真祈り文庫
2001年(ねん)6月(がつ)23日(にち) No.1
人は根本は神さまに抱かれているのです
-ありがとうございます-
私たちは菜食主義であるべきか、またそうでないのか? またどんな食べ物を食べたらいいのか教えてください。
ありがとうございます:
人は根本は神さまに抱かれているのです。だから、神さまの命を頂くという気持であれば、何を頂いても本当はいいのです。動物を殺して食べるという気持であれば、神さまの命を頂くという気持ではありません。神さまが動物の姿をとって、命を捧げて、食べさせて頂き、私たちを生かしていただくという愛の姿であれば、感謝して頂くというのが正しいのです。
だから、動物も植物も全部、神さまの命を頂いて生きているのです。ただ、命を殺すという意味では、植物をとって殺すのも同じことなのです。ただ、動物は逃げ回るという一面はあるのですが。ただ神さまが生かしてくださるという意味で、命を頂くということだったら、捧げものの命を頂いてもいいのです。そのかわり、自分はその動物の死を無駄にしなければいいのです。
そうであれば動物が本当の命をまっとうできます、だから、人が命を頂き、それを糧として、もっと大きな働きをさせてもらったらいいのです。そうしたら動物も大きく生きるのです。だから菜食主義にあまりこだわらなくていいと思うのです。感謝して頂くものは全部神さまの命なのですから。
-ありがとうございます-
先生は昔、菜食主義者であったということですが、肉を食べてもいいとなるまで、どのような変化があったのですか?
ありがとうございます:
私が小さいときは、食べ物をあまり与えてもらえなかったのです。一日一食くらいです。それも何もなかったら、粘土でも食べなさいと言われたのです。冬の寒いときなどは野菜くずがないとき、生きるために、魚を採りに行ったのです。凍った土の中を掘ってどじょうを採ったりして、いろいろと食べさせてもらったのです。でも、余裕があったらわざわざ動物食を食べなくてもいいかもしれません。
私はもう二十歳代からずうっと断食ばかりしていたのです。本当は植物も食べたくないくらいです。一粒丸薬があって生きてゆけるならそれでよかったのです、でも、そうはゆきません。そうして断食して、断食というものはどういうものか勉強させて頂いたのです。だから、ものを食べているというのいうのであれば、本当はだめなのです。神さまの命を頂いていると変わったら、単なる物質を食べているのではなく、断食になるのです。それがたとえ動物食、肉を食べたとしても、変わらないのです。
弘法大師が友達の僧侶と歩いていて、猪の肉を供養されたのです。空海さんが肉を食べたのです。はたで見ていたお坊さんが「おまえ、坊主のくせに肉を食ったのか?」というのです
ところが弘法大師さんが「私は肉を食べてはいない」と言い切ったのです。やはり大したものです、神さまの命を頂いたのです。 そこで、「本当か嘘か?吐き出してみよ」と言うのです。弘法大師が吐き出したところに、肉はないのです。「ではおまえ吐き出してみよ」と言ったら、せめた僧侶が吐き出した方から、肉が出てきたのです。だから、本当に神さまの命を食べていたら、物質を食べてはいないのです。やはり受け方が大事だと思うのです。
-ありがとうございます-
先生は一日何食で、どのようなメニューを食べるのですか?
ありがとうございます:
なんでも食べています。(笑いながら)まあ人を食って・・何でも頂いています。何でも食べるといっても、そんなに食べられないのですが。
-ありがとうございます-
朝・昼・晩?
ありがとうございます:
自然に与えられて、その中を選んでちょっとです。
-ありがとうございます-
動物食も毎日食べられるのですか?
ありがとうございます:
今は、あまり食べません。果物が一番大好きなのです。でも、与えられたら、何でも食べます。
私は自分から食べたいと絶対に言いません、作って欲しいとも絶対に言いません。与えられたら食べます、だから、あれ食べたい、これ食べたいというものがないのです。
大体の食事の時間がなかったら食べません。だいたい昔から忙しかったので、その食事をする時間も少なかったくらいだから、時間の合間をぬってちょこちょこっと食べていたのです。今も似ています。もし忙しかったら食べません。
お祈りはいつも、ずうっと今も同じです
-ありがとうございます-
普段お祈りの時間は長いのですか?
