真祈り文庫
2001年4月14日・1
いろんな言葉で表現しているのです。瞑想だとか
-ありがとうございます-
瞑想はまだ一度もしたことがないのですが、瞑想とはどんなものですか?
ありがとうございます:
いろんな言葉で表現しているのです。瞑想だとか坐禅だとか、禅定とか、お祈りとか、統一とか。いろんな言葉で表現されるのです。瞑想は何のためにするのか、目を閉じて心の奥を見つめて本当の姿を感じ取るというのが瞑想です。
人間の心の一番奥に神さまの実在する姿が存在しています。それを実感するための心を静める行が瞑想です。でも、あまり堅苦しく考えないほうが良いのです。自然体が瞑想に一番ふさわしい姿です。気楽な状態で。
目を閉じなくても目をあけていても瞑想は出来るのです。無念無想になるのがいいか、これも疑問なのです。何も思わないのが本当ではないのです。やはり、神さまを思うのが大事なのです。最高のいい言葉を使って神さまを言葉で思うというのが、神さまを直感で捉えやすいのです。無念無想では何もない状態です。それは、雑念を払うという意味ではチョッといいのですが。その後そこから神さまがスーッと湧き出てくるような感じで感じ取れないといけないのです。
何もないのと神さまがいるのとではチョッと違います。仏教でも無と空との区別ははっきりされているのです。無というのは何もない状態。空というのは無限の無限のプラスがある状態です。だから空にならないといけないのです。
だいぶ根本は違うのです、悟りを求めて、悟りを開く
-ありがとうございます-
「ありがとうございます」と唱えるのと「南無阿弥陀仏」と唱えるのとは同じですか?
ありがとうございます:
だいぶ根本は違うのです、悟りを求めて、悟りを開くための修行方法はいろいろあるのです。
最初は自力的に行を積むのです。自分の努力で自力で。ところがこの悟りを開くというのはかなり難しいのです。次第に力の限界というのが来るのです。そこで、先に悟った人の助けを受けるために他力行が生まれてきます。だから、「南無阿弥陀仏」の阿弥陀さまも修行に修行を重ねてやっと悟ったのです。阿弥陀さまが自力で悟るのは大変だからというので、「南無阿弥陀仏」と唱えたら応援しますよという形なのです。
でも助けてもらう三つの条件があるのです。至誠心・深心・回向発願心の三つを守りなさいというところがあります。難しいのですやっぱり。
至誠心というのは命がけの真剣な心という意味です。深心とは深い心で阿弥陀さまの慈愛を信じなさいということです。回向発願心は、ひたすら阿弥陀さまを思い続けなさいということです。南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏と。南無というのは命を捧げますと言う意味です。阿弥陀さまに私の命を捧げますという意味の南無阿弥陀仏です。
なぜ命を捧げないといけないかと言うと、人間というのはだいたい過去を掴んでいます。古い自分を掴んでいるので、その(古い)命を阿弥陀さまに預けて、マイナスをプラスに置き換えてもらうのです。そういう意味です、だから、阿弥陀さまの力を受けるだけではだめなのです。命を捧げて古いマイナスを同時に渡さないといけないのです。そういう意味で、南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏、命を捧げます、ということは大事なのです。
この場合にも、自力と他力ともうひとつ絶対力があるのですけど、他力の場合でも、救う側と救われる側とが離れているのです。
三つの条件を満たして助けてもらうにしても、凡夫の自分がどれだけ阿弥陀さまに近づけるかというと、なかなか難しいのです。
「ありがとうございます」というのは、自力でも他力でもないのです、絶対力です。絶対力というのは対立がありません。分かれていないのです。最初から宇宙絶対神と自分とは一体なんだ、切っても切れない間柄なんだという、そこから出発するのです。みんなすでに悟っているんだということが大前提になります。神さまと一体なんだと。
だから、下から上がるのではなく、神さまから、天から舞い降りて来るような感じで悟りの境地を与えてもらうのです。それは、難行苦行は何も必要ありません。「ありがとうございます」を唱えて受けるだけという簡単な行で、すでに悟っている自分に気付かせてもらうのです。
だから、「ありがとうございます」にはすべてが含まれています。他力のありとあらゆる神仏の名前も働きも中にあります。命を捧げる全托の心もあるし、与えてもらって受け取る心もあります。全部ふくまれているのが「ありがとうございます」です。だから「ありがとうございます」は神さまの究極の名前です。これさえ唱えたら誰でも、どんな状態でも必要な助けを与えて、必ず悟りへ導いて助けますよということです。
だから、「南無阿弥陀仏」も良いのです。自力よりはるかにいいのです。それよりも何万倍も「ありがとうございます」の絶対力の本当の救われ道のほうが良いのです。
ただ、この「ありがとうございます」という神さまは、無限に無限に謙虚過ぎて、ほかの方法を選んでそれをしますというときは引っ込んでしまいます。どんな神さま、どんな仏さまにすがってもいいのです。そっちを最優先してがんばりなさいというわけです。
でも最後に、どうしても満足できなくて行き詰まる時があります。どんな方法をとっても究極の悟りではないからです。そういう時にやはり、最後に戻るところが「ありがとうございます」の神さまです。楽にスッと悟りに導いてもらうのです。
-ありがとうございます-
親鸞上人がいらした当時には、「南無阿弥陀仏」と唱える事は画期的なことだったのですか?
