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2001ねんがつにち No.2



         ほんとくに「みち」とつくものがおお 

-ありがとうございます-
 つなきのしゅうれんをされているとおきしているのですけど。そのいというのか、もしおしえていただけるのならおしえていただきたいとおもいます。

ありがとうございます:
 ほんとくに「みち」とつくものがおおいのです。どうにしてもいろんなならごとでもそうです。「みち」とくものはやはり「みちわたっているもの、かみさまといったいする」というがあるのです。「さとりをもとめてかみさまといったいしたい」というねがいをって、いろんなことをするのです。
 つなきも、らいからのつなきというのは、かみさまといったいするためのものだったのです。そういうでは、「きょう」というあらそいではなしに、ほんとうぶんいだすための、ほんとうぶんすための「つなどう」というのがほんとうそうではないかとおもうのです。
 「つなきょう」と「つなどう」とはやはりもくてきほんとうちがうのです。「つなどう」のほうはやはりさとりをもとめてかみさまといったいしたい、というねがいをってするのです。そのためにず「こころってもらう」。こころほうほうはいろいろあります。
 だから、いたみとか、しんどさとか、いろんなげんかいやぶりをすることによって、こころはやしてもらえるのです。つう、「こころ」というのは、やはりかみさまになみちょうわせにくいのです。ぶんかっなみしてしまうので、ひくなみにあってゆくというところがあるのです。やはり「こころ」をどんどんってもらってはじめてかみさまにちょうわせてゆけます。それもさいこうひょうげんこころちょうちかづけてゆけるのです。
 だから、どんなどうもそうですが、さいしょは「をとる・くせるためのしゅうれん」をするのです。つぎただしいかたわすほんとうしゅうれんをするのです。そしてそのただしいかたわせて、こんはぜんぶてないといけないのです。ぜんったところから、ほんとうゆうざいかたまれてきます。そのときはじめてかみさまのあしとなって、かみさまのごよう使つかってもらえるぶんです。それをやはりしているのです。 
 だから「つなどう」は、げんかいやぶりにちょうせんして、してもらってただしいかたわすれんしゅうもして、くのではなく、かみさまにみちびかれてただしいかたれんしゅうして、かんしゃほんにするのです。かんしゃふかめながらかみさまのよう使つかってもらって、かみさまがぶんってつないてくださる。そういうじょうたいになったときに、ほんとうひかりかれるじょうたいになるとおもうのです。
 だから、ほんとうでは、かいへいしています。きゅうへいらしいかいえてゆきたい。そのためのかみさまのごよう使つかってもらえるぶんになってゆこう、というのです。
 それをおたがいがたすってそのさをうのです。だから、いっしょっているなかを、れんしゅうしにってあいって、ぶんのチームというなかも、あるではおいのりもそうじょうこうこす、というひとでするよりはふたふたでするよりはさんにんおおほうこうおおきくなります。おいのりもふかくなるし、おおきいちからけるし。また、おたがいにしんどいトレーニングをんでも、はげましうとらくになります。だれひとげんかいやぶれるとひともすぐにげんかいやぶれるのです。
 また、たいせんあいのチームともおたがいのさをしあうというだったら、かんしゃこころきあがってきます。そういうプラスめんをいっぱいった「つなどう」をしているのです。おくふかいのです、なかなかたいへんなのです。

-ありがとうございます-
 つなきをえらばれたというのは、ひとつはだんたいひとじゃなくて、たとえばあいどうとかいろんなほうほうがあるとおもうのですけども。そうじゃないところというのは、やはりグループでやるということと、そのげんかいやぶるというじっかんがしやすいのですか。

ありがとうございます:
 やはりグループのほうたすいのそうじょうこうこしやすいというと、つなきはぶんさずにむのです。「ぶんがどれだけつよいから」といってもわからないのです、ぶんがどれだけいているとっても、はたからたらわからないのです。ぶんさずにみます。それでうしろへるのは「けんきょになろう」と、まえるのではないのですから、バックするのです。かたちうえではバックしてけんきょになる、ということです。
 それと「だれでもできる」というところがいいのです、ほんとうは、ちいさいどもでもおとしりでも、もともとかみさまごとつなきはそうです。つな・ロープたいかみさまのちゅうそうぞうはたらきをあらわす「かみさまのからだ」というふうにるのです。それで「かみさまにれる」という、そういうで「にぎるだけ」というのでもがあるのです。「かみさまをとおしていったいする」という、ロープをにぎることによってみんながいったいしてゆくんだ、というもあるのです。

