真祈り文庫
2001年5月9日 No.2
日本は特に「道」とつくものが多い
-ありがとうございます-
綱引きの修練をされているとお聞きしているのですけど。その意味合いというのか、もし教えていただけるのなら教えて頂きたいと思います。
ありがとうございます:
日本は特に「道」とつくものが多いのです。武道にしてもいろんな習い事でもそうです。「道」と付くものはやはり「みちわたっているもの、神さまと一体化する」という意味があるのです。「悟りを求めて神さまと一体化したい」という願いを持って、いろんなことをするのです。
綱引きも、古来からの綱引きというのは、神さまと一体化するためのものだったのです。そういう意味では、「競技」という争いではなしに、本当の自分を見出すための、本当の自分を引っ張り出すための「綱引き道」というのが本当の理想ではないかと思うのです。
「綱引き競技」と「綱引き道」とはやはり目的が本当の意味で違うのです。「綱引き道」の方はやはり悟りを求めて神さまと一体化したい、という願いを持ってするのです。そのために先ず「自我の心を消し去ってもらう」。自我の心を消す方法はいろいろあります。
だから、痛みとか、しんどさとか、いろんな限界破りをすることによって、自我の心を早く消してもらえるのです。普通、「我の心」というのは、やはり神さまに波を波長を合わせにくいのです。自分勝手な波を出してしまうので、低い波にあってゆくというところがあるのです。やはり「我の心」をどんどん消し去ってもらって初めて神さまに波長を合わせてゆけます。それも最高表現に心の波長を近づけてゆけるのです。
だから、どんな武道もそうですが、最初は「我をとる・癖を取るための修練」をするのです。次は正しい型に合わす本当の修練をするのです。そしてその正しい型に合わせて、今度はぜんぶ捨てないといけないのです。全部捨て切ったところから、本当の自由自在の生き方が生まれてきます。その時に初めて神さまの手足となって、神さまのご用に使ってもらえる自分です。それをやはり目指しているのです。
だから「綱引き道」は、限界破りに挑戦して、我を消してもらって正しい型に合わす練習もして、我で引くのではなく、神さまに導かれて正しい引き方を練習して、感謝を基本にするのです。感謝を深めながら神さまの御用に使ってもらって、神さまが自分に降り立って綱を引いてくださる。そういう状態になった時に、本当の光が振り撒かれる状態になると思うのです。
だから、本当の意味では、世界平和を目指しています。地球を平和な素晴らしい世界に変えてゆきたい。そのための神さまのご用に使ってもらえる自分になってゆこう、というのです。
それをお互いが助け合ってその良さを引き出し合うのです。だから、一緒に引き合っている仲間を、練習しに行って試合に出て行って、自分のチームという仲間も、ある意味ではお祈りも相乗効果を起こす、という意味で一人でするよりは二人、二人でするよりは三人と多い方が効果が大きくなります。お祈りも深くなるし、大きい力も受けるし。また、お互いにしんどいトレーニングを積んでも、励まし合うと楽になります。誰か一人限界を破れると他の人もすぐに限界が破れるのです。
また、対戦相手のチームともお互いの良さを引っ張り出しあうという意味だったら、感謝の心が湧きあがってきます。そういうプラス面をいっぱい持った「綱引き道」を目指しているのです。奥が深いのです、なかなか大変なのです。
-ありがとうございます-
綱引きを選ばれたというのは、ひとつは団体で一人じゃなくて、例えば合気道とかいろんな方法があると思うのですけども。そうじゃないところというのは、やはりグループでやるということと、その限界を破るという実感がしやすいのですか。
ありがとうございます:
やはりグループの方が助け合いの相乗効果を起こしやすいという意味と、綱引きは自分を出さずに済むのです。「自分がどれだけ強いから」といってもわからないのです、自分がどれだけ引いていると言っても、傍から見たらわからないのです。自分を出さずに済みます。それで後ろへ引っ張るのは「謙虚になろう」と、前へ出るのではないのですから、バックするのです。形の上ではバックして謙虚になる、ということです。
