真祈り文庫
2001年5月3日-1
100チャンネルだけを見ている時もあります
-ありがとうございます-
(番組の話)先生はチャンネルの1チャンネルから100チャンネルの全部を見ていらっしゃるのか、それとも100チャンネルだけを見ていらっしゃるのか?
ありがとうございます:
100チャンネルだけを見ている時もありますし、謙虚に謙虚になって、一番下から全部仰ぎ見ようとしている時もあります。もう、何もかもプラスで見たい、地獄の番組もプラスで見たいのです。両方あります、でもなかなか全部見きれないのです。なかなか謙虚になりがたいのです、やはり本当の地獄の苦痛を味わうのは大変です。皆自分の身代わりになってマイナスを背負って下さっている姿、愛の姿と思っても、実際その前に立つと苦しい、痛いが先に立つのです。でも下から見上げたいのです。どこまでもどこまでも下があるみたいで・・・。ありがとうございます。
-ありがとうございます-
(「ありがとうございます」と響きの似ている)「おめでとうございます」というのは言霊的にはどうなんでしょうか?
ありがとうございます:
よく似ているのです、そっくりな位に。お正月の「おめでとうございます」もすごい言葉です、新たに出直す言葉なのです。「お」は大きいという意味だったら、無限に無限に偉大な存在というふうに捉えられますし。「め」は目に見える姿で現れたすべてを捉える言葉です、絶対から現れる全部という意味です。「で」は照り輝く、それがだぶっているというふうに見ると、照り輝き照り輝き、無限に無限に輝いたということです。「とう」は「ありがとう」の「とう」と一緒です。
だから、同じと言ってもいい位、いい言葉です、「ありがとう」と「おめでとう」は。こういう素晴らしい言葉は日本にしか無いらしいのです。ありがたいことだと思います。
-ありがとうございます-
「ありがとうございます」も「おめでとうございます」もこれからたくさん使わせてもらおうと思います。
ありがとうございます:
そうです。「あけまして」という言葉もいいです、「新年」というのも、常に新たに新たにと、いい言葉がいっぱいです、嬉しいです。
-ありがとうございます-
(ここの土地を買ったお金等)先生のお金の出処は・・・?
ありがとうございます:
どこから入ってくるんでしょう。この辺からさっと入ってくるといいのですけど、必要な時に、すっとお金を持ってきて下さるのです、その時期が来たら。私が何にも思っていなくても、何でこんなお金が入ってくるの?と思うのですが、そのすぐ後に話が来るのです。もう、理由も何も無いのです、やはり背後で神さまが、お陰さまが働いて下さるみたいです。だから私が計画も何もしていないのに、向うの方から、向うの世界で計画して動いて下さる神さまがいっぱいいるようです。そうでないと、ぴたっと金額が合うことは無いでしょう。だから、必要なだけしか入ってこないですが、それがぴったりの金額なので不思議なのです。
面倒を見なければ可哀想と思って下さるのか分かりませんけど、(その必要な分は)神さまの計画では必要なのです。それで神さまの責任のもとに色んな神さまを使われて応援して下さるのだと思います。それでなかったらこういう所では、時代が変わっても全然進みません。まず、この辺は木がいっぱい生えていて、電柱一本立ててくれるいうことも絶対無いのです、木を切りだす時に邪魔になるからです。この前の山でもそうなのですけど、森林組合とか山の所有者で管理しているんで、絶対に作らせないのです。それが奇跡みたいに電柱が立ったのですから。だからすべてがそういうふうに、奇跡の連続です、神業みたいな感じで。建築規制の点でも、余分なお金も全然かからずに自由に建てさせてもらえました。全部うまくいっているのです、(相手側に)神さまが目隠ししてくれたのかもしれません。向うの宿泊施設もそうです、考えられない、本当に奇跡みたいです。誰が口封じしたのかという感じです、上手に神さまが操ってるのかもしれません。
-ありがとうございます-
人が来るかどうかも分からない時点でこのような宿泊施設を建てたというのは予知のようなものが働いたのでしょうか?