ありがとうございます:
そうです、画期的なことだったのです。自力で難行苦行して悟ろうと努力したのです。ところがみんな頭を打って行き詰まるのです。
-ありがとうございます-
在家で信仰を広めようとした事も画期的なことですか?
ありがとうございます:
そうです、画期的です。まず法然さんが自力で修行に修行を重ねて悟ろうとされたのです。ところが、自分にはこれは無理だと気付いたのです。あの当時、日本一ぐらいの立派な方です。ありとあらゆる自力の修行をして、傍目から見たら、こんな立派な人はいないというくらいです。
ところが、法然さん、心では満足できなかったのです。自分には悟れない、あきらめの境地に陥って、そして、この自分が救われる道はないかと、お経を全部・大蔵経なんかもお堂にこもって読み漁るのです。最後に見つけるのです。あっ!これだと閃いたのが「南無阿弥陀仏」。
法然さんですら自力は不可能だと思っているのです。それで、ひたすら「南無阿弥陀仏」を一日五万遍ぐらい唱えたのです。ほかの事を何も思わないというのはすごい事です。五万遍くらい唱えないとほかの事を思ってしまうのです。
それで、過去のすべてを捨て切ったというのもすごい事です。あれだけの博識を全部捨てて、さらりと忘れてしまうわけです。人から何を質問されてももう答えない。知りませんと。私はもう「南無阿弥陀仏」しか知りませんという感じです。そこまで絞り込んだのです。だから他力の行で、「南無阿弥陀仏」で心境まで引き上げてもらったのです。すごいことだと思います。
専門のお坊さんでも、悟りというのが無理なのです。ましてや在家で「南無阿弥陀仏」を唱えたぐらいでは難しいのです。まず、仕事をしながらというのは難しい、念仏申しながら仕事してというなら、まだ救われる道はあるのですが。浅い救われ、深い救われといろいろあるのですけど、浅い救われでもなかなか難しいのです。
そうしたら、救われる道がどこにあるかとなってくるのです。でも、他力で諦めが生まれても良いのです。もうひとつ切り札が残っていたと、最後の切り札として究極の神さまが「ありがとうございます」として自ら出てくるのです。
-ありがとうございます-
「ありがとうございます」と唱えた悟りの境地というのは、お釈迦さまが悟りを開いた境地と同じですか?
