真祈り文庫
2001年6月24日・1
一日で最高の悟りを得たようなものです
-ありがとうございます-
普通、こういう場合皆、自分から話をするでしょう。でも、先生は受けるだけですね。昨日私はずうっと考えたのですが、「すべてを受ける。自分から何にもしない」ということに気づいた。昨夜、私はこう宣言したのです「こういうことなんだ」と。
同席者:
・・すごい答えだ!・・
-ありがとうございます-
この講演会だけでなく、この質問会もまた、「すべて受けて、消費する。そして、感謝する。それだけですべてOKなんだ」そういうことを私は昨夜一日で、悟った。(会場大笑い)
同席者:
・・すごい悟りだな!・・
-ありがとうございます-
ということは、講演なんかする必要ないんだ。来た人に「ありがとう」と言っていればいいんだと思ったのですが、本当にそれでいいのでしょうか?
ありがとうございます:
はい。(会場さらに大笑い)
一日で最高の悟りを得たようなものです。ではもう質問はなくなりましたか?
-ありがとうございます-
いいえ、遠慮しているのですが・・・実は質問するって何だろうかと思っているのですが?質問するということは「疑いをもっている」ということでしょう。そこです、それをお聞きしたいのです。
ありがとうございます:
質問もいろいろな種類があるのです。人を試すような質問とか、また人の欠点をあばきだすような質問とか、そういう人をマイナスにおとしいれる質問はしない方がいい。だから、神さまからどれだけプラスをいただくかということですから、言ってみればプラスを知る質問がいい。
神さまの御心は無限に奥深いですから、神さまの御心を深く知れば知るほど大きな幸せをもらえるので、神さまの心を知る質問はなんぼしてもいいはずなのです。
また、質問することによって、自分の中から湧いてくるものが本物がどうか確認できるのです。しっかり確かめながら前に進むというのもいいのです。
静かに座るだけで神さまを感じる
-ありがとうございます-
神を知ることは自分を知ることと同じことなのですか?
(同じことです。)
では、静かに瞑想して、自分の中にほとんど答えがあると思っていいのですか?
ありがとうございます:
そうです。ただ、静かに座るだけで神さまを感じるというのもひとつの生き方ですけれど、動きながら、働きながら、躍動しながら、その中に神さまを感じる生き方もあるのです。だから、神さまを感じる自由自在なものがいい。大自然の姿を眺めて静かに座っている岩のような姿もあるし、大激流のように激しく動いている姿もある。それは全部神さまの働きの動きなのです。
-ありがとうございます-
・・自由自在がいいのですね。・・・
ありがとうございます:
その方がいいのです。
神さまは絶対に人の自由を縛り
-ありがとうございます-
僕たちは無限のチャンネルを見るために、送りだされてきましたよね。その送り出したのは、神さまがもっといろいろな体験をしたいためなのでしょうか?
ありがとうございます:
神さまは絶対に人の自由を縛りたくないのです。自由を縛らずに大きな幸せを感じとってほしい。無限の無限のチャンネルをまず用意しておいて、すべてを尽くした表現を用意しておく。そして、人間の自由意志で、いろいろな番組を味わってきて、謙虚な心になり、そこから最高の番組を味わえるようになってほしい。それが一番大きい幸せになりプラスです。だから、人の大きな幸せが神さまの本当の喜びでもあるのです。人の喜びを神さまの自分の喜びとして大きく取り込んでいく。そしてどんどん大きな幸せに変えていってくれるのです。
神さまと交流すれば、すべて神さまの現れ
-ありがとうございます-
神さまと一体の世界と、人とコミュニケーションする上で、うまく交流するためにはどうしたらいいのでしょうか?
ある場面場面で、その次元を変えていくにはどのような方法がいいのでしょうか?
