂いてっていう事でお願いしています。

質問:常に常に印可書に立ち戻るという事で。ありがとうございます

河上さん:これからは本当に向こうの世界と、具体的には地獄とドンドン重なってきています。だから出来るだけ不用意に歩かずに、お祈りしながら歩いてください。でないと足首キュッと掴まれます。で、前のめりに、こんなとこで躓(つまず)くはずは無い、こんなとこで前のめりに倒れるはずがないという所で倒れる事になりますから、歩く時でも不用意にフワフワと歩かんとね、1歩1歩「宇宙神って、神さまって」自分なりの込め方をして歩いてください。でないと怪我します。まあ怪我したら怪我したで、そういう使われ方ですけどね。出来るだけ怪我しないほうが良いじゃあない?

 そのエスカレーターで絶対倒れるようなとこじゃあないのに、倒れて骨折されたんですけど。その方はこっち(河上)側(がお願いして)で、かなり危ない所にお祈りお願いして、(その方がそのお祈りに)行かれた後だったんで、申し訳ない事をしたんですけど。それ位これからは色々ありますので、よろしくお願いします。

 兎も角、印可書奉読って何時も思っててお願いしますね。

質問:膝ももの前に八の字を教えて頂いたと思うんですけど、好きな方で宜しいでしょうか?

河上さん:好きな方で良いです。その前には肘のこれも(手首を腰に当て、反対の手で肘を手前に引き、首を回す動作)、みんなしてくれないけどな。どれもここに臍下丹田が分かるような動きばっかりなんですけどもね。全部毎日しなくてはいけないとか、回数は何回しなくちゃあいけないとかじゃあなくって、その時その時で自分がやりたいと思う事を使ってして頂いたら良い。

質問:はい、分かりました。

宮野さん:方向もどっちでも良い訳ですね?

河上さん:どっちでも良いです。勿論、竹刀の素振りでも、エアー遊びっていうか、何も使わなくっても、これでも良いしね、その時の自分の体調にあったやり易い事をして頂いたら良い。

質問:分かりました。

河上さん:まあ、何人の方にはここにお祈りに行って下さいとか、こちらからお願いするんですけど、本当に大変な事をお願いしているんでね、もし、こちらから依頼が行った時は覚悟決めて行って下さい。



令和5年4月河上さん勉強会−2後半

質問:前々回の護摩の時に、他の人を乗せるので、いつも来るルートと違うルートで行ったのですが、そのルートはよく多くの方が使うルートなんですね。その日に分けてその方々と帰ったんですが、大事な携帯を忘れてしまって、結局、夕方からいつも通ってるルートで帰ったんですけど。その時にいつも行くルートで、何かそういう方々が待っている場合もあるのですか?

河上さん:あります。無駄な事は1つもないです。例えば、「携帯忘れたからまた取りに戻らないといけないじゃない」とかね、「文句を言いなさんな」なんですよ。神さまがいつも1番良いようにしてるから、どの形になっても、「あー、良かったんだ」と思って通ったらいいです。それぞれ必要で通らされます。

質問:そのルートは私ぐらいしか来ないルートなんですが、ってことになると、今後、その人たちを乗せる場合も、そのルートを…。

河上さん:そんな事は気にしなくていいです。その時に必要に応じて使って頂けますから。

質問:今、河上さんから、無駄な事は1つもないということで、改めてちょっとこの事を聞いてみようかなと思ったんですけど。ある集まりに、きっかけがあって、参加した時に、全く波動が違ったんですね。私は全く波動が違うなと思って、払うものだけ払ってとっとと帰ったんですけど、もしかして清める役目やったんかなとか…

河上さん:勿論、そうですよ。

質問:お祈りもせずに帰ったんですよ?

河上さん:それで良いの。

質問:それで良いんですか?

河上さん:お祈りしたらあかん場所があるの。ただ行くだけでいいっていう場所があるの。この前倒れた方の場合はね、微妙なバランスのとこやったんですけど、こっちのミスなんですけど、お祈りをお願いしたから、ちょっと弾かれた。申し訳ないことをした。僕も半分迷って、どうしようかなと思いながらお願いしちゃったのね。でも僕のミスなんだけど、顎を骨折さしちゃって、申し訳ないことしたんだけど。

 それくらいね、お祈りしてはいけない場所ってあるの。だから、逆にいうと、護摩にね、全然、知らん人でも騙してでも連れてきてくれっていうのは、お祈りを深くしてはいけない場所に光を通すには、そういう「神さまのお祈りがなんやねん」っていう人でもな、騙して護摩の会場に連れてくると、そういう部分に光が通るからなんですよ。「騙して連れて来るのは1回だけでいいから」っていつもいうのはね、そういうことなの。

 例えばすごい紛争地帯にね、お祈りに行ってもどうしようもないんですよ。例えば怪我をしてるとするでしょう、すると無理矢理開いてどうこう治療するのじゃなくて、そっと巻いといて治療する方が良い場合とね、切開して綺麗に取り出して縫合をした方が良い場合とか、色々あるわけですよ。あまり触った方が治らない傷ってあるでしょ?そういう感じでそっとしとく方がいいとこもあるの。だから行くだけで良かったの。でも行く必要はあったの。でもすぐ帰ってきて正解だったの、という感じです。

質問:いきなり天気も悪くなるし…

河上さん:そうそう。できるだけ来て欲しくないから、向こうは必死で邪魔するの(笑)。そういうものなの。だからね、虚栄心があったらあかんの。自分が真祈りできる、自分が悟ったなんてうっかり思うとね、いらんとこへ行っていらんお祈りをするわけ。それで大変なことが起こる。

 それで虚栄心というのは大変なの。だから、例えばさっき言ったように、嫌なこと、辛いこと、邪魔くさい事というのが、自分にとってのって、しつこく言ってるのはね、本当に自分にとっての事しかしたらあかんね。これは人も嫌がることやからやりましょうっていうのは虚栄心。自分にとって本当に嫌なこと、辛いことだけしたらいいの。でも世間的に見て、「あーこんな汚れ仕事の嫌なことやからやりましょう」はね、逆なの。という事なんですよ。それくらい虚栄心って難しい。


質問:分りました、ありがとうございます

河上さん:だから虚栄心が無かったからさっと帰って来れた。私が祈るって思ってたら頑張って祈ってえらい目に遭ってる。

 まぁそれくらいね、虚栄心って大変なの。でも虚栄心って自分と人を引き比べてる事だというのだけはわかって下さい、理屈で。ちょっとでも他人と自分を分けて引き比べたらね、「あー虚栄心が出た」と思って反省してください。だから先生はいつもね、「もとより後ろ指を指されるのは、覚悟の上やろ」ってニッて笑いはった。僕の時はいつも厳しいからね、微妙なつまらん質問をするとね、返事してくれへん。ニッて笑うだけで。

質問:確認なんですけども、自分にとって嫌なことっていう、今話をお聞きして本当に取り違えるって思ったのが、みんなの為にっていうのはすごい虚栄心…

河上さん:虚栄心です、勿論、そうです

質問:真(まこと)の神さまの為に、神さまと共に…

河上さん:そうそう。神さまの為にってだけを思ってたら良い。
 だから、これだけの物があるから、これだけの食べ物だから、みんなに無理に分けようとしたら虚栄心なんです。本当に食べ物が少ない時は、体の弱ってる人だけに分けて、元気な人は我慢してもらうというのがいるんだけど、変な虚栄心があると平等に分けなくちゃいけないとかになってくるんだけど。

 これからどの形になるかわからないけど、大変になったら食べ物が足りないです。そしたら、本当に必要な人に、弱ってる人とかね、本当にその人たちに分けて、「元気な人はちょっと辛抱してや」とかね、「元気な人は本当にこれだけで辛抱してや」って言えるのが本当なんですけど、中々そうならないように持っていきたいと思っていますけども、なる場合もありますので。

 本当にね、みんなフワっと思ってるけど、知らぬが仏で、凄い際どい、もう日本が戦争に巻き込まれてしまったのでね、あまり録音で言いたくないけども、それって1つ間違うともう録音にも言えない位大変になります。

 だから護摩が来るのが早いでしょ?時間切れで時間が早くなってきたからね。ついこの間、護摩したのに、また護摩なん?みたいな感じであっという間でしょう?本当に時間切れてね、地球霊王様の方はもう「どうするねん?もう待たれへん」みたいな感じでせっつかれてるんですよ。

 「もう閉めていいか?」みたいな。本当に人間の手で地球を潰しちゃったら終わりだからね。
 無理に危機感を持つ必要は無いですけど、でも虚栄心があるかないかの確認をしながら悠々と「印可書」を奉納してください。ともかく、他人と引き比べたら虚栄心や。それは卑下満であっても一緒や。私は何もできへんわって言ったらもう引き比べてるでしょ?

 その人にしか出来ないことがあるから、神さまがその人を存在さしているというのを分かって下さい。絶対に無駄な存在は無いの。全部必要な存在です。それが分かったら、あいつがどうこうっていちいち思わない。あるいは自分にとって嫌なことから逃げない。全部必要なことだから、自分にとっては嫌だけど、必要であるんやなっていうのが分かるからね。

質問:ご飯なんですけど、お茶碗に半分位やったらいいんですか?

河上さん:別に半分やったらいいんですよ。いいんだけど、自分なりにね、センサーを貼っても貼らなくてもいいけど、1度は貼ってね、自分なりの食べ方をしてみて、その人によってね、上がる食べ物、上がらない食べ物ってあるんですよ。だから基本的には糖質、砂糖とかは良くないからダメって言っていますけども、食べて平気な人もありますから、量に関してはやっぱり7000円位のセンサーを貼って1度は見られてね、分けて食べたら大丈夫なんですよ。まとめて食べるからよくない。

 ただ、みんなまとめて食べたいからね、それでもう糖質はダメと。分けて食べてもいいって言っても、量を食べたら一緒やからね。中々どう説明しても食べたい人が食べるんだけど。

宮野さん:食べ方やね。タンパク質を先に取るとか、タンパク質、野菜、繊維質、そして最後に炭水化物って感じやね。デザートっていうフルーツとか、そういうものは別に食べた方がいいよね。食事が終わって最後にデザートって、血糖値が上がって、ガーンともう一回追い打ちをかけるようなもんやから。なので、デザートはちょっと時間をおいて頂くみたいな。

河上さん:要はね、おぎゃー!って生まれた時に、自分が食べる物を持って来るんですよ。だから今言ったように、ご飯食べても上がらない人は上がらない。なんでかと言ったら、まだ食べる量として持って来てるのが残ってるから。でも一杯食べ尽くしたら食べるものが無いわけ。それで血糖値が上がるの。だから、おにぎり1個で上がる人と上がらない人が出てくるわけ。

 だからセンサーを張って見てもらうしかないんだけど、でも寿命があるんよ。ここが問題やね。生まれて持ってきた食べ物を食べ尽くしても寿命があるんよ。だから寝込もうが何しようが死なれへんね。それで寝たきりが起こるわけ。

 だからそうならないように自分は食べ尽くしてしまったなって思う人はね、でもタンパク質とかナッツ類とかね、そういうのは大丈夫だから。ジャガイモとか南京、栗とかはダメよ。サツマイモとかね、あれは糖質だから、駄目だけど、自分なりに考えて食べないとね。結局自分が寝込んで周りに迷惑かけるからね。

 それで1番大事なのは、自分が寝込んだら、周りに迷惑がかかる、人の世話になるからね。「寝込まないように気をつけなくちゃ」なんて言ってるとそうなるからね。言葉の力をみんな軽く思いすぎ。いらん事を言ったらあかん。「神さまが1番良いようにしてる、よかった、よかった」って喜んでるだけでいいの。それなのに先生がよく仰った。老後病気になった時の為にお金を貯めましょうって言って、そのお金できっちり病気になるみたいなね。一緒よ。だからそれだけです。

 食べ尽くしたかどうかは僕にはわからないからセンサーを貼ってみて下さい。

 面白いよ、バナナでもね、上がらない人は上がらない。僕はバナナ大好きでたくさん食べてきた。だからちょっとバナナを食べるだけでも血糖値が上がる。もう食べ尽くしてしまったんや。その人によって色々あります。

質問:客観的な数値を見ると、ちょっと食べ尽くしたんかなっていう数値が出ているんですが、これから節制し続けていけばいいという考えで良いでしょうか?

河上さん:糖質を極力避けてね、タンパク質とお魚とかお肉とかチーズとかね。牛乳はダメよ、糖質がようけ入ってるからね、いうのを食べていかれたら大丈夫です。寿命があるからね。寿命と食べるものは別やね。そこが怖いね。

 だから、先生は「贅沢しなさんな」っていうのは、色々深い意味があってね、寿命もお金も全部生まれた時に決まった量しか持って来てないの。だからなんぼ頑張ったってお金持ちになれない人はなれないのよ。なる人は何したってなるの。株で儲けるとか色々あるけど、パターンはね。

 裸一環から起業して大企業になる人というのはそういうのを持ってきてるから、もちろんその人の苦労と努力もあるけどね。そういう感じであるので、でもそれとは別に寿命は別やから、嫌でも死ねないからね。そのために頑張って大事に生きてください。

質問:ヨーグルトも同じですか?

河上さん:ヨーグルトもその人によって。砂糖の入っていないヨーグルトやったら大丈夫です。

宮野さん:大量に食べなければ。

河上さん:でも砂糖の入っていないヨーグルトは酸っぱくてあまり食べれないよね。

質問:果物入れて(笑)

河上さん:いやいや(果物は果糖だから、すごく血糖値が跳ね上がる)(笑)だからセンサー貼って、自分なりに普段の食べ方をしてみてください。

宮野さん:アガベシロップとか少し。アガベシロップってね、それを入れはったらどうですかね。すごい、血糖値が上がりにくいシロップで、お酒の原料、テキーラとかを作る原料の中で、製造中にシロップになるやつがあるのね。アガベって今もうどこでも売っているので、それはなかなか血糖値が上がりにくいし、甘みも充分なので、料理に使っていただいてもいいし、ヨーグルトに入れはってもいいと思うんですけど。

質問:ラカンカ(羅漢果)もいけるんですよね?

宮野さん:ラカンカもいける。

河上さん:果物は本当にダメ。すごい上がる。恐ろしい位。みかん1個食べても恐ろしい位。

宮野さん:200位になる、みかんで。

河上さん:果物が健康に良いと思って勘違いするけど違う。

宮野さん:清美オレンジ1個食べたら205はいった。

河上さん:今は果物が安くなったじゃない。だから余計に食べるんだけど。昔って果物が高いからね、病気見舞に使う位、上物やったからあれやったんだけど。でもね、たまには甘いのが欲しいだろうから、その辺は自分なりに考えてしたらいいね。全部辛抱してしまうと、どこかで爆発してしまうから(笑)。だから本当に食べ方、甘いのをちょろっと一欠けら食べて喜ぶようになる。感謝して喜んでたらいいからね。

質問:色々工夫して、血糖値が上がらないように甘い物をめっちゃ食べてるんですけど、上げなきゃ良いってものでもないのですか?上がらなかったら大丈夫ですか?組み合わせをすごい工夫して、好きなものを一杯食べてるんですけど。

河上さん:上がらなかったら大丈夫ですよ。何よりもね、食欲で食べずに感謝して食べてたらね、食べ尽くさない。食欲で食べる分を背負って来てるから。だから感謝して食べたら良い。ただ、食べ尽くしてしまうとね、食べれる物が本当にしぼまってきてね、大変なんですよ。

質問:はい、ありがとうございます。

河上さん:だから本当にね、タンパク質を取れないとね、血管が弱るんですよ。勿論、血管を丈夫にするのは色んな物があるんですけど、基本的にはタンパク質がいるのでね。そのタンパク質の取れる量というのは、何が問題かと言ったら、その人にとってそのタンパク質をどれくらい吸収できるかなの。大食いの人だけど、痩せている人っているじゃないですか。それは吸収率が悪いから。だからその人にとってがあるからね、中々これだけのものを食べなさいというのも難しいし、色々あります。でも基本的には先生のようにね、感謝していただいていたらスーっと行くんだけどね。食欲で食べているとなかなか吸収しすぎたりしなかったりするの。

 人間の体の怖いのはね、人間の体って支え合いで構成されているわけですよ。すると、少々どこが悪くなっても支え合いをして最後まで元気で動けるの。だからあの人元気やったのに突然入院したらパタっと逝ったわっていうのはね、支え合いのギリギリまで持っていきはったわけよ。そうなってからでは遅いからね、一生懸命言ってるわけ。

 基本的にスタートは血糖値を上げることによって毛細血管が壊死していくのでね。すると血管が壊死するのは、血管の壁に色んな物が付いて細くなるからなんですけど、その細くなる理由は、途中のプロセスを省略してね、血糖値を上げることから始まっているということで、今、医学的に細かく言ってもいいんだけど、タンパク質と糖が結びついてね、そういう焦げた様な組織、物ができて、血管の壁を傷つけるんですよ。傷つくと血管の壁は修復しようとして、膨らむわけね。人間の傷でもそうでしょ?怪我したら外へ膨らむでしょ?血管の場合は内側に膨らむの。そしたら毛細血管が傷つくと、内側が膨らんだらもう血が通らないじゃない。それで血糖値を上げると結局は毛細血管が壊死すると。

 若い時は血糖値が上がってもすぐ下げれるから壊死しにくいし、再生も早い。歳をとると中々下がらないから、どんどん壊死して。それが筋肉が減る分にはまだね、あまり歩けなくなったわで済むんだけど、内臓の筋肉が減ったら本当に全体的に大変になる。でも寿命がある限りは死ねないという大変さがあるので大事にして下さいねっていうことです。

 それぐらいタンパク質と糖質が結びつくと、お焦げって嫌でしょ?ああいう感じで体内で焦げができるんです。それを活性酸素とかね、いろんな表現使いますけど。それが出来たら、血管の壁が傷つくから、血管が細くなって、高血圧に出る人もあれば、出る前に血管がどんどん死ぬ人もあるしとかね、色々あるので。

 でもお医者さんはね、血糖値が1番の基本的な原因だというのは知ってるんですよ。知ってるけど、それを言ったって一般の人が信じないの。何故かというと、血糖値が上がったって症状でないでしょ?例えばカレー食べたら「美味しかったな」だけや。でもカレー食べたらどんな人でも400越すの。でも若い人はスっと下がるけど、年寄は下がらへんみたいなね。でも自覚症状が無いの。それである日突然ってなるからね。もうお医者さんも説明しても、何ていうの、自覚症状がないし、わかりにくいでしょ。そしたら、あのお医者さんややこしいこというだけやって、客逃げるからね、言わない。

宮野さん:因みにそのカレーは日本のカレーの話なので、インドのカレーじゃないからね。日本のカレーってカレーのルーを作るときに、小麦粉をいっぱい使うでしょう。なので、日本のとろみをあるカレーを使うと血糖値が上がる。ご飯も炭水化物だし、ルーにも小麦粉がいっぱい入ってるから。なので、ダブルだよねっていう話で。でもインドとか、タイのカレーはそういうものを使ってないので。

河上さん:しゃぶしゃぶやからね。だからあっちの人は平気。

宮野さん:同じカレーを食べたいんやったら、ご飯の量を調整するなりして、スープカレー。北海道とかのスープカレーだったりとか、タイのカレーとか、もしくは本格的なインドのカレーだったら全然大丈夫かな。

河上さん:そうです。カレーの中の薬効成分って凄い良いからね。だから暑い地方ほど、ああいうのを食べて体を保つんですけど。

宮野さん:漢方ですものね。

河上さん:うん。でも小麦粉を入れたらね、うどんをおかずにご飯を食べるようなもんや。あかんやろ?それはみたいなのがあるやろ(笑)。

宮野さん:関西人はいけるんちゃう?

河上さん:パンと何かとか(笑)?

宮野さん:お好み焼きにご飯とか、うどんにご飯はいけるんちゃう?関東ではラーメンライスやな。

河上さん:そうそう、ラーメンライス。怖いで(笑)。

宮野さん:血糖値スパイクやね。

河上さん:そしたらお祈りして終わります。


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4月護摩 by 河上 [Mail] 2023年04月07日(金) 19時53分
PC

4月護摩焚き河上さんのお話
 宇宙神ありがとうございます

 令和5年4月の護摩焚きで、みなさんからの質問に河上さんが答えてくださった内容です。ありがとうございます

質問1
 以前、護摩で「地震はもう日本ではあまり起こりません。」とお聞きしましたが、それは向こうの世界では起こっているけど、こちらの世界で発生する前に、印可書を選ぶ人が増えてきて消しているので、発生しなくなっていると解釈してよろしいか?

河上さん
 また今月もお会いできてありがとうございます

 入れ子構造なので、日本で起こることが世界で起こるようになっています。日本でまず大きく起こらないように、印可書で真祈りしていただいてですね、小さく小さく、大難を無難にみなさんにしてもらっています。

 そのすがたが、そのまま世界に響き渡っていって、このまま無難に過ぎるのが一番良いのですけども、その前にはやはりちょっと、なんて言うんですか、結局ね人類というのは自分でどうこうしようという意識があるわけですよ。自分でなんとかしようというね。自分でなんとかしようとすると、世界的なレベルで言うと、世界のあちこちで地震が起こると、そういう風に思ってください。

 その自分でどうこうしようというのは何かと言うと、神さまと共に生きるとか、神さまのために生きるという時は、自分でどうこうしようというのはないんですよ。だから、「私は神さまと共に生きるんだ」「神さまのために生きるんだ。」と思いつつもね、どこかで自分でどうこうしようとしているのね。その自分でどうこうしようというのがなくなると、「絶体奉仕」「絶体感謝」へ入れるわけですけども。

 まだ日本人ですら、普段のお仕事だと自分でどうこうしようと思ってしまうじゃないですか。その感じで世界的にはもうちょっとみんな、問題が起こったら国でどうこうしよう、自分でどうこうしようというのがありますので、まだ揺れる所は揺れるということです。ありがとうございます

質問2
 「言葉通りになる」について質問です。どういう言葉が言葉通りになって、どういう言葉が言葉通りにならないのでしょうか。自分の言葉通りに他人が動いてくれるようになる、という意味ではないのは分かります。よろしくお願いします。

河上さん
 すべての言葉通りには、基本的にはなります。ただ、相手の自由意志を縛る形の言葉通りにはならないということです。すべては自由意志を最優先、真(まこと)の神さまというのは、本質、みんな光やというね、真(まこと)の神さまという本質が、みんな持っていますから、その本質を邪魔する、相手の自由意志を縛る言葉は全部実現しないです。

 逆に、(そんなことをすると)自分が縛られて、なんか体がダルいな、なんかやる気が出ないな、なんかしんどいなみたいな感じ、あるいは病気になっていくみたいな感じでですね、動けなくなるだけです。だから相手の自由意志を縛る言葉は実現しません。それ以外は、どのかたちでも実現していきます。

 だから、例えば「あいつ殺す、死ね。」「おまえ死ね。」みたいなのあるじゃないですか。「あいつ死んだらええねん。」みたいなね。それって本人(相手の人)は生きたいわけでしょう?だから本人は生きたいのに、「死ね」って言ってるから自由意志を縛ってるじゃないですか。

 だから実現しないわけ。しないけども、その「死ね」という言葉の力は自分に響いて、自分が調子悪くなると。極端に言うとそういう感じです。ありがとうございます

質問3
 先生はよく、「自分以外は、すべて真(まこと)の神さま。自分と神さまを一対一に置く。これが信仰の極意。」とおっしゃっていましたが、その意味を教えてください。

河上さん
 この「一対一」というところが一番難しいところでね。結局何かと言うと、今言った、自分でどうこうしようという意識のあるうちは一対一じゃないわけですよ。わかります?神さまと自分が一対一ということは、もう神さまの御心に添うだけ。すると一対一なんですけど、神さまのために生きる、神さまのお手伝いをすると言いながらね、自分でどうこうしようと思ってるうちは、一対一じゃないわけですよ。要するに、自分がどうこうするということは、神さま以外のものを認めてるでしょう?神さまだけだったら、自分がどうこうしなくても、ちゃんと動くわけですよ。

 昔はね、「まず真祈りしてから、お祈りしてからお仕事せえ、お祈りしてから作業せえ。」とか言うんだけど、みんな「お祈りしたってどうしたらいいかわからない。」って言ってできなかったわけですね。今は印可書がありますので、印可書を奉読しながら、なんとなくやりたいと思うことをやれば、それは神さまの御心に添っていけますよという楽な形になったのでね。

 自信がない間は、自信のない間というより、別に自信というのは、既にもう間違いなんですけどね、自分の信(しん)だから。自信という意味合いも間違いですけども、神さまの御心が本当にどんどん響いてきます、印可書を読んでいたら。だから最初は響いてきた気がしなくてもね、印可書を読みながら、恐々(おそるおそる)とでも良いですし、悠々とでも良いですから、色々とされたら、だんだん実感として湧いてきますので大丈夫です。

 結局は、自分がどうこうする意識だけの問題なんですね。その自分がどうこうという意識は、印可書で消していけるから、今は楽だということです。

 印可書を入れずに説明すると、例えば富士山の登山とかね、極端に言えばエベレストの登山とかそうなんですけど、頂上を見たらね、例えば富士山の登山でもそうなんですけど、頂上を見たらとても登れる気がしないくらいすごいじゃないですか。だから結果を一切意識せずに、ひたすら淡々と前進する気持ちが神さまと一対一なんです。

 なぜかと言うと、神さまというのは、いつもいつも一瞬一瞬新たに新たに新たなる下座に立つ働きをされるわけですね。だから自分にとってしんどいと思うことをしてたら、だいたい自分にとって、しんどい嫌な辛いことをしてたら、神さまの御心に添ってると思って間違いないです。

 もう一つは、神さまと一対一というのは、一つだけの仕事に絞ってね、これをどうこうするっていうと、自分でどうこうしようとなるわけですよ。でも色んなことを同時にしたら良いの。そしたら、自分でどうこうする余裕がなくなってね、神さまの御心に添っていけます。

 ここで一番大事なことは、昔から先生は「同時にいっぱいしなさい。」って言うわけですよ。そしたら、ほとんどの人はそれができなくなるの。なぜかと言うと結果を掴むから。「同時にいっぱいしたら、結局どれもこれも尻切れトンボになって何もできないじゃないか、だからダメだ。先生だからできるんだけど、私ら無理だ。」っていう感じでみんな止めちゃったわけですよ。

 本当は結果を掴んじゃダメなんです。一歩一歩進むことが大事なんです。

 それを先生は「ところてん構造」とおっしゃるわけです。「入れ子構造」「重層構造」「ところてん構造」とおっしゃるわけですけど。

 「ところてん構造」って何かと言うと、一瞬一瞬新たに湧き上がってくることを「ところてん構造」と言います。一瞬一瞬に新たに湧き上がってくるから、どんどん押し出されてね、古い結果は流れ去っていくわけですよ。

 だから色んなことを同時にしてて、どれもこれも尻切れトンボで完成してないで良いんですよ。結果は関係ないの。一生懸命することが、ひたむきに淡々と、山登りで言うとね、結果を気にするんだったら、人目を気にしてね、俺は全力で登るんだみたいなことをするわけですよ。すると疲れ果てて動けなくなる。人目なんか関係ない。自分と神さまだけだから。只々一歩一歩前に進むんだ、人の嫌がる辛いことをやりながら一歩一歩進むんだというそれだけで良いんです。

 結果は後から必要に応じて伴ってくるだけで。完成という形の結果は囚われなんですよ。

 例えばこの現世(うつしよ)といえどもね、完成したということはあり得ないの。まあ、車1つ見てもね、その時にとっては完成した車でしょう?でもより良くなった車を出してくるわけでしょう?それは普段のお仕事でもね、その時にとったら完成した形の仕事のやり方だけど、世の中が変化してきたら変えていくじゃないですか。これで完成だということなんてのは、神さまの世界にも、この現世(うつしよ)にもないの。常に「ところてん構造」で一瞬一瞬新たに湧き上がるから、最終完成なんてないわけです。ないのにね、みんなその幻の完成を掴んで、完成してないから、色んなことを同時にやるから全部尻切れトンボでダメなんだダメなんだって言ってるだけです。

 でも本当は神さまの働きというのは、どんどん「ところてん構造」で一瞬一瞬新たに湧き上がってきますから、この自然界のすがたを見たらそうなんですけども、枯れていくすがたと新たに芽吹くすがたとね、どれもこれも未完成じゃないですか。どこが完成なんだと言ったら、どこが完成って言えないよね。例えば実を結んだのが完成だとしたらね、それ腐っていくわけでしょう?じゃあどうなの?理屈で言えばね。

 だから形の完成じゃなくて神さまの御心に添って、ひたすら、ひたすら前進していく。それを創造というんですけども。ひたすら新しいことを創造していくだけなんです。だから同時に色んなことをして結果としてうまくできないことばっかりでも構わないの。そのひたむきに一生懸命に前進する、人の嫌がることをやってね。だから先生は「トイレ掃除しなさい。」「一番人の嫌がることをしなさい。」みたいにおっしゃるわけですけども、そういう意味です。

 だから「ところてん構造」が一瞬一瞬新たなことなんだから、だからどんどん押し出されるから、今ある結果はすべて変わっていくだけ、みたいなね。ということをちゃんとわかっていただくと、さらさらと流せてね、なんでも一生懸命ひたむきに向き合えるわけです。

 だから例えば「私は英語を勉強しよう。」と、それで一生かかって英語が喋られなくても、それはそれで良いんだって諦められたら、喋られるようになるの。分かります?5年以内に一生懸命勉強して5年以内に英語を喋ろうなんて思うとね、一生できないの。永遠に毎年5年以内にって言うわけ。「私は5年以内に英語を喋られるようになる」って毎年5年以内5年以内にって永遠に続くわけですね。

 だからもう明日やろうなんて思わないで今するだけ。今ひたむきにするだけ。その時の結果も気にしなければ、本当は完成していくんです。たったそれだけです。それを神さまと一対一になるということになります。ありがとうございます

司会者
 それについて。ちょっとズレるかもしれないんですけど、例えばやることがいっぱいあった時に、もう何から手をつけて良いか分からないってなるんで、その時はとりあえず一つずつ終わらせていこうっていうのは、それは別に完成っていうんじゃなくて、こう…

河上さん
 ああ、そうそう。とりあえず一つ一つ終わらせていこうで良いんですよ。でもその終わらす結果をね、どこに掴むかですよ。今できる最善を尽くしてこの結果だから、それで良しにしなくちゃいけないのに、なんとか完璧にしようなんて思うとね、誰だって完成しないって。分かります?ある程度それなりにできたら、もうどんどんという感じで、さらさらと結果を流せたら大丈夫です。

司会者
 結果を掴まなかったら、まあ…

河上さん
 自然に優先事項を優先しながら楽しめる。楽しめるようになります。

司会者
 わかりました。ありがとうございます

質問4
 一ノ宮について質問します。地図を見ると能登半島の辺りにやけに一ノ宮が多いなと感じます。
偶然でしょうか?それとも立山信仰のせいでしょうか?海の地形のせいでしょうか?よろしくお願いいたします。

河上さん
 元々日本は、日本という二つ(ふたつ)ついてるくらいに二つの島だったわけですよ。能登半島というところはちょうどそれの境目になります。その結果として、その境目辺りというのは、栄えるんですね。境目、さか、という響きは栄えるという意味で栄えるわけですよ。

 越(こし)の国という大きな大文明がありましてその結果です。日本では、火の国とか和の国とか越(こし)国とか、越(えつ)の国とか色々あるんですけども、それぞれの国が連合体となって一つの大きな平和集団を作ってたんですね。それを神無し月と言うんですか、出雲にみんな集まって、会議して相談して、まとめて平和に暮らしてました。

 またそれがなんて言うんですか、人類の傲慢さですね。結局、神さまを信じ、傲慢さって何かというと神さまを信じ切れないということです。どの文明もいつもそうなんですけども、みんな自分の老後が心配なのね。自分の老後を子供に見てもらおうと思って、子供を作ろう作ろうとするの。

 すると地球霊王さまの予定以上の人口になって、いろんなバランスが崩れて争い事に奪い合いになるんですね。その結果ですけども、栄えた地域なんで一ノ宮が多いです。ありがとうございます

質問5
 2つ目、尾山神社、峯本社は一ノ宮ですが、行かない方がいいと言うことでよろしいでしょうか?よろしくお願いいたします。

河上さん
 もちろん、自由意志ですから行きたければ行ったらいいんですけど。本当に敬虔な気持ちで行かれて、さっきの話じゃないですけど自分が祈るという意識がある時は、できるだけ外からお祈りして帰ってきてください。中まで踏み込まずに。結局、境内の中まで踏み込むというのは自分がないから入れるんですよ。

 自分があるうちは入ったらダメなの、本当は。でも今は、そこまで言うとね、大変だからある程度は許されてますけれども。自分が祈ると言う意識のある内はね、できるだけ外からお祈りして下さい。それだけです。

 じゃあ自分が祈ると神さまと共に祈る、神さまの御心のままに祈るとの違いは何かと言ったら、印可書を奉読していたら神さまの御心のままに祈るになりますから、印可書奉読の時は行ってくださいとお願いしています。

 ただ印可書奉読を淡々ととお願いしてるじゃないですか。奉読と言ってね、自分が読むって言ってないでしょう。でも奉読と言いつつ、ついつい印可書を自分が読むと思って行ってしまう場合があるんで、特に、そこの神社の場合は大変なので、鞍馬寺もそうですし、いろいろありますけども、あんまり行かなくていいですというふうに言ってます。ありがとうございます

質問6
 大谷選手のWBCでの、ご活躍を見てとても感動しました。以前イチロー選手の過去生は修行僧だったと聞いていますが、大谷選手も過去、偉業をなされた方だったのでしょうか?

河上さん
 もう過去を掴んで、どうこう言う話をやめにしたいので、あえてどうこういうのは言いませんけどね。結局は神さまに添うことが一番大事なことじゃないですか。そのために過去世も修行されてきてるわけです、皆さんね。

 でもそうして過去世修行した結果、今生では、いろんな徳を積んでるから、いろんな能力の発揮できる素晴らしい形として生まれて来るんですけれど、今度は、なまじ能力を発揮できると神さま忘れるのね。そういう難しさがあるんですよ。いろいろありますけど、そういう因縁因果を言うのはやめたいと思います。はい、ありがとうございます

質問7
 頭では血糖値を上げてはいけないとわかっていても、夕食後甘いものを食べてしまいます。自覚の不足で申し訳ないです。どうしたらいいですか?お祈りだけですね。

河上さん
 これはもう、みんな共に持っている共感ですけど、若いうちは少々は大丈夫ですよ。でも、お年を召されてくると内臓が弱ってますから、インシュリンの出方も弱いんで。すると結局、食後にそういう甘いものを食べると本当に血糖値が上がります。上がると毛細血管が破裂していくんですね。

 毛細血管がプチプチ破裂してるうちはいいんですけど、もうちょっといくと太い血管もポンっていくわけですよ。すると、くも膜下出血とか脳梗塞とかいわゆる中風という症状になって苦しむのはご本人ですから自由意志の中で判断されたらよいと思います。ありがとうございます

河上さん
 だから、甘いものを食べたい時は、印可書を一生懸命奉読して頑張ってください。ありがとうございます

質問8
 なんとなく世界は、いい感じになってきていると思うのですが、まだまだ虚の世界はギリギリなんでしょうか?

河上さん
 まだまだギリギリどころかどんどん追い詰められています。日本から世界は変わりますので、本当にこの護摩次第になっていますけども真祈り人の責任重大にはなってますけども、力まずに、悠々と淡々と印可書を奉読し続けて、護摩を続けていきたいと思います。

 なんていうんですかね、結局は自分を守りたい意識で戦争が起こるんですよ。自分を守りたい、自分の家族を守りたい、自分の民族を守りたい、自分の国を守りたいで疑心暗鬼になる。まだ日本人は、相手のことを信用してあげるという意識あるじゃないですか。

 でも海外に行くと騙される方が悪いんだという感覚なんですよ。えっと思うだろうけど、これが本当のところです。騙される方が悪いんだ。

 お互い普段騙し合いしてるからね、余計、疑心暗鬼で相手を信用できずに戦争までいっちゃう訳ですね。その騙される方が悪いんだっていう意識を、それって何かと言ったら、自分さえ良ければいいんだが裏返しなんですけども。そういう自分さえ良ければの意識を印可書で、印可書奉読でお清めしてきれいにして、消していきたいと思っています。ありがとうございます

質問9
 今年の抱負を「肝を据えて、見返りを求めず、半歩でも神さまに近づく」としたところ、翌日に「借りていたお金を返す。」と電話がかかってきた。私は町内の自治会長、妻は民生児童委員の役割の仕事、歌の出前活動もコロナ禍にもかかわらず、入ってくるようになったり、充実した日々、重量のある日々になりそうです。この見返りを求めないということだけでも、全体と自己との壁を低くする。又はエゴを小さくすることにつながっていくのでしょうか?

河上さん
 はい。神さまが与えきりに与えきりの姿、一切報いを求めずに与えきりに与え尽くす姿というのをとられているわけですね。その姿に少しでも添おうとする事はいいことだと思います。

 でその借金を返してくれ?

司会者
 「お金を返す、借りていたお金を返す」と電話がかかってきた。

河上さん
 ああ、返すというね、はい、わかりました。ありがとうございます

司会者
 先にいただいてる質問は以上です。会場の方から質問、何かありますか?(会場からの質問がありました)

質問10
 ありがとうございます この場にそぐわない質問で申し訳ありません。無限っていう概念について、どうしても気になってわからないんですよ。それで、無限大という記号で、あれは概念なのか、数字じゃないですよね、あれは?

河上さん
 結局ね、この肉体を持って、この現世に住んでると 平面的にしか受け取れないんですよ。立体的に重層構造 、入れ子構造っていうのは、立体的な姿なんですね。立体的にも、もっと立体に立体を重ねた姿なんですけども、それが理解できないと無限というのがわからないということなんですよ。

 どういうたらいいんですかね、例えば、ルービックキューブがあるでしょう、あれ平面のパズルじゃないじゃないですか、立体じゃないですか。あの立体のイメージを簡単に理解できた人は、ルービックキューブを解くのが得意なんですよね。角の色だけを見て、その色に合わすように回していくじゃないですか。ああいう感じで立体的に捉える意識がないと無限というのはわからないです。

 この現世(うつしよ)に限らず、すべての世界は「無限の無限の無限」なんです。それって、もう広大無辺でね、説明しようないぐらい凄いんです。なぜ、無限の無限の無限かと言うと「一瞬一瞬新た」だからなんですよ。

 いつも一瞬一瞬新たに始まって無限に広がってるのが、重層構造的に入れ子構造的に、どんどんどんどん広がっていってるの、だから無限なんです。でも無限という言葉で表すと平面的に捉えるんで、先生は「無限の無限のありがとうございます」とかね 、二つ重ねられたわけですけど。本当は無限というのは、いくら重ねてもきりない。それをいわゆるメビウスの輪なんですけども、メビウスの輪として無限の記号ができています。あれはメビウスの輪だと思ってください。メビウスの輪ご存知ですか?

