2001年8月20日
No.2
「あ」が「絶対」というのはものすごい意味があるのです
-ありがとうございます-
もう
一度「ありがとう」という
言葉の
言霊の
必要性を・・
ありがとうございます:
「あ」が「
絶対」というのはものすごい
意味があるのです、
相対のすべてを
超越しているという
意味です。
例えたら、
海があって、
表面に
波が
生まれます。
海全体が「
絶対」です、
表面の
波が「
相対」の
表現になります。「
新たな
全徳の
無限の
無限の
輝きが
一杯!」という
姿で
天照大神が
現れるのです。それは、もうあくまでも
表面の
波の
姿なのです。だから、「
絶対」の
方は、その
姿のはるかに
大きい
無限に
無限に
偉大な
存在です。だから、
同じことを
二つと
創らない、
同じことを
二度と
繰り
返さない、これが
永遠に
続いても
大丈夫というだけのものを
中に
持っているのです。それが「あ」なのです。「
絶対・
光源・
命の
本源・
光」という。だから、「あ」という
絶対の
意味は、「
無限の
無限の
大光源」これでもまだ
小さいのです。
「り」は、ら
行音の「り」で、
常に
宇宙の
創造の
仕組みが、
螺旋構造の
組み
合わせになるのです、
神さまの
持っているいろんな
要素、ひとつの
場から
螺旋状にぜんぶ
出てきます、これも
無限に
複雑なのです。
単純化すると、
例えば、ひとつの
要素を
何%かずつの
割合に
振分けて、
割合を
変えると
生まれるもの
全部が
変ります。
本当は
無限に
振り
分けて、それを
螺旋状に
放射して、それを
組み
合わせてゆくのですが、あまりにも
複雑すぎてわからなくなります。だから、だいたい
四つに
分けて
考えると。ただ、
十%、
二十%、
三十%、
四十%、というような
感じで。
全体を
十として
割合を
一、
二、
三、
四と
振り
分けて、それを
螺旋状に
放射させると、それが
相対の
要素二つを
両方という
割合で
組み
合わせるのです。そうすると
何かそこに、
小さい
形から
相似形のプラスが
大きい
形まで、
形が
生まれてきます。どういう
割合の
姿で
交わったら、どういう
表現ができるのか?これは
模型として、ちょっと
推測がつきます。でも、
本当は
無限の
割合の
振り
分けがあり、
余りにも
複雑すぎてもう
頭がパンクしてしまいます。だから
一番単純な
模型的に
考えて、
螺旋構造の
組み
合わせを
考えたら、それも
平面的だけではわかりません、
立体的だけでもいけません。
本当の
組み
合わせは、もっともっと
複雑なのです。それもあまり
考えるとわからなくなりますから、
平面的に
模型として
組み
合わせてゆくのです。その
図形をずうっと
書いてゆくと、やはりいろんな
調和した
図形が
順番に
生まれてくるのです。
皇室の
十六菊の
御紋がありますが、あれも
組み
合わせによって
生まれる
図形の
基本パターンなのです。「
天照大御神さま」の
模型なのです、
最高理想の
表現の
模型になっているのです。
仏教は
蓮の
花を
使います、
十六花弁で
調和した
姿を、これを
悟りの
本当の
姿と
見るわけです。「
蓮の
台に
座る」といいますが、
極楽の
蓮の
花に
座っても、じっとしていたら
苦しいのです。そういう
意味ではありません、
極楽の
世界は
神さまの
最高理想の
表現をとっているという「
天照大御神さま」の
最高表現の
姿をとっているという、
模型を
蓮の
花の
十六花弁で
現しているのです。だから、そういうふうに「り」は
螺旋状に
動く
創造の
働きを
指すのです。
「が」は、「か」をダブらせて「
輝きに
輝く」という「
無限に
無限に
輝いた
表現をとっている」という
意味で「が」です。
「とう」は「ありがたし」という「た
行音」と「さ
行音」、た
行音は
縦の
線で、さ
行音は
横になるのです。
縦横十字に
組み
合わせるという、
丁度、「とう」で
十字にです。だから、
必ず
組み
合わせの「
十字」には、
中心があります、この
中心という
意味が
大事なのです。
中心が
無いとみんなバラバラになり、
