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山より引用・・・・ by 河上彰延 2019年07月18日(木) 21時27分
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7月護摩焚き河上さんのお話
 宇宙神ありがとうございます
令和元年7月7日 護摩焚きで河上さんがお話して頂いた内容です。

質問1
 私は、「君が代」が好きですが、「君が代」は畏(おそ)れ多いと聞いた事があります。毎日お祈りの時に「君が代」を斉唱しますが、余り意味がわかっていないのに良いのでしょうか?凄く気持ち良くお祈りができます。

河上さん
 ありがとうございます  またお会い出来て嬉しく思います。
「君が代」なんですけども、「君が代」の「君」という意味がね、大事なんですね。「君」というのは、極(きわ)まる身(み)、極身(きょくしん)と書くんです。これ、真(まこと)の神さまのことなんですね。「君が代」というのは、真(まこと)の神さまの御働きを言葉で歌で現してあるんです。だから「君が代」を歌うと、真祈りになっていくんです。今まで何で「君が代」を歌っても真祈りにならなかったかというと、「君が代」の「君」というのをね、肉体のお身体をお持ちになっている天皇陛下というふうに、みんな勘違いしてたからですね。何でそれじゃ、真(まこと)の神さまは天皇陛下じゃなくて、真(まこと)の神さまなんだっていうことなんですけども、これが真祈りの一番大事な大事なとこなんですね。皆さんの御働き、皆さんの全部御働きなんですけども、どの方もみんな、真(まこと)の神さまの御働きなんですよ。それをどう実観(感)としてわかっていくかが真祈りなんですけども。だから、「君が代」の「君」も勿論天皇陛下なんですけども、天皇陛下の働きはそのまま、真(まこと)の神さまの御働きなんですね。すべては真(まこと)の神さまの御働きだけって実観(感)できたら、真祈りであり、悟りなんですけども、その一番大事なところの集大成をね、「君が代」は歌ってあるんですね。だから、あんまり理屈で意味を考えずにですね、理屈をこねずに、素直に「君が代」歌うと気持ちが良くなるのは当然です。

質問2
 地獄が無条件の幸せを感じる為にあるように、人それぞれが抱える困難や障害、悩みといったものも、感謝を深める為にあると考えればよろしいでしょうか?

河上さん
 その通りです。よくですね、あの人仕事もせずに怠けてるって言って、責め合うんですね。でも、仕事をせずに怠けている人というのは何かっていうと、地獄の体験が足らないから、神さまの働きの素晴らしさがよく理解出来ずに怠けちゃうんですよ。どの方もみんな等しく、本来悟った真(まこと)の神さまと不離一体の自分なんですね。その自分の真(まこと)の神さまと不離一体の悟った自分というのを、自覚するしないに関わらずですね、みんな心に持っているわけですよ。例えば、この世でずるく生きてね、さぼって、上手く楽して生きた人は死んでからどうなるかというと、死んでから最初の60日間位なんですけども、その間に自分が今回地上で何をしてきたかという事を自分の本心の光にあぶられてですね、浮かび上がってくるわけです。その自分の本心の完璧なすがたと自分の不完全なすがたを比較してですね、ほんで、この不完全さを完璧に自覚し直す為にということで、自分で選んで地獄に下りていきます。この地獄が必要なのかどうかと言ったら、必要であるんですよ。神さまが必要で御創りになった、神さまが御創りになったんじゃないんですけども。みんなが言葉で創ったものですけども、地獄があるわけです。その地獄に下りていって、色んな苦しみを体験してはじめてね、勿論縁者の苦しみも一緒に体験するわけですけど、はじめて一生懸命生きる、真剣に生きるという事をね、わかるようになるんですね。この世での、この世で逃げ回って、死んでから体験するということになるわけですけども。この世での不幸・不運・病気、色んなものがありますけども、この世で体験する方が地獄で体験する1万分の1以下で済むわけです。だから、この世で色んな苦労をした方が早く悟れるんですね。自分を自覚してないでしょう。だから何で自分こんなに不幸なのとかね。何で自分生まれついて、こんなに病弱なのって、僕の場合そうでしたけども、何でこんな病弱なの、喘息なのって、こう思ってしまうんですけども、自覚していないから。でも運命としてね、受けざるを得ないじゃないですか、逃げれないでしょう。それを体験することによって、本当の幸せがわかるんですね。

 いよいよ真(まこと)の世界、真(まこと)の神さまの世界でも、新しい神さま・古い神さまって色々あって、なるんですけど、あっちの真(まこと)の世界ですらね、色んな体験を積んだ神さまが尊敬されるし、大事にされるしってなるんですよ。それ何でかって言うと、地上に降りてきて苦労して、ほんで、もう一遍、真(まこと)の世界に戻ると、同じ真(まこと)の神さまの光ですけども、その光の感じ方がもっと深く感謝して受け取れるわけですよね。その為にわざわざ苦労するわけです。
この地上でね、ゲームで遊ぶ時もそうでしょう。簡単なゲームで遊んだって楽しくない。喜びが少ない。でも本当に難しいゲームをやってね、達成した時の喜びって凄いじゃないですか。雪山登山がそうですよね。寒い所が苦手な人やったら、何であんなん行くの?ですけど、わざわざ寒い所に行って、凄い苦労して登山してっていうね、そして頂上登った時の達成感って半端じゃないですか。そういう本当の達成感というのは、真(まこと)の神さまの深い深い響きの悟りというよりも響きなんですけども、真(まこと)の神さまの深い深い奥の奥の奥っていうことに繋がっているわけです。だから、どの方もね、自分はもっと苦労して深く悟りたいと思う人程、この世では、わざと不幸な運命を選んで生まれてくるんですね。それを生まれてきたことを忘れてね、文句言っているだけですけども、何でって思わなくなったら、その体験が自分の血となり肉となってね、凄く役立つんです。だから、基本的には今の質問の考え方でいいんですけども、それを自分が選んでしてきた、選んでしてるっていうのを思い出して下さい。すると、わざと選んでしているから、雪山登山はそうでしょう。自分で雪山に寒い所に行って登るんだって思うから行けるんで、そんなんそんな気のない人が突然そういう所に放り込まれてたって、かなんかなんって逃げるじゃないですか。でも、この世の運命・不幸というのは、自分で選んできているからね。どの形であっても、これが良かったって思って、こなしていくのが大事なんですね。

 こなしていく時の一番注意しなくちゃいけないことは何かというと、結果に一喜一憂しないということなんです。要するに、達成できるできないは関係ない。体験できることが大事なんです。それがわかれば、この世の不幸でも何でもスーッと消えていくんです。何で消えるかということですね。そんなん言うけど何で消えるねんっていうことで、やっぱり理屈で言わないとみんなわかってくれないんでね。ちょっと理屈で言いますけども。不幸とか病気とかっていうのは、求める心なんです。この世の波というのは、本来平穏でふわーっとしているんですよ。それを求める心だと引っ張っちゃうのね。引っ張っちゃうとグーンと沈んで、不幸とか運命になるんです。その波がくると次は、グーンと持ち上がって幸せな所に行っちゃうんですね。波瀾万丈になるんですよ。それが今生で繰り返すか、生まれ変わる中で繰り返すかは、その人によって違うんですけどね。過去世で凄い貧乏して苦労をした人は、今生では楽して出世してね、大金持ちになっているとか、それは色々ありますけども。どっちにしても求める心で引っ張った、引っ張ったが為に波瀾万丈になっているだけなんです。でもそれを与えに与え尽くす支える心になって、「ありがとうございます」って受け止めていくと、自然な波に変わるんですね。すると一遍に何でも消えるんですよ。

 だから、結果に一喜一憂しないということが大事なんです。今こうだからどうじゃなくて、ただただ神さまが、求める心も一緒なんです。神さまがその人にとって必要な体験だからわざと求める心を起こさしたとこはあるんですよね。だって、真(まこと)の神さまと本来の自分は不離一体なんですからね。わざと引っ張って体験しているっていうのをね、病気の人でも運命の悪い人でもそれをわかって下さい。それがわかれば、悠々と一つ一つこなしていけるんです。一つ一つこなしていく為には、結果に一喜一憂しないなんですよ。だから例えば、僕の場合そうですけど、字が下手なんですね。上手になろうとして練習する。でも中々上手くならない。でも上手くならなくてもいいんだ、ただ淡々と練習するのがいいんだって思い切ると、一気に直るんですよ。何でもね、結果を気にするから。例えば、英語の勉強がそうなんですけども、英語が私、苦手だっていう人はね、凄く結果を気にするのね。だからこの単語10個覚えなあかんっていうと、その単語が10個覚えるまでは、もうそこから離れられないの。ほんで結局、何もできなくなっていくんです。英語に関わらずですけどね。でも、結果に気にしない人は、まあ10個の内3つ覚えたからいいやって、また次いくんですよ。そうこうして3つ覚えているのが増えていけば、勝手に100になって、1000になっていくって、結果を気にしないんだけど、結果が整ってくる。

 すべてね、この現世でも、あちらの世界でも神さまの世界でも一緒なんですけども、結果を気にしたらできなくなる。何でダメかというと、結果を気にするというのは求める心だからです。だから真祈りも一緒なんですけども、自分が真祈りできないと卑下慢になってね、私なんかできないから私一人別にいいじゃないって思う事が、本当は大きな罪なんですよ。結果はいいの。だから例えば、上手い人はオーケストラでいいますとね、上手い人はバイオリンとかそういうのを担当して主旋律を弾かせるわけですよ。でも下手な人はトライアングルとかね、簡単にできることをさせるわけです。でも、オーケストラとして一つなんです。だから、ようけ(たくさん)できたからいい、ちょっとしかできないからいいじゃないんです。それはこの現世も同じなんですよ。真祈りをようけ(たくさん)しっかりできる人がいいじゃないの。たくさん真祈りをできる人、ちょっとしかできない人、その全部が一つ、一つなんです。どれが欠けてもダメなんです。だから一人、目立ってね、これだけの効果の真祈りができるってやったってダメなんですよ。ちょっとしかできない真祈りが全部揃ってはじめて、一つの、本当の真祈りになる。だから印可書には、すべては完璧なる一つっていうんですけどね。その完璧なる一つというところがね、みんな中々わかんないんです。自分という自ずから分けるものをもってね。自分と他人を分けて比べようという癖がついているから。この自分と他人を比べるのが虚栄心ですけども、その虚栄心によって、何もできなくなっていくんですけどね。
何もしないのが大きな罪なんです。神さまの働きというのは、大きな大きな働きですから、一瞬一瞬新たに、結果じゃなくてね、支える側に回ることが大事なんですね。そういうことがわかってくると、自分の不幸とか不運も気にならないし、先月お話しましたけど、真(まこと)の悟りというのは、どんなに痛かろうが何があっても心が揺るがないんだっていうのは、そういう意味なんですよ。だから今、本当に病気のすがたをとっている人、いらっしゃると思うんです。或は、非常な不幸なすがたで苦しんでいる方、身内にもうすぐ死ぬという人がいて苦しんでいる方とか色々いらっしゃると思うんですけども、どれもこれもがね、神さまが一番いいようにしているんです。それをわかって、悠々と真祈りできることが大事なんですね。勿論現世的には、一生懸命に色々したらいいんですよ。でも、した結果が報われないと思ったら、もうしたことすらも無駄になっていくんです。結果が報われるか報われないかは関係ない。自分が支える側に回ったということが大事なんです。それをしっかりと覚えておいて下さい。支える側に回るだけでいいんだ。支える側に回るのはどうするんだ。呼吸に「宇宙神ありがとうございます」を籠めるだけで支える側に回ってるんですよ。だからね、真祈りを難しいと思わずにね、悠々と呼吸に「宇宙神ありがとうございます」と籠めながら、色んなお仕事や日常の御三どんをして頂いたら、一気に世界は変わって、プラスに変わるんです。そういうふうに思い直して下さい、ということです。

司会者
 ありがとうございます
事前にお受けしてる質問は今の2点なんですけども、ご質問のある方いらっしゃいますか?よろしいですか?じゃあ、無いようでしたらお話の方よろしくお願いします。

河上さん
 護摩の時にね、前に出て「宇宙神ありがとうございます」というのはどういう意味か?というふうな質問が一つきていたんですけど、これは総責任者の自覚を深めてもらう為です。この護摩の会場で、自分一人あってもなくてもいいやと思うんじゃなくて、此処で真祈り、前に出て真祈りするということで、先生と同じ立場に立って祈るんだという、覚悟と決意とね、自覚を持ってもらう為に、前に出てお祈りしてもらっています。だから、この形がいい悪いじゃなくて、総責任者の自覚を持つということが必要ということです。総責任者の自覚とは何かと言ったら、すべては完璧なる一つというね、みんな自分だと思えることです。理屈言いに言わしたらね、自分と他人、分かれているじゃないかっていうことですけども、例えば自分の足の小指、普段意識しないじゃないですか。意識しないけど自分でしょう。だから、そういうもんなんですね。形の上で分かれて見えるけど自分なんです。もっと正確に言えば、すべて真(まこと)の神さまなんですけども。その総責任者の自覚を持って頂く為に、前でやって頂いてます。ほんで、そんなん言ったって前でやったって何も変われへんわって、今までそういうふうに返ってきたわけですけどね。そこが結果に一喜一憂しないというとこなんですよ。結果を掴んでいる間はね、永遠にできない。だから、皆さん歩いてるじゃないですか、普通に、ごく普通にね。それって、赤ん坊の時は歩けないでしょう。でも赤ん坊の時は、結果を気にしないから歩けるようになったんですよ。でしょ?四つん這いで、ハイハイしてね、最初に歩き出す時って、本当にフラフラして歩けないわけじゃないですか。でも結果気にしてたら、私なんぼ頑張っても歩けないから、もうダメだわって言って、歩けなくなるはずなの。でも、赤ん坊の時は結果気にしないから、歩けるんですよ。何で結果気にしないかって言ったら、赤ん坊の時は自分と他人を分けてないの。他人の事を気にしてない。だから、親が歩いていることも気にしてないし、勿論同じような赤ん坊が歩いていても気にしない。だから歩けるの。だから、本当にすべては一つで、結果を気にしなくなったら、すべては一遍にプラスに転じるんですけどね、中々色々あります。

 ほんで、天の岩戸が開かれたのは、もっと具体的にどうなのか、どういう意味なのかっていうふうな質問がきてまして、天の岩戸が開かれたということは、大きく天地に光が降り立ったということなんです。天地に光が降り立ったということはどうことかというと、降りると昇るが同時の状態なんですよ。ほんで、特にこの会場はいつも護摩をする時は、強く光の柱が立ちます。何でこの会場で真祈りの伝授ができるのかっていうことですけども、何でかって言うと、それ簡単なことなんですね。この会場に来て「宇宙神ありがとうございます」って祈る時は、支える心になってるんです。支える心になるとね、光の柱の横にスーッと立つと、吸い込まれちゃうんですよ。支えるから。自分が光の柱を支えようとするの。わかります?自分が光の柱を支えようとするのがこの会場で「宇宙神ありがとうございます」って祈ることなんです。支える側に回ったら、光の柱に吸い込まれてね、真(まこと)の神さまと不離一体になるんです。それを毎月毎月、不離一体の自覚をね、自覚なくても体験していくことによって、不離一体の自覚が湧いてくるんですよ。

 真祈りとは何かですけど、真祈りとは真(まこと)の神さまと不離一体の自覚を得ることなんです。じゃあ、真(まこと)の神さまと不離一体の自覚を得ることって何かと言うとね、無条件なんですよ。無条件の喜び・無条件の幸せ・無条件の輝き、もう兎も角(ともかく)、無条件で光輝いた喜び勇んだね、ワクワクした自分。具体的には、無条件に「宇宙神ありがとうございます」「ありがとうございます」って湧く心です。だから、皆さん真祈りが自分ができるようになったなぁっていうのはどこで観るかっていうと、無条件にいつもいつも喜びが湧いてたら、「ありがとうございます」って湧いてたら、「宇宙神ありがとうございます」って湧いてたらね、無条件です。だから自分にとって都合の悪い事が起ころうが何しようが、無条件に湧き上がるようになったら、本物です。そやけど自分に都合の悪い事が起こってきたらどうしようってなった時は、反省して下さい。ちょっと真祈り途切れたなぁっていうことでね。真祈りってそういう簡単なことなんです。

 その無条件で湧く為にはどうするかって言ったら、自分が無くなることなんです。自分があると、何でこうなるのって思って、無条件が無くなる、条件が付くんですね。だから真祈りしない人は、自分で条件付けてね、自分の願いが叶ったら嬉しい。思い通りになったら嬉しい。人が言うこと聞いたら嬉しいって、条件付くわけです。条件付いたら幸せっていうのは、その条件が外れたら不幸せになるの。真祈りしない人は、その思い通りになった、ならないで、嬉しいか悲しいかの波を繰り返すわけですね。それを輪廻転生というわけですけども。
だから、どうか真祈りに戻ろうということだけ。真祈りとは何かって言ったら、無条件に喜ぶこと、感謝できること、色々ありますけども。先生が、ありがとうございますの16項目とかね、印可書とか残して下さっていますけども、あれが自然に湧いてくるようになったら、真祈りが完成してます。真祈りの入り口に立っている時は、いつも申しますように、呼吸に「宇宙神ありがとうございます」を乗せて下さい。ほんでね、病気とか不幸の結果に一喜一憂しない。いつもこれが一番神さまがいいようにされているというのをね、わかって下さい。神さまの光を水に例えると、バーッと水がいくとその泥に染まって色が付くじゃないですか、それが病気や不幸の状態です。でも新たに新たに新しい水を送ったら、全部薄まって綺麗になっていくでしょう。新たに新たに新しい水を送るというのが、呼吸に「宇宙神ありがとうございます」って乗せ続けることなんですよ。呼吸に「宇宙神ありがとうございます」って乗せている時は、一瞬一瞬新たに新たに、真(まこと)の神さまの光を、いのちを、喜びを受け止めているわけです。ほんなら結果なんていいように変わっていくだけなんですね。でも、結果気にして、まだまだ痛いねん、まだまだ汚れてるねん、まだまだ病気やねん、まだまだ喘息やねんと言うと、それは、またマイナスを自分で創ったわけですね。で、永遠に繰り返すんですね。だから、いかに結果に一喜一憂しないか。神さまが一番いいようにされるかっていうことをね、念頭に置いて、もう一度ね、呼吸に「宇宙神ありがとうございます」って籠めて下さい。もう皆さんね、真祈りの入り口を越えて、真祈りに皆さん入っているんですよ。自覚してないと思うけどね。折角入ったんだから、ずっと奥に入っていきましょう。その為には結果を気にしないことです。
 
 質問があったらお願いします。そんなん言ったって病気やとか、色々何でもいいです。
無いようなので、兎も角(ともかく)ね、真祈りというのは、簡単なんです。それを勝手にできないとか、難しいって決めてるだけ。それ何でかって言ったら、結果に一喜一憂するから。結果を気にするから難しくなる。でもね、全知全能の神さまがね、その人に一番いいようにしかしないじゃないですか。真祈りしなくても一番いいようにして下さる。なら真祈りしてたら、もっといいようにして下さる。それを信じ切れるか切れないかだけです。自分の自由意志でね。今まで、例えば先生、印可書出されたけども、読めとも一切仰らないのは、仰らなかったのは、自由意志で選んでくれることが大事やったからです。
今回も同じです。本当はね、先生が印可書出された時に、それを選び取れなかった人は、まぁ落第だったわけです。でも、それを何とかということで、お願いして、今の形があります。ある意味、今回のこの現世では最後のおまけだと僕は思います。次は無いと思いますけどね。この、それを素直に受け止めて、するかしないかは皆さんの自由意思です。でも折角ここまで簡単になったんだから、是非やってみて下さい。今までだったらお祈りの部屋に何日も通ってお祈りしなくちゃいけないとかね、色々あったんですよ。でも、その縛りも全部解けて、ただただ呼吸に「宇宙神ありがとうございます」を籠めながらお仕事をするだけで深い真祈りになっているということで、おまけになっていますから、是非やってみて下さい。
3年前はね、護摩木に書くことが真祈りだって先生仰ったんです。だから護摩木を書いてくれ、そこまで先生譲歩して仰って下さったのに、護摩木に書くことを真祈りって中々みんな思ってくれなかった。だから上手く、あんまりいかなかった。でも今は、呼吸に籠めてもらっていますから、護摩木を書く時も真祈り、お仕事する時も真祈り、全部真祈りになりますからね、これで上手くいかないはずがない。でももし上手くいかない人がいれば、結果を気にして自分でマイナスを掴みにいってるからです。それでは永遠に煙草を持ちながら、煙たいな煙たいなぁって言ってるもんですから。だから本当に最後のチャンスなんで、是非自分の自由意志で選び取って下さい。結果さえ気にしなかったら、あっという間に変わる、今は晴天の真祈りの時期ですのでね。是非ご自分の自由意志でね、選び取って下さい。お願い致します。
 また来月お会いできることを楽しみにしています。ありがとうございます

音声はこちらからどうぞ
https://youtu.be/m-EdXKfanXY

宇宙神ありがとうございます


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山より引用・・・・ by 河上彰延 2019年06月21日(金) 22時10分
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6月護摩焚き河上さんのお話
 宇宙神ありがとうございます
令和元年6月2日 護摩焚きで河上さんがお話をして下さった内容です。長い文章になりますので2回に分けて載せさせて頂きます。この掲示板で文字化けする場合があります。修正して、再度載せても文字化け箇所が増えたことがありますのでこちらでは修正はしません。
後日、河上さんのホームページ「ありがとうございます ドット トップ」では護摩焚きのお話で間違い等を修正してから載せて下さっていますのでそちらをご覧下さい。
http://www.arigatougozaimasu.top/ohanasinoumi.htm

質問1
 YouTubeでこの前の護摩の時の河上さんのお話を聞きました。先生が因果の輪を断ち切って下さったと話されていましたが、これから私は色々参加させて頂きますが、今まで村に行ったことがなかった私にも先生は因果を切って下さっているのでしょうか?
これとよく似た内容で、先月の護摩の時に因果の輪を断ち切られたという話がありましたが、8月のその場にいなかった人も断ち切られているのですか?