質問者
 見たことはあります。

河上さん
 ああいう形で 。

質問者
 ひねった、一枚ひねった。

河上さん
 ひねることによって、重層構造も入れ子構造も全部現してるという、だから、印可書で 表が裏となってというね、裏が表となってということを書かれてるわけです。いいですか?

質問者
 逆に、無限大分の一だと、ゼロでいいんですか?無限小という数字は?

河上さん
 いわゆるゼロという概念では現しきれないくらいの無限小なんですけどね。結局は、平面的に捉えるでしょう。無限大分の一というのも平面的な内の、この端っこかなぁみたいに、みんな思っちゃうじゃないですか。そうじゃなくって立体的な空間の一番始まり。一瞬一瞬新たのところが無限億分の一です。

質問者
 無限分の一。

河上さん
 無限分の一でもいいし、無限億分の一でも。一瞬一瞬新たに湧き上がるとこが一番の最初だから。

質問者
 無限小(河上さん、はい。)。無限小はゼロ?

河上さん
 じゃなくて、ゼロだったら、湧き上がってこない。ゼロというのは、この世的な概念で対照的に、比較対象した時のどうこうするためにゼロを作っただけです。例えば、1というのは0.9999・・・って書くのが邪魔くさいから1って書いただけで、本当は1じゃないんですよ。

質問者
 それもなんか聞いて、なんか前もその話題で証明できるとこまで聞いたんですけど・・・。

河上さん
 だから、等比級数が理解できないとね、0.9999・・・がなんで1なんだって、みんな思っちゃうわけですけど、10分の1の比率でね、あんまり言わんとこ。等比級数がわかるとわかる内容です。

質問者
 他に質問できる人がいなくて。ただ一人アーベルという人だけが、ゼロ分の一みたいな表し方で無限大を表した話があって、ちょっと聞きたかったんですけれども。

河上さん
 それは、いわいる宇宙を表す数式っていうのを出してる人、何人かいらっしゃるわけですけど、みなさんゼロ分の一とか、細かく分析したものを集めて、集めてどうこう、これが宇宙の姿だって言ってるわけですよ。それはもうスタートが間違っている。分析してどうこうじゃなくて、どれだけ受け取れるかだけなんです。E=mc2乗が正しいけども、インテグラル(積分→細かく分析したものを一つに集めること)のどうこうどうこうという数式は間違っているんです。

 でも現代の量子力学でも何でもね、行き詰まると言うか、うまく説明しきれないのはね、調べた結果を数式に、要するに分析した結果を数式に表して、それを集めてなんとかしようとするからわからなくなるんです。

質問者
 無限大は、一応数理みたいな、数理ではあるんですね、実際の実在の概念じゃなく・・・。

河上さん
 概念じゃなくて実際のものです。

質問者
 無限小も実際のもの。

河上さん
 実際、一瞬一瞬新たのとこが無限小です。

質問者
 ゼロというのは?

河上さん
 ゼロというのは、比較、対象する時の表現のためにゼロを作らないと邪魔くさいからね、0という数字にしたんです。

質問者
 シグマみたいな扱い方。

河上さん
 そうです、そうです。

質問
 はい、ありがとうございます もう一点だけ伺いしたいんです。話題は、ぜんぜん違うんです。空海さんと同時時代の最澄(さいちょう)さんが、今まであまり話題に出てこなかったんですけど、お二人を見ているとバッハさんとヘンデルさんみたいな。

河上さん
 違います。

質問者
 全然違いますか?

河上さん
 空海さんは、今いった、すべてを同時に受け取れる方ですけど、最澄(さいちょう)さんは分析してどうこうという方なんでね。分析してどうこう、 要するに理屈でわかろうとしたわけです。神さまの事を御仏ことね、理屈でわかろうとしたら、わからなくなるんだけど、そういう進め方された方です。空海さんは、すべてを同時に受けるのね。

 例えば、仏教で千手観音ってあるわけですけども、千手観音って何だって言うとね、千本の手じゃないんですよ。無限の手があって、すべての人を救いとらんというすがたを現しているわけですね。

 でも、 理屈言いをちょっと納得させるために千手観音世っていうわけです。でも仏像の手は千本ないのね、わかります?だから、あくまで象徴的な表現です。理屈で考えるとそういう感じで、分析してどうこうしようと思うから、わからなくなるんですよ。

 千手観音の働きは、すべてのすべてを救い取る働きなのに、手が千本しかなかったら、千人しか救い取れないのかみたいなね、理屈いいになっていくわけですね。

質問者
 最澄(さいちょう)さんは、ちょっと真祈りまでは、いかなかった?

河上さん
 理屈いいのままで終わっちゃったんです。だからその、空海さんは、喧嘩はしてないですけども、そんな理屈ではわからないんだぁっていうことでね、そんな理屈を続けて言うんだったら、もう一切の経文を貸し出ししないってなったんです。それを後の人が見てね、二人が喧嘩したみたいに言いますけど、そうじゃなくて、空海さんは、理屈じゃないから、理屈言わなくなるまで、もう貸さないって言ったわけです。はい、ありがとうございます

質問者
 はい、ありがとうございます

司会者
 他、質問ないですか?ないようなので、(河上さん)お願いします。

河上さん
 ありがとうございます またお会いできて、本当に嬉しく思います。

 今日の護摩もね、すごく重層構造的に上手くいきまして、すごく素晴らしかったです。ともかく外国の人はね、日本人でもそうですけど、まだマシです。海外の人は、まず騙される方が悪いという概念があります。この概念が、戦争を引き起こすんでね。でもそれを理屈で、そんなん言うてたらダメなんだよって言って、納得する問題ではないんで、真祈りで印可書奉読で光一元に変えて、世界平和を実現したいと思います。また来月お会いできることを楽しみにしています。ありがとうございます

 音声はこちらからどうぞ
 https://youtu.be/q3qsxAevPEM

 宇宙神ありがとうございます


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4月光の交流会 by 河上 [Mail] 2023年04月07日(金) 19時32分
PC

4月光の交流会
 宇宙神ありがとうございます
 
 令和5年4月光の交流会で、聞いていただいた先生のお話です。

  自分は、「神も仏もあるものか」という世界から、幸せになりたいという思いで「ありがとうございます」に出会えました。言葉通りになるなんて知らない、天照大御神さま(なに???)っていう感じで、ここではじめて知り、ただ幸せになりたいという思いで、とにかく必死で、その時は「無限の無限の幸せが無限に一杯、ありがとうございます」を唱えていました。それで、ここに来ることができ、先生には何も聞けないまま終わってしまいました。

  でも、河上さんとお話をさせていただき、「ありがとうございます」を扇子に例えると扇子を閉じた状態、「印可書」は扇子を広げた状態と仰ってくださり、ついつい現実を掴んで色んなことに、引っかかってしまう自分には「印可書」を奉読することができました。

 ありがとうございます

先生のお話

 真実の世界と虚の世界の違いって、どこにあるかでしょう。真(まこと)の神さまの一大循環の愛の姿を一瞬一瞬受け直してたら真実の世界よね。受け損なったら虚の世界よ。受け損なう原因どこにあるか?過去を掴むからよね。過去を掴んだら、新たな受け直しできなくなる。掴まないためには、いつも 恩返しに生きないとダメよね。受けたらすぐにお返しする恩返しが必要になってくる。掴まないことよね。一大循環の流れをそのまま眺めるぐらいで、掴まない事よね。掴まなかったら、新たに新たに受け直せる。新しいプレゼントをいつも眺めておれるよね。

 全方向の無限大外の絶対の中心からいつも降り注いでくる、愛のプレゼントがね。それを「ありがとうございます」で、ただ眺めるだけがいい。掴むとそれだけが自分のものになる、残り全部自分のものでなくなってしまう、小さくなる。ただ全体をいつも新たに新たに受け直せると真(まこと)の神さまの愛のプレゼントを全部自分のものよ。一瞬一瞬、受け直すだけでいい。「ありがとうございます」という言葉で確認する。新たなる全徳の無限の無限の輝きが無限に無限に一杯!一大循環の相象(すがた)をそのまま受け直すだけが正しい生き方よね。

幸せ、幸せって小さい幸せじゃあないね、一つや二つ数えるような幸せじゃないよね。新たなる無限の無限の幸せが無限に無限に一杯!だから、全部の幸せを束ねた幸せよね。いつものように降り注いでくる。これも絶対の中心に近いところは無限のスピードよ。末端にいくほど流れが緩やかになってくる、受けやすくしてくれてるけどね。でも一番末端まで全部プラスだけマイナスはない。縦に降り注ぐ縦線のプラスばっかり、止めたら横線マイナスになる。止まらないからスピードは早いから縦線だけで流れる。だから、プラスばっかり真(まこと)のプラスだけ、本当に止めることは絶対できないよね。止めたと思ったら残像の世界もうね。虚の世界に入ってしまってるね。一旦虚の世界に入ってしまったら、今度どうしたら戻れるか?真実の世界に戻る方法は何って?

 これは真(まこと)のプラスの言葉を選んで駆使しないとダメ。プラスの言葉、虚の世界のプラスじゃダメ。真(まこと)のプラスの言葉。これは真(まこと)の神さまを現す言葉じゃないと大きいプラスの言葉よね。そして与え尽くす恩返しの心を持たないとダメね。虚の世界はだいたい不足する世界だから、プラスの少なくなる世界だから、どうしても求める心を起こしやすい。求める心は流れが反対よね。与える心の流れと求める心とは反対の流れだから逆流よね。両方ぶつかり合ったら、虚の世界の求める心の方が小さいから飛ばされてしまうね、跳ね飛ばされる。跳ね返されるのね。求める心は全部跳ね返されるから自分に戻ってくるまたね。

マイナスの一言、これも同じよね。マイナスの言葉は求める心と同じなのね。マイナスの言葉も全部跳ね返される。マイナスの言葉って言うと大きい意味では過去を掴んだ言葉全部マイナスよ。虚の世界の掴んで見てる姿プラスに見えるのは本当は全部マイナスよね。虚の世界の言葉は全部マイナスの言葉になる。真(まこと)のプラスの言葉じゃないからみんな跳ね返されるの。そしたら跳ね返されたら周りが鏡になって自分の使った言葉が全部跳ね返されるね。

 自分というのは言葉、言葉で作り上げるから言葉通りの自分になるから虚の世界の言葉を使ってたら虚の言葉の自分よ。それを跳ね返されて、周りの鏡に写るような姿を取るの。だから自分の見てる姿全部、自分の姿なの。虚の世界は全部そうなるの。その虚の世界を全部消さないとダメよね。虚の世界から真実の世界に戻る方法、もう一回、真(まこと)のプラスの言葉を選ぶの。そして、しっかりと駆使する、祈る。そして求めない心、与える心に戻らないとダメだから、それで恩返し。恩返しの心の練習するの。だから、大きい本当のプラスの言葉をそれだけを使い続けて恩返し一筋に生きてたら、また本心の自分、元の自分の戻れる。

 それ以外戻る方法はないよね。一大循環の流れの中に入るためにね、入るためにはやっぱり、プラスの言葉が必要、与える心が必要。マイナスの一言も求める心も流れの中に入れない。与えるスピードは遅かってもまだ大丈夫なのね。大きい川の流れでもそうよ、大きい流れでも緩やかな流れのところはあるよね。全部が同じスピードで動かないね。両端にゆるやかな流れが作ってくれる。緩やかな流れの中へとけいって大きい流れの中へ、流れの中へ入っていける、してくれるからそれは心配ないね。与える心を起こせばいい 。恩返し一筋にってね。恩返しに生きたら流れが同じになるのね。方向が同じだからスーッと入っていける。

  だからまず、プラスの言葉、真(まこと)のプラスの言葉を選ぶ。真(まこと)の神さまを表現する言葉、大きいプラスの言葉、「新たなる全徳の無限の無限の輝きが無限に無限に一杯!」幸せって言うだけならダメなのよ。幸せって言うたら小さい虚の幸せになってしまうからね。「新たなる」っていう言葉がいるよ。常に絶対の中心から新たに新たに降り注ぐから、常に「新たなる」ってつけないとダメ。無限の無限の幸せっていうと入れ子構造の幸せよね。無限の無限の幸せっていうの入れ子構造の幸せよ。それが無限に無限に一杯っていう、無限に無限に一杯っていう意味は、全方向に無限に一杯っていうのね。ところてん式にずらっと繋がって一杯っていう意味、両方に意味があるね。ところてん式に無限に全方向に無限にって、それで無限に無限に一杯っていうふうに表現するのね。

 だから、「新たなる無限の無限の幸せが無限に無限に一杯!」って言ったら、真(まこと)の幸せっていう言葉。そしたら一大循環の流れの中に入れるの。大きい言葉じゃないとダメよね。

 「新たなる全徳の無限の無限の輝きが無限に無限に一杯!」その徳性がたくさんあるからいろんな言葉を一杯、並べ立てて、全部を一つにまとめて、それで「ありがとうございます」

 「ありがとうございます」「ありがとうございます」呼吸のように唱え続けて。吸うて吐いて吸って吐いてだけど、本当は吸いながら吐き、吐きながら吸ってるよね。自分っていう器がなかったら、吸い込んで吐くんじゃないね。吸いながら吐いてる、吐きながら吸ってるって感じでね、流れてるだけになってくるのね。「ありがとうございます」はそういう呼吸よね。

 そしたら一大循環の流れだけを眺めてる状態になっていけるね。それが一番幸せな状態よ。真(まこと)の神さまの愛に包み込まれたすがたよね。それ以外何もないって、これが本当のすがた、根本の真実のすがたよね。それを受け損なうと目を閉じて残像の世界に入ってしまう。目を閉じても、例えば、太陽が輝いてたら、明かりはちょっと入ってくるよね。目を閉じててもね明るいよね。それは虚の世界の光源の源になるね、光の源よね。でも本物じゃないね、目を閉じた中のは、光は、明るさは本物じゃないけど虚の世界の光源になっているよね、プラスの源よね。

 そこで一人ひとりの言葉の通りのすがたが、影を映すの。その光源が元になって、言葉通りの影を映してくれる。それがプラスでもマイナスでも言葉通り影が映るね、それが虚の世界の姿になる。だから虚の世界が全部、自分の選んだ言葉通りよ。大きいものも、小さいものも、何から何まで全部、言葉通りになっている。

まず言葉が先で、それが心に蓄積されて、それが具体化して形に現れて、そして消えるようになっている。それが繰り返されるのね。言葉が先で、心になって、形に現れて消える。

 どんな言葉を使ってもその通りになる。だから形に現れて消えていく姿を言葉にしたら、同じことを繰り返す。それがプラスでもマイナスでも、言葉通りになってくるのね。だから新しく言葉通りに変えたかったら別な言葉を使わないとダメ。どんな言葉でも大丈夫ね、言葉通りに影を映す。

でもそれは、あくまでも虚の世界の影の世界よ。影と光とは違う。本物の光の世界は中身がある。影の世界は中身がない。だから心の目を開いて、真実の世界の一大循環の相象(すがた)を一瞬一瞬受け直すっていうのが一番大事になってくるね。

 虚の世界でね、マイナスをプラスに変えるだけでは、本当は心の安らぎって絶対得られないよ。虚の世界のプラスは儚い、虚しい。永遠に続くものと違うのね、波の変化になるから波の上下の記憶の変化だから上に上がったら下に下がる必ずね。幸せと思ったらすぐ不幸になるよね。 勝負でも勝ったと思ったら、また負ける必ずね。プラスと思ったらすぐマイナスになる。

 虚の世界は全部、プラスっていうのは全部マイナスの支えでなってるから、借りよね全部。勝ち負けでもそうよね、勝ったって言うたら負ける人必ず反対にいてる。負ける人のおかげで勝者の側に立たせてもらっているだけよ、だから借りよこれ、借金なの。借金は必ず返さない時がくるよ。だから、勝ち続けるわけにはいかない。必ず、また負ける時が必ずくるの。だから絶対負けないためには、勝ったらダメなの、勝負したらダメね。

 戦争でもそうよ。戦争を始めたらダメなのね。勝ち続けるということは永遠に絶対ないよ。戦争で勝ったら必ず負ける時が来るよ。必ず敗戦っていう借金返しくるのよ。日本でもそうだったよ。外国と戦って勝ってもね、また負ける時必ずくる、借金返しよ。いくら神さまが守ってるって言ってもダメよ。神風は吹かないよ。戦争を始めたのが大きい間違いだから、相手を打ち負かしたのが大きな間違い、勝ったらダメよ。

すべてがそうよ、お金儲けでもそうよ、儲けたらダメなのよ。儲けたら必ず損するよ。これも儲けた時が借金だから、みんなからの大きい借り、借金を作ってるからね。不労所得なんか特に大きい高利の利付き借金よ。大きい借金返しが待ってるまたね。

 虚の世界は、そうゆう仕組みになってるからね。プラスの側だけには立てない。本当のプラスの一大循環の流れとは違うよね。本当の一大循環の流れは、この海の海流のような流れよ。大きく流れるのね、海全体が大きく流れてるね、動いているね。虚の世界の変化は、海の表面の波の起伏よ。波が起こったらまた消える。求める心起こした途端に大きい起伏の波が起こる。それが段々と波が衰退して消えていくのよね。その繰り返しよ虚の世界は。どんなものでも言葉通りに新しく生まれてくる。生まれたら必ずまた消えてしまう。

対立する、相対に分かれるもの全部、虚の姿よね。そして、比較して差別のあるもの全部虚の姿よ。真(まこと)の神さまは差別がない、対立がない、全部一つに溶け合ってる、完璧な一つよね。バラバラじゃないよね、与え尽くし合って一つに、完璧な一つになりきってるから全部自分よ、全部神さま。本当の愛の一体感だけがあるのね。

 本当のプラスだけの流れが感じ取れたら無条件で幸せ。無条件の幸せは、「新たなる無限の無限の幸せが無限に無限に一杯!」全部束ねたものよね。健康だから幸せとかね、お金があるから幸せだとかいろんな条件付けて数え上げたものと違うの、そんなつまらん小さいものじゃないのね。ありとあらゆる幸せを全部束ねて、すべてのすべての幸せを束ねて、これが無条件の幸せ。その幸せは元からあるの。

 真(まこと)の神さまの本質として元からある幸せ、それが循環している。その循環する幸せを感じ取るの、一瞬一瞬新たに感じ取る。だから元からあるすべての幸せが自分の幸せ。その確認が「ありがとうございます」、一瞬一瞬「ありがとうございます」で確認し続けるの。

 だから、その時、その時、何を確認するかによって言葉が違ってるの。幸せっていうのを確認しようと思ったら、「新たなる無限の無限の幸せが無限に無限に一杯!」っていう言葉を添えながら「ありがとうございます」で確認する。いろんな言葉をたくさん使うほど中身が濃くなってくる。それを全部束ねる「ありがとうございます」

 最後は一つに絞り込まないとダメよ。真(まこと)の神さまは一つだから「ありがとうございます」一言だから、それで全体像を一つに捉えるの。囚われてる時は、まだ部分になる。幸せを捉えて、「新たなる無限の無限の幸せが無限に無限に一杯!」って唱えてもね、それはたくさんの徳性の中の一つだから部分なの。幸せも喜びも安らぎもってね、愛も知恵もいろんなものを全部束ねないとダメね。全部を束ねた時が全体になるね。全体を一つに見るっていうのが「ありがとうございます」の一言になる。いろんな言葉を唱えてもいいね、ただ最後に「ありがとうございます」で、それも含めて、他も含めて、全部を含めて「ありがとうございます」で受け直さないといけないね。

 「真(まこと)のありがとうございます」って唱えてもね、これ虚に対しての「真(まこと)のありがとうございます」って唱えてるんだけど、この真(まこと)のっていらないよ、今度はね。虚に対して「ありがとうございます」をね、真(まこと)をつけて唱えてるけどね。本当のすべてを束ねる「ありがとうございます」一言「ありがとうございます」だけよ。真(まこと)のプラスって唱えても、これ本当は真(まこと)が抜けないとダメよ。「ありがとうございます」にならないとね。

 全部を通して束ねるのは「真(まこと)のありがとうございます」違うよ、真(まこと)つかないよ。ただ「ありがとうございます」が全てを束ねる。真(まこと)とつけたら、偽と真(まこと)って分かれてるじゃない。真(まこと)は部分的なものになるよ。一言の「ありがとうございます」が全てを束ねる言葉よ。

 だから、虚の世界の「ありがとうございます」を間違って使ってる時は、まず本物に戻すために「真(まこと)のありがとうございます」を使うの。ある程度それがわかったら、今度、真(まこと)を抜かないとダメね。真(まこと)を外して、本物の「ありがとうございます」の中に組み込まないとダメ。最後は「ありがとうございます」一言。本物は「ありがとうございます」一言よ。それを繰り返し、繰り返し唱えてね、真(まこと)の神さまの自覚をもらうのね。自覚が、どんどんどんどん深まるようにしてもらうだけ。真(まこと)の神さまが真(まこと)の自分。本当の自分に戻っていく。

  真(まこと)の神さまを相手にしないと真(まこと)の神さまを受け直すわけにはいかない。虚の世界のどんな神さまを相手にしてもダメよ、どんな仏さまを相手にしても虚の世界から抜けられない。虚の世界の神さま、仏さま、比較して差別がある神さま。無から生まれて無に戻る神さま。どんな神さまもそうよ。

 真(まこと)の神さまの与えるものは元からずっと与えっぱなしよね、与え続けて、虚の世界にまで光を送り込んで与え続けてるね。後は神さまの愛の光を受け取るか、受け取らないかの問題だけになる。

 それも言葉通りに受け取る世界よね、全部そうよ、言葉通りに受け取る。だから真(まこと)のプラスの言葉、大きいプラスの言葉をね、本当に駆使するってね、自由自在に使いこなすまでいいかないと言葉の訓練。それで大きく受け直せるようになる。

 言葉の力、枝葉の言葉は、まだ末端の虚の世界の言葉の力だけど、言霊っていう意味はね、言霊のたまの霊の方は、霊というのは一つという意味よ、ひとつという意味。すべて一体、一つという意味の霊なの。

 真(まこと)の神さまを捉える言葉は言霊。言霊に力があるっていうのはそういう意味よね。末端の枝葉の言葉よりも全てを一つに捉える言霊の力の方が大きい。実現力がある本物になる。真(まこと)のプラスの言葉だけを駆使する。言霊を駆使するっていう意味ね。そしたら、本当の言葉、言霊の力を自由自在に操れる。言葉通りに全部なる。

 本心の自分、真(まこと)の自分は、真(まこと)のプラスの言葉だけを駆使する。他の言葉を使う必要がないの。真(まこと)のプラスの言葉だけを選んで使いこなせばいい。そしたら一大循環の世界を受け直せる。他のつまらん言葉をやっぱりどうしてもね、付き合いで使ってしまう。付き合いで使ったダメよ。もう最低限、虚の世界の言葉は必要なだけがいい 。最低限、必要なだけを使ったらいい。

 後は、真(まこと)のプラスの言葉をしっかりと心の奥底で唱えるの方が一番力がある。心の奥底って絶対の中心に近いところっていう意味よ。表面だけで唱えるのは浅い。心静めて、真(まこと)の神さまを見つめて気持ちを無限大の外へ向けて、絶対の中心に近いところで唱えるほど大きい力になる。

 肉体という立場で唱えるのは小さい浅い。自分の気持ちを大きく広げないとダメね。無限大の外へ向けて、大きくなって唱えた方が、絶対の中心に近いから大きい力になる。同じ言葉を唱えてもそうなの。そしたら小さいマイナス全部瞬間に消える。小さい立場で唱えても同じ立場だったらね、無限のもの消そうと思ったら、片っ端から消しても無限の年月かかる可能性があるよ。でも大きい自分だったら一瞬に消せるよ。

 大きく、自分の立場を大きい立場に置かないと絶対の中心に近いとこに置いて、言葉を唱えるといい。それが奥底で、心の奥底で深く唱えることになる。同じ一言「ありがとうございます」唱えるのでも、どの立場で唱えるかが大事なのよ。表面で一生懸命、無限の年月唱えるよりも、奥底で1秒唱える方がいいのよ。その方が大きい力がある。

 肉体の自分一人「ありがとうございます」一生かかって唱えてね、何億回唱えたってね。それよりも、ちょっと自分の気持ちを広げて、みんなの祈りを束ねてしまったら、地球上の例えば、60億あまりの人の祈りを束ねたら、どうなる一回で60億回よ。一生かかっても唱えられない、祈り、言葉ね、これ一瞬に唱えるのよ。だから自分を大きくして、みんなの祈り束ねた方がいいの。小さくなったら損するよ。

 これは自分とか、他人言うてたら小さくなる。みんな自分と言えばいい。みんな自分、みんな自分の中に生まれてる。自分は宇宙だ、全大宇宙だ。大きく自分だ、無限大の自分だって言えばいい。そしたら虚の世界でも同じプラスの言葉使わんでも効果が大きい。入れ子構造的に大きくならなくてもそうよ。そこまでいかなくても、みんなの分を大きく束ねてもらえばいいのよね、言葉次第よね。みんな自分のために祈ってくれてるって言えばいいだけよ。みんなのお陰でって、みんなのお祈りのお陰で言えば済むことじゃない。そしたら、みんなのお祈りをもらえる。みんなの働きをもらえるのね。そしたら自分を大きくするのに時間があまりかからない。すぐ大きく立派になって、なってって言うよりそうしてもらえる。

 そこで支え合いってね、本当の恩返しっていうのが必要になるね、大事な生き方よね。それで、プラスの言葉使うって言ってもね、本当のプラスの言葉を使うとそういうふうな生き方よ。すべてのすべてを真(まこと)の神さまの愛の現れって受ける生き方だからね、全部、自分のためだけに存在してるっていう味方だから、全部のものを受け取れる。小さくなったら受け取れないけどね、大きく受け取れるようになるでしょう。真(まこと)の神さまを相手にすれば、全部真(まこと)の神さまの愛の現れとして現れてくるってね。だから全部の助けを受け入れられるはずよね。「ありがとうございます」で一言で、全体からすべてを受け取れる。それが段々と上手になってくる、受け方が上手になる。

 そのために恩返しの与え尽くす生き方を取るのよ。自分を掴んで自分を守ろうとしたらできなくなるから、自分を消したらできるね。だから恩返しで全部与え尽くしたらできるの。自分が消えるから全部受け直せる、全部受け入れられるのね。だから自分を与え尽くす生き方が恩返し。空っぽになるための与え尽くす生き方が恩返し。小さい体消える、器がパイプが消える。何もない状態になって全部が中に入ってくるね、流れ込んでくる、流れるままになる。

 そのすべてが「ありがとうございます」一言に含まれてる。「ありがとうございます」って唱えるだけで、全部、中に含まれてるの、その働き全部がね。それでどんどんどんどん大きい本心の自分に戻っていく。

 虚の世界のマイナスを相手にしてる時は小さくなっている時よ。問題でないのを問題に感じるというのは、自分の小さい時なの。蟻みたいに小さくなったら、ちょっとした川でも大きい流れに感じるでしょう。地球より大きくなったら、地球上の川の流れなんてへっちゃらじゃない。

 自分が、どれだけ大きくなるかだけよね、言葉通りになるから、大きい言葉を使うかどうかよ。だから普段どんな言葉をたくさん使ってるかでね、言葉通りの自分ってそこに出てくる。普段、「私は宇宙、私は宇宙」って言ってる人は、見たらわかるよ、心が宇宙大よ、大きくなっているよ、一目見たらわかる。

 普段小さい言葉を使っている人は、魂的に小さくなっている。魂、小さい魂になってる。大きいプラスの言葉を使って、「私は宇宙」って言ってる人は、魂が小さい魂が消えて、大きく広がってる。言葉通りになっているから、遠慮せんと「私は宇宙」って言わないとダメよ。「宇宙」って言うほど小さい思いの体が消える。魂も消えて、大きい自分に戻る。ちゃんと心の世界、奥の世界が見えるの全部、それはっきりわかるよ。言葉通りになっているのがよくわかるよ。

 それよりも「ありがとうございます」を唱えるのがいいよ。真(まこと)の神さまは真(まこと)の自分ってなるからね。本当に真(まこと)の神さまと一体の自分っていう必ずなるよ。これは、もう宇宙の絶対法則よね、言葉通りになるっていうのがね。まず言葉通りの自分になる。その自分に、ふさわしいものが周りに一杯現れる。自分のそっくりさんが現れる。これ実の世界も虚の世界も同じよ。

 虚の世界でもマイナスで一杯、小さい自分はね、いくら高い世界に上げてもらっても、そこでは、いたたまれないからそこにおれない。自分の波の合うふさわしいところに落ちていくよ。一番落ち着くところがあるじゃないちゃんとね。だから自分とそっくりさんのとこに行くの。

 だから自分を変える方法、言葉だけよ。どういう言葉を選んで使うかってね、必ず言葉通りの自分になっていくから、だからプラスの言葉を使えばプラスの自分になる。真(まこと)のプラスの言葉をしっかり使ったら本心の自分に必ずなる。だから、この言葉選びはね、自分の自由意志で全部するの。どんな言葉を選んでも無限の無限の選択肢の中から一つ選んでるよ。自分の自由意志で選んでるよ、どんな言葉選んでもよ。プラスもマイナスも全部そうよ。だからその責任は、自由のあるところには、その責任は自分にあるの。

 他の何かの力でね選ばされたって言うんだったら、他に責任にあるけどね。でも違う、みんな自由意志で、プラスもマイナスもすべて自分の自由意志で選ぶ。だから、その責任は自分にあるのね。責任が自分にあるいうことは、また自分の選び方一つで自由に変えれるっていう意味よ。

 自分の選ぶ言葉さえ変えたら、自由に変化させられる、変えられる。どれだけ自分が努力して選んで使っても変わらないって言うんだったら、これだったら他に責任があるの、自分に責任がないの。でも自分がすべてを変えられる。自分の選んだ言葉通りに必ず変えられる。それでプラスの言葉を選ぶ練習をする。それをしっかり使いこなす練習だけをしたらいい。後は自然に変わる。

 だから、たくさんの中からプラスもマイナスもある、たくさんの中からプラスを数える練習。それが済んだら、今度はプラスの中から大きいプラスを数える練習。最後は真(まこと)の神さま一つを選ぶ練習。絞り込んでいく最後にね。最後は「ありがとうございます」一言になる。他の言葉は、もういらなくなる邪魔する。 他の言葉の方が小さく邪魔する言葉になる。真(まこと)の神さまだけっていう意味、「ありがとうございます」その一言になるからね。

 はい、ありがとうございます

 音声はこちらからどうぞ
 https://youtu.be/K2EMweo1LKU

 宇宙神ありがとうございます


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3月深夜勉強会 by 河上 [Mail] 2023年03月25日(土) 09時28分
PC

令和5年3月河上さん深夜勉強会−1(20230317−1)

質問:河上さんへの質問を4つお願いします。1つずついきます。
 仏壇の前で線香を焚く意味を教えて下さい。

河上さん:なんで3本かとういうこと?それとも、別に3本も聞いてへんの?

質問:数はないです。線香を仏壇にする意味というものを…

河上さん:まあ基本3本でしょう?

宮野さん:1本のところもあります。

河上さん:一本のところもあるの?

質問:私のところ、1本でした。

河上さん:そうなん。3本のところはね、三大根本神力で3本なの。1本は1本で、すべては一つの1本やからそれで良いの。

宮野さん:2本のところもあるわ。

河上さん:数は別にこだわらなくて良いよ。だってお墓やったら、まとめて束でいくやん。束で勝負するからな。

宮野さん:そうそう。もう帯巻いて。

河上さん:線香というのはね、まず美味しい香り。あれが、匂い、食べること、匂いを嗅ぐこと、目で見て楽しむ事というのは時空を超えるの。
 例えば映画を見るやん。そしたら自分の行ったことのない世界に行けてるやろう?あれは時空を超えてるの。美味しいものを食べる時もそうよ。美味しいものを食べる時は幸せ一杯の気持ちやん?美味しいものを食べる時は、みんなな、時空を超えてるわけよ、悟ってるわけよ、美味しいものを食べてる時は。それは良い匂いもそうよ。それの一環として、死んだ人がね、地上を覗きやすいように線香を焚くだけ。

宮野さん:花も一緒?

河上さん:花も一緒。

宮野さん:花も香りする花を置くもんね、仏壇に。

河上さん:それ全部幼い魂用やけどね。だからどっちにしても、この地上だけがね、先が分からない世界で楽しいの。先の分からない世界を見ることによって、今が一番良いようになってるというのを実感できたら悟れるわけよ。だけど、宇宙人も、あっちの世界、死んだ人もみんなね、天国の人も地獄の人もやけど、同じことの繰り返しなわけよ。
 ただ、天国の繰り返しを説明しても、よく分からないから、地獄の繰り返しだけをみんなに説明するわけ。針山を登ってな、気を失ったら、また針山を登ってな、とかね。八寒地獄でグーっと詰められてね、パチンパチンに裂けてね、ハッと気が付いたら、またこうされて裂けて、裂けて…って繰り返しがあるんやでって、先生はおっしゃるでしょう?地獄でね。

 別に地獄だけちゃうわけ。天国やったら朝寝朝酒やな、要するに、ずっと正月が続くわけや。ずっと正月といったら楽しくないで?そうやろう?どの世界も繰り返し、宇宙人の世界も繰り返しなの。その繰り返しの中におったら、今が一番良いようになってるのが分かれへんのよ。

 なんで繰り返しの世界にいるかと言ったら、過去現在未来を掴んでいるから。今の一瞬一瞬新たというのが悟りなの。その今の一瞬一瞬新たを知るために、みんな地上を見てんね。だけど地上にいてる人間がな、現実を掴んで苦しむから、無茶苦茶、混乱してぐちゃぐちゃになるから、一旦この地上を、いったん閉じてもう一辺って、神さまは言うわけ。地球霊王さまがね、具体的にはこの地上を司られている方が地球霊王さまだから、それをおっしゃってね、暗黒の六日間の際(きわ)まで来てしまっているだけ。

 本当はこの地上にいてる人が、宝くじ3億円に当たる確率で、みんな肉体を持って降りてきたんや。真祈りしましょうって、思って降りてきたのにな。

 だけど先のことが分からない世界というのは、過去世の記憶を一切消してるから、真祈りしましょうという決意も、忘れて生まれてきてるの。その中でオギャアと生まれて、例えば兄弟が多かったら、お菓子の取り合いからね、基本的な生存競争から始まるわけでしょう?結果を気にする世界に入ってしまうからね。まあ、真祈りしましょうと思ってきても、なかなか思い出されんまま来るけどね。

 それでも真祈りしましょうという記憶がね、沢山してきた人は、先生の所へこうして集まった。集まったのにまだ現実を掴んで文句言い合いしてるからな、もう先生は自由意志を絶対縛られへんから、先生としてやれることは全部されたんだけど、印可書も残されてね。だけど自由意志は縛れないから、「あと、任せたで。」って言われてもな、みたいな感じやけどね。

 そしたら(先生のされた方法とは)ちょっと方針を変えて、若干みんなの自由意志を縛って説明させて貰ってるだけ。

 この地上だけしか悟れないっていうね、具体的にはもっと本当に護摩の会場でしか悟れないぐらい厳しいもんやけどね。それを本当にね、自分一人の人生と違うからね。もう、自分に縁ある人の、むこうの世界の人のすべてが自分一人の双肩にかかってるの。それくらいみんなの真祈りは大切で、凄い事なの。

 なのに、なんでしないの?みたいな感じや、こっちから言わすとな。お願いやから、だからやりやすいように、一杯オマケを先生が出せ出せって言うから、これを出す毎に僕の体が崩れて、あと5年の命もだいぶ縮んでんやけどやね。もうそれでも出せというから出してるわけや。これ一個で凄い縮んでるけどな。

 みなさんには、それでも、「したらええで。」は言えるけど、「やりなさい。」とは言われへん。後はみんなで選んでください。

 だけど、それ位、この地上で先が見えないというのが、なんで先が見えないのが楽しいかと言ったら、例えば野球でね、勝ち負けが分かってないから見るわけでしょう?巨人が勝つ、阪神が勝つ、広島が勝つ、ヤクルトが勝つって分かってたら、もうそんなゲーム見ないやんか?先が分からんから楽しいんや。

 人生も一緒よ。自分の最期が分からないから楽しいんや。ということがね。そしたら、なんで分からないから楽しいのかと言ったら、今の一瞬一瞬新たということが分かるから、先がわからないというのが「本当やな。」ってなるの。今の一瞬一瞬新たを横に置いてね、過去現在未来を掴んだ途端に、永遠のDVDの繰り返しよ。DVDってそうでしょう?過去現在未来が全部入ってるわけや。それを全部掴んだ途端に、その世界から抜けられへんの、みんな。 

 宇宙人も一緒よ。宇宙人は科学が進んでるって言うやろ、違うって。過去現在未来、全部を掴んだまま記憶があるから進んだように見えるだけや。でもずっと繰り返してるの、苦しんでるの。

 だからこの地上でしかね、一瞬一瞬新たの素晴らしさが理解できへんの、体得できへんの。でも、その一瞬一瞬新たの素晴らしさをね、どこで体得するかと言ったら、真祈りしかないの。

 真祈りって本当に支え合いや。すべての人の心に真(まこと)の神さまを立てるやけど、それ、具体的な実感としては、本当に苦しいこと、辛い事、しんどいことを喜んでできるようになる心なの。だから、それを先生は具体的にね、「トイレ掃除をできる人は真祈りができていくんや。」っておっしゃったわけよ。一番嫌なところや。そういう事が出来ないとあかん。

 この世的に支えられるというのは、本当に、人の嫌がることを全部身代わりになってしてあげることよ。「あいつサボってる。」って言ったら、サボらしといたらええねんって。自分が一番悟るチャンスを頂けたって喜ばないとね。「あいつサボってて、私だけなんでしんどい目をしてんの」と違うって、私だけ悟るチャンスをようけ(たくさん)貰えたんや。なんで分からんか?やけどな。

 分からんけども、苦労をせえ(しろ)って言うのにな、せえへん(しない)奴ばっかりやね、楽を選びよるね。好きにしたらええがな。

 暗黒の六日間に入ってからじゃ遅いんじゃ、っていうとこやねんけども、肉体がしんどくなるのが、みんな嫌なんやな?だから楽なように楽なように逃げるね。

 先生は限界破りしなさいとかね、竹刀1万回振りなさいとかな、一杯苦しいことをおっしゃったんや。山仕事とかね。出来るだけ辛いような仕事をさせようさせようとしはってんけど、みんな逃げていくんよ。相手の自由意志を縛ってまでやれとは言われへんからね。先生は具体的にやれとはおっしゃらんかったんや。

 でも山仕事に追い込んでみたり、色々とこう、追い込もう追い込もうとするねんけど、みんなヒョロヒョロとウナギのように抜けて逃げていくの。もう逃げるのは好きにしたらええけどね。

 だから若い時ほどね、本当に苦労というか、辛いこと、しんどいことをせんなんねん(しないといけない)。若い時やからできるねんって。年取ったらな、なんぼ(どれだけ)限界破りをしようと思ってもな、中々出来へんの。だからそんなのある程度知ってる人がね、冬山登山が好きとかね、スポーツをやろうとするねんけど、まだどこかで現実、結果を掴むからね。頂上に登ることが良いことやとかね、スポーツやったら記録を出すことが良いこと、あるいは野球やったらホームランを打つことが良い事って掴んだ途端に崩れてるの。

 結果やなくて、ひたむきに進むことが凄い事っていうのがね、分からなあかんねんけどね。結果を気にしてる間は(現実をつかんでいるから)、なんぼ(いくら)苦労しても意味ないしな。なかなか追い込み方は難しい。

 「苦労せえよ、辛いことした方が悟るねんで。」って言ったら、その辛いことをする結果を掴むからな。なかなか説明が難しいんやって。

 でも神さまって本当に大変なところに、新たなる下座に立つ真(まこと)の本心の自分でしょう?新たなる下座に立つというのは、一番人の嫌がる辛いところに立って働いてくださるわけやんか。だから、人間の体で言ったら、肛門の働きが一番が素晴らしいわけでしょう?本当は。一番新たなる下座や。そういうところに神さまは働いているから、だから便所掃除したらええんやでって、先生はおっしゃってんねんけどな。なかなか説明しにくいからね。そういうもんや。

 で、そういう新たなる下座に立つ、一番苦労のところに立つとね、数式でもなんでも一瞬でパッと伝授があって受け取れるの。受け取れたら、本当に辛いけども平気やの。それでまた、限界が来て、本当に限界が来てね、体が動かないという時は、それはそれで悠々と寝れるの、休めれるの。だけど、喜んで休むからちょっとで済むの。

 それが現実を掴んでる人やったら、もうこんなにたくさん働いてんから、三日は休まなあかんとかな、勝手に自分で決めて、例えば夜やったら、8時間寝ないとあかんとかな、みんなそれぞれ自分で縛るやん?