ありがとうございます:
無いといったら無いし、あるといったらあるのですが。でも、もう、一つの番組のストーリーとして神さまが計算した通りになっているのです。でも、今の一瞬一瞬は別に何の思いも無いし、感謝だけなのです。だから、いい番組のストーリー通りに運ばれていっているだけという感じです。たぶんこの地域一帯が皇の聖地というような感じで、(神さまの)計画的にはこういう大勢の悟った人を生み出す場所になっているらしいのです。「ありがとうございます」を唱える事によって本当の神さまと一体化するのです、いっぱい出てくるらしいのです、何万人どころではないみたいです。だから、そういうことだったら神さまの方で大きい計画を立てて、地球をかえる為にという計画のもとに動いているのです。でも、そういうと言葉にとらわれてしまうので隠しとくほうがいいのかなと思います。結果を見て、それでよかったと思ったらいいのです。
-ありがとうございます-
自分にとって神さまはまだ遠い存在だけれども、人類がこの先に進化するにつれ、神さまの世界と我々人間の世界がそれぞれ存在する、という考え方を持つようになるのでは?神さまの計画があるとすれば、我々人間はいちいちじたばたせずに、その計画に沿って進んでゆけばいいのでは?
ありがとうございます:
その方が本当です、そういう考えにたどり着いたらすごい悟りです。やはり神さまが根本で、そこから全部現れて動かしています。ただ今までの人類は思いを出して、その思いで本当の姿を隠してきていたという感じなのです。ダーウィンの進化論にしても、今いろいろ言われているクローン人間にしても、本当は大きな間違いを犯しているみたいです、間違った考えをしているみたいなのです。何故かというと、神さまは絶対の中に同じものを一つとして持っていない、全部違うものを無限に無限にいっぱい倉庫に溜めてあります。それを一つずつ出してきて新しい創造をし続けるのです。だから進化論といっても、例えば三角があって四角があって丸があってとすると。三角から四角になるのはなり易いと思うのです、直接三角から丸よりは。三角から四角になって、それから丸になるほうが正しいんだろうと思う訳です。そういう考えを定説として流して、それに賛同する人間が増えてきたから進化論が生まれたと思うのです。でも、神さまの方からは三角も四角も丸も絶対の中に全部持っていて、それを新たに新たに押し出してくるのです。今まで三角しかなかった、ちょっと淋しいから今度は四角を降ろそうかという訳です。で、三角・四角を降ろしたから今度は丸も降ろそうかと。だから、三角や四角を丸に変えたのではないのです、新しくそこへ持ってきただけなのです。だから、進化論は合わない、間違っているのです。
それともう一つクローン人間は、同じものもう一つ作れるのかという考えですが、これは絶対不可能です。例えば一つの設計図で三軒の家を建てるとすると。素材をマツとスギとヒノキと三つに分けたとします。マツの家、スギの家、ヒノキの家、とすると、形は同じだけど、同じ家とはいいません。区別の分かる人はこっちはマツ、こっちはスギと、同じではないと言います。設計図が同じで形も同じでも、素材が違ったらやはり全く別のものです。それと同じで構成する一つ一つが本当は全部違うのです。もう、原子一個一個でも全部違うし、原子を構成する素粒子一個一個も全部違うのです。大きいもの程、違うものをいっぱい組み合わせて作られているから、いくら表面的に似たような姿をとっていても全然違います。もう、無限に大きい違いがあるのです。
だから、DNAの設計図をもとにして作ったとしても、一つ一つを構成している要素が違うから、どこをさがしても同じものは絶対に無い、宇宙には一つだけなのです。それに代わるものはどこからも持ってこられないのです。人間の細胞が六十兆近くあったとして、六十兆の積み木と思えば、Aという要素はここ、Bという要素はここと決められているとしたら、似たものでもどこからも持ってこられない、代用がきかないのです。だから、クローン人間を作れると思っている人は、頭がいいのです、よすぎるのです。作ったように錯覚できるのですけど、でもそれは神さまの側から見たら、幼稚な馬鹿な間違った考えなんだというふうに神さまは言ってくるのです。
-ありがとうございます-
(人間の間違った考えも)最終的には神さまの計画に沿った方向へ向かうための過程なんでしょうか?
