真祈り文庫
2001年5月9日・1
別に、それもどちらでもいいのです、好きな方を
-ありがとうございます-
離婚したのですが、その時の名前をずっと使ってきたのです。実家が、私は跡取りというお役があったようで、いろんな現象が起きてきて、旧姓が○○なので、名前も変えようと思っているのですが、どうなんでしょう。
ありがとうございます:
別に、それもどちらでもいいのです、好きな方を選べば。どれが良い悪いではなく、自分の好きな道を選ぶことがいいことなのです。「こっちが良い」と思ったらこっちが良いので、もう自由自在にされてください。
でも、師に付いてもおかしくなる人もあるのです
-ありがとうございます-
昔から、ヨーガとか座禅の瞑想とかいろんな修行をしていると、ある程度、師に付いてやっておれば問題はないのですが、自分独自でいろんなことやっていますと、そのことが原因で精神的に異常をきたしてしまうというような人をよく聞きますし見ることもあるのですけど、それはどうしてでしょう。
ありがとうございます:
でも、師に付いてもおかしくなる人もあるのです。本当に正しい師を選ぶのは難しいのです。正しい教えを受けても正しく実行しなかったら、またうまくいかない場合もあるんだと思うのです。
瞑想とか座禅というのは、かなりいい師匠に付いていても我が出やすいのです。かなり自分の思い込みがあるのです。特に自分の心の中を見てゆく場合は、掴みを放してゆくのがなかなか大変なのです。
座禅でも奥深いところへゆくと、師匠まで切り捨てないと駄目なのです。「これが自分の師匠」と掴むだけでもいけない。いろんな仏さまが現われても、それまでも切り捨ててゆかないと駄目なのです、本物を見出すまでは。
だから最初、自分が見ている世界がどういう世界かというと、「本物の世界かどうか」と考えたときに、まだ本物ではないと思うのです。「本物」という言葉の定義も難しいのですが、本物というのは、宇宙の大神さまの最高表現の姿が本物なのです。そこからどの程度最高表現の割合が現われているかによって、10%現われたら10%が本物のです。1%しか現われていなかったら1%だけが本物です。
だから、この世に本物の姿がどれだけパーセンテージ的に出てきているかというと、かなり少ないのです。
だから、本物をしっかりと見出してゆくには、心の向きが神さまの最高表現の方へ、しっかりと的を絞って見つめ続けてゆかないといけないのです。
その最高表現が何かというのは、瞑想とか座禅で、自分の表面の心を「無にして空にして」、更に奥の姿を掴んでゆくという場合でも、やはり言葉の使い方がもの凄く大事になってくるのです。今の自分の心を単に否定するだけでは、一番奥の最高表現にまでは心が届かないのです。そうしたら中途半端なプラスの言葉でも無理なのです。だから、人の考えられる限りの最高の言葉を駆使しないと、神さまの最高表現を表現するわけにはゆかないと思うのです。
だから、最高の褒め言葉をいっぱい使わないといけません。無念無想で本当の神さまの最高表現の境地まで到達するのは本当は難しい、無念無想という形では。
座禅でも瞑想でも最初の初期は、いろんな雑念が「無念無想」になって雑念を払って、何も考えない状態になろうとするのですが、それすら本当は難しいのです。
仮にそれがある程度できたとしても、無念無想の境地になってからが、神さまの最高表現に近づくのです、一歩一歩。そこからが第一歩を踏み出しているのです。どれだけ神さまの最高表現を言葉でしっかりと表現し、心でしっかりその的を絞って見つめ続けてゆけるかというと、大変だと思うのです。
人の運命全般、修行においてもそうですが、「何を選び続けるか」なのです。言葉もどういう言葉を選び続けるか、どういう言葉を使い続けるか。
また、目的・目標にしても、何を目的・目標に選び続けるか。だから、自分の選んだ通りにすべてなってゆくのです。本当に座禅を志したときに、本当の目的・目標は何か、本当の究極の悟りを求めているのか、最初はそこまで行っていない場合もあるのです。無念無想になったらこれが本当の悟りなんだ、と思っている人もいるし。いろんな目標・目的があって、それぞれにいろんな修行の仕方を、その人なりに掴んでいると思うのです。
