ありがとうございます
真祈り文庫へ

()(いの)(ぶん)()-特集 -2


       とりはいったところにぞうがありますが

-ありがとうございます-
 今日きょうみなさんで(めいりょうかれましたが、これたかしんのうさんとりょうめい

ありがとうございます:
 とりはいったところにぞうがありますが、ちょっとわたくしていますか?・・・・はははは。だんだんわたくしこうのほうがてきたみたいです。はははは。これはじょうだんです。れきじょうはなしはいろんなぶんけんにもかれているのですが、そういうのはしょうりゃくしまして、いまこれたかしんのうさんが、はらかんぽうそうという、れいかんするどひとのとこへおげにてこられたかと・・・。
 いまだいおおきくへんかくするなのです。いまから30ねんまえだとおもいますが、ゆめまくらにおげにって、ここを(めいつたえるしょに、こころしゅぎょうしょにしなさいというかたちでおげがあったという・・・・。

 あの、これたかしんのうさんのりょうのところは、すめらせいというかたちで、あそこをちゅうしんやまぜんたいひかかがやいているのです。だからそこへあしむだけで、すっときよめてもらえるというしょです。やまかみさまというのがむかしからあり、はくりゅうさん、おおきいはくりゅうさん、りゅうじんさんでもいろいろしゅるいがあるのですが、はくりゅうさんがいちばんだんかいうえで、きよめのちからがあるのです。いろんなぜんげんしょうこすのはしたのほうのりゅうじんさんです。
 ほんとうきよめのはたらきをするのははくりゅうさんです、はくりゅうさんというと、なにかひかりつよいふうにおもっていますが、いろんな姿すがたゆうざいへんしんできるのです。かみさまというのは、あるときはあるりゅうじんさんがりゅうたいあらわすのですが、かんのんさまにもけられ、もう、ゆうざいへんしんできるのです。それであるときしゃしんったら、りゅうじんさんの姿すがたがすっとてきて、そのうえかんのんさまの姿すがたがすっとうつっているのです。それでそのりゅうじんさんのあたまっているかというと、そうでもないのです。りゅうじんさんがかんのんさまの姿すがたをとっているようなかんじです。

 だからほんとうは、じんつうざいの、ゆうざいかんのんさまといったらへんしんざいです、ほとけさんじゅうさんしんあらわしてすべてのしゅじょうすくうというのです。はくりゅうさんもすごいちからのあるかみさまで、きよめのはたらきがあって、ゆうざいにすべてのひとこころきよめてたかげる、そういうはたらきをしてくれるのです。そのりゅうたいをもってあらわ姿すがたというのは、やまぜんたいがそうなのです、やまぜんたいほんとうりゅうじんさんのからだになっているのです。そういってそれがすべてかというと、そうではありません、おくにもうひとおおきいりゅうたいがあって、ちょうどにんげんでいうと、ほんたいぶん、とげんおおきいのです。
 そのたましいにしてもいろいろおおきさがそれぞれちがうのですが、こころざいひろがるとおおきいたましいてきなものがるのです。ところがにくたいというとこんなにちっぽけなものです。だからりゅうじんさんもおなはたらきをするのです、おおきいはたらきをしておくはたら姿すがたおおきくても、このかたちちいさいやま、というようなかんじです。そのやまかみさまを、これたかしんのうさんもふかそんけいされて、いつもおまいりされていたのです。

 いまだいとくへんかくというふうにわれていて、かいじょうせいながめてもいろんなごとがあります。それはもういまはじまったことではなく、すうじゅうねんまえからそうですから、かみさまのほうからまえもってまえもってじゅんされているはずなのです。だからその、かんしゃするひとえてくるということも、あるではもう、なんじゅうねんまえからけいかくされていて、ずうっとまもみちびつづけて、やっとかんしゃできるじょうたいにまでもってきてくれたというのがほんとうです。
 そういうかみさまのけいかくがずっとむかしからあって、そのたら、かならずいろんなはたらきをされるのです。そこであのすめらがくえんというしゅぎょうどうじょうも、そういうで、かみさまのほうからおうえんされてつくられたのです。りょうのところも、ほんとうはあそこはもうさびれてしまって、てたじょうたいだったらしいのですが、いまれいになっています。
 (めい)それはもうこれたかしんのうさんのおきがあって、それではらかんぽうさんというかたきょがくのおかねとうされた・・・。それでおおぜいのボランティアのひと使つかってあそこをひらかれたのです。さいしょみちかった・・。いまくるまはしれるみちがありますが、とうかったのです、ほんとうやまほそみちあるみちしかかったのです。それをいまああいうふうに(めいれるみちがちゃんとています。あのみちかったらいまでもやまなかあるいて・・・・。それもぜんめいつくってくれているのです。