ありがとうございます:
神さまの表現は、どの番組の表現も本当は最高表現なのです、地獄の番組も神さまの最高傑作になるのです、地獄の石ころ一個も、本当は無限に無限に輝いているのです。絶対の個性あるものを複雑に組み合わせて生み出して、地獄の石ころ一つにかえる訳ですから、その本当の違いが分かれば一個一個の存在が無限に無限に輝いて見えるのです。たとえ地獄にあってもその違いが分かったら、本当の意味での神さまの表現を正しく味わえていると言えるのです。それが分からないのはまだ見る目が無いのです。その見る目を何かで覆いかぶしているか、見えない状態なのです。それが思いで目隠ししているのかもしれないですけど、思いを捨てて感謝の心で正しく明るく見えるようになった時に、その区別がはっきり出来るようになるのです。
例えば、今ここにお饅頭があったらいつ食べるかという問答をかけてくるお婆さんがいたとします。お饅頭いつ食べますか?(例えば)「今」食べると言うでしょう。でも、今というのはすぐに過去になるのです、万分の一秒たったらもう過去の時間です、過去には食べられないのです。万分の一秒未来だったらまだ来ていないから食べられないし。それをもっと絞り込んで、無限分の一秒過ぎ去ったとしても、もう過去ですから食べられません。無限分の一秒未来でも、まだ来ていないから食べられません。だから「今」食べることは絶対に不可能です、永遠に食べられないのです。
もう一つ、うさぎが亀を追いかけているとします。それで、うさぎが亀に追いつくでしょう。(追いついた瞬間に)亀はちょっと前へ進みます、そうすると差が出てきます。次にまたうさぎが亀を追いかけて、また追いついたとします。でも亀はまたちょっと前へ進み、それが永遠に続きます。うさぎは永遠に亀に追いつけないのです。
これは全部一瞬一瞬に置き換えたら分かるのです。(うさぎと亀が)離れている状態を(一瞬)現して、次の一瞬で追いついた状態を現しているのです。追いついた姿を現したらもう追い越しているのです。お饅頭の話も同じです。「今」食べていないという姿です。ただ、一瞬一瞬の置き換えといっても時間が無いのです、限りなくゼロに近い無限分の一秒と言っても。(言葉として一瞬一瞬とは言うけれど)神さまの置き換えは時間の無い置き換えで、何一つ同じものを現さず、繰り返さず最高の表現をして下さるのです。
だから、一瞬一瞬を「ありがとうございます」でいかにそれをもらう瞬間を楽しむか、というのが大事なポイントだと思うのです。だから進化論は間違いだと思います。猿から類人猿になって人間になってなんて、そんな考え方とても受け入れられません。例えば聖書の中でも、土に息を吹き入れて人間を創ったとありますけど、神さまの言葉とは言えません。まあ、例えとして表現しているにしても、神さまの側から見たら何かちょっとおかしいのです。
「南無阿弥陀仏」は他力の生き方なのです
-ありがとうございます-
「南無阿弥陀仏」を信じれば救われるのか、それとも回数を多く唱えれば救われるのかという話がありますが、「ありがとうございます」はどうなんでしょうか?
ありがとうございます:
「南無阿弥陀仏」は他力の生き方なのですけど、救う側と救われる側が最初から離れているのです。信者だけで一つにつながって救われるとか、行じただけで救われるとか、色んな方法があっていいと思うのです。ただ、最初に離れているところがちょっと問題があると思うのです。
「ありがとうございます」は絶対力で、最初から離れていないのです。最初から神さまと自分とは一体なんだ、切り離すことはできないのだと。だから、信じてもいいし、行じてもいいし、どっちもしなくても救われているのです。「ありがとうございます」と唱えた時にもう一体なのです、与えてもらって悟っている自覚がよみがえってくるのです。だから無条件かもしれません。
-ありがとうございます-
「瞬間瞬間に神の光を受け直す」という表現をされますが、「受け続ける」と「受け直す」の違いは?
ありがとうございます:
似ているのですが、「受け直す」というと根本から頂き直すというような感じなのです、根本に心を向けなくても「受け続ける」ことはできるのです。ところが根本へ向くほうが正しく受け易いのです。受けて、直接根本から受け直すという感じで、神さまから直接に受けているという感じを「受け直す」という言葉で表現しているのではないかと思います。一瞬一瞬新たに受け直すと。
-ありがとうございます-
神さまと一体になると思うのは、自分が神だということでしょうか?