本当は全体像を掴んで、しっかりと掴んで、それから自分の願う最高の方へ心を向けられたら、もう絶対間違わないと思うのです。でも、全体像を掴めないとやはり中途半端な状態だと、あっちへ迷ったりこっちへ迷ったりして、失敗に見えるようなことも起こるんだと思うのです。
一番大事なのは、やはり「言葉」だと思います。『最高のいい言葉をしっかり駆使する、使い切る』ということが大事だと思うのです。
-ありがとうございます-
ということは、例えば、アメリカではTM瞑想というのが流行って、百万人とか。その人に必要なといいますか、マントラを与えるということで。これが問題あるという方もいるのですけど、それも言葉だと思うのです。どんな言葉かも知りませんけど。そういうことに付いては、どのように思われますか。
ありがとうございます:
いろんな方法が無限にあってもいいと思うのです、実際あると思うのです、無限に。
神さまが本当に与えてくる最高表現を頂点にして、無限の無限の段階のいろんな生き方を、みんなに既に平等に与えられているのです。その中から自分は何を選ぶかだけで、やはり自分が何を選んで受け入れているかなのです。そういう生き方も、それが必要だったらそれを受け入れる人が沢山いるだけです。ただ、それを受け入れたから最高の生き方かというと、そうではないかも知れないのです。
私たちもこの地球上でいろんな生き方があって「これがすべて」というわけにはゆかない。まだまだこの地球上に現われていない、いろんな生き方がいっぱい無限にあるはずなのです。本当に自分が必要として納得できたら、悔いを残さない生き方でその時間を過ごせると思うのですが。ただ、情報はいっぱい欲しいのです、選ぶ場合に。
「これが最高」と言われても、それぞれに「これが最高」と教えてきますし、また宣伝もしてきます。
でも、本物というのはあまり宣伝してこないのです、逆に隠してきます。だから、時期がきたら本物を見出す力が出てきて、真剣に求める心を起こして、そういう時に、自然に本物に対しては必要なものを与えられてゆくのです。逆に、隠して隠して隠されて、どれだけ真剣さが出いるか、どれだけ本物を求める心が出てくるか、神さまの方は待っているのです。それまでは自由にいろんなものに心を向けて体験して、迷っても何してもいいから、「先ず真剣に求める心を起こしてきなさい」というのが神さまの心なのです。
そうしたら「本物はどこにあるか」と、本物というのは本当はどこにでもあるはずなのです。神さまが本物であるという限り、神さまは宇宙のどこにでも瞬時に顔を出せます。
だから、本当の自分の師匠というのは神さましかいないのです。後は、本物にたどり着くまでのいろんな過程における仮の師匠かも知れないのです。
本当に皆さんも、『何を命懸けで真剣に求めているか』というのが大事なのです。何を目的に生きているのか、何を本当に身に付けたいのか、本当にそれを実感したいのかと。それも『自分の命すべてを引き換えてでも』本当に手に入れたいと願っているのかと。本当に真剣だったら神さまの方からスッと現われて、それに対して必要なものを与えてくださると思うのです。
-ありがとうございます-
ということは、求めないものには与えないということですか。
ありがとうございます:
そうです。無理矢理に与えても、強制的に与えても意味がないのです。
-ありがとうございます-
受け取らない。
ありがとうございます:
受け取らないし、必要のないものを与えても幸せになるどころじゃない、逆になってしまいます。
自分も「愛情」の「愛」を求めているのか「情」を
-ありがとうございます-
「愛情」の「情」の部分は必要ないと聞くのですが。情をあまり掛けすぎたらいけないとか、家庭で子供を育てていると情が大切に思う時もあります。自分は何を求めてるのかなあって。
ありがとうございます:
自分も「愛情」の「愛」を求めているのか「情」を求めているのかです、大きく分ければ。
-ありがとうございます-
自分は切り捨てたいというたら、あまりにもドロドロした部分がありますよね、親子の情が。と思う反面、やはり必要かな、と思うし。
ありがとうございます:
例えば、神さまの表現として、無限のチャンネルの中の情の深いチャンネルと、バランスの取れたチャンネルと、愛だけの輝いているチャンネルと、いろんなチャンネルがあるのです。
