真祈り文庫
2001年8月20日
No.1
守護霊さまはずうっとおなじです
-ありがとうございます-
守護霊さまというのは一人一人みんな違うのですか、それは生まれてから亡くなるまで同じ守護霊さまですか?それともチャンネルを変えると守護霊さま自体も変ってゆくのですか?
ありがとうございます:
守護霊さまはずうっとおなじです。
-ありがとうございます-
ある意味では先祖というか、前世からもつながっているのですか?
ありがとうございます:
そうです、過去世からずうっと縁があります、ただ「守護霊さま」という言葉を使っても、何を指しているかというのはみな違うのです。正しい本当の守護霊さまというのは、先ず、悟りを開いて本当に神通自在の力を持っているご先祖さまの中で、一番自分に縁の深い方なのです、背後に付いているという背後霊とは違います。本当の魂の親という感じの、本当に一番身近な存在です、切っても切れない関係です、この世だけを護るのではなく、あの世へ行ってからもずうっと護り続けてくれるのです。
-ありがとうございます-
「守護神さま」というのもいらっしゃいますが?
ありがとうございます:
もうひとつ上に、守護霊さまの上にあって護っています。守護神さまだったら、大勢の守護霊さまを護り続けられますが、守護神さまが直接に肉体人間を護るのではなく、直接には守護霊さまが護ります。それで「大きく守護霊さまに力を添えて護っている」というのが守護神さまの方です。だから、正守護神さまと、正守護霊さまがいつも付きっきりなのです。
あと他に、副の守護霊さま、副の守護神さまがいます。副守護霊さまは、例えば、仕事が変ったらその仕事に堪能な守護霊さま・副守護霊さまが付いて、沢山の仕事をしている人は、それぞれ専門の分野の守護霊さまがたくさん付きます。守護神さまはもうひとつ上の大きいスケールの働きなので「本当に世の中を良くしたい」とか「人を本当に救いたい」というような感じの働きを大きくしてゆくと、副守護神さまも大勢付きます。
-ありがとうございます-
守護神さまのグループを何人かを担当されている、という感じですか。一人というわけではなく?
ありがとうございます:
守護神さまの方は力があるし、視野が広いので大きく働けるのです。
-ありがとうございます-
同じ担当の守護神さまが、ある意味ではグループとなって、我々の中では動くとか働くとかあるのですか?
ありがとうございます:
そうです、ひとつの組織ができて運動が起こると、向こうの方で先に、そういうグループ活動が起こっています。それでいろんな守護神さまなんかの力が結集されて大きい運動のような姿をとって出て来ます。それもある意味では、ひとつの立場から見た小さい見方かも知れないですが。
神さまの用意している無限の無限のチャンネルの中に
-ありがとうございます-
お墓のことをちょっとお聞きしたいなと思います。私は主人を七年前に主人を亡くしまして、三回忌の時に、五輪の塔は主人が生きている時につくったのです。私のところは浄土宗ですので、「南無阿弥陀仏」石には、H家の墓としたわけです。五輪の塔には、先祖代々の菩提にして、立派なのをこしらえたのです。
島根県のお墓専門の先生が鑑定の先生を紹介していただいて、除籍謄本を全部とっておきなさいということで。それでわかったのは、養子になった弟を、最初は家の主人が長男だったのに戸籍では、ずうっと離れて十一年ほど離れて実の子が産まれたので、その子を長男にして、家の主人は養子となっていたのです。私は嫁いだ時から分家と思い込んでいたのです、除籍謄本では私とこが本家だと、それで本家としての祭りごとを本当の石を何千万とかの石を使わなくても、祭り方がきちっとしてればそれでいいということで、今回やり直しを頼んでしまったんです。八月二十九日に入れ替えに来てくれます。
石は安くてもご先祖さまは十七体あるんです、ぜんぶ墓碑に彫り込んで、それで魂入れをしていただいてお祭りしたらすごく。今迄は本家なのに分家としての働きしかしてないけど、全員が良くなってくるので、今迄良くなっていない分が沢山あったので、そうかなと思って。ひとつ一番心配なことがありまして、それさえ片付いたらと思ってやり直しをしてしまいましたんですけど。その本家と思っている分家とも仲良しなんです、本家としての祭りごとを一からそっちを取るというのは嫌やから、それはどうしたらいいんでしょう。
