真祈り文庫
2001年8月5日
No.1
修行の仕方
-ありがとうございます-
世の中には神さまに出会うというか、そういう道を求める人、例えば、比叡山へ行って千日回峰行をなさるとか、或いは高野山の方で修行するとか、或いは禅寺で道を求めるとか、そういう既存のところでやられる方が多いわけなのです。そういうのを一切先生の場合は関心がなかったのか、最初からこういうやり方でやろうということだったのか、その辺を少しお話していただけたらと思うのですけど。
ありがとうございます:
はい、一人一人ぜんぶ歩む道が違うので、同じ道は必要ありません、いろんな悟りへの修行方法も、道もあっていいと思うのです。私の場合は「感謝一筋で、大きい幸せを与えてもらう生き方をとらされた」のです、それも生活の中で感謝を深めて行くのです。
その修行というのも、難行・苦行とかそんな感じではなく、生活行の中で、感謝を深める過程で、神さまの愛を感じさせてもらうという生き方だったのです。だから「神さま」というのは、本当は身近にどこにでもいらっしゃるので、それを「どういうふうに感じ取るか」だけの問題です。現実生活を離れて、どこかへ神さまを求めて行くのも、まあそれも悪いことはないでしょうけど。現実の中に、身近に神さまがいらっしゃるのに、わざわざ外へ行く必要はないのです。
私は小さい時によく神社参りに行ったことがります。そうすると、守護霊さまが言うのです、「お前を護っているのは、守護霊である私だ」と、「神社の神さまに頼みに行っても駄目だ」と、はははは。本当ですね、本当は自分の守護霊さま・守護神さまが専属に守りに護ってくれているのです。それなのにわざわざそれを忘れて神社にお参りして、神社の神さまにいろいろ願懸けしたり、いろいろお願いしたりしても、本末転倒なのです。それもひとつの私の考え方として、それが深く身についてしまいました。
やっぱり身近なところから、神さまの護り・助けをしっかり受けて行く方が大事なのです。わざわざ遠い所へ探し求めないでも、身近な中に必要な物をすべて与えられて、そうして「守りに護られているんだ」というのが。そういういろんな体験から私の中に根を下ろしてしまったような感じです。だからもう特別な何も要らないと思います。いろんな方法があっても、「それでなかったら救われない」ということは絶対ないと思います。
根本は、みんな神さまと一体で救われている自分があるのです、それが自然に現れてくるのを邪魔さえしなければいいのです。開き直りで自然になればいい、何もしないのがいいのかも知れない、極端に言ったらそうです。自力で修行しようとしない方がいいようです。
自力の働きをぜんぶ捨てきって、みんな神さまにお任せして、「すべて神さまにさせていただいている」という気持ちだったら、もう感謝一筋でやっていけます。その方が一番本当の助けを受けやすいと思います。
ただ、私の歩ませてもらったのは、それはみんなに参考にはなっても、ピッタリは合いません、みんな一人一人違うのです。一人一人的確に神さまは護り抜いているはずなのです、みんな歩み方が違うからいいはずなのです、ちょっとは似ているところがあってもいいけど、そっくりには絶対にならない。
でも、本当の助けは、やっぱり自分の中から、本物の神さまから与えてもらうばっかしだと思います。外から枝葉的にいろいろ助けてもらっても、そんなのは根本の助けにはなっていません、その時その時の、ちょっとした助けではあるけど。やっぱり根本の助けは、自分の中から本当の神さまが働いて出て来てくれる時です。それはやっぱり感謝している中から、そういう助けが与え続けてもらえるのです。やっぱり日常生活の中で、感謝を深めていくのが一番いいと思います。
全託・感謝の中に本当の最高の自由がある
-ありがとうございます-
自分の人生は、自由意志で選択して選んでいるのですけど、「全託」というと「自由意志」というのはどうなるのですか、あるのですか?