 せいというのはやはりかみさまがおおきくはたらしょとして、むかしからようされているのです。そこへむだけできよめのはたらきをけて、みながりっぱなはたらきをするようにと、まえもってようされているはずなので、かならずそこへひとさだめられていて、ぐうぜんなにかではられないようです。とくにこんなやまおくへ!やはりかみさまのほうでちゃんとけいかくしていて、(めい)ちゃんとて、ちゃんとようして、そしてえんむすんでわせてくれる・・・。

 あの、せいまもっているのははくりゅうさんだけではありません、しんとうけいたかかみさまがいっぱいりについているのです。それぞれにみなえんがあり、ふかえんがあってりについています。しんとうけいというと、まえさないかみさまがおおく、まえなんかてきません、ぶんかくしてかくして、それでおおきいはたらきをしたひとなんかがるのです。それもりっになったひとかみしんかくおおきいはたらきをするようなかみさまがいっぱいいるのです。だからいつもはようとおもってもえないのです、姿すがたかくしてしまっています。でもほんとうえんがあってひつようひとたら、すっとたすけてくれるのです、それも姿すがたせずに。姿すがたせるととらわれるから、姿すがたせずにひつようたすけをすっとあたえてくれるわけです。
 だからあそこへくだけで、いろんなマイナスをすっとってくれて、ってくれて、それでづきがてくるのです、ほんとうしょです。ほんとうは「づく」というのはだいなのです。それは「づく」というのは、おくほんとうぶんてこないとづきません。だからかんしゃするというのはおなじです。かんしゃして、ありがたいとづくというのがほんとうかんしゃなのです。

 だからそのづくまでに、つういのこといっしょうけんめいとなえないとダメなのです。づくぶんすというで。そのためにはいっしょうけんめいいのこととなえて、やっとづくぶんせるのです、せるのです。ところがそれをしなくても、すっとづくぶんになるというから、ものすごいはたらきをくわえてもらっているのです。なんおくなんまんかい「ありがとうございます」となえてから、やっとなみだがコロッとるのです。
 でもあそこは、ぎゃくに、はいっただけですっとうれしくなって、なみだかんげきのあまりながれたりするひとがあるらしいのです、それはひとによってぜんちがうのですが。だからそれだけのおおきいはたらきがかったら、おおぜいひとりっえておおきいはたらききをするようにはないのです。それも、なにひとつのかたちつくって、しきして、そういうふうにするというのはしんとうのゆきかたではありません。ひとちゅうしんにしたり、なにかをちゅうしんにする、かたちちゅうしんはいらないのです。

 だからひとひとほんとうりっになって、ほんとうかみさまをちゅうしんにしって、かみさまのこころしたがってひとひとうごかないといけません、あくまでもひとひとどくりつしないと。それはいっさいしばりをくわえないゆきかたです、だからおしえでもぜったいしばったらダメだし、ありとあらゆるしばりをぜんはいじょしてしまわないといけないのです。だからしきつくったら、なにだんたいつくったらいけないのです。いろんなサイバーむらでいろんなむらるかもしれませんが、むらというのはしきでもだんたいでもありません、ゆうなのです。だんたいとグループ、しきになると、ちょっとしばてきますから、ぜんゆうむらがってくるのはいいのです。
 だからしばりの姿すがたで、ほんとうのものをうちがわからてこないと・・・。そういうほんものになっているのです。ただかならほんものはっしんしてゆくしょというで、そういうはたらきをするひとあつめて、そういうちからえてくるのです。それはこれたかしんのうさんがだいひょうてきあらわれて、さんじゅうすうねんまえに、けいかくてきにいろいろなはたらきをしてこられてきたのです。れきじょうこれたかしんのうさんもかなりりっだったとわれているのですが、あくまでもそれはちっぽけなもんだいです、いまあらわれているほうはるかにおおきいはたらきをしててくるのです。だからほんではなく、かいおおきくはたらいて、きゅうおおきくへんかくしようとはたらいていててきているのです。