ありがとうございます:
肉体を持って生まれて修行して悟った心境というのは低いのです、小さいのです。だからお釈迦さまも最初の小さい悟りを捨てて、神さまの中へ溶け込んで、神さまの側から新たに出てくる自分を、本当の自分を気づいたときには、無限の昔から悟っている自分・修行して悟ったのではない自分です。魂の自分と肉体の自分は無関係、無限の無限の昔から悟っている自分に気付いたときが、本当の、神さまとの一体の自覚があります。それだったら、みんな最初から持っているはずです。
道元さんでも相当悩んだのです。本来悟っている自分がなぜ修行して悟ろうとするのかと。やはり大きい問題だったんだと思います。何で悟っている自分が悟ろうとするのかと、悟ろうとしなくても悟っているのに。でも、悟った自分に気付いた時には良くわかるのです。悟ろうとする自分を小さく掴んでいるときは、両方の考えが生まれてくるのです。
すべての思いを断ち切る方法は「ありがとうございます」でひとつになってゆかないとだめなのです。「ありがとうございます」は神さまのすべてを知るための言葉です。だから、対立がなくなる・つないでしまう・一体化するのです。肉眼で見ている宇宙も神さまの一部として捉えてしまいます。この世と離れて神さまがあるとか、別に見てゆく考えが消えてゆきます。全部愛の一体感で見てゆくようになるのです。
人間のこの体も同じです。頭もあり、手足もあり、中には爪の垢もあるわけです。これがひとつのものとして見えたときは全体的に捉えて、相対的な考えには陥りません。「ありがとうございます」は究極の神さまの全体像を捉えて一切の迷いが消えてゆくゆきかたなのです。
「ありがとうございます」をたくさん唱えるほうが良いのです。ほかのことを思わなくなるし、「ありがとうございます」という神さまの働きが必要に応じて、順番に降りてきてそれを感じさせてもらうのです、実感していきます。そしたら、矛盾点がドンドン消えてゆきます。今まではいろいろ矛盾を持っているでしょうが、矛盾がドンドン消されていって心がスッキリしてきます。目の前の鱗もドンドン剥がれていって見える世界が広がります。
守護霊さまは大神さまの代わり
-ありがとうございます-
生身の自分の力を一とすると、守護霊さまの力はどれくらいなのですか?
ありがとうございます:
守護霊さまという言葉もいろんな意味で使われるのです。定義の仕方はいろいろなのです。守護霊さまを、修行して悟って立派になった神さま・守護神さまの一人と見ると、いったん悟ると無限の力があります。それで肉体人間に付き添って悟りを助けるために守っているのです。
だから、必要に応じての力を振るってきます。必要なだけを順番に与えてくれるので、必要以上の干渉はしてこないのです。小さい助けでいい時は小さい助けでとどめるのです。大きい助けが要るときは大きい助けを与えてきます。
表面だけを見て、この守護霊さまは低いのかな、力がないのかなと言うのは間違いです。やはり、無限の力があるというふうに見たほうが良いのです。ただ必要なだけの力を振るってくるから、必ず自由自在にいろんな力を発揮してくれます。
浅く表面で働いている姿だけを眺めていると、この守護霊さまはこの程度の働きしか出来ないかなと錯覚します。大体あの世が見える霊能者はそういうふうに見てしまうから、そう見てしまいます。でも、その時はその時に必要なだけの働きを姿を現してするだけだから、もっと大きい力が必要なときにはもっと大きな力を振るいますので、限定した見方をするのは間違いです。
だから、本当は宇宙の大神さまの代わりに、(自分を)専属として守るために降りてくるのです。究極は宇宙の大神さまの力を受け直して、使える神さまと見たほうが良いのです。小さく見ないほうが良いのです。
だから、守護霊さま「ありがとうございます」と最後につけている限りは、守護霊さまは宇宙の大神さまと一体なのです。守護霊さまを通して必要な助けが降りやすくなっています。そういう形で見るのが大事なのです。
仕事も必要な事と本当にしたい事とを区別
-ありがとうございます-
最近朝起きて、仕事にゆきたくないのです。それは、仕事を辞めなさいよという事でしょうか?それとも、気持ちを変えなさいよという事でしょうか?
ありがとうございます:
仕事も必要な事と本当にしたい事とを区別すると、必要な事はしたほうが良いのです。だから、させてもらえるはずです、必ず。でも、自分の好きな事、したい事はどっちでも良いのです。適当で、程々で、したい時にして。
本当に必要な事だったら、必ずさせてくださるのです。仕事でもなんでも。その時に自分が本当に必要なものは何?会社にゆくことですか?違うでしょう、たぶん。本当に必要な事は必ずさせてくださるから、嫌だと言ってもしてしまうのです。
例えば、呼吸は必要です、止まらないのです、チャンと動いています、ご飯も必要なだけ食べます。絶対に必要な事は必ず神さまのほうがバックアップしているから、自然にさせてもらっているのです。後はあんまり必要ないことは何しても勝手なのです。してもしなくても良いという形で自由にさせてもらうのです。
-ありがとうございます-
じゃあ、仕事はしてもしなくても良い?
