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1月護摩 by 河上彰延 [Mail] 2025年01月07日(火) 22時42分
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令和7年1月護摩焚き河上さんのお話

 宇宙神ありがとうございます

 令和7年1月5日護摩焚きで、皆さんの質問に河上さんが答えてくださいました。ありがとうございます

司会者
 皆さまありがとうございます それでは、これから河上さんへの質問をお預かりしておりますので読み上げさせていただきます。3名の方から5つほどいただいてます。

質問1
 いつもありがとうございます 勉強会で、ずるく逃げた人は地獄か犬猫になるかというお話でしたのが、今、現在の犬猫に生まれているのは、全てその意味に当てはまるでしょうか?松下先生の飼っていらした、白(シロ)ミイちゃんは悟っていると先生が話されていました。白ミイちゃんのような例外もあるのですか?お願いします。

河上さん
 ありがとうございます 新年あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

 ずるく逃げた、要するにずるく逃げたという質問の意味は、無責任にとか、自分の都合を優先してとかいう意味だと思います。その無責任、要するに責任を逃げても、自分の都合優先しても、思い巡らす心という、あの業想念っていうんですけども、いろいろと思いが巡ってくるんですよ。なぜ巡るかというと、逃げ回ったり、自分の都合を優先すると嘘をつかざるを得なくなる。あるいは、人のせいにしないといてられなくなる。あるいは言い訳をしないといれなくなる。そのどれもですね、言い訳しても嘘ついても人のせいにしたって、それのためにまた言い訳して、嘘をついてね、責任逃れしてっていうことでね。それの繰り返しになるのがどんどん膨らんでいくんですよ。

 それって、どっちにしてもマイナスの言葉じゃないですか。「あいつさぼってる。」とか、「あいつのせいで仕事できなかった。」「あいつのせいでお祈りできなかった。」とかね。「お祈りしようと思ってたのに突然用事言いつけよったからお祈りできなかった。」とか言うじゃないですか。そしたら、またその次にお祈りできなかったことを言い訳するのに、またいろんなことを言い出すわけですね。

 どんどんマイナスを増やしていかざるを得なくなるんです。これが溜まって、家族のレベル、地域のレベル、国のレベルで言い訳けするようになるとお互いに相手を責め合って戦争になるんですね。そういう意味だと思うんですけども。それをすると、犬猫に落ちるか落ちないかということですね。その犬猫に落ちるんじゃなくて、それをして、いわゆる死んだときにですね。まず基本的には、この世の基本がお金に今なってますから「あなたはそのお金をどう使いましたか?」っていうふうに聞かれるわけですよ。そのときに素直に「美味しいもん食べたかったから、自分のために美味しいものを食べるために使いました。」とかね「ごめんなさい。」ですよ。聖書でいうとリンゴですよね。「いろいろ言われて、自分もどうしてもリンゴ食べたかったから食べてしまいました。ごめんなさい。」だったらいいんですよ。でも「誰々のせいで食べちゃった。」言い訳して食べるともう言い訳すると駄目なんですね。責任を逃れてるからね。それを逃れると、行き先が示されるわけですよ。こういうそういうマイナス積み重ねた人は一番最後は、いわゆる極寒地獄といいましてですね。パリパリに凍り付いてパーンとはじけて、また生き返ってパリパリに凍りついてパーンとはじけてという極寒地獄に行くんですけど、そういうマイナス積み重ねた方々はあっちに行きますか?でも、それがどうしても嫌だと言うんだったら、犬猫になることによって、楽できますよ、となるわけですね。それで選ばせてもらえるということです。

 一旦選ぶと、今度、犬猫に落ちたら2度と人間には戻って来れないんです。それはもう反省する心がないということですね。ただただ逃げるだけやからということで落ちるわけです。それで、皆さん犬猫に落ちたらまた地上に犬猫で生まれて変わってくると大きく勘違いしていますけども。この例えば肉体を持って生まれ変わる人も宝くじに当たる確率で生まれ変わってくるわけです。それくらいこの肉体として生まれ変わるというのは、すごいなんていうか救いなんですよね。せっかくその救いで生まれてるんですけど、肉体を持った以上は自分を守ろうとする自己保存本能と言うんですけども自分さえよければ、自分の都合を優先する心を持つんですよ、肉体を持つときは同時にね。

 だから、聖書の最初に原罪として、肉体を持ったらそういう人のせいにする癖があるよということは教えられてるわけですけども。それでもその肉体持って生まれてくる確率が低いくらい、肉体を持ってきたら逆に言うと、その真祈りにまで進んでいけるチャンスもあるということです。本人の努力とか真剣さによりますけども。犬猫の場合は、ほとんどはこの地上に生まれ変わってきません。あちらの世界でお腹すかして彷徨うだけです。ただ寒いこと、寒いですけど極寒地獄はないし、暑いけど火に焼かれることはないという、それだけです。ごく一部のニャンコさんと犬さんとがですね、この地上に生まれてきます。

 たまたま白ミイちゃんは、その先生に拾われたから、先生が引き上げてくださったわけです。彼女はそのために一生懸命ね、イタチを追いかけ回したり、イタチを追いかけましてイタチが罠にはまるようにしたりね。たくさんその先生のために働いてくれたんで先生が引き上げてくれたから、そういうことがあるんですけど、それでも人間には戻れないです。そういう厳しさです。だから、昔ね、檻にイタチが入ってるんですよ。白ミイちゃんがね、寄ってきてね、「阿呆やなお前ここ入ってしもて」って言ってボロクソにからかってるの。中でイタチさんが怒り狂ってるんだけどね。そういう感じでよく白ミイちゃんは働いてくれました。でも人間に戻れることはないんです。そういう厳しさです。なぜかと言うたら、スタートに責任を逃れて楽したいって言ったからです。

司会者
 わかりました。ありがとうございます 次の方に参ります。この方は3つ質問をいただいてお預かりしております。

質問2
 本年もよろしくお願いいたします。先生のお話の入ったハードディスクを毎日聞いています。毎日聞いているため、机の上に出しっぱなしになり、手で触ってしまいます。このような状態で大丈夫でしょうか?また、パソコンのDドライブが空いているので、その中に入れてしまっても問題ないでしょうか?最後に先生のお話を聞くときの心構えを教えてください。

河上さん
 これはDドライブに入れていただいてもどんどんハードディスクに移しても、あるいは光ディスクですか今の、ブルーディスクに入れていただいても全然問題ないです。

 そして先生のお話を聞くときの一番の心構えは、自分の都合を優先しないということです。今まで先生のお話を聞いて、ようわからんかったとか、受け取り損ねた人っていうのは、ほとんど自分の都合を優先してるんですよ。 だから例えば、「どうしても息子を東大に入れたい。」とかね、「どうしてもあの会社に就職させたい。」とかあるじゃないですか、それぞれ都合がね。それを優先して聞いてると、わからなくなるということです。だから自分の都合は横に置いといて素直に受け入れていけば全然問題ないんですよね。

 だからなぜ自分の都合を優先したら駄目かというと、自分の都合を優先するとさっき言ったように言い訳が始まるわけ。言い訳始まると嘘を固めなくちゃいけない、あるいは無責任に固めなくちゃいけない。するとそれをその何ていうんですか、いわゆる不完全なものをやってるわけですから、どこを押さえたって漏れるのよ。ボロが出るというの。またそれを防ぎたい。もう言い訳の言い訳の言い訳になっていって結局駄目になるんですね。

 だから、いつも言うように、一生認められなくていいんだと一生虐げられてもいいんだと、一生本当に収入も少なくてね、食うか食わずでもいいんだって覚悟を決めてしまうと、言い訳も無責任にもならずに、もう覚悟を決めて何でもこなしていくんで一気に変わるんですけど。もう逃げ回ってるうちは、余計大変になるというそういうことです。

司会者
 はい、ありがとうございます 質問の方がちょっと聞いてたんですけどこれ。ハードディスクを素手で触っていいのか?って。

河上さん
 素手ね。全然問題ないです。そういう意味でね、形の上で、いわゆる宗教であれば、教祖の何かだからどうこうとか言いますけど、そういう形じゃないんですよね。 ただ、神社仏閣などで御神体とかあるじゃないですか。それは御神体そのものじゃなくて、そこの場所がすごく正常に保たなあかんわけです。だから、そういう意味で神社仏閣だったら御神体とか、本殿とかには、身を潔斎して入らなくちゃいけないとかいうのはありますけども。それでも形でないということを示すためですね。伊勢神宮の場合は、ご遷宮するじゃないですか。本当に形と場所が大事だったら移せないんですよ。それを移すというのは、それくらい形じゃなくて心だということです。ありがとうございます

質問3
 呼吸法について質問します。呼吸法をしていると首が痛くなるような気がします。腹(はら)が使えておらず、首に力が入っているのでしょうか?それとも気のせいでしょうか?改善方法があったらよろしくお願いします。

河上さん
 はい。これ1日、2日のお話でちょっと言っておいたんですけども。呼吸法の基本は、お腹で物を考える、お腹で物を考えるというより、お腹でお祈りするということなんですね。でも、お腹でお祈りするというと、「じゃあ、お腹に力を入れなくちゃ。」とか、要するに一部分に力を入れようとするんですよ、無意識にね、自分の慣れた方法でね。その方は呼吸ということで、呼吸でお腹も使う時に、「ゆっくり吐くかなくちゃ。」とかいろいろと考えると、首に力が籠もったと思うんです。

 一大循環の相象(すがた)をこの肉体に表していますから血液の巡りという形で。その血液の巡りという形で表すと心臓から太い血管がいて、だんだん細い血管になって、また細い血管、毛細血管から心臓に太い血管で戻るわけですけども。その毛細血管の一番遠いところが足の指なんですね。だから、まず足の指を動かすということ、歩く時は土をつかむように歩く。立っている時も土を掴むように、つま先立ちに気づいた時は、しょっちゅうしなくていいですよ。楽にできない時は、やって、ハっと気付いた時に立つでいいですけども。その後、足の指を動かすということが大事なんです。それが苦手だったら草履を履いて散歩されたらいいです。草履を履くと、嫌でも足の指を動かすからね。そういうことをしますと、なぜ足の指を動かすのが大事かというと。足の指を動かすと、全身の筋肉をまんべんなく使えるんです。全身の筋肉をまんべんなく使えると、肩こりも何もないんですよ。よく肩凝りになりましたとか、腕を使いすぎて痛くなったとか言うじゃないですか。それは一部分ばっかりを使ったからなんですね。それだけです。だから、足の指を使って、手はグーパーしてくださいとか色々言ってますけど。そういうできるだけ遠いところ。

 だから手振りも必要なんです。手振りもですね、先生から最初にお聞きしてる手振りは、指先を伸ばして、まっすぐこう(手のひらが向かい合うように)上げるんです。間違ってもこう(手のひらが前を向く)ならないように。なぜかというと、こう(手のひらが前に向く)なると指先に力が、気がこもらない。これ意味ないの。指先に通したいからまっすぐピンと伸ばしてください。それをもっと意識したかったら、一歩、伸ばす時(腕を上方に伸ばす時)に(片足を)一歩前に出す。それで、クルッと回して(内側に向いてる手のひらを外側に向ける)(片足を)一歩戻しながら(腕を)下げる、でもいいです。ただ、(片足を)一歩前というと場所が要るようになってくるんでね。そこは皆さん、場所といろんなことを考えてやってください。そうすると、先生の手振りも同じ効果を持ちます。その手振りの時になんで(片足を)一歩出すかといったら、今言ったように、足の指を使わせるため。はい。あとは・・・。

司会者
 つま先立ち。

河上さん
 そうそう。つま先立ちでね。あとは工夫して、それぞれ自分のやりやすいようにやってもらったらいいです。この形でなくちゃ駄目だというのは、ないです。ただ基本的には、こう前出す(手のひらが前に向くように腕を上げる)と指先の力が抜けるのね。これを伸ばして、なかなかここから上に上がらないんですよ。この指先をピンとしてるとね、だからこうなってるときは注意してください。まっすぐ(手のひらが向かい合うように)指先にピンと力を入れてスッと伸ばす。そうです。その時に足の指を使って一歩出して、足指を使って戻すみたいにしていただくと本当に手振りの効果も出るし、お祈りも深くなります。だから、4回ぐらい前の護摩で言いましたけども、伸ばす時にフワっとつま先立ちしろっていうのはそういう意味です。ありがとうございます

質問4
 呼吸法は仕事に入ると忘れてしまいます。仕事の時は特に大切だと思っていますが、気が付くと全くやらずに終わっています。何か良い解決方法はありますか?

河上さん
 はい。この呼吸法はね、陰陽五部あるいは七部三部の呼吸とか、九一の呼吸とかいろいろあるんですけども、無理に名前を付けたらですね。だけど、無理に名前をつけないし説明しないのは、その時の仕事の状況によって自分に合った呼吸法になるんですよ。だから、基本はゆっくりと吐くということだけさえ、ある程度意識していただいたら。

 例えばマラソンのときやったら2回吐いて2回吸うじゃないですか。その時にゆっくり吐くとか言ってられないでしょう?でも、2回吐いて2回吸うのは一つの、何て言うんですか、呼吸法なんです。だから、その時の自分の体を使ってる実情に合わせて、自在に使えるようになると本物なんですね。だから一番の基本は、じっとしてる時は、できるだけゆっくりと長く吐く、吸うのは早く吸う。ゆっくり吸うでもいいですけど、吐くのを長く吐くようにしていただくだけで大丈夫です。例えば本を速読するとか、要するにパーッと集中してやる時は、息をゆっくり吐きながらやるとすごく集中できて長い間できます。

 「私、勉強苦手なの。」あるいは、「ずっと集中するのが苦手なの。」という人はね、呼吸が上がってるの。仕事でも集中してバーとやれている人のやり方をじっと見てたら、自然にその人は呼吸をゆっくり吐いてます。吸い方は、もうまず自分に合わせて好きにしていいですから、どうしても集中したい時は、子供に勉強させる時でもね、ゆっくり吐きながら考えてごらんと言って教えると、算数でも考えるようになります。勉強できない子というのは、もう息が上がってるの最初からハアハアしてるの。蓄膿症ですか、鼻が詰まった子は勉強があまりできない子が多いんですけど、それはなぜかというと、鼻が詰まってるんでハアハアってしてるのね。それで息が上がってる状態なんで駄目なの。

 息が上がると何が起こるかというと、足の指とかね、手の指の力がフッと抜けるんすよ。皆さん、顔をちょっと上げてハアハアとしたらわかる。足の指と手の指の力が本当に抜けるでしょう?すると血が巡らないから、一大循環がまた滞るんですね。いろんな意味で悪循環が始まるんで、それで呼吸法をちょっと言いました。

 ただ、呼吸法だけにこだわるとね、今度は念力が強くなるんで。自分の思い通りになることが増えてくるんですよ。これはいいということで念力だけでいってしまうと。例えば野球選手で言うと、短い期間しか何年ぐらいしか活躍できないという野球選手というのは、念力に入ってるんです。本当に僕らの年齢だと金田投手とかね、古いですけど。長嶋と王選手とか。今だったら大谷選手でしょうか。長い期間、例えば大谷選手だったらシーズン通して長い期間活躍できるじゃないですか。好不調がないでしょう。そういう人は念力になってるんではなくて呼吸法が体得できてるわけです。

 それは大谷選手のバッターボックスに立ってる時の呼吸をじっと見てるとね、理想の呼吸になってます。それは見事なもの。だから、呼吸が理想的になってるんで、体が本当に柔軟に手首が返らずにですね、どの高さの、ストライクだけじゃなくてボールでもホームランにできるのは、体が柔軟で力んでないから手首を返さずにポンと打ち返せるんですね。すると少々詰まってても、ホームランになるということができるんですけど。例えば野球で言うと、バットスピードがすごく速く回せるというのは、体が力んでたらできないんです。

 いつも言うように、奥歯を噛みしめないでくださいっていうのは、あの大谷選手でも王選手でもそうだったんですけど、本当に調子の良い時というのは奥歯を噛みしめてないのね。大谷選手は、もう最初から奥歯を噛みしめないという方法で練習してるから、奥歯を噛みしめずに、噛みしめないから全身が力まなくて、いい成績が出せるんです。それは普段のお仕事でもどんな時でもね、奥歯を噛みしめないようしてください。毎日の毎日のお通じの時も奥歯を噛みしめないように。奥歯を噛みしめて、長い間年をとっていくと何が起こるかというと痔になります。痔になるのが嫌な人は、奥歯を噛みしめずに毎日のお通じをしてください。

 そのために、お正月にちょっと言ったんですけども、便器の上に座った状態でお辞儀するようなことを、奥歯を噛みしめずにね、していただくと奥歯を噛みしめずにスッと出るようになります。それは腸全体を動かすことができるんです。だから日本人はお辞儀をするから、お祈りがしやすいんです。お辞儀するというのは腸全体を本当に動かすんですね。奥歯を噛みしめて力むというのは、直腸だけを動くんですよ。すると、力が巡らずに先端に溜まって破裂する。それが痔です。はい、ありがとうございます

質問5
 いつもありがとうございます 今年の河上さんのお話を聞かせていただきました。お話の中に神書を目次だけでも読むと良いので読んでくださいとあり、早速手に取り本を開きました。目次を見て全部読みたくなりました。しっかり全部何回も読ませていただこうと決心いたしました。そこで、目のことについてお聞きしたいのですが、治らない病気はないとのことでしたのですが、眼科の先生は悪くなるのをなるべく先に延ばすだけと言われました。もし治せる方法があるのでしたら、ぜひ教えていただきたいです。よろしくお願い申し上げます。

河上さん
 はい。これは、皮膚とか内臓とかというのは再生が効くんですよ。網膜は再生するんですけど、しにくいです。何でかというと、紫外線に常にさらされてるから。紫外線と強い光にさらされると再生する以上に傷んでいくんですよ。健康な人の目でもですね、ずーっと紫外線にさらされていくともう再生が追いつかない。そういう意味で眼科の先生は、もう進行止めるのに精一杯だっておっしゃるのはその通りなんですよ。

 だから、僕はそれ知ってるんで車を運転する時はスキーのゴーグルをつけるんですけども、横からの紫外線が怖い。焼いたら最後ちょっと戻らないんでね、そういう意味です。だから、テレビ見る時でも、お年召されてきた方はサングラスしてみてください。はい、今のテレビはLEDですので、いわゆるブルーライトをカットする眼鏡を今、通販でも売ってますからね。ここで特別の値段という時に、ポチっと押して買ってください。はい、ありがとうございます

司会者
 ありがとうございます 以上お預かりした方のご質問は終わりました。会場で、ご質問のある方いらっしゃいましたら、どうぞこちらまでおいでください。(会場からの質問者ありました。)

質問6
 1月1日の話の中で手段は買えるが、目的は買えないと話されました。手段ですね。手段は建物や工場を築き、目的は現実をより良く変え、全てのものを幸せ、平和に導くことと捉えていいのでしょうか?手段を得るためにお金が必要となり、そこで止まってしまい、目的を怠ると順流が発生しないということですね。よろしくお願いします。

河上さん
 はい、それ現実掴み過ぎなんです。まずそこだけです。だから、本当に必要なものは、例えばこの村、ここへ移転する時ですね。本当にお金無かったんですよ。全くお金なくてそれでここに移転するというつもりもなかった。ただ、現地で地主さんが、ある事件から怒っちゃって出て行ってくれと先生は急な話だから、せめて昌代ちゃんが高校卒業するまでいさしてくれ、その後必ず出ますからと言っても駄目だった。「今すぐ出て行け。」とこうなりましてね。お金も何もない中で、大騒ぎだったんです。本当にお金を集めるの苦労しましたし、大変な思いをしてここへ移ってきたんです。その時に、全くお金ないのに、もうどう考えても不可能だけど、神さまの目的としては必要だから、本当にもうあの必要なだけしか集まらないのね。余裕を持って、例えば1億集まってよし、この1億で順番に段取りよくしようじゃなくて、全くいるだけ集まってやって、もうこの先お金ないしどうするんっていうみたいな事にちゃんと集まっていくわけですよ。それは先生が完全に現実無視されて真祈りされてるからそういうふうにうまく回るんですね。

 だから、建物を建てる、建ててどうこうだから何があるじゃなくて、必要に応じて必要なものが集まって必要なように動くんですよ。まずそこなんです。そのためには何がいるかって言うたら、真祈りなんです。真祈りというのは何かというと、自分の都合は横に置いといてひたすら神さま御心を祈ることです。その神さまの御心を「印可書」という形で集約していただきましたので、その「印可書」を読んでるとそれに一つなるんですね。

 例えば、役者さんがですね、いろんな配役もらうじゃないですか。いわゆるセリフというか、脚本をもらうでしょ。役者さんはまず何するかというと、その脚本をひたすら読み込むんですよ。その脚本に書かれてる自分の配役、主人公とかね、その前の人の配役に溶け込むの。ひたすら役者さんは覚え。役者さんでセリフを覚えようなんてする人はほとんどいないんですよ。本当のいい役者はね。ひたすら読む、読み込んでもう勝手にセリフも覚えてるしもちろん相手のセリフも覚えてる状態になって、そのシナリオと物語と一体化する。それでいい演技ができるんですけども、それの神さま版が「印可書」だと思ってください。「印可書」をひたすら奉読してると「印可書」と一体化するわけです。それは印可書の中には真(まこと)の神さまだけしか書いていないので、真(まこと)の神さまと一体化するんですけども、一体化したらそれを悟りと言います。

 それで、なぜ真(まこと)の神さまと一体化するのが簡単なのかというと、それは本来自分が真(まこと)の神さまと一体化してるからです。ただ、この地上に生まれてくる時に、お互い違う肉体という形をとって、いろんな演技というか、楽しみをするんで肉体を持った時点で全部バラバラじゃないですか。だから、本来一つの自分というのを忘れるわけです。それをもう一度思い出すために「印可書」を奉読していただくんですけども、それくらい一体化したら、全ては如意自在って言いまして、必要だったら助ける人も出てくるし。

 ここ村移転する時そうだった。本当にもうお金ないし、「お前集めてこい」ってこればっかりや。「もう次無いなんとかせい。」こればっかりでね。本当に誰にどう頼むんみたいな中の繰り返しで、必死でお金を集めてここが出来ました。それぐらい大変だったんです。だけど、必要だったらこういうふうに綺麗に仕上がるわけですね。だからまず、真祈りから始めてください。ありがとうございます

司会者
 (質問のある方)他にいらっしゃいませんでしょうか?それでは、お話の方をお願いいたします。

河上さん
 ありがとうございます 今年もよろしくお願いいたします。

 今年はですね、蛇の年、巳年といいまして、蛇の特徴は何かというと脱皮していくんですよね。脱皮というのは、いわゆる一大循環の相象(すがた)の中で、一瞬一瞬新たというところなんですよ。一瞬一瞬新たっていうのは、この地上で現すと、巳さんの脱皮の姿なんですね。巳さんは自分の殻を掴まない。掴まないから古い殻を脱ぎ捨てて新しい自分を作れるわけです。ところがこの地上で迷ってる人と言うたら怒られるけど、この地上で現実を掴んでる人は、現実という殻を掴んでるから、その脱皮できないわけですよ。

 だからほとんどの人は「私どんくさいからあかんねん。」って、「私勉強苦手やからあかんねん。」いろいろありますね。「私生まれついて字下手やか駄目なんだ。」とかね。あの、勝手に自分の殻作るわけ、現実を掴んでね。例えば、僕の場合字が下手ですけど、字が下手という自分の現実を掴んで、どうせ下手だから練習しても駄目だって無意識に思ってるわけね。駄目だと思うといくら練習しても、それは無駄なんですよ。まずそこなんですね。

 殻を掴まずに、みんな神さまとして無限力があり、全知全能の力があるんだということを信じていただいて、いろんな形の納得のいく形を出せるでしょう。体の大きい人とか小さい人とかあるじゃないですか。その形に応じたとこの、なんていうんですか苦手じゃなくて、自分の興味のある部分で得意なところが出てくるわけですね。

 この世ではその得意なところを一つだけ伸ばせれたらいいんです。だけど、そういうふうに喋るとじゃあその得意な一つだけに一生懸命やったらいいんだなってまた勘違いするからちゃんと説明します。

 得意なとこ一つだけ伸ばせばいいんですけども、自分の興味あることは全てする必要があるんですよ。自分の興味のあることを全部やっていく中で、得意なところが見えていけるし伸びていくんです。それで、その自分の興味あることを全てやる時に、何が大事かというと殻を掴まないなんです。殻を掴まないというのは、別の言い方で言うと結果を掴まないです。

 だから、私一生懸命、例えば、ダンススクールに通うとするじゃないか。自分ダンスしたいからダンススクールに通って、今流行っていますよね。ダンススクール通うんだけど上手くならないと。ならないという結果を掴まずに楽しんだらいいということをわかってください。僕は歌が下手ですけど、カラオケが大好きなんで下手でも歌うんだ。楽しんだらいいんだっていうそこが大事なんですよ。それを上手く歌わなくちゃいけないとか、上手く歌えるのはプロだからできるんで、素人ができなくていいんだから、楽しんだらいいんだからという感じでいろんなことを楽しんでください。その中で本当にできるものができます。ただただそれだけです。

 だから、何て言うんですか、「自分は苦手だから」とかそうですね。例えば、村人だと村にいてるから、お祈りしにくいんだって言い訳する人いるんですけども、それ殻を掴んでるのね。村にいてるいうことは寒い中にいなくちゃいけないとか山作業があるとかあるじゃないですか。それがあるからできないんだって言い訳に使うんです。

 何でもそうなんですけど言い訳したらおしまい。神さまは、その人にとって一番必要なことを与えてますから、いろんな極貧の貧乏だとかね。いろんな運命がみんなそれぞれ別々に持ってるわけですよ。でもどの運命もその人が必要で現れてきてるんです。

 何故かというと例えばマイナスの運命というのは、その人が過去世で言い訳してね、責任逃れて、自分だけ楽して人に働かせてみたいな感じですよ。要するに言い訳して責任逃れるのは、自分が楽して人に働かそういうことなんですよ。そういうことをしてきたのが今生で現れて、いろんなマイナスの運命が出てきてるだけなんですけども、それを肉体を持つのが宝くじを持つくらい、その貴重なことだというのは何故かというと、肉体でこなしたら何億分の1で済むんですよ。

 向こうの世界にいてたら同じだけのことをこなさないと戻れないのが、地上だったら、肉体で苦労したら、もう何億分の1で済んで全部消えちゃうんです。それで神さまがせっかく肉体を持ったんだからといって、どうしても消さなあかんのを持ってる人は(いろいろ苦労が)いっぱいくるわけですね。

 でも、それを逃げ回って生活保護を受けちゃうと大変だよということで、(先生は)生活保護を受けたら駄目よっていうわけ。先生は言うわけですね。せっかくの苦労だから苦労を楽しみなさい、楽に逃げんなと。

 だから先生はいつも先憂後楽とおっしゃったんです。大変なことを先にしてしまいなさい。何、より苦労を見つけてやりなさいとかね。僕にはもっと厳しかったですけど。それぐらいこの肉体で苦労するということは、すごいプラスなんですね、幸せなことなんです。実際苦労してみると、この苦労の方が楽しいのね。

 何もない。だから、そうね。お正月で皆、例えば温泉に行ったとするじゃないですか。そしたら上げ膳据え膳で、あとは温泉入ってお酒飲んでって、するのね。あれ、1日2日だから楽しいよ。1ヶ月しなさいいうたら苦しいで。やっぱり仕事したいなとか、もっとお掃除したいなとか思います。そういうものです。

 人間は、真(まこと)の神さまの響きそのものですから、真(まこと)の神さまというのは、一瞬一瞬新たに、より困難に、より困難に向かっていかれるんですよ。それをいわゆる何て言うんですか。どういう困難を神さまはいつもされるかというと、同じものを2度と作らないという一番厳しい縛りを司れるわけです。もう難しい言葉は使いません。神さまは同じものを2度と作られないんです。これってすごい大変なことなんですよ。それを神さまは自分に課せてされてるわけです。皆さんはそこまで厳しくされなくていいですけど、より難しいことをやろうとしたらいいんです。

 それが例えば、大谷選手で言うと、よりホームラン打てるようにしようとか、より速い球を投げるようにしようとかあるじゃないですか。そういう、いろんな苦労を、苦労を楽しんでいくということが大切なんですね。それは苦労を楽しめないのは何故かというと、いつも言うように結果を掴むからです。要するに人の評価、人の評価ですね。この世的な人の評価とか学校の成績とか、出身校でどうこうとかあるじゃないですか。そういうことを掴むと何もできなくなるんです。そんなんは一切関係ない。

 神さまから見たらそうですね。もう簡単に言うと例えば、なぜ自分の希望を優先したらいけないかというと、神さまから見たら、その人の希望なんてのは、髪の毛のもう端っこにも当たらないくらい小さいことなんですよ。神さまはそんな自分は小さいもんじゃないよ、そんな髪の毛一筋のようなことを望んでどうするんだというのは、神さまの方の響きです。

 もっと大きく全てを出せっていう感じなんですけどね。それで自分の希望なんか、自分の都合なんか優先するな!っていうのはそういう意味です。自分の都合を優先すると気持ちが小さくなるの。小さくなったら受け取れるものも受け取れなくなるわけですよ。神さまは一番よくしてるんだって信じ切れて、結果を気にせずに何でもその努力したら、もう勝手に大きく受けれるの。受けれたら受けるだけでどんどん変わるんです。

 だから、例えば本を速読するということがないとなかなか本を読めないんですけどね。それなんかもその何て言うんですか、自分を縛らずにやってたら勝手に神さまの命が降りてきてね、速読進むんですよ。先生なんかはもう最後は本掴むだけで中身がわかるみたいな感じになってましたけど、僕そこまでいかないですけど、でもこういう感じで読めるようにはなります。

 だけど、それも「そんなこんなんで字も追えないのに読まれへん。」って決めつけるから読めないんであって。本来は本は文字ですけども響きが入ってるから響きさえ受け取れたらわかるわけです。それは本に限らず何事もそうなんです。何事も自分の知識でね、どうこうして理解しようなんて思うからわからなくなるので、もう喜び合ってて。必要で多くの人の役に立つためにするんだって思ってたら、何でも響いてくるんです。本当は響いてくるもんなんですよ。それを響くと感じずに理屈で受け止めて、理屈で理解しようと思うから駄目なんです。

 数学が、例えば、数学皆さん苦手でしょうけど、数学のできる人というのは、僕もできる方ですけど、その数学できる人というのは、何があるがというとまず答えが見えるの。これみんな信じられないだろうけど、本当なんです。まず答えが見えるのよ。それで、その答えと今の問題との証明ですね。証明するために苦労するだけで、まず答えが見える。

 それは数学に関わらず皆さんでもね、自分の得意な分野だったら、結構先、先が読めてみんなに説明するために考えてるだけだと思うんですね。それを統一、真祈りって言うんです。

 だから、自分の都合を優先しなかったら、神さまの叡智がどんどん入ってきて、なんでもわかるようになるんだけど、自分の都合、これがこの希望を実現。自分のこの望みを神さまお願いというと髪の毛一筋を差し出してるからね。髪の毛一筋しか受けれないのね。それで余計何もわからなくなるという。そういう感じです。

 ごめんなさい質問がわからなくなって。(質問は終わっています。)今ちょっと没入しちゃって。そういうものでね。まず皆さん「何もわからない。」とか「私はできない。」という殻を掴まないでいただきたい。そのためには「印可書」奉読が一番楽なんです。真(まこと)の神さまの響きそのものを響かせますから、勝手に一つになるんですよ。だから「印可書」奉読してたらね、希望実現の法則もくそもないの。

 そのためには、「印可書」奉読のコツは、結果を掴まないですよ。「「印可書」奉読してるけど自分は何もできないんだ」とかね、そんなこと思っちゃ駄目なの。神さまが一番いいようにするからって喜び続けてたらいいです。でも、神さまが一番いいようにするから何もしなくていいんだというのは、なぜ駄目かというと。理屈では神さま一番いいようにしてるから何もしなくていいなんですけど、そうじゃなくて、神さまは一瞬一瞬新たですから、どんどん進んでいくんですよ。どんどん進んでいくということは、人間の側もどんどんと困難に挑戦していろんなことを挑戦して、いろんなことをこなしていかなくちゃいけない。それだけなんです。

 じっとしてて人の働くのをあてにするようになったら、もうそれは神さまとは真逆の働きですから、どんどん酷い運命になっていくし、病気にもなるしっていうことなんですね。

 病気になる方というのは、一大循環の相象(すがた)、血の巡りが悪いんですけど、それは何かというたら結果を掴む。何かを掴むということなんですね。何かを掴むというのは何かいうと。結局自分の働きを働きを考えずにですね、自分働くの嫌だから、人の働きをあてにするようになるとそうなるんです。まず、どんな結果も、どんな完成しなくてもいいから一生懸命自分の好きなことをするんだってすると、一瞬一瞬新たになって、神さまの働きと一致してきて一気に変わる。

 それを「印可書」奉読で、より全体に受け取れるようにしながら、いろんなことを努力されたらいいわけです。勤勉というのは、日本憲法の国民の三大義務の一つですからね。それもその勤勉も。勉強できる子は特にそうなんですけど結果を掴まないの。できるできない考えずに楽しんでやってるからできるようになるので、勉強できない子に限って、「この問題が解けなくちゃ次進んだら駄目だ。」って、もう数学でも英語でもそうなんすよ。「これだけの単語を覚えないと次進んだら駄目だ。」って結果掴むのね。掴むと、もう、そっから、にっちもさっちも動かないから余計勉強できなくなるんですよ。英語でも英語得意な人というのは、これだけの単語を覚えようなんて思ってないのね。もうひたすらワーッてやってるうちに勝手に入っていくみたいな感じになるんですけども。それは、いい学校出てる人はわかると思うんだけど。

 そういう感じで結果を掴まずに何でも楽しんでやってください。それは別に勉強、その学校の勉強せいと言ってんじゃないですよ。カラオケでも仕事上でも、あるいは自分の趣味の上でもいいですからどんどん楽しんでいろんなことをされると本来の神さまの響きというのが出てきます。それが出てくると、コミュニティ同士で喧嘩しないんですよ。結果を掴むとコミュニティ同士で喧嘩すんの。だから何々グループや。あんたとこ何グループ、うちはこれやとか言うて弾き合うのは、お互い結果を掴むから、結果を掴まずにひたすら進んでたら戦争にならないんですよ。

 今の地球の大変な状態というのは、いわゆる夫婦の単位、親子の単位があって、家族の単位があって、地域の単位があって、国の単位があってコミュニティがあるわけですけども。そのお互いのコミュニティが自分のとこが一番と思うのね。自分とこが一番と思うと、相手にも「こうせなあかんやないか」ってやるわけですよ。それがあったら、要するに原理主義っていうんですけど、自分とこのように相手にさせようとした途端に、もうあの喧嘩が始まるのね。お互いに文化風習が違うから、お互いに違うことをするけど相手のことに干渉しない。お互いに支えれることは支え合ってね、助け合ってやっていくとしたら世界平和がくるんですよ。でも、それは理屈で言うたらそれだけですけども、これは真祈りがないとわからないんです。

 真祈りという真(まこと)の神さまとして、同じ空気を吸う人類として一つなんだよというのが、わかれば、お互いの個性の違いは尊重し合って、支え合っていけるんですね。

 どうしても自分が一番正しいと思った途端に崩れるんだけど、それは真祈りがないとわからないです。ですから、ぜひともその真祈りを全世界に広げるというのは、この護摩の会場で響かすしかないんですよ。これだけのわずかな人数で全世界変えれるの。それくらい真祈りは強力なんです。

 ですから、できるだけ来週の護摩も来れる方は、もう遠方の方は無理でもいいですけども、近場で来れる方はどんどん来ていただいて、護摩で「印可書」奉読していただくことによって、一気に世界を変えていきたいと思っています。もう本当に今年からはおまけなしなんで、プラスの事はどんどん出るし、ずるく立ち回ったらどんどん酷い目に遭うという、極端な、今年が分岐点ですね。あの年から大変だったんだなっていうのが後になればわかります。それくらい大切な年ですので、ぜひぜひ護摩にはご参加ください。

 ありがとうございます また来週お会いできることを楽しみにしています。ありがとうございます

司会者
 河上さんありがとうございます 

 本日の護摩焚きに集まった護摩木の枚数を報告いたします。護摩木の方は、5万7116枚、護摩紙の枚数は9340枚、合計で6万6456枚でした。皆様ありがとうございます 

 音声はこちらからどうぞ
 https://youtu.be/703uM4Kum6U

 宇宙神ありがとうございます



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2日目のおはなし by 河上彰延 [Mail] 2025年01月06日(月) 05時43分
PC

令和7年1月2日河上さんお話し−1(20250101−1)

河上さん
 先生が、ともかく僕が11歳の時にお会いしたときから一貫しておっしゃっておられたのは、「みんな光や」ね。一番簡単な表現でね。で、それは色々と分解して言うと、「神さまの御心が地上に現れますように」とかね、「御心のままにみんなが生きていけますように」とか、色々あるわけですけども、その「みんな光や」というテーマで、あの神書は書かれています。で、その神書だけで読むと、ちょっと難しめに書いてあるんで、簡単に言うと、要するに「思い巡らす心、やめろ」ですね。五井先生で言うと、「想念停止」です。

 で、それだけ言われたって、やっぱり分らへんねんっていうのは、何でか言ったら、みんな思い巡らすもん。なんかトラブルがあったらどうしよう、ああしよう、こうしようってね。それは当然なんですよね。ただ、思い巡らすのを、その神さまの御心として思い巡らすか、自分の都合で思い巡らすかだけなんですよ。だから、同じ思い巡らすでも全く違うわけね。自分の都合の思い巡らしというのは、ちっさいものを積み重ねていって、大きいものを作るみたいな感じ。

 そうでしょ?会社でも最初小さい創業して、大きい会社にしていくとか、車でも簡単な車からだんだん複雑な車になっていくとかね。それが人間の側の思い巡らす心です。

 で、神さまの御心のままにというやつだと、もっと人間の叡智を超えた姿がそのまま降りてきて現れるんです。だから、神さまの叡智を表した時は、最短距離。迷路で言うとね、迷路っていうのは、色んなところを通って、通って、コンピューター式にやるとですよ、迷路とかいうのは、もうありとあらゆる経路を探って、やっと行き着きましたみたいな感じね。これ、コンピューターも人間の思い巡らす心の表れですから、そういう感じになるわけですよ。
 
 でも、神さまの叡智が降りてきたら、迷路でも最短距離をすっと描ける。それが神の叡智なの。で、その神の叡智というのを信じれるか信じれないかというのは、人間が大自然に対しての感謝があるかないかで決まっていくわけですよ。そうでしょ?もう、種蒔いたら物が出来るのは当たり前。肥料をやって、耕して、水やって、こうしたらその食物が成長してね、お米でも成長して実がなるのが当たり前というふうな感じに皆なってるのね。神さまの命が現れて、神さまの叡智そのもので全てが成り立っているということをもう忘れてるわけ。なんで忘れるか言ったら、自分と神さまが違うもんだと思ってるから。
 
 でも違う、分けようがないんだけどね、分けたら死ぬんだもん。分けないから死んでない。ね、そうでしょ?肉体って、あの機械のようにボルトで繋いでね、溶接したりとか、車がそうでしょ?ボルトで繋いで溶接してくっつけて動くわけです。命のないものだから。

 でも肉体って接着剤もないし、ボルトもないし、何もしてないのに繋がって、命として繋がって動いてるわけです。でも死んだら、その繋がっている命が抜けるから、一気にバラバラになって腐っていくんでしょ?

 あるいは生きてても切り落としたら、切り落とした先は崩れていくんでしょ?そこが分かってるようでみんな分かってない。それが大きく民族や家族や社会や国家や全人類として一つということで分からないとダメ。

 でも、みんなは、例えば宗教団体でもそうだけどね、違う宗教団体ダメだってやるわけでしょ?あるいは社会党とかね、政党同士でも「あいつとこはこれでダメだ。」とかやってるでしょ?分け隔てて。その分け隔てるっていうのは、自分の手を切り落としているのと一緒なんだよっていうのが分からない。

で、村人も同じように分からない。みんな一つだっていうのが分からないから、河上グループとかね、何組とか、なんかわけ分からん隔てを作るわけですよ。そういうことをしていることすらも分からない。なんで分からないかと言ったら、自分が一番正しいと思っているから。神さまじゃなくてね。自分が一番正しいと思っているから、自分以外のものはダメだってなるわけ。

 ほんで、村人に限らずですよ「あいつはサボってる」とか、「あいつ怠けてる」とか、「あいつは勉強せえへん」とか色々あるけど、どれもこれも分けてちぎっているから。で、ちぎって命の一大循環の相象(すがた)と命の還流を邪魔しているからね、ぐちゃぐちゃになっていくんですよ。

 だから手でも切らないまでもね、ここぐっと縛ってごらん、血の巡りが悪くなって腐るじゃない?そういう感じのことをみんなしているのよ。で、してるけども、自分が正しいと思っているから気づかない。

 だから村でもその上からの命令が全部徹底して逆らえないようになっているわけですよ。
逆らえないようになってるんだけども、その結果起こったことに対しての責任を誰も取らないという状態。それは別に村だけじゃないですよ。日本の政府でもそうですよ。

 首相とかが指示して、例えば外務省になんか交渉させるでしょ。上手くいったら首相の成果、上手くいかなかったら外務省の責任ってなってるくらいね。別に村人に限らない、どこもかしこも自分は責任取らずに命令だけするシステムになっているんですよ。

 ちょっとトヨタとかね、民間企業の方がまだマシよね。前、アメリカでプリウスの欠陥車問題が大騒ぎになった時に、社長はある意味関係ない、トヨタの社長はね。プリウスを作ったその現場の人の責任なんだけど、そんなことは関係なしに、トップとして社長が自ら責任取られて、アメリカに行かれて謝られて、こうだこうだって。んで、こういう対策しますってすることによって収まったでしょ?

 ね、中心の人はある意味全然関係ない。組織が大きくなったらよ。小さいうちは自分も関わっているけどね。でも、関係なくたって、中心にいる人は責任を取るのだから。天皇陛下も終戦のときに責任を取られて、巣鴨に入れられている連中は全部、自分の命令でしたんだから、全部釈放しなさいと。戦争の責任は全部自分にあるのだから、私を絞首刑するだけでいいんだから、みんなを釈放してくださいとマッカーサーに頼みに行くんでしょう?

 それでマッカーサーが感激して、一気に日本に対する態度が変わるわけですけど。そんな凄い姿を日本人は見せてもらっているのに、やっぱりみんな、要するに天皇陛下は総責任者の自覚を持っておられたということですよ。

 それを先生は「総責任者の自覚」ということで口を酸っぱくして言っていうんだけど、村人ですら、村人のこと笑えないよ、みんなもそうだけど、「総責任者の自覚」を持てない。

 持てないから、先生が亡くなられた後に先生の身代わりとなって真祈りしましょうと言う人が一人も出てこない。で、こっちから「これからはお一人お一人が先生の代わりをして、真祈りして先生の働きをするのですよ。それを先生は100されたけど、みんなそれぞれ1とか2とか3とかって言うて説明したけれど、中々聞いて貰えないくらいみんな無責任なんですよ。人のことは笑えない、みんな無責任なの。

 無責任というのは何かと言えば、聖書に書いてあるように「蛇がリンゴを食べたら神さまのように叡智がつくよ」って唆(そそのか)すわけやね。でも、「リンゴを食べなさい」とは言っていない。ただ「食べたら叡智がつくよ」って言っただけで、イブに対してりんごを食べなさいとは全然命令してないよね。でもイブは「蛇のせいで食べました。」って言うし、アダムも、イブはただアダムにリンゴを手渡しただけなんです。

 どのギリシャ語の聖書を見ても、どの辺のとこの翻訳までを調べてもイブはアダムにリンゴを手渡しただけ。で、アダムにしたら、リンゴを手渡されたら、『お前、これ神さまに食べたらあかんって言われてるやつやないか』って言わなあかん立場やのに、食べたんでしょ?

 で、神さまは『リンゴを食べたか食べていないか?』しか聞いていない。要するに、自分が責任を持ってしたのかしてないのかを聞いてるわけですよ。なのにね『女のせいでリンゴを食べました。』とか、『蛇にそそのかされて、蛇が“食え”言うたから食べました。』みたいな回答をするわけでしょ?それくらいみんな肉体を持つと、自分は責任逃れてね、誰かのせいにして逃げたいという“原罪”を持つわけです。それを“原罪”と言うんですけど。

 だからと良い悪いじゃなくて、それをどう乗り越えていくかです。それが動物と人間の違いなんです。で、そこが分かるとね、"話し合ってどうこう"なんて言う事がいかに無駄かが分かるわけですよ。話し合うっていうのは、お互いに『自分が正しい』と思っているから収まるわけがない。真祈りしか、お互いが『一つだ』と分かるまでは収まらないの。

 そこが未だに分からない。総責任者の自覚を持てば、お互いに『一つなんだ』と分かるから、お互いが、自分が今何をすべきかも分かるから、喧嘩にはならない。でも、自分が正しいと思っていたら、なんか自分のしてる事の方がしんどいように思うねんな、みんなな。で、相手が楽しているように勘違いしていくね。そしてなんか『あいつが楽しとる』『あいつがサボっとる』って言い合いしていくのね。

 それは贈り物の贈り合いしてもそうですよ。『こんだけのものやったのに、あいつは1しか返してこなかった』ってお互い思ってるね。お互い自分は10のもの送ってるのにあいつ1しか返してきよらへんかったって(返してこなかった)、お互い思っている位ね、自分が“正しい”と思ってたら公平に何も見えない。そういうもんなんですよ。
 
 その逆もあるんです。例えば鯛焼きを半分こ(半分づつに)して食べましょうとするでしょ。ほんなら尻尾と頭とどっちがいいかってみんな自分が正しいと思ってるから、思ってしまうわけよ。で、そんなふうに思われたら嫌だから『もういいよ、私はいいからあんたが食べなさい。』って言われたら、(相手が)喜んで1匹食べるかって言ったら食べないね。相手は相手で『そんな気を悪いことするなよ。』ってなるわけやね。それくらい自分が正しいと思って、お互いに思い巡らせて話し合おうとしたら揉めるだけなの。
 
 鯛焼き一つとっても。何故それに気づかないと言えば、総責任者としての自覚がないから。総責任者としての自覚がないと、お互い違うものだから。違うものということは、相手だけ得していると思うんよ。『隣の芝は青く見える』って言うじゃない?その立場に立ってみたら全然違うんだけど、はた目から見たら凄い楽したように見えるの。それはその総責任者の自覚がないから。

 だから妬み(ねたみ)嫉(そね)み、虚栄心というのは、そういうことよ。他人と引き比べてどうこうするか。で、先生は世界の雛形として村人を集めたから村人には特に顕著に出てるんだけど。ただ、ここを聖地と村人が分かった(理解している)以上、もう誤魔化しが利かないのね。オマケがなくなったから。

 今迄は先生がいらっしゃったから、村人が真祈りせず、ただ山仕事だけしててもよかったんだけど、今は真祈りする方がいらっしゃらないから、村人が真祈りするしかないの。真祈りが何か分からないまま来てるから、してるつもり、してるつもりだけど、真祈りが出来ない。出来ないことに気づいているのか、気づいていないのか僕は知らないけども、真祈りが出来ていないから喧嘩があるの。村人が仲良く出来ない。

 そんなもん話し合って仲良く出来るくらいだったらね、この6年間で村人が仲良く出来ないはずがない。村人同士が仲良く出来ないから、当然、外の人とも仲良く出来ないわけです。
 
 色んな意味であるんですけど。先生は村のことはこっちで出来る人を作っとくから、僕とみどりさんに対しては、もうそれ以前から東京で月2回勉強会をやってましたから、そっちの方で自由にやってくれとのことだったんですけども。色んな事情で今こういう立場に立って、てんてこ舞いしてますけどね。

 せやけど(だけど)、何よりもこういう誰かを中心にする時代は終わったんですよ。みんなが真祈りして、みんなが総責任者として、みんなが真(まこと)の神さまとして働く時代に入ったわけです。そこだけは忘れないでください。

 すると、あいつがどうこうとかいう話じゃないのね。お互いに助け合って、真祈りし易いようにし易いように、持っていくのが本来の姿なんですよ。だから、じゃあ先生のところに、1番先生のおそばにね。長い間いてる村人さんだから、真祈り出来てるんだろうとみんなも勘違いしてたし、で、本人たちもそう思ってたんだけど、出来てないからこんな状態になってきて、能登半島も揺れるしね、色んなことが起こるわけ。

 で、それをどうするかだけなのね。で、真祈りの仕方を、ともかく先生から預かって説明させてもらっただけです。で、本当の真祈りは、ともかく、24時間途切れずにひたすら「ありがとうございます」と唱え続けて、自分で感得するものです。でも、それが出来る人が少ないから、先生はこのお祈りの部屋に来てお祈りしろとおっしゃった。

 で、この部屋で、本当はあの頃、先生がいらっしゃる時は、40日、たった2時から6時までの4時間をひたすらにお祈りするだけで悟れるように先生はされたんだけど、誰もする者がおらんと、ぶ然たるもんで終わった。もう只々それだけです。

 で、そのオマケでは無理だからということで、「印可書」を作ってもらったという、そういう経緯だけです。で、その「印可書」も無理だからということで、手振りの「宇宙神ありがとうございます」を作ってもらいました。これすら無理だと言うんだったら、人類は滅びるだけで、皆さんの自由意志だというだけですね。それが経緯です。

 それで、いよいよ村人が真祈りしないので、オマケもないので、今にも村が崩壊しそうな状態になっています。それは、最初にちょっと言ったように、石垣の下をちょっとずつ崩しているようなものでね、「そんなの全然大丈夫だろう」と思ってるやろうけど、ある日突然、ガシャッといくわけですね。いったら最後、修復のしようがない。バベルの塔も崩れたら最後、終わりだったようにね。その直前までとうとう来てしまったんです。それがこの巳年の始まりです。神さまの光が、蛇が脱皮するように、在りとあらゆるところに染み込んでいき、光が充満する年なんです。

 すると、真祈りしていない者は、色んなマイナスを全部浮かび上がらせて体が腐ってきたり、お腹が腐ってきたり、腐るというのは病気という意味ですけど、なる時代に入ったわけです。でもそれが聖地に住む村人に真っ先に来るからね。

 実際、体に出てしまったら「痛い」と出るじゃないですか。その痛みを無視してお祈りするんだって言ったって大変だから、出る前に、出る前にと思って、色々と嫌われ役をやっていますけども。だから、呼吸法も教え、手振りも教え、色々と説明してきましたからね。あとは皆さんで工夫してやってもらったらいいだけなんですけどね。
 ここまでで質問があればどうぞ。

質問
 真祈りということで…「印可書」を奉読と、「宇宙神ありがとうございます」の手振りセットが真祈りとするということをお伺いしたのですが。

河上さん
 だからそれが一番、オマケ付きの簡単な真祈りという事です。だから先生が仰ったように「ありがとうございます」をひたすら24時間途切れづにやれば、それはそれでちゃんと真祈りができます。ただ、そんな難しいことをする人がおらんという事でしただけです。
だから、それしかないと言うことではないです。

質問
 中には先生から直接手振りはいらないというふうに聞いた方がおられまして…。

河上さん
 その手前の前後をちゃんと言わないと狡い。でも聞いた人は、自分に都合の悪いことは忘れてるから、どうしようもないです。

質問
 現状、僕が身に置き換えた場合に、やっぱり先生から直接その前後をこう…。

河上さん
 いや、勿論そうですよ。だから、先生が直接そう聞かれたんだったら、なぜそれを真剣にしないのか。それだけです。

質問
 手振りなしの「宇宙神ありがとうございます」を?