-ありがとうございます-
 たんでんきたえるとか、そういったいかなあとおもったりしたのですけど。それよりいまおっしゃったようないなのですか。

ありがとうございます:
 はい、こんぽんは。いろんなたんれんになります、もうかなりきついですから。
 こしたんれんようつうでもすぐなおるぐらいです。ほんとうです、れんしゅうなおせばほんとうつよこしに、あしこしになるのです。つなきできたえたひとはマラソンでもかんたんはしれます。だんマラソンのれんしゅうをしていなくってもです。いろんなめんたいりょくがります。みなさんもどうですか。それもみじかかんこうおおきいのです。ただ、それもまいにちしないと、いちねんいっかいぐらいだったらもうあとでとてもいたくなります。うんどうかいいてもそうです、いちねんいっかいおもいたら、もうあしこしあとたいへんです。まいにちいているとらくなのです。いいですよ、はしらにこうしばって・・・。

-ありがとうございます-
 ルールとかおぼえなくていいですよね。シンプルで。

ありがとうございます:
 けをかんがえるといろいろテクニックをひつようとしたりするのですが。ほんとうはそんなことはあまりたいしたことではありません。もくてきを「かみさまといったいする」とさだめたらたのしいのです。


 ここへられたかぎりは「ありがとうございます」の 

ありがとうございます:
 ここへられたかぎりは「ありがとうございます」のほんとうってかえらないとなので、そのせつめいもちょっとさきにしておかないと。なんかいおなじことをはなしているのですが、はじめてのかたもおられるので。
 「ありがとうございます」ということは、ことだまかいしゃくしたときにただしいがわかるのです。

 どういうっているかというのは、これはきゅうきょくかみさまのまえなのです、さいふだのようなものです。いままでにもたくさんしんぶつまえてきて、それぞれに「これがさいこう」だと、みんなしんこうしているのですが。それがかいおおきいしゅうきょうせんそうげんいんになっているのです。あらそいのいちばんげんいんになっているのです、これではこまります。
 だから、さいふだでみんなをなかくさせるさいこうかみさまのまえとしててきているのです。このこともどればみんななかくするしかないのです。そのかみさまとは、「ほんとうかみさまとはなにか」これがいちばんだいなことなのです。
 ほんとうかみさまは「すべてのすべてなるかみさま、ゆいいつぜったいかみさま」です。だからたくさんの「かみさま」というのはまだまだなのです。ず「かみさま」ということげんからかんがえてみたいとおもいます。だいたいいつつにけて、かみさまのはたらきをかんがえてみるといいとおもうのです。

