真祈り文庫
2001年10月6日
No.1
色んな見方が出来るのです。病気の原因が幾通
-ありがとうございます-
末期癌の友人がいるのです。本人も治りたいと思っているし、周りも治りますようにと祈っているのですが、もし潜在意識の深いところで「もう肉体を離れたい」と思っている場合は、それはやはりこちら側が治るようにお祈りすると、現世に引き戻す形になるのでよくない事なのでしょうか?
ありがとうございます:
色んな見方が出来るのです。病気の原因が幾通りもあり、一通りや二通りではありません。もし、「癌」という症状が、本人にとって何かの勉強材料として与えてもらっているとしたら、その勉強をしないといけません。
-ありがとうございます-
では、癌が無くなるとか、治るとかというのは二の次ですか?
ありがとうございます:
そういうのは、枝葉の小さいことです。やはり本当の勉強をしないと、幸せへ導いてもらえません。元々人間は神さまと一体です、そうして神さまのすべてを受け直す自分が有るのです。だから、無限に無限に輝いた永遠不減の自分が有って、その自分が神さまから与えられたものを如何に受けていくかなのです。神さまが与えてくるものは、無限の無限のチャンネルの運命の番組です。それを自由に選んで、どの番組でも波長を合わせて見れるのですが、地獄のある番組に心を合わせてしまうと、病気になったり、マイナスの運命を体験するようになっていくのです。
だから、その人の心の持ち方、生き方というのが大事なのです。その本人の自由意志で、番組を順番に選択しています、この世だけの問題ではなく、一番最初から神さまの中から出発したときからそうなのです。
最初から無限の無限のチャンネルの放送番組を与えてもらったとするのです。最初に見たいのはどういう番組だと思いますか?一番上を見たいと思うか一番下を見たいと思うか中間を見たいと思うか、それは一人一人違います。一人一人が自由に適当にその番組を、見てみたいのです。「どういうものがあるか」を知りたいというのがあります。
それで、最初から「見たいもの」から順番に見ていく時は、最初の神さまと一体の自分は、「良いものは最初からよく知っているから」という感覚で低い方を見ていくのです。ある期間は、低い方を駆け足でスクロールして見続けます。そのうちに、少しその番組に嵌り込んでしまう事があって、心の自由を失って本当の自分を忘れてしまうのです。
その番組に嵌り込むと、色んなマイナスの姿があり苦しみに成ります。でも、元々中に存在しますから、必ず本当の自分というのに気付く時がきます。それで神さまを呼んで、また自由を取り戻して、今度は最高番組を味わう自分に変わっていくのです。
この世は、あの世の全体の無限のチャンネルの縮図なのです。縮図というのは、あの世の地獄の最低の姿もこの世に有るし、最高の極楽番組もこの世に有って、それが縮小されて、この世はひとつの番組なのです。また、この世のひとつのチャンネルが、無限のチャンネルに分かれています。だから、同じひとつのチャンネルを見ているようでも、細かく分けると無限のチャンネルが有り、一人一人が見ている番組は全部違うのです。
病気になる人も有るし、ならない人も有り、幸せな人も有るし、不幸な人も有り、色々に分かれているのです。それで、この世は「何を選ぶか」という選択の為の勉強の場です。良いものを選んで立派に成りたい人は、どんどん良いものをお手本にしていけばいいし。でも、マイナスを選びたい人も有るので、そういう人は自由にマイナスを選んで、どんどん下へ降りても良いのです。そうして、その色んな生き方の中から一人一人自分の自由意志で選択して、それを自分のものにしていくのです。