それと「誰でもできる」というところがいいのです、本当は、小さい子供でもお年寄りでも、元々神さま事の綱引きはそうです。綱・ロープ自体が神さまの宇宙創造の働きを現す「神さまの体」というふうに見るのです。それで「神さまに触れる」という、そういう意味で「握るだけ」というのでも意味があるのです。「神さまを通して一体化する」という、ロープを握ることによってみんなが一体化してゆくんだ、という意味もあるのです。
-ありがとうございます-
丹田を鍛えるとか、そういった意味合いかなあと思ったりしたのですけど。それより今おっしゃったような意味合いなのですか。
ありがとうございます:
はい、根本は。いろんな鍛錬になります、もうかなりきついですから。
腰の鍛錬、腰痛でもすぐ治るぐらいです。本当です、練習で治せば本当の強い腰に、足腰になるのです。綱引きで鍛えた人はマラソンでも簡単に走れます。普段マラソンの練習をしていなくってもです。いろんな面で基礎体力が出来上がります。皆さんもどうですか。それも短い時間で効果が大きいのです。ただ、それも毎日しないと、一年に一回ぐらいだったらもう後でとても痛くなります。運動会で引いてもそうです、一年に一回、思い切り引いたら、もう足腰が後で大変です。毎日引いていると楽なのです。いいですよ、柱にこう縛って・・・。
-ありがとうございます-
ルールとか覚えなくていいですよね。シンプルで。
ありがとうございます:
勝ち負けを考えるといろいろテクニックを必要としたりするのですが。本当はそんなことはあまり大したことではありません。目的を「神さまと一体化する」と定めたら楽しいのです。
ここへ来られた限りは「ありがとうございます」の
ありがとうございます:
ここへ来られた限りは「ありがとうございます」の本当の意味を持って帰らないと駄目なので、その説明もちょっと先にしておかないと。何回も同じことを話しているのですが、初めての方もおられるので。
「ありがとうございます」という言葉は、言霊で解釈したときに正しい意味がわかるのです。
どういう意味を持っているかというのは、これは究極の神さまの名前なのです、最後の切り札のようなものです。今までにもたくさん神仏の名前が出てきて、それぞれに「これが最高」だと、みんな信仰しているのですが。それが世界の大きい宗教戦争の原因になっているのです。争いの一番の原因になっているのです、これでは困ります。
だから、最後の切り札でみんなを仲良くさせる最高の神さまの名前として出てきているのです。この言葉に戻ればみんな仲良くするしかないのです。その神さまとは、「本当の神さまとは何か」これが一番大事なことなのです。
本当の神さまは「すべてのすべてなる神さま、唯一無二絶対の神さま」です。だから沢山の「神さま」というのはまだまだ駄目なのです。先ず「神さま」という言葉の語源の意味から考えてみたいと思います。大体五つに分けて、神さまの働きを考えてみるといいと思うのです。
先ず、「絶対」という、表現に現われる前の、相対の両極に分かれる前の、「絶対」というのがあるのです。それは、丁度海を例えていうと、海があって表面に波が起こります。海全体を「絶対」と見て、表面に浮かぶ波を「相対、表現」というふうに見るのです。それぐらい大きい違いがあるのです。
「絶対」と「相対」の違いは、「絶対」はもう底知れぬほど奥深く、言葉で表現できないものがあります。その中に、表現に出てくるすべてが厳然と最初から存在しているのです、最初からです。
その表現が新しいものをどんどん生み出すのですが、「同じものを二つと作らない」というだけのものが「絶対」の中にはすべて備わっているのです。「二度と同じことを繰り返す必要のない」だけのものを「絶対」の中にはすべて持っているのです。だから「絶対」というのはもの凄いものなのです。
その絶対の中から「創造」の働きが出てくるわけですが、創造の働き自体も、私たちが物を作る感覚とはぜんぜん違うのです。「絶対」にある「相対の両極」を全部両方へ振り分けて、それを「螺旋状に組み合わせて」複雑無限というぐらいの、もの凄い組み合わせの働きがあります。そしてすべてを完璧に、すべてを尽くして、組み合わせた表現というのが、神さまの最高表現なのです。