調和しなくなります。だから、
原子にも
原子核という
中心があります、
太陽系は
太陽が
中心です。もうすべてに
中心が
生まれないと
分散してバラバラになって
消えてしまうのです、だからすべてに
中心があるのです、これが「とう」の
意味なのです、
大調和する
働きです。
「ご」は、「こ」をダブらせて「
凝り
固まって、
凝り
固まって」、「
物質化して、
物質化して」、
高い
次元が「
低くなって、
低くなって」という
意味です。
「ざ」は、「さ」をダブらせて、「さらさら
流れる」という、
命の
光の
流れを「さらさら、さらさらと
流れている」というふうに
見るのです。だからすべてが
変化して
流れないと、ひとつに
止まると
水でも
腐ってゆきます。
止まったら
味気なくなります。やはりさらさら
流れて、それも
無限にスピード
化してどんどん
流れてこそ、いつも
新鮮な
素晴らしいものに
感じられるのです。それが「ざ」です。
「い」は、「
命」の「い」で、もうすべてが
神さまの
命を「
生きている・
輝いている・
躍動している」という。この
世の
人は「
物」と
見るのは
間違った
考え
方なのです、
静止した
物を
見てしまうのです。
石ころがあったら
石ころを
動いてないように
見てしまい、「
物」と
見てしまうのです、これはもう
執着の
間違った
錯覚です。
本当は
中が
無限に
躍動しているのです、
新しい
原子がどんどん
無限に
生み
出されて、どんどん
新陳代謝しています。
原子一個でもそうなのです、
石ころ
一個もそうです。もうすべてが
命の
新陳代謝が、
無限に
無限に
行われて
躍動して
生きているのです。そういう
意味で「い」なのです。
「ま」は、「
完き・
完全な
完璧な」という
意味で、
神さまの
働きのすべてを
見た
時に、もう
完璧極まりない、
非の
打ちどころがないのです。どこにもマイナスはありません、もしマイナスを
認めたとしたら、
見方が
間違っているだけです。だから
地獄番組を
見て、これをマイナスと
見ること
自体が
大きい
間違いです。
悔しかったら
両方創れるかといったら、
絶対創れません。
神さまの
最高傑作のひとつになり、
創るのは
難しいのです。その
神さまの
働きのすべてが
常に
絶対から
生まれて
絶対へ
戻るのです、
循環し
続けているのです。それが
絶対の
「す」です。
それで
「ます」というのが、いつも
新たに
新たに
置き
換わってくる、それがいつも「
弥増しに
増して」
更に
良くなって
増えてというので「ます」なのです。
それで「ありがとうございます」で
神さまの
働きの
全部を
指し
示しているのです。
神さまの
全身・
全体像、それが「ありがとうございます」なのです。
(ありがとうございます)
-ありがとうございます-
言霊のひとつの
働きがあるとしたら、
例えば、「あいうえお」から
最後まで
言って
行ったりとか、「いろはにほへと」をずっと
言っても、それなりの
働きがあるのですか。
ありがとうございます:
あります、「あ」と
言ったら「あ」の
言霊の
意味を、
体得していけるのですけど。
ただ「あ」というのは、
神さまの
全体から
見ると、ダイアモンドの
一面に
当たるわけです。「あ」が
前面に
出て「あ」の
言霊がここにあるのです、そのバックがいろいろ
変化します。「あ」という
言霊もいろんな
意味合いを
沢山持ち、
一通りではありません、バックの
違いによって
大きく
変化するのです。
いくら「あ」と
前面が
出てきても、
他の
言葉もぜんぶ
同じです。それで
神さまの
方はいろんな
言葉・
言霊を
組み
合わせて、もう
無限の
創造を
繰り
広げるわけです。だから、
同じ「あ」でも、ほんとうは、
割合が
全部で
百%の「あ」と、
一%の「あ」とぜんぜん
違うのです。
一%の
時はバックが
九十九%が、いろいろに
変化しています。だから、バラバラのは
何もありません、ぜんぶ
一体なのです、
一体でありながら、どれが
前面に
出て
働くかなのです。
-ありがとうございます-
「あ」でも「あかん」とかだったら、いい
働きじゃない「あ」が
出てくる?