ありがとうございます:
本当は、そんなもんじゃないのかな。どんな場合でも、「ありがとうございます」と受け直せば感激が新たになります。過去を掴んで、その連続で見ていると、どうしてもマンネリ化してくるのです。飽きてしまっているのです、過去を掴みすぎているのです。その過去を掴む心を消してもらうには「ありがとうございます」をチョッと回数多く唱えると消えてしまいます。そうすると新たに、何かしてみたい、何かさせて欲しいという気持ちになります。何しても有り難い有り難いになります。
初心に返って、新たに新たに受け直す気持ちは大事です。そういう意味で、マンネリ化の状態に置かれて、もう一回初心に返って喜ぶための勉強かもしれません。形は関係ないのです。心の持ち方ひとつです。どんな仕事しても良いのです。人の十倍ぐらい楽しんで楽しんで。
今の一瞬、新たに受け直して、一瞬だけを掴めばいいのです
-ありがとうございます-
過去を掴むと飽きるという事ですが、普段は何を掴めばいいのですか?
ありがとうございます:
今の一瞬、新たに受け直して、一瞬だけを掴めばいいのです。だから本当は、神さまが宇宙を創造するというのは一瞬一瞬に新しいものを生み出してゆくので、それを受けて味わうというのが大事です。一瞬一瞬新たに受け直すことです。
仕事をしているというのも、仕事をしている姿を一瞬受け直すのです。次に何をさせてもらうにも、新たに一瞬受け直す。そうすると神さまが自分を通して大きく働いている姿が出てきます。仕事だけではなくて、ほかの事も全部です。家族と過ごすときも、一瞬だけ神さまが家族の姿で現れたということです。一瞬だけと思うとありがたいのです。次の一瞬すべて消えたら何もないのですから。
宇宙のすべてが真っ暗闇で何も存在しないと思うと、石ころ一個もありがたいと思うのです。ほかのものも無限の価値のあるものと見えてくるのです。
一瞬一瞬と絞り込むのが大変なので、今日一日だけでも良いし、今年一年でも良いのです。心新たにするそういう生き方だと感謝も感激も深くなります。感謝が深くなると、一瞬というのがドンドン時間が短くなってゆきます。無限億万分の一秒まで進みます。そして新しい宇宙を受けなおすようになってゆきます。
-ありがとうございます-
そのへんがサッパリわからないのです。一瞬一瞬というのが、僕らは連続に見えていますから。
ありがとうございます:
時間と空間の関係が、時間と空間というのは相対の両極に振り分けられて、その組み合わせで、時間空間の組み合わさった宇宙・世界が生まれるのです。時間が限りなく短くなるほど良いのです。ゼロに近づくほど無限に広がります。それだけ素晴らしい世界を味わえます。
だから、仕事していてもマンネリ化してくると時間をダラダラ長く感じて、そうすると見ている世界がつまらない世界です。嫌な仕事をしているときはそうです。空間が狭まって嫌な状態がいっぱいという状態のときは、時間が長く長く感じます。でも、楽しくてたまらないときは時間のたつのを忘れてしまいます。時間は関係ないのです。
時計の時間と心で感じる時間はチョッと違うのです。心では一瞬というものを無に近くまで絞り込むほど、自分の心の広がる世界は無限に無限に大きくなって、素晴らしい幸せな状態を感知しているのです。
この世の人は一瞬というのを、瞬きする時間というぐらいに見るのですけど、この一瞬という時間をドンドン短く出来るのが良いのです。そうすると、神さまの宇宙創造の仕組みがわかってきます。本当に一瞬に宇宙のすべてが置き換わります。無限億万分の一秒という短い時間に置き換わるから、普通は連続してしか見えないのです。普通は区切りをつける能力がないのです。
映画のフイルムがそうです。24こまを1秒間に回したら動きが連続して見えます。そうすると、ばらばらに見えないから(連続しているように)錯覚するのです。でも、24枚別々にしたらよくわかります、バラバラというのが。
そういう仕組みと似ていると言えば似ています、無限のコマを一瞬にして流してしまうから、連続しているようにしか見えないというだけです。
「ありがとうございます」と唱えたときに神さまが
-ありがとうございます-
必要な事、やらなければならないことというのは、「ありがとうございます」を唱えていると自然にそうなってくるんでしょうか?それとも、今の時点で選ぼうとする事は無駄な事なんでしょうか?