 べつにくたいくても、そういうのはかんけいです、にくたいなんてあいにしていないのです。ほんとうおくおおきいはたらきをもって、ひとひとほんたいぶんほんとうほんしんしてくれるおおきいちからえています。ぎゃくうと、みんななかへ、これたかしんのうさんはじめしんとうかみがみなかってはたらき、いったいしてくるのです。かみさまがいったいしてくれたらほんとうちからになります。だからほんとうみなかみさまとわかれてぶんというのがあるというふうにおもひとがあるかもしれませんが、でもほんとうはそうじゃないのです。

 なんかあついですね・・・・。はははは。ちょっとひかりぎているというかんじです。はははは。かみさまがきよめにりてきたときは、いろんなはたらきがあるのですが、ものすごくあつくなるときがあります。もうしゅんかんあせがばっとふきすような・・・。またそのぎゃくときもあります、たかひかりりたときほんとうふるえがまらないくらいさむくなるときがあります。だからいろんなかみさまのきよめのはたらきがりるのですが、いまはちょっとあついです・・・。はははは。
 だからそのくらいきよめのかみさまのはたらきはそうぞうじょうおおきいのですが、でも「ひとしばらずに」というところは、「これだけのことしてあげたよ」というのをせてきません。もうらないあいだに、おおきいたすけをあたえてくれるのです。(めい)どうしても、これだけたすけてもらったからという、おんにきるのはいいのですが、しばりになるのです。だからいろんなしゅうきょうだんたいで、そこでいろんなしゅぎょうしてしんこうして、いろんなおかげをもらうと、どうしてもそこへしばられてきます。
 あと、これすくわれたから、ここはぜったいせられないとおもんでしまうところがあるのです。そうすると、かたちしばられると、ほんとうぶんっているゆうざいはたらきがなくなってしまいます。ほんとうかみさまはちゅうでいろんなたいけんをさせて、ゆうざいたちおおきいはたらきをさせようとじゅんしていたかもしれないのです。ところがちゅうまってしまう・・・・。そういうひとおおいのです、いろんなしんこうしているひとやそこからせないひとおおいのです。それはかたちのいろんな姿すがたしばられてしまうのです。だからそれをぜったいしないというのがほんとうしんとうのありかたなのです。

 だからここへみなさんがいろんなづきあたえてもらっても、それはここでたのではありません、さきみなさんのほうづいてているのです。ここではなしをしてもらうことぜんかっていてているのです、てすっとかいできる、なっとくする、かくにんしているだけです。
 そういうかくにんして、かるぶんにしてもらったのはどうしてか?ぶんりょくではないのです、らずらずのうちにおおぜいかみさまにえてもらったのです。そのかみさまのろうというのはたいへんだとおもいます。

 そういうふうに、姿すがたせずにはたらきもかんじさせずにまもいてくるかみさま、これがほんとうしんとうけいかみさまです。そういうかみさまがおおぜいまもって、これからかいえると・・・。だからかいちゅうしんにあるかというと・・・。ちゅうしんというのはほんとうはおいのりして、おおきいかみさまのはたらきをれるしょほんとうちゅうしんなのです。しっかりおいのりするひとあつまるしょほんとうちゅうしんになってゆくのです。
 だからいっていかたちはありません、せいだとわれても、そこはにおいのりするひとおおぜいいたということです。だいうつわりとどうに、おいのりするひとかずへんします。いろんなかいしゅうきょうせいはあちこちにあるのですが、せいあらそいするようなところではありません、そこでほんとうのおいのりをしたらせいなのでしょうが。

 だからせいではちからいのです。いまあらためて、ふかいおいのりをするひとえてきたら、ほんとうかいおおきくえるちからはっされるせいわり、かいちゅうしんになってゆきます。まずほんがそうならないと、ほんぜんたいが。だからいっていしょちゅうしんというふうにけられてくると、みなそれにとらわれてくるのです。たとえばここの「すめら」のせいちゅうしんだとうと、とらわれてしまうのです、ちゅうしんあらそこすかもしれません。
 だからここがちゅうしんというのはだれからずに、あくまでもかみさまがちゅうしんです。それでいて、おいのりするひとぜんこくらばって、ひかりのネットワークがこうせいされて、ぜんたいちゅうしんなのです。だからちゅうしんつうひとにはからないのです。それでいて、かいうごかすちゅうしんてきはたらきがあるというのです。そういうのがいちばんそうてきです。
 