 ず、「ぜったい」という、ひょうげんあらわれるまえの、そうたいりょうきょくかれるまえの、「ぜったい」というのがあるのです。それは、ちょううみたとえていうと、うみがあってひょうめんなみこります。うみぜんたいを「ぜったい」とて、ひょうめんかぶなみを「そうたいひょうげん」というふうにるのです。それぐらいおおきいちがいがあるのです。
 「ぜったい」と「そうたい」のちがいは、「ぜったい」はもうそこれぬほどおくぶかく、ことひょうげんできないものがあります。そのなかに、ひょうげんてくるすべてがげんぜんさいしょからそんざいしているのです、さいしょからです。
 そのひょうげんあたらしいものをどんどんすのですが、「おなじものをふたつとつくらない」というだけのものが「ぜったい」のなかにはすべてそなわっているのです。「おなじことをかえひつようのない」だけのものを「ぜったい」のなかにはすべてっているのです。だから「ぜったい」というのはものすごいものなのです。
 そのぜったいなかから「そうぞう」のはたらきがてくるわけですが、そうぞうはたらたいも、わたくしたちがものつくかんかくとはぜんぜんちがうのです。「ぜったい」にある「そうたいりょうきょく」をぜんりょうほうけて、それを「せんじょうわせて」ふくざつげんというぐらいの、ものすごわせのはたらきがあります。そしてすべてをかんぺきに、すべてをくして、わせたひょうげんというのが、かみさまのさいこうひょうげんなのです。
 だから、さいこうらしいひょうげんだけがあるのではありません。そのなかに、いちばんしたからいちばんうえまでぜんそろうのです。そして、ちょうてんさいこうひょうげん姿すがたがあって、それぜんそうかつしたのがほんとうさいこうひょうげんになっているのです。
 だから、かみさまのひょうげんほうそうばんぐみたとえると、
 げんのチャンネルがまれます。マイナスげんだいからプラスのげんだいまで、げんのチャンネルがかんぺきされるのです。プラスげんだいひょうげんというのが、さいこうのこれじょうぜったいない、というだけのらしいひょうげんになっています。そうしたらマイナスのさいていひょうげんはどうかというと、
 これもマイナスがいっぱいの、これもさいこうけっさくひょうげんなのです。このひとつひとつのチャンネルのなかに、またそれが、こまかくけると、げんかれます。たとえば、このというひとつのチャンネルがあったら、このげんこまかくけられるのです。だから、げんげんのチャンネルがかみさまのなかから、いっしゅんいっしゅんされてゆくのです。このさいこうひょうげんちょうてんにして、もうすべてをくしたひょうげんげんぜんいっしゅんいっしゅんあらたにまれてきているのです。
 そしてかみさまはそのさいこうひょうげん姿すがたを「げんげんかがやいた姿すがた」というふうにて、たとえば、しんとうだったら「あまてらすおおかみ」というんでいるのです。だから「ぜったい」をなかって、「そうぞう」のはたらきをなかって、そしてさいこうかがやいた姿すがたで「あまてらすおおかみ」という姿すがたをとっています。「ありがとう」というのはこの「あまてらすおおかみ」というまええてもいいのです。
 その「あまてらすおおかみさま」がぶんしんつのです、げんげんぶんしんを。これはやおよろかみさまとそのまえぶのです。やおよろかみさまといっても、はっぴゃくまんではないのです、かずかぞれないげんげんなのです。そのはたらきにおうじてまえぜんちがうのです、そのはたらきがこまかくけるとげんげんかれます。ひととおりではありません。
 そのかみさまのじんつうざいはたらきがこんかたちあるものをすべてしてきます。それはかんろっかんのです、かんかくかんじられるかいぜんそうです、ありとあらゆるかいひょうげんじんつうざいかみさまによってされた姿すがたになっているのです。このぜんたいぞうぜんをとらえて、「ありがとうございます」というかみさまのまえがそこにまれるというじょうたいなのです。


 「あ」というのが「ぜったい」という「こうげんひかりいのちほんげん」というのが「あ」すべてのはじまり。

 「り」が、「せんじょう」にすべてがされてわさってゆくというで、らぎょうおんの「り」を使つかっています。 

 「が」が、「か」をダブらせて「かがやきにかがやく」というで、「げんげんかがやいている」というのが「が」。

 「とう」というのが「じゅう」にみて、たてよこわせとてもいいし、また「ありがたし」のたぎょうおんとさぎょうおんというふうにけたときは、たぎょうおんたてで、さぎょうおんよこです。そうたいわかれたりょうきょくたてよこわせてひとつのものをつくりあげるのです。

 だからぜったいげんげんさらげんだいこうげんしゅっぱつてんにあって、そこからふくざつげんそうぞうかつどうおこなわれて、げんかがやいたさいこうひょうげんされて、それがかんぺきわさってほんとうぜんだいちゅうという姿すがたをとっているのです。これが「ありがとう」というです。これがさいこうひょうげんのほうです。

 それがげんじつしてくるていが「ございます」なのです。

 「ご」というのは「こ」をダブらせて「かたまってかたまって」、「ぶっしつして、ぶっしつして」というがあるのです。さいこうひょうげんぶっしつしてくると、またいろんなひょうげんをとってきます。かたまることによって、たましいてきなものにもなり、さらかたまることによってぶっしつてきぶったいてきなものになってくるのです。
 だから「いちれいこんいちげんたい」、ほんとうかみさまからまれてくるのです。

 「ざ」は、「さ」をダブらせて「さらさらながれる」、さらさらながれるこのひびきがいいのです。ちゅうのすべてがさらさらとうつわっている。ひかりながれ、いのちながれがあるのです、それは「さわやかな、清々すがすがしい、らしい、てきな」といういいひびきがあるのです。それがぜんうつわっているというが「ざ」です。