ありがとうございます:
「ありがとうございます」と唱えたときに神さまが降りてきて、必要な事を与えてくるのです。そしてそれを受け取れる状態に必ずなるのです。
必要な事、本当にしなければならないことは、自然にさせてもらって結果が出てきます。だから、「ありがとうございます」と唱える事が今一番必要な事だったら、「ありがとうございます」と唱える事だけで終わります。
「ありがとうございます」を唱えるだけでも、本当はものすごい働きになっているのです。言ってみれば、過去の心にためた物を消し去る事が必要だったら、消すための働きが絶対に必要になるのです。「ありがとうございます」を唱えるだけで、マイナスのものを消す大きい働きをしてしまいます。
心のチャンネルを高いチャンネルに切り替えるために、心の中をプラスに置き換えることが必要だったら、「ありがとうございます」だけを唱えて無限のプラスを心に加えてくるのです。その後又チャンネルが変わって、そこの姿形に出るのが必要だったら、スッと変わっていろんなプラスの働きの大きく出来ている自分に変わって出てきます。
すべてが、必要なものがドンドン神さまの方から与えてきて、それを受けている結果が生まれてきます。あれこれ自分で考えても、まだわからないのです。あれしたらいいかどうか迷ってしまうだけで、神さまの助けを受け損なってしまいます。だから、「ありがとうございます」それだけで押し通したほうが考えないで済むし、結果がチャンと出てきます。
心で唱えたら必要に応じて大きい神さまの働きが
-ありがとうございます-
初めてお伺いするのですけど、あちこちに「ありがとうございます」というシールがたくさん貼ってあるのですけれど、目に触れるだけで効果があるというのでそうしてあるのですか?
ありがとうございます::
そうです。心で唱えたら必要に応じて大きい神さまの働きが入ってきます。こうして貼っていると、ここから神さまが光を放射するのです。灯台みたいに光を放射するのです。いつでも強い光を放射するかというと、そうとは限らないのです。必要な人が通ると光が強くなります。不思議です。光の量まで加減してきます。
-ありがとうございます-
このシールは特別なものですか?自分で書いてもいいですか?
ありがとうございます:
いいえいいえ、特別ではありません。自分で書いてそれでいいのです。こうして、目で見るのもいいし、テープに録音して聞くのも良いのです。ほかに、「ありがとうございます」を心に取り込む方法があれば何でもいいのです。
いろんな能力は、自分の自我の心で開発したものは
-ありがとうございます-
右脳と悟りとは関係ないですか?能力の訓練の仕方はありますか?
ありがとうございます:
いろんな能力は、自分の自我の心で開発したものはマイナスになりがちです。いろんな能力というのは自然に出てくるのが普通なのです。ところが、それを途中でふたをしてしまうというのは必要なかったのです。必要ないから蓋をしてしまうのです。
本当に必要なものだったら又自然に出てくるはずなのです。無理やりしなくてもいいのです。いろんな能力が出てきたら本当の幸せかというと、そうではないかもしれないのです。本当に必要だったらそれが役に立つのですが。
いろんな能力を人間はたくさん奥にもっているのです。無限の能力を持っていてそれを自由に出せるようになっているのです。
例えば、人の未来を全部予知できる能力が出てくるとすると。みんなの死ぬときが全部わかったとしても意味がありません。必要ない、逆に自分の心も苦しいし心を痛めます。人に教えても心痛めるし悩みます。わかっても役に立ちません。逆にわかることが自分にとってマイナス・不幸になります。ほかの能力も全部同じです。本当に必要な能力がそのときだけ出てくればいいのです。
この加減が普通は自分では出来ません。それを神さまにおまかせするのが良いのです。「ありがとうございますと唱えていて、神さまが必要としてその助けが降りてきて、自然に出てくる能力だったら、どんな能力も生きてきます。
だから、「ありがとうございます」と唱えていて、本当に未来を予知する能力が必要だったら、必要なだけの能力がかならず出てきます。閃くようにわかるのです。
役割の違い、働きの違いというのはあるのですが
-ありがとうございます-
地球にはいろんな人種がありますが、日本人が特殊というのはありますか?