最初は、情にまみれるような感じのチャンネルを体験し続けて「ああ、これはあまりにもドロドロしている」と感じた人は、ちょっと愛のほうを割合に増やしてゆこうとするのです。それだけでも飽き足らなかったら、「愛だけの輝いている相手を絶対に縛らない」という生き方にあこがれてゆくのです。
だから、ぜんぶ「愛と情」というんだったら、「愛」の方が神さまのプラスの側です。「情」の方はマイナス側の働きをするのです。「執着」というのがあるのです。
だから、本当の愛というのは「絶対愛」、絶対に自由を縛らないのです。それで、必要なものを的確に与え尽くすだけ。そして相手を絶対マイナスに見ないで「プラスにだけ」見てゆける心です。
だから「情」と「愛」とは全く正反対の生き方をとるのです。どれが良い悪いではなく、「自分が今何を体験して味わいたいか」という一人一人の自由があります。「情」に飽きてきたら「愛」の方へ行ったらいいのだし、良い悪いではないのです。一人一人それは自分の自由意志で選んで、自分の責任でそれを味わい楽しむだけなのです。みんなスパッとぜんぶ切り捨てても構わないのです。
-ありがとうございます-
使い分けて、結果が出ればオーケーということですか。
ありがとうございます:
神さまから何を選んで受けてもいいわけです。本当はぜんぶ受けたらいいのかも知れないのですが。ぜんぶ受けるのは難しい、すべての表現を、丁度、テレビを置いて無限のテレビを相手にするのは難しいですから。何か幾つかを選んで見るだけなのです。
それはもう自分が好きなものを選んだらいいのです。だから、人から何も強制されることも何もないのです、縛られることはないと思います。自分が今「これを見たい」と思ったら、それを選んでみるだけです。また心が変化したら、別なのを見たらいいと思うのです。
-ありがとうございます-
お釈迦さまでもその「情」を全く切り捨ててしまったということはないんでしょうね。
ありがとうございます:
別に、必要だったらぜんぶ生かしきるのです。
お釈迦さまが悟りを開いて、それで「すべてを光一元にプラスに見れる」という心境だったら、どんな最低の状態でも悪くは見ないのです。「情」で縛りつけられて苦しんでいる人を見ても、「一時的にはそれもいいんだ」と。そういう体験があるからこそ、本当の愛の自由な生き方も、本当の価値を見出して喜べるんだし、というように。
極端に言うと「一旦地獄に落ちても構わん」というぐらい、それも必要だったら地獄の体験が大事なのです。執着して情の心を生きて縛り合って、いずれ地獄に落ちたにしてもマイナスではないのです、本当は。ちょっとそれを体験することによって、もっともっと幸せな生き方が未来に開けてくるのです。
-ありがとうございます-
私たちだったら子供を育てる時に、ここは愛の部分、ここは情の部分という感じで使い分けて相手が育つように。子供がいるのですよ、友達とか付き合いで、なんか本人が自ら「情が湧くちゃねー」て言うのですよ。
ありがとうございます:
親子に生まれて、親が子供を育てる場合もあるし、子供が親を育てる場合もあります。いろんな場合があります、親子の関係になっても。
「自分が親」という立場を勉強する場合だったら、いろんな親の立場を勉強するのがいいのです。それも「情」で子供を育てる場合もあるし、「愛」だけで育てる場合もあるし、いろんな姿があると思うのです。
ただ、逆の場合、自分が親の立場なのに、子供に面倒見てもらって育ててもらう、育ててもらう一生面倒見てもらう場合もあるのです。子供の方に徳が大きく持っているような徳があったら、親を幸せにするのは子供なのです。子供の徳をいっぱいもらって、親が幸せに一生送らせてもらうんだったら、親が子供に面倒見てもらっているのです。
だから、いろんな親子関係があります。それも、どれが良い悪いではないのです。自分はどういう立場の親を選び、どういう立場の子供を選び、それぞれ自分の人生体験として選んでそれを味わっているのです。順番にいろんな勉強を済ませて、最高の一番幸せな自分の納得できる立場へ戻ってゆくんだと思います。
神さまは「もてあそぶ」もなにも手を下さないのです
-ありがとうございます-
神さまは必ずしも、その人の求めているものとか、或いは必要なものとかを一番短距離でパッパッと与えるということよりも、いろいろもてあそんで土壇場というか、もうこれ以上はというときにパッと救いの手を差し伸べるというか、「もてあそぶ」というところが若干神さまにあるように思うのですけど。