ありがとうございます:
お祈りはいつも、ずうっと今も同じです。ただ人と対談しているときは浅くなります。だから、お祈りだけに徹底した方が深くできます。
独身にみえますか?
-ありがとうございます-
先生は結婚していらしゃるということですが?
ありがとうございます:
独身にみえますか?
-ありがとうございます-
結婚とはどういうことだと思いますか?
ありがとうございます:
結婚もいろいろな考え方があると思うのです、魂の磨きあいとか、それはまだ低い次元かもしれません。結婚に限らずですが、本当は与え尽くし合い、というのが大事なのです。人は与え尽くして、幸せを感じるのです。ただ本当の目的は神なるものに、すべてのすべてなるものに与え尽くすのを最終目標にするのです、その与え尽くす練習です。一人に対して与え尽くして喜ぶ練習です。
一人の人の心をくみとるのは難しいのです。その人が本当に何を必要とし、何を本当に願っているのか、くみとる練習をかねて、必要なものを的確に与えつくす練習なのです。
-ありがとうございます-
もし片方が成長して、波動が違ってきて、離婚するというようなことを書いてあって、離婚するのは当然というのを、どう思いますか?
ありがとうございます:
段階がいろいろあって、そういうのもあります。ただ与え尽くすのだったら別に問題ないのです。
やはりすばらしい方です。ただ、すばらしいといって比較するのは
-ありがとうございます-
インドのサイババについてどう感じていますか?
ありがとうございます:
やはりすばらしい方です。ただ、すばらしいといって比較するのはいいことではないと思うのです。この人はすばらしいというと他の人はだめなのです。それよりも、人の本当の姿、神さまと一体の姿は無限に無限にすばらしいのです。
この世に出てきている姿は神さまの与えてくれる無限の無限のチャンネルの放送番組の一部なのです。だから程度がかなり落ちると思うのです。いろいろな役割のこの姿が出てきても、それを見て比較するのはあまりよいことではありません。みんなその番組からいいものを学び、楽しんで、幸せを感じるためにやるものですから。だから、一番の本質は無限の無限のすばらしい神そのものなのだという前提において、その人がいろいろな役割を演じて、いろんな姿を与えて、一人一人を幸せにしようとしているとうことでいいと思うのです。
-ありがとうございます-
それでは先生において、サイババはどんな役割を担っていると思いますか?
ありがとうございます:
みんな合わせるチャンネルが一人一人みんな違うのです。同じチャンネルに合わせてはいません。だから、一人一人自分の姿が出てくるのを見て、いろんなプラスのものを見ていると思うのです。一人一人受け方が違うと思います、この世にあってもチャンネルが無限に分かれると思います。受け方が違っていいし、違わないと嘘だし。
-ありがとうございます-
役割や受け方はそれぞれあっていいと思うのですけれど、例えば、先ほどの菜食については、サイババにおいては、何でも食べていいとは限らない。もし、それが体の毒であったら、困るでしょう。体はゴミ箱ではないから、いいものだけを食べるという考え方です。そういう考え方についてどう思われますか?