河上さん
 うん。そこまで直接聞いて、なぜしないのか。無責任じゃないか?そう聞いた人は、総責任者の自覚を持って、それをひたすらやって、このやり方で僕は行けたんだよというとこまで行ってくれないと困る。聞いただけ!それ無責任やろ?実行してなんぼや。

質問
 はい。で、これからが大事っていう部分でちょっとお話させてもらいたいんですけども、やはり真祈りしたいっていう気持ちは、本心の自分から出ることだから当然持たれてると思うんで。で、その真祈り、河上さんのお話を聞いて、その真祈り、「宇宙神ありがとうございます」とセットだよっていう風に聞いた部分と、どうしても、その当時、先生から聞いた部分を…。

河上さん:だからね、真剣にしたら分かる話。真剣に「宇宙神ありがとうございます」やってたらね、途切れるんやって。その途切れるのを防ぐために先生が作ってくださった。でも、真剣にやれへんから、「手振りいらないんじゃないですか?」ってバカなこと言うてね。で、先生は相手の自由意思を縛らないから、「そうだね」って言いはるん。それだけよ。真剣にまずやれよって僕が怒るのは、真剣にやってみたら分かるって。いかに「宇宙神ありがとうございます」で難しいかって。

 でも、手振り入れたらすっと行くじゃないっていうのが、真剣にやってたらわかるね。せやけど、誰も先生からお聞きしても真剣にせえへんねや。このお祈りの部屋にお祈り来なさいって言っても、2時間すら連続して来れない。ここの村に住み込んでるんやったら、せめて2時間は毎日来いよ。先生は朝と夜と来いって言ってはったんや。

 誰も来えへん。その2時間すら。要するに4時間がしんどいんやったら、朝の2時間、夜の2時間にしなさいって先生言われたんや。聞いてるか聞いてへんかは知らんけど。毎日、ここへ通ってるだけで、たったの40日、先生は40日とは言えへんで。そんなん言うたら、もうギブアンドテイクなるからね。
 
 でも、たったの40日で悟れたんや。なんで誰もしないか?生活も安堵してもらって、食べるもんも安堵してもらって、ここに住み込んで、通う手間もなくて、なんでしないか?今更何を言うか。先生亡くなられてどうするんや、これから。いよいよ人類が滅びる寸前やでっていうくらいな、大変やねんって。
 
 せやから、もう理屈はええから、仮にそう聞いた人は、ぜひ「宇宙神ありがとうございます」を必死にやってみて、それから言ってください。やりもせんとね、こう聞きました。あるいは「印可書」も、先生は古い「印可書」を燃やしていきました。読みもせんとね、何を無責任なこというか。先生の作られた最初の「印可書」拒否したのはあんたらやないか。読みもせんと何を言うかっていう感じやね、僕にしたらな。
 
 そういう感じやけど、まず真剣にしなさいや。その先生からこう聞きましたっていう人は、別に顔出して言うたら恥ずかしいのかなんかね、隠れって言うのはずるいけど。

質問:
 いや、僕が勝手に思って言ってます。

河上さん
 うん、勝手でもええよ。せやけどともかく、そう聞いた人は、それをまず真剣にしてからの話や。真剣にしたら、いかに難しいかが分かって、なんで先生がこうね、お前「印可書」もっと緩めにして、やり易いようにしてくれとか仰ったかってのは分かるよ。で、何よりも神書を真剣に読んでたら、最初に出された先生の「印可書」で十分やったんや。

 でも、真剣に読んでる人おれへんからこうなってきただけで。それでも先生はみんなを連れてこいって言うから、オマケも出して、説明もして、してるだけでね。せやけど、いよいよオマケがもう終わったから、もうあとは皆さんの覚悟を問うてるだけ。

 その全人類の数からいうたらね、わずか100人あるかないかや、本当に真剣な人がね、ここへ集まる方がね、護摩に集まる方が。その中で、そんだけの数だけで十分人類が変わるって先生仰ってるのに、こんなちょっとで何も出来へん位にしか思ってない甘さがある。

 だから、親の死に目以外は護摩に来いって言うたって、色々都合が悪くて来られん人もおるしね。もう色々あるけども、そんなこと、もう済んだこと言うても。いつも言うようにね、済んだことはもういいんです。さらさら流れていくんだから。これからどうするかだけやな。

 いつもそれ言うんだけど、みんなは済んだことで、先生がこう仰ってたとかね、先生やったらこうしてくれたって言うわけよ。もう先生いらっしゃらないやん、どうも出来へんのじゃ、「自分たちでするしかないんだよ」っていうのが分かれへん。で、このまま何もせんと、わっと流れていって、地震が起こって、富士山も噴火して、わあって大変なって、大変やなぁでみんな死んでいったらええやん、別に。で、死んでいったらみんな聞かれるわけよ。「あなたはそのお金をどう使いましたか」ってな。で、色々と言い訳してなったら、犬や猫に落ちて終わるわけ。
 
 で、とりあえず、この地球というこの秒速30万キロの虚の世界は一旦全部解体してなくなる。要するに、この30万キロの映画館は解体されてしまってね、新しくどうなるかは、もう落第した人は知らんでええから教えへんだけ。それだけです。

 せやけど、先生はちょっとでも落第する人間を減らして連れてこいって言うから、でも相手の自由意志を縛れないから、出来るだけお願いしてるだけです。

 第一、こうせい言うたって、みんな自分で納得せなせえへんや。出来るだけ納得しやすいように、色んな方法で説明してますけども。せやけど、ただ、そういう先生からこう聞いたっていう人はね、何が卑怯かって言ったら、先生から聞いた以上は真剣にしろよ。真剣にもせんとね。あーやこーやっていうのは卑怯や、あるいは狡い。そんな神さまごとをね、クラブ活動か何か遊びか知らんけどね、互助会みたいなつもりで考えてもろうたら大間違い。

 村は私設生活保護みたいになってるやないか。誰も真祈りせえへんから、それだけです。

 せやけど、もう泣いても笑ってもオマケがなくなって、今年からはね、本当に真祈りしてなかったら、どんどん体が大変になるよ。なるけど、こっちはもうオマケ出せないということやから、ちょっと皆さんの自由意志を縛り気味でね、強引なことを言ってるだけです。

 あんまりもう、ある程度言うたら、もう何も言わなくなりますから、どうぞご自由に皆さんしてくださいっていうだけなの。どっちにしたって自由にしかせんから。もうほら、親が子供に勉強せえって言うのがそうやん。勉強する気ない子に何を言ったってせえへんって。いかにする気になるかって持っていくだけや。
 
 だから僕もいかに真祈りしようなって思ってくれるように必死で持っていってるだけ。そやけど、村人がね、河上の話は聞くなとか、河上はあかんとかっていう空気を作ってる以上はね、それは神さまを邪魔してるから、村人として大変になるよっていうことは言わないかんからね。病気とか色んな形で出てからね、どうしようって言われたって困るからね。先に言ったように、僕の邪魔したらいけない。

 東京で色んな仕事してたわけですけども、先生がこっちにいてるんやろって仰って、人の自由を縛らない先生がそう仰ったから僕は帰ってきましたけど。勿論それ以外にも色々理由があって、東京で仕事してること邪魔する人がね、その商売だからやっぱり邪魔する人おるじゃないですか。その人たちがどんどん癌とか交通事故で死んでいくんよ。ある意味あいつは悪魔だみたいにね、呪いかけてるみたいに言われる時期に入ってきてたんでね、その両方でこっちに帰ってきたわけですけども。
 
 神さまの働きをする、神さまのために全ての命を捧げるって、(僕は)先生に宣言してね、(生命のすべてをかけて)してるわけですから、僕の邪魔をしたら大変になります。ただ、オマケがあるからすぐに現れないようにしてきましたけど、これからは大変です。

 で、村人は僕の邪魔をしてることすら気づかんとやってるから、もっと大変です。それだけ。まず先生からお聞きしてんやったら、なんで真剣にしなかったか、それを聞きたいですね。

質問
 というのは、今までは僕の言葉で言うと、真剣にしなくても村で生活出来ていたけども、今年からは問われるということで、真剣さを問われるということ。

河上さん
 いや、村人が真祈りしないということは、神さま邪魔してるやん。真剣とかそんなレベルやあらへん。ここは真祈りの聖地や。真祈りの聖地にいてるもんが、真祈りしない。

 神さまの邪魔してない?それ言うてるだけやで。そうなると一気に村が崩れるから。村が崩れると、何年後とは言わんけど、本当に全世界が崩れます。

 崩れてしまったら困るしね。色々と世界の入れ子構造の世界の模型として、雛形として村があるんだよということを何遍も言うんだけど、全然気づかない。いつまでも村の中で争いしてるから、世界に戦争が絶えへんやないか。なんでそれすら分からへんのか?村の中で仲良しになるわけないなんて言う馬鹿までいてるんやろ。ええ加減にせえや。

宮野さん
 それは昨日と一緒ですけど。聞いてるここにいる全然村人じゃない人たちもそうなんだと。

河上さん
 一緒やで。ただ村人はすぐ出るだけ。皆さんはゆっくり来るから、その分ゆとりがあるからまだ楽だっていうだけです。

宮野さん
 逆に言うと、いい見本って言ってはなんですけれども。そのね、やっぱりこういうことなんだな、厳しいんだな、私たちは村には住んでいないけど、厳しいところを見せていただいてるんだなということを改めて感じていただき、で、あっ他人事じゃないんだ、真祈りせなあかんねや。神さまの邪魔したらあかんねや。他人と分け隔てしたらあかんねや。争いしたらあかんねや。

 自分の目に映ること、聞くこと、吐くこと、全てがマイナスを掴んだらいかんねやってことを改めて感じるのは、肉体があるから感じるし、それがあるから逆に言うと肉体を維持してるとこあるんですけど、それをすぐに真祈りチャンスを考えて真祈りをしていくということでしょう?

河上さん
 はい。今まではね、真祈り言うたって先生しかできへんやんってみんな言ってたわけよ。

 「ありがとうございます」を24時間連続で唱えるなんて無理やんって言ってたから、じゃあー、これさえすれば真祈りとなすって先生がオマケを作って下さったわけやから。

 その「印可書」も選べない、「宇宙神ありがとうございます」も選ばないって言うんやったら、自分達は真祈りしないんだから、此処には住みませんって言えばいい。それが本当の責任者の自覚や。村人やったらやで。せやけど、村人以外の人は(関係ないでは無くて)、(みんな)じゃあ真祈りしなかったらどうなるかって言うたら、世の中が大変になって、地球がいよいよ滅びるっていうだけよ。

 あのね、今ね、本当に核爆弾を飛ばす必要ないの。持ってる核爆弾を勝手に爆破させる技術がある。だから本当にいざとなったら、あちこちで勝手に核が爆発してね。だから抑制というか抑止力がないわけよ。なんや知らん間にバンバンバンバンってなって、もう、えっ?えっ?て言ったらもうそういう状態や。で、地球霊王様はそうしたくないから、その前に地震とか火山とか、あるいはムー大陸のようにね、大地を沈めてとかっていう風にしたいんだけども、するんだけど、(何回、大陸を沈めるとか、大洪水とかしても、つまり、やり直しをしても、人類は、同じことの繰り返しだから)もう今回は終わりにしたいって仰ったわけです。そういうこと(やり直し)ではなくて、もう終わりにしますと。
 
 それを僕が11歳の頃ですけど、先生が地球霊王様とお話しになられて、『もう少し待ってくれ、人類が真祈りをするようにするから』というて、ここまで来てるわけですね。それは何度も先生はお話するんだけど。こんなことをしていたら火山が爆発して地震が来て大変なんだって、阪神大震災の4年程前から言われてですね。で、暗黒の星が地球にぶつかって大変なるよ、あれやこれやって起こることを全部言われたんだけど、先生はたまにそういう厳しいことを言われるだけやって、みんなは、のほほんとしてた。

 で、いよいよ暗黒の星がぶつかるって時に、先生は血の涙を流されて、それだけは止めてくださった。で、『これでもういいか?』と僕ら2人に言われて、もういいかと言われても、もう少しいて欲しいと交渉しましたが、行かれてしまったということです。だから、これからはみんなで真祈りをしなくてはいけません。

 勿論、どうしようもないのは、僕の命で止めますけれども、あとはみんなでして下さいね。みんなでしなくちゃいけないんだから。誰かが中心になってするというのではダメです。全員が真の神さまとして自覚を持って、総責任者の自覚を持って真祈りをしなくちゃあいけない。逆に言うと、全員だから楽なんですよ。

 1人やったら100人分を引っ張らなければならないけど、100人で引っ張れば簡単に動くじゃないですか?そんな時代に入ったということです。だから巳年、辰よりも小さいものになったんです。

質問
 みんなでするお祈りの具体的な形が護摩焚きということで。

河上さん
 そうです。護摩で響かせたら、本当にみんなが分かるわけですよ。お金なんて何の役にも立たないって。今はお金が役に立つと勘違いしてる。村人もだけど。だからお金でなんとかなると思ってるけど、お金でなんとかなったら戦争は止まる。災害は起こらない。地震も起こらない。お金でなんとかなるんだったらね。ならないでしょ?だって、1万円札の価値は22円しか価値ないんやで。

宮野さん
 24円だから。

河上さん
 24円か?24円しか価値無いんやで。調べてみたら、22円から24円くらいっていうて。というのは、国はそんなん発表しないからね。印刷業者さんが発行枚数とこの印刷やったら、こんな原版がいるから、この手間でこれやから、ほんで造幣局に勤めてる人間の数と給料分をだいたい計算して、22円から24円くらいっていうわけですね。それはあれですけども、お金って所詮そういう事でしょ?みんなが価値があると思っているだけで。

 今、大量のお金が市場に出回る寸前になっていますから、もし大量に出回れば、一気にお金の価値はなくなります。でも、お金の価値がなくなっても、みんなで助け合えば、苦しいことはないよね。今のように自分と他人が関係ないと思っていると、お互いに奪い合いになる。お金で物が手に入らないでしょ?それなら、暴力沙汰がどんどん起こるようになるわけ。

 そうならないように、真祈りを広めておけば、お互いに困った人を助け合ってちゃんといくんですよ。本来、そんなもんなんです。だから能登でも東北の地震でもね、暴動は起こらないんでしょう?何やかんや言いながら大変な時はみんなで助け合って、能登でも炊き出しをしてね、現地の人が苦しい中を持ってるものを持ち寄って助け合いって生き延びてるわけでしょ?

 そやけど、これが地球規模で起こったときに、それが出来るかどうかってなるから、そうならない手前、手前でもっと収めていきたいんです。で、人類が90億人を超えると地球は滅びると先生は仰ったんだけれども、90億人を超えても、みんなで分け合えば十分やっていけるんやって。
 
 そやけど100個のパンの話やないけどね、私、あんパン5つ食べたいと言った途端に、全部崩れていくね。誰かが『私はあんパン5つ食べたい。』と言うと、みんなが『私も食べたい』となるわけよ。本当にあっという間やね。それが、今の地球規模のレベルで起こっているわけでしょ?先進国が財力で物を買い込んでね、国としてお金のないとこは飢えが広がるわけでしょ?

 本当だったら、食べられない人に分けてあげて、みんなで仲良くしたらいいだけなんだけど。話し合って仲良く出来るんならね。だけど、話し合って仲良くは出来へんのやて。みんな自分が一番正しいと思っているから。それはアメリカとか、国のレベルでも笑っておられないんやで。みんな個人的にもそうなんやて。結局は、自分が一番正しいと無意識に思ってんねん。思っているから、こないなってん。
 
 そうじゃなくてというね。みんな光やって。命のレベルで、真(まこと)の神さまとして、一つの命として繋がっているんだよということが、真祈りでしか響かせられないんよ。なんぼ理屈で言ったって、肉体として分かれているでしょ?分かれてたら、やっぱり違うやん。で、最後いよいよ物がなくなってきたら、せめて自分の家族だけでも助けようとなって来るねん。映画でも色々あるけどね、あんまり映画の題名は出さんとくわ。
 
 それくらい最後は、自分さえ良ければになっていくんよ、真祈りがなければ。話し合いでは収まらへん。話し合いで収まるくらいなら、お互い助け合っていきましょうねで終わるけど、それやったら戦争は起こってないで。

 でも、真祈りしたってそんなんもう直らへんと思う人は、それも自由だけど、自由だけど、そう思う人はここに(村に)いてたら邪魔だから出て行ってくれと言っているだけです。

 真祈りの邪魔をしてるやろ?真祈りしたって意味がないという人は。この村が聖地だと分かっているなら、この村は神さまのものであって、誰のものでもない。それすら理解出来ない村人ばかりだったら困まる。それだけでも、神さまを邪魔してる。なんでそれが分からんか、というだけやけどね。
 
 そやけど分からない理由は、真祈りしてへんからや。だから真祈りしようねって、真祈りが難しんやったら、簡単な真祈りの方法はこれやでってテレビショッピングでやっているだけや。ここで特別に値引きして、この値段でどうかと言うのを特別に真祈りを簡単にして、「印可書」奉読にしました。特別に真祈りを簡単にして、「宇宙神ありがとうございます」と手振りにしましたって、そんな感じでテレビショッピングをしているだけや。選ぶ、選べへんは自由や。だから、そんなテレビショッピングを見て「『宇宙神ありがとうございます』と言ったって真祈りになれへん。」と思う人はしたって意味ないよ。

 でも、その人は(真祈りにならないと思う人は、真祈りできないと思う人は)ここにおったらあかん、邪魔になるから。神さまの邪魔をするから。先生を信じてないやん、それやったら。先生を信じてないんやったら、ここにおってもしゃあないやろ。何しに来てんねん。村人だけちゃうで。みんなもそうやねんで。護摩でもな。

 せやけど、みんな、それが力がある神さまの御心を行ずることだって(心のどこかで)分かってるから、護摩に参集してくれるんでしょう?そしたら、村人はもっとそうしてくれないといかん。だって神さまお陰で生かして貰ってるんやから。

 だから山の神さまが、もう今年が、もう去年の秋口ぐらいからどんどん怒ってくるのね、おまけが減ってきたから。おまけが減ってきたから、「真祈りせんと木を切っておる。」って言って、もの凄い怒ってるんだけどね。そのうち色々あるやろうけど、そうなる前に真祈りしてほしいから、もう言ってるわけ。

 で、全然村のことを僕が知らんと思ったら大間違いやで。ここを立ち上げる時から全部知ってるんだから。そのためにどんだけ走り回ったか。なのに嘘をつくからね、怒るんです。嘘をついてごまかそうとするから。ごまかす気はないのかどうか、知らんかったから嘘になってるんか知らんけど。でも、知らんかったでは通らんことばっかりや。

 まあ、そんなこと済んだことはいい。でも、そんな済んだことはええから、これから真祈りしようって言ってるだけや。それが分からんのやったら、村人は出て行きなさい。真祈りを信じられないのやったら、ここにおってもしょうがない。ここは真祈りを信じる人だけが参集して真祈りする場所です。

 護摩のない日は護摩のない時は、ここでみんなが真祈りする場所だから。その場所で真祈りを信じない人がおるんでは困る。先生以外の本を配るようでは困る。いいかげんにせえや。何をどう思ってるか知らんけど。

質問
 例えば、これから先のことで。大変になってから慌ててこの真祈りを…

河上さん
 そんなもんね、例えば代表的なものやったら富士山が噴火したら大変でしょう?その状態で、噴火してる状態を無視して真祈り出来るんやったら大丈夫。でも、もう気になってしょうがないやろ?実際に、もうそれこそ、あの阪神大震災クラスがね、同時に3つぐらいババンと起こってね、その状態を無視して、や。無視せんと消えへんね。無視して真祈りできたらいいよ。出来へんやん、気になってみんな。だから、そうなる前にって言ってるだけや。で、出来へんから、みんな噴火や地震やらを掴むでしょう?掴んだらまた起こるわけよ。

 で、もう、あとは相乗効果でね、もう次から次に起こって、そしたら食べ物がなくなる。食べ物がなくなると奪い合いになる、奪い合いになると戦争になる…の繰り返しよ。ヨハネ伝(黙示録)やったかな、ほら最後のハルマゲドンの描写があるじゃないですか。ね?あれはそういう意味です。現実を掴む癖のある人ばっかりいてたら、ああいう感じで一気に最後までいってしまう。

宮野さん
 先生がおっしゃっていたね。「地震、もう終わってるやん。何もないやん。」っていう…

河上さん
 そうそうそう。あの3.11のときにね、「ちょっと揺れただけやないか。」っておっしゃってたあれなんすよ。先生はあれを、みんなは「なんで先生止めてくれなかったの?」やねんけど、違うやろって。みんなが真祈りせえへんからどうしようもなくなってきたんや。で、今はもっとそれが進んでいるわけです。
 
 本当はもう、皆、のほほんとしてるからね、先生が亡くなられたから、あとは僕が1人、ドンと祈ってしようとしてたら、先生からえらい怒られたわけですよ。「お前の1人で真祈りしてどうするんや。」って。「ええかげんにせえ。」って言ってね。「それを身勝手って言うんや。」って言って(怒られた)。

 でもみんな自由意志があるのに僕の話聞きませんやんって言って、もう。「聞きませんって決めてるお前が悪い。」とまた怒られてな、色々あるねん。あるから、ひたすらテレビショッピングしますけど、何を選ぶかは皆さんの自由です。

宮野さん
 先生が1人1人に降りたったんやって。

河上さん
 そう。降りたって頂いたのに、それを受け取れへん、受け取るもなんも自由やけどね。

宮野さん
 真祈りしやすいように降り立ってくださった。ただ役割は皆さん違うから、ずっと前に河上さんが言ったみたいにね、小っちゃな灯もあれば、懐中電灯で言いはるよね、大きな光もあれば小っちゃい灯も要るよねっていう。しかも役割が皆さん違うから、それぞれのお祈りが真祈りが絶対必要。だから先生は皆さん一人一人に降り立ったと。

 降り立っていらっしゃらない方は誰一人いない。でも、降り立ったからって何がどうなんっていうのは、多分誰にも分からないと思う。分からないけど、ただ淡々と真祈りするだけと。それが報い求めずっていうことかなと思いますが。

河上さん
 そう。結果を掴むな、現実を掴むなっていうのは報いを求めてるからや。もうそれに尽きるわけ。だから、「なんで地震揺れたの?」って掴むとね、報いを求めてるからまた揺れるの。要するに何で地震揺れた?って本当はみんなのせいや。なのに神さまのせいで揺れたみたいにみんな勘違いして。あの3.11の時でもね、そういう質問になってたんや。
 
 先生はそれを笑ってごまかしてね、その人が(揺れたのは、神さまが、したみたいに、決めつけて)それ以上マイナスを積まないようにと思って、笑って笑ってごまかして、ああいう説明してくださったわけですけども。3.11の時の録音を、また皆さん聞かれたらいいと思うけどね、ここでみんな集まって聞いたわけですけど。どっちにしても現実を無視できなあかんの。済んだことはもうええねん、常にね。もうええから、これからどうするかやねんけど。これから真祈りしてくださいってお願いしてるだけ。

 村人も一緒です。済んだ事はいいから、これから真祈りしようとしてくれないと困るっていうことをね。なのに自分は先生からこう聞いたっていう人がおるから、今まではあんまり言うと、その人を責めることになるし、かわいそうだと思って言わなかったけど、今はっきり言いましたけどね。

 先生から直接お聞きしてんやったら、なんで真剣にしてなかったか。真剣にできなかったんやったら聞いたという意味にはならない。先生は一度しか言われないからね、いつも言うように。聞き逃したら終わりやし。幸いにして聞いたんやったら、なんで本当に命がけでやらんかったか。それは先生を信じてない。頼ってるだけやからや。甘えてるだけや。甘えてる人間が、自分は先生からこう聞いたってね、言って、神さまの働きを邪魔してもらったら困る。

 これからはおまけないから、それなりのことはその人の体に表れます。僕がするんと違う。神さまを邪魔したことによって、神さまの光を受け損なって肉体の調子が崩れる。今まではおまけがあるから、神さまの事なんかないわっていう人でも、ちゃんと肉体が維持出来るようにして貰っていただけです。おまけは村人だけじゃなくて全人類に対してのことですよ。
 
 これからは、同じようにワクチンを打っててもね、神さまの光を受け損なってる人はどんどん色んな症状を表すし、神さまの光を100%受けている人は何回ワクチンを受けたって全然影響を受けません。当たり前や。ワクチンで生きてるんと違うもん。神さまの命、光で生きてるんやから。で、神さまの光を100%受ける方法が真祈りやから真祈り。でも真祈り難しいから印可書奉読と手振りと「宇宙神ありがとうございます」と言ってるだけ。

 本当は「ありがとうございます」の十文字が一大循環の姿として躍動してるんですよ。ところが、みんな止めてしか受け止めないからね。ほんで「う」の言霊を入れて「う ありがとうございます」に先生にしようかと言うから、いや「う」ではみんな、あれ?って言うから、そしたら「宇宙神」でいこうということで、「宇宙神ありがとうございます」なったわけ。それによって、「ありがとうございます」がウッと動く感覚が、みんな分かるからね。なのに「宇宙神」を小さく捉える人もおるし、なかなか大変やから印可書にしたりしてるわけですけども。本当にどれを選んでいったら、「みんな光」を選んでいただいてもいいわけですよ。
 
 でも真剣にやってみたら分かる。やっぱりやりにくいって。で、「なるほど、先生が大おまけとして出してくださったのが一番やりやすい。」っていうのは、真剣にやってもらったら分かります。やりもせんとね、ああやこうや言うのは止めていただきたい。それはこれからは本当に神さまの邪魔したことになるから光を受け損なって、自分で苦しくなるだけ。息を止めるようなもんよ。光を受け損なうというのは。
 
 この空気がこの現世は光なわけですけども、息止めたらもう苦しいやろ?そういう感じ。神さまの邪魔したら息が止まっていって、自分で苦しむ。僕がするんちゃうから。僕にはそんな力はない。みんな神さまの光で出来てるけど、受ける受けないは、みんなの自由だということです。

 で、もう一つのおまけは、このお祈りの部屋は真祈りしやすい場所にしてあるんです。護摩の会場とここはね、だからもっと、ならなあかんけど、ただもう毎日でもここに通って真祈りしてくださいっていうとね、無理して通って途中で事故を起こす人も出てくるから、あんまり言わないだけで。ゆとりある限りは、ここへ来てお祈りされる方が、やりやすいのはやりやすいです。でも無理してね、やっぱり遠距離の人ほど途中で居眠り運転なったりね、お金もかかるしね、ありますから、そこはちゃんと自分の責任の総責任者としての範囲においてね、誰にも迷惑はかけない状態で来れる方は来てください。
 
 村人は勿論すぐ来られるんだから来てください。眠いという言い訳は通りません。たかだか朝2時間、夜2時間ぐらいなんやねんとか僕は思うけど。

宮野さん
 質問。昨日の中で、隙間をうまく使う真祈りに隙間を使うという話があったと思うんですが、例えば2時間、村人だけに限らず、こちらでお祈りをするのに2時間という時間を言われてますけど。

河上さん
 うん10分でも1時間でもいいのよ、本当はね。ただ、ご自身の感覚としてよ、する人の感覚として10分やったら足りないんじゃないの?1時間で本当にいいの?っていうのがあるだろうから、2時間という目標に対してした方がと思って言ってるだけで。1時間なんてお祈りしたらあっという間やからね。

宮野さん
 逆もあって、「たったこんだけの時間やけど、それでもいいんやろか。」って思う。それでもここに来て、1分で2分でも5分でも10分でもしようっていうのも…

河上さん
 勿論ありです。ありですけど、要するに自分の職場とかね、家庭とかの周りの人に迷惑をかけない範囲で来ようと思うと、わずか1分のために1時間もかけて通うなんてのは勿体ないじゃない?っていう感じですね。勿論それでもいいです。

宮野さん
 村人に関してでもです。いかがですか?

河上さん
 村人はな、そんな甘いこと言うてられへん状態にあるねんって。今までしてたらそんでいけたんやって。(おまけの無いこれからは、必死で、真剣にしてもらわないと、ご自分の体に、不調がでます。)

宮野さん
 今までは別としても、今ほら、これからのことを言ってるわけで

河上さん
 これからは、もう凄く追い詰められてるから村人は大変やねん。

宮野さん
 でもそのね、追い詰められてる中で、ちょっとでもしていくっていう…

河上さん
 優しいね、あなたは、もう。どうぞ今決めてください。僕はちょっとトイレ行ってきます。トイレに行ってる間に決めてください。

宮野さん
 さっさと帰って来てね。

 水車でも風車でも最初の少し動かすのを、何事もまず最初の少し動かすっていう少しずつの力が要るのかなと思うんですね。

 たくさんのことをハードル上げて、今までやってなかって、さあ今からいきなり2時間、さあ今から一日中やろうって言ったって、そうそう簡単に出来るもんじゃないかなと。

 気持ちはあっても、出来るもんじゃないかなと思うんで。でも最初のひと転がしからが大事なのかなと。そしたら、先ほど言った風車とか水車でも、最初は力が入らないと動かないけども、ちょっとずつ動かしてれば、だんだんだんだんと大きなものが動いていくっていうのと一緒やと思うんですね。

 真祈りは、やっぱり無限大無限力なので、神さま力は絶大なものなので、最初の小っちゃな力からスタートしよう、真祈りしようという気持ちからがどんどんどんどん大きくなってくる。大きくなっていても感じていったら、もっともっとお祈りしようというふうになるんじゃないかと。

 確かに河上さんのおっしゃるように、本当に切羽詰まってて厳しい状態で、昨日もかなり、こちらが終わった後もかなり厳しい状態だったんですけど、それでも皆さまの1人1人の真祈りが必要なので、ちょっとずつでもいいので来て、真祈りをするっていう。皆さん多分私○○○ですけど、知ってないわけじゃないと。皆さん知ってらっしゃるでしょうし、知ろうともなさってると思うんですけども、でも、状況がかなり切羽詰まってて本当に地球が存在するのかなっていうぐらい、危ういところまできてます。
 
 先ほど言ったように、必ず皆さんが全然(現実を)無視出来るんであれば、現実を掴まない、そんなことが平気よ全然出来るからって。横でミサイルを撃ち込まれても全然平気よ。もっときつい言い方をすれば、身内で真横で自分の身内がいきなり爆破されました、死にました。という状態であっても、いや、現実無視できますっていうぐらいのことが平気で起こるけども、それでも大丈夫、それも必要で起こってるんだっていうぐらい真祈りができているならば、そんな必要もないでしょうけど、それが出来ないからこそ、起こる前に、皆さんの真祈りで少しでも神さまのお役にお手伝いができればということで、河上さんがかなり厳しいことをおっしゃるんですね。

 決して村人のことっていうのは凄いチャンスで、村人を責めるんではなくて村人の姿を見て、村人はまあちょっとですよね、外にいらっしゃる方が多いわけですから。そしたらその姿を見て、緩やかに来ている私達はもっと時間があるんだ。時間はないですけど時間がある、少しは遅れてくるわけだから。そしたらやることが出来るんじゃないって話ですよね。
 
 村人はあんなふうに言われてますけども、でも言われてることは実際には、私達1人1人が言われてることの方がもっと厳しいと思います。聖地にいるからって言われてますけども、でも外にいる私達が、真祈りができてないから、現実に目を奪われてる。毎日の生活に心奪われてるから、どうしても他人に頼ってるんやろね。「村人がお祈りしてへんからやろ。」もしくは、「あの人がこう言ったからやろ。」って、人のせいにする言い訳をする。それはもう一緒のことかなと思います。

 全て今起こってることが全部自分の世界なんだという中で、真祈りをひたすらしていただければ、きっと私はまだチャンスはあるのかなと。でないと、こんなふうに生かされてるはずがないですもんね。河上さんの寿命を延ばされて、皆さんがここに来れる状況を作ってくださって。昨日も言いましたけど、空気を与えてくださって、こちらに来れる環境を作ってくださって。健康と生活とお金と…、ここに来るだけのものは皆さん与えてくださってるから、ここに集うことが出来るわけでしょう?
 
 勿論、先生に対する信仰心もありますけど、信頼っていうのもありますでしょうけど、先ず、こちら来れるっていうこと自体がもう奇跡だと思います。その奇跡が、与えられてるチャンスをなぜ棒に振るのかなと。今、せっかくのチャンスなので、甲辰が進んで巳年が来たこの今、本当に際どい中を皆さんで乗り越えられればと思ってますので。

 河上さんは厳しいことをおっしゃいますけど、村人に一つ任せるんじゃなくて(村人まかせにするんではなくて)自分たちが支え合うことの方が大事なのかなと思います。

…けど、如何?おかえりやす。早く帰って来てほしかったわ。後ろで聞いてんと。はい、補足!

河上さん
 まあ、本当にもうこっちの寿命もないし、もういいやん、みんな好きにするんやからっていうことで。かなり、もうみんな好きにしてっていう感じに僕はなってたんですけど、まだまだおまけ出してするって言って、みどりさんが伸ばしてくださってるんでね。だから、今のみどりさんの言われた内容のようにして、みんなで支え合っていきたいと思いますね。

 まず、例えば村人と自分をね、分けた時点でも、もうやっぱり真祈りできてないねんて。それは自分と人類を分けている時点で、もうなってない。だから、ウクライナで凄い大変なこと、ガザ地区でも大変なことになってるんだけど、やっぱりよそ事でしょう?あれを、あのニュースを聞く毎に、本当に胸がね、ズキンズキンと痛むぐらいは一体感が欲しいんです。それがないと真祈りになってないの。それくらいのものなんですよ。だから、まずそれを分かってください。

宮野さん
 あの、すみません。そこちょっとね、矛盾してるとこで難しいなと多分思いはる。「現実無視で置いとかなあかん。」っていうところと、さっき「自分のものとしてズキンズキンとくるようにせなあかん。」ね、そこって凄い難しいかと思うんですけど。

河上さん
 ああ、そうか。いいわゆるゲームの世界でね、みんな遊ぶじゃないですか。今、テレビゲームというか、あるじゃないですか。その時、ゲームをしてる自分とゲームの中は別でしょう?別だけどゲームの中を掴んで楽しむんじゃないですか。そういう感じなんですよ。金剛不壊心(こんごうふえしん)としての真(まこと)の本心の自分としての自分は、ゲームの外に座ってるの。で、そのゲームの中へ入れ子構造的に入ってね、それぞれゲームの主人公となって対戦相手と戦ったり、あるいは今のネットゲームやったら、麻雀でも遠距離からお互い麻雀出来るでしょう?そういう感じで画面の中の麻雀でやるじゃないですか。そういう感じの、もうちょっと大がかりな、この3次元の現世の世界というのをね。
 
 現実は無視なんですけども、まず現実を掴んでる人の方が多いでしょう?で、掴んでる人の心を我が心として、まず響きを合わさないとあかん。だから、ガザ地区とかウクライナで凄い状態になって苦しんでる人の状態をね、感じて、それで真祈りしてっていうことが要るんですよ。

 これは病気直しの時の、先生から教わった基本原理なんですけども、いろんな病気の人が来るじゃないですか。で、相手の症状を一旦こっちに受け止めるんです。どんな病気でも、いったん、症状を自分の体に表してからお祈りして消し去るんです。というかたちを取らないと、入れ子構造的に光が通らない。それを今までは難しかったんだけど、今年の巳年から光が全部に行き渡る年になったので、その先生からの大おまけの真祈りするだけでね、心を痛めながら真祈りするだけで変わりますから。心痛めるのも、そういう状態があるとして掴むんじゃなくって、要するにタンスの裏を照らすのにね、懐中電灯でないと見えないでしょう?サーチライトを持ってきたら眩しくて見えないでしょう?そういう感じで、弱い光にしていく時に、同じ痛みを感じないとあかんのですよ。でもそれでも何億分の1なんですよ。でもそういう感じなの。
 
 だから掴むんじゃなくて感じ取るっていう微妙なとこですね。掴んでどうこうじゃないんだけど…、でいいかな?ちょっと質問して。なかなか説明しにくいところですけど。同慈、同悲、同喜、同捨っていうてね、慈、悲、喜、捨の心なんですけども。

宮野さん
 分かりにく。

河上さん
 あかんな。この病気治しも伝授の部分やったからね。

宮野さん
 病気直しの場合は全然私は分かる。他の人は分かってへんと思うわ。タンスの光の話とか、ちょっとこう…もうちょっと。まださっきのゲームの話の方が没頭してる自分がいるのと、そうじゃない現実は自分がいる方が、まだ分かりやすいのかなと思う。

河上さん
 ああ、そうやね。だからゲームに没頭してる自分で、ゲームの中に入り込んだら永遠に終わらないでしょう?

宮野さん
 だからアバターの状態。

河上さん
 うん。だから、一時的には常に本心のゲームをしてる自分に戻らないとね。完全にゲームに取り込まれるじゃないですか?そういう、取り込まれないようにするのが真祈りなの。

 でも真祈りをしてると、ゲームをしないじゃないですか。ね。でも、ゲームの中に取り込まれてる人がいるから、ゲームをして、ちょっと中に入りながら、繰り返すわけですね。それを往相還相(おうそうげんそう)の呼吸法と言って、呼吸法とセットにしてやるんです。

宮野さん
 往相還相の呼吸法…

河上さん
 だから、吐く息、吸う息、吐く息の呼吸法で、ふいごのようにね。例えば、煙があるとするじゃないですか。ふいごのように煙を吸って、ふいごの中で綺麗にして綺麗な空気を出すという。そういう感じが真祈りの効果なんですね。
 
 だから、それは要するにマイナスをあるとして掴むんじゃなくて、マイナスをふいごの中に吸い込むでしょう?吸い込んだらマイナスはないからプラスになって、綺麗にして出せるということなんです。だからマイナスを綺麗にするんじゃなくて、一体化したら全部プラスになるの。

 それはインク瓶をね、琵琶湖に入れるようなもの。インク自身は真っ黒でマイナスだとするじゃないですか。でも「絶対の中心」というね、「無限大の外、遥か彼方」という真(まこと)の本心に一体化させたら、もう琵琶湖の綺麗な水になってるでしょう?ああいう感じです。それを今、言ったんですけど。それくらい自分と関係ないわと思った時点で、自分を小さくしてるから真祈りができなくなるということです。別の言い方で言うとね。

 色々と迷った時は、神書の目次を読んでください。神書の目次に大体、色んな迷った時の回答が書いてあります。その目次だけで分かる人はそれでいいし、分からなかったら、もう一遍、中の目次の部分を読まれて。声に出して読まれたら分かります。声に出して読めば、全然自分が分かってないところが分かりますから。そこはまた。質問に来ていただくなり、色々して頂いたらいいです。

 (みんなが集まって、声に出して読むというのは、宗教団体のやることで、文章の一部づつ、順番に輪読するということでも、自由意志を縛るから、意味がありません。)

 (おひとりおひとりが、それぞれ、自分なりに、真剣に、声を出して、読むから、ご自分がわからないところが、わかるようになるのです。また、集まって、読まないと、読めないというのは、甘えであって、真剣ではないので、いみがありません。)

 (なぜ、集まって、輪読するのが、よくないかと申しますと、虚栄心が、出てくるからです。いつも、申しますように、”見栄””うそ””愚痴(いいわけ)”の、マイナスのループという、繰り返しの負の連鎖に入ってしまいます。)


宮野さん
 質問に来て頂いたりって、質問に。いつどこで聞けるんですかね?

河上さん
 護摩の時とか。一応僕のメールアドレスは言ってあるから。

宮野さん
 みんな聞きたいやん。

河上さん
 うん。だから答えは基本的には、メールアドレスに来た答えはここの掲示板に書いてるわけです。

宮野さん
 もしくは護摩の会場でお話をする。

河上さん
 そうです。だから、ここの掲示板に書いてるのは。僕が勝手に書いてるのと違って、来た相談に対して書いています。

 で、この前のはお受験のお子さまを持っておられる親御さん達の質問がたくさん集まってきていて、それで…、あなた(参加者kさんに対して)は質問出してへんからな、分かってるよ。でも、やっぱり今はみんな大変やからね。勉強の仕方を学校で教えなくなったんですね、長い間。それは何故かというと、出来ない子を居残りで教えることが駄目ってなってね。僕らの頃は出来ない子は居残りで残して、先生が、「それは、こういうふうに考えてこうしてだから、算数を解こうと思ったら、まずこういうふうにまず勉強してね、ある程度自分なりに解いてみて、分からないところを作ってから授業を受けなさい。」とか色々と教えてくださったんです。その教わった内容を掲示板に書いたんですけども。それが今は、もう居残りが出来ないから、授業だけだったら、付いていけない子は、そのまま振り落とされるだけで、どうしようもなくなってるんで色々書きました。

 で、リクルートの(スタディサプリ)は、10年ほど前に僕は見てたんですけど、この前早速調べてくださって、2800円ぐらい?月額2800円に値上がりしてるそうです。でもあれは凄くいいものでね、何べんも繰り返して見れるし、色んな科目を見れるし、でも今は科目ごとに値段がついてるかもしれんけど、それはそれなりに調べてやってください。でも、凄くいいものはいいものです。あれがあるのを忘れててね、この質問が来た時にお祈りしていてふっと思い出した。そうやった、あったと思ってね。その時にちゃんと調べて値段を書けばよかったんだけど、10年前の値段を(書いてしまった)。


 だから、あいつは自分と違うんだという意識が、もうマイナスの思いなんですね。そこだけです。それって結局自分が一番正しいってね、自覚するしないに関わらず思ってるから。みんな大なり小なりそれを持ってるからね。持ってるから、ご近所のトラブルとかね、会社のトラブルとか、色々トラブルが出るの。トラブルのままで済めばいいけど、辛抱しきれんかったら喧嘩になっていってね。国会の論争を見ててもそうでしょう?歯車の噛み合わない論争をしてるわけ。
 
 本当はみんなで支え合ってやから、大きな国のレベルで言うと、みんなが10のうちね、2とか3を辛抱したら一番うまくいくわけですよ。せやけど、自分のところが一番良くなるようにって主張しあうわけでしょう?国会なんかはね。そういうものです。だからまず真祈り。

 「みんなが完璧なる一つ」とか、「真(まこと)の神さまと一つ」とか、理屈で言えば、そうかなあ、なんですけど、理屈で分かっただけでは、さっきの「先生から、こう聞いた」というのと一緒よ。理屈で「先生から、自分はこう聞いた。」、「手振りは要らんって聞いた。」っていうだけやね。手振りが要らんって聞いた人は、手振りなしで必死でやってみたら、手振りが要るんかどうか分かるから。もう一辺先生が生きていらっしゃる時やったらね、「やっぱり先生、手振り要りますわ。」って言うていかないとあかん。

 せやけど、聞くだけ聞いてせえへんやろ、みんな。その人を責めてるんと違うで、みんなそうやもん。先生の話ね、聞くだけ聞いてせえへんねん。それでも、先生はそれを神書に残してくださったんや。でも読みもせえへん。読み方も分からん。(先生は)神書は声を出して読むようにって指示してるんだけど、(先生は相手の自由意志を縛らないから)1回しか言えへんからみんな聞き落とす。もう色々あるけど、済んだことはいいから、これから色々工夫してやってください。

 例えば真祈りすると眠らなくて済むとかね、いろんな現象が起こってきますけど、そういう一時的、一時的じゃないんですけど、そういう現象を一つ一つに心奪われたら駄目なんですよ。なぜかというと、本当に真祈りというのは無限力だから、そんな一時的な、そんなんだけとは違うの。もう、もっと凄いもんやねん。せやけど、光が見えたとかね、幸せいっぱいの気分になったとかのところでみんな止まるの。それが終着点だと思って。そうじゃなくてもっと凄いからね。どの姿も、例えば光が見えたら喜んで感謝してたらいいだけ。眠らなくて済んだら喜んで、眠らなくて済む分だけよく勉強出来るとかね、感謝してたらいいだけ。一々人にも(他人にも)言わんでいいし、只々、どの時も神さまが一番良いようにしてくださってるから喜んで感謝して、それを楽しんで、どんどんどんどん奥へ入っていかなあかん。それが真祈りです。

 だからどの状況が起こっても喜ぶだけ。せやから逆に言うと、真祈りして凄く痛くなったっていっても、それを喜んだらいいの。そしたら、その痛みだけで消えたということやから。そこがね、なかなか痛みになると、みんな文句言うからね。それで、痛みにならない時に、みんなで真祈りをしようねって、一生懸命今言ってる。

 もう、いよいよ今年からは待ったなしやからね。いざ痛いのが出てからな、それを無視して真祈りするねん、それが真祈りやって言うよ、僕は。言うけど、本人は、痛いし、そんなもんって言って、どうしようもないやんかっていうことです。

 だから、自分の都合は横に置いといてっていう意味は、そういう意味なんですよ。痛みがあろうが何があろうか自分の都合は横に置いて真祈りするねん。そしたら本当に消えるんよ。せやけど、「この痛いの消してくれ!」って言ったら、もう自分の都合やから消えへんの。自分の都合を優先するのは現実をつかんでるということよ。神さまは一番良いようにしてるんだから、今のある状態に文句を言ってもしょうがないの。
 
 だって、例えば収入が少なくてもね、食べて生きていける状態にして貰ってるだけで良かったやのにな、まだ文句を言うから喧嘩になるんやろ?また村人に戻って申し訳ないけど。な、もうそんなもん文句言うてる暇はないんやけど、みんなは自分の都合を優先するから文句になってくる。

 だから文句が出た時は、思い巡らしてるからってね。自分の都合は横に置いといてって、神さまの都合を優先してって。神さまの都合って真祈りですっていうことを一生懸命言ってるだけで。

 それでね、本当に印可書奉読をひたすらしてたら、印可書奉読は神さまのお手伝いということを信じててよ、あるいは手振りを入れながら「宇宙神ありがとうございます」、勿論(手振り)入れなくてもいいよ、「宇宙神ありがとうございます」って言ってお祈りすることが、真(まこと)の神さまのお手伝いって本当に信じられたら、無限の知恵が本当に涌いてくるから。同じ仕事をするにしても、トラブルなしに効率よく収まるねん。すると、人の3倍じゃなくて人の10倍働けるようになる。
 
 先生が人の十倍働きなさいっていうのは、普通は試行錯誤するわけでしょう?こっちやってみてあかんから、こっちでやり直そうとかあるわけですけど、本当に真祈りしてたら、全部透き通るように見えてな、スススっと行くの。行くから、かかる時間が10分の1になって、何でもこなしていけるようになっていくの。また逆に真祈りしてると、どんどん人が助けてくれるの。で、人の10倍働けるようになるんです。人の3倍はね、自分が寝る間も惜しんで死ぬ思いで働いたら人の3倍は誰でもできます。でも10倍となると真祈りしないと出来ない。

 でも、その教え方では通じないから、もっと簡単にね、印可書奉読にしてくださったわけです。印可書奉読を信じてやって頂いたら、あるいは「宇宙神ありがとうございます」を手振り無しでも(手振りありでも)信じてやって頂いたら、本当に知恵が涌いて、今言ってる意味が今年はよく分かる年です。ダイレクトに出ます。

 逆に言うと、信じていない人は光を自分がよう(うまく)受け取れないからね、どんどん体が不調になるだけです。で、真祈りを広めることに失敗、要するに、ここに集ってくださっている皆さん方の真祈りがうまくいかなかったら、人類の7割が死滅する状態までいきます。光を受け取れないからね。勝手に枯れるんよ。今まではおまけでみんな生かしてもらったんだけど、ここだけじゃなくて全人類がそうなんだ。
 
 だからここの人の真祈りが本当に大切なの。で、ここの人の真祈りが響くとね、本当にみんながね、助け合うのがいいんだって分かるのよ。理屈抜きに。理屈で分かってたってみんな出来ないの。やっぱり家族大事、子供大事ってなるからね。でも真祈りしたら、理屈抜きに助け合うだけでいいんだって分かるの。そしたら、今の受験の問題でもね、子供同士で教え合いしたら一気に理解できて、みんなの学力は上がるんよ。でも今は、教え合いしたらもったいないみたいな世界やからね。余計うまいこといかない。

 で、もうそんな、そのレベルのことは、もうスタディサプリに任して…、違うか(笑)

宮野さん
 回し者?リクルートの回し者やな(笑)

河上さん
 数学をちょっと復習したい時に、10年ほど前ですけど、それを使ってよく分かったんでね。分かったけど、コロッと忘れてた。もう本当にいろんな意味で今忙しいからね。


令和7年1月2日河上さんお話−2(2025年1月2日−2)

質問
 はい。1点、意識の確認です。この度、本当に久しぶりに勉強会をして下さって本当にありがとうございます

河上さん
 うっかり返事したらずっとせなあかんから今ちょっと、詰まったわ。(笑)

質問
 それで改めて意識の確認です。神書の方に甘えの心は本心開発を妨げるっていうのがございます。

河上さん
 そうそう。

質問
 で、護摩で質問を受けてくださっているっていうことがあるんですけれども、やっぱりその、そこに甘えがないか?

河上さん
 いやそうやねんで。そやねんけどね、まず、神書読もうというみんなのこのワッていうあれが湧き起らない限りは、あるいわ神書読めないけど、先生のテープはね、録音はみんなで聞きましょうというも、まだ湧き起こってへんから、もう甘えがあるのは仕方ないと思ってしてます。

 結局、みんな全人類の自由意志の総合で人類の運命決まるわけですけども、甘えがなくなっていかなかったら僕の真祈り足らんかったせいで、申し訳ないけど滅びてください。それだけです。(笑)いやほんまやて。ほんまの話。本当にそれだけです。ただ、巳年ですので、みんな心の中に光を染み込ませる年になったんでね、大丈夫だと思ってますけども。

質問
 こういうことを、状況説明するのはよくないのかもしれないんですけどけども、私自身の問題と思いながらお話すると、やっぱりそこにいくら質問をしても、やっぱりそこに甘えがあると結局どんどんどんどん欲望が湧いてくる。それただ、あの冒頭におっしゃったように、思い巡らすにしても、自分の都合で思い巡らすのか、それとも神さまの意識というか神さま・・
 
河上さん
 うん。

質問
 思いめぐらしっていうのがやっぱりあると思っているんですけれども、自問自答するっていうことがとても大切だと、やっぱりこういう本当に一緒に勉強させていただくお祈りを一緒にさせていただけるチャンスっていうのはすごく貴重なもので、やっぱり今一度、この貴重性っていうのをやっぱり、しっかり受けとめるというか、
 
河上さん
 うん、でもそんなんな、分かる人は分かるけど分からない人分からないから。
 
質問
 わかりました。はい。なに言ってるかどうかですけど。
 
河上さん
 その真剣さというのはな、もう、その人の自由意志やからどうしようもないよ。例えば私は「宇宙神ありがとうございます」って聞いてるって言うて、言う人がおったわけでしょ、さっきの話だとね、手振りなしでね。ほんだら本当に真剣な人やったら、先生からそれを聞いたら、必死で「宇宙神ありがとうございます。」ってするよ。聞くだけ聞いてせえへんだけ、真剣でないし、無責任や。ね?自分がしてないのにこういうふうに聞いたんだ、手振りはいらんのだって人に言うなんてもっと無責任よ。先生から手振りいらないって聞いたって言うんやったら、まあ手振りの話をよけといても「宇宙神ありがとうございます」。って聞いたのだったら、真剣にしろよ、してから人に言えよ。真剣にもせんと人にどうこう言うのはもう無責任極まりない。

 印可書奉読は先生から最初に出して頂いたのを真剣にしてみて、これは、光強すぎて読める人少ないですからって、先生にお願いして、もうちょっとしてくださいって言ったら、あとは「お前が作れ」って言われてやっただけでね、やっぱりこっちが真剣に試してみて試してみて、よりやってみて、ほんで、先生にお願いしたから、先生も答えてくださったわけで、その中で作り上げたものを先生お見せしたら、「本物が現れた」って、もうすごく喜んで頂いてというそれだけです。
 
 何を先生がどう聞いたか、色んな人おるからね、あれですけど、聞いてんやったらなぜ実行しなかったか?実行してから人に言え。せやのに実行もせんと印可書は駄目だとか、いうのはもう無責任を超えて神さまの邪魔してることに今年からはなるから、色々と大騒ぎしてます。
 
 今まではおまけがあったからまあまあですんだわけですけどね。そうでしょ?先生から聞いたんやったら、まず自分が責任持って真剣にやってみて、そこからや、人に言うのは、それを無責任に自分がやりもせんと「こうやってんで。」って噂話じゃないねんから。いやほんまの話や。笑っているけどな、噂話だったらそんなもんや、「ああやってんて、あの人あんなにしてんてー。」ってやるけど、これは真祈りやから、真祈りを弄(もてあそ)んでもらったら困る。

質問者
 ありがとうございます

質問
 先ほどの噂話なんですけれども、神書で先生はっきりと(神書339p:人の噂は決して信じてはいけない)・・

河上さん
 書いてるよ。神書に書いてあるけどな、みんな神書読まないもの。だから、中身を読まなくていいけど目次だけを見てくれって言ってるわけよ。目次見たら、ともかく概略はちゃんと分かるから。その目次の見てズキッてくるからね。ズキッときたら本文読める。

宮野さん:
 みんな都合悪いからね、読みやすいところから読む。自分にとって差し支えないところから読む。ズキッと来たところ読めない。(笑)

河上さん
 まだそれでも読むだけマシや、読みもせえへんみんな。本当はね、先生は残された金で神書を一杯刷ってくれっていうことやったんです。そやけど、村人の自由意志に任せてくれやったんで、ずっと黙ってます。それぐらい神書は凄いものなんです。どうぞ。

質問
 神書の話が出ましたので、この前から読んでいてちょっと一度お聞きしたいなと思ってたところなんですが、193ページの「全大宇宙は一大調和のパノラマ」という所で十界ですね、地獄界から仏界まではそのままで、宇宙絶体神の全徳が、無限の無限の輝きを持って光一元に表現されている最高傑作なんです。そのままなんですが、十界は本心が種まかれ発芽し、成長し、花開き、実を結ぶ、その成長過程の全てを表現しているわけですということで、十界とお聞きしますと、何故か、あの虚の世界というイメージがすぐしてきます。
 
河上さん
 だから、真の世界の十界があってね、ほんで、どんどん入れ子構造的に虚の世界の十界まで、簡単に言うと一直線で、本当はもう枝わかれしてもっと凄いんですけど、簡単に説明すると真の世界の十界があって、で、一直線状に螺旋状ですけど、その流れのままで虚の世界の十界がある。だから虚の世界の十界の地獄といえども、完全円満完璧大調和の姿。
 
 その地獄の阿鼻叫喚の姿をね、あの苦しい大変な世界だって見えてるでしょ?みんな。見えてるのは自分の心のマイナスやね。真のプラスの言葉で見たら、どの姿も完全円満完璧大調和。だからほら、遊園地のね、お化け屋敷、あれ怖いようにしてあるけど、ちゃんと燃えないようにしてあるやろ?ああいう感じで見えるね。あの地獄がね、遊園地のアトラクションのように見えるわけよ。そうでしょ?わざわざ怖いジェットコースターに乗るんやろ、わざわざ何かほら、この遊園地でもね。地獄もわざわざ怖いのを体験しに行ってるわけよ。そういう意味では、完全円満完璧大調和や。
  
 もし大調和でなかったら、地獄行ったら命が消えるわけよ。消えへんやろ?毎回針山登ってはまた楽しかったよって言って、また登らされるわけや。それは人を責める心の人は人を責めるのが楽しいから責めてきたわけよ。ね?その楽しみを地獄でもう一遍楽しませてあげようと言うて針山登らせてもらう。それで人責めるのは楽しくないわって分かったら登らなくて済む。
 
 でも、いつまでも、俺がこんな針山登らなあかんのは、あいつのせいや、って責めていたら、何べんも登らせて貰えるけども、命はなくならないでしょ?それで完全円満完璧大調和。ちゃんとみんなが勉強出来るのは凄いアトラクション。で、それすら嫌だという人は、犬猫に落ちるわけで。犬・猫に落ちたら、努力向上する気持ちがないということだから、二度と人間に戻ってこれない。そういうことなんで人間に戻ってこない理由はね。
 
 みんなね、何やかや言ったって、赤ん坊のときは歩けなくて喋らなかったのに、努力向上する目的を持ってて出来たわけですよ。それを放棄するのはもう人間を放棄するっていうことや。で、人間と動物の違いは何かいうと、動物は出来るか出来ないかの判断しかしない。コンピュータも一緒なの。AIっていうのはね、出来るか出来ないかの判断しかしない。ね?でも人間はね、やるかやらないかを決断出来る。
 
 それを分かり易く言うと、飛行機のない時代にコンピュータがあったとしましょう。わかりやすく説明するために。ほんだら、その当時の飛行機ない時代のコンピュータに「人間は空を飛ぶことが出来るか?」って聞くと「できません」って言います。当たり前やろ?データがそれしかないから。またその当時の大半の人も「空飛ぶんや」って言ったら「あほか!こいつ。なんで人間空飛べんねん、鳥やないのに」って言うわけでしょ?でも、やるかやらないかで「やるんだ空を飛ぶんだ」って決断したら、夢を持ってね、色んなことを考えて、リリエンタールとかあったわけでしょ?ちゃんと空を飛べるようになるわけじゃないですか。その違いなんですよ。
 
 動物は受動的なままで、進むことはないの。でも人間はどんどん進めるわけ。で、それを放棄したら動物に戻る。それだけ。で、それを放棄しないように地獄で楽しましてですね、頑張って、その努力するというのを覚えるわけ。でも自由意志を大事にするからね、地獄が嫌かどうかは聞かれるわけ。「嫌です」って言ったら、犬猫になって終わる。本人幸せやで。勉強せんでいいし、ご飯もらえて寝るとこあって、可愛がって貰えてやから。
 
質問
 真の世界に十界があるっていうのは、ちょっとわかりづらい。

宮野さん
 ああ真の十界って言い方

河上さん
 真の十界というのはね

宮野さん
 基本的には十界です。
 
質問
 十界が真の世界にあるというのは分からないです。真の世界と、真の世界にある十界とは違う、表現が違うので。

河上さん
 うーん、だから、真の世界というのが、人間の英知を超えた世界なんですけども、無限の無限の輝きで、無限の無限の幸せのね、無条件の世界。無条件ということはありとあらゆるものがある、ありとあらゆる表現があるわけ。
 
 例えばね、この現世(うつしよ)もそうですけど1年中桜咲いていても面白ないやろ?桜が散って、夏は夏の花が咲いて、春は春の花が咲いてね、もうあの秋は秋の花が咲いて、あるわけでしょ?それが楽しい。そういう感じでありとある表現が常に現れては消えていくのが真の世界です。

 だから、真の神さまが一瞬一瞬新たに現れて、同じ真の神さまは二度とないって言って、先生が書かれてるわけです。その中で十界としてね、色んな表現がバーンと広がって、一瞬で消える。「三千世界一度に開く梅の花」っていうんですけど、梅というのは真の神さまの命そのものの表現なんです。で、あるんですけど、梅、うずめるとか,動くとか、目で見るとかね、そういう色んな言霊が梅という響きに入ってるわけですけども、そういうものなんです。だから、その一大循環の世界が真(まこと)の世界ですけども、それ、光輝いた光だけの世界と思ったら違うわけ。光で出来た色んな表現、それを現世に移してきて、色んな表現が固定化してるように見えているけども、この現世といえども、サラサラと流れているわけ。だから人間歳とる。これ固定化していたら歳取れへんで。固定化していないから歳とるし、いつも言うように怪我しても、内側から治るわけ。サラサラと流れて、ね?そういう意味で、いいですか?

質問
 はい。分りました。もう一点お聞きします。今日ですね、来るときにCDを先生のCDを聞いていたんですが、「まあこの世の中はあちらの世の中を助けるための縦穴なんだ」と、いうお話がありまして、で、ここがあるがゆえにあっちの世界を助けることが出来ると、この世はこれからなくなりますよね。

河上さん
 そうなんですよ。
 
質問
 だからその場合、助ける役目が。

河上さん
 ちがう、ちがう。もう全部一旦消すの。

質問
 あちらの世の中も含めて?