自分が勝手に思っているのかも知れませんけど、それはどうなんでしょうか。その過程の中にむしろ本人の心が気付くプロセスあるということなんでしょうか。
ありがとうございます:
神さまは「もてあそぶ」もなにも手を下さないのです。必要なものを与えておいて、後は自由に選んでそれで遊びなさいというわけです。(自分で遊んでいるのですか?)自分で遊びきれずに、神さまの助けが欲しかったら、やはり神さまを呼ばないと、そうしたら神さまが出てきます。だから、呼ぶまでは出番がないのです、神さまの方は。いくらお節介に何かしてあげようと思ってもそれは出来ないのです。やはり、人間の側に完全な自由があるのです。
-ありがとうございます-
今までいろんな勉強を自分なりにしていますが、それで学びとっているという思い込みもあります。その解釈のひとつが「もてあそばれている」という解釈だったりするのです。(あります)囚われを外して。
ありがとうございます:
だから神さまが与えてくる無限チャンネルのひとつしか、普通は味わっていません。ひとつ味わってわかっても、他のことはわかっていないです。だから、今見ている番組からある程度自由になって、自由な立場でまた別なものを選べるようになっていないといけません。
-ありがとうございます-
新しいテレビを買い換えた、という意識で見た方がいいですか?
ありがとうございます:
「過去の体験」はあまり大したことはないのです。「いろんな体験を積んでいる」と、自慢できるものはないのです。
-ありがとうございます-
じゃあ、今の自分に巡り合う為の練習だった、という感じで、過去の体験は?
ありがとうございます:
過去の体験というのは、もう「今の自分に出会う」という、そんな大したものではないのです。沢山の中から手当たり次第にパッパッパッとちょっとだけ選んで、ちょっと体験したぐらいなのです。
無限のチャンネルの一番下から順番にというのは難しいのです、ひとつのチャンネルを勉強するのも百年ぐらいでは足りないのです。
-ありがとうございます-
そうしましたら、いろんなチャンネルがありますね。できるだけ自分はその番組の中でも、自分にとって為になる有益な番組を最初から選んで。例えば、本だったら古典を読むとか、そうして本物を選ぶとか。どうでもいい番組もあると思うのですよ。例えば、人生は七十年ぐらいだからせめて良い番組を選んでぴしっと生きてゆこうというふうに、そういう方法というのはあるんでしょうか。
ありがとうございます:
あると言ったらあるのですが、それをしても大した事はないのです。
-ありがとうございます-
大したことないのですか。
ありがとうございます:
無限のチャンネルをひとつ、ちょっと良さそうなのを選んでも、まだまだ上には上があっていっぱいずうっと続くのです。今の自分が「これが最高の番組を選んで体験している」と思っても、たかが百年ぐらいで味わいつくせるわけもないし、まだ奥からどれだけ良いものが出てくるかもわかりません、ひとつの番組ですら。少なくとも一億年ぐらいはずうっと生き続けないと、どんないいものが出てくるかわからないのです。それでちょっと上のほうへまた番組を変えたら、またぜんぜん違う世界が開けるのです。
-ありがとうございます-
ということはどこへ向かって行っているんでしょうか。
ありがとうございます:
ひとつひとつ味わおうと思ったら難しいのです。それをしてもあまり意味がないかも知れないのです。それならどこへ向けばいいか?やはり神さまの最高表現に心を向けないといけないのです。頂点を極めたら下が分かりやすくなるのです。山でも一番上の頂上へ上ってしまったら下がよく見えるわけです。「悟りを開く」という「空の心になりきる」とか、そういうのが一番大事なのです。「神さまの最高表現は何か」という、これをしっかり極めてゆくことだと思うのです。
-ありがとうございます-
例えば、そこに至るまでの一番適切な番組が自分にあたってくると。
ありがとうございます:
いや、今見ている番組に囚われて縛られて、その中にはまり込んだら抜けられないのです。
だから、過去・現在・未来と流れています。その過去を掴むだけでその番組から抜けにくいのです。だから、今の一瞬だけ眺めているぐらいの感覚で「さらさらさら」と流さないと、番組の中からですら抜けにくいのです。そうすると次の番組に移るどころではないのです。