だから、最高に素晴らしい表現だけがあるのではありません。その中に、一番下から一番上まで全部揃うのです。そして、頂点に最高表現の姿があって、それ全部を総括したのが本当の最高表現になっているのです。
だから、神さまの表現を放送番組に例えると、
先ず無限のチャンネルが生まれます。マイナス無限大からプラスの無限大まで、無限のチャンネルが完璧に先ず生み出されるのです。プラス無限大の表現というのが、最高のこれ以上絶対ない、というだけの素晴らしい表現になっています。そうしたらマイナスの最低表現はどうかというと、
これもマイナスがいっぱいの、これも最高傑作の表現なのです。このひとつひとつのチャンネルの中に、またそれが、細かく分けると、無限に分かれます。例えば、この世というひとつのチャンネルがあったら、この世も無限に細かく分けられるのです。だから、無限の無限のチャンネルが神さまの中から、一瞬一瞬生み出されてゆくのです。この最高表現を頂点にして、もうすべてを尽くした表現が厳然と一瞬一瞬新たに生まれてきているのです。
そして神さまはその最高表現の姿を「無限に無限に輝いた姿」というふうに見て、例えば、古神道だったら「天照大御神」という呼び名で呼んでいるのです。だから「絶対」を中に持って、「創造」の働きを中に持って、そして最高に輝いた姿で「天照大御神」という姿をとっています。「ありがとう」というのはこの「天照大御神」という名前に変えてもいいのです。
その「天照大御神さま」が分身を持つのです、無限の無限の分身を。これは八百万の神さまとその名前を呼ぶのです。八百万の神さまといっても、八百万ではないのです、数は数え切れない無限の無限なのです。その働きに応じて名前が全部違うのです、その働きが細かく分けると無限に無限に分かれます。一通りではありません。
その神さまの神通自在の働きが今度形あるものをすべて生み出してきます。それは五感六感のです、感覚で感じられる世界が全部そうです、ありとあらゆる世界の表現が神通自在の神さまによって生み出された姿になっているのです。この全体像、全部をとらえて、「ありがとうございます」という神さまの名前がそこに生まれるという状態なのです。
「あ」というのが「絶対」という「光源・光・命の本源」というのが「あ」すべての始まり。
「り」が、「螺旋状」にすべてが生み出されて組み合わさってゆくという意味で、ら行音の「り」を使っています。
「が」が、「か」をダブらせて「輝きに輝く」という意味で、「無限に無限に輝いている」というのが「が」。
「とう」というのが「十字」にみて、縦横の組み合わせと見てもいいし、また「ありがたし」のた行音とさ行音というふうに分けた時は、た行音が縦で、さ行音が横です。相対に別れた両極を縦横に組み合わせてひとつのものを創りあげるのです。
だから絶対の無限の無限の更に無限の大光源が出発点にあって、そこから複雑無限の創造活動が行われて、無限に輝いた最高表現が生み出されて、それが完璧に組み合わさって本当の全大宇宙という姿をとっているのです。これが「ありがとう」という意味です。これが最高表現のほうです。
それが現実化してくる過程が「ございます」なのです。
「ご」というのは「こ」をダブらせて「凝り固まって凝り固まって」、「物質化して、物質化して」という意味があるのです。最高表現が物質化してくると、またいろんな表現をとってきます。凝り固まることによって、魂的なものにもなり、更に凝り固まることによって物質的な物体的なものになってくるのです。
だから「一霊四魂、一元四体」、本当の神さまから生まれてくるのです。
「ざ」は、「さ」をダブらせて「さらさら流れる」、さらさら流れるこの響きがいいのです。宇宙のすべてがさらさらと移り変わっている。光の流れ、命の流れがあるのです、それは「爽やかな、清々しい、素晴らしい、素敵な」といういい響きがあるのです。それが自然に移り変わっているという意味が「ざ」です。
