真祈り文庫-特集 -2
鳥居に入ったところに像がありますが
-ありがとうございます-
今日、皆さんで(不明)御陵に行かれましたが、惟喬親王さんと御陵(不明)
ありがとうございます:
鳥居に入ったところに像がありますが、ちょっと私に似ていますか?・・・・はははは。だんだん私に向こうのほうが似てきたみたいです。はははは。これは冗談です。歴史上の話はいろんな文献にも書かれているのですが、そういうのは省略しまして、今の時期に何故に惟喬親王さんが、原田観峰宗師という、霊感の鋭い人のとこへお告げに出てこられたかと・・・。
今の時代は大きく変革する時期なのです。今から30年?前だと思いますが、夢枕にお告げに立って、ここを(不明)伝える場所に、心の修行の場所にしなさいという形でお告げがあったという・・・・。
あの、惟喬親王さんの御陵のところは、皇の聖地という形で、あそこを中心に山全体が光り輝いているのです。だからそこへ足を踏み込むだけで、すっと清めてもらえるという場所です。山の神さまというのが昔からあり、白竜さん、大きい白竜さん、竜神さんでもいろいろ種類があるのですが、白竜さんが一番段階が上で、清めの力があるのです。いろんな自然現象を起こすのは下のほうの竜神さんです。
本当の清めの働きをするのは白竜さんです、白竜さんというと、なにか光の強いふうに思っていますが、いろんな姿に自由自在に変身できるのです。神さまというのは、ある時はある竜神さんが竜体を現すのですが、観音さまにも化けられ、もう、自由自在に変身できるのです。それである時、写真に撮ったら、竜神さんの姿がすっと出てきて、その上に観音さまの姿がすっと出て写っているのです。それでその竜神さんの頭に乗っているかというと、そうでもないのです。竜神さんが観音さまの姿をとっているような感じです。
だから本当は、神通自在の、自由自在の観音さまといったら変身自在です、仏の三十三身を現してすべての衆生を救うというのです。白竜さんもすごい力のある神さまで、清めの働きがあって、自由自在にすべての人の心を清めて高め上げる、そういう働きをしてくれるのです。その竜体をもって現す姿というのは、山全体がそうなのです、山全体が本当は竜神さんの体になっているのです。そういってそれがすべてかというと、そうではありません、奥にもう一つ大きい竜体があって、ちょうど人間でいうと、本体の自分、と無限に大きいのです。
その魂にしてもいろいろ大きさがそれぞれ違うのですが、心が自在に広がると大きい魂的なものが出るのです。ところが肉体というとこんなにちっぽけなものです。だから竜神さんも同じ働きをするのです、大きい働きをして奥で働く姿は大きくても、この形は小さい山、というような感じです。その山の神さまを、惟喬親王さんも深く尊敬されて、いつもお参りされていたのです。
今の時代は特に変革の時期というふうに言われていて、世界情勢を眺めてもいろんな出来事があります。それはもう今に始まったことではなく、数十年前からそうですから、神さまの方から前もって前もって準備されているはずなのです。だからその、感謝する人が増えてくるということも、ある意味ではもう、何十年前から計画されていて、ずうっと守り導き続けて、やっと感謝できる状態にまでもってきてくれたというのが本当です。
そういう神さまの計画がずっと昔からあって、その時期が来たら、必ずいろんな働きをされるのです。そこであの皇学園という修行道場も、そういう意味で、神さまの方から応援されて作られたのです。御陵のところも、本当はあそこはもう寂れてしまって、荒れ果てた状態だったらしいのですが、今は綺麗になっています。
(不明)それはもう惟喬親王さんのお付きがあって、それで原田観峰さんという方が巨額のお金を投資された・・・。それで大勢のボランティアの人を使ってあそこを開かれたのです。最初は道は無かった・・。今は車が走れる道がありますが、当時は無かったのです、本当に山の細い道、歩く道しか無かったのです。それを今ああいうふうに(不明)入れる道がちゃんと出来ています。あの道が無かったら今でも山の中歩いて・・・・。それも全部(不明)作ってくれているのです。