ありがとうございます:
「神さまの御心」いうのが、最高の自由な生き方をとっています。本当の最高の自由を手に入れようと思ったら、神さまの御心と一致しないといけない。神さまこそが自由自在なのです、人の場合は、やっぱりそこまでいきません、どれだけ自由に生きていると言っても、神さまの自由から見ると、ほんのちょっと自由なぐらいです。だから、できるだけ神さまの自由に合わせていく、近づいていくというのが一番の自由を手にする方法です。「全託」というのが本当の自由を獲得する一番の道なのです、だから、矛盾はしていません。全託の中に本当の自由があり、感謝の中に本当の最高の自由があるのです。
「自由」というのは、好き勝手に動いて自由なのではありません、ぶつかり合ったら自由が奪われます。だから、お互いにぶつかり合わずにすり抜けないといけない、うなぎみたいに、どんなとこでもヌルヌルとすり抜けるぐらいの自由さが必要です。どんな障害物があってもスッと抜けて行けるように、そうすれば、全部自由になります。それにはやっぱり知恵が必要です、神さまの知恵が。
全体を見抜いてどういう障害があるかはっきりわかって、すり抜ける知恵が湧いてこないといけない。そうするとぶつかり合わずに、自分は自由自在に動けます。そういう意味で、神さまの知恵を受ける為の「全託」でもあるのです。そうした時に本当の自由自在がそこに生まれます、障害が大きいほど神さまの知恵が必要になるのです。
何もないところで自由に動いても値打ちがありません、大きい障害の中で自由自在に動けたら、本物の自由自在性があると言えます。だから、この世に生まれてきても、この世のいろんな縛り・障害があって、本当の自由を発揮した時が本物です。本当は、それを楽しむのです。
神さまから必要な幸せを受け続ける
-ありがとうございます-
「五欲」というのは、それを止めるというか、止める為に修行に来てると言われる人もあるのですが、それも楽しむためにこの世に・・
ありがとうございます:
「五欲」と言ってしまうと言葉の縛りにあいます、それを、「すべて神さまから与えられた必要なもの」というと、もうマイナスではなくなります。幸せに必要なものだったら、いくら与えてもらっても、受けてもいいのです、それは言葉の違いです。「神さまからのプレゼント」という形で受けてたらマイナスは一切ありません、神さまは必要な物を的確に与え続けています。
「五欲」の方は「必要なものを与え続けてもらっている」という確信が持てません、だから、今「不足している、不足している」という形で求めるのです。でも、神さまの方はもう「的確に与え続けてくれている」と言ったらもう絶対に心配ないはずです。食べ物ひとつでも「必要な食べ物をずうっと永遠に与え続けてもらえるんだ」というんだったら「あれ欲しい、これ欲しい、あれ食べたい、これ食べたい」と言わないでも、目の前に与えてもらうものを受け続けたらいいだけなのです、本当はそうなのです。
だから、感謝し続けたら、神さまから与えてもらう必要なものは全部、的確に与え続けてもらっているのがよくわかってくるから、欲を出す必要がなくなります。「ありがとうございます」だけでずうっと行けるのです。そしたら別に、「五欲」とか「欲」という言葉を使わなくても、そういうことは必要なくなるから、囚われなくなってくるのです。
だから、その五欲と戦って勝っても意味がないのです。食事を絶って断食して、それで何があるのかと、何もないのです。骨皮筋衛門になって、ガリガリで貧相な姿をとっても、どこにも幸せひとつ見られません。だから、五欲と戦ってもマイナスなのです。それよりも「神さまから必要な幸せを受け続ける」というのが大事です。やっぱり神さまを相手に、しっかりと神さまからのプレゼントを受け続けなければなりません。
悟りを開くのでも、お釈迦さまが「苦行は悟りの因にあらず」と、苦行しても悟れない、とおっしゃっています。苦行しても悟りは得られません、逆に苦行を捨てて、神さまからのプレゼントをしっかり受けたら悟りが開けるのです。だから、プラスを一杯受けるのが大事なのです。
悟りも言葉通りに
-ありがとうございます-
そうしましたら、「悟り」というのは、段階がありましてですね、またそれが一瞬一瞬深まって行くというものなのでしょうか。それとも「悟り」というのは、一回「自分が本来悟っているんだ」ということを悟ると、それでいいものなんでしょうか、その辺のところをわかりやすく教えてください。
ありがとうございます:
それもいろいろです、はははは。ひとつの一定のものはありません。悟りも無限の段階があると言えばあるのです、言葉通りです。また「悟りは、本当はひとつしかない」と言えば、また言葉通りにひとつになってしまいます。
言葉を自由自在に使う自分の方がいいのです。悟りには無限の段階があって、順番に楽しみながら登って行くんだと言えば、それも楽しいのです。
でも、みんな最初から神さまと一体で悟っているんだからというその立場から出発して、それだけを持ち続けるのも、またいいことなのです。他にもいろんな考え方が、沢山あると思います。それはもう言葉通りに、すべて必要なものを与え続けてもらえるのですから、自由自在に言葉を使いこなせばいいのです。
だから、悟りにも無限の段階があるって言えばそうだし、悟りにも無限の種類があると言えばそうなのです。いろんな種類があってもいい、「これが悟りだ」というのが無限にあってもいいのです。それぐらい神さまはちゃんと用意してお膳立てしてくれているはずです。だから、神さまの与えようというプレゼントは、もう無限に無限に大きい、それを如何に上手に受けて楽しむかという、それだけが大事だと思います。
-ありがとうございます-
そしたら、過去に今日まで欲の心で買って来たものってありますね、家であったり、車であったり、そういうものはどうしたらいいのですか?