「い」というのは「命」、生きているという意味です。単なる移り変わっている「物」ではないのだ、本当に生きている「もの」なのだという。命が躍動して輝いているのだ、という意味です。
「ま」というのが「完全な、完璧な、まったき」。
「す」が、また「絶対」の中心に「統一」されて戻る、という意味があるのです。
「ます」というのは、「必ず増える」という意味で、今現われたものが更に「大きく良くなる・増える・栄える」という意味で「ます」になるのです。
だから、絶対から現われた無限に無限に輝いたものが、現実のこの世にまで物質化して物質化して現われて、それが完璧な表現をとって、またそれが現われては中心へ、絶対へ戻って行っている、という意味で。自然に循環しているという意味が含まれているのです。
だから「ありがとうございます」で神さまの働きの全部を現しているのです。
「神さま」という言葉も「隠り身の神」が絶対です。
「仮凝り身の神」が創造。
「輝り身の神」が統一。
「翔り身の神」が神通自在の姿。
「限り身の神」で現実化させるのです。
先ず「かくりみ・かごりみ・かがりみ・かけりみ・かぎりみ」という五つの働きを全部持っていて「神」なのです。「ありがとうございます」でその全部が含まれているのです。だから究極の神さまの名前、すべてのすべてなる神さまの名前なのです。
私達がいろいろ信仰してきた神仏の名前というのは、どれかに偏っています。全体ではないのです。
例えば、翔り身の神さまは無限に無限にいるのです。「私は阿弥陀さまを信じています」といっても、翔り身の神さまのひとつです。「私は観音さまを信じています」もそうです、(それでは)翔り身の神さまはひとつだけなのです。だから、「天照大御神さま」を信じていますと言っても本当の「天照大御神さま」を信じている人は殆どいないのです。
例えば、伊勢の神宮さんに祭られているような神さま、それは小さいのです。また、皇室の先祖も小さい神さまです。また、ある時は肉体を持って女神さまとして生まれた神さまはもっと小さいのです。
本当の意味の「統一神」という「天照大御神さま」とわかって信じている人はいないのです。翔り身の同程度の「天照大御神さま」、その程度の意味で信じている人は大勢います。
本当の神さまを信じるというのは、大変なのです。例えばここらで多賀大社があります。伊邪那邪、伊邪那美の神さまが「天照大御神さま」の親だというのです。でも、そんなことは絶対にありません。そんな見方では並び立てているだけです、こっちは親でこっちは子供というように。だから本当の神さまの意味をぜんぜんとらえてないのです。
伊邪那岐、伊邪那美の神さまを創造神と見るんだったら、この唯一無二絶対の神さまの創造の働きの名前なのです。「天照大御神さま」の名前を使うのだったら、宇宙全体を統一する働きの名前なのです。唯一無二絶対の神さまの仮の名、名前なのです。
同じ神さまの働きの違いで伊邪那岐、伊邪那美の神さまといったり、「天照大御神さま」と言ったりしているだけです。親子関係はないのです。同じ神さまを指しているのに、別個の神さまと見ること自体が大きい間違いです。本当の意味をぜんぜんとらえていないというところがあります。
それでいて神社にいるのかと、そういうのでもありません。本物の神さまは、宇宙全体です、創造の神さまは宇宙全体です。今現われた最高表現の宇宙を生み出す本当の渦巻き状のゴオーっというようなもの凄い姿の働きが、この創造の神さまの働きです。本当は、こんな言葉で表現できるものではありません。
「天照大御神さま」と言っても、こんな肉眼で太陽を見ているような、そんなちっぽけなものではないのです。無限に無限に輝いて、まだ無限に無限に輝いている、というぐらいの凄い働きの神さまです。だから、太陽なんか芥子粒のように消えてしまいます。肉眼で見える太陽なんか闇の方に近いのです。そのぐらいの大きい働きをする神さまです。
本当の神さまというのは、そういう「絶対」と「創造」と「統一」と「神通自在の翔り身の姿」と、そして「愛の心で自由を限定し」て「すべてのすべて」です、全大宇宙のすべてのすべてを現わしているのです。この全部を総括しないといけないのです。全体をひとつに総括したときに、本当の神さまをある意味で掴めるのです。
