真祈り文庫
2001年6月2日 No.2
柏手は「陰と陽」、「左が陽」(火足り)
-ありがとうございます-
五井先生の瞑想の時に、柏手や口笛が入っているのですが、柏手は、例えば、神社にお参りした時に叩きますよね。そのような何か通りが良くなるとか、あるいは口笛でしたら、聞いていて気持ちがいいものですから、それでなさるのかなあ、と思っているのですが、実際はどういう意味か、教えてください。
ありがとうございます:
柏手は「陰と陽」、「左が陽」(火足り)で、「右が陰」(水極)です。陰・陽を合わすと通りが良くなるのです。本当の心の波長に応じた光が強く出るのです。
心境の高い人の柏手は、ものすごい光がほとばしり出るのです。五井先生もやはりそうです。あの小さい体で小さい手で柏手を打って、力を抜いて打っても力士の何十倍もの音を出すのです。凄い音が出ます。小さい手で力を抜いていても何百倍という大きい音が出るのは、肉体の力の柏手ではないのです。「神さまの光のエネルギー」はもの凄いし、やはり心境が高いとそうです。そういう意味で柏手というのは、気持ち良くなります。五井先生の場合は、もの凄い光がずっと出て、心を浄めてくださるのです。
口笛も、人間の体は生命磁気なのです。手からも出ます。額に手を当てて熱を測ったりする、「手当て」と言いますし。また、口から、どこか痛いところへ「フー」と息吹きかけたら、痛みが取れたりします。息吹が自然に口笛に変わるというのもやはり浄めの大きい働きなのです。口笛も自然な口笛が出ているのです。その響きは、大自然の自然な響きがすうっと出ているのです。そういう意味で、本当の浄めの働きがすうっと光が通っています。
だから、このお祈りの練習には、バックミュージックとして、最高だと思います。ただ、いろんな言葉が最初に出てきます、「世界人類が平和でありますように」。やはりこの言葉は、心を広げる意味では必要です。
小さいマイホーム主義の生き方から、大きく心を広げる意味で役に立つし、それに、守護霊さまを認める事も大事だし、守護神さまも大事だし、五井先生というふうに大きい助けを受ける意味でも必要です。
最後にまた「ありがとうございます」もあるのです。すべての一番奥に、バックに本物の神さま、究極のすべてのすべてなる神さまが働いているという、最後の締めくくりが大事なのです。だから、その後の「ありがとうございます」を、ずうっと繰り返されたらいいのです。別に宗派的にしなくてもいいのです、五井先生も宗派的なゆき方で来られたのではないのですから。「宗派を超えてすべて仲良くひとつになる」という意味で来られたのです。ただ、白光真宏会という組織が出来てしまったのです。これも五井先生が作ったのではなく、周りの人が作っただけなのです。そういう意味です。
-ありがとうございます-
今の柏手の事ですが、口笛が入っていますね。私はあのテープを聞いた時、なにか吸い込まれそうになって凄い気持ちが良くって、幾度聞いてもそう思うのです。あれは、どなたがしていらっしゃるのかと、気になっていました。
ありがとうございます:
話し中はお祈りのテープは流れていないのですが、でもここでしているから、そういう響きはずうっと通っているのです。光のお祈りです。だから、このテープを流していなくても、ここでお祈りすると、「響きが強く出ている」と感じる人が多いのです。別に、ここの部屋に来なくても、空耳みたいに聞こえます、この辺り一帯でじっとしているだけで響きが聞こえてきます。普通の会話でも、その中にその響きが通っているのです。誰でもが感じないかも知れませんが、感じる人は感じるかも知れません。
-ありがとうございます-
場所というのはどうでしょう、あるのですか。
ありがとうございます:
「場所」というよりやはり響きなのです。ひとつの響きの場所があったら、その周りはちょっと強い響きが、同じ響きが出ています。そういう意味では、場所もちょっと影響します。…ゲコ、ゲコ、ゲコと蛙の声がする…蛙の声もいい声です。吸い込まれる!
-ありがとうございます-
五井先生の言葉では「世界人類が平和でありますように」という「ように」というのは、わざと断言しない「なりました」よりも「ように」と使っているのは何か意味があるのですか?
