真祈り文庫
2001年9月8日No,2
「情」というのは立心偏に青、青空のような
-ありがとうございます-
先生はこれからの情報化社会・情報というのをどのようにお考えですか?
ありがとうございます:
「情」というのは立心偏に青、青空のような本当の神さまの心なのです、神さまの方から色んな響きがどんどん来るように伝わってくるのです、それを受け直して神さまの恩に報いていくというのが「情報」なのです。人を相手にするのではなく神さまを相手にするのが本来の生き方です。
今までは低い番組に心を向け過ぎて、本当の意味での神さまからの情報を受け損なっていたという一面があります。神さまへ心を向けて最高番組からの情報をいっぱい受けるのが大事です、本物の時代というこれからは特にそうなのです。神さまに心を向ける時代です、最高番組へ心を向けて最高のものをこの世へ降ろしていただくために、最高のものを受け直さないといけないのです。
ほんの少しの心の向け方なのです、ちょうど太陽を見るのだったら、心をまともに向けたらいつも光が降り注ぐのです。少し角度をずらすだけで光の量は極端に少なくなっていきます。
仏教は空を目指すのです、ただ、空の解釈が
-ありがとうございます-
禅で言う、空っぽにすると、「ありがとうございます」の違いを教えてください。
ありがとうございます:
仏教は空を目指すのです、ただ、空の解釈が無に思い違えていた一面があります。空とは何かというのが、無と同一視する、今もそういう考え方をする人があります。そこに問題があったと思うのです。
本当の空は神さまの絶対を指しています、無限の無限のプラスでいっぱいという世界です。そこから色んな表現が生まれてくるわけです、表現というのは一瞬一瞬移り変わります、変化する、無常なんだというのが、バックがなにも無いと儚い・虚しいのです、寂しくなります。バックが神さま・無限の無限のプラスであれば良いものがどんどんどんどん出てくるだけなのです、変化ほど楽しいものは無いということになります。
自分の心の中から色んな思い・感情・雑念、全部を振り払ってなくしてしまえば青空のようになるのです、青空の中へ太陽を持ってこないといけないのです。いくら青空といっても太陽が消えたら闇です、無限の無限のプラスを心の中へもってこないといけないのです。それも、雑念を消してから持ってくるというのは難しいのです、消したつもりになってもすぐにまた湧いてきます、本当に消しきるのはなかなか大変なのです。一時的に表面から押さえ込むのは出来ますが、過去の全部を消しきるというのは大変な行がいるのです。
消すのも兼ねて、無限のプラスを持ってくるのが良いです。だから、最初から「ありがとうございます」を唱えていたら、雑念はどんどん消されていくし、最初から太陽は輝いています。そうしたら、早く心はすっきりして虚しさ・寂しさは絶対起こらないのです、いつも楽しい楽しいと。そうして、神さまの愛を身近に感じられるようになってきます。
「ありがとうございます」の中に消す力があ
-ありがとうございます-
「ありがとうございます」を唱えていると、汚れたものを消せますか?
ありがとうございます:
「ありがとうございます」の中に消す力があります。一応は全部消えるのですが、新たに起きたものは積み重なります。ただ、自分がどれだけ大きくなっていくかというのも関連します、小さい部分は消えても、大きい立場から見たらまだ消えて無い部分もあるのです。自分が小さい時に透明になったと思っても、その後に自分の気持ちが広がって大きくなった時に、小さい部分は消えているのですが、大きい部分はまだ残っているところがあるのです。どれだけ自分が大きくなっていくかというのに比例して全部消し切っていったら本当の透明です。いったん消えたものは戻る事はありません。
精神統一というのは二通りあります。思いの
-ありがとうございます-
何かに没頭している時にも「ありがとうございます」を唱えた方が良いのでしょうか?二つに分裂しそうなのですが?
ありがとうございます:
精神統一というのは二通りあります。思いの自分が思いを集中するというのと、もうひとつは、感謝の心で神さまの大きい無限のエネルギーを一点に集中するというのと。思いの方は、集中すればするほど凝り固まっていくのです、思いの自分が集中しようというのと感謝とは正反対ですから、集中はできないのです。感謝すると思いの集中が途切れるのです。
感謝だけをしている自分であれば、一点に集中するということは神さまの無限の力をそこに集める事になります。逆に言うと、神さまの力が大きく降りるから、何をしても神業になります。
-ありがとうございます-
例えば、バッターが打とうと集中している時、「ありがとうございます」と唱えれば神業になりますか?
