真祈り文庫
2001年6月23日 No.2
形は自由自在です
-ありがとうございます-
先生は実際にどのようにお祈りをしているのでしょうか?
ありがとうございます:
形は自由自在です。心の中で。
-ありがとうございます-
声に出したりとかは?
ありがとうございます:
たまに声を出すことがあっても、ほとんど声を出しません。心の中だけでありがとうございます!
綱引き道
-ありがとうございます-
綱引きをされていますね。どうして、綱引きをされるのですか?
ありがとうございます:
どれだけ力を出しても目立ちません、ですから、個人技はありません。一生懸命に引いているつもりで演技しているのです、ほんとうに力を出しているかわかりません。だから自分を出さずにすむのです。
後ろに引っ張るのではなく、謙虚に後ろに下がるのです。それは勝ち負けではなく、良さを、引っ張り出し合いなのです。だから、引っぱり出させてもらって、「ありがとうございます」と感謝できるのです。しかも相手が強い程、自分の力を引っぱり出してもらえるのです。力が出てくるということは、神さまからいろいろなものをもらって、力が発揮できるのです。それで、神さまの助けを大きく受けたということになり、ますます感謝が深くなります。いろいろな意味があるのです。
-ありがとうございます-
綱引き道ということですか?
ありがとうございます:
そう。綱引き道という道がつくと、本当の悟り、神さまと一体化することを目的とするのです。だから、みんなが「神さまと一体であると悟っている」という実感を得たいために、それを最終目標にして、一生懸命に助け合って、良さを引っ張り出し合うのです。
「ありがとうございます」という言葉の中に
-ありがとうございます-
与え尽くすことと、「ありがとうございます」と受け取ることの流れがどうも今ひとつピンをしないのです。それを、同時にしたいのですが?
ありがとうございます:
「ありがとうございます」という言葉の中に、受けることと、与えることとが同時に行われているのです。
-ありがとうございます-
同時にですか? 普通、何かを受けて、喜びを感じますね。それが 「ありがとうございます」ですね。そして、自分の中にあるものを与え尽くす時には、何て言うのですか?
ありがとうございます:
それは例えば太陽から、無限の光を受けたとすれば、受けた瞬間に自分が無限に光り輝くのです。それで輝いたら、全部それはもう与えているのです。受けると同時に与えているのです。
-ありがとうございます-
で、与えた時に何て言うのですか?受けた時に「ありがとうございます」そして、与えた時に何て言えばいいのでしょうか?
ありがとうございます:
受けたと同時に「ありがとうございます」で、与えているのです。次の一瞬にまた、新しく無限のものを「ありがとうございます」で、受けて、同時にまた「ありがとうございます」で与え尽くしているのです。
あくまで、自分はパイプ役です、空っぽのパイプのようなものです。神さまから、どんどん光が入ってきます、入ってくると同時に、その光がどんどん外へと流れてゆくのです。即それが自分のものになって、それが全体に与え返しているのです。もうすぐ実感ができます。
-ありがとうございます-
私たちは、「自分が・・」という「我」を、どこで学んで来てしまったか?どこで体験したものなのか、どのへんでコントロールされてしまったものなのか? どこで迷ってしまったのでしょうか?