河上さん
 ありがとうございます
 
 また皆さんとお会いできて嬉しく思います。金曜日の朝早く、先生からお話の許可が出ましたので、皆さんの真祈りが深まってね、熱心になってきたということで、嬉しく思います。
 3年前、もう4年前入っていくわけですけども、最後の8月の真祈りの伝授の時に、先生は、本当にみんなの因果の輪を断ち切られたんですね。それは、そこに参加している人ではなくて、すべてのすべてに先生は断ち切っていかれたわけです。ただ、先生に縁の深かった人の方がその自覚が早いであろうと。それだけのことですね。

 この因果の輪を断つというのは、何処の立場で立っているかという意味なんですよ。本当はね。だから、新たなる真(まこと)の神さまは、新たなる真(まこと)の本心の自分という自覚だけっていうのが、これが一番根本なんです。つまり、因縁因果なんてないんですよ。本当はね。でも、自分が色んな立場に立って、因縁因果を背負っていくわけです。

 それは何でかと言うと、すべて無色透明の輝きの真(まこと)の神さまの働きだけなんですけども、そこに自分のプラスとマイナスの言葉を添えて、画用紙に絵を描くようにね、色んな物語を作って楽しむんですね。それが因縁因果の輪です。楽しんでいるのに、その中に入り込んで、例えば小さい子がね、お化け映画のちょっと怖い番組を見たとするじゃないですか。そしたら、夜怖くて、あの幽霊来る、お化け来るから、怖くて寝れないと泣くじゃないですか。そういう状態ですね。親からみたら、「いやあれはもうテレビやから、終わったから大丈夫やねんで」って言っても、子どもの方は「いや絶対来るし怖いし」って泣くわけですね。そういう状態で泣き叫んでいるのが、今の人類です。その自分で作って自分で苦しむ。苦しみを楽しんでいるんですけどね。それをいつしか忘れるということです。

 でも、何でわざわざ自由自在の自分を制限して楽しむかというと、野球のルールでもそうね、金属バットを使わずに、飛ばないバットを使ってホームランを競うように、或は、将棋でもそうでしょう。みんなが強い役割したら勝てるけど、面白くないから角と飛車は行き方違うし、みんなそれぞれ制限をつけて、その中で楽しむわけじゃないですか。本来マイナスの言葉というのは、楽しむ為に、自分で制限をつけて楽しんだんですね。だから、例えば100メートルを何秒で走れるかという時でも、こういう条件と条件で、ゴルフもそうじゃないですか。ルールを作って、ゴルフの場合だと、なんぼ飛ぶこのドライバーを使ってもですね、やっぱり勝てない人は勝てない。そういうちょっと難しいルールを作るわけですね。そういうルールを作って楽しんでいる。わざとマイナス言葉で縛って楽しんでいるというのが本当のすがたなんです。それを忘れてね、辛い悲しいってやるわけです。例えば、大きな神さまの立場から観たら、すべてはプラスで楽しいことばかりなんですよ。

 皆さん小学校の時にね、九九を覚えさせられたと思うんですね。九九を覚えさせられる時って、凄く大変なのね。何でこんなしんどいことをせなあかんのと言うぐらい苦労して九九を覚えていくわけですね。その時の小さい小学生の立場から観たら、何で先生はこんな難しい宿題を沢山出して、覚えてこい、覚えてこいって言うねんみたいな、文句たらたらじゃないですか。でも大人になってみたら、九九があるお蔭で、簡単な暗算はすぐ出来る。なんでもサッと解かるようになってくるじゃないですか。

 大きい立場から観たら、すべてはプラス・喜びなんですね。でも、小さい小さい立場に立つと、全部苦しみなんですよ。因縁因果の輪というのは、小さい小さい立場に立っているが故の苦しみなんです。それを大きな立場に立ち返る、本来の自分に立ち返るということで、因縁因果の輪が断ち切れるわけですけども、それが中々自分で自分を縛って断ち切れない。それを一時的に先生が肩代わりして断ち切ったよということです。断ち切ったから、断ち切ったからこそ、例えば今、素直に印可書を読むと、スッと絶対の中心に光が通って、自分がスッといけるわけですね。或は、呼吸に「宇宙神ありがとうございます」、呼吸に籠めなくてもいつも「宇宙神ありがとうございます」ってやっていると、スッと絶対の中心に立って、どんどん心境が変わっていくというのは、そのお蔭なんです。

 今までだったら、座禅がそうなんですけど、ただただ座れ座れって言ってね、作務衣(さむえ)って言いましてね、色んなお掃除をさせたり色んなことをさせるわけですね。その中で祈りに繋げていくという、苦労の時代があったんです。今はそんなことをしなくても、ただただ普段のお仕事の中で「宇宙神ありがとうございます」を籠めるだけで、籠めるのが困難となった時は、印可書を立ち返って読むだけで、スッと真祈りが出来て、お仕事そのものが生活そのものが、真祈り出来る時代になったということです。それが因縁因果を断ち切ったということなんです。

 だから、先生の所に来てない遠い人でも、断ち切っているのは間違いないです。ただ、それを自覚する為には、やはり先生の創って頂いた「宇宙神ありがとうございます」或は、印可書でもいい、或は「ありがとうございます」でもいい、或は「神の御光→みひかり 御力→みちから 御命→みいのち」でもいい「みんな既に悟っている 祈っている 救われている」でもいい。使い易い祈り言葉を使って自覚するだけなんです。その自覚の早い遅いは、本人の素直さだけ。神さまの絶対の愛を信じ切れるだけ、かどうかです。小学校の時に九九習った時でもね、絶対嫌だって言う人はやっぱり九九を覚えなかったと思うんです。でも、大きくなってから、色々苦労されていると思う。でもその時、先生がやれやれ言うし、親もやれやれ言うし、まぁ言ったら神さまがやれやれ言うんだから間違いないやろうと思って、やった人、素直に九九を覚えた人は、あと楽したじゃないですか。そういうもんです。

 因縁因果を断ち切ったというのは、素直に九九が覚えれる時代になった。昔やったら九九を覚えるのに大変苦労したけど、今は読むだけで覚えていける時代。要するに、読むだけで絶対の中心に心がスッと繋がる時代に入った。それが令和の時代だということです。それを見越して先生は、3年前に先に、皆さんの因縁因果の輪を切られてですね、

 全人類の先駆けとして、悟りを体に体現するする姿をとってくれということなんですね。それを受け取るか受け取らないかは、皆さんの自由意志次第です。先生に昔「先生にこれしていいですか?これでいいですか?」って聞いてもね、中々「うん」という、「ハイ」という返事は頂けない。ともかく、いいのか悪いのか、先生ははっきり返事されないというのが大半だったはずです。それ、何で返事されないかというと、みんなの自由意志を大事にされたんですよ。自由意志が大事なんです。だから、本人がやりたいと言うことを、真祈りして、自分で自分で確かめてね。自問自答って先生は仰ったわけですけど、それでやってくれということですね。すべての責任は我にありという、総責任者の立場に立ってやってくれと。

 先生が「やっていいよ」って言うからやるのでは意味がないんだ。総責任者の立場に立っていないから意味がないんだっていうことを遠回しに言っておられたわけです。それは、僕と先生と知り合って55〜56年になってきますけど、最初からずっと先生は、それは変わらなかったです。だから先生に相談に行ったら睨まれるだけで、僕の場合は、返事もうなずきも頂けなかったです、最初からね。まだちょっとしぐさを頂けるだけで皆さん幸せだったと思って下さい。ちょっと話が大きく流れましたけども、大体総まとめにしてそういうことです。

質問2
 真(まこと)の神さまは一つなんですか?それともそれぞれの人によって見ている世界が違うように、真(まこと)の神さまもそれぞれの人によって違うのでしょうか?

河上さん
 これね、真(まこと)の神さまを止めて見ようとする思いの癖なんですね。止めて見ようとしたら、どう違うや?みんな違うんか?一緒なんか?ってそういう疑問になるわけです。でもその川の水をね、大きな大きな無限大の貯水池があって、そこから水門があって川となって流れてきていると思って下さい。その川の水、貯水池の水と無限大の貯水池の水とね、川の水と、そして海に流れこんだ海の水とね、どう違うねんって言ったら、水であることには変わりないんですよ。勿論理屈で言えば海は塩だとか言いますけどね。それは横に置いておいて、水として見た場合ね。すべて水だけども、全部形が違うんです。一瞬一瞬新たに生まれてくるからです。それをね、理屈では受け取れない。ここが一番大事なんです。みんなね、何とか理屈で理解しようとするんですよ。でも、理屈では絶対に理解できない。

 例えば、川の水の分子一つ一つ、水の分子一つ一つとってもこの現世ですらですね、一つ一つ形が違うんですよ。構成要件は一緒ですよ、H2O(エイチツーオー)という。構成要件は一緒ですけど、形が違うんです。だから、水は色んなすがたに変化をするんですよ。蒸発したり、滝の時のこう飛び散ってみたり、大きな水圧になってみたりするのは、全部分子の形が違うからです。この現世ですら、一つとして同じものがないんですよ。でも同じものはないけど、H2O(エイチツーオー)としては一つなんです。大生命としては一つなんです。だから、大生命として大きな立場に立てば、すべては完璧なる一つなんです。でも色んな表現の立場に立って楽しむ時は、全部違うんです。だから全部違うし、全部一つですというのが、本当なんです。でもこれは、何処で理解できるって言ったら、無理に理屈で言えば、入れ子構造、重層構造、ところてん構造なんです。これ理屈で説明したら、切りなく切りなく、もう大変なんですけどね。例えばH2O(エイチツーオー)だけで言えば、H2O(エイチツーオー)の水素の原子の中の原子核の中に、またH2O(エイチツーオー)があってという感じでね、永遠に続くんですよ。永遠に支え合っているんです。それは、真祈りによってしか解らない。今だったら「宇宙神ありがとうございます」って祈り続けることです。呼吸に籠めようが、お仕事の一つ一つの動作に籠めようがね、やり易いようにやって下さい。

 祈り続けるしかわからないの。何があったって祈るしかないんですよ。祈って、直観(感)として、実観(感)として解るしかないの。もうそれ以外に解かる方法はないの。理屈では止めてしまうから解からないの。水もそうでしょう。川の水をなんぼ止めようとしたって、何処で堰(せき)たってわからないじゃないですか。永遠に解からなくなる。理屈というのはそういうもんなんですね。止めるから。

 この前バッティング理論で言いましたけども、ひたすら打つことによって、バッティングって解かるんですね。でも、「この角度で止めてなぁ。こうなって、あーなって」って言ってたら解からなくなっていくんですよ。それは剣道の斬るというのがそうなんですね。もうひたすら打ち込んで打ち込んで打ち込んでね、打ち込む自分が消えるんです、剣道の場合。打ち込む自分が消えて、打ってるのが自分なのか、竹刀を打つのが、打つのを、何て言うんですかね、ともかく竹刀と自分とがね、木刀と自分、剣と自分とが一つになって、自分が振っているのか、剣が動いているのかもわからなくなる。その境地になって初めて、剣禅一如(けんぜんいちにょ)というんですけど、すべては一つとわかって、剣の達人になるんですね。そこまでいかなくちゃいけないんですけども、それもひたすら振ること。剣でいう振ることというのは、祈ることです。ひたすら振るって言う、ひたすら祈るっていうのが大事なんですよ。

 これはもう、ひたすら祈るっていうと難しくなるのでね、力むとひたすらでなくなるんですよ。わかります「宇宙神ありがとうございます」「宇宙神ありがとうございます」って力んじゃうと、もうそれ祈りじゃないの。フワッとゆったりと途切れずに、ところてん構造ですね、ゆったりと途切れずに、でも途切れずに響き渡っている、これ重層構造になるんです。そういうのが実観(感)としてわかります。だから悠々と、呼吸に「宇宙神ありがとうございます」と籠めて下さい。或は、お仕事している方だったら、お仕事の動作の中に籠めて下さい。何でもいいです。自分で色々と工夫してね、ひたすら籠めていくんです、祈りを。すると、祈っているのが自分なのか、籠めているのが自分なのか、祈り言葉が響いているのが本当なのか、渾然一如(こんぜんいちにょ)としてね、もうわからなくなります。その時に初めて、わかります、僕の言ってることが。重層構造、入れ子構造が解ります。そこまで自分を消し切って下さい。そしたら解りますから。

質問3
 イエスさんについてなんですが、磔(はりつけ)の刑にかけられたのはイエスさん本人だったのでしょうか?

河上さん
 あのこれね、実際はね、この現世(うつしよ)は、パラレルワールドといいましてね、色んな世界が同時に重なっているんですよ。それ何かと言うとね、何でそういうややこしい世界を、現世(うつしよ)というややこしい世界を創ったのかと言うと、皆さん肉体を神さまにお返ししてね、死ぬ時、何処の世界に行くかというと、自分と同じ響きの世界に行くんですよ。そしたら、死んでからは見るものずーっと一緒なんです。自分の思った通りの事ばかり見えるの。どういうことかと言うと、進歩も何もかも止まる。それで、あちらの世界に行ってね、まったく同じ映画を繰り返し見ている感じよね。なんぼ楽しい映画でも10回見たら飽きてくるじゃないですか。そういう感じで、上の世界に行ってから飽きるんですよ。飽きてどうするかと言うと、この現世(うつしよ)という映画館に来るの、みんな。上からみんな見ているの。だから、色んな響きがずれてあるんですよ。だから、イエスの弟が十字架にかかった世界もありますし、イエス様ご本人がかかられた世界もありますし、色々あります。「神よ神よ、何故自分を見捨てたまうのか」っていう、嘆かれるイエスさまの磔(はりつけ)のすがたもありますし、「エリ エリ ラマ サバクタニ」といいましてね「神よ神よこれで神さまの御心が成就しました。素晴らしいです。みんなの因縁因果が切れました」というイエス様の言葉もあるんです。色んな世界があるんです。

 どの世界を見るかは、皆さんがビデオ屋さんに行ってね、このビデオって選ぶじゃないですか。このビデオ屋さんで選ぶ行為が、皆さんの出された言葉なんです。皆さんの言葉で、どの世界かを選んで見ているんです。だから、同じこの現世(うつしよ)にいててもね、花を見て「綺麗な」と感じる人と、「うん、咲いてるだけやん」っていう人とあるのは、見ている世界が違うんです。同じ世界で見ているように思っていますけど、重層構造的にこの現世(うつしよ)は重なってますのでね。好きなビデオを見るのも、自分の好きなビデオを見ているんですよ。花が綺麗ではないと思う世界を見てる人は、綺麗じゃないなんですよ。でも、本当に道端で咲いている、ちょっとした名の知らない花でも綺麗なと思う人は、思うじゃないですか。そういう言葉で選んでいる。ご自分のお使いになった言葉で選んでいるんです。だから、この世は色んな意味での勉強になるんですけどね。
 ただ、いよいよ令和の時代に入って、この真祈りの時代に入りましたから、あんまり遊んでいる暇がない。ビデオを見て遊んでいる暇がないんですね。じゃあどうするんかと言うと、この最初にお話しましたけども、死んで持っていけないものは、すべて影って言ったのね。

 影とは何かと言ったら、すべて神さまからの預かりものっていうことです。この現世(うつしよ)といえども、神さまのいのちで構成されていますから、すべて真(まこと)の神さまだけなんですよ。でも、死んで持っていけないということは、自分が今、この肉体ですらですよ、自分の体だと思っておられるでしょうけど、この肉体ですら神さまからの預かりものなんですよ。じゃあ、預かりものは普通大事にして返すでしょう。レンタカーでも汚したまま返す人もあるけれども、普通はレンタカー借りて、返す時はそれなりに綺麗にして返すじゃないですか、それが礼儀でしょう。ちゃんとガソリンも満タンにして、満腹にして返すじゃないですか。なのに、みんな肉体を粗末にしてね、病気にしてボロボロにして返すでしょう。やっぱり自分のものだと思っているからです。 自分のものだと思っているから病気になるんだけれどね。神さまからの預かりものと思えば、病気なんてすぐに消えていくんですけども。それくらい、すべてはこの世のもの、すべては神さまからの預かりものなんですよ。

 だから真祈りして、全部神さまからの預かりものという大きな立場に立っていたら、大きな光を受け取れるんです。でも「このお金は自分のもの」「このお家は自分のもの」「この子は私の子供」ってね。「自分の子供」ってやっていると、自分のと思った分しか光を受け取れないのね。

 だから真祈りしても中々ピンとこないとなるんです。

 本当は、真祈りは簡単なんですよ。全部神さまの預かりものと思えば、大きく光を受けれるの。でも「このお金は私のお金、苦労して集めたお金」とか「この工場は苦労して作った私の一生の作品」とかね、要らんことを思うと、その分しか光を受けれないから変わらない。

 だから本当にね、死んで持って行けないものは神さまからの預かりものですから、大事に大事に使いましょう。そう思って真祈りしたら、一気に変わるんですよ。「私、宇宙神ありがとうございます呼吸に籠めるけど、何も変われへんねん」とかね。或は「河上そんなん言うけど、呼吸に籠めても何も変われへん、ワシは」って色々と文句の質問がくるんですけど、それ何が違うか。それ全部ね、神さまからの預かりものと思っているか、自分のものと思っているかの差なんです。自分のものと認識した分しか光受けれないのね。でも、全部神さまのもの、預かりものとしたら、全部自分のものです。大きな自分のものね、小さな自分じゃないですよ。だから、大きく光を受ける。だから本当にね、死んで持っていけないものは影です。預かりもんだから。自分のものというのはあきらめてね、あきらめて下さい。神さまからの預かりものなんだから、諦めて真祈りして下さいね。そしたら、お金を稼ぐ為に自分はつまらない会社に勤めていると思っている人でもね、そのつまらないと思う仕事が、大事な大事な真祈りの仕事なんですよ。
この前オーケストラで説明しましたけどね、本当にちょっとトライアングル打つだけの人というのは、ずっと寝ているようだけど、最後にカンカンカンカンと打つから曲が完成するじゃないですか。そういうものなんですよ。この現世(うつしよ)で今回はつまらない役に生まれたけど、次は大事な役に生まれるという風にね、代わりべんたん(代わりばんこ)になっているんですよ。どの役も大事なんです。演劇がそうでしょう。主役だけやったって、舞台装置作る人もあって、通行人の役をする人もあるから、劇として完成するわけじゃないですか。どの一つをとったって、必要でないものはないですよね。

 だからこの現世(うつしよ)も一緒で、必要でないものは一つもないです。全部大事な大事な神さまのお仕事なんです。でもそれをね、自分のものと思ったらわからなくなるの。神さまからの預かりもので、預かってしているとなったら、よくわかるんです。それをわかってね、どんな立場でも一番きつい・汚い・危険で、誰にも認められなくて誰にもわかってもらえない仕事が一番素晴らしい仕事です。はっきり言います。だから絶対、誰にもバレないようにしてね、みんな支えに回ったらいいんですよ。神さまは皆さんを支えて支えて支え切っているの。その支え切っているすがたを自分達がお手伝いするだけ。それね、神さまと同じように100しなくていいの。1支えに回るだけで、神さまが後ろにバーッとつかれてね、100の支えに変わるんです。それは、この現世(うつしよ)では認められなくて、誰にも知られなくていいんですよ。

 誰にも知られなくてするのが一番本当は幸せなんですけどね。あんまりみんなにこうして前に出て喋ってしまってね、バレてしまうと、だいぶ損しながら死ぬんですけどね。それは冗談として、ともかくね、何事も神さまのお仕事で素晴らしいものだというのをわかって下さい。例えば、自分の髪の毛をといで、ちょっと切るだけでも素晴らしい仕事なんです。それが解かれば、すべてが光に変わるんです。でもこの自分の身繕い(みづくろい)、つまらん事や、虚栄心やって思ってしまうとね、それはもうつまらんことになるんです。すべては神さまの響きだけ、いのちだけ、輝きだけ、働きだけってね、思い直さなくちゃいけない。でもそれ、理屈で言うと難しいから、すべて神さまの預かりもので神さまのお仕事のお手伝いをする。神さまと一緒のように支え合いに回るって、それだけを願って、特に難しい事をしようとせずにね、普段のお仕事をお祈りして、神さまのお仕事と思い直してね、やってみて下さい。

質問4
 最近、色々な神社に行って印可書を唱えていますが、印可書ではなく「宇宙神ありがとうございます」の言葉だけを何十回も唱えるだけでも、神社に与える効果は同じでしょうか?また神社やお寺以外にお祈りをするお勧めの場所はありますか?

河上さん
 これね、何が間違っているかというと、勿論「印可書でも宇宙神ありがとうございます」でもいいんですけど、神社に与える効果って言うでしょう。そこでもう間違っているのね。「神さまに捧げるだけ、印可書も捧げるだけ」。その「宇宙神ありがとうございますも捧げるだけ」なんです。それを勘違いしないで。
 
 印可書が出た当時にね、読むだけで悟れるからって言って、色んな方に読んで頂いたんですけど、ダメだった人もあるんです。それ何かと言うと、「読んでやっている」「読んで効果を与えている」みたいな意識があるのね。それは何かっていうと「自分が」です。「自分が読む」「自分が効果を与えている」「自分が神社に読みに行っている」という、自分があったら、もうこれダメなんですね。自分を消し切らないと神さまのお手伝い、支え合いに入れないんです。自分があったら、それをやったってるなんです。やったってると言うと、もうそれは、自分のものとしているから効果がないですね。もうただただ、自分が消えて、支えるだけにまわると、神さまの預かりものを全部自分のものとして、サッと使える。それはこの世的な形の上でね、どうこうじゃなくて、もっと奥でそうなるんですよ。
 
 だから、先生から頂いたコップ1杯の水が凄く僕の場合は美味しかったんですけど、それは、コップ1杯の水がただの水じゃなくて、先生の愛・神さまの愛がそこへ全部入っているんですね。それ何でかと言ったら、先生には「自分が」というのがないからです。だから、さっきちょっと剣の話ね、自分が消えるまで剣を振るんだという話をしましたけども、ともかく自分を消し切らないとダメなんです。

 自分を消し切る方法はね、自分なりに工夫すればいい。没頭すればいいんですから。それも自分だけの為に没頭するんじゃなくて、みんなの為に、支える為に没頭して下さい。そしたら、あっという間に自分が消えます。それがコツです。勿論、神さまの預かりものと思うことも大事ですけども。預かりものを使わして頂いて、お手伝いするんだって、みんなの支えに回るんだって思ったらね、例えば朝早く起きて、みんなに見られないところで、ひたすら駅前を掃除するとかする、その行為が同じ駅前の掃除でも、大きなことになるんです。そういうものなんですよ。


 だから「自分が」があるうちは、効果がないと思って下さい。だから「自分が」があるうちは会社で何しても怒られるの。でも「自分が」が消えてくると、仮に怒られても気にならないし、怒られなくなります。そういうものなんですよ。「自分が」あるから怒られるの。一緒です。神社に印可書を唱えに行くのも「自分が」って行くんだったら、行かないより行った方がいいですよ。でもあんまり力が出せないね。だって「自分が」っていうことは、自分の持っているものしか捧げれないでしょう。そしたら、神さまの側から見たら、そんなもん、別にちょっともらったって、しゃあないわって感じですね。

 全部神さまからの預かりものと思ったら、預かっているものをすべて捧げれるの、一瞬でね。神さまの方は、それが一大循環の相象(すがた)ですから、大きく受け止めて、大きく返して下さるんです。だから先ず「自分が」が消えるまでね、自分で工夫して色んな方法で何でも没頭してね、神さまの預かりものを使ってやってみて下さい。
ありがとうございます

宇宙神ありがとうございます




6月護摩焚き河上さんのお話A
宇宙神ありがとうございます

 令和元年6月2日 護摩焚きで河上さんがお話して下さった内容の後半です。

質問5
 以前と違って、少しなんだか気持ちが重く感じる事があるのは、縁者の思いなのでしょうか?気にせず「宇宙神ありがとうございます」を唱えるだけでいいのでしょうか?

河上さん
 これは、もうその通り縁者の思いです。ほんで(それで)何で重く感じるか?「自分が」があるからですね。何を唱えても「自分が」があると辛いの、だから如何に自分を消し切るかです。それを仏教では無になれとか言うんですね。無念夢想というんですけど。無念夢想とはちょっと違うんです。神さまだけってしなくちゃいけない。無念夢想だと全く無しにしてしまって、暗黒の闇に陥るんですね。座禅でもそれで、無念夢想で失敗して落ちてしまった人が沢山いて、そういう人達はまた助けに、ひらいにいくんですけどね。それはまぁ先の話で、ともかく「自分が」が消えないと地獄にも降りれない。「自分が」があって地獄に降りたら二度と上がってこれませんから、自由自在にどの立場にもいって働かなくちゃいけませんのでね。だから先ず「自分が」が「自分が」っていうのを消し去ることです。もし「自分がする」って思ってしまった時はね、あーしまったって思って、例えば印可書をすーっとと読めばいいです。印可書を読んだ後は自分が消えてるというのを信じ切れることが大事です。一番の問題はねぇ、理屈いいの問題なんですけども「自分が」を消さなあかん、河上が「自分が」が出た時は印可書を読めと言ったとほんだら(それなら)読むと、それで本当に消えたんかって、また疑うんですよ。ほんで(それで)戻っちゃうのね。自分で堂々巡りをしてるんだけど、人の所為(せい)にしてるからわからないの。読むのは自分の責任。

 自分の責任で読んだ以上は自分が真剣に読めば「自分が」は消えてます。わかります。

 「自分が」を消す為に読むというたらもう消えないの。わかる。消す為に読むというたら消えないのよ。わかる。悟る為に読むというたら悟れない。わかりますか。何でか(何故か?)わかる?

 「自分が」を消す為いうたら、「自分が」があるというてるから永遠にあるなんです。

 「自分が」があるのも消すも無いも無くて、ただただ神さまに捧げるってなったら自然に自分が楽に消えるのよね。だから剣の修行でもね、師匠から一日千回振れ、一万回振れって言われるわけですよ。千回は振れるのよね。一万回というのは振れない。振れないことを師匠は言うんです。それ何かっていうたら「自分が」を消す為なんです。「自分が」振るって言ってる間は一万回振れ、あかんあかん二万回振れっていうてやられるわけですね。でも「自分が」が消えたら、一回振ったことが何十万回になってるのがわかる。そこなんです。でもそれは真面目にね、ひたすらやるしかない。ひたすら真祈りするしかない。今でいうとね。それでわかります。理屈ではなくて、それを理屈を超えてますのでね、どうぞ令和の時代に入ったのでね、本当に自然に真祈りができる時代なんですよ。素直であれば、だから真祈りできないって言ってる人は何かっていうたら、ほんなんいうたってこうやこうやって自分で理屈つけて、自分の言葉で縛ってるだけです。だから現象は無視。先生は現実は遠い遠い過去って言葉を変えて無視し易いように仰って下さったわけですけども、その遠い遠い過去をね、見なければいい。それだけなんです。

 悟りの神髄の本当の事をここでいいますとね、実は過去も現在も未来も今此処にしかないというだけなんですよ。それが実観(感)できると深い悟りで無限の無条件の喜びになるんです。例えばこの花を見たら普通は花が綺麗な、花が咲いてて綺麗なで終わりなんです。悟りが深くなるとね、種の段階からすべてを楽しめるの、種の段階で根っこをぐーっと出してるのも凄いなぁって喜べるの。芽を出してね双葉が出た凄いなって喜べるの。何もないところから、芽が出たってね。どんどん木が成長した凄いなぁって、ほんで花が咲いたら凄いなぁ、花が枯れたら凄いなぁなんです。何でか?花が枯れて実が出来ていくじゃないないですか。あーあ凄いなぁ。そのすべてを始まった時から終わりの時までのすべてをね、同時に楽しめる。だから無条件の幸せ、無条件の喜びなんですよ。喜び重なってるじゃないですか。どんな条件もない、いつも喜びなんです。するとそれが一大循環となって永遠に新しいものが繰り返されるんです。それが悟りの神髄。だから悟ると嬉しい楽しいだけなんです。でもこれ理屈での説明。今ちょっと、丁度みなさん真剣に聞いて下さっているんで、ちょっとだけ理屈で言いましたけども、それが実観(感)でわかります。過去現在未来が同時に楽しんでるんだって、それがわかったら現実のどんな姿も一番いいというのがよくわかる。風邪ひいててもいいなぁって、癌になっててもいいなぁって、わかる。理屈抜きにね。理屈いいにいわしたらダメですよ。癌になっていて何がいいんやねん、あほちやうんというわれるしね。風邪ひいてしんどいのに何を言うてるんって怒られるわけですけども。そうじゃないね、風邪ひくにはひくだけの、色んな苦労したものがあってね、その結果風邪になっていくわけじゃないですか。その苦労も全部楽しめるの。だってゲームがそうでしょう。いろいろなルールを作って縛って楽しんでるじゃないですか。将棋なんか、そんなんせんと王さんスッと相手持っていったらしまいやんって思うんですけど、いけないように縛って楽しんでるじゃないですか?一緒で風邪も楽しんでるの本当はね。それがわかったら楽になるんです。

質問6
 この世の未練を断ち切るにはどうすればいいですか?