河上さん
 うん。地球霊王さまの体ってね、地球だけ違うねん。全宇宙全部地球霊王様の身体っていうの。ほんで、この今いらっしゃるこの秒速30万キロの現実という現世というこの世界は特殊な世界でね、松下先生のような凄い方も、大悪人も同時に共存出来る場所なんです。これが、あっちの世界、あの世行くと、もう完全に分かれて、同じ者しかいない世界になるわけです。で、向こうの人は全部この地上を見ているの。地上を見て、真祈りを見て悟っていくの。だからこの世が大事なの。
 
 だから先生がこの世に降りてきてくださって、真祈りの伝授をしようと必死にされて、上手く行かなかったから、「後任すわ!」って言われたから、「いやそれはあかん、何か作ってもらわないと」と印可書とかね、あったわけで、印可書受け取れへんから「宇宙神ありがとうございます」とか後、流れが今回あるわけですけども。その最後のおまけも選ばないんだったらみんな好きにしたらいいし、一旦この秒速30万キロの映画館は、解体します。

 新たにどうするかは、もうみんな落第やから言うたって仕方ない。勿論それで終わりちがうからね、新たに、又、ありますけども、その時はみんな落第してるわけよ。落第してもらったら困るから、新たに建て直す、映画館にまた入って貰いたいから、色々と言ってますけどもね。新たに入る映画館に、新たに作った映画館に入る通行手形が印可書なんです。だから先生は通行手形って書いてくださってるわけで。でも何やっても、みんな、もっと自由やからな、「好きにせいや」って言うてんのに、翠さんが「もうちょっと、もうちょっと」言うから、優しい。「もうええやん」とかと思ってる。

質問
 はい。あの以前も同じような質問をさせて頂いて、そのときの答えも覚えているんですけど。そのときの河上さんのお答えも覚えているんですが、昨日今日とお話を聞き、そしてそれ以前からお話を聞いている中で、もう本当にいよいよ本当に切羽詰まってきているっているのをひしひしと感じるんですね。それで私自身の個人のことを言うと、私は講師という仕事をしていて、そしてそれ以外にいくつかの団体や活動の代表っていう立場でもあってその講師とか代表っていう立場っていうのは、良きにつけ悪しきにつけ影響力があるんですよね。

河上さん
 はい。
 
質問
 集まってから来られる方々に影響力がある。私はなぜそういうことをやっているかっていうとこれはただ一つ。ご縁ある人がみんな本心開発の道に繋がることっていうのを思ってやっています。なので自分の講座とかではあの印可書の奉読から始まり、神書の音読で終わるというようなこともやっているんですけれども、それは自分の思いでやっていて、集まって来られる方々はもう印可書とかはもうそらんじてらっしゃるんですけれども、中には、今先ほど甘えのことについての質問もあったんですけれども、どう言ったらいいのかな。それぞれに温度が違う中で。

河上さん
 甘えのレベルが違うでしょ?

質問
 はい。その中で私はもうこんな切羽詰まってる中でね、同じことをずっとしていてええんかなっていうことを凄い感じて。
 
河上さん
 同じことをし続けるしかないって。だからいわゆる落語しか聞けん人もおるわけですよ。そういう人には、落語のレベルで光を通さなあかんしね。だから巳年なんですよ。落語のレベルでも光が通るようになった。だから色んなレベルを使ってやっていかなあかんから、みんなの真祈りがいるんですよ。それだけなんです。だから今までと同じようにやって頂いて大丈夫。必要に応じて必要な知恵が湧いてね、必要なことを、またさせられて、どんどん忙しくなるだけで暇にはなりません。楽はさせて貰えないですけども、そういうことなんです。

質問
 以前も、いや、今のやっていることをそのままやるようにっていうことなんですね。

河上さん
 必要であれば閉じれるし、

質問
 閉じれるし?

河上さん
 閉じれるし、それは自在にできます。

質問
 なるほど。

河上さん
 勝手にちゃんと収まるからね。だからそれは、考えなくて、いいから兎も角ひたすら祈って、今まで通り進んでいくだけ。それだけです。そのひたすら真祈りしいてることによって本当の知恵が湧くからね。自在に動けるんですよ。それが自分の都合ちょっとでも混ざってくると、不自由なるの。で、何よりも自分の都合が混ざるとね、人情が入ってきてね。見捨てにくいねん。こういう言い方をしたらあかんけどな。

質問
 そこをお伺いしたくて。それを私は咎めずっていう気持ちで行こうと思っているんだけど、でもやっぱりさっき言ったみたいに色んな温度差がある中で

河上さん 
 そう甘えの多い人にはね、もうもう巳年過ぎちゃったから、ずばっと「真剣になれへんあんたはどうしようもないねんけども、真剣に選ぶか選ばないか、あんたの自由やからか、勝手にせいや」でいいわけですよ。「好きにしいや」っていうことで、そういう時代に入ってしまった。今までだったら、先生から「宇宙神ありがとうございます」って聞いています、っていうだけでね、もう「そうか」ってほっとくわけですけど、これからは本当のこと言わなあかんね。

 先生からお聞きしたんやったら真剣に命がけでやってみいや。「やってから人に言え」っていうね。それと一緒で受け取りに来るんだけど受け取りに来た人にね、要するに三回までは同じ答えしていいです。

質問:三回?

河上さん
 甘えてる人は同じことを何回も聞くからね。三回過ぎたら、はっきり真剣になってもらわないと、これ以上はあんたが進みようがないから、進まない。どこ、どの道を選ぶのもあなたの自由であるから、選ぶ道だけは示して、見捨てたらいい。もう時間がないからね。

質問
 時間がないっていうのを凄い感じていて。

河上さん
 だからより真剣な人を大切にしていかなあかんのでね、真剣でない人は見捨てていくしかない。別にこっちが見捨てるということではなくて、真剣でない人は今年から光を受け取れないから、勝手に病気とか運命が悪化してね、落ちていくの。その落ちていくのを、もうおまけで助けんでいいというのを見捨てると言っています。

質問:はい、わかりました。ありがとうございます

河上さん
 突き放してじゃなくてね。あくまで「こっち行った方がいいね」とかいうのは勿論言うたらいいんですよ。「真剣になった方がいいね」とかね。

質問
 ありがとうございます

河上さん
 だから村人責めて言うてるのと違って、みんなそうやで。先生から聞いたって実行せんからこんなややこしなったんや。もうそれだけや。本当はここで、「ありがとうございます」って祈るのね、朝、2時間、夜、2時間しいてるだけでも悟れたんや、そんなに楽な時代があったんや。とくに村人はここに住んでいるから、一番早く悟れた時代やねんけど。それをみんな失っただけ。失ったけど、もうちょっと何とか拾えって言うからしてます、っていうだけで、どれを選ぼうと勿論みんなの自由です。ただ本当に今年からはおまけがないから、神さまを拒否したら拒否した分だけの状態を自分で選んでいっているだけです。

 だから神さまを100%受け取るのどうするのって言ったらそれは印可書奉読か手振り付きの「宇宙神ありがとうございます」か、勿論「宇宙神ありがとうございます」で、やりたいのであれば、やったらええやん。やってみたら分かるって、受けにくいっていうのが。
 
 僕は「天の造化主の尊、産霊精霊守り給え、幸はえ給え」でスッといったからね、あれでええねんけど、そのあれがなぜ先生お使いならなかったかいうたら、天の造化主の言霊の響きがみんな受け取れない。産霊精霊の言霊の響きは受け取れない。護り給え、幸え給えの言霊の響きは受け取れない。意味もわからずに読んでもしゃあないからダメやってん。

 出来るだけ意味をわかって、言霊を響かせれるということで今の状態になってます。だから「神の御光,御力、御命」でいくっていう人はいったらいいけど、「神の御光、御力、御命」っていうのはもうその言霊として凄い響きやね。みんな受け取られへんやろ?ほんで先生やめはった。
 
 受け取れたらいいけどね、受け取れたということは信じ切れるという事。全て「神の御光,御力、御命」で信じれるかや。そんなん言うたって都合悪いこと一杯あるやんってみんな、つい思うね。思たっら、「神の御光,御力、御命」の祈り言葉が効力を失うわけ。印可書の奉読も一緒や。印可書の奉読したら、神さまの光を100%受け止めて神さんのお仕事のお手伝いになるって信じきれなかったら、それはもう無意味やね。

 それは「宇宙神ありがとうございます」もそう。「宇宙神ありがとうございます」もすることによって、神さまのお手伝いなるって信じ切れるから役立つね。信じ切れにくいから手振りを入れたわけ。手振り入れると、いらない思い入れにくいから。でも、それはそうして神さまのお手伝いになっているって信じきれてこそ役立つのであって、真祈りになるんであって、ただ言うたらええんやなって言ったら、(自分の都合を入れているから、無条件でないから)それ真祈り違うやん。神さまのお手伝い違うやん。それを「神さまのお手伝いとする」って先生が真の神さまと約束してくださったんだから、それを使わなあかん。
 
 その五井先生のところの世界平和の祈りがね、なんで上手く行かなかったと言うと、五井先生が世界平和の祈りのところ光一元とするという神さまと約束してくださったわけですよ。でも、世界平和の祈りをしたら光一元になるというところをお祈りする人が信じきれんかった。もっと簡単に信じきれてやれるものということで、今ここにきていますけどね。白光真宏会の方は勿論、あの世界平和の祈りで行きたかったらそれ行かれたらいいんですけど、そこをまず信じきれることです。この祈り言葉を祈れば光一元なんだって。どんなにマイナスが見えたって光一元なんだって、信じ切れたら「神さまの手伝いになっているんだ」って信じきれればいいんですよ。
 
 でもみんなお祈りしながらね、あの嫁があんな文句言うたからとか、お母さんが「こんなんせよ」なんか言ってるとなーとかな、色々あるわけよ。それに心奪われたらあかん。お祈りする時は、それだけです。
 
宮野さん
 湧き上がるのと、心奪われるは違いますね。

河上さん
 そうそう、だから心の底から色んな思いが湧き上がってくるんよ。うん。その湧き上がってきたのに、心奪われずに祈れるようにしてくださったのが、印可書奉読であり、「宇宙神ありがとうございます」や。その湧き上がってきていても、神さまのお伝いになっているよって先生おっしゃって下さっているんだから、そこを信じきれんのやったら、そんななんぼ「宇宙神ありがとうございます」とやったって一緒や。
 
 せやけど、本当はね、先生から言われてんやったら、もう信じるとか信じへんと違ってね、ひたすらね、「宇宙神ありがとうございます」って突っ込まなあかん。とことんな。そんでとことんやってみて、「やっぱり無理なんです」って言ったときに先生が後押ししてくださったんや、ほんまはな。僕のときと一緒で。なのにみんなそこまでとことんせえへんから。そやけど、今はな、通行手形として印可書奉読とね、あるんやから、やってみてください。

質問
 先生が真祈りに対して決めてくださった、あの、これが神さまのお手伝いになるんだよって決めてくださった。そのことを信じるからこそ真祈りになるんだよ…

河上さん
 そうそう。今まではね、信じ切れんかっても、どうしても信じれんかっても、護摩木作ってくれたら、護摩木のお金出してくれたら、真祈りするという大おまけがあったわけです。でもあの肝心の村人が、ね、どうしようもなくなってしまったんで、こういう状態にもう一辺先生が追い込んで来たの。もうあんまり甘い大おまけあってもしゃあないと、ほんだら護摩木さえ作っていたらいいんやろう、護摩木さえ書いてたらいいんやろ、ってなってしまったから。護摩木を書くことがお手伝いなんだ。護摩木を作ることは神さまのお手伝いなんだって素直に思ってやってたら、おまけは消えへんねけどね。護摩木作っているからええやろう。山仕事しているからいいやろう、護摩木書いているからいいやろうでは、それは違う。ということがみんな分からんまま甘えているからもうそのオマケは全部消えちゃった。

質問
 今残っているお祈りに対して、真祈りに対して、

河上さん
 もうそう、今残ってる真祈り。最後のおまけやからね、いつ消えるかわからへん。消えたら消えたで、又、みんなで、もうそこまでは知らん。この最後の大おまけはどうしようもないんやったら、しらん。

質問
 あくまでもそれは先生が言霊で決めてくださったから効力を発揮してるわけですよね。真祈りとして。

河上さん
 わかりやすく言うたら、真の神さまとの約束事です。せやけど、本当はそこが分かれてないんやけどね。

質問
 となるとこれは憶測、ひょっとしたら、先生が決めてくださった事を信じる、お手伝いになると信じきれない方っていうのは、ひょっとすると、先生自体を信じてないから、

河上さん
 勿論そうよ。先生を信じてないけど、先生に甘えて頼っている人は一杯います。ただそれでも甘えて頼ってきていても、せっかく縁があるんだからということでね、山仕事したら真祈りにするよ、護摩木を作ったら真祈りにするよ、護摩木書いたら真祈りにするよ、っていう大おまけを出してくださったわけですよ。
 
 にもかかわらず、オマケだと思わずにね、山仕事しているからええやろ。護摩木書いているからええやろ。護摩木作っているからええやろ、ってなったから全部終わっちゃったんや。それは甘えているやろ。「させて頂いている」んじゃなくて、「したっている」やろ、「したってる」になったら全部崩れる。何事も奉読させて頂いているであって、奉読したっているというと、これは奉読でなくって、読んだっている。印可書読んだっているからええやろ、やったらそれは違う。「宇宙神ありがとうございます」手振りしてやっているからええやろ。一日二百回もやっているからええやろ。「違うやろ」、「したっているやないやろ」、「させて頂いている」「お手伝いさせて頂いている」や。そこが分からんと甘えたままやから、ぐちゃぐちゃなってきているわけ。
 
 それでも印可書奉読と手振り付きとはね、それでももうちょっと大おまけしていこうということで言っているわけです。だから「したっている」とね、「させていただく」は大きな違いやけど、ついつい自分が正しいと思っているから、したっているになっているね。

 具体的にそう思っているねんで。せやけどよう考えてみ「したっている」になっているやん、要するに「言い訳してる」いうことや。したっているっていうのは。印可書奉読を言い訳に使ってないか?護摩木作りを言い訳に使ってないか?山仕事を言い訳にしてないかって?言い訳にしているやん。

 言い訳にしているからな、村人同士、喧嘩するんや。あるいはここの人でもグループ同士で喧嘩になったりするんや。お互いに言い訳して、自分らだけが正しいって言い訳して、それは思い巡らす世界であって真祈りではない。

宮野さん
 自分で生きているって思ってはるからね。

河上さん
 そうそう。

宮野さん
 生かされているのに。

河上さん
 これからは自分で生きていると思う人は光を受けそこね、拒否しているからね、息止めるようなもんで苦しんでいくだけや。

宮野さん
 息するのも頂いているわけやし、肉体を維持するのも全部して頂いているわけじゃない。ただ寿命というのも自分が積むわけじゃないでしょ?だから生かして頂いている中で、真祈りをするっていうのは自分がするんじゃなくて、していただくわけでしょ?体を生かして貰って、それを使って。山に行く作業も、護摩木を作る作業も、書く作業も全て神さまが与えてくださったものを使っているだけでしょ?
 
 だから自分の方向性として私(護摩木を)書きますってやっているけども、でも生かして貰って使っている、生かして貰っているこの体は、神さまじゃない。神さまがしてくださるわけでしょ?神さまなのに、自分がしているって言うたら、それは違うよって話よね、具体的に言うとそんな感じでしょうかね?
 
河上さん
 そうそう。だから自分がしているって言って柔らかく言うから、分らへんね。してやっている。してやっているっていうから。なにをしても、ダメになっていく。

宮野さん
 皆さんは多分してやっているっていう意識がないから

河上さん
 そりゃそうやけどな。

宮野さん
 神さま側からすると。

河上さん
 言い訳につかったら、してやっているやん。そんなもん。言い訳するなよ。言い訳しているから喧嘩なる。させて貰っていたら喧嘩もくそもない。

宮野さん
 全て与えて貰っているのに文句を言う。

河上さん
 だって呼吸はそうでしょう?自分の意識で呼吸をしようとしたらしんどいで。無意識に呼吸しているやん。あの無意識のとこが真祈りや。でもそれが理解、体得できへんから印可書奉読とか、手振りの「宇宙神ありがとうございます」と色々言っているだけでね、本当はみんな皆さん、ごく自然に寝てるときに呼吸しているやん。心臓を動かそうと思わなくても自然に動いているやん。それが真祈りやね。でもそれが真祈りってわからんから、気づかすために先生が苦労されている。
 
 なのにね。山仕事したっているになっているね。させて頂いているやったら、文句も喧嘩も出えへん。文句も喧嘩も出るのはしたっているやね。自分が正しいから、自分のやり方が間違いないんじゃって。それ傲慢や。謙虚なふりして傲慢って先生おっしゃったけどね、村人は謙虚なふりして傲慢なんやって、よく言うてはった。
 
 さも神さまに奉仕しているような顔をしてな、したってるになっている。本人も気づいてないのやで。気づいてないからそうなるんやけどね。気づいていたらすぐ変わるって。せやけど、ついついな、やっぱり無意識に自分が正しいと思ってるから言い訳するねん。アダムやイブのようにね、素直に「リンゴ食べたかったから、食べてしまいました。ごめんなさい」言うたら許して貰えるのにな。「いや、こいつに騙されて食べた」とかな、言うやん。言い訳するやん。言い訳した時点でな、もう傲慢やねん。本当は。

質問
 神さまに生かされているということを気付かずに。

河上さん
 そうよ。みんな気づいてないよ。ご飯食べて生きていと思っている。な?みんな、ご飯食べて生きていると思っている。違うよ。

質問
 感覚が麻痺していました。

河上さん
 うん、みんなそうやで。

質問
 その感覚の麻痺したものを本来の真の神さまを、もう、命そのものって感じるためなのが、感じるための方法が真祈り。
 
河上さん
 そう。既に悟っている自分を気づくために真祈りするんだけどね。既に悟っている自分やから気づけるね。悟ってなかったら気づかない。

宮野さん
 既に悟っている自分っていうのが多分また、もう一回言う。神さまと不離一体っていうところを言わないとあかんのかな。

河上さん
 そうそう、既に悟っているってなんでか言うたら、神さまと不離一体やから。それはね、最初に言うた腕切った時点で先腐るでしょ?神さまと切り離したとこはね、切り離してないから生きている。

 そやから、それに気づかないから、してやっているなんて、なっていくわけよ。言い訳しているのはな。それは無意識に神さまと切り離してるねん。今年からそないしてしてやっているとかね、神さま切り離して自分がしたとか言うたら、色々と体が不調、光が通らんからね、不調になりますよっていう。わかりやすい時代だから。

質問
 自覚がないけどその麻痺している神さまから見て、麻痺している状態だと、今言った今年からは症状に現れてくる。
 
河上さん
 うん、今年から出るんでね。ちょっと体調子悪いんです、腰痛いんやけど何とかなりませんかねっていうても言いようがない。例えばね、腰痛だったっていう時に、こうしたら治るよって言って、素直にすぐした人は治るね。でもな、みんなすぐせえヘんね。先生がお話にも言ってるけど、青信号のときに渡れって言うてんのにすぐ渡らんと、グズグズしてて赤信号なんかで渡って大変なるって言う、みんなそうやね。
 
 だから例えば「宇宙神ありがとうございます」あれだって先生から聞いたときにすぐせなあかんねん。それをすぐせえへんからこんなややこしいなるね。同じ内容やけど、まあ野球がそうやんか?ボール来て、バット振るからホームランになるわけで、ボール来る前から振ったってあかんよ、あるいはボール過ぎてから振ったってしゃあない。そういうことがみんなわからへん。

 それくらい先生に甘えてる頼ってるけども、信じてないから。先生信じてたら先生が言うたら素直に「はい」やって(だと)、何遍もぼく言うた。素直に「はい」やろって言うんだけど、みんな素直に「はい」ってすぐせえへん。なんでか知らんけど。
 
宮野さん
 我があるから。

河上さん
 素直に囲炉裏作れるのにすぐせえへんね。

wさん
 完成してます。

宮野さん
 祝完成。

河上さん
 それぐらいな、神さまのやることは一瞬一瞬新たやから。一瞬新たやから、うっかりずらしたら間に合わへん。だから先生「今日も来て、やれ」って言うからした位ね、今年は大事なんですよ。だから素直に印可書奉読するなり「宇宙神ありがとうございます」自分で選べるものを選んでね、真祈りしてください。
 
 出来なかった、又、今度またやる気になったらしようと思う人はみんな自分で落ちていくだけで、止めようがないというだけです。もう待ったなしになっちゃったの。村がどういうふうに崩壊するかも聞いていますけど言いません。崩壊させずにみんなで真祈りしてください。それは村人だけじゃないね、みんなが真祈りして村を支えなあかんのやで、な!

質問
 腰痛い時はどうしたら良いんですか?

河上さん
 ホームセンターのスポーツのところに行ったらこれ位の直径のパイプ状のものを売ってるわ。あれ何て言うのかな?

kさん
 ホームローラー。

河上さん
 ホームローラー?これ位のサイズ(長さ約30c、太さ、両手指でで輪を作る位、宮野さん)を売ってるからね。それを仰向けに寝て腰に当てて下さい。

宮野さん
 筋膜をリリース(解放)。

河上さん
 最初は痛いから0.1秒とかそんなんで良いから、いきなり無理しない。やってる内に出来るようになるからね、やって痛い時は1回してすぐ止める。そやけど毎日やって下さい。要するに筋が固まっているわけよ、腰痛って、ここの筋(腰椎周辺)がね、ここを伸ばさなあかん。みんなここの筋を固めて、お年寄りなって腰曲がる。腰やないでこっち(前)を固めてはるねん。で、こっちがドンドン縮んでいくからこない(前屈み)なるんね。

質問
 でも背中にするんですか?

河上さん
 そうそうそう。背中にするの。で、こっち(前部)を縮めるから余計腰の筋肉で腰を支えようとして腰が痛くなるの。先ずこう伸ばして下さい。それで治ります。何か言う事?

質問
 股関節っていう事ですか?

河上さん
 いや、股関節ではなくってもっと全体やな。仙骨、腸骨って腰が4,5つに分かれてんねんけど、その間の筋が固まってるのね。腰ってこうしたり(前後に曲げたり、左右に捩じったり等)自在に動くでしょう?それは腰の骨が五つ、六つやったかな?仙骨,腸骨、ヨウコツって分れててそれが自在に曲がるから捻れるとかあるわけ。そやけどそれが段々固まって来てね、動きにくくなって来ると、それでも立たんなんや?ほんなら一番立つ時に使う筋肉が負担来て痛くなって来る。

 で固まっているから最初は0.1秒だけで痛いと思ったら止めて、もう止めて無理せんとね。これ言うとね、教えるとね、極端な人居るね。で、無理やりガーッとしてね、「もう痛くってどうしようもないんです。」って、だから話聞けって言っていう感じやね。痛かったらすぐ止める。で、その内にある程度やっても気持ちよくなってくるから。そうなったら、腰が治っても、やめずに、毎日寝る前は伸ばすようにしてください。そしたら大丈夫です。

質問
 ありがとうございます

宮野さん
 大概痛いよ!筋膜リリース。乗ってられへんと思う、最初。だからちょっと最初は手で支えながら全体重を掛けんように使われるのが一番かと。つまり痛いと思うと筋肉が別の筋肉が反応して行って、又、そこが違和感があって出て来る。なので徐々に徐々に、ね!

質問
 ありがとうございます 今同じ質問を何回かさせて頂いてるんですが、手を当ててそったらダメなんですか?

河上さん
 いや、反らなあかん。反って前を伸ばさなあかん。

質問
 でも反ってやったら逆に腰が痛くなって…

河上さん:いや、だから長時間やり過ぎ。0.1秒でええって言ってるやん、最初は。

質問
 はい。分かりました。

河上さん
 最初は0.1秒で、それでも毎日やるね。0.1秒やから効けへんと思うやろう?それがアカンねやて。素直に言う事を聞いて0.1秒ですぐ痛かったら止めるね。それを毎日欠かさずにやっていたらホント伸びて来るから。それを急に伸ばすと今言ったように他の筋肉が変に反応して出来へんようになる。何事も、極端にしたらアカンって。だから膝上げを1日4回でも良いから毎日するというのが大事なん。止めたらアカン。沢山せんでいいからね。

 例えば朝起きた時、夜寝る前にお臍より上に膝上げをね、4回しましょうで良いから、その代わり必ず毎日4回はするとしてたら全然違うね。腰の筋肉が伸びて来てね、腰痛も治るし。だから何事も極端にせずにちゃんと必ず良くなるからと信じて、ちょちょっとやって下さい。で、痛すぎた時はしないように。痛いと思ったら止めて、そやけど伸ばさなアカン。

 で、それが大変な時はあの(ホームローラー)太いパイプじゃあなくって、コカ・コーラ―みたいな炭酸の丸いペットボトルあるやん?2Lの。あれのちょっと(ホームローラーより)小さいので中に水を入れといてやったらいい、ね!それで太いので痛すぎる人は、それで慣れてきたら太くしたらいいし。

質問
 後すみません。もう一つなんですが、手が痺れる。朝起きたりして手が痺れたりするときグッパをしてるんですけど。

河上さん
 昨日言ったように。

宮野さん
 昨日いてはったかな?

質問者
 昨日は来ていません。

河上さん
 来てなかった。ああそうしたらこうして下さい。(仰向けで、手を組んで上に挙げた手を後ろ頭の上に下ろす)これ握ってやっても良いし、こうして(離して)やっても良いし、ここは自由にね。それを必ず仰向けにしたままして、起きたらして。で、夜寝る前もして、仰向けに寝てまたしてって。この範囲は痛くない範囲やったら出来るだけ大きくやったら良いです。で、これもこうしてやったり、場所狭かったら片手だけでやったりとかね、ちょっとの時間の時は必ず肩より上に挙げてやって下さい。すると手の毛細血管が強化されて。今見てたらここの筋肉まで固まっている。血が通れへん。これしてへんやろう?上に手を挙げてないな?だから。

 慣れてきたら仰向けに寝てる時は手をバンザイしたままで寝るとかね、色々自分なりに工夫して行ったらいい。ここを挙げないとね、ここ(肩)の血管が詰まって来るね。詰まって来るというより筋肉が固まって血管を圧迫するの。すると手が痺れて来る。で、若い時はそんなんしなくってもね、筋肉に柔軟性があるから大丈夫やけどね、年取って来ると硬くなって来るね。

宮野さん
 それぞれもうオマケがないから、自分でメンテナンスをして頂かないとね。

河上さん
 そうそうそう。オマケがある時でもこうせえって言ってもすぐせえへんし、しても言う事聞けへんからな。極端にしたりな。もうみんな好きにする。どうぞご自由にや。

宮野さん
 呼吸法の何か言ってなかった?

質問
 神さまのお手伝いになるためにお伺いします。言霊と呼吸法の関係についてお伺いしたいんですが。去年護摩焚きだと思うんですが、言霊、本来なら一音一音。そこで出て来たのが「あー、うー、すー」あーの言霊、うーの言霊、すーの言霊。その時のお話しでは、まだその響きが世に現れていないというようなくみ取り方だったんですけど、その事と呼吸をどのように関係しているんではないんかなーと思って、漠然とした質問となるんですけど…

河上さん
 あのね、呼吸法というのは神さまの御心に統一するためのものなんですよ。神さまの御心に自分の心をピタッと合わすためのものが呼吸法なの。だからマラソンで走る時にね、2回吐いて2回吸うでしょう?あれも基本的な呼吸法で、身体が激しく運動する時はその呼吸法を使うと神さまの光が通り易いの。例えばね。

 そういう感じで必要に応じて色んな呼吸法があるんですね。だから勉強のできない子っていうのは、その呼吸が出来ていない。で、勉強が出来る子っていうのは、例えば速読する時にね、ゆっくりと息を吐きながら本を読むんですよ。ほんだら速く読めて理解が出来る。或いは数学の問題を解く時でもね、無意識にゆっくり息を吐く。で、勉強出来ない子は数学読む時でも、本読む時でも息止まるね。で、息止まって息上ってね、集中する時間短いから中々勉強進めえへん。
 
 それくらい呼吸法って大事なんですけども、自分に合った呼吸法ってそれぞれあるから、一概にどれがベストっていうのは無いんです。それで印可書を奉読して頂いてたら、自分に応じた呼吸法が自然に出て来るから。でもより出やすいよいうにね、色んな呼吸法を去年はバタバタと出したわけ。
 
質問
 呼吸法と言霊っていうのは殊更…?

河上さん
 言霊は真(まこと)の神さまの本心そのものや。

質問
 呼吸は神さまの御心?

河上さん
 (神さまの御心)に、要するに本心に合わすための呼吸法やからね。だから呼吸法が出来たら言霊がスッと出るし分かるっていう事。

宮野さん
 統一する為の手段ですね?

河上さん
 そうそうそう。肉体側のね。

宮野さん
 呼吸は統一するための手段?

質問
 神さまの御心に統一する?

河上さん
 そうそうそう。

宮野さん
 合わせる為の手段。

河上さん
 だから先生がお祈りの時にここに出て下さった時はひたすら耳で先生の呼吸を聞いて、目で見ても分り難いから呼吸音を聞いて僕はひたすら真似ました。で、それを隠してないよ。去年全部のバリエーションを去年の護摩の時に全部言ったわけ。あれが先生が色んな時に色んな状態でされた呼吸法です。

 で、陰陽五部(半々ということ)の呼吸法は普段まあ、みんなしてるやん?だから敢えて説明せんかった。自然に吸うて吐いてるでしょう?

質問
 自然に吸うて吐く事が陰陽五分(半々ということ)の呼吸法?

河上さん
 うん。それを自然に吸うて吐くのをゆっくりにしてとか、自分なりに利用したら良いわけ。何もせん時は普通の吸うて吐いてやけどね、走る時は、ほれ、2回吐いて2回吸うとか。あれも陰陽五部(吸う息吐く息が半々)の応用です。で、問題解く時とか、勉強する時とか、本読むとかの時はフーと吐いて、スッと吸うてやるとかね、それは自分なりに工夫して貰うしかない。これがベストというのは無いの。その人の体に応じた長さがあるので30秒以上吐けとかね、いう事はね、ベストではないの。

宮野さん:長く吐いてちょっと吸って。

河上さん
 そうそう、で、慣れて来ると45秒とか1分とか1分30秒とか
吐けるんやけど、うっかりそれを言うと、又、無理して酸素不足で頭おかしくなったとか言うからね、あまり秒数も言わないから、自分に応じた長さをやっていたら必要に応じて長なります。

質問
 意識するのは吐く息の長く吐くのを…

河上さん
 基本は長く息を吐くというのが基本です。

質問
 で、鼻から吸う?

河上さん
 鼻からでも口からでもいいからプッと吸う。ただ、口から吸うとね、ゆっくり口から吐くのが崩れて行くんよ。だから鼻から吸うと、しとくと、もう口は吐くだけってなるから、崩れにくいというだけの事で、別に口から吸っても大丈夫、崩れなかったら。

質問
 普段は呼吸の事は当たり前にしているんで、意識はしていないんですけど、そういった呼吸法を意識して呼吸する事によって、それが神さまの御心に合わす事に…

河上さん
 そうなんです。だから先生は中心に立つものに対してはね、朝4時から起きて2時間勉強しなさいって言われた。勉強って何かと言うと呼吸法なの。呼吸法が出来ないと勉強出来へん。で、自分は本読んでいても集中力ないなとか、すぐ飽きるとか、算数とか数学の問題を考えても嫌になるとかいうのはね、呼吸法が出来ていない。
 
 そやけど今言ったように自分でお祈りしてね、自分で手繰(たぐ)ってせんならんから、4時から何があっても勉強しなさいという事を仰ったわけですけど、1回しか言われないからね、相手の自由意志を縛れないから、みんな聞き逃しているだけ。

質問
 はい。今の状態から十分です。ありがとうございます

河上さん
 だから朝4時から2時間は僕は言われて、僕はそのまま実行しますけども、皆さんは1日1時間は何か勉強しようとか決めてその1時間を五分づつね、12回に分けても良いし、隙間の時間を利用すれば勉強する時間は必ずあります。纏めて取ろうと思うから無いだけでね、隙間時間はいっぱいあるからね。だからトイレに印可書貼れって言ってんね。トイレの時は印可書読めるやろうというね。それ位はしてなっていう感じです。

 で、トイレに入っている時にね、これをする(上半身前かがみになり、次に後ろに反らす。出来たら両手も前に伸ばして連動する)。するとウンコがよく出る。で、腕がだるくなったらこうやってね(手を休まして上半身だけ前後する)。

宮野さん
 昨日と違う人がいはるから。

河上さん
 こうお辞儀して、上がる(反らす)。便器に座ったままでね。そして歯を食い縛らない状態でね、これをグーっとやっているとグーっとウンコが出ます。力まずに。すると痔にもならないし、歯を食い縛らないからお祈りになる。お祈りは歯を食い縛ったら出来へん。まー一辺歯を食い縛ってお祈りしてみ。20秒続かへん、疲れてしまって。歯を食い縛るのを力むっていうの。自分で何とかしようって思う時は歯を食い縛っている。

 だから合気道は技をかける時でもどんな時でも、歯を食い縛った時は怒られた。合気道は自分が投げるんちゃうから、神さまが投げる。それを今の合気道はそう思わずに体得していくしかないから難しいって言われる。もっと真祈りを入れてね、神さまが光通るから飛ぶんだっていうのが解かったら楽になるんだけど、みんな神さまと自分を分けてはるからね、合気道も教えようがない。

 だから合気道の達人は指1本でぱんと投げたりするんだけど、それは力で投げたりするんではなくって、神さまの光がファーと通るからだけねんですね。で、合気道では無理なので先生は真祈りで、大オマケの真祈りでって、誰でもが出来る事でっていう事で。こっちがお願いしたんですけどね、誰でもが簡単に出来る事で真祈りが出来るようにして貰わないと、そんなもん、あと任したでって言われても出来ませんって拒否した。なら先生が又、工夫、されて今のを作って下さった。

 でも印可書を最初のを弾かれたから、宇宙神付けて手ぶり付けてってして、それでも弾かれたから、もう1辺光弱めて印可書でっていって。まー色々先生のご苦労やで。まー、僕が我儘言って誰でも出来るようにして貰わないと困るって言って。先生の方は真剣でないと「あくかい(あかん)」っていう感じやったんやけど。そんなん真剣って言ってもみんな出来へんのやから、先ずは簡単に出来る事からってお願いしたんですね。

 でもみんな自分が正しいと思っているから、ちょっとでも自分の正しいからズレる事は弾くわけ。それも自由やからもうええんちゃうと思ってのに、みどりさん「まだまだ」って言うんやもん。(笑)

宮野さん
 ギリギリまで!

河上さん
 あの車が潰れる迄。

宮野さん
 ああ、やば!(笑)シルバー頑張れ!

河上さん
 もう全然部品無い。

宮野さん
 知ってるよ。ぶつけるから。

 こうお辞儀するのは腸の全体を動かすんですよ。だからトイレで無い時でもね、こういう椅子に座った状態とかで、或いは立った状態でもいいけど、お辞儀されると、自然に腹筋も鍛えられるからね、身体弱まらないからね、免疫力も上がります。

宮野さん
 若い人はね、簡単に腹筋できるけど、ね。

河上さん
 若い人は何もしないでも大丈夫やけど、年取って来ると。

宮野さん
 そう。下手に変な腹筋して腰痛めたりね。

河上さん
 そうそうそう。スポーツでやる腹筋はやり方を間違うと腰痛めるからね、そんな負荷かけんと、普通のお辞儀で十分。

宮野さん
 ただ丸めるだけって、そこのお腹をキュッて丸める感じ、意識的には。

河上さん
 ただね、一時も欠かさずせなあかん。それだけがポイント。数はせんでいいから。

宮野さん
 トイレ行って印可書を読みながら、キュッキュッてせめて。

河上さん:せめて1回だけでもしましょうって決めて、毎日しててそのうちに数したくなるから。

宮野さん
 すると腸が良くなって、免疫力上がって体が維持してどんどん若くなって、よりお祈りをもっともっとしやすくなって。信じるか信じないかはそれぞれな、通販なんやからね。
 
河上さん
 みんなの心の中にまでは入り込まれへんからね。だから、法律でね、人を殺してはいけないという法律がないのは、それや。それで人殺し無くなるんだったら法律で決めたらいいね。人を殺してはいけない。でも殺したらこういう罰則がありますよとしか書けないのは、人の心の中の自由は、誰も強制できない。神さまも強制できない。

 だから、ある時、夫婦げんかの場に立ち会ったんやけど面白かったですよ。6畳の間のの向こうとこっちで喧嘩してあんねん。で、旦那さんがお前あんなんしてるからこんなんなってくるやろうって怒鳴ってるわけよ。こっちで奥さんが座ってんだけど旦那さん立ってんねん。で、こっちで6畳間のこっちの、8畳間か?ちょうどこの部屋ぐらい。この部屋の向こうとこっちで喧嘩したわけよ。あの真ん前で喧嘩したら大喧嘩になるよ。で、お互いちょっと遠慮して離れてやったわけよ。それ旦那がガーって文句言うわけよ。奥さんが座って聞こえん声でね、僕もその奥さん側に居ったんやけど「勝手にほざいとけ!」ってやってるわけよ。(笑)

 だからお互いの心の中は縛られへんから喧嘩したって一緒。だけど、村人でも喧嘩すんのはね、相手の心の自由を縛れと勘違いしてるから。もう何言われたって「何言うとんねん糞ったれが、アホが。」ってやってるわけやな。それくらいお互いの自由を縛ることは不可能。だから喧嘩したって無理。で、話し合いしても無理なのはそこやね。

 いくら話し合いしたって相手の心の中に入れない以上は、変えようがない。だから、みんなが自主的に支え合えたら変わるわけよ。それが真祈りしかない。話し合いで変わったらな、国会でもあんな揉めへんし、国際連合があんねんから戦争収まる。
 
宮野さん
 みんなマウント取りに行きたいから。
 
河上さん
 そうそう、無意識でみんな相手の上行こうとするね。自分が正しいと思ってるからよ。自分が間違ってると思ったら喧嘩なれへんわな。ごめんやったなで終いや。でもなんか、相手を自由にできると思うんやな。だから、大概大阪のおばちゃんに多いけど「言うたらなあかん」って言うわけや。言うたって変われへんわなとか思うけどね「言うたらなあかん」あの子あんなんしてる「言うたらなあかん」(笑)
 
宮野さん
 上下関係になると特にじゃない?例えば家族間だったら子供にだったりとか?

河上さん
 大阪のおばちゃんは他人同士とは思えへん「言うたらなあかん(言って聞かせないとダメだ」ってお互い全然違うことを言い合して終わる。全然話噛んでないやん。
 
宮野さん
 だから喧嘩なれへん。大阪のおばあちゃんね。
 
河上さん
 好きなことを言い合いして終わる。“空間が歪んでいる”というか話し合いが立体交差してる。まあね、それくらいみんな自由であって、神さまの絶対の自由という本心を持ってるから、それが肉体側に現れてくるとそういう小さい自分が正しいと、本来の本心の自由意志があるからそうなるん。だから真祈りして自分の本心に合わさないと収まらへん。小さい肉体が、要するに自分の都合出してしまったら、喧嘩だけ。最後は殺し合いになるだけ。最後は「ボケ、アホウ、カス」ってなって、次は手が出てね、次は殴り合いで収まらないから武器が出てきて、最後は鉄砲の打ち合いになるわけやんか。どんどんエスカレートしていってね。
 
 だから江戸時代は敵討ちを認めてたでしょ?あれは何であんなん認めたか言うたら、もう永遠に切り無くなるやん?なるからお互い刀持ってても殺し合いが中々なかった。だから、実際に敵討ちの話が残ってるのが数少ないでしょ?それはそこまでいったら大変ってわかるやん。敵討ちしたらまた向こうが自分の親殺されたって敵討ちにくるわけや。

 もう永遠に切り無いし、武士やからお家断絶にもなっていくやん。全てがもう消えてなくなってしまうから、敵討ちを認めるということで、逆に言うともうみんな辛抱した。せやけどそういう辛抱で収める時代ではないわけね。これからはね、真祈りで収めなあかん。

 だから江戸時代は本当に殺人って少ないよ。それはもうちょっとしたら、あの江戸時代の場合は、一族まで罪人として獄門ですか?市中を引きまし獄門晒し首ってやつやね。になるから、自分の恨みだけでは収まらないわけよ。全部に影響するから、みんな殺し合いにはならへんかった。よく時代劇でね、火盗改め方とかって言うのは、押し入って人を殺してどうこうというのがあるように書いてあるけど、あんなことはめったになかった。いわゆる鼠小僧次郎吉みたいにね、盗むのはあるけどね、殺すのはまずなかった。

 でも、これからは真祈りでそういうのはみんな、みんな自分だ。で、イエスの言葉は本当に誤解して伝わっているけどね、「汝の隣人を愛せよ」ってみんな思ってるでしょ?違うからね。イエスが言うたことは本当に言ったことは「汝の隣人を自分のごとく愛せよ」や。ということは、自分と一緒にせなあかん。な!それが肝心なところ抜けるんやな。
 
 だからちゃんと真祈りしかないの、これからは。今更キリスト教の人にね、いや、イエスは「汝の隣人を自分の如く愛せよ」って言うてるでって言うたって、うるさいわって言われますから、まず真祈り。
 
 ちゃんと聖書をね、ヘブライ語からずっと調べて行くと、ちゃんと最初のあたりはちゃんとなってるのに、途中から変わっていくんやな。でもそういうもんやろね?伝言ゲームやから。昔は印刷機ないでしょ?だから筆写じゃないですか?全部ね。筆写して配るから、筆写するごとに自分の都合が入っていく。
 
質問
 自分の子供の頃にやっぱり歯医者さんで歯を抜いてもらう時に失敗なのか何か分かんないすけど、それでそれ以来体の中にこの拘縮(こうしゅく:関節の可動域が狭くなる)が、どっかの筋がそれなんか雷が当たったよいうになって、それ以来その筋が固まってるのが分かるんですけれども、それでこれは治りますか?

河上さん
 治るよ。

質問
 真祈りしかないとは思うんですけど、でも…
 
河上さん
 その首の筋がこの順番に固まってるって見えるから、前教えたようにこうして(手首の甲を腰の括れたとことに当てて、反対の手で肘を体の中心の方にゆっくり引いて、首を左回転右回転にゆっくり回す。数回したら反対の手で行う)首をゆっくり回すのを必ず毎日やってください。ほんなら治ります。
 
質問者
 はい。
 
河上さん
 今やってみ、回りにくいやろう、首が?。
 
宮野さん
 これをこうやって回すのは回り難いんじゃない?

河上さん
 だから、しょっぱなから無理せずにね、これを肘をちょっと引っ張って、あるいは壁に当ててね。

河上さん
 ゆっくりと回る範囲でいいからゆっくり回してください。
 
質問
 一応、基本的に伸ばしてストレッチを毎日…

河上さん
 ゆっくりとすれば直ります。それを必ず毎日ね、数しなくていいからせめて1回は絶対回すんだって。トイレ入った時はこうして回すんだとかね。決めといてやってたら直ります。一時でも止めると、元に戻るからね、今は。ある程度伸びてきたらそこそこ融通ききますけど、でも基本は毎日欠かさずが大事です。

 だから、ご老人でね、寝たきりで1週間位なった途端にもうガタガタになるのはね、体を動かすことがなくなるからだから。毎日ちょっとでいいから動かすのが大事なんですよ。膝上げもね、毎日4回って必ずするってしてるだけでも全然違う。

質問者
 ありがとうございます
 
宮野さん
こっち側もね、こっちもやってるこっちもね。うんはい。

河上さん
 後は色んなストレッチを見てね、見られて、そのストレッチをされたら良い。オマケのある去年やったらすっと直すんけどオマケがないから(こっちは僕としては)出来へん。

宮野さん
 治らんもんと治るものがあって、治る。
 
河上さん
 うん。基本は治らんもんはないねんで。せやけど時間掛かるか掛からへんかや。ほんで大概毎日欠かさずするんやけど、例えば1年たっても殆ど変わらへんになると嫌になって辞めちゃうんだよ、みんなね。せやけど本当は治らないものはないね。必ず3年したらなるもんばっかりや。でもみんな3年間我慢できへん。それは3年間なんぼ(いくら)やったってこれ変わらへんってなるとな、いやなるって毎日やし。そやけどある日突然すっと動くね。

 それぐらい人間の筋って色んな筋が絡み合ってついてるから、全体が固まった場合、全部緩むのに3年はかかるわけ。その3年がみんな待たれへん。
 
宮野さん
 信じて!
 
河上さん
 そうそう。ほんでこんなんしたって伸びひんって思ってやったら無駄やからもう止めて下さい。体が硬い人ってみんなね、自分は身体が硬いから何したって伸びひんって思いながらストレッチしはんねん。ほんだらいつまでも伸びひん。
 
 もう一つはある程度伸びてきたら、どんどんどんという感じで、ちょっとあの衝撃を与えると伸びるけど、最初はしないで。自分でもこれはちょっとした方が伸びるなと思われる時がありますから。ほんならトントンとしながら、こう伸ばされると急激に伸びる時期があります。でも基本的には3年間はほとんど変わらないなぐらいに諦めて、でも必ずなると思ってやってたら。
 
 
宮野さん
 3年間は大丈夫ってことですかね?(笑)うっかり言いましたね。
 
河上さん
 でも村人次第やで村で崩れたらどうしようもないねんから、頼むやわ。
 
宮野さん
 でもそれには、私達1人1人が真祈り。
 
河上さん
 そうそうみんなで支えてやけどね。
 
質問:
 お祈りの時間で、朝は2時から4時、先ほどお話を…
 
河上さん
 先生いらっしゃる頃はね。夜はね、8時から12時やったんですよ。それは先生いらっしゃる、このお祈りの部屋を。ここの村ではここを最初に建てたんです。それも色々紆余曲折があってね、先生が今日中に建てるっていうのに、みんな村人その頃の村人がですよ、今の村と全然違いますけど、疲れ果てて、先生の指示を通り、みんな動かんかって、その日に、要するに棟上げが完成しなかった。ほったら先生怒ってね、せっかく建てた柱全部引き抜いたの。もうこのお祈りの部屋の大切さが分からんようではどうしようもないって言ってね。もう人類もおしまいだみたいな感じで、全部引き抜かれたの。ほんでみんな村人ももう一遍シャキッとしてね、必死でここ作ったんですよ。

 それくらい大切なお祈りの部屋なんです。最初にみんなが集まってお祈りする時に、こっから(上から)蜘蛛がスーッと降りて来たの。それを先生がさっと手に受けられて、胸に収められて、その蜘蛛がこうして降りて来るのは瑞祥であると、これは素晴らしいことだと言って、そのときに朝2時から4時くるように夜は8時から10時に真祈りするようにっていうことをおっしゃったんですけど、2日目は、村人の部屋を順番にまわって、戸口で、柏手を叩かれて、村人を起こしてされた。でも、あとは、自由意志にまかされて、村人が自主的に出てくるのを、待たれた。

 それで、3日も続かなかったんよ、みんな。まー色々あるん。スタートからつまずいてな色々あって。で、お前大阪から走ってこいって言って、毎晩2時に間に合うに大阪、12時ぐらいに出てですね。ここへ来て先生と一緒に2人でお祈りして、そうしたら、みんなも出てくるようになったんだけど、一応の基礎固めだけして、あとみんながそうしたら悟れるようにしたんですけど、僕が来なくなったら、村人は出てこなくなって、みんなしてくれなかったという。もう先生いらっしゃらないからその時間にしてもね、それよりは印可書奉読された方がいい。

宮野さん
 時間はいつでもいい?
 
河上さん
 時間はいつでもいいよ。はい。4時間もいなくても大丈夫。
 
質問者
 ありがとうございます
 
河上さん
 だから大事な事がね、全然伝わらんまま終わってるんですよ。で、村人は自分の責任がね、わからんまま、ここへ来ちゃったから、あの村人自身はそうしなくちゃいけないことを全然聞いてないとこがあるんで、余計なんですけど。でもなんていうんかな、そういう大変な立場であるということもわかってない状態だったんだよね。いろんな意味でもうこっちから言いたいのはウズウズするんだけど先生が、まだ好きにさせておいたらいいっていうことだったんでね。おまけのある内は好きにさせといててっていうことで。でもオマケなくなったんで、先生がもういいって言うから、地球はもういいって先生は言うんだけど、みどりさんが頑張るって言うから、だから先生ももうちょっとってなってという今の状態です。先生は完全にもう(ほっといて)(見捨てて)いいって仰ったんだけどね。
 
宮野さん
 捨てたもんやないって。

河上さん
 もう優しいんだから、
 
宮野さん
 いやだから厳しいからこそ。

河上さん
 あの時間ですのでお祈りして終わります。もし質問があったら最後一つだけ受けます。もうこういうのはまた来年の正月までないからね。
 うん。ちゃんと収まったし、お祈りいかなあかんとこたくさん残して今日作っていますから、お祈りして終わります。(以上でお話しは終わりです)
 
(以下はお祈りの中のお話しです)
 お祈りしながら聞いていってください。あのDDNの問題を言えという今降りてきたんで。DDNの問題は村人の真祈り次第によっては蒸し返されますけども、町田くん名義の口座ということで、お金を返してくれという人は町田くんのところに来ますけども、あとは町田くんの方で処理してもらいます。

 そういう感じですね。DDNの事で借金してまでDDNのお金を出された方がたくさんいらっしゃいますので、その借金が債権上本人から他に移って回収に来ると思います。そういう色んな形で村が崩壊するかもしれないという危機に立ってますし、DDNはその最初にくる問題だということです。もうちょっとお祈りします。


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元旦のおはなし1 by 河上彰延 [Mail] 2025年01月04日(土) 14時40分
PC

元旦河上さん新年のお話@
 宇宙神ありがとうございます
 令和7年元旦 河上さんの新年のお話です。二日間、それも長時間、一番大切なことをお話してくださいました。ありがとうございます 二部に分けて掲載させていただきます。ありがとうございます

河上さん
 あけましておめでとうございます 本年もよろしくお願いいたします。

 去年の辰の年で、本当におまけも終わって大きく光が降りて、皆さんお一人お一人の責任に任され、真祈り人としての責任を神さま任されていったわけですね。今年は巳年ということで、先生のお年なんですね。僕と先生で13歳離れてるわけですけども。今年の巳年は特別でして、蛇、辰と蛇といったら蛇の方が小さいじゃないですか。いろんな意味でいろんなところに神さまの光が行き届く年です。ですから逆に言うと、ずるいことをですね。あるいは邪魔くさい事、しんどい事を後回しにしてる人は、そういう部分がどんどん浮き上がってきて、行き詰まるいう年ですね。全てに神さまの光が行き届く年です、本当に一切のごまかしが、出来なくなって、すべてが表にさらされる年です。

 だから先生に最初にお会いした頃にまず、まず受けた注意がね。その「嘘をつくこと」虚栄心ですね、「見栄を張ること」「言い訳すること」この三つが一番マイナスのエネルギーを使うんだと。要するに、この三つを行うと何をしても立ち行かなくなるんだと人生がね。そういうことを言われました。

 だから、まず「言い訳をするな」「嘘をつくな」と「見栄を張るな」と。これはいつも説明させてもらってる、分け隔てするなとか。差別するなとかいろんなことの全ての含まれた言葉です。みんな無意識に言い訳してね。無意識に嘘ついてね、ごまかしてするわけですよ。嘘をついたがために見栄を張ったがために、言い訳したがためにまた言い訳しなくちゃいけない。その度に要らないエネルギー使うわけですよね。そんなことをする暇があったら、もっと勉強しなさい、もっと働きなさいっていうことです。

 日本国憲法というのは、新しい日本国憲法というのは本当に神さまの御心を現した憲法なんですよ。それを先生が、もうその戦争放棄もありますしね。一切争わないっていうとか、もう神さまの御心をそのまま体現した。本当に人類みんながこれを奉じなくちゃいけない、良い憲法なんだっておっしゃるわけですね。その憲法、日本国憲法の中に三大義務ってあるわけですよ。国民がしなくちゃいけない義務。意外とみんな三大義務がわからないのね。まず最初に、「納税の義務」これはみんな知ってるわけ。嫌でも税務署来るしね。会社勤めたら勝手に税金で持っていかれるからね。なんで税金こんな勝手に取るねんって言ったってこれが義務ですからって言うて終わりだから。納税の義務というのは知ってるわけですね。

 二番目に何がくるか?これは「勤労の義務」です。だから勤労というのは、周りの人のために働くということですよ。自分のために働くんじゃなくてね。周りの人のために働く。要するに助け合うという意味ですけども。勤労の義務が二番目にきます。要するに、だから勤労の義務があるから、先生は、まず言われたことは。

 先憂後楽っておっしゃったのね。しんどい事、邪魔くさい事は、まず済ませてしまいなさい。その後で楽しみなさいってやるんですけど。この頃は、みんな楽しいことを先に
して、嫌な事を後回しにするじゃないですか。それぐらい段々ずれてきてるわけですけどね。

 三番目の義務というのが意外とみんな知らないんですよ。ほとんどの人に聞いても答えられない。三番目の国民の義務というのは、「勤勉」です。「勤勉の義務」勉強する義務なんです。これは、先月の護摩で説明しましたように、人間と動物の違いということですよね。にゃんこさんは犬さんは馬さんは、みんな生まれてきたまま四足のままで歩いて、特に言葉を覚えるわけでもなく、ただただそのまま生きてるわけです。住むとこと寝るとこがあってね、食べることさえあったら、にゃんこさんでもいついてくれるよね。それぐらいたったそれだけです。ちょっと楽しみがあったらいいみたいなね。

 でもその人間は、生まれて最初は四つん這いじゃないですか。でも一生懸命努力して、立って歩けるようになるんでしょ。一生懸命努力して、言葉を喋るようになる。言葉を喋るようになるっていうのは何故かって言うたら。みんな完璧な一つというのを(真の本心の自分としては、無意識に)知ってるからは、言葉を喋ろうとするの。ただただそれだけなんです。皆さん、みんなそうして勤勉の義務を果たす力を持ってるわけ、持ってるから今、立って二本足で立って歩いてね、それで言葉を喋ってるわけです。なのにそれ以降は勉強が苦手だとか嫌だと言って、しない人はしないし。或いはは、する人でも虚栄心だけでするとかね。虚栄心でする勉強は勉強じゃないのね。

 どういうことかというと、虚栄心でする勉強というのは、結果を掴むから。成功するかしないかでするわけですね。成功する、この世で成功するしないなんていうのは、単なるゲームでの勝った負けたであって、この世で成功するということは誰かのプラスを奪ってるということですから、本当は、この世で成功するのは良くはないんですよ。でもみんな成功する人がいい、お金持ちが偉いみたいなとこあるじゃないですか。それくらい勘違いしていますけどね。でも本当の勉強というのは、みんなの役立つために勉強するわけ。それぞれ結果を掴かまずにですから、「私は一生懸命いろんな勉強したけど、何も役立たないわ」でいいですよ。いいけども、自分なりに一生懸命、常に勉強しようと心掛けなくちゃいけない。

 先生は、そのいろいろありましたけども、先生の後をその僕は継ぐ気がないんでね。継ぐ気がない、最初に申し上げたわけです。継ぐ気がないんですって言ったら、それはわかってるから、後を継ぐ人はこちらは、作るからっていうことでね、おっしゃいました。

 ただ神さまの中心に立つ話をするというね、本当の真理の話をするためには、最低1日2時間は勉強しなさいということで、僕の場合は4時から起きて2時間とおっしゃいましたけども。いわゆる先生の後を継ごうと志した方が何人かいらっしゃるわけですよ。皆さんにもそれは1回だけは先生おっしゃいました。

 一回しか言わない理由は、はっきりしています。相手の自由意志を縛らないということです。一度は言う、でもそれを受け取る、或いは受け取らないは勝手だし、受け取ってもするしないも、その人の自由意志に任すから二度目はおっしゃらない。だから聞き逃すと終わりなんですけども、先生の事を大したその辺の当てものをする人ぐらいしか思ってない。或いは病気治しする人ぐらいに思ってない。ただただ先生のその神秘的な力に頼ろうとするだけの人は、みんな聞き逃したわけですね。
 