ありがとうございます:
神さまの与えてくれる無限の無限のチャンネルの見方と、またこれを全体をひとつのテーブルという見方と、これを説明すると全部変わってきます。ただ、無限の無限のチャンネルの中のひとつを選んでいるというならば、もう一人一人自由なのです。ただ選ぶだけなのです。本人が何を選んでもいいのです、ただ、いい番組を選んだら、理想的な姿があるわけです。菜食ではなく、霞を食べて生きてゆくかもしれないし、それでいて、無限健康を与えてもらいます。命輝くという番組があるのです。
どの番組を選ぶかとなると、一人一人自由なので、低い番組を選んだからといって、その人がだめというわけではありません。ただ全体をひとつにまとめてみると、いろんな姿があって、この世も選ぶ勉強の場なので、どういう生き方をしたらいいのか、何を選びたいのかという場なのです。だからいろいろなものを参考にして選んでゆくのです。
その意味で、肉食していた人が菜食がいいとなればそれを選んでゆくし、そういういろいろな生き方があっていいと思うのです。ただ道元さんの話だと、弟子が肉食をしているのを責めなかったということがあります。なぜかというと、ある因縁があるという見方で、もし、そこで肉食を止めてしまったら、逆に他で殺生するという。そういう場合は肉食をすることで、殺生を軽くするのです。だから、それを止めないのです。そういう一面もあります。
だから、いろいろな意味合いがあって、はじめてみんな幸せになればいいのです。それが悪いと決めたらだめだと本当に思います。だから、良い悪いを決めるのは「思いの心」で決めるわけです。でも感謝というのは全部そのままプラスに向けてゆきます。すべて神さまのいろいろな無限の段階の表現というふうに、プラス、プラスに受けてゆくのが感謝で生きる生き方です。その思いが自分に合わないと、プラスにしたりマイナスにしたりしてしまいます、やはり「思い」は「囚われ」がおこると思います。
本当はすべてを光一元に拝みあげて、小さいプラスから、その奥の無限に無限に輝いた最高の本体があるという、拝みあげる生き方が感謝の生き方なのです。
だから、どの番組もすばらしいというふうになってゆくのです。それをごっちゃにしてしまうと、囚われがちになると思います。良い悪いを決めてしまうと、分別知が起こってしまいますから。すべてがプラスに見える方がいいのです。何もかもすべてが無限の価値があるというのがいいのです、何をみても幸せになれるのです。
一人一人の心がプラスプラスに向いて来たら
-ありがとうございます-
地球村のTさんの生き方について、先生にはどんなふうに見えますか?
ありがとうございます:
一人一人の心がプラスプラスに向いて来たら、そのプラスの番組にあってゆくのです。そういう過程ではいろいろと移り変わりがあるのです。マイナスを消す働きや、これから起こるかもしれないマイナスのこともプラスに変わるかもしれない。そういういろんな変化があってプラスの番組ができます。
-ありがとうございます-
占いなどで、世紀末がくるぞ、とかいう人たちについてどう思いますか?
ありがとうございます:
予言というのは何のために予言するかと、マイナスなことを断定的に言うだけだったら、予言しない方がいいのです。人の心を暗くするだけですから。
ただ、それをプラスに置き換えるための助言だったら、予言も活きてきます。マイナスを掴んで囚われるのではなく、プラスに置き換えるならいいのです。マイナスを取り込んで、マイマスをプラスに変えることは本当はできないはずなのです。番組としては決まっているのですから。
だから、自分の心をプラスに向けて、言葉をプラスに使って、明るいプラスの番組に波長を合わせてゆけばいいのです。そうすると、置き換わってくるのです。
要はみんながより幸せになればいいので
-ありがとうございます-
今問題となっている、池田小学校の事件に対して、どうプラス思考したらいいのでしょうか?
ありがとうございます:
要はみんながより幸せになればいいのです。犯人も、被害者も、それにはどうしたらいいか。その方法はいっぱいあると思いますが、私はもう一番いいのは無限の無限の輝きがいっぱいという奥の本質を拝み合うのがいいと思うのです。低い番組に合わせた心を高い番組に合わせるようになれば、・・
-ありがとうございます-
その合わせ方は?
ありがとうございます:
合わせ方?それは感謝行です。犯人も、責められたら、心を暗くして、低い地獄に堕ちるかもしれません。
-ありがとうございます-
もし、先生の娘さんが、同じように殺されたとしたら、どう父親として考えたらいいのでしょうか?
ありがとうございます:
それはいろんな見方ができます。ただ私の場合は自分の子供はいても、持っていないから。自分のものは何も持っていないから、そういう意味では別に何もないのです。ただ、仮に自分の娘と感じた時は、本当は地獄に堕ちるのをこんなに軽くしてもらったとか、過去世の因縁もこれで消してもらったとか、誰かの身代わりに、人助けをしたとか、そういうプラスの見方をいっぱいできます。
そういう全体だと、マイナスはないのです。犯人の方も、人類の罪を背負って、マイナスを演じて、大きな世界戦争の原因を消してくださっただという見方もできます。ですから、絶対人を責めたりしません。まだいろいろな見方ができるし、まだいっぱい出てくるとと思いますが、その時プラスプラスと見て、みんなが幸せになれればいいと思うのです。
一番根本の生き方というのは
-ありがとうございます-
自分が癌となって、不治の病に犯されたら、どんな思いにしたらいいでしょうか?先生だったら、どういう心の持ち方をなさるのでしょうか?