この世で、一応この世の中の最高の心に成れたら、あの世へ行ったらまた最高の方へいくのです。この世は、あの世で修行して立派に成るというより、この世での方が時間が短く、短期間に立派に成っていけるのです。そういう意味では、この世はあの世と比べて特別の勉強の場なのです。
「病気に成る」というのもほんの小さい枝葉の問題なのです。例えば、癌に成る原因がどこに有るかというのも、多分癌の姿は「利己的」です、「自分さえこうだったら」という感じで全体と調和した姿をとらないのです。特に最近は癌が多いというのも、昔は少なかったと思うし、無かったかもしれない。昔は「全体への奉仕」というのを大事にしていました。だから、全体と調和しているから癌にならなかったのです。最近は、利己主義、マイホーム主義、自分の会社さえ良かったらとか、自分の国さえ良かったらというような、そういう「自分さえ良かったら」という利己的な心が強くなっています。それは癌細胞の生き方と同じなのです。
そういう心の過ちを気付かせる意味で、肉体に映し出したら癌の症状をとります。「癌の症状をとった」という時は、心の間違いを肉体を通して消している一面もあります。心の間違いを、肉体の病気という症状を通して消してくださっているのです。そうしたら軽く成ります、利己的な心が消えていき、また、その癌が末期に成ると苦しい痛みが伴います。心の浄めは、痛みを伴うことによって大きくなり消えます、清めてもらえるのです。それをあの世へもし持ち越したとしたら、利己的な心のままあの世へ行ってしまうかも知れません。利己的な心で行ったら、自分の行った先は利己的な人ばかりの世界へ行ってしまいます。自分とそっくりさんの世界へ行ってしまうのです。
この世は、色んな良い人もあるし、いっぱい混在しています。でも、あの世は自分とそっくりさんの世界へ行ってしまうのです。だから、利己的な人の行くところは、利己的な人ばかりが周りに集まるのです。優しい人は優しい人ばかりのそういうところへ行くのです。
「お金を儲けたい」という守銭奴のような人だったら、守銭奴ばかりが周りにいる世界になってしまいます。また、着飾ってファッションショーみたいに見てもらいたい人は、みんな着飾って見てもらいたい人ばかりの世界へ行ってしまいます。もう、極端に自分とそっくりの世界へ行ってしまう。そういう世界へ行って、本当に幸せになれたら良いのですが、やはり正しい生き方をとらないと幸せでなくなります。
あの世の低いところへ、もし落ち込んだ時、そこから抜け出す方法が本当にあるかと考えたら、お手本がないのです。先ず自分とそっくりさんだから、よほどそれに気付いて反省して「そこから抜け出したい」という気持ちを起こさない限り、抜けられません。長い年月かかって自分を高めていくしかないのです。それだったら、この世でどれだけ癌で苦しんでも、痛みが伴っても、その分だけ心を綺麗にしてもらえば、あの世へ行ったときに良い世界へ上がれます。またそれを反省材料に使えたら、もっともっと心を立派に磨こうとするのです。
また自分ひとりの力で生きているというのも、この世の人の普通の感覚です。本当は神さまに生かされています。すべて必要なものは神さまから与えられて、守りに護られている筈なのです。それに気付かないというところも、あとに行き詰るひとつの原因になっているのです。それは神さまに心を向けて「神さまに生かされている」ということに気付いて感謝してゆくという生き方が必要なのです。だから、「お医者さんに頼っても治らん」という状態になった時に、はじめて本当の救いを神さまに向けるチャンスなのです。色んな勉強材料があります。
-ありがとうございます-
周りにいる私は何をしたらいいのですか、出来ることはないのですか?
