ありがとうございます
真祈り文庫へ

()(いの)(ぶん)()

2001ねん10がつにち No.1


     いろんなかたるのです。びょうげんいんいくとお

-ありがとうございます-
 まっがんゆうじんがいるのです。ほんにんなおりたいとおもっているし、まわりもなおりますようにといのっているのですが、もしせんざいしきふかいところで「もうにくたいはなれたい」とおもっているあいは、それはやはりこちらがわなおるようにおいのりすると、げんもどかたちになるのでよくないことなのでしょうか?

ありがとうございます:
 いろんなかたるのです。びょうげんいんいくとおりもあり、ひととおりやふたとおりではありません。もし、「がん」というしょうじょうが、ほんにんにとってなにかのべんきょうざいりょうとしてあたえてもらっているとしたら、そのべんきょうをしないといけません。

-ありがとうございます-
 では、がんくなるとか、なおるとかというのはつぎですか?

ありがとうございます: 
 そういうのは、えだちいさいことです。やはりほんとうべんきょうをしないと、しあわせへみちびいてもらえません。もともとにんげんかみさまといったいです、そうしてかみさまのすべてをなおぶんるのです。だから、げんげんかがやいたえいえんげんぶんって、そのぶんかみさまからあたえられたものをけていくかなのです。かみさまがあたえてくるものは、げんげんのチャンネルのうんめいばんぐみです。それをゆうえらんで、どのばんぐみでもちょうわせてれるのですが、ごくのあるばんぐみこころわせてしまうと、びょうになったり、マイナスのうんめいたいけんするようになっていくのです。
 だから、そのひとこころかたかたというのがだいなのです。そのほんにんゆうで、ばんぐみじゅんばんせんたくしています、このだけのもんだいではなく、いちばんさいしょからかみさまのなかからしゅっぱつしたときからそうなのです。

 さいしょからげんげんのチャンネルのほうそうばんぐみあたえてもらったとするのです。さいしょたいのはどういうばんぐみだとおもいますか?いちばんうえたいとおもうかいちばんしたたいとおもうかちゅうかんたいとおもうか、それはひとひとちがいます。ひとひとゆうてきとうにそのばんぐみを、てみたいのです。「どういうものがあるか」をりたいというのがあります。
 それで、さいしょから「たいもの」からじゅんばんていくときは、さいしょかみさまといったいぶんは、「いものはさいしょからよくっているから」というかんかくひくほうていくのです。あるかんは、ひくほうあしでスクロールしてつづけます。そのうちに、すこしそのばんぐみはまんでしまうことがあって、こころゆううしなってほんとうぶんわすれてしまうのです。
 そのばんぐみはまむと、いろんなマイナスの姿すがたがありくるしみにります。でも、もともとなかそんざいしますから、かならほんとうぶんというのにときがきます。それでかみさまをんで、またゆうもどして、こんさいこうばんぐみあじわうぶんわっていくのです。

 このは、あのぜんたいげんのチャンネルのしゅくなのです。しゅくというのは、あのごくさいてい姿すがたもこのるし、さいこうごくらくばんぐみもこのって、それがしゅくしょうされて、このはひとつのばんぐみなのです。また、こののひとつのチャンネルが、げんのチャンネルにかれています。だから、おなじひとつのチャンネルをているようでも、こまかくけるとげんのチャンネルがり、ひとひとているばんぐみぜんちがうのです。
 びょうになるひとるし、ならないひとり、しあわせなひとるし、こうひとり、いろいろかれているのです。それで、このは「なにえらぶか」というせんたくためべんきょうです。いものをえらんでりっりたいひとは、どんどんいものをおほんにしていけばいいし。でも、マイナスをえらびたいひとるので、そういうひとゆうにマイナスをえらんで、どんどんしたりてもいのです。そうして、そのいろんなかたなかからひとひとぶんゆうせんたくして、それをぶんのものにしていくのです。