ありがとうございます:
まず、神さまと交流すれば、すべて神さまの現れとして受けられます。すべて一体化になってしまう、ひとつの生き方になってしまう。でも、この世の人と交流しながら、神さまと交流することと二つに別れますよね。
まず、この世の交流を棄ててしまう。いったん棄ててから、先に神さまの交流を済ませてから、この世を神さまの現れと受けて、それを現実の交流に置き換えていくのです。
掴んだものだけが自分のものになるのです
-ありがとうございます-
もともと自分とはないということですよね。
ありがとうございます:
そう本当はね。ところが、掴んだものだけが自分のものになるのです。それをさらさらと流していたら、ただ眺めている自分だけがあるというのは、形ではないのです。神さまから与えられた意識がそこに、神さまを受け入れているだけなのです。普通、自分というものを掴んだままで、神さまからどんなに大きなものを受けても、自分の心に入る器だけしか受けられない、神さまが全部入ってこないのです。
ところが、自分というものを、神さまのところに投げ入れると、自分が消えるのです。そしてそれが大きく神さまの中で拡がるのです。すると大きい神さまを実感できる。だから、小さい自分という器を消してもらう方がいいのです。
-ありがとうございます-
ずうっと神さまのところに入っていればいい、出ない方がいいのです。神さまと一体となっていたら、現実の人とうまく交流できなくなります。
例えば、私は一生飯を食べなくてもいいと言ったら、普通馬鹿と思われる。現実にもどってみると、やはりご飯を食べるのですね。このギャップがどうもうまくできないのです。
ずっと神さまと一体となっていればいいのか、それとも人間にもどった方がいいのか、それとも神さまの方へ行きっぱなしというのも問題あるような気がする。
ありがとうございます:
神さまの世界とこの世の世界と二つに分けてみると、神さまの方に行ったらこの世がおろそかになるし、この世に心を向けたら、神さまの世界がおろそかになる。これは矛盾します。
-ありがとうございます-
だったら、行ったままでいいでしょうか?
ありがとうございます:
180度方向を変えるのではなく、360度方向を変えなくてはだめです。神さまの方へ向いてくるっと、もう一回もどってくる。360度回転すると、今までみていた現実が、神さまから与えられた現実に置き換わります。
行ったままではだめなので、空というのは神さまをお迎えして、神さまに捧げ尽くして、神さまを取り込むことでしょう。今度は神さまから現実におろしてもらって、それを受けきるのです。ちょうど360度置き換わって、古いものが消えて、新しい世界がでてきます。
-ありがとうございます-
そうか、新陳代謝ですね。
ありがとうございます:
そうそう。それも一瞬一瞬眺めていけると、過去にどんなに嫌なマイナスな人が目の前に現れても、それは過去の話で消えた、神さまのおかげで消してもらったから。今度一瞬に新たに出てくる人は過去の人とは無関係の神さまの現れとして、プラスばっかりと人として受けられます。
-ありがとうございます-
一瞬一瞬回転していけばいいのですね。
ありがとうございます:
そうそう。
-ありがとうございます-
・・・そうか、これで二度悟ってしまった。くるっと回転させるためには、ありがとうございますとずっと言っていればいいわけですね。
ありがとうございます:
そうそう。ありがとうございますと言っていると、くるっと神さまが回転させてくださいます。古いものを引き取り、消して、新しいものと置き換えさせてくださる。だから、いつも神さまの現れとみていけるのです。
)神さまが必要な特訓を与えてくださっている
-ありがとうございます-
プリントの中に「高い能力」と書いてありますが、それをどう訓練するのですか?
ありがとうございます:
(笑い)神さまが必要な特訓を与えてくださっているはずです。日常生活の中で、仕事もそうです。それを感謝しながら、神さまの力を頂きながら、みんなの幸せのためにと、最高の仕事をさせてもらうのです。
仕事でも、納期がある場合、できるだけ早くすれば喜んでもらえます。約束から遅れたら嫌でしょう。三日でしてほしいと言われたら一日でしてあげたらサービスがいいでしょう。そういった意味でいろいろな能力を高めていかないと、そういう能力を高めるためには神さまの助けを受けないとできないのです。
自分から出てくる能力もそうだし、また周りから応援してくれる力もそうで、全体が高い能力になるのです。神さまの助けというのは、自分の肉体だけでなしに、まわりの全部から応援がくるのです。
そういう意味で、感謝しながら、神さまの助けを受けいれようとして、そして、みんなの幸せのためという気持ちでいろいろさせていただいたら、自然に能力が高まってくるのです。これも自然がいい、能力だけのために、別な仕事をしたり、勉強しながら、信じなければというわけではないのです。与えられた仕事の中だけで能力が高められるようになっていきます。それが一番必要です。勉強の場です。
-ありがとうございます-
神さまに護ってもらうためには、 一.全責任を持つ 二.全力を出しつくす 三.真剣になる 四.行き届く 五.謙虚になる 六.素直になる 七.全体に気を配る 八.恩返しの心をもつ 九.感謝を深める ・・しんどいな、これ・・
ありがとうございます:
まだまだたくさんあります。でも、感謝ひとつでいいのです。感謝ひとつに全部中にあります。ただたくさん並べると確認できるでしょう。感謝の中に全部含まれています。枝葉に囚われないほうがいい、根本のひとつだけに力をいれればいいのです。あとはその中に全部あるというように確認すればいいのです。
-ありがとうございます-
何をするにも「ありがとうございます」でいいということですか?