だから私たち一人一人が何を目指しているか、何を求めているのかと言うと、この本当の神さまに近付きたい、一体化したいのです。本当の神さまが本当の自分なのです。だから、本当の神さまと自分とは、元から一体なのです。本当の神さまと一体という自覚へ戻りたいだけなのです。
その一体である自覚を邪魔しているのは何かというと、これは部分に囚われすぎたらそうなるのです。全体とひとつになっていたら一体感が良くわかるのです。ところが部分だけを「これだけが自分」と掴んでしまって「これしかない」と掴んだ途端に、全体と離れるのです。だから、「部分を掴みすぎる」という意味があるのです。
そうしたら、その部分を掴むのは何が掴むのかです。心でも「思いの方」です、「思い」が掴むのです。思うことによって掴んでしまうのです。特に過去を掴んで小さくなってゆくのがそうです。だから、思わなかったらいいのです、本当は、何も思わなかったら何も掴まないのです。さらさら流れるのを見るだけなのです。何も思わなかったら小さい自分を掴まずに済むから、いつも神さまだけが「さらさら」流れている感じです。だから、神さまが自分なのです。
「悟りを開く」というのでも、邪魔しているものが消えたらいいだけなのです。元々みんな神さまと一体でしかないのです。切り離すことなんか絶対不可能です。元々悟っている自分しかいないのに、神なる自分しかいないのに何か他にあるように錯覚したり思い込んだりしようとしているだけなのです。それを邪魔するものをなくせばいいだけです。だから、いろんなつまらん思いを思わなくなればいいのです。一回思ったものは溜まっているかも知れないから、それを神さまに預けて消してもらうだけです。
思いを起こさないためにも「ありがとうございます」と感謝の心を起こせば、絶対思いは起こらないのです。感謝は光だから、思いは起こらない、消えるだけです。感謝することによって、また過去の思いも消してもらえます、自然に消えてゆくのです。
「ありがというございます」というのは、もう神さまの働きの全部を現しているのです。もう光り輝いた働きを全部現しているのです、その中にあるのです。「ありがとうございます」を唱えた途端にその光を与えてもらって、受けて、結果がそのまま出てくるのです。
ただ、この神さまは無限に無限に謙虚なのです。だから、でしゃばってこないのが一番問題なのです。思いを出した途端にこの神さまは引っ込むのです。ちょっと我を出すだけで、神さまは謙虚に引っ込んでしまうから「どうぞどうぞ、好きにしなさい」となります。絶対、人の自由を縛ってこないところが困るのです。
いろんなことを人はそれぞれにある程度体験してみて、それで最後に戻るところは「ありがとうございます」なのです。
早く戻ってしまう方がいいのです、早く戻った方が心が安らぐのです。でも、最初から「ここにいなさい」ではないのです、「ちょっと自由に遊んでいらっしゃい」と追い出されます。
それは神さまから見たらそうだと思うのです。もう最高のものを先に与え尽くしておいて、その受け方だけを自由に「どうぞどうぞ」と言っているのです。だから、どの無限の無限の番組があっても、どの番組を見て味わっても自由だし、最初から「最高のものだけを味わいなさい」とは言わないのです。そのどの番組も神さまから見るとそれぞれの存在価値・意義が価値があるわけです。低い番組にしても、高い番組にしてもそうです。全く価値がなかったら創らないから。
でも、神さまはいろんな番組があっても、最後は最高の一番上の番組を味わい続けて欲しい、というのが本当だと思うのです。地獄番組をいつまでも味わって欲しいわけはないのです。マイナスのあるような番組は早く卒業して欲しいと思うのです。そして最高のプラスばかりのこれ以上の表現は絶対あり得ない、というぐらいの最高の番組を一瞬一瞬味わい続けて欲しいのです。それも「一番謙虚な心で最低の状態から受け直してほしい」というのが本当だと思うのです。それができるようになるために何が必要か?「ありがとうございます」と神さまを呼ぶだけなのです。