ありがとうございます:
まず、神さまと一体の自分がなぜ、マイナスに囚われ、迷ってしまうのかということです。これは、「ありがとうございます」の祈り言葉を使って、一瞬一瞬、最高のプレゼントを受け直していたら無いかもしれません。
だからその、神さまの最高の表現、という最高の番組を一瞬一瞬受け直している限りは、いつも無限の無限の幸せいっぱいという状態が続くのです。それはやっぱり深い感謝がいるのです。ところが、低い番組に心を向けたとたんに、神さまから遠ざかっています。
それはいろいろな面で神さまと離れているのです。時間的にも、空間的にも、内容的にも、いろいろと神さまから離れてゆくと、それだけ神さまの助けが来なくなり、助けを受けるのも少なくなるのです。その分だけマイナスにはまりこんでいくのです。
ただ、マイナスに囚われたり迷よったりする期間というのは、永遠からみれば、ほんの一瞬ぐらいなものなのです。本当は「ありがとうございます」が、本当の自分の命の呼吸なのです。
ただ、呼吸というものは、この世の呼吸もそうですが、ある一定期間は止めておけます。我慢して、無理やりできます。ですが、呼吸は吸うばかりでは止まってしまいます、求める心だけでは止まってしまうのです。求める心で生きている時は、呼吸が止まって、苦しくなります。苦しくなったら、我慢しきれなくなって吐き出すのです、その時に初めて感謝が生み出されてくるのです。
その呼吸も、自分で無理やり、努力してするものではありません。自然にさせてもらっているのです。その一瞬の呼吸を止めている期間が、神さまからすれば一瞬なのですが、低く(低い番組に)なるほど時間が長く感じるのです。それは、神さまの時間と空間の関係から見て、そうなのです。いい状態の時は、時間がたつのを忘れ、時間が短くなるのですが、マイナスの多い人は時間が長く感じられます。それで、この世で苦しんでいる期間が何億年と長く感ずる人もあるわけです。
それを、もう一回神さまの方に心を振り向けるひとつのチャンスというように見れば、そのマイナスの体験も大きく生きるのです。今度は、神さまから与えられるものの方が無限に無限にすばらしいものばかりだと、感激が新たになってきます。そういう意味で、そのマイナスの体験も無駄でなかったと言えるのです。
人には、完全な自由がある。これをまず前提に
-ありがとうございます-
私のまわりには、けっこう妄想にとりつかれている人がいるのですが、その人を助けたいと思っても、何もできない。そのときは一体どうしたらいいのでしょうか?
ありがとうございます:
人には、完全な自由がある。これをまず前提におかないといけません。だから、いい番組だけを神さまは強制的に味わいなさいとは言わないのです。自由を尊重して、どの番組でも、好きな番組を見ていらっしゃい、そして、最後には最高の番組を味わってという感じです。一番下の地獄のどん底のマイナスの極の番組を見ていても、神さまは止めようとはしません。それもいずれは大きいプラスの働きに変わるはずですから。地獄のどん底を見た人は、最高の番組を見たら、無限の無限のさらに無限の幸せと感じるのです。
-ありがとうございます-
それはこちらが待てばいいということですか?
ありがとうございます:
そうです。
-ありがとうございます-
何もできないということでしょう。
ありがとうございます:
そう、何もできない。
-ありがとうございます-
でも、一声かけたい。その場合は、どう言ったらいいのでしょうか?
ありがとうございます:
そのときに必要な言葉は、「ありがとうございます」です、神さまをまず呼ぶのです。自分がもしマイナスに見える世界の姿を見ていたら、自分がマイナスの番組を眺めているのです。だから、その番組を変えられない、絶対変わらないのです。もし、番組がマイナスがプラスに置き換わった番組を、自分が見たいと言うのでしたら、「ありがとうございます」と唱えることによって、番組自体を変えてもらえるのです。そうすると、病気の人は病気が治った姿で見せてもらえるのです。いい番組になればそうなのです。
-ありがとうございます-
では、「ありがとうございます」と、唱えなさいというのですか?
ありがとうございます:
そうではないのです。それは、自分がマイナスの番組に巻き込まれていると、自分と他人の関係がよくわからなくなってしまうのです。
ちょうどテレビを今、観ているとすると、テレビの番組でいろいろな姿が移り変わります。その中に病気の人がいて、そして、自分がそこにいるのです。そして、自分が何かいい言葉をかけたいと思っているのです。でも、ストリー通りにしか動かないのです。その観ている番組で、また、もうひとつテレビがあって、そのテレビにまた、また似たような姿が映っていたら、もうひとつ、変えづらいのです。
どんなに相手を変えたいと思っても、できないのです。神さまでさえできないのですから。
-ありがとうございます-
そうですか。何もできないことを認めてしまうのですか・・。
ありがとうございます:
人は自由があるから、自分の好きな番組に合わせてゆくのです。どんなマイナスの番組であっても、自分がその番組の主役なのです。神さまがつくる無限の無限のチャンネルというのは、すべてを尽くしているのです、人がどんな番組を観たいといっても全部そろっています。みんながみんな別々の番組をみていても、まだまだ無限に無限に余るのです。全部は観切れません。それだけのものを全部用意して作っているのです。だから、全体をみると、番組自体は神さまの完璧な最高表現なのです。
地獄番組もそうです。地獄番組を作るのも大変なのです。極楽番組を作るよりも難しい。また、妖怪ばかり、化け物ばかりの世界の番組もあるのです。ありとあらゆるものが全部そろっています。どんな番組もあるということが大前提になっています。
その中から、言葉で、思いで、掛け合わせて、どんな番組でも味わえるようになっています。それも、一瞬一瞬の言葉の使い方が、チャンネル合わせになるわけです。ただ予約が先にあると、その予約が優先されるというだけのことなのです。だから、思いを出して生き続ける間は、ずうっと予約をし続けるという感じです。
感謝によって、予約が全部消えてゆくのです。予約は必要ないということで、感謝できたら、思いが出なくなります。世界がどんどん拡がる感じで、番組がどんどん上がってゆきます、感謝に生きるようになったら、その原理がよくわかってきます。その番組からいつも抜け出せるのです。
思いがプラスの思いだったら、いいと思うのですが、しかし、思いはひとつのことをつかんでしまうのです、どんないい思いもです。それが積み重なると、マイナスの暗い思いに変わってしまうのです。丁度空の雲と同じです。地上のものをつかんで、水蒸気がどんどん上がってゆきます、最初は白雲、薄雲です。それが輝いているように見えるのです。ああ、いい思いだなと思っています。でも、それがどんどん溜まると、厚くなり、重なってくると、黒雲に変わります。思いはどんなものもやはりマイナスなのです。
本当の恩とは何かを、考えたら
-ありがとうございます-
恩とか、しがらみというものはどう考えたらいいのでしょうか?