だから心をかなり自由にしてゆかないと、「過去は絶対相手にしない」というぐらい徹底してこそ、今見ている番組からもスッと抜けやすいのです。
-ありがとうございます-
過去というのは。去年は、和気清麻呂さんに動かされるというか動いたのです。そのまま動いていいですか。私にしかわからない感覚ですけど。導かれている、動かされているという感覚だったのです。そういうのは――
ありがとうございます:
それは、良い悪いではないのです。自分が納得できて選んで悔いがないのであれば、それも別に悪いことではないのです。でも、本当は自分が全責任を持って選ぶのです、何でもです。
-ありがとうございます-
何か、ワクワクして動いていたのです。まあ、ワクワクしているから大丈夫だ、とか、判断して。過去のことのです、そういうことは。
ありがとうございます:
過去の時代の人が出てきたという?ある意味では過去を追い掛け回しています。
-ありがとうございます-
結局わかったことは、道鏡さんも和気清麻呂その時の時代のお役によって、本当は同じで敵味方じゃなくて、お役目というかお役をされたので。お名前が「和気」だから、今は和というか和でいいかなと勝手に思ったのです。道鏡さんもある意味で歴史的には――
ありがとうございます:
それは、ひとつの番組にはまり込んだのです。歴史上の見方でもいろんな見方が、番組によったらぜんぶ正反対ぐらいに違う番組があります。過去に生まれた人が出てきても、本物か偽者かわかりません。名前を名乗ったから本物とは限りません。
-ありがとうございます-
名前は名乗らなくて、偶々ゆきたいところへ行ったらそこに和気清麻呂のお墓があったり、流されたところにも行ったり。霊感的にじゃなくて、動いたらそこがそうだった。でも、楽しめばいいのです。
ありがとうございます:
そういう生き方も、まあ楽しめるときは楽しんでいいのです。でも、そういう生き方で満足できなくなったら、また別な生き方もいいのです。要は自分の自由意志をやはり大事に持っていないと駄目なのです。人の意思で動かされるようでは駄目なのです。
今の自分を導いてくれるという、心境を高めてくれるという場合でも、どこから導きがくるかです。無限にきます、いろんなところから、ひとつや二つではありません。無限の導きを、その中で自分が今必要とするものを選ばないと駄目です。ぜんぶ受けるわけにはゆきません。その時に自分の必要なものを的確に選べるかどうか難しいかも知れないですが。
-ありがとうございます-
やはりその時も、神さまに立ち戻って判断して。
ありがとうございます:
本当の神さまは一番謙虚です。神さまに本当にすがらないと、全託しないと出番がないのです。それまではいろんな神さまに自由にすがりなさいというわけです。
すがる神さまでも無限にいるわけです、いろんな神さまが。低い神さま、高い神さと。それは自由に何にでもすがりなさいという。ひとつのある段階の神さまにすがったとしたら、その神さまが高かったらあまり強制力を使ったりしてきません。謙虚に背後に控えながら、必要だったらアドバイスを与えてくるかも知れないのです。
でも低い神さまだと強制的に、「自分のしていることは正しいんだ」と強制的に思い通りにしてくるかも知れません。だから、命令してきます。「こうしなさい、ああしなさい」とうるさいぐらい。
でも、本当の神さまはもっと謙虚だから、いろんな神さまにちょっとでもすがるような気でいてるんだったら「そっちを優先しなさい」と言ってきます。また、自分のしたいことがあって、自分の思い通り、願い通りにしたいと言うんだったら、「それを先にしなさい」と言ってくるのです。神さまの導きを受けるどころではないのです。自分の思いや願いを最優先させてくれるし、他の神仏にすがるんだったら、それを優先させてくれるから。結局はすべてを神さまにお任せするぐらいの全託の心にならないと駄目なのです。本当の神さまにすがるというのは。
段階も無限に分けたほうがいいかも知れない
-ありがとうございます-
神さまの「レベル」という話なのですけど。私たちが一般的にイメージで言うと、神さまはすごい高い存在で、もう素晴らしい高い素晴らしいレベルの方々が神さまというイメージがあります。