鑑定の先生は、それはそれで分家の人が本家を思って、そういう祭りごとをするんやったら、それでええやないかと言って、私のとこはお墓だけにきちっとした祭りごとをしたらいいと言われたんですけども。それはよろしいか、それすごい迷いましたんですけどね、鑑定の先生の言う通りにそれをつくったんですけどね。もっと早くここへ来てお聞きしてからすればよかったんですけど。
ありがとうございます:
神さまの用意している無限の無限のチャンネルの中には、お墓を必要とする番組もあるし、仏壇を作って御祭りしなければという、そういうのを必要とする番組もあります、でも、そういうのはかなり低い番組です。高い番組になったら、ちょっと高いだけで、もうお墓は要りません、供養とかお祭はいりません。
本当の感謝の生き方というのは、みんなを、「みんな既に悟っている」と拝むだけです。だから、そこからくるものは、こちらから何かさせてもらうのではなく、向こうからしてもらうばかりです、自分達に必要なものを、向こうから与え続けてもらうばかりです、それに対する感謝になるのです。だから、何かお供えして食べてもらうのではありません、逆なのです。
仏壇にお供えしているのは全部こちらへ向けられています、向こうからこちらへ与えてもらっているのです、表を向こうへ向けてはいません。だから「いつもご先祖さまのお蔭で、必要なものを豊に与えていただいてありがとうございます」と最高のものをお供えして、最高のものをいただいているという感謝を示しているのです。
それを逆に見る見方もあります、やはり低い番組では「ご先祖さまはあの世で迷って苦しんでいるから、何かお供えして食べてもらわなければ」とか、それは低い番組です。それは、本当のご先祖さまにとったら、悟ったご先祖さまから見ると「なんて馬鹿なことをしてくれる」と言います。悟っているご先祖さまに対して「無礼千万にも、迷っている!と決め付けて!」となります。
だから、お墓をつくっても、ご先祖さまを石牢に閉じ込めたようなものです、仏壇をつくって、「その中に入りなさい」と言ったら、小さい中へはめ込んだようなものです。本当はそんな中に入らないのです、入ったら地獄です。
-ありがとうございます-
我々も亡くなったらそこに入りますよね?
ありがとうございます:
入りたいですか?
-ありがとうございます-
入るのと違いますか?
ありがとうございます:
そういところへ「入る」と言うと「自分が入ると決めて」入ってしまうのです。身を縮めて窮屈な中へ入り込みます、もうずうっと苦痛が続きます。本当は、あの世へ行ったらこの世の縛りから抜け出して、もっと自由な世界へゆかないといけないのです。
-ありがとうございます-
じゃあ、散骨とか飛行機からこう撒くのはいいのですか?
ありがとうございます:
別に亡くなった肉体の処理はどんなのでもいいのです、そんなのは無関係、どんなやり方でもいいと思います。ただ、魂が肉体から抜けて、魂をどう扱うかです、その亡くなったそのご先祖さまの魂を、「どうプラスに見るか」というのが大事なのです。「高い番組ほど無限に輝いた姿でいつも護り続ける立派な働きをしてくださる」のです、だからマイナスに見ることは失礼なのです。
-ありがとうございます-
私、阿呆みたいなことしてたのですね、そのままにしとけばよかった!
ありがとうございます:
本家とか分家とか言うのですけど、本当は、地球上の全ての人が皆、自分の先祖かも知れません。それはもう何回も生まれ変わる過程では、いろんな家に生まれます、ひとつの家系だけへは生まれません。また外国にも生まれ、白人にもなり、黒人にもなり、いろんな姿で生まれ変わります。だから、地球上のすべてが自分の親であり先祖というふうに見たら、「何々家のご先祖さま」と限定することはないのです。
-ありがとうございます-
お墓参りとかしますよね?