聖地というのはやはり神さまが大きく働く場所として、昔から用意されているのです。そこへ踏み込むだけで清めの働きを受けて、皆がりっぱな働きをするようにと、前もって用意されているはずなので、必ずそこへ来る人も定められていて、偶然や何かでは来られないようです。特にこんな山の奥へ!やはり神さまの方でちゃんと計画していて、(不明)ちゃんと時期が来て、ちゃんと用意して、そして縁を結んで引き合わせてくれる・・・。
あの、聖地を守っているのは白竜さんだけではありません、古神道系の高い神さまがいっぱい守りについているのです。それぞれに皆、縁があり、深い縁があって守りについています。古神道系というと、名前を出さない神さまが多く、名前なんか出てきません、自分を隠して隠して、それで大きい働きをした人なんかが来るのです。それも立派になった人、神に神格を得て大きい働きをするような神さまがいっぱいいるのです。だからいつもは見ようと思っても見えないのです、姿を隠してしまっています。でも本当に縁があって必要な人が来たら、すっと助けてくれるのです、それも姿も見せずに。姿を見せると囚われるから、姿を見せずに必要な助けをすっと与えてくれるわけです。
だからあそこへ行くだけで、いろんなマイナスをすっと取ってくれて、切ってくれて、それで気づきが出てくるのです、本当に不思議な場所です。本当は「気づく」というのは大事なのです。それは「気づく」というのは、奥の本当の自分が出てこないと気づきません。だから感謝するというのは同じです。感謝して、ありがたいと気づくというのが本当の感謝なのです。
だからその気づくまでに、普通は祈り言葉を一生懸命に唱えないとダメなのです。気づく自分を引っ張り出すという意味で。その為には一生懸命に祈り言葉を唱えて、やっと気づく自分を引っ張り出せるのです、呼び出せるのです。ところがそれをしなくても、すっと気づく自分になるというから、ものすごい働きを加えてもらっているのです。何億何万回「ありがとうございます」唱えてから、やっと涙がコロッと出るのです。
でもあそこは、逆に、入っただけですっと嬉しくなって、涙が感激のあまり流れたりする人があるらしいのです、それは人によって全部違うのですが。だからそれだけの大きい働きが無かったら、大勢の人を立派に変えて大きい働きをするようには出来ないのです。それも、何か一つの形を作って、組織化して、そういうふうにするというのは古神道のゆき方ではありません。人を中心にしたり、何かを中心にする、形の中心はいらないのです。
だから一人一人が本当に立派になって、本当の神さまを中心にしって、神さまの御心に従って一人一人動かないといけません、あくまでも一人一人が独立しないと。それは一切の縛りを加えないゆき方です、だから教えでも絶対に縛ったらダメだし、ありとあらゆる縛りを全部排除してしまわないといけないのです。だから組織を作ったら、何か団体を作ったらいけないのです。いろんなサイバー村でいろんな村が出来るかもしれませんが、村というのは組織でも団体でもありません、出入り自由なのです。団体とグループ、組織になると、ちょっと縛り出来てきますから、自然に出入り自由に群がってくるのはいいのです。
だから縛りの無い姿で、本当のものを内側から出てこないと・・・。そういう意味の本物を生み出す場になっているのです。ただ必ず本物を発信してゆく場所という意味で、そういう働きをする人を集めて、そういう力を添えてくるのです。それは惟喬親王さんが代表的に現れて、三十数年前に、計画的にいろいろな働きをしてこられてきたのです。歴史上の惟喬親王さんもかなり立派だったと言われているのですが、あくまでもそれはちっぽけな問題です、今現れている方が遥かに大きい働きをして出てくるのです。だから日本ではなく、世界規模で大きく働いて、地球を大きく変革しようと働いていて出てきているのです。