ありがとうございます;
一番根本の生き方というのは、もし私が病気であったら、病気の番組の波長に合わせているのです。それを無限健康いっぱいという最高の番組に合わせてしまえば、番組さえ変わったら瞬間に消えてしまいます。
-ありがとうございます-
番組の合わせ方を教えてください。
ありがとうございます:
人は過去にいろんな番組を見て、番組からいろんな情報を得て、マイナスの情報があったらマイナスの心を取り込むのです。そこで、プラスの言葉やマイナスの言葉を使ったりします。思いに生きるというのは、その思いというのは執着なのです。掴んでしまうのです。掴んだものは、心に残るのです。
だから、番組の合わせ方というのは、言葉で合わせています、言葉通りになってゆくのです。その言葉がいろいろな思いに変化しているのです。
その番組の予約というのを、人は、しすぎるのです。心に溜め込んだ言葉や思いが全部番組の予約になるのです。そうすると、今いいことを思っても、即座にプラスの番組に置き換わらないのです。先に予約したものが優先されます。だから、まずその予約をいかに取り消すかが大事なのです。今、プラスに、ありがとうございますと思っても、すぐにプラスの番組に変わらない原因が、過去の予約なのです。
もし、過去の予約が全部取り消されていたら、今、ありがとうございますと言えば、すぐにプラスの番組に変わるのです。いい番組に次々と変わってゆくのです。
-ありがとうございます-
その「ありがとうございます」というのは「感謝の気持ち」なのか、それとも、それが成ることが判っているから、「ありがとうございます」なのでしょうか。
ありがとうございます:
いろんな意味あいがあるのです。「ありがとうございます」を唱えるのは、何のためかというと、その過去の予約を神さまの力で消してもらいたいからです。神さまの助けを受けたいからなのです。
最初、神さまと一体なのに、どうしてマイナスの世界に落ち込むかというと、根本の原因は、(一番最初に)神さまに背を向けて出てきているのです。無限の無限のチャンネルをどれでも自由に楽しみなさいと言われて出てくるのです。ですから、神さまに背を向けて出てきているのです。そして、自由に適当な番組を味わって行き詰まるのです。
だから、マイナスほど「思い」のでる世界です。感謝ではないからです。マイナスがいっぱいたまってくると、マイナスの予約がいっぱいなのです。それが大きな不幸の原因になっているのです。そのマイナスの予約をもう自分の力で消せなくなるのです。マイナスの番組をみているかぎりでは環境の影響を受けて、マイナスの言葉を出すし、「思い」もいっぱい出すし、次から次へと、予約を立て続けにしてゆく感じです。
だからもう、自分ではどうしようもありません。その時に、自分が自由意志を与えられて、選択しているのは確かですから、自分に全責任があるのです。まず、自分が神さまの助けを受けたいというそういう心を起こさないといけません、必要性を感じないといけないのです。
神さまは自由にしていることには干渉しません。好き勝手に何してもかまわないのです。ところが、神さまを必要としたときには、さっと飛んできて助けてくれます。だから、自我の心に生きる、思いどおりに生きるというときには、神さまは奥に引っ込むしかありません。ところが、神さまの御心のままに生きたいという心を起こせたら、神さまは助けてくれます。神さまはいつも人の心を見ています。
神さまの御心のままに生きたいのか、本当に神さまと一緒に生きたいのか?それとも、自分の好き勝手に生きたいのか、どっちを選ぶかと、いつも見てくれています。
自分勝手に生きているときは必ず行き詰まることになっているのです。ひどくなったら、七難八苦でいっぱいになり地獄のどん底におちるのは決まっています。それで、頭を打って気づくわけです。「ああ、神さまの元にもどりたいと」。だから、神さまの方に早くもどって最高の番組を味わってほしいのです。神さまの願いは、いつでも助けようと待機しているのです。
-ありがとうございます-
それでは、いつも神さまの方に目を向けているにはどうしたらいいのでしょう。
ありがとうございます:
それは、自分の好き勝手に行っても、必ず頭を打つ。順調に行っても、それは一時的なのです。それがある程度体験され、飽きるくらいにまでなり、未練がなくなったら、神さまの方に向きます。だから、強制的に神さまの方に向きを変えさせても、また元の方に戻ってゆきます。だから、とことん納得するくらいに体験し、未練をなくすくらいが一番いいのです。
その時期をみて神さまはスッと手を差し伸べてくださいます。だから、神さまは助けない、何もしないのではなく、いつでも助けようと待機しているのです。一番必要な時に、的確に助けを与えてくれます。その助けを与えてもらった結果が「ありがとうございます」と唱えさせてもらう姿になったり、プラスに向く心になるのです。だから、何かしたら助けてくれるのではないのです、神さまの方は全部見通しているから、本当に助けた方がいいという時に助けてくれるのです。そのときに、「ありがとうございます」と、唱えさせてもらえるのです。
まだ明かしていません!
