真祈り文庫
2001年8月5日
No.2
二つの心
-ありがとうございます-
少し年老いてボケてくるということがあるのですけども、そういう人がなるべくボケないように、なんかやる方法がありませんでしょうか?
ありがとうございます:
あるでしょう、目的を持つことです。目的がなかったら何もしなくて済むので、ボケるのは当然です、若くてもボケます。だから、もう大きい目的を持つほどいいのです、そうすると中から力を振り絞らないといけないので、本当の神さまの力が湧き出てきます。そしたら肉体が若返って病気にもならずに、ボケずにいろんなことがたくさんできます、もう死ぬまで元気一杯に活躍できます。
だから、目的をしっかり持つことです。それも大きい目的です。神さまの方はいくらでも力を添えてくれますから、大きい目的を持つほど力はたくさんもらえます。
-ありがとうございます-
そうしますと本人は、ボケようとしているくらいですから、なかなか本人は目標を持ってない訳ですけど、周りからそれを持てるように、仕向けていくというか、そういうことはできるのでしょうか。
ありがとうございます:
本人の自由意志で選ばないといけないのです。周りの人のできることは言ったら「自分が感謝して無限に輝いて、それで世の中のためにいっぱい働いて幸せになっている」という姿を見せることによって「真似したい」と思うかも知れない、いいお手本を見せればいいのです。
ボケる人は、「何もしなかったら幸せ」と思っているかも知れない、「楽して寝ていて幸せ」と思うかも知れないのです。でも「本当の幸せは、一所懸命働いて人を幸せにして本当の幸せを感じられるんだ」というふうに、そういういいお手本を見せ付ければいいのです、だから、みんな「何を選ぶか」だけの問題です。この世は特に良いのと悪いのと両方見せてもらえる場なので、だからいいものをお手本にして、それを選び取れば、どんな人でもプラスに向いて行くのです。ただ、強制はできません。
もし自分がお祈りして、その人が変わったように見えるとしたら、自分の番組が変わっただけです、その人を変えたのではありません。その人の生き方は変えられません、その人自身の問題なのです。ただ「自分の見る番組が、マイナスの多いものからプラスの多いものへ変化した」というだけなのです。神さまでも人の自由は縛らない、人はどれだけお祈りしたからといっても、他人の自由を縛って変えるわけにはいかないのです。自分の見ている番組を変えただけです。
-ありがとうございます-
自分自身としては、死ぬまでボケずに、今日までも生きてて明日コロッと亡くなるという、そういう状態がいいと思ってるのですけども。そうでない人でボケて行こうとする人は、あまりそういうことは思ってないと思うのですよね。そうした場合「ボケて幸せ」ということはあるんでしょうか。
要するに自分の意思という問題ですけども「何としてでもボケないようになって欲しい」という気はあるのですけども。関わり方が結局、こちら側の「ありがとうございます」だけでいけばいいのか、それとも・・?
ありがとうございます:
心には二つの心があります。本当の自分の心・神さまの心であるプラスの心と、過去を積み重ねて出来上がったマイナスの心というのがあります。マイナスの心は、楽をしてたいのです、何もしないで怠けてじっとしていて、棚から牡丹餅式になんでもしてもらったら幸せだと感じる心です。そういう心の人は、もうしんどいことから抜け出たいのです。「何もしたくない」と寝てたらいい方なのです、じーっとしてたい方です、そういうのを「幸せ」だと感じてしまうのです。
本当の自分から見たら、それは正反対です。だから、感謝する心、本当の自分が出てこない限り、それが「間違っている」と気づきません。本人が気づくまでは仕方ありません、偽物でも「これが幸せなんだ」と思い込んでしまうから、そこへずうっと入って行くのです。だから自分自身の問題です。
自分の過去をずうっと振り返った時に、感謝して本物を正しく掴めた時は「一所懸命働いて人を幸せにすることが幸せ」だと本当に思えます。ところが、感謝をしていない時期があります、そういう時は怠けて「人からもらうのが幸せなんだ」と、そういう時期があったと思うのです。そういうなごりが心に残っていたら、自分の見ている番組の中にそういう姿も見せてもらえるのです。
それを両方見ることによって、どっちが本物か正しいのか」というのがわかって、それで自分は「もっともっと本物の一杯の世界を番組として見ていきたい」というんだったら、みんなが命を輝かせて働いている幸せ一杯の姿の番組へ、合わせて行けばいいのです。
だから、今、この世にマイナスが見えるとしたら、まだ、自分の心にマイナスが残っているというぐらいに思って、更にプラスにプラスに向け続けるのがいいかも知れない。だから、マイナスの人の姿は見ない方がいいのです、極端に言えば。「みんな命が輝いて、働いているんだ」という「みんなを幸せにする働きをしているんだ」というのがいい、そういう言葉を使い、そういういい姿だけを見つめて、番組を上へ変えて行けば、ボケ老人も見なくなるかも知れません。