ありがとうございます:
過去の連続だと見ないで、「今、与えられた神さまのプレゼント」というふうに受け直せば、瞬間に置き換わります、同じものが神さまからのプレゼントに変わってしまいます。
それも一瞬一瞬、神さまの現われというふうに受けて、「神さまの愛の変身の姿」というふうに受けていると、神さまそのものに見えてきます。単なる物ではない神さまの光り輝いた、神さまの愛の塊みたいに見えてきたら、いつも神さまの中に自分が置かれているという感覚です。
だから、ぜんぶ大事なも物に見えてきます。でも、やっぱり「神さまの愛の姿」というふうに、言葉で確認して行くのがいいのです。そうするとその通りに感じられてきます。言葉で瞬間に変わってしまうのです。
-ありがとうございます-
じゃあ、もうひとついいですか。以前に、悟りを開く人というのは、お釈迦さまだとか、歴代でも何人もいらっしゃるわけですけども。例えばこの時代に入って二十一世紀という言い方でもいいと思うのですけども、本来悟っているということに気づく人と言いますか、要するにまた悟るということなのですけども、そういう人が以前よりもたくさん増えるということを、ある人から聞いたことがあるのですけども、その辺はどういうふうに考えたらいいんでしょう?
ありがとうございます:
「増える」と言ったら増えてきます、「ぜんぶが悟る」と言ったら、「ぜんぶが悟る」のです。だからやっぱり言葉通りにぜんぶ現実化してくるので、「既にみんな悟っているんだ」というふうに、「みんな悟っている」という言葉を使って行くと、自分の周りがぜんぶ悟った姿をとってきます。どんな言葉を使ってもその通りになるはずです。
-ありがとうございます-
ということは、今迄では「悟る」ということは、先ず百万人に一人ぐらいの確率しかないぐらいに思ってたのですけど、そういうことが逆に縛りに?
ありがとうございます:
難しくしてしまったのです、「修行しなければ悟れない」とか、そういう言葉の縛りで悟れなかったのです。だから「何もしなくても、何をしても悟れる」と言えば、自然にみんな悟った姿を現すのです。だから、大事なのはもう「既に悟っている」と、「神さまと一体なんだ」というそういう言葉を使い続けたら必ずなります、その通りに。やっぱり言葉通りに、思い通りに全部なるのです。
ただ、しつこく使い続けないといけない、他の言葉は使わずに、そういう自分の願う言葉を使えばいいのです。普通、ひとつのことを願いながら、その願う言葉を使ってなません、使い続けていないことが多いのです。逆にその反対の言葉を、回数多く使い過ぎるぐらい使っています。だから、願っていることとは別のことが実現するのです。そういうギャップ的なものを感じるのです。
ひとつの言葉を徹底して使い続けたら、それで結果がすっと出てくるのがよくわかります。その一番いいのが「ありがとうございます」の言葉を使い続けたら、大きい幸せを感じ取るのです。
-ありがとうございます-
使い続ける、ということに意味があるのですか?