ありがとうございます:
あるのです、現実を掴んでしまっている人にとっては、例えば、戦争状態を掴んだ人にとったら、それを放して、断定の世界に入るのは本当に難しいのです。戦争の真っ只中で「ここが完全平和だ」と思うこと自体に相当無理があるのです。本当は断定の世界をしっかり捉えるのが一番いいのですが。それは、もう神さまにお任せして、神さまの方からその断定の世界の完全平和を持って来てもらうというように、やはり「お任せ」なのです。それならば自由になって楽なのです。
-ありがとうございます-
普段自分達が使っていて、断定で言っても、それは…。
ありがとうございます:
本当は、神さまの中に飛び込めたら断定の世界に入れるのです。それもお祈りをしている内に、段々と、断定の世界は本物というふうに感じ取ってゆくのですが、最初は無理せんでもいいと思います。「ように」の方が、神さまにお任せすればいいのです。
だから、無理がないのです。それを無理に断定して「入らないと」というと、ちょっと矛盾を感じるし、「現実はこうなのに、自分は出来ないから駄目だ」と思ったりするし、いろいろマイナス面も出てきます。だから、すべての心境の人に合うように、大きく広く祈り言葉を定めておられるのです。
「やりたい」という「自我の心」で「やりたい」と思う時は
-ありがとうございます-
自分のやりたい事と、必要な事の違いがよくわからないのですが。
ありがとうございます:
「やりたい」という「自我の心」で「やりたい」と思う時は、必要な事と、ちょっとズレがあります。「自我の心」が、あるかないかを判断する方法は、先ず「感謝」が先に立っているかどうかです。「感謝」して、それで「やりたい事」を選んだ時は「必要な事」になるのです。その判断を神さまに一旦お任せして、神さまの方から必要な物を選んでもらって、させてもらうと、その「やりたい事」が、神さまのやらせたい事で、それが「やりたい事」とひとつになります。
決める時に先ず「ありがとうございます」と感謝してから決められたら、自分のやりたい事は、神さまが必要としている事なのです。感謝を忘れてしている、自我が勝っている時は、ちょっとズレてくるのです。
守護霊さまは変わらない、正守護霊さまは
-ありがとうございます-
出会う人が変わったり、出会った人と深いつながりになったり、仕事が突然あちこちで拡大していったりするのは、守護霊さまが変わられたのでしょうか?
ありがとうございます:
守護霊さまは変わらない、正守護霊さまは絶対に変わりません。ただ、応援の副守護霊さまが沢山付いて来るのです。自分が神さまの大きい働きに使ってもらえると、副守護霊さま、副守護神さまが一杯付いて、どんどんどんどん応援しに来るのです。だから、自分は何もしていなくて、皆、背後の神さまが全部してくれているのです。そして、それを受け止めるだけです。
その感謝の心が、どんどん高め上げられてきているわけです。受け切れなかったら、どうしようもないものです。自分を通して何も出て来ないから、受けられる心境に高まってきた、そう高めてもらっているのです。それだけの大勢の神さまの助けを受けて、どんどん大きい仕事のご用に使ってもらったらいいのです。それを「自分の力で」と思うと、ちょっとまた我が出てくると、傲慢になると、守護霊さまなんかはスッと引っ込んでしまうわけです。
ここで、大事なのは「我を出さない事」です。「謙虚に謙虚に、みんな神さまのお蔭なんだ」というふうに感謝していると、応援がどんどん大きくなってきます。
-ありがとうございます-
お金でも必要な時に人に出してもらって、「悪いなあ」と思って受け損ねるような気持ちになる時があるのです。それはどう思われますか?
ありがとうございます:
神さまの大きいプレゼントです。神さまからのプレゼントだから、「ありがとうございます」であって、「あまり悪いからいいです」ではないのです。そこで我を出すと「お金、払わないと」となるのです、その思いはいりません、すべて神さまからの無償のプレゼントです。
神さまは何も要求してこないで、報いを求めず無償で与えてきます。それにはやはり感謝して喜んで受けないといけません。神さまには、感謝する事が本当の大きいお返しなのです。だから、守護霊さまが大勢働いてくださっても、「ありがとうございます」と言うことは、守護霊さまにもお返ししていることになるのです。
だから、「感謝で受ける」ということは、もの凄く大きい働きです。どんどんタダでもらうといいと思います。だから、「ありがとうございます」を、唱える事はもの凄い働きなのです。物やお金に変えられません、「ありがとうございます」を唱えている限りはいくらもらってもいいのです。要求したら駄目で、与えられるままです。神さまの方が「何が必要か」というのを先にわかっているから、必要なものは求めないでも先に与えてくださいます。そこが不思議なのです。
お金が必要でない時、お金を余分に与えてもらったら無駄遣いするし、間違った使い方をしてしまいます。また使わずに貯めとくだけかも知れません。だから、本当に必要な時に必要なだけ与えてもらうのが一番幸せです。
貯めるのも使い道がちゃんと定まって
-ありがとうございます-
貯めるのって、良くないのですか?