ありがとうございます:
それは、本当の恩とは何かを、考えたらいいのです。小さい恩もあれば、大きい恩もあり、また無限の無限の大きい恩もあります。本当の恩は神さまから頂くものへの恩です。因の心という一番奥の因の心が、神さまの御心です。そこから、無限の無限のすばらしさを、それも永遠にいただき続けるということで、それが本当の意味の恩にあたります。
それで、恩返しということで、何が必要かということになるのですが、恩返しといっても、返すわけにはゆきません。受けてお返しするといっても、お返しした分というものは古いものですから、恩返しになりません。
でも、神さまが一番喜んでくださる事というのは、新しいものをどんどん受け続けることです。神さまを喜ばせることがある意味で恩返しです。だから、最高のものを受け続ければいいのです。そして、感謝し続ければ、本当の意味での恩返しにもなるし、大きいものを受けて、神さまを喜ばすことにもなるのです。
自分を変えてみたほうがいいのです
-ありがとうございます-
人から求められたら、どうしたらいいのでしょうか?
ありがとうございます:
まず、自分を変えてみたほうがいいのです。自分に求める心があるかないかです。求める心と与える心は正反対の心です。
与える心が光りの心、神さまと一体化する心です。求める心はマイナスの闇の心になるのです。求めるというのは、人の自由を縛り、奪うことになります、自分の思い通りにしたいというだけで、相手をがんじがらめに縛ってしまうのです。
でも、感謝は違います。感謝は相手の自由を完全に尊重するのです、個性を尊重しているわけです。神さまはもともと同じものを二つと作らないし、同じことを繰り返しません、そこまで徹底しています。だから、本当の自由自在性を認めた時に感謝になるのです。
-ありがとうございます-
もし、求められたときに、ありがとうございますと受けたくなかったら、どうしたらいいのでしょう。
ありがとうございます:
もし、自分が求める心をしっかりと握っていたら、まわりから求められるのです。だから、自分が求める心を捨て、感謝できるようになったら、相手から求められることはなくなるります。そして、縛られることは一切なくなるのです。
まず感謝に生きようとし、感謝に生きてゆくうちに、自分の中から、求める心が減り、まわりからも求められることも少なくなってゆき、求める心が、だんだんと無くなってゆきます。そして、自由を完全にまわりからも保証してもらえます。
「ありがとうございます」と唱えているだけで
-ありがとうございます-
子供の育て方について、「ありがとうございます」の意識で育てるためにはどのような方法がいいのか教えてください。
ありがとうございます:
「ありがとうございます」と唱えているだけで、もう子供に神さまはついているのです。守護霊さま守護神さまを始め、本当の宇宙の大神さままでもが、守り護っているのです、それにお任せすることになるのです。神さまに子育てをおまかせします、そうすると、神さまが、もし必要だったら、自分にその必要な手助けをさせてくださいます。もし、他の人が手助けしてくれたら、他の人を通して、神さまは子供を育てるのです。
神さまは自由自在です、完璧に守ってくれます。ただ、人というのは外から引っ張って伸ばすものではありません、中から命の働き、神さまの力が出てきてすくすくと成長するものです。だから、無理やり引っ張って、りっぱに変えようなんてできません、ちぎれてしまいます。自然に中から伸び伸びと命が出てきて成長してゆくものです。
その成長は神さまがさせているのです、親が子供を育てることはできません。だから、徹底するのがいいのです。子育ては神さまがする、親はその成長を見せてもらって、楽しませてもらって、幸せにしてもらうだけ。そのくらいの気持で、感謝していたら、放っておいても大丈夫。放っておいても神さまが育ててくれます。もっと気楽に生きられるのです。
けんかするときに、相手に求めすぎるのです
-ありがとうございます-
夫婦げんかも「ありがとうございます」で、解消されるでしょうか?