ありがとうございます:
「言葉通りになる」のであれば、いい言葉を使い続けた方がいいのです。いいことを実現し続けられるという意味で。逆のマイナスの言葉を間に交えたら、マイナスも実現してくるので、困ります。だからいつも、一瞬一瞬、いい言葉を使い続けるという、一瞬一瞬、最高のものを受け続けるために必要なのです。だから「言葉で受け取る」というふうに考えた方がいいのです。使わなかったら何も受け取れません。
-ありがとうございます-
一瞬一瞬の連続だからですか。
ありがとうございます:
そうです、はい。今使った言葉で今新たに受け直して、次に何も唱えなかったら何も受けられません。
-ありがとうございます-
その一言でいけるとしたら、選択がなくなってしまう世界になってしまうのですか?
ありがとうございます:
一回で、もうそれがずうっと続くのだったら、あとの自由がないのです。神さまは一瞬一瞬新しいものを与えようと創り続けています、そしたら過去の同じものをずうっと持ち続けても、新しいのを受け損ないます。そういう意味でやっぱり一瞬一瞬、人の自由を発揮しないといけません。
-ありがとうございます-
今のことの確認みたいな話しなのですけども、人生は思い通りにはならない、思い通りにならないのが人生だという一方で。逆に、言葉でそれを言い続ければその言葉通りになるということ。
そうすると「思い」というものと「言葉」というものと、あきらかに違うということなのですけども、その辺のところを少し。
ありがとうございます:
同じことなのです、「言葉通り、思い通りになる」という、これはもう大原則です。ところが「思い通りにならない」という人がいたとしたら、その人は「思い通りにならない」と思っているのです、「思い通りにならない」と言っています。だから「言葉通りに、思い通りにならない」という状態が生まれるのです。そういうことも思い通りになっているのです。全部が言葉通りに思い通りになっているのです、必ずなっています。「思い通りにならない」というふうになっているのです。
-ありがとうございます-
そこで言葉を止めてしまうから、最初に思ったことがならないだけなのですか?
ありがとうございます:
いやいや、それは全部なっているのですが。
-ありがとうございます-
ああ、そうかそうか、一瞬一瞬。
ありがとうございます:
止めても止めた通りになってるし、思い続けたら思い続けた通りになっているのです。
子育て
-ありがとうございます-
子供を育てるのは、先生が言われたのは「守護霊さまや守護神さまが育てる」と言われたのですけど、そしたら肉体の親ができることというのはどういうことがあるのですか?
ありがとうございます:
そのお手伝いです、守護霊さま・守護神さまの手足になって動けたら一番理想です。必要な時に手足になって動けたらいいのです。その子供を育てるのに本当に必要なことは、もう極わずかなのです。赤ん坊でもそうです、お乳を飲ませるのもわずかな時間です。他の時間は自分の自由に使わないといけない、だから「本当に必要な時だけ」お手伝いをするのです。
-ありがとうございます-
その「本当に必要な時」いうのが、わからないというか。どういう時でしょうか?
ありがとうございます:
それが「ありがとうございます」を唱えていると、必要な時だけ、必要なだけ手足として使ってくれます。感謝していないと、親が心配したり、いろんな思いを出したりして、余計なことをし過ぎて、邪魔ばっかりするのです。「子供がいるから、自分は何もできない」と、何もしなかったり、子供のせいにしてしまうでしょう。
そうすると、本当だったら親が自由に何でも、いろんな良いこといっぱいして、能力を発揮して世の中に尽して徳をいっぱい積んでおかないといけないのに、子供のせいにして何もしなかったら、逆に子供にその大きい負担をかぶせてしまいます。子供にとったら、大きいマイナスを背負わされたのと同じになっていきます。だから、少々泣いてグズっても、それも「運動だ」と思って放っとけばいい、「腹筋を鍛えているんだ、内蔵を強くしているんだ」と、泣く時は泣かした方がいいのです。