 こので、いちおうこのなかさいこうこころれたら、あのったらまたさいこうほうへいくのです。このは、あのしゅぎょうしてりっるというより、このでのほうかんみじかく、たんかんりっっていけるのです。そういうでは、このはあのくらべてとくべつべんきょうなのです。
びょうる」というのもほんのちいさいえだもんだいなのです。たとえば、がんげんいんがどこにるかというのも、ぶんがん姿すがたは「てき」です、「ぶんさえこうだったら」というかんじでぜんたい調ちょうした姿すがたをとらないのです。とくさいきんがんおおいというのも、むかしすくなかったとおもうし、かったかもしれない。むかしは「ぜんたいへのほう」というのをだいにしていました。だから、ぜんたい調ちょうしているからがんにならなかったのです。さいきんは、しゅ、マイホームしゅぶんかいしゃさえかったらとか、ぶんくにさえかったらというような、そういう「ぶんさえかったら」というてきこころつよくなっています。それはがんさいぼうかたおなじなのです。

 そういうこころあやまちをかせるで、にくたいうつしたらがんしょうじょうをとります。「がんしょうじょうをとった」というときは、こころちがいをにくたいとおしてしているいちめんもあります。こころちがいを、にくたいびょうというしょうじょうとおしてしてくださっているのです。そうしたらかるります、てきこころえていき、また、そのがんまっるとくるしいいたみがともないます。こころきよめは、いたみをともなうことによっておおきくなりえます、きよめてもらえるのです。それをあのへもししたとしたら、てきこころのままあのってしまうかもれません。てきこころったら、ぶんったさきてきひとばかりのかいってしまいます。ぶんとそっくりさんのかいってしまうのです。
 このは、いろんなひともあるし、いっぱいこんざいしています。でも、あのぶんとそっくりさんのかいってしまうのです。だから、てきひとくところは、てきひとばかりがまわりにあつまるのです。やさしいひとやさしいひとばかりのそういうところへくのです。
 「おかねもうけたい」というしゅせんのようなひとだったら、しゅせんばかりがまわりにいるかいになってしまいます。また、かざってファッションショーみたいにてもらいたいひとは、みんなかざっててもらいたいひとばかりのかいってしまいます。もう、きょくたんぶんとそっくりのかいってしまう。そういうかいって、ほんとうしあわせになれたらいのですが、やはりただしいかたをとらないとしあわせでなくなります。

 あのひくいところへ、もしんだとき、そこからほうほうほんとうにあるかとかんがえたら、おほんがないのです。ぶんとそっくりさんだから、よほどそれにいてはんせいして「そこからしたい」というちをこさないかぎり、けられません。ながねんげつかかってぶんたかめていくしかないのです。それだったら、このでどれだけがんくるしんでも、いたみがともなっても、そのぶんだけこころれいにしてもらえば、あのったときにかいがれます。またそれをはんせいざいりょう使つかえたら、もっともっとこころりっみがこうとするのです。
 またぶんひとりのちからきているというのも、このひとつうかんかくです。ほんとうかみさまにかされています。すべてひつようなものはかみさまからあたえられて、まもりにまもられているはずなのです。それにかないというところも、あとにづまるひとつのげんいんになっているのです。それはかみさまにこころけて「かみさまにかされている」ということにいてかんしゃしてゆくというかたひつようなのです。だから、「おしゃさんにたよってもなおらん」というじょうたいになったときに、はじめてほんとうすくいをかみさまにけるチャンスなのです。いろんなべんきょうざいりょうがあります。

-ありがとうございます-
 まわりにいるわたくしなにをしたらいいのですか、ることはないのですか?

ありがとうございます:
 それはみんなぶんしんべんきょうかもしれません。まわりのひと姿すがたは、ぜんぶんもそういうがあったかもしれないし、いまぶんはそういうこころのこしているかもしれないから、ぶんこころおおそうというで、マイナスの姿すがたをもうぜんったほういのです。ひょうめんていなくてもこころのこっているあいおおいのです。
 そのこころなかのマイナスめんを、ぜんそとからべんきょうざいりょうとしてせてくれるのです。それでじゅんばんしてもらうようにすれば、ぶんまえにはそういうマイナスはてこないかもしれない。さいきんは、がんになったひとでも「ありがとうございます」をとなえてなおったひとが、おおぜいいます。それもいっしょうけんめいとなえたときは、かならをもらって、かみさまにとったらびょうしゅんかんなおすのはなんでもないのです。