河上さん
 未練ですね。これも一緒で「自分が」があるからです。「自分が」があったらこれは自分のものやからと未練があるの。これ自分の車やから、大事な自分の車やからって未練になるんですよ。だからお年寄りのことをあまり言えない歳に自分もなってきましたけども。車の運転をいつかやめなくちゃいけない。ほんだら今まで乗っていた車どうするねん。もったいないとか未練になるわけですね。それ自分の車、自分の運転だからです。自分のが消えちゃうとね。神さまから次はこの役割してくれって言われて「ハイ」だけなんです。運転の役割終わったんだなぁってすーっと終わるんです。定年退職して脱力状態になるというんですけど、みんなね自分の仕事、自分の能力でこなしてきたっていう「自分の」があるんです。「自分の」があるともう定年してから後はどうしようってなるんですね。そやけど神さまからのすべて預かりものやったら、お金になろうがならないか神さまのお仕事をすると決めたらね、もう何の悩みもないんですよ。神さまは必要なものは「われ汝の求める先立ちてすべて与えたり」っていうてね、必要なものは、欲しいものじゃないですよ。必要なものは常に与えておられるんですね。それがわかれば何の不満もおこらない。常に神さまは共に喜び共に楽しまんと仰るんです。「自分が」があったら、神さまそっちのけしてるからね、喜べないし、楽しめないの。神さまと共にっていったら、神さまっていう大きな立場に立ったらすべては喜びです。何で無条件の幸せなの、何で無条件の喜びなの、そんなんありえへんわーって言うて質問があったんですけど、まぁ今お答します。そういうことです。すべて神さまの立場に立ったら喜びなんです。それは神さまといつも共に喜び、共に楽しみという神さまと不離一体の立場に立たないとダメなんです。自分が喜ぶ自分が楽しむとなると欲しいものになるんです。必要なものじゃなくて、だから自分が何か欲しいなぁと思った時は、神さまと共に喜ぶのに必要かなぁと思えばね、すぐにこれは要らんわーってわかります。

質問7
 これから古い人から使っていくと言われました。私は2年前に病気になりましたが、これも使われたことになるのですか?

河上さん
 その通りです。古い人から使っていくというのは、その人が「自分が」というのを放してる放してないに関わらずです。今まではそういうことをしなかったんですけど、もう時間がないし最後なので、使います。何で使うのかっていうたら、なんやかんや言うても神さまのお仕事に参加した方が幸せでしょう。本人の自覚するしないに関わらず。だから神さまのお仕事に参加して頂くようにしています。だから色んな病気になるし、癌にもなるし、それで死ぬ人もいます。それでもちゃんと使っていますから。無駄死にではありません。

質問8
 本心の心で聞くのと思いの心で聞くのは、まったく違う受け止め方になるそうですが、まだ本心側に立てていない時はどういう心構えでお話を聞けばよろしいですか?

河上さん
 あの丁度、今日のテーマですね。これね。思いの側で生きると今何かというと自分が生きる。自分が楽しむ。自分がしてる。自分がこなしてる。色々ありますけど、「自分が」ある時です。それ思いの我って言います。本心の側で生きるというのは神と共に喜ぶ神と共に楽しむ神と共に苦労して楽しむです。正確に言えばねぇ。神と共に苦労して楽しむ。だから北海道の開拓でも大変な、北海道の開拓団が明治時代行くわけですけども。機械も何もない中、人力で開拓するわけですね。普通やったら、みんな、それめげてしまうところをめげないのは、やっぱりひたすら一生懸命にするから真祈りに入ってるのね。神と共に苦しみ神と共に楽しんでいくから開拓団が成功していくわけです。そういう感じでねぇ、ともかく神と共にっていうのが大事。神と共に神と共にっていう、いつも神さまと一緒っていうのがね。そうすると「自分」というのが消えます。その自分というのを消す一番簡単な方法は神さまと一緒なんです。それが出来たら少々の苦しみを苦しみではないです。その昔先生から先ず最初に僕が教わったことは、人の3倍働きなさいだったんです。本当に人の3倍、3倍以上やりましたよ。寝る時間を削ってね。その当時僕キャラバン、日産のキャラバンに乗っていたんですけど、あの当時のキャラバンは運転席と助手席が一体型のベンチシートだったんですね。コラムシートだったわけです。本当に疲れてくるとそのベンチシート、車を止めてねぇ、ベンチシート横になって寝やすかったんですね。あの頃の車は良かった。今のハイエースは横になって寝にくいからしんどい。でもそんなして(そこまでして)横になって、ちょっと1時間とか寝てね、また仕事してという、その繰り返しでした。そうこうしてるうちに何とか3倍こなしましたって先生に報告せなあかんからね、やりなさいって言われた以上は達成したかしないか報告しなくちゃいけないから報告したわけですね。ほんだら(そしたら)今度は人の10倍やりなさいって言うわけですよ。10倍となるとね、自分の力ではもう不可能なんですね。じゃあ、どうするかっていうと、本当に「自分が」が消えてね、「自分が」が消えるということはね、真祈りなんですよ。真祈りの伝授というのは、如何に「自分が」を消し去るようにもっていくかなんですけども、「自分が」が消えるとね、その例えば仕事をしていても、一々本当やったら、そこまで納品に行く、或は持って行かなあかんのに、その相手の人が来てるとかね。本当に、えーパズルみたいにパンパンとはまっていくやんみたいな。ジグソーパズルのピースがどんどん勝手にきて、埋まっていって絵になってるわーみたいなね。そういう感じになるんですね。それを先生伝える為に厳しかったですよ、僕には、どうするのって言っても返事もしてもらえないですから、自分で考えてやるんですけどね。そういうふうにしてやりました。結局結果は何か?真祈りは何か?って言ったら自分が消えることです。自分が消し去ることには没頭すること。没頭する為には、神さまと共にするとしないとね。自分がしてると思ってる間は永遠に無理なんですね。悟るも一緒なんですよ。神さまと共にするって言ったら、悟った神さまと不離一体だから、既に悟ってる自分になるんです。でも「自分が悟る為に祈る」「自分が悟る為に修行する」ってみんな勘違いしてるのね。ほんだら、ずーっと「自分が」があるから永遠に悟れない。ここが微妙で難しい説明なんですけどもね、今日みなさん熱心なんで、話がどんどん進んでます。だから本当に「自分が」っていうのが消えたらあっという間なんですよ。その為には神さまと共に生きる、神さまと共に楽しむ、神さまと共に喜ぶ、神さまと共に働くっていつも思って、いつも神さまと一緒ってやってみて下さい。ほんだら(そしたら)「自分が」が消えます。

質問9
 絶対奉仕について教えて下さい。具体的にはどうすればいいのですか?

河上さん
 この絶対奉仕っていうのは、先生が言葉の呪(しゅ→のろともいい、のろとは古語で、祈りのことです)を籠めておられる。祈りを籠めておられるんですけども、絶対というのは一切の対立がないということです。一切の対立がないという事はすべては一つということです。そうでしょう。対立する壁がないんだから、じゃあ何なのというと自分が消えること。自ずから分けるもの、自分というものがあってその意識があって、すべてを分けて苦しんでるんですね。だから絶対奉仕というのは神さまが神さまとして働くというんです。それ今言った、自分が消えて働くことです。自分が消えて働いていたら、絶対奉仕になります。

質問10
 勉強会等で先生と縁のあった人は使っていくということを聞いて知っていますが、そのことを知らない人に態々言う必要はありませんか?

河上さん
 これね、言うも言わないもなく、勝手に使われていってますから、どっちでもいいです。言われて、じゃあ頑張って真祈りしょうと思って、頑張ってという時は「自分が」が入ってるんですけどね。でもそこからでも入ったら、また工夫していかれるわけですから言ってもいいし、別に言わなくてもいいです。ともかく時間がないんで、どんどん神さまの為に使ってね。神さまの為に使っておくと真祈りし易くなるんでね。だから昔だったら先生は山の奉仕を手伝いに来いと手伝いに来さしたわけですよね。それ神さまが山の奉仕作業が、今でもそうですよ、昔も今も一緒なんですけど、山の作業は、神さまの仕事と先生が祈りを籠めておられるわけです。だから村に来てこのお仕事をして下さい言われたら素直にハイって言ってお手伝いするとね、大きな真祈りの代わりになりますから、村に時間的に来る余裕のある人は来て、お手伝いをどうぞして下さいね。時間的に来る余裕のない方は余ったお金を下さい。村に活動資金を置いていってあげて下さい。どれもこれも役立ちます。勿論ギブアンドテイクでお金を出したらダメですけど、どうぞお使い下さいと置いていったら、それは真祈りの助けになります。何かお金で引き合いにするではないですから、そこだけ間違わないで下さい。村にお金があるとか、ないとかも心配しなくていいです。神さまが必要な時に必要な人のお金を必要な所へ置いていくように神さまがちゃんとしますから、例えばお金を置いていく時でも神さまと共に置くという意識が大事です。自分が置くっていったら置かずに持って帰った方がいいです。神さまと共に置くとなったら置けます。そういう感じでね、本当に宗教と勘違いしないで下さいね。此処は真祈りの会であって宗教ではないです。本当の悟りを伝授する会であって宗教ではないですから本部にお金を置いて行ったって何の役にもたちません。でも神さまと共に村に置いていったら値打ちがあります。

質問11
 護摩に行く前日に、よく親戚の家に行く用事があるんですが、親戚、縁者の分を背負う事と関係ありますか?

河上さん
 勿論あります。だから用も無く親戚の家に行ったら「おお、お前何してるの、ちょっとおかしくないか」って言われますけど、用があってだったら「よう来たなぁ」って済むじゃないですか。これは神社にお祈りに行ってもらう事と関係あるんでけども、そんなんいうても此処で祈ってたらいいんちゃうんと理屈で言うとね、あるんですよ。勿論そうなんですけど、此処で祈りよりも出来るだけ行って祈る方がいいんです。だから行ける人は行って下さいってお願いしてます。勿論自分が行くんじゃないですよ。自分が印可書を与えにいくんじゃないですよ。それだけ勘違いせずにね、神さまと共に行き、神さまと共に祈るってね。神さまと共に行って下さい。するとその神社の場が大きく変わるんです。護摩の前にねぇ、色んな用事があって、親戚とか得意先とか何か護摩の前にゴタゴタあるなぁっていうのは、みんな体験した事と思います。僕もありますけども、それはそういう所の縁をねぇ、自分の肉体という塵取り(ちりとり)に引き取ってくるということです。だから護摩の前は何かバタバタ忙しいけど、諦めずに、頑張って回って下さい。お願い致します。追記、もちろんどうしてもお仕事とか法事とかで来れない時もありますけれども、その時は、その場で祈る必要があるのだと覚悟を決めて、護摩の時間と重なっている時は、その前後にわけて、宇宙神ありがとうございますと真祈りしていただくとよいです。

質問12
 自分にきた痛みは縁者の分だとわかりましたが、この世の地震等の災害を消す働きはまた別の痛みですか?

河上さん
 全部一緒です。全部人類のマイナスの言葉の結果を綺麗にしてるだけです。それを地震や火山にせずに、この火の形で燃やして消すのが護摩だから、まぁ出来たら護摩に来て下さい。そして騙してでも護摩木に「ありがとうございます」と書かしてね、それを持って来て下さい、ということなんですね。それ結局、此処で祈るよりも、その現場の祈りが此処に繋がるみたいな感じなんですよ。護摩木を通して、だから先生は護摩木は大きな乗り物宇宙船と仰ったわけですけど、宇宙船護摩木が大きな救いなのは、そのため。形は小さい護摩木ですけども、全然向こうでは大きいんで、例えば護摩木を書いてもらえない人の所に行く時は、親戚の家に行く時やお得意さんの所に行く時は護摩木をポケットにひそまして行ったらいいんですよ。その護摩木を此処で燃やせばいいです。それで効果があります。だから本当にね、この護摩という働きをね神さまと共に働くとしてそういう立場に立ったら、よくわかります。どんなに凄いものかって、自分が来てるという時は中々ね、何か燃やしてるだけやなぁという感じです。それも令和の時代に入りましたので、否応なしにみなさん自覚出来るようになりますので大丈夫ですので、ともかく神さまと共に働く、神さまと共に喜ぶ、神さまと共に楽しむっていうことをね、いつも念頭においてやって下さい。そしたら「自分が」が消えて、何事をするにしても楽しくなる。無条件に楽しむ。神さまは絶対ですから、条件要らない。神さまのすべてがすべてが喜びであり、楽しみであり、素晴らしいもんなんです。だから無条件の幸せになっていくの。だから先ず、神さまと共にと思ってね、印可書を読むのもこの護摩木を書くのもお仕事をするのもやって下さい。その神さまと共にというのを自覚する為にもね、呼吸に「宇宙神ありがとうございます」なんです。すると「宇宙神ありがとうございます」の言葉を使っていないけど、呼吸だけでも祈りになっているというのが自覚できます。それ自覚できたら凄く強いのが楽なの。お仕事してる時でも呼吸はしてるじゃないですか、でもそれが真祈りになってるから実観(感)でわかるの。ほんだら(そしたら)一気に変わります。それ神と共に働くっていうことなんです。だから先ず、「自分が」が消し切れるまではねぇ、ちょっとでも「自分が」が出たら印可書を読むなり、祈り言葉を唱えなおしてね、また色んな事を楽しんで下さい。

質問13
 護摩や勉強会に連れてくる、向こうの使いの人は来る人の縁者の方でしょうか?また肉体人間が来れないと縁者の方も来れないのでしょうか?そのような人は地獄からでも来れるのでしょうか?

河上さん
 これまた、色んなパターンがあるので、一概にこういう法則でなってますっていうのはないんですよ。何でかって言うと、入れ子構造・重層構造・ところてん構造というのがね、どんなに凄いものかっていうのが、まだ実観(感)としてわからないから、説明しようがないですね。これ実観(感)でわかればいいんです。例えば天王星の中で色んな嵐が起こってるんですけど、それですら今此処にあるんです。それが重層構造。この現世(うつしよ)の太陽系なんてしれたもんなんです。そのみなさまの意識から言うと天王星、冥王星って凄い遠いと思うじゃないですか、でもそこにある嵐ですら、今此処にあるんです。ていうのが実観(感)としてわかるのが、入れ子構造・重層構造・多層構造なんです。それがわかれば、一瞬で変わるの。今例えばね、地獄から来る、或は縁者がないと来れないとかいうのは、その何かというと地獄の人の言葉の縛りなんですよ。だから地獄の人でも「神さま」って素直に呼べるようになった人は、縁者関係なしに此処まで来れるんです。でも呼べない人は、呼べる縁者に従って来るんです。というふうに、どうだからこうというのはないんですね。後は本当に今日のテーマになりましたけども、この後、話が要らないくらいなんですけど、自分が消えるなんですね。自分が消えたら、もう一瞬ですべてが変わっていくんです。それを、真(しん→まこと)の真祈り人と言うんですけど、その真祈り人が増えたらあっという間に世界が変わるんです。

 先ず此処に集ってるみなさんは自分を消し切るっていうことを意識して下さい。どして消し切るか?っていうたら、神さまと共に歩む。神さまと共に働く。神さまと共に楽しむ。神さまと共に喜ぶという無条件の幸せをね、実観(感)として感じとって下さればいい。いつも神さまと共にと思えばいいんですよ。神さまが一番いいからこれを私にさしてるっていうのがわかります。ほんだら(そしたら)、どんなにきつい・危険・汚いって誰にも知れない、誰にも理解されない、誰にも評価されない仕事がどんなに素晴らしいことかもわかります。だって神さまこそ密やかな働きっていって、本当に目に見えない蔭の所で働かれてることの方が大事なんです。例えば心臓の動きの方がそうでしょう。目に見えない心臓がずーっと動くわけでしょう。それ神さまの働きなんですよ。その目で見えない心臓の動きをね、誰も評価しない。肉体人間側はね、一切評価ないでしょう。それくらい密やかな働き程、凄いんですよ。それもわかってきます。だから先ず自分を消し去るっていうことをちょっと思って下さい。自分がすると思った時、あーしまったと思って祈りなおしてね、やって下さい。祈りなおして印可書を読む、或は祈り言葉を唱えたら、自分が消えてるということをよく信じて下さい。その為の祈り言葉ですから、祈ったって自分消えへんねんって言ったらね、それ祈り言葉を否定してるからその祈り言葉を使う意味もない。先生が消す為に作ってるのに、その先生が作った力を信じないのかっていうことですね。そのへんね、わかって下さい。今まで先生ね、本当に優しくてみんなの自由意志を最大限大事にされたのでね、祈り言葉を使っても病気治れへんねんとか言うても、そうかそうかっていう感じだったんですけど。いよいよ時間がないし、みなさんもう真祈り出来る時に入ってきましたのでね。それくらい先生があっちいかれる時にみなさんを綺麗に綺麗にしていかれたのでね。後は残存する癖だけなんですよ。癖なんて、なおしたらしまい。

 今癖のなおし方をお前言えというから、これ言わさせてもらってます。先生からの伝言ですから、一篇(いっぺん)素直にやってみて下さい。自分が消えて楽に密やかな働きが出来るようになります。

司会者
 質問はこれで終わりです。

河上さん
 質問が沢山あったので、殆ど今日伝えろという内容が質問を通して伝わるようになってね。これみんなが深く真祈りしてきた証拠なので、いい質問がくるようになった。質問を通して、今日言うべき内容全部言っちゃったんで、もうこれ以上どう言えというくらい説明しました。でも今どうぞ質問、今日言うた内容で、そこのところ引っかかるねんというのがあったら聞いて下さい。お願いします。
いいですか?神と共に歩むっていうのは、凄い微妙な表現をしているんですけど大丈夫ですね。

質問14
 先程、会社の取引先とか、それから親戚の家に行く時に護摩木を書いてもらえないかもしれないときは、ポケットに忍ばしていくという言葉がありました。それをそのまま忍ばしていって、持って帰って?

河上さん
 相手の名前を書く。

質問者
 相手の名前を書く。宇宙神ありがとうございますを書いて裏に相手の名前を書けばよろしいんですね。はい、ありがとうございます

河上さん
 あの勿論ね、書かずにその白紙のままでもいいんですけどね。例えば今回の場合でしたら、お得意様と共に祈る。親戚と共に祈るということで、ご自分でその親戚の名前、お得意様の会社の名前を書いてもう一度祈りを籠められたらいいと思います。

質問15
 神と共に祈るというのは、神さまと共に、いつもやってますと心の中で思い返せばいい事ですか?

河上さん
 この微妙な表現を使ってるんですけどね。神と共に祈る、神と共に働く、神と共に楽しむ、神と共に喜ぶ。それを呼吸に「宇宙神ありがとうございます」って集約してます。だから呼吸に「宇宙神ありがとうございます」って言ってる時は、神と共に喜んでるんです。そこが大事なんですよ。こちらから一瞬で「宇宙神ありがとうございます」ってね神さまの光を受けて、お返しする。お返しすると同時にバーッとくるんです。それをまたお返しするという一大循環が呼吸に「宇宙神ありがとうございます」を籠める時にはじまるんです。それが本当に実観(感)でわかるようになれば、すると自然に神と共に喜ぶ、神と共に楽しむってことが実観(感)になってきます。

 大体そうやなぁってわかったら、後は素直にね、勿論祈りのやり方は呼吸に籠めなくても、自分のこれって方法で歩きながら一歩一歩とか、人によってありますから、やって下さい。どっちにしても祈れば、祈り続けるということが大事なんです。

質問16
 今神と共に祈る、神と共に生きるというのを教えて頂いたんですけど、以前食事など頂く時に神さまのために頂くというのとは一緒でよろしいですか?

河上さん
 一緒。食事頂く時にね、神と共に食べるというと、いやそんなおこがましいわー、私そこまでっていうのがあるじゃないですか。だから神さまのために食べる。神さまのために食べるっていうことは、神さまに自分を捧げてるじゃないですか、それって神さまと共にっていう本来の意味に入っていくんですよ。でも嫌、私そんなん神さまと共になんて、とてもとてもっていう否定心があるのでね。神さまのために生きるとしてるんです。神さまのために働くの方がぴったりという人はそれでもいいんですよ。でも最終は神さまと共にという、神さまと不離一体。神さまそのものの自分を自覚していくだけなんです。

 質問がないようなので、本当にみなさんの真祈りが深まってきて、いい質問がくるんですね。いい質問がくるから、此処でまた喋る内容もないくらい全部終わっちゃいましたけども、どうぞ実観(感)するということを真祈りをして実観(感)することを心にちょっとおいておいて下さい。剣でいうと、ひたすら振って振ってる自分と剣が振ってるのか自分が振ってるのかわからないくらい、剣と自分が一体化しないと剣道の達人にならないですけどね。先生の剣道の得意技は飛び込み面だったんです。それって向き合った瞬間にね、既に先生、相手の後ろに立ってるの面を打って、それくらい先生の飛び込み面は凄かったんです。それ先生どうされたかっていうと1時間だけ時間を区切ってもう真剣に振るんですね。ほんだら(そしたら)もう、先生の言葉ですよ「剣を振っているのが自分なのか、剣が振ってる、剣が勝手に動いてるのか、わからなくなる腕と剣とが一体化してね。竹刀の先が自分の人差し指の先になってしまってる。そこまで1時間の内に振り切るんや」ってね1日ダラダラ振ったってならない。だから真祈りも一緒です。このここという時はね、祈りたいと思う時は座ってひたすら祈ったらいいです。でも座って祈らなあかんって、なったらもう違うんですよ。わかります。そこの自由自在性がないと不自由になって、不自由は神さまじゃないんです。神さまは自由自在やから、その辺の渡し(わたし)をつけるのが中々、説明しにくくていつも困るんですけどね。あいつはあんなこと言うてるけど、こっちではこんなこと言うてたやないかって、先生もよく言われたんです。先生あっちで言っていたのとこっちで言ってたのと全然違うっていうんですけど、本当は一緒なんです。一緒なんだけど言葉であらわしたら言いようがない。例えば木刀の先が自分の人差し指の先になってるねんって、そんなもん嘘やって理屈で言うたら、そんなん嘘やってなるじゃないですか。説明のしようがないんですけど、そうなる為にひたすら、ひたすら神さまに捧げて振るんですね。剣の場合は。だから色々ありますけど、お仕事でもね、ひたすらやればいいんですよ。本当に人の3倍働きなさいっていう時は、本当に車の運転で沢山距離、今でも距離走っていますけども、その車で20歳代の頃ですけどね。走ってるときは本当にね、このサイドミラーの先と障害物が紙1枚で平気で通れたですよ。それくらい殆ど仕事で車に乗っていたことがありましたけども、そういうものでねぇ。神さまに捧げてひたすらにやっていたら、必死じゃないですね。ただただ神さまどうかお使い下さいって捧げていたらね、一篇(いっぺん)に変わりますから、そんな長い時間なしにね。特に令和の時代に入ったから、先生が後ろで支えてますので、ちょっと真剣になってしもうたら(しまったら)あっという間に変わりますので、一度真祈りに一生懸命。一生懸命というとまた違うんですけど、ひたすら淡々とね、ふわっとゆったりとやってみて下さい。また来月お会いできることを楽しみにしています。
 ありがとうございます

音声はこちらからどうぞ
令和元年6月護摩焚き 河上さんのお話@(前半)
https://youtu.be/lNu6n7Me_O0

令和元年6月護摩焚き 河上さんのお話A(後半)
https://youtu.be/7v5Hm8HHfY0

宇宙神ありがとうございます


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山より引用・・・・ by 河上彰延 2019年05月21日(火) 03時34分
PC

5月護摩焚き河上さんのお話
宇宙神ありがとうございます

令和元年5月5日 護摩焚きで河上さんがお話して下さった内容です。

司会者
 質問が4点程きています。

質問1
 何年か前の8月に、先生がその場にいた人達の因果の輪を断ち切られたという話を聞きました。因果の輪を断ち切られたということは、もう生まれ変わらないということですか?その場に立ち会わなかった人は、因果の輪の中にいるのですか?それとも「宇宙神ありがとうございます」を祈り続けることで、因果の輪を断ち切れるのですか?