ありがとうございます:
役割の違い、働きの違いというのはあるのですが、それを言うと全部違うのです。日本人も一人一人全部違います。神さまの作り上げるものは同じ物はひとつもないのです。同じ事は二度と繰り返さない。これは鉄則みたいなものです。
皆が一人一人、小さいところまで違うんだというのがわかるのが正しいのです。だから、人種の違いも、大雑把な違いがわかっただけで、もっと細かく一人一人の違いまでもはっきりわかるほうが良いのです。一人一人違いがある働きが神さまにとって必要なのです。本当に必要な働きは一人一人の個性です、それで全体が大調和の姿をとります。
日本民族は、日本民族に役割が大きく見たらあります。日本人一人一人に役割が違ってあります。でもどれが良い悪いではないのです。尊いとかどうこうとか、全部必要な働きです。全体にとって、日本民族も必要だし、ほかの民族も絶対必要です。だからその価値は同じです。平等の価値があります。
ちょうどお芝居をするのがそうです。ストーリーが決まったら役割を決めます。良い役をしている人が価値があるかというとそうではないのです。どんな役も悪役も、お芝居には絶対必要な要素です。同じ平等の価値があります。
そういう意味で、神さまの宇宙創造もそういう仕組みになっているので、石ころ一個も太陽ひとつも平等の価値があります。石ころも、お前は小さいからだめだと言われたら、「悔しかったら太陽お前も小さくなってみろ」と言われてもなれません。神さまの前に立ったときには皆平等の価値があります。無限に価値のある絶対のものがあります。
個性というのは、「ありがとうございます」を唱えていると本当の個性が出てきます。全体者と一体化しないと個性は生まれないです。この手でも、全体者と一体になっているから親指です。人差し指、中指というように決まるのです。指を切り落として並べたら、どれが親指か決まりません、一本の指があるだけです。これは個性が消えてしまっていて、もうないのです。個性は全体者と繋がっているときだけが個性が生まれるのです。
神さまと一体のときだけが個性を発揮できるのです。「ありがとうございます」と唱えて神さまと一体化しているときが、一人一人の個性を発揮して大きい働きをさせていただくのです。個性は癖とは違います。個性は神さまの働きです。
言霊としての響きが大事です。これで神さまを呼んでいる
-ありがとうございます-
「ありがとうございます」というのは、響きが大事なのですか?
ありがとうございます:
そうです。言霊としての響きが大事です。これで神さまを呼んでいる働きです。究極の神さまを呼び出している働きになります。
-ありがとうございます-
状況によって、「ありがとう」・「ありがとうございました」・「ありがとうございます」を使い分けていますが、言葉の持つ力としては「ありがとうございます」が一番ですか?
ありがとうございます:
これも、神さまの名前というふうにみたら、「ありがとうございました」は神さまの名前を呼ぶのではなく、神さまの働きがあったというぐらいの意味です。神さまの名前を呼ぶほうがスッと出てきて必要な働きをサッとして助けてくださいます。だから「ありがとうございます」が基本です。
「ありがとう」でも別に悪くはないのですが、「神さま」というのと、「神」と言うのと、そういっても出てきてくださると思うのですが、でも、神さまと言ったほうが、呼ばれたと思って出てくるのです。
-ありがとうございます-
言霊学は日本にだけあるのですか?