ありがとうございます:
勝ち負けの世界は神さまの世界と全然違うのです、勝ち負けの世界は思いの世界です。神業が出るといったら、勝ち負けを超越していないといけない。神業が出るというのは、名人を超越しなければいけない。鉄砲を撃つにしても、百発百中でないといけない、何するにも百発百中で完璧でないといけない。本当の神さまが働いたら、神さまの力が降りたら、本当はそこまで行くのです。
例えば、野球でバットでボールを打つのでも、常にボールが止まって見える位になって、常にホームランを打てる位になったら神業です。その時は既にボールを相手にしていないのです、既にボールを打ってホームランになっているという結果だけを見ている世界が神さまの世界なのです。
だから、どんなボールを投げられても、ボールが止まってそこにバットが当たって、全部ホームランになっているというふうに、結果を先に受け直せる世界が神さまの世界です。それが神業になって出てくるのです。勝ち負けを考えてお互い力を出し合っているのはまだまだ低い世界です。思いのある世界はまだだめです。
悟りはピンからキリまであります、神さまの
-ありがとうございます-
悟られた時はどんな感じでどんな事が起きましたか?
ありがとうございます:
悟りはピンからキリまであります、神さまの全体とぴたっとひとつに成るというのは本当は不可能なのです。神さまがあまりに大き過ぎるし深過ぎるし、言葉を超えて想像を絶するものがあるのです。だから、神さまの部分的なものを感じるのです、太陽ぐらいの光を感じた位では小さいのです、太陽を無限億万倍した位の大きい光・圧倒的なものを感じてもまだ小さいのです。
神さまをどれだけ自分の身近に感じ取れるかなのです、神さまはこの世だけが神さまの姿ではないし、無限のチャンネルのすべての表現も神さまの働きの姿なのです。本当は全部を感じなければならないのです、「さとり」は神さまと自分の差を取るという意味です。本当は神さまの全体を感じ取らなければ悟りとはいえません。
-ありがとうございます-
イエスさまとかお釈迦さまとかそれぞれ悟りの段階が違うのですか?
ありがとうございます:
何を感じているかです、感じただけが自分のものになっているのです、どれだけ大きく神さまの全体像を感じ取っているかで違うのです。悟ったと思っても、奥が無限に無限にあります、今の一瞬悟ったと思っても次の一瞬には悟っていない自分になるかもしれない、逆にどんどん深まるかもしれません。
-ありがとうございます-
一旦悟ってまた元に戻るような事は?
ありがとうございます:
あります、受け直しを忘れたら、神さまをより新しい姿で受け直さなければいけない。例えば太陽を神さまに例えて、太陽を見たら神さまを感じたと言うのですが、次の瞬間目をそらしたらもう感じていません、そうしたら少し悟りから遠ざかるでしょう。一瞬の隙もないという位に、一瞬一瞬神さまを見続けなければいけないのです、そこまで感謝し続けないといけないのです。
-ありがとうございます-
無限のチャンネルを見ている自分・悟った自分だと思うのですが、その自分にも段階がありますか?その自分と、一瞬一瞬受け直して行く自分との関連性を教えてください。
ありがとうございます:
本当の自分に分身がたくさんあります。分身に色々と囚われた自分があります、この世を見ている自分も本当の自分のひとつの分身なのです。だから、部分的には意識しているのですが、意識が全体に及んではいません。本体の本当の自分に戻った時にすべてに意識が行き届くのです、それで自由自在、神さまのすべてを受け直していると言えるのです。
-ありがとうございます-
見ている自分というのもどんどん進化していきますか?
ありがとうございます:
神さまがどこまでも進化向上する姿をとり続けますから、自分もそれに合わせて行かなければいけないのです。神さまには行き止まりがありません、だから、どこまでもどこまでも自分も変化するのです。難しいのです悟りは。
先ず、思いの自分を生きるのか、感謝の自分
-ありがとうございます-
色んな選択判断をする時に、業想念(思いの自分)と本心の自分の判断があると思いますが、「ありがとうございます」と唱える事で本心の自分の方へ導いてもらえますか?