 ありがとうございます またお会いできて嬉しく思います。
因果の輪を断ち切るというのは、凄く大変なことなんですね。これ何処から説明したらいいかというくらい深い内容なんですけども、例えば、こうしてお話するじゃないですか。先生の勉強会もありましたね。先生が言葉の上でお話をされる。みんながそれを頭の中で理解する。或は理解できない人もいたかもしれませんが、大体は頭の中で理解したと思うんですね。でも、心境が変わらない。ともかく、神さまの働きというのは、密やかな、秘めやかな働きなんですね。皆さんの気付かない、真奥下に入ってですね、下から支えて持ち上げていって下さるんですよ。先生がお話する時も、僕のお話の時もそうですけど、喋るのは一ぐらいで簡単なんです。でも、下から支えるのは、何万倍も大変なんですね。でも、支えないとわからないんです。
 今の宗教がそうなんですけども、理屈を言って言える人というのは、いわゆる摂理を唱えれる、説明できる人というのは、沢山いらっしゃるわけですね。でも、いくらその話を聞いても「あぁそうなんだ」と思うだけで、心境が変化しないんですよ。それを真祈りということによってね、真(まこと)の神さまを皆さまお一人お一人の心の奥底に立って頂くわけです。それどうするかというと、自分と皆さまが一つになっている実観(感)があって、真祈りすると自分に降り立って下さる真(まこと)の神さまが、皆さまは意識されないけども、皆さんの心の中にも降り立って頂くわけです。降り立って頂くと、下から支えて下さるので心境が上がるんです。もうそれだけなんですね。
 だから、昔お祈りの部屋で先生と一緒にお祈りすると、表面は何もわからない、わからないからみんな余り行かなくなっちゃったんですけども、本当は凄く、もう終わっちゃったことですけど、得難き場でありましてね、先生と一緒にお祈りしていたら、どんどん下から支えてもらって、ある日突然、心境が変わっているのに気付くというはずだったんです、予定では。でもみんな来てくれないんで、あのまま終わっちゃったんですけど。その一貫としてね、先生はお祈りの場とか、何々の場という縛りを一切、解(ほど)かれて、すべてのすべてに真(まこと)の神さまを立たせるということをされたんです。で、それ完璧に最後にされたのが、3年前の8月の護摩であったわけですけども。具体的には、その時に完璧に皆さんの因縁因果の輪を断ち切っています。因縁因果の輪を断ち切るというのは何かというと、生まれ変わるのも生まれ変わらないのも自由自在ということです。もっと別の言い方をすれば、そんなことは大したことないんですね。生まれ変わるとか変わらないとかいうのは。
 一番大事なことは、自分が過去世に積み重ねてきた一切のマイナスというものを、すべて消し去って頂いたなんです。それまでは、過去世からの一切のマイナスを一時的に棚上げして、それでお祈りし易いようにして、皆さんの自由意思でお祈りをしてくれよということやったわけです。でももう、それももう、そんな回りくどいことはしていられないということで、特別の大おまけで、皆さんの過去世の一切のものは既に消し去ったんですよ。でも、「そんなん言われたって、すっきりせえへんで」って言うわけですけど。それね、やっぱり、皆さんの表面の意識は、神さまと自分を分けているから「何で?」と思うのね。なんかちょっと足痛くなったら、「何で痛くなったの?」と思うわけです。すると、そのマイナスの言葉でわからんようになっているわけですね。本当は「ありがとうございますだけを言いなさい」って先生言うわけです。じゃ、自分の自由意思で先生仰るように「ありがとうございます」だけ言おう「宇宙神ありがとうございます」だけを言おうとしていたら、すーっと解かったことなんですね。でもまぁ、それも済んだ話で、これからね、素直に「宇宙神ありがとうございます」って、こうしてこの護摩の場でどんどんお祈りに来て頂いたら、あっという間に解ります。既に皆さんの過去世の一切は消しています。
 だからもう、真(まこと)の神さまそのものの自覚を皆さんは、自覚するしないに関わらず、あるんです。真(まこと)の神さまの自覚があるから、先月の護摩でもお話しましたように、「すべては自分」「すべては完璧なる一つ」が無意識に解ってるんですよ。じゃあ、何かって言うと、その地獄で苦しんでいる自分の縁者ですね、縁者を関係ないと思うか思わないかということなんです。「すべては完璧なる一つ」っていう、「すべては自分」って自分が大きくなるんですよ。真(まこと)の本心の自分、真(まこと)の神さまの自分っていうのはね。すると、地獄で苦しんでいる縁者も自分なんです。じゃあ、その縁者の痛みを半分引き受けるのは当然。無意識にね。引き受けようと思ったら「自分が」になっているから違うんですね。無意識に引き受けることになるんです。
だから、この令和の時代、真祈りの時代ですけども、真祈りの時代に入りましたのでね、皆さん、「なんか体、調子悪いな。痛いなぁ」とかね。「なんか仕事上手くいけへんなぁ」とか、「上司にいじめられるなぁ」とかね。「左遷された」とか、色んなマイナス的なことが皆さんの身の上に降りかかるようになります。それ何かって言うと、地獄の縁者の分を半分背負ってるんですね。背負って真祈りしないと消せないんですよ。地獄の縁者は自分と関係ないと思っていたらね、なんぼこっちから真祈りしたって、通じないの。相手と同じ立場に立って真祈りするから、通じるのね。あの、例えば、小さい子に泳ぎを教えるとするじゃないですか。そしたら、お前泳いでこいよって言って、浮き輪を渡して、泳がしていたって上手くならないですよね。でも、一緒に入って、一緒に抱っこしてね、一緒にこう一体となって泳がしているうちに、覚えてくれるじゃないですか。そういう感じで、相手の立場まで降りないと、真祈りが通じないんですよ。それをこの令和の時代は始まります。その為に先生は、因縁因果の輪を断ち切って、皆さんの一切のマイナスを過去の世マイナスを消し去っているんです。
 だから、これから自分の身の上に降りかかることは全部、自分のことじゃない。縁者のもの。それを縁者を救う為に真祈りするんだっていうことでね。救う為に真祈りする為には、自分の身に背負わないとダメなんです。あのゴミを捨てるのでも、チリトリに集めて捨てるじゃないですか。それ以上どうしようもないでしょう。集めてこそ捨てれるでしょう。皆さんの肉体をチリトリとして使って、縁者の苦しみを集めて、それで消す。この世では、チリトリに集まったゴミはゴミ箱ですけど、真祈りでは、自分の体に集めて、真祈りで消す。そのお役目をね、先生に縁のあった方はみんな、今はもう来られなくなった方もみんな、あります。だから、もう逃げれないんでね。逃げれないという表現もおかしいんだけど、真(まこと)の神さまの自覚を持てば、逃げるとか逃げないではなくて、自然にそうするの。皆さん、もう意識・自覚は後からきます。だから自覚はしてないけど、自然にそうするんだと思い定めて、ひたすらね、「宇宙神ありがとうございます」と祈って下さい。その為の因縁因果を一切消し切ったということです。よろしいでしょうか?質問あります?後でもいいですから、またこの後にじゃあ質問があったら言って下さい。

質問2
 人間は環境破壊など地球を汚す存在のように思えるのですが、なぜ地球に生まれてくるのでしょうか?
あと最後の審判について教えて下さい。

 最後の審判から。最後の審判というのは、「自分が自分で自分を裁く」ということです。何でかと言うと、皆さんお一人お一人、真(まこと)の悟りを既に得てるんですね。真(まこと)の本心の自分の自覚を持っているんですよ。無意識にね。だから、その本心の自分と今の自分を比べて、自分で自分を責め裁く、それが最後の審判です。でも、先生が因縁因果の輪を断ち切って、皆さんの一切の過去を消しましたから、最後の審判の時になっても、皆さんは迷うことはありません。逆に、苦しんでいる人の分を背負って消してまわるということです。その時に具体的にどんなすがたをとるかは、またいずれ、もうちょっと迫ってきたらお話します。まだまだ先のことですのでね。
 この世に生まれてきた理由ですけども、この世に生まれてきた理由は、ただ一つ、楽しむ為です。先月お話しましたように、シナリオでね、楽しい物語、悲しい物語、淋しい物語とか、色んな事、自分で自分の言葉で作って、それを演技して楽しんでいるだけです。その楽しんでいる状態を忘れてね、「なんか苦しいなぁ」と言っているんですけど。映画でもね、やっぱり、例えば、刺されたら、こう血のりのあれを付けて、刺されたふりをして苦しい痛いってやるじゃないですか。それをこの現実ではもっと立体映画的にね、具体的に出るわけですよ。自分の言葉で神さま以外のものを表現したら、それが出ます。でも、わざとそれを表現して楽しんだんですよ。神さまと不離一体で完全円満完璧大調和というのは、ある意味つまらない。ある意味ね。だって、この世でもゲームがそうじゃないですか。わざわざ縛ったルールを作って、楽しむんでしょう?野球でも、金属バットを作ったらみんなホームラン打てるんでしょう。それ打てないバットにして、ホームラン競うわけじゃないですか。そういうふうに、わざとマイナスのルールで縛って楽しむわけですね。そういうことをみんな無意識にしてきたの。最初は意識的にしたのね。でも、演技しているうちに、演技していることを忘れて本番になっている。それで、それを迷いっていうんですよ。顛倒妄想(てんどうもうそう)というんですけども。それを積み重ねて今の状態になっているということです。
 じゃあ、何でこの世に生まれてきて、この地球にこんなに負担かけているのかっていうことですけども、人口的に増え過ぎたんですよ。人間はこんなにたくさんこの世に降りてきてはいけないのに、上から見ていて「あぁ面白いことやっている」とみんな一生懸命降りてくるんですよね。地球霊王さまから言えば、10倍多いと。1割でいいんです。だから、そこまで自然に減りますけどね、それだけです。人間というのは、霊長類の一番頂点に立つじゃないですか。生き延びる為にありとあらゆるものを根こそぎ食べ尽すんですね。だから、人間は増えてはいけない。その通りに真祈りしていたら、自然になりますので、大丈夫ですから。ただそれだけの理由です。だから自然に寿命の短い人がたくさん出てくるような感じで、人口が減ります。

質問3
 4月の勉強会で、「これからは人口を減らしていく。日本はその先駆け」とお話されましたが、国の政策では何とかして少子化に歯止めをかけようとして、保育所問題に対応したり、今年の秋からは保育、幼児教育の無償化などを決定しています。相反するものですが、この違いはどういうことなのでしょうか。私は子供がいませんので、少子化と言わわれると胸が痛みます。

 今の日本人の生活、今皆さんがされている生活あるじゃないですか。この生活を全人類がしたら、地球が3個か4個いるんですよ。これ凄い矛盾でしょう。みんな等しく平等であるわけですから、今日本で水道をひねったら水が出る。スイッチひねったら電気がつく。そういう生活を当然みんなが享受する権利があるわけじゃないですか。でも、今の地球上の全人類がそれをしたら、地球が4個あっても足らない。3個か4個あっても足らない。それぐらいのエネルギーを日本人は使っているんですよ。だから、少子化にならなくちゃいけない。本当にね、他の動物が全部圧迫される。動物も植物もね。例えば中国だと、食糧をどんどん作りたいから、ヒマラヤの木を伐って畑にしたんですね。その結果何が起こったかというと、黄河と揚子江というあの大きな大きな河に、河が水が流れなくなって、干上がる時があるみたいなね。それぐらい大変なことになるわけです。人間を生かす為に木を伐って畑を作ったのに、結果として人間を殺すことになっている。ということは、人口が多すぎるんですね。だから、何がいいかというのは、神さまの御心に添って生きるのがいいんですよ。神さまの御心に添えば、こんなたくさん生まれてこないの。じゃ何でこんなたくさん生まれたの?と言えば、向こうの世界から地上に降りてきたいという意識があって、その意識が若い人の性欲を刺激してね、子供が生まれるようになるんですけども。それは神さまの御心ではないんです。それでよろしいですか。

質問4
 令和の時代になり、皇位継承について男系女系の話が出ていますが、如何でしょうか?

 これはね、皇統連綿(こうとうれんめん)という一つの法則がありまして、女系で繋がったことは一切ないんですよ。何でか言うと、女系でいくとね、誰でもいいとなっちゃうんですよ。わかります?必ずお父さんが天皇であられた方が女性天皇としてなられるんです。お父さんが天皇でない方は、天皇になれない。それが女系男系の意味なんですね。だから、女性の天皇でもいいんですよ。でも、お父さんが天皇だから、その娘だからなれる。
どう言ったらいいのかな。今回の場合は、今簡単に説明しましたけどね、お父さんじゃない、御祖父さんか。ごめんなさい。御祖父さんが天皇である方で女性だったらOKなんです。そういう意味なんです。でないと、何でもありになるんですよ。天皇家の古い歴史はちょっと秘められたことなんであんまり大きく言えないんですけども、そのやっぱり途絶えた時があるんですね。すると、いわゆる、御祖父さん、曽御祖父さんがお父さんであった方の血筋の陛下をお連れして、繋いできたわけです。それぞれ神という字の諡(おくりな)をもった天皇陛下の時は、そういうふうに、外からもってきたんではないんですけどね。その御祖父さん、曽御祖父さんが天皇であった方の血筋の方をもってくるんですね。それが男系の意味です。天皇家は常にそうしてきたんで、都合4回ぐらいはそういうことをしています。今回は幸いにしてね、秋篠宮さまのところで、お生まれになっているので大丈夫なんですけども、そういう意味です。日本の天皇陛下というのは、神さまの代表としていらっしゃいますのでね、その血筋を絶えさせると日本が滅びるんですよ。皆さん色々仰るけども、女系天皇だと血筋が滅びる形になるのでね、それでダメなんです。だって御祖父さん、曽御祖父さんが天皇でない方というのは、何処にでもいらっしゃるわけでしょう。そしたら何でもありになるわけですよ。極端な表現で言うと。そういう意味です。

司会者
 事前に頂いた質問は以上です。他にいらっしゃいますか?

 いよいよね、本当に陛下も即位されて、完全な意味で即位されて、令和の時代に入ったわけですね。ともかく、何で平成の時代から地震が多かった。令和の時代もちょっと大変そうなんですけども、何でそうなのかって言うと、その天皇家でのご神事がね、どんどん消滅しているんですよ。それ何でかと言うと、天皇家のご神事というのは文献では表されてない。その口伝(くでん)でも表されてないんです。天皇家のご神事を一番よく再現されたのは、明治天皇の時なんです。明治天皇と言われる方は、凄く霊感というか、直観(感)がありまして、昔にされていた天皇家での祭祀を復活されたわけですね。でもその例えば、形の上でね、四方拝をしますと。四方拝といったら、北と南と東と西に向かってお辞儀してお祈りします、というのは伝えれるんですけど、お祈りの内容は伝えれないんですよ。それくらい真祈りというのは、本当は厳しいものなんです。その真祈りが天皇家に伝わっていたわけですけど、それがどんどんやっぱり、上手く伝わらないんですね。それで、この印可書が降ろされて、みんなが陛下の代わりとなって、真祈りをする時代となったのが、令和なんです。その為に先生が苦労して、印可書を降ろして下さったわけです。
 ですから、これからはね、五井先生や松下先生に、或は天皇陛下お一人に任せてしまって、真祈りをですよ、任してしまって、自分達は何もしないっていうのでは、ダメなんです。みんなが、天皇陛下というのは総責任者の自覚ということです。そうでしょう。天皇陛下は何があっても全部自分の責任ってされて、お祈りされるわけですよ。総責任者の自覚ですよね。だから、今、先生はみんなに総責任者の自覚をもって真祈りをしてくれって仰ったわけです。自分の自由意思で。逆の言い方をしたら、みんなが陛下の身代わりとなってお祈りするという時代なんです。みんながしなくちゃいけない時代になったんです。ですからね、皆さんの自由意思でね、「あぁそうだ、やろう!」という自由意思が大事なんですよ。言われたからするのでは真祈りじゃないの。自分の自由意思でね、どうか人類の身代わりとなってということです。陛下の自覚、総責任者の自覚ということはね。それは、最初にちょっとお話しましたように、地獄の縁者を他人事として見ないということです。この世だけじゃないんですよ。あっちの方がもっと大変なんです。あちらの世界の縁者の身代わりとなって、皆さんは真祈りして下さることが大事なんです。「真祈り、そんなん僕ら出来ないわ」っていうのが1年前の話やったじゃないですか。でも、真祈りというのは、できるできないじゃないんだよ。先生が「呼吸に乗せるだけでいいんだよ」と仰って下さって、もう皆さんは真祈りできる状態なんです。自分の自由意思でした時ですよ。言われたからするでは真祈り違います。自分の自由意思で、もうこれしか真祈りできへんわと思って、することが大事ですね。自分の自由意思でされたら、それは真祈りです。それで真祈りして、どんな状態でも真祈りできます。ただ大きく光を降ろせるか降ろせないかは、自分のものというのを掴んでいるか掴んでないかだけなんです。自分のものと掴んだ分しか光が降りませんのでね。じゃあ、全部神さまの預かりものとしたら、大きく光が降りるわけですね。だから本当にね、お金も財産も人にやる必要はないですよ。でも自分がずーっと持っていていいんですよ。持っていていいけど、神さまからの預かりものとして、真祈りをして下さい。
 今までの宗教はね、財産持っていたらあかんから本部に持ってこいってやるわけですけど、それはないですからね。そのままでいいんだけど、気持ちの上で神さまからの預かりものとして、そして真祈りして下さい。そうすればね、自然に、本当に自然に光がどんどん降りて、あっという間に変わるんです。みんな先生と同じ働きできるんです。だから先生は、もう安心したわって逝かれたわけです。それを素直に、先生が安心したわっていうのを安心させてあげて下さい。それだけです。
 本当にね、「自分なんか」っていう意識だけ捨てて、その自分なんかっていう自分が、「自ずから分けるもの」って書くんですけど、神さまから離したものなんですよ。自分の自由意思で神さまから切り離した意識を自分というんです。だから、その「自分なんて」という意識だけは捨てて下さいね。「自分なんて」という意識があろうがなかろうが、呼吸に「宇宙神ありがとうございます」を乗せて、持っているものは全部神さまからの預かりものとしたら、本当に自然にね、深い真祈りとなって、神さまのお手伝いになるんです。いつも申しますように、真祈りというのは本当に密やかな働きですから、縁の下の力持ちで、縁石ですからね。みんなを下から支えるだけで、誰にも評価されず、誰にも理解されずっていうのが基本です。それ覚悟の上でね、ひたすら目立たないのが一番楽でいいんだって思って、真祈りして下さい。お願い致します。

 質問があれば、よろしくお願いします。今質問しておかなければ「私は真祈りします」と宣言したと同じになりますから、よろしいですか。疑問があったら聞いておいた方がいいですよ。いよいよ始まると、後戻りはないんです。だから、「こんな痛いんやったら、私悲しいから辞めとくわ」っていうのはないのでね。勿論これだけは絶対言っておきます。その人に耐えられる痛み、苦しみしかきません。だから、それは安心して下さい。神さまの絶対の愛というのは、そういうものです。その人の持てるぎりぎりを持たしてくれます。運命的な事もある、病気のこともある、痛みのこともあり、色々あると思いますけども、全部自分に耐えれる範囲ですから、めげずに真祈りに励んで下さい。

質問5
 ありがとうございます
これから何かを頂く、ということなんですけど、痛みとか苦しみとかを頂くということなんですけども、これがそれなのかなぁってわかるのか、それとも、そういうことがきたら全部?

 全部です。間違いなく全部です。だから、皆さんの一切の過去のマイナスを先生消し去ったの。自分のはないわけ。だから自分、何もしてないのに何でこうなるのって言ったら、そういうことです。全部、神さまのお手伝いになっている。

質問者
 先月の護摩の時にも同じような、これからそういうことが起こるよってことをお聞きしてましたので、「来るのかな、来ないのかな」って思っていたら、ちょっとありまして、やっぱりその時は、痛いとか眠いとかきついとか、つい心の中で思ってしまいまして…

 思ってもいいです。

質問者
 その後またお祈りをすれば…。わかりました。ありがとうございます

 予告しておいたらね、ゆとりがあるじゃないですか。だから悠々とお祈りして下さい。先月お話したように、本当の悟りとは、痛みがあっても嬉しい、楽しいなんです。それ何でかと言うとね、痛みが一瞬一瞬消えていくのがわかります。真祈りするごとに。また新しいのが来てるというのがわかります。だから、楽しい、嬉しい。これ、「同じ痛みずーっと続いているねん。大変やねん」って言ったら、もうそれは耐えれないじゃないですか。でも真祈りしたら、一瞬に消える。また次来るの、新しいやつなんです。「真祈りしても一瞬消えるけど、また来る。また痛いねん」って言うたらダメですよ。新しいのが来ている。それはもう、真祈り人は今、数が少ないからね、皆さんに負担がきているわけですよ。でも皆さんの真祈りのお蔭で、多くの人の心に、心・芯・親・神柱(しんばしら)って言うんですけど、真(まこと)の神さまが降り立たれるわけです。すると、多くの人がね、内側から印可書が解る、真祈りが解るとなって、真祈りに参加して下さるようになります。それがもう、連鎖反応的にね、ワーッと拡がりますから、それまでの辛抱なので、この今、最初に中心核となって祈る人次第なんです。だから本当に、何があっても「あー良かった。ありがとうございます」「宇宙神ありがとうございます」ってね、悠々と祈って下さい。自分に耐えられないのは、一切来ないですから、それだけ。「自分なんて」っていう卑下慢の心になるとね、耐えれる痛みなのに耐えれない。耐えれる運命なのに耐えれないってなるんですよ。それだけわかっておいていて下さい。神さまの絶対の愛というのは、その人の耐えれる範囲しか来ないですから、どんな形でも。だから、これは自分に耐えれることなんだからと思って、悠々と真祈りして下さい。
 それでもう一つ。痛いとね、夜寝れないということになるんですけど、寝れなくても大丈夫なんです。みんなは食べなくちゃダメ。眠らなくちゃダメ、とかいう縛りを持っているんですけど、それもないですからね。だから眠れなくても大丈夫だし、僕の場合は、今噛めなくて鵜のみになっているわけですけど、うい飲みでも大丈文なんです。神さまをどれだけ信じ切れるか?自分が神さまの絶対の愛、或は神さまの全知全能無限力をどれだけ信じ切れるかだけです。自分の信じ切れた範囲しか効果は出ないです。神さまは必ず良いようにされるという絶対の信(しん)さえあれば、何事も悠々と越えていけれますので、よろしくお願いします。

質問者
 「今、僕もらっているよ」とか「来ているよ」とか、それはもう、あまり言わない方が…

 それ既に「自分が」って出ているでしょう。神さまが良いように使って下さるが一番良い。「自分が」じゃなくてね。神さまがいいように使って下さって、良かった良かったって、だから無条件の喜びなんです。無条件の幸せなんです。その「自分が」って言う時は、もう「自分が」っていう条件が付いているでしょう。条件付けたらそれだけ光を受け損なって、苦しくなるの。
 昔、白光真宏会というところがありましてね。五井先生が人類の業(ごう)を身代わりに引き受けて苦しまれるわけですね。そしたら、会員さんの中にも、「自分は今、人類の業(ごう)を引き受けて苦しんでいる」と言う人が出てきてですね、結構ややこしい事があったんですけど、それ何が間違いかというと、「自分が」なんです。
 真祈りというのは、自分というのが一切消え去るのが真祈りです。自分というのが一切消え去る自覚がとりやすいのが、呼吸なんです。呼吸って形ないでしょう。ということは、自分が消えちゃう。そしたら自分の呼吸だと思っているけど、自分がなくなって、呼吸だけ。それは天地の呼吸、神さまの呼吸になっていく。本来は、皆さんの呼吸一つが神さまの呼吸なんです。だから、お祈りする時、呼吸するじゃないですか。息止めないでしょう。呼吸そのものが真祈りなんです。そこまで自覚できるとね、もう無敵なんですね。呼吸できている間は、何があっても大丈夫。
 僕は、小さい時、喘息で呼吸困難で、呼吸が真祈りというのをそれで知るわけですけど、まぁ息止めて、何十分我慢できますか?っていうことです。「自分が」っていう時は、息を止めている状態です。そしたら、どんなに長い人でも20分止めれないでしょう。だから、呼吸が真祈りなんですよ。それを知る為に呼吸に「宇宙神ありがとうございます」を籠めているのね。そしたら、「宇宙神ありがとうございます」の響き、言葉の響きの奥が呼吸と一緒だったって、解かって楽になる。それと、呼吸さえしていたら大丈夫みたいになって、楽になりますので、痛みが一瞬一瞬に消えては現れているだけっていうのが解って、楽しめるんです。