ありがとうございます:
無限の
無限のチャンネルというのは、
最高番組ひとつで
良さそうですが、それはもう
最高理想なのです。
低い
番組もあるということは、もう、すべてを
尽くした
表現なのです。「
無いものは
何も
無い」という、すべての
組み
合わせが
生まれているわけです。そういう
意味です。
だから「あ、あ、あ」の
言霊と
簡単には
言っても、
意味が
無限にあるのです。その
時その
時いろんな
使われ
方を
指しています。
「あかるい」と
言うと、「あ」の
割合が
大きいかも
知れません、「あかん」と
言うと、ちょっと「あ」の
意味合いが
少なくなってしまいます、マイナスに
使う「あ」は。
(ありがとうございます)
自分が唱えているというと
-ありがとうございます-
「ありがとうございます」と
自分で
言っている
時も、
心の
底からスッと
言える
時と、
言葉で
終わったりして、
空回りしている
時があるのですが、それはいろんな
日常生活で、
唱えてゆく
中で
深まってゆくもんなのですか。
ありがとうございます:
自分が
唱えているというと、
浮き
沈みが
出てくるのです。
本当の「ありがとうございます」は、
神さまの
全体の
働きです、
神さまが
祈り
続けてくれているのです。その
神さまの
働きを、
神さまの
祈りを
受けるだけのような
感覚がいいのです。
小さく
受けても
大きく
受けても、いつも
神さまの
祈りを
受けているという。
必要に
応じて、
必要なだけがスーッと
入ってきていのだから、
呼吸でも
同じです。
空気を
一杯深呼吸する
時もいいし、
静かにスースーと
吸って・
吐いて、
吸って・
吐いて。
細かく
息をするのもいいのです。
その
時その
時に
必要な、
呼吸が
生まれます。
激しい
運動をしたら
呼吸が
早くなります、
静かにしている
時はゆっくりした
深呼吸でいいのです。だから「ありがとうございます」の
出てき
方も、
必要に
応じて
出てくるです。
-ありがとうございます-
「
唱えている」という
意識が
邪魔しているわけですか。
ありがとうございます:
そう、お
祈りは「
感謝をさせていただいている」という
受け
身の
方が
楽です。
いつも神さまに抱かれているのです。
-ありがとうございます-
なんだが
嬉しくて
涙が、
出て・・
単純ですね、
信じやすくて・・
先生が
目の
前にいらっしゃって、もう、
神さまの
中にずっと
居られたみたいで
嬉しくてもう・・ 「ああ、いつも
見てもらってるんだなあ」って
気持ちが
湧いてきました、
三日いて
本当に
良かったと
思います。
三日目にこういう
感情をね。
ありがとうございます:
いつも
神さまに
抱かれているのです。
-ありがとうございます-
本当ね、そういう
気持ちが
今ふつふつと
湧いてきました、ありがとうございます、この
気持ちをずっと
抱いて
実践してゆきたいと
思います。また
忘れた
頃には
参ります。
こういう
単純な
私も
好きなのです。
ありがとうございます:
涙が
出てくるというのは、
本当はものすごいお
浄めなのです。
「なきさわめの
神」というのがあります、
古事記にも
出てくるのです。
悲しみを、
消しきって
喜びに
変えるいい
神さまなのです、
浄めの
働きです。マイナスを
掴んで、
心を
痛め
悲しんで
苦しむのですが、それをぜんぶ
消しきって、
喜びの
心の
湧き
出るように
変えてくるのが「なきさわめの
神さま」の
働きです。
涙と
一緒に
出てくるね、ほんとうに
浄めの
涙・
光の
涙・
喜びの
涙なのです。
悲しいから
泣くのではありません、
心の
悲しみを
消してもらったら
涙が
出てくるのです。
本当に
悲しい
時は
涙は
出ません、
涙なんか
止まってしまいます、もの
凄く
苦しい
状態です。ところが
神さまの
沢山の
浄めの
働きが
入ってきたら、
消してもらって
涙が
出てくるのです。
泣けば
泣くほど
悲しみが
薄らいで
消えゆきます。だから
喜びの