別に肉体が無くても、そういうのは無関係です、肉体なんて相手にしていないのです。本当の奥の大きい働きをもって、一人一人の本体の自分、本当の本心を引っ張り出してくれる大きい力を添えています。逆に言うと、みんな中へ、惟喬親王さんはじめ古神道の神々が中へ入って働き、一体化してくるのです。神さまが一体化してくれたら本当の力になります。だから本当は皆、神さまと別れて自分というのがあるというふうに思う人があるかもしれませんが、でも本当はそうじゃないのです。
なんか暑いですね・・・・。はははは。ちょっと光を入れ過ぎているという感じです。はははは。神さまが清めに降りてきた時は、いろんな働きがあるのですが、ものすごく暑くなる時があります。もう瞬間に汗がばっと噴出すような・・・。またその逆の時もあります、高い光が降りた時、本当に震えが止まらない位に寒くなる時があります。だからいろんな神さまの清めの働きが降りるのですが、今はちょっと暑いです・・・。はははは。
だからその位に清めの神さまの働きは想像以上に大きいのですが、でも「人を縛らずに」という所は、「これだけのことしてあげたよ」というのを見せてきません。もう知らない間に、大きい助けを与えてくれるのです。(不明)どうしても、これだけ助けてもらったからという、恩にきるのはいいのですが、縛りになるのです。だからいろんな宗教団体で、そこでいろんな修行して信仰して、いろんなお陰をもらうと、どうしてもそこへ縛られてきます。
あと、これ救われたから、ここは絶対に見せられないと思い込んでしまうところがあるのです。そうすると、形に縛られると、本当の自分の持っている自由自在の働きが出来なくなってしまいます。本当は神さまは途中でいろんな体験をさせて、自由自在の立場で大きい働きをさせようと準備していたかもしれないのです。ところが途中で止まってしまう・・・・。そういう人が多いのです、いろんな信仰している人やそこから抜け出せない人は多いのです。それは形のいろんな姿に縛られてしまうのです。だからそれを絶対しないというのが本当の古神道のありかたなのです。
だからここへ来て皆さんがいろんな気づき与えてもらっても、それはここで得たのではありません、先に皆さんの方で気づいて来ているのです。ここで話しをしてもらうこと全部、分かっていて来ているのです、来てすっと理解できる、納得する、確認しているだけです。
そういう確認して、分かる自分にしてもらったのはどうしてか?自分の努力ではないのです、知らず知らずのうちに大勢の神さまに変えてもらったのです。その神さまの苦労というのは大変だと思います。
そういうふうに、姿も見せずに働きも感じさせずに守り抜いてくる神さま、これが本当の古神道系の神さまです。そういう神さまが大勢守って、これから世界を変えると・・・。だから世界の中心は何処にあるかというと・・・。中心というのは本当はお祈りして、大きい神さまの働きを受け容れる場所が本当は中心なのです。しっかりお祈りする人の集まる場所が本当は中心になってゆくのです。
だから一定の形はありません、過去の聖地だと言われても、そこは過去にお祈りする人が大勢いたということです。時代の移り変わりと同時に、お祈りする人の数も変化します。いろんな世界の宗教の聖地はあちこちにあるのですが、聖地争いするような所ではありません、そこで本当のお祈りをしたら聖地なのでしょうが。
だから過去の聖地では力が無いのです。今改めて、深いお祈りをする人が増えてきたら、本当に世界を大きく置き換える力が発揮される聖地に変わり、世界の中心になってゆきます。まず日本がそうならないと、日本全体が。だから一定の場所が中心というふうに決め付けられてくると、皆それに囚われてくるのです。例えばここの「皇」の聖地が中心だと言うと、囚われてしまうのです、中心争い起こすかもしれません。
だからここが中心というのは誰も分からずに、あくまでも神さまが中心です。それでいて、お祈りする人が全国に散らばって、光のネットワークが構成されて、全体が中心なのです。だから中心が普通の人には分からないのです。それでいて、世界を動かす中心的な働きがあるというのです。そういうのが一番理想的です。