 ただ、「こころ」できているときは、かみさまのたすけをきょぜつするのです。かみさまはぜったいひとゆうしばれないのです。きょうせいてきに「くしてあげる」ということはできません。ほんにんねがったらいいのです、ほんとうさずに、かみさまのこころなおれて、かみさまのこころのままにきるというのだったら、いくらでもおうえんしてくれるから、マイナスをぜんプラスにえてくるのです。

 わたくしぐらいのときは、おいのりしてひとびょうばかりなおしているがあったのです。「みんなかみさまでかんぜんで、げんけんこうそのものなんだ」というふうにいのることによって、まえひとだけではなくとおいところのひといっしょうけんめいいのっていたら、ぜんなおっていったのです。なんまんにんと。ひとびょうなおしたから「そのひとほんとうしあわせになったか」とったらなってないのです、こころべんきょうをしなかったからです。ひとなおしてもらっても、ほんにんべんきょうにはすこしもならない、またびょうるかもしれません。ぎゃくうとべんきょうざいりょううばったかもれないというかんじがあるのです。ただ、ぶんしんのおいのりのべんきょうにはなったし、どんなマイナスもプラスにしっかりとつめるれんしゅうになったのです。そういうだったら、わたくしはおいのりのれんしゅうをさせてもらってよかったなとおもうのです。

 さいきんではひとびょうは、おいのりでなおそうとはおもいません。ぎゃくに「したら」とおもっています。もし、おいのりでなおるのだったら、ほんにんがおいのりをしておいのりのちからけるほうしあわせなのです。だからかんしゃれんしゅうをしっかりとしてかんしゃふかめるほうが、ほんにんはやいちばんしあわせにります。そのチャンスのべんきょうざいりょううばったらだとおもうのです。おいのりしたらほんとうなおるのです、ひとのものでもなおせるのだけど…。でも、ひょうめんてきな「おもどおりにる」というのではほんとうしあわせではありません。かんしゃふかめて、かみさまがすであたえてくださっているげんけんこうとらえたほういのです。そうしたらすっとけんこうわってきます。


     ほんにんべんきょうもあるのですが、ひょうめんてきしき

-ありがとうございます-
 ほうかたですが、ほんにんさんよりもしゅうほうがそのほうかたこうどうたいへんこまります。しゅうなおしたいとおもっても、ほんにんさんはなおろうとはおもっていませんから、そういうあいはどうしたらいいのでしようか?

ありがとうございます:

 ほんにんべんきょうもあるのですが、ひょうめんてきしきがはっきりしていなくても、べんきょうしているのはどこのぶんかというと「おくぶん」です。まったしきがないじょうたいでも、ほんにんにとったらおおきいしゅぎょうかもれません。そういう姿すがたけているまわりのひとも、ほんとうしゅぎょうなのです。また、そのおをしなければならないというたちかれるひとも、ぶんがおになってたすけてもらったことがあるはずなのです。そのおんがえしというがあり、しゃっきんがえしのがあるのです。いろんなふくざつかんけいで、それぞれしゃっきんがえしをしたり、おんがえしをしたり、またひとだすけをして、ぶんりっみがいていくべんきょうざいりょうあたえてもらうのです。

 ほんとうは、ぶんために「かみさまがそういう姿すがたえんしている」というふうにほういのです。そうするとかみさまにかんしゃして、ぶんこころちがいをただしてもらって、またいろんなしゃっきんりをかえさせてもらって、ほんとうしあわせなぶんはやえてもらえるとおもうのです。ただ、いろんなかたがあるので、そのときそのときべんきょうさせてもらうのがいちばんいいのです。


      あるのです!にくたいにんげんえんのあるはいいろんな

-ありがとうございます-
 さくじつテレビで、ひとひとじゅうキロほどのものをたくさんべるというばんぐみがあったのです。たとえば、よしさんびゃくななじゅうグラムのてんどんいちかんじゅっべれる、ということはやくはちキロです、あれはどうかんがえてもよくわからないのです。にんげんのうりょくとして、たとえばマラソンなんかもわれわれはしろうたってはしれないわけですけれど、ところがべることにかんしてごくつうひとほそひとが、はちキロもべるというのは、そのひとだけでべているのか、またはなにべつものべているのか、そうことってあるのでしょうか?