涙です。
本当は、
悲しみの
涙ではありません。
悲しみを
消してもらった
喜びの
涙というのが
本当なのです。
悲しいから
泣くのではありません。
悲しみを
消してもらって
喜びを
与えてもらったから、
涙が
流れる、みんなは
逆に
見ています。
進化という意味が、下からの
ありがとうございます:
進化という
意味が、
下からの
積み
上げではないのです、
神さまの
方からの
物質化です。
最初は
単調なものが
生まれ、どんどん
複雑なものを
物質化して
現してゆきます。
低いものが
立派に
複雑になってゆくのではないのです。
-ありがとうございます-
だから、
北京原人とか、それから
段々こういうふうに
今、
進化してきたと。
ありがとうございます:
その
進化論も
人間の
浅知恵の
間違った
考えです。
-ありがとうございます-
神さまっていうのは
凄いです、
初めからそういうふうに
人間をを
創ってくださっているのですか。
ありがとうございます:
そうです、この
人体も「
小宇宙」というだけあって、
大宇宙と
同じ
構造を
持っているのです。だからこれは
神さまの
最初からの
創造の
姿です。この
低いものが
高くなるのではないのです。
低いものから
順番に、
高いものが
降ろされてきいるだけなのです、
神さまの
方からです。だから、
猿から
人間に
進化したのと
違うのです。
猿は
猿、
人間は
人間です。
猿の
後に
人間が
降ろされただけなのです。
進化論を
唱える
人は、
神さまを
無視しています。
最初、
何もない
混沌としたものが、
勝手にその
生命になって、
生命が
次から
次へ
進化して
複雑になるかというと、そんなことあり
得ないのです。そうしたらずうっと
石ころを
置いていたら
人間が
生まれるか・・
猿をずうっと
飼い
続けたら、そこから
人間に
進化するかと
考えたら、
絶対にあり
得ないことです。
-ありがとうございます-
今私が
六十年余り
生きてきて、
猿はやっぱりこの
六十年猿です、だから、
絶対そういうものが
今の
人間に
進化したんではないだろうなって
思ってたのです。それで、
進化するのにこんなに
精巧に
進化できないだろうと
思っていたのです。
ありがとうございます:
だから、
必要な
姿を、
神さまの
方から
降ろされてくるだけです。
-ありがとうございます-
はい、ありがとうございます。
無限に無限にひろい奥深い中に
-ありがとうございます-
この
大宇宙の
中には、
優良星の
星があって、この
地球上のトラブルのない
星があると、そういうふうに
聞かされているのですが、そういうことはあるのですか。
ありがとうございます:
無限に
無限にひろい
奥深い
中には、
良いのと
悪いのとぜんぶ
取り
揃えています。ただ、この
世の
次元だと、この
世の
次元なりの、
良いものと
悪いものがいっぱいあり、もっと
高い
次元の
番組だったら、もっと
良いものばかりというのもあります。それはもう
人間が
想像する
限りのこと
全部、ただそれは
氷山の
一角としてあるだけです、もうぜんぶ
取り
揃えてあります。
-ありがとうございます-
そういうレベルの
星へ、
登ようなレベルまで、
我々が
登っていかなくちゃなんない。
ありがとうございます:
いいえいいえ、もっともっと、もっともっと
最高の
番組まで
登らなければなりません。
-ありがとうございます-
それはもうこの
世で
優良星を
飛び
超えた、もっと
最高のところへ
目指してですか。
ありがとうございます:
そうです、だから「
神さまにお
任せ」
全託して、
神さまに
連れて
行ってもらうのです。
自分の
力でゆこうと
思ったら
限界くるからね、
神さまに
導いてもらっがきます、すっと
引き
上げてもらうのです。
本当の神さまからのメッセージいうと
-ありがとうございます-
偶に、
朝とかにフッと
感じたり、フッと
今日は
予定外のことをしたくなったり、フッとというのがあるのですが、あれは
神さまが
何か