-ありがとうございます-
先生は、2001年までは名を隠して、お祈りを続けていたのですが、どうして2001年から名を明かすようにしたのですか?
ありがとうございます:
まだ明かしていません!
-ありがとうございます-
それは神さまから、「ありがとう」を、みんなにというようなことがあるのですか?
ありがとうございます:
そんなおおげさなものではありません、ただ、恩返しの心は起こさないとだめなのです。自分を幸せにもらったのは、いろんな人のおかげです。必要になったら、恩返しさせてもらわないと。
でも本当は神さまが助けてくださるだけなのです。神さまの力がなかったら、マイナス無限大の力しかないのですから。だから、いつも無限の空っぽの状態にならなくてはいけません。神さまがいうなれば、自分を使ってくださるのです。空っぽになっていたらです。
そして、神さまが一人一人見ているわけです。必要だったら、自分を使って、神さまが何かを与えようとしているのです。ただ、一人一人が神さまを相手にしないと、本物はつかめません。本当は直接につかまないといけないのです。だから、神さまはどこにいるかというと、どこにでもいるのです。神さまは全体ですから、すべてにわたっているから、どこからでも受けられるのです。ただ、神さまが現れてくれないといけません、どこからでも。それが必要だったら、現れて、感じさせてくださるのです。
「ありがとうございます」と唱えさせてもらったということがひとつの神さまの助けを受けて、神さまと対面してゆく表面の結果として現れてきます。だから、だんだんと「ありがとうございます」と唱える人は、神さまとの対面が深くなってゆくのです。
神さまに100%おまかせするには
-ありがとうございます-
普通、神さまにすべてを捧げたいと思っても、なかなかできません。やはり経済的な問題がついてまわり、30%は衣食住を得るために働き、70%を神さまのために働くというようになってしまいますが、100%神さまのために働きたいと願うのですが、どうもうまくできません。その悩みがどうしてもとれません。その悩みをとるためにはどういう考え方をすれば、その悩みがとれるかなのです。
ありがとうございます:
それは、どんな考え方をしてもとれないのです、それは神さまに助けてもらってとれてゆくのです。神さまの方が上手なのです。というのはすべて神さまはすべてを見抜き、見通しているのです。必要なときに助けつづけて、どんな悩みも何もかも、とれるように助けつづけるのです。だから、必ず時期が来るのです。
-ありがとうございます-
では具体的にどうしたらいいのでしょうか?