ありがとうございます:
それも、貯めるのも使い道がちゃんと定まって、ちょっとプールするぐらいがいいのです。ただ、その貯める目的がマイナスだったら、それが老後の為とか、病気の為とか、そういうマイナスの目的だったら、逆に貯めたら病気になり、いろんなことが起こります。その目的を果たさないと駄目なのです、
本当の大きい目的、正しい良い意味のプラスの目的を持って、その為に必要な資金をある意味でプールするというのだったら、大きい正しい目的の為に、それを活かしてもらえるのです。そういう貯め方だったら、「貯める」というより「準備している」という感じです。
保険を掛けてくれる人が、みんな幸せでありますように
-ありがとうございます-
保険は、どうでしょうか?
ありがとうございます:
保険を掛けてくれる人が、みんな幸せでありますようにと、報いを求めず与える心で出してくださった保険金だったら、それをもらったら幸せになれます。ところが、与え尽くす心ではなく、逆に「たくさん返してもらう」という気持ちで出したお金だと、保険金をもらった人は、そのマイナスの思いを背負うのです。結局、心にマイナスがいっぱいになってしまって、形でお金をもらっているけど、心にマイナスを背負うと逆に苦しむのです。
-ありがとうございます-
お守りのつもりで入るのは、どうでしょうか?
ありがとうございます:
「与え尽くすだけ」だったらいいのです。みんなの幸せの為に、もらうつもりではなく、「与えるだけ」と言うのだったら、それだったらいいのです。
-ありがとうございます-
子供の「車の交通事故」保険に入るのは、お守りのつもりで入ればいいのですか?
ありがとうございます;
事故を想定して?
-ありがとうございます-
そういう事になりますね。
ありがとうございます:
ただ与え尽くすだけという気持ちだったらいいのです。車の任意保険でも、事故を想定しないで、本当に与え尽くす「掛け捨て」に出したらいいかもしれません。その気持ちが大事です。
それも「ありがとうございます」があったら、マイナスもカバーしてもらえます。保険に入っても「ありがとうございます」を唱えたら、そのお金に光を振りまいてくれるし、神さまは、どんな運命でもプラスに変えて、良くなるようにしてもらえるので、やはり「ありがとうございます」を加えた方がいいのです、それがベストです。後は枝葉です、まあ、どっちでもいいようなものかも知れません。全部「ありがとうございます」で大きいプラスに変えてもらうのだから、そのマイナスも小さいプラスも大したことはないのです。
みんな全託というのは、小さい自分の全託で
-ありがとうございます-
「全託」ということは、ある意味では「ぜんぶ任せる」ということですから、少し消極的な感じも受けますが、よく考えるともの凄く積極的なことのように思うのですけど、凄いことなのです。
ありがとうございます:
本当です。みんな全託というのは、小さい自分の全託ですが、本当はそうではありません。神さまに、今見ている世界、これを全部お返しして、そして最高の世界を受け直すことなのです。その最高の世界を受け直す為に、今掴んでいるのを放さないと駄目なのです。全託というのは、「放す」というだけなのです。
ただ、それを放すのでも、それを消してくれるところへ渡さないと迷惑をかけます、古いゴミみたいなものを、人にポンと投げかけても、喜びません。要らないものはやはり神さまに返して消してもらう方がいいのです、そういう意味で神さまにお渡しするのです。それで新しいものと置き換えてもらって、最高の新しいものを受け直す、これが「全託」です。
だから、「ありがとうございます」というのは、全託行です。今迄に受けたものを全部お返しして、新たに最高のものを受け直している、その練習をしているのです。ただ中身は一足飛びには最高までゆかないから、段々と置き換えしてもらうのです。「ありがとうございます」を繰り返している内に、掴んでいるものを放しやすくなるし、どんどんどんどん消してもらって、過去に囚われない自分に必ずなってきます。それで新しい良いものを、たくさん受けられるように、感じられるようになってくると、自然に放すしかなくなってくるのです。