ボケ老人ぐらいの問題ではありません、世界のいろんな問題が沢山あるのですが、大勢の子供が餓死して行きます、年間どれぐらいいるですか?、凄い数でしょう。(一日五万人です)ちょっと考えられない、日本では。餓死しなくても、もの凄く程度の低い生き方をしている人が、もの凄い数でしょう、何十億なのです。でも、そういう人達を、どうして自分が幸せにして行くのかと、考えて取り組んでも、一人の人をも幸せにできません。
食べ物がないから食べ物を与えたとしても、それで本当に救えるのかというと、救えない。一生食べ物を与え続けても、大してその人を幸せにも何もしていないのです、食べ物を与えた程度の幸せしか与えてないのです。
本当の幸せというのは、そういう低い番組でいくら掴もうとしても掴めません。低い番組を見ている限りは、自分も幸せになれないのです。だから、自分が先ず高い番組をしっかりと見れるようになることです、もし「他の人も幸せにしてあげたい」というんだったら、他の人も高い番組に心を向けてそれを受けられるようにしてあげることです。そういうお手伝いが、本当の意味の根本から幸せを与える生き方です。
みんなが本当にお祈りできるようになれば、最高番組に波長が合って、それを受けて現実化するのです。そしたら、もう最初から幸せいっぱいの状態になります。
-ありがとうございます-
今の状態で、国際援助とか国際ボランティアがありますよね。今の状態でやっている以上は、ずうっとそれがあまり変らないのですか。
ありがとうございます:
あまり変わっていないのです。逆に、「可哀相に、可哀相に」とやっていると、そういう世界がどんどん広がっているようです。だから助けてもらった方も、自分の力を発揮しないから、助けてもらうばっかしの気持ちだと、求める心になっています、番組がどんどん低く下がって行くのです。逆に番組を下げる手伝いをしているようなな感じになります。自分の中の力を振り絞ってでも発揮して、プラスへ向かないといけない、自分の方から与える心を起こさないと、番組が上がらないのです。
ちょっとでも人のために役立つことをさせてもらう生き方を、みんながとるようにしてあげる方がいいのです。番組さえ上へ上へ上がったら、必要なのものをちゃんと与えてもらえる幸せな姿をとるのに、余りにも求める心を起こさせ過ぎています。番組を下げるお手伝いをしても、意味がありません。難しいでしょう、何か援助をするには、「ありがとうございます」を援助しないといけません。物を与えるのでも「ありがとうございます」をたくさん祈りを込めておいて与えるのがいいかも知れない、感謝の心を引き出すための手立てにすればいいのです。
現実の幸せを数えてみる
-ありがとうございます-
求める心をなくして、与える心を持つこと。感謝を深めて与える心を出すためには感謝がいいということではないかと思っているのですけど。その感謝の心がなかなか、私自身与える心がまだまだなのです。感謝の心から始めたいと思っているのですけれども、なかなか自分が恵まれてるせいもあると思うのです。
そういう自分がどうやったら感謝の心というのが持っていけるか、何かアドバイスを。
ありがとうございます:
既に与えられているもの、幸せを数え上げるのがいいのです。この肉体ひとつでも、神さまからの大きいプレゼントです、「目が見える」というだけで。
「目」はものすごい無限の価値があります。目が見えなかったら、どんな素晴らしい景色でも見えません。だから、目が見えるというだけでも、無限の価値があります、「ありがたいなあ」と。「耳が聞こえる」のもそうです、いろんなことがたくさん聞かせてもらえます。参考になること、勉強になることをたくさん聞かせてもらえます「ありがたいなあ」と!また、鳥の鳴き声が聞こえるだけでも幸せです。「息ができる」というのもすごいことです、息も吸うも吐くもできなかったら、もう悶絶してもがき苦しむのです。
だから全身の細胞六十兆の細胞の一個一個が、やっぱり本当に命を輝かせて、自分を幸せにするのに働いてくれている!これだけでも「細胞さん、ありがとうございます」と言わずにおれなくなるのです。太陽ひとつでもそうです、毎日毎日新しい太陽がどんどん出てきて、輝いて、幸せを与え続けています。これが一瞬すっと消えてしまったらどうなるか?大変です、地球は闇になってしまいます。
そういうふうに、今与えられたものを、幸せをずうっと数え上げていくと気づきがどんどん増えるのです。感謝がどんどん湧きあがるように出てきて、それが根本になったら、神さまへの本当の感謝が徹底できるようになってきます。「現実からの神さまのプレゼントを感じる感謝」というのは、まだ浅いのです。奥から、一番奥からのプレゼントを感じるのが、一番深い感謝になります。そうすると現実が闇でも、心はもう無限に無限に幸せ一杯という状態になれるのです。無条件に幸せはそこにあるのです。先ず、今は現実から幸せを数え上げたら一番手っ取り早いと思います。
-ありがとうございます-
北九州からおいでて、折角ですから、何かありませんか、子供さんのことでも。
-ありがとうございます-
この場所に来られた、というだけで感謝の気持ちで一杯ですので、「ありがとうございます」ということで。
ありがとうございます:
あ〜、いいことねえ〜。
-ありがとうございます-
神さまは「ありがとうございます」と唱えることは、神さま自身が喜んでいらっしゃるのでしょうか?