 「私、8時間寝てないから眠いね」とかあるやん、人によって。先生は縛りがないからやね、チョロって寝たら、もうそれで2時には起きてお祈りしてはったわけやろう?それで本当に5分とか10分とかチョロッチョロッて寝はるだけやってん。それは1時間寝ないと疲れが取れないとか、眠気が取れないとか、一切縛りを持ってはらへんからよ。

 だけど、みんなはね、眠る以上は15分は寝ないとすっきりせえへんとかね、1時間は寝ないとすっきりせえへんとか、人によって色々あるわ。それは自分で自分を縛ってるだけや。 

 必要やったら3時間寝るの、8時間寝るの。必要やったら5分で済んでるの。それが自在にならなあかん。それは神さまの御心に沿うっていう気持ちがあったらええねんけどね。自分の都合で生きてる間は分からへん。

 だから自分の都合は横に置いといてってな、一生懸命言うねんけどな。みんな理屈で分かるけど、体感できへんな。だから、もう一歩譲って、神さまのお手伝いをしましょうね、って言ってるわけ。

 でも、具体的に(神さまのために)どんなお手伝いってどんなんするの?(ってみんなおもうんだけれども)・・・・。

 だからまず印可書読んだら、お手伝いになるよ。でも印可書を読んでいたら何をすべきか、何の苦労をすべきかって自然に分かってくるし、苦労に向かって気がひるまへんの。

 困難に立ち向かえれるの。「困難に戯れよ」って言うねんけどね。先生は昔は厳しかったら、「困難に戯れよ」っておっしゃってんけど、誰も付いて来られへんから言うのやめた。

 別の言い方やったら、「人の3倍10倍働きなさい」という言い方やね。あれは「困難に喜んで立ち向かえ。」なの。もう一つは、「相手の自由意志を縛るな」というのをね、言葉で説明すると誤解を受けるから、身をもって示されてんけど、誰も分からへん。先生が反対せえへんかったから、やってええことや、みたいなことばっかりやったんや。

 もう、こっちは横で、カーッてきてるからね、「僕が言いますから!」「おまえは喋ったらあかん。おまえが喋ったら、(人の自由意志を縛るから)みんな逃げていく。」って言って喋らせて貰えんかったけどね。

 今はもう、逃げていく人は逃げていけや、と思って喋ってるけどね。

 本当にね、先生からね、先生の翻訳者とかね、真祈りの伝授を受けたとか、先生のところに6年おって、私は真祈りできると思う人やったらな、数式を持ってこい。先生がちゃんと示されたから。正しいかどうか見たるって、違うか。(占いしてる暇はないで)(笑い)

 それくらい、すべては単純な数式で綺麗に表されているの。表されているから、一瞬一瞬新たが簡単に分かるの、数学的にもね。でも別に数学が分からなくてもね、一瞬一瞬新たは体得できるんよ。素直に真祈りしてたら、素直に護摩に参加してたらね。そしたら年取れへんの。年取ってきたらな、やっぱり真祈りできてなかったと反省せなあかん。

 何よりもね、真祈り出来てきたらね、苦労に立ち向かう時に、嫌と思えへん。「やってしまいましょう!」って。それは何でかと言ったら、なんで苦労に喜んで立ち向かえるかと言ったら、結果を気にせえへんからよ。

 何でな、苦労に向かう時に嫌やと思うかと言ったら、出来へんと思うからや。「出来ても出来へんでも良いから、やりましょう!」だけやのにな。でもこの世の会社勤めやったらな、結果を示せなかったらボロクソに言われるからな、余計嫌になるのは分かるけどね。

 結果を気にせえへんからええな?結果を気にせえへんから強いな?(笑)

Aさん:さらさらと。気にしない。

質問:苦労に立ち向かうというところで、個人差があると思うんですけど。

河上さん:そうよ。だからね、個人差というのは結果を気にしてるわけよ。だから、その苦労に立ち向かって、出来る出来へんは関係ないの。

質問:僕の場合は、凄い些細なことでも、凄い苦労とか困難に思うんですけど。それは個人差だから?

河上さん:いや、それは、出来る出来へんって気にするからや。

質問:小さなことで凄い大ごとに思うのも関係ないですか?

河上さん:例えばね、部屋のお片付けというか、整理整頓が苦手な人というのは何かと言ったら、結果を気にするから。だから人が見て、する前と、した後が一緒やと思っても気にせえへんのが大事や。自分にとって、いかに一生懸命したかだけ。一生懸命したかだけであって、仕上がったどうかとは違うの。それが分かったら、どんどん立ち向かえるし、喜んで立ち向かえたら仕上がるの。

 イタチごっこやねんな、仕上がりを先に気にするから身動きが取れんようになるだけで。仕上がりを気にせんかったら、結局は仕上がるの。千里の道も一歩から、というのもそういう意味や。千里の道をね、千里歩こうと思うから歩かれへんの。一歩だけ歩いたら良いです、もう一歩、歩いたら良いですってやってるうちに千里歩けるの。

質問:日常の些細なことでも、苦労の大小は気にせずに、どんどん立ち向かっていけば…

河上さん:そうよ、苦労の大小というより、結果を気にせず、や。

質問:結果を気にしなくて…

河上さん:そこが大事。結果を気にしなかったら良いの。だから、「頂上まで登らなあかん。」じゃなくて、「一歩でも二歩でも良いから前に前進しましょう。」だけで良いの。

質問:日常の凄い些細なことをいちいち大ごとに思ってしまうんですけど…

河上さん:結果を気にするからな。

質問:そういうのを気にせずに立ち向かっていけば?

河上さん:そうそう、うん。だから勉強が出來へん子ってそうなんよ。分からなあかんっていう結果を先に気にするから、ますます出來へんの。だから5分毎に違う科目をさせるとね、結果を気にしてる暇がないから分かっていくの。で、それは普段の生活やったらね、「一歩でも二歩でも、前に進んでおきましょう。」や。「本当はマトメてこれだけしないと仕上がらへんのに。」と思うからややこしくなるの。どれもこれも「ちょっとでも進みましょう。やっときましょう。」だけで良いの。

 その結果ね、例えば車の洗車で言おうか、車の洗車やったら、「この手の届く範囲だけ拭いときましょう。」や。そしたら「また雨が降って汚れるから結果は一緒やんか。」って思ったらもう出来へんでしょう?だけど、「また汚れても良いから、今は拭ける範囲だけ拭きましょう、拭きましょう。」ってしてること自身がね、どんどん何でもやれるようになっていくの。

 でも「この車、全部綺麗にしてワックスをかけないと意味がない。」と思った途端にな、ちょっと出来へんってやっぱり。手洗い洗車やったらね。洗車機かけるのと違うからね。

 大きい車やったら、例えばバスやったらなおのことや。「このバスを綺麗に洗って、ワックスまでかけるのが仕上がりや。」と思い込んでたらね、「ちょっと時間を作らないとできへん。」と思って永遠にできへん。

 先生がなんでも朝飯前にしなさいよ、というのはそういうことやってん。だけど、みんなは結果を掴むからな。だから例えば「竹刀を1万回振りなさいよ。」って言ったらね、本当に一日一万回振らなあかんと思い込んで振られへん。

質問:考えずにサッとやってしまう。

河上さん:だからいつも言ってるやん、考えたらあかんって。考えてる必要はない。次の質問。

質問:私の家は分家で仏壇は夫の位牌だけですが、印可書を奉納する時は、どのような心構えが良いですか。

河上さん:え?心構え?ただ、淡々と奉納したら良いだけやで。声を出す必要はないから。

質問:次に行きます。インドのサイババさんが亡くなられた時、死因は多臓器不全と報道されましたが、サイババさんを頼る人々が増えすぎた事も一因ですか?

質問:違います。

質問:次、牛乳のカルシウムは、人体は吸収しにくいと聞きましたがヨーグルトに変化すると吸収しやすくなりますか?

河上さん:だから乳酸カルシウムやねんけどね、それ学説なの。昔は乳酸カルシウムが一番吸収しやすいって言われてな、お医者さまは牛乳を飲みなさい、飲みなさいって言ったんや。今度はまた学説でな、乳酸カルシウムは吸収されにくいって言ってな、言うてるだけなの。そんなん言ったらな、子牛育てへん。子牛の骨、弱っていくで。

 だからその、結局は言葉の力でね、自分がどういう風に縛るかだけなの。だから本当はね、何を食べたって栄養になるの、本当は。だけどもう、縛りがあるからね。その縛りの中で比較的良いものを食べて欲しいから、糖質を止めときやって言ってるだけで。本当は糖質を食べたって本当は栄養になるの、喜んで食べられたら。だけど美味しいで食べるからあかんの。

 あんな、美味しいで食べるのと、喜んで食べるのは違うからな。喜んで(→?美味しいで→ごめんなさい、おいしいの言い間違いです。)食べるのは自分の都合で食べてる。

宮野さん:どこかほら、背徳感ってみたいのあるやん?

河上さん:色んな縛りを自分で作るんや。

宮野さん:だから、自分の中で、すごく良いものだと思わないじゃない?甘いものとか、脂っこいものとかって、体に悪いんじゃないかっていう、どこかで自分の心の中で言葉の縛りがあったら、それがもろにどんどん影響するよねって。

河上さん:だから昔は上白って高かったからね。上白糖は。江戸時代は上白糖は薬やもんな。そういうもんや。だから縛りの問題やな。どうぞ、次。それで終わり?

質問:以上です。ありがとうございます。

宮野さん:もう一個来てますけど。(預かってきた質問)
 真祈りの実践のみだと分かっていつつ、確認があります。急に職場で時差出身で早く来て、サッサと帰る女性上司が、わざわざ何を調べたのか、翌日の残業時間を把握して、タイムカードがないんですけども、把握して、残業をするなら、残業申請をするようにと感情的に言ってきます。そこで残業をすると、別の上司が「仕事のやり方が悪い。」といちゃもんを付けてきます。結果を気にせず真祈りのみだと思いつつ、こういう中での意識の持ち方を確認させて頂きたいです。すごく縛られた気になってイラっとします。…でまだ続きがありまして、

 最初はこの方の中で、真祈りしてる中で少し気が付いた分として、最初は残業ができないのは困ったなあとか、ひたすら二人の上司から吊るしあげられたというか、嫌がらせをされてるなあと思っていたのですが、過去の自分の姿なので、全部自分で、全部真(まこと)の神さまなので、文句を言わず淡々と印可書奉納なんだなと思っています。…ですがどうですかね?

河上さん:だからまずほら、「あの上司、時差出勤して早く帰ってズルいわ。」って責めてるやん。そんなんがどんどん拡大されて出てくるの。あるいは、「全然仕事ができへん上司や。」って責めてるからね、そしたら、責め返されるわけよ。「仕事の仕方が悪いから残業せなあかん。」とか言ってね。それも、何十倍も何億倍に倍増されて出てくるの。

 「立ち向かう人の姿は鏡なり。」やけど、それは拡大鏡やからね。たったそれだけやね。あとは印可書奉納するのと共に、どうしても仕事が詰まってくるんやったら、家に持って帰ってしたら良いわけで。持って帰れるもんやったら。

宮野さん:持って帰られへんでしょう。

河上さん:持って帰られへんねやったら、隠れてしたらええやん。

宮野さん:その、隠れてしてて、言われたんでしょう?

河上さん:うん。でも、しないとしゃあないやん。

宮野さん:まあ、真祈りするだけで

河上さん:そうそうそう。

宮野さん:事態は、自分の思ってることと違って、いつも良いようになるんだっていう風には思ってはるんやけど、これでよろしいですか?という

河上さん:それで良いんです。良いんですけど、その拡大されて見えたものが、見るのは辛いけどね、でもその辛さの中で、結局は職場の上司も全部自分の縁者やねんな。その辛いっていう気持ちがあるからこそ、印可書が響き渡るんでね。辛いという気持ちがなかったら、相手に響かへんから。色んな意味で全部は必要で表れているからね。それをいかに喜びに変えられるかやけど、その時は変えられへんて、辛いままで読んだら良いの。辛いままで読んだら、辛くあたった上司に光が通るから。

 でも、その光が通ってるのにな、相手が変わらへんって掴むと、またややこしくなるの。それだけやねんな。如何に自由自在っていうのは、何かと言ったら、本当に結果を掴まないんよ。だから先生は何時も何時もね、「もとより後ろ指指されるのは覚悟の上。」とおっしゃって、一切の言い訳をされんかった。先生は一切の悪い事をしてへんからね、言い訳をしたら嘘をつくことになるからな。だからセクハラ騒ぎの時でもな、言い訳されへんかってん。言い訳したら、してないって嘘ついてる。するもしてないもないから、何もないから。

 先生の自由意志を縛らないとか、嘘をつかないという、凄い厳しさをね、誰もみんな気付かんかっただけ。それくらいみんなね、結果を掴んで良い悪いって判断する癖があるの。(又、結果を気にして嘘も方便や・・と言い訳しながら嘘をつく)この世が評価の世界でしょう?営業成績から学校の成績からなんでもね。だから、その癖の中に巻き込まれるのは仕方ないんやけど、でも巻き込まれてたらあかんわな。

 で、また、巻き込まれながら印可書を奉読していかないとな。でも一応気にせなあかんのは、相手の自由意志を縛らない、よ。相手を自分の思い通りに動かそうとしない。もとより、動けへんけどな。みんな好きにしかせえへん。

 ただね、本当に困難と苦労に立ち向かうとね、なんて言うんかな、相手の自由意志を縛ってる暇がなくなるんよね。神さまだけに向き合えるようになるの。だから辛いことをせえって先生は言うの。ラクなことしてたらな、要らんことを思うの。でも辛いことをしてたら、神さまと向き合うしかないからね。だから昔の、昔って今でもそうでしょう?永平寺か、禅寺っていうのは、もう凄い掃除させたり、いわゆる辛いことばっかりさせるわけでしょう?食べ物を減らしてみたりかなあ、何かあるやん。それは神さまだけを、御仏だけを見つめれるというように、やねんけどね。

 だけど結果を掴んでる間はなんぼ(どれだけ)辛いことをしても意味ない。その辺がな、結果を掴む余裕もないくらい辛いことに立ち向かわなあかん、本当は。

 山登りがそうよ。それこそエベレストの登山になったらな、もう最後はきっとね、頂上もくそもなくなってると思うで。ただひたすら一歩一歩行ってるだけよ。もう、結果やなくて、もうひたむきに前へ前へって行ってるだけっていう。そこまで行ったらええけどな。結果を気にしてる間は、まだゆとりがあるの。本当に困難に立ち向かってないの。
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令和5年3月河上さん深夜勉強会−2(20230317−2)

質問:先生が幼少の頃に、お正月にみんな晴れ着を着ている時にね、肥溜めのアルバイトとかそういうことをしている時に、神さまはそのどんだけ喜んでやっているかだけを見る、みたいなお話をされていたんですけれども

河上さん:そうよ。

質問:その大変な時にそれをどんだけ喜んでできるかっていうのは、印可書奉読をお祈りの中でそういう気持ちになれるもんなんですか。

河上さん:まず結果をつかまないや。神さまの本質は喜びそのものやからね、結果を掴まなかったら、分かるね。人がどう見るかとかね、しんどいとかね、自分のしんどいという結果も掴んだらあかんね。もうさっきの雪山の登山やないけどね、もう夢我夢中も越えてただひたすら前へ進むだけみたいな。

質問:自分がしんどいと思うのも結果を掴んでいる?

河上さん:そうそうそう。そういうことやね。だから若い時しかな、その限界破りしにくいからね、若い時にはと思って、追い込もうとするね。けれども、みんなスルスルと逃げるね。

質問:年寄りになったらどうしたらいいですかね?

河上さん:そのために先生印可書を残してくれてはるやろ。

質問:それでいいんですか。ありがたい。

河上さん:若い人はこれだけと違って、苦労せんと、そんなもん。

質問:もも膝すべり?

河上さん:そうね。

質問:これは背筋も張った方がいいんですか?

河上さん:背筋伸ばさざるを得ない。曲げてはできない。

質問:肩を入れるのが、自然と入ればいい?

河上さん:いや、肩を入れるから背筋が伸びる。

質問:高速でやってみたんですけれども、それもいいですか?

河上さん:高速は、スピードは自由自在にどうぞ。

質問:竹刀1万回を、もも膝1万回に例えてやってみてもいいんですか。

河上さん:だからこれを1時間続けたら大したもんや。

質問:10分ぐらいやったんですけれども、もうポカポカになったんですけれども。

河上さん:なるやろ?

質問:それでも有効っていうか?

河上さん:だけど1時間って言うたらな、また1時間に囚われるやん?この前の1分間の呼吸を止めると一緒で、だからあんまり時間を説明、回数も言えへんけども、自分で納得できるまでやったらいいね。

質問:散歩と同じ効果がある?

河上さん:あります。

質問:だから雨の日はこれやるっていうのは凄いいいですね。

河上さん:テレビ見ている時とかね。

質問:ちょっと甘いものを食べ過ぎた時もこれを高速でやればだいぶ消費できますかね?

河上さん:それはその人の縛り次第や。ね?自分の心でどう縛るかや。あるいは一生のうちにね、例えば甘いものやったら食べれる量って決まっているね。それを食べ尽くすと、その何て言うかな貯金が消えるからね、甘いもの食べるとすごい血糖値上がって体潰れるね。

 そうやで。だからそのあんまりな、たくさん美味しいもの食べすぎるとな、あと食べるもんなくなって大変やでっていう事。甘いもんて美味しいもんやろ。で、ついついたくさん食べるやん。でその人が一生に食べる量は生まれてくる時に背負ってきているね。それをさき食べ尽くしたらあと大変になる。

質問:ちょっと振り返ってバランスを取らないといけない。

質問(別の方):お酒飲みすぎて、体壊してお酒を飲めなくなった人はもう一生ぶんの酒は・・

河上さん:そうそう、飲み尽くしたんや。

質問:ホンマなんですね?

河上さん:それで飲めないように肝臓腫れるとかな、色々あるわな、肝硬変になるとか。飲みつくすね。(笑)それがね、その人によってその持っている徳やね。けれど、甘いもんやったら甘いもの食べる量の徳が違うね。だから私ちょっとしか食べていないっていう人も、やっぱりそれ以上食べれん人はなるしね、まあお酒でも一緒やけどね。でも過去世でね、飲み尽くしている人は今生では全然お酒飲まれへんとかね、もうちょっと飲むだけで悪酔いするとかってなるわね。完全に借金、お酒の分の借金みたいなもんやな。

質問:少食になってきたというのは悪いことではない?

河上さん:うん。あの違うね、本当に全宇宙がな、地球に集まりだしてんね。それで多くの人が見れるように早送りになっている。

質問:もう一度確認します。すみません。食べる量が少ないっていう意味の。

宮野さん:食べる量が少なくなってきたんだけどって。

河上さん:少食言うたんか?高速って聞こえた。

宮野さん:何言うとんやろ?ボケてんのかと思った。(笑)

河上さん:少食?

質問:はい。

河上さん:ああ、自分の食欲が。

宮野さん:食べるものが少なくなってきましたけど。

河上さん:ああ必要に応じてね、真祈りしていたらね、必要な量に収まるね。だから先生ほんとに食べなかってん。もう昔から真祈りしてはるからね、本当食べへんかって。

 で、僕がそれを真似して栄養失調になったから、先生は無理して食べはった。みんながお前みたいにしょうもない(形だけを)真似をして、栄養失調になって倒れても困るからって言ってね、肉も食べられたとかね、みんなと同じようなもの食べるようにされたんよ。

 本当は真祈りしていたら、もうちょっとの量で充分やね。要するに、こんだけを食べなくっちゃ体がもたないって勝手に自分が縛っているだけやね。全て神さまの命やからね、喜んで頂いていたらそれですむんよ。

 だからね、前の戦争の時にね、本当に戦場でちょっとしか食べるものなかったけれども、生き延びてみんな帰ってきてはるわけやね。帰ってこれた人は。それって、こんだけしか食べ物ないから倒れるっていう縛りがなかったからや。なんでか言うたら、そんなん縛るよりも、生きて日本に帰って、国に帰って、家族に会いたい、お母さんに会いたいのひたすらの思いで帰ってきているわけやけど、この食べ物でダメになるって言う縛りを持ってへんから、大丈夫やったわけよ。

 一緒で、真祈りしていたら、もうこんだけの物を食べないと体持たないという縛りがないからね、必要な量の少食になる。ただ少ない量になってくるとね、タンパク質とね、カルシウム分は取っといてやって言うた、だけ。最低限それは是非取っておく方がいいから。

質問:一般的に年をとると、食べる量が食べられなくなるよねって言うので食べられなくなってきているのか、真祈りで・・・

河上さん:年取るとね、若い人は真祈りで食べる量減るわけや。年とると勝手に食べる量が減るね。けれどもその時に全体を減らすからな、栄養失調になって余計に歳とりはんね。

 年寄りは食べる量減ってんね。から、もう食べたいやろうけど、ご飯やうどんやパンを食べるなと。他のものでお腹を膨らませって言って説明はした。後はその人の自由やから、知らん。言ったって食べたい人は食べるもん。お酒飲みたい人は飲むやん。タバコ吸いたい人は吸うよ。一応説明したけどな。

質問:なんかちらっと「全然食べてない」って家族に言われて、「ああそうなん?」っていう感じで最近気づいて・・

河上さん:周り心配するからな、ある程度食べているふりはしたらええね。だからその時はタンパクとカルシウム系のものだけにしてな、糖質を避けたらいいね。

質問:はい。

宮野さん:食べてるけど食べてないって気がつかない場合は

河上さん:食べているけど食べてないって気づかないのは、現実無視できて良いんちゃう?血糖値は(食べてないのに)何か知らんけど上がったって、言うてたら良いんちゃう?→ある人の体験です。(笑)受けすぎ。

宮野さん:なんか知らんけど血糖値上がってるね。知らん間に。(笑)

河上さん:どうぞどうぞ。

宮野さん:話は変わりますが。宜しいですか。

河上さん:ええよ。

質問:さっきのお線香の話題が出ましたけれども、とある本にお線香の煙は「お線香の煙を電話だ」と例えた人が、本があって、お線香の煙で何というか、あの世の方と会話ができるよ、みたいな。

河上さん:いや違うで、イオン化するね。炎とか煙はイオン化するね。まあ言うたらチャンネル12チャンネルの中のね、色んなチャンネルと重なって見れるいう事や。

質問:煙で何かを、

河上さん:だから護摩で・・・

質問:その見えるって言うのは。違うっていう?

河上さん:煙より火の方が強いから、護摩は火を焚くわけでしょう?火を焚くと、ありとあらゆる次元が繋がるの。だから神さまの象徴として火を使うわけでしょ?太陽って炎の塊じゃない。イメージするやん。それは炎を通してすべての次元と繋がるね。

宮野さん:蝋燭がさ、ろうそくの方が火が・・

河上さん:線香よりろうそくの方がよう繋がるよ。ただローソクはな、倒れたら火事になるやん。危ないから線香になっている。それで風で火がよく消えるやん、ローソクは。線香は消えにくい。

質問:繋がるっていうこと?

河上さん:そう、そう。だからキャンプファイヤーとかしていたらね、みんなの心が結構一つになって、和気あいあいとするでしょう?それはみんなの背負っている縁ある縁者も一つになれるからや。だからキャンプファイヤーって、みんな「嫌いや」っていう人少ない。だからバーベキューもみんな好きやね。炎を使うからね。

質問:さっきの高速の続きをお聞きしたいんですけど。

宮野さん:どの高速?

質問:少食でなく高速。早送り、僕もちょっと気になっていたんですけれども。

河上さん:どこまでしゃべったか。

質問:全宇宙が地球に集まっているというようなことを。

河上さん:ああそうよ。この虚の世界という宇宙の全ては地球を軸にしてんね。

質問:もともと先生のお話で地球という存在は落ちこぼれ、こぼれただけで、落とし穴にはまっただけだから、いう感じで。人間の世界は無の一点に過ぎないっていうようなことも仰られてたような気がします。

河上さん:あっそうよ、無限の世界の無の一点やで。

質問:そんなに大切な場所っていう見方もあるんですね。

河上さん:いや、違う。虚の世界全部がな、落ちこぼれの世界や、この宇宙人も。な?

 この虚の宇宙は全部落ちこぼれやね。でもその虚の宇宙の中でね、唯一地球だけが真の世界とつながる最後の接点やね。

質問:基本は落ちこぼれの世界ですけれども、あらゆる世界の交点。

河上さん:そうや肉体がな。

質問:だから光が・・あと宇宙人は立派なものだと思っていて、地球人が真祈りできるために、待ってくださっているって言う話もあったんですけれども、宇宙人自体も悩んでいたわけ?

河上さん:そんな嘘っぱちが通るぐらいな、何て言うんかな、できるだけ真の世界に皆を導きたくない存在が多い、っていうことや。そんなもん、本当に救いたいんやったら、先生のようにね、肉体を持って降りてきてね、全ての人の身代わりとなってね、働くやん。宇宙人働けへんやろ、おかしくない?

質問:地球人のために待ってくださっているわけではなしに?

河上さん:待てへんて、助けに来る。身代わりになって背負いに来るよ、神さまは。神さまは待っていない。積極的に神さまの方は積極的に真の世界に戻そうとしてんねや。神さまの方はな。人間が戻ろうとしてないだけや。

宮野さん:人間は戻ろうとしていない。宇宙人は?

河上さん:宇宙人も戻ろうとしていない。だけど事ここに至って、切羽詰まってきたんや。宇宙人も大きく分けて3種類あるからな。3種類あるから大きな戦争になれへんね。三つ巴になって、これ二つやったら大戦争になる。

宮野さん:三すくみ?

河上さん:三すくみ。

質問:性格のいい人と悪い人と。

河上さん:ううん。形の上で。昆虫型と牛さん型と爬虫類型と。

質問:その3種類があるとうまく廻る。

河上さん:廻れへんけど、3種類のおかげでつぶれへんね。三すくみになって。

質問:バランスをとっているわけですか?

河上さん:バランスもとってない。神さまの方で出来るだけ、何とかしようとしている形の中で、そういう結果になっただけや。

質問:虚の世界の話なんですけれども、その虚の世界が生まれてから、始まりがあって終わりがあって、今現在その終わりを迎えている、という事ですよね。虚の世界の終わり。

河上さん:あのな、説明の都合上そう言うってるだけでな。一瞬一瞬の始まりであって、天之尾羽張(あめのおははり)やね、常に。その印可書通りやね。「絶対の中心、無限大の外遥か彼方、無限の無限の彼方から全ての全て」ってね。神様の命が光となってね、響き渡るね。な?その光を具体的に二つに分けて、電気力線と磁力っていう形に分けて、この現世の世界を形作っているだけや。それをE = M掛けるCの二乗っていうね。あの公式で全ては表わされる。

質問:虚の世界?

河上さん:うん。それもその一瞬一瞬この響き、音楽みたいなもんや。音楽って鳴ってるように思ってるけどね、一瞬一瞬新たに音が来ているわけでしょう?要するに一瞬一瞬新たに、ようするに絶対の中心にくる光というのをね、まあ言うたら一瞬一瞬弦のギターをここで弾いてはるわけや、神さまが。弾いているから音楽として響き聞こえているわけでしょう?この虚の世界も一緒よ。神さまが一瞬一瞬光を送ってくるから、虚の世界として存在するね。だけどもう一旦落ちこぼれのね、ちょっと光を送るのはやめて、一旦作り直そうかって言うてはんねやん。

質問:最後の場面として、いま暗黒の6日間っていう場面と・・

河上さん:違う。一瞬一瞬始まって終わっているだけやね。なのに掴んでな、終わってるのに掴んで、あるとして、言うこと聞かへんから、真っ暗闇にしたら終わったってわかるやろ、っていうことや。一瞬一瞬新たを知らしめる為にな、神さまが大オマケで暗黒の6日間にしてみたり、この膝ももマッサージ、もも膝マッサージ、何でもええわ、出してみたりね。もう神さまの大オマケばっかりや。だから一瞬一瞬新たやからね、何にも悩む事無いし、苦しむこともないし、喜ぶだけやね。

 だから先生は無条件の喜び、無条件の幸せっていうてんね。なのに無条件に喜ばれへんわ、無条件に幸せ感じへんわ言うて、みんな文句たれているわけやろ、簡単に言うたら。

 たれているうちは全然真祈りの伝授になってへんね。本当はE = MCの二乗を見ただけで全部分からなあかんねんけどな、分かれへんて言って、文句言ってるわけや。

 分かれへんと違うねんけれど、もう、まあええやん。まあ、ともかくオマケがあるねんからオマケでいって、印可書でいって言うてるわけよ。

 今の一瞬に終わっている訳よ。終わっているけどまた、ピュンって響いて始まってんね。本当は黒板持ってきて数式でわーって説明したいねんけれど、説明してもどうせわかれへんやろうからせえへんだけや。そっちの方が僕はすっとしてええねんけどな。

質問:その説明はE = MCの二乗

河上さん:が基本です。

質問:だからアインシュタインさんは実はもう色んな事が悟られてた方だったんですか?

河上さん:いや、ミレーバさんっていう人がな。

質問:アインシュタイン?

河上さん:E = MCの二乗作ったんや。

質問:アインシュタインさんの?

河上さん:奥さん。最初の奥さん。

質問:奥さんから引き継いで・・

河上さん:違う、違う。奥さんが出したのをね、アインシュタインが自分の名前で発表したわけや。あなたの名前で発表しなさいって。

質問:実はその奥さんのおろされた・・

河上さん:そうそう。そのへんの連携がずれたから、まあわざと神さまずらしてんけれどもね。

質問:アインシュタインさん自体も悟られてた方だったんです?

河上さん:悟りはな、深さが永遠にきりないね。て。だからみんなは、悟っているとか、悟ってないとか、言うけど、例えば真祈りの伝授でも永久に切りがないんよ。で、常にな、先生のレベルまでには誰も達せへんね。本当はそういうすごい世界やねんけどね。どういうことか言ったら、先生が凄い偉いじゃなくて、それぐらい大きさの違いがあるね。

 もう本当の凄い大きさの中からチョンと出て、僕の世界になってね、そこからチョンチョンチョンと、ぐっと下げたらこの虚の世界になるだけや。それは説明のしようがないから凄いもんやね。

 でもそれを、どれを持って悟りというかになって行くわけよ。基本的には無条件に喜べたら悟り、って思ったらいいね。本当の。そういう意味ではね、無条件に喜べた人っていうのは、柿本人麻呂とかな、空海さんとかね、なっていくだけやね。だからE = MCの二乗しか残さんかったんや。本当はもっと展開せなあかんね。けれども。

質問:あんまりそれを伝えると戦争に使われたら、いけないっていうアインシュタインの。

河上さん:いや、結局重力がね、E = MCの二乗の中に重力波の全てのことも入ってんね。けど、そこまでアインシュタインは探求できんかったんや。だから「重力は空間の歪み、空間の歪みは質量があるからや」という堂々巡りの答えしかだせへんかってん。

質問:わざとそれで抑えたんじゃなしに、アインシュタインさんの悟りの深さも。

河上さん:悟りの深さと違って、科学っていうのはね、分析してどうこうっていう世界に入っているから、分からんようになるね。例えば光は粒子であって波である、って言うやん。あんな嘘っぱち言うからな、分からんようになんね。けど、本当に光が粒子やったら光線と光線ぶつけるやん。ここで弾き合えせなあかん。でも何の弾きもせんと、光線と光線交わるでしょ?この結果を見ているのにも関わらずね、光は粒子であって波であってという、訳の分からん事を言うて、それを正しいことのように無理やり屁理屈をつけて分析しだすから、分からんようになったんや。

質問:地球レベルでの考えでの・・

河上さん:要するに分け隔ての意識が問題やね。全ては完璧なる一つで見たら、神さまから降ろされたE = MCの二乗がね、全部わかるけど。

質問:地球レベルの科学を超えるのが宇宙子科学?

河上さん:違う。分け隔てる意識を超えなあかん。分析してどうこうっていう意識、ようするに微分にして、微分したものを集めて積分って言うね。けれど、微分積分して理解しようとするのを、やめなあかんね。けれども。分析科学が今の地球の基本やからね。

 だから分析のその実験結果とずれてきても、そのなんとか分析しようとしてね、無理に理屈をつけるからややこしい。

 なんでか言うたら、この異次元の空間っていうの。空間と空間が隣り合って重なって影響を及ぼしているからね、量子力学のように突然現れたり消えたりするとか、不連続、連続していない数値が出るとか、あれは空間が重なるからやけどね。だけどね、重なるっていうことを理解せへんね。ちがう空間があることを理解せへんからな、分らんようになっていくね。量子力学は違う空間の存在を認めずに、この空間だけで説明しようとして、すごい矛盾を含むね。

質問:本物の科学は、最近言われている宇宙子科学?

河上さん:いや、宇宙子科学が成功していたら、こんなにややこしいなれへんね。けど、知らん。よその団体のことは。教えてくれへんから。

 時間切れやからな、出来るだけたくさん出そうと思ってんけど、みんなが受けるレベルまでけ来えへんだけや。真祈りしてくれへんだけや。

質問:このE = MCの二乗の M っていうのは悟りの深さなんです?

河上さん:いやー、質量、物質化した状態。

質問: C の二乗っていうのはCが2つっておっしゃられたんですけど、一個一個の C は感謝の光と思いの光みたいな?

河上さん:違う。この世的な表現で言うたら、電気力線と磁力。

質問:2つのCがある。

河上さん:いや違う。電磁波って言うやろ?何で電磁波って言うかといったら、電波って言うやん。電磁波を略して電波って言うね。けれども、電波っていうのは電気力線と磁気で出来ている。それを電波って言うの。

質問:それが二つある。Cの?

河上さん:だから陰と陽の。

質問:それで Cの2乗、2つ。

河上さん:だから電気力線の方がマイナスで磁力の方がプラスや、本当は。対発生している。

質問:この話が出たのはそろそろフリーエネルギーが出てもいい段階に入った。

河上さん:いや違う、違う。もっと真祈りを深めて欲しいからや、ちょっとでも必死で分かろうとして真祈りをしてくれる人が出へんかなって、思ってちょっと言っただけ。

質問:円盤の話も、そろそろそういう宇宙船を出してもいい。

河上さん:いや、出そうとしてんけど、もうみんなでよってたかって潰すからやめたんや。

質問:だいぶ人類が良くなったから、そういう話も出てきたのかなって思っていたんですけれども?

河上さん:良くなってきたら、もっと護摩に凄い一杯人が集まるわ。

宮野さん:とことん落ちてきてるで。もう地球が終わるぐらいの。

河上さん:村人の大半が印可書選ぶようになるわ、良くなってきてたら。村人が選ばんうちは滅びる。

質問:だからそういう話を聞いて「ああやっとフリーエネルギーの時代になって、エネルギーが自由に手に入る」とか思われる方もいらっしゃると思うんですけれども、そういうわけではない。

河上さん:それ自分と他人を分け隔ててね、どうこうと思っている意識のレベルの間は違うね。

質問:エネルギーさえタダで入ればお金を稼がなくてもいいから、もっと自由になれるとかいう。

河上さん:だから自分の都合の自由ではあかんやろ?無色透明の真(まこと)の神さまの響きそのままに動く自分にならないとな。真(まこと)の本心の自分になってこそ本物や。

 新たなる下座に立つ真の本心の自分になってこそ本物や。その新たなる下座という、新たなる一瞬一瞬新たなる、そこが分からんから進めへんね。

 印可書がね、新たなる下座に立つ真(まこと)の自分って書いてあるね。けれども、本当は一瞬一瞬新たなるやね。その最初の一瞬一瞬新たなるのとろが、みんなわかれへんね。

 それは肉体的にね、年取った人と若い人とあるから、この古い新しいがあるからって勘違いするからね、無理ないとこあんねんけど、でもそれは違うね。みんな一瞬一瞬新たで若いね。若いけど年寄りの姿を楽しむとかね、若い姿を楽しむとかやね。それだけのことやね。要するに演技の時に、いろんな衣装を着るやん。まあそういう感じや。

質問:差が取れたら自然と下座に立つのが当たり前に思える。

河上さん:そうそうそう。でもその下座に立つっていうのがね、この世的にどうこうではなく、先ず全ての人の心に真(まこと)の神さまを立てないとね。要するに理屈抜きに「みんな光や」って分かるこっちゃ。みんな松下先生って分かったらええ、理屈ぬきにな。

 すると新たなる下座に立つ真(まこと)の自分や。一瞬一瞬新たやから、みんな光やって分かるんで。

 過去現在未来を掴んだらな、「あんなこと言ったってあのおばはん、あんなんしよった」「あのおっさん、昔、あんなんしとったやん」って言うて終いや。

質問:自分があったら下座に立つのはちょっとしんどいなあとか。

河上さん:そうそう、その時点で自分と他人分けてるやろ?分けている時点でアウト。

宮野さん:昨日良い事言ってなかったっけ?これ勉強会で言ったらええのに。

河上さん:そんなん覚えてへん。一瞬一瞬新たやから。

宮野さん:毎日が、日常が普通通り繰り返すという事は、何か言うてはった。忘れたな、まええわ。



令和5年3月河上さん深夜勉強会−3(202317−3)

質問:時間切れというのはあまり言葉に出してはいけないんですか?