 或いは先生のような神秘力を持った、奇跡を表す人になりたいという虚栄心の人もみんなそれを全部聞き逃してしまったわけです。良い悪いじゃなくて、それぞれの人の覚悟ですから、過去世のものもありますし、一概に良い悪いではないんでね。それでどうこうはないですけでも、そういうものなんですよ。

 だから人間として生まれた以上は、みんな立って喋れる以上は勉強する力があるの。どんな勉強でもいいの。例えばカラオケを徹底的にやって、歌を上手くなろうとするだけでいいし、結果として上手くならなくてもいいんですよ。でもそういうものなわけですね。

 年末にちょっとその大学とか、この世的な国語とか数学とか算数とか英語とかの質問が来てましたので答えましたけども。そういうそういう方面の勉強をしたい方はね、そのリクルートさんが出してる『スタディサプリ』というソフトが月千円ぐらい(これは、10年位前の金額で、現在は、2178円です)で確か使えるはずなんです。それを2178円払っておくとリクルートさんの何がいいかというと、ありとあらゆる科目をいつでも最初から終わりまでどこでも好きな時に何回でも見れるんです。だから、それでまた出てる講師陣の方がすごく丁寧で立派でね、わかりやすいので、もしそういう方面で勉強したい方は、それを繰り返し見れば必ずわかります。本当に基礎的なことからやってくださいますのでね。それは別にそういう勉強したい方は、それをされたらいいし、別にそんなんしなくても自分は園芸の事で何かしたいんだって、あの大根を育てたいんだとかね、いろんなことで百姓って農業というのは、もう一生勉強なんです。毎年条件違ってね、一番難しいのは農業だと思います。だからそれは何でもそれぞれ自分のやりたいことをね、やりたくないことにはできないからね。やりたいことをされたらいいです。ただ、これからは本当に全世界に向かって真祈りを響かす時代ですので、できるだけ英語は勉強してほしいので、いろんな英語の勉強法をちょっと年末に書きました。

 全然英語の事わからないからと言わずにね、ちょっとずつやってみてください。いろんな意味で本当に世界からどんどん日本に人が来るんですよ。来るということは、自分の生活を収入を半分に3分の1にして、みんなに分けないと生きていけない時代になるわけです。それ、でもそれ理屈で言われたって、もうヨーロッパでもアメリカでもそうですけども本当に移民というのでみんな苦しむんですね。最初は大変だから来なさい来なさいってやるんだけど、移民が入ってくると生活が自分の生活も低くなるからね、もめるんですよ。それは真祈りがないからです。

 例えばアメリカに行くとね、洗車機がないんですよ。わかる?アメリカには洗車機1台もないの。何故かと言うと移民の人が入って来たから人間の手で洗う方が安いの。そしたら洗車機の維持費も出なくなって洗車場というのが今はないの。それぐらい、でも移民の方がそういう低い給料でされてもですよ。例えば洗車機がなくなるという事は、洗車機に関連する会社の人の仕事なくなるわけでしょ。いろんな意味で今はたまたま洗車機だけで言ってますけど、いろんな部分でいろんな事が、あの分け合うというね、助け合うという気持ちがなかったら、要するに真祈りの気持ちがなかったら大変になるわけですよ。

 だから、ドイツでもトルコの方とかいろんなところから移民を入れたけど、それによって大変になってる。日本でもクルド人の問題というのが大変なってきてるのは、まだまだあんなんごく、ごく本当のちょっとの事で、もっとすごいことになっていきます。真祈りがなかったら、あのそうですね、今の日本の人口の3倍ぐらいになってしまいます。ということは皆さん3分の1の。要するに今やってる生活の3分の1でもちゃんと普通に生きていけるからね、これだけは覚えておいてください。今の収入の3分の1になっても生きていけるんですよ。でも、贅沢はできない。そのために先生は、いろんな極貧の生活を体現して見せられてね。何があっても生きていけるんだよということを示してくださったわけです。ですから怖がらずにね、まず真祈り。真祈りしてたらいろんな工夫ができて、いろんなことで耐えれるじゃなくて楽しんでいけると思ってください。何事も楽しめるとは思わないと駄目なのね。だから毎日がキャンプ生活ができて楽しいな、みたいな感じですね。そういう感じに思っててください。一応本当に寒くなるんでね。あの6万円とか8万円とかするような高い高い(エベレストでも使えるような、登山用の)寝袋は、みんな一応持っててください。何故かというと本当に燃料がなくなる、エネルギーがなくなるんで冬寒いで。頑張ってくださいね。

 せやけど、それを真祈りで、もっと緩やかに緩やかに持っていきたいと思っています。いろんなことを先生から聞いて、まだまだ言えないことがたくさんあったんですけども、今年からは、おまけもないのでしょっぱなに言っておきますけども。例えば人類が90億を超えるともう滅びるんだと。だから90億を超えないように真祈りを広めなくちゃいけないんだということも言われていました。でも、いよいよ90億に近づいていたんでね、本当に。あの人類というのは大自然の全てを食べ尽くすんですよ。だから滅びるの。食べる物も何もなくなってしまって、それだけです。

 だから、まず、例えば日本で地震が起こる、或いは火山が噴火するとかね、いろんなことがこれから真祈りがなかったら起こります。それ、何が何が原因かというと、神さまの命をいただいてることを忘れるから、要するに神さまへの感謝を忘れるからよ。だから大変になる。村人にいろいろ厳しい事をこの頃言っておるのはね。そのいわゆる今までは先生が真祈りしてくださった。そしてこの6年間は、みどりさんが真祈りしてくださったからおまけとして、何とかなったわけですけども、この、これからは皆さんお一人お一人が真祈りしないとどうしようもないんですよ。だから村人の場合は、山仕事してるでしょ。だから、山仕事というのは、この人間の手で作った、この直径の丸、この丸以上の木は真祈りして以外では伐っては駄目なんです。だから昔のあの杣人(ソマビト)。今でいう森林組合の山仕事をされる方はね、山に入る前に必ず山の神様にお願いして入りますし、木を切る場合も大きい木の場合は特別に縄を巻いて(しめ縄のかわりとして)ワラの藁荒縄を巻いてお神酒を捧げて、ある程度小さい木は毎回山の神様にお断りして伐っていったわけです。でも村人は、そんなこともわからずに伐っている。先生は一度は説明したはずだけど誰も聞いていない。でもこの河上の話は聞くなってなってるからあえて説明もしなかったわけですけど、もう聞かなくてもいいですけど説明はしておきます。山の神様にお断りせずに木を伐ってたら、自分の体がお腹が大変になります。症状現れてからでは大変だから、先に説明しておきます。それだけです。

 だから、村人は真祈りが何とかいうのがわからないままね、してるつもり。或いはしようとしてもできないんだと投げやりになってるのかどっちか知りませんけども。「宇宙神ありがとうございます」って祈っても何も変わらなかったからできなかったって正直に言う方もいらっしゃったし、いろいろありますけども。先生を信じてないんだったら、この村に住むことはできません。それだけです。そういう厳しさです、ここの聖地というのはね。それぐらいの厳しさがあるんだけども、先生は大おまけでここまで来ただけです。今更真祈りってどうしたらいいのなんて村人は言わないでください。もう散々僕は説明したから、或いは先生も説明されてきてますから。

 神書を読んだらわかる。神書の目次を読むだけでわかるよ、なんて印可書が楽で素晴らしいんだって。神書一つも読まない。村人が。聖地に住んでる人が神書も読めない、おかしくない。

 でも、そのおまけできてるだけでね、その一切がもうここで、この村に住んでるから真祈りできないっていう人も言い訳する人もいますけど違う。村に住むというのは真祈りする覚悟を持つから村に住まわせてもらったわけです。村人にしてもらったはずです。先生はちゃんと村人の心得で説明している。今更どんな言い訳も通じない時代に、もうおまけがなくなって入った。村人がそれだけ厳しくなるというのは、皆さんも厳しくなったということです。ということは、この村は地球の模型ですから、地球そのものが大変になった時代にいよいよ入るわけですよ。全てに神さまの光が行き届くということは、一切のマイナス、ごまかし、言い訳はきかないということです。

 五井先生がいつも言い訳しなさんなって言ってもみんな言い訳してきたんです。松下先生が総責任者の自覚って言っても、総責任者の自覚から逃げてね、言い訳、言い訳ってそうでしょ。総責任者の自覚から逃げてるから言い訳するねん。言い訳、総責任者の自覚があったら、全ては自分の責任です、ごめんなさい。「宇宙神ありがとうございます」だけで言い訳はない。「あいつのせいでお祈りできへんだった」とかね。「あいつのせいで仕事できへんだった」とか、「あいつのせいで会社クビになった」とかね。そんな言い訳は一切ないんですよ。

 そういう時代に入りましたから、あの村人は特に積極的に影響が出て、体に出てきますでしょうし、皆さんも村人のことを笑ってるんじゃなくて、いずれ自分たちも来るんだから、あの、ちゃんと印可書を奉読を淡々としてください。印可書奉読を淡々としてたら、自分の好きな勉強できるしね。いろんなことがちゃんとできます。ちょっとでも邪魔くさいなと思って手抜いた時は言い訳したと思ってください。そういう時代に今年からは入ります。総責任者として、皆さんお一人お一人が本当に松下先生として、五井先生として、真(まこと)の神さまとして働く時代に入ったわけです。

 ここまで質問があれば、もうあのおまけないからね、本当のことをちゃんと言うてるだけで厳しいこと言ってんじゃないのね。これから起こる本当のことを今言ってるだけです。厳しく言ってるじゃなくて、本当の事言ってるだけ。おまけがないってそういうことです。一切の言い訳はできないということ。聖書で去年言うたでしょ。イブがアダムを騙してリンゴを食べさせたなんてね。それ、本当にキリスト教、イエスさんを信じるんだったら、ちゃんと聖書を読めよです。聖書のどこにもそんなことは書いてない。しょっぱなにエデンの園追放のところで総責任者の自覚を言ってるわけです。でも、ちゃんと人類の原罪としてね、肉体を持って産まれたら、ついつい人のせいにする癖があるよということを聖書はしょっぱなに書いているわけですね。言い訳するなよって。

 言い訳しなかったら気持ちが楽やで。ひたすら淡々と目の前にあることをこなすだけ。みんなは邪魔くさいなって何で思うかって言うたら、結果を掴むからよ。このお祈りの部屋を綺麗にしたいと思うと何日もかかるから、やっぱり無理だわと思ってやる気が無くなるけど。もう目の、手の届く範囲だけでも綺麗にしておきましょうって思えたらできるわけ。これだけできたんだから後ちょっとしましょうだけでいいんですよ。

 その淡々と神さまの御心を実践しようという気持ちさえあればいいんであって、結果的に私は不器用だから何もできないのではないんです。それさえわかってれば、邪魔くさいことはない。邪魔くさいというのは結果掴んだから邪魔くさい。嫌だなというのは結果掴んでるから嫌だな。ただただ、それだけですから、そんなに難しいことは言っていません。

 皆さんが難しいな、嫌だな、辛いなと思うのは全部結果を掴んだからよ。例えば富士山に登ろうと思ってても体力ないから登れないとするじゃないですか。そしたら、一合目歩いて登ろうとしてですよ、一合目からね。一合目をちょっとでも行けたら、もうこれだけ行けたからでいいんですよ。後は、もうちょっとずつだけでね。だから、この人間の一生の百年のうちに完成しなくていいっていうのがわかればいいんです。みんなこの百年のうちに結果出さないといけないっていうね。あの結果を掴む主義がいかんのですよ。

 そんなん言うたらね、例えば一般のちょっとした大きい会社でも毎年何百人って人が入るわけじゃないすか。でも、結果として、もし成功したと言うなれば社長とか常務とかね、上の十数人が成功した人でしょう。後の人は毎年百人入られるけど、ほとんどは平のままでとかね。上手くいっても課長まで行っただけで終わるわけじゃないですか。それがいいとか悪いじゃないっていうのがわからなくちゃいけない。全員が社長にならなくちゃいけないんだったら、みんな嫌になって辞めちゃいます。結果を掴むなっていうのがわからないと駄目なんです。

 真祈りがなかったら、もう何が起こるかというと本当にまずお金の価値がそう。1万円札の原価のとこまで下がります。1万円札印刷する原価知ってる?24円ぐらい。村には今240万円以上のものがあります、原価でいうとね。村人は結局は先生がわざとそのお金を残されたわけですけども、真(まこと)の神さまを選ぶか?お金を選ぶか?という大きな試験だったわけです。村人はお金を選んだのね。だから、真祈りしようとしなかった、真祈りしようといろいろ苦しまなかった。それだけのお金あれば、村人は百歳以上までは安泰ですから、ただしお金の価値が下がらなければ。そやけどそれは人のことを笑ってられない。みんなの事やねんで。自分の貯金な。貯金とかあんなに頼ってるやろう。貯金を持ってていいのよ、そやけどそれに頼ったあかんの。神さまに頼るの。そこだけです。

 何で1万円が24円になるかというと。日本の国は、お金が足らなくなると国債を発行して、市中銀行に買い取らすわけですよ。市中銀行は皆さんの預金を使って買い取るわけ。それまではいい。その買い取ってもらった、買った国債を黒田バズーカというんですけどもQEっていうんですけども。日銀がもう一度買い取ったの。わかります?要するに国債として出してたお金を現金に換えてしまった。ところがその現金を銀行は使わずに、日銀に預けてるの。何故使わないかというと、安心して貸し出せるところがないから。でもそれは、これね一つ間違うと日銀に貯まりに貯まったお金をいつでも一斉に使えるということです。そしたら一斉にお金が出回ったらどうなる?価値が下がる。何でかいうと、あるお金と違って、国債という形にしといて、それをもう一遍買い取ったんやろう。それを借金と違って現金に換えた。そういうトリックではないんだけども、国としては景気を良くしたいためにお金を出回らそうとしたんだけど、それが上手くいかないまま、今、日銀の中に札束として貯まっています。

 だから日銀もそれを知ってるから新しいお金に換えて、いろんなことを考えてるわけです。皆さんは要らん事を心配せんとお金に頼るのを止めたらいい。真祈りだけ、真(まこと)の神さまだけってしたら、お金なんか関係ないからね、そこだけです。村人は、お金に頼ってしまって、特に大変なのは、その先生いらっしゃる時は、皆さんからのお金、それこそ自分たち、自分の年金まで先生のところへ出してた方がいらっしゃるぐらいね。ここへ(村へ)お金を入れたわけですよ。その時にいろんなマイナスがついたまま、要するに先生助けて欲しいで入れる方が多かった。それはそれでいいんですけども。それを先生が真祈りして綺麗にされたわけです。

 先生が亡くなられた後は、毎月入ってくるお金を金額言わなくていいから、箱に入れて僕の前へ出してください。そしたら、ちゃんと綺麗にお清めしますからっていうことを何回かお伝えしたんですけども、別に河上にしてもらわなくても大丈夫ということで、一切なかったわけです。その結果、どんどんマイナスが溜まっていってね、今の村の状態になっています。

 6年のおまけなくなったので、ここからは、何で村に金入れるのを止めてくださいってお願いしたのかって言うと、せっかく出したお金にまつわるマイナス、皆さんのマイナスじゃなくて、お金自身にマイナスのはついてるからね。例えば人殺しで儲けたお金でも、使われたっても、何人もの人手を通って、流通してくると、わかんないでしょう。お金に何も書いてないから、それは知らんと回ってくるわけですよ。そのお金にまつわるマイナスが村に出しても全部自分に返ってくることになったんで、もう村に出すの止めてください。村に出しても、村もどんどん沈むからね。そういう厳しさです。だから村に入れるお金は止めてください。直接渡すのも止めてくださいってお願いしてるのは、そういう意味です。渡さなくても村には十分なお金があるからね。それだけです。後はもう皆さんの自由意志だから、二度と言いません。

 まずはもう誰かに真祈りしてもらおうとは思わずに、皆さんが真祈りできるようになってるんだからね。淡々と結果を報い求めず、ただただ神さまに神さまの御働きとして印可書を淡々と奉読するだけでいいんだからってところまで説明しています。それを(村にお金を入れることを)選ぶ、選ばないは皆さんの自由。

 そして印可書がどうしても嫌だという人には、手振り付きの「宇宙神ありがとうございます」ちゃんと説明しました。それを信じ切れるかどうかは、皆さんの自由だから。

 「ありがとうございます」は一大循環の相象(すがた)そのものって何べんも先生おっしゃってるのね。それを聞かないから「宇宙神ありがとうございます」って祈っても何も変わらなかったって止めちゃったんです。何をと思うけどもみんな自由意志やからね。好きにしたらいいけど。それも「ありがとうございます」が一大循環の相象(すがた)と言うても、すぐ物を貰ってのありがとうございますって勘違いするからね。先生は「う」の言霊をつけて、「うありがとうございます」にしようとされたんだけど、「うありがとうございます」はあんまりなんで、「宇宙神」というくくりで「う」の言霊を作ってくださったわけですね。だから「宇宙神ありがとうございます」すると、一大循環の相象(すがた)が本当に動き出すの。「う」ってね。動くの「う」だから。だから手振りがつくわけですよ。「う」だから。だから先生、「宇宙神」「宇宙神」ってこう説明されたんだけど、誰も受け取れない。でも今からでも遅くないから真祈りしてください。どの形でもいいです。説明はしました、するしないはみんなの勝手。

質問
 素朴な疑問なんですけど、村人の方が真祈りよりもお金を選んだっていう事が具体的にちょっとよくわからないですよ。

河上さん
 具体的にってどういうこと?

質問者
 お金を選んだっていうのが?

河上さん
 それだけのお金があるから、何にしても自分が死ぬまでは大丈夫というのがあるからよ。お金に頼ったということや。

宮野さん
 何をもってそのように感じるかってことがわかりにくいってことでしょう。それが知りたいのかなぁ?

河上さん
 いやだって、この聖地、ここは聖地であるというのは村人はわかってるわけや。村からのお便りにも書いてあるやん。ここは聖地です。聖地に住むというのは真祈りしなくちゃいけない。真祈りする覚悟で悟るという覚悟で、村人になるって決めたに決まってある。悟るつもりもなくて村人になった人がおったんやったら、その人はすぐ病気で今年からは死んでいくっていうだけや。

質問者
 悟る目的ではなく、生活する目的っていうこと。

河上さん
 そうそうそう。

質問者
 生活する目的でここに住んでいるっていうことは、お金を選んだということ。

河上さん
 そうそうそう。もちろんそうやろ。

質問者
 わかりました。ありがとうございます

河上さん
 だって先生は、僕にはっきり説明されたもん。山仕事では、移動の燃料代とか、食事代とか入れていくとね、もらった報酬が赤字になるくらいだとおっしゃってました。

質問
 私、主人の所へ十年前に嫁いだんですけども、今になってわかってきたんですが、三方が古墳に囲まれているんです。我が家の北側にも古墳。東側にも古墳。

河上さん
 いやいや日本全国、古墳だらけ。(質問者:そうなんですか。)別に珍しくはない。

質問者
 そうなんですか。私はちょっとは、びっくりしたんです。そして、昔の物語にその古墳を荒らした村人がいて、その時にその村人が全部死んでしまったっていう昔話が残ってるんですね。やっぱりそういうことかなぁと今。

河上さん
 そうそう、古墳は聖地ですから、そういうふうになります。だから、この村も聖地ですから、だからほら不用意に変な石に座るなと、変な石って聖地の石に座るなよって言うてる。(質問者:わかりました。)

 だから、聖地に住んでて、真祈りしないということは聖地を汚し続けてる。それはどういう意味かというと、神さまのお仕事の邪魔をしてるということです。だから大変になる。おまけがなくなったからね。そういう意味です。それを信じる信じないは勝手やけど、、住んでたら結果がはっきり出てくる時代になったからね。その、こないなっんけどどうしようって言われる前に説明しとかんとな、そんなん先に言うてよって言われるやん。だから先に言ってるだけ。だからこれからは、村へご奉仕したらプラスには、もうならないからね。真祈り人がいないから、おまけもないから。ご奉仕するのは自由ですけども、一切報い求めずにしてください。するなとは言いません。したらいいんやで、別にな。そやけど。

参加者
 元よりご奉仕って報い求めてするのが奉仕違いますの。

河上さん
 もう今まではおまけがあったから、ご奉仕してたらちょっと運命がよくなるし、いろいろあったんだけど、これからはもうそういうのはないんだよという意味です。

質問
 おまけの話繋がりで確認なんだけど、ご奉仕も今までおまけという形で?

河上さん
 もちろん、そうよ。

質問者
 となると、去年、護摩でのお話にもありましたが、新たにお伺いしますが、護摩木を作る事、護摩木を書く事、護摩木にお金を出す事っていうことにについて真祈りとするという?

河上さん
 おまけだったわけです。それがなくなったの。だから、もちろん護摩木を作りに来られていいし、されたらいいですよ。でもそれはもう真祈りにはならないからね。それはそれで、そのつもりでやってください。要するにこれしてるから印可書読まんでいいんや。これしてるから宇宙神ありがとうございますって言わんでいいんやと。言わんでというんじゃなくて、お祈りしなくていいんだという甘えはなくなったと。護摩木を書いてるから真祈りなんだっていう甘えがなくなったということです。

質問者
 それが去年まであった、おまけが今年からはなくなったと。

河上さん
 終わったと。本来は、先生の亡くなられた3年目でね、僕の全生命をつぎ込んで、もう終わるとこだったんです。本当にもう3年目の8月超えて生きれないなっていうぐらいまで、とことんやったわけですよ。後はみんな好きにするしな・・・と、限界やからね、目一杯3年目の時にやって、それで一応、村人も護摩でね、スタートで勝手にお話をされる方(町田君)も出てきたんで自由に後を任せていいかなぁと思うことで、村の中心の方(奥様とまさよちゃんと町田君)にお会いして、いろいろと聞いたんだけども、返事もせずに無視されるだけみたいな極端な対応だったので、先生にもうこの状態ですけどいいですかねっていう感じで言うと、もう後3年ということで、村の運命が伸びただけで。

 それで、何故か後、またプラスでもうちょっと何年っていうとまたみんな甘えるから言いませんけど、ちょっと伸びてるだけで、ただ、もう村に対するおまけは去年で終わったわけです。

 だってね、その村の中心の方が指示して村が動いてるわけですよ。でも失敗したら村人の責任。成功したら中心の人のプラスという形に今なってるからね。全然中心の人が責任取る気がないの。それって真祈りじゃないの。どんな言い訳してもね。ちょっとでも自分たちは真祈りするつもりって言おうがね、誰も責任取らないというのは真祈りじゃない。だから、去年いろんな事件がありましたけども、誰も責任取らないし、誰も説明もしない。人の物を勝手に壊しといても捨ててしまっても誰も説明もしない。これで真祈りしてるっていうんだったら、それは憤飯ものですね。難しい言葉で言うときます。憤飯ものです。あんまりも具体にやさしい言葉で攻めたらかわいそうだから。それに、黙って無視してたら、このまま何とかなるやろみたいな無責任さは、もう通らない。

 だから真祈りとは何か?もう優しく説明してるやん。自分の都合は横に置いといて、ただただひたすら印可書を神さまに捧げてるだけでね、神さまの御心が自分に降りてきて、ちゃんとできるようになるからって、優しく説明したのにまだ自分の都合を優先する人がおるから。村人だけじゃないってみんなもみんなも、よう自分の心に聞いて、自分の都合を無意識にどっかで優先してるって、それは止めなあかん。だから自分の都合を優先せんかったら一切言い訳しなくなる。ちょっとでも、「それはああやったから」とかね、言うたらもう、或いは「邪魔くさいな」「これしんどいから後回しよ」って思った時は、もう言い訳してんねんって、それって自分の都合を優先してるやん。そういえば別に村人だけ笑ってられへんって、みんな一緒や。村人は象徴やから余計に具体的に出てるだけよ。みんなも一緒や。人のことは言うてられへんねんけどな。だから、それだけ。だから、村人はお金に頼ってるけど、みんなもそうよ。真祈りせんと自分の貯金とか収入に頼ってるねん。でもその貯金も収入も神さまから来たものだというのがわかれへん。

宮野さん
 立場や環境もですよね。

河上さん
 そうそう。

質問
 ギブアンドテイクで聞くわけではございません。無くなったおまけわかりました。まだ残っているおまけというのは?

河上さん
 ないです。まあしいておまけと言えば、印可書を奉読することが真祈りにするよというのは、最後まで残ってるということです。(質問者:唯一それだけですか?)

 ただ、印可書奉読を何で奉読といってるかっていうのもまだ説明するんだけど、未だにね印可書読んでるからいいんでしょうとかね。散歩しながら印可書んでるからいいんでしょとか、その朝晩何回も印可書読んでるからいいんでしょって言い訳に使うでしょう。印可書奉読を言い訳で使った時点でもうそれは奉読やないねん。自分の都合は全部横に置いといてって言うてんのに何で自分の都合を優先して印可書読んでるから自分の都合が通るでしょみたいなことを言うのかというのが、この簡単なことすらみんなね、やっぱり自分の都合を優先して聞くとわかんない。ちょっとでも言い訳出たら、言い訳に印可書使ったら、自分の都合を優先してると思って反省してください。いろんな意味で自分の運命というのは、自分が過去世に使った言葉で作ってきただけです。誰のせいでもない。それは本当は自分が一つ一つ全部消していくしかないものなんです。でもとても消し切れないから、印可書をおろしていただいて、真祈りすることによって、大きく大きく神さまの光を受けて、一切が消えていくよというふうに先生がしていってくださったわけですよ。それを信じる信じないは皆さんの自由です。でも村人は信じてないから今のおもろい状態になっとるだけです。

質問者
 おまけではないけども、先生が残された「宇宙神ありがとうございます」っていう言霊に。

河上さん
 手振りと。

質問者
 手振りがつけば先生の光がそのまま残っているということで?

河上さん
 通ります。残ってるんと違う。通るんですよ。でもそれを薬と一緒よ。どんな効く薬でもな、これ毒。要するに毒饅頭や。毒入ってない饅頭でも毒饅頭やって言われたら食べられへんやろう。薬でもそれ、薬じゃなくて、毒薬やでと言われたら飲まれへんやろう。そういうもので「宇宙神ありがとうございます」の手振りを信じないんやったら、いくら形を真似したって無理よ。印可書奉読も一緒よ。そこは先生が自分の命と引き換えしてくださった事を信じれるかどうかよ。でも先生を信じてないからこんなことが起こってる。自分の都合を優先してるねん。一言それだけやって。「宇宙神ありがとうございます」もう、例えば狭いところでする時は、もうこれだけでいいんよ。本当にトイレの中で、それこそ便器に座った状態で「宇宙神ありがとうございます」をしようと思うと、もうあの、こうするだけでいいのね(手の平をを会わせて振り上げて、振り下ろす)「宇宙神」「宇宙神ありがとうございます」「宇宙神ありがとうございま」これだけでいいの。そしたら狭いところでも出来るやろう。そういうのも本当に、この「宇宙神」を手振りされてね、狭いとこで出来なかったらどうしましょうっていうふうに聞いてくれたら答えようと思って残しててんけど誰も聞きに来ないから今、とうとう言ってしまってるけどな。

 虎の巻きをどんどん言うことは僕がいなくなるという事やから、ようわかって覚えといて。それで手を振り上げる場所も無い時は、座った状態で一番、あの狭いところということで想定して言うと、こうして「宇宙神ありがとうございます」ってお辞儀というかしてください。そう、もっと低く、ずーっと(頭を)下げて。それで手振りのかわりになります。ただ人目のある所でするなよ。あの人おかしいって言われるから、それだけは覚えておいて。人目のある所でしないように。膝上げも「宇宙神ありがとうございます」の手振りと一緒なんですよ。そやけど、人目のある所でしないように。みんな遠巻きにして怖がるから、下手したら119に電話される。おかしい人がいるって、救急車をとんできたら知らんで。(笑い)

質問
 今、教えていただいた「宇宙神ありがとうございます」に関する動き、手振りを添えること、一緒にすることで「印可書」と同じ働きをする。

河上さん
 そうです。先生がなんで手振りをいれたかっていうと、血が巡るというのは一大循環の相象(すがた)の入れ子構造的な一つの相象(すがた)なんですけど。だから、肉体を持ってる以上は、血を巡らすことによって健康になるわけね、当然ね。そしたら、その血を巡らすのにどうするかっていうと、すっと上げてこうすると血が巡るんよ。それの同じ効果あることを今それぞれバリエーションで言うただけ。だから、あの、こう上げたくない時は自分なりに考えて立ったままでいいからこうするとかね。こうするとかそれは自分なりに考えてください。ただそれをしたら、寒い時でも、ほこほこと温かくなったら、このやり方で自分なりに良かったんです。それぞれ持ってる肉体が違うから、あのこの方が私は体が温かくなるとかあるから、それは自分なりに研究してください。

 山の神様がね、すごい怒ってねん。真祈りなしで木を伐ってるってね。だから大変なことになる、村人に関しては。でも全部先生説明されてるからね。もう聞く聞かないは、みんなの勝手よ。知らんかったは通れへん。先生は、とりあえず全部説明はしていかれてるし、大事な事は全部、印可書じゃないは神書に書いていかれてます。だから、神書の目次を読むだけでいいって。神書の目次を読んだら、「あー印可書が何てすごいんだ」ってわかるぐらい、先生は全てを神書に書いていかれたのに、目次すら読まない。まあ勝手にしたらいいけど。

 だから、お金に頼ったらどうなるかということもちゃんと神書には書いてある。読まないから知らないでは通らない。先生が残していかれたことは必要で残していかれたんだから、何があっても少なくとも先生の残していかれたものは、読んで勉強してください。読んで勉強するのはどうするかっていうと、目で見て読むだけでは駄目なんですよ。目で見て読んで、気になることは書き出して、あるいは目で見て読んで全部。全部をなんていうんですか、全部をこのそうなん。ここ一番難しいところ、どう説明しようかな?

 例えばありがとうございますを書き出すと、いうことが必要なんですけど、その時に、ありがとうございますって覚えてから書かなくちゃいけないんですよ。「あ」やな「り」やな「が」やな」っていうふうに書いたら駄目。だから、神書ももし書き出すのが大事なんですけど書き出す時は、ある程度の区切りまで句読点の区切りまでは覚えてから書くというのが大事。般若心経のあるじゃないですか(写経)。あれも、何がうまくいかないかというと、覚えずに写すから、でも今は神書があるんだから神書を写すなり、宇宙神りがとうございますを写すなりしたらいいんですけど、ワンセンテンスで覚えて書いてください。書いた後、何が大事かと言うと。まず、声に出して読まなくちゃいけない。これも人前でしたらあかんで。誰もいてないところでやって。声に出して読むというのが勉強なんです。声に出して読むと、わからないとこがわかるんです。自分がここ全然わかってないっていうのが、声に出して読んだらわかるの、わかってないところが引っかかるから。それを自分なりにまたいろんなことでして、という繰り返しが勉強です。それが勉強のやり方なんです。(もちろん、自由自在ですから、書くのが苦手という人は、ひたすらに、印可書を、神書を、音読してください。)

 だから英語の勉強のやり方という形にして、ちょっと掲示板に書きましたけども、そういう最後は声に出して読むっていうのが大事です。それを何、一つのルーティン(毎回決まって行うやり方)にして、また黙読して書き出して、声に出して読むの繰り返し、もしくはひたすら声に出して読む。あるいはひたすら筆写するでもいいです。それは、その人によってこの形でないと駄目っていうのはないからね。自分のやりたい、やりやすいことでやってください。まずお勉強というのは、先生の神書を勉強してください。何があっても本当はね。でもどうしても嫌や言うのは好きにしたらいいけどね。印可書があるから。でも印可書も一緒ですよ。印可書もあのワンセンテンスごと覚えてから写してください。筆写してください。

 写経というとまた宗教みたいになるからもうその言葉は使いませんけど。だから宗教という、ここは宗教じゃないって何で言ってるかいうと、自分の都合が実現しないとこだから宗教じゃないんですよ。神さまの都合が実現するとこだから、ここは宗教じゃない。宗教というのは自分の都合、希望を実現するとこが宗教です。だから、自分の希望を実現したいんだったら、よその宗教どっかに行かれたらいい。

 宗教と宗教じゃない違いはそこです。自分の都合は横に置いといて言ってるやん。、自分の都合ちょっとでも出したらな言い訳すんねん、人のせいにすんねん。ちょっとでも人のせいにしたり自分の都合を言い訳したりね、したらもう、ああ自分の都合を優先してるって思ったらいい。神さまの都合を優先してないって。神さまの都合を優先したら一切の文句はない。「我汝の求める先立ち全て与えたり」なんですよ、何の文句もない。ありがたいだけ、ありがとうございますだけなの。それがありがとうございますとは思えないときは、もう既に自分の都合優先してるの。村人のことを笑ってるられへんて、お金に頼ってるって頼ってられへん、みんな一緒やから。

宮野さん
 勘違いしてるんじゃない。きっと先に与えてるっていうものが良いものしか与えられてないっていうふうに勘違いしてる。私達にとって都合の悪いことは、与えてあってもそれは本来必要なことを与えてあることっていっぱいあるでしょう。

河上さん
 そうそうそう。(だから、それは気がつかない)神さまから見てその人が一番よいようになることしか与えてないのね。でも自分の都合で言うたら不都合な事ばっかりよ。例えば勉強しなさいがそうでしょう。今は神書って言ってるけど、例えば英語の勉強することが義務だとなったときにね、あの神さまから降りてきたとするじゃないですか。ほんなら、そんなん、かなんわーってなるわけよ。今英語で言ってるけど、それが自分のいろんな運命で来るわけですよ。会社をクビになるとか、給料下がるとか、上司からボロクソに言われるとかあるけどね。そういうことです。でもどれもこれも神さまは一番いいようにしてくださってるのは間違いない。すると一切の文句はない。ちょっとでも自分の都合を挟んだら、自分の希望を挟んだら、自分の欲望を挟んだら文句が出るし、言い訳が出る。あるいは人のせいにする。

 簡単なことやで、簡単なことやけど、無意識にね、女のせいでりんごを食べたって言うてしまう。蛇の蛇のせいでリンゴを食べましたって言うてまうねん。そやけど、悪魔(業想念)はね、絶対にこうしなさいとは言わない。こうしたら楽やで、こうしたらアレやでとは言うけど、不倫せいとは言えへん。不倫したら楽しいでとかね。もういろいろあるけどね。絶対悪魔は、しなさいって言ってないよ。そそのかしてるけど、しなさいとは言うてへん。だから、そそのかされても、嫌、嫌だってイエスのようにね、人はパン、パンのみて生きるにあらずってはねたらしまいや。でもはねへんねやろう。それは自分がやりたかったからや。そしたら正直にいろいろとささやかれて自分も本当にやりたかったからしてしまいましたって言うたら、まだエデンの園に残れたんや。でも蛇のせいで食べようとした。女のせいで食べましたって、いや違うやろって。そんな自分の都合を優先するんやったら、自分の都合を優先するゲームの世界に行きなさいって言って、エデンの園を追放される。それだけです。

 自分の都合を優先する世界の一番凝縮した形が、いろんな宗教です。そこへ入ったら幸せになると思って、要するに自分の都合が実現する。希望が実現すると思って、みんな入るんやろう。お金をどんどん出したら実現すると思ってお金出すんやろう。ここは宗教じゃないからね。神さまの都合が優先される場所です。

 2015年の1月に先生が全部を僕におっしゃられて。後を任すからって言われて。嫌々それ約束が違うから言うていろいろと揉めたんですけど。もう仕方ない。

宮野さん
 響きで神さまの都合って何やろって、響きが。

河上さん
 そうか、神さまの都合は、みんなが幸せになることです。要するに、いちいち文句言わずにお互いに助け合って生きれるということです。自分の家族だけを優先するんじゃなくて、自分だけを優先するんじゃなくて。自分の地域だけを優先するんじゃなくて。自分の民族だけを優先するんじゃなくて、みんな一緒なんだよって助け合うことです。(お互いの文化風習を認め合って、尊重しあって、一緒にあわせなくていいけど、お互いに混ざらなくても尊重しあいましょう、となること)今、地球が大変になってるというのは民族で揉めるから。宗教で揉めるから民族でも揉めるからなんですけども。それ何で揉めるかというと。あの自分が一番正しいというわけですよ。民族でやったら、この民族の風習でするのが一番正しいんだと。昔日本で葬式のやり方が、日本中各地のやり方が違ったわけですよ。その違ったことを、あんなおかしいって言うわけね。おかしいから間違ってると(だから、こっちのようにしろと強制する)それがどんどんエスカレートして、間違ってんのは(自分たちの風習やり方と違うのは)殺してもかまわないってなっていくわけ。この今、殺伐たるね。今にも今にも、今にも地球がなくなる寸前まできた。みんな今日は、そのまま今日のように明日も続くなんて勘違いしてるけど、続けへんからね。誰かがブチギレて、ボンって核を落としたらしまい。誰かがブチ切れて、コンピュータを操作してね、持ってる核を爆発させるのよ。これからはな、核ミサイルは飛べへんねん。爆発するの。あるいは原発が勝手に暴走するの。コンピュータ操作して。もういろんなことが、その兆しがあるわけです。あんまりここで言うとそれが早く来るから言わない。まず印可書奉読で言うときますけども。なんであんな事件が起こったのって言いますけども、そうじゃなくて既にその兆しが出てるわけですよ。コンピュータ化してるのは一番弱い。だから今、世界で言われてるのはサイバー攻撃に一番強い国は北朝鮮だって言われてる。何でか言うと北朝鮮はコンピュータ化してないわけ。みんな人間が操作してるから、邪魔されようがないみたいに言われるぐらいね、今のどこの国もコンピュータ化されて、いろんなことが全自動になってるわけですけども。それは一つ間違うとすごいことになるわけですね。

 みんなすっきりしましたか?

質問
 ありがとうございます 新年も明けて、今年へび年ということで蛇の干支にちなんだ、お話を伺いたい。

河上さん
 蛇ってね、脱皮するでしょう。脱皮して大きくなっていくでしょう。あれ一瞬一瞬新たな象徴なんですよ。本当は一瞬一瞬新たなんだけども、この現世に表してくるとちょっとずつゆっくりになるからね。でも蛇は脱皮するごとに大きくなっていく。皆さんは一瞬一瞬新たに脱皮せなあかん。

 ただ、脱皮するいうのは、蛇の場合もそうなんですけど、これが自分だって掴んでないから脱皮できるねん、わかる?自分はどんくさいからあかんねんとかね。勝手に自分で皮(殻)を、作ってるわけよ。その皮(殻)を作ったら、もうこれが自分だって言ってるから脱皮できへん。一瞬一瞬新たな自由な自分って思わないと駄目。

 だから、ご夫婦でもね、仲の良い夫婦というのは、一瞬一瞬新たにお互いが脱皮してるん。喧嘩する夫婦というのはね、相手をこんな奴や、自分もこんなもんやって決めて、お互いにこんなもんの中でやったら不自由なん、お互いにこうやって、決めつけたもの決まったものが、あるやん。すると旦那でも奥さんでも不倫したら腹立つねん。お互いに自分こんなんやと思ってるからね。そやけど不倫したかったらするしかないわなっていうのは諦めなあかん。

 神さまがいいようにしてるから、そうやんそうよ。それで一緒にいてるのが嫌やったら嫌でしゃあないわなぁ。一緒にいたいんだったらいたいでいいわなっていうくらになったら、もめへんねんで。そやけどお互いに条件付けて相手を縛るやろ、そしたら苦しいから喧嘩になる。

 夫婦、一番その人類の中で一番小さい単位が夫婦だから、他人としてのね、一緒にいる夫婦だから、お互いに相手を縛らなかったら、もめへんねん。そやけど自分が、さっきの民族問題と一緒よ。自分が正しい、このやり方が正しいと思うともめんねん。だって夫婦でもお互いに育った環境違うやろう。だからお互いの例えば食事の作法とか思考とかね、お母さんの味とお互いのお母さんの味があるわけや。例えば食事一つとったってね、お前の味付け悪いとか、ああやこうやってなるのは何でか言うたら相手を縛るからよ。でも神さまが一番良いようにしてるってわかったら、この味付けにも自分は慣れなあかんねんやとかね。いろいろわかってくるねんけどな。でもついつい自分の都合優先するわけや。自分という皮を優先するねん。脱皮できへん。脱皮出来ひんのやったら、喧嘩になって大騒ぎになる。

 それだけでな。脱皮できたら、お互い自由やから必要やと思ったら別れたらいいし、一緒にいてもいいし、好きにしたらいい。お互い好きにできる。でも、自分の都合優先したら、お互い好きにできんで、憎しみ合いになんねん。

 人類やったら、民族同士の殴り合い、戦争なるわけや。宗教は何が問題か言うたら、自分が正しいと思ってるやろ相手のやり方を責めるわけよ。だから戦争の基本的な原因は、みんな宗教やねんな。でもそれは、教祖の言うたこととちゃうねん。教祖はもっと自由自在言うてるわけよ。どこの宗教でもね。でも最初の始まりはみんな自由自在言うてるねんけど。お金もうてくる。信者さんのお金を。するとお清めする力がないから真祈りまでいってへんから、その信者さんのお金の思いが段々溜まって殻ができてね。それで、今のやってる自分のやり方が一番正しいって主張するようになるねん。そしたらもう宗教同士で喧嘩になるわけよ。それが最後は戦争になる。たとえば、十字軍ね、イスラム教とキリスト教の争いそうでしょう。十字軍という戦争になるわけやん。イスラム教側から言わしたら喧嘩売ってきたのは向こうや。お互いにそういう言い合いして、その通りにもめて大変になって(いくんだけど、)やねんけど。こっちは守ったらだけや(自分が正しい)みたいになって。お互いやりやいになってすごいことが起こるの。

 それで自分が絶対正しいと思った途端に相手がもう悪魔やと思ってるから、もう何してもいいになっていくねん。された方はされて、これだけえげつないことしやがってって、またえげつないことを仕返しするということでね。戦争というのは、エスカレートしてすごい惨忍なことが起こるわけや。もうあんまりここでそんな話をしたらあかんから止めておきますけどね。あの映画でもその惨忍な残酷なことがいろいろあって、あの映画というか、あの報道でもあるわけですね。ソンミ村とかありますけど、それはそういうどっち悪いじゃなくて、エスカレートした結果です。それは自分が正しいから入ってるから自分が正しいはない、神さまが正しいだけ。自分の都合を優先せんかったら、揉めないけどな、夫婦でも、さっき言うたやろ。自分の都合をお互い優先するから喧嘩になるねん。簡単なことやねんけども、自分が正しい。自分の都合を優先したい。それを原罪っていうねんけどね。肉体を持った以上は肉体を守ろうとしてそれが起こってくる。それで、蛇のせいでリンゴを食べた。女のせいでリンゴを食べたって言い出すねん。

 音声はこちらからどうぞ
 https://youtu.be/1HUYwWnh35I

 宇宙神ありがとうございます

じょうし 2025/01/03(Fri) 00:32 No.3689


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元旦のおはなし2 by 河上 [Mail] 2025年01月04日(土) 14時37分
PC

元旦河上さん新年のお話A
 宇宙神ありがとうございます

 令和7年元旦 河上さんの新年のお話Aです。ありがとうございます

質問
 話変わるんですけど、今災害があちこちで起きてて、昨年の今日は能登で起こったりして。私は30年前に阪神淡路大震災があった時に、姫路市というところに住んでいたんですが借家だったんで借家返して私は岐阜へ移住したんですけど。家を持ってる人とかローンを抱えてる人たちはそれから逃れられなくて、ずいぶん苦しんでみえたんですね。そういう連鎖が今起きてるなぁっていうことをお話。

河上さん
 だから、借金とか二重ローンというのがね、いいとか悪いとかじゃないというのがわからないとあかんけど。自分の都合で言うたら悪いことよ。でも過去世から自分が使ってきたマイナスの言葉、人のせいにする。嫌なことは逃げる、責任は取らない、ということがすごいマイナスの言葉なんですよ。それで自分の運命を作ってしまったら、そういう運命を現してくるわけ。でも早く現れて、今生で消せたから良かったです。それを消さずにごまかせて死んじゃうとね。死んでから聞かれるわけで「あなたはそのお金をどう使いましたか?」そしたら、「その使い方やったら地獄行くか、犬猫になるかどっちかするしかないで」って言われるわけです。その時でもしんどいこと嫌やから、地獄嫌やって言うとね犬猫になれる。なったら最後二度と戻ってこられへんねんけど、そういう形です。

 村人が何が厳しいかと神さまのお金を自分の都合に使ったからや。でも、それは、大きく言ったら皆さんの働いたお金も神さまのお金だからね、いかに自分の都合に使ったか使ってないかは、どの人も問われる。ただ村人は強く問われるだけです。

宮野さん
 先生のおっしゃってる中で、借金はあかんって言ってはるやん。借金をしてまでね、物を買わなあかんものなのか。そう考えたら、あかんの違うん、いつ死ぬ?明日死ぬかもしれへんのに借金するんって話でしょう。

河上さん
 いやだから、神さまのお金を自分の都合に村人は使ったから大きな借金をしてるという意味です。

宮野さん
 みんなだってそう。

河上さん
 まぁそう。ただみんなの場合ちょっと緩やかいうだけや。聖地に住む人は厳しく、もっと早いということです。

宮野さん
 確かに聖地に住む人は確かにそうなんだけど、みんなも同じように考えていただかないと「村人だけやから」みたいなじゃなくて、みんなもそれぞれが稼いできてるってお金はみんな全て神さまが肉体を維持してくださってるから、環境を整えてくださってるからいただけるお金なわけでしょう。それを借金までしてどうこうっていうことも本当にそれをするべきなのかどうなのかっていうことは考えて大事なお金を使うものじゃないだろうか。だから、お金に頼るからいろんな事がマイナスの事が起こってくるわけで。プラスに働いたってそれは本当のプラスなんかっていうのはよく考えていただきたいものかなと。真祈りしてってことですよね。

河上さん
 そうそう。

質問
 地域も国も一緒ですね。地域も国も同じことになってますね、みんな。

河上さん
 そうそう、だからなんでね、お金に頼るかわかる?

質問者
 自分の欲のためにですね。

河上さん
 物はね、それを欲しい人しかお金に換えてくれないでしょう。でもお金は何とでも交換できるでしょう。だからある意味お金って神さまのような力があるようにみんな勘違いする。でも、いつも言うようにお金では手段は買えるけど目的は買えない。いくらお金払ったって、自分が勉強しないと体に身に付かない。例えばスキーで言うとね、なんぼスキーのセットを揃えても、自分がスキー場行って練習しないと滑れないのに、もうセットを買っただけで滑れるようになる気がする。一番わかりやすいのはカメラね。カメラとかオーディオなんですけども、セットを揃えただけで満足して、写真1枚撮らない人って結構多いし。オーディオもろくすっぽCD持ってないの、聞いてないんだけどみたいな感じで、みんな揃えるだけで満足するわけです。そういう感じで、お金の魔力というのは、とりあえず何でも換わるから、全部希望が実現すると勘違いするんだけど、希望は実現しない。だからお金持ちほど不幸になっていくんよね。そういう意味です。

質問
 最近生まれ変わりじゃないけど猫さん犬さんなるとかいう話がでてきてます。だいぶ前になんかもうここへ来てる人は、「生まれ変わりとかもうないからね」みたいなことを聞いたんです。

河上さん
 今の全人類は生まれ変わりはもうないんです。もういよいよ終わりに来たの。最後の時が来たんです。だから、輪廻転生とか言うじゃないですか。そういうことはもうないわけですよ。それは具体的にはいろんな要するに地球というゲームの世界からね、それぞれ、いわゆるもっと上の世界に行くのか、もっと下の世界に(落第なので、永遠にその世界でうごめく状態になるところ)行くのかだけのことなんですね。その時に、犬猫で行くか、人間としてまだリベンジできる状態でいくのかという状態に入ってきたんで説明してます。
 だから、いつも言うように、林檎を神さまは「林檎を食ったか食わんかったか」だけ聞いてるわけやから、「私はどうしても食べたかったから(リンゴを食べてはだめだと)ダメだと言われたんだけど、もう食べてしまいました、ごめんなさい」だったらまだ犬猫に落ちないんですけど、言い訳した途端に犬猫に落ちるということです。今選べるって簡単に優しく言ったけど本当はね、言い訳したらもう落第。

宮野さん
 輪廻転生の件は先生がずっと前に「印可書」を出す前に、既に輪廻転生の糸は切ったって、おっしゃった。

河上さん
 そうそう、ちゃんと先生は嘘はついておられないんだけど、誰もそれを何とも感じんかっただけや。みんな好きにしたらええ。

質問
 先ほどからのお話を伺っていまして、私個人的には村の方々と河上さんが仲良くしていただくのが全て。

河上さん
 仲良くしてるって。仲良くしてるけどね、もういよいよ最後やからみんな覚悟を決めて、要するに真祈り選ぶか?真(まこと)の神さま、一大循環の相象(すがた)を選ぶか?お金という止まったもの選ぶか?別に村人に限らへん、みんなそうねんで。ただ、もう明日からダメという状態ではないんでね。あと何年というのは具体的に言うのは今止められてるけど。余裕があるわけです。その間にみんな変われるチャンスがあるわけですよ。ただ村人の余裕はもうあんまりないから、きつく言うてるだけで、それは聖地に住む厳しさです。だからといってここから逃げてもね、今度は一般の人として生きても同じことはあるだけです。別に仲悪いちゃう、仲悪いんやったらとっくに言うてるって(分け隔てつまり差別するな(→具体的には無視するな。とね、でも、自由意志は縛れないから、無視して差別する人は、するやろ。どうしようもないでしょ。みんな、自由意志を持っていて、好きにするから・・・。)

質問者
 私から見たら河上さんの方が本当に愛情深くて、本当にいつも手を差し伸べている。でも何故か(村人は)無視して、こう、本当やったら・・・。

河上さん
 いやいや、それは、お金に頼ってはるからや。だから何を選ぶかだけやねんって。済んだことはええねんて。これから何を選ぶかどうですか?いつまでもお金選んでるんですか?真(まこと)の神さま、真祈り選ぶんですか?って言うて説明してるだけでな。

質問者
 私から見たらお金とかっていう、ちょっと私疑問があるんだみたいな感じが、何かもう河上さんをスルーしてはるように私はお見受けしてて、これからもきっとそういうご態度。本当だったらさっきも言いましたようにここに来ていただいて、ちゃんと話し合いの場なり。

河上さん
 ちゃうちゃう、話し合いでは何も進まへん。話し合いで進むんやったら、世界で戦争起こらない。わかる?お金を選んでる人はお金ってあるから、他のことは聞かないよ。聞け言っても聞かない。それは自由意志だから誰も止めれない。でも、説明だけはしとくよ。お金を選んで死んだら大変だよ。村人の場合はお金を選んで、死ぬ前にもっと大変になってくるよっていうだけです。村のシステムがそうなんだけど、誰も責任取らないシステムになってんねん。前は松下先生が責任取ってくださった。今は誰も責任取らずに嘘をつくの。いや責任取らないから嘘つくんねんけどな。こっちが何も知らないと思ったら大間違いなんだけども、知らないと思って嘘をついてごまかそうとするから、厳しく言ってるだけで。

宮野さん
 ちなみにあの、黙っているって言うていが、(河上さん:嘘や)それを嘘とは思ってらっしゃらないんで。

河上さん
 でもそれが嘘ということやねん。


質問者
 黙ってはるっていう、その振る舞いそのものが私は非常に残念に思っておりまして。

河上さん
 いや、それはそうやけどな。何を言うたってそれは自由意志やからしゃないねん。ただお金を選ぶか?神さまを選ぶか?本当に覚悟を決めていかないと別に村に限らず一般の人は死んでからが大変やし。村人は死ぬ前から大変になっていくから早く説明してるだけです。でも選ぶのは自由だから、もうそれで、そっから先はね、どうこう言わない。でもいつもように済んだことはもういいんだよ。済んだことを説明しなくてもいいよ、これからどうするかが大事。これから真(まこと)の神さま選ぶのか?またお金を選ぶのか?ということをいつも問い詰めてるだけです。

 先生の昔風の言い方で言うたら、感謝を選ぶか?思いを選ぶか?っていうて難しく言いはったわけですけどね。思い、要するに自分の都合を選ぶか?神さまに全て捧げるね、一切報いを求めずに全てを神さまに与え尽くす感謝を選ぶか?って先生は、いつも皆さんにも村人にも言っておられたわけです。でもみんな自分の都合を優先して、今に至ってるだけです。だからといってどうこうは言わないからこれからどうするんやっていうことを、ただ今の状態のまま今のままでいいって言うたら、こうなっていて、先々、いろんなことが起こって、なかなか楽しいでと。犬猫になってもいいし好きにしいやっていうてるだけです。

質問者
 いつまでもそういうふうな、あれを見てるのは私としては、非常に辛いんで・・・。

河上さん
 だからいつまでもないって。もう神さまの方で今回、もうこれでこの秒速30万キロのね、光が秒速30万キロのルールのゲームの世界は今回これで終わりにします、ということを言ってはるわけですよ。だから、その終わりが先生がどんどん引き延ばしてくださっただけで、本当はあの、僕は先生と初めてお会いした時が、そのもう終わりの時だったんですけどね。約59年前ですけどね。そういうことです。それだけです。だから、それを今延ばしていただいてあと何年というのを言うとまたみんな怠けるからもうあと何年は言いませんけど、本当に後はないです。

 ただ、入れ子構造的に世界を収縮した村に対しては、それがもっと早めに出てくるから、村人に出てくる姿を見て皆さんはもっとなんていうか、覚悟を決めていただくちゃいけないんでね。反省していただくちゃいけないんで。でもね、ちゃんと答え言うてるでしょう。自分の都合を優先したら文句が出るし、言い訳もするし、嘘もつくしね、虚栄心も出るしって、自分の都合を優先せんかったらそんなん出えへんねん。要するに思い通りになりたいと思わんかったらええねん。神さまがいいようにするんだから、神さまがいいようにするって言うて、それは、具体的に言うと、どんな運命も喜んで一生懸命したらいいだけだよって説明してるだけです。

 でも、「邪魔くさいな」「しんどいな」「嫌だな」と思った時は、自分の都合、自分の思い通りになりたいって優先してる時だよとまで優しく説明したつもりです。だから、ちょっとでもやっぱり「嫌やな」「しんどいな」「邪魔くさいな」「鬱陶しいな」って言う時は、自分の都合を優先するんや、してるんだ。と反省して、真祈りに変えたらいいよっていうことを言ってるわけですね。それだけです。はい。

宮野さん
 今のお話の中で、村のこの状態と河上さんのを見てるだけでも辛いっていう言葉があったんですけど、それさえも今この村の話になってますけども、皆様の各いらっしゃることで、よくある話やと思う。目の前に起こってることでね、自分以外の他人はどうにもならん、自分以外の取り巻く環境はどうにもならないっていう中を辛い、しんどいっていうふうに思うっていうのは自分のマイナスの心がそれを表してるわけですよね。それは自分以外のものはどうにもならないんだから、ただ淡々と「あ、真祈りをするチャンスをいただけたんだな」と。ただ自分の目に写ってることがマイナスに写る、苦しい、辛い、厳しいことやと思うことっていうのは、自分のマイナスがそう写らせたんだっていうことで先ほどの分じゃないけど、村人だけじゃなくて皆様方一人ひとりが、今ここでお祈りをする、真祈りをするっていうチャンスだということで、良いチャンスを与えていただいたなって思っていただける方がいいのかしら。

河上さん
 うん、そうよ。だから自分がマイナスに見えた時はな無意識に自分の都合とか、自分の望みとかね、優先してる時よ。神さまが良いようにしてるから何もしなくていいんじゃじゃないわけね。そうだったら赤ちゃんで生まれて、歩けないまま、喋れないまま大きくなってきたらいいわけや、そうでしょう。でも、皆さんは真(まこと)の神さまと、そのものだから命としてね。真(まこと)の神さまというのは一瞬一瞬新たな相象(すがた)を取られるわけですよ。その一瞬一瞬新たな相象(すがた)を、肉体側で言うと、勤労、勤勉なんです。よく働きよく学びなんですよ。でも、難しい高等数学を学びなさいと言ってんじゃないわけ。自分の興味のあるとこを一生懸命するだけでいい。それも何か論文に書いてねノーベル賞を取りなさいと言ってんじゃないわけ。結果じゃなくて、自分なりに一生懸命するのがいいんですよ。

 それだけを言ってるんだけど、結果を掴んだら全部嫌になるから、そんなん誰でも嫌になるって。例えば、今すぐこの寒い中、富士山登れって言われたら嫌になるやん。そういうものです。だから、富士の高みを望んでもいいけども、だからといって登れなくても、一生懸命、たとえ、一歩でもと、進んでいくのが、神さまの御心を実現してるっていうのをわかってくださいということを言ってます。

宮野さん
 あの戦争のニュースを見て、辛いと思うのか、えらいことしてるわ、ひどいことしてるわと思うのも違うということですね。

河上さん
 そうそう。その時点で自分とその戦争の場所を分けてるやろ、分けた時点でもうマイナスやね。全部自分の責任だから戦争のニュースを見たら、ひたすら祈らなあかん。ただ祈り方がわからんかったから、今までは私は真いのりは、無理だけど、真いのりは先生しかできへんわって言ってたわけですよ。言い訳を真いのりをできないと、言い訳をしてた訳ですよ。それを真祈りの仕方をね、「印可書」奉読に「宇宙神ありがとうございます」の手振り付きで先生は集約してくださったから、そのおまけだけは残ってるからそこだけはやってください。だから「印可書」を奉読しながらこれの手振りでもいいしね。みんなそれぞれ考えて工夫してやってください。はい。

宮野さん
 四股でもよろしい?