ありがとうございます:
けんかするときに、相手に求めすぎるのです。こうして、ああして、というように願いが多すぎるのです。自分の願い通りにならないときに、ちょっと当たりちらすわけです。
感謝というのは、求める心を一切消してしまい、それを与える心に変えてくれるから、相手が幸せになるように、なるように必要なものを与え尽くす、そういう心が自然に湧いてくるから、けんかしなくなります。
形から入り、無理に努力しなくても
-ありがとうございます-
先生のようになるにはどうしたらいいのでしょうか?形からでも、笑顔からとかで、入っていけばいいのでしょうか?
ありがとうございます:
形から入り、無理に努力しなくても、要は神さまを受け入れたらいいだけのことなのです。神さまは助けたくてたまらないのです、神さまは助けを受け入れてほしいと一生懸命待っているのです。だから、神さまの助けを受け入れようという気持ちにさえなったら、自然と、中から、「ありがとうございます」と湧いてくるし、中から、嬉しい、楽しいという自覚がわいてきて、自然に自分を変えてくださいます。
ところが、自分の力で、努力してとなると、神さまはちょっと遠慮しなくてはならなくなります。努力もすばらしい、尊いとは言えるのですが、神さまの助けを拒絶すると、神さまは手を出せなくなります。だからまず、神さまの助けを受け入れるという気持をしっかりともった方がいいのです。「神さまとともに生きる、神さまとともに努力する」そういう気持だと、神さまは助けやすいのです。応援がどんどん増えて、自然に無理なく自分に必要なものが備わってきます。
-ありがとうございます-
常に神さまを意識するという意味ですか?
ありがとうございます:
そうです。その意味で、神さまを呼ぶというのが「ありがとうございます」です。呼ぶというのも自分の力で呼ぶことではなく、その人が神さまを必要とするということを見抜いて、神さまが先に助けにきてくれているのです。だから、「ありがとうございます」という感謝に変わってきます。
「ありがとうございます」という言葉が出てくるということは、もうすでに神さまの助けを受け入れているのです。ところが、「ありがとうございます」が出てこない時は、やはり自分の我が強いのです、神さまの助けを拒絶している時です。それで、その我を棄てようとすれば、また神さまの助けを受け入れようとすれば、それだけ感謝しやすくなるのです。ですから、大丈夫です、自然と良くなってゆきます。
、自分で使う言葉が思いに
-ありがとうございます-
信じていたのに、突如として疑いがでてきたら、その疑いの心をどう対処したらいいでしょうか?
ありがとうございます:
なんでもそうですが、自分で使う言葉が思いに必ず増幅されるのです。周りから、波長があうものが集まってくるし、それが、どんどん増幅される姿をとるのです。疑ったら、疑いの波がどんどん集まってきて、どんどん大きく膨らんできます。
だから、疑いと正反対のものを持ってこなければいけません。神さまとして、信ずるとか、まずプラスの言葉を先行させなくてはいけません。疑いの心が出てきた時のように、心をひとつに統制したり、支配することは難しいのです。その時は、「私はあの人を信じている」とか、「あの人は無限にすばらしい」とか、「完全なんだ」とかで、プラスの言葉を使うと、疑う心が消えてゆきます。プラスの方が力があります、闇より光りの方が力があるのです。
プラスの言葉を先行させたら、マイナスの言葉は自然と消されてゆきます。プラスの言葉を使って、プラスの思いになれば、マイナスは全部消えてゆくのです。だから、疑いの気持が出てきたら、「私はあの人を信じています」と、言えばいいのです。だから、正反対のプラスの言葉をまず使うことです。
病気がぱっと治ったというのは
-ありがとうございます-
癌が治ったとか、いろいろな奇蹟がありますが、そうした奇蹟についてどう思いますか?