日本が世界を変える働きをする中心と言っても、世界が日本に対して恩を感じるようだとダメなのです、押しつけになります。知らぬ間に世界が立派になって幸せになって平和になるのがいいのです。それでいて、やはり日本がその大きい働きを担っていないと本当は嘘です。感謝のお祈りというのは、感謝の中に即、謙虚さが一体化して存在しますし、感謝のお祈りをする人は、感謝を深めたら深めた分だけ謙虚さが無限に無限に大きくなって出てくるのです。
無限の謙虚さというのは感謝の中にしかないのです。マイナスを体験して苦労したから謙虚になれるかいうと、そうではありません、逆に囚われてしまいます。でも感謝のお祈りを続けて深まったら、即謙虚な心になれるのです。すべてをプラスに見てゆく自分になっています。これは一番楽な、本当に謙虚になる方法なのです。
その謙虚さというのが本当は神さまにとったら一番大切だよと・・・神さまの本当の助けを自然に受け容れられる心です。世界に対して日本がいろいろ役割果たしてゆくのに、その謙虚さがあったら、そこへ神さまの大きい助けが降りてくるのです。まず日本人は謙虚になるというのが本来の役目なのです。昔からそうです、日本の国柄というのは。
いろんな言葉を発する場合に(不明)、子供が学校へゆく時は「行ってきます」で、「私が行ってきます」とは言いません。自分を全部省いてしまいます、これが日本の本当の姿です、自分というものが無いのです。そういうのが一番謙虚なありかたなのです。
だからもともと謙虚さが備わっていたのです、今さら謙虚になるよう努力しなさいではありません。もともとある謙虚さを自然に発揮してゆくというのが、本当の日本のこれからのあり方だと思います。自由でも平等でも、日本には最初から備わっているのです。だから殊更、自由だ平等だとそれ実現しようとしなくてもよかったのですが、でも外国はそうではないようです。
日本にはもうすべてが備わっていたのです、それでこれから自然に出てくるように仕組まれているのです。「ありがとうございます」という言葉も日本に誕生しているということも、与えられているということも、本当に不思議です。これも皆、神計らいで、神さまから与えられているものなのです。だから神さまから与えられたものは私有する、私物化したらいけないのです。もうすべて全体へ、恩返しの心で与え返してゆくのです。
日本の本当のいいものは全部世界へ無償提供し・・・それも、それだけ与えたよという感じではなく、もう謙虚な謙虚な心で、どうかご利用下さいという感じで。頭を下げて、土下座しても、どうぞこれをお使い下さいという感じで捧げてゆくのがいいのです。そうした生き方が世界を本当に大きく変えてゆくのです。
世界にいろんなものを援助するという、物資を援助するのでも、謙虚さがないとたぶん反発をくらいます。出来たら、これだけのことをしたというのを隠した方がいいのです、隠して隠して、そして皆を助けてゆくのだったら、皆に喜んでもらえます、世界中のすべてから喜んでもらえます。人にいいもの与えたというのでも、与え方が大事なのです、恩をきせる与え方ではいけません。
だから本当の徳の積み方は「陰徳」が大事だと言います、人知れずにする、本当の神さまの働き、これが本当の徳積みなのです。だから神さまに使ってもらって良いことをしても、人に認められたら、もう見られたら、帳消しっていうぐらいに(不明)。いいことをしても、人に知られそうになったら、「私知りません」といって逃げないといけません。その位がいいのです、「他の人でしょう」と。それで、悪いことは「私がしました」と。
本当はいいことをしながら、悪く言われる方が、逆に徳が消えないのです。いいことをして誉められたら徳が消えるのです。だから徳を大きく積み重ねるには、いいことをして悪く言われるのも良いことなのです。こういう話、ちょっと分かってもらえますか?
