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()(いの)(ぶん)()

2001ねん10がつにち No.1


       みなさん、どうおもわれますか? わたくしひととのこうりゅう

-ありがとうございます-
 「ひとひとたる所以ゆえんひとひととのこうりゅうにあり」とおしえてもらったことがあります。

ありがとうございます
 みなさん、どうおもわれますか? わたくしひとひとこうりゅうよりもさきに、ひとかみとのこうりゅうひつようだとおもいます。ひとひととのこうりゅうっても、いまきゅうじょうひとはまだレベルがひくいのです、マイナスをったものとマイナスをったものとのこうりゅうというのはマイナスをぞうふくさせるのうせいがあります。あたくすこころってならプラスのこうりゅうこるのですが、おたがいにもとめるこころこすとかならずマイナスがぞうふくされます。だから、かみさまとぶんとのこうりゅうはかるのがだいです。プラスのにんげんになってはじめてひととのこうりゅうきてくるのです。
 イエスキリストさまがたいするいましめとして「なんじこころくし、おもいをくし、せいしんくし、ちからくし、しゅなるなんじかみあいせよ」とあります。それがだいいちばんだいばんに「なんじらのりんじんあいせよ」があります。すべてをくしてかみさまをあいする、かみさまとこうりゅうしていったいすることのほうさきです。かみさまとこうりゅうをしっかりはかって、かみさまのげんのプラスをけてから、かみさまのぶんしんであるりんじんこうりゅうすればプラスのこうりゅうになっていきます。そうしたらおたがいをたかって、どんどんしあわせをおおきくしてけるようになるのです。


       かみさまをちょっかんてきかんじるためにはかみさまをま

-ありがとうございます-
 かみさまというものがピンとこないのですが。

ありがとうございます
 かみさまをちょっかんてきかんじるためには、かみさまをまともにることがひつようです。かみさまにけるとかみさまのぜんたいぞうはわかりません。たいようれいにあげてうと、たいようこころをまともにけたときにはたいようぜんたいぞうがわかり、こうげんひかりいったいしてえます。そのときはすべてがげんげんのプラスです、みんなげんげんかがやいているとしかえません。ぎゃくたいようけたときには、たいようからほうしゃされたひかりあといかけるようなかんじです、ちいさいひかりかんじるぐらいです。
 だから、ぶんがどちらへいているかがいちばんだいです。こうげんこころけているかこうげんけているか、もし一寸ちょっとでもマイナスにえたらこうげんけたかたをしています。だからぶんたちがどのようなたちにあっても、うえほうにあっても、したほうにあっても、こうげんけたときにはかならずすべてがマイナスにし、こうげんいていたら、それがいちばんしただんかいにあっても、うえだんかいにあっても、すべてをプラスにていけます。「こののすべてがげんげんのプラス」にえたらただしいかたで、それが、かみさまをれているじょうたいです。

 では、どうしたらかみさまのほうこころけられるか、やはりことちから使つかわないとないのです。ことこころほうこうけをしてくれます。そうすると、どのようなことこうげんかみさまをしめことか、「げんげんなになに」というようにかみさまのとくせいを「げんげん」とおおきくあらわさないとこうげんかないのです。だからげんげんかがやきがいっぱい!とうとこうげんこころいてくる、またげんげんしあわせがいっぱい!とうとかみさまへこうげんけるのです。かみさまのとくせいあらわことを「げんげんの」とけて使つかうといのです、かならこうげんかみさまへこころけていけます。そうするとこころかんかくがどんどんあかるくかがやいてきます、すべてをプラスにプラスにけてけるぶんへんします。こころきがいちばんだいです、そのためにどのようなことえらんで使つかうかがいちばんだいなのです。つねせっきょくてきに「げんげんなになに」とプラスのこと使つかつづけてほんとうかみさまへつづけられます。

 プラスのこと使つかわなかったら、こうげんけてしまうこころすきうまれます。そのときにちらっとマイナスにえるのです。だからいつもいのつづけるというのはだいです。「ありがとうございます」ととなえつづけていっしゅんこころすきいようにしたら、いつもすべてがげんかがやいてえてきます。げんじつかいもすべてひかかがやいてえてこなければうそです。たんなるものとかひとというふうにえたらです、ほんとうにすべてがひかかがやいているとうようにかんじられて、はじめてかみさまのほうこころけているかなというかんじです。