教えてくださっているというか、どういうことなんでしょうか。
ありがとうございます:
いいえ、いろいろあります、
本当の
神さまからのメッセージいうと、「ありがとうございます」を
唱えて、
神さまに
心を
向けて
受け
身になっている
時です。その
時その
時、
必要な
助けがスーッと
入ってくるのです。それだったら「
神さまの
導き」だと
受けたらいいのです。
でも、
心を
暗く
暗くした
時なんかにフッと
閃いてくるのは、
暗い
世界からのメッセージやインスピレーションです。それに
従ったら
暗い
方へ
引きずり
込まれます。だからその
選別をしないといけないのです、
何か
決める
時は、
明るい
心になって
決めるのがいいのです。だから「ありがとうございます」を
唱えて
心を
明るくして
決めると、いい
方へいい
方へゆきます。
過去に、やはりそれが足りなかったのです
-ありがとうございます-
昨日も
先生にすがりつきましたが、みな
次元の
高い
質問されて、
私自身のことで
恥かしいのですが。ずっとここ
一ヶ
月ほどうつ
状態で、
仕事もしたくない・
炊事もしたくない・もう
家庭の
主婦がする
仕事、これから
自分の
天職としてやっている
商売の
方も
何にもしたくない
状態で、
人とも
会いたくなくって、
顔も
合わせたくなくって、
一人もがいて
苦しんでおったのです、
姉に
連れられてここに
来させていただいて、
先ず、いつも
逃げとるのです、
仕事したくなくなると。それもやっぱし
私が「ありがとうございますの
気持ちが
足らない」ということなのですね。
ありがとうございます:
過去に、やはりそれが
足りなかったのです。
仕事でも
自分が
頑張ってしているのは
良さそうにみえるのですが、やはり
違うのです。
神さまに
必要なことをさせていただいて「ああ、
幸せ」というふうに
喜ばないといけません。だから、させていただくことを
喜ぶように
受け
身になればいいのです、そうしたら
楽になります。「
自分で
全部しなきゃならない」いうと、
縛られて
苦しくなります。
誰でもそうです、
義務的に・
強制的にされると
嫌になるのです。
(責任感が強いから)そうです、だから
極端に
言ったら、もう
何もせんでもいいぐらい
開き
直って、それで、もし
動けたら「
神さまにさせていただいてありがとうございます」と
喜ぶ
生き
方がいいのです。
-ありがとうございます-
わかりました、ありがとうございます。いやあ、
本当に
仏さんも
頑張って
拝んでまして、
付き
合いのお
友達とも
皆、
正観先生に
出会った
去年から「ありがとうございます」を
唱えて、
自分なりに
一所懸命生きている
積もりなのですけど。
八月ぐらいから
段々段々墓穴を
掘る
感じで、
考えれば
考えるほど
落ち
込んで、
私も「ありがとうございます」を、
昨日から
先生のお
言葉を
聞いておりまして、
自分の
感謝の
気持ちが
足らなんだんかなあ〜と
思いまして。
ありがとうございます:
だから
後は、
深まるばっかりです、
感謝が、
明るくなる
一方です。
(ありがとうございます)
-ありがとうございます-
私の
家で
一人寝ていると
言うのですけど、
強引に
連れてきました。パワーをいただかないと、みんなの・・
特に
先生のパワーを。
ありがとうございます:
だからもう
全然心配ありません。
-ありがとうございます-
えらい
時も・
落ち
込んだ
時も、それも
神さまからいただいた
時間だと
思ったらいいんでしょうか。
ありがとうございます:
いえ、すぐに
明るくなります、すぐに
明るくなりますから、もう
落ち
込むのを
楽しまなくてもいいのです。
一瞬に
明るくなります。これも、
病気をして
健康のありがたさに
気づくように、
本当のうつ
状態を
体験した
人は、
普段の
心の
明るさに、
幸せをいっぱい
感じるようになるのです。
別にマイナスではなかったのです、これから
明るい
幸せ
一杯味わうのです。
(ありがとうございます)