ちょっとわからないのですけど。
ありがとうございます:
そうです、やっぱり人も同じで、認めてもらって幸せを感じるのです、無視されたら感じません。「ありがとうございます」というのは、神さまの働きの全体像をぜんぶ認めたことになります、感謝の心を起してしっかりと受けたことになるのです、やっぱりそれが一番の神さまの幸せなのです、喜びなのです。「ありがとうございます」を唱えている人は、もう自分の周りのぜんぶから喜びを感じ取ります、それは神さまの喜びなのです。プラスの喜びの姿を見せてもらえます、みんな神さまが喜んでいる姿です。
だから、周りの人もみんなそうです、「ありがとうございます」と心から感謝したら「ニコッ」と笑ってくれます。それは神さまが喜びの姿を見せてくれていると思います。植木鉢に植えている花でもそうです、「ありがとうございます」と感謝していたら、花がニコッと笑って咲いてくれます。それを感じます、花の笑顔をスッと感じます。
-ありがとうございます-
良寛さんだったかの言葉に「愛語」という言葉があるのですけども、要するに「愛の言葉」と言いますかね。「愛語」を相手に掛ける、ということなのですけど、いろいろあると思うのですけど、やはり私は「ありがとうございます」と言うと、ちょっとしたことにでも、例えばウエイトレスが水を持って来るとか、食べたものを下げて行くとかね、そういう時に「ありがとうございます」と言うと「ニコッ」と笑うのです。向こうの方が、それで照れたりする人もいるのです。そんなことで普通あまり言われないんだと思うのですけど。そういうのも、やはり「愛語」になるんでしょうか?
ありがとうございます:
そうです、本当の愛語は「感謝」なのです、「ありがとうございます」だけです、「ありがとうございます」が、神さまと一体化する言葉です。「愛」というのは神さまとの一体感の言葉です、「愛はすべてと一体」という意味です。ひとつに合体して合っているという、合一しているという意味です。「愛」が一体感だったら「ありがとうございます」がすべてと一体化する言葉なので、「愛語」というと「ありがとうございます」だけです。
忙しいというのは奴隷
-ありがとうございます-
仕事をしていて、すごく忙しい時なんかは、相手の方が「ありがとうございます」を言ってくださるのですよ。すごく忙しい時は「いいから、次のことをどんどんしゃべって!」って、自分が思っちゃう時があるのです。でも「言っていただいて嬉しいな」という気持ちもあるのですけど、急いでると「はあ〜」って・・
後で「何であんなこと思っちゃったんだろう」って思うのですけど。そういう時の自分って、そういう感情は、やっぱりいくら「ありがとうございます」を聞いていても、プラスにはならずにマイナスになっているのですか?
