令和6年4月河上さん勉強会(20240414−1)
質問:2人の方から質問預かっています。 私にとって神書はとても読みやすく、大好きな書物であり、毎日、朝晩、数ページずつですが、気が済むまで読んでいます。一方で、実践するのには非常に難しく、読むたびに、「神さま、おっしゃる通りです、ごめんなさい、全然実践できていません」と気が引き締まります。4月の護摩焚きで、神書はわざと引っかかるように書かれてある、というお話がありましたが、私は、神書を読んでも、全く引っかかりません。引っかかるの意味が分かりません。読みながら全て納得してしまいます。しかし、護摩焚き以来、私は本当に神書を読めているのだろうか、実は何も分かっていないのではないか?そもそも根本的に何かを間違えているのではないか?勘違いしているのではないか?と不安です。今後神書を読むときに、心がけるべきことがありましたら教えて頂きたいです。よろしくお願いします。 河上さん:いや、引っ掛かってるやん。実行出来ないって引っ掛かっているやん。それが問題や。結局実行、実行しないとね、意味がない訳です。真祈りも一緒で実行しないと意味ないんで、神書も真祈りも同じなんですけど、真祈りするために神書があり、なんですけど、その神書と神書の奉読と真祈りとが結びつかない。それは何故か、何故かと言うと、先生がプリントですね。A4のプリントにして書かれたやつを集めたのが神書なんですけども、そのA4のプリントはなぜ書かれたかというと、村人とか、ここに来られる方で色んな問題が起こるわけですよ。その問題に対して直接、ああだこうだっていうのはやっぱ相手の自由意志を縛る形になるんで、直接言うことはされずに、神書に書かれたわけです。
そのときに、あの僕の場合もそうですけど、もう書くページ数決まってるんです。先生はあと何枚しか書けないっていうのはいつもご存知で。だから、A4のプリントにね、びっしりと、もう一行本当にほとんど隙間なく書き込まれたんですね。それは色んな方向の光を全部詰め込まれたということなんですけども、そこまで詰め込んでしまってるんで光が強いのね。だから強すぎて、なかなか受け付けない。薬でも強い薬だとついつい吐いちゃうとかね、あるじゃないですか。そういう感じで強い光なんで、受け取りかねるんですよ。受け取りかねるけども、もう先生の場合はあと枚数も決まってるしということで、そういうふうにされたんですね。
で、光強いから、読んで意味はわかる。例えば、真祈りしなさい、あっ、したらいいんやな、みたいな感じね、みんな完璧な光や、あっ光なんやなって、神書も理屈では分るわけ。理屈では分るけども、それを真祈りとしての実行に移せないというジレンマもあるわけですよ。そこを本当は聞きに行かなくちゃいけなかったんだけど、もうこれは済んだ話でね、ただそれだけです。だから、その方は十分引っかかってるわけよ。実行出来ないとご存じのようにね、ご自分もおっしゃってるようにね、実行出来ない、出来ないで引っかかってる。
でも本当は神書は実行出来るように書いてくれているんです。でも光が強すぎるんで、もっと公式ですね。数学でも色々と難しいけど、この公式さえ当てはめたら解けるというのがあるじゃないですか?その公式として、真祈りの全体像全体図とはという印可書を作って頂いたわけです。
だから、もう何もかもよう分らんけど、印可書さえ読んでたら大丈夫という、これさえ読めたら大丈夫というのを作ってくださいということでね。作っていただいたのが、印可書です。 その最初の印可書ですら光強いってみんな弾くんで、今の柔らかい印可書、強いのから弱いのまで、順番に傾斜的にこう書いたやつを作ったわけですけども、もちろんどれ選ぶのも自由ですけれども、神書読んで印可書読めば、神書の内容がわかるようには本当はなってるんです。ただ、ただそれだけ。 その理屈で分ったから、分ったじゃないのね。理屈も分って実行できて分ったなんです。常にここなんですよ。実行出来るか出来ないかなんです。真祈りも一緒で、真祈りしたらいいのは分ってるし、真祈りはこういうもんだっていうのも、大体みんな分ってるわけね、先生が色々と言ってくださっているから。真(まこと)の神さまそのものが、真(まこと)の神さまを褒めたたえることとかね。
ありがとうございますというのは、偉大な真(まこと)の神さまの働きを褒めたたえてるだけの言葉だとかね、悟りそのものも言葉だとか、もう悟りの結果だとか、理屈は全部先生説明してくださってるのね。でも実行出来ない。それだけです。
なぜ実行出来ないかっていうと、理屈で分ったから、分った気になって動けないんですよ。で、伝授なんです。伝授というのは、理屈で分ったじゃなくて、理屈抜きに真祈りの全てを相手に引き渡すことなんです。その真祈りの全てって言ったら何かいうたら、真祈りの全体像全体図というのが印可書が真祈りの全てにしてくださったわけね。
本当はもうありとあらゆる言葉をもっと入れなくちゃ駄目なんですよ。でももう公式として印可書にしたら、もうこれだけでっていうのを作ってくださったわけですよ。それも最初のは光強すぎて、今の人類には無理だということで、お前もちょっとお前は弱いのを作るの得意やみたいにぼろ糞に言われてですね、もうちょっと緩いのを作らせてもらったら、先生が「本物が現れた。本物が現れた」ってね、あの沈黙、清則の沈黙のときですら「本物が現れた」って言って待ってくださったわけですよ。
ここへ夜お祈りに来てるときに、先生、突然来られてね、やはり3回言って帰られました。あちこちでもやっぱり「本物が現れた」って言っていただいたんですけども、誰も気付かないまま来てますけどね。ただそれだけです。もちろん印可書を選ぶのも、ありがとうございますを選ぶのも、みんな選ぶというのをね、自由意志で使おうと自由なんですけども、実行するかしないかだけです。
だから、宇宙神ありがとうございますというのを本当に自分のね、神さまを褒め称える言葉としてね、どこまで受け取れるかだけですよ。この前の護摩の質問でありましたけど、無限の中に全てが入ってるけども、無限という言葉が小さくしか受け取れない人はね、全て、無限の全ての、とか言うてどんどん入れられたらいいんですよ。
新たなる全徳の無限の無限の輝きが一杯とか、あるいは新たなる全徳の無限の無限の幸せが一杯というのが真祈りなんです。ただ、それだと一杯入れなくちゃいけないでしょ?だから印可書に集約してくださっただけです。でもともかく最初は唱えてるだけなんですけどね。
一番の問題は、結局みんな光を受けようとしてたんですよ。先生、ちゃんとテープ、録音でも説明されてますけども、受け取るんだったら、もう小さくしか取れないんだよと。神さまお手伝いする側は光を与える側に、先生のお言葉で言うと、一切を報い求めず与え尽くすという立場に立たないと、神さまお手伝いとして一切の報い求めず与え尽くすという立場に立たないと、真祈りの伝授ならないし、その光を全て神さま全て受け取れないんだっていうことをね、何べんも説明されるわけです。
そやけどその一切を報い求めず与え尽くすとかね、神さまお手伝いというても、そしたらお手伝いしたらいいんやな。一切報い求めず与えたらいいんやな。は分っても、ではどうするかというとみんな、分らない。
ありがとうございますと唱えても不安だし、宇宙神つけても不安だし、手振りしても不安だしだったわけでしょ?だからもう一度印可書に立ち戻ったわけですけどね、印可書奉読するときはお手伝いになってるよっていつも説明してますけども、お手伝いをするというだけが大事なんで、そのお手伝いをするというのは何かというと、自分のことは一切横に置いといてね。只々、全ての人の幸せのために、言うだけなんですよ。 だから、達磨大師さん、昔の先生ですけども、達磨大師さんがその壁に向かって祈り続けるんですね。それ、何か言ったら、あの時代の場合はもう人類の救いまでは行けないんで、ただ1人のお弟子さんを作るため探し出すために祈られたわけです。で、そのお弟子さんが現れてきたら慧可禅師(えかぜんじ)ですけども、あの慧可さんが現れたんですけども、慧可さんが現れても、先生は弟子入りを許さないのね、雪の中に一晩立ち尽くしてお願いしても許されない。帰れ帰れって言って弾くんですよ。それなんで弾くかというと、まだまだ自分の都合をね、優先してたからです。それが慧可さんの方も分ってきて、自分の肘を切り落とすんですよ。自分の都合は一切ね、求めてませんって。本当に本当の真理だけを求めてますということを先生に示す為にね、自分の肘を切り落として、血止めもせずに血を流しながら、あの弟子入りをお願いするんです。もうこのまま出血して死ぬのは構わないです。でも、この一瞬だけをお弟子さんにしてください。真理を教えてくださいってお願いするんですね。そして初めて先生が弟子入りを、達磨太子さんが評価されて、それでここ血止めしてですね、達磨大師自ら血止めしてくださって、弟子入りがあって、その瞬間に伝授されるんですけどね、そういうもんなんですよ。それを仏教の場合は剃髪するということで、そこの決意を示すんですね。
だから頭を剃るというのは、自分の都合は一切、もう自分の幸せは一切捨てますなんです。だから自分の母親とか父親とか、娘とか子供とかね、どんなことにどんなことがあったって、一切構いません。人類のためだけ神さまのためだけ働きますという決意が、本当は剃髪なんです。
この村でも約2名剃髪された方がいますけども、男と女と1人ずついらっしゃいますけども、その覚悟あるかないかは知りませんけど、今喋りましたから、その覚悟を持ってどんなに自分が不幸になっても文句は言わないように、そのための剃髪です。 次お願いします。
質問:ありがとうございます。2問、質問頂いています。1つずついきます。 健康障害で話題になっている紅麹のことですが、以前, 河上さんがおっしゃっていた波動が変わってきたので、今まで身体に良かった炭も悪い影響があるので、村で作った炭のマットや枕も使わない方が良いというお話を伺ったような気がします。それと同じように紅麹も今までとは違う働きになったということでしょうか?私も村で作ったマットを持っていて使用はしていませんが、畑にまくのも止めた方がよいのでしょうか?