河上さん
 もちろん四股でもいいんやで。どれもこれも必要なことは言ってあるから、自分なりに選んでください。だから先生は歩かれる時は必ず足の指で土をつかむようにして、かかとを紙1枚浮かせて、浮かせろって言って先生によう怒られた。紙1枚がしんどいからついついつま先立ちでやるんやけど、上げすぎや言うて怒られてね、歩く時は必ずそうするんですよ。それその毎日それがね、あの肉体を健康に保つの。僕だけではなくて、誰彼にも先生はとりあえずは言うてはるんやけど、誰も聞こえなかったのか知らなかったのか知らんけど、でも一応は、もう一度言うときます、そういう感じです。それで歩くだけでやったらわかりにくいんで、ちょっと四股という形で言うてみたり、いろいろしてますけど。

宮野さん
 もうあの肉体のおまけがないのでこの話をされてるわけで。

河上さん
 そうそう、病気になったから治してくれと言われてももう治せないんでね。

宮野さん
 もうちょっと詳しく私が聞いてるんで詳しく言うと、つま先で立つっていう、いわゆる踵重心じゃなかったら、踵重心すると何が起こるかっていうと、腰悪くする人が多くなるんですね。最近腰痛が多いとか腰が脊椎間狭窄症なんていうああいうので腰が痛い人、膝が悪い人、関節がどうこうっていう方は、大体、踵でがんってついてる歩き方をすると。こけないからどうしても踵で下ろすっていう癖がついてる方が多いんですけども、それは逆に腰とか膝とか関節痛めるってことで、できるだけ前重心。足の親指のこの辺ですね。先生がおっしゃるように掴む、先生がなさってたような感じの歩き方、もしくは剣道の踏み込む感じのイメージですね。ああいうイメージされたら、あの腰とか膝には関節にはあまりこないんで。

河上さん
 だから、わかりやすく言うとね、その場でジャンプするやん。チャンチャンってその時、大体つま先から降りるやろ。踵だけでジャンプしてみ、膝にも腰もくるで。それを普段無意識に腰へ腰へ負担ためてるということです。本当は走る時でも踵で走られへんやろ。歩く時も一緒やねんて、踵では歩かれへん本当は。だから先生は踵をを浮かせるってうるさく言われたんだけど、それだけです。運動不足にならないわけですよ。ちょっとの距離でも、つま先立ちで歩いてたらね、家の中でもつま先立ちで。最初は難しいから本当に踵を大きく上げてもいいですから。そうして、そのつま先立ちも土を掴む感じで指に力を入れなあかん。指で、だって歩くって指で蹴るでしょ。走るのでも指で蹴るから走れるんで歩くのでもね、あの指で蹴らなかったら走れない。そういう感じです。だからそれが普段の立ってる時も、あるいは椅子に座ってる時でも一緒なんですよ。足の指の力を抜くと色々体に不調がくると思っていてください。だから、あの足をね、ちょっとでも時間ある時はグーパーしてねとかね。電車乗ってる時とかタクシーとか車乗ってる時はグーパーしてねとか、ずっとしなくていいよ。でも気づいた時はグーパーしてね、とかいろいろ説明しましたけど。どれもそういう意味です。

 何で足の指かというと、人間の血管というのは太い血管からどんどん細い血管になって、毛細血管になって、また毛細血管から太い血管になって、心臓に戻ってくるの。それの一番遠いのが足の指なの。だから足の指の毛細血管を動かしたらんと心臓の負担がすごい、そういう意味です。昔は草履でしょう。靴ってないやん。草履っていうのは足の指使わんと歩かれへん。だから昔の人は健康やったし、冬でもそんな僕みたいな厚着せんでもでもね、あの寒がれへんかったんは血が巡ってるから。後は自分なりに研究してやってください。

宮野さん
 後は腸のことを言っとかなくていいの。

河上さん
 腸ね。免疫力というのは、免疫力もですし、真祈りもなんですけど頭でするんじゃなくて、腸でするんです。免疫力は腸で作られるし、物を考えるのも全部腸で考えるんです。頭はメモリ、記憶をためておくとこであって、演算(計算)するとこじゃないですよ。物を考えるのは全部お腹なんです。だから日本語で「腹くくってやれ」とかね。あの「腹立つ」「腹が据わってる」とかいうのは、そういう意味です。そのおなかで真祈りするんですよ。だから、さっき言ったように、その座ってでもこうして(お辞儀するように頭を低く下げる)「宇宙神ありがとうございます」というのは、お腹を使うという意味です。これもそのつま先立ちをお願いしたのは、つま先立ちをしようと思うとお腹使うの。だから常にお腹を使うという意識をしたらいいんですけど、お腹に力入れるとお腹だけに入れようとするのね。それ、そこの説明の難しさで、足の指からとか、できるだけ遠くから説明しています。

質問
 腹筋運動。単純に腹筋運動とかそういうこととはまた違います?

河上さん
 おなか使えいうと腹筋鍛えたらええねんなって勘違いすんねんけど、足の指使わへんやろう。するとあかんねん。本当のスポーツトレーナーはね、例えば本当のスポーツトレーナーは足の指を使って腹筋を鍛えるとか足の指を使ってのスクワットとかいうのをちゃんと説明するんですけど、ほとんどはみんなそれ知らんからスクワットして膝痛めたとかね。腹筋して腰痛めたとかね、訳のわからん状態が起こるんです。それは足の指使ってないから、そういう意味です。だから、一時ほら、指の何とか運動ってあったやん。あれもその指回し運動か、うん。あれもその足の指で本当はしなくちゃいけない。(できるか)せめて足じゃんけん、グー、パー。グー、チョキ、パーを足でやってください。

質問
 免疫力を上げるというお話が出たので、今、思い出したのですが、ワクチンは基本的に害ですよね。ワクチン?

河上さん
 ワクチン、違う違う。ワクチンが害と違うねん。さっきの言った毒饅頭よ。要するに普通の饅頭に毒が入ってるいうたら食べられへんやろう、一緒よ。ワクチンも毒と思ったら、毒になんねん。だから、お釈迦様がね(そんなこと思ってないけど)、対抗してると(敵対してると思い込んでいる)バラモン教の人がお釈迦様を毒殺しようとして食べ物に毒入れるんよ。でもお釈迦様は先刻ご承知で、真祈りして食べるから、全然影響を受けへんねん。それで、相手の人がお釈迦様の食べ残したの見てね、毒入ってへんかったのか?と思って食べて死にはんねん。それくらいね、要は、だから「印可書」も一緒よ。それを真祈りになるって信じれるか信じないかが大事。「宇宙神ありがとうございます」の手振りもね、それを真祈りすると先生が決めてくださったんや、大おまけとして。それをしたらええねん、信じて。でも信じずに形だけしたら意味ないねん。

 本当は真祈りというのは、僕が伝授受けた時みたいに、もっと難しい、厳しいもんやねん。そやけど、そんなん誰も出来ないからということで、先生が柔らかくしてくださってんからね。それを受け取らなあかんって。「印可書」でなくても手振りも一緒やからね。でも、結局先生を根本的に信じてないからそんなややこしい事を起こってんや。頼ってるだけやから。頼ってる事を信じてる事と勘違いしてる。さっきのお金で、手段と目的入れ違えて、揃えてるようなもんや。だから、ここへ来て話聞くだけで助かるみたいなね。先生とこで(村で)奉仕するだけで助かるみたいに勘違いしていくねん。もちろん先生は大おまけをいろいろ出してくださってたから、それで今まで良かったんけど、これからは先生いらっしゃらない。6年間のおまけもなくなったから、それぞれ自分の責任でするしかないんだよということで。だから、もちろん村にご奉仕してくださいよ。でも、それでおまけはないから。でも自分の責任でしたら、それはもちろん真祈りになります。でも、これだけの事を村にしてんからとちょっとでも思ったらもう意味がない。そんな気があったら止めときって言うてるわけ。それやったらもっと普段の自分の生活を大事にしなくちゃいけない。普段の自分の生活が真(まこと)の神さまへの奉仕ですから、それがわからないと駄目ですね。

 こんなしょうもない会社に自分勤めててじゃない。それぞれ必要でそれぞれの仕事に就いてるわけです。だから、職業に貴賎はないっていうの。でもどの職業に就いてても「邪魔くさいな」「嫌やな」「鬱陶しいな」と思った時点でアウトや。文句を言うな。自分の都合を優先するなって言ってるやん。だから、別の言い方をしてね、一生誰にも認められなくて、虐げられたままでも一生不遇なままでもいいんだってまず諦めなあかんっていうのはそういう意味です。

 自分の都合優先しなかったら、どうしてもそういう(報いがない)立場になっていきます。

宮野さん
 いつも言いますけど、楽なような立場に持たされた人、立たされた人のことも危険や言うとかな。認められなかった人だけじゃなくて。

河上さん
 だから逆に言うとね、ええ立場に立ってる人こそ、ひたすら真祈りせなあかんねん。お祈りしやすい状態においてもうてんねんから。だから何で村人に厳しいかと言うたら、よく先生は僕にね、ぼやかれるわけですよ。「お前の真祈り足らんからこんな状態になった」って言うてね。それは何かと言うたら、衣食住を保証して、村人はね、衣食住を保証してもらって、真祈りに専念できる状態にしてやっているのに」って先生おっしゃった。「してやってるのに真祈りしない。」それはお前の真祈り足らんからって全部こっちへふってくる。それはその通りやから、いつも怒られてるねんけどね。そういうもので真祈りできる状態に置かれてる人は、命懸けでしなくちゃいけないんだけど、してないから村人は大変だよ、厳しくなるよ。おまけがないから本当大変だよって言って説明しただけ。今年からは本当に出るからね、いろんな形で出てから言われたって説明したでっていうことで初っ端に今、説明しておきます。

宮野さん
 やんわりと皆さんもそうですよっていうことを。いやいや、いや私ちゃうかもって、ちょっと思ってるかもしれないからね。

河上さん
 地球上の空気を吸ってる人は、みんな同じ状態。

宮野さん
 そういうふうに言わないと。空気吸わんでいいっていう人は別やけど。

河上さん
 地球上の空気は一切一つです。だって人類同じ空気吸ってるでしょ。だから、完璧な一つなんよ。空気だけ見たってね。

宮野さん
 太陽の光も当たってるし。

河上さん
 そう。そやのに自分だけ違うってエデンの園や。蛇のせいでリンゴ食べたって。女のせいでリンゴを食べた。

宮野さん
 勘違いしたらあかんのは、村人だけが衣食住足りてるんじゃなくて、みんなもそうやっていう。

河上さん
 ここへ来る余裕があるいうのは、やっぱり衣食住足りてるんや。本当に生活大変やったらここには来れないよ。ここに来るためにそれなりのお金もかかるし、時間も空けなあかんでしょ。でもそんなもう余裕ないくらい生活追われてる人って、たくさんいらっしゃるからね。だからこそ真祈りできる立場の人は、必死で総責任者として祈り続けなあかん。

質問
 ありがとうございます 今のお話を伺ってて、やっぱり何の問題もなく、衣食住足りてるこの状態にしてもらってる時こそ、真祈りをしておかないと、どんどん真祈りをしやすい状態に追い込まれていくようなになるんじゃないかと思うんですけれども。その場合、それは神さまが追い込まれるわけじゃなくて、自分の本心が自分が真祈りしやすいように追い込んでいくんでしょうか?

河上さん
 そうですよ、もちろんそうです。その本心に大きさがいろいろあって、入れ子構造的に小さい本心として肉体があるわけです。だからその状態の中で、自分で自分の真(まこと)の神さまとしての響きがね、自分で自分を判断して、より真祈りしやすい状態に追い込んでいってくれるだけです。真(まこと)の神さまの場合は、絶対の中心から強い光を送ってるだけ。それが入れ子構造的にいろんな光になって、今年は特に蛇の小さい姿になってね、いろんな姿になって入り込んで浮き上がってくるから、光としてね。その光と対比して、マイナス部分を自分の嫌な部分を自分でいろいろとしていくだけです。それを真祈りしなかったら、病気の形で出るよ、癌の形で出るよって言ってるだけ。出てきてからだったら何が大変かというと、例えば痛みは痛いじゃないですか。その痛みを無視して真祈りするって大変やからね。痛みが無い内に(真祈りを)しいやって言ってるわけです。もう最初に、しょっぱなに説明したからな。後は文句言うてきても知らんで。みなさん、正月に、たくさんの種類の餅を食ってる場合じゃない。

宮野さん
 大丈夫よ。リブレ貼ってるから(笑)

質問
 ありがとうございます 昨日、河上さんのテープを聞いていて、「心は神だ」とおっしゃっていたんですけど、「心」というのは、本心っていうことですね。

河上さん
 そうです。

質問者
 思考と腸で考えるとか、先ほどおっしゃったと思うんです。思考とその感情とかそういうのちょっと、本心とその違いがわからない。

河上さん
 だから、自分の都合を優先することは、本心の響きではないということ。自分の都合。自分の都合を優先すると、「邪魔くさいな」とか「鬱陶しいな」とか、「あいつ嫌やな」とかね、全部出るわけ。本心の響きだったら全部自分でしょう?総責任者だから。全部自分だから文句は出ない。

宮野さん
 比べることも。

河上さん
 (他人と比べることも)そのとおりです。、その本心の響きというのがね、本当は滝に打たれたり、あるいはここにひたすら座ってね、神さま、神さまって祈って(自分の都合、言い訳が消えるまでつきつめてして初めて)受け取るもんなんですよ。でも、それも自分がひたすら祈って受け取れるんじゃなくて、師匠から伝授されるもんなんです。僕の場合は、先生からいろんなお祈りの仕方を教わっていろいろ試すんだけど、どうしても途切れるのね。先生からは24時間お祈りし続けなさいって言うんだけど、どうしても途切れるわけ。どこで一番、もうあの自分がガクッときたかというのは、水を飲む時にお祈りを忘れた。喉渇いて、ひたすらお祈りをしていて、水を飲む時にお祈り忘れた。この程度のことで、お祈りが途切れるようではと思って、もう先生の足を引っ張るわけにはいかないから、先生のところへ謝りに行ったわけです。「自分はとても真祈りできる器じゃないから、先生の邪魔をするわけにいかないんで、おいとまします。」って涙流して謝って言ったわけ。その時に先生がハハッと笑ってね、「河上さんの本心はずっと祈り続けてるやないか。」って言うて伝授があったわけです。

 それくらいの真剣さと厳しさが本当は必要なんです。でも、そんなことをできる人がほとんどいないから。もう今回は最後だからね。最後だから大おまけで、できるだけ悟る人を真(まこと)の神さまの自分というのを自覚できる人をできるだけ作ろうということで、手振りの「宇宙神ありがとうございます」と「印可書」を先生は作ってくださったわけ。それでも、色々と光強すぎるということで、もっとみんなが読みやすい「印可書」にせえと言うて、お前が改造せえ、お前は光を弱めるのが得意やとかボロクソに言われてですね、作っただけで。すると先生が、「本当に本物が現れた。」って喜ばれたという経過の「印可書」と、その「印可書」でも嫌だという人のために、手振りの「宇宙神ありがとうございます」を残していかれたわけですね。

 だから、それだけです。ちょっとでも自分の都合が出たら、「印可書」なり「宇宙神ありがとうございます」に戻ったら、(まこと)の本心の響きの、なんて言うんですか、思い巡らすじゃなくて、正しい響きが来るわけ。それが来たら、例えば仕事でも、失敗せずに上手くこなしていけるようになるわけです。本当の知恵が湧くんです。知識じゃなくて。ただ、本当の知恵、知識を湧かすためには、真祈りプラスこの世では努力と勉強が要るということです。

質問
 日々自分の都合以外に生きていくことが出来ないんですけれども、日々自分の都合だけで生きているんですけれども。お祈りは気がついた時にしていたり、「ありがとうございます」「宇宙神ありがとうございます」を気がついたらしているんですけれども、でも…。

河上さん
だからその比率をね、どんどんお祈りの方に変えていったらいいだけです。いっぺんに変えようと言ってるんじゃない。

質問者
 私みたいに低いものは、五井先生が。

河上さん
 いや、違う違う「私みたいに低いもの」という皮をどう破るかが難しいとこだったわけです。それを脱皮させるために「印可書」奉読するだけでいいんだよ、手振りして「宇宙神ありがとうございます」をするだけでいいんだよっていうね、先生の大おまけを真(まこと)の神さまとの約束で作ってくださったわけです。そこを、そこを信じて、これさえ奉読してたら、ちゃんとなるんだって信じてね、結果を掴むんじゃないですよ、信じて奉読したらいいんですよ。そしたら、ある時突然自分はこんだけのもんだという殻が割れます。脱皮できます。脱皮できた途端に、全てが透き通るようにわかるようになります。全てが透き通るようにわかるようになっても、まだまだ最初の第一歩なんですけどね。でもそういう感じでどんどん変わっていけます。でも、こんなん読んでどうなるんや、手振りしてお祈りしてどうなるんや、手振りしてお祈りしてどうなるんや。手振りしてても何も変わってこないわって思ってしまったら、永遠に変わらない。

 先生の大きな愛の大おまけをどれだけ受け取れるか、信じ切れるかだけです、結果を気にせずに。ちょっとでも結果を掴んだら「印可書」奉読してるんだけど何も変わらへんわ、手振りして「宇宙神ありがとうございます」をやってるけど何も変わらへんわって思った途端に全部水の泡になるの。なってもまた「いやいや」と思ってやればいいんだけどね。せやけど大概は「もうこんなん、やっぱり意味ないわ。」って思ってしまうんよ。それで終わるんだけど。今は真祈りできる人が少ないからそんな状態ですけど、真祈り人が増えたら、誰もが「あ、もうこれしてるだけで嬉しい」ってなってくる。そしたら、戦争が消える。争いが消える。「宇宙神ありがとうございます」ってやってるだけで無条件に喜びが湧くの。無条件に幸せが湧くの。無条件に湧くものが本物なんですよ。条件付けてどうこう言うものは全部自分の都合なの。わかる?

 だから条件がつかなくなって嬉しい楽しいってなったら、もうそれだけでいいんです。だから、そこだけなんですよ。ちょっとでも条件がついてる内は、まだまだ自分の都合が出てると思ったらいい。だから条件がつくから、結果が気になるんよ。条件を付けてなかったら結果は関係ないやろ。みんな無意識に自分に条件を付けるの。条件付きの幸せを望むことを「希望実現の法則」っていう。無条件の幸せを望むことを真祈りっていう。もうそれだけよ。だからちょっとでも条件付けて自分の都合を言うたら、あっと思ったらいい。

質問者
 五井先生みたいな「想念停止」っていうのは別にしなくても「想念停止」っていうのをしなくても修行は、先生の松下先生が。

河上さん
 ああ、そうよ。だから想念停止で悟るのとは違うの。想念停止の向こうがあるの。でも、まず最初に想念停止が要るねんけど、その想念停止というのは何かというたら無条件ということやねん。わかる?

 無条件の結果、思い巡らすことが止まるわけ。それで想念停止やねん。ちょっとでも条件を付けている内は想念は止まれへん。せやけど、その無条件になる方法がものすごい難しいから、もうその思いを巡らす心が出ててもいいから、こうして手振りで「宇宙神ありがとうございます」、「宇宙神ありがとうございます」をした時は他のことを思われへんやろ。その時だけは真祈りなってると、想念が止まっているということなんですよ。それだけ。だから、そこを信じ切れるかどうか。「こんなんしたって想念止まらへんわ。」「こんなしたって無条件なれへんわ。」って思うんやったら、思う毎に無条件になれへんから意味がなくなるの。

 だから、それが最初は「ありがとうございます」の十文字やったわけですよ。先生は「ありがとうございます」とひたすら唱え続けたら悟れるよって言ってくださったわけですよ。でもみんな何回かはするんですよ。何十万回かは「ありがとうございます」ってやるんやで。やるけど、ひたすら条件をつけてるから、ブレイクスルーしなかったの。条件を付ける暇もないくらいやらなあかんかってん、素振りもね。でも、どっかで結果という条件をつけるわけよ。それで行き詰まるの。それくらい難しいわけ。

 僕は先生から24時間連続して真祈りしなさい、具体的には24時間連続統一だって言われて、そのことをひたすらやろうとしても、水飲んでる時に忘れたから、お祈り止まったの。こんな水飲む程度で止まるようでは、どうしようもないわと思って、もう謝りに行ってんけどね。その謝りに行ってんけど、もうひたすらずーっとやってた時に、もう条件付けてる暇がなくなってたんよね。だから、先生がポンッと開いてくださった。本来は悟りというのは師匠がパンッて引き上げるもの、神さまが引き上げるもんやねんけど、今は「印可書」と「宇宙神ありがとうございます」、手振りとね、真祈りだけでね、引き上げてもらえる時期、時代に入ったわけよ。

 だから、この大おまけのチャンスを失わずにね、何とかしてほしいから言ってるわけ。結果を、済んだことをどうこう言ってるのと違うんだって。結果はいいって、いつも言うように結果を掴む。結果はいいの、してしまったことは、もういいんやって。どうしようもないねんもん。これからどうするかって言うてる、これから真祈りするかしないかだけよ。それをひたすら言ってる。もう最後やからな、もう輪廻転生はないねんて。もう最後や。後、皆さん100年か150年よう生きれてもね、よく生きたって100年や、ここにいてる人やったらね。あと100年しかないねん。

宮野さん
 そんなに生きんでいいで。

河上さん
 せやけど、その100年も、もうないねん後。何年とは言われへんけど。それくらい後がないねん。せやけど、みんなが真祈りしたら一斉に変わるんよ。その大事な大事なね、真祈り人の役目を使命として持ってるからここに集えてん。

 ほとんどの人、世界中のほとんどの人はここへ来ないやん。松下先生知らんやん。この松下先生を知ったわずかな人だけの力でね、大きく世界が変わるんよ。それだけです。

 だから「自分の都合を優先して思い巡らせてます」でいいんやって。せやけど、「印可書」奉読したら無条件になれるというのは、まずそこを信じてくれんとな。どれだけ「印可書」奉読しても自分の都合を優先してしまうねん。どれだけ「宇宙神ありがとうございます」をやっても自分の都合を優先してしまうねんって言ってしまったら、何もなれへん。さっきの言う毒饅頭や。ワクチンも一緒よ、毒やと思ったらもうワクチンも毒や。これは神さまの光やと思った光や。それだけよ。

 そやけどそこまで覚悟がないんやったら、例えばワクチンの場合やったら、今は強制的ちゃうねんから止めといたらいいしというだけでね。せやけど、今のご質問のように、自分の都合をついつい優先しまうんやったら、これをしたら無条件になれる、自分の都合を優先しなくなるって、まず信じてください。そこが、だから奉読と言ってるわけ。

 「印可書」を先生は読めとおっしゃらなかったのは、「印可書」を読めと言ったら、自分の都合を優先して、そしたら「印可書」を読んだら悟れるんやなってなるわけです。そしたら条件を付けてるやろ?悟れるって。それはもう「印可書」を響かせたことにならない。「印可書」を響かそうというのは、奉読というのは無条件になれることを信じれることよ。そこだけやねん。

 そこをね、だから、昔、南無阿弥陀仏と言いながら、南無阿弥陀仏と言ったら救われるんやったら、南無阿弥陀仏言いながら殺人していいんやな、強盗していいんやなっていうのがいっぱい出てきたんよ。それぐらいね、条件付きになんねん。そうでしょう。南無阿弥陀仏言うて、救われるという条件をつけて、言ったらそれはお祈りちゃうねん。お祈りというのは無条件やから真祈り。だから、そこだけ。無条件なことだけ信じてやってください。ありがとうございます

宮野さん
 質問です。先生が悟るのを引き上げるっていうおっしゃるのではなくて、引き上げたら相手の自由意志を縛ってしまうから下から押し上げるだけやっていう話よね。言い方が違いましたね。

河上さん
 そうやね、ごめんなさい。引き上げるじゃない、押し上げるです。要するに本人、本人に舵は切らしておいて後ろから押し上げる。本人が舵取り自由だから、押し上げてもらっても、やっぱり私あの美味しいカレー食べたいわって言って降りていく人もおるわけです。

宮野さん
 ということは、そこは訂正で良かったですね。

河上さん
 訂正でいいです。はい。

宮野さん
 神さまでさえ自由意思を優先されるっていうことですね。

河上さん
 そうそう。自由意志は絶対縛らないね。だから先生は1回しかいつも言われなかった。それもよっぽどしつこく聞きだして初めて。少々聞いたぐらいやったら、ニコニコ笑うだけで返事もされない。そしたら、みんな先生ニコニコされてたから、やってもいいやって勘違いしていってんけどな。目は笑ってはらへんかってんで。顔は笑ってんねんけど目は恐ろしく怖かったっていうのがね、みんなわからへん。なあ、怖かったな目は。

宮野さん
 怖かったね。最後だけやな、破顔凄笑やな。(河上:最後だけな)

質問
 24時間連続でお祈りされた時、寝てる時はどういう具合にされたんですか?

河上さん
 あ、だから横になってしまうと寝てしまうやろ。だから座るか、壁にもたれるか、それとも寝てしまうときは立ってっていう、今でもそうしてますけども。はい。

質問
 基本は寝ておられないということですか?

河上さん
 いや違う違う。だから、寝てんねんけど、ずーっと祈り言葉を響かせれたら寝てもいい。でも寝てね、こうして寝てお祈りしてんねんけど、ほら夢になったらもうあかんわけ、わかる?夢になったら寝てしまったということや。そうなるとハッと気づいて立つとかね。まあそれは僕のやり方だからみんなそれぞれ自分なりに工夫されたらいいんですけど。でも今はね、そこまでしなくても、おまけがあるから楽だよということですよ。そこまで寝る時までせんでええねんって、もちろん寝る寝入りばなはね、「印可書」を読みながら奉読しながら、あるいは「宇宙神ありがとうございます」と唱えながら寝込んでいったらいいねんで。でも寝落ちしたら、後は夢見ててもかまへんねんていうぐらい緩んでる、緩めてもらってるからいいわけですよ。本当に先生は厳しかったからね、もういろいろと大変だったんですけど。奥さんと結婚される頃もまだまだ厳しかったけど。

質問
 村に泊まってですね、何回かとにかく寝れない時があって。

河上さん
 はい。

質問者
それでずっと「印可書」を唱えてたんですが、そういう経験がありまして。

河上さん
 それはそういうチャンスです。だから、せっかく寝なくて済むんだから、「印可書」奉読してお祈りされたらいいわ。それでいい。

質問者
 全く寝ずに、今、作業しても山に行ってもできるんですね。

河上さん
 平気でしょう。だから、要するに真祈りは、睡眠に代わるんですよ。だから、睡眠、寝るというのは何かと言ったら、真祈りできない人のためのおまけなんですよ。その人が真祈りできないから守護霊様が代わりにお祈りしてくださってるのを夢見るという状態なんです。だから、その体験も、もうちょいですから、その結果掴まずにね、ひたすらな真祈り進めていかれたらいい。

 みんなね、その途中の感覚を掴んでね、落ちていくの。急にすっきりして全てが透き通って見える状態の時に、嬉しくて舞い上がるのね。その透き通って見えることを掴んでしまう。それで真祈りできなくなるねん。要するに条件付けたわけよ。「透き通って見えるようになった!」って言ったらもう条件がついてるわけ。わかる?だから、一切条件をつけないということが大事なんです。

 「だから眠らなくって平気になった」というのが、「ああ、なったんやな」だけやったらいいねんけど、どこかで無意識に他の人と比べて。要するに条件を付けな他の人と比べるから条件が付くわけよ。他の人と比べて、「寝なくても平気になったぞ!」って条件がついてしまうの。途端に崩れるの。だからそれだけなんです。先生はいろんな人をね、本当に押し上げてくださったんだけど、みんな途中の感覚でね、光が見えて悟ったとか条件付けるわけ。つけた途端にアウトやねん。あるいはうっかり、「私、先生に悟った」って言われた。先生も厳しいからね、「悟ったよ」って言うわけよ。言われたことを喜んで、ひたすらお祈りしてたらいいのに「先生から悟ったって言われた」って、ついつい言ってしまう。言うたら条件ついたからアウトやねん。だから、無条件というのは結構厳しいのよ。

 今の言う無条件ということは、別の言い方をすれば、五井先生の想念停止や。条件付けるということは想念が出てるねん。自分の都合が出てるわけやろ。人に言うのはもう自分と分けて都合出してるわけ。

宮野さん
 ちなみに先ほどね、Mさんの場合ね、その他人とじゃなくて、過去の自分と比べるっていうのはどう?

河上さん
 一緒、どっちも条件。

宮野さん
 昔はこうではなかったんやけど、寝なくてもできるようになったわと自分で思うのも。

河上さん
 駄目です。

宮野さん
 厳しいね。厳しいなあ。

河上さん
 無条件って厳しいよ、それで条件ついてるやろ、だからそうやねん。だから、結果を掴まずにってしつこく言うてるやろ、結果を掴まずに自分の都合出さずにね、いろいろ言ってんのは全部無条件のことよ。無条件の幸せ!、無条件の喜び!、無限の無限の幸せ!無限の喜び!が悟りやって先生おっしゃるでしょう。先生は難しく言うからね、みんなそうなんやねで終わるわけよ。でも本当はそれは大変な事や。

宮野さん
 でもね、一つすごい皆さんにとってはちょっとチャンスかなと。1回そういうの経験、肉体的に経験すると道ができるみたいなもんで。

河上さん
 あ、そうそう。

宮野さん
 出産された方は出産した後2回目が簡単みたいな。ニュアンスとして微妙な言い方ですけど、そんな感じで1回経験したことっていうのは、チャラになってしまっても、またっていうのはしやすくなるよね。

河上さん
 そうそう、だからね、なんていうか、ひたすら神さまを思ってというとこだけは大事やねん。せやけど、どないしたって神さま想われへんわって思ってしまったら、そこで終わりやねん。

 常にこれからちょっと世間、世の中にもいろいろと大変なりますから何があっても、もう駄目だと思わないことです。みんなね、せっかく微妙なとこまでいってんのに、「もう駄目だ!」って言って諦めるんよ。でも、もう駄目だと思わないことが大事なんです。もう駄目だっていうことは、自分が真(まこと)の神さまであるということを否定してるのよ。真(まこと)の神さまは無限力やから駄目だはないねん。でも、もう限界やとかね、みんな思うやろ結構。「もうしんどくてあかんわ」とかね。いらんことを思うねん。思わんでいいねんって。しんどい時は休んだらいいだけや。ああもう限界だなと思ったら、ちょっと立ち止まったらいいだけや。でも、歩くことで言うと、例えば歩くことで言うとね。歩くことという結果を掴んでたら、もう駄目だと思ってしまって歩くことを止めたらもう終わりだって勘違いするわけよ。そうじゃなくて、疲れたらちょっと立ち止まったらいいんだって。でも、ひたすら神さまを思うんだっていうね。そこだけなんです。でも大概の人は「もう駄目だ」、「もう限界だ」とか思うけど、思わないように。特にこれからは具体的にいろんな大変なことを皆さんの世の中的に起こるんでね。どうなっても駄目だと思わずに大丈夫と思ってね。怪我しても大丈夫と思って自分なりにその時に思う治療してね。乗り越えてください。駄目だと思った途端に、本当に全部駄目になるから。

質問
 私こないだですね、ある人がある人が骨折されたんです。民生委員させていただいてるもんですから思わず口に出たのが、神さまがお休みを与えてくださって、骨折させてもらったん違う?ゆっくり休めてよろしいやんって言ったら、そういう考え方もええねって言われて、骨折したところは前より丈夫になるん違う?って言ったら、先生もそう言ってたって言います。そんな感じありました。

河上さん
 うんうん上手くいけたという。でも一つ間違うと恨まれるから気を付けて。ボロクソに言いよったっとか言って。

質問者
 覚悟の上です。

河上さん
 覚悟の上。

 難しいこと言ってへんで自分の都合出さんかったらいい。横に置いといたらいい。自分の都合を消そうと思うからね苦しいの。出てきた自分の都合は横に置いておくとしたら文句は出ないねんけどね。五井先生の想念停止となると、自分の都合も出したらあかんになるねん。それって厳しいでしょう?でも今はおまけがあるから、自分の都合は横に置いておくだけでいいから。置いといたら勝手に忘れて消えていく。自分の都合というのは結果を掴むからやねん。こういうふうになったらいいなって。

質問
 先ほどの冒頭の勤勉であるこということで、私も遅ればせながらも、もう一度勉強をし直そうと思っているんですけれど。一日の24時間の中で、護摩木を書く事や紙護摩を書く時間と真祈りの時間を持たせていただいていたり、色々、諸々のことをする中で、時間配分をどのように設定すれば全て・・・。

河上さん
 うん、だからね。例えば真祈りに毎日1時間かけましょうと思ったらね、1時間をまとめなくていいわけです。3分を20回するとか、バラけて。人間って意外と隙間の時間の無駄が多いの。その隙間時間をどれだけ利用できるかやねん。要するにちょっとトイレ行ってる時間とかね。だからトイレの前に「印可書」を貼れって言ってるわけやけどね。トイレの時は「印可書」を読んで真祈りするとかね・それなりに自分なりの、こういう時はもう、こうする。

質問者
 じゃあ、時間を決めなくって、その隙間の時間でバラけさせてそれを真祈りに・・・。

河上さん
 そうそう、隙間の時間の利用ができるかできへんかやねん。先生はすごかったからね、速読がすごかったから、その隙間時間でどんな本でも読んではった。僕はそこまでようせんから、ちょっとどんくさいけどな。せやけど、ちゃんと慣れてきたら、どんどん速く読めるようなるねん。それは何かといったら、読むというのは響きを合わせるということやから、一体化するねん本と。一瞬で本がわかるの。だから「印可書」奉読やねん。「印可書」を読むということは真(まこと)の神さまと響きを合わすことやから。ある一定のあれを超えると、真(まこと)の神さまそのものの響きがどんと来て、全ての知恵が湧くの。だから、いかに隙間をどう利用するかっていうことが大切。だから例えば「印可書」の「絶対の中心」だけを隙間のときに言うとか。もちろんその隙間用に「宇宙神ありがとうございます」を作ってくださってるからね。いろんな自分なりの工夫されたいいと思います。

質問
 ありがとうございます 松下先生を師と仰ぎながら、ちょっとこういう考えはちょっと変なのかもしれないんですけれども、疑問でちょっと教えていただきたいです。今、風の時代とか、みんな目覚めようという、悟りを目覚めの時代が来ているっていうことで、いろんな統合の仕方みたいなんで、いろんな感情が起こったら、箱に詰めて爆発させてキラキラにして返すとかって言っておられるスピリチュアルリーダーの方とかおられるんですけれども、そういう、いろんな、今、この時代を利用して目覚めの方法っていうのを教えておられる方の中で、松下先生ぐらいのレベルの方っていうのはいらっしゃるんですか?

河上さん
 いらっしゃいません。理由は一つ。みんなね、この現世の姿を掴んでどうこうしようとしてはる。それは違うの。一瞬一瞬新たに真(まこと)の神さまが現れるから、同じ誠の神さまがいらっしゃらないようにね。

 現実も、さらさらと光が流れてくるから、掴みようがないの。掴みようがないものを掴んで、要するに川の流れを見てね、なんとか変えようとしてるようなもんですよ。どの今の宗教でもどれもそうですけど、希望実現の法則がその典型だけどね、自分の都合を優先したいのは、この現世の姿を何とか変えたいということでしょう?変えようないねんって。コロコロ変わっていくもんやから。だから、自分の心も想念停止がなんで難しいか言ったら、一瞬一瞬、やはり真(まこと)の神さまの響きを受けて想念もでるから、コロコロと変わっていくねん、心も。そのコロコロ変わる心を止めようなんて思うからややこしくなる。止めずに真(まこと)の神さまにピンと合わせたら、勝手に無色透明になるんだけどね。

 そうなの、みんなは無色透明の光を自分の都合でいじってね、自分の都合というものを作ってるわけ。要するに、川の表面の流れをね、自分の手で川をいじって、「あ、変わったわ!」って喜んでるだけよ。でも、どんどん流れて消えていってるの。だから、済んだことはもういいんやって言ってるの。流れて消えてるから。これからどうするかだけや。もう、一々いじらずにそのまま受けたら無色透明になるのに、いじって波立ててはるねん、みんな。その、スピリチュアルとかそんなんは全部ね、波立てたものをどうこうしてどうこうしようって言ってるんやけど、そんな無駄なことをする必要はないっていうこと。

 そしたら、時間なのでお祈りして終わりますけども、ちょっと今日上手くいかなかったんで、明日もう1回します。このままだと去年のように、能登で今日揺れるんで。今日か明日能登が揺れるんで。明日もう1回します。来れる方だけでいいですから、おいでください。遠方の方で、とても都合つかない方は構わないです。せやけど、ちょっと、もうちょっとスッといってないねん。去年はもう村人に任すからということで任して終わったんですけど。終わった途端にあれだったんで。今年はもう1回します。

 明日もういっぺん10時からしますので、来れる方だけでいいので、おいでください。

宮野さん
 来れない方は、それぞれにいる現場で。

河上さん
 お祈りしてくださったらいいです。お祈りして終わります。

 音声はこちらからどうぞ
 https://youtu.be/FgWg1v1aHUs

 宇宙神ありがとうございます

じょうし 2025/01/03(Fri) 14:23 No.3690


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勉強においての基本 by kawakami 2024年12月31日(火) 22時13分
PC

英語の勉強について

 自分は、中学の頃から、勉強を放棄していたので、基礎的なことから、まったく、英語ができないが、これでも、どうしたら英語ができるようになるのか?絶望的でどうしようもない気持ちでいっぱいです。・・・・というご質問ですが、

 語学というのは、理屈ではなく、皮膚感覚でわかる必要があります。皮膚感覚でわかるとは、わたしたちが普段使っている日本語をいちいち、考えずにつかいこなしている状態です。

 これは、日本語の言霊をわかっていなくても、無意識に理解してつかっている状態で、これを皮膚感覚ともうします。

 では、英語が、基礎的にもまったくわかっていなくても、英語ができるようになるのか?と申しますと、それは、中学2年3年の英語の教科書と、その解説書(昔でいう虎の巻)を買ってきて、さらに、その教科書の音読の録音が売っていますので、それも、入手して、まず、その録音を聞きます。そして、その録音通りに発音します。そして、それを、発音しながら、書きます。

 この繰り返しだけで、わかるようになります。

 問題は、語学の場合、すぐに、結果がでないことです。8割ぐらい、進んでいても、全然わからないような状態が続きますが、ここを、我慢して、ひたすら、聞く、読む、書く、の繰り返しをすることです。

 最初は、最初の一行だけで、いいから、ひたすらに、そらんじるまで、続けることです。それが、語学学習の王道です。

 それも苦手な人は、大好きな映画をみることをお勧めします。最近は、映画と、そのシナリオとその翻訳とがセットになった、学習教材が売っていますので、ひたすらに、一場面を繰り返し見ることです。
 もちろん、何回も、とおしで、シナリオ(セリフ集と見比べながら)見ることも大切です。

 それが、語学の最短距離です。つまり、音と(英語の言霊と)映像(動き)とその意味(シナリオとその翻訳)を、同時にみることが、最短距離なのです。

 なお、勉強においての基本についてのご質問でありますが、たとえば、1時間の授業を受けるのであるなら、その倍の2時間の予習が必要なのです。

 これは、別の意味でいいますと、教えてもらうのではなく、独学(自習)で、そのほとんどを理解しようという心構えが、いるということです。

 自習して、8割ぐらいは、理解して、その自習では、どうしてもわからないことを、師匠に聞くのが、先生に対する礼儀でもあり、正しい、学習方法なのです。

 松下先生からは、このように、一度だけ注意を受け、そして、一日に2時間は、勉強時間をとって、勉強するように、指示されました。僕の場合は、4時からにおいての2時間ですが、こまぎれでもいいから、隙間の時間をみつけては、合計2時間になるように心がけることです。
 
 先生は、一度だけしか言ってくれません。それは、相手の自由意志を縛るからです。だから、うっかり聞き逃すと、おしまいなんです。

 何事も、師匠にたいしては、命がけ(祈り掛け)なのであります。

 宇宙神ありがとうございます。

 


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12月護摩ー2 by KAWAKAMI [Mail] 2024年12月11日(水) 17時31分
PC

令和6年12月2週目護摩焚き河上さんお話し(20241208)

司会者
 質問が7つほど入っています。河上さんよろしくお願いします。
 
 一つ目です。私は今「宇宙神ありがとうございます」「印可書」「ありがとうございます」をその時々により唱えています。
 今はそれぞれ分けて唱えていますが、この先同時に唱えられそうに思います。真祈りするときは、お祈りの言葉を一つに絞って唱えた方がいいのでしょうか?宜しくお願いいたします。

河上さん
 ありがとうございます 
 又、お会いできて嬉しく思います。今の質問ですけども、自由自在で良いのですけども、真祈りとは本来言葉以前のものなんです。ね?だからその言葉以前のものを、神さまと自分とを分けている意識で受け取れない。本来、真(まこと)の神さんの自分という自覚が得れない。その得れないのを真(まこと)のプラスの言葉を使って、もう一度思い出すわけです。自分が、自分、自(おのず)から分(わける)と書くじゃないですか?

 だから、みんな神さまと自分を分け、自分と他人を分けて、分けていくわけですね。それはゲームのルールがそうでしょ?このゲームではこういうルールでやります。将棋だったらこういうルールで、チェスはこういうルールでやりますというふうに分けるじゃないですか?で、分けてこのルールを楽しんでいるだけなんですけども、楽しんでるの忘れてこれが本来あるものだと。分かります?現実を掴むと言うんですけど。これがあるもので、これがなくなったら困るねんという感じになってしまってるわけですよ。

 ゲームを楽しんでるはずがゲームに没頭して、ゲームそのものになってるみたいなね。ゲームに熱中する人ってあるじゃないですか?もう寝るのも忘れてゲームの世界に入り込んじゃって自分という意識も忘れてるみたいなね、そういう状態にみんなあるわけですね。

 それをどうして神さまの響きに合わせ直すかというと、真のプラスの言葉で合わすしかないわけですよ。そのために先生は、本心の16項目を出して下さったわけです。でも、皆あんまりしてくれない、あるいはしても、もう一つピンとこないから止めちゃうん。で、もう一辺色々とお願いして印可書を出して頂いたんだけど、もう全く受け付けないみたいな状態になって、じゃあもう誰でも簡単に言えるっていう事で「宇宙神ありがとうございます」とい「う」の「言霊」を中心にして、宇宙神ありがとうございますっていうのはもう本当に「う」の一瞬一瞬新に動く響き全てなんですけども、を作って下さったわけですね。

 それを尚且つ「宇宙神ありがとうございます」の時に要らん事は思わないように手振りもつけて下さってあったわけですけど、それも嫌だとなりましたので、もう一度今の真(まこと)のプラスの言葉そのものであって、読んでる時に要らん事を考えても、神さまの方へ響きを合わせれるという印可書にしてますけども、その好きな祈り言葉を選んで頂いていいです。

 ほんで今言いましたように、言葉以前の響きを自覚できた時、要するに真(まこと)の本心の自分、真(まこと)の神さまの自分を自覚できた時は、言葉以前の響きとして分かります。だから先生がね、宇宙神ありがとうございますって、しょっちゅうお祈りされてたかと言えばされてないんです。それはなぜか言うたら言葉以前で、もう無限の祈りをされている。
 
 それを先生流の説明で言うと、みんなの真祈りを自分のものにするんだ、みたいな教え方をして、余計分り難いわけですけども。
 
 ああいうふうに先生がなられる以前は僕知ってるわけですけども、その時は色んな…、もう今ややこしいからどれを使っておられたかは言いませんけど、色んな言葉、真(まこと)のプラスの言葉を使って、ずっとお祈りされたんです。

 で、一緒にお祈りしようとして頂いて、先生の使ってる真のプラスの言葉を口の動きから読み取って、こっちも自分なりに研究してね、同じようにやると、本当に絶対の中心にずっと連れてって貰えるんですよ。それはこっちが真(まこと)のプラスの言葉だけに合わしてるからなんですね。それだけなんです。
 
 だから「ありがとうございます」を使おうが「宇宙神ありがとうございます」を使おうがね、真(まこと)のプラスの言葉である限りは大丈夫なんです。ただ、みんなどこで崩れたかいうと、「宇宙神ありがとうございます」って言ったって何も変わらへんわって言うわけですよ。分かります?
 
 要するに結果掴んじゃう。それは結果を掴むというのは真祈りじゃないの。真祈りというのは一瞬一瞬新たに人間の呼吸のようにね、一瞬一瞬新たに受け直すから真祈りなんです。で、一瞬一瞬新たに受け直すってどういうことかというと、結果を一切気にしないんです。

 だから先生はサラサラと、「サーサーサー」と仰ったのはそれなんですよ。だから「サーサーサー」と流しゃいいのに、みんなサーと流さずに掴む。で、掴むと、今質問されたように、どの言葉を使っていいんだ?とか、全部の言葉を同時に伝えてる気持ちなるんだとかという形になってくるんですよ。

 それも捨ててね、サラサラと流して、ひたすら自分の使いやすい真(まこと)のプラスの言葉でいいですから、使って頂くと、ある時、分かります。これ伝授の部分で言葉で説明しようがない。空海さんが明けの明星が入ってきて口に入ったとかね、五井先生が色んなお花を、あれを受け取ったとかね、色んなその人その人に応じた悟りのときの体験というのはありますけども、同じ体験は二度とないんです。

 だから皆さんがそれぞれの自覚を得れます。で、本当に悟りの自覚を得たときは何が起こるかというと、一切結果に気にしなくなる。別の言い方をしたら一生認められなくて、誰からも蔑(さげす)まれて本当に全然相手にされなくても気にならなくなる。要するに結果に気にならない事ですけどね。

 そういう、人がどう言おうと気にならなくなる時は悟ってます。気になる間は駄目と思って一生懸命、真(まこと)のプラスの言葉を使ってください。使い方は自由自在です。ありがとうございます

司会者
 ありがとうございます 
 次です。願望実現の質問が三つ来ています。

 一つは、いつもありがとうございます。自分の夢、例えば世界の人々が仲良く平和な世界を願ってお祈りすることも一つの願望実現を願うことになり、少し違うのでしょうか?という質問です。

河上さん
 はい。それは違います。
 
 真祈りとは何かというのは、神さまの御心を実現することが真祈りです。神さまの御心って分からないじゃないですか?だから真(まこと)のプラスの言葉を唱えて神さまと本来一つの自分を自覚したら分かるから、それに向かって淡々とやれるわけ。で、やってる結果に気にしなくなる。

 だから自分はただ一生懸命印可書奉読してるだけで、この世的には何も大した事出来てないわ、で良いというのが分かります。自分の思いを巡らす心でね、世界が平和でありますようにとか言ったって駄目なんですよ。戦争がなくなりますようにとかね。それは違う。
 
 何故かというと、現実をサラサラと流れて消えていくものを掴んでどうこうしようとしてる間は永遠に何も変わらないです。もし現実を掴んで、何とかしようとして出来るんだったら、国際連合がありました。国際連盟がありました。皆で話し合ってちゃんと出来るはずなんです。理想はあってもみんなで話し合って出来ないでしょう?
 
 何故出来ないか?結果を掴むから現実を掴むから。で、現実というのは何か言うと絶対の中心からサラサラと流れてきて、一瞬一瞬新たに現れて消えていくものなの。それを喜んで受けてたらいいだけなのに、現れてくる姿に一々文句つけるからややこしいわけです。
分かります?

 だから今が一番良くなってるんだとか色々説明しますけど、神さん良いようにしてるんだから文句つけずにサラサラと流してたら、どんどん良いように変わるの。人間の体が怪我するでしょう?ほんだら、内側から変わるんでしょう?要するに絶対の中心から変わっていくわけです。

 表面から直せないじゃないですか。現実掴むのはそういうことなんですよ。切ったから縫うのは、大きく切れて縫うのは一時的な補修であって、治るのは内側からでしょう?
 
 それと一緒でこの現実世界も一瞬一瞬新たに絶対の中心から受け取ることによって変わっていくんで。その絶対の中心は何かというと、無限(∞)、無限+1円=無限+20兆円、100兆円がイコールなんです。無限プラスだから。で、現実というのはその無限(∞)に1円とかね、1000円とか100万円とか1億とかを足して遊んでるだけ。それは無限から見たら実にもう欠片(カケラ)にもならない事。その欠片にもならない事で人類は結果を掴んで奪い合いをして戦争してるわけ。それだけなんで。

 だから希望実現の法則は自分の都合ですから、「世界が平和になりますように」も自分の都合です。そういう感じで祈ったら意味がない。五井先生はそういう意味では、仰っておられないんですけども、あとに残された者がその辺を受け取り切れてない。それで世界平和の祈りをやめて、先生が印可書を作ってくださったんですけども。勿論、ちゃんと真(まこと)の神さまの御心のままが世界平和の祈りですから、そう思って祈る場合は世界平和の祈りが十分効果を発揮しますけどね。

 どっちにしても自分の都合の希望で、どうこうする事がいいんだと思ってる内は、結果を掴んでゲームで遊んでるだけで、何も変わらないという事です。ありがとうございます

司会者:あと2件続けていきます。
 また、@家族の幸せや職場の方々の夢を応援する事は良い事だと思っていましたが、願望実現を応援したり願う事は、それは神さまの御心とは少し違うのでしょうか?
 というのと、A自分の健康や友人の健康や心の平和を願う事も願望実現となり、駄目な事なのか教えてください。

河上さん
 これはね、希望実現の法則が勘違いされてるわけですけども、先生の仰った希望実現の法則というのは、真(まこと)のプラスの言葉の実現です。だから言葉通りになる世界って仰ってる先生の言葉通りの言葉は真(まこと)のプラスの言葉であって、自分の都合
の希望実現ではありません。希望実現も神さまの希望実現と言うならいいんですけど、自分の都合をどうこう言うのはもう偽物なんですよ。

 で、自分の都合をどうこうするというのは何が駄目かというと、結果を使んでいるからです。神さまの御心だったら、さっき言ったように土地の空いてる姿に文句言わないし、サラサラと流してどんどん良くなるわけですよ、サラサラと流してたら。でも自分の都合でどうこう言うというのは水に手を突っ込んで流れを止めてるわけ。で、淀むから良くない。それだけなんですね。
 
 でも自分の小さいグループの都合、あるいは地域の都合、あるいは国の都合を優先すると戦争になるわけ。それがいい事だと思うくらいね、結果を掴むし、真(まこと)神さまの全てを受け取れてない。自分の力で生きてると勘違いされている。

 で、これからは振り分けが始まりましたので、自分の力で生きてると思う人は、健康でなくなります。だから、どんどん老けていくし、寝ても寝ても疲れが取れないわとかね、なんか家事しようが仕事しようがだるくてしんどいわ、という時代に入って行きます。それは人間の体は一瞬一瞬新たに受け直して新たな細胞が生まれるから健康なんですよ。
 
 そうでしょう?皮膚も、この古い皮膚はどんどん取れていくんでしょう?だからお風呂に入って垢が出るんじゃないですか?それは新たな細胞が作られて、綺麗なお肌と健康な体がね、全身で巡ってあるわけですね。今までは、オマケで受け止められない人でも健康で生かさせて頂いたわけですけど、これからは受け止められない人は本人の自由意志通り受け止めずに、肉体的には色んなとこが腐るとかね、内臓の動き止まるとか、頭の方の動きが止まってボケるとかね、色んな事が。今、若年性痴呆症というのが言われてますけど、そういうのがいよいよ本格的に始まるのが来年からです。
 
 それぐらい自分の都合を優先するという事が駄目な事だというのがね、分からなくちゃいけないんですけど、自分の都合という時は既に現実という結果を掴んでるのね。それを受け直してないから意味ないの。でも、希望実現の法則というと、なんか自分の都合が希望が実現するように勘違いしてね、いいなと思っちゃうんすけど、それ自分の都合でいいなというのは良くないんですよ。だから、それが国同士になったら戦争になるの。自分の国の都合をお互い優先して喧嘩になるでしょう?

 本当だったら、余裕のある国がね、苦しい国を助けてあげたたらいいだけじゃないですか?なのに、何で、わしらの税金で…分かります?日本という国は本当に世界に向けて、たくさん補助金というかお金を差し上げてるわけですけど、それは苦しい人(*豊かな人?→日本人のことです。自分では、豊かと思ってないけど、本当は豊かな生活をしています。河上))は(本当に)苦しい人を一時的に助けなくちゃいけないから当然なんですよ。

 でも、何でこんなたくさん税金を取られてね、それが自分らの為にならなずに世界に散っていくんだって言って、だんだんバレて、これから来ますんで。日本の国民も不満を持つ時代が来ます。でも、そうなると本当に世界が滅びるんですよ。

 日本人は、まず真祈りなの。真祈りという事は(自分の都合は横に置いておいて)余裕のある限り助けるという。助け過ぎないですよ。でも、助けられる方も、まだまだ足らんわと思うくらいしか助けられないんですけど、それを全世界に配ってですね、みんなが神さまを思って真祈り出来るように持っていくのが日本の使命ですから。これから、ますます税金も多くなって、国にふんだくられて、ふんだくられたお金がほとんど世界に向いて出ていきますけども。それでいいんですよ。

 それがいよいよ来年からどんどん始まります。だからその始まる前にね、自分の希望を実現なんて言ってると、もう先ず自分の体が病気になっていきます。だって神さまの御心を受けてないから。自分で生きてるから。自分の都合を優先するのは、自分で何とか出来ると思ってるからですよ。自分で何とか出来るものなんて一つもないんですよ。ね?そうなのに勘違いして、自分で何とか出来るから自分の希望実現しようと祈ったら、自分が祈ったら、「自分が」です。自分が祈ったら、なんとんかなる。で、先生も希望実現の法則でそういう事を言ったっていうふうに勘違いするのね。先生はそうは言ってないんですよ。神書をちゃんと読めば分かるんだけど。はい。ありがとうございます。

司会者
 ありがとうございます
 次です。1月1日、元旦に村で真祈りのお話をされますか。

河上さん
 はい。勿論やります。元旦のお話は、先生が亡くなられてからずっとさせて貰ってますけども、先生から厳命でするようにというのがありますので、先生から命じられた事は絶対しますから大丈夫です。先生の方から、もうオマケはいいからしなくていいって言ったら終わります。村での勉強会もそういう事でやってましたけど、「もう、オマケはいいから勉強会はそろそろ止めようか?」って言われていた時に、(みんなの希望で願いで)この護摩を2回にするという事だったんで、勉強会を中止して護摩に変えたとか、それも先生の指示通りですから、今年はまだ元旦にお話をしろという事で。

 で、本当に来年から大変な年なんですよ。ある意味分かりやすい年。分かりやすくなる。真祈りしないんだったら、体がどんどん大変になるとかね、凄く分かりやすくなるから、余計。脅かしてるんじゃないですよ。素直に淡々と印可書に読んでたらいいだけだよって、真祈りに自信が無い人はね。真祈りが出来るんだって自信のある人は、ありとあらゆる祈り言葉を使ってされたらいいしね。

 あの手振りもちゃんと教えました。このつま先で土掴む感じまで、つま先立で手を上げてくださいというのは、先生が仰った事です。それをちゃんと受け取って聞いているか聞いていないかは別ですけど。どうしても「宇宙神ありがとうございます」で行きたい方には、それをこの前お伝えしましたし。来年からはそれが本当に生きてきます。そういう時代を来るまで、それをまた元旦に細かく質問を受けて説明します。ありがとうございます

司会者
(元旦のお話し会の)お時間の方は?