ありがとうございます:
 あるのです!にくたいにんげんえんのあるはいいろんなれいこんきます。それは、せんれいもありますし、いろんなどうぶつれいもありますし、いろんなものがくのです。それもなみうと、きょうどうぎょうてきものでもべるのです。そうするといくらべてもおなかふくれないし、もうそこなしにべられるのです。おさけも、はしさけするときはそうです。おさけみたいというにんげんれいこんもあるし、りゅうじんとか、うまとか、どうぶつれいこんがいるのです。そういうのになみわせてしまうと、いくらおさけんでもわなくるのです。それで、そこなしにめるようになり、すごいことがこります。
 ものでも、なにかをするのでもそうですね。なみうところからいろんなはたらきかけがあって、またたすけてもらうもあるし、こっちからたすけるもあるのですが、ほんとうにくたいにんげんのこのぶんだけがなにかをしてるのではありません。


     いろんなかんがかたがあります。んだことはもうあ

-ありがとうございます-
 がつじゅういちにちにアメリカではつテロけんがあったのですが、あれはどのようにかんがえたらよろしいのでしょうか。
                                  
ありがとうございます:
 いろんなかんがかたがあります。んだことはもうあまりつかんで、それをどうのこうのうより、「あいこころあいあやまちをゆるす」というように、「これからのことらいことがどうしたらるか」というのを、かんがえるほうだいです。

 テロをうらんでほうふくするというのだったら、またうらみをんでほうふくされます。それがどんどんエスカレートするかもしれない。ほんとうはみんなぶんうんめいぶんせきにんたないといけない、そういううとしたら、なにせきにんがあったのです。それをやはり「はんせいざいりょうにする」というのがだいです。また、とうしゃでないわたくしたちもおなじなのです。まわりのすべての姿すがたは「ぶんわり、えでたすけてくれている」いうふうにほうが、ぶんはんせいしてりっっていけます。そこで、かみさまのたすけるというで「ありがとうございます」とかんしゃすることが、そういうひとたちにもかみさまのひかりとどいて、「みんなをどんどんしあわせにしていってくださる」というふうにおもえるのです。


     この「ありがとうございます」というのもそ

-ありがとうございます-
 「ありがとうございます」のシールをいえるときには、こまかくしてちいさくしたのをたくさんるのがいいようにおもうのですけど、そういうことはないのですか?

ありがとうございます:
 この「ありがとうございます」というのもそうですが。かみさまのちゅうみがこうぞうになっています。こうぞうというのは、ちいさいはこうえにもうひとつおおきいはこがあって、さらおおきいはこがあって、はこをずうっとかさねていくのがあります。それをこうぞうというのです。ちゅうみは、みんなそうけいしゅく姿すがたをとっているのです。
 たとえば、きゅうがあったらきゅうというけいしゅくがあります。それとおなじでだいちゅうしゅくしょうされたらきゅうになり、またそれがしゅくしょうされてじんたいになり、またさいぼうになり、げんになり、というふうにおなこうぞうしゅくしょうされた姿すがたで、ずうっとつづいているのです。

 ほんとうの「ありがとうございます」というのは、かみさまのぜんたいぞうしていて、かみさまのはたらきのすべてをあらわことなのです。ったらちゅうぜんたいほんとうみをしているのです。それがこうぞうになっているから、「ありがとうございます」のなかに「げんげんのありがとうございます」がふくまれているのです。またその「げんげんのありがとうございます」のなかのひとつの「ありがとうございます」のなかにまた「げんげんのありがとうございます」がふくまれているのです。
 そのようにると「ありがとうございます」のひとことに、そのなかに「げんげんのありがとうございます」がげんげんにつながっています。わざわざちいさくしてもいいのですが、しなくてもいいのです。このだけのそういうかずとらわれないほうがいいとおもいます。

-ありがとうございます-
 すべてのものをつくられたかたいちばんおもいは「ありがとうございます」ですか?