 
      たたかいというのはマイナスのことです、かみさま

-ありがとうございます-
 (めい

ありがとうございます
 たたかいというのはマイナスのことです、かみさまのプラスのばんぐみにはたたかいはありません。かりにプラスとマイナス、ひかりやみとあってもたたかいではなく、たすいです。プラスをがらせるためのはたらきがマイナスの姿すがたです。ひかりやみったとして、やみかったらおおきいひかりとどまり、やみはたらきがひかりだんかいげんふくげてくれます。ちいさいひかりおおきいひかりというように、またきょひかりちいさいのからおおきいのまでぜんそういうように、げんげんひかりひょうげんしてくれるはたらきをやみはしてくれます。だからてきたいするものではなく、おたがいにたす姿すがたります。それがプラスのかたです。
 たたかいにせいなるということをつけても、ほんとうただしいたたかいでもなんでもありません。ひかりやみつつときひかりたらやみぜん退たいさんするのはとうぜんです。ひかりつねしゅやくやみわきやくたすやくです。たたかいではないというのがほんとうかたです。

 せいせんというのはかっくつです。アラーのかみさまがゆいいつぜったいかみさまであったら、ちゅうぜんを、ぶんなかほうようしないといけないのです。しゅうきょうぜんを、ぶんなかほうようかしきらないと、ほんとういっしんきょうとはえません。またすべてのみんぞくくにひとびとも、おおきいあいこころつつみこまないと、ほんとうではありません。たたかってやっつけるというのであれば、アラーのかみさまのこころからおおきくはずれています。

 ですからやはりひと使つかことだいです。つまらないマイナスのこと使つかうから、そのことけてき、ことしばられてきます。たたかいということせいせんということもいりません。みんなをかみさまのあらわれとかんしゃして、そしておんがえしのこころでみんなのしあわせのためにいっしょうけんめいくさせてもらうというかたであれば、あらそいはありません。せいせんというのはことちがいです。

 
      おうごんりゅうじっさいにいます。りゅうじんさまというの

-ありがとうございます-
 あるしゅうきょうきょうじょせい)におうごんりゅうえるというひとがいます。そんなことがるのでしょうか?

ありがとうございます
 おうごんりゅうじっさいにいます。りゅうじんさまというのはぜんげんしょううえからおおきくつかさどはたらきをします。かぜこすのもたいふうこすのもりゅうじんさまのはたらきです。かぜきよめのはたらきをします。かぜつよところほどぶんさかえるといわれています。きよめられていものがまれてきます。あめかわながれもすべてのぜんげんしょうりゅうじんさまがつかさどります。

 りゅうじんさまもだんかいげんかれます。じゅんぱくりゅうじんさまがいちばんうえです。そのつぎおうごんりゅうじんさま。それからあおくなったり、あかみをびてたり、くろくなったらいちばんしたにいらっしゃるこくりゅうさま。したにいらっしゃるからわるいということではありません。たとえばくうちゅうからきんぷんがパラパラりるぶっしつげんしょうなどは、いちばんしたこくりゅうさまのはたらきです。はくりゅうさまはなみちがいすぎるからそれができません。
 いろんなりゅうじんさまがひつようおうじてかみさまに使つかわれてはたらきます。おおきさもぜんちがいます、おおきいぎんけいちゅうつかさどりゅうじんさまはそれにおうじてものすごくおおきいのです。きゅうきよめをつかさどるのも、かなりおおきいはくりゅうさまがいっぱいいます。きゅうたいれいだいりゅうじんさまで、きゅうりゅうじんさまのからだです。あまりきたないものをながしてきずつけるとりゅうじんさまがいたいとかかゆいとかかんじて、ちょっとからだうごかしてしんになります。ただ、りゅうじんさまはこの姿すがたあらわれていないのです。こうのおくかいにいます。