河上さん
 9時から。

司会者
 朝の9時ですね?はい、ありがとうございます 宜しくお願いいたします

河上さん:9時からです。渋滞等があるかもしれないんで、ちょっと遅れてきた方があるようだったら、ちょっと終わりの方を延ばすとか調整はします。はい。

司会者
 宜しくお願いいたします。次です。1人の方から3点の質問です。

 一点、過去の松下先生へのセクハラ疑惑の件、水晶玉破壊の件、村人が真祈りをしていない事で疑問があります。これらの事々は、松下先生を全く信じていない、むしろ先生を利用していただけだと解釈出来る事ですが、なぜ松下先生はそのような村人で世界の縮図とされた村を作られたのでしょうか?

河上さん
 はい。質問はそこまでね?

司会者:
 1回(質問を通して)読みます。
 世界が大混乱になった時にお清めのために作られたとしても、世界の縮図であれば、世界の困難の原因は、この村の存在によるものと思われ、この村の存在がなくなれば平穏な世界に戻る可能性はあるのでしょうか?

河上さん
 村が無くなる時。地球も無くなります。大丈夫です。心配しなくていい。オール・オア・ナッシング(all・or・nothing)ですから。はい。墜落するかどんどん昇って行けるかだけです。それ位のもんです。

 で、先生いらっしゃる時は先生が真祈りされていたんで、全世界の色んな響きを村人の体で受信機とする為に色んな種類の村人を集められたわけです。だから村で色んな事もあるし喧嘩もあった。だた、先生亡くなられたから、これからはお一人お一人が松下先生として働くんですよという説明をズーっとさせて貰ってきました。

 ただ、6年間やって来てもう先生の方から十分な説明を終わったからもうオマケを出さなくっていいって。だから村に関してお前が真祈りしなくていっていう事になって来たので今の状態になっています。で、先生は亡くなられる時ではないですけども、2015年の1月の時に僕には今年の8月で自分は帰るから、後はどうこうって言われたわけですね。その時に村には現在こんだけのお金がある。こんだけの沢山のお金を残す理由は村人への試験である。真(まこと)の神さまを選ぶか、お金を選ぶか。お金に頼るか、神さまに頼るかですね、もっと簡単に言うと。で、残してあるから一切口出しせずに知らん顔しとけと、とか色々あったわけです。

 その時にとても僕の話を誰も聞かんからね、ほんで真祈りを一人一人に伝授している暇はとてもないから、10人位を何とかせえと言ったらしますけど、正確には12人位は自信もってやれますけど、後は無理です。だから真祈りの伝授を出来るものを作って貰わないと駄目ですって言って断った。それで先生は「真祈りの秘奥義を伝授するための印可書」という題名を付けて作って下さったわけですね。だから僕がいなくても、僕が急に死んでも印可書さえ読んでいたら大丈夫なようにしてあるわけ。

 ただ、こんなん読んで何なる?どないなるのっていう人には無理ですよ。そんなん信じる、信じないは本人の自由だからね。でもそうゆうふうにして印可書を作って頂いて、でもその印可書が光強すぎたんで今の印可書にせえって言われて変えました。変えた時に先生が本物が現れた。本物が現れたってあっちこっちで言って回られて喜ばれたんですね。そういう経過です。
 
 だから村人だけじゃあなくってね。皆そうでしょう?先生に頼っているだけで信じていなかった。だから印可書来てもピンとこないし、宇宙神ありがとうございますの手振りをしてもね、今一みんな疑心暗鬼というか半信半疑やったからね、こうなったわけで別に村人だけのせいではなくって皆そうなん。他人の事を言う事は無いです。
 
 でもそれは人間としてね、基本的に食べる物があって、暖かい寝れるとこがあって、雨風しのげる所があって、毎月安定した収入があってね、ちょっと遊びに行けて、スーパ銭湯も行けて、何か出来たらもうそれでお祈りしないの、殆どの人は。もうそれで良いと思っているの。でもそれって犬猫と変わらない。分かります?
 
 猫は食べるところと寝る所があったら居付いてくれますよ。人間も一緒じゃあないそれやったらね。人間っていうのは先週も説明しましたように、歩く事喋る事が出来るくらいにね、勉強して今あるのです。なのに今歩けて喋れただけで後勉強しないから、こない(こんな風に)なってしまうんですけども。勉強するっていうのは何かと言ったら、一瞬一瞬新たに受け直す事の具体化なんですよ。
 
 だから別に難しい数学せえとかね、フランス語せえとかそんなん言っているんじゃあない。自分の好きな事をどんどん何でもいいから、カラオケでも何でもいいから勉強しなさい、研究しなさいって言っているだけですけどね。それをせずに遊び呆けてテレビ見て笑っているだけだから、犬猫に落ちていくよっていうのが来年からとうとう振り分けが始まるという事です。
 
 で、村人はどうされるかというのはやっぱり自由意志がありますから、こちら側からはお願いはするけど、どうしようもない。それは法律でもそうでしょう?人を殺してはいけないという法律はない。人を殺したらこういう刑罰は有りますよというのはありますけど。殺すなという法律はない。それ位人間の心の内面に誰も踏み込めない。
 
 何故かと言うとみんな真(まこと)の神さまとしての本質を持っているから、それは自由自在であって外から変えれるもんでは無いんですよ。神さまの絶対性なんです。だから自由意志を先生は一切縛られなかった。
 
 だから逆に言うと先生にこれこれしたいんですと言うと先生はあんまり返事をされない。で、実際やって行くと先生が何も言わない。じゃあ先生はOKしているんだってみんな勘違いして今になります。自由意志を縛らないって先生説明しているのにね、先生がアカンと言わなかったから、注意しないんやったらって言って色々あるわけです。
 
 僕の場合は東京で本当に凄い収入もあってね、50年前ですけど、凄い収入もあって色んな事をしてたんですけど、先生が一言、あの自由意志を縛らない先生がね、「こっちに、要するに関西に居てるんやろう?」って仰ったわけですよ。これは本当に自由を縛らない先生がおっしゃることは大変な事だと思って、もう東京のものは一切捨てて、今こっちに来ているわけですね。
 
 そやけど僕の場合でも先生は1回しかそれを言わない。それ位、人に自由意志を縛られることはないんですよ。で、普通は先生に相談してもほとんど先生は良いも悪いも仰らない。何故かと言えばどっちを言ったって自由意志を縛っているじゃあないですか?ね?「アメリカに旅行に行きたいんです?」っていう時にね、アカンとも言えないし行けとも言えない。本人の好きにさせる、みたいな感じなんですね。それだけです。
 
 だから村に関しても自由意志を縛れないからお願いはしていますけど、もういよいよオマケも切れたから、もうお願いも過ぎて来年からは直接色々とみんな大変になる。で、村人の場合何が大変かと言うと、神さまのお金を使って生活しているからなんです。
 
 先生は僕にはっきりおっしゃった。「山仕事は生活の糧にならない。山仕事行って燃料代とか移動費用と計算したら殆ど手元残らないんだと。だから山仕事は真祈りしかねる人の為の練習としてね、させているけども、それは手段であって山仕事が目的ではない。」ってのは仰っていたのですね。それは村人にも説明しているはずなんですね。ただ、先生は1回しか言わないから聞き逃したら終わりなの。で、多分聞き逃しているのね。
 
 それも今更済んだ事は良いんですよ。何時も言うように済んだ事は良いの。これからどうするかだけなの。だからこれから真祈りして下さいねってお願いしているだけで。で、どうしても印可書選べない人の為に手振りの事を事細かく説明しましたから、後はどうされるかは村人に限らず皆さんの自由です。
 
 だた、先に説明しときますけど、実際ガンの形とかに現れて来た時はかなり手遅れですから。ちょっと戻しにくいですからね。こっちからオマケ出さないからね。今までやったら凄い真剣な人だからっていうので、ちょっとオマケで治すとか、本人に気付かれないようにしていましたけど、もうそれは一切できないんで、自分で真祈りしてどうこうしなくちゃあいけないんだけど、身体に出るというのはよっぽどの事をしていますから。要するに自分の都合を優先しているから大変になりますよ、という事を来年の元旦に話ししようと思って、今ちょっと言ってますけど。予告編を言ってますけど、村人の事も一緒です。
 
 ただ、村人は神さまのお金を使っているから大変なんですよ。ここの一般の人は自分で働いて自分の、ある意味、勿論、自分で働いたお金も神さまからのお金ですけどもね。それでもまあ自分のお金ですから、働いた対価として貰ったお金だからまだ良いんですよ。ある程度好きにしてもね。でも村人は山仕事では殆どプラスを生みませんから、神さまのお金で生きているってわけです。それは大変な事なんですよ。神さまのお金で生きるという事は真祈りするしかない。今までは6年間オマケで押しましたけど、来年からはもろに各自の責任として、村人に限らずですけど、なるという事です。
 
 だからそういうふうに了解して頂いて。先生は世界中回れないから、世界中の色んな国の代表として村人を集めたのは事実です。で、先生いらっしゃる時はそういう人を通して色んな。どういう事かと言うと先生の光強すぎてね、バンと出すとサーチライトのようなもんでみんな眩しいって逃げるわけですよ。だから村人の体を通して緩めて出していた。そうして使って貰ってる内は神さまの働きをしているから、少々真祈りをしなくっても良かった。本当はしなくっちゃあいけないけどね。
 
 でも先生いらっしゃらないという事は大変なんですよ。それはもうだいぶ説明したんだけど、河上の話は聞くなというふうに村ではなっていたらしいんで、色んな話を聞くとね。それも自由意志だから構わないんだけど、でも神さまのお金で生活した厳しさは責任を取らざるをえない。
 
 で、村人に限らずみんなそうですよ。死んでからはね、あなたのそのお金どう使いましたかって聞かれるんですよ。その時に先に答えを言っときますけど、「絶対に人のせいにしない事」自分が遊びたかったから使いました。自分がこうしたかったから使いましたって言う限りはまだ大丈夫です。いわゆる総責任者の自覚があるでしょう?悪いと分かっているけどどうしてもやりたかったからしたんよと、しとけばいいんですよ。
 
 でもアダムやイブではないけどね、蛇に騙されて食べましたとかね、女のせいで食べましたとかね、人のせいにしていう時はダメなの。あの聖書でも神さまは「食うたか食わんかったか?」ね?「リンゴを食べたか食べなかったか?」だけしか聞いてないでしょ?ほんだら「食べました。食べませんでした。」「どうしても美味しそうだから食べました。」で良かった。それだったら楽園に、要するに真(まこと)の世界に置いて貰えた。
  
 それ人のせいにするんだったら、人のせいにするゲームのルールの世界に行きなさい。本人の自由意志だからね。それを聖書では楽園追放って言ってるだけで。だから村人の分は今回オマケが無くなったんで、村人の楽園追放が始まったみたいな感じです。はい。
 ありがとうございます。

司会者
 続きの、河上さんがお話の中にあった答えだと思うんですけど、読ませていただきます。

河上さん
 はい。

司会者
 そして、この護摩焚きの会場でも、真祈りをしないことは、神さまのお仕事の邪魔をしていると思われるので、その報いとして、神さまから大きな罰が与えられる見本として、村人が存在しているのでしょうか?

河上さん
 それは違います。うん、それは違います。ただ、村人は村に入る時にね、真(まこと)の神さまに弟子入りするようにって言われてますし、弟子入りについては神書でもなんでもたくさん先生の話でも説明されてますから、それを聞く聞けへんは村人の自由ですけど、入った以上は弟子入りする責任があります。で、弟子入りするというのは具体的には、自分の都合は一切除けといて、ひたすら神さまの御心に合わす。「宇宙神ありがとうございます」って祈るとか色々ありますけども。だから、村人がスーパー銭湯に行くようでは困る。

 他の人はいいですよ。自分のお金で行ってるんだから。でも神さまのお金でスーパー銭湯へ行ってね、山仕事がしんどいからかどうか知りませんが、そんなん言うてるようでは困るんです。本当は村に3年いてるだけでみんな悟れるんです。そういう場所なんです。

 でも、誰も出なかったというのはそういうことなんですけど、少なくとも先生亡くなられてからの6年というのはオマケのオマケだった。でもしないのは勝手です、みたいな感じですね。ほんで、この護摩は真祈りできなくても1回は騙して連れてこいというように、それぞれの響きが必要としますので、「全然いらんわ」言う人でも1回は騙して連れてきてください。あと本人の自由意志で来ないのは構いません。はい。

 で、神さまが罰を与えることはないんです。みんな真(まこと)の神さまの絶対という全ての プラスをね、全ての全てを受け止めて健康でいるわけです。それを一部しか受け止めないから不健康になるわけです。それだけです。神さまはバチ当てない。本人が自由に選んで苦しむだけです。

司会者
 ありがとうございます 最後の質問です。
 大祓いの言葉を書き上げてくださり、ありがとうございます 普通一般に書かれている大祓の言葉には、書かれていない文章が中ほどにありました。その内容は重要なことを表していると思います。詳しく説明していただければありがたいです。よろしくお願いします。

河上さん
 1番問題になるのは、母子犯罪(ははとこおかすつみ)(モトコトオカセルツミ)、子母犯罪(ことははおかすつみ)(コトモトオカセルツミ)という部分ですね。で、これ言霊的に言うと、母と子というのは大国と小国です。要するに、個人のお母さんと子供じゃなくて、大きい国と小さい国。で、小さい国が大きい国を騙して喧嘩する、あるいは大きい国が小さい国をね、イジメるいうんですか?併合するとかあるじゃないですか?あれを母と子をおかす罪、子と母をおかすみ罪。で、母と子とをおかす罪という言い方になっています。ほんで災いの虫云々もその辺の全部言霊でなってるんですよ。ただ、もう言霊が理解するためには真祈りがいるんです。

 ほんで、先生は大祓いの言葉を使わずに色々とされて、で、もう最終は「印可書」を作って頂いてしてます。で、「印可書」を真剣に唱えて頂いたら、大祓いの言葉、あれはできるだけ言霊に近い方を出したんですけども、あれが分かります。で、今の、もうちょっと日本語に翻訳された大祓いの言葉はもうちょっと分り難いです。言霊から離れてますから。

 で、本当は言霊というのは一音一音に響きがあるんです。だから、うぅーって、辛抱しながら動くじゃないですか?そして、あーって言って驚くでしょ?一音なんですよ。で、その一音一音の言霊がわかったら、大祓いの言葉は非常に凄いものだというのが分かりますけども、まずは真祈りなので、「印可書」奉読から始めて頂く方が、要するに、大祓いの言葉を分かろうとして、一生終わっちゃうからね。間に合わないでしょ?死ぬまでに悟るべきですから。

 この身このままで悟ることが大切なんだって空海さんも仰ったし、先生も仰った。「肉体を持ったまま悟るから値打ちがあるんだ」って、「死んでからどうこうでは意味がないんだ」っていうことを何回も仰ってるんですけども、その先生を信じてないのか、悟る気がないのか知らんけど、まあみんな好きにしてます。ありがとうございます

司会者
 河上さん、ありがとうございます 

河上さん
 じゃあ、もう話します。殆ど今言いつくしたから質問出ない出ない。
 ありがとうございます
 今年最後の護摩になりますけども、集って頂いて、本当に先生が喜んでいらっしゃいます。

 で、この護摩を通してね、真祈りが全世界に響くのは間違いないです。そこはまず信じててください。日本が一番最初の種なんですよ。人間の心を種として言霊の花を開かせるんですね。その人間の心の種のとこを全世界はまだ希望という、自分の都合という、思い巡らす、自分の都合を優先する心だから戦争になる。

 で、日本人こそ、日本語は言霊そのものですから、「印可書」奉読して、あるいは真祈りを、「宇宙神ありがとうございます」を奉読してね、言霊、本当の言霊を出すと、真(まこと)の本心の自分の種が出るんですよ。で、本心の種が出たら、それを言の葉の響きとして、全世界が平和になっていくんです。

 本心というのは真(まこと)の神さまそのもの。全ての人は真(まこと)の神さまの命で繋がってるんです。すべては一つなんです。「みんな光や」って先生はもう大昔から仰ってるんですけども、 それは真(まこと)の神さまとして一つなんです。だから、自分の都合は全部横に置いといて、ひたすら神さまのために働くだけでいいんです。

 でもどうして働くんだ?「印可書」奉読するだけでいい。「印可書」奉読しながら、今ある自分に与えられてる色んなお仕事あるじゃないですか?それは家庭での家事であったり、色々あると思いますけども、その仕事の内容は関係なしに淡々と責任持っておやりください。そして1番大事なことは、その結果に心を奪われないことです。

 一瞬一瞬、新たというのは結果じゃない。さらさらと、ひたすら流すだけ。ひたすら流すためには、一切結果を掴まずに真(まこと)のプラスの言葉を発し続けることです。で、「印可書」奉読してると、言葉以前の響きが分かってくるから、仕事する時でも、物凄く楽になります。というのは、段取りが全部透き通るように見えてくるのね。だから無駄な動きはなくなっていくわけです。

 それくらいちゃんと行けますから。日本人は先ずそれを全世界にお手本として見せるべきなんです。また見せなくちゃいけない。ほんとにね、自分の思い巡らす心で話し合いしたって、会社の会議でもそうですし、国際連合でもそうですし、国会でもそうですけど、今の韓国の国会でもそうですけど、揉めるだけでしょ?

 お互いに自分の都合、自分の利益を優先してやってるわけですよ。で、それは絶対にまとまらないの。結果は戦争になるだけ、喧嘩になるだけ。だから、まず自分の都合を横に置いといて、ひたすら真(まこと)のプラスの言葉を唱え続けてください。
「印可書」を、「宇宙神ありがとうございます」を、どれ選ばれてもいいですから、まず真(まこと)のプラスの言葉を唱え続けることです。その言霊の力で全てが変わります。

 只々、それだけです。是非ね、来年の1月お話しますけども、元旦で都合で来れない方は、無理して来られずに録音聞いてください。でも、先ずは元旦までね。取り敢えずはクリスマスまでは、ひたすら真(まこと)のプラスの言葉を唱え続けるんだと決意してやってみてください。本当に自分の運命に大きな変化があります。それくらい、今ちょっと世界的に言霊で大きく動く時期に入ったんです。
 
 この大雪の次の日という今日ですね、今日から25日までは、言霊がもろに影響しますから、使う言葉、気つけてくださいよ。あいつサボってるなとか、あいつ気に入らんなとか、色々あるでしょ?無意識にやってるでしょ?うん。あいつより俺の方が偉いわとかね、あるじゃないですか?或いは、私はアホであかんわとかね。どれもこれもマイナスの言葉ですから、もう要らん事を考えずに、プラスの言葉だけで行ってみてください。必ず良いことがあります。
 
 ありがとうございます また来月、新年お会いできることを楽しみにしています。
 ありがとうございます

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12月護摩 by kawakami 2024年12月08日(日) 18時39分
PC

12月護摩焚き河上さんのお話
 宇宙神ありがとうございます

 令和6年12月1日護摩焚きで河上さんがお話してくださった内容です。ありがとうございます

司会者
 本日は質問は1件です。

質問1
 ありがとうございます 睡眠時無呼吸症候群の治療でCPAP在宅持続陽圧呼吸療法装置を睡眠時に使用しています。服薬はありません。CPAPを使用しないで済むようにするには、どのように取り組むとよろしいですか?
アドバイスいただけると助かります。よろしくお願いします。

河上さん
 ありがとうございます またお会いできて嬉しく思います。まず第一に求める心を捨てることなんです。それってみんな無意識にね、「健康でいたいわ」とか「お腹すいたらお腹いっぱい食べたいわ」とかいろいろありますけど。ゆっくりと不眠症の人だったらね、「ぐっすりと眠りたいわ」とかあるじゃないですか。「健康でいたいわ」とかね。そのどれもこれもが求める心なんですよ。その神さまは全ての全てですから、簡単に言えば、この三次元のこの空間にだけでもね、この3次元で生きていくために必要なものは、この空気の中に全てがもう含まれてるんです。音楽家はその空気の中から音楽を引っ張り出す。ビートルズはビートルズの音楽を引っ張り出す。クラシックはクラシックの音楽を引っ張り出す。ギターやったらギターで引っ張り出すという、それだけなんですね。だから、料理人はその空間にある全ての料理の中から一つの美味しいのを引っ張り出すだけであって、求めるんではないです。

 まず、別にこの人だけじゃないんですよ。みんなそうなんですよ。みんな無意識に何か求めてるんですよ。その求めてるっていうのがマイナスなんです。「私、別にマイナス出してないわ」ってみんな思ってるけども、もう本当に極端な表現で言うと「印可書」読んでる時以外はね、無意識に何かを求めてるんよ。無意識にマイナス出してるわけ。だから思いついた時は淡々と「印可書」読んでくださいねって。なんで「印可書」っていうかと言うと「印可書」だと悩まなくてもプラスだけになる。でも普段「印可書」なしでいこうと思うと、無意識に求めることを気づいてないからね。マイナスばっかり出すわけですよ。それが年取ってくると、全部溜まり切って、いろんな病気になってくるんですね。

 この人の場合は、無呼吸になってそれで症状が悪化するとか、死んじゃうとかで怖いからされてるわけですけど、今の治療は続けられてていいですから、まずいつ死んでもいいんだも思わずにね、もう神さまがいいようにするんだって。「元気で生きたい」とか「いつ死んでもいい」とか「早く死にたい」とか、みんないろいろと年取ると思うんですけど、そんなのを一切求めることはいらんのです。ただただ神さまがいいようにするんだって、よかったってね。その気持ちにまず切り替えてもらうことが大事。治療はそのまま続けられていいです。もしお医者さんが薬を飲むよう言われたら飲まれても大丈夫です。ただ、「この薬、毒だわ」と思う時は飲まないでください。それは自分が勝手に思うことですけど。

 とにかく、まず一切の求めることを捨てきれないと駄目なんですよ。「真祈り」とは何かというと自分の都合を全部横に置いておくことなんです。すると「印可書」を読んでなくても真祈りになるんです。でも自分の都合をいつも横に置いとくというのができないし、人を支えなさいと言われたら自分が支えると思ってしまうのね。自分が支えると思った時はもうマイナスなの。わかります?要するに極端な例で言うと、なんていうんですか、子供にね、渡さなくてもいいお金を渡して無駄な遊びをさせてしまうみたいなね。 不良になってしまうみたいな、あるじゃないですか。親がお小遣い与えすぎて子供がおかしくなるっていうのはあるでしょ。あれはいわゆる自分が子供を支えてると思ってるから、じゃあ金額大きいほどいいんじゃないかとこうなって、結局マイナスになるでしょう。

 そういう感じで支えるという行為一つとっても、一つ間違うとマイナスなるわけですよ。どれとっても、「真祈り」っていうのは秘奥義で伝授する部分というのはなぜかというと、そういう理屈で人を支えなさいとか、何か言ったら全部自分が何とかする、あるいは自分がしてやったって出るわけです。で、出たら全部マイナスなの。何もしてたことにならないということすら気づかずに、「私はいいことしてる。私はマイナスしてない。」と思ってね、マイナスを積み重ねるから人類は常に戦争に向かって進んでるわけです。その個人個人のマイナスが集まって戦争になっていくだけなんですね。

 今の人の場合、もう普通の人とみんな同じですけど、この人はちょっと症状に出てるわけですね。まず治療もそのままで、このままでいいですから、神さまが一番いいようにしてるからよかったっていう、「治れ」とかね「元気になれ」とか思わなくていいの。神さまは必要に応じて必要なことをしてくださるのね。 だから、痛かったら痛い必要があるから痛いの。それも何十億分の一の痛さで神さまが必要に応じたことをしてくださってるの。だから呼吸が止まるのも必要で止まってるのというのがわかると、楽になって止まらなくなります。要はそこなんですよ。自分で呼吸しなくちゃと思った分だけ止まっていくんです。みんなもそうなんですよ。呼吸を普段ね、無意識にしてるでしょ。だから平気なんですけど、呼吸を意識させると、過呼吸群ってなってね、酸素をたくさん取りすぎて倒れるんですよね。精神的に何かストレスがあると過呼吸症候群ですか、なるんですけど、それぐらい呼吸って意識しちゃったら駄目なんですよ。それで呼吸法もあんまり言わなかったのは、呼吸法ってある程度意識してするからね。一つ間違うと大変なんであんまり説明しなかったんですけども。

 まず、どの状態も神さまが自分にとって一番いいようにしてくださってるということ。それって何かというと、神さまは絶対の愛でね、一番いいことしかされないという信ですよ。みんな都合悪くなるとね、神さまのせいでこうなったみたいに最後は言うのね。大人にとったら神さまがおかあちゃんです。小さい子にとったら、自分のおかあちゃんが神さまなんですけど、小さい子ってみんなそうでしょ。都合悪くなってきたら「おかあちゃんのせい」って言うじゃないですか、あれがみんな大なり小なり心の中に残ってるのね。それをまずどれだけ捨て去るかなんですけど、理屈で言うとこれだけですけど、それができるくらいだったら人類は苦労してない。

 キリスト教でいうと聖書があるだけだから、聖書さえ読めばみんな立派になるんだけどなれない。なぜかと言ったら、自分が治す、自分がどうこうという自分を消しきれないから、いつも言うようにね。 だから「印可書」奉読だけ。「印可書」奉読は自分が読んでるつもりで、自分が消えるように作ってありますから。ともかく悩んだり困ったら「印可書」奉読だけ。それで何が出てきても「ああよかった」って思えたら自分が消えます。それで何か出てきた時に、「なんでこうなるの」って言った時は自分が出てるわけという判断基準を置いてですね、「印可書」に立ち戻っていただくと大丈夫だと思います。ありがとうございます

司会者
 ありがとうございます 会場からの質問はどういたしましょうか?

河上さん
 基本を受けていいですよ。ただね、全然真祈りと違うね、今、会場にいらっしゃる方がね、「それは真祈りと何の関係があるんや」って思うような質問はちょっと受けられないというだけです。はい。

司会者
 はい。それでは会場の皆さんで、真祈りに関する、どうしても質問したいという方がいらっしゃいましたら、どうぞステージの方へいらしてください。いらっしゃいませんか?(会場からの質問者がありました)どうぞ。

質問2
 すいません。先ほどの質問の中の「求める心」という言葉と、今巷で言われている「夢を叶える」であるとか、そういうことも「求める」の中に含まれますでしょうか?

河上さん
 含まれます。あのね、例えば東京大学に合格するというのは、非常に良いことと世間は思っているじゃないですか。でも、本当に優秀でできる人が東京大学に行って必要な勉強をされて、すごい世の中のためになる働きをするというのもありますけども、もう東大に行くので目一杯になってね、合格したらそこで人生が終わって、あと使い物にならない人って結構いるんですよ。だから、本当に東大を出た人がみんな使えたらですよ、もっと世の中良くなるんよ。だって東大の卒業生何人いてる?でしょう?それくらい何て言うんですかね、形の上の結果を求めるとうまくいかないんですよ。

 何が言いたいかというと、神さまがいいようにしてるからね。まず自分のしたいことをしたらいいんですよ。でも、うまくいかない時は、「あ、これは自分には向いてないんだ」って捨てきれる力が欲しいですね。で、あと、自分のすることは誰にも認めてもらえないし、つまらないことだと思ってもね、自分がこれと思うことは頑張って勉強するなり色々したらいいわけです。

 先月言いましたけども、真祈りとは何かと言ったら、まず神さま以外に認められる必要はないというのが分かればいい。神さまはいつも認めてくださってるんですよ。それがわからないから不安なって人に認められたいの。わかります?本当は神さまは自分の愛し子である人類をね、一番認めてくださって一番よくわかってくださってるの。だから一番いいようにしてくださってるの。でもそれを信じ切れないから、誰かに褒められたい誰かに…、色々ありますよね。いろんな無理をして、人の分の、本来その人以外のとこで役立てるものまで奪っちゃうわけですね。

 だから、大金持ちになるとお祈りできないというのは、本当はもっとみんなのために循環させなくちゃいけないお金をね、一人締めしてるから。大金持ちでも、それなりにうまくいってる人というのは、そのお金をできるだけ多くの人に役立つように会社とかいろんなことを起こしてね。例えば会社を起こせば、それだけの働き口が増えるわけでしょう?そういうことで循環してる人は、まだ大金持ちでも立派なんですけど、もうお金だけ抱きかかえてね、してる人というのはやっぱり大変になっていきます。それくらい神さまを信じ切れるかどうかなんですよ。

 なまじお金があると神さまを信じなくなるの。いつも言うように、お金で目的と手段が入れ替わってね、お金さえあれば目的が達成できるように勘違いしてるからね。本当にお金で目的達成できるんだったら、例えばあの人と結婚したいなと思った時にですよ、いっぱいお金を積んだら絶対結婚してくれた?、そうはいかんでしょう?やっぱり嫌というのはね、いくらお金を積んでも「あんたとは結婚しないわ」って言うじゃないですか。仮に結婚してくれたって全然心はこもらないだけでね。結局は目的は達成できないと。いくらお金があっても。本当にお金があって目的を達っせるんだったら、お金持ちは癌で死なない。癌になってもお金を積んだら治るはず。でも治らないでしょう?それぐらい、この世的な働きにあるお金というのは、みんなが思ってる頼りになるもんではないんです。でもお金があるとお祈りしなくなるの。もう本当に恐ろしいくらいね。お金で幸せが買えるというような勘違いをしてるからね。

 でも実際仕事がなくなって、お金はいっぱいあるけど仕事なくなって、何もしなくていいってなった途端にね、普通はノイローゼになるんですよ、暇すぎて。わかります?大体人間って不思議なのね。暇やったら暇で、「暇すぎてかなわんわ」って言うしね。忙しい時は忙しいで、「忙しくてかなわんわ」って言うでしょう?いつも文句言ってるの。違うやろって。神さまはいいようにしてるから、暇は暇で、暇な時にできる勉強をすればいいんだし、あるいは遊びをすればいいんだし。忙しい時は忙しい時で、忙しい時にできることをどんどんすればいいだけで、文句言う必要はないんです。「もうそんなん言ったって、私、めいっぱい、こんなに、こなせないくらいの量の仕事があって大変よ。」って言っててもいいわけですよ。結果じゃないからね。なのに文句言うわけ。なんでかと言ったら、いつも言うように結果を気にするから。結果を気にするのは何かって言うと、人がどう言うかを気にするからですよ。神さまがいいようにしてるのに、なんで人間の文句なんか関係ない。

 だから、いつも先生は僕にはね、「もとより後ろ指にさされるのは覚悟の上やろ。」って言われてました。だから人に何と言われても先生から依頼を受けたことは全部こなしました。こなしたけど、その結果、周りから言われた分だけ相手の人が潰れていくばっかりでね、全部うまくいきませんでしたけども。でも先生はそれもお見通しの上で一切気にしないということを僕に勉強させたんだと思うんですね。だから今ここで結果は関係ないんだよって。神さまさえ知ってたら、人間に人になんと言われても関係ないんだって自信を持って言い切れるわけですけど。もうそれだけです。

 だから、何もかもそこに尽きます。神さまがいいようにしてるだけ。結果は本当に関係ない。だから東大を目指すのはいいんです、例えばね。東大を目指すのはいいけど、東大に落ちたら2浪も3浪もしてね、何があっても東大に行くんだじゃなくて、東大に落ちたら今度は慶応大学に行くとかとか、同志社に行くとか関学に行くとかあるじゃないですか。別にそれでいいんだよというのがわからないと。要するに大学に行って勉強するのが必要なのに、無理に東大で2浪3浪したら勉強する時間を失って目的と手段が入れ替わっていくわけですよ。東大に合格、例えばですよ、東大に合格するのが目的じゃない。それは手段であって、東大というところで学べることが学びたいから行きたいんであって。でもほとんど東大生は合格したら大体終わっちゃうのね。そういうもんなんですよ。だから本当に勉強したい人は大学を目指せばいいんだし、勉強が私は苦手だという人は別に高校だけでも構わない。

 それで、一生お金がたくさん入らない状態の運命になってもね、本当はそれを喜ばなくちゃいけないんですよ。お金がたくさん来ないということはマイナスが来ないということですから、変な苦しみがないということ。お金があると変な苦しみがあるんですよ。もうあんまり細かく言いませんけどね、お金をもらえばもらうほど大変なんで。そういうことがわからずにお金が入ってきたら、それに頼ってね、余計神さまを忘れてぐちゃぐちゃになっていくんですけどね。そうなると、神さまの方は神さまを忘れないように、そういう病気にしたりいろいろします。きょうだいが仲違いしたりね。遺産相続はそうでしょう?本当に仲良かったきょうだいが遺産相続ですごいガラガラになるんですけど、それってお金に頼っていたからです。そういう部分ですけどね。

 まずは何が言いたいかというと、まずは真祈りなんですよ。理屈で説明したら全部説明できますけど、だからといってどうしようもないんだよというのが人間なんです。お金をそんなに求めたって仕方ないんだよ。でもお金が欲しいんだよというのが人間なんですよ。そういうものなんです、五欲に流れるというのはね。それを理屈でどうやったって直せないの。直せるくらいだったら聖書があったりね、法華経があったりいろんな聖典があるわけでしょう?イスラム法典があったりね。それを読んで、その中に書かれた神さまの行いをみんなすれば済むんだけど、そうしたって女遊びが止まらないとかいろいろあるじゃないですか。それぐらいみんな欲望に流されるわけです。それをどうするかということで、2015年の時ですよ、先生から任された時にね、「もう、どれだけ先生がそう言われても僕は説明しますけども、みんなはその欲望から逃げれなくて苦しんでいるんだから、何があっても神さまにスッと戻れる方法、縋れる方法を作ってもらわないとお受けできません。」ってはっきり言ったら「印可書」を作ってくださった。で、その「印可書」をみんなが選ばないから、先生は、じゃあ一番簡単なことということで、「宇宙神ありがとうございます」を作ってくださって手振りも作ってくださったわけです。それも選び取れないから、「やっぱりお前が作り直さなあかん、最初の予定通りや」みたいになって、今の「印可書」になってますけども。

 本当にね、一番わかりやすいのはダイエットですよ。ダイエットをして失敗するのはみんな食欲に負けるからでしょう?だから食欲に負けそうな時に「印可書」を読まれたら大丈夫、止まるから。そういうもんなんですよ。そこで、別に食欲に限りませんけど、ともかく欲望に流されて苦しい時は「印可書」に戻ってください。そしたら、「印可書」を読みながら、例えば食事すれば本当に止まります。必要だけに止まります。そういうふうになりますから、まず真祈りです。でも真祈りがわからないから「印可書」としています。

 「宇宙神ありがとうございます」でどうしても行きたい人は行かれたらいいですけど、できたら手振りをつけてください。先生、「宇宙神ありがとうございます」と手振りはセットものなんでね。なんで手振りがいいかいうと、手振りをしますと、こう(腕を)上に上げると心臓から全身に血がグワンと巡るんです。これの繰り返しによって全身に血が巡るんです。

 全身に血が巡るというのはどういうことかというと、一大循環の相象(すがた)を具体的な形に表しているの。一大循環の相象(すがた)を、もう頭でわからなくていいわけね。理屈で考えなくても、無意識に一大循環の相象(すがた)を表せるから「手振り」になるの。だから手振り付きだったの。その手振りを勝手に…、先生は止めって言ってないよ、絶対ね。でも止めちゃうからややこしいんだけど。

 でも「宇宙神ありがとうございます」で行かれる方は、手振りをされて手を上げる時に、ずっとやってると飽きてくるじゃないですか。そしたら、上げた時につま先立ち。つま先立ちをしてください。それで下げるという。またしんどくなったら普通の手振りに戻してね、それをひたすら30分するんだ15分するんだ1時間するんだって自分なりに決めてやられたら、(手振り付き宇宙神ありがとうございますは)「印可書」に匹敵します。

 なぜかというと手振りをしてる時は要らんことを考えてられない。「宇宙神ありがとうございます」だけだったら要らんことを考えるのね。でも(手振りをつけて)「宇宙神ありがとうございます」とやってるとね、もう考えてる暇がないわけよ。考えている暇がない、要するに人間の思いを巡らす心がないというのを自我がないっていうんです。自我がないということは、真(まこと)の本心の自分という、神さまの心が湧き上がるんじゃなくて、本来の神さまの心が出て来るから全部わかるようになります。ということです。

 何か質問からずれたかな。ごめんなさい。もういっぺん聞き直してね。

質問者
 また、(質問内容を)まとめてまいります。

河上さん
 ありがとうございます 喋りながら清めちゃって。

司会者
 他に(質問は)ございませんか。なければ河上さん、よろしくお願いいたします。

河上さん
 ありがとうございます 本当に神さまが皆さんの自由意志に任される時代に入りましたので、素直に神さまに心をおける人は、年齢に関係なくどんどん若返ります。それで、いくら若い人でも神さまに心をおけずに、自分の都合を優先してる人はどんどん老けていきます。そういう時代に入りました。だから、人類が戦争してる暇がないくらい、自分の都合を優先する人は、いろんな病気、それも今までの医学的にはわからないお医者様が理解できない不思議な病気がどんどん現れてきて、死んでいくことになります。

 だから戦争で恨みを残すよりはいいので、その形に大体決まってきました。それで間に合わない時は、戦争よりも地震や噴火という形で出ます。できるだけ小さい形で済ましたいとは思っていますけども、ここでの護摩の皆さんの真祈りが本当に全てなんですよ。

 先生お一人がお祈りしたって駄目なのね。皆さんでお祈りするからすごい効果が出ますので、いつも言うように、それぞれ皆さんの縁(えにし)ある人に光が通りますから、護摩にはできるだけおいでください。本当にお金の都合もあって無理はすることはないですけど、来れる限りはおいでください。それくらいこの護摩の会場も護摩も大事です。護摩木もあるうちは護摩木をどんどん優先します。紙になってからは、その時に本当に紙にばっかりになった時にまた考えたいと思いますけども、いろんな、いろんなことが重なってね、本当に追い詰められています。

 今週月曜からずっと大変だったんですけども、まず今月はクリスマスまでがもっと大変です。11月をやっと越せたかと思うと、もう12月が大変になって。そうですね、もう本当に何とか今週と来週の護摩で何とかしたいと思ってますけど、その護摩で済んでも、そうですね、クリスマスの、みんながお祈りする、クリスマスのケーキとか御馳走を目の前にした時に大きく揺れて大変になるみたいな感じがいまだに消えていません。それくらい、みんなのんびりしてますけど大変は大変なんですよ。

 どうなんでしょうね。何がそういうことを起こしてるかっていうのは、さっき説明したように、自分の都合を優先しているからです。自分の都合を優先して、だから生活ができて、食べる物が食べられて、それなりにちょっと楽しみがあってやったら、もうそれでいいと。そういう状態になると、お祈りもしない。神さまのことも忘れてしまうという人類が問題なんです。

 でも、どの状態になっても神さまは平等ですので、そういうふうに神さまなんか忘れて、ただ自分とこの家族、あるいは自分だけが食べれて、生活する場所があって、ちょっとお楽しみがあったらもういいんだと思った人は、死んでからどうなるかと言うと、本当の地獄に落ちるか畜生に落ちるかなんです。それは死んでから選ばせてもらえます。「あの地獄、お前これから行くか?それともどうする?」ってね。「痛いの熱いの、私嫌だ」って言うたら、犬さんか猫さんになれます。それだけです。それで、一旦犬か猫になると、二度と人間には戻ってきません。そういうものなんですね。これは三洗荘という時代に先生が新年のお話をされた時に、本当に最初の頃にお話されたことなんですけど。その頃、三洗荘に集まった人の数は知れてますし、その頃にいてた人は、ほとんどもうここへ来ませんので、皆さんの知らない話ですけど。いよいよその時代に入ったので改めてここで、発表ではないですけど先生がおっしゃったことを懐かしく思いながら、今お話しています。

 犬や猫ってそうでしょ、食べる所と住む所があったらもうそれで機嫌がいいじゃないですか。そういう感じです。人間はそこに落ちたら駄目なんですよ。なぜかというと、例えば人間は生まれてから、まず最初に歩くこと喋ることを勉強するでしょ。だから、みんな歩けて走れて喋るんですよ、わかります?要するに人間というのは勉強するのが本来の働きなんです。なのに、勉強するの嫌やって食べれてボーっとテレビ見て、雨風防いで暖かいお部屋があって寝れたらいいって言ってるのは、それは猫や犬と一緒なんですよ。自分から猫や犬になりたいって言ってるの。それでなるんですよ。神さまはその人の自由意志を縛らないからね。神さまがそうするんじゃないよ、自分で選ぶだけで。自分がそういうことをしてるの。人間というのは、いろんなことを考えて楽しむ動物なんですよ。動物じゃなくて神さまの命なんです。神さまの命というのは、いろんなことを勉強して楽しむものなんです。だからみんなゲーム好きでしょ?ゲームってゲームのルールを知って、いろんなことを考えて楽しむんですよ。ボーッとしてたらゲームできないよ。

 それくらいね、人間というのは何かを勉強しなくちゃいけないものなんです。そういうことを放棄すると、まずお年寄りを見たらわかりますけど、そういうことを放棄したお年寄りは、何が起こるかというと痴ほうが始まるわけです。考えることを放棄してるから。食べられて暖かい所で寝られて、それで健康でいられたらいい、自分だけ健康でいられたらいいって言ってると、それで後はテレビをボーッと見てるだけでしょ。何も考えない。するとボケちゃうわけです。そのボケの状態で死ぬと、死んでからまず問われるわけです。「地獄に行くか?どうするか?」それで「あんな地獄嫌や」って言った途端に犬猫になります。なったら最後、戻ってきません。そういう犬さん猫さんが増えたので、この頃人間に懐く犬猫が多いの、ペットブームが始まったの。それだけなんですよ。わかりやすいでしょ。そうならないように真祈りしましょうねというお話ですけども。

 それくらい、みんなは自分さえよければいいというのが、もう無意識にあるのね。それをどれだけ捨てれるかですよ。全て真(まこと)の神さまで一つなんだというだけなんですけど、分けて、他人と自分は関係ない、まず自分さえよければいいんだ、自分が良かって初めて他人何とかしようって考えるけど、それは意味ないのね。自分のことは横に置いといて、まず真祈りです。理屈で言えば自分のことを横に置いて人を助けましょうね、なんですけど、そうすると、さっきの子供にたくさんお金を渡すような感じで要らないことをしてしまうわけです。

 だからまず真祈り。その真祈りが難しいから、本当は、昔、五井先生、白光真宏会の五井先生の統一会というのがあったんですね。その統一会に参加すると、真祈りの場所、絶対の中心まで五井先生が引き上げてくださるわけですよ、皆さんのいろんな思いを消して。それで、みんなそれで統一会に参加する人が多かったんですけども、そうして統一会に参加して真祈りの状態になってるのに、気づかずに「あー気持ち良かった」で終わって、要するにお風呂上がりのような気持ちになるんですけども。「あー良かった」で終わって、また下りていっちゃうんですよ。その繰り返しだったので、もう五井先生を神さまが引き上げられて、統一会も中止になったわけですけども。もうちょっと何とか、で先生がしてくださったんだけど、やっぱり駄目で。みんなで手を携えて真祈りしましょうということで護摩を作ってくださったという経緯があります。

 それで、いよいよ先生がいらっしゃらなくなった時に、「皆さんお一人おひとりが先生として働くんですよ」と言ってもなかなか聞いてくれなかったんだけど、やっとみんなこの頃聞いてくれるんでね。みんなが松下先生となって真祈りしましょうというのを、まずこの護摩で体験していただいて、この護摩が終わった日、あった日っていうのは、お風呂上がりのようにすっきりしてるはずなんですよ。その気持ちが真祈りの状態なんだけど、いろんなことにまた心惹かれて降りていくからね。そこで「印可書」を読んで、来月の護摩までは、この心境を維持しようっていうふうな自分なりにいろいろと工夫されてですね、していただくと本当に人類が一気に変わります。

 もう、どういうことかいうと入れ子構造的に日本人が人類の中心なんですよ。だから、その日本人、人類の中心の日本人の中で今ここに集さってる方は、もっと因縁因果的に中心にいらっしゃる方なんです。だから、その方がお祈りしたら入れ構造的に全てに広がるんですよ。

 だから、なんか知らんけど護摩に来てるんやと思ってる人でもね、それなりのすごい使命があったからこそ、ここへ来るんですよ。なんでわざわざこの辺鄙なとこ来るかって言うたらね、それは理屈抜きに来るのは、それぞれ皆さんが持っておられる使命だからです。どの方も「そんなん言うたってわし怠け者やねん」っていう方は、怠け者の方に光を送る役目があるから来られてるわけです。本当に怠け者だったら来ないって大丈夫。それぐらいね、それぐらいいろんな種類の人を先生集められて、全ての全人類に光を送るための場所としてこの護摩の会場ができています。

 ここに集ってる数の今の人数は少ないですけども、この核が大事なんですよ。ここからどんどん響き渡りますから。なんて言うんですかね、理屈であんまり考えずに淡々と「印可書」を奉読してください。それで護摩に来たらもっとたくさんね、多くの方があちらの世界ですけど、動物の方もみんなすごい勢いでここへ集まってますので、それで増幅効果があるわけです。集まってる人数は何百人ですけども、あっちから来る方は億兆のレベルで毎月集まっておられるのでね。護摩のない時は、どんどんここに席取りして、ずっと集まってる感じですよ。それで、護摩も待ち兼ねてやっておりますので。でも肉体側が演奏しなくちゃいけない、真祈りを。肉体側が真祈りを演奏しないと始まらないのでね。「印可書」を読もうと思う人は、ぜひここで読んでください。

 それで、護摩が終わっても、各自のおうちで「印可書」を読みたいなと思った時は、ぜひ奉読してください。「印可書」どうしても嫌な人は、今言ったように、宇宙神の手振りをつけられたら「印可書」になります。それは間違いないの。でも、「こんな手振って『宇宙神ありがとうございます』言って何になるの」て思ってしたら、何にもならないですよ。その人の願い通りにしか動きませんのでね。そこだけは神さまを信じて、松下先生を信じて、「宇宙神ありがとうございます」ってしてください。そしたら、それは「印可書」になります。また、「印可書」を選ばれている方でも、切羽詰まった時ね、「印可書」読んでられないじゃないですか。そしたら「宇宙神ありがとうございます」この手振りも全部できない時は「う」って言うだけでいけるんですよ。

 だから人間って言霊的に、ちょっと辛抱する時か我慢、「う」って、乗り越える時「う」ってやるじゃないですか。その「う」の言霊なんですね。それを先生は「宇宙神」という、もうちょっとわかりやすい言霊としてつけてくださっただけなんですね。だから、「宇宙神ありがとうございます」をもっと信じ切って使っていただいたら大丈夫です。いつも言うように「う」「あ」「す」でいけますから、大丈夫ですから。切羽詰まった時は「あ」か「う」か「す」でいってください。それで必ず乗り越えれますのでね。たった簡単なことしか言いませんけども、その簡単なことで乗り越えるようにしておかないと、日本語を喋れない方にね、どうするか言うたら、「あ」「う」「す」でいいんだよって言って、最後は持っていきたいんですよ。今はまだ「あ」「う」「す」に力が乗り切ってないの。本来ある力が乗りきってないという本当は。本来ある「あ」「う」「す」の言霊が、ひびき出てきてない、うまく表現できない。ともかくまだ表に現れてないんですね。それを表に現したいので、この護摩をね、ずっとやっていきたいと思うんですよ。

 なぜ日本人が中心で日本語が中心であるかっていうと、その日本語は、そのまま神さまの言葉に直結してるんです。だから、「印可書」も「宇宙神ありがとうございます」も、先生は英語とかね、他の国の言葉に翻訳することをよしとされなかったんですよ。この日本語の言霊のままが神さまの言霊、響きそのものなんです。だからそこをまずわかってください。

 言霊(本心の響き)を種として、いろんな花が開くということを万葉集とか、いろんなところで表わされているわけですけども。そのこと自身がね、例えば「ひさかたの 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ」って聞くとね、これはすごい古語なんですよ。古語だけど今の現代人が聞いてもね、何となく意味がわかるでしょ。「しづ心なく」は「静かな心なく→鳴く→響き渡る」って言ってるんやなっていうのがわかるじゃないですか。それはなぜかと言うと「しづ心なく」というのが既に神さまの響きそのものだからです。それぐらい日本語というのは、神さまの響きをそのまま受け止める、大和言葉というんですけども。

 要するに大和言葉というのは何かといったら、漢字で入ってきていない本来の日本語です(漢字になっているときは、訓読み)。これは本来はもっと一音でね、一音の響きなんです。だから「あ」「う」「す」でいいんですけども。例えば、「嬉しい」ってあるでしょ。「嬉しかな」って言われても、何となくわかるでしょ。何て言うんですかね、例えば、まだ方言に残っていますけど、大阪弁なんか「何々やんか」とか「やか」っていうわけですよ。「やか」というのは何かというと、やわらか」という言霊の響きなんですね。だから「や」をつけると、やわらかいことになるんですよ。「軽やか」とかいうんで、ちゃんと言霊と現代語が直結的に繋がってるのが日本語なんです。それがわかると「宇宙神ありがとうございます」というのがすごい言霊ってわかってきますから。今は理屈で説明しましたけども、ただただ神さまと直結できる言葉なんだということだけは信じてやってください。

 神さまと直結するためにこの手振りがあります。大地から天地に繋げる。大地から天地に繋げて、下から上に手を挙げるんですね。天地に繋がったのを全世界に響かせるで左右に開いてるんです。そのイメージを持ってください。それで天地に繋げるのをまっすぐ直線にビシッと繋ぐということで、つま先立ちにしました。つま先立ちにする時は、そのつま先で土をつかむ感じでね、ギュッとしてつま先立ちしてください。するとドンと絶対の中心を通りますから。それでやってみてください。「印可書」だけが全てではないですから。先生の残されたものは全て生きてますので、どれ一つ、その時に使いたいものを使ってね、ぜひ真祈りにひたすら邁進してください。

 追記、つま先立ちというのは、全身を余すことなく、使う→全身のすべてで支えあう、という意味です。

 また来週会えることを楽しみにしています。本日はありがとうございました。

 音声はこちらからどうぞ
 https://youtu.be/fVzwTkFn0m4

 宇宙神ありがとうございます

じょうし 2024/12/04(Wed) 07:24 No.3660 [返信]


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12月光の交流会 by kawakami 2024年12月08日(日) 17時54分
PC

令和6年12月光の交流会
 宇宙神ありがとうございます

 令和6年12月光の交流会で平成25年8月17日の先生のお話を聴いていただきました。

 我(が)という言葉の定義、我(われ)というふうに言うと自分。真(まこと)の自分、これは、真(まこと)の我(が)、真我(しんが)。偽の自分、偽りの自分、偽我(ぎが)。

 真我とは何か?真我とは、一切の我(が)のない無色透明の自由自在心の意識。本物の自分。偽の我というのは何か?形を掴んだら小さくなってしまう。一大循環の相象(すがた)を一瞬掴んだだけでも小さい自分。偽我の方になる、本物じゃない。

 本当の自由自在心は、一大循環の相象(すがた)を掴まない。一瞬掴んだら、ものすごく小さくなる。無限のスピードで循環する一大循環の相象(すがた)、掴まないからこそ大きく受け続けられる。そのために与え続けて、受け続けて実感する。絶対形を掴んだら小さい自分になる。偽の自分、偽我になる。

 我が、色んな我がある。宇宙が自分って掴んでも宇宙我(うちゅうが)。大きい自分、大我(たいが)っていう。これが神さまと掴んでも神我(しんが)っていうのでも、掴んだ自分は偽物の我、偽我。虚の自分になる。一大循環の相象(すがた)じゃなしに、残像の虚の世界の我。残像を掴んでるから。どんな掴み方をしてもそうよ。掴んだら偽の我。形を掴んだら偽の我、全部そう。虚の世界では、順番に残像を掴み続けて、大きい我から小さい我、小我まで、どんどんどんどん堕ちて行って、数は無限に大きく積み重ねてしまう、たくさん積み重ねる。だから、我を溜めたら、やっぱり、まず我の自分を掴んだら、一大循環の世界から虚の世界へ転落。これが一番大きい問題。真(まこと)の神さまから遠く離れてしまう。

 本当の自分、真(まこと)の自分は自由自在心で形を何も掴まない自分というんだけど、でも一大循環の相象(すがた)を与え続けて、受け続けて実感するのは、一大循環の相象(すがた)が自分よ。一瞬掴んだ形じゃないけど、一大循環の相象(すがた)が本当の自分。自由自在な意識で実感する自分。自由自在心も自分だけど、一大循環の相象(すがた)も本当の自分よ。何もない自分じゃない。一大循環の相象(すがた)そのものが、真(まこと)の自分。だから、神さまの全てが本当の自分。まず根本がそれ一番大事。そこから離れたら偽の自分。偽我になって、どんな我が積み重なっても小さい自分。無限に小さい自分になってしまうから幸せから遠ざかるからダメなの。

 一大循環の流れを妨げるっていうけど、本当は妨げることは絶対不可能。虚の世界に入ったから、虚の世界に転落したから、一大循環の相象(すがた)を感じ取れないだけよ。必要なものを的確に与えてもらえなくなったというだけの話。一大循環の流れなんて止めることも不可能だし、虚の何かが邪魔して止めるわけにいかない。一大循環の相象(すがた)は、そのままずーっとあるのよ、永遠に変わらない。ただ自分の受け方が、我を出すにつれて受け取れなくなっていくだけの話。我に力があるんじゃない。我には何の力もない。ただ、我になったら受け取れなくなっていってるだけの話。無限に我を積んだら、必要なものが何も受けられなくなったというだけよ。だから、もともと無い我。無い我をあると思ってたら虚の世界になってしまう。

 まず、真(まこと)の自分をしっかりと思い返さないと思い出さないとダメだから、それで、真(まこと)のプラスの言葉を駆使する、これ一番大事なこと。言葉通りの自分になるから。また言葉通りに受け取れるから、絶対、真(まこと)のプラスの言葉を駆使する自分というのを根本に置かないと、それが一番大事なところ。だから、虚の世界の過去の残像の言葉なんて必要ないの本当は。「ありがとうございます」一言だけの方がいい。

 我を消す祈りとはどんなことか?というのでも、「真祈り」、簡単に言うけど、「真祈りのありがとうございます」これがどういうものかというと、「秘奥義のありがとうございます」と同じ意味。途中の段階の祈りではダメ。「秘奥義のありがとうございます」と真(まこと)の「真祈りのありがとうございます」は同じ。

 それはもう常に、絶対の中心に立って、真(まこと)の神さまを与え続ける。それも全ての全てに対して、真(まこと)の神さまを与え続ける。一大循環の相象(すがた)を与え続ける、ずーっと永遠に。これが真祈り、「秘奥義のありがとうございます」。

 秘奥義の秘(ひ)。秘(ひそ)かな。ここがやっぱり大事なこと。隠れてるという意味もあるけど、必要なものを与えるの。秘密の秘の右側、必要の必でしょう。必要なものを的確に与えないとダメ。一大循環の相象(すがた)は必要なものを本当に必要だけを与える生き方。