ありがとうございます:
 おもいではなく、ほんとうかみさまのまえきゅうきょくまえ」にたるのです。かみさまのまえというのはそのはたらきをしていて、ほんとうかみさまのはたらきのすべてをしめことです。
 だから、ほんとうかみさまはぜんたいなのです、そのかみさましかそんざいしない。だから、ぜったい姿すがたそうぞう姿すがたも、げんげんかがやいたとういつする姿すがたも、そのぶんしんよろずかみさまという姿すがたも、またこののすべてのはたらき、姿すがたぜんをひっくるめたぜんたいぞうしめことなのです。だから、「ありがとうございます」はちいさいではありません、かみさまのぜんたいぞうなのです。

 いろんなかみさまやほとけさまをしんじているひとが、しんじるかみさまはどういうかみさまかというと、ちいさいのです。ず、このがいのどこかにいるかみさまになっているのです、(それをしんじるひとにとっては)このとくべつなのです、(そのかみさまは)このはなれたそんざいです。また、ちゅうぜんたいとうかつするかみさまかというと、そうではないかもれないし、ひょうげんとしてあらわれた姿すがたおくにあるぜったいはたらきかというと、そうでもないかもれない。そういういろんなはたらきをバラバラにとらえるとわかりにくいのです、ひとつにつながらないといけません。
 このにいるひとでも、ほんとうほんとうかみさまといったいなのです、でも、あのにいるかみさまとはいったいではない、まだはなれています。ほんとうかみさまといったいだったら、そこをとおってあのかみさまともいったいるのです。また、いろんなかみさまとぜんいったいできるのです。だから、すべてをひとつにつなぐことが「ありがとうございます」です。「あいいったいかん」としてことなのです。

-ありがとうございます-
 ほんとうのおいのりということは「かんしゃをする」ということですか。

ありがとうございます:
 そうです、どれも、いろんなはなしなかいていかれるとおもうのです。「なにほんとうのおいのりか」というのも。

-ありがとうございます-
 「ありがとう」のおいのりのことなのですけれども、わたくしたちはおいのりばかりしているわけにはいきませんので、たとえば、でんしゃなかすわっているときとか、いえなかにおってもなにごとをしていないときすこしのかんでも、そういうときにくちしてえればいいですけれども。ひとがおれば「こいつはなにをしているのか」とおもわれるので、くちなかか、だまって「ありがとうございます」とこころなかとなえるようにしていますが。くちしたほうがいいというひともあり、なんかいかぞえてくちしたほうがいいとおしえていただいているのですが、そのへんちがいというのはあるのですか。

ありがとうございます:
 わたくしくちしません、じてしまうし、みみじてしまうし、ふかいのるときはこころなかふかいのらないといのれません、このながらではふかくならないのです。このいっさいなくなったほうがいいぐらいです。それでかみさまのさいこうひょうげんかいげんげんかがやいたかいをしっかりとかんるのがほんとうかんしゃいのりなのです。ほんとうは、こころなかだけでいいのです。くちしていいときくちされてもいいし、そこはゆうでいいとおもいます。

 
     ここへなくてもってもらえます。わたくしはも

-ありがとうございます-
 ここにあいは、ひとぶんのマイナスをるよりもすこしでもおおってもらえるかな、とおもっているのですが。

ありがとうございます:
 ここへなくてもってもらえます。わたくしはもう、みんなのマイナスをぜんべつにここにられないひとぶんまで、おいのりでっているのです。ぜんつづけておいのりしています、かんしゃるようにたすけるやくをしてるのです。
 そのほかに、やはりきゅういろんなごとひょうめんてきがるときは、そのぶんまでやくをやはりしなければならない。けたときは、けっこうたい調ちょうくずれるのです、まだそこまでしょうじょうてきませんが、おなしょうじょうほんとうらないといけないのです。だから、いきまるくらいのふかいおいのりをしなければならないときがあります。そうするとからだなまりみたいにおもたくなって、うごけなくなってしまうときがあるのです。それでもいっしょうけんめいいのっていると、だんだんえてしまいます。からだぜんしんいたむぐらいではかるいのです、いたみがぜんしんめぐり、のたまわいたみもあり、そういうのはれているからだいじょうなのです。でも、くるしいことはありません、よろこびがげんじょうたいです。みんながしあわせになっていくし、みんなのしあわせがわたくしおおきいしあわせになっていくから、しあわせがどんどんおおきくなっているかんじなのです。

-ありがとうございます-
 いろんなひとのマイナスをすためにおいのりしているとおっしゃいましたけど。たとえば、びょうひとはそのひとえらんだことになるので、なおしてあげたらためにならないとおっしゃいましたね。じゅんしてないですか。