今、自分がどういう立場であって、どういう番組を見て、どういう心境にあっても、そんなことは問題外です、そんなのはどこでもいいのです。どんな状態でも、「ありがとうございます」と唱え始めた途端に、この究極の神さまの助けが降り始めるのです。人の自由意志を縛らずに済むので、すぐに力を揮えるのです。
「ありがとうございます」と唱えただけで、必要な助けを的確に与えてもらって受けられる心になっています。そうすると順番に高めあげてもらうのです。
先ず、自分なのです。波長合わせの心がどんどんプラスに変わってきます、それで高い番組に波長が合うように変えてくるのです。それでいて番組に巻き込まれない自由な心に変えてきます。そして、どの番組も自由に味わえるという立場に置いてくれるのです。そうすると段々と最高表現の方へ心を向けやすく変わってくるのです。
神さまの最高表現を今の一瞬一瞬味わっても、まだまだ奥からどんどんどんどん出てくるのです。ところてん式に無限に最高表現がどんどん生み出されてきます、だから、一瞬の油断も隙もありません。一瞬過去をちょっとでもつかんだらもう新しい表現を受けていないのです。
新しい最高表現を一瞬一瞬受け直すということは大変なのです。過去の残像に浸っていたら新しいものを何も受けていない状態になってしまいます。もう常に新しいもの新しいもの、それも最高表現の新しいものばっかりを追いかけないといけないのです。それが神さまの最高表現を生み出す一瞬一瞬の「一瞬」となるのです。何秒かと考えたら、一秒でもない、万分の一秒でもない、億分の一秒でもない、もっと短いのです。それだけ時間のない一瞬なのです。その時間のない一瞬に、最高表現を新しく次から次に生み出しているとなったら、それはもう大変なことです。新しいものを受け続ける、ということ自体が大変なのです。
今、移り変わっているこの世の姿なんて、その最高表現と比較したら、無限の無限の最高表現の中のひとつ、小さい一点の表現です。だから、この世に心を奪われて過去を掴むなんて馬鹿に見えてきます。心をもっともっと自由にして、もっともっと神さまに心を向けて、もっと素晴らしい世界をずうっと感じ続けても大したことはないのです。もっともっとまだ最高表現に近づいて、もっともっと最高の素晴らしいものを味わい続けないと嘘なのに、この世にしがみついたら損なのです。
だから、今まで過去のお釈迦さまとかイエスさまもそうですけど、高僧、聖者、賢者という人もみんな「過去を掴むな、執着するな」という教えが根本になっています。
過去を掴む、執着することが新しいものを受け損なう一番の原因になっているのです。また罪というのも過去を掴んで積み重ねるから、残像を積み重ねるから罪なのです。それで新しいものを受け損なったら良いものがない、少なくなってゆくのです。
だから、常に「今を新たに、最高のものを受け直そう」という気持ちが一番大事な尊い心だと思うのです。「謙虚になる」ということもそうで、今受けたものを全部お返しして、何もない状態になったら謙虚に変わってきます。そうしたらまた新しいものが沢山入りやすいのです。丁度呼吸と同じです。吸ったものを吐き出した方がまた新しい空気をいっぱい吸えます。
感謝というのはそういう意味では本当の自分から見ると呼吸なのです。神さまから最高表現を受けて、また全部お返しして謙虚になって、また新たに受け直しているのです。その呼吸を早くすることが幸せをどんどん大きくしてゆくことになっているのです。
一瞬一瞬が「ありがとうございます」の連続でいいのです。何も思わないでもいい、何も願わないでもいい、もう「感謝だけで」神さまだけを相手にしていたら、幸せはもう天から地から周りから噴きあがるようにやってきます。もう幸せばかりが自分の周りにいっぱい満ち渡っています、本当はそうなのです。
ただ、感謝の心がなかったらそれはできないのです。感謝の心が神さまを呼び出すことになって、究極のすてべのすべてなる神さまを呼び出して、神さまのすべてを受け直せる心になるのです。