質問6
 毎朝、目が覚めてから一番最初にお祈りをしようと思って、一人真祈りの会をしているんですが、それはその日によって時間が、恥ずかしいですけど5分であったり15分であったり1時間であったりっていうふうに、まちまちなんですね。起きる時間もわりとまちまちで、始まる時間も終わる時間もいつも違うんですけれども、始まる前に「真祈りの会を始めます」と言って、終わる時に「終わります」っていうふうに、一応区切りをつけてやっているんですが、真祈りの会は色んな後ろの方もいらっしゃるので、前もって、今日、何日の何時何分から何時間ぐらいやりますみたいなことを言っといた方がいいんではないかというようなことを仰っている方がいて、私はそこまで深く考えて…

 それは理屈です。それは理屈。そんな言わなくていい。

質問者
 大丈夫ですか。毎日そんな今やっているような形で。ありがとうございます

 皆さんは自覚するしないに関わらず、絶対の中心に立っているんですよ。これ忘れないで下さい。先生がみんな光やって仰った意味はそうなんです。皆さんは自覚していないだけで、絶対の中心に立っているんです。絶対の中心のことを「今(いま)中(なか)」と言うんですけども、今中(いまなか)に立っている限りね、この現世(うつしよ)的には、1秒でも10秒でも、1分でも5分でも、1時間でも6時間でも、一緒なんです。6時間必要な時は、勝手に6時間やることになります。1秒でいい時は、「宇宙神ありがとうございます」を呼吸に乗せた、これが1秒。どれもいいんです。どれも同じなんです。だから、この世的な概念に余り囚われずにね、悠々と。だから、呼吸に乗せていったら、楽になるわけです。いつも真祈りの場に立っている。皆さんの体が真祈りの場になっている。そして、この地上という響きのとこから絶対の中心、今中(いまなか)まで光が通っている状態なんです。それを天の岩戸開きと言うんです。皆さんが天の岩戸開きの神聖行事を執り行うんですよ。だから悠々とやって下さい。「自分が」というのが出たら、「あーしまった」と思って下さい。「自分が」っていうのが一切消えるのが真祈りです。「自分が」っていうのが一切消えると、時間も空間もすべて関係なく、一瞬で全部完結してるんですけど、必要だったら6時間でもするということです。一瞬でいいんやったら、そしたら長い時間しなくていいんやなぁ、というのは理屈です。神さまの御心に従って勝手に、そこは1分になるか5分になるか10分になるか、6時間になるか或は12時間になるかは勝手に決まります。だから「私は毎日8時間やっているのよ」というのは、もうこれは「私が」入っていますので、偽物なんです。なんか知らんけど、毎日座っていたら勝手に8時間なっていたというだけで、もうそれは人に言う必要もない。只々自分というのが一切消え去っていくのが真祈りですから、自由自在にやって下さい。

質問7
 ありがとうございます
自分の思いついた所に、行きたい所に行ってお祈りしたりとか、印可書を読ませてもらったりすることあるんですけど、ちょっとふと思ったのが、「古墳に行ってお祈りしたいなぁ」っていうふうに思ったんですけど、ただ躊躇(ちゅうちょ)する気持ちもあって…

 怖い時とか躊躇(ちゅうちょ)する時は止めて下さい。何でかと言うと、それは「自分が」が入っている。その自分が思いついて行きたいなぁまではいいんですけど、行ってお祈りする時は、「自分が祈る」というのはない。消えていないとダメなんです。「ただただ神さまに使って頂いているだけ」にならないとダメなんでね。向かっていて「何か行きたくないな、イヤ」っていうのは、「自分が祈る」というのがちょっと残っている時。そういう時は神さまが止めているので、行かなくていいです。

質問者
 わかりました。ありがとうございます

質問8
 先程、「すべてのものは神さまからの頂きもの預かりもの」っていうことで、それは、今の宗教団体みたいに出さなくていいけど、大事に使えばいい、それを感謝して使えばいいということだったんですけども、今、年齢が、ここにいらっしゃる方もそれぞれ年で、ゆくゆくは肉体を外すことがあると。そしたら、あの世に持って行けないっていうものは、前にもお話されたと思うんですが、今現在肉体がある時は、神さまからの預かりものとして、喜んでそれを大事に使わして頂く。ところが、現状として、この三次元的にはそれを次に引き継ぐ形になることが多いですよね。そういう時はどのように引き継げばいいですか?

 理想はね、理想ですよ、これはね。強制はしてませんからね。この大事な護摩を維持する為に出して下されば一番いいです。でも、もったいないと思う時は出さなくていいです。後は、自分が真祈りして、誰に渡せばいいかを決めればいいです。この護摩というのは、真祈り出来ない人でも、ここに来てお祈りするだけで、真祈り出来るようになる凄い護摩なので、先生は全人類を救う為にね、この護摩をおつくりになられたんですね。だから、その辺の所を考えて、良ければ、もうそろそろ自分はあっちの世界に行くなぁと思ったら、護摩の為にお使い下さいと言って出して頂くのが一番いいとは思います。でもこれは、強制でもないですし、皆さんの自由意思でそうしたいと思った時にして下さい。という感じですね。
 それくらいね、この護摩の始まりというのは、ある個人の方、弁護士の方が願われて始まったのですね。その時に先生が、すぐにはOKを出されなかったんですけど、凄い熱意をもって言われたので、始まったんです。始まった以上は、先生はもう、この護摩という形でね。最初はどういう形でするか決まっていなかったんですけど、護摩という形で始まったので、とことん護摩という形で来ているんですね。この護摩のこの会場の、ここの場所が凄く大事なんですけど、この場所を維持する為には、この護摩の形が一番いいんです。あまり具体的にはどうだっていうのは言いませんけど、この護摩の形にするお蔭でこの会場がずーっと維持できるんですね。だから、できれば自由意思で、護摩の維持の為にお使い下さい。出して頂ければ凄くいいと思います。

質問9
 宇宙神ありがとうございます
自分を出さないというところだと思うんですけど、皆さん「このいのち、真(まこと)の神さまにお捧げ致します。先生にお捧げ致します。どうぞご自由にお使い下さい」という風に決意されている方が多いと思うんですけども、つい知らず知らず、自分のいのちというところで、決心、思っているところがあって、神さまからの頂きもの、預かりもののいのちというところと、ちょっと忘れるところがあって、そのへんの、こうすっきりと、はっきりと神さまのいのちを捧げるんだっていうところを説明してもらえたら・・・・

 あのこれ一言で言うと、全託。全託ということなんですね。みんな全託が一番いいっていうのはわかっているわけです。神さまに全託します。それを易しい言葉で、今言い直しているわけですけど、その全託の誓いを何回も破るんです、自分で。それは自分の意識というね、他人と自分とを分け隔てる意識のある間は、どうしても出るんですよ。要するにどういうことかと言うとね、他人と言っている人も、神さまからの預かりもの、神さまのいのちそのものっていうふうに受け直すことによって、すべては自分になっていくんです。自分を大きくすればいいんです。わかる?自分を大きくしたら、自分が消えるの。本当の自分というのは、真(まこと)の神さまそのものの自分ですから、大きくするか消すかなんです。人によって、全託した以上はもう一切文句なしや「何で?」はないし「ありがとうございます」だけやって、いける人はそれでいったらいい。そしたら自分が消えますね。でも自分という意識でどうしても分けてしまう。地獄の縁者があっても自分とは関係ないと思ってしまう間はね、自分の意識をどんどん拡げる方が速い。どうして拡げるかって言ったら、全部、全部、真(まこと)の神さまが、自分の身代わりとなって、消し去るすがたとなって、自分の周りに現れて下さっていると、そういうふうに思うことです。その自分に悪さする人も。どんな形でもいいですけど、凄く怠けて見える人も、全部自分の中のマイナスを真(まこと)の神さまが身代わりになって消して下さっていると、そういうふうに見たらいい。
 今は、今回は、先生が一切のマイナスを消して下さっているから、無意識に自分の縁者のものを背負っているわけです。縁者のものを背負わなくちゃいけないじゃなくて、自分の一切のマイナスが消えると、勝手に縁者の分を背負うようになるんです。だから縁者の分を背負っている、その背負ったすがたを怠けた形で真(まこと)の神さまは消して下さっている。或はいじめの形で消して下さっている。そういう感じで、すべてを真(まこと)の神さまが自分の身代わりとなってやって下さっているというふうに観たらいい。すると、自分がすべてになっていくんです。わかる?起こっている現象をね「自分と関係ない」と思うわけですよ。例えば「あいつ、怠けているやんか」「あいつ、さぼっているじゃないか」というのは、自分と関係ない世界に置いているわけね。それが自分を小さくしているの。でも「あ、神さまが自分の縁者の分であろうが、自分の分でもいいんですけど、真(まこと)の神さまが背負って消して下さる形を怠けたすがたで見せて下さっている」というふうに思えば、全部自分になっていくんです。それは怠けている人じゃなくて、自分の怠けているものを神さまが消す為にそういう形で見せて下さっているという。全部、神さまの働きだから、自分になっていくんです。わかる?

質問者
 神さまから頂いているこのいのちを捧げるという事が本当だと思うんですけども。

 頂くという表現はちょっと違う。受けてお返し、受けてお返しするという、一瞬一瞬新たってそういうこと。受ける、何で受けるのか?って言ったら、神さまと不離一体の自分だから受けれるの。神さまと違う自分は、神さまのいのち受けられへん。ここが大事やねん。みんなね、神さまと自分が違うものだと思っている。違うものは受けれないの。わかる?どう言ったらいいのかな、響きが違うわけよ。違うものだったら。響きが違うものには、音叉(おんさ)ってあるでしょう。こっちの音叉をカーンって鳴らすと、こっちの音叉が勝手に響くじゃないですか。これ、響き合うものだから、同じものだから響くねん。神さまのいのちを受けてお返しするというのは、そういうことやねん。だから、受け直す毎に自分が真(まこと)の神さまそのものやったという自覚を深めているということ。頂いていると言うと、何か違うものから頂いてるみたいで、そこでずれるの。そしたら後は、その受け損なった分が、真(まこと)の神さまが形に現して消して下さっているって見たら、一切のマイナスはない。マイナスに見えるものは、プラスにして消して下さっているプラスだから。マイナスに見えるということは、自分と違うもの、神さまと違うものっていうふうに、自分が勝手に分けただけやねん。本当は全部一つ。

質問者
 受けるという話で言うと、自分が受けるんじゃなくて、神さまとしての自分が神さまのいのちを受ける。それをお返しする?

 その「自分」という言葉は、「自ずと分ける」と書くんだけど、神さまの意識をね、わざと小さくして楽しむ為にね、わざと小さくして、例えば、三輪車に乗る、自転車に乗る、オートバイに乗る、自動車に乗るみたいな感じよ。自ずと分けたもののすがたは、三輪車なのか自転車なのかオートバイなのか、車なのか飛行機なのか、みたいな感じよ。飛行機ほど自由自在に飛ぶ。ヘリコプターほど自由自在に飛ぶみたいな感じでね。自ずと分けた大きさが、自分なんですよ。でも真(まこと)神さまそのものであることには変わりない。わざと分けただけで、分けれないんだけど分けたようにしているだけだから、分けれないのね、光やから、わかる?すべては光でしょう。光は分けれないでしょう。そうだけど、ちょっとプリズム入れて、分かれたようにね。光もプリズム入れたら7色に分かれたように感じるじゃないですか。言葉というプリズムで、色を付けて楽しんだだけやねん。わかる?だから言葉というプリズムを、真(まこと)の言葉だけ「宇宙神ありがとうございます」の言葉だけに戻したら、無色透明の自分に戻れる。いい。

質問者
 ありがとうございます

 ちょっと理屈言い向けに、理屈をつけて説明しましたが、よろしいですか。
それでは、また来月お会いできることを楽しみにしています。ありがとうございます

音声はこちらから
https://youtu.be/4m0nkSu0EqI

※しん柱の漢字については後日、先生のお話を載せさせて頂きます。

宇宙神ありがとうございます


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令和の意味・・・・ by 河上彰延 2019年04月22日(月) 23時40分
PC

4月護摩焚き河上さんのお話
宇宙神ありがとうございます
2019年4月7日護摩焚き 河上さんのお話

質問1
 印可書を暗記したので、最近東京近辺の色々な神社・仏閣に行って、印可書を唱えているのですが、唱えるのは1回だけでも十分なのでしょうか?何回も唱えた方が良いのでしょうか?それと、お賽銭を入れる時、自分の住所・名前・生年月日を言っているのですが、そんな事はしない方がいいのでしょうか?また神社・仏閣以外で印可書を読むお勧めの場所はありますか?

ありがとうございます
昨日、本当に遅くに先生からお許しが出ましたので、またお話できます。ちょっとこちらに連絡できなくて申し訳なかったんですけども。
印可書なんですけども、印可書は、先生と神さまの約束事で作られたんですよ。真(まこと)の神さまというのは、人間の自由意思を尊重されるんですね。人間の自由意思を超えて何かをされてくることは一切ないんですよ。だから、印可書というものを作りたいという、肉体を持った先生がね、肉体側の自由意思として神さまにお願いして、そして降ろされたものです。細かい事情を言いますと、未完成で降ろしたので、先生一人がお作りになったんではダメだっていうことで、みんなでつくって欲しいということだったんですけど、みんな印可書はそっぽ向いちゃってダメだったんで、こちらでやりました。やったら、先生の方で本物が現れたとお墨付き頂きましたので、今の最終版の完成版の印可書というのがあります。
印可書は、そういう経過で出来ましたのでね、本当に素直に1回読むだけ十分効果があります。ただその場所によったら、もっと読みたいと思う時はね、2回でも3回でも読んでいいんですよ。それどういうことかというと、1回読んで納得した人は、みんな自由になって、縛られた人が縛りを解きたくて集まってくるんですね、神社・仏閣に。1回印可書を読むと、それで縛り解かれた人は喜んで行くわけですけど、後から後からどんどん来ている時は、また読みたくなるということです。だから読みたくなる時は読んで下さい。もういいと思う時はいいでいいんです。お賽銭も自分の自由に、そこの神社・仏閣を維持する為のお金ですから、自分の自由意思の金額をいくらでも入れればいいです。お名前はおしゃられてもおっしゃられなくても、神さまの力というのは凄いですから、言わなくても向こうはわかっておられます。勿論言いたい時は言えばいいです。

質問2
 お墓参りに行った時、自分の先祖の墓に向かって印可書を唱えることは、いいことでしょうか?

お墓はですね、この世にいてる肉体人間側の印であって、御先祖様のお住まいではありません。御先祖様は、もっと自由自在に好きなとこにおられます。ただ、肉体人間側の意識としてね、御先祖様に響きを合わせ易い形で、お墓という一つの、ここでも先生のお墓という形で作ってありますけども、モニュメントがあるわけですね。そのモニュメントを通して響き渡りますので、お墓の前で読まれて自由です。ただ声に出す、周りに人がいてる時は変に思われてもあれなので、声に出さず読まれたらいいと思います。

質問3
 まだ少しわだかまりが残っていまして、それは先生と生前にお会いする機会があったにもかかわらず、村に来なかったことです。やはり後悔があります。それで質問ですが、生前先生にお会いできなかったけど「ありがとうございます」「宇宙神ありがとうございます」の祈り言葉を通して、お会いできているのでしょうか?会う会わないではなく、ご縁を頂けたのでしょうか?これは、今から「宇宙神ありがとうございます」に出会う方々にも共通なことだと思います。どうぞよろしくお願いします。

 所謂(いわゆる)真祈りというのは、時間・空間を超えるんですね。だから、先生にお会いした、肉体の先生にですね、お会いしたお会いしてないは、本当に関係ないです。素直に真祈りして、印可書を読んで、或いは「宇宙神ありがとうございます」で呼吸に籠めて、或いはひたすら「宇宙神ありがとうございます」を籠めながら、祈りながらお仕事してってされる方は、みんな先生と不離一体なんですよ。それをね、覚えておいて下さい。そしてね、先生は、これからが本当に自分は有名になるんだっていうことをいつも仰っていたんです。亡くなられてから、死んでからの方が自分は有名になるんだって仰っていたんですけども、本当になまじ先生の肉体にお会いになってない方のほうがね、先生に甘えないの。だって、もういらっしゃらないから甘えようがないよね。頼りようがないじゃないですか。だから、かえって新しく来られた方のほうが真祈りが深いんですよ。なまじ先生とお会いした方はね、ちょっと先生に甘えがあって、真祈りに真剣さがちょっと足らんのね。先生がなんとかしてくれるっていう意識がちょっとあるんですね。それと真祈りは、ともかく自分の物って掴んだ分しか光を降ろせないんですよ。わかります?だから、すべては神さまの預かりものと思えたら、大きく光が降りるんです。でもこの体は自分のものとかね、このお財布のお金は自分のものとか色々ありますけど、自分のものと思っていたら、その思っている範囲しか光が降りないから、先生がいらっしゃる時に「ありがとうございます」という真祈りを先生は「ありがとうございます」は真(まこと)の神さまの響きそのものって仰ってですね、或いは、「ありがとうございます」って祈れ祈れって、自由意思で祈れって仰ったんだけど、みんな今一(いまいち)真剣さが無かったのね。それ何でかと言うと、自分のものを持っていたから、「ありがとうございます」って祈ってもちょっとしか光が降りない。すると、あんまり変わらないからと言って、やめちゃうんですね。それでうまくいかなかった。でも今は、もう先生いらっしゃらない、甘えれない。それまでは先生の肉体がありますから、もうこうなったら先生が何とかして下さるだろうと言って、自分の方の努力というか、真祈りすることを、自由意思を放棄しちゃったんですね。今は先生がいらっしゃらないから、本当にもう、印可書と「宇宙神ありがとうございます」だけ。方法論として呼吸に乗せるとか色々ありますけど、それは皆さんの自由意思でね、やりやすいことをやられたらいいんですよ。でも真剣に真祈りされる方が多いんですね。だから、今の方が逆に言うと、新しい方のほうが深い真祈りができると思っていて下さい。

質問4
 新年号について一言お話頂けますか?

 「令和」という新元号についてですね。元号というのは、いつもいつもそうなんですけど、神さまの御心を降ろす言葉なんです。日本というのは、世界のひな型ですから、先ず日本が素晴らしくならないと世界はよくならないですよ。例えば「令和」という響きをどの立場から観るかによって大きく変わるんですね。この世の現世(うつしよ)の元号に関わらずですけども、この現世(うつしよ)での出来事もそうなんです。現世の出来事はすべて10通りの解釈がある、100通りの解釈がある、1万通りの解釈がある、10万通りの解釈がある、何万通りの解釈があるって先生仰るわけですけども、それ、何でそんなに解釈の種類が色々出るかというと、自分の立っている立場によって解釈が変わるわけです。本当の解釈は、真(まこと)の神さまの側に立つしかないの。真(まこと)の神さま側に立てば、すべてが氷解するし解るんです。真(まこと)の神さまの側に立つとは何か?と言ったら、それは真祈りなんですよ。真祈りしたら解る。真祈りとは何かって言えば、この1年間ずーっと言ってきましたけども、自分のものを神さまの預かりものとしてお返しする。常にそれが先ず第一です。「どうかこのいのち、神さまのお仕事にお使い下さい」って投げ出すことなんですね。これを御恩返しと言うんですけども、すべてを神さまにお返しするという、それを「このいのちお使い下さい」と投げ出すこと。その2つが絶対必要なんですね。後は方法論で呼吸に乗せようが、ひたすら唱えようが、色々自分のやり易いことをね、自分で工夫してやられたらいいと思います。その真祈りができれば、「令和」の意味がよくわかるんです。
「令和」の「令」という漢字は、冠(かんむり)へんと言うんですね。冠とは何かと言うと、本当のこと言いますと、ピラミッドのキャップストーンなんですよ。キャップストーンとは何かと言ったら、これは真祈りを受け取った時のすがたをキャップストーンです。その「令」という字は、その冠(かんむり)へんに人が傅(かしづ)いてるわけですね。「神さま、ありがとうございます」ってお辞儀しているすがたなんですけども、真祈りそのものの言葉なんです。だから、日本語で「命令」、「いのちのれい」と書いてね、絶対に動かし難い大事なもの、命令。命令と言ったら、逆らってはいけないものっていうのは、そういうことなんです。「令」という漢字は、そういう真(まこと)の神さま側から出た時は、そういう響きだったわけです。だから、真(まこと)の神さまから見れば、「令」は、「真祈りをこの世に顕す」という意味です。「和」というのは何かと言うのは、「和」はね、単純に円・輪を思って頂いたらいいんですけど、一大循環の相象(すがた)をこの世に現すとなると円なんですね。実際には螺旋ですけど、螺旋が重なって円になるわけですけども、円なわけです。だから、「真祈りを一大循環の相象(すがた)としてこの世に響き渡す、響き渡らす」というのが「令和」です。この世に真祈りを響き渡らす為には何が必要かと言うと、皆さま方お一人お一人の肉体が必要なんです。肉体がこの世での真祈りの受け場なんですよ。それを今までは、天皇陛下お一人に、先生お一人に、もう頼っちゃってね、任せちゃって自分たちはしなかった。でもこれからは、すべての人が総責任者の自覚をもって、真祈りをするんです。その先駆け・始まりを意味するのが「令和」という言葉です。この言葉をどう受け止めて、どう運用するかは、皆さまお一人お一人の自由意思によってるわけです。肉体側から見たら「令」というのは、凄いマイナスのね、マイナスの輪が出てると言って「嫌だ」と言う人が結構多いですね。でも、「令」というのは、神霊の「霊」でしょう。密やかな働きを「令」と言うんですよ。真祈りと言うのは、神さまの働き、真(まこと)の神さまの働きというのは、密やかな働きなんです。だから、前にもお話しましたが、例えば肉体でも血液の循環って凄い大事ですよね。でも見えない、密やかな働きでしょう。大事な働きほど密やかで、誰にも知られずに起こるんです。それが真(まこと)の神さま働きなんです。その真(まこと)の神さまに支えられて、支えられて、皆さま方の肉体があるし、ここに存在できるわけですね。それをもう一度神さまにお返しして、真祈りで受け直していく。これが一大循環の相象(すがた)の地上に舞い降りてきた状態なんです。それを「令和」という号令によって、皆さま方お一人お一人がね、真祈りに励んで、これからの世界を創っていくんですよ。ここで日本人がいがみ合ってね、喧嘩して足の引っ張り合いをしたら、それが世界に映って大戦争になっていきます。とりあえず真祈りが必要だし、皆さんもうできる状態なんでね、やって下さい。

「令和」の話が出ましたので一通りのことを言いますと、先ず水の洗礼、火の洗礼、霊の洗礼。水の清(浄)め、火の清(浄)め、霊の清(浄)めっていう風な順番でね、この現世(うつしよ)に表れるんですよ。今年は水の清(浄)めが多いです。だから、集中豪雨が降って大雨が出て、鉄砲水が出てとかね。海岸部が高潮で浸水したりとかいうのが結構出ます。先ずその水の洗礼があります。
次に、火の洗礼というのは何か?要するに、この地球世界がよくなる為に何が起こるかということを今言ってるわけですけど、火の洗礼というは、火山の爆発、或いは大地震です。地震というのは、下から熱が吹き上がって地震になるんですけどね。それで火の洗礼になる。その火の洗礼を形に表さずに消し去る方法が、この護摩なんですよ。だから、是非とも護摩には、何を差し置いても参加して下さい。そうすれば、ここの火の清(浄)めだけでね、すべてが終わっていくんです。火の清(浄)めとは何かと言うと、フェニックスの清(浄)めなんです。フェニックス、要するに色んなものを自分に纏(まと)って火の中に飛び込むんですよ。それで、本物だけ、真(まこと)の本心の自分だけが火の中から再生して出てくるんです。それを護摩木に託して燃やしています。だから護摩木もたくさん真祈りを籠めて書いて頂いて、宇宙船護摩木を書いて頂いて、そして是非ね、時間はできるだけ少々のことは都合をつけて、この護摩には参加して下さい。そうすると、火の清(浄)めが護摩だけで終わります。これは空海さんの時代にですね、富士山が爆発したりして大変だったんですね。空海さんが護摩というのをその時に始められて、日本の国が収まったんですけど、これはその2回目になります。
最後に、霊の清(浄)め、霊の清(浄)め。これは何かって言うと、これが真祈りなんですよ。だから、これを3つ同時にやっていくのが一番いい。そしたら、あっという間に何事も鎮まって、良いように変わるんですね。ですから是非とも、ご自分の自由意思でね、僕が言うからするとか、僕が言うから呼吸に籠めるじゃなくて、ご自分の自由意思で、自分のやり易い形でね、是非真祈りをされて、霊の清(浄)めにも参加して下さい。霊の清(浄)めに参加する方法は、いつも言うように、自分のものが無くなって、全部神さまの預かりもの、「どうかこのいのちお使い下さい」ってね、投げ出していくこと。その中から霊の清(浄)め真祈りができますので。印可書を読んでもいいし、「宇宙神ありがとうございます」でもいいし、「ありがとうございます」でもいいし、自分がしっくりする祈り言葉を使ってね、やって下さい。「宇宙神ありがとうございます」或いは「ありがとうございます」の詳しい内容が印可書だと思って下さい。だから、使い易い方を使ってね、是非真祈りに励んで下さい。お願い致します。「令和」についてもう少し質問があったらお願い致します。