ありがとうございます:
外国にもあるのです。ただ日本には言霊に裏打ちされた言葉が多いのです。外国にも言霊に裏打ちされた言葉はあるのです。言葉というのは皆そうだけど、足りないのです。
漢字の場合は言霊の意味とチョッと違います。形で神さまの働きをあらわすのです。だから言霊的な意味はチョッとずれます。ひらがなの「ありがとうございます」でいろんな意味で使ったほうがいいと思います。
-ありがとうございます-
心の中で「ありがとうございます」というのと、言葉に出して「ありがとうございます」というのとでは、言葉の重みとしては同じなのですか?
ありがとうございます:
そのときの状況で変わります。心で唱えるというのは、自分の心に深く入るのです。奥深くに入って唱えるほど力が大きくなります。そういう意味では心で奥深くに祈る・唱えるというのも良いのです。
でも、口に出して言うのも大事です。それを誰かが聞いていたら、その人に「ありがとうございます」と唱えてもらったのと同じで、それが全部自分に返ってきます。自分の祈りとひとつになります。そのときその時に両方使い分けて、自由自在でいいと思います。
-ありがとうございます-
「ありがとうございます」と唱えるときと、「無限の無限のありがとうございます」と唱えるときと、「神さまありがとうございます」と唱えるときがあります。どれでも良いのですか?
ありがとうございます:
それも、マンネリ化しないという意味では変えても良いのです。「無限の無限のありがとうございます」と時々言うと、「無限の無限のありがとうございます」を中に持っている大きい「ありがとうございます」を唱えやすくなってきます。「無限の無限のありがとうございます」を中に持っている大きい「ありがとうございます」に変わってきます。そういう意味では「無限の無限のありがとうございます」と唱えたほうが良いのです。
小さい「ありがとうございます」から大きい「ありがとうございます」までいっぱいあります。浅いのから深いのまで、それがすべて備わっているのです。「ありがとうございます」の中にです。
あるときは無限に無限に大きくなります。あるときは無限に小さくなるかもしれません。原子の中に入って小さい中のものを求める「ありがとうございます」になるかもしれないのです。そうやって全体を同時に見るかもしれない。楽しめば良いのです。一回一回「ありがとうございます」を楽しませてもらうのです。
日本の本当の姿は、太陽が輝くようにいつも輝いて
-ありがとうございます-
日本という国が、経済的に衰退し政治的にも心の問題も含めて、いい方向に進んでいるように思えないのですけれど、先生はどう思われますか?
ありがとうございます:
日本の本当の姿は、太陽が輝くようにいつも輝いています。表面だけ雲がかかって太陽が見えない、雲があるから邪魔しているだけです。今の日本の姿も同じです。本当の姿を隠している何かがあります。それをドンドン消してもらったら良いわけです。
バブルの崩壊なんていうのは、空にかかっている雲を雨でざっと消してもらったような姿です。それぞれ皆邪魔しているものを消してもらうほど、日本の本来の姿、太陽がざっと出てきます。
だから太陽は絶対に消えません、ただ表面に見えるかどうかです。見えるようにスッキリすればいいのです、心をスッキリさせたら良いのです。心に溜めた過去を掴む思いとか、マイナスの思いとかを全部消し去ってしまったらいいのです。
だから今、いろいろマイナスの面があるというのも、あるというふうに見ても消えません、「ありがとうございます」というふうに感謝したら消してもらえるのです。「ありがとうございます」と唱えてくれる人が増えてきたら、邪魔するもの全部消えてしまうから、本来の日本の姿・幸せな状態がサッと出てきます。
これを、表面だけ取り繕ってもだめなのです。奥の姿を出さないといけない、いくらペンキを塗ってもいけないのです。ダイヤモンドの輝きを磨き出さないといけないのです。ペンキを塗って綺麗に飾っても本当のダイヤモンドの輝きは出てこないのです。
日本の素晴らしい状態も、人の幸せな状態も、外からペンキを塗って作るのとは違います。邪魔するものを全部削ぎ落として磨きだせば良いのです。
だからシンプルなのが良いのです、すべてが。今までは日本は物が多すぎたのです。必要でないものが多すぎるのはシンプルではありません。本当に必要なだけが有ったほうがスッキリしていると思います。だから、ごみがいっぱいになってしまって、景気が良くなるといっても、ごみがいっぱいになるような景気の良くなり方では困ります。景気か良くなるためのものを、必要なだけ作って、