ありがとうございます:
病気がぱっと治ったというのは、チャンネルがちょっと変わっただけです。本当は一瞬一瞬が新しく生み出されて、最高のものから、最低のものまで、全部取りそろえて、一瞬一瞬移り変わることが、大大大奇蹟です。それは人間技ではないのです。
-ありがとうございます-
もし、一瞬一瞬ということでなく、オーバーにその奇蹟をとらえてしまったら、マイナスに働くことが多いと思うのですが、例えば、神がかりや超能力があるから、その人はすごいとかで・・
ありがとうございます:
そういう人はその人の自由なのです。それは、そういう狭い小さい範囲でとらえているから、そう捉えてしまうだけのことです。神さまの立場から見れば、病気がぱっと治るのは、手品も手品で、小さい手品です。神さまは無限の無限の健康を与え続けています。それは、病気に一切ならないくらいの無限の健康を与え続けているわけです。そっちの方がもっと大きな奇蹟なのです。万病が一瞬に消えても、大したことではありません。無限の無限の健康を与え続けているほうが、本当の意味で、もっと大きな力、大奇蹟なのです。神さまはずうっとそれをし続けているのです。
だから、本物の神さまの働きというのは、無限の無限のすばらしいものばかりだけではありません。低い段階のどんな奇蹟といっても、手品みたいなものです。そんなもので喜んでいたら、馬鹿みたいなものです。
見方というのはいっぱいいろいろとできます
ありがとうございます:
見方というのはいっぱいいろいろとできます。ほんとうは、一通りではありません。神さまが光り輝く姿と、その鏡(に写る姿)との両面を見せてくれる、というひとつの見方、考え方です。それがすべてを表すわけではないのです。
人は太陽の方に向いているとき、そこに一切の闇は感じません、光りを受けるだけ、輝きだけを感じるだけなのです。今度は、神さまに背を向けて、太陽に背を向けて、逆の闇の方を向くと、闇というのは、どこまでも闇で、吸い込まれてしまいます。闇だけではその人は幸せになれないし、救われないから、神さまは鏡に変身するのです。ちょうど窓ガラスを見て、外を見ると、外が明るい時・昼の時は、透けてみえる、そして明るく輝いてみえます。ところが、夜になると、外が暗いから、窓ガラスが鏡に変わるのです。
だから、闇に向くと、常に神さまは鏡の姿をとって、自分の姿を映してくださるのです。逆に言うと、それは光りを与え返したいからなのです。自分は小さい光りをつかまないで闇の方を向いています。そういう物ででもその人に気付かせたい、自分が光りなんだと。そういう意味で、鏡に変身するのです。常に、神さまの方に向いて欲しい・向いてほしいのです。
その鏡というのは、自分を映す鏡というのは、本当は平面鏡ひとつではありません、ほんとうはいろいろな鏡があるのです。神さまが変身する鏡はありとあらゆる種類の鏡があるのです。だから、どういう鏡で自分を見せてくれるか、そのいろいろな見せ方があります。その時その時、自分のまわりの世界の姿全部を、いわば自分の心を神さまの方に振り向けるための勉強材料として与えてくださっていると受けられたら、スッとすぐに、自分の心を神さまの方に向けられるのです。
だから、その鏡だけでも研究しだしたら、たくさんでてくると思います。本当に、神さまのなかにはないものはない、全部取りそろえてあります。
クローン人間と今騒いでいますが、同じものは何ひとつも作れないのです。まず創造の原点で、どんな小さい素粒子でも全部違います。最初の出発点から全部違うものとして出てきます。それを組み合わせて、順番に大きいものを創ってゆくとしたら、違うものばっかりとして、次の段階の大きいものができてくるのです。それをまた組み合わせて創るとしたら、まったく中味が違うものができてしまいます。だから、神さまはすべてに個性を与えているし、また違う働きを与えているのです。
-ありがとうございます-
臓器移植とか、骨髄移植とかは?
ありがとうございます :
それは途中で、ちょっとすり替えて、頼っているようなものです。ちょうど、足が悪くなってしまったから、松葉杖で歩くようなものです。
-ありがとうございます-
別にいけないということではないのですか?