 そしたらね、もう本当に真祈りをよろしくお願いします。そして自然発生的にね、あちこちで真祈りの会をして頂いています。本当に先生が喜んでおられるし、これからもお願い致します。それでいつも言いますように、真祈りの会は、横の連絡を取る必要はないです。行きたいと思う会場に皆さんの自由意思で行って、そして、真祈りをするだけです。真祈りの会は勉強会ではないのでね、それは間違わないで下さい。先ず真祈りして、ちょっとここ、わからへんねんということを、印可書とか色んなものを見ながら皆で相談するのはいいんですけど、先ず真祈りがあるということを思っていて下さい。本当に真祈りをしていたらね、盤石の支えになるんですよ。盤石の支えになると、連絡を取らなくても、「あ、あそこに行こう」「あそこを助けよう」って、「支えよう」って勝手になって、自在に動くようになります。これを組織立ってね、本部があって、あそこに行けとか、言うことが出始めたら崩れますから、それだけは真祈りをされる方は、真祈りの会場を開催される方はね、心に秘めておいて下さい。自分の自由意思でするだけであって、外から一切強制されることはない。組織的な動きになった途端に、組織の業が集まって、全部崩れていきます。今までの宗教は全部、組織を作ったが為に崩れたんです。立教の時はみんな素晴らしい事を言っているんですよね。でも組織を作って、この命令に従わないとあかんとかやり出したらダメになるんですよ。それはね、よく覚えておいて下さい。それぞれの真祈りの会が主催地であって、中心の場所であると思ってやって下さい。人が集まらなくても、自分一人でも真祈りの会をするんだっていう覚悟をもって下さい。誰も来なくても大丈夫なんです。肉体人間以外の多くの方が来られていますから、真祈りの会をめげずやって下さい。お願い致します。

「令和」はいいですかね?ともかく「令」という字が、マイナスにどうしても聞こえるんですね。だから、多くの人が結構「令和って嫌だ」って言う人が多いんです。でも、そのマイナスの思いを全部消し去る為にも、真祈りでプラスにプラスに変えていきたいと思います。「令」というのは、「霊」が悪いのだったら何で「神霊」と言うの?何で「霊魂」と言うのって言うじゃない。それ、良い意味でしょう?神霊でもね。「霊」って、本来いい意味なんですよ。だから、いい意味にもう1回思い返す為にも、皆さんの真祈りが必要です。「令和」という新しい時代が始まったんでね、皆さんにちょっと覚悟を決めて頂く為に、長くなりますけども、色々と言います。

 先ず、色んなマイナスっていうのがありますよね。それは自分に縁(えにし)あるマイナスはね、自分の体に取り込まないといけないんですよ。取り込まないと消せないんです。その真祈り為に、皆さんの肉体が必要だと言うのはね、そういう意味です。だから、それを先生は、見本で見せて下さいました。先生は真祈りされていて、病気のすがたをとったり、痛みのすがたをとったされていたじゃないですか。先生ほどの人が何でそんなんするの?って、一旦自分の体に取り込まないと逃げていくんですよ、マイナスは。サーッと光を入れたら、サーッと逃げて行って、消せない。逃げるだけで。それをお祓いっていうんです。お祓いはできるけど、お清(浄)めはできない。お清(浄)めをしようと思うと、自分の体に取り込むしかない。自分の体に取り込んで真祈りするんです。

 悟りについての質問がきてたんで「悟りとはどういう心境ですか?」って仰るわけですね。大概の人は、悟りというのは、水鏡、鏡の如しと言うんですか、ピシッと静まり返った状態で、不動心で、静まり返った状態で、気持ちのいい状態が悟りだとみんな勘違いしているんですけど、本当の悟りは、違います。本当の悟りとは、本当の不動心とは何かと言うと、千早振る(ちはやぶる)すがたなんです。神さまの働きは千早振る(ちはやぶる)すがたですから、この体に如何なる痛みが現れようが、或いは運命的に如何なる不幸が起ころうとも、神さまがいいようにされているという、絶対の安心感がある不動心なんです。だから、どんなに痛くても、どんなに病気のすがたがあっても、或いはステージ4で後3ケ月の余命ですよと言われてもね、幸せ一杯、心が揺るがない、それが本当の悟りです。その本当の悟りの心境があるから、色んなマイナスを背負って、ちりとりとしてね、或いは雑巾として、表現は色々ありますけど、色んなマイナスを自分に取り込んで、消し去ることが出来るんです。それ、よく覚悟してわかっておいて下さい。「令和」の時代が始まりましたので、皆さまお一人お一人の体をね、先生は間違いなく使うと仰ってますので、何かが起こったら「あー使って頂いてるんだ。良かった」と思ってですね、心を揺るがさずに真祈りをお願い致します。いいですか?今のことで質問ないですか?皆さんの覚悟を問うてます。本当の悟りってそういうことなんですよ。
だから、事故に遭ってね、突然腕が落ちてバーッと出血して、出血多量で死にそうな時でも「ありがとうございます」なんです。どんなに痛くても心揺るがない。だから、不動心なんです。だから、それが無条件の幸せ・無条件の喜びなんです。条件ないでしょう?痛くても喜びなんです。苦しくても幸せなんです。それが、無条件の幸せ・無条件の喜びというのが、悟りの心境なんですよ。只々嬉しいだけ、有難いだけ、喜び勇むだけなんです。それ、わかって下さい。だからちょっとでも「痛い。わー大変」と思ったらね、神さま以外のを見てしまったと思って下さい。神さまだけ、真(まこと)の神さまだけを見ていたらね、幸せと喜びだけなんです。神さま以外のを見たら、文句が出ます。

だから、悟りの本当の神髄は何かと言うと、真(まこと)の神さまと自分と一対一に置きなさいと先生は仰っしゃるわけです。みんなその一対一の意味ががわからない。一対一とは何かと言ったら、全部真(まこと)の神さまだということなんです。全部真(まこと)の神さまだというのがわかれへん。何かと言ったら、すべては真(まこと)のプラスだけっていうことなんです。痛みがあろうが何があろうが、真(まこと)のプラスだけなんです。これ、「何で痛みがプラスやねん」って理屈言いは言うんですけど、神さまの働きを水に例えるとわかるんですね。大きな貯水池が絶対の中心だと思って下さい。そこからちょっと水門を開けると凄い水圧で出るじゃないですか。だから絶対の中心に近づくと、そういう凄い水圧の強い光なんです。そんな光だとマイナスは逃げていくだけで近寄って来ない。それをずーっと枝分かれして拡げてですね、皆さんの肉体まできて消すわけです。だから、水で例えるとわかりますけど、水をバーッと撒いたら汚れたところだけ色がつくじゃないですか。その色のついた姿が痛みなり病気であり不幸なんですよ。でも、それも次から次に流れてくる水で消えるじゃないですか。その消え去る姿を見てね、文句を言うからややこしくなるんですよ。文句を言うということは、もう一遍再生して作るということですから、いつまでも消えない。だから、この病気治しなさいって神さまに言ったら治らないのは当たり前なんです。自分が病気を作り続けているだけなんですね。それが解れば、どんなことが起こっても喜びだけになります。

質問ないですか?凄い今、神髄を言ってるんですけどね。この神髄を理解をする為には、重層構造・入れ子構造・ところてん構造が解らないと解らないんですよ。この細胞一つ一つに大宇宙があるというのが解らないと、実観(感)として解らないと、「何で不幸やのに嬉しいねん」「何で痛いのに嬉しいねん」「何で辛いのに嬉しいねん」「何で悲しいのに嬉しいねん」「アホ言うなよ」って理屈言いになってしまうんですよ。本当は、すべては神さまの御光だけなんです。だからそれをちょっとね、言葉でいじって遊んでいるだけなの。本当はね。本当は、それだけなんです。

草薙の剣ってありますよね。みんな草薙の剣というのは、十字だと思っているんですよ。でも、本当は違います。草薙の剣からは色んな色が出てね、左旋回。先の方は綿のように細かくなつているんです。その形をして色んなものを捉まえて消していくのが、草薙の剣の神髄なんですね。皆さんの肉体は、その草薙の剣の働きの最先端をしますから。みんなこの世の形ではレプリカ、レプリカではないですけどね、象徴として、熱田神宮に草薙の剣を置いている、その草薙の剣と皆さんの体は繋がっているんですよ。草薙の剣の清(浄)めの働き、天叢雲(あまのむらくも)九鬼サムハラ龍王(くきさむはらりゅうおう)の働きをします。それが「令和」の時代の始まりですから。喜び勇んでね。痛みでもそうなんですけど、痛みを痛いと思うと辛いんですよ。でも、「今日はこんな痛み方やな」「今日はズキズキやな」「今日はキャンキャンやな」とかね、痛みを楽しまなあかんのね。楽しむと消えるんです。それは不幸な運命でも一緒。「あ、こういう運命の展開、凄いなぁ」って楽しんでいたら消えるんです。でも、「こんな不幸で大変やねん」って言ったら、自分で作っていますから消えないですよ。何事も喜び勇んでって言うのはね、楽しんで、楽しんで下さいね。この世は楽しむ為にあるんだから。楽しんで消していかなあかんのです。それが神髄です。その楽しみを忘れたら、苦しい苦しいとなって、崩れ落ちますから。もう「令和」の時代でね、真祈り人は逃げれないんで、覚悟を決めて下さい。いいですか?質問があったらどうぞ。あんまり追い詰めたらあかんねんけど、今日は先生がとことん言えと言うから、言ってますけど。よろしいですか。覚悟決めて下さいね。「真(まこと)の神さまだけ」ですよ「みんな光だけ」「みんな既に悟っている、祈っている、救われている」っていうのは、そういう意味なんです。いいですか?終わりますよ。

質問5
宇宙神ありがとうございます
先生のことなんですけども、私達に数々の祈り言葉、一番最新の「宇宙神ありがとうございます」、そして印可書、真祈りの伝授と様々のことを私達の目の前に降ろして頂きました。その先生の苦労、御心、私達の為に降ろして下さったその気持ちを改めて伺わさせて頂けたらと思います。

 これは、54年前から遡(さかのぼ)っての話になりますけども。先生に最初にお会いした時に、先生が先ず仰られたことは、「どうしてこの人類を救うか、どうしてこの地球を救うか、自分はそればかり考えている」って仰ったんです。思わず「僕もそう思っています」って言って、意気投合したわけですけども。そこからが本当に色々と大変で、僕の方なんかは知れているんですね。先生の凄さというのは、もう全部自分で背負っていかれる。今、今、皆さんにお願いしたことを先生は全部、お一人でされたわけですね。それで、いわゆる天の岩戸が開くまで、要するに、素直に祈り言葉を唱えるだけで、すぐに真(まこと)の神さまと同じ働きができるという状態にもっていくまで、ひたすら祈って祈って、熱を出されて、その熱を湿布で抑えながらお祈りされているという苦労をされました。夜も本当に、ほとんど寝られないんですね。ただただ祈るだけ。今の僕がそうなんですけど、ひたすら座って祈っていて、10分位横になって、また座って祈っての繰り返しになるんですけど、それ別に眠れないからどうこうという不安もないし、こんなんしていて大丈夫かという不安もない。ただ嬉しいだけなんですね。神さまに使って頂いて嬉しいだけってなるんですけどね。先生は、神さまに使って頂いて嬉しいだけ。今言ったことは先生から伺ったことなんですよね。「痛みは楽しんで受けなあかんねんで」って。「痛いと思ったら、もうずっと自分で作ってしまって苦しむで」って言ってね、いつも僕が受けていた注意なんですよ。それをいよいよ皆さんにお願いしないかんので言ったわけでね。だから、本当に痛い時は、針でね、僕の場合は千枚通しでしたけど、千枚通しで膝を突くんやと。その痛みでね、こっちの凄い痛みは忘れるからって、僕も実際それをしました。確かに、きつい痛みは忘れて膝の痛みでは消えます。皆さんはそこまでしなくてもいいはずなんで、大丈夫ですけども。先生の苦労というのは、ただただ絶対の愛でした。人類を本来の真(まこと)の神さまと不離一体の意識にまで戻したいという、それだけの愛でした。それをひたすらされて。だから、先生の降ろされた祈り言葉をね、どの時代のものでも、今でも生きています。ただ、これがいいというのは無いんですよ。自分の使い易いのを使って下さい。「神の御光(みひかり)・御力(みちから)・御命(みいのち)」も生きてますし、「みんな既に祈っている・悟っている・救われている」っていうのも生きているんですよ。でも、その時その場に立って、言い易いのを使って下さい。一切の縛りは無いです。皆さんの自由意思で選んで使って下さればいいです。それで、痛みだけは痛いと思わないように、色々楽しんで受けて下さい。痛みも苦しみもね。そしたら、一瞬で消えていきます。ただ次から次に来るからね、痛いように思いますけど、次から次だと耐えれるんですよ。同じ痛みが続くと耐えれないの。だからそれ、わかっていて下さい。
実は昨日、もう本当に痛くて、メールひとつ打てない状態だったんで、大変だったんですけどね。この護摩の始まる前あたりから一気に、ちょっと運転もできなくて、運転もしてもらって来たんですけど、一気に引いて変わるんですけどね。いつもそういうもんなんですよ。必要に応じて、必要なように、いいようになります。それは神さまが全知全能でね、何でもできる力を持っておられると信じ切れるかどうかにかかっています。だから、神さまが全知全能の神さまがこうされているねんから、一番良いに決まっているってね、確信を持たないと、神さまのお仕事はできません。それだけは重々覚悟を決めて下さい。「申し訳ないけど、いやそんなん私、出来ないからやめとくわ」は、もうないですよ。先生と縁のあった方は逃げれないのでね、逃げても、ずーっと続きますから、どこかで覚悟を決めて真祈りに入って下さい。先生は先ず、使い易い人を使わなあかんのでね。全然先生を知らない人は使えないじゃないですか。でも、ここに来た人は、本当に先生と親しく色んなことをして頂いてね、先生が陰に陰に隠れて、皆さんの運命をよくしてね、本当に楽にしてこられたんですよ。それにみんな気付かないだけ。でも気付かなくてもいいです。でも、神さまのお仕事に使って頂きますので、使わせて頂きますので、覚悟を決めて真祈りに、もう入って下さい。お願い致します。

質問6
 確認なんですけども、先ほど言われた、入れ子構造・重層構造・ところてん構造を理解しなければということですけど…

 理解ではなくて、いわゆる実観(感)やね。

質問者
実観(感)。というのは、ひたすら真祈りをしていくことで…

解ります。理屈では解からない。
入れ子構造・重層構造・ところてん構造というのが、悟りの神髄の部分なんですけども、これは本当に実観(感)でしか解らない。理屈で考えたって、永遠に堂々巡りをします。どこかで覚悟を決めてね、真祈りに入って下さい。深くね。もう既に真祈りに皆さん入ってますけども、深く深く入るんだって覚悟を決めてして下さい。その重層構造・入れ子構造・ところてん構造というのが解ったら、「みんな悟っている・救われている・祈っている」って解る。「みんな光や」って言う先生のお言葉が、実観(感)として解ります。「神は光なり」というのが実観(感)として解ります。光だから、分けれないから、みんな光なんです。この前、SUN(さん)、太陽って言いましたけど、それが実観(感)として解らないと不動心にならないの。理屈では不動心になりません。理屈では、やっぱり痛くなってきたら「痛いなぁ」ってなるわけです。「痛いなぁ」と思った途端に、もう心が揺れているのね。「嬉しいなぁ」とならないとあかん。「なかなかこの痛み楽しいなぁ」となっていたら揺れていない。「痛いなぁ」と言うたら、もう心が揺れ動いて、崩れてますからね。それを自分の物差しにして、ひたすらね、「宇宙神ありがとうございます」って色んな方法で祈り続けて下さい。

質問7
 @「令和」の「令」という漢字が、あの「令」ではなく、違う「れい」もたくさんありますよね。「麗しい」だったりとか、お礼の「礼」だったり色々あると思うんですけども、「れい」という言葉の響きのことが大事なのか?ということが1つ。
A先生は一切のマイナスがないと仰った中で、それであったとしても人の肉体を使ってマイナスを消すと仰ったところの質問

 Aの方からね。一切のマイナスはないんですよ。でも何で消さなあかんかって言ったら、今、痛みで説明してましたよね。痛みを「痛いなぁ、嫌やなぁ」要するに、自分、人類の言葉で作ったマイナスというのが溜まってるわけです。「あいつ、さぼっている」「あいつ、ずるい奴や」まぁ色々ありますけど。「お前、もっと働かないとあかんやないか」ってマイナスで責めているわけですね。自分の言葉で作ったマイナスが一杯溜っているわけです。それを消すという意味です。だから、神さまを水で説明しましたように、その言葉で作ったマイナスに水が色づきます。それ清(浄)めの第1歩ですね。後はどんどん真祈りをして、次から次に水が来たら綺麗になるじゃないですか。そういう消し方です。ただ水が染まるところが皆さん肉体で言うと、痛い。或いは、不幸な運命。或いは、病気ということになるわけです。でもそれも真祈りしたら、一瞬で消えていくんです。いいですか、今のマイナスについては。マイナスに引っかかることがあったら言って下さいね。

質問8
 入れ合い構造、禅宗の宗教の端くれなんですけど。このありがとうボランティアグループの教えをですね、お釈迦、達磨、芭蕉を尊敬しているんですけど、それとここの教えは、決して矛盾しなくて、非常に一致すると思うんですけど。芭蕉というのは、この花を見ても、月を見ても、雪を見ても、拝んで涙が出るっていう俳句を作っているんですね。これは宗教そのものです。今の俳句のもね…

 悟りの心境ですね。

質問者
 そういうことを皆さんにあれしたいし。入れ合い構造を私も解釈させて頂くとですね、形のないものと形のあるもの、言葉も形ですよね。表現というのも形です。霊というか神なるものは形がなくて、特大と極小に宿っていると、そういう解釈にできると思うんですけど、僕は自己主張しているつもりはないんですけど、本当に剣の達人で思い出したんですけど、山岡鉄舟という人は、死ぬ時に「腹痛や 苦しき中に 明けがらす」ってからすの鳴く声が聞こえると。これはもう立派な悟りの、辞世の句。

 そうですよ、「痛い」と言って文句言ってないですね、嬉しい嬉しいって

質問者
 剣の達人が痛いというのはおかしいって、一般の

 剣禅一如ですからね、もう剣と真(まこと)の神さまとは一つなんですね。禅というのはひたすら真っ直ぐに神さまだけを見つめよというのが禅という…

質問者
 お釈迦さんは、お釈迦さんと一体にならなきゃいけないし

 禅という漢字がね、単て書くじゃないですかね、神さまに単と書きますでしょう。それはひたすら真っ直ぐに、神さまを見つめよ、神さま・真(まこと)の神さまと一対一になれっていう教えなんですね。道元先生が悟っている、本来悟っている人間が、何で悟りを求めるんやっていうことをね、凄く悩まれて、禅を深められたわけですけども、その悟っているから悟りを求めるんだっていうことがすべてに尽きると道元さんは喝破されるわけですね。すべてはそこなんですね。「みんな既に祈っている・悟っている・救われている」なんです。これを絶対に忘れてはダメなんです。そこを忘れてね、自分は悟ってないから祈るんだっていうのは、もう間違いですから。

質問者
 万人が救われていると

 もう既にみんな、本来完璧なすがたなんです。それが理解できる為に入れ子構造・重層構造・ところてん構造というね、光の、これは光の一大循環の相象(すがた)を端的に表した言葉なんですけども。この光の一大循環が解らないとダメなんです。光の一大循環が解ると、神はすべてのすべてであって、もうそれ以外に一切存在しないというのがね、実観(感)として解るんですよ。先ず先ず、「すべて祈っている・悟っている・救われている」っていうのをね、みんな、みんな悟っているっていうのが解ることが、もう禅の根幹なんです。道元先生が言われたことを松下先生はちょっと日本語を変えてですね、道元先生は別の言い方をされたんですね。

質問者
 先生は先生の表現ですよね。

 道元先生の言い方はあるんですけども、ここでは出す必要がないので、「既に悟っている・祈っている・救われている」とわかり易く翻訳されているので、言いますけど、禅の深さというのは凄いんですよ。禅で悟った人はたくさんおられるんですけども、中々その悟りを深められない。何でかと言うと、一般の人がね、禅というのは座らなくちゃいけないんだと、あんなしんどい事できるかと言って、近寄ってこないから。

質問者
 一生やっても悟れないかもしれない。

 いやいや、だから、そう思わせてしまったら失敗です。既に悟っているから座るんだっていう、そこだけなんですけどね。まぁそれで、先生は今、禅の形をとらずにですね、今の真祈りの形をとられて、呼吸に「宇宙神ありがとうございます」を籠めるだけでね、禅の神髄になるんだっていうことを仰られてるわけですね。よろしいでしょうか。ありがとうございます

質問者
 形のないものが神であって、勿論、形のあるものと形のないものは入れ合い構造なんですよね?

 形じゃなくて、いわゆるこのどうしてもね、理屈というか、この世の感覚で止めて見ようとするんですよ。
動いているものを止めて見ようとするの。例えば、野球のバッティング理論でもね、こう振るだけでしょう。それなのに、ただ振るだけなのに、この位置この位置と止めて見たら、何もわからない。止めて見る癖があるんですね。それが理屈なんですよ。一大循環の相象(すがた)っていうとね、なんかぐるぐる回っているだけかなぁってみんな思っているわけですけども、本当は流れで言うと、入れ子構造で、この細胞の一つの中にも大宇宙があるんです。本当にそれが実観(感)でわからなくちゃいけない。この人間の細胞一つの中に大宇宙があって、その大宇宙の中にも地球のところがあって、また人間がおってって、そういう構造が一大循環っていうんです。それがわかったら、もう盤石の支えに入れるんですよ。その一大循環の相象(すがた)をね、入れ子構造の相象(すがた)を、真(まこと)の神さまが盤石の支えで働かれている。だから真(まこと)の神さまそのものなんですけども、その盤石の支えにね、喜び勇んで自分達も参加できるようになるんです。その為にも真祈りをして下さい。そして、自分のお金と思っているものは全部神さまからの預かりものってね、財産でも何でも思い返して下さい。わざわざここに出すことはないんです。思い返すだけでいいんです。

質問者
 預かり物は生きる内に使わなくちゃいけないんだけど、活かして使うというのは難しいですね。

 だから、真祈りがあるんです。ひたすら真祈りの中から、自分の自由意思でね、自分の責任において、色んなことを自由に使って、お金を使って、やって下さい。その使い方に関して人からとやかく言われようと気にする必要はないんです。

質問者
 本心ですね。喜びの表現がね、僕の尊敬する師匠がね「尊くて、嬉しくて、有難くて」ってそういう言い方をしているんですよね。、同じことですよね?表現が多少自己流になっていいわけですよね。

 その人その人個性によった表現になります。喜び勇んでって言うのが、一言で言える言葉だと思います。
はい、ありがとうございます

質問9
 今回で平成が最後の護摩になると思うんですが、総括という部分と、あと、平成に作られた先生のご著書だとか、そういうふうな色んなものが生まれてきたものに対して、次の「令和」の時代にどう引き継いでいけばいいのか?というのをご教示いただけませんでしょうか。

 だから、平成の遺産とかね、平成でこうあったとか、過去振り返ることはもういらないんですよね。ただ先生が平成の時代に真祈りを降ろされたわけです。天の岩戸を開くというね、神聖行事というのは、そういうことだった。「神さまの神聖行事に参加しょう」と先生が言われた時に、誰も返事しなかったの。昔ね、あったんですよ。神書にもその時の文章が載っていますけども。「神さまの神聖行事、天の岩戸開きの神聖行事に参加しよう」と言われた時に、それってどうするんですか?って聞きにも来ないって先生は憮然としていたんですけどね。それくらいみんな、平成の時代は先生に頼って、甘えていたの。もうこうなったら先生が何とかしてくれるだろうと、自分ではどうしようもないばっかりを言ってね、文句を言って、してきたわけですけども。「令和」の時代は、今言ったように、真祈りの響き渡らす時代ですから、皆さんが総責任者となって、真祈りをするんですよ。そして、すべてのすべてが清(浄)めきって、光に変わっていくんです。具体的な光にね。そういう時代です。だから、平成のことはね、先生の遺された真祈りだけがあったらいいんですよ。後はもう、何も要らない。色んな真祈りがあります。祈り言葉があります。それを使ってね、皆さんの使い易い祈り言葉でやって下さい。ただ、真祈りの会をする方には、特に肝に銘じてお願いしますけども、「みんな既に祈っている・悟っている・救われている」というのを絶対に忘れないように。「あーこの人達迷っている」とか「おかしい」って言ったら、もう自分がおかしくなりますからね。それは自分の心であって、相手の心ではないんですよ。常に、みんな真(まこと)の神さまという大前提を崩さないで下さい。その為にも、みんな真(まこと)の神さまだから、痛みがあったって心が揺るがない。わかります?神さま以外のものを認めたら、心が揺らぐの。神さま以外のものは何かって言ったら、それは、自分の言葉で作ったものです。でも、さっきも言ったように自分で言葉で作ったものはね、炭の燃えカスのように固くなって残っているの。コールタールのようになって残っているの。それをどうして崩していくか?消していくか?そこに草薙の剣の働きがいるんです。それを真祈りといいます。天叢雲(あまのむらくも)九鬼サムハラ龍王(くきさむはらりゅうおう)の力なんですけども、真祈りなんです。だから本当にね、もう皆さんの体を使いますから、逃げれないからね。「いや、自分はちょっと」と言って逃げようと思っても、逃げれないからね。どうぞ覚悟して、真祈りに励んで下さい。お願い致します。

質問10
 体の痛みとかっていうマイナスだけじゃなくて、最近凄くゲームがやりたくなって、しかも何か殺し合いのとか、中にはそういうテレビ(サスペンスとか)が凄い見たくて、そういうマイナスを見たりやったりすることも消すことになるんですか?