ありがとうございます:
先ず、思いの自分を生きるのか、感謝の自分を生きるのかなのです。最初は「思い通りに生きたい」と思いの自分を生きるのです、これはある程度続きます。ある程度体験すると頭を打ったり、行き詰まったり、これはおかしいなと気付き出すのです。それで、今度は感謝に生きようとするのです。
感謝に生きようという気持ちを起こした時から、神さまの助けが入ってきます。神さまは感謝に生き始めた時から守り続けて助けてくれています。ただ、過去の惰性が残っていて、思いに生きていた惰性が残るのです、時々思いが出てくるのは惰性が顔を出しているからで、それは心配ありません。神さまは感謝に生きるのら助けようと一生懸命働いている時だから、惰性という思いを消し続けてくれます、どれだけ出てきても心配せずに、自分は感謝に生きようという気持ちだけで大丈夫です。
本当の神さまはひとつです、神さまの部分と
-ありがとうございます-
守護霊さまとか守護神さまとか神さまのランクはあるのですか、それともひとつなんでしょうか?
ありがとうございます:
本当の神さまはひとつです、神さまの部分としてすべてがあります。無限の無限のチャンネルがあるというのも、神さまの表現の全体像からみると、そういうふうに分かれて色んな働きに分化して出てくるのだということです。
色んな次元の色んなチャンネルの中にそれぞれ色んな人がいるのです、高い次元の高いチャンネルの中の人たちはみんな神さまなのです、守護霊さま級の人がいっぱい居る番組もあるし、守護神さま級の人がいっぱいいる番組もあるし、番組によって全部違います。
全体像を捉えて、全体から助けを受けるのが大事なのです。一人の守護霊さまからだけではなく、無限の守護霊さまから助けを受けるほうが良いのです、また他からも必要だったら全体から助けを受けるのが大事です。
-ありがとうございます-
天照大御神さまに感謝する事と、身近に守護霊さまに感謝する事とどのようにバランスをとっていったら良いでしょうか?
ありがとうございます:
守護霊さま・守護霊さまと呼ぶと、守護霊さまから助けが来ます。その守護霊さまをどう見るかでしょう、小さい姿でみると守護霊さまだけの助けしか来ないのです。守護霊さまが天照大御神さま・宇宙の大神さまと一体であって、そのすべての力を必要に応じて与えてくださるという姿で、守護霊さまを大きく捉えたら、守護霊さま・守護霊さまというのと「ありがとうございます」というのが一致してきます。
ただ、守護霊さまというのを小さく見る人が多いのです。大きく見るのだったら守護霊さまは消えていきます、「ありがとうございます」だけになっていきます、小さい生き方は必要ありません、「ありがとうございます」にみんな戻っていくのです。
-ありがとうございます-
守護霊さまに気持ちを向けなくても「ありがとうございます」と唱えていればいいのですか?
ありがとうございます:
「ありがとうございます」といえる人は途中はなくても大丈夫です。でも、最初から「ありがとうございます」にいけない人がほとんどです、そうしたら、身近に縋れるものに心を向けていく事が大事になるのです。それが最初は守護霊さまかもしれない、観音さまであったり阿弥陀さまであったりいろいろします。でも、最後は「ありがとうございます」に戻っていきます。
番組として地獄はあります、ただ、それを絶対
-ありがとうございます-
地獄は人間が作り出したものではなく本当にありますか?
ありがとうございます:
番組として地獄はあります、ただ、それを絶対に見なければならないのではありません、選んでは見る事が出来るけれど、神さまが番組のひとつとして用意しているということです。
地獄を作るのも相当な力が要るのです、神さまの無限の力を振るって作り上げた最高傑作です。ただ、地獄を見る事によって、謙虚に感謝が深まるという一面もあります、それで、最高番組・極楽番組が見れたら、本当に幸せいっぱいという気持ちになります。最初から地獄なんかないのだといっても、感謝が浅くなるのであれば意味がないのです。地獄も知って極楽を味わえる方が感謝が無限に無限に深くなります、そういう意味で地獄番組も大事です。
-ありがとうございます-
地獄は人間の心が作り出したものだと思っていたのですが、そうではなくて、そういう番組が用意されているということですか?