河上さん:いや別に畑にまいて大丈夫ですし、真祈りしてたら使えるんですよ. 真祈りしてない人が問題なの。
で,今回の紅麹の件でも、紅麹だけが悪いんじゃなくて全ての影響があって、たまたま紅麹がね、どうこうって言われてるだけです。でも例えば報道されてる内容で、僕が言うたんちゃう報道されてる内容で言うと、紅麹で3人亡くなられたけども、2人は紅麹だけの原因ではないっていうのは分ってるね。もう1人は現在調査中ということで、やはり確定出来ない。それくらいその食べるもの全てが、変わっちゃったんですよ。 逆に言うたら、栄養学的にね、あれやこれやっていうのを選ばなくても、真祈りしてたら大丈夫という、逆に言うとそういう時代に入った。もっと怖がらせて言うと、食べ物がどんどんなくなるから、ちょっとしか食べなくても平気になっていきますよという事ですけどね。それだけなんですよ。 今までみんないつも言うようにね、食べるものに頼るでしょ?疲れたからこれ食べよう、疲れたのでにんにく食べようとか、なんかあのね、甘いもの食べて元気出してやろうとかね。甘いもの食べていいんやで、食べるなとは言えんけど甘いの食べて元気出そうやなくて、まず真祈りしてね、神さまをお祈りして神さまの命頂いて元気になろう。ほんでお祈りして、自分にね、自分へのご褒美で真祈りしたから、ちょっと甘いもの食べてもいいですよ、がホンマなのね。なのに、元気出すために甘いの食べようとか、元気出すためにニンニク食べようとか色々あるじゃない。その人によってこだわりが、生肉とか何か肉食べて元気出すとかね、みんなあるでしょ?その人の「俺これ食べたら元気出るねん」っていうね、その頼り方が駄目だ。で、潮目が変わったんですけど、そういうものに頼ってもどうしようもない時代に入った。だから本当に栄養学的にバランス取れたもの食べてても、病気になる人はなるんです。
それは神さまの命を直接受けなくちゃいけない時代に入ったの。今までは食べ物を通して神さまの命を頂けたんですけど、これからは直接受け取らないと駄目なんです。そういう潮目になったね。だから、今年の初めに先生がね、真祈りしない子はもう見捨てるとおっしゃったのは見捨てるという表現はわざと厳しく言っただけで本当は、真祈りしてないとどっちみち生きていけない。
心に狡さを持ってたら、顔がばあっと腫れるような症状が出る時代に入ったんですよ。顔ががーって腫れるとね、恥ずかしい外歩けないから仕事も何も出来ないよね。だけど狡いからそうなってしまうみたいなね、ある意味厳しい時代。ある意味その真祈り人が、どんどんその真祈りを広めやすい時代になったとも言えますけどね。色んな意味で潮目が変わっちゃったんですよ。だからいわゆる詐欺師が生きていけない時代になったの。だまそうとしても、どんどん表にばれる。
だから政治家が色々とつっつかれてるじゃないですか。狡いことしたのがすぐばれる時代になったんですね。狡く生きれなくなったの。それだけ。 質問:はい、ありがとうございます。最後の質問です。 京都の亀岡市に祖母の生家があります。以前訪れた時に明智光秀の首が祀られているという谷性寺(こくしょうじ)というお寺があって、嫌な感じはしなく、印可書を奉納しに行きたい気持ちになりました。でも首塚(くびづか)なので止めておいた方がよろしいですか?
河上さん:いや、行っていいですし、第一明智光秀は死んでないからね。そのとき死んでないからね。だから大丈夫ですよ。だから嫌な感じしないんだけど、はい。
質問者:ありがとうございます
河上さん:質問ないという事で、そうですね。今年のお彼岸(3/17〜3/23)あたりが、一つの潮目が変わったときなんですね。だからもう本当に、狡い事してても全部ばれちゃう。 真っ正直に生きてください。あの馬鹿正直言って今までやったらね、あの人馬鹿正直に生きて損してるって言われる生き方でいいですから、でも先ず何よりも、まず真祈りですけどね、真祈りは難しいと思う方は、印可書奉読されたら、特にあの最初の表題から読まれたらいいんですよね。
「真祈りの全体像全体図とは」って言えば、自分でもよく納得するじゃないですか?周りに誰もいなかったら、できたら声を出して読んでください。声を出してね、3回読むと大体15分経ちますから、回数言うのもあれなんですけど余裕があるんだったら、3回声を出してね、寝る前か、起きたときに読んでください。それすごく効果あります。 でも人前でしないでね、あの人おかしくなったと言われるからね。周りだけ気にしてやってくださいね。でも声出すというのは大事なんです。これ英語の勉強でもそうなんですけど、英語でも数学でもそうなんですけど、全ては暗記なんですよ。数学でも公式さえ暗記さえすれば、簡単に解ける。 英語も一緒で、例文を暗記したら必ず喋れるようになるんですよ。ところがみんなは暗記が苦手だと勝手に思ってるのね。でも、本当は口に出してね、あの覚えようと思うんじゃなくて、口に出してそうして読んでたらいいんです。それだけで響き渡ります。 大体みんな自分は暗記が苦手だって言うてる人に限ってね、例えば、ドラマをね、テレビの人気ドラマをね、覚えるなんて思って見てないでしょ?楽しんで見てるじゃないですか。ほんで次の日ね、おばちゃん同士の話し合いでね、あれどうやった、こうやったっていうか、詳しくあらすじが言える。
覚えてるやん。みんな記憶力あるんですよ。勝手に自分で縛って、これは苦手だって覚えれないって言ってるだけで、本当はみんな覚えれる。だから覚えようと思うと、覚えれないという自分を作って縛っているから覚えようと思わずに色々やってください。そしたら何でも簡単に覚えていけます。 それもみんな神経過敏なのね。だから、こんだけやってしまわないと覚えたことにならないわって勝手に思ってるんだよ。でもちょっとで良いね、かじりっぱなしでいいから、覚えようと思わずにかじってかじってかじりまくってたら、全部繋がるようになるからね。
それくらい人間の記憶力って、意識とは別にすごいんです。
だから一杯かじりっぱなしにしておくと、突然全部繋がってわかるようになりますから。で、印可書もね、一々考えんで、覚えんでもいいっていうのはそういうことなんです。只々、奉読してたら、色んな部分がどんどん入ってくるの。ある日突然全部入って、いつか知らんまに覚えてたわってなる。そういうもんですから。これからは、真祈り人は本当に色んなことをしなくっちゃいけないからね。自分でもびっくりするくらい、色んな能力を発揮できます。
でも発揮するためには、自分はこれ苦手だとか、私これ出来ないわとかいう縛りはやめてください。神さまが必要とされる事を与えてくださるだけ「よかった、よかった」と思ってたら、与えられたことは必ずやれますから、また自然に答えが見えてくる。考えずとも、考えると見えないんですよ。 数学でもね、考えたら分らんようになる。でも色んな公式を覚えてたら、勝手に当てはめれるようになって、さっと解けるのね。数学は要するに省略系です。省略系集めて省略系ばっかり組み合わせたら、また今度省略ができてっていう、計算機のない時代にね、複雑な計算を簡単にする方法として考えだされたのが数学です。例えばね。 だから数学は考えじゃなくて暗記ものなんですよ。それぐらいね、みんな無限の能力を持ってんのね、持ってるけど自分で勝手にね、苦手とか嫌だとか、色々、あるいはこれだけをしないと駄目になるとかね。思ってんの。 いつもこのお祈りの部屋の掃除で説明するじゃないですか。これを全部完璧にしようと思ったら、一生出来ないって。このお祈りの部屋のこの大きさでもね、でも、「出来る範囲をちょっとずつやりましょう」だけで全部仕上がっていくのね。それだけ。 だから結果を追い求めずに、結果は神さまが自在に与えてくださると思ってたらいいんです。またそういうもんなんですね。神さまと一つの自分だから、必要なものはどんどん与えられる。そういうふうになってる。だからあの人勉強出来る人はすごいな、1回教科書読むだけで分りはるっていうのはあるでしょ?あれも一緒でね、その勉強出来る人は一々覚えるなんて思ってないから、テレビドラマ見るように教科書読みはるねん。で、勝手に分ってるわけ。 でも普通の人はこんな難しいの読んだってわからへんわとか、こんなに覚えられへんわと思って読むでしょ。それは覚えられへんわ。覚えられへんって言うてんねんから、みたいな感じですね。 テレビドラマでもそうよ、こんなん全部、あの中身を覚えようと思った途端に覚えられへんし、わかる?楽しんで見てるから、あらすじから話の展開から全部覚えてるやん。そういうもんです。 神さまと供に楽しみ供に喜ばんとしてね、それが真祈りです。ただ真祈りしてるかしてへんか不安だから印可書を奉読するだけと思ってて頂いたら大丈夫。 だから最初は印可書なしでありがとうございますの十文字で進んだんですけどね。ありがとうございますを限定するんだね、みんなね。十文字を限定して受け取るから上手くいかなかったんですよ。僕の感覚で言うとね、ありがとうございますでずーっと祈ってたら、目つぶってても暗くないんです、ていう感憶になるねんけど、皆なれへんかってね。
それも約30年ほど前ですけど、大分それをみんなに説明したけどみんな分ってくれんかったから諦めたんですけどね。そういうものです。もう光一元になる。光一元なるとね、眩しいとかあんな状態じゃなくって、目つぶってても、明るい。どない言っていいかな?
ほら、みんな眠ってんのにね、夢の中では明るいでしょ?夢、夢は、真っ暗な部屋で寝てるわけでしょ?でも夢の中で分かる、何かを見てるじゃない?ああいう感じですよ。目つぶってもいつも明るい感じ。それくらい本当は真祈りって難しくないんです。
自分で勝手にね、出来へんわ、私なんか無理だとかね、縛ってるだけ。その縛りを簡単に解くために印可書あるだけで、別にありがとうございますでも、私なんか無理という縛りさえ、取れば、大丈夫。でも取れないじゃない?
やっぱり思い込んでるでしょ?思い込んでても取れるのが印可書だと思って下さい、そういう印可書の凄さです。自分なんかお祈り無理だわって、私なんか全然駄目よとか思ってても、印可書を只々、理屈抜きに奉読してたら、もう全部が分ってくるみたいなね、そういう凄さが印可書にはあります。また、そういうものを作ってくださいってお願いしたんで、そういうふうに作ってあります。 だから神書の方は、印可書と逆の方なんですよ。引っ掛かりながら入り込めるようにしてある。だから、読んでてわかるけど実行出来ないわ、こんなん。ていうふうに引っかかるようにしてあるんですけどね。印可書と真逆の方向で入ってあります。だからどっちも良いんで、印可書読んで、神書読んで、神書読んで印可書読んでみたりしてたら。どうしても神書を読むの嫌だというときは無理して読む事もないですよ。印可書だけ奉読されてたらいいです。 ほんまに40年も前、ですけどね、ここへ上がってきた当初に、上がってきた当初ではなくって、神書が出来る前の神書は4部作なんですね。無限の無限の輝きが一杯とか、無限の幸せが一杯とか、4部作5部作やったかな?まとめて神書になったんですけど、その無限の無限の幸せが一杯の纏めたやつを、朗読してね、テープに録音してそれを流そうとしたんですよ、ここで。お祈りの部屋で常時流したら、お祈りする時、それを聞きながらお祈りしたら、し易いんじゃないかということで。そしたら先生が「止めとけ止めとけ」っていうね。そんな流したら誰も来なくなるってね。それぐらい神書は光が強いんです。だから読みにくいのは当然です。 先生が大笑いされた。こっちは真面目にやってるのに、そんなんしたら誰も来んようになるので止めといてとか。あの、岡山のユニバースにも持ってたんですけどね。せやけど先生が流さんでいいって言って、はい。 質問:ありがとうございます 印可書のことで、ある方と話してたときに聞いたことなんですけども、印可書を奉読し続けていたら、先生の最初に出された、あのピンクの印可書、あれをこう読みたくなって、最近はそれをこう読んで奉読していると。僕も奉読まではいかなかったんですけど、そういう方、読んでみたい、僕も思ったんですが、そのときに何かアドバイスってありますか?