-ありがとうございます-
 そしたらこうのかいにいるりゅうじんさまをることのできるそのひとは、やはりすごいひとなんでしょうか。

ありがとうございます
 いえべつえたからといってたいしたことではないのです、ひつようがあればだれでもせてもらえます。えたからといってりっでもなんでもない、姿すがたえたのは、そのひとにとってひつようきをあたえるために、こうのほうからなみわせてくれたというだけです。
 りゅうじんさまはどこにでもはたらいていますから、いったいだけではなしに、もっともっとげんりゅうじんさまがえてもはずです。ちょくせつえなくてもおおいなるぜんげんしょうけるひとえなくてもすべてかみさまのげんげんあいはたらきとかんしゃできるひとならば、わざわざ姿すがたせてもらうひつようはないのです。

 きんぷんってくるなどというとくていぶっしつげんしょうも、それがないとかみさまのげんはたらきにけないひとのために、こうからなみわせてくださって、かみさまのげんはたらきにかんしゃできるようになるためのぐちとしてしめしてくださっているだけです。だからぶっしつげんしょうつかさどこくりゅうさまはわざわざいちばんしたにいるのです。
 だからとくていぶっしつげんしょうとらわれてしまうと、こくりゅうさまのせっかくのみちびきとあいころしてしまいます。おうごんりゅうじんさまがえたというのも、そのげんしょうとらわれてしまうと、そこにとどまってしまうことになってしまい、かみさまのげんげんかがやきをそこなうことになります。だから、あるひとこくりゅうさまのおつだいとして、とくていぶっしつげんしょうあらわして、みんなをかみさまのもとへみちびくおつだいをされていても、そこにあつまるひとが、そのげんしょうやそのひととらわれてしまうひとばかりになると、それはほうこうちがってきますから、ストップがかってそのげんしょうこらなくなります。

 このちゅうのすべてのぶっしつは、かみさまのげんげんあいはたらきによってされたものです。しただけではなくてかんぺきてきざいてきしょはいされ、だい調ちょうのもとにじゅんかんつづけています。きんぷんパラパラなどはそれにくらべたらげんちいさい。ただ、ちいさくてもそれをぐちとしてとらえて、みんなおおきなかんしゃむすびつけることができれば、こくりゅうさまもこくりゅうさまのおつだいをされているかたも、みんなげんしあわせへみちびかみさまのおつだいをしたことになるので、そのはたらきがげんおおきくひかりかがやきます。
 
 あつまってくるかたがたきんぷんパラパラをぐちとしてとらえてそのじゅんそつぎょうできて、またつぎられたかたがたみちびくためにそれがひつようならば、きんぷんパラパラはつづけてもかまわないでしょうけれど、いまきゅうにはそこにとどまってとらわれるひとがあまりにもおおいから、そのようなげんしょうひつようときひつようなだけをあらわしてくれます。げんげんだんかいみちびきのうちのげんちいさなひとすじです。ぶんはもっとおおきなげんはたらきを「ありがとうございます」でじっかんさせてもらっているのだから、そんなものはとるにらないとてるぐらいいです。
 
 ちょくせつえてしまうとか、とくていぶっしつげんしょうせてもらえるあたえられるいうのは、まんできることではなく、ぎゃくに、それがなくてはけていくきっかけさえもてないほど、ちいさなぶんのところまでりてきて、わざわざなみわせてもらったというふうにかんしゃするのがただしいかたです。りゅうじんさまがいったいだけえたり、きんぷんってるなどというのはとるにらないげんげんちいさいことです。

-ありがとうございます-
 UFOやちゅうじんじつざいしますか?