その低いレベルの神さまとかいうのは、例えば、宗教の人、書物で言われてる幽界なんかの生物が神さまの形をとって現われてきたりとか。そういった色分けが意味があるのかどうかわかりませんけど。神さまというのはどういう存在から神さまというのか、わからんかったのです。その辺りはどういうふうに考えたらいいでしょうか。
ありがとうございます:
それは段階も無限に分けたほうがいいかも知れません、「神さま」という名前を使っても。
この神さまは「ある程度いろんな力があって神通自在」なんだ、という意味の神さまです。「八百万の神さま」という感じの意味で使われる神さまがあって、それがピンからキリまで無限の段階に分かれている、というふうに見た方がいいのです。
高い神さまはやはり自分を出さない「謙虚」です、どこまでも自分を無くしてしまいます。自分を無くして謙虚になればなるほど、本物を宇宙の大神さまの力・助けを受けやすくなっています。その神さまが本物の神さまが自分を通して働いている、というぐらいの感覚で的確に必要な助けを与え続ける役割を果たすわけです。
だから「どれだけ謙虚になっているか」というのは、大体、計れると思うのです。ちょっとでも自分に「これは力があるんだ」とか、自慢するほどでなくても「これは自分の力なんだ」と掴むようだったら駄目なのです。まだ、謙虚さがまだまだ足りない。それが、無限の力があって太陽のように光を放射する立場でも、「低い」と言うのです。自分は「こういう神さまだ」と、名前を出すだけで駄目なのです。
-ありがとうございます-
自分の力を示したり、或いは強制的にいろんなことをやらせてくる神さまでも、それも神さまのレベルのひとつであって、おかしな存在ではないのではないのですか。
ありがとうございます:
神さまという立場で見た場合は、ある意味ではプラスに転換させるための神通自在の働きをしてゆくという場合です。
-ありがとうございます-
幽界とかいうおかしなところから一線を画されたもので、「プラス、マイナス」というのは果たしてわからないですけど、この世的に言えばプラスの働きもされて?
ありがとうございます:
プラスの神さまとマイナスの神さまに分けるんだったら、邪神とか、聖神に分けてもいいのですが。それも、無限の無限の段階、と分けたらいいかも知れません。
やはり囚われ過ぎるとややこしいのです。だから、そういう神さまよりも、本当は唯ひとつの究極の神さまにすがる方がいいのです。本当の神さまは自分に必要なものを的確に見抜いて与えてくださるし、また、それを受けさせてくださるという意味では「最高の導き手」なのです。
-ありがとうございます-
今言われてる神さまというのは、エンジェルとか言われてる?
ありがとうございます:
全部含まれているのです、そういうのも全部ひっくるめて。だから、本当の唯一無二の絶対の神さまは、もうすべてのすべてなる神さまです。「その神さま以外にない」という。その神さまがすべてのすべてだったら、今言ったいろんな種類の神さまが全部、中に収まっています。そしてそれだけではないのです。他の働きの要素を全部中に持っている神さまなのです。
だから、この世も神さまの現われと言うんだったら、この世も神さまになってくるのです。「みんな神さまの現れ」というと、石ころ一個も(神さまと)見ないといけなくなったら、どの神さまが偉いのかというと難しいのです。
本物の神さまは、この世の石ころ一個も無限に無限に輝いた姿です。本物の神さまの働きであれば、石ころ一個輝いてくるのです、無限に。それが本物の神さまの現われとしての石ころです。
「聖神と邪神」にわける見方、この見方と、本物の八百万の神さまとの関係とはちょっと違うのです。
「聖神と邪神」に分ける見方は表現としての姿です。その奥に本当の意味の俳優としての八百万の神さまがあります。俳優としての八百万の神さまだったら、良い役も悪い役も同時に自由自在に演じ切れる神さまです。本物の神さまの分身としての八百万の神さまというと、本当の意味の名優としての神さまになるのです。だから、必要だったらプラスのいい働きを演じきれるし、また、必要だったらマイナスの悪魔のような姿も演じきれるのです。
この世に物質、物体がありますが、あの世も幽界では幽体があります。霊界は霊体、神界は神体という。だから、五感六感の感覚器官でとらえる世界はみんな物質なのです。物質がある世界がこの世から見るといろんな次元があると見えるのです。