ありがとうございます:
それはみんな自分自身の勉強かもしれません。周りの人の姿は、全部自分もそういう時期があったかもしれないし、今も自分はそういう心を残しているかもしれないから、自分の心の大掃除という意味で、マイナスの姿をもう全部消し切った方が良いのです。表面に出ていなくても心に残っている場合が多いのです。
その心の中のマイナス面を、全部外から勉強材料として見せてくれるのです。それで順番に消してもらうようにすれば、自分の前にはそういうマイナスは出てこないかもしれない。最近は、癌になった人でも「ありがとうございます」を唱えて治った人が、不思議に大勢います。それも一生懸命唱えたときは、必ず不思議な加護をもらって、神さまにとったら病気を瞬間に治すのはなんでもないのです。
ただ、「我の心」で生きている時は、神さまの助けを拒絶するのです。神さまは絶対に人の自由を縛れないのです。強制的に「良くしてあげる」ということはできません。本人が願ったらいいのです、本当に我を出さずに、神さまの御心を素直に受け入れて、神さまの御心のままに生きるというのだったら、いくらでも応援してくれるから、マイナスを全部プラスに置き換えてくるのです。
私も二十歳ぐらいの時は、お祈りして人の病気ばかり治している時期があったのです。「みんな神さまで完全で、無限健康そのものなんだ」というふうに祈ることによって、目の前の人だけではなく遠いところの人も一生懸命祈っていたら、全部治っていったのです。何万人と。人の病気を治したから「その人が本当に幸せになったか」と言ったらなってないのです、心の勉強をしなかったからです。人に治してもらっても、本人の勉強には少しもならない、また病気に成るかもしれません。逆に言うと勉強材料を奪ったかも知れないという感じがあるのです。ただ、自分自身のお祈りの勉強にはなったし、どんなマイナスもプラスにしっかりと見つめる練習になったのです。そういう意味だったら、私はお祈りの練習をさせてもらってよかったなと思うのです。
最近では人の病気は、お祈りで治そうとは思いません。逆に「したら駄目」と思っています。もし、お祈りで治るのだったら、本人がお祈りをしてお祈りの力を付ける方が幸せなのです。だから感謝の練習をしっかりとして感謝を深める方が、本人が早く一番幸せに成ります。そのチャンスの勉強材料を奪ったら駄目だと思うのです。お祈りしたら本当は治るのです、人のものでも治せるのだけど…。でも、表面的な「思い通りに成る」というのでは本当の幸せではありません。感謝を深めて、神さまが既に与えて下さっている無限健康を捉えた方が良いのです。そうしたらすっと健康に置き換わってきます。
本人の勉強もあるのですが、表面的に意識が
-ありがとうございます-
痴呆の方ですが、本人さんよりも周囲の方がその痴呆の方の行動で大変困ります。周囲は治したいと思っても、本人さんは治ろうとは思っていませんから、そういう場合はどうしたらいいのでしようか?
ありがとうございます:
本人の勉強もあるのですが、表面的に意識がはっきりしていなくても、勉強しているのはどこの自分かというと「奥の自分」です。全く意識がない状態でも、本人にとったら大きい修行かも知れません。そういう姿を受けている周りの人も、本当は修行なのです。また、そのお世話をしなければならないという立場に置かれる人も、過去に自分がお世話になって助けてもらったことがある筈なのです。その恩返しという意味があり、借金返しの意味があるのです。色んな複雑な関係で、それぞれ借金返しをしたり、恩返しをしたり、また人助けをして、自分を立派に磨いていく勉強材料を与えてもらうのです。
本当は、自分の為に「神さまがそういう姿を演技している」というふうに見た方が良いのです。そうすると神さまに感謝して、自分の心の間違いを正してもらって、また過去世の色んな借金、借りを返させてもらって、本当の幸せな自分に早く置き換えてもらえると思うのです。ただ、色んな見方があるので、その時その時勉強させてもらうのが一番いいのです。
あるのです!肉体人間に縁のある背後に色んな
-ありがとうございます-
昨日テレビで、一人の人が十キロほどの食べ物をたくさん食べるという番組があったのです。例えば、吉野家の三百七十グラムの天丼を一時間で二十個食べれる、ということは約八キロです、あれはどう考えてもよくわからないのです。人間の能力として、例えばマラソンなんかも我々が走ろうたって走れないわけですけれど、ところが食べることに関してごく普通の人や細い人が、八キロも食べるというのは、その人だけで食べているのか、または何か別の者が食べているのか、そう言う事ってあるのでしょうか?