 ちょうど電気で考えたらわかる。発電所で発電して途中送る時に何万ボルトってあるでしょう。そんなん直接つなげない、いっぺんにパンクしてしまう。この世だったら200ボルトに変え、100ボルトに変えて使うんでしょう。入れ子構造の仕組みなんて無限億万ボルトじゃない。それを順番に必要なところへ段階を降ろして、必要なだけを与えてくる。本当の必要なだけを与えてもらった時に幸せを感じる。お水を一杯飲みたいという時に、無限のお水を与えてもらったら大洪水じゃない、大変な目に遭う。だから、たくさんあっても与えない。必要なだけに絞って与える、必要なだけを与える。これ、やっぱり秘かなる与え方。

 絶対の中心から与えてもらうのは、無限に無限に大きい与え方。でも、そのまま与えてこない。押し付けない。恩着せがましくもない。強制しない絶対。本当に静かに淡々と与えるのでも、隠して隠して、自分の正体を隠して隠して、秘かに秘かに本当に必要なだけに絞り切って、それだけを表に出してくる。そういう与え方。もの凄い、凄い与え方よ、それは。本当に必要性を感じ取れないと出来ない。今、何が必要か?お茶を飲みたいと言っても、今、どの温度のどういうお茶を飲みたいかって見抜かないと美味しいお茶は出せない。ちょっと熱めがいい、ちょっとぬるめがいいって、その時で変わるじゃない。本当に見抜いて出すというのは、もの凄いことよ。

 だから、愛の心、祈りの心、与える心、これ一つ。愛するというのは、相手と一つになってる。自分の全てを与え尽くすから一つになる。祈りも相手に与え続ける、祈り続けるから一つになる。どんなものも与え尽くす。自分を全てを与え尽くすから相手と一つになるから、相手のことが全部わかる。与え続けて、祈り続けて、愛し続けて、全てと一体化するから何が必要かがわかって、本当に必要なだけを与えられる自分になってくる。

 これ、真(まこと)の神さまのし続けてること。それと同じ生き方を取るのが、真(まこと)の自分。ただ、真(まこと)の神さまと比べたら、真(まこと)の自分の生き方はまだ小さい。絶対の中心に立ったといっても、まだ絶対の奥まで行ってない。末端に立っているだけかもしれないから、与え方がまだ小さい。それをどんどんどんどん与え続けることによって大きくなっていく。真(まこと)の神さまと一つに融け合っていって大きくなる。

 小さい我を消すのでも、やっぱり神さまとの交流がいる。与え尽くし合い。交流して神さまと一つになると我が消え、大きい自分に戻れる。与える心と与える心は交流、プラスの交流が起こる。プラスが増幅される。増幅するというのは大きくなるっていう意味、大きいプラスになるという意味。これが求める心と求める心だったら、マイナスが増幅する。マイナスが大きくなる。与える心と求める心は交流が起こらない。常に、真(まこと)の神さまと交流を図らないとダメ。

 キリスト教でもイエスさんの教え、愛の教え。愛と許しの教え。裁きの教えじゃない。新約聖書に説かれてるイエスさんの教えは、愛と許しの教え。それはいかに神さまを愛するか。だから、弟子に対する戒め、「汝、心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、まず主なる汝の神を愛せよ」、真(まこと)の神さまを愛することよ。真(まこと)の神さまを愛することによって、神さまと一体化して、神さまの愛をもらう。それが出来て初めて、隣人を愛することが出来る。これが第二の戒めになってる。

 まず神さまと交流を図るためにどうしたらいいか?「ありがとうございます」も、ただ唱えるのではダメ。真(まこと)の神さまへ与え続けないとダメ。同じ「ありがとうございます」を与えるのでも、真(まこと)の神さまに与えたら、真(まこと)の神さまから大きいものが自分に循環してくる。

 あの人を幸せにしてあげたいって、プラスの言葉を贈ってあげたい、その人に贈ったからって大きくなって戻ってはこない。やっぱり自分が与えた対象が自分より大きくないと、大きいものは返ってこない。同じ「ありがとうございます」を唱えるのでも、小さく与えたら減って返ってくる。何を与えるのでも同じ。自分がお金がたくさんあって、貧しい人に与えたって、ちょっとしか戻ってこない、戻ってこないかもしれない。でも、大金持ちにちょっとプレゼントを何か持って行ったら、たくさん戻って来るよ、大抵。同じよ。

 だから、「ありがとうございます」をまず捧げる対象、真(まこと)の神さまに向けるほどいいの、大きく向けるほどいい。そういう意味で、真(まこと)の神さま、全方向に無限大の外まで遥かに続いているから全体へ与える。同じ「ありがとうございます」を唱えるのでも、全体に与える気持ちがいい。全体を支える。支えるという言葉も、支えるというのは必要なものを与えるという意味。必要なものを与えるのが支える。

 だから、全体へ「ありがとうございます」を与える。全てに「ありがとうございます」を与える。そうすると、大きくなって返ってくる。何万倍、何億倍、無限倍になって返って来る。それが真(まこと)の神さまとの交流になる。その交流を繰り返すうちに神さまに近づく。

 「この命を捧げます」、これは自分の命を神さまに与えて、神さまの命を与えてもらう生き方、交流する生き方。「ありがとうございます」を唱えるのも、全託もあるし、恩返しもあるし、絶対奉仕もあるし、全てを含めて、自分の全てを神さまから受け取った全てを「ありがとうございます」に託して、神さまに捧げてる、与えてる、お返ししてる。必ず、それ以上の大きいものが自分に循環してくる。

 一回「ありがとうございます」を捧げるごとに大きくなる。与えるという気持ちがやっぱり必要なの。本心の真(まこと)の自分にとったら、与え続けることで受け続けるの全部。それで実感し続ける、これが根本にある。受けるだけでは一瞬だけ。それも無限分の一。受けては与え、受けては与え、こんなん出来ない、不可能。与え続けて、受け続けて、実感し続けるというのが一番無理のない自然な生き方。

 そのために、与え続ける「ありがとうございます」、それも秘かに与え続ける「ありがとうございます」これが真(まこと)のお祈り、「真祈りありがとうございます」、「秘奥義のありがとうございます」になる。全ての全てに対して、秘かに真(まこと)の神さまを与え続ける。そしたら、神さまの全てを受け続けて実感し続けて、本当の神さまと一体感が愛の一体感が湧き上がってくる。深く深く湧き上ってくる。ここまでいって本当の自分。

 小さい生き方はダメなの我の生き方。小さい生き方は我の生き方、どんどん幸せから遠ざかる生き方。大きい生き方が、真(まこと)の自分の生き方、幸せを大きくしていく生き方。大きく生きようとしないとダメ。だから、この肉体という立場に立って、肉体を中心にしたのは、みんな小さい生き方。大きい立場から全てを使いこなさないとダメ。この肉体一個、自分の道具として使うのでは小さい。世界全体を自分の大菩薩行の道具に使わないとダメ。真祈りを祈る本心の自分は、自分の世界全部を大菩薩行に使う自分。全てを道具に使いこなす自分。大きく与え続ける自分だから、本心の自覚が深まる。

 同じ「ありがとうございます」を唱えるっていうのと同じなのよ。同じだけども、それでも自由自在な大きい立場から出発するか、小さい立場に囚われて、そこから出発するか。常に大きい立場から大きい立場から与え続けるのがいい。そのために、常に絶対の中心に立つっていう、絶対の中心って一番大きい立場よ。無限大じゃない、無限の無限の彼方の大きい立場よ。だから、言葉だけでいいよ最初は。絶対の中心に立って、全ての全てに真(まこと)の神さまを秘かに与え続ける自分。それで、「ありがとうございます」を唱えたらいい。本当は小さい我って消そうとしなくても無いのよ。大きく与える気持ちになってる時は、虚も我も無い。大きい生き方を忘れた時に虚が出てくる、我が出てくる。大きい自分を生きたら、過去にあった虚も我も一瞬に消える。新たに虚も我も生まれない。

 だから、大きい自分を言葉でまず、しっかりと呼ばないとダメ、呼び出す。言葉通りの自分になって、そして祈り続ける。「ありがとうございます」一言を唱え続ける。そしたら、真祈りに生きる自分。秘奥義の祈りをし続ける自分。後は何もいらない。与え続けて、受け続けて、実感し続けて、神我一体の本当の神さまと一体の自覚が深くなるだけ。無条件の幸せが大きく深くなるだけよ。

 だから、もう常に全体が一つ。全体が完璧な一つ、完璧な流動体一つ。バラバラはない。本当の一つにならないと。これが与え続ける自分の本当の生き方。大きい立場から与え続ける、これを忘れないようにするだけ。絶対小さい自分から出発しないこと。常に、全体を、全てを幸せにするために、必要なものを与え続ける生き方。秘かに真(まこと)の神さまを与える生き方、これだけよ。それが一言の「ありがとうございます」に全部含まれる。「ありがとうございます」って与えることが、祈ることが、愛することが、本当の幸せを全体へ全部に与えること。単に言葉じゃない。「ありがとうございます」が神さまの愛。神さまの全て。だから、真心こめて、歓び一杯で、最高のプレゼントをみんなに与える、この気持ちになることよ。それが一回一回「ありがとうございます」が、本当の価値あるものに変わると思う。

質問
 今のお話の中で、真(まこと)の神さまに「ありがとうございます」を与え続けるって、私は聞いたんですが、いいんですか?それが絶対の中心の大きな立場に立った「ありがとうございます」なんですか?

先生
 そうそう。真(まこと)の神さまは全体じゃない。全体に与えようと思ったら、真(まこと)の神さまに与える気持ちにならないと。全体と言っても末端の全体ではダメなの、真(まこと)の神さまに向けないとダメ、循環しない。交流をして自分と神さまの交流は、常に真(まこと)の神さまだけを相手に。どこを通しても、真(まこと)の神さまに与え尽くす。末端からどこから与えるにしても、何を通してもいいけど、最終は、真(まこと)の神さまに与え尽くす。途中で止まったらダメ、戻ってこない。真(まこと)の神さままでに届けたら全部戻って来る、無限倍になって。ここが大事なの。途中で止めたのは全部途中でストップよ。

 何を通してもいい。全体を通してでも、なんでもいいけど、真(まこと)の神さままで全部、与え尽くす。最後まで与え尽くす。最終が真(まこと)の神さまへ届ける、与えるというふうになったら、真(まこと)の神さまとの一対一の交流。これが本物。真(まこと)の神さまの全部を受け取れる。小さくなると途中で止めてしまう。

 例えば、宅急便で何か贈り物が来た。宅急便の配達人に、お礼をしたってダメなの。「ご苦労様、ありがとうございます」って、「はい、これ、お礼です」って渡してもダメ。奥へ、届けないといけない。一番の発信元へ。発信元へお礼を届けないと循環してこない。途中で、もう次は来ない。ストップがかかる。だから、同じ「ありがとうございます」を届けるのでも、一番大もとへ届けたら、贈り物が次から次へと届けてもらえる。だから、途中で止めたらダメ。みんな普通は、小さくなったら途中で止めてしまう。小さくなるほど途中で止まってしまうから循環が悪くなってる。だから、常に大もとまで。やっぱり一対一の関係よ。自分と神さまとは、一対一という関係に置いて、真(まこと)の神さまへ全てを与え尽くす。それで、全てを受け直せる。

 それで、「真(まこと)の神さまだけ!」っていう。他は相手にしないの。真(まこと)の神さまだけを対象にするのがいい。どこを通してもいいけど、全部真(まこと)の神さまの一部、部分。どこを通しても、真(まこと)の神さまを相手にしたら真(まこと)の神さまよ。途中だと小さい偽物になる。

質問
 その話が人のお祈りの邪魔をしないって話にもつながるの?途中で止まってたってことなの?

先生
 うん。途中で小さくなってると全体が見えない。小さくなったら全体が見えない、部分だけになったら他のことがわからない。他にどういう影響を与えるかもプラスを与えるか、与えないとダメなのに与えていないとか、邪魔することも多い。だから、全体を見れる状態だったら、必要なものをそれぞれに与え続けられる。だから、常に全体を支えるっていう、全体に必要なものを的確に与えるという気持ちで大きく眺めないとダメ。

 真(まこと)の神さまへ全部お返しするというのだったら、全部、足りないところを神さまが循環して支えて、ちゃんとしてくれるけど、途中で止まったら必要な知恵も力も出てこない。部分的なものしか流れてこないからわからなくなる。だから、まず、自分が与えないとダメ。真(まこと)の神さまへ、全体へ。それで、必要なものが流れ込んでくるから全体を支える力、みんなを支える力になる。

 だから、自分をまず空っぽにしないと流れ込まない。これが掴んだものであったら、空っぽにしてなかったら流れ込まないの。だから、最初は全部、与え尽くす、これどこへ与え尽くすかでしょう。掴んだものを与え尽くすのは、やっぱり、神さまに与えないと消えないから、まず。空っぽになれないから。過去の溜めたものを誰に与えても消えるのと違う。人に与えたら溜まってしまう。自分を空っぽにできない。そこから何倍にもなって返ってくると余計に溜まってしまう。

 だから、まず、自分の中を空っぽにする意味で神さまへ向けないとダメよ、全部。神さまに向けたら全部空っぽに消える。そこへ、必要なものが流れ込んでくるから。必要な力も何でも湧いてくるように与えてもらうから全体を支える力が出る。みんなを支える力が出てくる。だから、常に全体を見て支えようとして、それを繰り返して本物になる。それで支え合いという、常に支え合いっていうのがいつもそうよ。神さまの世界は支え合いだけよ。それも全体を支えようとする支え合い。部分じゃない。部分を支えるのはダメ。全体を支えないとひっくり返る。

 鼎(かなえ)の三脚というのと同じ。三本脚があって、お湯が沸いてるでしょう。煮立っているお湯が水平にあるわけよ。全体を支えるのでなかったらひっくり返るよ。一本脚だけで支えたら、ひっくり返る。だから、部分を支えるのはダメ、全体を支えないと。いつも全体を支えるという気持ちでバランスを取らないとダメだから。それで、どの脚を長くするか、どの脚を低くするかって、常に加減しないとダメ。それが必要なものを与えるという生き方。

 だから、いつも全体を眺めないとダメ、全体をいつも眺めて、何が必要か見抜かないと。それで、必要なところを支えに行く。これが全体を支える生き方。小さくなったら自分のこと、周りしかわからない。脚が三本あるのに一本しかわからなかったらダメ、一本支えてもダメ。常に、全体をいつも大きく眺めないと、三本とは限らない。支える脚がたくさんあるかもしれない。これは、例えだからそういうけど。大きい全体は脚がたくさんある。

 だから、大きくなるほど、全体へ心を配らないとわからない。やっぱり、周りの一人一人の必要性を見抜くのでも大変。この人に今何が必要かでしょう。欲しいものを与えたらダメよ。必要なものを与えないとプラスを与えたことにならない。何でもあげたら喜ぶからって必要なのと違う。必要なものを与えるのが支える働き。これも難しい、何が必要かって。甘やかして欲しいもの与えたら間違ってる。

 肉体を道具として見るのだったら、道具をどう扱うか?名刀を使わずに、床の間に飾っておくのが正しいかって、そうとはいえない、そうでしょう。必要な時に使いこなせないとダメだから飾っておくのがいいのと違う。必要な時、自由自在に使いこなせるようにしておかないとダメ。もう、全てがそうよ、道具ってみんなそうよ。必要なことに使いこなせないとダメだから。

 だから、自由自在に何でも使いこなせるようにしておかないと。どこで、どういう必要性があるかは本当は予測がつかない、一瞬一瞬変わる。だから、何でもできるようになっていないと本当はよくない。どんなことでもできる自分にしておかないと。心さえ自由自在だったら、初めてのことでもなんでもできる。そこはもう神さまの知恵も力も降りるから。循環するから、初めてのことでもできる。でも、過去の体験、経験を掴んで、そこに頼る人は新しいことできない。部分に囚われてるから循環しなくなる、神さまの知恵も力も。だから、自分のできること、したいことだけしかできない。すると何が必要かって見抜けない。

 やっぱり、自由自在心って必要よ。絶対、過去を掴んだらダメ。過去に頼るんじゃなしに神さまの知恵に頼らないと。必要なものは神さまの方から流れ込んでくる、全てそうよ。どんな必要なものも神さまから流れ込まないと、みんな偽物。だから、過去のことを言ったらダメ、本当は。過去はこうだったからこうすると言うのは間違い。神さまの流れをすっと持ってこないとダメだから。そうしないと過去消せない、我も消せない、虚も消えない。神さまがすっと現れたら、一大循環の調和の世界。だから、過去を一切相手にしない、新たに、新たに。新たに、新たに必要なことをさせてもらう、自由自在に動かないと。

 だから、今、何が必要ですかっていうふうに問いかけないと。これが、「ありがとうございます」よ。「ありがとうございます」は全託。全てをお任せする全託。恩返しの行、絶対奉仕の行って、そういう気持ちになるのが「ありがとうございます」でしょう。だから、神さまが使える。何にでも自由に使えるようになる。だから、「ありがとうございます」を真(まこと)の神さまに向け続けて、与え続けないと。これが一番の根本、一番大事なこと。

 後は、新たに、新たにって神さまを受け直すだけ。受け直すと言うよりも神さまに代わって、神さまの願うことを与え続けると自然に循環してくる。後押しで循環して、無限倍の力が出てくる。

 まず、過去を掴んだら我だから、過去を絶対掴まないこと。新たにというのは、やっぱり、与え続けて新たになるから、自分を与え続けないとダメ。大きくよ、それも大きい立場から与え続ける。そしたら、我の無い生き方。

 だから、色んな角度からの練習、生き方の練習が必要になる。難しく考えたらできない。難しく考えるのは、みんな、我の自分。本心の自分は、「ありがとうございます」だけで、神さまに全部お任せよ。新たに新たに、神さまに動かしてもらう自分。どれだけ、「ありがとうございます」に絞り込めるか、徹底できるか。

 本当は、自分のしたいことをしてたらダメよ。全体を眺めながら支える練習。みんなを助けに回る方が正しい、本心に早く戻る。何を与えに行くかよ。必要なものを与えに行くのが正しい。

 仙人の世界に色んな仙人がいてるでしょう。カジカを鳴き声を聞いて楽しんでる、カジカ仙人ているでしょう。これ自分のことしか考えてない。これだったら、あまり進歩しない。ヤギを飼っていて、ヤギのお乳を施す人、ヤギの仙人は愛がある、進歩が速い、高く上がる。自分のことを考えている人はダメなのよ、上へ上がれない、本心に戻れない。他を幸せにするために与えていく人が、上へあがっていく、本心に戻っていく。

 例えば、日本からフランスのパリへ、絵の修業に行くという場合でも、友達二人が助け合って絵の勉強をしましょうと行くでしょう。向こうで働きながら絵を勉強するって大変だから、一人が犠牲になって働く。生活費を稼ぐ。一人は絵の勉強をする。どちらがいいか?働いて支える人が、神さまから見たら上になる。絵を描いて一流になっても、我の強い自分。支えて助けた人が、我の無い高い自分に戻る、本心に戻る。

 だから、この世でどんな仕事をしたってダメよ。我を積み重ねる生き方だったら、本心から遠ざかるから、幸せから遠ざかる。それよりも必要なことで周りを支えに行く人が、我の無い、早く本心の自分に戻って幸せを大きくする。だから、この世で何かをするのが正しいのと違う。我を消す方が正しい仕事。どれだけ速く我を消してもらえるか?我を消しただけが神さまのお手伝い。それで、本心の自分に戻って、一大循環の本当のものを与える、これも神さまのお手伝い。それも、循環を速くするほどいいから、循環を加速するのが本当のお手伝い。

 だから、我を消す修行よ。一大循環を加速するお祈りの修行よ、大事なのは。この世で何かをして、自分を偉く見せるのが目的じゃない。そんなことをしたら、我を大きく積み重ねるだけで終わってしまう。陰で陰で支える練習。自分を出さない修行がいい。陰で支えて護るのが本当の修行よ。守護霊さん、守護神さんの修行もそう。高い神さま、救済の神さまは全部自分を出さない。陰で陰で下から支えて、みんなを押し上げる修行。だから、本心に戻る。上から説教して偉ぶってるのは、下へ堕ちていく全部。本当の陰の働きをしないと本当のお祈りで支えて支えて、みんなを押し上げるのでないと本心に戻れない。

 本当は、みんなを支えようという生き方をとったら、必ず、みんなから支えてもらえる自分に変わる。この世でも、百人の人に支えてもらえる自分になったら、本心の自分に戻ったのと同じくらい。百人の人が自分を支えに来てくれたら、本心の自分と同じような価値がある。そのぐらいになったら本心の自覚が深くなる。その代わり、自分が先にみんなを支えていかないといけない。周りの人を支えて支えて支え続けたら、そういうふうに変わる。まず自分が支えないと支えてもらえない。自分が先よ。だから、自分を支えてくれる人をどんどん増やすことよ。支え合いの中に本当の幸せがある。絶対何の心配もないようになる。

 周りの人を身近なとこから、小さいことから順番に支えていく。支え合いの練習をしていくと、最初は小さい支え合いの支えをしてくれる、みんな。それが段々と自分の命を身代りに出してもいいからって、そうでしょう、「あなたが死ぬのだったら、私のこの寿命を差し上げます」というぐらいの人が、どんどん増える、そこまでいくの。本当の支え合いになったら、みんなが自分の寿命を投げ出してくれる。早死にするとこでも伸びる。必要だったら、いくらでも伸びる。みんなの寿命を分けてもらえるから。だから、百人に支えてもらえる自分を目指す。万人っていわない、百人でいいの、百人に支えてもらえる自分を目指して、それで本心の自分に戻す。

 でも、それをしなかったらみんな、そうでしょう、孤独になって誰も助けてくれない人って、世の中に一杯なの。そういう人が大半、99.9%がそうよ。そんなん不幸。本心からどんどん遠ざかってしまっているから。孤独になったらダメ、誰一人面倒見てくれないようになったら、もう大変。地獄へ行く。それで支え合いの練習が一番大事な勉強。自分を表に出さずに、影でみんなを支えるのがいい。

 ありがとうございますの祈りの神さま、余りにも大きい。本心の自分に戻って弟子入りするの本当は。そこが弟子入りの出発点。それで大きく助け続けてもらう。「秘奥義のありがとうございます」祈れる自分まで引っ張りあげてもらうのが本当に弟子入り。そんなん肉体の枝葉の自分の道具の弟子入りじゃないの、本当は違うの。本心の自分が神さまに弟子入りしないと。本物のお祈りに変わらない。ここへ座ってお祈りする、肉体の自分が座ってお祈りするのと違う。本心の自分がここへ座ってお祈りするのよ。命懸けて、本当の神さまに弟子入りを志願してするの。同じことをしているようでも、やっぱり自分の立場によって全部変わる。どれだけ本心側に自分が立って、生きようとしてるかよ。大きい立場に立って生きないと間違う。肉体の自分を生きてるのは我の自分の生き方よ。小さいから本心じゃない。常に本心の自分を生きようとして、しっかり祈って、全ての道具を使いこなさないと。はい、終わり。

 音声はこちらからどうぞ
 https://youtu.be/Gjs2mUaJCg0

 宇宙神ありがとうございます


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11月護摩2週目 by kawakami 2024年11月15日(金) 23時44分
PC

令和6年11月2週目護摩焚き河上さんのお話し前半(20241110−前半)
 (最初から〜約30分まで)

司会者
 河上さんへの質問をさせて頂きます。8件ほど預かっております。
 先月の護摩焚きの河上さんへの質疑応答の中で神さまからの彗星が来ているとの事がありましたが、この事について詳しくお話しして貰えませんでしょうか?

河上さん
 ありがとうございます 又、お会いできて嬉しく思います。
 
 彗星というのは色んな意味で地球という舞台の変化。舞台で言うと第1幕、第2幕、第3幕、そして終幕、大体4つに分かれるわけですけども、幕引きを表す新しい時代の始まりを表すんですね。だから人類の歴史を見ても大きな彗星が横切る毎に大きく時代が変わって行くんですよ。これ歴史好きの方だったら、ちょっと歴史が大きく変わる時のその時の天体の動きを見て頂ければ分かるんですけども

 今回は人類が予測しない彗星。その飛び方の、彗星なんて無いんじゃあないかっていうふうな彗星なんですね。それは神さまの地球霊王様の方で、もう松下先生との約束ももう良いんじゃあないかと。という事で地球霊様の意思表示として出て来た彗星なので神さまの彗星と言いました。

 それどういう事かと言うと、僕が11才の時に先生にお会いしたわけですけど、丁度その頃、先生と地球霊王様との話し合いがあった頃なんですね。で、先生からは、地球霊王様も人類の自由意志に任すっからて言ってきているけど、「もうちょっと待ってください。人類の方で真祈りをして」という事でここまで来ています。それでここまで来たんですけど6年間のオマケがとうとう終わってしまったわけですね。

 本来は先生が亡くなられるのは2015年の8月の予定でした。それを特にお願いして6年間延ばして下さいとお願いしたんですけど、3年になったわけです。そこから又、6年という事で色々あるわけですけども、兎も角、6年間のオマケが終わりましたので、これからは何が起こるかと言いますと、人類の自由意志に地球霊王様がこの地球という舞台の中では人類の自由意志に全部任せると。神さまの方から影響を与えて止めたりですね、もうどうこうはしないと。もう人類の自由意志で好きにやれというそういう時代に入ってしまったわけです。
 
 ですから個人的に言いますと、いわゆる真祈り、真(まこと)のプラスの言葉を選び続ける人はどんどん若返って行きますし、逆に本当に若い人でも人を責めたりね、マイナスの言葉。或いは自分ではマイナスの言葉とは思っていないけども、色んなマイナスの言葉をするじゃあないですか。例えば「自分がしてやった」っていうのはもうマイナスの言葉なわけですけども、普通は俺は責任を果たしたみたいな勘違いをしているじゃあないですか?でもそういう「自分で分かっていようが、分かっていまいが」、発したマイナスの言葉通りの運命を自由に選べるように、神さまがこれからはされたという事です。
 
 ですから無意識であろうが、意識的にあろうがマイナスの言葉を出した方はどんどん老けて行って死んじゃうと。それが病気の形か運命の形とかは色々ありますけども、死ぬ人は死ぬし、若返る人はどんどん若返って行く。それは医学的に言うと遺伝子の構造の変化で分かりますので、誰の目にも分かり易い形にはなってきますけども、そういう時代になったわけです。
 
 だから怖がらして言うと、マイナスの言葉をちょっとでも発したら、痛い目に会うぞという事ですけども、本当は一番嬉しい時代に入ったわけですよね。印可書を素直に奉読出来たらどんどん幸せになれる、どんどん元気になれるという事です。只々、それだけですので。ただ、今までだったらオマケがあったのでね、少々、「あいつサボってんな」とか、「俺があれをしてやったんだ。」とかね、「私がこんだけ寄付したんだ。」とかね、色々ありますけども、そういう言葉は全部マイナスの言葉なんですね。それ分からずに出して言うってもそのマイナスの言葉を出して言うたら、出しただけの物がパッと現れて来る、ある意味分かり易い時代になったという事です。そういう意味です。
 ありがとうございます

司会者
 ありがとうございます
 次の質問です。何年か前の河上さんの質疑応答のお話しの中で、真祈りの参考になる映画としてレ・ミゼラブル、マトリックス、十戒、ベンハーをあげていましたが、そこでお聞きしたいのですが、真祈りを深める参考の小説は何かありますでしょうか?

河上さん
 あー、真祈りを深めるというプラスの側の小説はないんですけども。カラマーゾフの兄弟とかね、いうのはマイナス側で悶々と苦しむ姿を本当に克明に描いてあるわけですよ。で、ある意味読みにくい小説でもあるんですけども、あれを読むと悪魔がね、要するにマイナスの言葉の集積ですね。悪魔が如何に囁くのかという事が分かり易い。

 で、何時も言うように全部、なんで自分の責任かというと、悪魔は囁くだけ。説明するだけです。「競馬したらお金儲けできるよ。」とかね、「パチンコしたら儲けれるよ。」とか、「この株買ったら儲かるぞ。」とは言いますけど、「株を買いなさい。」とは言わない。「パチンコをしなさい。」とは言わない。分かります?「競馬をしなさい。」とは言わないんです。或いは、「不倫をしたら楽しいぞ。」とは言いますけど、「不倫をしろ。」とは言わない。「あの女と寝ろ。」とか「あの男と寝ろ。」とは悪魔は言わない。何時も悪魔は責任を持たない。責任は全部その人、それをした人が持つようにしか、悪魔の力って無いんですよ。悪魔に本来力はないの、囁くだけ。分かります?
 
 「このパチンコしたら儲かるよ。」とか「この株かったら儲かるよ。」とかいうのは別に力ではないよね?只々、囁いただけ。それに乗る方が悪い。分かります?それだけですよ。何で乗るかと言ったら、自分の中にそんな楽したい狡い心があるから引っ掛かるだけ。
 
 アダムとイブの話でもそうですけどね、蛇はそのリンゴを食べたら神さまの様になんでも分かる知恵がついてって、それしか言わないわけでしょう?で、リンゴ食べなさいって言ってないわけです。で、神さまはそれをよくご存じだから、アダムとイブの本当の気持ちを確かめるわけですね。そしたらイブの方は蛇が言ったから食べましたって嘘つくわけ。
 
 神さまは「リンゴを食ったか食わないか?」って聞いているわけでしょう?ほんだらリンゴ食べましたか、食べませんでしたかだけや。それ以外言う必要ないのにね、「蛇が食べって言うから食べたんです。」「蛇が誘惑したから食べたんです。」みたいな感じで言いわけするんです。それも人の人のせいにしてね。
 
 ほんでアダムはイブの様に(責任逃れの言い訳をして)「あなたが私の為にお作りになった女がこのリンゴを食べろって言ったから食べました。」ってやっぱり人のせいにして逃げるでしょう?それを原罪って言うんです。何で原罪って言うかと言うと、肉体を持った途端に自己保存本能が出るわけですよ。

 先ず自分の都合を優先するというのを自己保存本能と言います。その自分の都合を優先する心を肉体を持った時に一緒に持つんですよ。又、あれ程度それを持たないと肉体を維持できないからね、持っていいんですけど。
 
 だからちいちゃい子はね、ちょっと都合悪くなったら泣きながら「お母ちゃんのせい」って、お母ちゃん叩くやないですか?何でも自分の都合が悪くなったら「お母ちゃんのせいでこうなった。」って言うじゃあないですか?それはちいちゃい子の間はそれで赦されるわけですよ。でも大人になってから「あいつのせいでこうなったんだよ。」っていうのはもう都合悪いわけです。ね?
 
 でもみんな大なり小なり「何々のせいでこうなった。」って言うのね。或いは「あいつが怠けているからうちの会社は儲からんから給料上がらへんのや。」とかね、色々あるじゃあないですか?その具体的に言わないでも廻り回って、やっぱり周りのせいにしているって言うのがみんな大半なんですね。
 
 で、新しい時代に入りましたから、そのマイナスのせいにした途端に色んな病気とか事故とかね、色んな運命が現れるわけですけども。その小説で真祈りを書いている小説は、小説としては五井先生の「釈迦とその弟子」がそれに近いです。でも具体的に真祈りと書いていないのでね、やっぱりそれだったら逆に人間の狡さとか一杯書き込んであるカラマーゾフの兄弟とか分かり易い。それの真逆をすればいいんだからという事なんですけども。

 ただ、色んな意味で人間の一生って時間が限られているわけよ。だから色んな体験を積んで色んな勉強をした方が良いんだけども、直接体験をするというのはある意味自分で罪を犯す。人のせいにしてしまうとか色んな事が起こるじゃあないですか?それを回避するためには別にどの小説とは言いません。村上春樹さんの小説なんかいいと思いますけど。読むと色んな人生体験が同時に出来る。同時に出来ながら小説を読んでいるだけだから。あんまり自分でマイナスの思いを出さないという事で。本読むのが好きな方はね、カラマーゾフの兄弟か村上春樹さんの1986だったかな?ちょっと忘れちゃったけど色々ありますので、ノルウェーの森とか色々(夏目漱石のこころとか吾輩はねこであるとかそれから等々)ありますので、読まれたら真逆のマイナスを人間てこうゆう風にしてマイナスを出して行くんだなっていう事が分かり易いとは思います。でもわざわざ読まなくっても印可書を奉読していたら良いんだよっていう事ですけど。でも人間て色んな物を見たいからね、知りたいからね、そういう意味では直接自分が行動して体験して大変な目に会うよりは、まだ小説読むほうがマシだとは思います。

司会者
 ありがとうございます 次、呼吸法について質問いたします。
 
 人が多いい場所では鼻から息を吸ってゆっくり口から吐く呼吸ではなく、鼻から息を吸って鼻からゆっくり息を吐く呼吸をしながら印可書を心の中で奉読しています。やはり口から吐く方が良いのでしょうか?その違いについて教えて下さい。宜しくお願いいたします。

河上さん
 はい。これはね本来呼吸法は完璧になると自由自在なんです。で、鞴(フイゴ)の様にという?籥(たくやく)の如しと言うんですけども、?籥(たくやく)とはフイゴの事なんですけどね。フイゴの様に陰陽五分(いんようごぶ)の呼吸が最終は理想なんです。ただ、最初から陰陽五分って言うとね、要するに陰陽五分の呼吸ってみんな本能的には知っているんですよ。だからばーって走るでしょう?そしたらはっはっはっつってやるじゃあないですか?あれは陰陽五分の短いやつね。そういう走った時でも長めの陰陽五分の呼吸が出来たら良いんだけどしんどくて中々出来ないのね。

 だから最初は速く吸って、で、ゆっくり吐く。それを口からだけでも良いし、鼻からだけでも良いしやる。ほんで、ただ、早く吸ってゆっくり吐くのを体に滲みこませ易いのは、鼻からスッと吸って口からゆっくり吐くみたいな感じなので、ちょっと導入の部分で説明しましたけども。本来呼吸法というものは自由自在に陰陽五分になれば理想です。それは必要に応じて長く吐いて長く吸うか、短く吸って長く吐くかというのは必要に応じて自在に出来るようになります。
 
 で、何で呼吸法かと言うと、例えばプラスの言葉を発する時でもその呼吸法に乗せていくと物凄く意識が広がるんですよ。それで呼吸法を言っています。ただ、呼吸法さえしてたら良いんやなって言い訳した途端全部崩れるんで、あんまり呼吸法については説明しなかった。ただ、もういよいよ時間切れで、もうここに集う事が出来なくなる時代が始まります。電気も止まっちゃって燃料も来なくなって、電車も新幹線でも一日に何本しか走らないみたいな大変な時代がちょっと狂うとなります。ならずに済ませたいと思っていますけどね。そうなった時にそれぞれの場所で皆さんがご自宅で或いは職場で、それぞれの場所、或いは避難所でこの護摩のような形で、別に火を焚かなくても良いんですよ。護摩のような形で真祈りが出来るように色んな事を今しています。
 
 だから紙の護摩木も丁度いい機会だったんでして頂いているのは、もう護摩が出来ないというのは護摩木が手に入らない。じゃあ紙で書こうと、その場でシュレッダーにするか手でちぎるかしてやるっていう事でしています。ほんでどうしても、燃やしたい人はね、護摩木がこの先無くなったとしたら割り箸で良いです。割り箸にありがとうございますってかいて持ってきてください。それを燃やせばいいと思うんですよ。どうしても紙なんか頼りないわーっていう人は割り箸に書けばいいから。割り箸はたくさん売っていますからそうして下さい。(また、割りばしは、端材→はざいを使って作られていますから、環境破壊にはならないです)。
 
 色んな事を自由自在に工夫してやって頂いたら良いんですけど、最悪の場合は電気が止まってね、本当に燃料も割当制でちょっとしか手に入らない。だからここに皆が集まるのに集まりかねる事態がすぐそこに来ているんですよ。そうならずに何とかこう、先生の言うウナギのようにね、ぬらりくらりと避けて行きたいんですけども。一応その為に色んな形の護摩が、皆さんの中で自由自在に出来るように持って行こうと思って、色んな事をしています。
 ありがとうございます

司会者
 ありがとうございます 次の質問です。
 母が腫瘍の末期と言われ今入院しています。退院後は家で介護をするつもりです。初めての経験になりますので何かアドバイス頂けたらありがたいです。宜しくお願い致します。

河上さん
 介護は兎も角やり過ぎない事と、出来るだけ本人に少々嫌がっても本人にさせる事が大事です。要するに人をあてにする心を持たした途端にボケます。で、身体が動かなくなります。それでお下の世話が必要になります。だからその方が、人のせいにしたり人をあてにして生きて来られた方だったらそういう症状が早く起こるわけですね。で、最後まで自分で自分の事は何とかしようとしている程元気で生きますので、又、症状も回復しますので、先ずは出来るだけ自分でさせるように褒めたり、そやしたり、怒ったりしてやって下さい。ほんでやり過ぎない事です。

 で、抱いたりお風呂に入れる時に力を入れる必要がある時は、先週お話ししましたように歯を食い縛らずにね、歯を食い縛らずにフーッと。だから呼吸法が要るんですけど、呼吸法の時も歯を食い縛ったらダメなんですね。歯を食い縛るとあれが出来ないんで、フーッと吐きながら力を込める。力むんじゃあなくって込めるという事をして頂くと、何て言うんですかね、楽にやれるようになります。
 
 で、野球選手でも見てますとね、ホームランバッターでも歯を食い縛って打つ人と食い縛らない人があるんですよ。で、食い縛らない人ほど成績が良いんですよ。それ位歯を食い縛るというのは力むになるんで、やっぱり自分の力という段階で色々と本来の力が発揮できないんですね。
 
 今話題の大谷選手の打つとこを見ておりますと、歯を食い縛ってないの。ある意味天性のもんですよね、スポーツ選手の場合はね。でもそこまで出来ると体が力まないから大谷選手の見てるとあんなボール球でもホームランにするのとかね、凄い事が今年一杯ありましけど、あれは歯を食い縛らずに力まずに力を出しているからです。それ位あれは上等の見本ですけど。
 
 皆さんの普段毎日のお通じの時ですよ。あそこが硬くなった時に歯を食い縛ばって力むんじゃあなくって、息を吐きながら歯を食いしばらずに、フーと息んでしたら出る物は出ます。だから毎日のその辺から練習していけば良いと思います。それも歯を食い縛らないというのが呼吸法の奥義ですので、色んな意味で自分なりに色々と工夫していくと分かってくる事です。
 ありがとうございます

司会者
 ありがとうございます 次の質問です。二つ質問を頂いていますけど、一つずつ行きます。何時もありがとうございます 質問を二つお願い致します。
 
 一番。神さまからの正しい導きを受けたいと思いながら自分自身の心を正常に保つことが中々に出来ずに、自分自身の波長の合った世界から種々様々な波が感応して来ます。印可書を奉納し続けて神さまの波に少しでも近づく努力をし続ける事で、神さまの正しいと思える導きを感応できるのでしょうか?又、正しい導きとはその判断はどのようにするのでしょうか?
 
河上さん
 だから先ず印可書の奉読はさんざん説明してきたので当然して頂くとしてですね、呼吸法も説明したのでそれなりにして頂くとして、その判断基準ですね。判断基準は兎も角、「言い訳しない事」そして「人のせいにしていない事」目的と手段を入れ違えて、言い訳ですね。言い訳というのは大体、目的と手段を入れ替えて、こうしてるからいいじゃないかとかいう感じですから。まずその言い訳しない、あるいは人のせいにしないというのは何かというと、人の働きをあてにしなければ、人のせいにしないのね、やっぱりあてにしてるから、「あいつ怠けてるやないか。」とかね、「もうちょっと働いてくれよ。」とか、「もうちょっと夫婦やねんから手伝ってくれや。」とかね、それはあてにしてるからよ。人の働きを当てにしてたら駄目なんです。

 真(まこと)の神さまそのものは自分だから、そんな人の働きをあてにしなくともちゃんと出来るし、必要だったら、みんなが手伝ってくださるということです。それを分かっていればいいです。だからまず、自分の都合は一切横に置いといてというのをされるとね、判断基準としてね、間違いないと思うんですね。

 それで、それをするための一番の基準は何かと言ったら、先週言いましたように、「一生誰にも認められなくて誰からも感謝されなくても、誰からも頼りにされなくてもいいんだ」と。もう本当に「神さまだけであって、あとは別に誰も分かってくれなくてもいいんだ」って思えたら、あんまり周りをあてにしないし周りのせいにしないですよね。

 やっぱりどこか、「こんだけしてるのになんで?」ってあるわけですよ。それで、小さい会社の社長ほどそうなのね。「こんだけ頑張って社員のためにしてるのに、なんやねんこれは!」と思って大体みんな病気になっていく。それぐらい人をあてにしない。で、「一生認められなくていいって、誰も評価してくれなくていいんだ」って、まず諦めることです。そうすると、人の働きをあてにしなくなります。
 ありがとうございます

司会者
 ありがとうございます 次の質問です。
 最近、近くの若い男性が自殺をされましたが、この方はどのような世界へ行かれたのでしょうか?もし苦難の世界へおられるようなら、私達はどのようにすればよいのでしょうか?

河上さん
 自殺というのは、自分から死ぬというのはまずないんですよ。大概自分の心にあるマイナスと感応してね、マイナス同士がやっぱりひっつくんです、磁石のようにね。集まるというんですか?その集まったエネルギー体の中に、台風のように、台風ってそうでしょう?最初小さい風がどんどん集まってきて渦になって大きな台風になるじゃない。ああいう感じでマイナスも台風になってきて、それに吸い込まれちゃうんですよ。自分がマイナスを持ってるから。要するに人を当てにしてるから。人の働きを当てにしていると吸い込まれるのね。

 だから生活保護を受けると駄目だというのは、生活保護は人の働きをあてにして、受けてるわけで。本人の自覚とは別にね。そうでしょう?みんなで働いて作ってくれた税金で、作ってくれたお金で自分が生活してるわけですから。人の働きをあてにしてるでしょう?

 そうすると、そういうのに巻き込まれて最後は自殺になる。その自殺になる一番大きな理由は、さっき言った、「認められたい」。大概の人はね、みんなね、マウント取りに行くの。大なり小なり、色んな理由をつけて言い訳しながら。自分の方が上だと思われたいわけですよ。虚栄心というんですけども。

 それって「『自分が』認められたい」でしょう?それが大きなマイナスなんです。そういうのがある人は、どうしても自殺のエネルギーに引き寄せられて自殺しちゃうんですよ。すると自殺したことでどうこうじゃないんですけど、そのエネルギー体の世界に行きますから。で、そのエネルギー体の世界は、人の働きをあてにするでしょう?だからみんな動かない。
 
 で、みんな動かないと、この世と一緒で食べれないし、寒いし辛いしになるんだけど、「あいつが動かへんから、俺はこんな寒いんや。」ってまた文句言ってね、また下に落ちていくみたいな、そういう世界に入っていきます。そのときに自殺した時の、首吊りとか色んな種類ありますよね。その種類も、「せい」にするんですよ。あのロープのせいで首つってしまったとかね、あそこに包丁があったから、ついついカミソリがあったから腕を切ってしまったとか、もう何かのせいにする癖がついてる、癖というか「せい」にしちゃうんですよ。

 で、「せい」にしちゃうから、またその「せい」にした部分だけの感覚は残ってね、自殺した時の首を吊った時の苦しみとか切った時の苦しみとか、それがずっと続くんです。なんで続くかといったら、自分が掴んでるからいうことなんですね。そういう状態に入っていかれます。
 はい、ありがとうございます

司会者
 次も二つ質問が来ています。

質問1
 河上さん、いつもありがとうございます。皆さんが真祈りを深めるための深い質問をなされておる中、個人的な質問をさせていただくことをお許しください。

 私は母といると生きる力を奪われると感じています。子供の頃にかけられたことは、頑張りなさい、努力しなさい。可愛くて優しくて賢くて、一杯お手伝いもして母の心も労われて、何でも我慢できる強い子。そうあれば喜ばれ、そうでなければ怒られる。そこを抜け出せずにいることで生きる力を失っているのではないかと思います。母のそばに寄りたくない、母と話したくない、母を気遣いたくない。自分は自分の宇宙を創造したい。私はどうすれば良いのでしょうか?

河上さん
 はい。これはね、お母さんの念力に縛られてるんですよ。親子だから響きが近いですから。顔形が似ているようにね、血液型の遺伝子が似てるように。だから近い周波数の念力で縛られると、中々抜け出せない。もう本当に企業、外国へ留学行くとか、働きに行くとかね、いうぐらい。だから別に日本でも遠くに行って働く。お母さんのそばから離れちゃったら良いですよ。そしたら影響受けないです。まずそれだけですね。

 だからお母さんに認められたいとか、どうこうは全部捨てたらいい。もうお母さんからは、「あんな子はあかんわ。」って言われても大丈夫と思い切れたら離れることができます。でも、お母さんがどう思うかって気になってる間は、お母さんの念力に縛られて堂々巡りします。
 ありがとうございます

司会者
 ありがとうございます 次の質問です。
 
質問2
 今の苦しみを脱するために色々考えました。今ここに全てがある。宇宙には全て用意されている。自分がどれを取り出すか、自分の希望でなくても発したものが間違いなく自分に届く。でも、自分の欲でプラスを引き寄せようとすれば、同時に宇宙にマイナスが生まれ、やがて自分に戻ってくる。振り子を大きく振りすぎると、戻ってきたマイナスで人間すらやめたくなる。どうすれば中庸を生きることができるのでしょうか?

河上さん
 はい。もうこの中庸を生きるというのが、先生が老子様が聖徳太子様が、もうあの道元さんがってみんながね、みんな提唱されたことなんですけども。法然さんもそれを提唱されたんですけど、中々みんな、その、中(ちゅう)に、中(ちゅう)に、というところがね、分らない。それは絶対の中心という意味なんですよ。絶対の中心を知るためには、何かというと、ともかく自分の都合を捨てなくちゃいけない。自分の都合を捨てられたら絶対の中心に立てるんですよ。自分の都合を捨てるためにはどうするかと言ったら、判断基準としては言い訳してるとか色々ありますけども、まず本当に「誰にも認められなくていい。神さまだけが分かってくれたらいいんだ。どんな評価もいらないし、どんな仕打ちにあっても大丈夫。」って思えたらいいんです。それって別の言い方したら、「神さまが今を一番良いようにされている。」ということなんですね。そこを分かるか分らないかだけです。

 それって、神さまに対する「信」ですよ。神さまが全知全能で絶対の愛でね、本当に優しい愛深い方だって信じ切れたら、愛深い人が、このことが必要で自分で運命として体験させてるんだと思ったら喜べるわけです。

 学習塾で言うとね、数学嫌いな子がね、でも数学しなくちゃいけないんでしょう?本当は嫌がってるんじゃなくて、できるだけ喜ぶ方法を考えてしなくちゃいけないわけじゃないですか、必要なんだから。でも逃げ回るでしょう?そういう感じで逃げ回っていけば逃げるほど自分の都合が優先されてきて、今質問されたように大きく増えて、なるわけですよ。

 で、中(ちゅう)につくというのは本当に誰にも認められないし誰にも評価されないという立場なんです。だから、縁の下の力持ちになれとかね、捨て石になれとかって言うんですけど、絶対奉仕というんですけどね。もう全てを支えるというのはそういう意味なんです。そこにまず、もう一生認められなくていいんだよって。誰も評価してくれなくていいんだって。神さまだけ分かってるんだからいいんだって思えたら抜け出せます。で、中に立てます。
 ありがとうございます



令和6年11月2週目河上さんのお話し−後半(20241110−後半)
  (約30分〜約1時間(エンド)まで)

司会者:ありがとうございます 護摩木に関する質問がいくつかあったんですけどwさんの方からまとめてくださってますので、wさんお願いします。

質問者(wさん)
 ありがとうございます ここからは、護摩紙について質問させていただきます。

 その前に先週の護摩焚きの後に河上さんから伺った話の確認をさせてください。
「護摩紙に変わっても護摩木同様、奉納枚数を自己申告してください。護摩木の数と合わせて焚き上げ枚数にカウントいたします。」この内容でよろしいでしょうか?

河上さん
 いいです。先生からは300万枚の護摩ということで言われています。300万枚でいいですかね、300万枚の護摩と言われてるわけですね。それをその色んな未来があるわけですよ、今、人類が選べるね。その中に全然紙が無くなる時代がある。その時に紙無しで、護摩木無しで、護摩をしていきたいんで、色んな意味で色んな種類に振り分けて、そのうちに、印可書奉読だけで護摩なんだっていう風に皆さんが確信を持てるようにね、色んな方向を今作っています。そのためです。

 できたら今の生活のようにね、木もあり紙もあり電気もあり、この幸せな生活が続くように持っていきたいんですよ。でも人類がどう選ぶかによったら、もうあっという間にあっという間に来ますから。その時にあっという間に来た時に、本当にどんどん、みんなが真祈りを放棄してね、崩れてしまわないように。そのあっという間に来たときにこそ、真祈りで一気に持ち返したいんで、色んなやり方を今しています。そういう意味です。はい。

質問者
 はい。その時のお話で、年間100万枚毎年達成していたっていう話をした時に、今おっしゃったようにきっぱりと、「松下先生は300万枚という数を下ろされた。それは今も変わっていない。」ということで、その…

河上さん
 いや、だから、みんな真祈りしてくれたらね、みんなの心にそれが分かるはずなんだけど、分らないだけです。で、みんなの自由意志を縛れないから、あんまり強く言わないだけです。どうぞ。

質問者
 その300万枚に関しては、もうこれからそれぞれが自問自答して向き合っていく数だと思うんですけども、霊の洗礼という部分で、多分、今お話された、印可書奉読だけに絞られていくというのが霊の洗礼の部分にあたると捉えてよろしいですか。

河上さん
 はい。

質問者  
 そうすると、それまでの間のその300万枚というのは、どのように捉えていけばいいでしょうか?

河上さん
 うん。要は、この護摩の会場はね、大きな増幅装置なんですよ、メガホンのようなね、分かり易く言うと。で、「おーい」と言ったってあまり響かないけど、こうメガホンをしたら「おーい」で大きくなるじゃない。で、もっと大きいメガホンを作ったらもっと届くじゃないですか。そういう感じで、この護摩の会場というのは増幅する場所なんですよね。

 で、300万枚を達成すると「八百万(やおよろず)」になるんです。「三千世界、一度に開く梅の花」っていうんですけども、それが300万枚で、「三千世界、一度に開く梅の花」というのは八百万の世界、要するに「無限の無限の耀きが無限無限に一杯!」という真(まこと)の本心の世界に入るわけ。それの、この護摩の会場での象徴的な数が300万枚なんでね。先生は300万枚。それの理由については、よっぽどでない限り言うな、やったんですけど、今言ってますけどね。もうもういよいよ終わりなんでね。何でも明かします。そういうだけです。だから300万まで達成したら本当に変わると思いますよ、大きくね。

質問者
 はい。それを踏まえて、みんなそれぞれが自問自答して向き合っていきたい…、

河上さん
 そうそう、だからわざわざ嘘ついてね、1枚しか書いてないのに100枚という人はいないしょう、ここでは。だって、それは単なる自己顕示欲じゃないですか。ね?ここで自慢してもしゃあないんだから。自慢するということは既に真祈りじゃないからね。だから自己申告で十分、正しい枚数は出ると思います。

質問者
 はい、分りました。そこで護摩紙でのカウントは基本自由自在でいいと思うんですけども、今言ったように年間の焚き上げ枚数の目標を掲げた場合、ある程度のガイドラインがあった方がいいと思うんで、

河上さん:ガイドライン?

質問者
 はい。そこでちょっと質問なんですけど、ここからは。
 1枚(1枚の紙に)の10回宇宙神ありがとうございますと書く人がいたり、100回書く人がいたり、色々…

河上さん
 それをね、1枚と数えるか100と数えるかは本人は自由意志です。
 
質問者
 アッ、そこも自由意志で?
 
河上さん
 うん。でも、後ろめたいときは1枚と言ってください。はい。「いや、もう俺は十分祈りを込めてね、100回書いたから100枚なんだ。」という人は100枚でいいです。そうだけど、なんていうんですか、シャーッと書いてね、本当にシャーッと書いて100回書いたんだからっていう言い訳をしてる間は駄目です。だから自分で言い訳してるかしてないか考えてください。

質問:自分の中で真祈りを込めているという数を書けばいいと?

河上さん:そうです、そうです。

質問者
 はい、わかりました。となると、あとは細かい質問があるんですけど、多分今のお答えで全て収まると思うんですが、預かってきてるので読み上げていいですか

河上さん
 はい。

質問者
 印刷済み、あるいは広告用紙の裏側などに書く際、裏側だけで構わないか。その際、ペン等の色は何色を使ったらよいか?

河上さん
 だから広告用紙を使ってですね、別に今日び(最近)やったら、両面印刷してるやつもあるじゃないですか?だから両面印刷してるやつだったら、自分の中で分かり易い黒のマジック使うとかね。要するに、別に今の蛍光色の黄色を使って、ほとんど読めなくても自分がきっちり書いてあったらそれでもいいんですけど、やっぱり見える方がいいと思う人は鉛筆を使うなりして。で、印刷面、裏の白面でなくて表の印刷面も書かれて大丈夫なんです。はい。もうそれだけですよ。なんの問題もありませんのでね。

質問者
 裏表を書いて1枚カウントでもいいし、表だけ裏だけ…

河上さん
 そうそう。自分が書いてね、これはもう自分の中では真祈りを10回分したから10枚だとかね、100回分したから100枚だと思える人はそれでいいんですよ。ただ、言い訳してね、「こんだけ書いてんだから100枚だよ。」って、ちょっとでも自分の中に言い訳があったら1枚にしてください。はい。

質問者
 ということは、数だけを目標に書く場合は…

河上さん
 数だけ目標というのは言い訳でしょう?だからとにかく言い訳しないことですよ。その中で自分の中で納得できる数を出されたら。

質問者
 というのは、ないとは思うんですが書けばいいっていうものではないということが…

河上さん
 もう、おまけの時代がなくなったんでね。護摩木さえ書けば、という時代でなくなったので、こういう形にしました。だから今までだったら、もうどうしても真祈りできないんですっていう人のためにね、護摩木作りとか、ただひたすら護摩木を書くとかいうおまけがあったわけですけど、本当におまけがなくなっちゃったんですよ。だからあの人病気になるなと思って今までは黙って直したりしてたんですけど、それももうしなくて…しなくてというか、しては駄目だ、なんですよ。助けようがないのね。
 
 セルフヘルプ(自助)ですよね。自分で真祈りできる時代に入って、本当にまあ元々自分で出来るんですけどね、みんな勝手に出来ないと思ってるだけなんですけど。自分で真祈りして自分で自由に運命を作っていける、選んでいけるという、そういう時代になりましたので。もう本当、申し訳ないけど助けられない。一切助けてはいけないと言われて。特に村人は一切助けるなと。突き放すぐらいにせえみたいに、先生はきついからね。それは聖地に住む心構えとしての厳しさですけども。はい。

質問者
 今日のお話にあったように、もうこれからは真(まこと)のプラスの言葉だけが力を持つという…

河上さん
 そうです、そうです。真(まこと)のプラスの言葉だけが力がつくというのは、みんなもう当然知識として分かってるわけですよ。一番怖いのは、「自分がマイナスを出してない。」とね、「これはマイナスじゃない。」と思ってるんだけど、(実は)マイナスの事が結構あるんですね。それが怖いということです。

質問者
 わかりました。ちょっとまだ預かってるところが。

河上さん
 読んでください。

質問者
 (護摩紙が)裏表が書ける場合、護摩木と同じように表は黄色、裏は黒色にしなければいけないのか。あるいは片面だけ…

河上さん
 いや、そんなんもう自由自在で。だから本当にね、極端に言うと無色透明のペンで書いてもいいんですよ。でもそれでは全然見えないからね。なんか自分でもなんかしっくりこないだろうから、黄色の蛍光ペンでもいいし、それでも見えないじゃないですか。だからそれやったら分かる4Bですか、4Bぐらいの鉛筆で書くとかマジックで書くとか、そんなんを自分なりに工夫されて書かれたらいいと思います。

質問者
 続いて読み上げます。文字の大きさは自由自在で良いですか。

河上さん
 目の悪い人とか色々ありますから、見えにくい人は大きく書かれたらいいです。大きく書いても、その間に印可書10回唱えたから10枚って、自分で自信を持って言える場合は10枚で大丈夫です。はい。

質問者
 はい、わかりました。最後です。紙は白でなくてもよいのでしょうか?