ありがとうございます:
 びょうなおしません。そういうひょうめんてきなことではなく「かんしゃるようにたすける」のです。こんぽんから、おいのりがるようにたすけているのです。かんしゃできたらぶんびょうぐらいかんたんなおせます。かんしゃないとなんかいけつないのです。びょうなおすのはしゅんかんかんたんます、でもかんしゃるようにするのはもうちょうかんかかるのです。ほんとういのつづけておがつづけないとないのです。

-ありがとうございます-
 ここのしょは、どういうことでまわれたのですか。

ありがとうございます:
 ここへはろくねんすこまえにこっちへうつっているのです。べつに「わたくしなにらない」というようなちできていますので、これもぜんかみさまがじゅんしてあたえてくださったようなかんじです。たらいちばんしっやまほらあなかったのですが、でもほらあなだったらみんなれませんから、これはもうぜんあたえられたものなのです。 
 わたくしさんねんあままえまでは、おいのりをこんかんにずうっとしてきていたのです。そうして、えだにこういうべんきょうかいもしたり、あちこちったりしておはなしさせてもらったりしていたのです。さんねんまえからぜんそれをめてしまって、おいのりだけにはいったことがあるのです。でも、さいきんふっかつしているのです。ほんとうは「おいのりだけをしないといけない」とわれているのですが。

 ほんとうのおいのりというのは、いちばんちからがあります。ひとひとほんとう姿すがたして、ほんとうのおいのりがるようにえるちからがあります。「ほんとうかんしゃできるようにすのはおいのりしかない」とわれ、「ふかいおいのりがる」とうのです。ふかいおいのりというのは「おがす」ということです。ひょうめんのマイナスもぜんらないといけません、けてっておくほんとう姿すがたっぱりす。「こんぽんから、ひとおおきいマイナスをして、おおきいプラスをっぱりさないといけないんだ」と、ひょうめんびょうなおすようなかんたんちいさなものではないのです。「いいげんなおいのりではそれがない」とわれます。それで「ぜんてて、いのちをかけておいのりだけにはいりなさい」とわれたのです。それで、「べんきょうかいぜんめて、ひとからのじんそうだんぜんことわりして」と。ほんとうはあんまりつめたいことはいやなのですが、でもおいのりのかんうばわれるから、うばわれるとほんとうだすけがなにないじょうたいになります。

 わかときがきでもたくさんしていたのです。おおときいちまんまいぐらいしていたことがあるから、ともだちでもたくさんいました。なんまんにんといるいろんなひとから、がみいろいろのものがるからへんいていたので、そうとうかずおおかったのです。そうすると、おいのりのかんがどんどんうばわれるのです。やはりおいのりのほうだいだとぶんおもい、またわれると、じゅうねんぐらいまえからもういっさいがみさなくなり、がみをもらってもへんさないくらい「つめたいひとやなあ」と。どんどんそれをしょうりゃくしてしまったのです。
 そこまでてっていしないと、おいのりがませんでした。それでもえだいろんなごとはいっぱいあります。さいきんかみさまのほうから、もう「おいのりだけしないといけない」といつもわれているのです。でも、そうばかりはっておられません。だからみなさんは、ここへほんとうかんしゃのおいのりのかくにんられるわけです、「ほんとうのおいのりとはなにか」というかくにんられて、じきにおいのりがて、そういうぶんわって、ほんとうかみさまのたすけをれるじょうたいになっているのです。ほんとうのおいのりをするための、あるでは「これがただしい」というかたをやはりかくにんしたいわけです。そういうみなさんられるのです。


    ばんぐみごとにいろんなかたがあるのです。ただ、

-ありがとうございます-
 ぞうしょくとかのういてのかんがかたは。

ありがとうございます:
 ばんぐみごとにいろんなかたがあるのです。ただ、ほんとうかみさまのたすけをけたら、そういうことをしないでもどんなびょうでもなおしてもらえるから、けんこうたいえてもらえるので、そこまでしないでもいいとおもいます。ただ、ばんぐみによってひくばんぐみでは、びょうたいしょうてきなおそうとします。「ひんえたらよくるかなあ」というかたもあってもいいのです。いろんなだんかい姿すがたがあってもいいのですが。ただ、そこにまっていてもほんとうしあわせではありません。「もっともっとかたがいっぱいある」というのがだいです。