ありがとうございます:
あるのです!肉体人間に縁のある背後に色んな霊魂が憑きます。それは、先祖霊もありますし、色んな動物霊もありますし、色んなものが憑くのです。それも波が合うと、共同作業的に食べ物でも食べるのです。そうするといくら食べてもお腹が膨れないし、もう底なしに食べられるのです。お酒も、梯子酒する時はそうです。お酒を飲みたいという人間の霊魂もあるし、龍神とか、馬とか、動物の霊魂がいるのです。そういうのに波を合わせてしまうと、いくらお酒を飲んでも酔わなく成るのです。それで、底なしに飲めるようになり、凄いことが起こります。
食べ物でも、何かをするのでもそうですね。波の合うところから色んな働きかけがあって、また助けてもらう意味もあるし、こっちから助ける意味もあるのですが、本当は肉体人間のこの自分だけが何かをしてるのではありません。
色んな考え方があります。済んだことはもうあ
-ありがとうございます-
九月十一日にアメリカで多発テロ事件があったのですが、あれはどのように考えたらよろしいのでしょうか。
ありがとうございます:
色んな考え方があります。済んだことはもうあまり掴んで、それをどうのこうの言うより、「愛の心で相手の過ちを許す」というように、「これからの事、未来の事がどうしたら良く成るか」というのを、考える方が大事です。
テロを恨んで報復するというのだったら、また恨みを生んで報復されます。それがどんどんエスカレートするかもしれない。本当はみんな自分の運命は自分が責任を持たないといけない、そういう目に遭うとしたら、過去に何か責任があったのです。それをやはり「自己反省の材料にする」というのが大事です。また、当事者でない私たちも同じなのです。周りのすべての姿は「自分の身代わり、振り替えで助けてくれている」いうふうに見た方が、自分も反省して立派に成っていけます。そこで、神さまの助け受けるという意味で「ありがとうございます」と感謝する事が、そういう人たちにも神さまの光が届いて、「みんなをどんどん幸せにしていって下さる」というふうに思えるのです。
この「ありがとうございます」というのもそ
-ありがとうございます-
「ありがとうございます」のシールを家に貼るときには、細かくして小さくしたのをたくさん貼るのがいいように思うのですけど、そういうことはないのですか?
ありがとうございます:
この「ありがとうございます」というのもそうですが。神さまの宇宙の仕組みが入れ子構造になっています。入れ子構造というのは、小さい箱の上にもうひとつ大きい箱があって、更に大きい箱があって、箱をずうっと重ねていくのがあります。それを入れ子構造というのです。宇宙の仕組みは、みんな相似形の縮図の姿をとっているのです。
例えば、地球があったら地球儀という模型の縮図があります。それと同じで大宇宙が縮小されたら地球になり、またそれが縮小されて人体になり、また細胞になり、原子になり、というふうに同じ構造の縮小された姿で、ずうっと続いているのです。
本当の「ありがとうございます」というのは、神さまの全体像を指していて、神さまの働きのすべてを現す言葉なのです。言ったら宇宙全体の本当の仕組みを指しているのです。それが入れ子構造になっているから、「ありがとうございます」の中に「無限の無限のありがとうございます」が含まれているのです。またその「無限の無限のありがとうございます」の中のひとつの「ありがとうございます」の中にまた「無限の無限のありがとうございます」が含まれているのです。
そのように見ると「ありがとうございます」の一言に、その中に「無限の無限のありがとうございます」が無限に無限につながっています。わざわざ小さくしてもいいのですが、しなくてもいいのです。この世だけのそういう数に囚われない方がいいと思います。
-ありがとうございます-
すべてのものを創られた方の一番の思いは「ありがとうございます」ですか?