河上さん:だからね、先生が最初に作られた印可書は凄い大おまけも付けてあったんですけど、もう今はその大おまけはないですけど、最初の印可書はなんでそう大おまけをつけれたかというと、そうですね、音楽で言うとね、最後まで演奏せんと、途中でポンと止めてあるんですよ。そっから先、ほら、歌謡曲好きな曲ね、途中でポンと、皆さんの好きな歌謡曲を思い浮かべて、それが聞こえてると、それが突然ポンと音止まったときに、やっぱり続けて自分の中で歌うじゃないですか。わかる?そういう感じにしてある。
だから最初の印可書は素直にポンと読めたら、そのポンと開いたあと自分でやろう、自分で響かそうとしてね、ほんで大おまけを付けれたんですよ。でも誰も選び取りに来ないから先生憮然として怒っちゃって燃やしちゃった。燃やしたということはおまけをなくしたよということです。
だから突然ポンと切れてあります、ラストの方が。ラストが切れてあるから、後をどう響かせるかはその人次第、そういう難しさです。 で、今、先生が「本物が現れた」と言われた印可書はね、最後まで響かして、ドーンってなったのがどんどん響き小さなって、要するに光が弱くなってっていう感じにしてあるわけですよ。それだけです。
質問:ちなみに、その時に同時に添えていただいた7ページの説明文。あれはもうおまけがなくなったっていうことでその括りもそういう扱いですか。
河上さん:いや、7ページの説明文は印可書じゃなくて、先生の神書と同じですから、どんどん読まれたらいいんですよ。
だからあの説明文までつけてね。選び取れないというのはね、僕には理解不能です。あの説明文読んだだけでも印可書を読もうと思うはずやし、何よりも真祈りの全体像全体図とはって書いてくださっててね、真祈りできへんって悩んでたらね、これやって飛びつくのが普通や。「弾くってどういうこっちゃねん」って僕はもうずっと思ってたけどね。まあまあそう言わずにと先生が言うて、みんなが受け取れる印可書にしてくれいう事でしたんですけどね。 質問:そうするとこう
河上さん:いや7ページの説明文すらね、読めないって言うんよ。ある人に一辺しつこく追求したことある。「なんでやねん」って言ったら、「いや、読むに読まれへんねん」って言うね、光強いから神書と一緒やからね、読むに読まれへんのかもしれんけども、そう言われたら、やっぱり先生の仰るように、印可書緩めたね、皆の入り易いのを作らなあかんということで、今のを作ったんですけどね、それぐらい説明文も光強いです。
質問:表紙から7ページまで奉読するよりも、
河上さん:いや全部奉読された方がいいです。あれの場合は。
質問:あれの場合は?
河上さん:はい。
質問:全文を奉読するっていう、印可書の方で…
河上さん:あれを全部奉読すると、今の本物現れた印可書とほぼ一緒です。
質問:じゃあ、どちらを選ばれても、
河上さん:長いから大変や。
質問:それだけの部分で、効果というか、あの役割的には、
河上さん:でもその本物の印可書よりは光強いからね。誰もが読めるというわけにはいけんと思うよ。読んでても空念仏みたいになる。あの文字を追ってるだけで、いわゆる取扱説明書でよく言うんだけどね。「取扱説明書見たか?」言うたら「見たよ」ってみんな言うんだけどね?「読んだか」いうたら、「うーん読んだかな」みたいな。見てんねんけども分ってないみたいな、そういう状態になると思います。
質問者:分りました。ありがとうございます
令和6年4月河上さん勉強会―2(20240414−2)
河上さん:ともかく宗教団体じゃないんでね。みんなに松下先生が降り立ってくださってるし、もうね、真祈りの伝授を今も続けていらっしゃるわけで、先生はね。それをどう受け取れるかだけです。ただ本物が現れたという印可書を奉読したら素直に受け取れるよ、というだけは説明しておきますけど、あとは皆さんの自由意志で好きにされたらいい。
ただ、こんなチャンスは2度とないんですよ。あと7年このチャンスが続くわけです。その間に受け取れるかどうかは皆さんの自由意志です。7年後にはなくなります。この大おまけは、印可書を淡々と奉読するだけで、すっと悟れる時代は終わります。
だからそれまでに本当に全世界に響かせたいんです。本当はね。でもあんまりそんな言うとみんな焦るからね、あんまり焦らずに、必ず神さま良いようにするから。ここは大事なんですよ、必ず神さん良いようにするからって、喜んで信じてゆったりとやらなくちゃいけないんですよ。
仕事でも絶体絶命のときに焦ったらもう身動き取れないのね。何とかなるさでやっていかないと、ほんで仕事は何とかなるさでいいですけど、お祈りの場合は何とかなるでなくって、神さんは必ず良いようにするからって喜んでしてたら良いです。現実を無視してね。 質問:ありがとうございます あの世の話ですけど、例えばこの世で地震とか、震度5弱で収まってますけど、向こうの世界ではもう既に起こってるというか、もっとひどいと聞いたんですけど?
河上さん:はい。
質問:例えばよく聞かれるんですが、例えば前に聞いた話で、この世を一旦リセットするのはもう、今回全宇宙リセットすると聞いたので、例えば、私も「何年後この世にいないから大丈夫ですよ」と言われても、それは大丈夫じゃないと、向こうの世界の方がもっとひどい事になってると、そう解釈して…
河上さん:勿論そうです。
質問:で、向こうの世界とかやっぱり…
河上さん:だからね、みんな自由意志ですから、この世をリセットして、新たにもう一遍始まるわけですね、色んな世界世界がね。三千世界って言うんですけども。三千世界と言ったら無限の無限の世界という意味ですけども、新たに始まるわけです。その新たに始まる時にみんな自分の自由意志で好きな所行くの。わかります?だから、食べ物で言うと分かり易い。私、リンゴ好きっていう人はリンゴ食べるわけよ。私、バナナ好きいったらバナナ食べるやん、ね?その場所へ行ってしまうだけです。
だから怒りっぽい人は怒りっぽい人ばっかりのところへ、又、集まるだけです。それを今柔らかく怒りっぽい人って言ってるけどね、心の中の荒れ果てた状況で凄い台風のような状況のとこへ行くとかね、もっと厳しいことがあるだけで。ただ説明上は怒りやすい人は怒りやすいとこ行くとかね。泣く人は泣く人ばっかりのとこ行くって言うてますけども、そんな生やさしくはないけど、そういう感じで新たに行くだけです。それも今度は肉体の形状も変わっての新たな姿を取ってですけどね。
質問:はい。あの世の人が怒っている。護摩の時言っていた、怒っているっていうのを聞いて…
河上さん:そうよ。いやだってね、真祈りしてね、みんなでワーッとなってね、後もう一辺地上側で、又、大きく新たにスイッチ入れて入れ子構造に膨らまし、奥へ入って頂きたいという事で地上に任すわけです。向こうの世界では、その世界は完璧になるわけですけど、もう一つ奥には入れないから地上を通すわけですね。
そのスタートのとこでズッコケるからね、だからあれを潰していいかっていうとこ迄言ってくるからね、もうちょっと待ってもう一遍説明するから、みたいな感じでね。でないと癌で死んじゃうんでね。
質問:誰が?
河上さん:いや邪魔した人が。
質問:邪魔した肉体の方が?はい、分りました。 何ていうか、この世の人が真祈りして全世界の人が真祈りしたら、向こうの世界の大変なのも起こらないから、こっちの世界でも何も起こらない?
河上さん:えっとね、この世の護摩がスイッチになるんですよ。スイッチになって、入れ子構造が膨らむんですよ。護摩が入れ子構造に成功しましたからね。いよいよ出来たんですけど、あっちの世界は、色んな姿を取るわけです。それはみんな心で想像するときに思って。想像しながら色んなシチュエーションを作るでしょ?
質問:はい。
河上さん:そういう感じで、自分の肉体一つだけど、自分の心では色んなシチュエーションを作れるじゃない?例えば明日カレーしようと思ったときにね、食べ物で言ったら分かり易い。カレーしようとした時に、こういう辛いカレーにしようとか、もっとこういうカレーにしようとか、色々バリエーションを考えるじゃない?そういう感じで向こうの世界でぱっと広がるんですよ。マイナスの思いもバット広がるわけ。広がったやつを真祈りでどんどん修正して、変えてしまえるということです。
質問者:はい。
河上さん:もうそれだけなんです。只、どんどん修正するスイッチがね、この世の護摩なんですよ。で、向こうの護摩はその人らが居てる世界だけをポンといけるんですけど、その隣の世界に影響を及ぼせれないから、この世の護摩で、いわゆる横の交流は向こうで終わるけど、縦の交流ができない。縦の交流をこの世の護摩で、要するに入れ子構造ですね、するわけです。
それどういうことかというとね、宇宙の運行という一大循環の相象(すがた)の入れ子構造があるわけですね。その宇宙の循環の入れ子構造がそのまま肉体の体にもあり、自分の心にもあるんです。それが、この世の護摩のスイッチなんですよ。皆さんの肉体が。 だから皆さんの肉体が自由意志で護摩をして真祈りしてって思ってくださると、入れ子構造的に縦にズバーッと広がるんです。それは「、いや、私はもういつもあのいやらしいことばっかり考えてね、狡い事ばっかり考えて」って思うんじゃなくて、そういう人のいるおかげで地獄に光通るの。分かる?
だから先生お一人で上手くいかなかったのは、先生は清まった姿やから、地獄に光を通しかねる訳ですよ。でも「私ずっこいねん、すぐ嘘つくねん」とかがあるじゃない?そのおかげで、地獄の隅々に光通せるからね。皆さんの要するに耳かきの働きですよ。皆さんの真祈りがいるんだよっていうことです。
質問:ありがとうございます 例えば耳かきの働きの人もおるし、ショベルカーの働きも、みんなもう生まれた時からの役割でそうなっとるか?
河上さん:思う癖です。勝手に自分でね、俺はつまらん男やねん、耳かきやねんとかね、勝手に自分で決めてるだけよ。本当はみんな真(まこと)の神さまとして無限の働き出来るんだけど、演劇するときにね、私は王様の役が良いと言うのとね、私は乞食の役がいいとか、私は端役の後ろ通る通行人の役でいい。通行人やったら1回出たら後、楽でいいからとかね、みんなそれぞれ考えるわけよね。それで好きなことをするの。その姿をこの世に持ってる。だから、みんな男になりたいって男なるし、女になりたいと思うと女になって来るんです。
で、ただ、いざ生まれてきてね、いや、女に生まれてきたけどやっぱ男の方が良かったわとかね、男に生まれてきたけどやっぱり女の方が良かったわって思い返す人がおるね。それが今、ジェンダーフリーとかいうややこしい話になってんねんけどね、それは思い返したらあかんね、本当はね。本当は生まれてきた以上は覚悟を決めてそれを味わい尽くさないと終わらへんねんけど、みんな未練やねんな。
それ位ね、この世もあの世も全てそうですけど、一辺決めたら後戻りはできないと思ってください。だから後戻り出来ないんだから、これからどうするかだけをいつも真祈りして考えなくちゃいけない。でもほとんどの人は、私はあんなんしてきたから駄目だわって、後ろを振り返って生きてんの。ほんで振り返ったってどうしようもないって言ったって、振り返って苦しんでるね。それが苦しみがどんどん重なるとね、小さい耳かきの働きで良いわってなるの。分かる?過去をつかむからや。
質問:本人の思い返しで?
河上さん:そやそや。
質問:全員シャベルになる可能性もある?