    美味おいしいからべる」というのでは、でき

-ありがとうございます-
 きょうぎゅうびょうにくべてにんげんにうつるというのがあるのですが。しゅうきょうではにくべないほういから、やはりにくべないほういのでしょうか。

ありがとうございます:
 「美味おいしいからべる」というのでは、できるだけそういうようにべないほういのです。ただ、どうぶつひとたいしてぶんいのちささげて「どうぞ」と、そういうかたちいのちをお使つかいくださいというちでささげてくれたらべたほういのです。それはどうぶつはやしんする姿すがたをとります。ただ、そのときべたひとは、いことをいっぱいしないとです。そうしたらどうぶつしんおおきくたすけることにります。「にんげんかっころしてべて」というのでは、そういうことはしないほうにんげんにとってはいいのです。

 「かみさまからのいのちいただく」というだったら、ほんとうどうぶつしょくぶつもみんなおないのちきているのです。ささものだったらかんしゃしていただくのはいし、さいしょくだけがせっしょうしてないかというとそうではありません。にんげんかっべるというのだったら、さいしょくせっしょうです。かみさまのいのちいただくというのだったら、せっしょうにはならないのです。くううだけでも、くうちゅうせいぶつころしているかもれないし、みずんでもそうかもれないし。どんなしょくもついただいてもせっしょうかもれない。

 それは、かみさまからのいのちいただいた、おもみをいただいたというかんしゃがあったらせっしょうつみはないのです。わたくしちいさいときからたいぼうせいかつさせてもらって、やはり「せっしょう」ということになっていたのです。「どうぶつべたらやはりせっしょうかな」というかんじがのこっていたのです。
 つきのうちさんしゅうかんだんじきで、じゅうねんあまりだんじきばかりしたがあったのです。ほんとうだんじきというのは、ものべないことではなく、「かみさまのいのちいただいた」といたらいいのです。『かみさまのいのちいただいているというといつもだんじきです、ものをべながらだんじき。』そういうことにはやいたら、ゆうざいるかもしれません。かんしゃというのでも、いままでのかんしゃはどうしてもあさいのです。いものをもらって、しんせつにしてもらって「ありがとうございます」です。いままでのはほんとうかんしゃではなかったのです。

 「ほんとうかんしゃきる」というのは、そういうあさちいさいものではありません。これからは「かんしゃ」にきるのがひつようるのです。いままでのじんるいは「おもい」にきてきたのです。がくしゃのデカルトというひとは「われおもうゆえにわれあり」ということのこしています。パスカルですか「にんげんかんがえるあしである」とか。そういうことはさもさいこうことのようにみんなおもんでいるのですが、かんがえたりおもったりするのがにんげんなんだ、そうでなかったらにんげんでないような、にんげんのようなかんがかたっていたのです。
 
 でも「おもう」ということは、いことではないのです。「おもう」ということはしばりをつくっていきます、おもうことによってぶんしばり、ひとしばるのです。おもつづけることによってどんどんしばりがえて、ぶんをつまらんものにげんていしてしまうのです。
 さいしょから「ほんとうかんしゃ」にきていたら、かみさまといったいぶんかくできたのです。げんげんかがやいたぶんというのをしっかりじっかんできたはずなのです、そうしたらしあわせはぜったいくずれなかったのです。でも、かんしゃわすれてじっこうしなかったから、「おもう」ことになってしまいます。「かんしゃをしない」ということは、「おもうしかかたがなくる」のです。そうするとおもいがかさなって、いろんなぶんしばしばりになってきます。すると益々ますますかんしゃわすれて、かみさまのかいかんしゃかいとおざかるのです。そうしてしちなんはっでいっぱいにじょうたい、またきゅうめつぼうするかもれないというような、そういうじょうたいまれたのです。
 それもひとつのていとしてはべつわるいことじゃないのですが、そういうていいっかいとおって、もういっかいかんしゃかいもどればいいのです。でも、いまからはかんしゃきて、「ほんとうかんしゃかた」をして、かみさまのかいまないといけません。かみさまのかいもどってほんとうかみさまのさいこうばんぐみけてあじわうようにならないと。そうしたら「げんげんしあわせがいっぱい」というごくらくかいむのです。こののようなマイナスがいっぱいのかいではなく、げんげんのプラスばかりのかいるので