河上さん:出したらあかんとかじゃなくて、ほんまの時間切れやから出してるね。

質問:それは神さまの予定、期限が来たという事での時間切れ?

河上さん:そうです。

質問:それとも、それもあるし本番になったという事ですか?

河上さん:もう完全に時間切れやね。

質問:おまけに入ったという意味での時間切れですか?

河上さん:そうそう。おまけなし。だから今までやったらおまけでね、例えば、悪い事してても、死ぬまでバレずに死ねたんや、例えばね。それが、もうどうしようもなくなる。或いは、好き勝手にフリーセックスしてた人でもね、今までやったら普通に結婚して、分からんと一生終われたんや。だけど、あっという間にあそこが腐ってきたりするね、いよいよ。真祈りしてなかったら。

質問:今まではなんだかんだ猶予というか、勉強期間というか…。

河上さん:おまけやってん。できたら真祈りに早く気づいてねっていうね。でも、もうそれも無しに。要するに、「印可書」を選べない人はどんどん死ぬんや、あっという間に。

質問:どっかで区切りをつけないとキリがないからという事ですか?

河上さん:気づかないから。

宮野さん:散々、おまけ出してきたのに、誰も気づかへんやん。

河上さん:だから好きにしたら良いよっていうだけや。好きにしても悪くならないようなおまけが一杯あっただけ。

宮野さん:みんな甘えて平和ぼけして、何時までやったって、いつの時代も何も変わらん。何時まで待たせるん?なら閉めたほうが良いんちゃう?ご破算したほうが良いんちゃうかって話。

質問:今までは、終わりが来たらやり直し、輪廻転生があっての敗者復活が…

河上さん:もうそれは無いね。無いから先生はね、もう三洗莊の時代から、50年前から結婚せんでええっていうてはった。もう後がないから。結婚して子供作ってもしゃあないって。だから結婚せんでええって言うてるにもかかわらず、みんな結婚していったんや。

宮野さん:その中で先生に許可を貰っての人もいるやん?それも自由意志よね。

河上さん:先生の許可を貰ってって…、(先生は人の自由意志を束縛しないから、結婚したいといったら、おめでとうといわはった)もう…その辺説明せんとくわ。色々あるけど、もうややこしい。もうええやん、終わりやねんから。

質問:時間切れも、人によって受け取り方が、解釈が違うかもしれないですけども。

河上さん:それは違う。そんなん好きに解釈したら良いね。でも来るものは来る。

質問:要はおまけが無くて、もう本番ですよという…?

河上さん:色んなウィルスをみんな持ってるんよ。ウィルスってそれぐらい小さいもんやから。本来ウィルスは、人間と共に生きるもんやね。支え合うもんやね。だけど、マイナスの思いを持っていたら、ウィルスというのは、もの凄いプラスとマイナスのエネルギーに敏感に反応するの。ずるい思いとかあるやん、フリーセックスとか。フリーセックスというのは何かと言ったら、好き勝手してきたという事や。そういう事をしてきたマイナスのエネルギーにいよいよウィルスが反応してね、遺伝子情報が崩れて、凄い癌になったり、皮膚が崩れたり、梅毒みたいな症状になったりとか、エイズみたいな症状になってバタバタ死んでいくだけや。そうして清算していくの。出来るだけ苦しまずに、神さまはなんとかしたかってんけど、もう終わりって。

質問:基本的にはもうずっと終わりではあったんですよね。時間切れがずっと続いてた…

河上さん:いやいや、時間切れは続いてないよ。おまけがずっとあったんよ。だからここ4.5年のうちにね、本当にバタバタ死ぬけどやな、心を乱されずに、乱さずに淡々とお祈りしてやって。「印可書」奉読しててねってお願いしてるだけ。もう少子化対策とか、そんな事言ってるレベルではないね。

質問:時間切れと結びつけて、暗黒の6日間を気にされる人もいますけど…


河上さん:いやいや、宇宙人の世界とか、あっちの世界がね、もっと早く崩れ出してるの。それで大騒ぎで護摩に押し寄せてるんやけどね、みんな。それだけ。あっちの世界からもう崩れてる。それすら気づかんくらいな、みんな鈍感やね。

質問:別に、暗黒の6日間とかどうのこうのではなしに…

河上さん:暗黒の6日間は最後のおまけよ。

質問:あるなしはあまり気にしなくても良いんですか?ない場合も?

河上さん:みんなが「印可書」を、例えば村人の9割が「印可書」を選んでたら大丈夫やけどね、今はなかなかな、選び取れへんだけやで。自由意志でやで、強制的にじゃなくて。

質問:自由意志で、みんなが「印可書」を奉読すれば、僕の中では、ソフトランディングというか、穏やかな世界に…

河上さん:いや、そんな、すっと真(まこと)の世界に戻っていくよ。

質問:穏やかになるし、唱えなければハードランディングという厳しい世界というのが、僕の発想では、暗黒の6日間的な…

河上さん:いや、暗黒の6日間は厳しくない。6日間すら起こらん場合があるというだけや。特典なしっていうやつ。

宮野さん:即終わり。

河上さん:そうそう。簡単に言ったら全員火あぶりになるね。護摩の火で焼かれる。

質問:毎回やり直しの時は、一度は神さまの世界に引き上げて貰って、今までは生まれ変わりがあったという…。

河上さん:今までのやり直しは、神さまの世界に引き上げてない。

質問:1度は無色透明の世界に…。

河上さん:だけどね、みんな死んだ時はそのまま真(まこと)の世界に引き上げてるねんで。

質問:そこからまた自分の思い、色のついた世界に降りてしまったという事ですか?

河上さん:うん。だけどアトランティスが沈んだ時なんかは、そんな余裕もなかったんや。

質問:アトランティスが沈んで、終わってからの今という事ですか?

河上さん:そんなんと違って、みんなが地上天国を作ろうって言って生まれてくるんやけど、それを忘れて、又、こうなったっていうだけや。イエスがね、「10里の距離を強いられたら20里を行け」っていうわけでしょ?より苦労を選べって。楽選ぶな、より苦労を選べって。みんながより苦労を選んでたら、こんなややこし世界にならへん。みんながより楽を選ぶから、こんなにややこしくなるんや。

 より楽を選ぶというのは、何かと言ったら、 100個のパンのうち、100人に100個のパンやから、それこそより苦労を選んでね、「私半分で良いです」って言い合いしたらあっという間に良くなるわけやんか?だけど、100人がそれぞれ一個ずつアンパンが欲しいって言ってるうちは、まだギリギリのバランスや。でも、明日の食べるパンが欲しいからといって、2つ3つ奪い合いしだしたら今の世界や。10人が2つ3つ奪っただけでも半分以上の人が食べれなくなっていくわけでしょ?だから12やねんな。12人の人が4つ選ぶだけで半分消えていく。

 でも、そういう自分さえよければという意識になっている事すら気づかん状態に人類はあるわけでしょ?今。自分の家族だけ守ろうとしてるわけやん、プーチンさんなんかはね。ロシア民族だけを守ろうとしてるわけや。それは良い事やと思ってはるわけや、勿論な、

 悪い事なんて思ってへんもん。それはみんなそうでしょ?自分の家族だけはなんとか守ろうとしてるね。それが良い事やと思ってるね。そうじゃないというのが分からなアカンねんけど。

 だから五井先生の「世界人類が平和でありますように」という祈り言葉をね、殆どの宗教は非難するわけ。家庭の平和すら守れへんのに世界平和なんて、土台の基礎もできてないのに、砂上の楼閣やっていうんやけど、違うねんて。それが逆やね。

 だから先生は、「マイホーム主義はダメだ」って「神書」に書かれているのに、大半の人はマイホーム主義を選ぶんや。ここに来てる人ですら。

 それぐらいね、身内だけを守ろうとするね、みんな。でも違うねんて。自分とこの都合は全部横に置いといて、1番の苦労をみんな選んで支え合わなあかんね。でも今そんなん言ったって「そんなん理想主義や」って言われて終わりや。それぐらい大変なとこまできたんや。殆どの人は「そうしましょう」って言わへんね。「それは良い事やけど、理想主義や」って、「でもね」ってみんないうね。

質問:そういうのを打開するためには真祈り、「印可書」奉読?

河上さん:もう大おまけの「印可書」奉読しかないわね。だって真祈りしろって言ったって、どうして良いかみんな分からへんわけでしょ?別に手振りセットの「宇宙神ありがとうございます」でも大丈夫やで、手振りセットや。もしくは膝ももセットね。ただね「宇宙神ありがとうございます」やったら、真(まこと)の神さまって思い切れないから。「印可書」は真(まこと)の神さまそのものやから、「印可書」奉読が楽やでって説明してるだけでね、みんな好きにしたら良いんやって。

質問:本当は「ありがとうございます」の10文字でも?

河上さん:勿論。

質問:先生が仰られた祈り言葉は全部…?

河上さん:生きてるけどね、みんな受け取られへんのでしょ?物を貰った時の「ありがとうございます」から抜け切られへんやん。「宇宙神」っていうたら、銀河系の宇宙ぐらいしか思わへんやん?でも「印可書」やったら、「新なる下座に立つ」って。その「一瞬一瞬新た」が分からなくても、「新たなる」って毎回言葉に出して言ってるうちに、「一瞬一瞬新た」が実感として湧いてくるんよ。そういう風に作ってあるの。

 ただ先生の作られた「印可書」は光が強すぎて、みんな殆どの人が弾いた(受け取れなかった)からやね、ちょっとでもみんなが受け入れやすいように苦労して改造したんや。

 そしたら、先生が「本物が現れた!本物が現れた!」って喜んで下さった。それで思わず「本物が現れたって誰も分かりませんやん?」って言うてんけど、それでも先生は「本物が現れた」って仰って。

 その後や、血の涙を流されたのは。まったくの漆黒の星が地球にぶつかって潰れるとこを止めて行きはった。そこまで先生に苦労さしてても、それすら気づかへんねんやろ?だんだん「もう好きにせいや」って言いたくなるんやけど、もうちょっと抑えて説明しています。

質問:真祈りとは神さまそのものという事?

河上さん:そうよ。

質問:「真祈りの全体像とは」いうのは、神さまの全体像と…?

河上さん:違う、神はすべてのすべてやね。だから「真祈りの全体像、全体図とは」って先生が初っ端に答えを書いてくれはったわけよ。すべてのすべてをこれで分かるよって。

 でもね、真祈りしようとして苦しんでる人以外には分からへんかったんや。「印可書」はダメってみんなが言ったんや。「印可書」だけはダメってな。何で、何の根拠があってそれを言うのか謎やったわ。

質問:そういうダメとかは全然頭に、耳に届いてこなかったんですけど、その頃はまだ虚の世界に忙しくて、そういう争いというか、諍いは全然知らなかったんですけど。

河上さん:まぁ、殆どの人はまず「印可書」以前に毎日の生活に追われている。

質問:どうやって商売するかとか、そっちの方に当時は忙しくて。

河上さん:そうそう。本当はね、商売でもお仕事でもそうやけど、自分の徳分のある分しか動かへんね。自分がなんぼ思い通りにしようとしたってね、成功する時はするし、しない時はしないね。

 それは自分の徳分や。それって過去世でどれだけ人を助けてきたかにかかってる。それを気づかずにみんなもがくんや。それで思い通りにならへんて悩むね。だから何時も言うように、過去世で人を助けてきてない人はダメなのかと言ったら、そうじゃなくて、過去世で自分勝手に生きてきた人でも、今生で耳かき一杯の働きでもできるからね、その小さい働きでも必要やからって言ってるんだけど、みんな結果だけを掴むからややこしい。

 どの働きでも良いねんて。神さまが必要で表されている事ばっかりやね。因縁因果で言ったらね、過去世で人を助けてこなかっただけやねんけど、そうじゃなくて全部必要で神さまが現されている事やから、どれもこれも喜べなあかん。自分がどの役割に立されても喜べなアカンねんけどね。本当はここに座る役割の人がおったのに、みんなが寄ってたかって潰したんや。

 (僕は)リリーフエースや。だからちょっとしかせいへん。先発ピッチャーちゃうから、リリーフやから、あと何年の世界にいてる。

質問:リリーフピッチャーって、一番肝心要の時に出てきますよね。
 全部が自分とか、全部がひとつって言われる時に、先生のお話を振り返って聞いていた時にね、質問を色んな方がされている時に、すごいツッコミどころが満載の方とかがいらっしゃるんですね。聴きながら1人で凄いツッコンでしまうねっていう話をしてたら、別のそれを聞いてた方が「そんな事いうけど、みんな一つなんやから、分け隔てしたらあかんやないの」って言われたんですね。でも分け隔てはしてない積りなんですけど、好き嫌いはあるんやけどなって思うんですけど。

河上さん:それは映画の配役を見てもな、ダースベーダーが嫌いやっていう人と、好きやっていう人が居るや?スター・ウォーズでも。ダースベーダーって結構人気あるんやけど、嫌いやっていう人は嫌いや。そういう感じで、そういう配役に対しての好き嫌いはあるよ。

質問:それは特に分け隔てしてるつもりはないんですけど、分け隔てにはならないんでしょうか?

河上さん:だから「みんな光や」が根底にないとあかん。みんな真(まこと)の神さまで、それぞれの配役を選んで演じておられるだけで。でもダースベイダーの配役を選んできたわけや、例えばね。でも、それを配役としての好き嫌いはかまへん。でも、そのダースベイダーを演じている真(まこと)の神さまは、光やというのを分かってなあかん。それだけ。

 やっぱりね「みんな光や」というのは、「一瞬一瞬新た」というとこを分からんと、実感できないとどうしても無理があるよね。あまり因縁因果の話をしたくないのはね、因縁因果の話をした途端に、結局は現実と過去を掴んで身動き取れんようになるからね。

 だから徳があるなしとか、過去世で人を助けてきたとかっていうのもあまりね。先生と僕の過去世の関わりをあまり言わないのはね、言ったって仕方ない事やね。

 でも先生は空海とか、柿本人麻呂とかね、聖徳太子とかね、名前で凄さを見せてるわね。凄さというか、偉大さというか、光そのものというのをね。柿というのは輝きの木っていう意味。それで柿の本、輝きの木の大本っていうので、柿本人麻呂って凄い名前やで。空の海やろ、空海ってね。徳と言ったら清いもんやねんけど、それをまだ聖徳って言って凄いわな。

質問:松尾芭蕉さんは先生なんですか?

k:ふふ。

質問:松下先生自体はあまり歌を残しておられないようですけど、過去世の道元さんの歌を聴けばそういう…。

河上さん:柿本人麻呂さんはようけ(たくさん)歌を残してるで。

質問:読めば先生の歌という事で。

河上さん:うん。

質問:五井先生の歌はよくお話しされるんですが、松下先生のは無いなって思ってたんですが。

河上さん:本来、もう先生は今生での働きは全部終わっておられて、わざわざ現れてこられる必要はなかったんやけどね、だからやねんけど。行くっていうから、この2人は嫌ですって言ってるのにな、セット物やって言われて連れてこられて。「何時も3人セットや」って。「3がセットやないか」って言われてな、無理矢理。それぐらい先生は愛の塊りやって。「もう無理違いますの?」って言ってても、「まだまだ」って言って。

質問:本来ならわざわざ救いに降りられなくても良い自由もあるんですか?

河上さん:だから、見捨てられた人類や、すでに神さまからわな。それを先生がなんとかするって言って。

質問:それは先生の大きな愛ですか?

河上さん:はい。ともかく「印可書」奉読してたら分かるわ。そういう大おまけやね、あれは。それを本当やったらね、座禅して滝に打たれたりとか、色んな事をして初めて、竹刀を一万回振ったりとかそんなんで初めて到達していける部分を奉読だけで済むね。でもそれすら気づかない、それすら選べない人が多いだけやな、まだまだ。

質問:「印可書」奉読は、心が荒だってる状態で奉読しても、心境関係なく…

河上さん:いや違う。荒だった状態の心が必要やね。そしたら、荒だった心の人に光が届くから。だから、色んな心の感情の揺れというか、乱れがあっても良いの。エッチな思いが湧いてきても良いの。その時に「印可書」奉読してくれたら、そういう心で苦しんでいる人に光が行くから。

質問:ちょっとイライラして、雑に奉納している時でも大丈夫ですか?

河上さん:良いわけ、そういう事やね。真(まこと)に清い光だけで済むんやったらね、先生がお一人地上に降りてこられて、本当に深い真祈りをされたわけやから、全人類が清まって終わってるよ。違うやろ?だからジグソーパズルの話をされたわけや。中心の大きなピースが先生やけど、周りの色んな細かいピースがいるの。それぞれの気づきという悟りを持ち寄って初めて大きな悟りになるの。それを護摩の会場で実現するだけや。

 だから護摩の会場で(先生としての)最後のお話の時にされたんや。ジグソーパズルで説明しようと思うって。で、「もう質問ないか」って聞かれてな。まぁ何時もやねんけどな、先生いかれる前は「もう質問はないか」って何回も聞かれて。あれを聞く毎に、もう声が出なくなって余計に聞かれへんねんけどな。質問できなくなったけど。

質問:お祈りの会とか護摩に参加するのも、結果の世界ですから、参加する時はゆったりと、悠々と構えて参加さしていただければ。先生のお話…

河上さん:うん。だから一歩でも前に進む、一歩でも「印可書」を読むんだっていう意識があったら良い。

質問:先生のお話では、もう護摩木を書いた時点で、もう護摩は終わってるような事を仰られてた…。

河上さん:そうよ。それが一瞬一瞬新たという事やね。そこがみんな分かったら、もう一瞬でパンッて変わるんやけどね。

質問:だから護摩に参加するというのは、結果というか、確認位な…

河上さん:そんな事ないよ。そんな事はないけど、遠くの人とか、地球の裏側で絶対来れない人の為にね、護摩木がありっていう事やね。

質問:本来は「一瞬一瞬新た」と考えれば、護摩木を書いてる…

河上さん:真祈り人は参集すべしって言われてるね。だから真祈り人は可能な限り護摩に参加せなあかん。

質問:結果だろうと、なんだろうと、一瞬一瞬新たに、護摩に集まるのも一瞬一瞬新たに…

河上さん:自分が真祈りして神さまのお手伝いをするんだって思う人はね、護摩の会場に来れる時間と余裕がある人はね、何を差し置いても来なあかんね。どうしても来れない人はそれは仕方ないよ。でも行こうと思ったら行ける人は来なあかんね。もうどうしても抜けれない事以外はね。それくらい、肉体を持って護摩の会場で真祈りするのは大事な事やね。なのに、「私はちょっとしか真祈りできない」とか言ってこない人もいるしな、そのちょっとの真祈りがいるって何遍言っても来ない人は来ないし、色々あるけどさ、あるけど、でも来れる限りは来て下さい。

質問:それは相乗効果で大きな力を生むといかあ?

河上さん:そうそう。焚き火が薪をようけ(たくさん)突っ込んだ途端に大きい炎になるやん。1本の薪やったらちょっとしか炎が立たへんのに、同じ1本のちょっとした炎やけど、まとめた途端に凄い炎になるやん?そのため。マッチの軸でも纏めたら大きい炎になるやん?だから大きい薪木も、小さいマッチ棒でもみんな集まって来て、護摩に参加してねって言ってるの。来れる人はね。

 それは何百万円って護摩に来る為にお金かかる人は無理かも知れんけど、それなりに来れる人は来て下さいって言ってる。

 ただ護摩を辞めようとかね、護摩の邪魔だけはしたらあかん。もうそれだけよ。自由意志やからね、護摩に絶対に行きたくないっていうのは別に来なくて良いね。だけど護摩があかんって邪魔したらあかん。

 「印可書」も一緒よね、「印可書」を奉読するしないは、自由意志やから、別に選ばへんのはかまへんねんけど、人にまで「印可書」はダメよって言ったらあかんね。そのへんが先生のお姿をずっと見てきても分からん人かったばっかりやねんな。絶対に相手の自由を縛らないっていう徹底した姿を。

 だから、長い間喋らして貰われへんかった。「お前が喋ったら人の自由意志を縛るから、みんな逃げて行く」って。もう時間切れやから、ちょっと縛りながら喋っていってますけど。



令和5年3月河上さん深夜勉強会−4(20230317−4)

質問:確認なんですけど、この前の勉強会で一瞬一瞬新らたって言うんは、サラサラサラサラと全部を受け直して行くっていう事っていう事で教えて下さったんですけど?

河上さん:そうよ。要するに結果に心を置かない。もう過ぎた事は過ぎた事で良いね。「あいつあんな悪い事しよった」とかね、「あいつあんな事して、ズルい事しとった」って言って掴んだらあかんの。その為にね、演技してはるだけって言ってるやん。実際そうやし。

 わざわざ人殺しの演技とか、サボる演技するのはつらい事やけど、辛い部分を身代わりにしてくれたと思っていたら気にならへん。先の質問のいやらしい上司?でもわざわざそういう演技、マイナスを背負う役割をして下さっているって見ないとアカン。実際そうなんやで。 

 例えば怠ける人、ズルい人というのは、そのズルいマイナスを一切背負ってくれているね。雑巾ってそうでしょう?一番黒いとこ拭いて洗ったら真黒くなるやん?出来たらそういう所はしたくないんだけど、わざわざ真黒くなる役をしてくれてはる。

 で、その真黒くなった雑巾はね、印可書を選んでない人は地獄に行って洗うしかない。それだけや。地獄はお清めの場所やからね。でも印可書で清めれるんやけど、それはもうその人の自由意志や。こんなん読んだくらいでは効かへんって思う人は地獄でキレイにしてきたら良いね。

 だって「ありがとうございます」の10文字で大奇跡が起こるって言っていたのに、だれもよう起こさんかった。それ位選び取れんね、みんな。自由意志で選び取ることが出来ないと意味がない。自由意志で選び取れるという事は、信じ切れるという事。「ありがとうございます」の10文字が真(まこと)の神さま、で又、真(まこと)の神さまは全知全能でね、今は一番良いようにされている。一瞬一瞬新たに良いようにされているって信じ切れたら、どの祈り言葉でも有効や。

 でもどうしてもそれが信じ切れん、でも印可書を奉読したら信じ切れると同じ状態にするよっていう、大オマケやから印可書って言っているだけでな、これ以上説明のしようがない。

 でも先生から言われている事は、「村の自由にしなさい」と、村がこうしたいという時はそうしてあげなさいやから。それ位世界の縮図としての、村を先生残しはった。人類の自由意志はやっぱり優先される。
 
 質問:ここが世界の縮図だっていう事を言って下さって、みんな分かっているんですけれでも、そうなると、そこを何とかしたら世界がガラッと変わってしまうような、事に成りかねない事ですよね?

河上さん:勿論、そうやで。だけど何とかしようが無い、自由意志やから。外のもんが印可書奉読してね、真祈りの響きで包むしかない。それはそうでしょう?家族は神さまを信じて無いわけやない?まー言ったらね。でも、身内の分も身代わりとなって奉読して、家族の分も光で包むわけでしょう?

 印可書を自由意志で選び取れん人ですら、縁者という身内だったら、こっちが印可書を奉読するだけで救われて行くんやもの。なら村人も、先生とこに結集した真祈り人の縁者や。な?

 只ね、真祈りが出来ているか、出来ていないかはね、数式も伝授受けてやからね、ホンマに真祈り出来ている人は数式持って来いって言って、ちょっと突いているだけ。そんなんも受け取れて無かったら、何も受け取れなかったっていう事や。

 真祈り出来ているか、出来ていないかって確認しようがないやん?でも数式だったら確認できるからね、分かり易いやろう?ちょっと追い詰めていますが。まー、それ位ね、自由意志で真祈りを選んで頂きたいっていうだけやけどね。

質問:でも「私全部が数式に現れて見えへんわ」って、そこに囚われる事もないですよね?

河上さん:現れて見えへん?電池切れたからそろそろ終わるけどな。(笑)

質問:余計な質問でしたね?

河上さん:違う、違う、それが結果を掴んでいるの。だから勉強出来る子ってそうやねんけど、数学を公式とか見てもね、全然分かれへんわ、なんて思えへんわけよ。そこが大事やね。勉強出来へん子は皆な、もうΣ(シグマ)って出ただけで「分かれへんわ」って。Lim(リミット)って出ただけで分からへんわ。?(インテグラル)って出ただけでもう分かれへんわって、そういう拒否反応があるの。結果を掴むっていう。

 でも例えば数学でΣ(シグマ)っていうたらね、本当やったら30個も40個も書かなあかん奴を、Σ(シグマ)って書くだけで、それ一つで合計ですよって言える位、便利なもんや。本当はそういう、代数っていうんだけど、色んな数字を書かなければいけない物を、仮にAという言葉に書き換えましたよっていうのを、Σ(シグマ)と書いたよ、Lim(リミット)と書いたよとかね、そう書くことによって簡略化が出来て便利やと、たったそれだけやね。

 だけどこれはこういう約束事でΣ(シグマ)って書きますよって言っても、それが分からんて決めつけてたら分からへんね。「?(インテグラル)って言うのは、微分を一杯集めて合計したのを?(インテグラル→積分)って言うんですよ」って聞いてもな、「いや何のこっちゃ?」って、先ず拒否したらもう分かれへんの。たったそれだけやねんけどな、それは数学で言ったらやで。

 だけど真祈りも一緒やね。分からんって言ってしまったら終わりやね。だから「分からん」って言っても、「分かるよ」っていう先生の大オマケの印可書やね。そこが分からんって言ったら、もう終わりやね。自分の自由意志で分からんって選んでるわけよ。自分の自由意志で分からんって決めつけてるの。

 だから自分の自由意志で真祈りが分からんとかね、自分の自由意志で真祈りが出来へんって決めつけてしまったら、もう永遠に出来へんね。だけど、「分かれへんね、出来へんね」って言っても、印可書奉読している時は真祈りにするって、先生が決めて下さったから、印可書奉読は凄い楽やね。

 普通は「宇宙神ありがとうございます」って祈ってたらね、突然、不安になる訳よ。「本当にこれで良いんかしら?」って。なれへんかったら嘘や。それをなれへん位、竹刀を1万回振るとか、色々しないとあかんね。でも印可書だったら淡々と奉読すればスッと行けるようになってるね。
 
質問:数式は分からんと一瞬思っても、印可書は何も思わなかったらそれで良い?

河上さん:そうそう。思っていても良い。思わんでも思っていても、印可書を奉読するだけでプッと真(まこと)の本心の自分に戻れるようにしてあるの。例えばE = MCの二乗って言ったら、Cの2乗って何や?って、みんな引っかかる訳よ。だけど本当はC×CがCの2乗の意味やね。でもC×Cって書くの邪魔くさいから、Cが二つっという事で上に2って書くだけやね。という事は光が二つのものに分かれているという、まあ、これ位で止めとくけどな、

 要するに簡略して書くもんや。で、印可書は真(まこと)の神さまの全てを簡略化してあれに纏めて下さっているっていう事よ。

質問:後、因縁因果の輪を先生が断ち切って下さったっていう事で、

河上さん;そう。だから時間切れになった。

質問:これから積もって来るものは、降って来る雪みたいな感じで

河上さん:いやいや、因縁因果の輪を断ち切ったからな、時間切れになってオマケが無くなった。今までだったら因縁因果でオマケがあるから、悪い事をしてもバレずに死んで、死んでからの世界でどうこうなってとかいう感じで、反省する機会があってんやけど、いよいよ時間切れで因縁因果の輪を切ったから、悪い事したらもろに指腐るとかな、体腐るとかな、病気だったらやで。梅毒のひどいのに成るとかね、いう症状が出たり、病気やったらやで。或いは、突然車に跳ねられて死ぬとかね、色んな運命が噴くね。

質問:後、縁者さんお清めの為に、背負ってるものもあるというのは無いのです?

河上さん:いや、そんなの区別つけへん。何故かって言ったら、縁者は自分やから。

質問:全ては自分?積もって来る雪も全部自分のものっていう?

河上さん:うん。「我が物と思えば軽し,傘の雪」って言うわけでしょう?番傘に雪が積もる訳よ。で、傘が重たくなってくるの。自分の雪やと思ったら、傘も軽いっていうの。

「我が物と思えば軽し,傘の雪」って言うてな。要するに「全て自分」やっていう事や。だから縁者とか区別する必要はないね。だからイエスは人類の全てを十字架で背負うの、全部自分やから。良い悪いとか違うね。ただ、時間切れやから、現れて来る順番があるだけや。

質問:現れて来る順番ってどんな順番なんです?

河上さん:だから反省のない人、印可書を本当に選び切れない人から順番に現れて来る。邪魔やからね、この世的に。消し去られて行く。要するに演技している事にすら気付かずに、演技に没頭してしまっている人は先に引き上げられるというか、消すっていう事。

 私はまだまだ演技してますって分かっている人は、まだましやけどね。演技してるって分かる事は、結果を気にしていない、現実を掴んでいないっていう事や。現実掴んでいる間は気付けへん。結果を気にしている間は気付けへん。

 だから数学で言ったら、「?(インテグラル)分からへんわ」って言った時点で絶対分からへんわけや。何で?(インテグラル→積分)っていうのを書いてある説明を繰り返しね、自分なりに写して写して、初めて分かるものや、本当はな。だけど最初から分からへんて決めたら、それも出来へんね。

 だからLim(リミット)記号なんて、本当は1+2+3+4+5+6+・・例えばね、等差数列で1のやったらそれ、ズーっと書かなあかんのをね、Σ(シグマ)記号一つで書けます、みたいな感じやね。等差数列の和がすぐ出ます、みたいな。そしたら数列同士の足し算掛け算が簡単に出来ますよっていう。数列同士の足し算掛け算を本当に数列レス(無し)で書いたら、ノート何枚あっても足らんのになって言う、たったそれだけやのに、そういう約束事を受け付けない。

 印可書で言ったら、印可書を奉読している時は真(まこと)の本心の自分そのものにするよっていう、先生との神さまの約束事を受け付けない人は、印可書を選べないっていう事や。そこを素直にハイって受けた人は幸せ。「見ずして信じる者は幸いなり」って言っているやろう?それだけやね。

 だけど「あんなん読んだだけで何なるの?」って言ったら、それは何もならへん、自分が選んでないから。約束毎を信じるか信じないかは自由や。だから自由意志で選ばなあかん。

 数学でも一緒よ。全部約束毎やから、あれは。一杯書かなあかんのをΣ(シグマ)という一文字で簡単にしましょうっていう約束毎やからね。代数でもそうでしょう?ax、2x+1とか書くんやけど、本当は一杯数字書かんなんのを、xという言葉に入れ替えましたよっていうだけやね。そうする事によって、x+1と2x+1とか言うのが、簡単に纏めて書けてx同士の計算できますよとか、たったそれだけやねんけども、何でxって言わなあかんのんって言った途端に分かれへん。代数で詰まる人って皆そうよ。

 本当は鶴亀算で書いたら凄いうっとうしいのを、代数だったら簡単や。「何で先に代数を教えてくれんかったん?」って僕なんかは思ったけど、拒否反応を起こした人は永遠に分かれへん。まー、因数分解でもそうやけどな。こんなん言ったら切り無いんやけど、本当はこんなに簡単に書けて、こんなに分かり易くなるんやって嬉しなるやけど。「分かれへんわ」って言うの、みんな。

宮野さん:面白くないよ。全然面白くないよ。

河上さん:印可書はね、最初の先生と神さまとの約束事で受け入れてくれたら済む訳やけどね。

質問:どんな感情でも奉読させて頂けたら?

河上さん:そうそう、それが凄いとこやね。

質問:そこでギブ&テイクの心だとダメですか?それも大丈夫?

河上さん:だからギブ&テイクの人の所に光が行くからね、それでも良いねんけど、先ず自由意志で無条件に選び取れなあかんね。

質問:奉読、基本は淡々と?

河上さん:うん。無条件に選び取って読みだしてね、ギブ&テイクの心が出ても構わないね。だけど最初からこれ読んだら悟れるんか?そしたら悟らしてくれやって言った途端にな、条件ついているからな、まあ、全然読まないよりましやけど、効果は薄いっていう事。

質問:それだとさすがの印可書でも趣旨が違ってくる?

河上さん:いや、趣旨じゃあなくって、自分の心が受け入れてないから。先ず無条件で受け入れなあかんの。受け入れて読みだして、その時にギブ&テイクの心が出ても大丈夫なんやけども、スタートにギブ&テイクの心を入れたら、殆ど受け入れていないわけや。分かる?

質問:そのスタート地点を間違えないようにしないと。

河上さん:そうそう、だから真祈りの全体像(全体図)とはってねって、最初に書いてくださった。真祈りのすべてって書いてある訳よ、具体的に。それを真祈りのすべてって言っても分かれへんやろうから、真祈りの全体像(全体図)って書きはった。それ見て分からんようでは、もうどうぞご自由に。

質問:最後の大マケ、そこを先ずちゃんと把握して奉読させて貰う?

河上さん:勿論。

質問:救ってもらう、大変だからで入ると良くない?大マケだから兎に角?

河上さん:だから救ってもらおうで良いねんけど、無条件に受け入れなあかん。だから印可書読んだけど何も変わらへんとかね、条件付けだしたらややこしくなる。印可書読んで結果を気にするようだと、受け入れかねるわけよ。要するに自由意志で選んでないという事よ。

 自由意志っていうのは無条件よ。人に勧められたら条件ついているやん?だから自由意志で選んでねって言ってるわけ。条件付けたら、もう入口が小さいのね。

 例えば、誰それに勧められて読むとなったら、読んで効果無かったら勧めた人の責任になるだけで、自分の責任に成らへんでしょう?総責任者の立場っていうのも無条件で選んでいるっていう意味や。

質問:自由意志を無条件って捉えると、又、それおちますね?

河上さん:それ本当のもんやから。本当に無条件やから自由意志や。条件付けたら自由意志と違って、誰それの意志や。何々のせいや。「もうあの人のせいでこうなったわ」ってみんな言うやん?

質問:だから神さまが自由意志を大切にされるっていうのは、神さまが無条件だから?

河上さん:そうです。作業しててもな、「誰や、こんなんしやがって。あいつのせいで作業がややこしくなっているわ」とかね、「ここ汚れているやないか、何であいつ、あんなんするねん?」とか言って人のせいにするだけど、違うっていうのが分からあかんね。

 この日常の生活でもね、誰それのせいじゃなくって、結局は自分のせいでそうなっただけの事ばっかりやね。何でかといったら、自分の見てる世界は自分の世界。だから人の世界では無いの。だから汚されてても、或いは、極端に言っても、突然殴られてもね、それは自分の世界であって、相手の世界と違うの。 

 ただ、この現世は色んな世界を重ねて見るから、結果が分からんようになっている。それで色んな人の心をマトメて結果を作るから、余計分かりにくい。でも逆に言ったら、みんなで支え合って神さまの世界を簡単に作れるっていう事や、この現世は。重ねているだけに。だから護摩やね。みんなの心を自由意志で重ねるの、神さまの為にって。

 で、それを皆にして欲しくって、(あっちの世界の人や宇宙人も)ワーって地上に見に来てはるね。もっと具体的には降りて来てはるねんけどな、あんまり降りてっ来てって言うとみんな怖がるからな、見に来てるくらいで止めといて。押し合いへし合いやけどな、本当は。
 
 だから例えばこの世での凄い数学の方がここに来られてもね、恐らく分かれへんと思う。何でかといったら、この世の数学とか科学というのは、分析したのを纏めてどうこうしようという思考パターンやな。で、細かく結果を掴んでその結果を纏めてこうだって言おうとするんだけど、それ過去を掴んで決めてているから、永遠に分かれへん。

 だから物理だったら、結果ばかりを掴んでどうこうしようとしたら、不確定性原理とかな、訳わからん理屈を付けだすの。有るとか有れへんとかな、それ結果から集めてどうこう言うからやな。

 一番有名な物理でボルンの箱っていうのがあるのね。壁を仕切って一つの粒子を入れたら、両方の部屋に同時に粒子が現れるって言うね。でも実際は現れへんね。それを不確定性原理やと、見た時にだけ有るんやと、訳が分からん理屈付けてるんやけど。そんなん物理違って国語の問題や。本当は波というエネルーギーやからね、ボルンの箱っていうのは99%こっちにエネルギーが有っても、1%こっちに有ったら絶対粒子は出えへんね。ただ、今の物理だったら、x線とか当てて粒子を確認しようとするから、外からエネルーギーを与えるから粒子が出るね、見ようとしたら。

 本当はそれだけやのに、見る条件でエネルーギーを与えている事に気付けへんね、自分中心やから。見るのはどんな状態でも自分が正しいと思うみたいな感じやな。

 それは分け隔てて見る分析科学やから。だから空飛ぶ円盤の原理も分からへんのやけど、印可書に全ての答えが書いてあるの。印可書奉読したら分かる事ばかりなんやけど。

 だから光が粒子であり、波であるって言うんだけど、違うねんな。本当はどういう状態の時を粒子って言うか、どういう状態の時は波って言うかというのが有って。だから光と光を交差させても変化せえへん。波の時は、光と見えてる時は波やから、交差しても。ホンマに粒子やったらな、光と光が交差したらぶつかり合って、光曲がらなあかんのやけど、曲がらへんね。

 そしたら粒子の状態にする条件ていうのがある。それがE =MCの二乗っていう公式で出ているんだけど、誰も気付けへん、っていう中々。印可書読んでたら分かるの。それ位

宮野さん:分からへん。

河上さん:(笑)それ位、真祈りの伝授の中に全てがあるんやけどな。突っ込みなしでお願いします。
 そしたら質問も途絶えた事やし、お祈りして終わって良いですか?