だから、「ありがとうございます」という、感謝にたどり着くまでに、人はそれぞれにいろんな生き方を自由勝手にある程度体験してきているのです。それがある程度飽きてこないといけないのです。未練を持っているとまだ未練のあるところへしがみつきます。
ひとつの信仰を持っていてもそのひとつの信仰にしがみついたら、囚われてしまうのです。囚われた人はなかなかこの「ありがとうございます」というここへ戻れないのです。だから、もう自然に「ありがとうございます」という感謝の心に戻れた人は、いろんなことを過去世にしてきているのです。ある程度卒業して未練をなくしています。そして最後に落ち着くところを、まあこの世でちょっとは探したかも知れませんが。でも、みんな自分の中に答えがあって知っているのです。「ありがとうございます」と自然に唱えさせてもらっている人は、「多分、これだろうな」とみんな感じているはずなのです。
でも、ちょっと確認が必要かも知れないから、こういうところへ来て確認し合っているのかも知れません。
だから、自分が本当に求め、願ってきたものは、この究極の神さま「ありがとうございます」というすべてのすべてなる神さまだったのです。そして「ありがとうございます」と唱え続けることによって、神さまと常に交流して、融合して一体化できているという、そういう実感が湧いてくるのです。
だから、無限のチャンネルのいろんな番組に囚われることは、そうなったら、もう全然必要なくなります。「ありがとうございます」という神さまは、最高表現を一瞬一瞬受け直すことなのです。この世がどれだけ素晴らしく変化したって大したことはないのです、「ありがとうございます」を唱え続けている人は放っておいても変化するので、。
棚から牡丹餅どころではない、天から何が降ってくるかわからんぐらい無限の無限の幸せが降り注いできます。ただちょっと「単純バカ」にならないといけません。もう「ありがとうございますでいい」というぐらいの気持ちになってこないと本物にならないのです。「ありがとうございます」で、それですべてなんだ、というぐらいに絞りこんで来ないと。
「他に何かある」と思っていると、この「ありがとうございます」の神さまは力を揮いようがないと、引っ込んでしまう、本当の姿を見せてくれないのです。「もうこれだけしかない」と絞り込んだ途端に、神さまの全権を揮うのです。すべての力を揮ってくるから「ああ、ここに神さまがいらっしゃる」という感じを与えてくれるのです。
一言の「ありがとうございます」にすべてあるのです、神さまのすべてが。この世的な奇跡なんて大したことないのです、病気がパッと治ったりいろんな不思議なことがいっぱい起こっても、そんなことは取るに足らんのです。神さまの手品みたいなものです、そんなのは無限に出てきても大したことはありません。それよりも、もうどんな状態に置かれていても、幸せは絶対崩れない心になる方が、先ず大事です。
地球が滅ぼうが、肉体が八つ裂きにされようが、ずたずたになって消えようが無関係、というぐらいの、そのぐらいの「幸せな心」があったらその心は本物です。
その心は尚且つ神さまを実感したらいいのです、本物の神さまをです。「これこそ本物の神さまなんだ、すべてのすべてなる神さまだ」と。神さまの中心に自分が置かれている、というのを実感したらいいのです。それが最高なのです。必ずそうなります、「ありがとうございます」をただ唱え続ける、呼び続けるだけで。
試して見ないと損です。最初は、何万回、何百万回と目的を持ってするのです。病気を治したいとか何でもいいけど、何か目的を持ってそれを叶えたいと思うのですが。
もっともっと唱え続けて感謝が積み重なると、もうそんなのは相手にしなくなる、そんなもんどっちでもよくなるのです。
よくなると言うとなんだけど、先に全部プラスに変わってしまいます。それで心がもっともっとプラスの状態に必ずなってきます。身近に神さまの愛を実感できる、神さまをひしひしと感じられてくるのです。もう、「何もあとは要らない」となります。もう、恐いものも何もないのです。もう、必要なものを無限に無限に与えられて、欲しいものが何