ありがとうございます:
思いではなく、本当の神さまの名前「究極の名前」に当たるのです。神さまの名前というのはその働きを指していて、本当の神さまの働きのすべてを指し示す言葉です。
だから、本当の神さまは全体なのです、その神さましか存在しない。だから、絶対の姿も創造の姿も、無限に無限に輝いた統一する姿も、その分身の八百万の神さまという姿も、またこの世のすべての働き、姿、全部をひっくるめた全体像を指し示す言葉なのです。だから、「ありがとうございます」は小さい意味ではありません、神さまの全体像なのです。
色んな神さまや仏さまを信じている人が、信じる神さまはどういう神さまかというと、小さいのです。先ず、この世以外のどこかにいる神さまになっているのです、(それを信じる人にとっては)この世は特別なのです、(その神さまは)この世と離れた存在です。また、宇宙全体を統括する神さまかというと、そうではないかも知れないし、表現として現れた姿の奥にある絶対の働きかというと、そうでもないかも知れない。そういう色んな働きをバラバラに捉えるとわかりにくいのです、ひとつに繋がらないといけません。
この世にいる人でも、本当は本当の神さまと一体なのです、でも、あの世にいる神さまとは一体ではない、まだ離れています。本当の神さまと一体だったら、そこを通ってあの世の神さまとも一体に成るのです。また、色んな神さまと全部と一体化できるのです。だから、すべてをひとつにつなぐ言葉が「ありがとうございます」です。「愛の一体感」として湧き出る言葉なのです。
-ありがとうございます-
本当のお祈りということは「感謝をする」ということですか。
ありがとうございます:
そうです、どれも、色んな話の中で気付いていかれると思うのです。「何が本当のお祈りか」というのも。
-ありがとうございます-
「ありがとう」のお祈りのことなのですけれども、私達はお祈りばかりしているわけにはいきませんので、例えば、電車の中で座っている時とか、家の中におっても何か仕事をしていない時の少しの時間でも、そういうときに口に出して言えればいいですけれども。人がおれば「こいつはなにをしているのか」と思われるので、口の中か、黙って「ありがとうございます」と心の中で唱えるようにしていますが。口に出した方がいいという人もあり、何回か数えて口に出したほうがいいと教えて頂いているのですが、その辺の違いというのはあるのですか。
ありがとうございます:
私は口に出しません、目も閉じてしまうし、耳も閉じてしまうし、深く祈るときは心の中で深く祈らないと祈れません、この世を見ながらでは深くならないのです。この世を一切見なくなった方がいい位です。それで神さまの最高表現の世界、無限に無限に輝いた世界をしっかりと感じ取るのが本当の感謝の祈りなのです。本当は、心の中だけでいいのです。口に出していい時は口に出されてもいいし、そこは自由でいいと思います。
ここへ来なくても取ってもらえます。私はも
-ありがとうございます-
ここに来た場合は、一人で自分のマイナスを取るよりも少しでも多く取ってもらえるかな、と思っているのですが。
ありがとうございます:
ここへ来なくても取ってもらえます。私はもう、みんなのマイナスを全部、別にここに来られない人の分まで、お祈りで取っているのです。全部取り続けてお祈りしています、感謝が出来るように助ける役目をしてるのです。
その他に、やはり地球に色んな出来事が表面的に吹き上がる時は、その分まで消す役目をやはりしなければならない。受けた時は、結構体調が崩れるのです、まだそこまで症状は出てきませんが、同じ症状を本当は取らないといけないのです。だから、息が止まるくらいの深いお祈りをしなければならない時があります。そうすると体が鉛みたいに重たくなって、動けなくなってしまう時があるのです。それでも一生懸命に祈っていると、段々消えてしまいます。体の全身が痛むぐらいでは軽いのです、痛みが全身駆け巡り、のた打ち回る痛みもあり、そういうのは慣れているから大丈夫なのです。でも、苦しいことはありません、喜びが無限に湧き出る状態です。みんなが幸せになっていくし、みんなの幸せが私の大きい幸せになっていくから、幸せがどんどん大きくなっている感じなのです。
-ありがとうございます-