ありがとうございます:
いえいえ「忙しい」という、忙しい言葉が、立心偏に亡くなるです。人の「心」が「亡くなる」という、我を失うのです、「奴隷」になってしまうことです「忙しい」というのは。自分から楽しんで一所懸命にやっている時は「忙しい」とは言わない、「ありがとうございます」だけで、喜んで楽しんでいるだけです。だから、そういう「忙しい」という状態は、「ありがとうございます」で軽く消してもらっているのです、助けてもらったのです、奴隷になったら損します。
神さまとの対面を楽しむのが「お祈り」
-ありがとうございます-
普段「ありがとう」というのが段々口癖というか、思えるようになったのですけど、朝お祈りさせてもらったように、静かな時間というのは持った方がいいですか。
ありがとうございます:
それも自由自在です、いろんな時間を持てるのは幸せでしょう。別にこういう形に囚われないでいいのですが、朝起きて太陽を眺めるだけでも静かな時間です。景色を眺めて心をゆったりさせるのも、これもひとつのお祈りの時間なのです。
-ありがとうございます-
自分で決めなくても?決めなくても自由自在に?
ありがとうございます:
決めなくていいのです、自由自在です。一瞬一瞬を大事に楽しめばいい、本当はもう神さまとの対面を楽しむのがお祈りです。太陽を見て、太陽を「神さまの愛の現われ」と感じたら神さまと対面なのです。そよ風の中に自分を置いて、「ああ、気持ちいいなあ」というのも神さまとの対面なのです。
神さまと対面・出会うというのがお祈りなのです。(すべて?)すべてです、すべてに神さまを見出して行く、そういう練習です、(自由自在で?)自由自在でいい、自由自在が!
お布団に入って寝る時も、布団を「神さまの愛の御手」というふうに「神さまの愛」というふうに見ていけば、布団の中にゴロッと横になるだけで神さまに包まれます、愛に。だから形じゃない、自由自在がいいのです。
霊感の強い人
-ありがとうございます-
友達の娘さんが霊感が強いというか、なんかわからないのですけど、病院やお寺へ行くと何か入るらしいのですね。私の友達が、お母さんなのですけど、どうしていいかわからなくて悩んでるのですね。そのお嬢さんが自分なりにお祈り、おまじないじゃないですけど、適当にやっているらしいのです、出歩く時は塩を持ったりとか、でも入る時は必ず入っちゃって、寝る時も「こっちに入ってるから、今日は下向きに寝られない」とか言って、なんか大変らしいのです。すぐ入ってしまう。そのお母さんの悩みを聞いても、私にはどうすることも出来ないのですけれど、どういうふうに。
ありがとうございます:
それも、やっぱりマイナスを掴んでマイナスの言葉を使っています。いろんなもの「マイナスのものが入っている」と見ているのです、「また入った、入った」と。だからそれをプラスに変えるのがいい、言葉を。いつも神さまが無限の光が入っているというふうにプラスを受け入れたら、マイナスをもう相手にしなくなります、プラスの方が強いのです。マイナスを掴んで言葉にしているから、それがその通りになって行くのです、だから、いつも神さまの無限の光が世の中に流れ込んでいるというふうに、プラスの言葉だけを使い続けたら、マイナスは入らなくなります。
-ありがとうございます-
入ったもの自体はプラスのものですか。
ありがとうございます:
そういうものは見ないのです、神さまの無限の光がいつも流れ込んでいるというふうに、「神さまの無限の光だけが、自分の中にあるんだ」というふうに見て行けば、そういう言葉を使っていたら、それがもう「ありがとうございます」という言葉なのです。だから「ありがとうございます」を唱えたら、それも全部消えて行きます。
本当に「ありがとうございます」を唱えたら、そういうマイナスは一切感じなくなります。もし、それで何かマイナスを感じるとしたら、その時は唱えていないのです、「ありがとうございます」を忘れてる時です。思い出して「ありがとうございます」と唱えたら、それで消えて行きます。
思い通りにしたい人は、ここには来れない
-ありがとうございます-
ところが、そういう方がいて、例えばここへ来てそういうことを体験させようと思って連れて来ようとしても、なかなか実際は来れないということが多いように思うのですけど?
ありがとうございます:
ここへ来れる人は「ありがとうございます」を唱えている人です、唱えた人です。そうでないと、無理矢理連れてきても、必要なものを受けられないのです。ある程度謙虚に素直になって、神さまの助けを受け入れる心になって「ありがとうございます」を唱えさせてもらって、初めてここに来るのです。それでいろんな気づきを、またどんどん与えてもらうような姿をとってるだけです。
でも、感謝も何もしない人が、自分の好き勝手に思い通りにしたい人が、ここへ来ても何も得られない。逆に、その「思い通りにしたい」というのを消されたら困るから、来ない、絶対。思い通りにならなくなるから、ここへ来たら。まあ、一人一人自由があって時期が来るまではどうしようもない、でも、段々と変化します、周りにお祈りをする人が増えたら、また、気持ちが変化するのです。
-ありがとうございます-
来てもらいたいなあ、という友達があったとしても、すごい声を掛けずらいとか思う人だったりすると、やっぱりそれは時期じゃなかったりするのですか?