 ほんかいえるはたらきをするちゅうしんっても、かいほんたいしておんかんじるようだとダメなのです、しつけになります。らぬあいだかいりっになってしあわせになってへいになるのがいいのです。それでいて、やはりほんがそのおおきいはたらきをになっていないとほんとううそです。かんしゃのおいのりというのは、かんしゃなかそくけんきょさがいったいしてそんざいしますし、かんしゃのおいのりをするひとは、かんしゃふかめたらふかめたぶんだけけんきょさがげんげんおおきくなっててくるのです。
 げんけんきょさというのはかんしゃなかにしかないのです。マイナスをたいけんしてろうしたからけんきょになれるかいうと、そうではありません、ぎゃくとらわれてしまいます。でもかんしゃのおいのりをつづけてふかまったら、そくけんきょこころになれるのです。すべてをプラスにてゆくぶんになっています。これはいちばんらくな、ほんとうけんきょになるほうほうなのです。

 そのけんきょさというのがほんとうかみさまにとったらいちばんたいせつだよと・・・かみさまのほんとうたすけをぜんれられるこころです。かいたいしてほんがいろいろやくわりたしてゆくのに、そのけんきょさがあったら、そこへかみさまのおおきいたすけがりてくるのです。まずほんじんけんきょになるというのがほんらいやくなのです。むかしからそうです、ほんくにがらというのは。
 いろんなことはっするあいに(めい)、どもがっこうへゆくときは「ってきます」で、「わたくしってきます」とはいません。ぶんぜんはぶいてしまいます、これがほんほんとう姿すがたです、ぶんというものがいのです。そういうのがいちばんけんきょなありかたなのです。
 だからもともとけんきょさがそなわっていたのです、いまさらけんきょになるようりょくしなさいではありません。もともとあるけんきょさをぜんはっしてゆくというのが、ほんとうほんのこれからのありかただとおもいます。ゆうでもびょうどうでも、ほんにはさいしょからそなわっているのです。だからことさらゆうびょうどうだとそれじつげんしようとしなくてもよかったのですが、でもがいこくはそうではないようです。

 ほんにはもうすべてがそなわっていたのです、それでこれからぜんてくるようにまれているのです。「ありがとうございます」ということほんたんじょうしているということも、あたえられているということも、ほんとうです。これもみなかみはからいで、かみさまからあたえられているものなのです。だからかみさまからあたえられたものはゆうする、ぶつしたらいけないのです。もうすべてぜんたいへ、おんがえしのこころあたかえしてゆくのです。
 ほんほんとうのいいものはぜんかいしょうていきょうし・・・それも、それだけあたえたよというかんじではなく、もうけんきょけんきょこころで、どうかごようくださいというかんじで。あたまげて、しても、どうぞこれをお使つかくださいというかんじでささげてゆくのがいいのです。そうしたかたかいほんとうおおきくえてゆくのです。

 かいにいろんなものをえんじょするという、ぶっえんじょするのでも、けんきょさがないとたぶんはんぱつをくらいます。たら、これだけのことをしたというのをかくしたほうがいいのです、かくしてかくして、そしてみなたすけてゆくのだったら、みなよろこんでもらえます、かいじゅうのすべてからよろこんでもらえます。ひとにいいものあたえたというのでも、あたかただいなのです、おんをきせるあたかたではいけません。
 だからほんとうとくかたは「いんとく」がだいだといます、じんれずにする、ほんとうかみさまのはたらき、これがほんとうとくみなのです。だからかみさまに使つかってもらっていことをしても、ひとみとめられたら、もうられたら、ちょうしっていうぐらいに(めい)。いいことをしても、ひとられそうになったら、「わたくしりません」といってげないといけません。そのくらいがいいのです、「ほかひとでしょう」と。それで、わるいことは「わたくしがしました」と。

 ほんとうはいいことをしながら、わるわれるほうが、ぎゃくとくえないのです。いいことをしてめられたらとくえるのです。だからとくおおきくかさねるには、いいことをしてわるわれるのもいことなのです。こういうはなし、ちょっとかってもらえますか?
 りょうのありかたというのも、れきじょうはなしもまたいろんなほんにもかれているし・・・。さんこうにはされたらいいとおもうのですが。こころの(めい) どういうふうにかみさまがけいかくして、みなりっえて、どういうはたらきかけようとしているか、かってもらえたらありがたいです。 