質問:その、歪に入っちゃたりするんですか?

河上さん:何が?

質問:肉体が急に無くなったりするのは、歪に入ったりするんですか?

河上さん:暗黒の六日間の話し?はいはい。
 歪に入るんとちゃうよ。神さまが波を変えるの。

質問:次元が変わる?

河上さん:そんなんと違う。物質も肉体も一瞬一瞬新たに現れているの。それって具体的に言うと、例えば超音波ってあるでしょう?超音波を二つの超音波を集めて重ねるとね、その超音波の先で紙が浮くね。超音波で物が持ち上げられるね、軽いもんやったら。それって何かって言ったら、音と音が干渉して波の共鳴する所、共鳴点でエネルギーが出るね、物質が。肉体っていうのは、神さまから来た光の波が共鳴して、肉体っていう形で見えてるだけや。要するに映画のスクリーンにね、フイルム通して光を通すと、絵が拡大して写る訳でしょう?映画だったらフイルム通すだけやけど、この肉体の世界は色んな波を投影して、神さまから、絶対の中心から色んな波が、左旋回の渦巻となって一瞬に舞い降り、舞い昇ってるわけや、一瞬に。その色んな波が来るね。色んな波を重ねて共鳴したとこで物質化したものが肉体や。だから一瞬一瞬新やね。絶対の中心から光が来て戻っている、その色んな種類の光を重ねて物質化させてるね。

 それは実際は太陽からね、原子から、クオークからって順番に入れ子構造で来るんだけどね、最終的には肉体とか石とかダイヤモンドとかっていう形に共鳴点が現れて、ストーブとかいう形に成ったりしているね。もうそれだけや。

 その共鳴させる波動をね、ちょっとシュンって抜いたら、一瞬で全部崩れて消えるね。それだけやね。神さまが色んな種類の波出してくるわけよ。ギターで言ったら共振してパァーっとなる音有るやん?共振させる、ああいう感じ。共振点や、ただそれだけや。

 その安定した形に見えている金なんかは、共振点が多いいからエネルギーとして取り出しやすい。で、不安定な物質、鉄とか錆びるものはね、共振点が少ないからエネルギーとしては取り出しにくいっていうか、値打ちがないね。こんなん喋らしたら終わらへんから、止めよう。大体わかった?

質問:はい。

質問:暗黒の六日間は一瞬一瞬新たが無くなるみたいな感じですか?

河上さん:違う、違う。一瞬一瞬新たは変われへんね。共振点をずらしてこの肉体的な表現が消えるだけ。

質問:波がズレる?

河上さん:そうそう。だから共振点が無くなるから無色透明の輝きや。光でグラデーションってあるやん?いろんな色の光を合わすとグラデーションで出るやん、ああいう感じで出る共振点や。それを全く無色透明な光だけにしたら消えるわけや。プリズムっていうのもそう、中に共振点を変える物があるから、光が七つに割れるね。分かり易く言ったつもりやけど、あかん?(笑)

 それだけ。だから神さまが一旦、真(まこと)の神さまが色んな共振点使って演技して、楽しんでいるわけや。だから言ったら、舞台で演技して楽しんでいるところをね、全部、例えば、王様の衣装を着ているとか、乞食の衣装を着ているとか、キレイなドレス着ているとかあるやん?その服を全部バッと剥した状態や、暗黒の六日間って。

質問:プライドを抜いて光だけになる?

河上さん:せやせや。そうなったら、お互い表面に被ったもん無いから、分かり易いわけよ。そこでも分からん奴は、しゃあないな、みたいなとこや。そこまで無色透明にして、スケスケになっててな、分からへんはずがないんだけど、やっぱり分からんって言うへそ曲がりも中にも居るの。こんだけ言ったらへそ曲がりも来るやろう?暗黒の六日間。

 その(虚栄心という)プライドが有ったら意地でもきいへんのがおるの。理屈抜きにな、意地でも嫌やっていうのがおるの。この世でもそうでしょう?どう考えたってアンタの負けやでって言っても、「いや、意地でもいやや」って言うてするやん?ああいう感じ。それはプライドや。意地でもあいつには負けたくないわとか、意地でもあいつには頭下げへんわってあるやん?どう考えたってアンタのが間違っているって言っても、「間違っていてもいやや」っておるやろう?あれが要らんプライドや。

 要するに自分と他人を極端に分けた意識。本当は全部自分やのにな。意固地になって言うやん?日本語はちゃんと作ってある。意固地って。

質問:もう1点。今、昆虫食が凄く推されている現状が有って、先程、宇宙人系に牛と昆虫と爬虫類と言われたんですけど、関係ありますか?

河上さん:あります。

質問:何で虫食べなあかんのですか?

河上さん:違う、違う。だから例えば牛さん食べるとね、牛さん系の宇宙人の意志に影響されやすい。で、蛇さん食べたら、蛇さんの自由意志に影響されやすい。で、虫さん食べたら虫さん系の意志に影響されやすい。で、真(まこと)の神さまは地球やから、植物を食べてたら真(まこと)の神さまの意識に沿い易い。沿い易いというか、影響を受けやすい。だから先生は牛豚とか肉を食べられなかったわけよ。ハコベとね、オオバコとタンポポとね、白菜とかキャベツとか、野菜しか食べられなかった。納豆とか、納豆違うは、色々あるわ、蜂蜜とか、あんまり言うとみんな真似するから言わんとくけど。(笑)

質問:牛を食べさせたい勢力が有って、虫を食べさせたい勢力があるみたいなイメージがあるのですが?

河上さん:そうそうそう。時間切れやから何でもありで噴いて来てるね。でも真(まこと)の神さまが最強やからな、真祈り最強やから、そんな思い通りにはならんだけや。成らんように今、先にバラした。(笑)

 だってコオロギってあれゴキブリやで。知ってる?コオロギとゴキブリと同じ種類やで。形ちょっと違うけど、種族でいうとコオロギとゴキブリ一緒やね。だからコオロギって物凄く生命力がある。イナゴとは違う。

質問:食べないのが一番?

河上さん:食べないって、もう既に混ざっているやんか、チョコレートなんか。

質問:やっぱり。なんかそんな噂が。

河上さん:心配せんでも混ざっているから。

質問:どんなチョコレートも?

河上さん:いや、録音にあるから、どんな表示になっているかよう言わんけど。ANAの機内食にも混ざっているし、JALの機内食にも混ざっているし、

質問:色を出すために?

河上さん:いや違うよ。だけどな、そんなん分からんと食べているけど、先ず真祈り最強やから、印可書自由意志で奉読してたらな、そんな影響受けへん。

 ただ、出来る人には牛豚は食べるなって先生は仰ったの。要らん影響を受けるから。まだ、爬虫類系の方が神さまの意志に近いから、鳥さんだけは食べて良いって仰った。

 大神(おおみわ)神社でも白い蛇さんが神さまの化身って言うでしょう?それ位爬虫類系の方が神さまに近い。だから爬虫類系に属する鳥さんは食べてよろしいって。

質問:牛を神さまって扱う宗教は・・・、止めます。(笑)

河上さん:もう時間切れやから、何でもありやけど印可書奉読よ。そしたらお祈りして終わります。


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3月勉強会 by 河上 [Mail] 2023年03月19日(日) 19時08分
PC

令和5年3月河上さん勉強会−1(20230312−1)

河上さん:はい、質問お願いします。

質問:河上さんへの質問を3つ預かってかっています。1つ目から行きます。

@神書244 ページ『無知と知恵』の中から、無知について5つ例を挙げられているんですけれど、その中の2番目のことについてお伺いします。『宇宙は神様の全徳の完璧な表現です。マイナスの極からプラスの極に至る、光一元の表現です。マイナスの極から、プラスの極を仰ぎ見て、神さまの光一元の表現を味わうのが最善です。』の中の『マイナスの極からプラスの極を仰ぎ見て、神さまの光一元の表現を味わう』と説かれる箇所の説明をお願いします。

河上さん:ああ、はいはい。だから、虚の世界でのね、プラスマイナスという風にみんな思うわけですよ。マイナスの極と言うとね。その虚の世界のプラスとマイナスって何かと言うと、ギブ&テイクの心です。

要するに虚の世界というのは、ゲームの世界に立ったり、あるいはビデオの世界とか映画とか例えますけど。それって何かと言ったら、すでにあるものが決まってるわけ。100だったら100って。それで、その中で奪い合いやね。どれだけ取るか、ゲームってそうでしょう?どれだけのポイントを相手から取るか。将棋がそうじゃないですか。勝って勝って相手の駒を取っていって、どんどん取る。奪い合いの世界を楽しむわけですね。

みんなギブ&テイクに生きているから、なんでギブ&テイクに生きるかと言うと、もう、こんだけしかないと、在るものは、すでにこれだけだ。それを陣取り合戦というか、石蹴りゲームみたいにね、どれだけ取り合うかだけの中に生きてるわけです。

だからマイナスの極に立つと言ったら、一切何もなくなって、凄い不安に思うわけ。するとその、そんな一切も何もない所から立ってね、プラスを仰ぎ見たって何が分かるねん?ていう感覚になるわけですね。

 何が間違っているかと言うと、虚の世界に立ってるから。だから、真(まこと)の世界という神さまの世界って最初に断ってるじゃないですか、神書にね。真(まこと)の世界って何かと言うと、無限供給の世界。無限供給って何というのは、無限に無限に永遠に、空間で言ったら広がり続ける世界ですね。限界がないわけ。常に必要なものが完璧に与え続けられている世界なわけですよ。その中で、必要なものが完璧に与えて続けられている世界を、時間軸である程度広げて見るとね、順番に完璧なものが与えられていく感じになるわけですね。

 だからお家を建てる時を、思ってください。お家が完全に建った時が、まあ完成だと。だから最初、地ならしから始まるじゃないですか?地ならしでも基礎作りでもね、お家の形になってないから、ある意味凄い、「こんなんでできるん?」ってみたいな感じでしょう?それがいわゆるマイナスの極の側ということです。たったそれだけなんですけどね。

 要するに現実を掴むなって先生はおっしゃってるわけですけどね。「今、こんだけしかないじゃないか。」って文句を言ってしまったら、もう何も始まらない。先生は回転ずしに例えられたりするわけですけど。今、目の前に来たものを喜んで受け取っていたら良いんだよっていうね。またクルクル回って来るじゃない。なのに「もう、今取らないと全部無くなる。」と思って、みんなね、するわけでしょう?そういう感じなんですよ。回転寿司だと分からずに。まあ回転寿司は同じものが回りますけど、神さまから、どんどん新しいものが来るということです。

だから、次から次に新しいもの、素晴らしいものが来るんだから、それを受け取っては表現して楽しんで、受け取っては表現して楽しんでってサラサラと受け直せることをね、マイナスの極に立ってって言うの。それを別の表現で言うと「文句を言いなさんな。」五井先生の表現で言うとね、「文句を言いなさんな。」僕の表現で言うと、神さまが一番良いようにしてるんやから、「それを喜んでたらええんや」っていうことですよ。

 だけど、今のすがたを掴んだらね、不完全じゃないか?でも日本人というのは本来ね、不完全なすがたを、不完全じゃなくて完璧だというのは分かってるわけね。だから七五三っていうお祝い事があるわけですよ。三つになったら、健やかに三つに育って良かった、五つになって良かったな、七つになって良かったってね。それで十五歳で元服になって良かったって言って、喜ぶわけでしょう?

その形だけ、すがただけ、結果だけ見たらね、三つの子は何もできないじゃないですか。五つの子は三つの子よりはできるけど、まだまだ子どもだってね。外人さんだったらそう思うわけよ。結果を掴む世界だったら。

 でも結果を掴むんじゃなくて、一瞬一瞬新たに喜び続ける世界なんです、神さまの世界というのは。だから不完全という感覚がないんですね。不完全という感覚は何かっていうと、自分と他人を分けてね、比較区別すると不完全なんよ。でも全部自分だから不完全なところはないのよ。それは人間の体でいつも言うけどね、大腸のすがたをとってね、自分と一つになってる時は、うんこ臭くないんでしょう?外に出した途端に不完全に思うんでしょう?でも不完全じゃなかったんでしょう?完全なすがたとして要らんものが外へ出ただけで。お腹の中である時は要るものだったわけです。一つのうちは、要るものがね、一つのうちは不完全なものはないの。

でも一つのうちの一部分だけ見たら不完全よ。人間の体で言ったらね、右利きの人だったら、右手器用だけど、左手不器用じゃない。不完全でしょう?左利きの人だったら、左手器用だけど右手不器用だって、不完全でしょう?でもどちらも必要な働きなの。

 いつも言うように耳かきの働きが要るというようにね。でも耳かきの働きしかできないんだって思った途端にね、マイナスの極に立ててないの。マイナスの極に立つというのは、すべてのすべてに立つということ。

 だから、この世的な現世的な虚の世界の感覚でいうとね、マイナスの極というのは、小っさい小っさいとこに、不完全なとこに立ってどうこうっていう感じなんですよ。そうじゃなくて、マイナスの極というのは本当はすべてのはじまりのところなの。天之尾羽張(あめのおははり)部分なんですね。スタートのとこなんですよ。そこから始まるというね、はじめの部分なんですけどね。端観え(はしみえ)になって、尾羽張(おははり)になって展開していくだけで。それが一瞬一瞬新たに、だから「一瞬一瞬新た」が分かるとマイナスの極は分かるわけよ。要するに一瞬一瞬マイナスの極に立ってるの。だから喜べるの。

 でも、比較したとこに掴んで立ってたらね、何事を見たって文句が出るだけ。嫁がこうだ、旦那がこうだ、子どもがこうだ、息子がこうだ、とかね。みんな、もう文句を言ってるわけでしょう?自分の思い通りにならないって言って。その自分の思い通りになるということが間違ってるというのが分からない。神さまの御心のままに動くことが素晴らしいことなのに、神さまの御心を信じ切れないから、神さまを信じ切れないわけでしょう?

 だから自分の思い通りにすることの方が正しいと思うわけよ。それで自分の思い通りにしたいと思うだけ。

 でも本当は、例えば自分の子供だったらね、本当は神さまは、この体験をさせないとこの子はダメなんだと言ったら、そういう体験をさせるわけですよ。それは先生の表現で言うと、親に売られる子どもでもね、必要だった体験だって言うわけ。でも世間と比較対照したら、「私は親に売られてしまった不幸な子だ。」ってなるわけです。

 でも本当に神さまの御心を信じ切れたらね、全知全能の神さまがね、どの人にとっても、その人にとって一番良いようにしかしてない。それを、その全知全能の神さまの御心を知るところがマイナスの極なの。だから映画で言うと、切符を買うとこ、入場券を買うとこがマイナスの極よ。入場券を買うとき映画も何も分からないでしょう?ただ紙切れ1枚よ。入場券紙切れ1枚どないすんねん(一枚の紙切れで何ができるの?)って文句を言ってるようなもんよ、みんなね。

 でも、ちゃんと無限供給があって、無限に一瞬一瞬新たに展開するから、本当は喜んでいたら良いだけなの。喜べずに「映画の切符1枚や。」って言った途端にそこから動けないから苦しみになるの。ということをマイナスの極に立つって言います。はい、ありがとうございます。

質問:3月の護摩焚き前日に、お祈りの部屋でのお祈りに参加したのですが、5分間のお祈りを先導される何人の方が、八拍手を打たれていました。少しエッと思ったのですが、皆でお祈りの部屋でお祈りする時に、八拍手を打っても構わないのでしょうか?自分も神社や、護摩焚き会場では当然のように八拍手を打たして貰っていますが、お祈りの部屋ではなぜか、エッと思ってしまいました。

河上さん:はい。感覚的に鋭い方なんでね。ここで八拍手を打つ厳しさを知っておられるから、エッと思われてただけです。それはそれで良いですよ。

 でもみんな自由意志ですから。そして総責任者の立場に立ってるわけで。村人に限らずどの方もね。先生に縁のある方はね。だから総責任者の立場に立ってね、このお祈りに集まった、人類のすべてのマイナスを自分が背負って消すんだって覚悟があって打たれたわけで、それはそれで素晴らしいことです。

 いつも言うようにね、結果を気にしないことですよ。例えば背負って八拍手を打って、真祈りができていると自分で思ってね、自分で思った時点で崩れてるんだけども、それでも良いんですよ。自分で思ってすれば良い。それによって色んな体験が積めますからね。

 また、結局八拍手をここで打ちたくなった人は、そういう体験を積む必要があるから打つわけで、わざわざ打たない方が良いって言う必要もないです。

 みんな、それぞれ自分の好きな運命を自分の自由意志で好きに選んでいくわけで。だから先生のお部屋に人類のマイナスの一切を集めているわけですけど、僕が行かなくてもね、行って(自分が人類のすべてを背負って消すんだと思っていなくても、そうなっていくんですけど、先生の部屋でお祈り)されてくださる方がいらっしゃるんで任せてあります。

 それが本当に真祈りできて消えるか消えないかは本人の自由意志ですから、どうこう言う必要もないんです。

 ただ、お清めというのは真祈りだけです。真祈りというのは、自信のない方はね、印可書奉読以外では無理です。それは説明しておきますけどね。要するに真祈りとは何かと言ったら、すべてのすべてに立つことなんですよ。全体に立つということなんです。「みんなの心に真(まこと)の神さまを立てる」とか、色んな表現をしますけれども、すべてのすべてに自分が立つ、真(まこと)の神さまとしての自分が立つということなんです。それっていうのは、地図で言うとね、全体の地図を見て初めて分かるわけでしょう?すべてのすべてが。町内地図を見ていても分からないじゃないですか?そういう意味での全体の地図というのが印可書なんですね。

 だから印可書の冒頭に先生がちゃんとね、「真祈りの全体像とは、全体図とは」ってはっきりと答えを書いて行かれたわけです。それを見て分からないくらいの真祈りの受け(取り)方(しか出来ない)の方(かた)でもね、自分が真祈りできると信じて、おやりになることは素晴らしいことなんです。

 もうお祈りなんて全然ダメだという人から比べたら凄い素晴らしいことですから。それぞれの自分の受け取る範囲のお祈りをされてね、それぞれの体験を積まれたら良い。体験を積まないとね、分からない人は積むんです。

 「見ずして信ずる者は幸いなり。」ってイエスが言うわけで。体験せずに分かる人が一番幸せなんだけでも、体験しないと分からない人は体験したら良い。

 お料理で言うとね、色んな味のお料理を味わわないと、美味しいものを作れないんですよ。中には激辛があるわけでしょう?激辛って分かってたら体験することもないけども、やっぱり体験したい人は食べてね、胃が痛くなったとかね、体験して分かるわけね。そういう感じになってますから、体験しないと分からないと思ってる人は体験するの。誰も止めれないし、みんな好きにします。それで良いんですよ。

 それぞれ、本人の自覚するしないに関わらず、総責任者の立場に立ってるの。だから神さまが自由意志を与えて好きにさせているの。それだけです。

 だから、それを一々どうこう言う必要もないし、止める必要もないです。みんな、すべて自分の責任において、自分がすべて背負っていくだけなんです。泣いても笑ってもね。

 「自分は、そんなん背負う気はない。」って言ったって背負うの。だから例えば、「あいつ怠けてる。」って言ったらね、相手の「怠けてる」を背負ってあげてるわけ。大きな愛の心です。だから是非、「あいつはズルい」と言って責めてください。そしたら相手の「ズルい」を背負って消してあげられますから。(笑い)ありがとうございます。

質問:はい。ありがとうございます。三つ目いきます。

確か、八拍手の伝授があったのは2022年の10月だと思います。その翌11月の護摩焚きで初めて2度目の護摩が奥で始まったと言われました。その護摩焚きの際、護摩会場で何パーテイーかが初めて、印可書奉読の後、八拍手を打っていました。奥で再度護摩焚きが始まったのと、八拍手とは何か関係があるのでしょうか?

河上さん:直接的には関係ないです。ただ、あの頃からね、本当にみんな護摩に対してね、真剣になったわけですよ。護摩に参加する方全員がね、真剣に「護摩が凄いことなんだ。」って実感できてきたのね。実感し始めたの。それで大きく変わってきたと。その結果として、八拍手したくなる人は打つし、色々あるわけです。ただ、八拍手という形で、先生との働きそのものをできるという、実感が得られやすいのでね。八拍手、あの時は、10月は、お伝えしたわけですね。

 結局、自分は関係ないんだって、どこかみんなあるわけよ。護摩に参加してもね、自分のお祈りなんか関係ないんだっていう部分が、どこかにあったわけですけど。ちょっとずつ、その自分の小さいお祈りも必要なんだって分かってきてくださって。結局、具体的に自分も参加してるって分かってくるわけですよ、感覚以上にね。その中で八拍手をお伝えして、色々なことがあります。

 どれもこれも、なんて言うんかな、僕がなんぼ言ったってね、みんな好きにしかしないから。それで、その好きにした部分が、自分が責任を持ってした部分なんです。ただそれだけなんです。

 何を言ったって、みんな好きにするやん。それでしたことは自分で責任を持ってしたことだから、あとは、それを不安に思うんだったら印可書奉読してね、真祈りに変えていけば良いだけ。だから何をしても良いけど、真祈りに変えていけば良いの。そこが大事なんです。何をしても良い、そしたら人殺ししてもいいんか、ってなっていくんだけど、(本当に真剣に命がけで神さまにすべてを捧げるという)真祈りに変えていってたら人殺しまでいかないのね、本当は。だから真祈りしてたら、何しても良いんですよ。でも真祈りしてたら、本当に神さまの御心通りしかしなくなっていくんでね、大丈夫なんです。

 ただ、それが入れ替わって、先に好きにしてしまうわけですけど、みんなは。真祈りする前にね。でも好きにしても真祈りに変えていけば良い。なぜなら、印可書は時間空間を越えてますから、いつでも印可書を選んだ時点ですべては変わる。それが分かれば、なんて言うんかな、一人拗ねることもないしね、不安に思うこともないんですよ。いわゆる、マイナスの極に立てるの。

 結局ね、マイナスの極に立ちなさいと(いわれると)、みんな不安なんですよ。そんなとこ立ってどうするの、みたいなね。

 だけど、そうじゃなくて、本当に一瞬一瞬新たに神さまの愛を信じ切れたらね、印可書奉読をしてると信じ切れるわけですけど。神さまは良いようにしかしてないと分かってくるからね、大丈夫なんですけどね。

 結局、色んな宗教でも、宗教に入ってない方でも一緒なんですけど、みんな自分の好きな神さまを自分が作って、好きに生きていくの。だから別に宗教って言わなくてもね、「おれ、タバコ吸うの好きや。」っていう人はやっぱりタバコ教なんですよ、分かる?「お酒飲むのが大好き」っていう人は、お酒教に入ってはるの。全部一緒なの。その好きにする中で、どれだけ神さまの御心に、真祈りに変えていくかです。それを印可書というラクな形でね、先生が示されただけで。それも選ぶ選ばないは自分ですから。印可書を読めば「見ずして信ずる者は幸いなり」の世界に入っていけるわけですよ。

 読めない人は、ある程度体験しながらね。でも体験したら、確固不動たる体験だから戻ることはないからね、それはそれで。だから一度は楽しみたい地獄のアトラクションですから、行きたい人は行くべきだしね。ほとんどの人は、「もう地獄のアトラクションは懲り懲り。」って言って集まった人ですけど、行きたい人もありますし、どれもこれも自由です。どの体験もその人にとっては必要なものだっていうことだけは分かっていてください。

 だから、あの人はあんな宗教入って、オウムの事件の時のようにね、あんなことになってしまってと言うけども、どれもこれも、その人にとってはね、その人の魂にとっては必要な体験だったわけですよ。無駄なことは一切ないのは間違いないです。だから、それだけは分かってください。

 ただ、その無駄なことをわざわざ体験しなくても、印可書奉読すれば、「見ずして信ずる者は幸いなり。」の世界に入れるからね、できたら印可書を自由意志で選び取って奉読してくださいってお願いしています。次お願いします。

質問:以上です。ありがとうございます。

河上さん:ありがとうございます。質問あります?はい、どうぞ。

質問:ありがとうございます。質問が5個以上あります。原文のまま読みます。
 暗黒の六日間、真っ暗の中で生活はどうなっていますか?それが終わったら今の生活の続きができますか?

河上さん:できません。暗黒の六日間ですから、飲むことも食べることも何もできない。只々、手探りでウロウロしてるだけです。まったく漆黒って言って、まったく見えない。だから、その中の真祈り人が光るんでね、みんなその灯かりを頼りに寄って来るの。正確に言うと、みんな真祈り人の体の中に入ってきます。入れてあげてください。拒否せずにね。それで、ちゃんと真祈り人は、どこに集まるべきか分かるから、集まって一つになって、っていう感じになります。良いですか?

質問:はい。

河上さん:あんまり細かく言うと怖がるからね。さらっと。はい。
 その時のために食べ物を用意しておいてもね、真っ暗やから分からへんのよ、どこにあるか。そうでしょう?目の前にあったって、まったくそこにあるって分からなかったら。そういう時は手探りにしたら、ちゃんと食べ物が逃げるの。漆黒の闇ってそういうことなの。手探りしても全部逃げてしまって、何も手に取れないのが漆黒の闇。

宮野さん:ちなみに、「自分の中に入れてあげてください。」っていうのは、どのような形で入れてあげるんでしょうか。

河上さん:だから嫌だと思わなければ良い。いや、こんな人嫌やわ、って思わないように。

宮野さん:でも漆黒の闇やから見えへんでしょう?

河上さん:いや、見えへんから余計感じるの。その感覚、何?相手のこの…

宮野さん:気配?

河上さん:気配や。こんな息の臭い人嫌や、とかね。こんな体臭の臭いのする人嫌だ、とかね(笑)

宮野さん:漆黒って何も見えないけど、においはするんですか?

河上さん:そうそう、だから真祈り人の光が見える。で、みんな縋ってくる。結局はもう、神さましかないんだと思って縋るわけ。その時に神さますらないって思えた人はね、無間地獄っていう、まっくらのとこへ降りていけます。みんな自由です。でも大概はね、明るい方へ来るけどね。

 その時に、みんなが集まりやすいように、色んな色のついた光が要るわけです。要するに耳かきの光も要るわけ。耳かきの光でないと来れないひともあるの。あんまり眩しかったら来れないのね。だから耳かきの働きが要るの。だから「私の祈りなんてちょっとだから…。」で良いのってのが分かったら大きな働きになります。

 だから、みんな結果を掴みすぎるんよ。神さまが一番良いようにしてるから、その人にとって一番良い形のものを神さまは与えてるわけで。この世的な結果を掴んだ物言いをしたらね、なんでもできる器用な人が優秀ってなるんだけど、そうじゃないから。それが先生の言う、ジグゾーパズルの例えなんですよ。ジグゾーパズルで、真ん中の絵の部分というのは、凄い大事、大事って言うか、ねえ。だけど、この端っこの空のところなんて、色がほとんど一緒でね、あってもなくても、どうでも良いようなもんだけど、ジグゾーパズルで言うと、そのピースがないと完成じゃないんでしょう?それを先生はおっしゃってる。

 ただ、あの時に、パズルの大きさが、大きい小さいがあるって言ってくだされば良く分かるのにって思いながら聞いてたの。ねえ、ジグゾーパズルってほとんど同じ大きさやからね。

質問:預かってきている質問が2点あります。

1点目。「神さまのために」と「神さまと共に」っていう違いを教えてください。

河上さん:違いは本当はないんですよ。ただ結局ね、「真(まこと)の神さまは、真(まこと)の本心の自分」でしょう?不離一体なの。でも不離一体だと言われても、こう違和感があるでしょう?みんな。だからまず、神さまのために生きる、神さまのためにおトイレする、神さまのためにごはんを食べる、って、まず「ために」ってして。それでもうちょっと進んだら、神さまと共にお仕事をするって言って進んで。それがもっと…あとは説明できないから、それでしていって頂いていたら、要するに素直に印可書を奉読してたら、もう神さまと一緒の自分、神さま本来の自分というが実感できるわけです。

 そこは説明のしようがないから。説明がしようがないのを先生は印可書にしてくださった。全体像とは、全体図、要するに全体図を、すべて真(まこと)の神さまって先生はおっしゃるわけでしょう?みんな光やっておっしゃてるわけよ。でもピンと来ないでしょう?

 それって全体像全体図が分からないからよ。その全体像全体図としての大きな地図を俯瞰図の地図をね、印可書で先生が示してくださったから。その地図を見てたら、自然に全体が分かる。

 地球儀もそうでしょう?ここに南極があるなあ、ここに北極があるなあって、行ってないけど分かるわけでしょう?印可書はそれなんです。だから素直に奉読してると、不離一体の自分になってるわけ。

質問:ありがとうございます。もう1点です。

最近、この世的に良いことがあっても素直に喜べなくなりました。そのことに対してアドバイスをお願いします。

質問:それって因縁因果の世界の中でね、良いことがあったら次に悪いことがくるから、素直に喜べないんだと思うんですけどね。だから、ギブ&テイクの世界にね、今日最初に説明したように、やっぱり、お金で言ったら、100万円しかないんだと、それを100人をどうして分けるかみたなという世界にみんないてるわけですよ。

 いつも言うように、100人の人に100個のあんぱんを神さまは、ちゃんと用意してるのね。みんな1個ずつのあんぱんで喜んだら良いのにね。100個しかアンパンがないんだから、明日のために、私二つ三つ確保しときましょうってやるわけよ。それでややこしいことが起こるんだけどね。何時も何時も必要な時に必要なだけ、神さまは与えてくださるということが、信じ切れないうちは不安なんです。すると良い事が起こっても喜べない。それだけです。だからまず、神さまが全知全能でね、なんでもされる方、一番良いようにされておられるんだということを、いわゆる、「絶対の信」っていうわけですけど。

 五井先生で言うと「文句を言いなさんな。」「文句を言いなさんな、喜んで祈っていったら良いんだ。」っていうとこですけども。そこを信じ切れるようならなくちゃいけないんだけど。それは理屈で聞いたら、「ああ、絶対の信、立てなあかんねんな。神さまが一番良いようにしてんねんな。」って理屈では分かるけどね。実際の生活に入ったら分からへんのよ。事故に遭ったし、とか、怪我したしとか、あるいは、宝くじ当たってしまったしとか色々ありますけれども。でもどの状態に立っても、この現世(うつしよ)の世界といっても、1番良いようになってるっというのが分かれば良いのね。

 それをまあ、いよいよ時間切れになってきたんで、数式にも残してと思ってますけれども。それは、この前の護摩で言ったようにね、本当にこの虚の世界といえども、一瞬一瞬新たなんです。それが分かったら不安がないのよ。でも、「一瞬一瞬新た」がないと思うから年を取るしね。色々と不安になるんよ。でも本当は一瞬一瞬新ただからね、ごはんを食べてもお腹空いて来るんよ。だからまた、新しい美味しいものが食べれるの。一瞬一瞬新たじゃなかったらね、今カレーの美味しいのを食べたら、もうそこから次に何も食べられへんねんで。大変やで。

 だけど、この世といえども、ちゃんと神さまの愛でね、一瞬一瞬新たを自覚するしないに関わらず、体験できるようにしてるの。それで、年もとれるの。年取れるからね、色んな楽しみがあるわけよ。若い時は若い時の服装もできて、ヤンチャもできてね。年を取ったら年取った時の体験ができるように、一瞬一瞬新たに新たに神さまはしてくださってる。

 だから五井先生は「喜べ。文句言いな(言わないで)。」って言うしね。あるんだけど、只々それだけです。まずその「一瞬一瞬新た」のところなんですよ。その「一瞬一瞬新た」をね、理屈抜きに分かるのが印可書奉読なんで、印可書奉読でお願いしてますけど、別に自由意志ですから、みんな色んな方法をされたら良い。

 昔は厳しくてね、その竹刀を一万回振るとかね。その竹刀を一万回振るというのは、何かというと、振ってる自分も消えてくるの。すると、「あ、一瞬一瞬新た」というのが理屈抜きに体にしみ込むんですよ。
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令和5年3月河上さん勉強会−2(20230312−2)

河上さん:無我夢中で仕事をするとかね、無我夢中で逃げてきたとかいう時は、もう何も考えていないし、ワ―ってやっているわけでしょ?それが本当の一瞬一瞬新たなんですよ。火事場の馬鹿力もそうじゃない。もっと大事なものを下げてきたらいいんだけれど、重い火鉢を下げてきたとかね、あるけど。それでもその重い火鉢を持てない物が持てるっていうのは、一瞬一瞬だから。常にそういう体験ができるようになっていてね、一瞬一瞬新たが分かるように分かるようになる時が来るわけですけれども、時間切れなので印可書で一瞬一瞬新たがわかるようにしています。

 一瞬一瞬新たが分かるとね、自分でつまらない神さまを作らない。そしたらお酒大好きとかね、女大好き、男大好きとかね、色んな自分の苦しみが消えるの、いちいち掴まないから。勿論、楽しめる時は楽しむのよ。わざわざ逃げることはないんだけれども、だからといって又、したいとは思わない 。何故、またしたいと思わないかっていうたら、次から次へと新しいものが来るって分かっているから。みんな新しいもの好きでしょう。ね?なんでも飽きるやん。

 それは次から次へと新しいものが来るの分かっているからや、無意識に。もうこれしかないんだと思ったらね、もう掴んで離さないし、大変なこっちゃ。で、不自由で苦しいしね。

 で、みんな死んだら楽になるって思っているけど、死んだあっちの世界っていうのは天国といえども、地獄といえどもね、その変わらない世界なんですよ。 で、苦しい。 天国というのも苦しいの。だから楽な生活がずっと続いてまた苦しいのね。それでて天人五衰(てんにんごすい)っていう言葉があって、五劫という長い時間が過ぎたらね、天国で住んでいる人でも落ちて行ってしまうって言うんだけれども、それは同じことの繰り返しだから。

 唯一この地上だけが先のわからない世界、いよいよ本当の事をどんどん言っていますけれども。それは色んな人のスクリーンを重ねるからなんですけども。この地上に肉体を持って生まれてくるのは、今の宝くじの一等賞3億円かな、今ね、5億かな、当たる位の確率なんですよ。そうして持てた肉体だから、是非、真祈りに使うべきなんですけどね。みんな自由意志だから好きにしたらいいけども。それでみんな肉体に縁のある人は、みんなこの地球という映画を見ているわけです。で、地球という映画の映写機がみなさんの肉体だと思ってください。皆さんの肉体が印可書を響かしてくれたら、もう全宇宙が変わります。

 宇宙人も、もういよいよ耐えかねて、もう全部が地球を注目している状態です。いよいよ時間切れですから、本当あっという間だからね。で、今日は今にもこの地震が起こりそう、前の山崩れそうで、ちょっとあれやったんですけれど。急に不安定になったんですけどね。何があったのか知りませんけれども。どれもこれも真祈りそのもの、印可書を奉読をしていてください。自分で不安に思うことがあってもいいです。不安に思っても印可書を奉読されていたら大丈夫。そういうお役目をもって皆さん生まれてきていると、思っていて下さい。

 だからどんな宗教に入っておられてもね、その如何に自分の信じる神さまが不自由な神さまだって気づいてくるしね 。

 気づいてきてもわざわざ辞める必要はない。そこの宗教入ってる方の縁をたどって光を送る必要がありますからね。まあ辞めたかったら辞めてもいいけどね。それは自由意志だけれども。わざわざ辞めなくても、それを通して光を通せば良いだけです。

 それぐらいね、皆さんが思っている宗教っていうのは、どれも(そこの)神さまというのは不自由なんです。まあオーディオの世界で言うとね タンノイ教、JBL党 とかね、 アルテック教とかね、それぞれみんな好きなマッキントッシュ教とかね、好きなアンプとかスピーカのメーカーの、宗教の信徒さんになるわけですね。それで好きなのを選んで聞いて(おまえとこの音はたいしたこと無いと)お互いに文句を言い合うみたいな感じですね。

 だからカレー好きの人とね、カレー好きでない人との喧嘩しているようなものです。どれもこれもどのような場合でも、大好きっていうのは、そういう宗派に入っているみたいなものです。大好きだから入る、自分にとってね。

 でももう「真祈りの全体像とは、眞(まこと)の神さまの全体像とは、全体図とは」と、言い換えてもいいぐらいです、印可書は。だからもう印可書の奉読ですべては解決します。ありがとうございます。

質問:悟ってから落ちたら大変って河上さん言われたことがあると思うんですけれども、何故悟ったら今度落ちたら大変なんですか?