河上さん:あるある。過去離したら良いね。でもみんな過去を掴むね、掴むなと言うても掴むの。掴むから色んな性格になるの。くよくよする役とかね、すね虫とか一杯おるやん。それ全部過去を掴んだ人の姿や。その過去を離せって言ったって、「どないして離すんや?」って。だから印可書ってなったの。それだけです。
「ありがとうございます」で行けたんやったら、とっくに此処からもね、ありがとうございますで悟った人がでないとあかんのやけど、出なかったのね。僕はどの祈り言葉かと言うと「実相完全円満」で行ったんやけど、それはもう古い話しやからそんなんどうでもいいんやけどね。
要は祈り言葉をどんだけ先生を信じてね、大きく捉えられたかだけなん。言葉の内容じゃあなくって。ただ、祈り言葉を大きく誰も捉えることが出来ないというのが分かったから、大きく捉えられなくっても読むだけで何とかという印可書を作って頂いただけです。もうたったそれだけでね、「いや、宇宙神で行くねん」「ありがとうございますで行くねん」という人は行って下さい。別にかまへんよ。みんな自由意志やからね。それだけです。
質問者:ありがとうございます
河上さん:ありがとうございます その過去を離すっていうのが一番大切な事なんやけど、みんな離せへんね。みんな自分はこれだけのもんやって思っているでしょう?思っているのは過去を掴んでいるからや。過去を掴まなかったら自由自在に動けるね、先生のように。で、過去を掴まなかったら目立とうとも思えへんね。虚栄心も出えへんね。過去を掴んでいるから比較してね、名誉欲とか有るじゃあない?権威欲とか、財産欲でもそうだね。金銭欲でもそうでしょ?人より贅沢したいっていう虚栄心なの、な?どれもこれも虚栄心が出るのは過去を掴むからや。その過去を掴むのを離せないから人類は苦しむんやけどね。でも印可書を奉読したら離せるから。
だからさっきの勉強でもそうなのね。これだけ覚えなくっちゃいけない、これだけしなくっちゃあいけないっていうのは、過去を掴んでいるのよ。結果やろう?結果を掴むっていう事は過去を掴むっていう事や。だから英語を勉強しましょうといったら、こんだけ覚えないと勉強ならないわって勝手に過去を掴んでね、自分で自分を動けなくしているね。
勉強出来る子は過去を掴まへんね。結果掴まへんね。適当に食い散らかして、あっちこっちと、しててその内に出来るね。そんなもん。神さま良いようにしているからってね、やりたい事淡々とね、色んな事をしたら良いの。「全部中途半端で駄目だわ」って過去を掴むからあかんねんで。中途半端は無いねんって。神さんが必要でさせただけで、必要で飽きさせたん。
例えば本読んでてね、飽きたっていう時は止めたら良いの。で、こんな途中で止めたら、次読むとこ分かれへんわとかね、次分かれへんことないねんって。それに気付かなあかんねんけど、勝手にね、こんなちょっとしか読んでへんから、又、次最初から読まないとあかんわとかね、自分で決めつけて自分を縛って苦しむの。それを過去を掴むって言う。
過去を掴むって言ったら、何か自分の小さい時の事をどうこうなんて思っているんとちゃうね。過去を掴むっていうのは一瞬一瞬の結果を掴んでいるの。掴む分だけな、自分を縛って身動き取れなくなっているの。それで勝手に私勉強出来へんわとかね、私は合格出来へんはとか、色々あるわな人によって。私は物凄く不器用やねんとかね、不器用違うって結果を掴んで自分で身動き取れんようにしているだけや。 だから字を上手くなる子は下手に書いても気にせえへんのね。で、練習して上手くなるねんけど、僕、字が下手なのは何でかと言ったら、やっぱり上手く書かれへんはって勝手に掴んでいるから、中々上手くならへん。で、ある時先生から上手く書こうと思うなと、空間のバランスだけ考えて書けって言われてね、それからちょっとマシになりました。 この枡の中にバランスよくハマったら良いから、ハマるように書けってね。その練習の為に丸、三角、四角ってフリーハンドで一つの枠の中にね、〇を一杯一杯書いてみたり、小さく書いてみたり。或いは三角を書いたりね、したんですよ。で、それをフリーハンドで正三角形、フリーハンドで正四角形、フリーハンドでキレイな〇、それだけ練習したら良いって。後は練習しなくっていいって。「ああ、成程」みたいな。先生の仰ることは中々いつもツボを押さえてあるんで、それを素直に実行するかせえへんかは皆の自由やけどな。 印可書も一緒や。もうこれさえしたら善いって、先生ツボを押さえてくれているけど、するせえへんは皆の自由や。字も一緒、丸、三角、四角だけ。後は書いて練習せえへんでいいって言ってね、先生は。新聞とか活字とかね。それでも自信ない時はトレーシングペーパー当ててね、なぞるばっかりしてたら良い。フリーハンドでなぞるばっかりしときって仰って下さって。それでましな字になって来たんだけど、あんまりまだ見せられる字ではないですけど。 それは例えばなぞるっていうのもね、自分は上手く書けないっていう癖を消すだけ。で、癖っていうのは何かと言ったら、自分が掴んだ過去。「わたしはこんな癖があるねん」、嫌、誰も作ってへん、自分がその癖って形を掴んだだけ。それを過去を掴むって言います。本当は簡単な事なんやで。でも思いこんでるね、みんな。「私は女やから」「私は男やから」まあ色々あるやん。その思い込み止めなあかんねんけど、止めれないね。だから印可書さえ読んだら止めれるよう先生して下さっている。 だから素直に印可書読んで呉れた方はどんどん捉われが無くなってね、自在に動けるようになって来てん。そういう人を沢山増やしたいと思っています。この7年間で。
その為には自分の都合から考えて不都合な事ばっかり起こっても、喜べる心。どの状態も神さまが一番良いようにしてるって喜べたら、過去を掴まなくなる。自分の都合から考えて文句言う時は、文句を言うのはもう過去を掴んでいるね。結果を掴んでいるでしょう?文句っていうのはね。文句言ったら結果掴んでいるから、自分が動き取れんようになる。何があっても、怪我しても、事故にあっても「ああ、神さま一番良いようにしている」って喜んでいたら、結果掴まへんからね、怪我でも早く治るしね。
先生そうでしょう?凄い怪我されても大体三日ぐらいで治された。先生怪我した状態を掴まへんから。この大引っ越しの時にね、何べんか大怪我されているけど、全然大丈夫でしょう?結果さえ掴まなかったらそういうもんや。で、結果さえ掴まなかったら怪我した時にどう対処するかが自然に分かる。
肘を切り落とした時でもね、一々紐で先生縛らへんのね。この辺ギュッと押さえてウっとお祈りしはったらパンと血止まって終わりやった。寒い寒い冬でしたが。だって一晩雪の中立っていても許可してくれへんもの、切らなしょうがない。帰るに帰られへんし、今更みたいな感じや、こっちはこっちで。
でもそれ位ね、本当は真祈りというか悟りに対しては真剣さが要るの。でもみんな真剣さ出せないから、出せずに悟れる印可書にして貰った訳よ、ほんと。「私そんな真剣になれないわ」って言うのは正直な感想やと思うの。わざわざ肘切り落とせないわってね。そうやけど印可書読んでいたら、肘切り落とすと同じ効果がある。(笑)
だからどんな状態になっても喜べる覚悟さえ持てばね、後は印可書奉読するだけで行ける。でも自分の都合が出たら終り。自分の都合にとって不都合って文句言ったら途端に終わり。でも印可書読んでいたら文句消えるわ。大丈夫。文句出てもええねんで、すぐ印可書読んだらいい。
自分の都合がなんでアカンかと言ったら、もう自分と他人を分けているでしょう?分けた時点で神さま拒否しているね。神さまを拒否していないというのは「すべて自分、すべて神さま」って分かる事や。
その最初の第一歩はね、自分にとってどんな不都合があっても構わないっていう覚悟。 昔、五井先生の元に来られている方でね、ご夫婦のお子さんが3人とも亡くなるのね。五井先生とこ来ているのに。でもその時でも五井先生とこ来てね、みんな病気で無くなるわけですけど、みんな穏やかに死ねて良かったですって言って、先生に喜びを報告するのね。で、その時にそのご夫婦悟っちゃうんだけど。それ位ね、大事に育てて来た子供が1年おきに死んだんですけど、大変だったんですけどもね。それをよろこびしたわけですね。そういうもんなんですよ。
この世の結果は関係ないの。それが分からない内は自分と他人を分けているから、神さまの光を拒否するの。自分と他人を分けた時点で拒否しているの。拒否した分だけ病気になったりね、又、余計色んな事が起こるの。自分にとって不都合な事がなんで起こるかと言ったら、神さまを拒否してきたからやで。神さまといつも一緒やったら不都合にならへんのやけどね。その過去において拒否した分だけが出て来るねんけど、その過去の掴み離したらね、それも消えるんよ。離す方法が印可書って言っているだけでね、勿論ありがとうございますで行く人はそれで行って頂いて良いわけで。いわゆる問題は無いんですけど、何の問題もない。みんな自由意志や。
ただ、私は真祈り出来ていると思った時は危ないです。「私が」が入っているやろう?真祈り出来ている時は、出来ているとか出来ていないとかじゃあなくって、喜びだけが湧くだけよ。私はなくなって無条件の喜びっていうのは私がないからや。私がある時は条件が付くの。「身内だけが幸せでありますように」とかね。先ず家族が平穏無事でありますようにとか色々あるわ。
だから五井先生の教えが凄かったのは自分の都合は横に置いといて、先ず「世界人類が平和でありますように」、世界人類が平和安穏でありますようにってね、それもなりますようにじゃあなくって、「既にあります」ってしたのが凄いねんけど、中々みんな自分の都合を離さんと祈るから、失敗してん。
結局、人類は自分の都合を離せないって分かったから、掴んだままでも真祈りになる方法を作って頂いたという事です。だから文句が出た後でも印可書読んだら、文句が消えます。大丈夫!文句が出るっていうのは自分で掴んでいるからです。ほんなら仕事上ボロカスに言われても腹立てへん。ハイハイって。ぼろ糞に言われて腹立つのは自分が在るからやろう?
自分にとってどんな理不尽な事を言われても、結局、自分が過去に掴んできたものの結果やね。だから過去を離すために理不尽に言われるんやけど、余計、又、掴み返すねんな。そこが問題やねんけど、それを印可書で消してしまえば一辺に消えて行く。
神さまの光は大きな大きな凄い滝以上の無限のものやから一瞬で消えるの。ちゃんと差し出せば。でも大概は「糞ったれ」って掴んでいるやろう?「ぼろ糞に言いやがって」って掴んでいるやん。掴んでいるものは神さま消されえへん。「ああ、ぼろ糞に言われて良かったです」って神さまに返したらいい、印可書を通して。
だから先生は何時も「元より後ろ指、指されるのは覚悟の上やろう」って仰ってたん。はい。
質問:ありがとうございます 印可書を全世界に広げるというお話しを素晴らしい事だと思っているんですが、何かの時に同じような話をしたかも分らないんですが、やはり全世界に広げる為には英訳とか必要になってくると私は思っていまして、…(聞き取れないので省略します)…ここで言ったらありがとうございますとか祈願柱とか… … ピースポールが立っていて、そこの景色に凄く良いなって思った事があるんですけど、印可書とかをそういう風に何らかの形でピースポールとか、そういう風な事をされる予定とかあるんですか?