ありがとうございます:
思うのではなく、感謝だけでいいのです、思いだけでは部分的なのです。感謝は奥まですうっと入るのです。木があって葉っぱがいっぱい茂って、一枚の葉っぱが表面の自分とすると。その立場で「ありがとうございます」と感謝すると、すうっと小枝から幹から根までゆくのです。そうすると根から見るとみんな一体です、神さまがすべてなのです。ところが思いというのは繋がっているようでも、その葉っぱを中心にした考え方なので、根までなかなか入ってゆかないのです。そうすると疑いの心が生まれたり、本当の一体感が実感として湧いて喜ぶことが出来ないのです。感謝が全部なのです、神さまの心が感謝なのです。神さまの心はいつも全体を把握しているので、全体を把握する心がすうっと自分の心に蘇るような感じなのです。時間がかからない、一瞬で神さまの心で分からせてもらえるのです。神さまの心はすべてのものと一体の愛の心ですから、枝の葉っぱを自由自在に放して伸び伸びと成長させる訳です。思いの方は、愛の一体感を思えば思うほ葉っぱと葉っぱをくっつけるのです。自由を奪って縛ってゆくから、思いの愛の一体感は偽物なのです。葉っぱ同士を思いの接着剤でくっつけるから、不自由になってゆくばっかり。根本からの本当の一体感は一枚一枚の葉っぱをくっつけずに伸び伸びと自由に放すのです。
-ありがとうございます-
人にはそれぞれに天命があるのか?また、感謝の心で天命に沿って生きるだけではなく、自分自身こうありたいという思いも持っていた方がいいのでしょうか?
ありがとうございます:
思いがなくなったら、天命を果たしているのです、天命というのはその人の個性を最大限に発揮している状態です。神さまと自分とを切り離さなかったら、一つにつながっている状態だったら必ず個性が生まれるのです。それで、その(神さまと一体の)個性を発揮するのです。それが本当の天命を果たしているのです、神さまの方から役目付けられて。
(例えば)この手の指がそうです。一本一本を全部切り離しておいたら単に指が一本一本あるだけなのです。過去は親指であろうが人差し指であろうが関係なくなります、単に指があるだけになってしまいます、個性がないのです。でもこれがつながって動いているときは一つ一つに役目があって個性があります。人も神さまとつながっている時は、感謝している時は必ず役目があり、個性があって個性を発揮しているのです。それが本当の意味での天命を果たしている状態なのです。だから神さまと自分とは一体なんだという自覚を呼び起こすだけがいい、その一番いい方法が「ありがとうございます」を唱えるだけで自然に個性を発揮して天命を果たさせてもらえるのです。難しいことは考えないほうがいいみたいです。
本当の神さま、唯一無二絶対の神さまは
-ありがとうございます-
神さまはいつもどこにいるのでしょうか?
ありがとうございます:
本当の神さま、唯一無二絶対の神さまはこの世のすべてに居るし、奥のすべてにも居るし、全部に居るのです。全体が一つの神さまというふうに言えたら一番いいのです。(神さまは)どの神さまですかと言われたら、全体の神さまでなかったら部分の神さまだったら居るとこに居るのです。
-ありがとうございます-
先生の神さまは(どこに居るのですか)?
ありがとうございます:
私の神さまは「ありがとうございます」という神さまだけです、全部にいます。この世のすべてにもあの世のすべてにも、もっともっと奥の次元の全部にも。すべてのすべてに満ちわたってすべてのすべてになっている神さまという感じです。
-ありがとうございます-
世の中では色んな事件が起るけれど、そういうのはすべてに神さまが居ながらも起るようにしているのか、それとも個人の役目としてやっているのか?
ありがとうございます:
神さまの創っている放送番組、無限の無限のチャンネルの中のストーリーだったら、神さまが全部に役目を与えてつくらせているのです。神さまが創っている訳だから、どうしようもない、勝手に変えるわけには絶対にゆきません。でもそれをつくった人、それを見て味わう人は番組の中にはいないのです。あくまでも番組の中は創られたもので、本物ではないのです。俳優さんは、撮影所にはいるかもしれないけどテレビの中にはいないのです、テレビの画面上の姿で、本当の自分はテレビの中にはいないのです。だからどんな悪いことをしていても本人はこたつでおいしいもの食べながら見ている訳です。だから、現実を心でちょっと放すだけでいいのです。ちょっと距離を置いて観ている自分になれば、自分は色んな番組をつくるために、いい役も悪い役も果たしたというふうに見て、それを今お茶を飲みながら、好きな番組をもう一回見ているんだという感覚です。だから、神さまが何かをしている訳でも何でもないのです、楽しませて下さっているのです。
-ありがとうございます-
ただ単に「ありがとうございます」を唱えるべきなのか、それとも無限の無限の愛を感じながら唱えるべきなのか?また、声に出した方がいいのか、それとも心の中で唱えればいいのか?