新しいものの方がいいのです。それも常に、無限の無限の輝きとして、新しい宇宙がどんどんどんどん生まれてきます。心太式に押し出されて来ているのです。それを受けない方が本当はおかしいのです。実際は、太陽の無限億万倍の大光体が、もの凄いスピードで押し寄せてくるようなものです。この世の太陽より、もっともっと大きい幸せの塊が、どんどんどんどん神さまの方から降り注いできているのです。
「早くそれを受け取れる自分になる」というのが大事なのです。それが「ありがとうございます」を繰り返して唱えている内に、受けられる自分になるのです。それも「早く受けたい」と思わなくてもいいのです、自然に変えてもらえますから、「ありがとうございます」と唱えていたら、神さまが全部してくれます。これはもう、自力ではありませんし、他力でもありません、「神さまの絶対力」の働きなのです。自分がどういう状態でも関係ありません、「ありがとうございます」を唱えたら、助けが受けられるのです。
-ありがとうございます-
「全託」と、「全肯定」すべてを受け入れる、よく似たような印象を受けるのですが、「全肯定」というのはどういうふうに
ありがとうございます:
「何を肯定したらいいのか」です。過去の古いものを肯定したら新しいものを受け損ないます。神さまにとったら何を肯定して欲しいか?今の一瞬に現れる最高表現を肯定して欲しいのです。過去は一切肯定して欲しくないのです。
例えば、無限の無限のチャンネルがあっても、一番上の番組だけを肯定して欲しいのです。次元の低い番組の方は、肯定して欲しくないのです。本当の「大肯定する」とは、やはり、最高表現だけを一瞬一瞬肯定し直すことです。わざわざ低い次元を肯定しなくても、大肯定の中に全部含まれているのです。必要だったら低い次元もわかります。でも、それをいつもわかっていたら困るのです、低い次元の事がわかった時は、最高表現を見失っているのです。本当の大肯定、本当の全託というのは、「無限に無限に良いものばっかり!」という最高表現を受け入れることです。
全託も大肯定も、本当は言葉の使い方ひとつなのです。無限に無限にプラスの言葉を駆使することです。本当に使いこなさないと、全託も大肯定も出来ません。だから「無限の無限の幸せが一杯」というのです。その言葉を使い続けたら、いつも幸せを受けられるのです、無限の無限の幸せを、それだけをまた大肯定出来るのです。
そういう生き方が本当は正しいのです。小さい幸せは相手にしない方がいいのです。小さい幸せを掴むと、大きいものを見失います。「この世がすべて」と思うと、無限の次元の他の世界がわからなくなり、もちろん最高表現もわからなくなるのです。この世に執着する、掴む事も間違いだし、またこの世の中の小さいものを、もうひとつ小さく掴むのも間違いです。
今見ている世界は、本当に移り変わる姿として、遠く離して眺めないと、掴んだら駄目なのです。もう自然にさらさら流すような感じで、遠く離れて眺めるというように。
「光源」をしっかり認めて、それで最高表現を認めてゆく。「光源」を見ながら光の流れを眺めるのだったら、引っかからなくなるのです。般若心経の「色即是空、空即是色」を、本当にわからないといけません。「空」が光源で、「色」が光り、というふうに見て、「光源」に背を向けた「色」は、本当の「色」ではありません、光源をまともに見てそこから現れる光を認めた時が、本当の「空即是色、色即是空」です。いつもすべてのことが「神さまの現われ」と認めると、そこにはマイナスはありません、小さいプラスもありません。「無限の無限のプラスだけ」という見方なのです。
本当は深い意味があるのです
-ありがとうございます-
光源って?