河上さん:あの時代はね、例えば「ケアラ.パス.プレパラスカ.ソブレ.ラ。チエラ」って言ってスペイン語に訳したり、色々したんですけど、それはその時代の為に必要であって、今はね、何が分かったかって言うと、みんな自分というのを離せない。で、自分の過去を離せないんですよ。という事は自分という事を離せないという事は、人から何を言われても聞かへんね。
聞かへんからな、仕事上ぼろ糞に言われたら腹立ってくるね。素直に「はい」って言ったら済むんやで。だけどぼろ糞に言やがってって腹立つんやろう?それ位自分を離せない。自分を離せないという事は、例えば印可書を英語に訳したってどうしようもない。で、日本人だけが全世界の人類の心に響き渡らせる力を持っているの。まあ、ここで初めて言いますけど。だから先ず日本語の印可書の奉読をね、日本人がある一定の数が出来たら、一辺に人類が変わりますから、英訳は要らないです。
質問:それは日本の中でこちらの皆さんが唱えていると思うんですけど、
河上さん:そうです。
質問:それだけで響いて行くという事ですか?
河上さん:そうです。響きます。要するにこの世に出ている結果なんですよ。肉体でも何でもね。映画で言うとね、8mm映画だったら分かり易いかな?フイルムがあって光通って、まあフイルムが幽界霊界ですよ。光通ってこの世というスクリーンに当たって形が出ているでしょう?この世はそのスクリーン上のもんなんですよ。一人一人がそれぞれ心のスクリーンを持っていて、自分の心の中を写して、それを重ねて見て、他人が居てるように思う。重ねているからね。それだけなんです。
だからこの世のスクリーンに映っているものを、映画ってそうでしょう?スクリーンに映っているものを変えようと思ってスクリーンをイジったって変わらないでしょう?こっちのフイルムを変えないと。分かる?幻灯機というね、フイルム側を変えないとあかんね。神さまという光源は何時も一緒や。光源の前にみんなの思いというフイルムを通してこの世に映し出しているの。この思いを変えないと。この思いの部分はこっちのスクリーンをイジったってあかんね。ここの思いの部分は音楽なんです。響きなんです。だからみんなの正しい印可書の響きを響かしたら、勝手に変わって行くの。それは「光は闇に勝てり」って書かれているようにね、闇っていうのはまだ光が行ってないだけやから、光さえ通したら光一元に変わるね。それだけやからね。それで英語にする必要が無いの。先ず日本人が印可書奉読出来るようになったら変わるの。
質問者:ありがとうございます
河上さん:はい。それで日本人の数をね、先生は1割って仰ってたわけです。最初は。1割という事は日本人が1億人いてるとしたら、1千万人が印可書を奉読したら変わる、だったんですけど、先生特別のオマケでもっと人数を減らして貰いました。だから兎も角護摩をしてね、知らない人は騙して1回は連れて来させて、それで良かったってしょっちゅう来る人は来て頂いて、1回しかけえへん人はもうそれで良いし、という感じでして下さい。
で、印可書選んで読まれる方が増えて、護摩の会場はいわゆる増幅装置ですから、護摩で唱えて頂くと必ずちゃんと行きます。この7年間で。心配ないです。 だって日本人の大半が知らないのに英訳したってしゃあないやん。日本人位やで、日本語位やで、私がっていう主語が無い言葉って。主語無しで通じるの日本人だけやで。まあ日本人通しでも主語無しで微妙な時有るけどな。まあ大体は主語無しでお互い喋っているやん。それ位私はっていう意識が薄いね。だから日本人が読まないとアカン。
「ほらー、あれがああしてこうやんか」って言ったらそれで通じているもんな。(笑)日本人だけやで、外人そんなん言ったら「はあー?」って言ってそれで終わりや。(笑)
令和6年4月14日河上さん勉強会−3(20240414−3)
河上さん:だからみんな英語苦手だろうけどね、もうこんだけ、こんだけって、かじりかじり、覚えようと思わずに、この単語はこの意味っていう感じで声出してね。今、携帯で簡単に英語の単語が出て発声して行くでしょ?それを別に覚えようと思わなくていいから、なんか気になった言葉は、それで出して読むっていうのをしてたらいいわ。知らん間に覚えてるから、ここでちゃんと保証しときます。覚えようと思ったらあかんで。なんか気になった言葉があったら、携帯で英語に直してみて。 携帯が喋ってくれるでしょ?今。喋った通りに自分も喋ってるだけでええから。ほんなら知らん間に全部入ってるから。「印可書」読んでる人は大丈夫、できます。苦手って思った時点で全部アウトやからな。なんでもできるって喜んでたらいい。
だってね、糖尿病になりはってね。で、中々血糖値下がらんで、どうしよう?で、「口養生もできへんし」って言うからね。で、その人、読書好きやったから、色んな本を読むことを勧めて、これから78歳の人やね、「これからどんどん勉強したらええから」って言って。で、95まで生きはる人やからね。普通でも大体100歳まで生きると、みんな覚悟決めてせなあかんねんけど。で、それで色んな勉強させて、頭一杯使わせて、血糖値下がって元気になった。だからちゃんと頭使いや。ぼーっとしてたら余計体潰すで。大した運動もしてはれへんのにね、元気になりはった。
まず頭使うことが大事やって。体動かすのは、中々みんな邪魔臭いからせえへんからな。 頭は使ってるで、テレビ見てるやん、テレビ頭使わな見られへんで(眺めるだけでは駄目よ笑い)。ラジオ聞いてるやん、ラジオも頭使わな聞かれへん。新聞読んでるやん、雑誌読んでるやん、漫画読んでるやん。漫画なんか特に頭使わな読まれへん。漫画を一杯読んだら血糖値下がる。いや、ほんまやって。そこまで一生懸命みんなせえへんだけ。
でもみんな出来るようになるからね、保証しときます。「印可書」さえ読んでたら。で、この7年間でみんな色んなことが出来るようにしとくから。みんなが松下先生の働きが出来るようになる、大丈夫。
まだまだとても先生の働きなんかって思ってるやろ。その思いがあかん。だから今。はいはい、どうぞ。
質問:ちょっとさっきの個人的な話が少しだけ出たんで、ちょっと私も昨今気にしてることを1つだけ確認したいんですけど。大谷選手の通訳の方が、賭博みたいなことで話題になってると思うんですけど。大阪万博の方も、そろそろそういう風に、なんて言うんでしょう、準備が盛んになってきてる中で、カジノとかああいう物を建設しようという動きが大阪の方であったりとかする中で、その1人が、そういう風に、なんか悪いとか、嘘をついてたって言って、1人のせいにして終わらせようっていう風な感じがして、私はちょっとウっと思ってるんですけど。そういう動きで、賭博はいけないとかっていう中で、一方で、そうやって建設して、なんか経済を活性化しようという動きと、2つあると思うんですけど、どういう風に、こう位置づけて、私たちはそういう風な、賭博に対して、どういう心がけをしていったらいいのかということと、今回、悪いことしたっていう言い方で片付けられようとされている方に対して、どういうふうな意識で見守っていけばいいのかっていうのを教えていただきたいです。
河上さん:賭博はね、楽して儲けようというね、狡さでしょ?でも、そのうち顔に出てくるようになるから分かります。もう誤魔化せない時代が来ます。で、カジノを作るっていうけどね、すでに日本にカジノは一杯あるやん。株券というか、馬券、株券、舟券で。あれなんや?競輪やったね。なんて言うかな?
宮野さん:車券。
河上さん:車券か。すでに賭博あるやん。株価ってそうやん。あんなん賭博やんか。
宮野さん:先物もあるな。(笑)
河上さん:先物も賭博や。全部一緒や。
宮野さん:あの土地転がしもある。
河上さん:為替もな。別にカジノだけに限らへん。ただ、カジノは1番手軽に騙されやすいだけやろ?だから、そんなんやる人の方の心の問題やから。楽して儲けようとすると、 先生がいつも仰るように不労所得なわけでしょ?不労所得を積むと大変なって身動き取れなくなるだけや、その人が。それだけのことで。
だから、「村を閉じよ」というのもね、先生がそういう指令、指示をされていかれたのもやはり同じで、楽をしてるから。だからマイナスが集まってる。本人たちは(楽を)してるつもりはないですよ。そのしてるつもりがないから大変なんです。
質問:ありがとうございます 不労所得で、自分が直接不労所を得てるわけではないんですけど、親がおじいちゃんの土地から毎月お金が入って、その恩恵を受けてるんです。
河上さん:それをどんだけ神さまのために生かして使えるかだけよ。自分の都合に使うかね、神さまの都合に使うかだけ。だから親の財産を相続するとね、大概運命が悪くなるね。 だから「相続すんの嫌や」言う人もおるし、色々あるけども、相続してもいいけどね、神さまのために使えるかどうかだけ。
質問:これはもう「印可書」奉読して。
河上さん:そうそう。奉読してたら勝手にこうしよう、ああしようって決まるから。
質問者:ありがとうございます。
河上さん:それにちなんでですけど、要は村の設立の目的は何かっていうだけですよ。その設立の目的を忘れてね、なった時は「閉じよ」やから閉じるわけ。 村を作った目的は、村人を募集した目的ははっきりしてます。真祈りして貰うためです、専門に。その専門をしないんだったら意味がない。
6年経ってちょうど半分なんでね。ある意味いいきっかけだったわけ。あと6年、あと7年ですけど、どんだけ真剣になって頂くかだけですね。肘を切り落とすぐらいの真剣さがいります、村人はね。剃髪した方も同じです。
質問:ちょっと日本の国が、国策的に株を買いましょうとかいう動きがあるように私は最近思っていて。自分もだからこそ、今この時期にそういう投資とかそういうことに興味を持たないと、小学校でもそういうの 授業でやってたりとかするぐらいなので、ちょっと置いてかれるんじゃないかと思って、私も遅まきながらそういうことに少し興味を持ったりとか、運用とかで買ったりし始めたんですけど。それは目的はやっぱり村にも何か還元できるかなっていう風なことで始めたりもしているんですが、その心構え的にはいかがでしょうか?やっぱりそういう試みは、そういう、少しでも…
河上さん:いや、所謂、取らぬ宝くじの皮算用と一緒でな、「宝くじ当たったらこうしてあげるわ」って言うてもな、当たった途端にみんな心変わってまう。不労所得ってそういうもんやね。だから、「親の財産入ってきたらみんなに分けるわ」とかって入る前は言えるねんけど、入ったら変わるね。「この膝の痛み取ってくれたら1億円渡します」って言うお婆さんがおってんけど、膝の痛みとって、綺麗に歩けるようにしたら、 あと忘れてはる。だからそういうもんよ、わかる?だから、中々ね、自分の徳というのがない間は、 そういう、何をどうしても大変になって行くだけ。
「天網恢恢疎にして漏らさず」って言ってね、何があっても神さまは全てを救い取っていかれるわけですけども。その救い取るためには、本人のしたマイナスは全部本人に償わすの。だから真祈りしない限りは大変にしかなっていかないね。一般の人でもね、「善人呆けがっ!」って親鸞さんが怒るんだけどね。「私は悪いことしてへん」って言ってる人ほどね、悪いことしてるっていうね。