ありがとうございます:
それは小さい囚われです、お墓をつくらなければとなったら、毎回お墓が増えてゆきます、一人一人のお墓を毎回つくっていたら、一人何百回か生まれ変わったら、何百のお墓がつくられてしまいます。何々家というだけだったら少なくて済みますが、一人一人のお墓をつくりだしたら、一人の人が何百回と生まれ変わったら、今度生まれてきても住むところがなくなり、お墓ばかりになってしまいます。だから、本当にお墓が必要か、仏壇が必要かというと、ひとつの心を向ける対象として、模型としてあっても悪くはないのですが、でも、心で本当にご先祖さまを拝んで感謝できたら、そういう模型は必要ありません。本物をとらえていたら、偽物を使って模型として利用しても大したことはないのです。
逆にまた偽物に囚われ過ぎたら間違った考え方が起きます、「ここにご先祖さまがいる」と思ったら、小さく落としてご先祖さまを悪く見てしまいます。だから、本当に何が大事か必要かと考えると、一人一人自由なので何を選んでもいいのですが、本当はお墓も仏壇も必要ないという、そういう立場に立った方が、大きい幸せをご先祖さまからいただけるのです。
-ありがとうございます-
悟ったご先祖さまからいろいろお蔭をいただいて、感謝をしているわけですが、中にはやはり悟っていないというか苦悩のご先祖さまもいらっしゃいます、そういうエネルギーを・・・
ありがとうございます:
それは、「どちらを自分が選ぶか」です。「みんな悟っている」というふうに、そういう言葉を使って感謝したら、自分のまわりは悟ったご先祖さまばかりになります。(は〜あ、言葉で自分が選ぶ?)言葉で番組を選んでゆくのです。もし、言葉で「迷っているご先祖さまがいる」と見たら、その迷っている番組へ心を合わせてゆくから、自分のまわりは迷ったご先祖さまばかりになってしまいます。そうしたら、どっちがいいかというと、もう分かるでしょう?マイナスにとったら損するのです。この世でそういうふうにいろんな生き方をとっている人が大勢います、でも、たくさんの中から自分が何を選ぶかです、ひとつ選べばいいだけなのです、自分が一番いいと思うものをひとつ選べばいいのです。
-ありがとうございます-
「お墓も要らない」と、じゃあ、心で、お墓なんてなくてもい「成仏してくださってありがとうございます」というような気持ちで暮らせばいいと思うんですけど、その時に、私だったら私が死んだ後に、骨というものはどうしたらいいんですか。やっぱりお墓に入れたら・・・
ありがとうございます:
肉体は燃やされて灰になっても、そのまま鳥に食べられて無くなっても、腐って消えてしまっても別に構いません。
-ありがとうございます-
でも、今は、土葬にするわけにもゆきませんし?
ありがとうございます:
それは後に残った人が適当に処理してくれます。
-ありがとうございます-
私達は娘二人ですから、二人とも出しているから、だから、連れ合いも「別に自分達のお墓はなくてもいい」と言うのです。私も自分達のお墓を作って「参ってくれ、参ってくれ」と言うのは負担だから、それは理解できているのです。じゃあ、どこに捨てちゃうんかなあ?
ありがとうございます:
それは残った人が適当に放ってくれるから大丈夫。
-ありがとうございます-
また、墓に入れてくれるかも知れませんよね?
ありがとうございます:
言っておけばいい、「私達は最高の極楽へ行っているから、いつもそこへ心を向けて頂戴、お墓には入らないから」と、「そんなつまらぬところには入りません」と、「最高の極楽へ行ってみんなを護っていますから」と言えばいいのです。
size=-1>-ありがとうございます-
魂というのは、魂の数は私がこの世に出て来た時には十億なら十億、もしあったとしたら、それが生まれ変わってこの地球に来ると思ってたのですけど。でも、地球で生まれる魂もあるということを聞いたのですが、そしたらもう魂だらけ、になっちゃうかなあ、という疑問をちょっと持ったことがあるのですけど、そういうのはどんなことなのですか、そういうことはないのですか?