この世と比較して、例えば、霊界とか神界はこの世では神通自在なんで、神界霊界に本当の八百万の神さまがいらっしゃるのかなと思うのです。でも、そういう見方はある意味ではちょっとは当たっていても、本当の八百万の神さまではないのです。
ただ、神界や霊界をもこの世と同じように物質の世界として、神界霊界の物質の世界として見て、それを生み出す働きとして、奥に八百万の神さまが控えている、そういう見方の方が正しいのです。神界をも生み出す本当の意味の八百万の神さまです。またこの世も生み出す八百万の神さまです。また地獄をも生み出す八百万の神さまなのです。
全体を大きく眺めたときに、根本の宇宙の唯一人の大神さまが、すべての要素をぜんぶ組み合わせて最高表現を頂点に、そして無限の無限のチャンネルを創りあげるという。それを創りあげるときに、その八百万の神さまが俳優として働くのです、そしてストーリーが完璧に演じきられるのです。だから、ひとつの番組もちゃんとストーリーがずうっと決まっています。一時期だけの期間だけ決まるのではなく、もう無限の年月全部決まってしまいます。
いろんなストーリーがあるのです。すべての
-ありがとうございます-
今おっしゃっている「俳優」という意味で言いますと、ヒットラーでさえ凄い名優で、今は一般の人は地獄界に行っているだろうと思いきや、そうじゃなくて役目を果たして天上界にいるんだという本がありまして。それが実際そうなのかどうかというのはわからないのですけど。そういう役目を演じ切っているのか、或いは自分で、例え話でゴキブリが暗いところを好むように、あの世へ行っても暗いところへ行っちゃうようになっているのか。そういったことは私たちが見ている表面の世界を見ただけでは判断できない、ということなんでしょうか。
ありがとうございます:
いろんなストーリーがあるのです。すべての人間が考え付くすべての考えの世界が全部あり、揃っているのです。実際悪いことをして地獄へ落ちているという姿もあります、そういう番組もあるし、演技として演じていい世界へ行っているという番組もあります。もっと他にいろんな番組があります、同じ一人の人をとらえても。だから、最初から悟って出てきていて、人類の業を一身に背負ってああいう姿をとって、すぐに最高の神界へ戻っていると言ったら、そういう世界もあるのです。だから、どの番組を自分がとらえて判断するかなのです。
高い良い番組は極端にプラスばかりのいい解釈しかできない番組です、だから、どんな姿で出てきてもいいのです。そうしたら、この世に生まれた人は何のために生きているのかというのでも、いろんな目的を持って生きているのです。楽しむためにだけ生きている人もあるし、世の中を良くしようと思って一所懸命になっている人もあるし。どれがいいんでしょうか。
番組の選び方・受け方
-ありがとうございます-
「人類の意識が例えば進化するとしたら」という表現を時々されますけど。そういう場合は、良い悪いじゃなくて、人類が選ぶチャンネルが少しずつ変わってきたらと、いうような解釈でいいんでしょうか。
ありがとうございます:
そういう見方もできます、ひとつとして。他にもいろんな見方ができると思います。「自分が今、神さまから何を選んで受けるか」です、一番大事なことは。
今見ているこの番組の全部を本当に捨て切って、神さまの最高表現に心を向けたら、その番組がスッと受けられる自分に変わってしまいます、本当は。この世なんかはもう全く無視して度外視してしまうのです。それも一瞬でできて可能です、不思議でもないのです。
でも、この世を見ながらまたちょっと他の世界をというのも、必要であったら可能ですし、また、この世の世界をどういうふうに変化させて見ゆくか、いろんな変化のさせ方、見方があると思います。
神さまの表現がすべてを尽くしています、ありとあらゆる全部、中に存在しているのです。本当に人間が想像できる限りのもの全部、先に用意されていると思います。その中から「何を選ぶか」、(神さまが)創造したものを選んでゆくのです。思う通りのものを選んでゆけると思うのです、でも、人は多分に過去を掴みすぎているのです、ひとつの番組にしがみつきすぎています。
-ありがとうございます-
むしろ番組の中へはまることを望んでいるようなとこがある。
ありがとうございます:
そうです。ひとつの番組にはまり込んでも、さらさらと流れるように新しい姿を眺める