ありがとうございます:
そうです。
「南無阿弥陀仏」と「ありがとうございます」ですが
-ありがとうございます-
昔から、「南無阿弥陀仏」「南無妙法蓮華経」「世界人類が平和でありますように」そして、今「ありがとうございます」がありますが、歴史的にみて、それぞれがどんな意味あいがあったのでしょうか? ひょっとして同じ意味合いではないでしょうか?
ありがとうございます:
「南無阿弥陀仏」と「ありがとうございます」ですが、それは「阿弥陀さま」をどうとらえるかです。阿弥陀さまはいうてみれば、過去に修行して悟りを開いた阿弥陀さまとしたら、小さい。
本当の神さまは修行も何もしない、最初から無限に無限に輝いています。だからその中には、修行して悟った阿弥陀さまを無限の無限の中にもっています。だから阿弥陀さまの捉え方で、説明の仕方がちょっと変わるのです。
普通は「南無阿弥陀仏」を唱えるときは、長い無限の年月の間修行して悟ったという阿弥陀さまがみんなに苦労させたくないという意味で、苦労せずに悟りの境地に導き上げようという働きとして、阿弥陀さまがいらっしゃるとみるわけです。だから、ふつう阿弥陀さまと同じような自力の修行は不可能です。一万年でも大変です、一億年だと、気が遠くなるし、さらに無限億万年というたら、もう不可能です。
だから、自力の修行では悟れないと気づいた人が他力にすがるのです。それで、「南無阿弥陀仏」と阿弥陀さまにすがって助けてもらうのです。でもその場合、救う側と救われる側とが分かれてしまいます。分かれているのをぴたっとひっつけるには条件があります。
「南無阿弥陀仏」で救われるには三つの条件で、至誠心・深心・回向発願心という三つがいるということ。至誠心というのは、真剣な心と言ったらいいでしょう。深心というのは阿弥陀
-ありがとうございます-
「ありがとうございます」を唱となえるときに、「無む限げんの無む限げんの幸しあわせ」とかというものを、間あいだにはさむのですか。
ありがとうございます:
別べつに言こと葉ばを出ださなくてもいいのです。だんだんとその意い味みが深ふかくわかってくるようになってきます。
-ありがとうございます-
天あま照てらす大おお御み神かみ今いまおわしますという言こと葉ばもいいですか。
ありがとうございます:
別べつに言いわなくてもいいのです。
-ありがとうございます-
それを感かんじるように、ただ「ありがとうございます」のみでいいのですか。
ありがとうございます:
そうです、別べつな言こと葉ばに変かえたら、そういう意い味みもあるということです。「ありがとうございます」の方ほうがいい、その方ほうが最さい高こうの言こと葉ばです。天あま照てらす大おお御み神かみというと、神しん道とう系けいの人ひとは受うけ入いれられますが、その他ほかは受うけ入いれられないでしょう。だから、すべてには通つう用ようしないのです。
-ありがとうございます-
ここで瞑めい想そうをしていますが、ここではどんな瞑めい想そうがいいというものがあるのですか?
(ないです、まったくないです。)
極きょく端たんにいえば、足あしを投なげ出だしながらでも・・
ありがとうございます:
いいです、横よこになって寝ねていてもいい。
-ありがとうございます-
本ほんでは丹たん田でん呼こ吸きゅう法ほうとかありましたが、あれは、そういう形けい式しきにはこだわらなくていいのですか?
ありがとうございます:
本ほん当とうはこだわらなくていいのです。
-ありがとうございます-
瞑めい想そうの中なかで、「ありがとうございます」と唱となえながら、たまに「無む限げんの無む限げんの」という言こと葉ばをイメージして頑がん張ばらなくては、というものがあるのですか?
ありがとうございます:
ない!
-ありがとうございます-
ただただ、それだけということ?