ありがとうございます:
それも自然になるのがいいのです。声を掛けても来ないかも知れないから、別に声掛けなくても、またなにかの縁でフッと他から誘われて来るかも知れないし。それも自分も自然に動いてるのがいいのです。
先生の食事風景
-ありがとうございます-
すみません、つまらない質問かも知れませんけど、いつも、先生の食事をしている姿を、みなさん余り見ないものですから、果たして先生は食べているのかということを心配されてるのですけど。
ありがとうございます:
食べています、はははは。しっかり食べています、十倍ぐらい!あまり量的に沢山食べたいと思わないから、みんなと一緒に食べると遠慮してしまうのです。
-ありがとうございます-
なんか五分ほどで終わってしまうとか?
ありがとうございます:
それも、その時その時です。若い頃はご飯でもなんでも食べたい、お腹が空くし、運動したら特にそうです。私はご飯はもう一膳です、軽くしか食べないし、偶には食べない時もあるし。おかずだけでちょっと食べるぐらいで終わってしまうから。食べるものも、私は果物があったらいいぐらいです、はははは。お肉とかカレーとか、そういうのはあんまり食べないです。一番あっさりした淡白なのがいい。だから一緒に食べるとみんな遠慮し過ぎるのです。
それでちょっと別に食事させてもらっています。(そういうことでしたか)はい、食べています、食べています。ただお客さんのある時は食べない時もあります。臨時に来られる時もありますから。そういう時はお昼も抜いたり、夕食も抜いたりする時もあります。それも別になんでもない、苦痛でもなんでもないし、楽しんで。だから、寝食を忘れて楽しむのがいいでしょう、はははは。
人の縁
-ありがとうございます-
「人の縁」って神さまから見たらどんなふうなのですか?
ありがとうございます:
両方あります、腐れ縁と、神さまから新たに結んでもらう光の「神縁」というのが。「腐れ縁」は、足の引っ張り合いみたいな姿をとるのですけど、それでも、神さまがそこへちょっと働くと、腐れ縁もやっぱり輝いて来るのです、はははは。
この世の姿は、本当はみんな神さまからの「新しい縁結び」と思う方がいい、「腐れ縁」だけで結ぶことは絶対ありません、それも活かしながら神さまが光の縁を結んでくれます。マイナスの腐れ縁ばっかりだったら、みんなマイナスへ向いてしまいます、それだったら大変です、みんなどんどん地獄へまっしぐらに行ってしまいます。それを防ぐ為に神さまが働いているんだから、、どんな縁も神さまの光の縁で新たに与えてもらっているのです。もし「腐れ縁」に見えても、その腐れ縁は軽く済んでるのです。
だから、マイナスに見える縁もいい縁なのです、本当はいろんな勉強ができて、それをきっかけに大きい幸せを掴むチャンスになってるかも知れないのです。「無限の無限のプラスの縁」というのがいいのです、はははは。
国民の感謝が深まれば、政治は変わる
-ありがとうございます-
この間、小泉総理が、自分の周りの人のことを「言ったらわかる人と、言ってもわからない人と、それから、言わなくてもわかる人と、三種類いる」とおっしゃってたのですけど、言えばわかる人はいいですよね。言ってもわからない人がたくさんいた場合に、どうしてもそこでやって行かないといけない場面があるとしたら、どういうふうに対処していけばよろしんでしょうか?
ありがとうございます:
でも、「自分がこの世界を変えている、動かしている」というのは、ちょっと傲慢かも知れない。「自分は何にもできない」というのがいいのです。それで「神さまのお手伝いができたら幸せです」というのがいい。だから、謙虚になって神さまの手足に使ってもらうのがいいのです、そうすると神さまが全責任をとって大きく動かしてくださいます。だから、総理大臣になっかたらとか、個人の総理大臣の力がどうのこうのは関係ありません。
謙虚な総理大臣だったらバックに八百万の神さまが働くのです。一人の神さまがつくだけでもすごい能力を発揮します、大きい働きがそこに加わってきます。だから、謙虚さが大事なのです。
人をどうのこうの動かそうではありません、神さまが動いてくださっている、働いてくださっているという感謝があると、神さまが人を動かすのです。どんな人でも神さまだったら動かせるのです。神さまは人だけではない、動物でもなんでも動かせます。神さまが動かしたら、みんな大きい働きしてくれるのです。
「言っても動いてくれない、自分の思い通りになってくれない」と、それも勉強かも知れないけど。「言って動かすものじゃない」というのを気づけばいいのです。「思い通りに動かすものではないんだ、もうすべて神さまの御心のままに」と、「神さまの最高表現を降ろす為のお手伝いさえできたらいい」というのがいいのです。
-ありがとうございます-
その場合に、相手も相手なりに自分の思い通りにしたいと思ってますよね。こっちも話しを聞かないで、自分の思い通りにしたいと思ってますよね。そういう時はどうしたらいいですか?