ありがとうございます:
それも定義の仕方がいろいろです、神さまと一体の本体の自分は、無限に無限に輝いた姿をいつもとっています、そこを中心に自分という意識があるのです。その自分だけを生きている時は、魂も肉体もありません、無限に無限に輝いた姿だけで、神さまの世界に遊んでいる、住んでいるのです、だから番組の中にはまり込んではいません。その番組を見にきて、その中にはまり込んでゆくと、いろんな言葉を使い、思いを出します。その段階で思いの集積のような感じで魂が生まれてくるのです。
それで、そのマイナスの思いがいっぱいだと低い魂になります。プラスの言葉は、思いがそれだと輝いた魂になります。(それが魂が生まれるという?)魂として生まれ出てくる姿です。
この肉体を持たずに、魂の世界だけで住んでいる人があります。その魂も無しにもうひとつ上で命の自分だけで生きている人もあるのです。本当はもう、命だけの神さまの世界に住んでいる自分が本当の自分です。魂の方は後でできたものなのです、だから、その魂が消えてしまう場合もあります。肉体も消えて、魂も消えて、本体の自分だけに戻る場合がそうです。その人の魂を探してもありません、宇宙大に広がった無限に輝いた命のその人だけがあるのです。
だからある意味では、命の自分から見ると魂というのは、作り出したひとつの作品みたいなものです、低い段階から高い段階まで順番につくり上げて行って、魂を完成させたという作品です。それも必要なくなったら消してしまいます、永遠性があるように見えても、本当の永遠性のあるのは、本体の命の方の自分です、その自分が働いて魂を維持していたら、魂も永遠に見えるのです。
でも魂は消される可能性はあります、魂が消えたらもう永遠と言えませんが、本体の命は永遠です。だから、自分がどの自分を掴んで生きるかです、肉体の自分を生きたら短いし、魂の自分を掴んだら低い魂の時は、いろいろ苦しみが多いのです。この世でもあの世でも同じです、魂の自分というのは枠が・殻があるのです、小さく「これが自分」というのを掴んでしまいます。でも本体の命の自分は宇宙大です、大きい、無限に無限に大きいのです。
-ありがとうございます-
じゃあ、命の方だけを考えてればいいのですか?
ありがとうございます:
そうです、「いつも神さまと一体の自分」と、「神さまからいつも受け直している自分」というように。その自分が一番自由で、無限の無限のチャンネルのどれでも判る・どれでも楽しめて、ぜんぜん囚われがないのです。
-ありがとうございます-
じゃあ、魂とか輪廻転生とか、よくそういうのは低い次元だからということなら、じゃあ、神と一体になって自分がそういうふうにやってゆくということだけを考えていればいいのですか?
ありがとうございます:
その方が幸せです。だからその過去なんて掴まない方がいい、過去を掴むと「それが自分」というふうに小さく掴んでしまいます。特に「過去世」と掴むと、古いものを掴んでしまういますから、古いというのにはあまりいいものはないのです、未熟です。未熟なものを掴んでおいて「立派にしよう」と言っても、もうちょっとずつしか上がれません。だから、下から天まで登るのに階段を駆け登っても、どれだけスピードをあげて登っても、それに階段が消えてしまうから登れません。過去の積み重ねは、もう限界がくるのです、でも、過去を放してしまったら自由になって、天から舞い降りる姿をとります。それなら楽に、何処へでも降りて自由に自分を表現してゆけます。
-ありがとうございます-
よくああいう話しをされる時には、魂とかいう話しは、先ず、魂の世界から話しが入って、神の話しは最後の方に出てくるような感じですね。
ありがとうございます:
人の好き嫌いです、魂の好きな人は魂から、神さまだけでいいのですが、無限に無限に輝いたそういう自分だけがいいのです。だから世間の人の真似をしたら損です、いいものがあったらいいものだけを選んだらいい。悪い真似をしたら、自分もそれを習ってしまったら損するのです。だからみんなお墓を作っても、作ったら馬鹿です、お金まで掛けて損なのです。
-ありがとうございます-
もう、あかんわ、よう断わらんから、私。
ありがとうございます:
一回つくったら壊せません、なかなか。
-ありがとうございます-
業者の人も可哀相やしね、生活もあるでしょうし?
ありがとうございます:
今度これを壊す時に「罰が当たるかも知れん」とビクビクして怖がるのです。お墓を必要として入ったお墓には、そこにはその人の魂がしがみついてます、そういう場合は粗末にできません。逆に言うと、自分の家を壊されたような感じになって、仕返しするかも知れません。最初からつくらなかったら、そういう人も入らないし「もっともっと自由な世界へ行って頂戴」と拝んでいたら、みんな幸せな世界へ行ってしまうのですが。
-ありがとうございます-
墓石を変えた時に、これどうなるのですかと訊いたら、これ産業廃棄物ですよって、はっきりおっしゃった。
ありがとうございます:
ただそのお墓に、もし魂が入り込んでしがみついていたら、産業廃棄物の中に放り込んだら、ゴミの中へ放り込みます、地獄のようなものです。
-ありがとうございます-
お参りした方の気持ちが入ってるじゃないですか、おじいちゃんのつくったお墓とか「ありがとう」とかそういう、それも捨てたくはないよね、おろそかにやっぱりしたくないと思っちゃいますよね。
ありがとうございます:
本当に自由な心になったら、もう全部きれいにして放せますが。
-ありがとうございます-
いやあ、はっきりお墓の業者の方、お寺さんに参ってもらって、きれいにした後はもうただの石ですから、それは産業廃棄で、どんどん。魂抜きしてあるから、私はもうそういうのには・・・
ありがとうございます:
魂抜きをすると言っても誰が抜くのか?、本人がしがみついていたら抜けません。
-ありがとうございます-
それに今の生臭坊主にそんな力があるとは思えんし。それも思うからそうなるわけですよね?