ありがとうございます:
そうです、ただ、自じ分ぶんひとりでお祈いのりしているときはやっぱり一ひと人りというのは真しん剣けんさが必ひつ要ようなのです、だらけると負まけてしまう、マイナスの思おもいに。そういう意い味みではお祈いのりも、丹たん田でん呼こ吸きゅうで、姿し勢せいを正ただして心こころも真しん剣けんになるようなそういう祈いのり方かたの練れん習しゅうもいいのです。
でもこうして大おお勢ぜい集あつまると、祈いのりは相そう乗じょう効こう果かが起おこるのです。二ふた人りだとににんが四よん倍ばい、三さん人にんだとさざんが九きゅう倍ばいというように大おお勢ぜいだとそこにものすごい力ちからが降おりてくるようになる。そうすると、自じ分ぶんはいいかげんな祈いのり方かたをしていても、まわりのお祈いのりが大おおきいから、大おおきいその中なかに吸すい込こまれていくのです。
-ありがとうございます-
「ありがとうございます」と唱となえていても、意い識しきが他たに飛とんでいくことがあります。一いっ生しょう懸けん命めいやるという意い味みは、意い識しきがとばないようにという意い味みなのですか。・・・
ありがとうございます:
一いっ生しょう懸けん命めいというのは、今いまの一いっ瞬しゅんにすべてを込こめるという意い味みです。
-ありがとうございます-
でも、すぐ意い識しきが他たのことを考かんがえてしまいます。・・・
ありがとうございます:
そうです、飛とびます。飛とんだらまたもどって、今いまの一いっ瞬しゅんにまた気き持もちを注そそぎ込こむのです。
-ありがとうございます-
一いっ生しょう懸けん命めいやっているとそういうことができるということなのですか。・・・
ありがとうございます:
そうです、だんだんと上じょう手ずにできるようになります。一いっ点てん集しゅう中ちゅう、集しゅう中ちゅう力りょくが高たかまってきます。ただ自じ分ぶんひとりのときはそうですが、大おお勢ぜいでそれをしているときはそういうことも考かんがえることも必ひつ要ようなくなります。
-ありがとうございます-
命いのちがけとか、一いっ生しょう懸けん命めいとかいうと、恐こわいような気き分ぶんですが。・・・
ありがとうございます:
そう恐こわい恐こわい!!神かみさまを呼よぶときは真しん剣けんさがいるのです。本ほん気きで呼よんでいるかどうか神かみさまは確たしかめたいのです。その時ときに真しん剣けんさがあったときに、神かみさまがすっと、人ひとの自じ由ゆうを縛しばらずに助たすけに来これるからと。だから、一ひと人りのときは真しん剣けんさを出ださないと神かみさまに認みとめてもらえない場ば合あいがあります。でも大おお勢ぜいだと誰だれかが真しん剣けんに呼よんでいます。だから神かみさまはみんな助たすけようかということになれる。こういう大おお勢ぜいの場ばだと大おおきな神かみさまの助たすけがすうっと自し然ぜんに降おりてくるから、いいかげんに祈いのっても大だい丈じょう夫ぶ!
一ひと人りだけ真しん剣けんな人ひとがいたらいい。地ち球きゅうを平へい和わにするにしても、一ひと人り本ほん当とうに真しん剣けんに平へい和わを願ねがって神かみさまの助たすけを必ひつ要ようとしていたら、絶ぜっ対たい神かみさまの助たすけが降おりてきます。一ひと人りさえいたらいい、本ほん当とうは。それがだんだんと多おおくになれば早はやくなるというだけ。
だからお祈いのりの中なかはちょうどいい人ひとがいて、空くう間かん的てきに距きょ離りが離はなれていても、心こころのつながりさえあればいいのです。本ほん当とうの意い味みで心こころのネットワークです。これが本ほん当とうにできあがったら、自じ分ぶんが祈いのれないときは、まわりの人ひとが全ぜん部ぶ祈いのって、光ひかりを届とどけてくれる。常つねにネットワークの中なかを光ひかりが通とおり抜ぬけていきます。
だから、今いまからの時じ代だいは、本ほん当とうの意い味みでの心こころのネットワークづくりが必ひつ要ようになっていく。今いままでの救きゅう済さいの仕し方かたは一いっ本ぽん釣づりなのです、みんな、真しん剣けんになった人ひとを神かみさまは救すくい上あげてきた。今こん度どは網あみで救すくわねば、一いち網もう打だ尽じんという方ほう法ほうで。それで、心こころのネットワークという祈いのりの網あみを作つくっているのです。そこで、ごそーっと救すくいあげる、みんなを高たかみに上あげるのです。
四しにも、五ごにも六ろくにも「ありがとうございます」
-ありがとうございます-
一いちにも二ににも三さんにもありがとうございますだと思おもいますが、四よん番ばん目めには?
ありがとうございます:
四しにも、五ごにも六ろくにも「ありがとうございます」
-ありがとうございます-
十じゅう番ばん目めは?
ありがとうございます:
十じゅう番ばん目めもそう。これはすばらしい質しつ問もんです。
-ありがとうございます-
「おかげさまで」とか、「もったいない」という言こと葉ばはどうですか?十じゅう番ばん目めあたりには?
ありがとうございます:
そうね、でも「ありがとうございます」のなかに全ぜん部ぶ入はいっているのです。「おかげさまで」というのは、みんなの背はい後ごで働はたらく、目めに見みえない不ふ可か思し議ぎな大おおきな力ちからでという意い味みです。本ほん当とうの神かみさまが働はたらいているという意い味みです。「おかげさまで」は陰かげで働はたらく大おおきい力ちからをさしています。
だから、表ひょう面めんの人ひとが何なにかしているのではない。バックの神かみさまが人ひとを通とおして大おおきく働はたらいてくださっているというのが「おかげさま」です。本ほん当とうは「おかげさまで」というのは神かみさまへの感かん謝しゃです。
また「もったいない」というのは、単たんなるもの=物ぶっ体たいではないという意い味みです。ある意い味みで、普ふ通つう物ものと見みるでしょう、肉にく体たいとか物ぶっ体たいとかいうように。神かみさまの命いのちそのもの、光ひかりそのもの、神かみさまの現あらわれなんだという意い味みです。だから、神かみさまをしっかりと認みとめることが「もったいない」です。
-ありがとうございます-
そういうことはもっともっと言いっていただけるといいのですが!