本当に病気をしたり、怪我をしたりして、どこかが痛めば、それを治すようにいろいろ手助けをしなければならない時もあります。でも普通の泣いている時まで、一々そんなに構いに行ったらいけません。
やっぱり「何が必要か」というのを見抜く知恵というのは必要です。それで、過保護にし過ぎても駄目です、必要なだけを的確に与えるのが神さまの最高の育て方なのです。
だから、何か物を買い与えるのでも同じです。何かおもちゃでも与えたら「子供が喜ぶから」と思うのだけど、本当に必要かどうか考えたら、必要でない余計なものを与えている場合もあります。子供がちょっと喜ぶからとか言って与えたらいけないのです。本当に必要なものを見抜かないと。
無駄なものを与えたら、子供の徳を先に親が勝手に引き出したことになります。貯金を引き出して先に無駄遣いさせたことになります、将来、本当に必要なときに、それが手に入らなくなる可能性もあります。だから、もうできるだけ無駄遣いさせないように、必要なだけを与え続けるというのが一番理想なのです。それが「ありがとうございます」を唱えていると、守護霊さまが必要なことを的確にさせてくださいます。だから「ありがとうございます」と唱えているのが一番いい、後はもう自然に任せて、必要な時すっと動けるのがいいのです。
子供をいつも「危ないから」と監視していても、いつ危険がすっと迫るかわかりません。心配したら余計心配する出来事が起こります。でも感謝している人は、危ない時にすっとその場へ行って、すっと手助けをして助けるのです。普段、何にも考えていないのですが、必要な時にはすっと考えずにその場へ行っています。そういういきかたの方が自由でいいのです、自然なのです。
-ありがとうございます-
守護霊とか守護神というのは、一応目に見える、というかエネルギー体として多分存在していると思うのですけど、当然、声を掛けるとか、そういうことは口がないのですから無いと思うのですけど。その人間の本心と言いますか、心の深いところに意識に語りかけるというか、働きかけるというか、こちらを浄めていくと入りやすくなるというか、その辺のいきさつといいますか、少し・・
ありがとうございます:
本当の自分、神さまと一体の自分から見たら、ぜんぶ自分の中にあります、「守護霊さまも・守護神さまも」小さく自分の中に納まっています。それでその肉体の自分と守護霊さま・守護神さまの関係をどういうふうにするかですが、そのつなぎ方も、もう自由自在なのです、どんな方法でもとれるのです。
番組的に見たら、守護霊さまはかなり上のいい番組をいつも見ています、それでいて番組から抜け出して自由自在に他の番組に波長を合わせて、働きかけができるのです。この世という番組に波長を合わせて、この世の人に働きかける場合は、いろんな働きかけがあります。直接その人の心の中から、自分が中へ入り込んですっと良いものを与えてきたり、知恵でも力でも与えたりできます。また外から誰かを使ってアドバイスやヒントを与える時もあります、それはもう自由自在にするのです。番組の外へ抜け出して自由に波長を合わせられる守護霊さま・守護神さまにとったら、何でもそういうのは朝飯前です。
だから必要な助けはどこからでもくるのです。やっぱり中からも外からも、もうどこからでも与えてもらえるというのが本当です。でもそれが、本当の自分の中にぜんぶあるというのをはっきりさせていく方がいいのです。普段、あまり「肉体を自分」だと掴み過ぎています、小さく掴み過ぎるのです。「本当の自分は神さまと一体なのだから、ぜんぶ自分の中にある」という立場からもう一回大きく見直すと、小さい立場から見るのもそれも必要な時もあるのですけど、もうちょっと大きい立場から見るのも大事です、両方自由自在にする方が人生が楽しくなってきます。
神さまへの奉仕・心が神さまに向けばいい
-ありがとうございます-
そうしますと今みなさんが作業に出たりですね、帰ってきてからまた綱引きをしたりですね、非常に体も酷使しながら、酷使という言い方は良くないかも知れませんけども、目一杯働いてですね、そうすれば当然頭もわりと空っぽになりますし、非常にいい感じがするのですけども、この辺のところをやっていらっしゃる意図みたいなことを?