ありがとうございます:
別にそれは自由でいいと思います。ただ、回数が増えれば増えるほど自由な本当の自分に戻ってゆくのです。心で唱えるだけでもいいし口に出してもいいし、また、他の人の唱えているのを聞くだけでもいいし、他の人に唱えてもらうのもいいし。それはもう、自分の中に「ありがとうございます」というのがどんどん入ってくるようにしてもらうのがいいのです。自らも感謝し人からも感謝されるそういう人は得です、早く自由になり感謝の心に戻ってゆくので、その自分は神さまの色んな表現を自由に楽しめるようになってくるのです。だから、自然なのがいいです。条件付きにこれを唱えたからどうのこうのと思わないほうが楽でいいのです。もう最初から結果を「ありがとうございます」と受けるような気持ちで、条件を付けない方が感謝そのものであるのです。
-ありがとうございます-
先生には人類を良くしようとか、そういう気持ちはないのですか?
ありがとうございます:
思いのあるときはそういう気持ちになりますが、感謝になったときは、無いのです。もしマイナスの多い番組を見ているとしても、その番組をいい番組にかええようとは思わなくなるのです、その番組はそれでいいのだと、いい番組はすでにあるのです。もしいい番組が見たかったら、ちょっとだけチャンネルをかえていい番組をそのままさっと受けたら、もう良くしないで済みます、もうそこに実現しているのですから。
地球も無限のチャンネルの地球があります。低い番組の地球もあるし、高い番組の地球もあるし、人も同じです。低い番組の自分もあるし、高い番組の自分もあるし、全部取り揃えられているのです。(自分がどこにチャンネルを合わせるかによって)見えてくる世界が違ってくるのです。
-ありがとうございます-
悪い番組を見ても、自分でチャンネルをかえることによって危害を被らないようにできるのでしょうか?
ありがとうございます:
例えば地獄の番組を見ているとして、一生懸命に見ているとその中へ入り込んでしまうのです。そのなかの登場人物を自分だと思い込んで、周りからの危害をそのまま受けてしまうような錯覚を起こしてしまうのです。でもテレビを観ている自分と、中の配役の自分は違うのです。テレビを観ているというふうにちょっと距離を置いた時に、これは作り事だからと離したら自分には危害は及ばないのです。感謝するということはテレビを観ている自分に戻ることなのです。
「ありがとうございます」の言葉だけに頼らずに
-ありがとうございます-
一日のうちでも高い(番組の)自分の時と低い自分の時がありますが、低い状態の時は感謝の「ありがとうございます」を唱えることによって高い自分に切りかえたらいいのです?
ありがとうございます:
そうです。(自分だけの)「ありがとうございます」の言葉だけに頼らずに、周りの人もいつも自分のために「ありがとうございます」と祈ってくれているとか、神さまが根本的に無限の無限の「ありがとうございます」を自分に向けて与え続けてくれている、というふうに思うと楽になります。
-ありがとうございます-
神社で我々が祈願したりする姿は神さまから見てどういうふうに映っているのか?また、神さまに願いを叶えてもらうには、もうすでにその願いが叶ったかのように過去形で願うといいという話を聞きました。祈って願いが叶うのであれば、どういう祈り方がいいのでしょうか?