ありがとうございます:
だから「ありがとうございます」という言こと葉ばに全ぜん部ぶ入はいっています。「おかげさま」も、「もったいない」も、全ぜん部ぶ入はいっています。だから、「ありがとうございます」だけで充じゅう分ぶんなのです、全ぜん部ぶ。
-ありがとうございます-
でも、「ありがとうございます」だけでは、世よの中なか通つう用ようしないのでは?
ありがとうございます:
通つう用ようするのです。
-ありがとうございます-
たまには「おかげさまで」とか「もったいない」とか、いうのが変へん化かがあっていいので、いつも「ありがとうございます」だけだと、あなたちょっと「逝いってしまったのでは」と言いわれてしまいます。ここでは通つう用ようしますけど、一いっ歩ぽ山やまを下おりればちょっとそうはいかないでしょう。
ありがとうございます:
そう、ちょっと光ひかりが強つよすぎるです。そうね、場ば所しょによってはいいかもね。
-ありがとうございます-
ですから、言こと葉ばをもう少すこし増ふやしていただきたいのです。
ありがとうございます:
プラスの言こと葉ばはみんないいのです、褒ほめ言こと葉ばがいい、褒ほめ言こと葉ばをいっぱい使つかうことが、「ありがとうございます」の付ふ随ずい的てきな働はたらきをするのです。褒ほめて、感かん謝しゃして、喜よろこぶというのが、神かみさまの御み心こころを本ほん当とうに受うける大おおきい働はたらきなのです。
-ありがとうございます-
褒ほめるというとどういう言こと葉ばがありますか。・・・
ありがとうございます:
「無む限げんに無む限げんにすばらしい」とかね。
-ありがとうございます-
無む限げんに無む限げんにというとはあまり一いっ般ぱんには通つう用ようしないのでは?
ありがとうございます:
無む限げんに、だけにしますか。それでも大おおきすぎますか。
-ありがとうございます-
それを少すこし変かえてほしいのですが!
ありがとうございます:
私わたくしの言こと葉ばよりも、辞じ書しょを開ひらいて、プラスの言こと葉ばを全ぜん部ぶ拾ひろい上あげて使つかわれればいいのです。プラスの言こと葉ばというのは大おおきな力ちからがあるのです、辞じ書しょにいっぱいあるでしょう。その時ときその時とき自じ分ぶんの好このみの言こと葉ばを、プラスの言こと葉ばを使つかわれたらいいのです。
-ありがとうございます-
そこで「プラスとは何なにか」なのですが、プラスとマイナスの境さかい目めが何なにかなのです。
ありがとうございます:
プラスとマイナスの違ちがいなのですが、プラスの方ほうが力ちからがあるのです。積せっ極きょく的てきな、そう、光ひかりと闇やみのようなもので、プラスが出でたらマイナスが消きえるのです。プラスを引ひっ込こめたらマイナスが出でてくる。ちょうど光ひかりを消けしたら、闇やみが拡ひろがってくるというように。だからプラスを積せっ極きょく的てきに使つかえばマイナスが消きえてなくなるのです。そういう生いき方かたが一いち番ばんいいのです。
悲かなしい思おもいがあったとするでしょう。もし、喜よろこび続つづけたら悲かなしみは消きえるのです。喜よろこぶ方ほうを積せっ極きょく的てきに前まえに進すすめたら、悲かなしみは自し然ぜんに消きえるのです。怠なまけ心ごころが出でてきたら、前まえ向むきに勤きん勉べんに進すすめばいいだけのことなのです。そうすると、前まえ向むきに生いきていると、怠なまけ心ごころが自し然ぜんに消きえていくのです。ちょうど光ひかりが出でれば闇やみが消きえる感かんじですね。プラスの言こと葉ばは力ちからがある言こと葉ばなのです。ただそれを前まえに出だせばいいのです。