ありがとうございます:
みんな神さまへの奉仕は何のためにしてるかというと、過去にマイナスの言葉を使ったり、マイナスのことを思ったりして、心にそれを溜め込んでいる場合が多いのです。それを如何に早く消してもらうかが大事なのです。そのためには神さまにそれをぜんぶ預けていかないといけない、自分が持っていても消えません。「神さまに渡して行く・預けて行く」というのが、消してもらう一番のポイントになります。
その預け方、渡し方がいろんな方法があっても、やっぱり「神さまのために」という奉仕を通すとたくさん預けられます。その意味でどんどんそういう奉仕活動を一所懸命にしているうちに、たくさんのマイナス、要らないものを消してもらえるのです、そうすると感謝の中から新しいものを早く受け取れるようになります。
それもまあ、一人一人全部自由です、いろんな生き方をとっていいと思いますが、全力を出しきる方が沢山与えられます。「ちょっとだけ」というと、ちょっとだけしか引き受けてもらえないかも知れません、だから「自分は全力を神さまのために捧げ尽して、ぜんぶを受け取ってもらうためにしているんだ」という方がいいのです。本当は一回でぜんぶ受けとってもらえたら一番楽なのですが。
それでもなかなか渡しきれません、やっぱり、自分のものを掴んでしまっているからです。「これだけはまだ自分のものとして残して置こう」というところがあるのです、心の奥のどこかに。それも如何に上手に渡し続けられるかです。
ただ「神さまのために」と渡す時でも「もう要らないから、ゴミだからどうぞ消して」と言っても受け取ってくれません。人間同士でもそうです。人から自分の要らないものを捨てるものをもらって言っても「そんなもの必要ないから要らん」と言うでしょう。
でもその人が真心込めて、自分の一番大事なものを「もらって欲しい」ときたら、その気持ちが嬉しいから受け取ります。自分が「そんなつまらんもの」と思っていても、すっと受け取って「ありがとう」と言ってくれます。
それと同じです、神さまも真心を見いるのです。「神さまのために」という気持ちがやっぱり神さまにとったら嬉しい、それで「どんな大きいマイナスでも引き受けて消してあげよう」と、また「いいものを置き換えてあげよう」としてくれるのです。
お釈迦さまの話しで、「富者の万灯より貧者の一灯」という言葉が生まれているように、大金持はいくら万の灯ろうを寄進しても、あんまり価値がないらしいのです。貧しい人が一所懸命働いて、ひとつの灯籠を寄進したとすると、その灯火が消えずにずうっと続くんだという感じの話しで「富者の万灯より貧者の一灯」という言葉が生まれているのです。やっぱり真心がこもっています、その真心を受けてもらえます。
お金持ちにとったら、万の灯ろうを寄進しても自分のすべてではありません、ほんの一部かも知れない、だから真心がこもりません。自分の命も含めてぜんぶを捧げ尽すぐらいの気持ちが、一番神さまにとったら真心がこもっていると思うのです。そうすると「その人のすべてを、マイナスぜんぶでも引き受けて消してあげたい」と思えるのです。
-ありがとうございます-
ここへ奉仕活動をするというのが、一番そのマイナスを消してもらえるのですか?
ありがとうございます:
いや、別にここに限らなくてもいいのです。世の為人の為になることを、それぞれの場で「神さまのために」という気持ちでさせてもらっていたら、それが大きいいろいろなマイナスを引き受けて消してもらう方法なのです。ここはひとつの練習台みたいな場所ではあっても、それが最良かというとそうでもないのです。やっぱり一人一人の置かれた場で「神さまのお役に立ちたい」という気持ちで全力を尽して、世の為人の為になることをすることが一番いいのです。まあ、その練習の一環として、ここで一緒に遊んでくれるのがいい、まあ、ひとつの練習みたいなものです。でも形の方はもう自由自在です、何をさせてもらってもいいのです、ただ心の向きだけが、神さまに向けばいいのです。
神さまを忘れると貸し借りの関係
-ありがとうございます-
貸し借りについて、よく先生は言われるのですけど、例えば、体の不自由な方を街中で助けたとしたら、それは、こちらが貸して、向こうは借りを作った、ということになるのですか。それともお互いに感謝しながら、助けた方も「ありがとうございます」と言えば、それは貸し借りではなくなるのですか。それはどんな場合でもお金でも?
ありがとうございます:
「ありがとうございます」と神さまを通せばみんな貯金になってきます。「貸した」というよりも、無償で与えても自分の陰徳・貯金は増えます、だから相手に貸しを与えるんじゃなしに、ただ無償で与え尽していいのです。
-ありがとうございます-
与えられた方が借りを作った?
ありがとうございます:
いや「ありがとうございます」があれば神さまからの無償のプレゼントを受けたことになり、光だけを受けたことになります、だから人から借りたのではないのです。そういう時は「ありがとうございます」を通せばいいのです。
貸し借りはあまりいいことではありません、縛り合いになります。だから「ありがとうございます」を唱えて神さまを通さなかったら、人と人との貸し借りは、やっぱり縛りとして残ります。「その人には貸してあるから、今度は返してもらわなければ」となってきます。必ずそういう、まあ、直接でなくても間接的にでも返してもらうような姿をとらないといけないようになってきます。でも、貸し借りの無い方がいい、神さまからのプレゼントをいつもタダでもらう方がいいのです。
-ありがとうございます-
大きな幸せとか、自分で「嬉しいな」と思うことがあったとして、それが大きければ大きいほど、マイナスが増えるということはないのですか。何か代償を求めるからいけないとか?