背後霊と守護霊
-ありがとうございます-
神さまと
私達が
直接につながれなくて、
守護霊さんを
通して
神さまからのメッセージを
頂けるようになる
為に、どのチャンネルにいても
神さまにつながれるんだ、と
思えばそのステージがあって・・・
守護霊さんは
変らない、というのをお
聞きしたのですけど、
私が
四十ぐらいの
年齢の
時に、
亡くなったおばあちゃんが
守護霊だと
言われたのですが、どう
考えたらいいんでしょうか。
ありがとうございます:
亡くなった
人が
背後につくのは、
背後霊としてついています、
守護霊さんになるには、
悟りを
開かないといけません。
(じゃあ、亡くなった人がつくってことは)ありません、
背後に
守りにつくだけです。「
護ってるい」という
意味で「
守護霊さん」と
言う
人がありますが、それは
本当の
正守護霊さんではないのです。
背後につく
守り
神は、
無限にあるかも
知れません、「その
一人」というぐらいの
見方です。
(だから、直接神さまとつながっている、と思って)直接神さまに、というと
宇宙全体
-ありがとうございます-
「
求もとめる
心こころ」は、
過か去こを
掴つかむ
思おもいから
来きているのですか。
ありがとうございます:
「
求もとめる」というのは、
現げん実じつの
不ふ足そくした
状じょう態たいを
掴つかむから、「もっといいものを」と、
同おなじ
番ばん組ぐみの
中なかで
求もとめるのです。
同おなじ
求もとめるのだったら、
神かみさまに
求もとめたら
良よさそうなのに。
現げん実じつに
無ない「ところ」で
求もとめるわけです。
神かみさまに
求もとめると
言いったら、
神かみさまの
方ほうは
求もとめなくても
与あたえ
続つづけているから、ただ「ありがとうございます」と
受うけるだけでいいのです。
求もとめる
必ひつ要ようはないのです「ありがとうございます」で
受うけたらいいだけなのです。
無ないのではありません、
天てんから
降ふっているのです。
現げん実じつの
番ばん組ぐみにはまり
込こんだら「そこにしか
無ない」と
思おもうのです、
無ないところで
求もとめるから、
益々ますますマイナスの
言こと葉ば・
思おもいを
積つみ
重かさねてしまって、
番ばん組ぐみを
下さげてしまうのです。
(一いち番ばん下したへ落おちたら、上あがる時とき楽らくや)〔…
沢たく山さんの
人ひとの
言こと葉ばが
混まじって
聞きき
取とれない〕ボールでも
勢いきおいよく
落おちたら
自じ由ゆうに
跳はね
返かえりますから。
-ありがとうございます-
チャンネルを
下さげるのはもう
一いっ瞬しゅんで、
自じ分ぶんでも
訳わけもわからず
一いっ瞬しゅんに
下さがっていると
思おもうのですが。それを
最さい高こうのチャンネルに
合あわせるというのは、いつも
本ほん当とうに
自じ分ぶんがそこに
言こと葉ばと
意い識しきを
絶たえず
向むけ
続つづけていなければというふうに・・・
本ほん当とうに
下したにいたいと
思おもわなくても
一いっ瞬しゅんに
自じ分ぶんが
落おちている、それも
自じ分ぶんが
見みたい
時ときなのですか。
ありがとうございます:
最さい初しょは
落おちる
練れん習しゅうをしているのです。
下したを
見みる
練れん習しゅうをしてるのです。
だから、その
習しゅう慣かん性せいがちょっと
残のこっているのです、
癖くせみたいなものです。でも、
今こん度どは
上あがる
練れん習しゅうをしたら、
上あがる
速そく度どの
方ほうが
早はやくなります、バックに
神かみさまが
応おう援えんにつくからです。もう
瞬しゅん間かんにすっと
上あげてくれるようになっているから、
今こん度どは
降おりにくくなります。
でも、
本ほん当とうはそうです、
神かみさまから
最さい高こうのものを
受うけたら、
謙けん虚きょになる
方ほうが
良いいわけです。だから
一いっ回かい受うけたら、もうそれでばーっと
下したまで
落おちた
方ほうがいいのです、いっぱいもらい
過すぎて
重おもたいから!