ありがとうございます:
ただ、地獄番組を見るには、その波長に合う心を起こさないと受けられません、心で番組を選んで引き出してくるのです。ただ、この世では本当の地獄は味わえないのです、この世地獄はこの世の無限のチャンネルの中のひとつです、この世は特に全体の縮図としてあるから、この世の地獄は味わえても本当の地獄は味わえません。
-ありがとうございます-
極楽はどんな世界ですか?
ありがとうございます:
極楽というのは、自分のすべてを与え尽くして一切求める心を起こさない世界です。与えて与えて与え尽くすだけの世界です、周りが全部同じ事をしてくれます。自分に必要なものは全部回りから、与えて与えて与え尽くしてきます、これ以上幸せな事はないという位に、そういう世界です。
逆に地獄は、求める心を生きる世界です。相手から奪うような心で全部を自分のほうへ取り込もうとします、周りも同じように自分の全部を奪い取ってくれます。自分の生き方の通りの世界が生まれてくるのです。
-ありがとうございます-
与えるか奪うかで別れるのですか?
ありがとうございます:
与える心と奪う心をひとつの要素としてみた時はどちらになるかという振り分けです。他の振り分け方もあります、光が極楽、闇は地獄、色んな要素が振り分けられて地獄と極楽を構成する要素になるのです。その中のひとつの要素として、与える心と奪う心があります。
神さまを感じる感じ方は無限にあります。無
-ありがとうございます-
神さまを感じるというのはどういうことですか?
ありがとうございます:
神さまを感じる感じ方は無限にあります。無限の中のひとつを感じたからといって、神さまの全部を感じたわけではないのです。神さまはどこから来るか?どこから来るかというのもひとつの感じ方なのですけれど、常に神さまの中に居るという感じ方もあります、常に「神さまが全体から来ている」というよりも、「神さまの中に置かれている」という感覚になってきます。
感じ方も無限に色んな感じ方があって良いと思います、それを順番に味わって体験して、神さまとの一体感を深めていくのです。私は神さまがどこからか来るという感覚は全然ないのです、神さまの中に居るという感覚です、周りは神さまばかり、どこにいても神さまばかりとしか感じないのです。いまさら神さまをどこかに求めるでもないし、(どこかに)いて欲しいとも思わないし。色んな感じ方を順番に体験して楽しむのです。
-ありがとうございます-
夢の中でもそういう感じ方はありますか?
ありがとうございます:
夢の中でも色んな感じ方が出てきます、色んな神さまが出てきたという夢もあるかもしれないし、神さまの中に居るという夢になるかもしれません。・・・(中略)・・・夢に出てきた事はあるものだけにだけ結び付けて考えないほうが良いのです、それだけに囚われてしまいます。色んな楽しみ方があります。
-ありがとうございます-
「ありがとうございます」は天照大御神さま今ここに在します、ということですが、それは自分の中にということですか?
ありがとうございます:
自分が消えて、天照大御神さまだけが存在するというのが本当なのです。自分がと入ってくると天照大御神さまの全体像はつかめなくなります。神さまだけがというのが本当の感じ方になってきます。自分が消えていくのが一番良いのです、自分の立場も消えて器も消えて、そうして天照大御神さまだけになったら本当の感じ方です。
-ありがとうございます-
南無妙法蓮華経のように、「ありがとうございます」は色んなものが寄ってくる心配はないですか?
ありがとうございます:
「ありがとうございます」は自分を神さまにお任せする生き方なのです、そうして神さまのすべてを受け直す生き方、全託なのです。「ありがとうございます」は自力を使わないのです、神さまの助けだけを受け入れる・神さまの力だけを受け入れるのです。
でも、普通はみんな自力で生きようとしているのです、自力の我の心を持ったままで南妙法蓮華経と唱えます。悟った人は我がないので、我なしで唱えたら高らかな響きが出てきますが、我を最初から持ちながらだから、我に波長の合うものを引き寄せてしまいます。肉体の自分・未熟な自分を掴んで自慢しているような感じになり、傲慢になった姿をとります。そうすると、傲慢な波に波長の合うものを引き寄せてしまうでしょう、だからマイナスをいっぱい背負ってしまうのです。
感謝には傲慢さはないのです、すべてを神さまにお任せしているから謙虚に謙虚になるだけです。だから、余計なマイナスを背負う必要がないのです、寄ってこないのです。「ありがとうございます」は自分にマイナスが有ってもそれを消してくれます、周りにマイナスが有っても自分を通してそれを消してくれます。
南無妙法蓮華経と南無阿弥陀仏は全然生き方が違います、南無阿弥陀仏のほうが他力で作ってもらう側に自分を置いて、自分で何かをしようとはせずに、阿弥陀さまだけに縋ります、だから余計なものをかき集める事はないのです。マイナスを背負わなくて済みます、自分のマイナスを阿弥陀さまにとってもらうだけの生き方になります。
「ありがとうございます」は南無阿弥陀仏とは違うのです、他力ではなく絶対力なのです。救ってほしいという立場には立ちません、「ありがとうございます」と唱える時は、神さまからすべてを受け直すだけだから悟った自分を受け直します。「ありがとうございます・ありがとうございます」と元から悟った自分を受け直します。古いものと新しいものとを置き換えてもらうだけなので、古いものを掴んでしがみついて迷っている自分を悟らせてもらうというように思わなくなります。自力と他力と絶対力と三つあって皆違うのです。
-ありがとうございます-
瞑想とかで、観察者・ひとつの意識に気付いていく努力というのは自力の分野に入るのですか?