それくらい積極的に真祈りしない限りは、悪いことしてる。「小人閑居(かんきょ)して不善を為す」って言うでしょ?何もしてないんだけど、それがマイナスなんだっていう。積極的に、せめて人の役に立つことね。そやけど、それよりはもっと真祈りすることっていうのが大事なんです。神さまのお手伝いをすることが大事なの。神さまのお手伝いをしないと、全てはプラスに向いていけへん。もちろん別に株に手出してもええけどな、失敗するだけや。
ほんで、仮に上手く儲かってもね、自分に徳がなかったら、また勝負に出るね。僕の友達におるねんけど、手堅く株をやってはってん。で、どんどん儲かっていってね。ライブドアでね、「もう1億あるねん」って喜んではってん。まだ売ってなかってん。で、0になってん。みたいな感じやな。
それくらいね、徳があったらね、株なんかせんでもね、なんでも上手く行くねんって。 株をするのはもう元々不徳やからよ。一言でな。で、それがたまたま今までやったら今生で現れなかってん。だから「あの人、株で大儲けして、死ぬまで楽していてはったわ」っていう人は一杯おってん。でも本当、潮目変わったから、全部今生で出るね。だから恐ろしいもんよ、ある意味。
だから、村人にもええきっかけやったわけですけど、このままほっといたらみんな病気で大変やったから、いっぺん真剣になっていただきます。で、真祈りどうしても出来へん人はね、一般の会社にお勤めされて村出ていかれたら良い。
質問:すいません、先ほどのお話の中で、皆さんそれぞれすごく頑固なところがあって、私もそういうとこあるんですけど。人の言うこと聞かないとかあると思うんですね。で、その人を変えようとしてもそれは無理なので、せめて「印可書」を奉読いうことで、ここだけはもう絶対に私は…
河上さん:そうそう、「印可書」に縋って縋って行ったらええねんって。もうそんなもんな、自分は頑固や言うてな、頑固変えられへんって。そんなん変えれる子やったら誰も苦労せえへん。だから「印可書」を先生作ってくださった。そこで行ってください。
質問:なので、松下先生が「印可書」を、松下先生がっていうのを、そう仰っているっていう風にすれば、皆さんちゃんと腑に落ちてくださると私は思います。
河上さん:落ちへん、落ちへん。落ちたらみんな村人はとっくに「印可書」読んでる。松下先生の作ったものを弾くんやもん。おかしくない?なんで弾くの?なんで嫌って言うの?表題見たらわかるやん。「真祈りの全体像、全体図とは」って書いてるものを弾くんやろ?「真祈り嫌や」って言ってるん。
それくらいみんな頑固や。だから、表面から言っても一緒。護摩でね、みんなの心の内側に真祈りという真(まこと)の神さまを立ててね、内側から響かさんならんね。真祈りという種をね。真(まこと)の神さまの種をみんなの心の中に撒くの。で、真祈りで光を当てて芽を吹かすの。この7年で大丈夫、出来るから。
質問:予てから今日もピカピカに輝いておりますが(水晶玉が)、本当に結果としては、今その形になってよかったのかなと私は思うんですね。皆さん気がつかなかったと思うんですよ、 その存在に。
河上さん:いや、だから、こう分け隔ててね、「あの人は素晴らしい」とかって言うと、もう偽物になって行く。だから松下先生は「ありがとうおじさん」とかね、名前つけられるの嫌ったわけ。それでも先生って呼ぶ。僕の時代、僕の頃は先生とすら呼んでも怒られたよ。「松下さんって呼べ」って言って、「先生ではない」と。で、「過去世ではあなたは弟子やったけど、今は違うやろ」って。「それくらい分からんのか」って。分かってたけど、一応ね、立てて言うたら、「立てたらあかんねん」って、えらい怒られたことがあったんです、昔ね(怒られたのです。)。
それくらい、みんな真(まこと)の神さまっていうとこに立たなあかんね。
今日、光が強いって言うのはね、ちょっと夕べ本当大変で、座ってお祈りしてたら、ちょっとウトウトしたら、先生にバンッて怒られてね、「寝るんやったら立て!」言うて、で、ずっと立って祈ってたんや。ちょっとそれで今日は光強いけど、それくらい、ここじゃなくて、世界が大変なの。そうね、金(曜)が特に大変やったな。金・土と大変で昨日は昨日で大変やったんですけど。ちょっと峠越したんで、こっち来れました。
質問:2点ほどあります。1点目は、もうこれは私の中の反省を語ってしまうんですけれども。今回の事案のことで、改めて先生と面識があったからこそ甘えがあったなっていう風に、それに甘えて…
河上さん:いや、甘えというよりね、先生と面識があった人は、ついつい先生に頼るね。 で、頼ったら最後、もう自分でお祈りしようとせんわ。頼るってそうやろ?自分ではなんとかせんと、なんとかしてください。だから、先生がお話で言うてんねんけど、塾でね、塾で例えば数学教えて貰うとするやん。で、通ってる子供いうのは、問題を黒板に書いてね、先生に解いて貰って自分がわかった気になる。でも試験になったら解かれへん。それを頼ってるっていうね。で、頼ってない人いうのは、自分で一生懸命解こうとして、で、ここが分からんねんっていうのを聞こうとするからね。
だから、勉強は予習が絶対いるんやけど、ただ、勉強出来へん子は、予習したら全部分からんから、どこが分からんかも分からんから、大変だっていうねんけどな。 で、そういう子は、家庭教師付けなしゃあないというか、直接指導すんねんけど。そういうもんでね、頼ってたら、目の前で先生が解いたら、なんか分かった気がすんねん。で、村で先生の側におったら、なんか悟った気がするんよ。それは、強い先生の光を浴びてるから、気持ちはすっきりすんね。だから、自分もなんか偉らなったような気がするね。本当に悟ってへんから。
でも、スッキリするから偉くなったような気がして。で、「やっぱり先生について行くだけでいいんや」って、「後ろをついて行くだけでいいんや」って勘違いすんねんな。お祈りせなあかんのに。で、今になってるだけです。 で、先生がいらっしゃらなくなったら、今度は別のそういう先生を作ってどうこうしようとするから。で、それは先生の予言通りやから閉めることになっただけ。予言で厳しく厳命されてたね、「閉じよ」。
質問:とにかくひたすら印可書を奉納するのみというところ。で、2点目です。これは本当にそうなって行くんだろうなって思ったことなんですけれども。先生と面識がない方の方がこれから新たに…本当に真剣なのではないかと私は思います。
河上さん:そうよ。だって頼りようないもん。先生いらっしゃらないから。もう頼るとしたら「印可書」だけやから、そういう人らの方が早く入る。先生と面識あるとね、やっぱり先生すごいからね、こうして先生の勉強会でも参加するだけで、スッキリしてしまうの 。スッキリしたら、スッキリしたから、もういいやと思ってお祈りせえへんね。違うやろっていうとこがな。スッキリした時こそお祈りしやすいねんから、お祈りせなあかんねんけど。
五井先生の時もそうやってん。五井先生の統一会に参加するとね、スッキリすんねんで。そのスッキリした後に「世界人類が平和でありますように」って祈り続けなあかんのに、 スッキリしたからお祈りせえへんね。 松下先生の時も一緒よ。勉強会参加してスッキリしたから、「あ、気持ちよかったわ」って言って、お風呂上がりのつもりで帰るね。そのお風呂上がりの綺麗な時こそ、お祈りして深めなあかんのにな。そういう感じやけど、今は先生いらっしゃらないから、全然先生知らない方は「印可書」だけを頼りにしてね、「印可書」に縋ってやられるから早いんです。それはその通りです。
質問:とにかく、でも、先生のお役に立ちたい、真(まこと)の神さまのお手伝いをしたいっていう気持ちで、ひたすら「印可書」奉納して行くっていう、それを今からより一層。
河上さん:はい、そういう人ばっかりになります。大丈夫です。
質問者:ありがとうございます。
宮野さん:なんかこの間話をしてた、面白いっていうか、皆さん言ってらっしゃるんだけども、えっ?て不思議だと。ちょっと解釈的に変だなと思ってた先生の話をしましたけど。「神さまどうぞこの命 ご自由にお使いください」って宣言をされて。ありますよね。
河上さん:はい、護摩の会場でもたまにありますけど。「この命、お使いください」って仰るじゃないですか。で、あれを真祈り人から見ると違和感があるんですけど。何がおかしいのかって言うとね、この命というのを1万円に変えたらわかる。わかる?「神さま、どうかこの1万円、神さんの為にお使行ください」って宣言するとするでしょ?なら、1万円出さなあかんやん。それ出さんとやったらおかしいやろ?そういう感じで、「どうかこの命、神さまの為にお使いください」と言いながら、自分の都合を優先してるからややこしい。
ほんで、それをたとえ理屈で説明してもね、自分の都合を優先する癖が取れるわけないね。わかる?だから「印可書」やねん。それだけやね。
五井先生も「どうかこの命お使いください」って宣言されてね。で、会員さんも同じように宣言される方が色々いらっしゃったんですけど、五井先生は「この命お使いください」って言ったら、自分の都合を一切捨ててね、「自分はどうなってもいいから」って言って投げ出された。それやったら本物や。でも口では言うけど、投げ出せない、1万円出せないね。そうなるわけです。
で、剃髪された方は、何があっても投げ出してください、1万円出してくださいっていう感じやね。で、それをしないと何が起こるかというと、投げ出してないというマイナスを積むの。所謂、「小人閑居(かんきょ)して不善を為す」でね。口では良いことを言ってるけども、できてないからマイナス積んで大変になって行く。行為が全てやからね、この世では。だから大変なる。
ちょっと話題違いますけど、例えば神社お参りされたらね、御賽銭の金額を仰いますよね。もちろん心だけで1円でもいいんですよ。でも、例えば駅に入場するとき、入場券買うやん。今180円ぐらい?入場券。
宮野さん:ICOCAやから分からへん。
河上さん:せやけど、入場券分ぐらいは神社を御参りしたら出しましょうねっていうことです。余裕ない時は仕方ないで。でも余裕ある時はそれくらいは当然でしょって。普通はね、神さんに対して失礼や。駅入るのでも200円はいるわけや、例えばな。なら、200円ぐらいは出しいなっていうとこやねんけどな。そういう感じで、この命をお使行くださいって出したんやったら、ほんまに出さなあかん。ええ格好して言うただけではあかんの。その違和感やった。
宮野さん:ありがとうございます。
河上さん:「命」って言うからわからへんな。「1万円」って言うたら分かりやすい。
宮野さん:それと、この間の護摩で違和感があったのは、真剣と力みの違和感。真剣さで淡々と響いてるのと、力んで 一生懸命っていうの勘違いのような。
河上さん:力みというのはね、何があるか言うと、結果掴んでんね。自分の結果であってもいいし、相手の結果でもええけど、掴んだ時は力みになる。結果を掴まなかったら力みにならない。だから山登りでいつも説明するけどね、 早く登らなくちゃいけないという結果を掴んだら、全力で走ろうとすんね、不可能やのに。結果を掴まなくて、ただ登りましょうやったら、自分の精一杯でやって登りましょうやったら、淡々と登るから頂上まで着くやん。その違いです。
結果を掴むか掴まないか。結果掴むということは、責めるということです。自分も責めるやん、結果掴んだら。「私、こんなんしかできへんわ」って、自分を責めるでしょ?で、そういう人に限って、人のことも責める。結果掴んだらそうなる。
宮野さん:それと同じように、「印可書」を読んでても、何か悲壮な感じの、響きがあるような感じの。それは結果を掴んだ祈り言葉であったからですか?