心こころを思おもい通どおりに支し配はいするのは、なかなか大たい変へんなので。ころころと変へん化かする心こころを、ただ言こと葉ばさえ支し配はいすれば、言こと葉ばさえ選えらべば心こころはあとについてくる。だから心こころの中ちゅう心しん核かくが言こと葉ばです。だから、いい言こと葉ばを選えらび続つづけたら、いい心こころの状じょう態たいにずうっと整ととのえることができます。
-ありがとうございます-
「ありがとうございます」の次つぎは・・・
(笑わらい)会かい場じょうから、「おめでとうございます」という声こえ
-ありがとうございます-
そうか、「おめでとうございます」は?・・・
ありがとうございます:
いつも正しょう月がつと盆ぼんです。
それはもう「ありがとうございます」だけです
-ありがとうございます-
既すでに私わたくしたちが悟さとっていて、尚なお且かつ、神かみとつながっている状じょう態たいだとするならば。更さらにそれを自じ分ぶんの中なかに自じ覚かくするために、実じっ践せんしていかなければならないことがあると思おもうのですが。例たとえば「神かみとつながると決けっ心しんする」とか「継けい続ぞくして思おもい続つづけること」とか「二に十じゅう四よ時じ間かん祈いのり続つづけること」だとか、何なにかそういったことがあるかと思おもうのですが。先せん生せいが今いまなさっていることがあるとすれば、教おしえていただきたいのですが。
ありがとうございます:
それはもう「ありがとうございます」だけです。
-ありがとうございます-
ということは、二に十じゅう四よ時じ間かん祈いのり続つづけていらっしゃるのですか。
ありがとうございます:
そう、はい。
-ありがとうございます-
特とく別べつ気き取どって決けっ心しんすることもなければ、継けい続ぞくしようという強つよい意い識しきではなくて、ごく自し然ぜん体たいで「ありがとうございます」ですか。
ありがとうございます:
そう、今いまの一いっ瞬しゅん、今いまの一いっ瞬しゅん「ありがとうございます」で受うけ直なおしをするだけです。そうしたら次つぎの瞬しゅん間かんも、それをせずにおれなくなっています。だから、一いっ瞬しゅん一いっ瞬しゅんが「ありがとうございます」を連れん続ぞくするように自し然ぜんになってしまうのです。
、普ふ通つう「謙けん虚きょになる」というと
-ありがとうございます-
「ありがとうございます」の言こと葉ばを祈いのり続つづけると、自じ分ぶん自じ身しんが凄すごく謙けん虚きょになっている自じ分ぶんに気き付づけることがあるのです。先せん生せいのお話はなしを聞きいてると、謙けん虚きょさがひしひしと感かんじられるのですけど、この言こと葉ばの中なかにそういった気き付づきがすごくあるようにおもいます。
ありがとうございます:
あるのです、普ふ通つう「謙けん虚きょになる」というと、謙けん虚きょになるためにいろんな苦く労ろうをして、マイナスに落おちて自じ分ぶんを下したに置おかないと、と思おもうのですけど。それもひとつの謙けん虚きょになる方ほう法ほうのひとつでもあるのですが。
でも「ありがとうございます」を深ふかめていくと、その中なかに無む限げんの無む限げんの謙けん虚きょが既すでにあるのです。苦く労ろうせずに謙けん虚きょになれる、謙けん虚きょな心こころにしてもらえるのです。その方ほうはまた凄すごいことなのです。だから、地じ獄ごくに落おちて苦くるしまないと謙けん虚きょになれないかというとそうじゃない、感かん謝しゃをしているうちに、地じ獄ごくに落おちて謙けん虚きょになる以い上じょうの謙けん虚きょさが与あたえられるのです。
心こころの修しゅう養ようも「純じゅん修しゅう養よう」と「逆ぎゃく修しゅう養よう」
-ありがとうございます-
何なにかを学まなばなければいけないとか、と気き取どってしまうと、きついなにかが来こなければ気き付づけないというふうに思おもっちゃうのですが。もっと軽かるく気き付づくことを楽たのしみながら、喜よろこびながら喜よろこびの中なかで気き付づいていくことの方ほうがいいのですね?