 「い」というのは「いのち」、きているというです。たんなるうつわっている「もの」ではないのだ、ほんとうきている「もの」なのだという。いのちやくどうしてかがやいているのだ、というです。

 「ま」というのが「かんぜんな、かんぺきな、まったき」。

 「す」が、また「ぜったい」のちゅうしんに「とういつ」されてもどる、というがあるのです。

 「ます」というのは、「かならえる」というで、いまあらわれたものがさらに「おおきくくなる・える・さかえる」というで「ます」になるのです。

 だから、ぜったいからあらわれたげんげんかがやいたものが、げんじつのこのにまでぶっしつしてぶっしつしてあらわれて、それがかんぺきひょうげんをとって、またそれがあらわれてはちゅうしんへ、ぜったいもどってっている、というで。ぜんじゅんかんしているというふくまれているのです。
 だから「ありがとうございます」でかみさまのはたらきのぜんあらわしているのです。


 「かみさま」ということも「かくかみ」がぜったいです。
 「かみ」がそうぞう
 「かがかみ」がとういつ
 「かけかみ」がじんつうざい姿すがた
 「かぎかみ」でげんじつさせるのです。

 ず「かくりみ・かごりみ・かがりみ・かけりみ・かぎりみ」といういつつのはたらきをぜんっていて「かみ」なのです。「ありがとうございます」でそのぜんふくまれているのです。だからきゅうきょくかみさまのまえ、すべてのすべてなるかみさまのまえなのです。

 わたくしたちがいろいろしんこうしてきたしんぶつまえというのは、どれかにかたよっています。ぜんたいではないのです。
 たとえば、かけかみさまはげんげんにいるのです。「わたくしさまをしんじています」といっても、かけかみさまのひとつです。「わたくしかんのんさまをしんじています」もそうです、(それでは)かけかみさまはひとつだけなのです。だから、「あまてらすおおかみさま」をしんじていますとってもほんとうの「あまてらすおおかみさま」をしんじているひとほとんどいないのです。
 たとえば、じんぐうさんにまつられているようなかみさま、それはちいさいのです。また、こうしつせんちいさいかみさまです。また、あるときにくたいってがみさまとしてまれたかみさまはもっとちいさいのです。
 ほんとうの「とういつしん」という「あまてらすおおかみさま」とわかってしんじているひとはいないのです。かけどうていの「あまてらすおおかみさま」、そのていしんじているひとおおぜいいます。
 ほんとうかみさまをしんじるというのは、たいへんなのです。たとえばここらでたいしゃがあります。かみさまが「あまてらすおおかみさま」のおやだというのです。でも、そんなことはぜったいにありません。そんなかたではならてているだけです、こっちはおやでこっちはどもというように。だからほんとうかみさまのをぜんぜんとらえてないのです。

 かみさまをそうぞうしんるんだったら、この唯一ゆいいつ無二むにぜったいかみさまのそうぞうはたらきのまえなのです。「あまてらすおおかみさま」のまえ使つかうのだったら、ちゅうぜんたいとういつするはたらきのまえなのです。唯一ゆいいつ無二むにぜったいかみさまのかりまえなのです。
 おなかみさまのはたらきのちがいでかみさまといったり、「あまてらすおおかみさま」とったりしているだけです。おやかんけいはないのです。おなかみさまをしているのに、べっかみさまとることたいおおきいちがいです。ほんとうをぜんぜんとらえていないというところがあります。
 それでいてじんじゃにいるのかと、そういうのでもありません。ほんものかみさまは、ちゅうぜんたいです、そうぞうかみさまはちゅうぜんたいです。いまあらわれたさいこうひょうげんちゅうほんとううずじょうのゴオーっというようなものすご姿すがたはたらきが、このそうぞうかみさまのはたらきです。ほんとうは、こんなことひょうげんできるものではありません。
 「あまてらすおおかみさま」とっても、こんなにくがんたいようているような、そんなちっぽけなものではないのです。げんげんかがやいて、まだげんげんかがやいている、というぐらいのすごはたらきのかみさまです。だから、たいようなんかつぶのようにえてしまいます。にくがんえるたいようなんかやみほうちかいのです。そのぐらいのおおきいはたらきをするかみさまです。
 ほんとうかみさまというのは、そういう「ぜったい」と「そうぞう」と「とういつ」と「じんつうざいかけ姿すがた」と、そして「あいこころゆうげんていし」て「すべてのすべて」です、ぜんだいちゅうのすべてのすべてをあらわしているのです。このぜんそうかつしないといけないのです。ぜんたいをひとつにそうかつしたときに、ほんとうかみさまをあるつかめるのです。