ありがとうございます:
神さまから受け直したら、神さまからの無償のプレゼントというのは、受ければ受けるほどプラスが増えるのです。でも、神さまから受けるのでなかったら、もし、自分の心の中に「陰徳」という貯金があれば、その貯金を引き出して大きい幸せを現実化して行きます。もし貯金がなかったら、借金をしてするのです、そうするとマイナスが増えます。だから、いつも「自分の今の幸せが、いつも神さまから与えられている」と感謝して受けるのが一番いいのです、そしたらマイナスは一切ありません。神さまを忘れると、贅沢すればするほどマイナスを背負う可能性もあるります、貯金もなくなっていきます。
それは本当の自分の幸せか?
-ありがとうございます-
ちょっとよくわからないのですけど、私の周りに最近病気になった方が何人かいらして、間接的な知り合いだったりするのですけど、私の友達もそのことによって心配したりしますよね。でも心配というのはあまりいいことではないから、心配しなくていいって言ってたのですけど、何かその人が元気になるようなことを私にできるとしたら、「ありがとうございます」って言っていればいいんでしょうか?
ありがとうございます:
病気のある番組を自分が本当に見ていたいのか、健康の番組を見ていたいのかというのを自分が決めるのです。
やっぱり病気の姿を見て「可哀相に」と思ういきかたも悪いことじゃないかも知れませんが、自分が本当にそれを願っているのかどうかです。健康で幸せな姿の人ばかりを見たいのだったら、番組を変えるだけでいいのです。病気の姿を言葉にせずに、「みんな健康で幸せなんだ」というふうにプラスの言葉を使っていると、番組が健康な人の番組に変わるから、病気の人を見なくて済むようになります。
でも、病気の番組の中にはまり込んでその中でいくらあがいても、いろいろ働きかけて病気が治った姿を見ても、あまり大したことはありません、しんどい目をするだけです。
それもその人の言葉通り・願い通りに病気の人を治して満足したり、病気をお祈りで治してあげたからと言って自分が満足したり、そういうのは一応(番組としては)はあります。でも、それは本当の自分の幸せか、願いかと考えたら、それもどんどん変化するかも知れません。
それよりも最初から「無限健康の人ばっかり見ていたい」という「その方が幸せなんだ」というんだったら、「みんな無限健康なんだ」という言葉で、そういう番組に波長を合わせていけばいいのです。
体験談
-ありがとうございます-
「ありがとうございます」の実践編でたまたまここへもきている人なのですけれど、昨日も話しをしていたのですけど。一日に二万回ぐらい唱えているのですって、そしたら随分状況が変わってきて、それの一番具体的なことの現われが、今迄声も掛けたこともないような妹さんから「一千万台の家を買ってあげるから探しなさい」というような話しがあったと、妹さんはなんか社長をしてるらしいですけど「それも、それのあれだよね」と彼は言っているのですけど。要は「ありがとうございます」というと、例えば、ある時、心境が一変して、世の中のすべてがキラキラと輝いているとか、人が愛しくて愛しくてしょうがないとか、そういう経験もあると思うのですけれど、徐々に変わって行くということなのか、劇的に変わるということなのか、その辺の経験談をちょっと・・
ありがとうございます:
一人一人ぜんぶ違います。一人の人にとって劇的にパッと変わる時も、大きく変わる時もあり、徐々に変わる時もあるし、それはもう、もう自由自在に変化します。だから、全部それでいいのです。
白隠禅師でも「大悟七回」というのですが「小悟数知れず」ともいうのです。それと同じです、大きい変化の激動的な変化が大悟にあたります、まあそれは数えるほどしかありません。
小悟は、小さい気づき・悟りというのは無限にあり、そういうのは徐々に変化した姿をとっています。だから一人一人ぜんぶそういう大きく変わったり、徐々に変わったり、いろんな姿を見せてもらいながら、気づきがどんどん増えて行っています。神さまとの一体感がどんどん深まって行っているのです。