               ありがとうございます



       「あ」が、ぜったいこうげんとか、いのちこんげんとか、ひかりいのち

-ありがとうございます-
 ありがとうございますのおしえてください。

ありがとうございます:
 ことだまてきに、どういうがあるかという・・・。

 「あ」が、ぜったいこうげんとか、いのちこんげんとか、ひかりいのちというです。「あ」は、すべてのはじまりというでもあるのです、はじまりだからぜったいです。

 「り」は、ラゆきおとというのはせんじょうあらわすのです。だからその、ぜったいのものがかならそうたいりょうきょくけられて、それがせんじょうほうしゃされてわさってゆくのです。ちょくせんまじわりはいちてんしかありませんが、せんじょうだとちいさいものからじゅんばんおおきくなってゆくので、まじわりがげんて、かたちそうけい姿すがたで、ちいさいものからおおきいものまでぜんそろうのです。
 ほんとうかみさまのそうたいりょうきょくげんちかおお)いから、わせはもうそうぞうぜっする・・・。すべてはもうじょうわさります。ひとつのようだったらたんじゅんかんがえられるのですが・・・。でもそれもあくまでもぜんたいけいてきかんじでかんたんにして、そうぞうするようなかんじです。じっさいはもっとげんふくざつです。だからせんじょうほうしゃされるというのが、この「り」のです。それでちゅうのすべてが「こうぞう」、そうけい姿すがたされるのです。

 「が」が、「か」をだぶらせて、輝きかがかがやくという、それはげんげんかがやくというなのです。かみさまのそうぞうされたちゅうのすべて、これがげんげんかがやいた姿すがたをとっています。げんげんかがやくとうのでも、こんはもっとすごいのです。げんげんかがやいた姿すがたおおきくちいさくげんげんにまたかがやいている・・・・。またそこれぬかがやきがあるのです。ほんことというのは、そこまでそこれぬものでもかんたんかがやかがやくでわるのです。

 「とう」というのは、「とう」とったら、すうの「じゅう」です。じゅうこうというふうにとるのです。また、ありが「たし」というと、アぎょうたてせんで、サぎょうよこせんです。どちらもそうたいりょうきょくゆうわせて、調ちょうした姿すがたすというはたらきです。調ちょうというのは、ぶんはたらきがきちっとまって、ちょうジグソーパズルのようにはいされて、それでぜんたいがきちっとするのです、それが調ちょうです。だからやくわりがバラバラでてきざいてきしょはいされていなかったらこんとんとしてしまって、調ちょうまれないのです。どういうちいさいものまでせいがあってやくわりまって、そのいちばんてきしたところにはいされるのです。それが調ちょう姿すがたです。だからちゅうしんがあって、そのちゅうしんぜんとういつされてめられているというのが、これがじゅうこうなのです。
 このじゅうというのがキリストきょうじゅうです。キリストきょうじゅうは、まっさつふっかつりょうほうがあり、にせものをクロスしてまっさつして、ほんものをプラスしてふっかつさせるというです。これもじゅうこうひとつのなのです。そしてぶっきょうまんじです、じゅうかいてんさせたら「まんじ」にへんします。みぎひだり、どっちにまわっても「まんじ」になり、それがさらこうそくかいてんすると「えん」になるのです。
 ほんとうのこの「ありがとう」のじゅうこうは「えん」なのです。げんのスピードでかいてんして、すべてのじゅうがあってまんじがあって、ぜんとうかつして・・・・。だからほんとうだい調ちょうは「えん」なのです、えんちゅうしんは(めい)、どうしんえんひとつのちゅうしん調ちょうされています。げんどうしんえんもあります、しょうさいのからおおきいのまで。それをぜんひとつにとうかつしてちゅうしんがあるのです。これがほんとうでのじゅうこうの(めい)。だから「えん」になるのです、ほんまるこっまるは「えん」です。そこまでふかがあるのです、ほんとうの「ありがとう」というのは、ちゅうぜったいとういつしんさいこうひょうげんしているのです。だからあまてらすおおかみさまです。