 だからわたくしたちひとひとなにしているか、なにもとめているのかとうと、このほんとうかみさまにちかきたい、いったいしたいのです。ほんとうかみさまがほんとうぶんなのです。だから、ほんとうかみさまとぶんとは、もとからいったいなのです。ほんとうかみさまといったいというかくもどりたいだけなのです。
 そのいったいであるかくじゃしているのはなにかというと、これはぶんとらわれすぎたらそうなるのです。ぜんたいとひとつになっていたらいったいかんくわかるのです。ところがぶんだけを「これだけがぶん」とつかんでしまって「これしかない」とつかんだたんに、ぜんたいはなれるのです。だから、「ぶんつかみすぎる」というがあるのです。
 そうしたら、そのぶんつかむのはなにつかむのかです。こころでも「おもいのほう」です、「おもい」がつかむのです。おもうことによってつかんでしまうのです。とくつかんでちいさくなってゆくのがそうです。だから、おもわなかったらいいのです、ほんとうは、なにおもわなかったらなにつかまないのです。さらさらながれるのをるだけなのです。なにおもわなかったらちいさいぶんつかまずにむから、いつもかみさまだけが「さらさら」ながれているかんじです。だから、かみさまがぶんなのです。

 「さとりをひらく」というのでも、じゃしているものがえたらいいだけなのです。もともとみんなかみさまといったいでしかないのです。はなすことなんかぜったいのうです。もともとさとっているぶんしかいないのに、かみなるぶんしかいないのになにほかにあるようにさっかくしたりおもんだりしようとしているだけなのです。それをじゃするものをなくせばいいだけです。だから、いろんなつまらんおもいをおもわなくなればいいのです。いっかいおもったものはまっているかもれないから、それをかみさまにあずけてしてもらうだけです。
 おもいをこさないためにも「ありがとうございます」とかんしゃこころこせば、ぜったいおもいはこらないのです。かんしゃひかりだから、おもいはこらない、えるだけです。かんしゃすることによって、またおもいもしてもらえます、ぜんえてゆくのです。

 「ありがというございます」というのは、もうかみさまのはたらきのぜんあらわしているのです。もうひかかがやいたはたらきをぜんあらわしているのです、そのなかにあるのです。「ありがとうございます」をとなえたたんにそのひかりあたえてもらって、けて、けっがそのままてくるのです。
 ただ、このかみさまはげんげんけんきょなのです。だから、でしゃばってこないのがいちばんもんだいなのです。おもいをしたたんにこのかみさまはむのです。ちょっとすだけで、かみさまはけんきょんでしまうから「どうぞどうぞ、きにしなさい」となります。ぜったいひとゆうしばってこないところがこまるのです。

 いろんなことをひとはそれぞれにあるていたいけんしてみて、それでさいもどるところは「ありがとうございます」なのです。
 はやもどってしまうほうがいいのです、はやもどったほうこころやすらぐのです。でも、さいしょから「ここにいなさい」ではないのです、「ちょっとゆうあそんでいらっしゃい」とされます。
 それはかみさまからたらそうだとおもうのです。もうさいこうのものをさきあたくしておいて、そのかただけをゆうに「どうぞどうぞ」とっているのです。だから、どのげんげんばんぐみがあっても、どのばんぐみあじわってもゆうだし、さいしょから「さいこうのものだけをあじわいなさい」とはわないのです。そのどのばんぐみかみさまからるとそれぞれのそんざいがあるわけです。ひくばんぐみにしても、たかばんぐみにしてもそうです。まったがなかったらつくらないから。

 でも、かみさまはいろんなばんぐみがあっても、さいさいこういちばんうえばんぐみあじわいつづけてしい、というのがほんとうだとおもうのです。ごくばんぐみをいつまでもあじわってしいわけはないのです。マイナスのあるようなばんぐみはやそつぎょうしてしいとおもうのです。そしてさいこうのプラスばかりのこれじょうひょうげんぜったいありない、というぐらいのさいこうばんぐみいっしゅんいっしゅんあじわいつづけてしいのです。それも「いちばんけんきょこころさいていじょうたいからなおしてほしい」というのがほんとうだとおもうのです。それができるようになるためになにひつようか?「ありがとうございます」とかみさまをぶだけなのです。