ありがとうございます:
本当は深い意味があるのです。まあ「光」と、「光の源」を「光源」と見ると、「絶対」でもあり、「光源」でもあるのです。だから「空」は何も無いのではありません、無限の無限のプラスが一杯というのが「空」なのです。
-ありがとうございます-
ありがとう、になっちゃうのですか
ありがとうございます:
そうそうそう、そうです。
なって来ると思います。ただ、日本人が
-ありがとうございます-
日本人同志なら「ありがとうございます」で話し出来るのですけど、海外の方も「ありがとうございます」を勧めた方がいいのですか? 言霊の違いがあるように思うのですが。
ありがとうございます:
なって来ると思います。ただ、日本人が「ありがとうございます」をしっかり唱えて、本当に神さまと対面し、幸せを掴んでしまったら真似するしか無いのです。他に言葉があればいいのですが、なかったらその言葉が世界共通語になるのです。だから、これをぴったり表現できる外国語があれば、その言葉でもいいと思います。でも、ちょっと足りないかも知れません。
-ありがとうございます-
文字で書く時はひらがなでいいのですか?
ありがとうございます:
漢字では意味がちょっと限定されてしまいます。例えば「難あり、有り難し」とか、「神仏の働きがあって存在しているのだ」というので、「神さまがなかったら存在しないのだ」という意味だったら、限定され過ぎて小さい意味になるのです。だから、もう「ひらがな」で、言霊の響きをそこから感じる方がいいと思います。
-ありがとうございます-
カタカナとの違いとかは?
ありがとうございます:
それは別にありません。
-ありがとうございます-
この文字の縦書き横書きが、世界中に広まればいいのです!
ありがとうございます:
そうです。ただ別に、この日本字でなくてもいいかも知れません。
-ありがとうございます-
例えば「ローマ字」であれば
ありがとうございます:
いいのです、響きがあるので、それでいいのです。
-ありがとうございます-
ローマ字で書いて「ARIGATOUGOZAlMASU」って書いて向こうの方に読んでもらう。
ありがとうございます:
響きがあればいいのです。
「無い」というのは、「無常」という捉え方です
-ありがとうございます-
先生は、「人生の目的は?何故生きとるのか?」ということを探求された時期があったとお聞きしていますが、最近、ある作家が、「人生の目的は無い」という、そういう境地に達した、という文章があったのですけど、最後は「人生の目的は無い」というふうに言うと、ちょっと寂しいような気もするのですけども、どういうふうに考えたらいいんでしょうか?
ありがとうございます:
「無い」というのは、「無常」という捉え方です。厭世的に捉えるか、楽天的に捉えるかです。バックに神さまがあったら、無常ほど楽天的に見える事はないのです。「無限の無限の輝きが一瞬一瞬に変化し続ける」というのが、神さまがバックにあるから言えるのです。
「無常」というのは「常で無い」、変化し続けるというのは、最高の素晴らしい働きなのです。同じ物が続いたら、飽きてきます、もうすべてが、大したことない。一瞬一瞬置き変わるということ、変化するということ自体が、神さまの最高の働きです。だから「無常は」無限に本当はもう無限に明るい見方なのです。
ところが神さまを認めていない人にとったら、無常はもう本当に虚しい、侘しい、暗くなってしまうのです。だから、今あるものを掴みたいのです。変化してしまうから、掴もうとしても掴めないのです。「何も(かも)無くなるという感覚なのです。だから、「人生の目的」というのも、神さまがなかったら本当の目的は掴めません。
その作家の言われる事は、神さまが無いのです。無いから「人生の目的はない」というところまで辿り着くのです。本当の虚無的な厭世的な考え方です。気の毒です。それはもう、悟りの境地でも、達観した境地でもなんでもありません。本当の諦めでも、明らかに見る諦めではなく、もう絶望的な諦めです。
-ありがとうございます-
その後に「ただ、生きる事が大事だ」と。
ありがとうございます:
そう、ちょっと虚しい。それは、「神さまに生かされている」というのが本当なのです。「神さまが生きている」というとこまでゆかないといけません。肉体人間が生きているのではないのです。ただ自然に、勝手に、動いているのでもなく、神さまの最高の意志が働いて、すべてを生かして変化させて働いているのです。本当に「神さまが生きている!」というのだったら、「神さまが大きく働いている」というのだったら(良いのですが)、ただ「生きている」では、ちょっと、まあ言葉の遊びみたいな感じです。
-ありがとうございます-
要するに、どんなに苦しくても、どんなに辛くても、マンションの上から飛ばずに、とにかく生きる、ということ、そのことが尊い、という言い方だと思うのですけど。
ありがとうございます:
やはり、神さまは無いのです。神さまを無視しています。「どんなに苦しくても」といっても、神さまは苦しみなんて絶対に与えないのです。無限の無限の楽を与えてくれているのに、それを受け切らないから、受けないからマイナスの苦しみがあるだけなのです。
-ありがとうございます-
ということは「そういう番組の主人公」ですか?