河上さん: ほんとはね、悟ったら落ちないの。落ちることはないの。真(まこと)の世界に戻ったら二度と他の世界に行かへんね。何故かというとすべてのすべてに立っているから。行くとか行かないとかじゃなくて、すべての全てがわかっているから大丈夫なの。

 ところが今回時間切れで、先生が「全員連れてこい」って言うから、もう全員連れて行くわけ。無理やり悟らすの、はっきり言うと。悟りというのは本当はね、自分から悟ることはないんですよ。神さまが引き上げるだけなの。ただ一切の囚われがなくなったからって言って、引き上げてくださるの。それが囚われのあるまま今回は引き上げるの、もう時間切れになったから。勿論自由意志で印可書を奉読しててくださればね、囚われなくなるから大丈夫なんだけれども、その奉読が少なくて、まだ囚われのある人でも無理矢理連れていくわけですね、今回は。で、連れて行くと、真(まこと)の世界であれば本当に絶対の自由が与えられるわけです。そしたら自分の好きなところへまた降りていくの。それで大変なの、っていう事です。

 折角綺麗にしたのにね、わざわざ汚しに行くわけ。要するにちっちゃい子がね、泥んこ遊び大好きでね、でお母さんが「またこんなにどろんこにして」って綺麗に洗ってあげるわけでしょう?でもまた大好きだ言うて、遊んでくるわけよ。「あんたはあかんな」言うて、何遍も洗ってあげるわけですけど、今回最後の最後なんでね、次、降りていくのはもう止めない。するとおまけがないんでね、大変なの。

 でもやっぱり体験しないとわからん人はやっぱり体験したいからね。神さまも勿論止めないしね、なるわけですけれど。折角ね、折角大おまけで行ってんねんから頼むでっていう。それ僕の方の勝手な思い込みです。お願いやから折角大おまけで来たのに、なんで降りるん?みたいな、頼むから降りんといてえな、みたいな。降りずにいててくれると嬉しいんだけれどもみたいな。それだけです。

 だから何を言ったって降りる人はおります。それは浮気するなって言ったってする人はするわけでしょ?お酒飲むなって言ったって飲む人は飲むやん。タバコ吸うなって言ったって隠れて吸うんでしょう?それぐらい囚われというものは、そういうもんなんです。

 自分の自由意志で選んで掴んじゃっているから。何故かと言うと例えばお酒だったら、もうこのお酒飲んだら次もうないんじゃないかっていうのがあって、次から次へと飲むの。タバコも一緒。それから浮気も一緒よ。この女行ったら次もうないから、又、っていって、結局ひたすらね、これしかないと思うから苦しむの。

 でも神さまからはもっと良いものがどんどん与えられるのね。もっと良いものが与えられているのに、これが一番良いって掴むから、分からなくなる。掴んだらあかん。さらさらと喜んでたらいいのね。喜べないのよ。例えば激辛カレーを食べてもね、もっと凄いのがあるんじゃないかと言ってもっと辛いカレーを食べに行こうとするね。その体験で喜んでいたらね、そこで終わるの。

 そういう感じでね、タバコでももっと吸うたらもっとこう良くなるんじゃないかとかね、お酒でも、もっとのんだらもっと気持ちよくなるとかね、そのもっともっとがあるの。喜べないの。体験した時に喜んだら、もうそれで終れるん。そしたらちょっと体験ですむのにね、喜べないから余計余計。

 だからあの遊園地で言うと、だんだん凄いジェットコースターになるんでしょう?昔のジェットコースターって、まだ今から見たら昔のジェットコースターなんかおもちゃやない?ドンドンね、それ喜べないからよ。喜べないから、より怖いジェットコースターが人気出るわけでしょう?例えば。で、ゴム紐つけて飛び降りるんやろ?ジェットコースターに飽き足らずに。それで喜べたらいいのにね。

 だから神さまが何時も一番良いようにしているって喜べたら良いねんけれども、もっともっとって思う、掴んだ途端に。で、掴んだ事も気付かんのよ。

 だから本当はね、ちゃんと印可書を奉読していたらね、どうしても旅行行きたい人は一度行ったらもう納得して次行きたいと思いへんね。だけど印可書奉読せずにね、要するに真祈りせずにやりたいことをしてたら、もっともっとってなるわけ。限りないもの、それは欲望。井上陽水の歌にありますけれども、本当に限りなくなるの。

 それはね、真(まこと)の世界へ行くと、もう絶対の自由を与えられるから、その限りない欲望が本当に極端に出る。だから本当に極端に降りていっちゃうからね、もったいないなーと思うだけで、今から喜ぶ練習をして下さいね、という事で言っています。ありがとうございます

宮野さん: 以前ですね、護摩の会場で話をする事というのは大変な事であるていう風に、

河上さん:大変です。

宮野さん:言われてましたね?護摩が始まってから話をされていることを、自由意志なのでどのような形で過ごされているのかは、それは分かりませんが、今回のことは護摩の後の質問とかなんですが、結構不思議な質問がありましたよね?今回。物質の話だったりとか、

河上さん:いや、必要であるんよ。

宮野さん:なんですが、

河上さん:不思議でも必要である質問だからいいやん。

宮野さん:良いんですが、みんなの大事な時間の中でね、聞きたいっていうのは。例えばみんなは真祈りをしたいのに、なんか自分の心の中がさわさわする、何でこんな集中できへんのやろう?お祈りせなアカンと思ってるのに、できへんとか、結構苦しんだり、考えたりされている方の中で、質問までに言うわけにはいかないしっていう中で、ああいうのがあると・・・

河上さん:でもね、色んな真祈りの(人が)護摩の会場に来ているのに、色んな欲望が湧いてきたりあるわけでしょう?それは縁者の人がたくさん来ているからね、それだけなんですよ。だから本当にどの状態でもね、今が一番良いようになっているのは間違いないの。だから一生懸命印可書を読んでいるのにね、どうしてもお酒を沢山飲みたいとかね、女行きたいねんとか、男行きたいねんとか、もうお金一杯欲しいねんとか、ってなるわけですけれども、それは縁者のものなんですよ。

 でもここが大事なんですよ。結果を掴まずに、出た欲望を喜んでいたらいいだけなんですよ。それを実行に移す必要はないからね。喜んでいたら消えるね。そうやけどどうしようと思ったとたんに掴むからね、実行しないと納得しなくなるね。

 ここなんですよ。真祈りというのはサラサラとなんです。だから映画見る時はね、その画面の中で何をしていてもね、それと同じことをやりに行こうなんて思わないでしょう?さらさらと受け流して楽しんでるから。あの状態がいるの。テレビ見てもね、テレビで色んなことがあるやん?詐欺にあってはるとかね、詐欺しよったとか、人騙したとか演技してるわけでしょ?それをサラサラと見ているだけで、自分も同じように詐欺になろうとか、人を騙そうとかね、人を殺そうとか、人を悲しませようとか思わないじゃないですか。ね?

 それ一緒よ。印可書を奉読していると縁者の人の思いが一杯来るから、自分の中が映画館になるの。それをサラサラと流してたらいいの。そしたら済むんだけれども、こんな欲望出てどうしようって掴んだとたんにな、もう大変なっていくね。

 だから、どうしようどうしようと思う毎に印可書に立ち返ってたら、だから印可書は楽なの。もう、どうにもならんねんけど、奉読だけはできるからな。そしたらなんとかなっていくわけや。今までやったら「宇宙神ありがとうございます」「ありがとうございます」でも唱えてなさいなんだけれども、唱えてたって不安でしゃーないわけよ。

 何故か言うたら簡単すぎて。でも全体図、全体像というね、大きな地図として読んでいたら、考えている暇がないねんな、次から次へと読んでいくとな。それでなんとかなる。

 そういう意味で先生が苦労されて命に代えて出された印可書ですのでね、色んな意味でそういう時は印可書読まれたらいいの。だからこの前の護摩の時でも僕らで行くまでにね、雑談で一杯の状態に会場がなったわけですけれども、ああいう状態も作る必要もあったからなったわけ。しょっちゅうする必要はないですよ。でも偶々そうなったから、ちゃんと神さまは利用してね、そういう状態を作ってより、大きな護摩の会場という形に作り変えられたんで、それはそれでいいんですよ。(でも)わざわざ雑談する必要ないんですよ。

 だけどこの前はちょっと色々と、本当に色々大変で行くのが遅れたわけですけれども、会場で雑談されていたのもそれはそれで大丈夫です。でも常に常に後で「あっ、しまった」と思ったらね、気づいたときは印可書奉読して立ち戻られたら大丈夫です。その手遅れは無いんです。

 ただ、この現世的には実際に津波や地震が起こる前に起こる前に終わらしたいから、たくさんの奉読をお願いしますと言ってます。もう起こってしまってからでも手遅れではないですけれども、大変は大変だからね。そういうことです。でいい?

宮野さん:ええっと。その所で二つ関連する質問なんですが、まずは先の奉読の件なんですが、「奉読をすればいいんだ」と、ね?不安があっても何があっても湧きあがっても奉読すればいいんだと、というのと「読めばいいんやろ?」と言うところの違いのところを、

@印可書を言い訳にしなければ大丈夫

河上さん:それね、自分ではもう区別つけられないようになっていくよ、欲望が湧いている時は。だから区別付けられへんから、如何に印可書に縋(すが)れるかやね。の、とこが大事なんです。要するに印可書を読むことによって責任転嫁しているようだったら効果はないことはないですよ。でも薄いの。でも印可書を読む、で、こんなんで縋る間はものすごく大丈夫です。だから要するに印可書を読みながら人殺ししていいんやな?という時は縋ってないのね。言い訳にしているわけ。印可書を言い訳にしなかったら大丈夫です。

 もうこんなんでどうしようもないんだけれども神さまっていう感じで印可書を奉読されたら。勿論本当は神さまだけでいいのよ。でもその呼ぶ自分の神さまがね、自分の都合の良い神さまやから、ややこしいの。今まで。

 本当に苦しいときは神さまよんだらいいっていうわけよ。その通りなの。でも呼ぶ自分の神さまが自分にとって都合の良い神さまやからぐちゃぐちゃになってたの、今までね。で、眞(まこと)の神さまを呼ばなくっちゃいけないけど、眞(まこと)の神さまというのは、印可書の全体像として眞(まこと)の神さまの全体像書かれているから、っていうことです。

 だから印可書を言い訳にせずね、ひたすら縋られたら大丈夫です。

宮野さん:はい。もう一件はこの間の3月の護摩なんですが、その時にちょっといつもと違っている状態で、何人かは気になっている方があって、妖精がいるとかいないとかっていう発言があったりしたのですが、表現がいいか悪いかは別として、サポートが入ってましたね?というところでちょっと気になる皆さん、気になる方もいらっしゃるかと思うんですが。このチラチラと入っている映像的にチラチラと入ったものは何なんだ?

河上さん:要するに護摩がね、護摩の会場がいわゆる入れ子構造、多層構造的に大きく広がったんでね。色んな階層の方が応援にも来てくださいますし、印可書奉読に来られているわけですよ。だからいわゆるエンジェルさんも来るし、何よりも妖精、花の妖精さんがね、喜んで喜んで、もうすぐ花咲くしねっていう感じで、一杯来られてるしね。そのうちに皆さんの実際の肉眼でも見えるようになってきますけれども、見えるようになっても囚われないようにして下さい。皆で喜びあってたらいい。

宮野さん:とらわれない?

河上さん:囚われない。

宮野さん:ああ、囚われないね?

河上さん:ほら、印可書の会場でね、凄いんだからとか言わないように。もう当たり前のように喜んでたらいい。そこが大事なんや。「うちのが凄いんだ」言うたら途端にだめなの。ともかく一番もう真祈りの一番の根本はね、「みんなすでに祈っている、悟っている、救われている」ここからちょっとでも外れたらもう真祈り違う。だから「みんな祈っている、悟ってる、救われている」ていうのを別の言い方をしたら、全ての人に眞(まこと)の神さまが立つ、要するに全てに自分が立つ。全ての階層同時に自分が見ているとか、全体を表現するのが説明では難しいんだけれども、わかります?もう全ての全てなんです。

 だから全て眞(まこと)の神さまだけ、先生の言い方やったらね。全て眞(まこと)の神さまだけっておっしゃるでしょう?「みんな光や」、「みんなすでに祈ってる、悟っている、救われている」とおっしゃっている、それだけなんです。ここから絶対はずしたらあかん。

 あとはみんな好きな演技をしているだけよ。悪者の演技したりね、詐欺師の演技したりね、女たらしの演技したり、もうそれぞれみんな好きな演技を選んでやっているだけ、というのが分かれば悟りです。

 それをあいつ怠けている演技をしているって分っていたら良いんやけど、あいつ怠けているって言うとややこしなっていくの。あの人ズルいって言うとややこしくなってくるの。あの人ずるい演技してるや。実際そうだから。それが実際そうじゃなくて本当にズルいと思うから、要するに「神さま以外のものを認めた」からややこしくなる、苦しくなる。

 神さま以外のものを認めるから、苦しいんよ。何で苦しいか言うたら、神さま以外のものを認めるからや。それは神さまそのものであるにも関わらず神さまを否定したから、否定した自分を責めて苦しくなる。悩むっていうのはそういうことなんです。

 だから神さまの完全円満がわからんからね。自分の思い通りにしたいと思って苦しむ。思い通りにせん(しない)でいいねんて。神さまいいようにしているから喜んでたらいいね。ただ、より良くなるようにね、煽る必要があるわけ。

 だから「印可書を読みなさい」と僕は言わないけれども「読んだ方がええで」って言ってテレビショッピングしているわけです。な?印可書読んだら悟れるとは言えへんね。横に、「効果効能を示すものではありません。個人の感想です。」っていつも流れているわけや。でも「印可書を選んだほうがええで」って一生懸命テレビショッピングさして貰ってんね。あくまでこれは河上の感想であって効果効能は示すものではありません、て言いつつ、でも「良いでー」、「これ良いでー」。「これを飲んだら元気一杯走れるようになりました」とかやってるやん?あれや。元気一杯走れるようになりましたの画面の横には、「個人の感想であって」って書いてあるね。あれ!それはいつも誰に対しても、して行ったら良いね。どの状態も喜んだらいいんだけれども、より良くなるように喜ぶ、喜べるようにね。色んなことは。それを真祈りと言う。本当の意味でね。でも真祈りがようわからんうちは印可書を奉読されたら真祈りです。はい。

質問:ありがとうございます。今日入って来られた時に何かあったっていうのを、例えば村でどんなことをしたらそういうことが起こるんですか?

河上さん:例えば、やっぱり神さまを否定することを無意識にしているということや。

質問:それは村人じゃなくて、外から来た人でもここでそういうことをすると?ていう・・

河上さん:いや、ここは地球全体の縮図だから、ここが良い、悪いじゃない。だから一緒よ、印可書を読んでたらね、色んな欲望が湧くでしょう?そういう感じで人類が要らん事をしたらね、やっぱりここでも要らん事をしようとしてしまう。ちゃんと先生がそうしてある。要するに地球全体にまで走り回ってね、お祈りに行けないでしょう。だからその護摩の会場とここでお祈りしたら、ちゃんと地球が成るように先生がセッティングしてある。

 だからそれだけです。いい悪いじゃなくてね。ただ何かあったんだったら、何て言うかな、より印可書を選べた人はね、村人でも印可書を選べた人はより頑張って、頑張ってと言う表現もあれだけれども、ひたすら奉読してくださいねっていう意味で言っています。はい。

質問:ありがとうございます。

河上さん:質問無いようなんで。ともかく結局はね、大なり小なりみんな自分の好きな神さまを作って、神さまを信じるのよ。それはお酒大好きな人はお酒教になるわけや。タバコ大好きな人はタバコ教にして、タバコを神さまにしているわけね。色んなことがありますけれども、だから今までの宗教はみんなそうです。だから自分の好きな神さまと似通った宗教に入るのね。別にいい悪いじゃない。ただ不自由なことに早く気づいてくださいねっていうこと。お酒好きやったらお酒好きで不自由でしょ?タバコ好きやったらタバコ代がかさんで不自由じゃない?一緒で、その自分の思い通りにする神さまって言うのは本当は不自由だっていうのに早く気づいてほしいという事ですね。要するに護摩の時に言いましたけれども、自分の思い通りにしたいっていうことはね、相手の自由意志を縛るから自分が動けなくなるの。思いどおりにしたいくせに、動けなくなるんよ。

 だから旦那言うこと聞けへんて言えば言うほどね、自分がしんどくなるの。旦那言うこと聞けへんていうことは旦那を思い通りにしたいわけでしょう?思い通りにしたいって思うことはやっぱり旦那の自由意志を縛るんよ。縛った分だけ跳ね返ってきてね、自分縛られて身動き取れんようになる。みんな好きにするからって、喜んでいたらいいねんて。ただ、より良いことをするようにね、煽ったらええ。

 賢いお母さんそうでしょう?子供をちゃんと上手い事煽るね。(どうでもいいような)そんなしょうもない遊びしていたらね(そんなしょうもないことと、けなさずに)「面白いことして遊んでるね」って言って褒めといてな、「でも、もっとこんなする方が面白いで」ってやるわけよ。

 勉強を教える時やったら算数嫌いな子やったらね、ちょっとだけさせてすぐ他のさせるね。国語させるね。国語も嫌いやったらちょっとだけさして、また理科させてね、順番にぐるぐる回しているうちに好きになっていきはる。そのように上手くこう煽らなあかん。

 なのに「算数しなさい。」ってやるとね、もう算数嫌いになるし、二度としてくれへんしね。子供に限れへんねんで「何々しなさい」って言ったら絶対せえへんから。

 だから先生「印可書読みなさい」って言えへんかった。「読みなさい」っていうたら絶対せえへんから、みんな。煽らなあかん、テレビショッピング。

 それぐらいね、みんな結局は何かって言うと、自分が正しいと思わないとね、不安でしょうがない。だから(みんな)基本は自分が正しいから入る、必ずね。自分が正しいという判断基準があって、それ以外のことは全部拒否するね。だから人は思い通りになれへんし、言うこと聞けへんね。(きいたふりは、するよ)(でも)相手の言うことを聞いたら自分が正しくないと思わなあかんやろ?それって凄い自分はやっぱり不安になるの。だから言われていうこと誰も聞けへんね。まずそこに気付かなあかん。

 だから褒める教育ってあるわけですけれども、褒める教育って何かって言ったら「あんた間違ってないよ」から入るわけよ。「だけど、その考え方やったら、やりにくいやろ?」「行き詰まる」って言うたらまた怒るからね。「もっとやりやすい方法あるで」っていう風に。それは仕事の上で仕事を教えるのでもそうやね。「そのやり方でもいいけど、もっとこうした方が楽やで」とかね、っていう風に教えるとやってくれるね。

 でもこうしなさいって言った途端にやってくれへん。だから今の世界行き詰ってるね。マニュアル化の世界やろ?「マニュアル通りしなさい」っていうたら、よけいに若い子今の若い子動けへんね。昔はマニュアルなかったから、「もっとこうした方が便利やで」とかうまく教えれてん、上司の方も。でも今は「マニュアル通りしなさい」で会社から言われるから上司もマニュアル通りしようとしてやね、ますます大変になって時間切れになる。時間切れになる理由があるの。マニュアル化のせい。

 だから昔中国で科挙(かきょ)という制度があってね、勉強できた人だけが登用されるみたいな、あるでしょ?あれもマニュアル化になっているから結局崩れていくわけや。日本でも受験戦争とかね、いうのもやっぱり、そういう受験勉強して入学試験というマニュアルをクリアしないと次へ進めないみたいにしてあるからね、ややこしいなってきたんや。

 神さまは自由自在だからマニュアルという不自由さがあったらあかん。勿論、参考というの、勉強する為に参考文献としてね、マニュアルがあったらいいのだけれど、「その通りしなさい」って言った途端に崩れてくるね。でも今は例えば一般社会だとね、○○とかね、マニュアル化をしよう、しようとしているね。

 食品の世界だったらハッセップとかねマニュアル化した状態でないと、許可おろしませんみたいなね、時代になってきてね、それで時間切れ。一旦地球霊王様が「一旦閉めようか?」って言うてはるね。「いや、人間の皆の力で閉めますから」言うて待ってもらっているだけです。

 そのマニュアル化するっていうことは「お前アホや」って言うてるわけや。それがあかんていうのがわからへんね、まだ。「みんなすでに悟ってる、祈ってる、救われてる」から入らなあかんのに「みんな全然わかってへん、迷っている」から入ってるわけや。な?だからあかんね。

 でも優秀な先生は「お前は絶対できるから」からしか入れへんね。「お前分かれへんから教えたるわ」っていう先生に教わったって誰も出来へんね。優秀な先生ほどね「お前必ずできるから」から入るね。

 でも今までの宗教は全部「お前ら迷ってる」から入るね。だからおかしい、おかしなっていくね。「みんなすでに祈っている、悟っている、救われている」から入らな。

 でも、ここですらな(それがわからない状態なのです)、それ(みんな既に祈っている悟っている救われている)を先生が、50年言い続けてくれはったわけや。それでまだ受け取り損ねた、や。それでもう「これがどうじゃ」っていう最後の印可書やっただけで。あとは自由に選んで。





令和5年3月河上さん勉強会―3(20230312−3)

河上さん:それ位ね、オギーと生まれてからみんな結果主義の中で、競争主義の中で結果で比較してどうこうの世界、いわゆる生存競争の世界やね、生き馬の目を抜くみたいなね、他人を踏み台にしても自分が上に上がってみたいな世界に生きているからね、どうしてもあいつは出来へん奴やって思い込みたい。だから余計サボっている奴を見たら、「しめしめ、あいつサボっているぞ」って言いたいの。でも本当は違うのね。そこが世の中を滅ぼす理由やね、本当は滅ぼす理由やね。だから時間切れで一旦閉めるってなっています。

 神さまの方は救い取ろう救い取ろうとしてね、ズーっと何遍も何遍もオマケオマケでここまで存続したわけです。でもいよいよアトランティスの時の様に、ムーの時の様に時間切れになっちゃった。

 アトランティスの時も、ムーの時もそれぞれ(人間としての)肉体の形も全部違うんですよ。どの形を取っても全部行き詰ったから、今この形を取っているんですけど、その形も行き詰った。

 だから色々あるんです。例えば本当に魔法を自由に使える世界だった時もあるしね。でもそれで失敗したから、魔法を使わせないようにしてとかね、もう一杯あるんだけど、どれもこれも失敗失敗で来てる。 

 で、いよいよ今回くらいはね、真祈りで成功させたいなと思っています。でもそれも皆さんの自由意志で好きに選んでくださればね。みんな思い通りにしたら良い。只、その皆の思い通りが神さまの御心通りになったら理想です。イエスの祈りの様にね、「み心の天に成るが如く、地にも成らし給え」っていうのは、皆が神さまの心になってくれっていう祈りなんですけどね。あの祈り言葉でも中々その本意が伝わらないのね。なんか神さまの世界を地上に現したら良いんやな位にしか分かれへんね。

 先生の言葉で言うと、「みんなの心に真(まこと)の神さまを立てる」っていうのが、イエスの祈りと一緒なんですよ。「み心の天に成るが如く、地にも成らし給え」。み心の天に成る世界というのは、みんな真(まこと)の神さまの心を持っている、本心の世界ね。で、地上の皆も真(まこと)の神さまの心を持ってくれっていう、イエスの願い祈りだった。

 それを先生は別の言葉で「みんなに真(まこと)の神さまを立てる、心柱を立てる」とか色々と表現されるんだけど受け取れない。で、印可書でどうだっていう最後の最後です。

質問:2点あります。確認です。これは自由を縛ったり、責めたりとかの気持ちでお伝えする事ではないんですけど、自由だと思っているので。

 質問を勉強会でさせて頂く時に、かって仰っていたと記憶しているんですけども、先ず真祈りを実践する、その中で自問自答する。そこでやっぱり確認したいっていう事を、

河上さん:そうよ。本当はそれが良いんですよ。だから勉強でもそうですけど、全然分からん問題がある。それを先生に黒板に書いて貰って、解いて貰ったって分かれへん。

 先ず自分で色々と悩んで考えてみて、それで先生に解いて貰っている時に、イヤ、そこで「何でそこでそうするんですか?」って聞ける位にしとかないと分からないよね?だから自問自答って先生仰ったわけ。先ず質問したい事が起こったら自問自答して、自分なりの答え作って聞きなさいよって先生は仰ったんだけど、そこまではみんな出来ないからね、もう一足飛びに印可書奉読で行ってしまえっていう感じで行ってるだけです。

質問:はい、ありがとうございます 確認なんですけども、ズルい心に関してなんですけども、職場が身近なので、正に実践の場で色んな事があった時に、

河上さん:ズルい人ばっかりやろう?周り。(笑)

質問:凄くこう、自分自身も凄くズルいとこがあるとか、凄く逃げているところとか、本当に気になるところが見え隠れするんですけど。ただ、それは自分は真(まこと)の神さまと教えて頂いた通り、自分を責めてはいけない、周りも責めてはいけない、印可書奉読だけっていう事で実践をするなかで、やっぱりズルいな逃げてるなって思う、その中で乗り越え方っていうか、実践につなぐ?

河上さん:分かりました。あのね、先生はこの世は万華鏡って仰ったんですよ。万華鏡って何かと言ったら、万華鏡の中、開けてみたら分るけどちょっと(しか物が入ってない)でしょう?それがクワってこう見えるでしょう?ああいった感じでこの現世の素晴らしさというものは、「立ち向かう人の姿は心(鏡)なり、己が心を映してやみん」って言ってね、本当に自分に有るほんの小さいマイナスを拡大して見せてくれる世界なの。

 だからズルい人が見えた時は、昔自分が凄いズルい事をしてきた事があったからなの、過去世においては。それが拡大して見えるだけ。だから先生の目から見た時は、良い子ばっかししか居なかった。

 だから先生の勉強会とかに参加した時に、誰も悪い子の姿取らないの。先生に悪い姿、マイナスが無いから。そういうもんなの。だから自分の周りでズルい人とか、卑怯な人とか、怠けもんとか見えたら、ああ自分が怠けもんだった時があるんやなって分かるの。分かればその分真祈りが足りんかったなって言う事です。

 要するにマイナスに見えるという事は、真(まこと)の神さまと自分を切り離したから。切り離した分だけマイナスに見えるの。切り離せないのにね。要するに切り離すって何かと言ったら、学芸会とか演技で色んなお化粧で悪魔の顔を描いたりとか、するでしょう?お多福の顔を描いたりとか、服装もそういう服装をしてっていう、中身は真(まこと)のプラスなだけですよ。ね?色合いとしてカラーリングして楽しむだけなのね。それをそうだと見ずにマイナスに見た事が罪って言うんです。包み隠すって言ってね。で、マイナスに見てしまった分を消しておかないとあかんね。で、それは真祈りでしか消せないの。

 だからちょっとでも人のマイナスが見えたらね、喜んで印可書を奉読したら良いの。もうひたすらそれの繰り返しです。印可書を奉読して元の様に見えたらね、ひたすらに。要するに印可書を奉読して消えないかって言ったら、あんまり一辺に見えたらね、自分潰れるからちょびちょび見せてくれているって、喜んだら良い。

 実際そうだから。あんまり周りからひどいの来たら自分耐えれないやろう?だから耐えれる範囲で来るから、耐えれる範囲の中で印可書を奉読されたら、「あぁ良かった。この繰り返しで済んで良かった」なの。

 だから何時も何時も一番良いようになっているね。そうなのに何遍も印可書読んでも、又、こんな欲望が湧いてくるって文句を言うからややこしくなるの。ひたすら喜び続けなあかんの。もうそれだけです。

 本当は自問自答してなんだけども、もう出来なくても良いの。出来ないやったら出来ないで喜んでいたら良いの。もう本当にね、神さま良いようにしかしてないから。只、出来ないと言って自分を責めるのはね、人と比較するからや。人と比較するっていうのは全て真(まこと)の神さまって自分が認め切れてない部分だけ苦しいだけや。

 全部不離一体やね。全部真(まこと)の神さまや。何の文句もないの、本当は。でも真(まこと)の神さまでないって認めた分だけね、腹立つの。いつも言うように、考えるっていうのは自分と人を分けないと考えられへんね。全部自分やったら考えようがないって。

「あーあー」で終いや。「下手打ったな、失敗してしまったな」で終いやけど、人が失敗したら腹立つんやろう?自分失敗したら許すくせにな。あぁ、違うか?(笑)自分に優しく、人に厳しくやな、みんな。(笑)

 そういう風になってしまうね、分けるから。でも全部自分やから、分けようがないから本当は喜べるね。どれもこれもね。色んな姿取って神さまが楽しんでいらっしゃるって喜べるね。で、本当に無条件に喜べたら悟りや。たったそれだけです。条件付けている間は悟ってない。

 ただ、条件付ける状態でも悟らすからな、上行ってっから条件付けるなよって言ってるだけやね。無条件に喜ぶ方法を一生懸命に喋らせて貰ってるだけ。分けたから腹立つだけよ。だからお腹に入っている時は腹立てへんけど、外出たらウンコは臭いって嫌なわけでしょう?分けたからや。ウンコで考えたら良く分かる。

 だからといってわざわざウンコを掴みに行く必要はないんやで、そこが大事やね。サラサラと流さないと。な?ウンコと一つやったからって、わざわざ掴みに行く必要はない。それは理屈やね。何もかもさらさらと流して喜んでいたら良い。だから一瞬一瞬新たなの。

 掴みに行くという事は、一瞬一瞬新にしてない。神さまからは本当に無限の無限エネルギーが来てね、無限に無限に新しい物が来てるの。それをひたすらサラサラと受け流してたら良いの。受け損ねても構へんね。受け損ねても次から次に来るから。

 回転寿司って行き過ぎたのわざわざ取りに行けんやろう?又、戻ってくるやん。ほんとそこだけ。無限の供給が有るっていうの喜べなあかんの。でもそれを信じ切れない分だけ苦しいの。でも信じれない時は印可書を読んでいたら大丈夫やからっていう、先生の大オマケです。

 常に「真祈りの全体像(全体図)とは」っていうのが、印可書を奉読する時には分るの。自分が分からないと思っていても。それが印可書の凄いところ。

 先生が一生懸命真祈りとは全てを俯瞰する事やとかね、言って下さってもみんなピンとこなかったやろう?だからいよいよ最後の最後、いよいよ切羽詰まって来て先生が命に代えて印可書を出して下さった。後は皆さんの自由意志で、自由意志で読まないと意味がない。

 護摩の時に座っての体操も教えたわけですけど、あれは何かと言ったら、あれをすると人間の肉体上の真祈りの中心という所に力が入るんですよ。力込めれるのね。だからこれをしながら印可書を奉読すると凄い効果があるから、先生オマケで出せっていう事で出ました。印可書を奉読する時、これをやる余裕がある時はこれをしながら印可書を奉読して下さい。

 それは印可書を全部読まないとあかんと掴むんじゃあなくって、印可書の一部だけでも良し。勿論、ありがとうございますだけで良いのよ。宇宙神ありがとうございますだけで良いのよっていう事です。だから体がだるいな、しんどいな、動くのうっとおしいなって思う時は是非、そうして下さい。すると元気が出ます。

 勿論、お祈りしないと駄目よ。この形だけしてもアカン、そこだけ頼むわな。形だけするからややこしくなるの。

 今までの人類が失敗した理由や。形で教えると、形だけして崩れるしね。で、形以外で教えると今度はしないしな、もう大変なんやって。だから真(まこと)の世界に行ってから落ちないようにしようと思うと、この形でやったら落ちない。

 要するに、真(まこと)の世界っていったら掴み処がないの。だからちょっとでも掴みたいと思った途端に、ドンっと落ちるの。この世はなんなと親とか兄弟とかね、お母んとか友達とか掴み処があるから、少々心をどっか寄せても落ちないね。でも年取って行って友達がドンドン死んで行くとな、大変ややこしくなるの。それでボケだすの。友達居らんようになるから。でもそんな友達掴むんじゃあなくって、(神さまにすがるんや)真祈りやで。頼むわ。(笑)真祈りやで、お願いやで。苦労するねんて、こっちわ。
 
 質問:印可書にある眞(まこと)の十界と眞(まこと)の眞(まこと)の十界というのを、あまり私は理解できていないので教えて頂けますか?

河上さん:「真(まこと)の十界」の次に「真(まこと)のプラスの言葉だけ」ってなってるでしょう?その次に「真(まこと)の真(まこと)の十界」ってあるでしょう?どんどん奥に奥に入っているわけで。で、「真(まこと)の十界」という所は、まだ受ける心です。要するに太陽の外側に居てるの。太陽が絶対の中心としたらね。太陽の一方向から光を受けている状態です。それで真(まこと)のプラスの言葉だけ、要するに真(まこと)の神さまだけやね、にしといて奥に入ったら、今度は太陽の中に入って太陽の働きのお手伝いをするわけ。で、全方向に光を出す状態を「真(まこと)の真(まこと)の十界だけ」って言います。で、あれは表現上やから「真(まこと)の真(まこと)」の2回ですけど、本当はあれが無限に続くんよ。それだったら終われへんからね、「真(まこと)の真(まこと)」と二つ重ねる状態で何時も言っているのは、「真(まこと)の真(まこと)」って言ったら無限ていう意味です。ただその意味が分からんと奉読するだけでね、ちゃんと響くようになっているから印可書は凄い。

 要するに本心の16項目でね、真(まこと)のプラスを駆使する自分ってあるでしょう?その真(まこと)のプラスを駆使する自分というのに成れるわけ、印可書は。「真(まこと)のプラスを駆使する自分」に成れる。駆使の状態。駆使っていうのは凄い言葉なの。言うじゃあないの。駆使っていうのはそれだけを選び続けているみたいな、それだけを(そのものになって)言い続けているみたいに、印可書の場合は成れる。

 印可書のない時代はね、ひたすら「ありがとうございます、ありがとうございます」って言うとかね、「宇宙神ありがとうございます」って手振りを入れてしなくちゃあいけなかったの。それを出来ないからっていう事でなっています。

 今からでも「宇宙神ありがとうございます」で行くんだっていう人は手振りを入れたら。ただ、手振りを入れ切れない人の為に、この前の座ってするのも入れます。

 だから竹刀一万回振るとね、そのグッとこう中心に込める場所が、体得できるんですよ。でも誰もしてくれへんからね、ほんと大オマケや、これで体得できるようにするってやってんから。綱引きでも必死でやったら、その位置が分かったの。先生がやれって言ったことは本当は全部必要だったんだけどね、誰も真剣にせえへんね、しんどいから。

 でもしんどい事をするから神さまの働きや。皆しんどい事嫌って思うでしょう?でも神さまが一番しんどい事をされているの。だから神さまのお手伝いは一番しんどい事をせい(しなさい)って言ったらみんな逃げるからね、印可書奉読だけでお手伝いに先生は大まけでしたんや。もうこれ位はせい(しなさい)って僕は思うけどな。せい(してくれよ)と思った分だけこっちの体が動かなくなるからな、微妙な表現に何時も止めているね。

 これ位、「印可書位読めよ」って思った途端に、相手の自由を縛っているからあかんの。説明の都合上のそういう理由だけでも、体に不調来るの。そういうもんやで。だから仕事でも部下にね、ちゃんとこうしなさいって言ったら、自分苦しくてしんどくなっていくね。で、大体上司になった人は癌に成ったりね、病気を起こすね。病気を起こしたり、ノイローゼになったりするねんけど。昔と違ってそれが今極端に出る時代やから。それで部下がいう事を聞けへんてノイローゼになりはるね、皆な。上の人可哀想やけどな。昔の時代とはちょっと違う、昭和の時代とは。

 もう令和に入ったから、何をするにしても真祈りと一緒、すぐに影響がでる。だから逆に言うと、みんな印可書奉読してくれたらすぐに影響出て変わります。諸刃の剣でね、どっちにも厳しい。だから印可書選べる人は幸せ。自由意志でね。言われたから読んでいる内は値打ち無い。自分の責任で選べないとね。

 自分の責任でやってこそ本物でしょう?車の運転がそうやんか。助手席座ってあっち行け、こっち行けって言ったって所詮は無責任な話や。

 (運転席で座っているから)ハンドル握って、自分のハンドルさばきで事故が起こる訳でしょう?車の運転なんてね、ブレーキ踏むのでも、それで初めて総責任者や。印可書も一緒よ、自分の責任で選ぶから値打ちある。

 よくあるんやか、運転してたら助手席に座った人がな、左をこう見て、右折するのに左見なあかんからね、大きい道路出るのに左見ようとしたら、助手席に座っている人が一緒に見て、こうする。「お前見てしゃあないやろう?邪魔や」って、余計見えへんって思うけどね。

 みんなそれ位にな、不用意に無責任な事してんね。悪気も何もないんやで。でも結局自分の思い通りにしたいっていう意識がどっかにあるから、不用意に相手の自由意志を縛っているの。縛った分だけ自分が苦しくなるの、特に令和の時代はね。だから間違っても相手の自由意志を縛らないように。昔以上に動けなくなる。それで色んな病名が増えてきたの,この頃。

 それで精神科が物凄く受診する人多いいんでしょう?精神に来なくても皮膚に来るのね。相手の自由意志を縛っているから皮膚病起こるから、今は。柔らかい所が腐り出したりね、極端に言うと、なるからね、自由意志を縛らないようにね。

 だから色んな宗教の教祖がね、ドンドン死んで行くの。自由意志縛っているから自分縛られて生きれなくなる。だから極端に縛る人は心臓が止まるの。止まらないまでも心臓の動き悪くなるからね、内臓に疾患来たりするの。すべては心臓から始まるからね、肉体的な病気というのはね。で、血を巡らせなくなるのね。で、血の滞ったとこが病気になるね。その人の癖によって滞る場所が違うわけ。

 それが令和の時代でね、令和の時代入った時に「真祈りの時代になったよ」って説明したやん。で、みんな「あっ、真祈りの時代になったんやな」位しか軽く考えているやろう?軽くは無いの、厳しいの、令和の時代は。

 だからその厳しさを感じてもう(令和って言う名は)最悪の(名の)時代やって言った人も居った位にね、厳しい。どっかから見るかなんですけど。プラスに見やなんからな、

 真祈りの時代って言ったけどね。そうでしょう?「レイ」やで、響き的にも「レイ」って突っ込む、いわゆる突き刺さるでしょう?昭和って言ったら突き刺さらへんけどね。平成って言っても突き刺さらへん。でも「レイ」って言ったら何かグサっていう感じやろう?そういう厳しさがあるの。でも逆に言ったら真祈りしたら一気に変わるね、凄い楽しい時代やね。

 だから本当に神さま一番良いようにしているからってね、どう理屈付けても良いから思い返して下さいね。あの人サボっているのは、それが一番必要やからなっているんやって言って、喜こばなあかん。だから組織で言うとね、組織のマイナスの業っていうのは、必ず貯まる訳よ。誰かがそれを受けなあかん。するとその縁がある人が受けてサボるとかズルい事をするの。でもそのお陰で他の人が働けるの、本当は。

 だから大きい組織程そうなんだけど、仕事しないズルい人を虐めたり、色んな形で追い出すやん。すると必ず誰か同じような人が出て来るの。不思議なくらい。それはその組織としての業を誰かが背負わなあかんから。

 でも本当はそこで皆が真祈りしたら良いんやで。真祈りしたら、組織の業を皆で消せるから大丈夫なんやけどね。真祈り出来てないと、それがこれからドンドン極端に出て来るね。

 だからどんな理由を付けても、喜んで喜んで。わざわざ肩代わりして下さって良かった、良かったや。実際そうやった、わざわざ怠け者の役したくないもの。ズルい役な、詐欺師の役わざわざしたくないやん。身代わりになってして下さっている。勿論、そういう縁を持っておられる方や。しか出来ないしね、縁がないと出来ない。そうでしょう?