 いまぶんがどういうたちであって、どういうばんぐみて、どういうしんきょうにあっても、そんなことはもんだいがいです、そんなのはどこでもいいのです。どんなじょうたいでも、「ありがとうございます」ととなはじめたたんに、このきゅうきょくかみさまのたすけがはじめるのです。ひとゆうしばらずにむので、すぐにちからふるえるのです。
「ありがとうございます」ととなえただけで、ひつようたすけをてっかくあたえてもらってけられるこころになっています。そうするとじゅんばんたかめあげてもらうのです。
 ず、ぶんなのです。ちょうわせのこころがどんどんプラスにわってきます、それでたかばんぐみちょううようにえてくるのです。それでいてばんぐみまれないゆうこころえてきます。そして、どのばんぐみゆうあじわえるというたちいてくれるのです。そうするとだんだんさいこうひょうげんほうこころけやすくわってくるのです。

 かみさまのさいこうひょうげんいまいっしゅんいっしゅんあじわっても、まだまだおくからどんどんどんどんてくるのです。ところてんしきげんさいこうひょうげんがどんどんされてきます、だから、いっしゅんだんすきもありません。いっしゅんをちょっとでもつかんだらもうあたらしいひょうげんけていないのです。
 あたらしいさいこうひょうげんいっしゅんいっしゅんなおすということはたいへんなのです。ざんぞうひたっていたらあたらしいものをなにけていないじょうたいになってしまいます。もうつねあたらしいものあたらしいもの、それもさいこうひょうげんあたらしいものばっかりをいかけないといけないのです。それがかみさまのさいこうひょうげんいっしゅんいっしゅんの「いっしゅん」となるのです。なんびょうかとかんがえたら、いちびょうでもない、まんぶんいちびょうでもない、おくぶんいちびょうでもない、もっとみじかいのです。それだけかんのないいっしゅんなのです。そのかんのないいっしゅんに、さいこうひょうげんあたらしくつぎからつぎしているとなったら、それはもうたいへんなことです。あたらしいものをつづける、ということたいたいへんなのです。

 いまうつわっているこの姿すがたなんて、そのさいこうひょうげんかくしたら、げんげんさいこうひょうげんなかのひとつ、ちいさいいってんひょうげんです。だから、このこころうばわれてつかむなんて鹿えてきます。こころをもっともっとゆうにして、もっともっとかみさまにこころけて、もっとらしいかいをずうっとかんつづけてもたいしたことはないのです。もっともっとまださいこうひょうげんちかづいて、もっともっとさいこうらしいものをあじわいつづけないとうそなのに、このにしがみついたらそんなのです。
 だから、いままでのおしゃさまとかイエスさまもそうですけど、こうそうせいじゃけんじゃというひともみんな「つかむな、しゅうちゃくするな」というおしえがこんぽんになっています。
 つかむ、しゅうちゃくすることがあたらしいものをそこなういちばんげんいんになっているのです。またつみというのもつかんでかさねるから、ざんぞうかさねるからつみなのです。それであたらしいものをそこなったらいものがない、すくなくなってゆくのです。

 だから、つねに「いまあらたに、さいこうのものをなおそう」というちがいちばんだいとうとこころだとおもうのです。「けんきょになる」ということもそうで、いまけたものをぜんかえしして、なにもないじょうたいになったらけんきょわってきます。そうしたらまたあたらしいものがたくさんはいりやすいのです。ちょうきゅうおなじです。ったものをしたほうがまたあたらしいくうをいっぱいえます。
 かんしゃというのはそういうではほんとうぶんからるときゅうなのです。かみさまからさいこうひょうげんけて、またぜんかえししてけんきょになって、またあらたになおしているのです。そのきゅうはやくすることがしあわせをどんどんおおきくしてゆくことになっているのです。