ありがとうございます:
それも自由な生き方です。そういう番組もあるのですから。ただ、最高の番組に近づけば、一瞬に、悪くなった足も治るかもしれないし、また無くなった足も再生してきます。それは本当の意味で、個性ある姿となって出てくるはずです。
だから、自分の臓器は自分だけの臓器です。本当は、奥から出てくるものは全部そうなのです。わざわざよそから持ってこなければということはないのです。どこか合わないことが出てきます。自分の中から、全部作り出してもらった方が本当はいいのです。ただ一時的に頼れない時があると、中から、再生してもらう時に、時間的に待ってくれないとか、心の向け方がそこにゆかない時は、他に頼ってもしかたがないのです。
-ありがとうございます-
命を与えて生き返らせたと考えていいのでしょうか?
ありがとうございます:
いや、神さまが、人の自由を縛って何かしてこないのです。本当にそうなのです。人の自由を完全に尊重してくれます。人が選んでいるだけなのです、自分の好きな番組を。
-ありがとうございます-
よく神さまが使命を与えるというのは、考え方としては違うのですか?
ありがとうございます:
それは神さまの働きを全部見通していないのです。神さまにすりかえているときなのです。神さまのせいにすると、何か自分がいっぱいあるように感じます。それだったら、無限の無限の番組を全部、神さまから与えてもらっているという受け直しをした方がいいのです。その中から自分の好きな番組を選んでいるといった方がいいのです。
どの番組を選んでも神さまからいただいたものだから、神さまからの助けかもしれません。ひとつの番組を選んで、それを全部受けるのも神さまからのプレゼントです。それから、必要なものが与えられるとしたら、神さまからの大きな助けなのです。だから、ちょっとした手品みたいな形で助けてもらうというのは、本当の神さまからの助けではないのです。
-ありがとうございます-
でしたら、どん底から、頂いたものの方が、神さまからのプレゼントととらえたらいいのでしょうか?
ありがとうございます:
いや、それはちょっと違います。どん底に降りた方が神さまの方に心を向けやすいのです、どん底に降りたらもう下がないから、神さまの方に向くしかないのです。
それでも、神さまの最高の無限の無限のプラスを受け取れるかというと、すぐには受け取れないかもしれません。末端の方だと、小さい光りかもしれないから、神さまに近づくほど大きなものに変わってきます。ただ、心の向きが神さまの方に向いているので、神さまからのプレゼントを受けているということなのです。それが大きいか、小さいかはみんな違います、その時その時の受け方がみんな違うのです。だから、本当の神さまの助けというのでしたら、最高の無限の大きいものを受けてこそ、そう言えるのです、「神さまのもの」と。
ただ、人は神さまのせいにして、責任を神さまに転化するところがあるのです。神さまから、何々してもらったというと、やはり自分の責任がなくなります、責任のすり替えができます。何かマイナスが出てきても、神さまのせいにすると、神さまが与えてくださった、神さまが来て下さった、と正当化できるのです。
でも、本当の神さまはそんな小さなものは望んでいません。神さまの方は無限の無限の大きなもの・プラスを与え続けたいのです、そんな小さなものを与えて喜んでいないのです。だから、本当に無限の無限のプラスを受けているかどうかなのです。それだったら、神さまが与えてくれたものと言えるかもしれません。
例えば結婚して子供が産まれる時でもそうです。神さまが与えてくれるから、産まれるという考え方があります。でも、それはひとつの番組の中のひとつのストーリーにすぎません、神さまはわざわざそんな細かいところまで干渉してこないのです。やっぱり自分がそのストーリーを選んでいるのです。もっと上の番組でしたら、子供が産まれない番組かもしれないのです。子どもが必要ないかもしれない。子どもの産まれ方自体にしても、親の体を通らずに、空中からぱっと出てくるかもしれない。いろいろな生まれ方があるのですから。
人間は、男と女と別れていますが、両性合体という人間がいるかもしれません。
-ありがとうございます-
すると、自分が人生を選んで、神さまに託していると言っていいのですか?
ありがとうございます:
本当に神さまを信じて生きるのだったら、無限の無限のチャンネルをいつも神さまから与えてもらって、自分の好きな番組を選んで楽しませてもらっている、というのが原点(条件)です。
それでも低い番組に止まってはだめです。より高い番組に心を向けて最後は最高の番組に心を向けて楽しまないといけません、それを神さまは待ち続けているとみた方がいいのです。本当の無限の無限の幸せがいっぱいという気持にならないと・・。そんな気持が湧いてこないといけないのです。
-ありがとうございます-
というと、神さまに託すことで、より高い番組を選んでゆく、そういう良い循環でぐるぐる廻るのが理想的なのですか?