御陵のあり方というのも、歴史上の話もまたいろんな本にも書かれているし・・・。参考にはされたらいいと思うのですが。心の(不明) どういうふうに神さまが計画して、皆を立派に変えて、どういう働きかけようとしているか、分かってもらえたらありがたいです。
ありがとうございます
「あ」が、絶対、光源とか、命の根源とか、光、命
-ありがとうございます-
ありがとうございますの意味を教えてください。
ありがとうございます:
言霊的に、どういう意味があるかという・・・。
「あ」が、絶対、光源とか、命の根源とか、光、命という意味です。「あ」は、すべての始まりという意味でもあるのです、始まりだから絶対です。
「り」は、ラ行の音というのは螺旋状を表すのです。だからその、絶対のものが必ず相対の両極に振り分けられて、それが螺旋状に放射されて組み合わさってゆくのです。直線の交わりは一点しかありませんが、螺旋状だと小さいものから順番に大きくなってゆくので、交わりが無限に出来て、形が相似形の姿で、小さい物から大きい物まで全部揃うのです。
本当は神さまの相対の両極は無限に近(多)いから、組み合わせはもう想像を絶する・・・。すべてはもう上手に組み合わさります。一つの要素だったら単純に考えられるのですが・・・。でもそれもあくまでも全体の模型的な感じで簡単にして、創造するような感じです。実際はもっと無限に複雑です。だから螺旋状に放射されるというのが、この「り」の意味です。それで宇宙のすべてが「入れ子構造」、相似形の姿で生み出されるのです。
「が」が、「か」をだぶらせて、輝きに輝くという、それは無限に無限に輝くという意味なのです。神さまの創造された宇宙のすべて、これが無限に無限に輝いた姿をとっています。無限に無限に輝くと言うのでも、今度はもっとすごいのです。無限に無限に輝いた姿は大きく小さく無限に無限にまた輝いている・・・・。また底知れぬ輝きがあるのです。日本の言葉というのは、そこまで底知れぬものでも簡単に輝く輝くで終わるのです。
「とう」というのは、「とう」と言ったら、数字の「十」です。十字交差というふうにとるのです。また、ありが「たし」というと、ア行が縦の線で、サ行が横の線です。どちらも相対の両極を自由に組み合わせて、調和した姿を生み出すという働きです。調和というのは、部分の働きがきちっと決まって、丁度ジグソーパズルのように配置されて、それで全体がきちっとするのです、それが調和です。だから役割がバラバラで適材適所に配置されていなかったら混沌としてしまって、調和が生まれないのです。どういう小さいものまで個性があって役割が決まって、その一番適したところに配置されるのです。それが調和の姿です。だから中心があって、その中心に全部が統一されて決められているというのが、これが十字交差なのです。
この十字というのがキリスト教の十字架です。キリスト教の十字架は、抹殺と復活の両方があり、偽ものをクロスして抹殺して、本ものをプラスして復活させるという意味です。これも十字交差の一つの意味なのです。そして仏教は卍です、十字を回転させたら「まんじ」に変化します。右左、どっちに回っても「まんじ」になり、それが更に高速回転すると「円」になるのです。
本当のこの「ありがとう」の十字交差は「円」なのです。無限のスピードで回転して、すべての十字があって卍があって、全部を統括して・・・・。だから本当の大調和は「円」なのです、円の中心は(不明)、同心円は一つの中心に調和されています。無限の同心円もあります、小さいのから大きいのまで。それを全部一つに統括して中心があるのです。これが本当の意味での十字交差の(不明)。だから「円」になるのです、日本の日の丸の国旗、日の丸は「円」です。そこまで深い意味があるのです、本当の意味の「ありがとう」というのは、宇宙絶対統一神の最高の表現を指しているのです。だから天照大御神さまです。