ありがとうございます:
祈りにも無限の段階があるのです。無限のマイナスの祈り、無限のプラスの祈りがあるのです。プラスの祈りにしても無限の段階があって、それはそれぞれの段階に必要なのです。だから、どれがいいか悪いかは言えないのです、必要な段階の祈り方がないと上れないのです。色んな神社がありますが、本当の神さまを直接に把握するのは難しいのです、だから心を向けるための模型を持ってくるのです。そして(その模型である神社に)心を向けることによって本物を感じやすくするのです。実際には神さまは神社にはいません、そんな中に入れるような神さまではないのです。宇宙を一瞬一瞬創り続ける神さまは模型の中には入れません、お祭りしてあるのは本物の神さまではないのです。でもそこに何の力もないのかというと、また違うのです。神さまに心を向けることは、結局その神さまからの一体の流れを受けるのです、受けやすくなる。直接の神さまではなくてもそこから順番に段階を追って神さまの使いという感じで、段階を追った色んな神さまが働いて下まで来るのです。それで神社で願い事をすると、その心の波長と合う神さまが助けてくれます。
でも「ありがとうございました」という感情の人にはその波長と合う神さまが応援して助けてくれます。一番いいのは「ありがとうございます」と最後に加えるのがいい、究極の神さまからの大きい助けがすっと入ります。それぞれに色んな祈り方があっていいのです、ただ自分がどんどんいい祈り方に変化してゆけば、最後にゆきつくところは「ありがとうございます」です。どの神社でもその神社の神さまの名前を呼んで、最後に「ありがとうございます」を加えるのです。
何々でありますように、という言葉を断定的に祈るのも祈れる人はいいのです。ただ現実と理想とのギャップの大きい人は、例えば現実は病気なのに健康であると断定するのは矛盾が生じて、逆に健康を疑ってそう思えなくなるというのがあるのです。そういう場合は断定ではなく神さまの世界に健康があるというのを信じて、その健康を降ろしてくださいという感じで健康でありますようにと祈る方が、矛盾とか心の葛藤が無いのですうっと光が入ってきやすい場合があるのです。それも一つの方法です。それぞれに必要な人が必要な方法を使って、より神さまの大きい助けを受けるというのが軸になっているのだと思うのです。
-ありがとうございます-
(お祈りは)過去形でも現在形でも、その時の自分の気持ちに沿った言い方ですればよいのでしょうか?
ありがとうございます:
「世界人類が平和でありますように」という祈り言葉も浅い祈り方と深い祈り方と両方兼ね備えているのです。「世界人類が平和であります」という断定の世界にまず自分が飛び込んでつかんだら、それは断定の祈りなのです。後に「ように」という言葉が付いてたとしても、全部に通用するようにつくっている言葉なのです。断定できない人には「ように」が大きく働くのです。断定的に祈れる人には「世界人類が平和であります」という断定の世界を先に心にとらえてしまうのです。そしたら「ように」は要らない、無くてもそのままでさっと実現するのです。断定の祈りを先に奥でつかまえない人は現実を先に見ているのです。
現実には断定の世界なんか無いのです。まだ平和ではない状態というのが現実にはあるのです。祈り言葉も色んな活用の仕方があるのですが、神さまから来る祈り言葉はいく通りにも解釈できるのです。誰にでも通用する言葉なのです。
もう今は病気の人が目の前に
-ありがとうございます-
先生は以前病気の方を治されていたと聞きましたが、もう今はやっていらっしゃらないのですよね?
ありがとうございます:
そうです。もう今は病気の人が目の前に現れなくなりました。
-ありがとうございます-
その時の癒しの方法というのは?
ありがとうございます:
私は小さい時からお医者さんになって病気の人を全部治してあげたいと思ってたのです。ところがそれは病気をつかんでいる心が多分にあったと思うのです。だから、病気の人が目に付いて仕方がなかったのです。それで一生懸命に治してあげたいと思って祈っていたのです。祈るのは病気を見つめるのではなく、無限に無限に完全健康を見つめて置き換えてもらうという祈りなのです。皆が神さまで完全健康なんだというように、光り輝いている健康な姿を、心にイメージではなく「感じる」まで「祈りごと」を唱えるのです。そうすると目の前にいる人全員が(不明)。病気の人が情報として入ってこなくなります、見なくなる。だから人の病気を治したというよりも、自分の心の中の病気を健康に置き換えてもらったと言った方が正しいかもしれません。自分が選んだ番組だったかもしれません、本当は健康ばかり見ているのが幸せです。
-ありがとうございます-
それは例えば病気の人が目の前に現れたとしても、もうその人は健康だっていう・・・?
ありがとうございます:
そうです。今だったらもう無限に無限に輝いてるという見方でしか見ないですから。だから病気を治してあげたいとも思わないし、お祈りできるようにしてあげたいとも思わないのです。もう皆が無限に健康で無限に幸せにお祈りできている、皆が天照大御神さまなんだというふうな感謝の仕方をずっと続けさせてもらっているのです。一番得な役目を与えてもらっています。