ありがとうございます:
神さまにおまかせする、全託するには、最初から、100%するということはできません。最初は自分勝手に生きたいのです。思い通り生きたいのです。そういう時は神さまなど相手にしません。完全に拒絶して無視しています。それがだんだんと神さまに心が向いてくること自体が、神さまの助けを受けているのです。神さまに助けをもらっているから、神さまに心を向けさせて頂けるのです。
そして、神さまにおまかせしよう、神さまのためにお役にたちたいという気持を起こさせてくださるのです。それは神さまの助けが自分の中に入っているからなのです。感謝をさせてもらい、神さまへのお手伝い、恩返しをさせてもらえるのです。ただ、最初からゼロから一足飛びに100へとはゆかないのです。
徐々に、でいいのです。だんだんとその割合が増えてゆきます。それだけ神さまはずうっと面倒を看続けるのです。そうして、だんだんと本物に近づいてくるのです、100%に近づいてきます。だから、別にあせる必要はないのです。ああ、ここまで助けて続けてもらえたというふうに、プラスに見てゆけたら、どんどんプラスに変化するからです。
-ありがとうございます-
そういうことですか。つまりもっと努力していけば・・
ありがとうございます:
最初はゼロだったのですから、ゼロから1%、神さまにここまでプラスに助けられたと喜べばいいのです。2%だっらら、もっと喜び、3%だったらもっと喜び、そして、もう50%になったら、もう飛び上がって、転げ回って喜ばなければ!そしてみんな神さまのおかげなんだ、神さまの大きな助けをいただいているのだ!と。だから、神さまの助けをいただかないとそこまでゆかないのです。
-ありがとうございます-
もし、100%神さまにまかせた瞬間はどういう気持なのでしょうか?
ありがとうございます:
それは、自分が消えてなくなるのです。神さまの働きだけ、神さまの喜びだけなのです。
-ありがとうございます-
それを経験したいのですが?
ありがとうございます:
それはだんだんとそうなります。それは、太陽がぱっと自分の体の中に入ってきたらびっくりするでしょうが、そんな小さなことではないのです。自分が吹っ飛ばされて消えてしまいます、その連続です。
だから、本当は太陽の無限の大光体が自分の中に飛び込んでくれて、自分なんか吹っ飛ばしてくれるのです。そこまで大きな幸せを与えてくれるのです、神さまは。
皆、本人が選ぶのです
-ありがとうございます-
生まれた時に、やさしい両親で育てられた子供と、虐待され、ひどく言われて両親に育てられた子供がいますが、それは、感謝しようと思ってもスタートラインが違うのですが、何か意味があるのでしょうか?
ありがとうございます:
皆、本人が選ぶのです、順番に。だから、誰のせいではないのです、本人が選んで、波長が合う者が集まるのです。だから、自分が選ぶのを変えたら、必ず変わるのです。
それを良い悪いと、責めたらいけないのです。やさしい親に生まれたのは必要だったのですし、きびしい親に生まれたのも、それが一番良かったのです。みんな自分をどうしてゆくかということを、ひとり自分が選んで、その番組に合わせて体験し、順番に自分を高めていっているはずなのです。だから、根本は自分が選んでいるのです。
その自由な選択を勝手に縛れないのです。だから、いろいろな人の姿を見せてもらって、それを参考にして、自分が本当に何を願い、何を必要としているか、それに気づいて選び直せばいいのです。いいものを、いいものをと。そういう意味で、いっぱいいろいろな姿を見せてもらっているのです、プラスもマイナスもです。
-ありがとうございます-
今の生き方が、次の生き方になり、もっと楽になるか、幸せになるという関係はあるのですか?
ありがとうございます:
関係ありません。もっと不幸になってゆく人もあるし、選び方によってです。幸せの方にゆく人もあるし、それでも一時的です。最後は必ず最高の番組に合わせてゆくのです、みんな。途中ちょっとだけです、好き勝手にさせてもらうのは。
それは浅い段階で、部分的に
-ありがとうございます-
動物のことですが、かわいがられる動物と、虐待される動物がいますが、動物には波動というものがないのに、どうしてそういう違いが生まれるのですか?