河上さん:そう、やっぱり無意識にどっかギブ.アンド.テイク入るんよね。「この苦しい状態、なんとかしてくれ」とかね。色々あると思う、その人によって。すると、そうなってくるね。せやけど、いつも言うようにね、どの状態でも神さまが1番良いようにしてんねんから、 身内が全部死んだって1番良いようになってんねんから、本当は。だから、その覚悟さえあったら掴まないし、力まないし、淡々といけます。
本当はそうやねんで。3.11の津波でね、1人助かって家族みんな死ぬわけでしょ?結果で言うたら大変やけど、それが1番良いようになってるのがわからなあかん。大犠牲の姿、イエスが十字架に架かった形をね、 津波という形で示されただけで。
令和6年4月河上さん勉強会―4
河上さん:いいですか?
宮野さん:あと、護摩が終わった感じが分からない。この間も終わってないのに終わったような状態になりかけたんですが、その辺は…
河上さん:護摩の終わったのが、みんなが分かるようになってくれたら、僕はあっちへスッ と帰れるねん(笑)早く分かるようになって欲しいだけで。
宮野さん:そんなこと言ったら帰らして貰えへんちゃうん?みんな分かっても分からへんって言うんちゃうん?(笑)
河上さん:そやけど、要は結果を掴まなかったら分かるんよ。例えばね、護摩の炎がこう変わるから終わりやんなとかね、空がこう変わるから終わりやとかね。雰囲気がこう変わるから終わりなんとかって、結果をまだ掴んでるね、みんなな。で、分からへんね。素直に神さまってお祈りしてたらスっと分かる。それはさっきの勉強の話でも一緒よ。こんだけ覚えないと駄目って思うから覚えられへん。でも、かじりかじりしてるだけでスッと繋がるの。そういうもんで、護摩の終わるのが分かろう分からんなんて思わずにね、只々、神さま神さまと思って印可書奉読してたらスっと分かる。そういうもんやね。で、それを伝授って言うね。だから理屈やないね。だから神書を理屈で理解したところで悟られへん。あるいは、印可書を理屈で理解したところでは悟られへん。
最初の印可書の頃にね、選んで下さった方がいらっしゃって。今はもうこっち来られないですけど。ある方が選んで下さったんですけど、理屈で分かろうとしはった。だから、「真祈りの全体像(全体図)とは」から読んでね、全部覚えてしはってんけど、それで終わってん。それは理屈で分かろうとしはってん。読むだけで良いって言ってんのに。で、理屈で分かったから大丈夫と思いはってん。 それで、結局、読むから理屈で分かったから悟らせてって、なんで理屈で分かったら駄目かと言うとね、理屈で分かったから悟れるやろって、ギブアンドテイクになってるね。厳しいもんやろう?もうギブアンドテイクになったらあかんけど。只々、神さまに全部投げ出して、神さまのお手伝いしますって投げ出して投げ出して、理屈を超えなあかんねん。だから伝授って言ってるね。
だから真祈りに1級、2級、1段、2段、初段は無いね。分かる?悟るか悟れへんかだけであって、途中の段階は無いね。真祈りに段階つけようとした人もおったけどね。大きく色々と反対したから止まりましたけど。まあ今の虚の宗教団体はそうやね。マスターとかつくんやろ?段位が。そんなもんと違うね、お祈りというのは。神さまと自分だけのね、一体感だけやから。 で、一体感に大、中、小は本当は無いの。自分が勝手に絞ってるだけよ。ちょっとだけ一体感があったとかね。本当はちょっとも糞もないんで。一体感になった途端に、もう無条件の喜び幸せになるだけ。要するに家族全員がパッと死んでもね、喜べるだけになる。それが全てやねんけどな。理屈で言うと、なんか引っかかるやろ?それだけ、それ位まだみんなね、自分と他人を分けてるし命を小さく分けて捉えてるの。
だからウサギさんなんかはね、ウサギ族として一つの命を無条件に感じ取ってはるわけ。だからウサギさんを小さい狭い所に閉じ込めて飼っていても、ストレス溜まらへんのよ。草原を駆け回ってるウサギさんの感覚も全部同時に感じ取れてるから。それは鳥さんもそうやね。ニワトリさんでもね。あんなして閉じ込められてても卵産むやん。普通やったらストレスで死ななあかんねんけど、死ねへんやろ?それは鳥族として全体の感覚を共有してるの。で、悟りってそういうものです。すべての感覚を共有してるから、拗ね虫の感覚も共有してるから見捨てへん。分かる?
先生が誰1人、残さず連れて来いというのはね、全部自分やから、拗ねてる子も、もういじけてる子も全部感覚は分かるの。分かるからするの。するねんって、連れて行くねんけどな。それが分けてる内は、自分とこだけ家族全部死んでどうやとかな、自分とこだけって入るわけよ。自分が入るね。入るうちは違うねん。自分は無いねん。あれがこうしてああなるねん。あれがああするねんやって。はい。
質問:よろしいですか。先ほどの、護摩がいつ終わったかという事なんですけれども。私も別に炎を見てるわけでも、空を見てるわけでも、空気を読んでるわけでもなくても、分からなくて。お二人がなんか目配せしてはるかな、護摩はまだアレやねんなって。(笑)アレやねんなっていうか、終わってないんちゃうかって思うぐらいで。これから来月の護摩にしても、これ護摩は終わったんかなとか、そういうことを考えずに、もう淡々と印可書奉読だけで、分かろうが分かるまいがアレなんでしょうか?それとも意識した方が…
河上さん:いや、だから、それまだ結果を気にしてるやん。分かるという(結果を)ね。
質問:そうですね。
河上さん:そんなん掴まんと、ただ印可書奉読してたら良いの。そのうちね、「あ、今。」 って分かるようになるね。そういうもんやね。だからさっき言ったようにね、英語の勉強と一緒よ。これを覚えなくちゃって言うから出来へんようなっていくね。覚えんでいいから、只々ニュースや会話で気になった言葉をね、スマホで出して、あ、こんな単語なんやだけで、放っといたらええねん。覚えようなんて思わんでええねんで。そしたら勝手に覚えていってるのと一緒で。護摩の終わったのもね、印可書を淡々と奉読したら、ある時、ハッ!て、あっ!て分かるようになるね。
質問:分かったらどうしたら良いですか?
河上さん:分かったら、みどりさんを見たらええねんや。そしたら合っててんなとか、間違っててんなとか。(笑)
質問:え?それで、どうしたら良いんですか?そんで、「終わりました。」とかそんなん勝手に言ったら…
河上さん:言わんでええって。みどりさん見たら分かるやん。お祈り止めてキョロキョロしてる時はもう終わってんねん。
質問:ああ、そうですか。終わったなって。あ、終わってるねんなって、あ、一緒やって。
河上さん:そうそう。答え合わせしたらええねん。
質問者:分かりました。
河上さん:第一、元々空気が読まれへんのに分かるわけないやん(爆笑)。
質問者:別に火を見ても分からへんし、空見ても飛行機雲やって言うしか…。分かりました。ありがとうございます。
宮野さん:すごいな。笑いの神降臨や。(笑)
河上さん:せやから、結果さえ掴まなかったら何でも出来るね、みんな。出来へん人というのは、みんな結果を掴むからよ。例えば彫刻家なんかね、例えば一本彫りとするやん。じゃあ、丸太から、こう、パーって刻んでいって像を作るわけでしょう?そんなもん結果を気にしてたら出来へんで?それくらいね、何でもそうやねんけど、結果を気にしてたら出来へんねんて。一生懸命やってたら何でも出来るねん。でも、みんな一生懸命の途中でね、こんだけ苦労してんねんからって結果を気にするんよ。それで崩れていく。別に苦労しても何しても神さま良いようにしてるってやってたら。そしたら必ず出来るようになっていく。何事もやで。別に護摩の終わる時だけじゃなくてね。
宮野さん:結果を気にするのが、力が入るということですね?
河上さん:そうそうそう。結果を気にしたら全部つまずいていくね。
宮野さん:その力が入ってるのを、自分はこんなに一生懸命やって、一生懸命やってるっていうのが勘違いなのね。
河上さん:そうそう、日本人の悪い癖でね。目的と手段をすぐ入れ替えるんよ。だからあの人は一生懸命やってるからええやんかと違うね。
そうやね、一番分かりやすいのは、会社の残業よ。真面目にな、一生懸命仕事して残業時間を超さずに終わる人と、真面目にやってへんかやってるか別にしても、残業して一生懸命やってる人としたらね、残業して一生懸命やってる人の方が、よく努力してるって勘違いされるね。な?それ手段と目的が入れ替わってるやろ?ちゃんとな、分かる?
日本人みんなそうやね、手段と目的を入れ替えてね、あんだけやってんねんからって言うねんけど違うって。結果が出えへんかったら意味ないねんって。その結果を出すのが目的として一生懸命やってるだけで。
せやのに、そのね、だから村人で言うとね、山仕事、こんな大変な山仕事を一生懸命やってるから真祈りになってんねんっていう風な勘違いや。目的と手段が入れ替わってんねん。山仕事は神さまのお手伝いって決めて、一切文句言わずにやるから真祈りになる。真祈りになったら喧嘩は無い。自分が無いから。自分があるから喧嘩になる。だから、みんななかよしさんは要らんねん。単純にそれだけ。だから村を閉じるってなったんや。
難しいことは言ってへんで?日本人はみんな、目的と手段を入れ替えてな、あんだけ一生懸命やってんねんから許したれやって言うねんけど違うやろって。一生懸命やって上手い事いかへんだったらどうするかって考えてね、組み替えていかなあかんのに、闇雲に、みんなそうよ、闇雲に祈ろうとするね。闇雲になんかしようとするね。いや、闇雲にやったってしゃあないって。しんどいだけやっていうのがな。分かれへん。はい。
質問:現実のその職場で、この頃すごく思うのが、頼ったらいけないって自分で思って。でも、それは何が何でも私が全部やらなきゃいけないのではなくて、
河上さん:そう。
質問:やっぱり、フワッとお祈りする中で、自然に適材適所で動けるのがベストっていうか。
河上さん:そう。やれるだけやったら良い。そうそう。
質問:ただ、必ずその時に適材適所に行くわけじゃないけど、それもOKで…。
河上さん:OKで、そう。
河上さん:でもやっぱり、つい、この頼らないと思うと、あれもこれもっていう風に…
河上さん:うん、まあそうや。やるだけやるねんで。それで、やるだけやったって、ボロクソに言われるのは一緒やって。そのままボロクソに言われるのはいつも覚悟の上や。
そんなもん、みんな立場によってね、無理やと思っても言わざるを得ない立場の人もおるしね。もうそれぞれ仕方ない。ただ、現場としては精一杯やれることをやってたら良い。
質問:明らかに、いや、あなたそれ無理やっていうのを、無理にやってたりする時、さっきのお話もそうですけど、言ったら非効率的というか、そんなことじゃなくて他の得意な人がやればいいのっていうのを…
河上さん:それをね、目的と手段を入れ替えてね、いわゆる変に平等意識があるね。それで、みんな平等にあれこれさせなあかんってするねんけど。勿論、それは色んな体験させるのは大事やけどね。でも手段と目的が入れ替わるねんな、みんなな。だから変に悪平等になったり、あるわけ。
質問:だからやっぱり、残業してる人が、なんか善しみたいな雰囲気も漂うし…
河上さん:そうそう。
質問:でも、それって無駄違う?みたいなのがあったりして。
河上さん:違うけどね。そんなん別に理解して貰えんでいいね。真祈りして淡々とやっていったら良い。
質問者:はい、印可書を奉読します。ありがとうございます
河上さん:そうそう。もう本当そうよ。そんなん今の日本の社会でね、そんな分かれ言ったって、大概そうや、あんだけ一生懸命やってたんやから堪忍したれやっていうのがあるやん?違うやろって思うねんけどな。
そういう空気が社会全体、日本全体を潰すね。本当はね。
だから、あの戦争の悲劇があったんや。大本営発表でね、こんだけの戦果があったって言っても、みんなあんなん嘘やって分かってきてるのに。分かってきてるのに、日本が負けてるって誰もよう言わんと、負けてるやん。B29も飛んできてるし、おかしいやんこれってみんな分かってても、負けてるとよう言わんと、とうとうあそこまで原爆まで落とされることになってしまったんや。 それはまだ真祈りが無かったからよ。今は真祈りがあるからね。そんな風にはならへん。ちゃんと水差せるって。日本語で「水を差す」って言うねんけどな。その場の雰囲気の空気を潰すのを「水を差す」って言うんだけど。水差す奴、水差す人はみんな弾かれるからな、いじめられるから、中々みんな、よう水差さへんねんけど。日本語は分かりやすいやろ?