 だから、それがね、一時的に自分に引き寄せて、自分が背負うということです。だから、呼吸に「宇宙神ありがとうございます」が楽やねん。ゲームしながら祈れるやろう。それで消していくんです。或いは、テレビ見ながら祈れるでしょう。映画を観ながら祈れるるじゃないですか。それでも心が揺らぐ時は、以前お話した現実無視のカギですね、十字に祈ってするのを使えば、流されずに消していけます。間違いなく大丈夫です。保証します。

質問7 Aの「令和」の「れい」が違うという質問

 「令和」の、何であの漢字を使ったかというは、真祈りということを示す為です。他の「麗しい」とかね、数字の「零」とかね、漢字の「零」ですね。霊魂の「霊」とかを使わないのは、真祈りそのものを表す言葉・漢字だからです。本来は、そういう意味の言葉だったから、「命令」とか「法令」とかね、動かしがたいものに「令」と付けるんです。

質問者
 元より日本は、大和言葉として音の響きだと思うんですが、「あ」とか「り」とか、「れい」だと「れ・い」という響きだと思うんですが、にも関わらず、あの漢字を使うことに関しての…

 「れ」は一大循環の「れ」なんですよ。れれれれれ…って流れでしょう。「い」は「いのち」の「い」です。大和言葉で説明しますと、言霊でいうとね。でも、その言霊だよということを漢字で表したら、今の漢字だということで、いいですか。他の漢字だとその言霊にならないの。麗しい、例えば「麗しい」という漢字を使えば、「れい」だけど「麗しい」という言霊になっちゃうんです。「令」というのは、一大循環のそのものを表すんでね、「令」、あの漢字なんですね。

ともかく「令和」の時代に入りましたので、本当に真祈りそのものの時代です。逆に言うと、真祈りする一番いい時期なんですね。いわゆる禅宗始まった時代というのは、暗雲ただめる戦乱の時代だったんですね。うす曇りとか土砂降りの中で、真祈りをしていた時代なんですね。真祈りがなかなか効果を発揮しない。でも今は、本当に今日のように健やかに晴れ上がった時代の真祈りなんです。ちょっと真祈りするだけで、大きく効果が出るんですよ。こんなに素晴らしい徳な時代はない。真祈りしないと損なの。だから、それを思って、少々の痛みは喜び勇んで、して下さい。それが本当の不動心です。禅宗で信長に焼き殺された方がいらっしゃるんですけども、その方は焼き殺される時に、「心頭を滅却すれば火もまた涼し」と言って、座禅の姿勢を崩さずに燃えていくんですね。それが本当の不動心なんですよ。それね、わかって下さい。この現世(うつしよ)の形じゃないんです。だから、「心頭を滅却すれば火もまた涼し」まではいかなくていいですけれど、その方は生まれ変わってね、ベトナムでベトナム戦争に抗議して、やっぱりガソリンを被って燃やされて、お祈りの姿勢を崩さずに燃えていかれましたけども、そういう凄い方もいらっしゃいますけど、そこまではないですから、是非ね、真祈りをして下さい。お願い致します。ありがとうございます
また来月会えるのを楽しみにしています。ありがとうございます

音声はこちらから
https://youtu.be/6DBoucLyxRc

宇宙神ありがとうございます


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ご自分の自由意志で七難八苦を求めてこそ・・・・ by 河上彰延 [Mail] 2019年04月15日(月) 14時42分
PC

 七難八苦をご自分の自由意志で、求めてこそ、真(まこと)の神さまの御心に叶うのです。
 自分だけが楽な立場に、逃げ込むのは、真の神さまの、御働きである、ひそやなかなちはやぶる働きとは正反対の立場になるのです。
 真の神さまの、御心は、常に、新たなる下座に立たれて、きつい汚い危険な立場から、すべてのすべてを支える働きをされるのです。

 お金をくれる人をいい人だと勘違いしてはいけません。
 神さまにとっていい人とは、真祈りをする人です。
 真祈りをする人とは、まことの神さまの立場に立って、すべてを支えようと祈り続ける人のことです。

 また、金品を受けるには、応供(おうぐ)できる人でなければなりません。
 応供とは、その金品にまつわる一切のマイナスを背負って消し去ることができる人のことです。

 具体的には、一瞬一瞬新たに新たに、真の神さまを受けなおして、無意識の呼吸と宇宙神ありがとうございますが混然一体となっている人にことです。

 金品とは、食事やその他の接待も含みます。他人のお金で食事をいただく厳しさを今一度覚悟しなければ、応供(おうぐ)を受けてはいけないのです。

 真祈りの会をする主催者は、そこまでの覚悟を持つ必要があるのです。

 ご自分が無意識にでも、楽な立場に立とうと思ってしまっていれば、今一度、ご自分の心を見直して、一呼吸ごとの宇宙神ありがとうございますに、突き進んでいきましょう。

 宇宙神ありがとうございます


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神社の役割は、地震鎮め・・・ by 河上彰延 2019年03月31日(日) 09時15分
PC

 神社への印可書 奉読についてのご質問ですが、・・・
 神社の役割はいろいろありますが、又、あまり明かしていけない内容もありますが、基本的には、地震鎮めが神社の存在理由です。

 しかし、神社に個人の願いを持って行くひとが大半でありますので、その、個人の神さまを信じない(神さまに願い事しないと、神さまは何もおわかりにならないと神さまの力を否定し、又、なおかつ、神さまに自分の願い事を実現させよと傲慢にも命令している)傲慢な思いで汚れていますから、その汚れを祓うためにも、印可書奉読が必要になってくるのであります。

 この真祈りの秘奥義を伝授するための印可書は、ありがとうございますと宇宙神ありがとうございますの秘奥義が詳細に書かれていますので、素直にたんたんと心の中で奉読しますと、汚れが祓われ、さらには、絶対の中心の真(まこと)の世界と改めて直結しますので、神社の格が上がるのです。

 具体的には、神社の働きが強くなるのです。

 ありがとうございますを感謝と誤解している人が未だに多い中、その、ありがとうございますの本来の秘奥義を奉読するだけで体得できるのが印可書なのです。

 ご質問は、神社で印可書を読ませていただいてるのですが、感謝の心でいいのでしょうか?・・・とのことですが、感謝の心にも、いろいろの段階がありまして、最初は、物や何かの恩義をもらって、ありがとうございますというギブアンドテイクの、感謝であります。

 これを卒業して、何があっても、すべていいようになっているとの、受けの達人のありがとうございますの感謝であります。

 これをさらに卒業して、一切を求めずに与えきりに与え尽くす心の、与えきりのありがとうございますという感謝であります。

 ここまでが、虚の世界での、つまり、因縁因果の輪廻転生の渦に巻き込まれたままの、ありがとうございますでありまして、これからが、本義のありがとうございますにはいるのです、

 自分という意識が消えてすべてを支えようと思いで唱えるのが本義のありがとうございますでありまして、この奥に、真(まこと)の神さまが通り抜けてすべてのすべてに支える、秘義のありがとうございますがありまして、さらにその奥に、入れ子構造重層構造ところてん構造を実感してとなえるありがとうございます宇宙神ありがとうございますという、真(まこと)の神さまをすべてのすべてに立っていただくという支え方をする秘奥義のありがとうございますがあるのであります。

 この秘奥義のありがとうございますを、具体的に説明し、響かせているんが、真祈りの秘奥義を伝授するための印可書でありまして、一切の自分の願い、希望、欲望をいったん横においておいて、ひたすらにたんんたんと奉読するとき、真(まこと)の神さまの御働きがすべてのすべてに降り立つのであります。

 以上でありますので、神社にお参りして、印可書を奉読したいと思われましたら、たんんたんと奉読するとき、本来の働きが発動して、真(まこと)の神さまがすべてのすべてに降り立たれるのであります。

 宇宙神ありがとうございます


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病気や苦痛はこれだけ何億分の一にして消したよという確認・・・・ by 河上彰延 [Mail] 2019年03月29日(金) 11時39分
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病気にや苦痛に、ついてのご質問がたくさん来ているのですが・・・・・

 病気の姿は、何億分の一に消し去った時に、ご本人に、これだけ、消し去ったよ・・という確認で現れる須賀田(すがた→相象)なのです。
 でも、なんで、いつまでも、続くの?・・・・なんですが、たとえ、虚栄心であっても、悟りという真(まこと)の本心の自分を探し求めて、本心の自分に戻りたいと願った人,あるいは、私は真祈りの伝授が終わって、真祈りができると、心の中であっても宣言した人は、真(まこと)の神さまと同じ救いの立場という真の神さまを与えきりに与えつくす、絶対の支え合いの立場に立つのです。

 それは、本人が自覚するしないにかかわらずです。それを、別の言葉で言えば、十字架にかかるともいいます。

 つまり、一切の何で?は、なくなり、ただただ、どんな痛みがあろうとも、無条件の幸せ、無条件の喜びが、あるだけ、湧き上がるだけ・・と覚悟して、ただただひたすらに、ありがとうございます、ありがとうございます 宇宙神ありがとうございますとなるのです。

 そこで、少しでも、何で?・・と思ったら、十字架での、苦しみを感じることになって、大変、肉体的に苦しいことになるのです。

 これは、どんな宗教に属していても逃げることができない現象でありまして、自分は真祈りができると思った瞬間から始まることなのです。

 その始まりのスタートは、今年の春分の日でありまして、2月の護摩でのお話の折に今年からいよいよ始まりますと言った神意なのであります。

 また、素直にたんたんと呼吸に宇宙神ありがとうございますと込められてきた方々は、真(まこと)の神さまが、その人の、神さまにどうぞおつかいください。と投げ出した分だけ、降り立って使ってくださるので、十字架に上ることまく、ゆうゆうと真祈りできますので、楽に神さまのお手伝いができるのです。

 その違いは何か?と申しますと、虚栄心であっても、真(まこと)の神さまと不離一体という悟りを得たいと、宣言されたら、その虚栄心ごと消し去ってしまおうと強い光を当てますので、少しでもその苦しみを少なくするように、十字架に上るという行為をされて、消し去るからです。
 もちろん、この現世での生死は問いません。なぜなら、たとえ、この現世で100年生きようとも、因縁因果の浮き沈みに流されて、輪廻転生の渦で苦しむよりは、真(まこと)の神さまと不離一体を自覚して、前述の無条件の喜び無条件の幸せを体得するほうが、魂にとって、最高の幸せであるからです。

 どうかみなざま、素直に淡々とご自分の自由意志で、呼吸に宇宙神ありがとうございますと込め続けていかれますように・・・。

 伏してお願い申し上げます。

 宇宙神ありがとうございます


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山より引用・・ by 河上彰延 2019年03月24日(日) 01時48分
PC

3月護摩焚き 河上さんのお話
宇宙神ありがとうございます

2019年3月3日護摩焚き 河上さんのお話

質問@
 呼吸に「宇宙神ありがとうございます」は小声でまたは口パクで唱えてもいいのでしょうか?それと伝授の期間中だと感じますが、大おまけは、いつまで大丈夫なのでしょうか?

 ありがとうございます
また皆さんとお会いできて嬉しく思います。

今の呼吸に「宇宙神ありがとうございます」を籠める籠め方ですけど、これは自由自在にね、やりやすいようにやって頂いたらいいと思います。ただ満員電車の中とかね。人混みで声出してやると、ちょっとこの人おかしいと思われるんで、そのへんは場所を考えてやって頂いたらいいと思います。質問が終わってから、真祈りの伝授の期間とかいうのは、またお話しますので、質問先にお願いします。

質問A
 私のような勉強会やまだ護摩にも参加していない者でも大丈夫なのか教えて頂きますと幸いです。

 真祈りは、時間・空間を超えるんですね。だから「真祈りをしたい」「しよう」と思った時から既にもう悟ってる・救われてる・祈っているなんですね。だから、古い新しいは関係ない。今、来た人と、僕のように54年前に来た人とは同じです。時間的には関係ありません。

質問B
神さまから見たら、虚の世界はマイナスなのでしょうか?真祈り人が増えることによって、神さまの理想とする世界になるのですか?それは、どのような世界ですか?

 これ凄くいい質問なんですね。物質なし、現象なしどうこうっていう、理屈言いの人から見ると、この現世が必要なのか必要でないのかっていうことなんですけども。この現世はね、マイナスではないんです、神さまからみたら。全部プラスです。それはわかって下さい。どういう意味かと言うと、例えばね、この現世の人でも、映画を作る、或はお芝居をつくるとするじゃないですか。シナリオを書いて、映画で色んな着飾って表現してね、或は宝塚のレビューって言うんですか、あるじゃないですか、色んなことがね。それ全部、悲喜劇、色んなプラスやマイナスを織り交ぜて楽しんで終わるじゃないですか。映画でも最後がハッピーエンド終わるのもあれば、終わらないものもありますけど、すべて表現であって、実体ではないんですね。でも、白いキャンパスに絵を描いて楽しんでいるようなものなんですよ。でもそれはマイナスじゃないんです。楽しんでいるんです。だから絵でも色々ありますよね、美しい絵、楽しい絵、怖い絵、寂しい絵ってね、色々ありますけど、それは全部表現を楽しんだだけ。楽しんだ後は「ああ、寂しかったなぁ」「ああ、怖かったなぁ」「ああ嬉しかったなぁ」「ああ、良かったなぁ」だけでいいんですよね。たったそれだけなんです。だから、この現世はプラスとマイナスが拮抗して同時に存在しますので、色んな表現がとれるわけですね。最後は、そのプラスとマイナスが全部一つになって、ゼロになって、泡のように消え去るんです。その最後の消え去るところだけを掴むと、この世はない、物質ない、現象なしって、こう言うちゃうんですね。でもその途中は、表現を楽しんでいるから、あるとかないとかじゃなくて、楽しんでるんです。それね、この世でもそうですけど、永遠のものってないでしょう。例えば、ギターで音楽を奏でる。それ弦をつまんで弾いた時だけ音が出て、後は音が消えていくじゃないですか。この現世といえども、消えていくものなんですよ。それを一瞬一瞬、新たに受け直して表現しているだけ。分かります?だから本当にね、波を楽しんでいるんですよ。川の流れで例えると、川の表面の色んなこう、波立つ姿を見て楽しんでいるんです。或は、静かな池の表面を見て楽しんでいる。ただそれだけで、その池といえども流れてるんですけどね。川なんか分かり易いですけど、もっと流れているわけですね。流れ去っていくものを掴むこともないし、惜しむこともないし、どんどん上から流れてくるものを新たに受けて、その川の表面の流れを楽しんでいるだけっていうのが、この現世なんですね。それはいいとか悪いじゃなくて、楽しんでいるんですよ。それを分かればね、真祈りが楽になるんです。ちょっと難しいかもしれませんけど、本当にね、理屈言いはね、物質なし、現象なしって言うわけですよね。現実無視って言うわけですね。それ、理屈ではそうだけど、じゃあ何で現象があるように感じるの?ていうことなんですよ。そう言われるとみんな答えれない。何故か?それは、この現象の波をね、楽しむために来ているから、あるとかないじゃないです。楽しむために来ているだけなんですね。だから、あるとかないとかの理屈を言い出すと分らなくなる。その楽しむためだけに来てるというのが、よく分かるのが真祈りなんです。真祈りすると、この世はこのままで完全円満完璧大調和であると分かる。完全円満完璧大調和であるけど、あるとかないとかじゃないんです。楽しんでいるんです。映画がそうでしょう。観に行った時は、さもそこにそういうストーリーあるようにして楽しむけど、映画館から出たら忘れるじゃないですか。だからといって、映画はないのかって言ったら、あるじゃないですか。楽しむためにあるじゃないですか。そういう感じなんですね。だから、如何(いかに)に掴まずに喜び続けれるか、だけなんです。

質問C
 護摩焚きの時に一杯の縁者とは誰のことですか?自分だとわかるのですが、詳しく教えて下さい。

護摩焚きの時に来られる方というのは、自分のお祖父さん、お祖母さん、曾祖父さん、曾祖母さんだと思って下さい。それがずーっと続くんですけども。この世っていうのは、この世っていうより、この神さまの世界、神さまのいのちの表れの世界っていうのは、この世もすべてそうなんですけども、全部、重層構造・入れ子構造であって、ところてん構造。つまり切るに切れない。ずーっと繋がっているんですね。だから今、ここに一人の皆さんの肉体がいらっしゃるけども、その後ろには何十億人という縁(えにし)ある人がずーっと繋がってるんです。だから肉体として表現できるんですね。そういう意味です。だから自分の意識では誰もまだ認識できなくても、ずーっと繋がっている、いのちそのものの、すべてのすべてと思って下さい。

質問D
 護摩木を書く時に重くなってくるとお聞きしたのですが、どうすればいいですか?

 真祈りすればいいんです。護摩木を書く時に一時的に、こう熱が出たりする人があるんですね。先生がいらっしゃる頃に宇宙船護摩木の登録をして頂いたわけですけども、登録を外してほしいと、しんどいからっていうお話もあったくらいなんですね。
でもそれね、真祈りしてたら、すーっと消えていくものばっかりですのでね。逆に言うと、この七難八苦があった方が大きく消えて良かったと思えれば、もっといいです。そういうものなんですね。だから、この世が楽だから幸せじゃないんですよ。逆に言うと、熱が出るから幸せでもないんです。何があっても幸せ。それを無条件の幸せって言うんです。真祈りしていると、その無条件の幸せが実観(感)できるんですね。だから、痛かろうが熱かろうが、或は楽で幸せであっても、クーラーの部屋で涼しくて気持ちがいいとかね。ストーブがきいてて暖かくて気持ちがいい、とても幸せだし、或は寒い寒い中でバスを待っていても幸せだしみたいなね、そういう感じになるんです。だから、先ず真祈り。自分と神さまと一つに繋ぐだけ。本来一つの自分を自覚するだけなんですけど。先ず真祈りだと思って下さい。何があっても、先ず真祈りなんです。真祈りが最強なんですよ。だから、本当に極端な話で言うとね、パーンと自動車に撥ねられてね、重傷を負って、どんどん出血多量で死んでいくという時に、真祈りしたら幸せなんです。もうこの現世の姿はすべて一番いいような形で出ますから、そのプラス・マイナスの表現で言うとね、「ああ、可哀想だ」ってなるんですけど、その人にとって一番いい、一番いい形が常に出てますので、先ず真祈り最強だと思って下さい。真祈りしながら、極端に言えば、餓死することがあっても「良かった」なんですね。それは、もう色んな過去世からのすべての繋がりの中で、一番いいように神さまがいつもされてます。でも真祈りし続けていれば、できるだけマイナスにならずにどんどん消えるんですよ。形に表さずに消えるんです。だから、護摩木で、ちょっと護摩木を書いてちょっとしんどいぐらいはね、凄く大きく、小さい形に、大きな姿で消して頂いているということだと思って、ある意味頑張って書いて下さい。お願い致します。

質問E
 亡くなった母と最後まで心が通じ合わなくて、今でもわだかまりがあるのですが、これはどうしてですか?

 これはね、今のケースなんかは凄く楽なケースなんですね。親子で生まれて、子供を売りとばすっていう家が昔あったし、今でも地球の片隅ではあるわけですけど。それでも先生は、幸せ一杯だと仰るんです。それ何故かって言うとね、過去世で自分が売りとばしてきてるんですね。それを今生でまた売りとばし返すんですけども、真祈りしてないとそういう形で消すしかないんでね、なるんですよ。真祈りしてたから、通じ合わないくらいで済んだんです。とういう感じになっているんですね。常に、常に、一番いい形に神さまはおさめてるんですよ。だから、今は親子の繋がらない意識というお話ですけど、一般の人のほとんどの場合は、地球と意識が繋がらなくなる。地球霊王さまと意識が繋がらなくなると、大地震が起こるんです。でも、それも大地震という形で小さく消して下さっている地球霊王さまの愛なんですね。で、皆さんが真祈りして頂くと、地球霊王さまと心が通じるので、それで大震災も起こらないんですけどね。大きく言えばそういうことです。小さく言えば、そういう親子の関係でも、そういうふうになると。でも、それも一番いい形だったんだと思って下さい。

質問が以上ということなので、今日はね、いわゆる、護摩会場でしか真祈りの伝授ができないのは、もっと詳しく説明してくれという質問がきているし、先生からも、もっとわかり易く言えということなので、もう少しわかり易く言います。

「宇宙神ありがとうございます」って祈るじゃないですか。これね、まだ皆さんは、自分一人が祈っていると思っているんですね。これ肉体人間の癖だから、それ仕方ないんですよ。ところが、この護摩の会場に来てね、「宇宙神ありがとうございます」とみんなと一緒に祈る時は、自分では肉体意識で、肉体、自分一人が祈っていると思ってますけども、この会場全体のみんなが一緒に祈っている祈りになるんです。それ逆に言うと、自分が祈ってるのか、みんなが祈っているのかが融合一体化してわからなくなるんですよ。自覚するしないじゃないですよ。この会場ではそうなる。それが、もっとこの会場が拡がってね、この木の祈り、空気の祈り、水の祈り、全部「宇宙神ありがとうございます」なんですけど、みんなもうこの大地の祈りが全部ね、融合一体化するのが、この護摩の場なんです。そこで融合一体化するのが、真祈りなんですよ。わかります?