ありがとうございます:
それは浅い段階で、部分的にそういう見方もできるのですが、神さまと一体の自分というのは、何にでもなれるのです。石ころにも、植物にも、動物にも人間にも、また大きい星にもなれるのです。本当の自分は、本当に自由自在なのです、だから、動物に生まれ変わったこともあるのです。
人間は人間として生まれ変わるのです、動物は動物で生まれ変わるのですが、本当の自分は動物にも植物にも、何にでもなれるのです。ある時期は鉱物になっていたかもしれない、ある時は植物、ある時は動物に。今は人間、人間になったら、人間は人間の生まれ変わりなのです。
動物も自分を犠牲にして、人のために尽くしたりすることを勉強として考えることもあるのです。与え尽くす勉強です、大犠牲を発揮する勉強です。そういう動物は大きく進化して人間に生まれ変わろうとするかもしれません。それは大きな転機になるのです。だから、一番奥から見てあげなければならないのです。
石ころ一個でも、本当は、自在の神さまが石ころに変身しているのです。人間に会いたい神さまが石ころになって、自由を限定してです。そしてじーと岩のままでいるかもしれません。すごい忍耐力です、それは神さまだからできることかもしれません。
-ありがとうございます-
虐待されている動物をみるとすごくつらいのですが、それをどうしたらいいのでしょう?
ありがとうございます:
それがかわいそうと見るのをもうひとつ、奥へ奥へと入って、もっと下から見てあげるといいのです。一番下の地獄からながめてあげると、この世の姿なんて、マイナスを万分の一に軽くしてもらった姿でしかないと見れるのです。
だから、軽く苦しむことによって、大きな修行をさせてもらっているとか、もっとプラスに見られると思います。
だから、鉱物より、植物よりは、動物の方がいいのです、ここまで進化させてもらっているというふうに見てあげたら、いいことだし、また動物になっても、そういう苦しむことによって、大きく魂が進化して上がっていると見てあげたら、それは大きく進歩する姿なんだと見られるのです。
だからプラスにプラスという見方で、いろんな考え方をキャッチすればいいのです。プラス思考の考え方は無限にインスピレーションとして降ってくるのです。そして、いろいろな見方ができるようになっています。だから、プラスの言葉をいっぱい使っていると、プラスのものと波長が合うから、無限の見方がでてきます。全部プラスに見られるように、翻訳できるようになってくるのです。
波長合わせの勉強です
-ありがとうございます-
このプリントの中で、どんな仕事をするときでも、スピード化を心がけることは本心開発に大きく役立つことですと、ありますが・・・。それと、あたふたとやってしまうこととの違いは何ですか?
ありがとうございます:
これも波長合わせの勉強です。今の番組で、一連で動いていれば無理も何もないのです、そのままでいいのです。仮にスピード化していても、番組の姿です。ただ今よりももっとスピード化すると、番組は上がります。必ず。
-ありがとうございます-
ただ、あれやこれやあたふたとすると、オーバーヒートしてしまうのではないでしょうか?心が落ち着かないというか・・
ありがとうございます:
ただ、それはやりすぎて、オーバーヒートするという見方もありますが、オーバーヒートしない番組もあるのです。やればやるほど心が安らいで落ち着いてオーバーヒートがなくなります。どれだけ一生懸命働いても、逆に疲れがなくなって、疲れた分まで消えて、ひとつの活力がわきあがって、元気いっぱいになるのです。そういう番組もあるのです。
-ありがとうございます-
それはこれをやったら失敗するのではないかという怖れがあったりして・・
ありがとうございます:
それはちょっとマイナスに思う一面が残っています。それをどんどんプラスに置き換えて、プラスの言葉を使いつづけると、番組自体がプラスの番組に置き換わると、どれだけ働いても やればやるほど疲れが消えて、元気いっぱいになるのです。
別に、それは逃げたくてというより、本当は
-ありがとうございます-
病気や苦しみを感謝で乗り越えできなくて、もし、逃げたとしますね、そうしたら、来世でもっと大きな苦しみに出会うのでしょうか?
ありがとうございます
別に、それは逃げたくてというより、本当はそれを選んできたのです、マイナスの方を。マイナスを選んで悪いのではなく、マイナスを選ぶことによって謙虚にも、勉強にもなるのです。謙虚になると、感謝ももっと大きく深くなるのです。
ゼロからプラスへばかりゆく人と、ゼロからマイナスにゆき、大きなマイナスを体験して、もう一回プラスにもどる人と、どっちが幸せかというと、一回マイナスに行ってから、プラスの方にもどる人の方がもっと大きな幸せになるのです。それも本人が選ぶから、別に逃げているようでもそれは違います。マイナスよりも前に勇気をもって進んでいると見ればいいのです。それが大きな意味でプラスになってゆくと思います。
ありがたいから、悲しまないのです
-ありがとうございます-
先生は怒ったことも、悲しんだこともないのですか?