河上さん
 もうどんな色でもいいですよ。黒でもいいですけど黒では見えないだけですね。黒い広告用紙ってないでしょうけどね。その、なんで広告用紙かというと、本当に紙が貴重になる時代が来るんですよ。来ないようにしたいですけどね。もう紙の本がね、凄い高い値段で売り買いできるくらい紙が貴重になります。そういう時は、もう食べるものも本当少ないしね。本当になるんですよ。
 
 で、なるのがね、突然来るの。今年の米騒動そうでしょう?そんなん米不足になるなんて誰も分かってない。突然えらい米の値段が上がってきて、えらいこっちゃってなったじゃないですか。うまく収まりましたけども、これ、このまま米が足らなかったら、未だ(いまだに)大騒ぎじゃないですか。それぐらい何でも突然来るんです。突然来た時に心騒がさずに悠々と真祈りしていただきたいんで、色んな形で真祈りできるように、ある意味練習していただいています。

質問者
 以上、護摩紙に関する質問、預かってきたことをお聞きしました。
 ありがとうございます

司会者
 それでは、会場からの質問は駄目なんですよね?

河上さん
 要するに真祈りにね、本当に関連することだったらいいんですけど、一時もう全然それ真祈りと何の関係があるの?地底人が何なのよとか言う、質問された時に会場にいらっしゃる皆様からの非難、みんな大人しいから声に出されないけど、なんやそれは、遠くからはワシら来てるのにみたいなね、ぐわーっていうのが、だんだんだんだん大きくなって来たんでそうしました。それでそういう質問されてる方に限ってね、もう質問を受け付けないって言うたらすぐ帰っちゃう。 やっぱり真剣じゃなかったのかみたいな感じですし、そういう意味です。だから、本当は真祈り、あるいは今の護摩木で分らないって、今どうしても聞きたいとなれば、今聞いてください。

司会者
 どなたかご質問、真祈りに関してご質問ありますでしょうか?特にございませんか。 そしたら河上さんよろしくお願いします。

河上さん
 みんな真剣だから凄い。はい、ありがとうございます 
 本当にね、おまけの一切ない時代、地球霊王様が人類の絶対の自由に任せるという時代に入りました。だからみんな善人ボケって言うんですけど、私、別にそんなマイナスなことはしてないわ。っていう人でも無意識に何かしてるんですね。例えばファッションでね、人よりこれ目立ってるか、目立ってないかっていうこともマイナスの事なんです。 それくらい人と分け隔てすることは全部マイナスだと。
 
 先生がね、三洗莊という時代、一番最初の時代というより、本当は東大阪のね、柏田の時代ですけど。柏田の時代からというよりも、もっとはっきり言ったら僕が11歳の時にお会いした時からなんですけど、先生は最初から答えは言っておられるんです。 みんな光やと。それを言葉変えて、みんな真(まこと)神さまとか、「神の御光、御力、御命」とか言われてますけども、一番最初から先生の仰ることは、「みんな光や」だけなんです。それを分かって貰う為に色んな表現されただけなんです。
 
 だから、少しでも「みんな光や」から外れた自分の気持ちはマイナスなんです。 そのマイナスに反応して、病気になったりね、糖尿病になったり色々みんな出ますからね。もしそう病気の形が出てもね、分からんうちにマイナスにしてたんだ。という事で分け隔てしてたんだと、人と自分を区別してたんだと。
 
 要するに、真(まこと)の神さま以外のものを認めたら全部マイナスなんです。いつもいつも自分の心の中で、全て真(まこと)神さまって思えてるかって問うてください。自問自答してください。 ほんで真(まこと)の神さま以外に見えてたら、しまったマイナスに見てると思ってください。それぐらい厳しいものです。
 
 だからそれが大変だから、チェックしてるのも大変だし、考えるのも時間かかるから、淡々と「印可書」奉読しててねって。迷ったときは淡々と「印可書」奉読してねって言って、「印可書」奉読してるときは、あいつ怠けてるやないかと思う暇ないないからね。 そういう意味です。
 
 それくらいもう自分の、だからセルフヘルプ(自助(じじょ))って、自分の本来真(まこと)の本心の自分の力を発揮する時代になったわけですね。肉体側の自分の都合でどうこうする、力を発揮する時代ではないわけです。自分の都合でどうこうしてる時は、それはマイナスな言葉を発してるという事ですね。そういう「自由自在の時代に、泣いても笑っても入ってしまった」んでね。
 
 だから護摩木造りしてても、プラスにならなくなったんで、ある意味護摩木造りもどっかで止めるようにしなくちゃいけないんだけど、流れとしてとても止めれない雰囲気が続いてたんですけども、ちゃんと神さまの方からやめる雰囲気を、きっかけを作ってくださったんで、止めました。どうしても護摩木がしたいんだという人は、それなりにどうしても護摩木したい人は相談してね、したい人が集まって護摩木作ってどうこう。まだ2年間分ぐらいは在庫も余裕もありますから大丈夫ですけど、それから先はそういうことも考えて頂いても自由自在ですから大丈夫。
 
 でも護摩木でなくちゃ駄目なんだとか、紙でなくては駄目なんだとか。 割り箸でなくちゃ駄目なんだとかというふうに、縛った途端に駄目なんですよ。 ほんで、霊の洗礼が何で素晴らしいかというと、「印可書」奉読でしょう。縛りようがない。「印可書」言うたらあかんぞっていうても、心の中で言ってるのは自由やからね、誰も止めれないから、本当の霊のお清めなんですね。
 
 そこまで持って行きたいですけど、その為には色んな肉体の癖がありますので、その癖をどう取っていくかだけなんです。 癖を取る方法というのは、先生はちゃんと答えをくれてるんですけどね、皆さん聞いてないのね。まず、自分のやりたい好きな興味のあることを徹底して追求してやりなさい。それを自分なりに極めたら、他のことも全部分かるようになるからって仰るわけです。
 
 だから真祈りしながら、「印可書」奉読しながらね、その嫌な数学はしなくていいんですよ。自分がやりたいものがあるじゃない、その人によってマラソンであったり、なんて言うんですか、色んな方法ありますよね。音楽であったりカラオケであったり、カラオケでもいいんですよ、それを極めたらいいの。極めたら全部分かるようになります。まずそれをされていったらいいです。
 
 その為には、極める為には何がいるかというと、人と自分を分け隔てると極めれないんですよ。 もう皆さん大谷選手のことは色々ニュースで聞かれてるから分かると思うんで例をあげますとね、大谷選手は色んな意味で凄いんですけど、みんなから好かれてるでしょ?大して英語も喋れないのに、はっきり言いますけど。大して英語も喋れないのに、みんなから好かれてるんです。
 
 それ何故かというと、自分と他人を分けないんですよ、彼は。自分と他人を分けないから相手の選手の大リーグの選手のいわゆる欠点が見えるんです。ほんで、そこをこうした方がいいんだよって言うて惜しみなく教えるんですね。 自分の場合はこうしてるけど、あなたは多分こうした方が打てるんだよとかね、惜しみなく教えるんで、大谷選手の周りの人がみんな上手くなっていくんですよ。それくらいね、自分と他人を分け隔てなかったら極めれるんです。 自分だけ上手くなろうと思った途端に駄目になっていくんですよ。そこだけなんです。
 
 だから、例えばカラオケでもね、人の唄ってるのを聞いてね、俺はこう唄ってるけど、あなたやったらこういうふうに唄った方が聞こえがいいかもしれんねって言うて録音してみてどうこうとかね、そういう感じで色んな方法あります。ともかくみんな一緒に上手くなろうやっていう、簡単に言うと。それが分け隔てない気持ちです。
 
 せやのに、あいつは11歳のときに先生に会ってる。それだけで気に入らんみたいに僕は言われてきたわけですけども、そういう分け隔てを止めって言うんですよ。みんな一緒に真祈り出来るようにしようやって言うてんのにね、何でやねんみたいな感じですけど、先生の出された印可書が何が気にいらんねん、どうなってんねんみたいな感じですけど。
 
 それって分け隔てる意識がある為に、変な虚栄心でね、色んな軋轢(あつれき)が出る。 それは、会社でもどこでも組織の中ではみんなそうです。だから、そういう分け隔てる意識が人類的に全部重なってくると、先週言うたように戦争になるわけですよ。その分け隔てる意識を極端に理屈で言えばね、みんな顔、形違うわけですよ。自分の顔だけは正しいんだと、他の顔は全部間違いだと言ったら全部殺さなくちゃいけない、わかります? 最終自分1人しか残らない。それぐらい分け隔て意識というのはマイナスの意識なんです。今、マイナスな意識を分かってもらう為に強引な説明しましたけどね、でも理屈で言うとそういうことなんですよ。
 
 だからみんな一緒なの、みんな一緒に上手くなろうって。でも今の学校の教育でもね、受験戦争でもそうですけど、人に勉強を教えたくないのね。 人に勉強を教えてみんなが勉強出来るようになったら、自分が入試で合格できないみたいな意識があって、誰も教えようとしないんですよ。ほんで人に教えようとしない子ほどね、勉強できないの。勉強出来る子というのは人に教えれるのね。 逆に言うと人に教えれるからこそ分かってるね。人に教えれないということは、全然自分は分かった気になってるけど分かってないわけ。これがもう全てなんですよ。
 
 だから僕は分け隔てしないから、みんなが自然に真祈り出来るようにと思って色んな説明が出来るのは、分け隔てをしないから。ほんで覗いてみてこの人の傾向はこれやな、この人の傾向はこれやなというのをぱっと受け止めて、それに近い話を毎回させて貰ってきました、勉強会でもね、それだけですよ。
 
 だから、みんなが最初は真祈り出来るように、まずは例えばカラオケやったらみんなが歌上手くなるように、勉強やったらみんなが塾の子みんなが勉強出来るなるようにっていう感じでね、教えれるくらいまずなることですよ。 それが真祈りへの道です。だから俺だけ上手くなるねん、あいつら知るかいって言うてる間は駄目です。そういうものなんですね。
 
 色々ありますけども、本当は先生は厳しくてね、でも先生は、大事なことは1回しか言わないんですよ。殆どの人はそれを聞き逃してるのね。で、僕には、あの頃は真(まこと)の神さまを先生は神さまと仰ったんですけど、神さまの話をする人になれ、神さまを教えれる人になってくれって言われたんですよね。そうなる為には何が必要なんですかって聞いたときに、まず毎朝4時に起きて、お祈りするのはもう当然だと。毎朝4時に起きて、2時間は徹底して勉強しなさいと言われました。それは僕以外にも、HくんやMちゃんにも言われていました。(当人がそれを受け入れたかどうかは、本人の自由意志でどうしようもありませんが・・・)

 僕にはここでの(村のところの)先生にならなくていいと。あなたの為に色んなものが用意されているから、そちらの方やってくれと、世界の皆さんと一緒にやってくれって言われてたんですけど、色んな事情でもうピンチヒッターでここ来てますけどね。
 
 そういう意味で、ここでの跡を継ぐ人には、先生はやはり同じように4時に起きて2時間勉強しなさいって1回は言ってるんですよ。でもほとんどの人は聞こえない、あるいは聞いても実行できない、だけなの。それ何かっていうと、先生に甘えて頼ってるけど信じてないのね。だから色んな人がここへ来て先生に病気治してもらったけど、2度と来ない人が多いんですよ。 それは先生に甘えて頼って利用するけども信じてないから。大半の人がね、先生に甘えて頼って利用しに来てるからこんな状態になっちゃった、言うて悪いけどね、本当に真剣に悟りたい真祈りしたいと思ってたら、もっとちゃんとなってたんだよ。村人ももっとちゃんとなってるの、キツく言いますけどね。
 
 でも、もう手遅れじゃないからね、今から真祈りしたら済むことだから。だから済んだことはいいんだよって、これからどうするかだけだってしつこく言うのは今から真祈りしたらそれで済むだけなんですよ。俺はこんだけの悪いことしてきたんだからもう駄目だ!じゃないんです。 それは過去を掴んでるだけ。そんな過去なんかは、神さまは先刻ご承知でどうでもいいのね。真祈りさえ選んでくれたらそれだけなの。
 
 だから真祈りさえ選ぶ為には、「誰にも認められなくていいってね、一生目立たなくていい、一生さげすまれてて良いって、先ず覚悟を決める事」ですよ。 「神さまにさえ分かって貰えてたら良いんだ」って。神さまに分かってもらう為には「印可書」奉読するだけってちゃんと答え言うてますから、もう淡々と「印可書」奉読するだけで幸せ一杯になっていくんです。
 
 それを自分の都合、自分の希望が実現しないって文句言うからね、話がぐちゃぐちゃになっていくんですよ。 自分で運命をぐにゃぐにゃに、絡ませてるんです、タコ糸のようにね。本当は神さまから綺麗な滝のようにスーッと降りてきてるだけなの。それをスっと受けるだけでいいのにね。自分の都合でああや、こうやすると、そのスっと降りてきたのがぐにゃぐにゃと曲がるんですよ。それがタコ糸のように絡んでしまうと、どうにもにっちもさっちもいかなくなるようになるんでね、それだけなんですね。だから、まず真祈りするんだと、色んな意味で自分の好きなこと極めてください。
 
 極めるというのはどういうことかというと、どんどん人に教えてあげれることです。 自分だけ上手くなって、どうや、ええやろ、俺は凄いやろっていうのは虚栄心で、それは極めてないの。虚栄心が出るうちは極めてないんですよ。大谷選手見てたら、虚栄心って一つもないよね、打てなかったら打てなかったであれやし、ただ「バッターボックスに立ってすることはもう決まっているので」だけでね、バッターボックスに立ってホームラン打とうと思ってますなんて言わないでしよ? あの淡々とした気持ちが大事。で、本当に色んな人にアドバイスして、色んな人が上手くなってるんですね。
 
 だから今年ドジャースがすごく強くなったのは大谷選手のアドバイスが凄い効いてるんですよ。それは、前の球団の時も同じなんですね。 前の球団の人と試合するときでも抱き合ってね、喜び合ってるのは、「大谷、お前のお陰で助かったよ」という人ばっかりなのね。それくらい、分け隔てしたら駄目なの、わかります?あいつより上手くなって俺は凄いやろという気持ちが出た時は、もう偽物なの。
 
 みんなが真(まこと)の神さま。みんながそれぞれの得意の分野で素晴らしくなるようにみんなで協力し合うんだって思ったら、もう喧嘩は起こらないんですよ。 喧嘩が起こるのは、お前より俺の方が上なんだってマウンティング取り合いしてるわけね。相手の上に行こうとしてるね。犬や猫やウサギやないねんからね。動物はすぐ相手の上に乗り合いするじゃないですか。動物のように人間が真似しても駄目でね、マウントを取らなくていいんですよ。
 
 だからまず一生認められなくていいって、誰も分かってもらえなくて良いってまず諦めることです。
 
 神さまさえ分かって貰えたらいいんだって。神様に分かってもらう為には「印可書」奉読するだけでいいんだって、もうそこまで諦め切れたら、もう何の不平不満も、要するにマイナスが出なくなります。 ほんなら真(まこと)のプラスだけだから、あっという間に世界が変わるんですよ。本当にあっという間なんですよ。
 
 足をポキッと骨折された方がいたんですよ、そのときに本当にパッと繋いだら、スッと繋がったんですね。それくらい神さまの働きって凄いんですよ。もう繋いでからはしばらく腫れて痛いからね、松葉杖つかれておりましたけども、そういう気もなしにそのとき繋いでしまって。それってもう神さまを信じ切れてたら出来るのね。でもちょっとでも疑ったら添木しなくちゃとか、すぐ繋がらないからとかってなるんですけど、まだまだ人類の意識がマイナスが多いんでね、その時でもしばらく後、腫れたんですよ。
 
 これ、本当にみんなが真祈りしだしたら、例えば怪我するでしょ?じゃあ、スっとやるだけで、傷口塞がって治っちゃうんです。 それが本当の姿なんです。でも今は人類が分け隔てて、あいつはどうだ、こいつはどうだ、あの民族の風習は駄目だとかね、俺とこの風習を真似しろ、民主主義を押し付けるのはそうですよ。はっきり言うとね、民主主義を押し付けるのは善ではないんですよ。それぞれの地区でそれぞれに応じた形の、あの社会生活があるわけですね。それが民族です。
 
 その民族のお互いの風俗風習を尊重し合って生きていったら喧嘩ならないのね。でもそんなんは野蛮なことだから止めろって言うてね。 アメリカインディアンが滅ぼされたように、なっていくわけですね。今は、アメリカインディアンの時はまだ核兵器がないからね、あれで済んだんですけど、今は小さいとこも核持ってますからね。いよいよ自分ところ滅びるとなったら使いますよ。使ったら最後、今言ったように紙もなくなる、食べ物もなくなる、汚染された水も飲まなくちゃいけない、という時代に入っちゃうんですね。その時でも先週言いまのましたように、ちゃんと真祈りしてたら、なんぼ放射能に汚染された水や食べ物食べても大丈夫ですから。それだけは分かってください。
 
 でもそうならないように持っていきたいんで、頑張って護摩を盛り上げていきたいと思います。だから本当によっぽどの事情がない限りね、こちらにおいでください。 ただ生活的にお金でね、ここへ来るのにお金かかりますから、そういう無理はしないでいいから、来れる限りは来てください。来れない方は、本来の護摩に入る、それぞれの場所で真祈りするように練習してください。 また来月お会い出来ることを楽しみにしています。本日はありがとうございます 

司会者
 河上さんありがとうございます
 今日の護摩焚きをこれで終了いたします。


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11月護摩 by kawakami [Mail] 2024年11月07日(木) 14時33分
PC

11月護摩焚き河上さんのお話
 宇宙神ありがとうございます

 令和6年11月3日護摩焚きで河上さんがお話されました
内容です。ありがとうございます

司会者
 河上さんへの質問ですけども会場からの質問は、ご回答されないということですけども、あらかじめ紙で書いてくださった質問については、お答えくださるということですので、本日は3人の方からの質問を預かっております。

質問1
 いろいろの利益、功徳を求め、あるいは不幸、災難、病気、地震、不安を煽る予言、世界終末の劫火(ごうか)を鎮めるためと、護摩焚きを通じて祈りに唱業することは、まだ利益、功徳を求める浅ましき心、そんな心は本来なしとするのが真(まこと)の本心、真祈りだと思っているんですが、私だけがひょっとしたら方便が読み取れないのでしょうか?よろしくお願いします。

河上さん
 ありがとうございます またお会いできて嬉しく思います。今のご質問なんですけども、要は言い訳するかしないかで判断していただいたらいいと思います。いろんな五欲ですね、食欲とかから逃げられないというご質問もたくさんきてたりするんですけども。

 いよいよ彗星がね、それも本当に今回は神さまからの彗星なんですけども、新しい場面、新しい第2幕、新しい時代に入ったんですね。 だから皆さんの心の本当の自由に任される時代になりました。だから、今まではおまけがありましたので、少々「あいつ、くそったたれが。」とかね、「私、病気でどうしよう。」とかってマイナスを思っても、おまけで何とかしてもらえた。あるいは昔だったら「先生この病気治してください。」って言って治してもらったというおまけがあったわけですけども、これからは一切の外からのおまけはありません。その代わり皆さんの自由自在な力が、そのまま発揮される時代に入ったわけです。

 だから、今のように、ただただ淡々とね、ギブアンドテイクとか言い訳の心なしに、『印可書』を奉読していただくと、真(まこと)のプラスの言葉だけを選んでる自分ですから、真(まこと)のプラスの言葉という真(まこと)の本心の世界にすーっと戻っていくわけですね。少しでもマイナスを言うと、自分の選んだマイナスの世界に自由に降りていける。今までだったら、ちょっと落ちにくいようにしてもらってたんですけれども、これからは自由に落ちます。

 だから一番は言い訳ですね。言い訳をすると、言い訳というのは自分と神さまを分け隔てて、「自分はこんなんだからこうしてしまうのは仕方ないんだ。」って言い訳するわけじゃないですか。そういう言い訳というのは結局マイナスを発してるんで「自分はこれだけのもんだ」って言った世界に降りていきます。それは寿命があるうちは、病気とか運命とかの形で現れますし、死んでからは、もっと楽しいいろんなアトラクションの世界に降りていけるということです。ただただそういう時代に入りました。

 だから、まずいろんなことをするにあたって何が大事かというと、言い訳しないということです。 神さまが一番いいようにされてるんだから、神さまは全知全能の愛だから、自分にとって必要なものは、全てご存知で既に与えておられるというのが本当のことなんです。だから小さい自分の意識から見たら、「あれが足らん、これが足らん、こんな目に遭った。」とかありますけども、大きな自分の意識から、眞(まこと)の神さまから見たら、その人にとって必要なことばっかりが現れるということです。それを喜び勇んでこなしていけばいいだけなんですね。

 なぜ、じゃあこなせないか?それは、その肉体を動かすとしんどい、肉体を動かすと病気になるとかね、マイナスの言い訳をするからですよ。本当に喜んで支えてたら疲れても回復するし、疲れにくいですよね。一番よくわかるのは山登りですよね。山登りが好きな人は、あんなしんどいことでも喜んでしてるじゃないですか。でも山登りが嫌いな人にとったら、なんでこんなしんどいことするのみたいなね、あるでしょ。それくらいその自分の心次第なんです。

 その自分の心次第というのは何かというと、小さい自分の心で判断して文句を言うか、大きな真(まこと)の、本心の眞(まこと)の神さまそのものの心で喜び勇むかの二つに一つなんですね。だからちょっとでも言い訳したら小さい自分に戻ったんだと思って『印可書』を奉読するなり、『宇宙神ありがとうございます』と祈り続けるなり、「ありがとうございます」って祈り続けて、真(まこと)の本心の自分の大きい自分の心に戻っていただいたら言い訳しなくなります。 でもちょっとでも言い訳してるうちは、しまったと思ってね、そのマイナスの世界に本当にこれから落ちますので。

 だから、この前ワクチンのお話が出ましたけども、ワクチンでどうこうはなりません。ここではっきり言っておきます。ワクチンを打っても打たなくてもそれでどうこうなることはないです。でもワクチンを打っていても、マイナスの言葉を出していれば、そういう運命、いろんな病気とかね、いろんな症状とかの運命に入るということです。

 だから、本当にね、水も食べ物も、もうこれからはいろんな汚染がされてくるわけですね。でもその汚染された水や食べ物を食べるしかないわけですよ。それしかないからね。でも、その汚染されたものというふうに受け止めること自身がマイナスなんですよ。全て神さまの命なんだってね、みんな先生のおっしゃる「みんな光なんだ」って喜んでいただいたら、体に影響は出ないです。でも美味しいで食べたら影響出るからね。もちろん美味しいで食べていいんですよ。でも神さまの命をいただくって喜んで、それから美味しいって食べたらいいんですけど。それを忘れて先に食欲でね、美味しいって食べるじゃないですか。あれは危ないということです、例えば食べ物で言うとね。

 仕事の上で言っても、上司からボロクソに言われても何があってもね、まず「自分は一生誰にも認められなくていいんだ。」「一生蔑まれたままでいいんだ。」っていうね、「一生自分は下積みのままでいいんだ。」っていう覚悟を決めることが必要なんです。 それが眞(まこと)神さまの心なんです。一切を報い求めず与え尽くすという心が、今説明した心です。一切を報い求めず与え尽くすという気持ちになれば、どんな仕打ちを受けても気にならないんですよ。でもほとんどの人は報いを求める心を持つんですね。報いを求める心というのはマイナスの心なんです。どういうことかというと先ほど説明したように、絶対の愛の神さまは必要なことしか与えてないのに、「これでは足らん。」と言って「もっと報酬くれ。」ってやるわけでしょ。それってマイナスの心なんですね。

 そういう報いを求める心を出すと、例えば『印可書』奉読でもですね、「『印可書』奉読するから病気治してくれや。」って報いを求めてるじゃないですか。「『印可書』奉読してるから悟らせてくれ」と、やっぱり報いを求めてますよね。それでは、『印可書』奉読にならないわけです。 一切を求めずに与え尽くすっていうね、神さまってそうなんです。太陽の光を見たらわかるじゃないですか。一切報酬を求めずに燦々と光とね、喜びを与えてくださるじゃないですか、もうそれだけです。だから、ただただ与え尽くすだけだって覚悟を決めたら一切の文句は出ません。ちょっとでも文句とか言い訳が出たらね、求めてるんだと反省して、『印可書』に戻るなり『真祈り』に戻ってください。そうすることによって、本来の目的である真(まこと)の本心の自分を知る、自覚する、悟るということに繋がっていってます。ありがとうございます

質問2
 2人目の方の質問です。10年ほど介護の仕事をしていますが、自分と同じくらいの体重の利用者さんを、毎日何回も抱えて移乗をしなくてはいけないため、膝や腰にかなりの負担がかかっています。カイロプラクティックに通って施術を受けながら仕事をしています。この仕事をあと何年続けられるのだろうと思い悩む日々です。最近YouTubeなどの動画を見て自分なりに勉強をして、利用者さんを抱える前に「ひふみよいむなやこと」と3回唱えて体感をしっかりさせてから「ありがとうございます」と大きな声で唱えて気合を入れてベッドから車椅子への移乗をしています。「ありがとうございます」以外に奥から力が湧いてくるような良い言霊はありますか?お願いします。

 まず言霊はね、ご自分の好きなことを選ばれたらいいです。体の、今の状態の体の使い方をする時の一番大事なポイントは、歯を食いしばらないということです。歯を食いしばらずに力を出してください。すると神さまの力が出ます。歯を食いしばって出すと自分の力になって体が傷んできます。今の質問の方が会場にいらっしゃるかどうかわからないですけども、ここにいらっしゃる方みんながね、力仕事でなくても何かする時に、思わず歯を食いしばってやってると思うんですよ。

 例えば一番わかりやすいのは、毎日のお通じの時ね。お通じの時に少し硬くなってくると、歯を食いしばって出そうとするじゃないですか。あれは駄目なんです。歯を食いしばらずに、お腹に力を込めるというか、力むんじゃなくて息んでください。歯を食い縛ったら駄目なの。そこだけをまず注意してやっていただいたら、かなり変わります。それで駄目だったら、また来月質問してください。

 ともかく歯を食いしばらずに力むんじゃなくて、息むということです。これは普通のお仕事の上でもね、非常に色々と重なって大変になった時に、みんな歯を食いしばって切り抜けるんですよ。それは力みになってる。力みというのは何かと言ったら、自分の力で何とかしようとしてるの。それはマイナスなんです。自分と神さまを分けてるからね。息むというのは、歯を食いしばらないというのは、息むというのは何かと言うと、神さまの力をそのまま受けて発揮している状態なんです。

 これ合気道をやってる方だったらわかるんですけど、合気道なんか特に歯を食いしばったら全然できないんですよ。本当に力むんじゃなくて息むという形でフワっと、フワっとじゃないです、フーッとするんですけどね。その感覚は、毎回毎回、歯を食いしばったら「ああ、しまった」と思って歯を食い縛らずにフーッと息むんだということを繰り返して練習されるしかないです。今、口で説明しましたけど、そんな簡単にはできない。簡単にはできないけど必ずできますからやってみてください。ありがとうございます

質問3
 ありがとうございます 3人目の方は2つ質問があります。1つ目です。

 10月2週目の護摩焚きの中で、本心の17項目と話された箇所がありました。失礼にも16項目の間違いだと思ってしまったのですが、村掲示板への河上さんの書き込みで、本心の17項目とはっきりとおっしゃったことがわかりました。誠に申し訳ありません。また、ある人から7月の護摩焚きでも、本心の17カ条と言われていたとお聞きしました。

 10月14日の村掲示板の書き込みでは、題名が「祈りと神さまのはたらき」で、

 『祈りとは神さまの働きのことです。神さまの働き(真祈りの秘奥義)=一大循環の相象(すがた)=ありがとうございます なのです。
別の言い方をすれば、眞(まこと)の本心の自分に気づく、自覚する、実感するともいえましょう。このことを実感することが、悟りであります。別の言い方をすれば、眞(まこと)の本心の自分に気づく、自覚する、実感するともいえましょう。
ここで、実感をひとことであらわすと、『あまてらすおほんみかみ』 となります。 これが、真祈りの秘奥義という、17項目目になるのです。」と書かれてあります。

 本心の17項目『あまてらすおほんみかみ』とは、理屈ではなく、本当は実感しないとわからない事だと思うのですが、17項目とは、16項目全体を統一した実感で、神書に先生が書いてくださっている、「宇宙絶対統一神・天照大神・今ここに在します!新たなる全徳の無限の無限の輝きが一杯!ありがとうございます」ではと神書を見て感じました。また、印可書そのものだとも思います。本当は実感しないとわからない部分だと思いますが、可能な範囲で説明していただけないでしょうか?よろしくお願いします。

河上さん
 はい、おおむねその質問で自問自答されたことで合っておりますので、大丈夫です。

 聖徳太子であられた頃にね、先生が十七条憲法って作られたわけですね。十七条憲法の第一条「和をもって尊しとなす」が、その十七条の中の全てを表すわけです。それで後の16項目があるわけですけどね。いつも先生は、それをされるわけです。

 今回は、神書でもわざと先生は未完成にしていかれるわけですよ。未完成のところに引っかかって、質問に来てくれるとわかるという状態にするんだけど、誰も質問に来ない。本心の16項目も未完成で来ているわけですね。でも誰もそれを、もうそこで信じて疑わないみたいなね。引っかからないので、あれなんですけど、いよいよ場面が変わって新しき時代に入りましたので、もう虎の巻として答えをどんどん言っていこうということで、十七条、17項目とか言ってみたんだけど、あんまり反応がないので、もういいか、放っておこうかみたいに思ってたんですけど、ちょっと反応がありましたので書かせていただきました。

 その『あまてらすおほんみかみ』というのはどういうことかというと、神さまは同じ言葉を繰り返さないんですよ。だから、『あまてらすおおみかみ』とか言うと、「おお」と二回重なってるじゃないですか。それは本当の呼び方ではないんです。その全部違う言葉で作ると『あまてらすおほんみかみ』となるわけです。これは、いわゆる祝詞(おお祓いことば→大祓詞)のね、祝詞のつなぎ目のとこで(天津祝詞の太祝詞事を宣れ・・のところ)、秘儀で書き上がっていない言葉なんです。祝詞をあげて、(前半を終わって、天津祝詞の太祝詞事を宣れ・・のところで)ちょっと時間を空けて、後半に入るっていうふうになってるわけですね。その時間を空けるところに、それぞれ心の中で『あまてらすおほんみかみ あまてらすおほんみかみ』(”ほんみ”は2文字で発音し、”ほ”でも”ん”でも”み”でもなくすべてのすべて→みんなまことの神さま・・というような響きです。河上注)と唱えるようにというのが秘儀で指示されています。この秘儀は、本当に真剣な人以外には明かしてはいけないんです。明かした人間は死ぬという恐ろしい言葉なんですけども。いよいよ本当に本当に皆さんの自由に選んで自由に行ける時代に入ってしまったので、あえて出すことにしました。だから、自分の自由意志で唱えていただいたら、それはそれで凄く効果があります。そういうことです。

 最初に、今日の最初に説明したように、本当に皆さんの選んだ、選んだ世界にあっという間に行く時代になったんですよ。だから、例えば病気になっていても、真(まこと)のプラスの言葉を選んでたら、あっという間に病気は治るし、いくら健康でも、ちょっとでも人の噂してね、「あいつあれや」とかマイナスしたら、あっという間に病気として現れてくる時代に入ったわけですよ。本当に自分で自由にできる時代なんです、いいように言うとね。怖がらして言うとね、ちょっとでもマイナスに言うたらえらい目に遭うぞという時代です。

 でも、自分の自由に言葉は選べるわけですよ。誰も強制できないの。だから、自分の自由に真(まこと)のプラスの言葉を選んでいっていただいたら、全てうまくいきますから。その真(まこと)のプラスの言葉を全部固めて、もうぎゅっと固めて凝縮して出したら、『あまてらすおほんみかみ』と「ありがとうございます」の二つになります。ただ、「ありがとうございます」と言うと、ほら、物をもらってのありがとうございますとみんな勘違いして、「ありがとうございます」をちょっと汚すのね。それでもうあえて「あまてらすおほんみかみ」を出させていただきました。

 だから、素直に一切報いを求めずに「あまてらすおほんみかみ」って、要するに『印可書』を読む時間がない時は、「あまてらすおほんみかみ」ってしていただいたら、あっという間に変わります。ありがとうございます

質問4
 ありがとうございます 最後の質問です。同じ方からです。

 いつもお祈りをする時は、前後に「真(まこと)の神さま、先生ありがとうございます」と祈っています。朝一番と夜最後の時は、「守護霊様、守護神様ありがとうございます」の祈りも付け加えています。最近ふと、真(まこと)の神さまと自分との間に何も入れてはいけないとの先生、河上さんのお話が思い出され、「真(まこと)の神さまありがとうございます」だけにすべきかなと思いました。しかし、先生は真(まこと)の神さまと完全に一体化された方であり、地球人類の本心の目覚めを遠い昔から導かれた方だから構わないのではとの思いもあります。長い間、「真(まこと)の神さま、先生ありがとうございます」と祈ってきたので、意識しない時は自然にこのように祈っています。この事につき教えていただきたいと思います。

河上さん
 これはね、さっきの「ありがとうございます」の言葉に、物をもらってのありがとうございますを入れて汚すっていうのあるじゃないですか。それと一緒で、守護霊様、守護神様と言っても入れ子構造的に真(まこと)の神さまそのものなんですよ。働きとして見える時に守護霊様のように見える、守護神様に見えるであって、真(まこと)の神さまであることに変わりない。

 例えば、この河上彰延(かわかみあきのぶ)という肉体がありますけども、右手というのはこれ、左手というのはこれっていって、これは河上彰延には変わらないけど、右手、左手でしょう。そういう感じで、守護霊様、守護神様とか天照大御神さまとか、松下清則先生とか、五井昌久先生とかってカラーリングしたように感じるだけなんです。だから、それをその小さい存在と思わずにね、真(まこと)の神さまが、今言ったように、体の中の右手、右足、左手、左足、人差し指みたいな感じで受け止めれたら、どの言葉を使っていただいても大丈夫です。でも、守護霊様、守護神様と真(まこと)の神さまを完全に分けてしまってね、唱える時はちょっと大変です。

 例えば、この僕の、この河上の体の、この右手をですね、切り離してしまったら、もう右手じゃないでしょう。そういう感じになります。だから真(まこと)の神さまと切り離さずに、全てのプラスの言葉を唱えていただいたら大丈夫です。だって、そうでしょう?本心の16項目でも、真(まこと)の神さまの働きの一部を表現することです。でも、それと真(まこと)の神さまとは一つなんだというのがわかって、本心の16項目を唱えていただくと『印可書』並みの力があるんですけど、みんな分けちゃうのね。分けちゃうからダメだったので、もう少々分けた意識であろうが、どんな意識で読んでも少々はもう一気にいくぞというのが『印可書』です。

 もう本当に、真(まこと)の神さまそのものって、ちゃんと全部含めてと思ったら「あまてらすおほんみかみ」でも「ありがとうございます」でも大丈夫なんですけどね。ただただ、自分の側の発する側の意識ですね。小さくは思わずに、真(まこと)の神さまそのものと思って使っていただいたら大丈夫です。ありがとうございます

司会者
 ありがとうございます 質問は以上なんですけれども、(河上さん)お話よろしくお願いします。

護摩焚き参加者
 質問のことで、ちょっとお聞きしたいことが出たんですけど。

河上さん
 まぁ聞いて?

司会者
 どうぞこちらへ。

会場からの質問
 「あまてらすおほみかみ」っておっしゃったんですけど、「あまてらす お ほ ん みかみ」って書いてあったような記憶があったんですけど、そこの「ん」が入ったのって?

河上さん
 だから、その「あまてらすおおみかみ」でしょう、普通ね。「あまてらすおおみかみ」って言うじゃないですか。そしたら、「おお」で同じ言葉が続く。次「おおみ」と最後の「かみ」とでまた同じ言葉が続くでしょう?それは違うんですよ。神さまは同じ言葉は二度と使わないの。だから、『ありがとうございます』は同じ言葉が続かないでしょう。それで『あまてらすおほんみかみ』のそこ(ほんみ)は、その一つ一つの言葉じゃなくて、一つの一塊なんですよ、発音として。でも、それをちょっとわかってもらうために、ああいう分け方をしましたけども。あそこは一文字。(一文字とは、人文字→ひと文字、つまり支えあって2文字なんです。”ほんみ”は2文字で発音し、”ほ”でも ”ん”でも ”み”でもなくすべてのすべて→みんなまことの神さま・・というような響きです。河上注)

質問者
 「ん」が入ってたのは…。

河上さん
 『あ ま て ら す お お み か み』で十文字でしょう?

質問者
 「お ほ み か み」で十文字。

河上さん
 だから、十文字になるように、あれだけで言うと十文字超すんですよ。「おほんみかみ」ってやるとね。「ん」を入れると。

質問者
 「ん」を入れる?

河上さん
 十文字超すの。

質問者
 元々「ん」は入ってたんですか?

河上さん
 いや、だって違うの。だから十文字なんだけども。どう言ったらいいんですかね、日本語に単音じゃなくて複合された発音しにくい言葉。英語でいう、なんて言うんですかね。「ア」と「エ」の間の「エ」「ウン」っていうような発声のいる言葉なんですよ。だから、これは秘奥義で秘儀でね、直接伝授するしかない言葉なんですけども。もうちょっと、いよいよ時間切れなんで、後は皆さんの中で十文字になるように、そういう発音を考えていただいて。「うん」じゃない、「ほ」でもない、「お」でもない。(”ほんみ”は2文字で発音し、”ほ”でも ”ん”でも ”み”でも なくすべてのすべて→みんなまことの神さま・・というような響きです。河上注)

質問者
 ありがとうございます

司会者
 ありがとうございます 

河上さん
 ありがとうございます また今月もお会いできて嬉しく思います。本当にいよいよね、新しい時代に入ってしまいました。いろんなことが起こります。起こりますけども、水道水がどんどん汚染されてるとかね、言うけども、もうどれもこれも汚染されて何も汚染されてないものはないという時代に入っちゃったんですよ。でも、今、説明したように、ただただ真(まこと)のプラスの言葉を駆使してマイナスを発しなかったら、一切の影響は受けないです。その汚染された水、汚染された食べ物を食べて影響受けるのは、自分の発したマイナスのせいですから。だからいよいよ、おまけがないけども、逆に言うと、自分が一切のマイナスを発しなかったら、あっという間に悟れる時代になったわけです。もうそれだけです。

 だから、例えば人が働くのを当てにするというのは、もうマイナスなわけですよ。自分ができる範囲で、ちょっとでも、みんなを支えるような形になろうとしてたらプラスなんです。この現世的な普段の生活の中で説明しますとね。ちょっとでも誰かになんとかしてもらおうと思ったらマイナスなんで、すぐ病気になる時代になったんです。本当にある意味厳しいですけど、ある意味ものすごい楽な時代なんですね。ちょっとでも自分に本当これだけしかできないけど、誰かのためになるようにしようってしてたら、健康で病気にはならない。そういう時代に入りました。

 そして、歯を食いしばらないようにね。歯を食いしばるというのは、自分でなんとかしようと思ってるの。自分でなんとかしようというのは、神さまと自分を分けてるからマイナスなんです。歯を食いしばらずに力むんじゃなくて、歯を食いしばるというのは力むということです。それで、息むということね。歯を食いしばらずに、息んでやってください。そしたら、自在に今まで以上に疲れずに、それで、食べる量も少なくても平気でいられる時代になります。もう、ただただ、そういう新しい時代になりましたのでね。なんていうんかな、あまり難しく複雑に深刻に考えずに、力むじゃなく息んで喜んでなんでもこなしていくんだと思ってください。

 まず、この大自然の姿を見ていただいたらいいです。真(まこと)の神さまは、この大自然の姿そのものなんですよ。太陽も空気も水も無料で与えてくださってるでしょう。それで、どういうんですか、この木でもね、寒くなったら(葉が)落ちて、あるいは条件が悪くなったら、朽ち果てて枯れてっていうことになっても一切文句言わないでしょう。神さまが一番いいようにしてるって大自然は知ってるから、淡々と全てをこなしていくわけですよ。だから、その姿をね、よく見て、自分もただただ淡々と与え尽くし、一切を報い求めずに与え尽くすだけなんだと。ただ、自分が入ってるとね、一切を求めずに報い求めずに与え尽くすと言うと、「これだけしか与えてきれない」とかね、結果を掴むわけ。結果を掴んだ時は、自分がしようとしてるからマイナスなんです。一切の結果を掴まずにやってください。

 今まで、こういう新しい時代に入る前はね、みんな結果を掴んでるから、小さい自分の意識で、こういうことをしたいんだっていう希望があったら、その希望を心に思って祈ったら希望が実現するとかね。先生が方便でおっしゃいましたけど。小さい自分の希望なんていうのは、他の人にとったら不幸なんです。

 この世のものってそうでしょう。1人の人が、いつも言うように100個のパンですよ。100人に100個のパンがある。でも、「私はアンパン5つ食べたいねん。」って言って、1人が5つ食べたら、5人の人が食べれらなくなるじゃないですか。そういう感じで、自分の希望を実現させたら悲しむ人が出るんです。でも、神さまの喜び、神さまの命という神さまの希望を実現させたら、みんなが幸せになる。その神さまの希望を実現する方法は何かというと、一切を報い求めずに与え尽くす。それも、与え尽くす内容、結果に心を奪われないということです。どの形も、その人にとって一番必要な形に神さまが収めてくださいますから、自分は、これだけしかできなかったではないというのだけわかっていただくと、なんて言うんですかね、神さまの絶対の愛、「無条件の愛」「無条件の喜び」「無条件の幸せ」がわかります。

 無条件というのは、結果を掴まないから無条件なんです。結果を掴んだら条件がついて苦しむんです。先生が「無条件の喜び」「無条件の幸せ」言葉を変えて「無限の無限の喜び」「無限の無限の幸せ」とおっしゃったのは、一切の結果を掴まないという。一切の結果を掴まないって何かと言ったら、どの状態でも神さまは、その人にとって一番いいようにしてるっていう、その絶対の信です。そこさえあれば、この新しき時代を本当にみんなで仲良く暮らしていけますので、ぜひ真(まこと)のプラスの言葉を駆使する自分ということを理屈抜きにわかっていただきたい。真(まこと)のプラスの言葉を駆使する、「じゃあ私、16項目読んでるわよ」ではないんですよ。噂話に乗ったらマイナスを言ってる。結果を掴んだらマイナスを言ってる。もうそればっかりなんですね。

 無意識に言い訳してる、マイナスを言ってるなんです。だから、ちょっとでも言い訳したら、ちょっとでも結果を掴んで気にしたら、ちょっとでも人がなんとかしてくれることを当てにしたら、「ああマイナスを出してる」と思ってね、反省して『印可書』なり、『あまてらすおほんみかみ』なり『ありがとうございます』なりを使って、真(まこと)の神さまに戻ってください。

 本来、真(まこと)の神さまとしての自分ですから、ありとあらゆる場所に同時に立ってるんですよ。でも、皆さんは、まだ肉体だと、肉体が自分だと思ってるから、この秒速30万キロメートルという、この現世の世界しかないと思うし、そこに心を奪われて右往左往をしてるわけですね。それで今度は死んでからも秒速30万キロよりも少ない世界に落ちてしまったり、それより早い世界にあがったりしても、所詮それは、まだまだ虚の世界ですから幸せではない。だから天人五衰(てんにんごすい)という日本語があるじゃないですか。天国に行かれた方でもいずれは落ちてくるっていうね。それは虚の世界だからです。

 真(まこと)の本心の世界というのは、一切の結果も何もない、ただ喜びだけだから、そんな落ちるも落ちないもないんですけどね。それが実感できる時代に入ったんだと思ってください。マイナスの言葉さえ出さなかったら実感できる時代になったんです。もう怖がらせて言うと、ちょっとでもマイナスの言葉を出したら、その世界にどんどん落ちていくぞ というだけですけどね。怖がる必要はないです。真(まこと)のプラスの言葉だけを駆使したらいいの。もう何もわからんかったら『印可書』だけ読んでたらいいの。それだけ。『印可書』だけ読んで結果を気にしないこと。結果を気にした時は言い訳してる。言い訳したら、もう全部が崩れていくんだと。そういうスピードが速くなった時代に入ったんですけどね。あっという間に全てが変えれる時代なの。だから、あっという間に、この世が滅びる時代とも言えますし、あっという間に、この世が先生のおっしゃる理想天国の時代になる時代にもなったとも言えます。どっちにでも転ぶというか、決めれるんですね。

 今はまだ人類の意識はマイナスを掴む癖が一杯あるわけです。マイナスを掴む癖の最たるものは、原理主義と言うんですけども、自分たちが一番だっていうわけです。これ民族意識とも言うんですけど。昔だったら大和民族が一番だとかあるじゃないですか。それで、例えば中東へ行くとね、その原理主義があって、このイスラム教を奉じないもの以外は全部殺してしまえみたいな極端な教えもあるわけ。いろんなそういう原理主義はダメなんですよ。自分たちは最高で他は全部ダメなんだっていうのは、もうすでに間違いなの。すべて真(まこと)の神さまであって、その真(まこと)の神さまの現れとしていろんな表現があるだけ。民族として日本人であったりアメリカ人であったり、色々あるわけですね。

 これヨーロッパに行くと、もう一杯の人種がある。ヨーロッパに行かなくても、例えばミャンマー、ビルマですね。ビルマに行くと100の民族があるんですよ。だから、あの国はまとまりにくいんですけども。それ、なんでかと言ったら、100の民族が一人ひとりが「自分たちが一番だ、他はダメだ。」ってやってるからですよ。みんながそれぞれ顔、形が違うように、民族という形が違うだけで、みんなで支え合っていくだけなんだとなった途端に変わるんですけどね。でも、「こっちの主義に合わせろや」とか言って相手を強制した途端に崩れていくわけです。

 そのためには、ここでの『真祈り』が本当に大事なんですよ。ここの『真祈り』を、この護摩の会場という大増幅器を使って全世界に響かせることによって、お互いに支え合う。要するに本当に極端な理屈で言うとね、顔、形が違うものは全部ダメだってなるわけ。自分しか残らないでしょう。同じ顔の人はいないからね。でも、そうじゃなくて、みんな顔、形も違う、性格も違う、性別も違うけど、みんなで仲良く支え合うわけでしょう、本当はね。それが民族的レベルでもそういうふうに民族レベルで支え合う。宗教レベルでも、宗教は違うけども支え合うというふうにならなくちゃいけない。

 そのためには、支え合いの気持ちというのは、人の働きを、人になんとかしてもらおうと当てにする気持ちを持たないことなんですけど、そのためには『真祈り』しかない。『真祈り』を『印可書』を響かせていただいたら、『ありがとうございます』を響かしていただいたら、『あまてらすおほみかみ』響かしていただいたら一気に変わりますから。もうそれだけです。一切報い求めない心が『真祈り』ですから。もうそれだけで、また、来週ですけども、もう一度お会いできることを楽しみにしています。本日はありがとうございます

司会者
 ありがとうございます

 本日の護摩焚きで焚き上げた護摩木の枚数は、4万8797枚でした。今年度1月から焚き上げた護摩木の総数は、100万枚を超えました。101万5391枚です。ありがとうございます

 音声はこちらからどうぞ
 https://youtu.be/OfJFzrHfiFg

 宇宙神ありがとうございます

 大祓詞

天原爾(タカマノハラニ)。神留坐(カムズリマス)。皇親(スメラガムツ)。神漏伎神漏美乃(カムロキカムロミノ)。命以弖(ミコトモチテ)。八百萬神達乎(ヤホヨロズノ カムタチヲ)。神集(カムツトヘ)。集賜比(ツトヒタマヒ)。神議(カムハカリ)。議賜弖(ハカリタマヒテ)。我皇孫命波(アガスメミマノミコトハ)。豊葦原乃(トヨアシハラノ)。水穂之國乎(ミズホノクニヲ)。安國止(ヤスクニト)。平久(タイラケク)。所知食止(シロシメセト)。事依志(コトヨサシ)。奉伎(タテマツリキ)。如此寄志(カクヨサシ)。奉志(マツリシ)。

國中爾(クヌチニ)。荒振神等乎波(アラフルカムドモヲバ)。神問志爾(カムトハシニ)。問志賜(トハシタマヒ)。神掃(カムハラヒニ)。掃賜比弖(ハラヒタマヒテ)。語問志(コトトヒシ)。磐根樹立(イハネキタチ)。草之垣葉乎毛(クサノカキハヲモ)。語止弖(コトヤメテ)。天之磐座押放(アマノイハクラオシハナシ)。天之八重雲乎(アメノ ヤヘクモヲ)。伊豆乃(イツノ)。千別爾(チワキニ)。千別弖(チワキテ)。天降依志(アマクダシヨサシ)。奉支(マツリシ)。如此依左志(カクヨサシ)。奉志(マツリシ)。

四方之國中登(ヨモノクニナカト)。大倭日高見之國乎(オホヤマトヒタカミノクニヲ)。安國止(ヤスクニト)。定奉弖(サダメマツリテ)。下津磐根爾(シタツイハネニ)。宮柱太敷立(ミヤハシラフトシキタテ)。高天原爾(タカマカハラニ)。千木高知弖(チキタカシリテ)。皇御孫之命乃(スメミマノ ミコトノ)。美頭乃(ミツノ)。御舎仕奉弖(ミアラカツカヘマツリテ)。天之御蔭(アメノミカゲ)。日之御蔭止(ヒノミカゲト)。陰坐弖(カクリマシテ)。安國止(ヤスクニト)。平氣久(タヒラケク)。所知食武(シロシメサム)。國乃中爾(クヌチニ)。成出武(ナリイテム)。天之益人等我(アメノマスヒトラガ)。過犯家牟(アヤマチオカシケム)。雑々罪事波(クサクサノツミコトハ)。天津罪止(アマツツミト)。畔放(アハナチ)。溝埋(ミゾウメ)。樋放(ヒハナチ)。頻蒔(シキマキ)。串刺(クシサシ)。生剥(イケハギ)。逆剥(サカハギ)。屎戸(クソヘ)。許々太久乃(ココダクノ)。罪乎(ツミヲ)。天津罪止(アマツツミト)。法別氣弖(ノリワケテ)。國津罪登八(クニツツミトハ)。生膚斷(イキハダタチ)。死膚斷(ナオニタチ)。白人(シラヒト)。胡久美(コクミ)。己母犯罪(オノガモヲオカセルツミ)。己子犯罪(オノガコヲ  オカセルツミ)。母子犯罪(モトコトオカセルツミ)。子母犯罪(コトモトオカセルツミ)。畜犯罪(ケダモノオカセルツミ)。昆虫乃災(ハフムシノワザワヒ)。高津神乃災(タカツカムノワザワヒ)。高津鳥乃災(タカツトリノワザワヒ)。畜仆志(ケモノタオシ)。蟲物為罪(マジモノセルツミ)。許々太久乃(ココタクノ)。罪出武(ツミイデム)。如此出波(カクイデハ)。天津宮事以弖(アマツミヤコトモチテ)。大中臣(オホナカトミ)。天津金木乎(アマツカナキヲ)。本打切(モトウチキリ)。末打斷弖(スヘウチタチテ)。千座置座爾(チクラノオキクラニ)。置足波志弖(オキタラハシテ)。天津菅麻乎(アマ ツスガソヲ)。本苅斷(モトカリタチ)。末苅切弖(スヘカリキリテ)。八針爾(ヤツハリニ)。取辟弖(トリサキテ)。天津祝詞乃(アマツノットノ)。太祝詞事乎(フトノットコトヲ)。宣禮(ノレ)。


 あまてらすおほんみかみ  あまてらすおほんみかみ あまてらすおほんみかみ と、ここは、心の中で、奥義 秘儀 秘奥義 の秘語として、黙して唱える。(3から8回) 


 如此宣羅波(カクノラハ)。天津神波(アマツカムハ)、天磐門乎(アメノイハトヲ)。押披弖(オシヒラキテ)。天八重雲乎(アメノヤヘクモヲ)。伊豆乃(イツノ)。千別爾(チワキニ)。千別弖(チワキテ)。所聞食武(キコシメサム)。國津神波(クニツ カミハ)。高山末(タカヤマノスヘ)。短山之末爾(ヒキヤマノスエニ)。登坐弖(ノボリマシテ)。高山伊恵理(タカヤマノイヘリ)。短山伊恵理乎(ヒキヤマノイヘリ  ニ)。掻別弖(カキワケテ)。所聞食武(キコシメサム)。如此所聞食弖波(カクキコシメシテハ)。諸罪止(モロモロノツミト)。云布罪波(イフツミハ)。不在止(アラシト)。祓申志(ハラヒモフシ)。 清目申事乎(キヨメモウスコトヲ)。科戸之風乃(シナトノカゼノ)。天八重雲乎(アメノヤヘクモヲ)。吹掃事之如久(フキハナツコトノゴトク)。朝之御霧(アシタノミキリ)。夕之御霧乎(ユフヘノ ミキリヲ)。朝風夕風乃(アサカセユフカセノ)。吹掃事如久(フキハラフコトノゴトク)。大津邊爾(オホツヘニ)。居大船乎(ヲルオホフネヲ)。舳綱解放(ヘツナ トキハナチ)。艫綱解放弖(トモツナ トキハナチテ)。大海原爾(オホウナハラニ)。押放事如久(オシハナツコトノゴトク)。彼方之繁木本乎(オチカタノシゲキガモトヲ)。燒鎌乃(ヤキカマノ)。敏鎌以弖(トカマモチテ)。打掃事如久(ウチハラフコトノゴトク)。遺禮罪波(ノコルツミハ)。不在止(アラシト)。祓給比(ハラヒタマヒ)。清給事乎(キヨメタマフコトヲ)。高山乃末(タカヤマノスヘ)。短山末與利(ヒキヤマノスエヨリ)。佐久那谷爾(サクナタニゝ)。落多支都(オチタキツ)。速川能(ハヤカワノ)。瀬坐須(セニマス)。瀬織津比[口羊]止(セオリツヒメト)。云神(イフカミ)。大海原爾(オホウナハラニ)。持出奈牟(モチイタシナム)。如此持出往波(カクモチイタシイナハ)。荒鹽之鹽乃(アラシホノシホノ)。八百道乃(ヤオジノ)。八鹽道之(ヤシホジノ)。鹽乃(シホノ)。八百會爾(ヤオアイニ)。坐須(マシマス)。速開都[口羊]止(ハヤアキツヒメト)。云神(イフカミ)。持加々呑弖牟(モチカカノミテム)。如此可々呑弖波(カクカゝノミテハ)。氣吹戸坐須(イフキトニイマス)。氣吹戸主止(イフキトヌシ)。云神(イフカミ)。根國底之國爾(ネノクニソキノクニゝ)。氣吹放弖牟(イフキハナチテム)。

此氣吹放弖波(カクイフキハナチテム)。根國底之國爾(ネノクニソキノクニゝ)。坐(マシマス)。速佐須良比[口羊]登(ハヤサスラヒヒメト)。云神(イフカミ)。持佐須良比失弖牟(モチサスラヒウシナヒテム)。如此佐須良比失弖波(カクウシナヒテハ)。今日以後(キョウヨリノチハ)。罪止(ツミト)。云罪咎止(イフツミトガト)。云咎(イフ トガハ)。不在物曾登(アラシ モノソト)。祓給清給事乎(ハラヘタマヒキヨメタマフ コトヲ)。八百萬神等(ヤオヨロズノカムタチ)。平安所聞食申須(タヒラケクヤスケク。キコシメセト。マホス)。


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