ありがとうございます
 UFOもほんものとニセモノがあり、ほんものたかどうっています。そのようなUFOはそうじゅうしているひとこころいったいして、ぶんからだうごかすようなかんかくそうじゅうされます。こころはいしてゆうざいしゅんかんどうします。でもしゃしんられているUFOはほとんどにせものです。そのようなにせものは、ひくかいからぶっしつげんしょう姿すがたかたちあらわせてせます。きゅうじゅう%がにせものです。そのほかにこのひとがトリックでしゃしんあいがあります。
 ほんものほんとうひつようときにちょっとだけあらわれて、おおきなきよめのひかりはなってります。にんげんこころしんそくしんするためと、りつうながたすけにてくれています。ただ、そとからかったすけてあまやかせるということはしません。ひとひとかみなるぶんもどること、つまりりつうながすためにたすけにています。UFOもしゅれいさましゅじんさまとおなじです。
 きゅうじんちゅうじんですから、ほしひとたちはせいじんんだほういのです。ちゅうじんということ使つかあいは、「ちゅうぶんであるというおおきなかくはいったひと」をそうべばいのです。

 
      ぜんじんぐうにかなりおまいりしたことがあ

-ありがとうございます-
 (めい

ありがとうございます
 ぜんじんぐうにかなりおまいりしたことがあります。橿かしはらじんぐうにもまいあさまいりしていたこともります。ちかくのじんじゃにもあちこちおまいりしていました。それらはぶんみがげるためにそうしていました。
 ただ、わたくしあいはいしゅれいしゅじんさまがじんじゃにおまいりするときでも「なにためくのだ」といかけるわけです。そしたらこちらは「さてなんのためかな?」とかんがえるわけです。「もしじんじゃかみさまのたすけをけるためというなら、それはちょっとおかどちがいじゃないのか」ということです。ほんとうまもっているのはしゅれいしゅじんさまだけだということです。じんじゃかみさまではないということです。いくらじんじゃかみさまでも、しゅれいしゅじんさまをしてはぜったいたすけにはこないということです。

 またしゅれいしゅじんさまはかみさまにたよらなくてもぐらいおおきいげんちからっているといます。ぶんていたかくなったらそれにわせていくらでもおおきいちからえてやるといます。そしたらなんためくのかなとおもってしまいます、じんじゃかみさまにたすけてもらうためではないのです。
 またじんぐうにおまいりするにしても、ほんとうあまてらすおおかみさまはそんなちいさいにんげんつくったはこのようなものなかにははいっていません。ちゅうおおがみさまのさいこうひょうげんとしてのほんたいあまてらすおおかみさまは、げんげんかがやいてげんげんおおきいちゅうぜんたいをひとつにとうかつするかみさまだから、ちゅうぜんたい姿すがたです。ですから、けいのようなじんじゃなかぜったいはいりません。ただそこへおまいりするのは、そこをとおしてほんたいほんとうあまてらすおおかみさまへこころけやすくなるからくわけです。

 そういうじんじゃというのはかみさまのお使つかいとしてのいろいろなかみがみさまがこのほんたいかみさまとをつなはしやくとして、こころきよめたりかみさまとこうりゅうできるようにあいだってたすけてくれたりと、いろいろなはたらきをしてくれています。だからほんたいかみさまがそこにいるわけではなしにかみさまのお使つかいとしていらっしゃいます。いろいろなだんかいそろえてまもっています。だからもしいまぶんしんきょうひくかったら、ぶんわせたかみさまがいちばんさいしょにすっとてきて、うえうえへとつないでくれます。しんきょうたかくなったらどんどんうえかみさまとこうりゅうできるようにほんたいつないでくれます。
 じんじゃにおまいりするのはしんきょうたかめるうえではたすけをやすいのです。でもそういうあいぶんしゅれいしゅじんさまをとおさないとれません。どこへおまいりするにしてもぶんしゅれいしゅじんさまがちょくせつはたらいてくれます。そしてかみさまとのこうりゅうはかってくださいます。かみさまとのえんひととのえんも、ぶんしゅれいしゅじんさまがすべてつかさどります。だからぶんしゅれいしゅじんさまをしてこうりゅうしようなんてことはぜったいできません。それはそんです。

-ありがとうございます-
 しゅれいさまと、しゅじんさまはまたべつそんざいですか?