 「ご」というのは、「こ」をだぶらせています。かたまって、かたまってというです。このにくたいは、ここからじゅんばんぶっしつされて、このにくたいまれてきます。そのげんげんのチャンネル、さいこうばんぐみちょうてんにして、じゅんばんげんげてくるのです。だからげんげんのチャンレルがされるはたらきが、この「ご」です。「ありがとう」はさいこうひょうげんです。そのなかが、いちばんうえからじゅんばんかたまっててくる、げんげんにチャンネルがまれた姿すがたをとるのです。

 「ざ」は、「さ」をだぶらせています。「さ」というのは、かわながれがさらさらながれるというかんじで、うつくしいもの、らしいもの、いのちかがやくものがさらさらながれているという、もうぜんへんしてそのへんが、ちょうどはなくように、なかからすっとてくるのです。ぜんうごきのなかでいいものがどんどんされるのです。だからそのかたちあるものがながされるのではありません、なかからいっしゅんいっしゅんあらたにてきたものが、ながれにえるのです。
 そういう、ぜったいからじゅんばんにいいものがどんどんてくる、そのながれをこの「ざ」であらわしています。ほんとうへんじょうという、これはぜったいからひかりたばしってながれるようなかんじのながかたへんです。かたちかいて、かたちながれをるのはちがうのです、ほんとうながかたではありません。ちょうどさくらはなるような、ぜんにさらさらっとながれるのがいいのです。それでいてつねあたらしいものがどんどんてきて、ふるいものにしゅうちゃくいという。これが「ざ」のです。

 「い」は「いのち」の「い」です。どんなものも、いしころいっげんいちぜんほんとうきているのだという・・・。どうくのだけがきているのではないのです。もうすべてが、かみさまのいのちあらわしてきている。これが「い」をあらわします。

 「ま」というのは、まったきもの、かんぺきなもの、かんぜんなものというで、このかみさまのぜったいからあらわれて、さいこうひょうげんまれて、それでげんげんのチャンネルがまれて、そのうつわりがぜんにさらさらながれる姿すがたをとって、いのちかがやいているという、このぜんたいかんぺききわまりないという、これが「ま」です。そのかんぺききわまりないものが、こん「す」で、またぜったいもどるのです。

 「す」というのは、とりまいの「す」もそうですけど、いちばんもともどです。だからぜったいからいっしゅんあらわれたものが、またぜったいかえってゆく、またすぐにてくるという、そのじゅんかんあらわしているのです。そのじゅんかんかたもまた、この「ます」で、いやしにすで、いまあらわれたのがぜったいもどってつぎて、もっといいものがえて、して、どんどんくなってへんするのです。それが「ます」というです。

 「ありがとうございます」で、かみさまのすべてのはたらきをぜんあらわすことになるのです。だからぜんたいかみさまです。「ありがとうございます」がはたらぜんたいかみさま。このいしころいっほんとうかみさまなのです。ぜんとこの「げんげんかがやきがいっぱい」という姿すがたなのです。いしころいっげんいちもそうなのです。すべてのそんざいぶんぜんそうなのです、それだけふかがあります。だからかみさまということどうじぐらいです。おなじとったらおなじです、「ありがとうございます」がほんとうかみさまのきゅうきょくかみさいふだです。

 さいにはみなさんぜん、「ありがとうございます」のなかはいってゆくのです、もどってゆくのです。それでかみさまのぜんたいぞうあくして、かみさまとほんとういったいして、かみさまのちゅうしんってしまうのです。だからちゅうしんというのはあくまでも、ぶんけんきょくしてゆくところにちゅうしんまれるのです。たいふうもそうです。しんくうの(めい)そうするとおおきいはたらきをして、そこがちゅうしんです。
 だからけんきょになったところにかみさまのすべてがながみます、だからちゅうしんなのです。ひとひとちゅうしんったら、ぜんたいがものすごくおおきいはたらきをし、それでいてあらそいがないのです。ぶんけんきょじょうたいですから、おたがいにぶんしゅちょうしないから、ぶつかりいません。ぶつかりわないけれど、それぞれがちゅうしんっておおきなはたらきをするから、ぜんたいがものすごくおおきいはたらきになるのです。そういうみです。だからすごいことなのです、「ありがとうございます」というのは。