色んな人のマイナスを消すためにお祈りしているとおっしゃいましたけど。例えば、病気に成る人はその人が選んだことになるので、治してあげたら為にならないと仰いましたね。矛盾してないですか。
ありがとうございます:
病気は治しません。そういう表面的なことではなく「感謝の出来るように助ける」のです。根本から、お祈りが出来るように助けているのです。感謝できたら自分で病気ぐらい簡単に治せます。感謝が出来ないと何の解決も出来ないのです。病気を治すのは瞬間に簡単に出来ます、でも感謝が出来るようにするのはもう長時間かかるのです。本当に祈り続けて拝み続けないと出来ないのです。
-ありがとうございます-
ここの場所は、どういうことで住まわれたのですか。
ありがとうございます:
ここへは六年少し前にこっちへ移っているのです。別に「私は何も要らない」というような気持ちで生きていますので、これも自然に神さまが準備して与えてくださったような感じです。出来たら一番質素な山の洞穴で良かったのですが、でも洞穴だったらみんな来れませんから、これはもう自然に与えられたものなのです。
私は三年余り前までは、お祈りを根幹にずうっとしてきていたのです。そうして、枝葉にこういう勉強会もしたり、あちこち行ったりしてお話しさせてもらったりしていたのです。三年前から全部それを止めてしまって、お祈りだけに入ったことがあるのです。でも、最近復活しているのです。本当は「お祈りだけをしないといけない」と言われているのですが。
本当のお祈りというのは、一番力があります。一人一人の本当の姿を引っ張り出して、本当のお祈りが出来るように変える力があります。「本当に感謝できるように生み出すのはお祈りしかない」と言われ、「深いお祈りが要る」と言うのです。深いお祈りというのは「拝み出す」ということです。表面のマイナスも全部取らないといけません、引き受けて取って奥の本当の姿を引っぱり出す。「根本から、人の大きいマイナスを消して、大きいプラスを引っぱり出さないといけないんだ」と、表面の病気を治すような簡単で小さなものではないのです。「いい加減なお祈りではそれが出来ない」と言われます。それで「他の全部捨てて、命をかけてお祈りだけに入りなさい」と言われたのです。それで、「勉強会を全部止めて、人からの個人相談も全部お断りして」と。本当はあんまり冷たいことは嫌なのですが、でもお祈りの時間が奪われるから、奪われると本当の手助けが何も出来ない状態になります。
若い時は葉書でもたくさん出していたのです。多い時は一万枚ぐらい出していたことがあるから、友達でもたくさんいました。何万人といる色んな人から、手紙や色々のものが来るから返事も書いていたので、相当に数が多かったのです。そうすると、お祈りの時間がどんどん奪われるのです。やはりお祈りの方が大事だと自分も思い、また言われると、二十年ぐらい前からもう一切手紙も出さなくなり、手紙をもらっても返事も出さないくらい「冷たい人やなあ」と。どんどんそれを省略してしまったのです。
そこまで徹底しないと、お祈りが出来ませんでした。それでも枝葉の色んな仕事はいっぱいあります。最近は神さまの方から、もう「お祈りだけしないといけない」といつも言われているのです。でも、そうばかりは言っておられません。だから皆さんは、ここへ本当の感謝のお祈りの確認に来られるわけです、「本当のお祈りとは何か」という確認に来られて、直にお祈りが出来る時期が来て、そういう自分に変わって、本当の神さまの助けを受け入れる状態になっているのです。本当のお祈りをする為の、ある意味では「これが正しい」という生き方をやはり確認したいわけです。そういう意味で皆さん来られるのです。
番組ごとに色んな生き方があるのです。ただ、
-ありがとうございます-
臓器移植とか脳死に付いての考え方は。
ありがとうございます:
番組ごとに色んな生き方があるのです。ただ、本当の神さまの助けを受けたら、そういうことをしないでもどんな病気でも治してもらえるから、健康体に置き換えてもらえるので、そこまでしないでもいいと思います。ただ、番組によって低い番組では、病気を対症的に治そうとします。「部品を取り替えたらよく成るかなあ」という生き方もあってもいいのです。色んな段階の姿があってもいいのですが。ただ、そこに留まっていても本当の幸せではありません。「もっともっと生き方がいっぱいある」というのが大事です。