 印可書奉読してエッチな思いが湧くっていうのは、そういう縁の人が来てるからや。自分にないんだけど、そういう縁の縁者が来て、それが響いているから出るわけよ。やっぱりそういう縁がないと出ないね。でもどれもこれも神さま一番良いように、要するに一番小さい形で消しているというのを喜べなあかん。

 先生の仰る、大難を小難に、小難を無難にって仰る形に神さま何時もしているの。なのに出て来た事に文句を言うからややこしくなる。五井先生がなんぼ(いくら)「文句言いなさんな」って言っても文句を言うから、終いに五井先生呆れてしまってね、「もう良いかな?いいよねいいよね」って仰った。それであっちに行かれた。

質問:形の質問で、職場で色んな事があった時に印可書をそのまま唱えるのは難しい。でもそれはその形で良いと言って頂いているんですけども、呼吸に「ありがとうございます」を乗せていたら良いよっていう風に「宇宙神ありがとうございます」って以前河上さん仰っていたと思うんですけど、印可書を読んで

河上さん:印可書で良いんですよ。

質問:はい。印可書を乗せようとするんですけど、やっぱり仕事をしていると色んな事が有るので、「絶対の中心から」ってそこだけ繰り返しで

河上さん:それで良いです。

質問:それで良いですか?真祈りの全体像。分かりました。ありがとうございます

河上さん:印可書は完璧なんでね、一部だけで充分効果あるんですよ。只ね、一部だけで効果あるって言ったら、そこだけしかしないからね、皆すぐ囚われるやろう?だから全体全体って言っているけど、自由自在にやって下さい。常に大丈夫なの。

 真祈りって難しいよねって、呼吸に「宇宙神ありがとうございます」って乗せようね言ってね、誰も悩まへんから、あまり説明しなかったわけですけど、その呼吸に宇宙神ありがとうございますを乗せようと思うとね、肉体の臍のちょっと下ですけど、ある場所にグッと力を込めないと出来ないんですよ。その状態を体得する為に1万回の竹刀振りがあり、綱引きが有りので色々あった訳ですけども、それもしないからこの前のオマケのこれで、膝滑りでやって下さい。

 膝滑りって名付けようか?膝マッサージって言っとこうか?太もも膝マッサージでやってみましょうか?それでこう動かしている時にね、どうしてもお腹のちょっと下に力込めないと動かせないでしょう?肩入れれないじゃあないですか?それで分かるからその場所に力込めるって言ったら、又、出来へんからね、膝太ももマッサージをしながら、宇宙神ありがとうございますを唱えたらスーッと入っていける。

宮野さん:決めましたね。膝太ももマッサージ(笑)

河上さん:だって膝って言ったら膝だけするやん。膝太ももって言ったら一番分かり易くない?(その)まんまやし。なんか名前つけとかんと説明しにくいや。

 だから本当に体だるいなとか、無気力の時、ちょっと寝起きでもしんどいなっていう時はこうやってみて下さい。ただ、寝起きや起きる前にね、この前言った八の字されたら本当に変わります。まず血を巡らしてから起きる必要があるねんけどね、みんな無理やり起きるからね、あっちこっち故障するね。でも皆の病気を治してる余裕が今ないからね、自分の体は自分で守るように。勝手にこれやっていたら病気治るから大丈夫。糖尿病でも治ります。

宮野さん:先ずお祈りしてね。

河上さん:先ずお祈りしやで、頼むで。そこだけは頼むで。形だけしてもあかんからな、頼むで。

質問:それは「ありがとうございます」を言いながら?

河上さん:勿論。

質問:それは印可書知らない方で、糖尿の方で

河上さん:だけど「ありがとうございます」が真(まこと)の神さまそのものが分からないからね、そこが問題なんやて。で、その真(まこと)の神さまそのものが分からないから先生、印可書を作って下さった。分からんでも印可書を読んだら真(まこと)の神さまそのものになっているから、真(まこと)の神さまそのものっていう、真(まこと)の本心の自分に印可書読む時はなっているからって、先生が決めて下さったんで印可書が凄いんです。

 で、「宇宙神ありがとうございます」も「ありがとうございます」もね、一応先生は真(まこと)の神さまそのものって仰って下さっているわけですよ。でもそれを受け取れないからね、みんな。で、受け取れないと効果無いの。でも印可書は受け取れなくても効果あるようにしとくから、っていう事やったから、もうちょっと(印可書の説明のために)皆さんの自由意志を縛っても、体あっちこっち大変な事になっても、ちょっと無理をしてます。

宮野さん:いやいや、知らん方に

河上さん:分かるよ。知らん方やけどね、やっぱり真(まこと)の神さまそのものっていうのが分からないと効果無いんよ。

宮野さん:だからそれは縁のある方が、印可書読める方が読んでいく、自分が勧めたらその人の分というのを自分が背負うでしょう?

河上さん:勿論、背負ってやったら良いよ。やったら良いけどね、身代わりでやる分だけね、効果は薄いっていう事や。だって糖尿病の人は神さまって思っていないわけやから、思ってない分しか受け取れないからね。

宮野さん:窓口がそこで時間がないけれども、窓口がそういうとこで、何や良いようになったって言って、何やろうって印可書に入っていくか分からんしね。

河上さん:だからそれで良いねんけど形だけが広がらんようにしたいって言っているわけや。あくまでこの形でかなり効果あるけど、本当は真祈りが要るんだよっていう事は必ず添えとかないと。だから病気が治って来て、喜んでお礼に来やはったらね、そうゆう風に言うべきやっていう事です。最初から無理に言う事ではないですけどね。




令和5年3月河上さん勉強会−4(20230314−4)

質問:起きる前に8の字をするのと、起きてから時間があるときは…?

河上さん:よりしたほうが良いんですよ。良いんだけど、みんな忙しいやろうからね、あんまり。また、「せなあかん」って言った途端に、みんなまたシッチャカメッチャカになるやん、だから。

 要するに、肩甲骨の間から光が通るんですよ。そこを柔らかくしないとオープンマインドと言って光が通りにくいの、肉体的には。いくら真祈りしても、肉体的に硬くなると通り難いの。先生は最後まで柔らかかった。それでね、みんな色んな思い込みで人を責めたり、色んな思い込みで肩甲骨が硬くなるのね。それを柔らかくするのをかねて言っています。膝ももマッサージでもね。

 人を縛る宗教に入ってね、自分は縛られる側だから大丈夫とか勘違いしてるけども、そういう宗教に入ると信じた神さまが縛ってきてね、肩甲骨を閉じちゃうんですよ。閉じられちゃうともうどうしようもなくなるので、できたらと思うだけで、みんな色々自由意志だから、好きにされたらいい訳です。色んな宗教がありますけども、中々辞めれないという人は、そういうとこがあって、余計に動けなくなるんです。でも(その人自身が、人を思い通りにしたいという、相手の自由意志を)人を縛りたいからね、縛られる宗教に入るの。

質問:人を縛るということで、宗教を今話題に出されたのですが、人を縛りがちな職業というのがあると思うんです。

河上さん:あります。

質問:そういうのについてらっしゃる方というのは、(お母さんの立場とか)自分で選んだと言えばそうだし、周りの環境でそうせざるを得なかったという部分もあると思うのですが。

河上さん:女性が子供を産むというのは、凄い徳を積んでいるんですよ。だからその徳のおかげで大丈夫です。ただ、気づいたら縛らない方が子供が幸せというだけです。例えば全然産まなくて良い人も勿論いるわけです。産まなくても徳があるから大丈夫。徳のない人には、神さまがこの人は2人、この人は1人、この人は4人って決めてるの。でも今は人間の都合でね、産む人数を制限するじゃないですか?それでややこしいの。それはいわゆる、無理に子供を作るのでもないんですよ。無制限に作るでもないの。必要なだけが出来るように本当はなっているの。ただ今は無制限にできるから、より生活環境を悪くしてね、子供を2人、3人持ったら生活できないわ、みたいな状態になってるだけです。だからそんなん言ったって、子供を3人も産んだら私ら生活出来へんわっていう人は産なくていいんですよ。

 でも原則的なことをいうとね、そういう事だったということです。本当の信仰、絶対の信があればね、どんな貧乏でも子沢山でも大丈夫なはずやね。だけど、今の競争社会でいうとね、子供にちゃんとした塾に行かせてっていうたら凄いお金がかかるでしょう?「そしたらもうできないわ」ってなるから、色んな意味でこの世的には切羽詰まって時間切れなんですよ。どの状態もね。

 ただ既に生んでしまった方は生まれて来た、子供の自由を縛っても、その分の徳は積んでるから大丈夫なの。逆にいうと、自分の子供を縛ることで、人の自由を縛る大変さを勉強できるからね、子供やからそれで済むから幸せと言ったら幸せ。

 色んな勉強が、体験が、やっぱり人の自由を縛る体験をしないとわからない人はやっぱり縛って見ないとダメなの。でも自分の子供で済んだら楽で良いっていう位に軽く考えて、これからは縛らずに育てたら良い。あまり結果を掴んでどうこう苦しむのはよくない。常にサラサラとね、より良くなるんだって喜んでたらいいの。

宮野さん:仕事の話で質問。さっきずれたと思う。

s:自分の事もその通り?

河上さん:仕事も一緒よ。部下の数をようけ(多く)持つ程ね、徳を積めるから大丈夫やね、本当は。だけど、結果を出さなあかんて、掴んだ途端にね、部下も上司も苦しむようになってややこしくなるだけやね。

 誰もたくさん部下を持ちたくないって。アホもいらんやん。この世的な感覚でいうとね。そら優秀な人ばっかり欲しいで。だけど、組織というのはね、優秀な人はくれへんね。組織は組織で(その人に)育てて欲しいから、優秀でない人をくれるからな、みんな苦しむね。で良い?ちょっとずれた?

宮野さん:ずれてる。

質問:あまり具体的に出すのもアレなんですが、例えば、私の個人的な体験では、警察官、自衛官の方とかで。ある程度の管理職に着いた方ほど、定年した後もちょっと大変というか、身体的には大変なお仕事なので、ちょっと体もという方がたまたま多いのかなと思ってたんですが。やはり縛るというのがあったのかなと…。

河上さん:そうよ。結局はね、本当はね、法律も憲法もいらんね。みんなが支えあって真祈りしてね、生きていったら。だけど、今は法律や憲法とかルールとか、社会的ルールとかで縛って生きている世界でしょ?その縛る側に立たなあかん人は、もう仕方ないよ。仕方ないけど、縛った分だけの責任は背負わな仕方ないね。だからそういう形になるだけで。

 本当は縛った側に立った人ほどね、定年後のお金をね、人の為に役立てて使えたらいいんだけど、そうならへんから大変やね。でも本当はね、神さまを信じ切れたら、先生がそうでしょ?お金を自分のものにされなかったでしょ、一切。そういうふうにしてたらいいね。でも真祈りしてなかったらね、お金を自分のものにするかしないかの区別がつかないね。だから色んなことがあるけども、時間切れなわけやな、この世的にはな。

 色んな意味で、色んな方面、どこを見たって、もう行き詰まったんや、詰んでるね。

 真祈り人は最後の救いで。その詰んでる状態を変えれるんやけど。真祈りしかないんやけど、神さまを知らん人に真祈りって言ったって、なんのこっちゃで終わりでしょ?だから「印可書」奉読をね、神さまとあまり結びつけずにやってるわけです。そしたら勝手に「印可書」奉読が良いんやなってなっていくわけですよ。

 いわゆる自由を縛らない本当の神さまということにしてますから、どの宗教とか、そうじゃなくてていうね。だから護摩の会場を宗教臭くしてないの。

 だから知らん人が見たら、なんじゃこれ?みたいな感じでやってるでしょ?今でもね。あれでいいんですよ。もうそこだけです。

 ともかく、ここが(他とちがって)1番って言った途端に、もう偽物なの。ここが1番という事は、「みんなもう既に祈ってない、悟ってない、救われてない」やね。わかる?

 だから常に常に真祈りというのは、「みんな既に祈っている、悟っている、救われている」やね。只、そういう面白い演技をみんなしてるだけやね。そこからちょっとでもずれたら崩れるね。だから警察官という、裁判官という、検事さんという面白演技をしはっただけやね。

 でも本人たちが演技と思えない分だけ色んな姿をとるだけよ、定年の後ね。これは演技だったんだと思えたら大丈夫なんや。その演技だったって思えるのが真祈りだから。

 だから真祈りって、時間、空間を超えるわけ。「俺はこれだけのことをしてきた。」って言ってても、「あんな演技しただけやねん」で済むわけ。役者さんってそうでしょ?大悪人というか、凄い悪い奴の演技をしたってね、その演技が終わったら、普通の人に戻ってるやん。「俺、あんな悪いやつやってん」って言わないでしょ?そういう感じやねんけどな、本当は。

 本当はそうやねんけど、そう思えないから行き詰まって、一旦、もう暗黒の6日間がいつ起こるか、みたいな状態のままずっと来てるだけやけどね。でも毎月の護摩ごとに、どんどん本当に変わりつつあります。

質問:ありがとうございます。

質問:暗黒の6日間でみんな真っ暗になるらしいですけど、自分等の缶詰の場所とかわかるんですか?(笑)

河上さん:分りません。

質問:手探りしても?

河上さん:無理。だから暗黒の6日間に入った時は、もう既にみんな肉体がないねん。だから食べんでいいね。要するに食べるというのもね、まだ囚われやね。だから先生は食べる囚われがないから、本当に何も食べられなかったのね。晩年の方がようけ(沢山)食べてくださったけど、僕の知ってる頃の先生なんて、本当に何も食べないから。おうどん食べる時でもね、本当に耳かき一杯の塩をちょっと入れたお湯でおうどん食べはるしな。それもめったに食べへんしね、もう凄かってん。そんなんいうと、誰も着いて来ないから、先生仰らなくなったし、知ってるのは僕だけになったわけですけど、もうそれでええねんけどな、別に知らんでええし、そんなことは。

 それ位なんですけど、暗黒の6日間の時は一旦、肉体という映画館は消えています。

質問:缶詰はそれまでの?(笑)

河上さん:そうよ。只、それはね、自分がそれまでやけど。それも自分が食べるためと違って、食べ物がないとみんな不安になってイラつくでしょ?だからできるだけその時にみんなに分けてあげてねということです。真祈りを込めて分けたらね、そのちょっとの食べ物でみんな納得するの。イエスが本当に6個のパンを3333個に分けるんだけど、この世的には分けてないね。でも真祈りを込めてしたから、みんなそれを食べた気になって満腹になって帰れてん、みたいな感じやねんけどな。それぐらい真祈りって凄いんよ。

 だから先生は、若い時は、真祈りされてたから、何も食べなくても元気だったの。只、形だけ、(真似するって)あるやろみんな?先生が何も食べないから、僕も食べないって僕がやってしもたからね。

 で、栄養失調で何遍も倒れかけたから、先生がこれではあかんと思って出来るだけ食べるようにされた。

 ついつい先生のやる事は全部沿わなあかんと真面目に思うとね、先生が食べられないから僕も食べないみたいな。先生は3週間断食されたからね、3週間は無理やから、三日間、断食して1日食べてってしたわけですよ。そしたら栄養失調になったの。真祈りできてないからね。だからいつもいうように形だけしたらあかんね。真祈りができてから(真祈りを添えていくということ)の話やから、何事もな。

質問:人の自由を縛られたっていうのがわかった場合、その方に「人の自由を縛っているよ」っていう言葉をかけたら…

河上さん:言ったらこっちが縛ってる。(笑)いらんおせっかいせん方が良い。

宮野さん:縛り返し?

河上さん:縛り返し(笑)ひたすら祈るだけ。

質問:冤罪とか、誤認で刑に服さないといけない実際にあった話はいくつかあると思うんですけど、自分が誤認で捕まったりして、本当は自分は無実なんだっていうのが認められなくて、何年も刑に服さないといけない状況に置かれた時に、その人はどういう気持ちで潔白を晴らすというか、その背景には、国家の縛りとか法律に従っている組織が下した判断があると思うんですけど、実は実際そうじゃなかったという時に、その人も含めて、そうじゃないんじゃないかなと思ってる人たちはどういうふうに気持ちを沈めたらいいんでしょう?

河上さん:いや、みんな好きに思って腹立つだけやって。真祈りしない限り。
 だからイエスは真祈りしてたからね、冤罪で十字架にかかるんやろ?文句言わへんやろ?それだけよ。冤罪か冤罪じゃないかも誰にも本当はわからんねんけど、仮に冤罪であってもね、必要でなってるだけや。イエスがそうでしょう?冤罪で十字架にかかるんやろ?あかんと違うやろ?冤罪でもいいわけや。真祈りしてたら喜べる。真祈りしてなかったら、好きに思って腹立つだけや。恨むだけよ。

質問:今の時代では、イエスじゃない人がもしかしたらそうじゃないかもしれないけど。ちょっと私には直接関係ないんですけど、どっかこの辺で少し関係がないといい切れない中で私がいてて、自分もすごく毎日そこがモヤモヤしてるんですけど。じゃあ潔白であるじゃないかっていう気持ちがどっかにあるんですけど、そういう場合は私はこれから「印可書」…

河上さん:いや、真祈りしてたらね、「印可書」奉読してたらね、刑務所に入ってようが、どういう状態にあっても喜べるだけよ。刑務所に入っている人のことを可哀そうって思っても喜べるだけやね。神さまは本当に必要な体験しかさせへん。ここが大事やねんって。

 みんな不必要な体験をさせられてるって思うから腹立つね。自分のことでもよ。どんな理不尽な体験でも必要な体験しかさせられてない。それが分かることが真祈り、真(まこと)の悟りやね。そこはみんな分からへんのよ。

 だからわざわざ村人になってもね、腹立ちはるね。文句言いはるね。そうじゃなくて村人になれば、例えばよ、村人になれば、色んな自由が奪われてね、不自由な生活をするわけよ。でもその中で喜べることが分からなアカンねんけどな。例えばよ。

 それは刑務所やったらもっとそうや。冤罪やったらもっとそうや。でも、どの形でもイエスと同じ冤罪やね、大なり小なり。だから喜べてたら良いわけよ。身代わりになっただけやから。身代わりになるというのは素晴らしいことや。もうたったそれだけよ。

 例えば刑務所に入っている人を可哀そうやと思ったら、その人の身代わりとなって自分が「印可書」奉読してたらいい。そしたら喜べるからその喜びの響きは相手の人に伝わっていってね、腹立ちが収まっていくよ。例えば。

宮野さん:この世の今の事だけを捕まえて、今を言われるでしょ?過去世の事や何かも全然ご存じないじゃない。何故そうなったか、冤罪には冤罪になるなりの色んなことが。例えば、今のこの令和、平成、昭和の事だけじゃなくて、もっともっと先生がいらっしゃった、明治の時だって、色んな事で沢山の方が、冤罪だったりとか、誤解されて処刑される方が一杯いらっしゃった中で、じゃあそれはみんな無駄死にだったのか?という事なんですね。違うと思うんですよ。ちゃんと意味があって、そういうことが分かって、自分は無駄死にじゃないという事がわかって、処刑される方だって沢山いらっしゃったと。今イエスのようにすごく遠いような感じのことを聞いたから、何か違うような感じがされますけども、日本の今の、日本だけじゃなくて、世界中の色んな今の時代に繋がってきた中では、沢山そんな方がいらっしゃると。でもその方々っていうのは、ちゃんと生まれ変わって、生まれ変わってする中で、そういう縁があって、自分の役割をされてる。

 そして今、河上さんが言われたみたいに、神さまが一切の無駄のない状態で、その魂、生まれ変わった体をふんだんに上手く使っていって、上手く収めていかれるという事なんですね。

 では、冤罪ということだけを詰めていくならば、冤罪に持っていった方々は責められるべき人なんだろうかっていうことなんだと思うんです。そしたら神さまは違うことやってるよね、罪なる事をしてるのねって、神を責めることになりますよね?神さまは一切の無駄をされないっていう中で、どうして神さまを責めることができるのでしょうか?っていうとこに入るんです。

 ならば私たちができる事はどんないかなる状態であっても今が1番良い状態になっている、只々、真祈りをするだけ、奉納するだけっていう中で神さまのお手伝いをする。そしたら冤罪に含まれた方々も怒りの中で肉体を離れることじゃなくて、代わりに自分たちと共に真祈りの中で、元の世界に帰られるっていうお手伝いをさせて頂くというのが、冤罪ということで響いて、「あー嫌だな」と思っても、「真祈りで私たち、こういう仕事を頂いたんだ」っていうふうにさせていただけるチャンスなのかなと思いますが、如何なものでしょう?

質問:私も河上さんがお話をされた範囲の事しか分からないんですが、先生が事実でない事の噂を立てられた時に、それを否定も肯定もされなかったっていう事は、自分だったら「?やったん?」って聞かれたら、やってなかったら「やってないよ」っていうのが普通だけど、どうしてだったんだろうなっていうのは、ちょっと思っていたんですが、それは今の…

河上さん:例えば、自分だったらやってないからやってないっていうやん。それはまだ他人と自分を分けてるやろ?先生は全部自分やから、どの状態も否定も肯定もされないわけよ。だって自分でやったヘマは自分で修正するだけやんか。もうそれだけよ。イエスも黙って十字架に登るのも一緒。全部自分やから、「お前らのせいで登ったるんじゃ」なんて思わへんね。

 あえて説明したら、神さまが一番良いようにしてるだけ。一番良いようにしてるという表現も本当はいらんねんけどね。 只々、喜びだけなの、常に。周りが騒いだらね、哀れやなぁだけやね。

 あの時は本当に僕が怒ったからね、「お前、そう怒るな」って、「哀れなもんなんやから」って本当にね。だから「そんなに怒るんやったら、もうちょっと来るな、ややこしいから来るな」みたいな感じで言われて諭されたわけですけど。怒るというのは分けてるからや。

 「こんな時こそ先生を信じきれなくてどうするんや」って僕思ったんやけども。しょうもない噂でみんなが狼狽えて「何を言うとんねん」って僕は思ったわけですけど、それはまだまだお前は小さいからやみたいな感じで怒られてね、なるわけです。

 だから本当に全部自分だから、するもしないもないし、いい訳もないね。只々、真祈りしてるだけ。「みんな既に祈っている、悟っている、救われている」から離れへんのよ。

 こんな時こそ先生を信じなくてどうすんねんっていう時はこっちが「まだみんな祈ってない」って思ってるわけや、その分怒られてん。

 真祈りとはっていうね。あの頃からそうして怒られ続けて来てるんやけどね。僕はあんまり人の事は言われへん。自分もそうやって先生に怒られて来たから。みんなが祈ってへんとついつい思ってしまってね。だからここに座って喋るというのは、もう微塵ともみんなが既に祈ってない、迷ってるって思ったら崩れるね。

 いつもそれは肝に命じている。それは光の勉強会をされる時でもね、真祈りの会をされる時も、主催者の方はそれを肝に銘じてください。集まってくる方は、みんな祈ってる、悟ってる、救われてる。世間の人もみんな祈ってる、悟ってる、救われてる。そこからちょっとでも外れたら、もう大変になります。

 神さまを否定することになるからね。常に常に神さまを否定することになるんよ、どの状態も。本当は神さまが良いようにしてるだけなの。その中でより大きな自分がね、要するに、十字架に架かれるからそうやって身代わりになれやみたいな感じ。先生の場合もそれで沢山の色んな事を消されたわけです。

 いつも先生が仰るわけね。「元より後ろ指刺されるのは覚悟の上や」って。ニコって僕に最後言われるわけで。

 人間がごちゃごちゃいう事なんか先生にとって関係ないのね。神さまだけ、神さまの御心を現すだけやったからああなった。

 又、それで離れる位の人はね、その程度の幼さやから、もうそれは仕方ないんやみたいなね。でもちょっとでも光に触れて良かったと思ってたら良いんやみたいな、っていう感じの諭され方でした。

 だから良いんですよ、セクハラ騒ぎがあろうが何があろうが、1番良いようになってるの。その時に先生を疑おうが何しようが1番良いようになってるの。

 その形で人を疑う癖を大きく消してもらえたりね、色々どの形を使っても神さまが1番良いようにしてくるの。それを素直に喜べてたらいいんだけど、掴んでどうこう言ってると、折角のおまけが消えていくだけ。掴んだらあかん、サラサラと喜んでたら良い。あぁ神さまが良いようにしてくれて良かったって。いつもいうでしょ?怪我しても、こんな怪我で済んで良かったって喜んだら良いってね。それこそ腕が無くなってもね、これで済んで良かったって何時も何時も思えてたらいいね。

 それを(こんなことになって)どうしようっていうから、文句いうからややこしくなっていくだけよ。せっかく神さまはそれで済ましてるのにな、済ませへんね、自分が。それだけ。

 先生をそういうふうに貶めて色んな事をした人たちはもっと大変やけどね、でもそれを掴んでるした方はずっと掴んで(いるのだ)けど、された方は掴んでないから大丈夫。

 だからそこよ、常に分けない。既にみんな光やね。「みんな光や」から外れたらアカンね。「みんな既に祈っている、悟っている、救われている」やね。その「みんな光や」というのを、数式で表せるから、残しておくからその内、又、みんなら見たらたら良いわっていう感じで、わざわざ公開しないけどね。そういう感じやね。

 ともかく「みんな既に祈っている、悟っている、救われている」やね。只、色んな演技して楽しんではるだけやね。やっぱり悪役をしてみたい人はするんよ。みんなやりたい事をする。それは絶対の自由を与えてるからやりたい事をしたくなるの。したらいいんやけど、サラサラと流さなあかんだけやねんけど、してしまったって掴むからややこしい。

 だって子供が悪さしてきてね、例えばよその車を傷つけてきたとするやん。だからといって「あんた二度と(自分の)家に入ったらあかん」って言えへんやろ?子供はどうしようって泣いてるけど、掴んだらあかんねんって。

 (おかあさんが)「何とかしとくから、二度とこんなことしたらあかんよ」で済むんや。そういう感じだけやねんけどな。そのサラサラのとこがね、要するに「一瞬一瞬新た」やね。そこが中々みんな「一瞬一瞬新た」が分からへんから結果を掴むね。一瞬一瞬新たに受け直してるんやったら、結果を一切掴んだらあかん。

 (高額のお金を出して買って作っている)模型が完成せずに未完成のままでどんどん捨てていけるような気持ち。せっかく5000円も出して買ったプラモデルを、完成させな勿体ないって思ったらもうあかんね。未完成で終わってしまう時は、それで良いってそれ捨てれなあかん、サラサラと。そしたらどんどん新しいものが受けれるもん。

 それだけやねんけどな。中々みんな、折角ここまでしたんやからって思うわけよ。折角ここまでして勿体ないやんって思うねんな。それが食べるのにも出てくるわけよ。もうちょっとやから、食べとかな勿体ないやんって思って食べて病気になる。後は知恵で冷凍して他の料理するとか、もう諦めて捨てるとかね、サラサラとしたら良いんやけどな、食べ物でよくわかる。勿体ないやんって食べて病気になる。

 サラサラと!必ずもっと良い物が来るというのがホントやから。その必ずもっと良い物が来るというのを信じ切れない分だけ不安になる。その「一瞬一瞬新た」ってそこやねんな。だけど、将来がわからへんから、やっぱり不安やね。でも、その不安を「印可書」で消してね、喜んで喜んで行ってください。

 そしたら、お祈りして終わります。ありがとうございます。


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3月護摩 by 河上 [Mail] 2023年03月10日(金) 16時26分
PC

3月護摩焚き河上さんのお話
 宇宙神ありがとうございます

 令和5年3月の護摩焚きでたくさんの質問に河上さんが答えてくださいました。ありがとうございます
 質問5の返答時に、先生からの大おまけが出ました。内臓の血流が良くなる運動を河上さんが実演してくださいました。動画を撮っています、必要な方おられましたらご連絡ください。よろしくお願いいたします。

質問1
 最近、人が生まれてくるのが少ないのは、もうこの世の映画を閉めるので、わざわざこの世に降りてこないからですか?

河上さん
 ありがとうございます 最近生まれてくるのが少ないのは、地球の人口が多すぎるからです。神さまの方で自然に減らそうとされているだけです。

 みんなは将来に対する不安で、要するに自分の面倒を誰が見てくれるんだ、神さまが見てくれるよね、本当はね。本当は神さまが見てくれるだけど、誰が見てくれるか、子供しか自分の面倒を見てもらえないと思って、子供を作ろうとする。将来が大変だからって言うて、少子化、少子化で大騒ぎしているわけですけども。

 その、まず現実を掴むから不安になるわけですけども、そこがわからずに普通は、自分の老後どうしようってなるわけですね。老後の面倒を見てくれる若い人がいないと困るからみたいな感じになっていくわけなんですけども。本当は、必要に応じてどんどん人口が減っいかなくっちゃいけないんですよ。これは、もう毎回人類の歴史の中でも繰り返しでね。

 縄文時代ですら人口爆発があるんです。人口爆発も何が原因で人口爆発が起こるかっていうと自分の将来の不安で、みんな子供を作るんですね、なんやかんや言いながらね。それで、縄文時代でもその人口爆発のために色んなバランスが崩れて時代が変わっていくわけですけども。

 今回も、みんなが助け合い支え合いに生きたら、今の人口でも生きていけるんですよ。でも、助け合い支え合いということを本当の意味でね、本当の意味で助け合い支え合いするというのが、どういう事なのかというのが、みんなわからないのね。

 助け合い支え合いと言うたら、例えば隣の人が困ってるから、ちょっと今、寝込んではるから(寝込んでおられるから)ちょっとお料理作って持って行ってあげましょうとかね、そういう外からの助け合い支え合いが、助け合い支え合いだと勘違いしてるわけですよ。

 でも本当は、先生が神書にも書き、録音にもたくさん残していただいたわけですけども、本当の支え合いとは何かと言うたら、真柱(しんばしら)を立てることなんだと。それを真柱(しんばしら)って言うても、みんなわからないから、相手の、みんなの心に真柱(しんばしら)を立てることなんだっていうことを本当の支え合いなんだって、先生はおっしゃってるわけですね、何回もね。口を酸っぱくして。

 でもみんな真柱ってわからないから、みんなの心の中に、真(まこと)の神さまをって言うて仰ったわけですね、それも、みんなわからない。

 その時に、「じゃあ真(まこと)の神さまをみんなの心の中に立てるには、どうしたらいいんですか?具体的にどうしたらいいんですか?」って聞く勇気のある人がいなかった。

 でも先生は、ちゃんとその「ありがとうございます」が真(まこと)の神さまそのもの。だから真祈りをしたら、真(まこと)の神さまを、みんなの心に立てることになるんだって先生は答えたかったんだけど誰も聞きに来なかった。色んなことありまして、印可書にたどり着くわけですけども。

 真祈りとは何かというところで、みんなやっぱりわかってないのね。具体的に真祈りとは何かって言われて、こうですって具体的に説明できる方がいらっしゃらなかった。いらっしゃらないんだったら、先生に「真祈りとは何なんですか?」って聞かなくっちゃいけないんだけど、聞きにも来てくれない。「誰も聞きに来ん、お前の真祈りが足らんからこんな状態続くんだ」って怒られっぱなしできたわけですけども。

 もう最後に、じゃあもう答え出しておこう、先生もう逝かれるの決まってましたんでね、答えを出していこうということで、印可書の冒頭にあるでしょう。真祈りの全体像とは、全体図とは、ちゃんと書いてあるじゃないですか。そこに答えがあるわけですね。

 真祈りとは何かって言ったら、印可書そのものなんだということを書いてくださってるわけです。何で印可書そのものかというたら、真祈りは何かって言うと、例えば、今3月ですから東京大学に受かりますようにとか、何々高校に受かりますようにとかって祈るじゃないですか。これは、祈りじゃなくて願いなんですよ。でも今までのほとんどの宗教は、個人の願いを祈りだと教えて、その祈りなさいってやるわけですよ。神社だったら絵馬書きますよね。そういう感じで祈りと願いが、ごちゃ混ぜになってるわけです。

 本当の祈り、つまり真祈りとは何かというと、自分のために祈るんじゃなくて、みんなのために祈るが真祈り。みんなのためにっていうのは何かっていうたら、みんなが幸せであるように、みんなが平和でありるように、みんながいつも喜べるようにっていうね、そういう、みんなのため祈るのが真祈りなんですよ。

 その、みんなのために祈る真祈りって何かと言えば、それは神さまの御心をこの世に現す、イエスの言う「御心の天になるが如く地にもならせたまえ」というね、神さまの御心をみんなの、何て言うんですか、神さまの御心がみんな心の中に顕現すること、現れることが真祈りなんですよ。

 それを具体的にね、先生は、ついつい普段自分の仕事に心が奪われてお祈りができないんですっていう質問があった時にですね。「ありがとうございます」という10文字は、真(まこと)の神さまに心を向け続けることになるから「ありがとうございます」を唱えながらね、普段の生活をしなさいって教えるわけですよ。でも誰も聞かないのね、聞けないというかできないというか。

 どうしても「ありがとうございます」が、真(まこと)の神さまっていくら先生が説明してもですね。
 物をもらっての「ありがとうございます」から抜けきれないから、印可書を出されたわけですね。でも印可書は、全然最初に真祈り全体像とは、全体図とはって書いてあるのに誰も受け取ってくれないから、もういっぺん「ありがとうございます」に戻って「宇宙神」をつけてですね。

 「ありがとうございます」は物をもらっての感謝じゃなくて、神さまと一つになるための、神さまのお手伝いをするための祈り言葉だということで「宇宙神ありがとうございます」って示されたわけです。それも、それだけだったら不安になるんで、手振りをつけてね、手振りをつけて、要するに自分のための祈りじゃない。手振りというのは、もうしんどいでしょう。1回2回いいですよ、これ例えば、この護摩の会場で1時間ひたすら振るって、すごいしんどいじゃないですか。

 しんどくてもやるのは、みんな為、神さまの為にするから、その神さまの為にというのを手振りで示されてしたんだけど、みんなしてくれない。もうしてくれないからもうちょっと印可書をわかり易く、柔らかくしたやつで新たに作り直せということで、今ある印可書になっています。

 それが出来たんで先生はその時、その新しい印可書が出来た時に「本物が現れた!」って喜ばれて、結局は逝かれてしまうんですけど、その「本物が現れた」と言われてからもうちょっと、どうしても大変な部分を血の涙を流されてですね、お祈りして消されて逝きました、逝かれました。

 「もうこれだけしといたらええやろ」と言うことで、後みんなに任すわなということで印可書を残していかれたわけです。みなさんが、それぞれ印可書を選んでいただいてますので、この護摩でどんどん変わってきていますけども。それくらい真祈りというのは、神さまに、神さまのお手伝いをするための祈りということです。

 結局は何かと言うたら、神さまのお手伝いをしてたら、勝手に神さまと不離一体一つになるの、でも本当は一つになるではなくて、本来、真(まこと)の神さまそのものの自分に気づくだけなんですけどね。そのための真祈りの全体像とは、全体図とはなんです。その全体を知るための、全体をすべてが自分とわかるのが真祈りですから、もうただただそこだけです。それから離れると、そこから離れると何を見ても何を考えても悩むしわからなくなる。ただただそれだけです。

 だから、もし「そんな難しいこと言われたって、全然わからへんわ」でいいんですよ。「わからへんわ」の人のために、先生は護摩を残してくださったんです。護摩にさえ来てたら、「護摩の会場でしか真祈りの伝授はできないんだ」って、先生が仰って逝かれだんですね。だから、ここでしか本当は真祈りの伝授できないんです。

 だから、色々ありますけども、そのためのものですので、今の答えになってると思うんですけど、大丈夫ですね?