ありがとうございます:
そうです。
-ありがとうございます-
そうしたら、私や妹なんかも、父の墓にいったら、母が「おじいちゃんがちゃんと見守ってくれているよね」と言っているから母はそういうふうになるわけですね。でも私とか妹とかはそういうのは無いよと思っているわけじゃないですか。でもそういう思いがあるというのは、そこにあれがあるのですねえ。そうするとそこにしがみついているかも知れないというのはありますね。母も気持ちからも変えてゆかないと、みんながもしそういう気持ちなると、そのしがみついている魂も退くんかなあ?
ありがとうございます:
「ありがとうございます」でその思いを消してもらったらしがみつけなくなります。それで、感謝の心を引き出してもらったら、高い番組へ心を合わせて行って、低い番組にはまり込まないようになります。だから、やっぱり「ありがとうございます」と唱えるだけが自分の為にも、みんなの為にもなっているのです。
本当の感謝というのは無限に謙虚に
-ありがとうございます-
昨日の晩から急に上唇がずうっとしびれて腫れてきたのです「ありがとう村でなんで?」とか思っちゃうのですけど。
ありがとうございます:
本当の感謝というのは無限に謙虚になった感謝なのです。過去に感謝を忘れてマイナスの言葉を一杯使って、地獄番組に合う心の状態だったのです。ところがこの世に生まれてくる時は、それを一時棚上げにしてもらっています、それで、この世で良いものを選ぶ練習をして、お祈りの練習をして、それで過去のマイナスを消し去る力をもらうのです。本当だったら、いつも地獄のどん底で、無限の苦痛を受けて味わい続けていないといけないのです。その自分がこの世に生まれていい状態に置いてもらったからと言って、自分の力ではありません。
本当は無限の苦痛を今も受けていないといけないのに、それ免除してもらっています。それに気づかずに「自分の力で生きている」とか、「自分にはこんな能力があるんだ、力があるんだ」と自慢しているようではいけないのです。
だから、先ず、感謝の一番第一歩が、「無限の苦痛を免除していただいて、ありがとうございます」になるのです。その上に「無限のプラスを与えてくださってありがとうございます」を加えます。そうしたら少々痛もうが病気しようが何が起ころうが、「無限の苦痛を和らげていただいてありがとうございます」になるのです。
-ありがとうございます-
ここにおること自体でも、地獄へ行かないかんのに、ここまでとりあえず来させていただいている、というような?
ありがとうございます:
そうです、だからそういう、本当の意味のマイナスへの感謝の気づきが大事です、それは、謙虚な心にしてもらう一番の要素です。だから、何が出てきても「ありがとうございます」になれたら、本物の感謝行です、だから、何か起こっても、それをマイナスと見るのが間違いなのです。
病気になったら、万分の一に軽くしてもらって、大きいマイナスを免除してもらって、消してもらって、「ありがとうございます」なのです、不足を言ったら損です。それを無限の感謝に変えてゆくのです。
-ありがとうございます-
みんなそうなのです、痛いとか辛いことがあると、なかなか病気に感謝せえと言われてもできません。
ありがとうございます:
無限の苦痛を、無限の痛みを味わうところを、こんなに軽くしてもらったと思うと軽くなります、これも言葉なのです「こんなに痛い」と言うと痛くなってきます。「無限の苦痛をこんなに軽く済ませてもらった」というと、痛みはすうっと軽くなって、そして消えてゆきます、軽く受けられるのです。やはり言葉通りなのです。
-ありがとうございます-
今、振り返ってみれば確かにそうです。治療法で効果がある、ちょっとでも良くなっていると思った途端に、スッとどんどんどんどん快方に向かいましたから。
ありがとうございます:
普通は大難を「無難」に、何もない状態に置かれると「何も助けてもらっていない」と錯覚するのです。だから大難が「小難」になったら「護られている」と思います。
交通事故に遭うのでもそうです、ドカーンと当たって車が大破して、自分が無傷だったら「ああ、護られた」と思います。ところが普段、事故も起きない、何もないと、何も護られていないような、神さまに見捨てられたような感じです。いつも大難になるところを護り続けてもらって、無難に置いてもらっているのです、小難に遭うのはいいのです。
だから、そういう感謝を、見えないところへの感謝をずうっとしている方が、たくさんの護りをいっぱい受ける番組なのです。いつも事故で車を失っていたら、ものすごい大損します、それを毎日護ってもらったら、毎日いい車を一台もらっているような感じになります。
RUBY>個性がなくなるのではありません
-ありがとうございます-
命というのは、死んだ後に個別で存在するものなのか、それとも大きな大きなひとつの神さまの中に入る感じで、ひとつの一体としてのものなのですか?