「美味しいから食べる」というのでは、でき
-ありがとうございます-
狂牛病、肉を食べて人間にうつるというのがあるのですが。宗教では肉は食べない方が良いから、やはり肉は食べない方が良いのでしょうか。
ありがとうございます:
「美味しいから食べる」というのでは、できるだけそういうように食べない方が良いのです。ただ、動物が人に対して自分の命を捧げて「どうぞ」と、そういう形で命をお使いくださいという気持ちで捧げてくれたら食べた方が良いのです。それは動物が早く進化する姿をとります。ただ、その時に食べた人は、善いことをいっぱいしないと駄目です。そうしたら動物の進化を大きく助けることに成ります。「人間が勝手に殺して食べて」というのでは、そういうことはしない方が人間にとってはいいのです。
「神さまからの命を頂く」という意味だったら、本当は動物も植物もみんな同じ命を生きているのです。捧げ物だったら感謝して頂くのは良いし、菜食だけが殺生してないかというとそうではありません。人間が勝手に食べるというのだったら、菜食も殺生です。神さまの命を頂くというのだったら、殺生にはならないのです。空気を吸うだけでも、空気中の微生物を殺しているかも知れないし、水を飲んでもそうかも知れないし。どんな食物を頂いても殺生かも知れない。
それは、神さまからの命を頂いた、重みを頂いたという感謝があったら殺生の罪はないのです。私も小さい時から耐乏生活させてもらって、やはり「殺生」という言葉は気になっていたのです。「動物を食べたらやはり殺生かな」という感じが残っていたのです。
月のうち三週間断食で、十年あまり断食ばかりした時期があったのです。本当の断食というのは、物を食べないことではなく、「神さまの命を頂いた」と気付いたらいいのです。『神さまの命を頂いているというといつも断食です、ものを食べながら断食。』そういうことに早く気付いたら、自由自在に成るかもしれません。感謝というのでも、今までの感謝はどうしても浅いのです。善いものを貰って、親切にして貰って「ありがとうございます」です。今までのは本当の感謝ではなかったのです。
「本当の感謝に生きる」というのは、そういう浅い小さいものではありません。これからは「感謝」に生きるのが必要に成るのです。今までの人類は「思い」に生きてきたのです。科学者のデカルトという人は「吾思うゆえに吾あり」という言葉を残しています。パスカルですか「人間は考える葦である」とか。そういう言葉はさも最高の言葉のようにみんな思い込んでいるのですが、考えたり思ったりするのが人間なんだ、そうでなかったら人間でないような、人間以下のような考え方を持っていたのです。
でも「思う」ということは、善いことではないのです。「思う」ということは縛りを作っていきます、思うことによって自分を縛り、人を縛るのです。思い続けることによってどんどん縛りが増えて、自分をつまらんものに自己限定してしまうのです。
最初から「本当の感謝」に生きていたら、神さまと一体の自分が自覚できたのです。無限に無限に輝いた自分というのをしっかり実感できた筈なのです、そうしたら幸せは絶対崩れなかったのです。でも、感謝を忘れて実行しなかったから、「思う」ことになってしまいます。「感謝をしない」ということは、「思うしか仕方がなく成る」のです。そうすると思いが積み重なって、色んな意味の自分を縛る縛りになってきます。すると益々感謝を忘れて、神さまの世界、感謝の世界が遠ざかるのです。そうして七難八苦でいっぱいに成る状態、また地球が滅亡するかも知れないというような、そういう状態へ追い込まれたのです。
それもひとつの過程としては別に悪いことじゃないのですが、そういう過程を一回通って、もう一回感謝の世界へ戻ればいいのです。でも、今からは感謝に生きて、「本当の感謝の生き方」をして、神さまの世界へ飛び込まないといけません。神さまの世界へ戻って本当の神さまの最高番組を受けて味わうようにならないと。そうしたら「無限の無限の幸せが一杯」という極楽世界に住むのです。この世のようなマイナスがいっぱいの世界ではなく、無限の無限のプラスばかりの世界に成るので