それで、また、
神かみさまからすっと
上うえげてもらっていっぱいもらったらいいのです。
受うけては
下したへ
落おちて、また
受うけて
下したへ
落おちて、その
幅はばが
大おおきい
方ほうが
感かん激げきが
大おおきくなります。
夢ゆめも幾いく通とおりも意い味みがある
-ありがとうございます-
夢ゆめというのは意い味みがあるのですか。
ありがとうございます:
夢ゆめも幾いく通とおりも意い味みがあるのです。でも本ほん当とうは夢ゆめは覚おぼえている夢ゆめと覚おぼえていない夢ゆめがあります。覚おぼえていない夢ゆめの方ほうに本ほん当とうの意い味みがあるのです。それは、守しゅ護ご霊れいさん・守しゅ護ご神じんさんの、お浄きよめの働はたらきです。夢ゆめの形かたちでマイナスの心こころに溜ためた思おもいを、ぜんぶ消けし続つづけてくれるのです。だから覚おぼえているのはほんの一いち部ぶです、その中なかでもいろんな種しゅ類るいの夢ゆめがあります。
予よ知ち的てきに何なにか見みせたりする夢ゆめもあるし、何なにかヒントを与あたえる例れいもあります、ただ漠ばく然ぜんとボーッと覚おぼえているだけの夢ゆめもあるし。
大だい体たいみんな覚おぼえていません、やはり覚おぼえていたらその夢ゆめを掴つかんでしまうのです。それを心こころから引ひきずり出だして浮うかび上うえがらせて消けす為ためです。だから覚おぼえていないのがいいのです、スッと消けしてもらった方ほうがいいのです、だからちょっとしか覚おぼえていません。
でも、夢ゆめは見み続つづけているのです「私わたくしは夢ゆめ見みない」という人ひとも、ずーっと見み続つづけて消けしてもらっているのです。ただ「覚おぼえていない」というだけです、「思おもい出だせない」というだけです。
-ありがとうございます-
起おきた時ときに「寝ね覚ざめが悪わるい」という、感かん情じょうだけなんか残のこっていて、夢ゆめは覚おぼえていない時ときとかあるじゃないですか、ああいう時ときもやっぱりお浄きよめしてもらっているとか。
ありがとうございます:
そうです、寝ねている時ときが守しゅ護ご霊れいさんの一いち番ばん働はたらける場ば所しょです、お浄きよめの場ば所しょです、寝ねている時ときが。
小ちいさい子こは、怪け我がしたら大たい抵てい寝ねるのです、そうしたら回かい復ふくが早はやいのです、癒いやしが早はやくなります。寝ねている時ときに子こ供どもは成せい長ちょうします、早はやく育そだつのです。それも同おなじです、神かみさまの働はたらきが大おおきく加くわえやすいのです。
-ありがとうございます-
寝ねる時じ間かんもやっぱり意い味みがありますか。二に十じゅう四よ時じ間かんの中なかで、神かみさまが与あたえられた。
ありがとうございます:
必ひつ要ようなだけ、休やすませてもらうのです。でも、お祈いのりをし始はじめると、短みじかくて済すむようになります、寝ねて浄きよめてもらわなくても。
「ありがとうございます」でいつも神かみさまの・・・・
-ありがとうございます-
お祈いのりしている時じ間かんは、要ようは睡すい眠みん時じ間かんと一いっ緒しょみたいなもの?
ありがとうございます:
睡すい眠みん時じ間かんよりも良いい効こう果かがあります。
あまり囚とらわれない方ほうがいいのです
-ありがとうございます-
お祈いのりの時じ間かんは基き本ほん的てきには、座すわって座ざ禅ぜんとか姿し勢せいとか、そういう態たい勢せいとかいうのはあるのですか。
ありがとうございます:
あまり囚とらわれない方ほうがいいのです。
-ありがとうございます-
極きょく端たんに言いえば、しんどくなったら、バタンと・・
ありがとうございます:
その方ほうがいいのです、お任にんせするのだったら自し然ぜん体たいです。形かたちにあまり囚とらわれない方ほうがいいのです。形かたちに囚とらわれたらちょっと「我が」が出でてくるし、こうでなければ、という縛しばりが出でてくるし。(リラックスして)本ほん当とう、リラックスしてお任まかせです。(全ぜん体たいから力ちからが抜ぬけて)その方ほうがいいのです。
-ありがとうございます-
食しょく事じの方ほうもこだわらないで、食たべたい時ときに食たべる?