ありがとうございます:
個性がなくなるのではありません、奥へ入るほど個性というのがあります、神さまと一体化すれば部分的にも個性が生まれるのです。例えば、この手がそうです、五つの指があって、全体とひとつずつつながっているから親指・人差し指と個性が生まれます。これを切ったらもう個性はありません、指があるだけで親指とかいう名前はつきません。親指と人差し指をすげ替えたら人差し指になってしまいます。だから、常に神さまとつながっていて個性が生まれるのです。それは、この世的にいう癖ではありません、「本当の個性、本当の働き」全体にとって絶対になくてはならない必要な働きが「個性」なのです。
それを部分的に見たらそういう個性があります。またその本当の自分は神さまから一瞬一瞬新たに神さまの全てを受け直す自分なのです、その時は「全体を受けた自分が意識の中心を持っている」というのが「個性」です。ダイヤモンドの面が無限にあって、どの面を自分が意識の中心にするかによって、無限の人がいたら、無限のその面があってそこを中心にしています。ある意味では、面によって見方がみんな変ります、見え方が変ります、そういうようにみんな個性が違うのです。全体を受け直しても個性があります、部分的に見てもみんな個性が違うのです。
その、魂の方は、そういう個性とは少し違います。例えば肉体から抜けてあの世へ行って、大きい魂の人は幾つかに別れていくつかの魂になったりします、また、幾つかの魂を集めて大きく魂をひとつにする時もあります、寄せ集めができ、分割もできます。だから、魂は永遠にひとつのものがずうっと続くのではありません。その辺をちょっと区別しないと、本当の自分は命の方です魂の方ではありません、大きくまとめたり、分割されたりしたら、自分が消えてしまいますから。命の自分は永遠不滅です、個性がはっきりあって、一貫性があります。
-ありがとうございます-
例えば「命の個性」というのは、例えばどんなですか?
ありがとうございます:
無限に複雑です、「神さまの全徳の無限の無限の輝きが一杯!」というのを本当の自分を受け直すと、その中には、例えば「愛」とか「知恵」とか、いろんな能力にしてもありとあらゆる要素が全部あり、どういう割合で輝かすかが全部違うのです。愛がものすごく前面に出ていて強い個性の人もあり、知恵が前面に出てそれが一番輝いた個性もあります。それが神さまの徳性をぜんぶいろんな色合いに振り分けたら、無限の色合いが複雑に組み合わさって、本当にもう見事な綾模様をつくります。だから花火ぐらいではない、虹のような感じでもない、もっともっとすごい色合いのものが生まれます。その色合いの違いで、全体像の色合いの違いが生まれるのです。
-ありがとうございます-
光の存在というのと、また違うのですか?