ありがとうございます:
どうしようもなくなってしまいます、お互いがマイナスです。足の引っ張り合いで、両方駄目になります。
神さまの最高表現を現実化するのが日本の政です。その「政」になると、神さまの心をしっかりと生きるのです。それは「褒め讃えて、感謝して、喜ぶ生き方」なのです。お互いを褒め讃え合わないといけない、感謝し合わないと、そして「みんなのお蔭で」と喜び合わないといけない。「誉めて感謝して喜ぶ生き方」これがあったらもう必ず最高表現が現が実化してくるのです。
だから、今迄の政治の世界を見ていると、足の引っ張り合いです。批難し合って責め合っています、褒めていない。それで感謝し合っているかといって、感謝していない。不足ばっかりを言っています。喜んでいるかといって、喜んでない。苦虫を噛み潰したような顔して苦しがっています。
だから、日本の政の生き方から、正反対の生き方を選び続けてるような感じです。ちょっと本来の姿に戻ればいいのです。
今の小泉総理は他のことをあまり批難していません、いいことです。褒めるまではいかなくても、批難しないだけでもすごいことです、他の悪口を言うのが少ない。自分のしたいことは積極的に信念を持って言っている、そこがいいのです。これがもうちょっと褒めあうようになったら、また感謝が加われば、みんなが「幸せです」と喜べば、本当の政に、政治になって行くと思うのです。早くなって欲しいのですが。
でも、政治家から変えるというのは難しいのです、下からです。国民がどんどん感謝の心を起すようになったら、上は勝手に変わります。感謝する人が一人でも増えたら、日本の国はどんどん良くなって行きます。みんなの感謝が小泉総理を変えているはずです、プラスにプラスに変化させています。だから、ちょっと少なくなりました、悪口の言い合いが、すこすだけ。
「思い」は言葉の後に付いてくる
-ありがとうございます-
ずっと聞いてましたら、「ありがとうございます」というところへどうしても行くんで、聞くことがなくなった。(はははは)難しいなあと思うのは、言葉の使い方は意識できるのですが、「思い」というのが、無意識のうちに思っているということがあるのです。そこをどうしたらいいのだろうとなってくるんで、あんまり難しいこと考えずに、とにかく言葉でもっと出して「ありがとうございます」という言葉を、広く自分の中に言うことなのかなあと思ってるのですけど。
ありがとうございます:
その通りです、「思い」というのは言葉の後についてくるのです。言葉を積み重ねたらその通りの思いに心が変わるのです。ただ、言葉と裏腹にいろんな思いが出てくるというのは、過去に積み重ねた心に溜めた思いなのです。それは、今「ありがとうございます」を唱えていても浮かび出てきます、それが浮かび出た時に、それで消してもらうために浮かび出ているのです。だからどんな思いが出てきても、これで消されて行くという、「ありがとうございます」でどんどん消されて、プラスに置き換えてもらっているのです。
でも、言葉の通りに思いは・心は従ってきます、だから、言葉だけを選んで積み重ねたらいいのです。コロコロ変化する心はどうしようもない、でも、言葉は選べます、言葉を選んで心を支配するのです。
-ありがとうございます-
お便りを書く時に、私は「ハガキ道」ということで、ハガキを書くのですけども。そこに「ありがとうございます」という言葉をなるべく入れようとして、最初と終わりにシールも貼ったりするのですけども。そうやって「書く」ということが、自分もそうですし、それを受け取った相手さんにとっても、そういう神さまの光というんでしょうかね、そういうものなんでしょうか?
ありがとうございます:
心でずうっと唱え続けられたら、別に形はどっちでもいいような感じです。でも、形の「ありがとうございます」もあることによって、また思い出して心に「ありがとうございます」を唱えやすいのです。だからそういう助け合いになれば、それが大きく活きてきます。「ハガキ道」も素晴らしいです、はははは。