「ご」というのは、「こ」をだぶらせています。凝り固まって、凝り固まってという意味です。この肉体は、ここから順番に物質化されて、この肉体が生まれてきます。その無限の無限のチャンネル、最高の番組を頂点にして、順番に次元を下げてくるのです。だから無限の無限のチャンレルが生み出される働きが、この「ご」です。「ありがとう」は最高表現です。その中が、一番上から順番に凝り固まって出てくる、無限に無限にチャンネルが生まれた姿をとるのです。
「ざ」は、「さ」をだぶらせています。「さ」というのは、川の流れがさらさら流れるという感じで、美しいもの、素晴らしいもの、命輝くものがさらさら流れているという、もう自然に変化してその変化が、ちょうど花の咲くように、中からすっと出てくるのです。自然の動きの中でいいものがどんどん生み出されるのです。だからその形あるものが押し流されるのではありません、中から一瞬一瞬新たに出てきたものが、流れに見えるのです。
そういう、絶対から順番にいいものがどんどん湧き出てくる、その流れをこの「ざ」で表しています。本当の変化、無常という、これは絶対から光が迸って流れるような感じの流れ方、変化です。形の世界を見て、形の流れを見るのは違うのです、本当の流れ方ではありません。ちょうど桜の花が散るような、自然にさらさらっと流れるのがいいのです。それでいて常に新しいものがどんどん出てきて、古いものに執着が無いという。これが「ざ」の意味です。
「い」は「命」の「い」です。どんなものも、石ころ一個、原子一個、全部本当に生きているのだという・・・。動くのだけが生きているのではないのです。もうすべてが、神さまの命を表して生きている。これが「い」を表します。
「ま」というのは、完きもの、完璧なもの、完全なものという意味で、この神さまの絶対から現れて、最高表現が生まれて、それで無限の無限のチャンネルが生まれて、その移り変わりが自然にさらさら流れる姿をとって、命が輝いているという、この全体の完璧極まりないという、これが「ま」です。その完璧極まりないものが、今度「す」で、また絶対へ戻るのです。
「す」というのは、鳥の巣、住まいの「す」もそうですけど、一番元へ戻る意味です。だから絶対から一瞬現れたものが、また絶対へ帰ってゆく、またすぐに出てくるという、その循環を表しているのです。その循環の仕方もまた、この「ます」で、弥増しに増すで、今現れたのが絶対へ戻って次に出て、もっといいものが殖えて、増して、どんどん良くなって変化するのです。それが「ます」という意味です。
「ありがとうございます」で、神さまのすべての働きを全部表すことになるのです。だから全体が神さまです。「ありがとうございます」が働く全体が神さま。この世の石ころ一個も本当は神さまなのです。自然とこの「無限の無限の輝きが一杯」という姿なのです。石ころ一個、原子一個もそうなのです。すべての存在の部分・全部そうなのです、それだけ深い意味があります。だから神さまという言葉の意味と同じぐらいです。同じと言ったら同じです、「ありがとうございます」が本当の神さまの究極の神名、最後の切り札です。
最後には皆さん全部、「ありがとうございます」の中へ入ってゆくのです、戻ってゆくのです。それで神さまの全体像を把握して、神さまと本当の意味で一体化して、神さまの中心に立ってしまうのです。だから中心というのはあくまでも、自分を謙虚に無くしてゆくところに中心が生まれるのです。台風の目もそうです。真空の(不明)そうすると大きい働きをして、そこが中心です。
だから謙虚になったところに神さまのすべてが流れ込みます、だから中心なのです。一人一人が中心に立ったら、全体がものすごく大きい働きをし、それでいて争いがないのです。自分が無い謙虚な状態ですから、お互いに自分を主張しないから、ぶつかり合いません。ぶつかり合わないけれど、それぞれが中心に立って大きな働きをするから、全体がものすごく大きい働きになるのです。そういう仕組みです。だからすごい言葉なのです、「ありがとうございます」というのは。
ありがとうございます