すべては完璧なる一つって、真(まこと)の神さまだけなんですね。だから「宇宙神ありがとうございます」って祈ると、全部が祈っているのがわかるし、或は実観(感)なんですよ。その実観(感)なしにその体験ができるのは、この護摩の会場なんです。だから、この護摩の会場に来れば、宇宙一体となった、本当の真祈りが体験できるわけです。で、その体験ができるから、真祈りの伝授ができるんです。真祈りとは何か?
宇宙全体すべてが一つになって「宇宙神ありがとうございます」って祈っているというのを実観(感)して解ることが真祈りなんです。その実観(感)がなくてもここにいてたら、それが体験できるんです。体験できると、真祈りの伝授ができて、自然に実観(感)が後からついてくるんです。だから、この会場に来て頂かないと真祈りの伝授ができないんですよ。

 僕が約50年程前ですけども、先生から真祈りの伝授頂きましたけど、その時は本当にね、喘息で呼吸困難で、もう死にかけていたんですね。その死にかけていても、もう止まりそうな心臓のままでですね、先生のところまで行って、自分はとても真祈りができなくて先生の足を引っ張るだけだからって謝ってですね。もう先生のところに来て邪魔しないようにしますって言うたら、そういう謝り方をしに行ったんですね。で、その時に先生が「アハハ」って笑いとばしてね。「河上さんの本心は祈っているやないか」って仰って、それでハッと解るんですけど、解るのは何でかっていうと、いのち、肉体のいのちが消えかかっていたからです。それって死ぬ時に、なんて言うんですか、真祈りの伝授がおこなわれ易いわけですね。それではみんな死ぬ時しか解らない。それはいかんということで、この護摩を先生が始められたわけです。
護摩の時は、ある意味みんな肉体を死に切っているわけです。死に切って神さまと一つになっている。だから、真祈りの伝授を受けれるんです。だから頑張ってね、親の死に目以外は護摩に行くんだ!ぐらいの気迫をもってきて下さい。
本当にいつまでこれを続けれるかわかりませんけども。

そして、おまけがいつまでかということなんでね。本当はここでお話させてもらってちょうど今、1年目なんですね。本当のことを言いますと、先生との約束は3ケ月だったんですよ。だから6月位だったんです。それが8月までってなって、12月までとなって、この丸1年目の今日までだったんですね。今日になって、急にまた先生の方から「後2年」って仰いましたので、後2年あります。後2年のうちにね。この2年間は本当に、今年入れると後3年ですよね。この3年間というのは本当に大変でね、世界的にも色んな事起こります。
起こる時にその状況に心を入れて、不安がらずに、いつも一番良いようになってるんだって、真祈りに努めて下さい。

今までは「真祈りってどうするの?」「私できないわー」っていうことがあったわけですけど、1年前の今日から、呼吸に「宇宙神ありがとうございます」って乗せるだけで真祈りと同じにするからねっていう先生からのおまけだったわけですよね。このおまけを最大限に活用して、ひたすら呼吸に乗せていって下さい。すると、世界の情勢が日本の国の心としてプラスに移りますので、どんどん良いように変わります。だから、心を揺るがさずにね。

ただ、この3年の間には、日本で色々と大震災はどうしても止めれません。それ何で止まらないか?止めていいものは止めてこいということで止めに行ってます。正直に言いますと。ただ止めてはいけないのが、これからくるんですよ。それ何でかと言うと、それがないと世界が納得しないみたいなとこがあります。でもそれは、その場に来ないと分らないのでね。
ただ、日本で何が起こっても、例えば、まぁ極端だけど、それははないですけど、富士山が噴火してもですね、心を揺るがさずに、真祈りをして下さい。それができる真祈り人が頼りです。先生があてにしていらっしゃっているので、よろしくお願いします。
また来月お会いできることを楽しみにしています。

ありがとうございます

音声はこちらから
https://youtu.be/wKN5qYgk_yw

宇宙神ありがとうございます


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山より引用・・・・ by 河上彰延 [Mail] [URL] 2019年02月08日(金) 08時10分
PC

2月3日護摩焚き 河上さんのお話
宇宙神ありがとうございます

2019年2月3日護摩焚き 河上さんのお話

質問@
 身振り・手振りを交えて「宇宙神ありがとうございます」を唱えるやり方について、そのポーズに籠められた意味や何種類かそれぞれのパターンの効果的な使い方などあればお教え下さい。

 皆さん、ありがとうございます
本当にね、今日は凄い護摩になりました。先生が言祝ぐ(ことほぐ)と仰いまして、そして、皆さんの宣言された分だけね、大きな光が受け取れるよということでメッセージがありましたので、最初にお伝えします。

 素直に宣言した人は得ね。「宇宙神ありがとうございます」って素直に宣言する人は得です。理屈をつけていくと、その理屈をつけた分だけ小さくなって、小さくしか受け取れないですね。今の身振り・手振りの事なんですけども、先ず先生がね、僕がお会いして50年以上になりますけども、この30年間でも、先生が本当に望まれたことは、真祈りして頂きたい、自分の自由意志で真祈りして欲しい、それだけなんですね。理屈じゃないんです。その神書も色々ありますけども、それはあくまでも真祈りを助ける為のことであってですね、理屈理論でどうこうという事は一切ないんですよ。本当に例えばね、皆さんの家庭内の事をいくら言葉で説明したってわからないし、小学校の先生が家庭訪問で家庭、お家を訪問されてもね、やはりわからない。実際にそこに住んで、一緒に生活しないとわからないじゃないですか。真祈りも一緒なんですよ。真の神さまと一緒に真祈りする。それしかわからない。どんなに言葉を尽くしたってね、説明の仕様がないの。それは絶対の中心からね、地獄の底まで、どの場所にも同時に意識がいくことが真祈りなんですよ。この肉体がだけとかね、絶対の中心が真の世界だけとか、地獄だけとかって言うから、おかしい。全部が同時に、同時に何処でも一瞬で立ってるのが真祈りなんですよ。それを絶対の中心って言います。でも、それ理屈で言いようがないよね。
 今の身振り・手振りなんですけども、その身振り・手振りもね、先生がその時その時のおまけなんですよ。この形を素直に一心でやっていけたら直ぐに悟らすよっていうことを、それは言えない。おまけの事は言えないね。こうしなさいっていうだけで始まったわけです。それを本当に素直にしていたらね、悟れたんです。でもやっぱりやっていると、「こんなんで大丈夫かなぁ」って思いが沸くしとかね、色んな形あるねんけど、どうするんとかって思い巡らすと、もうダメなんですね。残されていかれたものは、もう既に古くなってダメなのかって言うと、そうではないんですよ。ちゃんと素直に真祈りしていたら、今だったら呼吸に「宇宙神ありがとうございます」って先生が楽に易しくできるように、手振りでもダメだったら呼吸に乗せろっていうことで、されているわけですけど、素直に呼吸に乗せていれば、自然に、その時その時に応じた手振りがしたくなります。それをやればいいんです。ただ「こうしなさい」って人に勧めたらダメね。わかります?人の自由意志は絶対縛れないです。だから、素直にしていて、それを見て、あー私もやりたいわーって自由意志で真似して下さるのはいいけども、決して人に勧めないで下さい。自然にやりたいことが出ます。それは印可書を読みたくなるとか、神書を読みたくなるとか、もう人様々で、どれが良いじゃなくて、その自由自在が本物なんですね。こうでなくちゃならないって言えば、それはもう今までの宗教と一緒で、相手の自由を縛って、本物でなくなるんですよ。相手の自由を縛ったものは、全部偽物だと思って下さい。
ですから、この護摩は凄く大切なんでね、この護摩を維持する為に、護摩の木を買わなくちゃいけないとか色々ありますけども、出せる時は是非出して下さい。でもそれは、強制ではない。自分の自由意志で、この護摩をもっと盛り上げたいと思う方は、どんどん村の方にお金を置いていって下さい。お金の出せない人、当然ありますね。或いは、真祈りが凄くしにくいんだっていう人ね、そういう人は護摩木作りを手伝って下さい。或いは、ステージの除雪を手伝って下さい。それが深い真祈りになるんです。それが先生からのメッセージです。ですから、時間に余裕ある方は此処まで上がって来て、邪魔のならないようにね、自分が出しゃばって邪魔になるから、邪魔にならないように、護摩木作りのお手伝いするなり、除雪するなり、それも来れない人はお金出すなり、もう人それぞれ、みんなやりたいと思う方法をやって、このありがとうございます護摩をね、盛り上げていきたいと思います。
それで、何で護摩が大事かと申しますと、この護摩でしか真祈りの伝授ができないんですよ。本当のことを言いますとね。だから、この護摩に来て頂かないと、真祈りを受け取れないの。だから是非ね、護摩を維持していきたい。みんな護摩に来て下さい。それで、護摩に来れない時は、護摩木を書いて下さい。自分が護摩木を書いていると思うでしょう?違うんですね。護摩木を書く時に自分の縁者が、みんなの願いが結集して書いているんです。それは凄い沢山の縁者の真祈りが全部自分に重なっていって、自分は一回の「宇宙神ありがとうございます」って護摩木を書いているだけですけど、実際は、何十億倍の「宇宙神ありがとうございます」になるんですね。だから是非、護摩木を書いて下さい。その為にも護摩木が要りますから、護摩木を作りに来て下さい。或いは、護摩木を作るね、お金を持ってきて下さい。

そういう人それぞれ、本当にね、自分の内側から真祈りしていたら、自由に湧いてくる。真祈りとは何かって言うと、真(まこと)の神さまの真似事をすることだけです。真(まこと)の神さまの真似事をするっていうのは何か?それは、与え切りに与え尽くすっていうことです。何を与え尽くすか?真の神さまをすべての人の心に与え尽くすだけなんです。そんなん私に出来ないってね、みんな思っちゃって潰しているだけなんですね。でも実際は、みんな出来るんですよ。
 先月、お習字の話で説明しましたけども、例えば、私は小学生の祈り、私は高校生の祈り、私は大学生の祈りなんて言うのが何でダメか。或いは、この人が1級の祈り、この人は4級、この人は1段2段3段とかね。何でそういう段位をつけたり、そういうことをするのがダメなのかって言いますと、現実を掴むということです。書道でいうと、私下手な字なのって掴ますことが段であり、級なんですよ。わかります?私、小学生の祈りって言う時点で小学生の祈りって掴んでいるでしょう?もうそれだけで不自由で、真祈りじゃ無くなるんですよ。だから真祈りができるできないは、神さまが決めること。素直に先生の仰るように、素直に籠め続けるだけなんです。呼吸に、今は呼吸に籠めなさいだから籠めるだけ。でも、昔の手振りがやりたくなったら、素直にやればいいんです。それでちゃんと、ちゃんと、真祈りになるんですよ。それをね、ただ此処に来ずに、或いは護摩木を書かずに、或いは護摩木に協力せずに、真祈り一生懸命ね、お家で一人でしても効果がないんですよ。それは自分一人になる。でも、この護摩の会場に来れば、何億万倍という、みんなの縁者の願いが結集しますから、一人一人の小さなお祈りと思うのが何億倍になるんです。何十憶倍、何百憶倍ってなるんです。だから是非、護摩に来てお祈りして下さい。そして護摩木を書いて下さい。そして、護摩木を維持する為にね、色んな事をお手伝いして下さい。そのお手伝いが、与え尽くす心の神さまのお手伝いとなって、真(まこと)の神さまの働きとなって、真祈りに変わっていくんです。だから、私どうしても真祈りしにくいんだって言う人はね、除雪に来て下さい。護摩木作りに来て下さい。或いは、お金を持って来て下さい。強制ではないですよ。みんなの自由意志でそうしたいと思う事をやって下さい。お願いします。そういう自由自在の心が、すべてに通じるんです。

質問A
 先生の前世といわれるヨハネさんのなされたことについて、お教え頂けますか?真(まこと)の神さまは、何故先生のことを「坊主」と呼ばれるんですか?

 これはもう、奥さんと僕しか知らない懐かしいお話なんですけど。先生が本当に真の神さまに自分のすべてを投げ出しますって、こう宣言されることをね、形でこう、なんて言うんですか、神さまに示されたんですね。その時に坊主にされたんです。その心意気をね、神さまは非常に言祝がれて(ことほがれて)褒められた。言祝ぎ(ことほぎ)です。言祝がれて(ことほがれて)、それから先生のことを「坊主、坊主」と呼ばれるようになりました。
 もう一つは、ヨハネ先生のことです。過去世のことを言うのはルール違反なんですけど、ヨハネ先生は、その当時にできる最大のことをされたわけですね。それは何かって言うと、所謂(いわゆる)水の少ない地域でね、水というのが一番貴重な地域です、そんなところですから、水でお清(浄)めをするということをされた。水の清(浄)め、洗礼のヨハネ、水のヨハネってなったんですね。イエスさまは、まぁ別のやり方をするわけですけど、その水の清(浄)めがね、所謂(いわゆる)密教に伝わっていて、所謂(いわゆる)頂上かん頂っていうことですね。頭に水を垂らすそういう儀式があるんですね。その水というのは神さまのいのちそのものですから、それを使って、神さま、あなたは神さまのいのちと一つだよっていう意味で、その人の頭に水に、頭を水に、場所によっては川でガッと頭を沈めるとかね、色んな事をされました。

質問B
 私達の体は、クリーナーの雑巾の役目ですから、一番苦しい状態が一番で、使命を果たしているということですか?クリーナーになる縁者を代表してマイナスを消すというのは、体に痛みを感じたり、仕事で人が嫌がるような役を引き受けたり、何か責任が回ってきたり、取らされたり、というようなことでしょうか?みんなのマイナスを消すというところがあまり解っていません。もう少し、ご説明をお願い致します。

皆さん、この世に生まれてくる時にその決意をされてきてるんですよ。「何で私だけこんな損な役割をするの?」ですけども、真(まこと)の神さまの働きっていうのは、そういうもんなの。一番、一番下に立って、みんなを支えるというのが、真(まこと)の神さまの働きなんです。だから、表に出ない。表に出ないから、神さまって本当にいるの?とかね、神さまは働いているの?って、こうなるわけですけども。でも例えば、食べ物だけだと、勝手に消化するでしょう?神さまの御命が働かれて。そういうふうに一番目に見えないところ、でも大事なところを神さまは働かれるわけです。そして一番下のしんどい役割、汚れ役をされるわけですね。例えば、地獄で憎まれ役の鬼の立場をとられるわけです。針山ってあるでしょう。針山って何であるの?っていうことですけど、これ本当は、針の山っていうのは光の山なんですよ。何で光の山登ったら、針になって刺さるの?ですけど、人を責める思いが積み重ねてきた人の思いを消す為に、針の形になって、その人の足の裏を突き刺すわけですね。それで消すわけですよ。でも、地獄で消すよりも、地獄で針山に登ると、ドンと足の裏に針が刺さってですね、血が噴いて、非常に痛いけども、降りようと思ったら後ろから鬼さんがこん棒で追いかけてくるっていうことで、頂上まで登ったら、もうしんどくて倒れる。そしたら、すーっと変わって、また元気な体になって、下から登らされる繰り返しがあるわけですね。そのことを考えたら、この世での苦しい・つらいことなんて一瞬なんですよ。その一瞬で、本当に何十億、何百億という地獄の縁者を救えるわけですね。それがわかってやれば、救える。でも、「この痛み嫌いだ」「この病気嫌だ」って文句を言えば、それは救いにならずに、マイナスを積み重ねることになるんです。だから、神さまに使って頂いて「ありがとうございます」ってやれば、本来の使命を果たせる、自分の天命が果たせるわけですね。だから、先生がこの世は一生七難八苦の連続でいいんだよ。お金の無い、ただ働きが一番いいんだよって、よく仰ったわけですけど、本当にその通りなんです。でもそれに徹したら、決してそれは続かないし、もっと楽になるんです。それが解ります。逃げるから余計にしんどい。それだけ。ひたすら、もう神さまを信じてね、全部投げ出して、何事にも勇気をもって焦らずにね、悠々とあたって下さい。それで一番損な役割になって、例えば会社を首になることになっても、あぁ1番良かったんだっていうのが本当なんですよ。それで、本当に何億分の一で消えたんですね。それが解って、なったらいいんです。でも「私、首になった。こん畜生」って言うと、もうそれはマイナス積んでいるから意味ないよね。
だから同じ運命でも、プラスにするかマイナスにするかは、そこだけなんです。それが解れば、もうどんなに大変になっても、直ぐに変わるんですね。先生がもうこれからお祈り一本だけにするってなった時にね、管理人の仕事も無くなって、本当に何も無くなったんですね。そしたら、先生と奥さんと家族だけが本当に一つの布団に足を突っこんで寝るような状態が暫く続くわけですけども、そのうちに多くの人がね、「先生、どうぞこうして下さい」ってみんなするわけですよ。それ神さまがその人を使ってしてくるんですね。その時に、先生は「見本を見せる」って僕に見せてくれたわけですけども、何があっても心を揺るがすな、神さまへの絶対の信は潰すなっていうことなんです。それさえあれば、文句はない。何でこうなるの?もないし、ただただありがたいだけだなぁってなりますから。是非もう神さまが使って頂くんだから、一生七難八苦でもいいんだって覚悟を決めてね、「ありがとうございます」「宇宙神ありがとうございます」って呼吸に籠めて下さい。ちゃんとなりますから。
ありがとうございます

質問C
 印可書をコピーではなく、書き写して、光を入れたい場所に置いたのですが、さわりはありませんか?

勿論ありません。印可書は、真(まこと)の神さまと先生との約束ごとで降ろされたものなんです。印可書は何かって言うと、真(まこと)の本心の自分に自覚に戻すよっていう約束ごとのものです。それを絶対の自分の自由意志で選ばなくちゃいけないんでね。一番進めて欲しい人には反対させ、わざとですよ。だから、みんな汚れ役するんですね。一番嫌がられている僕が勧めて、それでも選び取るものだけが本物だ、みたいな感じなんですね。それで始まったわけですけど、今は完成された印可書になっていますので、誰もが素直に読むだけで、そして素直に書き写すだけで、光そのものになります。だから大丈夫です。

質問D
 霊魂魄について教えて頂きたく思います。

 霊魂魄というのはですね、何かっていうことですけど、簡単に言うと、絶対の中心から一霊四魂って、こう四つに分かれるわけです。それが霊。四霊に分かれて霊。それが八個に分かれて魂。それが十六個に分かれて魄。十六個から三十二個まで一気にいくんですけど、そういう形で真(まこと)の神さまの絶対の中心から左旋回で順番に拡がっていく様を、この地上の感覚だと拡がってくる。実際は、どんどん中心へ小さく限定して表現するわけですけども、その形です。だから今説明したから時間軸があるわけですよ。中心側が四つになって、それが八個になって、それが十六個になって、三十二個になってって、何か順番になるなぁって思うでしょう。思うともう間違いなんです。それが一瞬で同時にすべて完璧なんです。それが一瞬一瞬新たに新たに、なんです。でもその一瞬新たに新たに完結しているのに、時間軸使うというのが現実を掴むということなんです。掴んじゃうと、次のが受けないから、おかしくなるんですけど、ともかく一瞬一瞬、三十二層の魄、肉体ですね、肉体のすがたまで一瞬一瞬現れ続けてると思って下さい。だから、一瞬一瞬新たに受け続けていると、中々老けない。年をとらない。年をとる人は過去を掴んでいるから。

質問E
勉強会をさせてもらっています。先月の録音で、主催者の人は責任者として神書が読めて、勉強もできるというような話があったのですが、あまり勉強してなかったんですが、もっと内容の勉強をこれからでもすればいいですか?

これはね、理屈で掴もうとしたら、神書でもダメなんですよ。神書が読めない人の一番の欠点は、理屈で解ろうとする。解る解からないじゃないんですね。素直に読んでいると、すっと、印可書もそうなんですけど、素直に読んでいると絶対の中心へすっと、神書も印可書も神書もそうなんです。神さまと先生との約束事で降ろされたものですから、素直に読んでいると、すっと絶対の中心へ、所謂(いわゆる)本来の自分に引き戻してもらえるんです。だから、それを、「いや私なんか」ってみんな限定するのね。「私は解からへんから」とか「私は一行読んでても嫌になるから」とかね、限定で崩すわけですけど、あまりややこしく考えずにね、呼吸に「宇宙神ありがとうございます」って乗せながら神書を読む、印可書を読む、或いは書き写すってしてればいいです。すると、自然にすっと変わります。そういうものなんですよ。現実を掴まないというのは、そういう事なんです。
現実を掴むというのは、自分の結果「解ってない、解れへんねん」ってこうね。「解れへんねん」というのは、現実を掴んでいる。わかる?「解ってないねん。理解できへん。私アホやねん」とか言うたら、もうアホやねんという現実掴んで、本当にアホになる。「アホ」とか「私、頭悪いから」とか関係ない。みんな光ですから、みんな神さまと同じ力を持っているの。それをどう開くかだけ。素直に受けるかだけ。だから、印可書を読むのでも、誰が読まなくちゃいけないじゃなくて、自然に読んだらいいし、読めない時はあなたちょっと代わりに読んでよでいいしね。自由自在にやったらいいし、無理に読むこともないの。ただただ「宇宙神ありがとうございます」でいきますでもいいしね。その辺は自在、自在にやって下さい。お願いします。

他に質問が無ければ、河上さんのお話お願いします。

 あの、ちょっとこちらに質問がきてましてね。「河上先生って呼んでいいですか?」って言うんですね。それ違いますから。先生は、松下先生はお一人で充分です。「じゃあ、河上さまって呼ばしてもらっていいですか?」って言うんですね。河上さまとかいうのはね、メールとかでね、相手に送る時に、さま付けにしますけども、普段はそんなん「さま」と呼ぶ必要はない。みんな中川さん、谷口さんとか、山本さんとか、田中さんとか河上さんとか、みんな「さん」付けでいいじゃないですか。先生が仰ってるでしょう。みんな光や。みんな光だから、みんな「SUN(サン)」太陽でいいんです。だから河上さんなんです。わかる?中川さんなの、山本さんなの、石川さんの。もうそれだけ。だから、呼ぶ時はみんな、さん付けで呼び合いましょうよ。そしたら、みんな太陽だ、みんな光だって言ってるんだから。
 
 そういうことでね、本当にどんどん寒くなってきたので、話を早めに切り上げますけども。みんな光なんですよ。だからもう、自分で限定しているだけ。「私は光じゃないんだ」ってね。それを止めたらいいの。それを止める為に印可書があるし、神書があり「宇宙神ありがとうございます」って呼吸に籠めることがあるんですから、自分のやり易い事を素直にやって下さい。先生が「みんな連れていく」って仰っているので、それを信じて下さい。もう神さまを信じ切れなくても、先生を信じて下さい。お願いします。僕が言っているんじゃない。だから、素直に「宇宙神ありがとうございます」って呼吸に籠めながら、好きな事をやって下さい。そうすれば、ちゃんとすっと先生が引き上げてくれますので。悟りというのはね、自分がのぼるんじゃないの。全部神さまが引き上げて下さる。でも今回は、神さまじゃなくて、先生が引き上げてくれるからね。絶対大丈夫ですから、素直に乗せていって下さい。また来月お会いできることを楽しみにしています。
 
 お祈りする時にね、ちょっと手前で印可書を読むなり、神書を読むなり、或いは文章残っていると思うんですけど、護摩の前に、まーさんが宣言して読まれた文章があるじゃないですか、あれを読んでからお祈り、或いはお祈りの会をするようにして下さい。すると、どっと場が変わりますので、お願い致します。
また来月お会いできることを楽しみにしています。
ありがとうございます


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神書の奉読は、清めの力・・・・ by 河上彰延 [URL] 2019年02月05日(火) 09時14分
PC

 神書の奉読は、虚栄心に代表される思いを清め去る力があります。もちろん、真祈りを伝授する為の印可書も同じです。
 その力があまりにも凄まじいために、神書の奉読は、ご自分の思いやご自分の縁者の思いがその読んでいる最中に湧き上がってきて、読みにくい、あるいは、読めない・・という事態が発生することがしばしばあるんです。

 そんな時は、無理に読むのがよいのですが、どうしても読めない時は、ゆっくりと宇宙神ありがとうございますと真祈りされたらよいのです。

 真祈りとは、捧げあい尽くしあいの中にこそ、相乗効果を発揮するものでありますので、一人自分と他人をわけ隔てて小さい意識でたった一人こもって祈るよりは、ありがとうございます護摩の場に参加して祈ることが、大きな真祈りの効果を発揮するのです。

 真祈りの伝授が、ありがとうございます護摩の場でしか伝授できないと先生が申されたのは、そういう意味もあったのです。

 ご質問は、護摩を各地というか、それぞれの思い描いた場所で、執り行っても、祈っていれば、ありとうございます護摩と同じ効果があるか?・・・・ということでありますが、それは、ありません。

 逆に、危険でもあります。なぜか?と申しますと、すでに、執り行われているありがとうございます護摩を割ってつまり、わけ隔てる心でおこなっているからです。

 すべては完璧なる一つとして、捧げあい尽くしあいの実践的象徴として執り行われているありがとうございます護摩を無意識で否定することになるからです。

 筆者は、以前、ありがとうございます護摩の最中に高野山の奥の某所で、あるいは、伊勢神宮の奥の山中で、小さい護摩を行いましたが、それは、先生の指示があって、執り行ったものでありまして、決して、ありがとうございます護摩を割ってしたものではありません。

 しかし、なにをするにしても、自由意志でありますから、どうしようもないのです。

 そして、そのことを行った責任は、参加された方々おひとりおひとりが、重きものとして、背負うことになるのです。

 なぜなら、ありがとうございます護摩は、地上よりあちらの世界で有名であり、いつもいつもあたらしい縁者が集うのです。そのあたらしき方々が勘違いしてわけ隔てる思いで執り行われている護摩に参加して帰ることができずに、参加された皆さんにくっついたままになっているからです。それが、どんな結果になるかは、言葉にあらわすことすら恐ろしいことなのです。

 ありがとうございます護摩の時は、参加される皆さまの心境にかかわらず、その思いの半分を主催者が背負って神さまにお願い申し上げて、消し去りますが、わけ隔てる意識で行った護摩は、わけ隔てた時点で、絶対の中心という真(まこと)の神さまと響きがあわないから消し去る力がないのです。

 そこで、お願いでありますが、わけ隔てる護摩に参加された方々は、印可書を神書をどちらでも読めるほうでよいですので、ひたすらに、がんばって奉読されることをおすすめします。

 宇宙神ありがとうございます


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