ありがとうございます:
その低い番組に波長を合わせて、囚われた状態に入りきっています。それは神さまの願いではなく、早く、神さまに心を向けて「最高の番組を受けて欲しい」と神さまは願っているのに。苦しい言葉の「無」という言葉で「自分は悟った」と思って、「安らぎの心を得た」と思っているお坊さんがたくさんいますが、そんなものは悟りでも何でも無いのです。心が安らいでいるか、安らいでないかなのです。ちょっとしたことで心は動転してしまいます。
「無」という言葉は駄目です。「何も無い」といったら、地獄のどん底よりもっと低いかも知れません。地獄は、まだ痛みがあるし、苦しみがまだ残っていますが、「何も無い」というと、それすら無いのです。意識も無くなるかも知れません。そしたら本当に何も無いと言ったら、何の価値もないのです。
「頑張る」という言葉も、どういう中身かという
-ありがとうございます-
世間の人は、よく拳を上げて「頑張る、頑張る」とやってますが、私はそれ聞くと疲れるのです。その「頑張れ」という人に「ありがとう」と言うと、よく「頑張れ」って言われるんで、いつもそう思ってしまうのです。
ありがとうございます:
「頑張る」という言葉も、どういう中身かというのが大事です。別にその言葉は駄目だというわけではないのですが、まあ「全力を出し尽くしなさい」のような感じだったら別に悪くはありません。
ただ、自我の・自力の心で「頑張る」というのは、神さまを無視した働きだと限界が来て、頭を打って、やはり何も実らないのです。それを、まだ「頑張ってない」というふうに見ると、人を責めたり、マイナス見たりするかも知れません。「本当の頑張りとはどういう頑張りか」「じっと座っていたら頑張りじゃないのか?」となってきます。
-ありがとうございます-
みんなに合わせての頑張りかも知れませんね
ありがとうございます:
動き回るのが「頑張る」という意味でもないのです。
-ありがとうございます-
今のお話と関係するのですけど、「成功を信じ、諦めず、努力するところに道は開ける」という文章があって、努力する事の好きな人、あんまり努力しなくてむしろ神さまの方に向かっている人、どちらかというと努力タイプの人、「人事を尽くして天命を待つ」というやり方、これはこれでいいんでしょうか?
ありがとうございます:
でもそれは自我を生きている低い段階です。本当にお任せして、感謝行の中で神さまが働き出したら、神さまが全部するのです。してくださるから、傍目で見たら人の何倍も努力している姿に見えるのですが、本人は「何も努力していない」と言ます。「勝手に動いている」と言う、「自然に動いている」と言う。努力という言葉はなくなります。そういう方が本物です。
努力も神さまにさせて頂いている努力だったら、本当の努力なのです。「成功」と言っても「何が成功か?」と。自我の心で何か目的があって、それを掴んだら成功なのか知れないのです。
でも神さまの成功というのは何かというと、神さまの最高表現そのものが成功なのです。無限の無限の大成功そのものなのです。だから、今の一瞬一瞬がすでに成っているのです。それを受けたら「人の成功」です。感謝を究めて受け切ったら、神さまの大成功の姿を受けるのです。結果をそのまま受けてしまうから、努力も何も要らないのです。
-ありがとうございます-
努力しているより念力しているような
ありがとうございます:
低い番組ではそうです。
この世の番組で「時代の移り変わり」を
-ありがとうございます-
時代時代による「神さまの現れ方」、例えば、百年前だったらエゴをガンガンやるような、その、今何か変化しているのを感じているのですが。
ありがとうございます:
この世の番組で「時代の移り変わり」を掴むのは、この世の番組から抜け出していないのです。別な番組だったら別な歴史があるのです。もうひとつ自由になって、どの番組も自由に受けられて、その番組の無限の歴史をいつでも瞬間に抜ける方がいいのです。そうしたら見方が、自由に変わって来ると思います。