               ありがとうございます



      もくてきはきちっとあります、かみさまのほうさき

-ありがとうございます-
 (しつもん  めい

ありがとうございます:
 もくてきはきちっとあります、かみさまのほうさきもくてきがあるのです。それでそのかみさまからすべてをなおしたほんたいぶんも、ただしいもくてきさだめることができるのです。でもほんとうもくてきは、ほんとうぶんもどらないとまらないのです。だからにくたいぶんが、たましいぶんが、ほんとうもくてきさだめられない、さだまらないのです。
 たとえばにくたいぶんが「じんせいもくてきとはなにか」とかんがえます。にくたいかならんでしまいます、はかない、むなしいものです。みじかかんだけです、このまるのは。そうしたらどんなもくてきててもむなしい、はかなくなるのです。それをしてなにになるのかをかんがえてゆきます。そうしたら、えてしまうのだったら、いまえてもあとえてもおなじだというかんがえにおちいります。だからにくたいレベルではほんとうじんせいもくてきってさだまらないのです。
 また、たましいぶんにとってもそうです。たましいえてしまうのうせいのこされています。ほんしんかがやいてしまったら、たましいはたらきがひつようくなるのです。ほんとうげんかがやいたぶんがすべて、にくたいでもすっとしゅんかんうごかすようになってきたら、たましいえるのです。だからたましいのレベルでももくてきさだまらないのです。もうひとおくの、ほんとうほんたいぶんもどらないと・・・。それもかみさまのこころなかはいらないとじんせいもくてきさだまりません。

 ひとひときょうつうしたじんせいもくてきと、またひとひとことなるじんせいもくてきがあるはずです。やくわりとしては、きょうつうしたのはやはり、かみさまのこころおおきくぜんたいあらわはたらきをみなになっているという・・・・。かんしゃふかめることです、まずは。かみさまのすべてをなおかんしゃこころふかくするというのがきょうつうもくてきです。そのなかで、なおしたすべてのなかから、いまぜんたいにとってなにひつようかというのをまずかんがえないといけません。みなおなじことをしたら、すべてのはたらき(めい)だからみなちがうことをして、ぜんたいひとつの調ちょうした姿すがたをとらないと、いまなにひつようかというときに、やくたないのです。

 みなやくわりわらないとダメです、そのときそのときで。いまちゅうぜんたいにとってどういうことがひつようかという、これをてっかくあくして、やくわりめてみながそれぞれにせいはっしてやくわりぶんたんたして、ぜんたいとして調ちょうした姿すがたをとるのです。で、つぎしゅんかん、またやくわりえてもいいのです。Aというひといま、A‘というやくわりえんじたとします、つぎはBというひとがまたB‘をえんじる・・・。こんはAがB‘をえんじてもいいのです。BというひとがまたべつなCでもB’でもなんでもいいのです。もうしゅんかんにコロッとわってもいいのです。ただぜんたいにとってひつようやくわりてっかくたすのがだいなのです。

 ほんたいほうからると、それだけゆうざいなのです、せいがあるからといってかたまっていません。なんでもできるけど、そのときひつような、あたえられたしゅんかんてっかくたせるというのがほんとうせいっているかたなのです。だからそこまではいったときはじめてじんせいもくてきさだまってゆくのです。
 まずかみさまのもくてきひとひとあくし、そのかみさまのこころしたがってやくわりたしてゆくのです。だから、おおきいやくわりもくてきがあります。

 かみさまのほうはもともとあたえるがわです、げんげんのチャンネルをつくったというのもあたえるがわっています。ひとがわはそれをけるというやくわりが、まずおおきいのです。その、ひとけるやくわりもくてきにしても、いろんなチャンネルをべんきょうして、ひくいのもたいけんしないといけません。いちばんしたたいけんたらいいのです、いちばんしたたいけんしたこころで、たちで、さいこうばんぐみげんげんある姿すがたあじわうのです。これがあじわううえでの、けるうえでのさいしゅうもくひょうさいこうもくひょうなのです。
 またあじわうだけでなしに、こんそうぞうするがわつかもしれません。さらおくはいってかみさまといったいしてゆくと、げんげんのチャンネルをつくがわさんするのです。そしてつくがわと、あじわうがわりょうほうこなしてゆきます。それも、つくがわたいへんだとおもいます、おなじものをふたつとつくったらいけませんし、おなことかえしてもいけないのです。きびしいです、これはかみわざです、かみさまでないとほんとう