ありがとうございます:
「ありがとうございます」と唱となえていたら、必ひつ要ような食たべ物ものが自し然ぜんに目めの前まえに出でてくるようになるのです。それで、その中なかからひとつ選えらびます、必ひつ要ようなものを。「ありがとうございます」と感かん謝しゃしたら必ひつ要ようなものを食たべたくなって食たべるのです。だから、もし毒どくが入はいっていたら、わざわざ毒どくを食たべなくていいのです。そういう時ときは選せん別べつがつきます。やはり毒どくには手てがゆきますん。
その時ときその時ときどんな状じょう態たいかわかりません、中なか味みまでは。だから感かん謝しゃしていたら必ひつ要ようなものが集あつまるし、必ひつ要ようなものを手てにとって食たべるようになるし、必ひつ要ようなだけを食たべられるようになります。
-ありがとうございます-
先せん生せいは食しょく事じをしていらっしゃらないと聞きいたのですが。
ありがとうございます:
私わたくしはもういつも何なんでも食たべています、人ひとまで食くって!!霞かすみも食くって!!。
-ありがとうございます-
最さい近きんは召めし上あがっていないって・・・
ありがとうございます:
別べつに・・、食たべています。
(心しん配ぱいしていたのです)必ひつ要ようなだけをいつもいただいていますから大だい丈じょう夫ぶです。必ひつ要よう以い上じょうに食たべたら、体からだを壊こわすかも知しれません。ちゃんと必ひつ要ようなものを与あたえてもらっています。だから別べつに、断だん食じきが必ひつ要ようだったら断だん食じきもいいのです、食たべ過すぎるよりはいいのです。だから、食たべないのが悪わるいのではありません、必ひつ要ようだったらちゃんとそういうふうに、食たべずに元げん気きにおいてもらうのです。また、食たべ物ものを食たべて、元げん気きにしてもらう時ときもあっていいし。
それはもう自じ由ゆう自じ在ざいです。それもみんなお任まかせで神かみさまから必ひつ要ようなものを与あたえてもらうのです。
-ありがとうございます-
玄げん米まい菜さい食しょく、そういうものは?
ありがとうございます:
囚とらわれない方ほうがいいのです。感かん謝しゃしていたらそれを自し然ぜんに食たべるのはいいのですが、縛しばられたらちょっと不ふ自じ由ゆうです。
-ありがとうございます-
食たべ過すぎるというのが私わたくしの課か題だいなのですけど。もういくらでも食たべられる、それで体からだの調ちょう子しが悪わるくなって、それは感かん謝しゃがなくて食たべている・・・
ありがとうございます:
別べつに食たべ過すぎて悪わるいのではありません。自じ分ぶんが食たべれるだけではなく、背はい後ごにいろんな縁えん者じゃが一いっ緒しょに食たべているかも知しれません、それわからないのです。
-ありがとうございます-
それで、胃いが悪わるいと思おもっているのです。
ありがとうございます:
それは「胃いが悪わるい」と思おもうだけが悪わるいのです。
-ありがとうございます-
食たべれば胃いを悪わるくするって思おもいながら食たべるのです。
ありがとうございます:
だからそれは言こと葉ばです。沢たく山さんいただく時ときは、神かみさまの光ひかりをいっぱいもらったと。それで背はい後ごの人ひともいっぱい光ひかりをもらったと喜よろこぶのです。
-ありがとうございます-
食たべるのが好すきでいくらでも食たべられる、食たべるものにすぐ目めがゆく、美味おいしいのです。そいで今いま野や菜さいづくり、無ぶ農のう薬やくで、無む農のう薬やくもこだわらなくていいのですか。
ありがとうございます:
農のう薬やくを使つかわなくていいのです、薬くすりを使つかわなくても、お金かねかけてまで使つかわなくてもいいのです。虫むしが少しょう々しょうついても、虫むしにも施ほどこせばいいのです。やはり虫むしも神かみさまの命いのちを生いきて、全ぜん体たいを美うつくしく彩いろどるのです。
-ありがとうございます-
今いま私わたしが理り想そうとしているのは、野や草そう化かした野や菜さい、野や草そうを食たべてゆきたかったものですから、それもやっぱりこだわり?
ありがとうございます:
いや、別べつに自し然ぜんでいいのです、別べつに。野や草そうは自し然ぜんにいっぱい生はえています。
そういうのもやはり恵めぐみとして頂いただくのも必ひつ要ようなのです。今いまは放ほうったらかされています。
(放ほうりっぱなし)もっと活かつ用ようしてもらったら喜よろこびます。
-ありがとうございます-
小こ松まつ菜なとかごぼうもみんな野や生せい化かしてゆくのです、そこからこういただくように・・・
ありがとうございます:
いいです、省しょうエネで。その辺へんに野や菜さい<