ありがとうございます:
その光が、こういう肉眼で見るこういう物質の光は電磁波の一種だから単調なものですが、でも、本当の神さまの徳性の光は「愛の光・知恵の光」とかいろいろと言ったら、みんな違うのです。ただ、物質の光という単調なものではありません、全部を光に変えた光なのです、いろんな種類の光になってきます。
この肉眼で見える限りずうっと宇宙を
-ありがとうございます-
もうひとつ、無限大と宇宙大の広がりのイメージを教えていただけますか。夜空の広がりとか、どういうふうにイメージすると、宇宙大とか無限大の・・・もう少しどんなのか教えてください。
ありがとうございます:
この肉眼で見える限りずうっと宇宙を追っても、肉眼で見えるのはほんの僅かな世界です。それに最高の天体望遠鏡で見ても、まだ奥があります、まだ、とらえていないところがあります、やはり無限に広がるのです。だから、この世の次元の広がりだけを見ても、無限に広がっているのですから、捉え所がありません。
それが、こういう世界がまだ奥に無限に無限に続くのです。だから、この見ている大宇宙は、ひとつの他の原子の中の宇宙かも知れない、相似形の姿をとって、宇宙が入れ子構造の姿が出ているというのはそういう意味なのです。その大きい宇宙のまた原子の中に、また宇宙があるというような感じで、それが無限に広がっていたら、今のこの宇宙はどこの原子の中の宇宙かなあと思います。でも、そういう見方も宇宙構造のひとつの要素でしかないのです。まだいろんな無限の見方がたくさん出てきます。だから、人が想像できる限りの「無限の無限の‥‥」と言っても、まだまだ追いつきません、どこまでも奥深いし、どこまでも広がるし。
-ありがとうございます-
じゃあ、神と一体と思うでしょう、光の中の存在として、瞑想なんかをしている時に。その輝きというものが分かりませんけど。ただ「ありがとう」と言っていれば、ポンと抜け出したりするのですか?
ありがとうございます:
自分を神さまの中へ融け込ませてゆくのが一番神さまを感じやすい方法なのです。小さい自分を「自分」だと掴んでおくと、その自分の中には自分が受けられる範囲の必要なだけしか入って来ないのです。
-ありがとうございます-
だから、それを大きく、大きい存在にどっぷり漬かりたい、という気持ちでいますから
・・・・
ありがとうございます:
自分をどんどん神さまに預けてしまいます、預けて預けて、小さい自分を消してもらうと、神さまの大きい中に融け込んでゆきます。それがもう「自分を捧げ尽して感謝する」という生き方です。そうすると段々と神さまへ飛び込んでゆくにつれて、神さまの大きい存在とひとつになってゆく自覚がどんどん広がります。
-ありがとうございます-
ありがとうございます、まだちょっとよくわからない。
ありがとうございます:
これは頭で考えても無理です、「ありがとうございます」の中から、中から実感として与えてもらわないといけません。
「愛情」は「愛」と「情」に分けて言葉を
-ありがとうございます-
昨日の夜、寺子屋でも話題があがっていたのですけど、「愛と情の違い」というのを、重なる質問があったかも知れませんけど、教えていただきたいのです。
ありがとうございます:
「愛情」は「愛」と「情」に分けて言葉を使います、その時は「愛」は神さまの愛の方を指しています、「情」は執着の思いの方です。そのバランスを取ってこの世の人は結婚しているとも言えます。「愛」は感謝の方です、「情」は思いの方です、「愛する」というのと「好き」というのは違います。
「愛」は与え尽すだけです、相手に必要なものを的確に与え尽す思いやりがあります。そしてすべてをプラスに見る寛容の心があるのです。それでその過去を掴まずに、いつも新たに新たに受け直す赦しの心があります。だから、「愛」は絶対に他の自由を縛りません、「思い通りに」という願いはないのです、一切他の自由を縛らないのが「愛」です。本当の「愛」があったら、そこに無限の調和が出てくるのです。
「情」の方は「思い」なのです、「思い通り」にしたいのです。子供があっても「子供を自分の思い通りにしたい」というのは「情」の方です、子供を自由にのびのびと育てるのが「愛」の方です。「思い」は必ず自由を縛るから反発され、縛りを跳ね返して、反抗してきます。「情」というのは「思いの縛り」なので「貸し借り」が生まれるのです。「貸し」がこっちに多いと相手に対しては「嫌い」になり、借りている方が多いと、助けてもらう量が多かった人に対しては「好き」になります。だから「好きだ、好きだ」と言うのは、前世で借りが多いのです、それで今度返さなければならないから、恩返しの意味で好きになって尽します。その好き嫌いは思いの方なので、それに巻き込まれると苦しむのです。
「愛の心」は自由に自分を解き放してくれるので、どれだけ与え尽しても、喜びが中から湧き上がるようになり、幸せになってきます。だから、報いを求めず与え尽す愛の心を生きるのが一番の幸せです。
-ありがとうございます-
「愛情」と言われると「愛と<