で、日本人がね、なんで真祈り出来るかと言ったら、日本語に既に入ってるのね。「お前、本心からそれ言ってるか?」って言うやん?要するに自分の本心が真(まこと)の神さまそのものって知ってるわけよ。その正しい自分の本心と照らし合わせて、「ほんまにお前は正しいと思うか?」って日本語で聞いてるやん?「お前本心から言ってるか?」ってな。それぐらい日本人って真祈りできるの。だから日本人が印可書を読んだら全世界変わるから大丈夫。な、本心から祈って。はい。
質問:もう一個すみません。かといって、それが自分が苦手だからっていって、無責任に最初から逃げるタイプの人もいるんですけど。それはそれでそれで違うやろっていう?
河上さん:それは勿論違うねんで。違うねんけど、もうそのズルい人はしゃあないね。ただ、ほんまね、これからズルい人は顔が腫れるから分かりやすくなるね。(笑)ちょっと腫れるぐらいやったら良いけど、ウワーって腫れて、外も表を歩けんくらい本当にズルい人は腫れるから。物凄い、そういう意味で潮目が変わった。厳しい。
質問者:はい。印可書奉読します。ありがとうございます。
河上さん:まあ、潮目が変わってね、神さまの本当の姿の出る時代になったからなんですけどね。それを人類が拒否するか、しないかという瀬戸際がこの7年ですね。みんながズルくなくなったら戦争なんて起これへんやん。
自分にとって不都合でもね、手伝ってあげるし、助けてあげるしってなるよ。今は、例えば経済的に弱い国をね、援助しっぱなしになるわけでしょう?例えば。そしたら損やってなるわけや。その損やというマイナスがやっぱり積み重なって戦争になるの。
もう色んな意味でな、もうその理屈抜きに損得抜きに、いつも言うように損得抜きにな、お互いがみんな、真(まこと)の神さまの命やからって言って、支え合わなあかんね。今は損得の入る時代やね。損得を入れたらマイナスが出来るね。マイナスができたら最後は戦争になるね。
いや損得あるからやで?親子喧嘩でも兄弟喧嘩でも。どっちかが楽したいからな、喧嘩になるの。何でも損得抜きにやれたら真祈りよ。せやけど理屈で言うとね、「損得抜きやったら、なんでもやったらええねんな!」とは違うからな。その判別を印可書奉読して決めていかんならん。真祈りで決めていかんならん。 だから真祈りが無いと、全部グチャグチャになるねんけど、今は印可書があるからなんとかなると思います。誰でもが真祈り出来る時代に、素直にできる時代になったんや。だから真祈りしてたら損得感情が出ない。自分と他人を分ける意識も出ない。
例えば、お母さんと子供やったらね、子供のために無条件にしてあげるでしょう?あれが愛や。それを子供だけでなくすべてが自分って思えて、出来るようになっていくの。
ただそれを、むやみやたらにね、例えばね、じゃあ自分持ってる100万円、全員に配ったら良いのかではないからね。それが真祈りが要るわけです。はい。
質問:先ほどの水を差すという話なんですけど。この間の水晶の事、やっぱりちょっと思い出しちゃって。私はその場にいたというか、その前に話を一緒に聞いてたので、心の中で印可書奉読してたんですけど、只々。でもやっぱり、なんかあのとき言ったら良かったのかなとか…
河上さん:いやいや、言わんでええ、言わんでええ。言ったって仕方ないよ。
質問:表面で言っても変わらない…
河上さん:うん。そういうエネルギーが溜まってる時はな、言ったって、どうしようもない。第一受け入れてくれへん。
質問:なんか奉読足りなかったかなとか?
河上さん:村にね、みんなの思いが集まるんよ、それを水晶玉に溜めて消してたのを潰されたでしょう?
でまあ、もちろん1月からお正月からおまけを出さなくていいから、お清めもしなかったのもあるねんけど、お清めをしなかったら余計に水晶玉に溜まってて、余計汚いように思ったんかもしれんし、色々あるんやけど。どっちにしても、村人が一切真祈りしてなかったから溜まっていって。
で、真祈りしてないから、その変な…何?思いというか話にね、スッと流れた。で、その流れたのをね、その流れたのは仕方ないとしても、信念を持ってするんやったら、まだええねんけど、言われたからした、ばっかりやねん。それが一番大変なことやってん。で、その大元のね、それを指示した連中は誰なんやということまで探る必要ないから。ただ、そんな言いなりになってるようでは、もう村は閉じるとなっただけです。
質問者:ありがとうございます。
河上さん:はい。
質問:前も同じような質問をしたかもしれないんですが、すいません、お許しください。それで、なんかそういうことがあると、みんなサーっと逃げるような感じになって、うやむやにして誰も責任取らずに、なんか日々が過ぎていって…
河上さん:ああそうよ。日本人は空気のせいにしてな無責任に逃げるねん。そうやで。それは別にここだけ違う、日本人みんなそうよ。その場の空気やったら、あんなん言われへんわってみんな言うやん。
質問:で、ちょっとさっきの話にまた戻るかもしれない、アメリカとかだったら、ちょっと待って?みたいな感じで、裁判とかできっちりやりましょうみたいな、きちんとそういう制度的になってるので。
なんかもうちょっと本当のこと言ったら、例えばこんな言い方をして本当に私も失礼かもしれないんだけれども、その当事者の人が、例えば今日にでもここに来て、あの時はこうでした、ああでしたっていう風に、裁判じゃないんですけれども、なんかこう、きちんとコミュニケーションをとることで、うやむやにしてすっきりしないままモヤモヤしたまま…
河上さん:そんなん、来てよう言えへんって。
質問:ちょっとでも来てくれたら…
河上さん:そんなん来てよう言えへん。平成14,5年ぐらいの話ですけど、僕に何をしよったかっていうだけや。全部言うてもいいけどな。そんなん言わしてもしょうがないやん。本人はよう来えへんわ。
質問:でも例えば、私みたいな外野で申し訳ないんですけど、なんかやっぱりモヤモヤしたまま、なんか月日だけが流れていって、あの時に何かそういうことがあったけど、まあいいか、仕方ないよね、みたいな。なんか誰も責任取ろうとしないし。
河上さん:いや、だからそれはね、もうみんなの思いが村には溜まるから。それを消さなかったから、村人にみんな乗っかっていって、今回なっただけで。今回の事件が起こらなかったら、それぞれみんなが、癌とか色んな症状を起こして、それはそれで大変やってん。病気になる前に、何とかせんなんからね。病気になってからやったら、こっちが大変やから。ある意味、ええ事件やったんです。
質問:そしたら今回のことも、みんなやっぱり、なんやろ、ちょっとどっかで責任は取りたくないし、もうそうやって真祈りして終わりにしましょうっていう…
河上さん:いや責任取りたくないじゃなくてね。村に居てたらね、まあ言ったら生活保護受けてるような状態やんか?衣食住があるわけよ。
ほんで下の社会で(普通の娑婆世界で生活している人だったら)会社でお勤めしてボロクソに言われてな、ボコンボコンに言われてなそれでも泣く泣く仕事しなくてはならないだけど、ここでは仕事せんでええね。安穏とやってるんよ。で、村人同士で喧嘩してるというのは、それくらい余裕があるということや。余裕が無かったら喧嘩してる暇はないぞ。それだけよ。
せやけど、お清めする力が無い以上はしょうがないやん。でも、もう村を設立した目的がね、ズレてるから。手段と目的が入れ替わってきてるから、先生の予言通り先生の指示通りで閉めるっていうだけよ。
質問:すいません、私がこういうことを語る立場では全然ないのですけれども、何かちょっと、自分自身がまだやっぱりすっきりしていないところがあったので、質問させていただいたのですけど…
河上さん:すっきりせえへんのは仕方ないって。すっきりしてへんけどな。もうそんなんは、要するに原因がなんやって解明してもしゃあないやん。目的は真祈りすることよ。手段はどうでもええねん。目的は真祈りすることや。だから今回の原因がどうこうなんて究明する必要も無いねん。真祈りすることが目的や。そこを外したらあかんねん。
村の設立も真祈りする人を作るための設立や。村人募集したのも、真祈り人を作るためにね、普段の仕事してて真祈りしにくい人は、ここへ来たら衣食住を安堵してやるから、ひたすら真祈りしなさいって言って村人を募集したんや。 で、村人になる条件として、真(まこと)の神さまに弟子入りする。それを条件にしたんや。で、みんな弟子入りしたはずや。平成14、5年頃やけど、僕に向かって、真(まこと)の神さまの弟子入りとは、こうこうこうだって、みんなとうとうと言いはったよ。覚えてるか忘れてるかは知らんけど。こっちは覚えてる。
それくらいね、真(まこと)の神さまに弟子入りするということは、自分の都合は一切捨てるということや。自分の家族は今すぐ全部津波で死んでも、一切文句言わない喜ぶというのが弟子入りや。一切の自分が無くなることが弟子入りや。自分が無くなったら喧嘩なんかあるか。何を言うか。なにが、みんななかよしさんや。何を悩んでるか。たったそれだけやのに。まだ抵抗するから、そしたらもう閉じなしゃあないなってなっただけよ。
どうしたいのかというのをしつこく聞くんやけど、出て来えへんね。ということは誰かの指示通りでしか動いてない。ええ歳した人がね、自分の信念も、その自分のしたことに対してね、何も言えないはずがない。言えないということは誰かが指示したんや。それに頼ってどうこうしてるという事は真(まこと)の神さまに弟子入りしてないという事や。そしたら終わりや。別に難しいことは言ってないで。
だから別にその原因を追究する必要はないし、その最初の原因を持ってきた人は、僕に面と向かってものはよう言わんでしょう。色々あったからな。それだけよ。 だから、もう原因なんかどうでもええって。事件の結果は言ったやん。みんなが真祈りしてないことが分かったと。真祈りしてない以上は、村の設立の目的から外れてるから、村を閉じよという先生の指示通りで閉じますと。色んな話があってんけども、町田さんに、はっきり名前言うわ、「町田さんに松下先生が降り立ってる、私達はこの人に付いて行きます」という内容を誰も否定せんかってん。それは宗教団体や。真祈り人の集まりではない。そういう風に「宗教団体になった時は、速やかに閉じよ」という先生の厳命や!だから閉じる。すっきりした?先生の指示通りしてるだけやで。
質問者:ありがとうございます。
河上さん:じゃあ、お祈りして終わります。
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