ありがとうございます:
下からの積み上げというのは自力です、最初から悟っている自分・気付いている自分がすっと降りてくるのがいいのです。
-ありがとうございます-
日常の生活で気付こうと努力するのは自力なのですね?
ありがとうございます:
下からの生き方だから自力的な生き方です。
-ありがとうございます-
「ありがとうございます」でやっていくと、ある日突然気付いている自分が出てくるのですか?
ありがとうございます:
悟った自分が降りてくるのです、降り方が順番・段階があっても、悟った自分が降りてくるから、そのぶん降りただけ気付いているのです。迷った自分がいくら気付こうと思っても本当は気付きません、本当の気付きにはならないのです。
何かを求めてするのは、求める心がマイナス
-ありがとうございます-
効果を求めて「ありがとうございます」を唱えるのはどうでしょうか?
ありがとうございます:
何かを求めてするのは、求める心がマイナスにまず番組をあわせてしまうのです。そこへ「ありがとうございます」を加えるのですが、先低い番組に合わせて「ありがとうございます」を加えて少し高めてもらうのです、だから、その差が少ないのです。求める心を起こさずに与え尽くす心で「ありがとうございます」を言うと番組の流れ方がぐんと上がります、そうすると効果が大きいです、差が大きいだけに奇跡に見えます。
ただ、ありがとうございます「だけ」を唱えているのだったら大丈夫なのです、ところがマイナスな事をいっぱい交えています、「これだけしているのに効果がない」と言って、効果がない姿を現しているのです。言葉通りの番組に波長が合います、感謝したら感謝しただけいいものがどんどん降りてきているのですが、マイナスの言葉を交えてしまっているのです。
すべて言葉通りに思い通りになるのですが、いくら思っても思い通りにならないという人がいます、そういう人は思い通りにならないと思っているから思い通りにならない、そういう言葉を使っています。徹底していいことがいっぱいと、嘘でもなんでも言えばいいのに、そうすると良い事がいっぱいになってくるのです。徹底するのが一番早く効果が出てきます、マイナスの言葉さえ使わなかったらいいのです。
今「ありがとうございます」と唱え出したからといってすぐには結果は出ません、過去に自分がどれだけマイナスの言葉を使い続けてきたかというのが、それが影響するのです。だから、無限のマイナスの言葉を使ったら、そのマイナスの言葉を消しきらないといけないのです。少し「ありがとうございます」を言ったから表面的に良い事が出るとは限りません、それ(ありがとうございます)をマイナスを消すことに全部使われたら現実は何も変わりません。ただ、心の中の大きいマイナスは消してもらうのです、それが目に見える結果にまでは出てこないということです。
-ありがとうございます-
ということは、若い時から唱えたほうがいいということですね?
ありがとうございます:
前の世からです!「ありがとうございます」を唱えるのは一人一人時期が違います、だから何時からでも良いのです、そういう時期が来たら神さまの助けが入ってきて、神さまに助けてもらった結果「ありがとうございます」が湧き出てくるのです。神さまの助けを受け入れる心の状態になっているからなのです、それまではそれぞれ我が儘勝手に生きたい時です、その時は神さまは奥で控えめに待機しているから、「ありがとうございます」は絶対に言えないのです。
ありがとうございます