今の自分がすべての番組を抜け出たら、もう歴史なんて相手にしないでも、最高表現の歴史を見たらいいのです。本当の姿は、今の一瞬に宇宙の始まりであり完成なのです。その最高表現の中に、すべての時間とすべての空間が、全部完成された姿で一瞬に現れるのです。その中には、無限の過去と無限の未来が同時にあるのです、そして今の一瞬が最高に輝いているのです。
例えば、花一本、チューリップが開いてるとします。そのチューリップの花の歴史がずうっとあるのです、親が、親が、…、…、というように。無限の昔をさかのぼったところに最初のチューリップの花があるのです。そしてまた未来にずうっと子孫が続いていて、その全体の中の、今の一本の自分の花が開いている、ぜんぶ輝いているのです。一本だけ輝いているのではなく、自分のバックにそれだけのチューリップの花があって輝いています。他のもぜんぶ同じです。
だから、今の一瞬の最高表現の歴史が無いのではなく、逆に無限に無限に輝いた歴史の全部があって、「今の一瞬が最高に輝いて見えている」というように。低い次元だとそこまでゆかないのです。マイナスもありプラスもありで、マイナスの繰り返しを何回も繰り返して、どんどん良くなった姿になったり、いろいろです。
-ありがとうございます-
チャンネルを高い方に合わせてゆく為には「ありがとう」をずっと言っていれば、逆に自動的に上がってゆくものなんでしょうか?
ありがとうございます:
上がってゆきます。もう一番最短コースで上がってゆくのです。やはり神さまの力が一番強いのです。神さまを呼び続けて神さまにお任せしたら、今の自分に合わせて的確な働きをしてくださるから、神さまのする事はやはり完璧です。次の一瞬また自分に合わせて、また必要なものを的確に与えてくださいます。それが連続すると、やはり最短コースで良くしてもらえるのです。
-ありがとうございます-
神さまにチュウニングするという感じなのですか?
ありがとうございます:
そうです。「ありがとうございます」というのは、本当の究極の神さまを呼び続ける事なのです。呼べばすうっと現れて答えてくださるのです。ただ、本当の神さまは一番謙虚なのです。無限に無限に謙虚なので、みんなの自由を束縛しません。それが一番の問題なのです、自由にさせてくださるのです。
明るい方から暗い方を見るのです
-ありがとうございます-
お宮さんにお参りにいったら、「鏡があるだろう、神棚にも鏡があるだろう。(か、が、み)の「が」を取ったら神さまになるぞ」って。やはり自分の「我」というものは、なくしたほうがいいんでしょうか?
ありがとうございます:
明るい方から暗い方を見るのです。例えば、外が暗闇で、透明なガラスだったら、部屋の中に電気が点いたら明るくなり、鏡になります。でも昼だと中に電気を点けても外の方が明るいから、ガラスすごしに外の景色が見え、光が見えます。
神さまというのは、「輝く姿」と「鏡の姿」の両方の働きをしてくれるのです。自分が、本当の神さま、根源の光の方へ向いた時、「ありがとうございます」と向いた時は、周りが明るく見えるのです。神さまを感じるから鏡ではないのです。
ところが神さまに背向けた途端に、闇の方へ向くのです。暗い方へ向くと、みんな鏡に見えます。今の自分の心を映す鏡になって環境が出てくるのです。
だから「ありがとうございます」と唱えている時は、輝いて見え出すのです。「ありがとうございます」を忘れると、本当の神さまを呼んでいないと、自分が神さまに背を向けている状態なのです。そうすると、その心境に応じて、周りにいろんな鏡に映る姿が見えてくるのです。
神社の神さまの御神体を鏡にしたのは、そういう二通りの意味があるのです。「本当の輝きの姿を見て欲しい」のです。また、「暗い方へ向いたら、鏡の姿で見せます。反省してもう一回神さまに向きかえってください」というような意味です。
「ありがとうございます」を心で唱えて
-ありがとうございます-
仕事している時、感謝してやっているのですけど、夢中になっている時に「ありがとうございます」を忘れる時があるのです。気づいた時反省するのですが、これって大事ですか?
ありがとうございます:
「ありがとうございます」を心で唱えて口で唱えて、これもずうっと続くのもいいのですが、年の初めに一回、深く「ありがとうございます!」と言ったら一年続くのです。ただ、マイナス