ありがとうございます:
いいのです、はい。
-ありがとうございます-
それも自じ分ぶんの心こころの持もち方かたですよね。遊あそびだととらえれば遊あそびの人じん生せいになるでしょうし、喜よろこびに満みちた人じん生せいになるでしょうし。ねばならない、きつい体たい験けんがなければ悟さとれないと考かんがえれば、その人じん生せいになるかなと思おもうのですが。そうするともっともっと軽かろやかに縛しばりのない人じん生せいになって、そして悲かなしみを得えて悟さとるんじゃなくて、喜よろこびの中なかから深ふかい気きづきをいただけるというほうがいいなという感かんじです。
ありがとうございます:
本ほん当とうにそうです。だから、その心こころの修しゅう養ようも「純じゅん修しゅう養よう」と「逆ぎゃく修しゅう養よう」の二に通とおりあるのです。
「純じゅん修しゅう養よう」の方ほうは苦くるしみなしに心こころが高たかまっていく。でも、そのためには「ありがとうございます」という感かん謝しゃの心こころを積つみ重かさねて、神かみさまの力ちからでどんどん高たかめ上あげてもらうのが一いち番ばんいいのです。ところが感かん謝しゃを拒きょ絶ぜつする場ば合あいがあるでしょう。そういう時ときはやっぱり「逆ぎゃく修しゅう養よう」をさせてもらわないと、心こころが立りっ派ぱになれない。それで七しち難なん八はっ苦くが出でてきたりするのです。
「感かん謝しゃする」というのは、心こころの目めがどんどん開ひらいて
-ありがとうございます-
日ひ々びの生せい活かつを見みていますと、していただいて当あたり前まえの世せ界かいになっていますし、なんでも当あたり前まえと受うけ取とってしまいますから、感かん謝しゃがどんどん消きえて、感かん動どうがなくなって人じん生せいがつまらなくなってしまいます。
その反はん対たいになった時ときに、本ほん当とうにちっちゃなものの喜よろこびとか、豊ゆたかかさだとかを感かんじてくると、人じん生せいがどんどん楽たのしくなるのですね。
ありがとうございます:
本ほん当とうに、だから「感かん謝しゃする」というのは、心こころの目めがどんどん開ひらいて世せ界かいがどんどん広ひろがるのです、気き付づきが無む限げんに無む限げんに大おおきく殖ふえてくるのです。感かん謝しゃがないとやっぱり心こころの目めが開ひらかない、気き付づきがどんどん少すくなくなります。それで手て探さぐりで気き付づこうとするのですけど、やっぱり無む理りなのです。
だから、やさしい方ほう法ほうがいいか、難むづかしい方ほう法ほうがいいか、この「ありがとうございます」は一いち番ばんやさしい方ほう法ほうです。
-ありがとうございます-
一いち番ばんやさしくて、一いち番ばんやりやすくて、とてもいいことだと思おもいます。
そういう事じ態たいにならないように普ふ段だんから
-ありがとうございます-
昔むかし、イエス・キリストさまを殺ころそうとする瞬しゅん間かん「ありがとうございます」と言いえるかなという感かんじなんですけど。どんな感かんじで受うけたらいいでしょうか。
ありがとうございます:
昨日きのうもちょっと言いいましたけど、そういう事じ態たいにならないように普ふ段だんから「ありがとうございます」を言いっていると、そういう場ば面めんに遭そう遇ぐうしないのです。
-ありがとうございます-
いや、だからイエスの場ば合あいは「右みぎの頬ほおを打うたれれば左ひだりの頬ほおを」と言いうじゃあないですか、とてもカッコいいじゃないですか。
ありがとうございます:
カッコいいね、あっはははは。
-ありがとうございます-
だから、もしそのようなことがあった場ば合あいに――
ありがとうございます:
あのストーリーの中なかでは最さい高こうの主しゅ役やくです。
-ありがとうございます-
カッコいいですよね、‥‥。
ありがとうございます:
そういう番ばん組ぐみではカッコいいですけど、みんながいい人ひとばっかし、みんな悟さとった人ひとばっかしという番ばん組ぐみもいいですよ。
-ありがとうございます-
そういう設せっ定ていだったらどう動うごくんだろう、という興きょう味みがある。
ありがとうございます:
それは、動うごかないです。「ありがとうございます」とお祈いのりする限かぎりは、みんなもう悟さとってるのです、「みんな神かみさまなんだ」という受うけ方かたですから。もうぜんぜん(不明)さない、もうナイフを持もって来きてもね、「ああ、これ冗じょう談だんで真ま似ねしてるな」というぐらいです。冗じょう談だんでそういう真ま似ねをしてくれているぐらいに見みえる、それでその通とおりになってしまいます、あっははは。
本ほん当とうはもう瞬しゅん間かんに場ば面めんが置おき換かわります。矢やがいっぱい射いられたとしてもみんな花はなびらに変かわります、変へん身しんします。
-ありがとうございます-