 いっしゅんいっしゅんが「ありがとうございます」のれんぞくでいいのです。なにおもわないでもいい、なにねがわないでもいい、もう「かんしゃだけで」かみさまだけをあいにしていたら、しあわせはもうてんからからまわりからきあがるようにやってきます。もうしあわせばかりがぶんまわりにいっぱいわたっています、ほんとうはそうなのです。
 ただ、かんしゃこころがなかったらそれはできないのです。かんしゃこころかみさまをすことになって、きゅうきょくのすてべのすべてなるかみさまをして、かみさまのすべてをなおせるこころになるのです。
 だから、「ありがとうございます」という、かんしゃにたどりくまでに、ひとはそれぞれにいろんなかたゆうかっにあるていたいけんしてきているのです。それがあるていきてこないといけないのです。れんっているとまだれんのあるところへしがみつきます。
 ひとつのしんこうっていてもそのひとつのしんこうにしがみついたら、とらわれてしまうのです。とらわれたひとはなかなかこの「ありがとうございます」というここへもどれないのです。だから、もうぜんに「ありがとうございます」というかんしゃこころもどれたひとは、いろんなことをにしてきているのです。あるていそつぎょうしてれんをなくしています。そしてさいくところを、まあこのでちょっとはさがしたかもれませんが。でも、みんなぶんなかこたえがあってっているのです。「ありがとうございます」とぜんとなえさせてもらっているひとは、「ぶん、これだろうな」とみんなかんじているはずなのです。

 でも、ちょっとかくにんひつようかもれないから、こういうところへかくにんっているのかもれません。
 だから、ぶんほんとうもとめ、ねがってきたものは、このきゅうきょくかみさま「ありがとうございます」というすべてのすべてなるかみさまだったのです。そして「ありがとうございます」ととなつづけることによって、かみさまとつねこうりゅうして、ゆうごうしていったいできているという、そういうじっかんいてくるのです。

 だから、げんのチャンネルのいろんなばんぐみとらわれることは、そうなったら、もうぜんぜんひつようなくなります。「ありがとうございます」というかみさまは、さいこうひょうげんいっしゅんいっしゅんなおすことなのです。このがどれだけらしくへんしたってたいしたことはないのです、「ありがとうございます」をとなつづけているひとほうっておいてもへんするので、。
 たなからもちどころではない、てんからなにってくるかわからんぐらいげんげんしあわせがそそいできます。ただちょっと「たんじゅんバカ」にならないといけません。もう「ありがとうございますでいい」というぐらいのちになってこないとほんものにならないのです。「ありがとうございます」で、それですべてなんだ、というぐらいにしぼりこんでないと。
 「ほかなにかある」とおもっていると、この「ありがとうございます」のかみさまはちからふるいようがないと、んでしまう、ほんとう姿すがたせてくれないのです。「もうこれだけしかない」としぼんだたんに、かみさまのぜんけんふるうのです。すべてのちからふるってくるから「ああ、ここにかみさまがいらっしゃる」というかんじをあたえてくれるのです。
 ひとことの「ありがとうございます」にすべてあるのです、かみさまのすべてが。このてきせきなんてたいしたことないのです、びょうがパッとなおったりいろんななことがいっぱいこっても、そんなことはるにらんのです。かみさまのじなみたいなものです、そんなのはげんてきてもたいしたことはありません。それよりも、もうどんなじょうたいかれていても、しあわせはぜったいくずれないこころになるほうが、だいです。

 きゅうほろぼうが、にくたいきにされようが、ずたずたになってえようがかんけい、というぐらいの、そのぐらいの「しあわせなこころ」があったらそのこころほんものです。
 そのこころなおかみさまをじっかんしたらいいのです、ほんものかみさまをです。「これこそほんものかみさまなんだ、すべてのすべてなるかみさまだ」と。かみさまのちゅうしんぶんかれている、というのをじっかんしたらいいのです。それがさいこうなのです。かならずそうなります、「ありがとうございます」をただとなつづける、つづけるだけで。

 ためしてないとそんです。さいしょは、なんまんかいなんびゃくまんかいもくてきってするのです。びょうなおしたいとかなにでもいいけど、なにもくてきってそれをかなえたいとおもうのですが。
 もっともっととなつづけてかんしゃかさなると、もうそんなのはあいにしなくなる、そんなもんどっちでもよくなるのです。
 よくなるとうとなんだけど、さきぜんプラスにわってしまいます。それでこころがもっともっとプラスのじょうたいかならずなってきます。ぢかかみさまのあいじっかんできる、かみさまをひしひしとかんじられてくるのです。もう、「なにもあとはらない」となります。もう、こわいものもなにもないのです。もう、ひつようなものをげんげんあたえられて、しいものがなに