ありがとうございます:
そうです。神さまへ全託することで、どんどん自分を変えてもらう。良い番組を見れるようにどんどん高めてもらう。それで最短コースにしてもらえるから、一番理想的な生き方です。
「ありがとうございます」と唱え続けることが本当の全託です、早く最高番組を味わえるように変わります。その番組を超えて、神さまとの一体の自覚が出てくるのです。本当は自分は番組の中にいないのです。最高表現の番組と言ったとしても、その番組の中には(自分は)いないのです。あくまでも番組は表現なのです、本当の自分は神さまと一体です。本当の神さまの中に、そして絶対の中にいるのです。だから、神さまとは絶対切り離せないのです。表現ではないのです、本当の自分は。本当の自分というは神さまと全く一体で、絶対の中にあり、そこで、神さまの表現を眺める立場にあるのです。
お祈りは何かあった時にするのではないのです
-ありがとうございます-
「祈りを馬鹿にしてはいけない」と、言われた言葉にドキッとしたのですが、その点をもう少し話してほしいのです。こんな話があります。イスラム教徒がたくさん乗っていた船がまさに台風で沈没しそうになった時、みんないっせいに「アラー」と叫び、祈り始めました。そこにいた科学者が、何をしているのだ、もっと自分の頭で何かできることを考えたらどうなんだ。また、瞑想している人に対して、そこがとても汚れていました。何やっているんだ、瞑想するよりも、掃除でもした方が役にたつと言った方が正解のように思えるのですが?
ありがとうございます:
お祈りは何かあった時にするのではないのです。それもひとつの道です、どうしようもなく、ぎりぎりになったところに、神さまにすがるというのもいいのですが、その時に真剣になったらすっと助けてくれます。それは確かにあるのです。でも本当のお祈りは祈り続けるのです、二十四時間。
そうすると、普段にその祈りの中に自分をおいておくと、いつも必要な助けが神さまからどんどん出てきます。また必要な能力が出てくるのです。だから、どんな自然災害にしても、その防ぐ手だてを先に講じてしまいます。マイナスの状態にならないように準備万端整えて、完璧な状態に整えてしまいます。大地震や少々の地震があっても、絶対平気、建物は絶対壊れないというように先に仕上げてしまうのです。大雨が降って洪水だといっても、その影響を全然ないようにしてしまいます。場合によっては台風が来たといっても、その台風を全部消してしまうくらいの科学力を駆使するのです。
だから、普段から、祈り続けている人は神さまの智恵も能力も全部出てくるのです。普段から、全部調和した姿に変えるだけの力を発揮するのです。それも何もしないで、困ったときだけ神さまというのではなかなか本物の祈りとはほど遠いのです。本当の祈りというのは科学ともすべて調和するのです。正反対なゆき方ではありません。
本当の科学者も神さまの前で謙虚にならないと何の力も発揮できないと思います。ひとつの発明発見すら神さまからアイデアを受けないかぎりできません。第一線の本当の科学者は神さまの前に本当に謙虚なのです。神さまの智恵をいただいて、いろいろな発明発見をします。だから本当はひとつです。
洪水が来てからの対処では遅いのです、本当のお祈りする人は、前もってちゃんと対処しておかないといけません。
宇宙という言葉、世界という言葉が
-ありがとうございます-
時間とは何でしょうか?
ありがとうございます:
宇宙という言葉、世界という言葉があります。宇宙の宇は空間、宙は時間です。世界の世が時間、界が空間です。だから、世界・宇宙というのは時間と空間の組み合わせで生まれます。それは相対の両極に分かれたひとつの要素です。
時間というのは時計で測る時間とはちょっと違い、時間にもいろいろな時間の種類があります。空間にもいろいろな空間の種類があります。
この世とあの世と比べてみればいいのです。竜宮城というのをたとえていえば、浦島太郎が竜宮城に行って、楽しい幸せな時間を過します。ほんのちょっとそこで楽しんで生きたという感覚で、この世に戻されたとすると、長い年月がたっていたのです。それで、自分は年老いた姿として現れてしまいます。
だから、時間というのは、すばらしい空間の拡がった世界では時間が短くなり。逆にこの空間が狭まって、マイナスの多い世界では時間が長くなります。だから、極楽世界では時間がないのです、一瞬です、一瞬一瞬が幸せいっぱいというのが極楽世界です。地獄は苦しみばかりです。
空間が無くなると時間が無限に拡<