司会者
 大丈夫です。

河上さん
 ありがとうございます

質問2
  印可書を否定したり、それを他の人に言ったりしたら運命が悪くなると思いますが、印可書を奉読している人を否定したり悪く言ったりする事は同様になりますか?但し、その人は、相手が印可書を奉読している事は知りません。よろしくお願いします。

河上さん
 神さまの本質はね、絶対の自由なんですよ。みなさん、真(まこと)の神さまそのものですから絶対の自由を必ず持っているわけです。その絶対の自由を誰も止(とど)めることはできないし、止(とど)めたら神さまの邪魔をしてるわけです。

 だから例えば、印可書を選ばない、印可書を読みたくないというのも自由です。だから、それは構わないんですよ。でも、それを人の自由意志を縛ってまで、「あなた印可書はダメなんだよ」「印可書読んだらダメなんだよ」と言うとその人が大変なことになるんです。その人が、今度は神さまを否定することになるからね。

 お仕事でも、普段の生活でもそうなんですけども、相手の自由を縛った時は神さまを否定してるの。だから、常に相手の自由意志のままに動かさなくっちゃいけないの。例えば、お仕事で営業の事、製造の事、事務の事、経理の事とかを色んな事を教えなくっちゃいけない時は、自由意志を縛ってるんじゃないかなっていう質問がよくくるわけですけど、そうじゃないんですね。

 それをしたくなるように仕向けるんだったら自由意志を縛ってないんですよ。でも、こうしなくっちゃいけないだって言うたら自由意志を縛ってるの。でも、これは子供に勉強を教える時にもそうなんですけども、「これをしなさい」って言うたら誰もしないのね。本人が、やりたくなるように仕向けるのが勉強の教え方なんですけども。それは普段の生活でも一緒です。

 印可書も一緒で、そうして相手を縛る人は、結局自分が、自分で自分を縛って身動きとれなくなるんですよ。身動きとれなくなると、どういうことかと言うと自由に動けないから掴むところがなくなって下へ下へ滑り落ちていくんです。

 なんて言うんですかね、「俺は一生懸命真面目にやってんのに、なんか周りがいじめて、どうしようもなくなっていくんだ」みたいな人があるわけですけど、その人は何かって言うたら、結局、人を縛ってるの。

 人を縛ってるっていうのは、どういうことか言うと自分の思い通りにしたい人は、人を縛ってるの。わかります?自分の思い通りにしたいと言う事は、大なり小なり人を縛らないと思い通りにならないじゃないですか。

 でも、その思い通りにしたいと思った途端に、要するに希望実現の法則なんていうとね、人を縛る最たるもんだから大変になっていくわけです。自分で人縛ってることを気づかない、思い通りにならないから腹立つという感じで、どんどん下へ下へ落ちていっちゃうの。誰もいじめようと(→邪魔しようと)してないんですけどね、自分で身動きとれなくなって落ちるだけなんですけど。ただただそれだけなんですよ。

 だから、いかに相手の自由意志を縛らないかということが大事で、印可書を読む、読まないを選ぶのは自由意志ですけど「あんた、読んだらあかんよ」とか「あんた、読まなあかんよ」というのは、もうダメなんですよ。だから、かなり僕は「印可書を選んでくださいね」って言って、みなさんの自由意志を縛った分だけね、こんだけ体動かなくなるんです。

 先生は、必ず、絶対に人の自由意志を縛られないから印可書読めとも読むなとも仰らなかった。先生が人の自由意志を縛られ時は1回だけです。村に、やっとお祈りの部屋が完成した時に、「みんな朝3時から出てきてお祈りに来い」って言って自由意志を縛られたのが1回。後にも先にもそれだけです。それくらい説明するだけでも相手の自由意志を縛って、こちらが不自由になるんですけれども。

 ともかく、何々したからいいんだ、何々したから悪いんだと言うのは、感覚的で言うと、この世的な感覚で言うとそうなのかも知れませんけども、そうじゃなくて、自由意志を縛ることが大変なこと。要するに自分が動けなくなるということなんです。

 だから、運命が悪くなるじゃなくて、自分が動けなくなって、いい運命も悪い運命も何もかも選べなくなって、滑り落ちていくだけみたいな感じですね。

 だから、なんていうんですかね、その思い通りにしたい希望実現の法則がいいんだと思っているうちは大変なんですよ。なぜかと言うと絶対の愛である神さまがね、その人にとって1番いいようにしかしてないのに、(神さまは私のこと私の希望がわからないから)こうしたいと言ってまた(自分の運命を)いじるんでしょう。いじった分だけおかしくなるの当たり前です。

 だから、自分の希望を望むと言うのは、神さまが(今を一番)いいようにしてるって(いうことがわからなくて)、神さまを信じてないと言うことです。(本当はそれは)神さまを侮辱してるの、本当はね。(自分の思い通りに)こうしたいんだって言うのは侮辱してるんよ。本当は、東京大学に行くことによって人類に役立つ人、あるいは本当に下支えの働きだけをして人類に役立つ人って、みんなお役目が違うのね。

 だから、この世的な評価とは別に、必ず1番その人にとっていいようになってるわけです。ただただそれだけなのに自分の望みを言うわけでしょう。望みを言うということは、神さまを信じてないということになるんですよ。その辺が、中々みんな(わからないの)みんな(は自分の)思い通りにしたいからね。

 自分の親でも子供でも旦那でも嫁でも思い通りになったためしないのにね、まだ思い通りにしたいって、みんなもがくんですよ。そろそろ気づいていただきたい。ありがとうございます

質問3
 異空間について2つ質問がきています。
@異空間とは、この世ですか?あの世ですか?それとも次元が違うということですか?
A異空間に行った人は、もう帰って来れないのでしょうか?また、逆に異空間からこちらに来ている人もいるのでしょうか?今年になって、さらに時間が早くなっていると感じてます。この事も関係ありますか?どちらにしても、切羽詰まっている感じがします。よろしくお願いします。

河上さん
 すべてはね、今ここにあるんです。異空間とかいうんじゃなくて、今すべてはここにある。例えばテレビ。まあ12チャンネルありますよね。今は違うんかな(笑)。まぁ12チャンネルあるとするじゃないですか。だから、その12チャンネルのすべての番組は、この今ここにあるわけでしょう?それをテレビという機械を通して、チューナーを通してですね、チャンネルをガチャガチャ回して選ぶだけじゃないですか。でも、今ここであって異空間ではない。テレビだけに限らず、すべての地獄も天国も真(まこと)の世界も、今ここにあるんですよ。もう只々それだけなんです。

 それに気付けばいいんですけど、みんな平面的に捉えてね、あーだこーだと思うわけですね。それで例えば、縄文時代も今ここにあるんですよ。弥生時代も江戸時代も今ここにあるんです。ただ、そのチャンネルですね、響きに心を合わすか合わさないかだけなんです。それはエジプトのピラミッドを作った時とか、アトランティスの時とか、歴史上色々なんです。どの歴史も今ここにあるんですよ。それは未来もあるんです。

 常に、どの異空間も、異空間というか、どの次元もですね、本と一緒です。過去も未来も全部、結末までできているんですよ。唯一できていないのが、この肉体界の地上だけなんですね。みんな、その結果がわかってる映画を何回も見せられてつまらないからね。それで、この肉体界をみんな見てるんですよ、上の人も下の人も。それで(どの階層の人もみんな)この肉体界を見て悟りを開くんです。

 だから、この肉体界での真祈りがどれだけ大切なことかっていうのはね、なんでこの肉体界だけ将来が決まってないかというのは、色んなスクリーンが重なってることによって将来が決めれなくなってるだけなんです。逆に言うと、重ねるから先が、まあ映画がそうでしょう?結果がわからないから面白いんですよ。結果がわかっていたら最初から見ないよね。

 そういう感じで、ある意味一番楽しい世界なの、この肉体界は。だから(肉体を持つというの宝くじにあたるくらい貴重なことなんですけど)、みんな肉体を持ちたくなってですね、この2月3月になってくると、(あちらの世界では冬眠から)みんな目覚めてね。余計、この地上に見て(降りて)くるんですよ。それで、例えば3月病とか5月病とか6月病とか、あるじゃないですか。それはもう、むこうの世界の(冬眠から)目覚めた人がですね、一斉に地上に響きを送ってくるわけですよ。それを縁のある人が肉体に受けて、ちょっとこう、精神的に辛くなったり、(憂鬱になったり)体が不調をきたりしたりとかっていうのが、あるのが秋分とか春分とかね、この世的には言いますけど、お盆とかね、ということなんですね。

 只々それだけで、その異空間がどうこうという問題ではないです。それで、この空間というのは何かと言うと、電磁波という単なる周波数の波なんですね。波の集まりだけなんですよ。だから、その空間がどうこうとかいうんじゃなくて、ただ、波の響きが、音楽で言うと、低い音ばっかり出てたのが、ちょっと高い音出てきましたよ、とかね。そういう感じの変化だけです。ただ、人類が電気をいじりすぎてね、変な音になってるというのは確かです。でも、それは真祈りで戻りますから、そんな心配することはないです。まあ、そういう意味では、この護摩が本当に大切です。ありがとうございます

質問4
 前回の質問で「印可書を早口で唱えてもよろしいでしょうか?」の質問の答えが「早口で唱えてもよろしいですよ。」との答えでした。私も早口で唱えてしまう時があったので、あー良かったと思いました。でも私の質問ではないのに、「早口でもいいんだ!」と受け取ってもよろしいでしょうか。

河上さん
 いいです。はい、自由自在です。

質問5
 70代前半の女性です。昨年、加齢性難聴と医者に言われました。補聴器を利用する程進行していません。進行を遅らせる方法はありますか?

河上さん
 要はね、全身の血のめぐりが悪くなってるんですよ。それは年を取られてきて、自分で自分を縛ってね、「年を取ったから動けないんだ。」とかね、年取ったからあーだこーだって勝手に理由をつけてね、してるだけですね。難聴であろうが何であろうが、真祈りすれば一瞬で治るものばっかりなんですよ。それが具体的にね、真祈りしてないと、例えばその人にとって、体を動かす方がいいのに動かさなくって、本当に真祈りしてたら動かしたくなるんですけど、動かさなくなって、なってるだけです。

 それで、もう時間切れで切羽詰まってるんでね、ちょっともう大おまけで、今、先生が「言え。おまけ出せ。」と言うから出します。

 印可書を唱えながらね、これ、後で文章でうまくやってください。手のひらをこう合わせて(左の手のひらを反して、それを右の手を重ねます)、この無限大の8の字を、こう書いてください。これ、この印可書を唱えながら、まず、起きる前に仰向けに寝たままで、左右印可書を1回ずつ唱えてください(8の字をえがきながら)。それで起きてからまた、立ったままで、左右1回ずつ印可書を唱えてください(もちろん8の字をえがきながら)。そうすれば内臓の働きがよみがえります。

 それでまた、先生が「もう一つ、おまけ出せ。」って言うから出します、もう。座ってね、あんまり歩けない人のために、「おまけ出したれ」って言うので、今出しますから。座ってやります。これ、録音に残してもしょうがないんで、見ていってください。それでまた、文字起こしする方が、うまく書いてください。

 座って歩けない人のために、座ってこう、これあの、手の…。

 ごめんなさい。座ってね、歩けない人のためですけど。歩けない人じゃなくても、普段ちょっと座った時でも(すればいいんです)、この太ももの上から膝までを、手のひらを離さずに。それで、肩をね、前に入れる。これをしながら「宇宙神ありがとうございます。」を選ぶ人はそれでいいですし、印可書を唱える人は印可書を唱えて。あるいは「ありがとうございます」でいいですからやってください。

 それで「宇宙神ありがとうございます」しか選べない人は、特にこれが大事で。これをしてると、ちゃんといわゆる真柱(しんばしら)を立てる場所に力がこもりますので、真祈りになります。必ずこれをして。これをしてたら、あとは体得できます。すごいおまけやな、これ。それで必ず手のひらを離さないようにね。この足で手のひらをマッサージをすることにもなる、足のマッサージと手のひらのマッサージを兼ねてます。これでやってください。そしたら、毎朝散歩に行けない時、雨が降っていて散歩に行けない時でも、散歩の時間分をこれをしてたら、あるいはテレビも見ながらでいいですから、お祈りしながらやってください。そしたら、全部改善されます。ありがとうございます

おまけについての質問
 すみません。一つ目、をもう一回やってもらってもいいですか。一番最初の手のひらの…

河上さん
 あ、手のひらのね。左の手のひらを反して、それを右の手を重ねます。こういう形ですね。これで大きく8の字を書きます。8の字を書きながら印可書を唱えてください。「宇宙神ありがとうございます」の人はそれでいいですから。これを印可書を唱える方は、これで印可書を1回分して、今度は逆に右の手のひらを反して、そこに左の手をあてて、同じように、この手のひらの向きで8を書くように。分かります?

 手の固いうちは無理しなくていいですけど、柔らかくなってきたら、この手のひらの向きで8を書けるようになりますから、それをしてください。それで大丈夫です。

 後は、その8を回す余裕もない時はですね、振り上げてください、やっぱり逆に替えて振り上げます。それで、それすら余裕がないんだっていう人は、ほら、ジャンケンの時にこうして見るじゃないですか、それを左右何回かしてもらえばいけます。

 いいですか、すごい先生おまけ出すなあ。はい、これでやってください。そしたら内臓の血流が良くなります。今、先生の説明ですよ。内臓の血流が良くなるから内臓が元気になる。例えば今の耳だったら、耳の鼓膜の血流が良くなって、難聴は解消されます。

 ただし、真祈りを重ねるからですよ。形だけしたってダメよ。ここが大事なんですよ。みんな形だけ真似しようとするから、ややこしくなるんで。真祈りを重ねての話です。ありがとうございます

おまけについての質問
 座ってやるのは、椅子でも正座でもどちらでも?

河上さん
 いいです、いいです、はい。椅子でも正座でもなんでも大丈夫です。お年を召されるとね、膝が曲がらなくて正座ができなくなってくるんで、椅子に今しました。本当は、基本は正座でやるのが基本です。

質問6
 最近の出来事についてお尋ね致します。
@運転免許証が見当たらず、再交付してもらった後に見つかった事。
A踏切で一旦停止したつもりでしたが、ブレーキペダルをしっかり踏んで安全確認をしていなかったと違反切符を切られた事。
B新しく舗装された農道の脇が、斜めに傾斜しているのに気付かず、側溝に前輪が落ち、車の修理が必要になった事、等。
すべて私の不注意で起きた事ですが、このような一連の出来事は、、神さまからの何かしらのメッセージととらえ、真祈りに励み何事も真剣に生きるようにと受け取りました。アドバイスをお願い致します。

河上さん
 はい、基本的には、それでいいです。例えば、免許証を失った形でね、小さく消してもらったのね。それで、踏切の一旦停止はですね、一旦停止して左右を確認しなさい。道交法では、窓を開けて音まで確認しなさいって書いてありますからね。それをしていなければ、そりゃ違反切符切られます。形だけやっても。

 側溝に落とした分も、もっと相手が車にぶつかるとかね、もっと大きな事故になるのを小さく済んだだけです。で、どれもこれも、「惰性に生きているよ。この世のできごとを当たり前に受け止め過ぎてるよ。」ということを教えてもらったというふうに受け止めればいいです。本当は、いつも一番いいようになってるんで、そこまで考える必要もないですけど、考えた方が思いやすいですよね。だからそう思っていただいて大丈夫です。

質問7
 最近、松下先生のお話を毎日のようにYouTubeで聞きますが、なぜか内容が頭に入ってきません。というより、集中力も途切れてしまいます。河上さんの勉強会のYouTubeでは、内容がサクサク頭に入ってくるのに、なぜ松下先生のお話はなかなか理解できないのか、何か理由があるのでしょうか?

河上さん
 はい、あります。はっきりあります。まず先生のお話はね、すごい光が強いんですよ。光が強いから内容がわからずにでも聞いておくと、どんどん光であぶり出されてね、色んな思いが消えていくんですよ。その消えていく時に、先生の話が頭に入らずに、「あの時、あの人にフラれたなあ。」とかね、「あの時、あの人にいじめられたなあ。」とかね、色んな過去のことが湧き上がります。ただそれだけです。で、僕の話は光が弱い。弱いから聞きやすい。それだけです。ありがとうございます

質問8
 糖質制限について二つお聞きします。@糖質制限を始めて3か月になります。太ももがかなり細くなったような気がします。筋肉量は大丈夫なのかどうかお聞きしたいです。よろしくお願いいたします。

河上さん
 例えば、年を取ると筋肉が落ちるとかね、言うじゃないですか。それはまあ、もちろん運動不足もあるけど、その前に食事の問題で筋肉を落とすんですね。落ちたから余計動きが煩わしくなって、余計動かなくなってっていうのを、老化という言葉に言いわけしてね、みんな誤魔化してますけども。

 本当はね、筋肉が減ると、基礎代謝量が落ちるんですよ。みなさん一番大きな勘違いは、運動してエネルギーを消費すると思ってるでしょう?でも本当は違うんですよ、体の7割は基礎代謝によってエネルギーが消費されてるの。基礎代謝というのは何かと言ったら、呼吸することとか、消化するとことか、あるじゃないですか。内臓が色々と動くことによって基礎代謝が起こるわけですね。それで若い時は、こまめに動くのもあるし、内臓が元気に動いてますから、基礎代謝量が高いわけです。

 糖質をね、若い時からたくさん、みんな摂るじゃないですか。すると若い時でもスパイク値といって、ピークの血糖値は上がるわけですよ。そのピークの血糖値が、若い時は、すぐ下がるから影響出にくいですけども、どっちにしても、毛細血管が壊死するんです、ピークの血糖値を出すと。

 だから例えば、チョコレートが美味しいからと言ってね、一粒ぐらいに辛抱しとけばいいのに。あんまり僕、人のこと言えないけどね。5個も6個もウワッともうまとめて食べちゃうわけね、次から次へとね。するとピークがバンっと上がって、その時に毛細血管が壊死するわけです。壊死すると、まず筋肉が弱るの。表面の筋肉はね、またボディビルするとか歩くとかして鍛えれますけれども、内臓の筋肉というのは鍛えようがないと今日、答えようと思ってたら、今、先生がおまけで、さっきの運動を言いましたから。あの運動をしていたら内臓の筋肉も鍛えられて、基礎代謝が上がりますから大丈夫です。

 ただ、年を取られると食べる量が減るのね。減った時に、何を減らすかと言ったら、糖質だけを減らして、タンパク質を減らしてはダメなんですよ。でも年を取ったらタンパク質も減るのね。全体を減らしちゃうから。それで年を取ると、意識的に糖質は摂らずに、お魚とかお肉とか卵とかねいう、タンパク質を摂って。後はカルシウムですね、何?ちりめんじゃことか、あるいはカルシウム剤でもいいですから、カルシウム系を摂らないとダメなんです。

 今の医学では、わかっていないですけど、カルシウムにすごい微妙なもの、栄養素があるんです。それが不足すると、少々タンパクを摂ろうが栄養を摂ろうが、体に吸収されないんですよ。これは何でわかるかと言うと、この前の世界大戦の時にね、日本からフィリピン(南方に)に、たくさんの方が、喜んでは行ってはないですけどね、(無理無理)行かされて。それで補給が途絶えて食料がなくなるわけですね。そしたらみなさん、帰ってこられた方が、生きて帰って来られた方ですよ、背骨が曲がってるんですよ。それは何かと言うと、食べるものがなくなると、最後は骨から栄養を摂るんです。それくらいカルシウムって大切なものなんでね。だから意識的にタンパク質と、お年を召されたらね、意識的にタンパク質とカルシウムを摂ってください。摂る量は、もしカルシウム剤から摂る時は、箱の説明書通りに摂られたら大丈夫ですから。はい、そういう形です。

質問9
 A時々低血糖になり、ふらっとすることがあります。気にしなくても大丈夫でしょうか?

河上さん
 これはですね、要するに、食べ方がね、まとめて食べるからです(まとめて食べると血糖値スパイクがあがってインシュリンの分泌量が不安定になってその結果、出すぎて低血糖を起こします
 。だから)。分けて食べてください。そうすれば問題ないです。ただ、分けて食べると満腹感がないでしょう?それで、寂しいから、ついついまとめて食べるんだけど、まとめて食べなければ大丈夫です。

 低血糖がね、一番色んな意味で(危ないし怖いんです)、運転中なんかに起こったら危ないし、立ち眩みして倒れたって怪我しますから。低血糖が起こった時は、そういう、なんていうんですか、うまく食べてですね、回避してください。

 その、なんで低血糖が起こるかと言うと、糖質を摂り過ぎて、スパイク値を上げてるんですね。それで、血糖のスパイク値が上がると、すい臓の方はインシュリンをその量を出そうとするんです。若いうちはね、そのスパイク値に合わせたインシュリンを一瞬で作れて、パンっと出すから、ちょうどいいように下がるんですよ。ところが年を取るとね、すい臓の方は元気ないですから。ただ、脳からの指令は、これだけのスパイク値、例えば400の血糖スパイクが出たら、400の分のインシュリンを出しなさいって、脳からは、すい臓に命令がいくわけですよ。でもすい臓の方は若い時のように一瞬で作れないから、一生懸命、それでも真面目に一生懸命作るの。すると今度は、血糖値は下がってきているのに、インシュリンは出っ放しになるのね、それで低血糖を起こします。そういうことなんです。

 だから、お年を召されたら召されるほどね、満腹感が出ないのは寂しいけども、分けて食べてくださいというのは、そういう意味なんです。すい臓の出す色んな、インシュリンに限らないんですけども、他の脾臓でも全部、色んなことの必要な酵素分を出すわけですけど、お年を召されると、その酵素が出にくいんでね、分けて食べてくださいって言ってます。

 ただ、今の先生のおまけで、あの運動をしたら、どんどん内臓が回復してきますので、若返ります。ありがとうございます

司会者
 会場の方で河上さんに質問がある方は、いらっしゃいますか?(おられました)

質問10
 ありがとうございます 今のお話で質問者の方の症状から始まった体操だったと思うんですけど、これ万病にオールマイティに効くということでよろしいでしょうか?例えば私の場合ですと最近ちょっと胸が痛いことがあるんですけど、先ほど紹介していただいた・・・

河上さん
 だから、そのオールマイティ、形じゃなくてね、まず真祈りなんです。本当は真祈りしてたら、自然に先生が響かしてきてるこの形とかが出てきて、自分でするようになるんだけど、ちょっとおまけで真祈りする前から先に教えとけっていうことで、今教えただけで形だけしたって駄目です。あれをしてる時に、真祈りするから、その真祈りがみんなできないから、真祈りの全体像、全体図とはという印可書を奉読してくれということだけなんですよ。もちろん「宇宙神ありがとうございます」でもいいんですけどね。それで心が不安にならなければ、それでも大丈夫です。

司会者
 他にいらっしゃいますか?(おられました)

質問11
 はい、ありがとうございます  物質化学の宇宙ができて、軽い物質から重い物質にどんどん星が質量を増やして爆発を繰り返して、重たい元素になってくる事と、人間の意識との関係みたいな。魂が古いですとか新しいっていうのと、重たい物質、重金属みたいな放射物質みたいなのとなんか関係?すごい長い歴史の物質だと思うんですけども ・・・

河上さん
 物質というのは、一瞬一瞬新たに今ここに現れてるだけで、古いとか新しいはないの。魂も一緒です。一瞬一瞬新たに今ここに現れてるだけで、古い新しいはないんですよ。ここが大事なんです。その古い魂、説明の都合上ね、古い魂、新しい魂と言いますけども、本当はみんな、一瞬一瞬新たな新しい魂なんです。ただ、ただ今言うように物質に歴史があるとか、時間軸があるとか、物質があるとかって掴んでる人は新しい魂なの。さらさらと受け流す人は古い魂っていうふうに説明の便利上ね、よく理解してる人と出来ない人って言うたらね、”あほ”と”賢い”みたいになるじゃないですか。それで古い新しいという言い方をしてるだけで、本当は全部新しいんですよ。物質も一瞬一瞬新たに今ここに現れるんですけど、E=mc二乗(文字化けするのでこの表記にしました)で全て解決してるんですよね。要するにE=mc二乗ということは、m要するに物質ですね。物質=光二つのエネルギー。要するにエネルギーが二つに分かれたものが物質だよって、公式は書いてるわけですよ。みんなcの二乗って、何のことかなぁって言うてるけど、そうじゃなくてcが二つなんですね。わかります?

 物質というのは、エネルギーが光が二つに分かれて、光が二つに分かれるって何か言うたら、電磁力と電気力線というね、要するに二つの波に分かれると思ってください。二つの波に分かれた状態がエネルギーで、その二つの波のエネルギーが入れ子構造的に重なって重い物質になるか軽い物質になるかなんです。

 この辺の事がわかると空飛ぶ円盤も作れるし、みなさん肉体の状態で空を飛ぶ。イエスのように水の上を歩く事ができるんですけど、軽くこのへんの説明にしておきます。これでいいですか?

質問者
 はい。後、西洋の方で錬金術みたいな、本当か嘘かわからないんですけれども、鉛を水銀にして、水銀を金にするみたいな技術が、昔あったという。

河上さん
 あります。自在にできます。だから、出来損ない、出来損ないの円盤はね、金をエネルギーにして動くんですよ。でも本当の円盤はね、そんなことをしなくても飛べるんです。あんまりこの辺を言うとみんなぽーっとなるから、あんまり普段言わないんですけど、それくらい、その物質と。要するにE=mc二乗ですよ。物質とエネルギーは同じものなんです。それを具体的に細かく言うと光。

 光って粒子と波と両方持っているって言うでしょう、そうじゃなくて、粒子と波の。要するに電磁波(→電磁力と電気力線)なんですけど、要するに二つの種類のエネルギーとして出てるものが、絡み合って入れ子構造的にして色んな表現をしてるというふうに思ってください。それだけなんです。だから、絡み合った入れ子構造的な的な組み合わせで金ができたり、重金属ができたり、鉛ができたりするわけで、入れ子構造で組み合わせと組み合わせを変えれば自在にできるわけです。

 だから、神さまは一瞬で七日間でこの世をお作りになったわけです。その心に囚われない(無色透明だ)からね。でもこの世的な人は時間があって、例えば、セメントだったら砕いてからとかね。囚われがあるわけです。あるから時間がかかって色々と、(まあ)そうしてわざと囚われを作って楽しんでるだけですけどね、そういうことです。よろしいですか?

質問者
 最後に、以前、金もいずれ変わるみたいなことを河上さん・・・

河上さん 
 もちろんですよ。

質問者
 金って変わらないんじゃないかと思っていたんですけど。

河上さん
 そんなことはないです。変わるから金をエネルギーにして円盤が飛んでるの。変わらないものだったらエネルギーにできない。あれが一番エネルギーにしやすい形です。エネルギーにしやすい形だから、緋緋色金(ヒヒイロカネ)とも言うんですけども、金の色んな種類があってね、エネルギーにしやすい形だから、要するに金の種類の分け方です。形だから、この世的には安定してるんです。この世的に安定してるというのは、逆に使いやすい。数式出してこないと説明ができないんでこの辺にしておいてください。ありがとうございます

質問者
 ありがとうございます

司会者
 他にご質問ありますか?(質問がないので))河上さん、お話よろしくお願いします。

河上さん
 ありがとうございます ともかくね、この護摩が本当に大事なんですよ。いつも言うように、この地上だけがね、結末がわからない、楽しい世界なんです。そのいい結末を作るのが真祈りだけなんですね。この肉体を真祈りを響かしによって、全宇宙すべてが宇宙人も助けて欲しくて来てるわけですけども、この護摩の日には本当にここに集中して、今日は途中で一杯、本当に一杯で来るのも遅れたし色々あったんですけども、なるわけですよね。だから、まず護摩を維持してして、護摩に来て、要わからんけど、ここで印可書を読むんだぁと思って来てください。

 護摩の会場で印可書を奉読できる方は来てください。本当に地球の裏側とか遠距離の方は、護摩木を書く。護摩木が手に入らない方は、ひたすら、この護摩の時に、どの場所におられても印可書を奉読してください。それがどれだけね、すべてのすべてを変える大きなエネルギーになるかということなんですね。

 色々と何て言うんですか、この世的にずるく生きてたり、色々あると思うんですよ。自分はこんなにずるくやっていたから、もうダメだと思っている方もいらっしゃると思うんですけども、その今の一瞬にすべてがあるからね、過去は関係ないの。今、印可書を奉読だけ!神さまのお手伝いだけ!って決めたら、それで一瞬が変わるんですよ。それをまずわかってください。

 だから、耳かきの働きがいるのっていうね。もちろん、昔からずーっと真祈りをしてきた方は大きな雪上車の働きだけども、だからといってこの隅っこの所は、耳かきの働きでないとダメなの。だから、俺人も殺してきたし、悪い事を一杯してきたという人でもね。今、今、ここで神さまのお手伝いをする。印可書を奉読して選べたら、それだけいいんです。

 だから、「善人なおもって救われる、いわんや悪人をや」ってね親鸞さんが仰ったの。今、南無阿弥陀仏唱えたら、もうそれがすべてでいいんだよって言うね。その南無阿弥陀仏が、今は印可書ですから、どうかね、印可書の奉読だけに、すべてを注ぎこんでください。

 もちろん普段のお仕事は朝飯前にこなすんですよ。印可書を奉読してるから普段の仕事は朝飯前にこなせるんですよ。普段の仕事が行き詰まるというのは、印可書を奉読しきれてないからだと反省して、どうか頑張ってください。また来月お会いできることを楽しみにしています。ありがとうございます

 音声はこちらからどうぞ
 https://youtu.be/ganauSnZzY8

 宇宙神ありがとうございます


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3月光の交流会 by 河上彰延 [Mail] 2023年03月07日(火) 21時37分
PC

3月光の交流会
 宇宙神ありがとうございます
 
 令和5年3月光の交流会で聴いていただいた先生のお話です。

先生
 虚の世界と真(まこと)の神さまの真実の世界と自分がどちらを大きく認めてるかでしょう。思いの心は、虚の世界100%なの。本心の自分は、真(まこと)の神さまの世界が100%すべてなのね。今の自分が、どこまで真(まこと)の神さまを認めているか。割合に応じて本心の出方が決まるの。

 それも、すべて言葉通りだけど、どれだけ真(まこと)の神さまを言葉にして受け入れているか。最初はみんな思いの心だから虚の世界が100%なの。それを言葉を変えて、真(まこと)の神さまだけっていうふうにね、真(まこと)のプラスの言葉を真剣に積み重ねたら、本心がどんどん増えてくる。

 本心の自分が出てくると本心の自分は、真(まこと)の神さまの世界だけを認める自分なの。

 それが100%までいったら、虚の世界は消える。思いもすべて消える。最初は100%虚の世界を認めてた自分が、今度全部消えて、虚の世界消えて、100%神さまの世界だけって言えないとダメ。そしたら神さまの世界に住む自分に変わる。

 だから思いの心を生きてる間は、まだ過去を掴んで(現実を掴んで)、マイナスの虚の言葉を使って、言葉通りの世界を生きてるだけよね。

 まだ神さまの本当の神さまの世界がわからない。それを逆転させないとね。(すべては)本当の真(まこと)の神さまだけなんだっていうふうに、それ以外何もないっていうところまで100%真(まこと)の神さまだけっていうところまでいかないとダメよね。

 厳しいっていうたら厳しいよね。

 過去に積み重ねた無限の思いを全部消し切らないとダメ。真(まこと)の神さまの世界は一大循環の相象(すがた)をとってるね。入れ子構造で重層構造で異次元構造で、ところてん式で全部詰まって、全方向から螺旋状に舞い降り舞い昇る、降り注いでるわけよね。螺旋構造っていうのは、常に必要なだけを与えて残りUターンだから、絶対の中心から与えてくるのは必要なだけしか与えてないよね。

 残りUターンっていうのは、全部Uターンするっていうことは、下から見るとみんな跳ね返されるの鏡になってね。

 だから神さまの世界が入れ子構造っていうのが、天の岩戸が無限にあるの。下からは絶対に上がれないの、必要なだけしか降ろしてないから、上に上がるためには、天の岩戸を開かないとダメなのね。

 その天の岩戸を開くために何が必要かって、自分一人の力では重たくて開かない、押す力なのね。奥へ押し上げる力、与え尽くす心。一人では力が限界があって重いから開かないの。

 だから全部の力を結集して一つにまとめないとダメ。だから自分の力を1としたら(その1の)無限倍の力を一つにまとめないと結集して押したら開くの。その自分は(小さい自分ではなくて、すべては自分、すべては真(まこと)の神さまという)大きい(真(まこと)の本心の)自分になってるね。

 だから、一段上がった世界で住めるの。

 小さい自分じゃ一段上がった入れ子構造の世界に住めない小さすぎてね。

 常に今の自分が(今いる世界のすべて)全部(を)まとめないとダメね。

 すべて自分の中に取り込んで大きくなって与え尽くさないと入れ子構造の門は、天の岩戸は開かないの。これは真実の世界はそういう仕組みになっているの入れ子構造だからね。

 恩返しの心、しっかり生きるっていうのは、与えて(与えて)尽くす心だけになるっていうことよね。

 愛する与え尽くす心でもね、まだ報い求めるとこがあるの。これだけ愛して、これだけ素晴らしいものを与えたからちょっとは受けて欲しいとかね、ちょっとは喜んで欲しいとか、ちょっとは感謝して欲しいってね。求める心がちらっと出て来るんですね。

 でも(ね)恩返しには求める心は一切ないの。ただただありがたいからお返しするだけでね、自分の命もお返しするから、死んでもありがたい。全部を与え尽くしてもありがたいだけなのね。死んでも(なにもかもなくなっても)ありがたい、消えてしまってもありがたい。

 恩返しには求める心はみじんもないの。恩返しに生きる練習をすることで、本当に与え尽くす生き方になるの。

 恩返しを忘れたらやっぱり、一大循環の相象(すがた)を止めてしまっているのね。

 大自然へも恩返しの気持ちで生きてたらね、必要なものを次から次と与え続けてもらえるけどね。

 (今の人はね)恩返しじゃなしに求める奪う心でね、奪ってしまってるのね。それは間違い反動としてね、また(すべてが)マイナスになって出てくる。

 ちょっとでもマイナスがあると思ったら(神さまにごめんなさいと謝って、あらためて思い直して)、「すべて完璧」って言わないとダメよ。「すべて完全」ってね。ちょっとでも自己限定が出てきたら「無限力」って言わないとね。その言葉でマイナスを打ち消さないと負けてしまうのよ。常に打ち消す繰り返しの言葉を用意しておかないと即座に即座に言えるのがいいの。

 何を見ても全部プラスに翻訳してしまう。大きいプラスに翻訳できたら大きい。翻訳よりもね大きいプラスに断定するのよね、翻訳ぐらいじゃダメよね、まだ。

質問
 ありがとうございますの価値を高めるために、本心の自分の16項目を言った後に「真(まこと)のありがとうございます」って言ったら「真(まこと)のありがとうございます」の価値を最高にして言ってるっていうお祈りになる?

先生
 なるよ、価値を大きくしてることになるよ。「全部を束ねたありがとうございます」になる。本心の自分を表す真(まこと)のプラスの言葉が大きくなっている。「ありがとうございます」が全部そういう意味を中に持っているの、兼ね備えてるの。「ありがとうございます」って言ったら「一切我のない無色透明の自分」っていうふうに、本当はすごいことなんよ、「ありがとうございます」一言に、この16全部は入っているのよ。「ありがとうございます」で「永遠の自分 」「完璧な自分」全部入ってる。

質問
  実観(感)するためには言った方がいい?

先生
 何回も繰り返し繰り返し言って全部束ねないとダメ。具体的に繰り返し唱えて、唱えることで束ねられる。「束ねたありがとうございます」にならないと、何もなかったら何もないありがとうございますよ。だから具体的に色々数えあげないと護摩木に書くのもそうでしょう。

「新たなる全徳の無限の無限の輝きが無限に無限に一杯!」ってこれだけでもいいんだけど、全徳を具体的に数え上げた方が中身が大きく深く濃くなる。それを「全部束ねたありがとうございます」がいいのね。

 虚の世界の言葉の解釈と虚の世界は、例えば肉体の健康とか言うでしょう。本当の健康っていうのは、健やかで安らかでっていう意味でしょう。

 肉体の単なる病気のない健康と違うよ。本心の自分も健康、全てどんな姿をとった時も健康って、植物でも健康でないとダメでしょう、花咲いてるんでもね。ありとあらゆるものが健康でないとダメよ。みんな若いって言うんでもそうでしょう、一瞬一瞬生まれたてってみんな若い、どこまでも若く若く。若くなるほど神さまの世界では古い人よ。

 だから勝ち負けの勝って勝負でもね、勝っていうんでもね、勝利って言うんでも本当の勝利は、本心は思いには負けないっていう勝利じゃない。

 絶対に負けない、常勝不敗っていう勝利 。勝ったから相手を負してるんじゃないよ。勝ち続ける勝利もあるよ。虚に転落しない勝利ってあるじゃない。そんなんプラスの勝利じゃない。

 成功って言うのもそうじゃない。虚の世界の成功じゃダメよね。本当の成功っていうのは必要なの。また栄光っていうんでもそうじゃない、虚の世界の栄光は大したことないね、神さまの栄光は、無限に無限に大きく輝くじゃない。

 本当の言葉って神さまの世界の辞書で解釈したら、どんな言葉もプラスの解釈だけ。だから反対の解釈あるのよね。虚の世界で死ぬということは、神さまの世界では生きるっていうことよ。解釈が生きるっていう意味。いろんな意味がいっぱいある、10通り以上。

 幸せっていう言葉でも幸せが種類が多い。いろんな種類の幸せがあり、いろんな人の幸せがあり、いろんな動物の幸せがありって、みんな束ねて、幸せが無限の無限の種類になってくる。単なる幸せじゃない。大きいし深いし種類が多い。

 赤い色って赤い色って言っても一色じゃない。この世界の赤い色って言うだけでもいろんな赤い色がいっぱいあるじゃない。神さまの世界にも、色も沢山ある。だから全部の言葉がそういうふうに、一定の一つの解釈じゃない。いろんな種類の大きい解釈がある。

質問
  全部の言葉に無条件が本当はつくの?

先生
 無条件だけど、これは無限の無限のっていう意味よね。多すぎて条件がつかないっていう意味だからね。入れ子構造の無限の無限のっていう意味。全部につく。無条件が無限の無限のっていうのがね。

 だから楽しく言葉遊びをしないと楽しく楽しく。手を一杯動かさないとダメ。手が二本と思ってるやろう、本心の自分は千手観音でもないよ、もっと多いよ。本心の自分は千手観音の手より多いのよ、千本以上。発想がそのぐらいにならないとダメよ。手を何本持ってるの言われたら千本言うても足りないのよ。無限って言わないといつもね。

質問
  それを具体的にわかっていくために、一個一個分けて言葉遊びをしたりとかしながら

先生
 言葉を遊びを楽しみながら、言葉を大きくしていくのよ。タコの八ちゃんじゃダメよ。八本じゃ足らない。

質問
 職場で働いている時に、本当にも上昇志向でとにかく上にいくぞ、人は自分のために利用していくっていう人がいると、すごくイラっとくる。

先生
 イラっとくるのね。たぶんね、たぶんね。何でだと思う?イラっとくるのは、これはみんな過去世の自分の姿なの。人のだと関係ないのよ。過去世の自分の姿が、そういう姿の時があったの、それがまだ残っているからイラっとくるの。イラっとくるのは、そういう意味でイラっとくるの、それでもうを消すチャンス。

質問
 イラッときた時に、ありがとうチャンスだと意識してお祈り、言葉を選べる時と、どっぷりつかって、もう体中体感してしまって、もう数週間抜けられない時がある。

先生
 抜けられない時があるの。ちょっと真祈りを楽しんでいるの。1週間ぐらいだったら短いけど、1週間で消してしまうの、もったいない。1年ぐらい持っててもいいよ。1年ぐらい持ってるつもりでいたら、簡単に消えるの。1年間持っといてありがとうございますを唱えてごらんよ綺麗に消えてしまうよ。1週間で消そうというと忙しいよね。

 過去世のいつの時代かの一生分の姿よ全部。そういう生き方をした時の自分の姿が残ってる。思いとして記録されて残るのね。それが鏡に写すように、いろんな所に写って見える。それで、ちょっと引っかかる時が、これを消した方がいいねっていうメッセージ。1年ぐらい楽しみながら、1年も関わらんでいいよね、1週間でいいよね。

質問
 その時にいったい、ものすごく今っていう時間を無駄にしているような気持ちに、自分の本当に今、そんなマイナスの事をマイナスじゃないんですけど、ものすごい無駄にしているなぁって、凄く惜しい気持ちになったり、凄く虚しくなったりすることがある。

先生
 だから、それ全部消す、消すために真(まこと)の神さまだけって、真(まこと)のプラスだけって、プラスを加えるのよ。虚しさが消える。儚さが消える。

 みんな思いがある間は虚しいのよ、儚いのよ。表面気付かなかってもね、心の底で虚しい儚い気持ちに襲われる。だから消さないとダメよ、消さないと駄目だから、真(まこと)の神さまだけって、永遠の完璧な姿を降ろさないとダメ。

 だから本当の自分に戻るためにね必要なの。マイナスを消したから本心に戻るのと違うの、本心の自分を言葉で引っ張り出さないと戻れないのよ。だからマイナスを消すためのプラスを加えることで本心が引っ張り出される。本心を引っ張り出すためのだいしょうになるのよ。だから、マイナスじゃないの本心を引っ張り出すチャンス勉強場、材料になっているから、だから絶対必要なの。それがなかったら本心を引っ張り出そうとはしないから。


質問
 この場から自分の意思で、それはよくないって自覚しているんです。場(フィールド)を移ろうかしらと思う事が、これはちょっと違うような気もする。自分の我出して移ってるということになるのかなぁと思ったり?

先生
 いやいや過去世の、過去世の我(が)の姿が、思いが写って今消してもらおうとしてるだけ。

質問
 場所を移っても同じ事が?

先生
 同じ同じ、必ず消さなもん(消さないとダメなもの)は 、必ずどこに行っても出てきます。ちゃんとちゃんと写し出します。そんなん(そんなもの)自分の姿どの鏡に写しても写るって。(環境は)全方向鏡だから、どこへ心向けても、どこへ出ても出てくるって、それは仕方がない。これ消した方がいいよって言う神さまからのお祈りの催促だから、これをクリアしたら本心に戻れるっていう、だから、(神さまから)ちゃんと問題は選んで与えてもらう(もらえるの)。

 ハイ ありがとうございます

 音声はこちらからどうぞ
 https://youtu.be/8GC8EmIcS7Q


 宇宙神ありがとうございます


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