目的はきちっとあります、神さまの方に先に
-ありがとうございます-
(質問 不明)
ありがとうございます:
目的はきちっとあります、神さまの方に先に目的があるのです。それでその神さまからすべてを受け直した本体の自分も、正しい目的を定めることができるのです。でも本当の目的は、本当の自分に戻らないと決まらないのです。だから肉体の自分が、魂の自分が、本当の目的を定められない、定まらないのです。
例えば肉体の自分が「人生の目的とは何か」と考えます。肉体は必ず死んでしまいます、儚い、空しいものです。短い期間だけです、この世に留まるのは。そうしたらどんな目的を立てても空しい、はかなくなるのです。それをして何になるのかを考えてゆきます。そうしたら、消えてしまうのだったら、今消えても後で消えても同じだという考えに陥ります。だから肉体レベルでは本当の人生の目的って定まらないのです。
また、魂の自分にとってもそうです。魂も消えてしまう可能性が残されています。本心が輝いてしまったら、魂の働きが必要無くなるのです。本当に無限に輝いた自分がすべて、肉体でもすっと瞬間に動かすようになってきたら、魂は消えるのです。だから魂のレベルでも目的は定まらないのです。もう一つ奥の、本当の本体の自分へ戻らないと・・・。それも神さまの御心の中へ入らないと人生の目的は定まりません。
一人一人共通した人生の目的と、また一人一人異なる人生の目的があるはずです。役割としては、共通したのはやはり、神さまの御心を大きく全体に現す働きを皆で担っているという・・・・。感謝を深めることです、まずは。神さまのすべてを受け直す感謝の心を深くするというのが共通の目的です。その中で、受け直したすべての中から、今全体にとって何が必要かというのをまず考えないといけません。皆同じことをしたら、すべての働き(不明)だから皆違うことをして、全体が一つの調和した姿をとらないと、今何が必要かという時に、役に立たないのです。
皆、役割が変わらないとダメです、その時その時で。今、宇宙全体にとってどういうことが必要かという、これを的確に把握して、役割を決めて皆がそれぞれに個性を発揮して役割分担を果たして、全体として調和した姿をとるのです。で、次の瞬間、また役割を変えてもいいのです。Aという人が今、A‘という役割を演じたとします、次はBという人がまたB‘を演じる・・・。今度はAがB‘を演じてもいいのです。Bという人がまた別なCでもB’でも何でもいいのです。もう瞬間にコロッと変わってもいいのです。ただ全体にとって必要な役割を的確に果たすのが大事なのです。
本体の方から見ると、それだけ自由自在なのです、個性があるからといって凝り固まっていません。何でもできるけど、その時必要な、与えられた瞬間に的確に果たせるというのが本当の個性の持っている生き方なのです。だからそこまで入った時に初めて人生の目的は定まってゆくのです。
まず神さまの目的を一人一人が把握し、その神さまの御心に従って役割を果たしてゆくのです。だから、大きい役割、目的があります。
神さまのほうは元々与える側です、無限の無限のチャンネルを作ったというのも与える側に立っています。人の側はそれを受けるという役割が、まず大きいのです。その、人の受ける役割の目的にしても、いろんなチャンネルを勉強して、低いのも体験しないといけません。一番下も体験出来たらいいのです、一番下を体験した心で、立場で、最高の番組を無限に無限に価値ある姿で味わうのです。これが味わう上での、受ける上での最終目標、最高目標なのです。
また味わうだけでなしに、今度は創造する側に立つかもしれません。更に奥へ入って神さまと一体化してゆくと、無限の無限のチャンネルを作る側に参加するのです。そして作る側と、味わう側と両方こなしてゆきます。それも、作る側は大変だと思います、同じものを二つと作ったらいけませんし、二度と同じ事を繰り返してもいけないのです。厳しいです、これは神業です、神さまでないと本当は出