ありがとうございます:
ありません、ありがたいから、悲しまないのです。別に家族の誰かが死んだとしても悲しみません。この世から、魂が抜けて、消えたとしても、別に悲しみに見えないのです。卒業ではないですか!いい世界に上がってゆくだけ、幸せが大きくなるだけですから。
-ありがとうございます-
もし、そこに苦しんでいる人がいたら、そこで何と一言、言いますか?
ありがとうございます:
神さまに心を向けて助けてもらいましょう。それでいいのです。
-ありがとうございます-
でも、その人が神さまを信じていなかったら?
ありがとうございます:
だから、信じていなかったから苦しんでいるのです。
-ありがとうございます-
でも、その人が無神論者であったら、神さまを信じろといっても無理でしょう。
ありがとうございます:
苦しみが中途半端だと、気づかないのです。だから、もうちょっと地獄に行ってもらったら・・・・
-ありがとうございます-
もし、その人が、「はい、さようなら」と自殺しようとしたらどうしますか?先生だったら、どうしますか?
ありがとうございます:
どうする?それはみんな自分が選ぶのです。本人の責任で選ぶのです。
-ありがとうございます-
では、次の場面です。ある悪い人が包丁をもって、逃げる子供を殺そうとしていました。その時、先生はそこにいました。そして、二人に向かってどう言いますか?
ありがとうございます:
両方の因縁が一つになったら、どうぞ。
-ありがとうございます-
止めないのですか?
ありがとうございます:
そりゃあ、わかりません。止めた方がいいのだったら、止めるように走るかもしれないし。ただ、私の場合、お祈りばかりなので、みんな無限に輝いて、生かし合っているというしかないのです。そういう番組に変えるだけなのです。殺そうとする人の心を変えるかもしれません。
-ありがとうございます-
でも、一瞬ですから、お祈りしてたら、もう終わってしまいますよ。
ありがとうございます:
お祈りは一瞬の力があるのです。たぶん、そういう場面に遭遇しないと思います。そういう場面を見ていないですから。
-ありがとうございます-
では、そういう場面を見るには、山を降りて、街にゆくとか?街にはそれがいっぱいありますよ。山奥にいたら、その場面は少ないですよ。
ありがとうございます:
そうです。こういう山奥に押し込められているということなのです。そういう世界に変わってしまったかもしれません。いつも無限のプラスいっぱいという世界をお祈りしているので、マイナスはないのです。
昔は、病気の人を治したい、治してあげたいと、病気治しを専門にお祈りしていた時期もあるのですけれど、それで、病気が健康に置き換わって、みんな無限の健康いっぱいというように変わってしまったら、最近、病気の人に出会えません。みんな、病気の人いますか?それに、私には健康としか見えないのですから。中には「私ここがいたい」と言いますが、私には無限健康としか見えないのです。みんな健康そのものとしか見えないのです。
-ありがとうございます-
街に行っても、山に行っても、同じようにしか見えないということですか?
ありがとうございます:
そうです。みんな幸せいっぱいとしか見えないのです。
本当に神さまにまかせる、全託というのは
-ありがとうございます-
自分の努力と神さまへの全託とは、どこからが努力で、どこからが全託なのかよく判らないのですが。全託をすれば何もしなくていい、家の中でこもっていればいいというわけではないのでしょう。
ありがとうございます:
そう、違います。本当に神さまにまかせる、全託というのは、神さまのすべての力が中から湧き上がってくるものです。無限の能力が出てくる、無限の力が湧いてくるから、何をしても疲れることはないし、楽しいし、みんなに大きなプラスを、幸せを与えることができます。
-ありがとうございます-
例えば、リストラにあって、神さまに全託したとしますね。そこで、さらに就職活動をしなくていいということではないですよね。
ありがとうございます:
本当に全託できたらば、本当に全託できたなら、神さまの力を受けますから、ただで世の中のためにいっぱい働くと思います。無限のプラスをいっぱい与えようと