ありがとうございます:
 いちばんうえからいちばんしたまでだとなみちがいがおおきすぎてわせにくいのです。だんかいってつたえてくれます。しゅれいさまはにくたいかいちかくにぶんいてくれているので、こちらからなみわせやすくしてもらっています。しゅれいさまはぶんたちぶんからさだめてきてくれています。しゅじんさまはもっとうえほうぶんのいるさだめています。しゅれいさまをまもやくとしてしゅじんさまがはたらいています。だんかいることでそれぞれはたらやすくなります。おたがいがまもやすいようにたすやすいようにだんかいめてはたらいてくれています。

-ありがとうございます-
 にんげんにはしゅれいさまはかならずついていらっしゃいますか?

ありがとうございます:
 どんなひとにもかならずついていらっしゃいます。

-ありがとうございます-
 しゅれいさまがこうたいすることはありますか?

ありがとうございます:
 しゅれいさまはこうたいしません。そしてしゅれいさまにちからはあるかというとありません。だれについているしゅれいさまもほんとうさとりをひらいておおきいちからっています。ただ、ひつようがあって姿すがたあらわすときは、そのひとしんきょうおうじてゆうざいにいろいろかたちえます。いろんな姿すがたをとってたすけてくれるのです。

 たとえばキリストきょうこころとらわれてがちがちにかたまっているときに、ぶっきょうかみさまの姿すがたをとることはありません。あいにしてもらえませんから。そういうときはキリストきょうかんけいかみさまのまえ姿すがたをとって、へんしんしててきます。ぶっきょうべんきょうるようになったら、ぶっきょうけいとうかみさまやほとけさまの姿すがたっててきます。だからけるのはかみです。
 しゅれいさまはいってい姿すがたはないのです。にどのようなりっ姿すがたあらわしたことがあっても、しゅれいさまにとってはそのひとみちびほう便べんのひとつにぎないちいさなものですから、そんなことをつかんでしくないです。それぐらいゆうざいです。だからあのひとにはなになにしゅれいさまがいているというのは、ひとかっにそうただけです。そのひとにとって、そのとき、そうえただけ。つぎたときにはまたべつ姿すがたあらわします。もっとひかかがやいたおおきい姿すがたあらわします。

-ありがとうございます-
 M・こうすけさんにはひゃくにんぐらいしゅれいさまがいていたといたことがあるのですが…?

ありがとうございます:
 それも、ひとがそうただけです。ただ、はたらきがおおきくなるとしゅれいさまのまわりにふくしゅれいさまとしていろんなかたおうえんにくることはあります。はたらきがおおきいということはおおぜいしゅれいさまがついてそのひと使つかってくれているということです。でももっとおおきいはたらき、たとえばおおぜいひとこころきゅうさいなどのやくわりえんじるようになると、しゅじんさまがなんひゃくたいいてくれるようになるかもしれません。ただ、それもひとつのかたぎません。ほんとうひつようだったらちゅうぜんたいからげんしんじつたすけにりてきます。

 
      かみさまはおおきいものからちいさいものまでぜん
 
-ありがとうございます-
 せんせいひとこころがすべておとおしなのですか?

ありがとうございます
 かみさまはおおきいものからちいさいものまでぜんとおしています。ただわたくしたちですべてをとおせてしまうと、これはこまります。きゅうじょうぜんひとこころむだけでもわたくしたちにはひつようのないことで、いつもひとこころがわかってしまったらこまります。また、あいこころげんだんかいのすべてをわかることはのないことで、ひつようときひつようなところだけすっとわかりればいのです。ひと寿じゅみょうがすべてわかってもこまります、ひつようだったらわかります。ほんとうじんつうりきうのは、ひつようときひつようなだけすっとてくるのです。

 
       かんだとげんていされています。「ありがとうござ

-ありがとうございます-
 ありがとうございますのシールにはかん使つかわないのですか?

ありがとうございます
 かんだとげんていされています。「有難ありがとうございます」というのは、しんぶつはたらきがなかったらなにものもそんざいがたいというです。またなんりすなわちありがたしなどとげんていされたちいさいあらわれてきます。もちろんそれらのも「ありがとうございます」のなかにふくまれるのですが、かみさまぜんたいしめす「ありがとうございます」とはがかけはなれてほどとおになってきます。だから、めいほういのです。でもしょたいかたちゆうざいでかまいません。それぞれがゆうつくってくれたらいとおもいます。


                ありがとうございます

                
ありがとうございます
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