そうなる意い識しきはもの凄すごいですね。そこなのです。ぜんぜん働はたらかなくても生いきていけるというのは僕ぼくは不ふ思し議ぎなのです。何なにかあっても矢やが花はなびらに変かわってしまうという、そういう意い識しきを私わたくしは持もてない。どうやったら持もてるか、その自じ信しんをね。
ありがとうございます:
これは「ありがとうございます」を積つみ重かさねたら、もうそういう心こころに変かえられてしまうのです。マイナスは一いっ切さいない。
-ありがとうございます-
自じ分ぶんは変かわるけど、相あい手ても変へんわちゃうのですか。
ありがとうございます:
もう、マイナスは何なにもないのです。
-ありがとうございます-
自じ分ぶんは変かわりますよ、相あい手ても変かわっちゃうのですか。
ありがとうございます:
だから、自じ分ぶんも含ふくめて、周まわりも全ぜん部ぶプラスばっかしなのです。どこにマイナスがあるのかという感かん覚かくです。
-ありがとうございます-
自じ分ぶんはわかるのですよ。自じ分ぶんの中なかで、例たとえば、世よの中なかいろいろバーンといろいろ来きますけど、周まわりも自し然ぜんと変かわってくるということですか。絶ぜっ対たいそういうのは起おこらないということですか。「ありがとうございます」を言いってれば、殺ころされるようなことはない。
ありがとうございます:
「ありがとうございます」を唱となえ続つづけてる限かぎりは、プラスの番ばん組ぐみだけに波は長ちょうが合あうから。現げん実じつにもプラスばっかし、絶ぜっ対たい困こまることないです、はははは。
-ありがとうございます-
そこが私わたくしにはわからない。じゃあ、軍ぐん備びってある必ひつ要ようないでしょう。
ありがとうございます:
本ほん当とうの軍ぐん備びって持もたない。神かみさまの本ほん当とうの権けん威いがそこにあったら、誰だれも戦せん争そうは起おこさない。神かみさまの愛あいの力ちからがパッと降おりたら、人ひとの心こころがぜんぶ愛あいの心こころになってしまう。そしたら戦せん争そうどころか喧けん嘩かひとつせんでしょう。そしたら軍ぐん備びなんか要いらないです。
だから、「ありがとうございます」と感かん謝しゃすることは、神かみさまの最さい高こうを降おろすことです、現げん実じつ化かすることなんです。争あらそいも何なにも消きえてしまいます。最さい高こうの軍ぐん備びですよ、これは、あはははは。
国くにと国くにとの争あらそいでも、ひとつの国くにが絶ぜっ対たい争あらそわない心こころを持もって、何なにをされても抵てい抗こうしないで相あい手てに尽つくすだけだったら、その国くにを滅ほろぼすことは絶ぜっ対たいない、絶ぜっ対たいに大だい事じにします。やっぱり自じ分ぶんの身み内うち以い上じょうの感かんじがしますでしょう。「自じ分ぶんたちの命いのちまでも捧ささげても尽つくしてあげよう」という国こく民みんを、他ほかの国くにが滅ほろぼすわけがない、絶ぜっ対たい。
だから、本ほん当とうの無む抵てい抗こうで愛あいの心こころで「相あい手ての為ために尽つくそう」という気き持もちがあったら、戦せん争そうは絶ぜっ対たい起おこらん。そういう国くには絶ぜっ対たいに軍ぐん備びがなかっても大だい丈じょう夫ぶなのです。
ただ、軍ぐん備びなんか持もってただけ損そんでしょう。余よ計けいなことをしなくちゃならないだけ、お金かねも余よ計けいかかるじゃない。自し然ぜんに必ひつ要ようなくなってバカに見みえてきます。
「善ぜんと悪あく」は相そう対たいの両りょう極きょくにあって
-ありがとうございます-
「善よい」と「悪わるい」いという言こと葉ばがありますが、何なにが善よいか何なにが悪わるいか。善よいというのはプラス、悪わるいというのはマイナスというふうにイコールして構かまわないのですか。
ありがとうございます:
「善ぜんと悪あく」は相そう対たいの両りょう極きょくにあって、宇う宙ちゅう創そう造ぞうの要よう素そなのですけど。ただ、善ぜんと悪あくを分わける心こころは「分ぶん別べつ心しん」です。分ぶん別べつ心しんというのは「ひとつの立たち場ばから物もの事ごとを見みている姿すがた」です。だから自じ分ぶんの立たち場ばから上うえが善ぜんで、下したが悪あくなのです。だからひとつの立たち場ばに囚とらわれています、それは思おもいの心こころに生いきてるのです。思おもいで生いきている人ひとの場ば合あいは分ぶん別べつ心しんが生うまれます。ある意い味みでは囚とらわれの心こころなのです。
自じ由ゆうな神かみさまの心こころというのは、善ぜん悪あくに分わけない。一いち番ばん下したから、悪あくと見みえるものも善ぜんに見みていくのです。
「無む限げんの悪あく」という立たち場ばから見みると、小ちいさい悪あくは全ぜん部ぶプラスの善ぜんでしょう。それで、本ほん当とうの善ぜんはもっと大おおきいプラスの善ぜんでしょう。それは「善ぜん一いち元げんに見みる」という見み方かたで、すべてを善ぜんに見みてしまうのが神かみさまの立たち場<