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真祈り文庫
2001年3月4日
未だ、低いのです。全部お任せで自然に湧いてくる
-ありがとうございます-
いろいろ考えて、行動することは良いことなんでしょうか?
ありがとうございます:
未だ、低いのです。全部お任せで自然に湧いてくるのがいいのです。
-ありがとうございます-
人間が意図的に生きるということは、ある意味では傲慢ですね。
ありがとうございます:
はい。ちょっと「ズレ」があります。
-ありがとうございます-
人間が意図的に生きる瞬間から「ズレ」始める?
ありがとうございます:
だから思いを出すよりは、感謝でひとつにつながる方がいいのです。
-ありがとうございます-
「ズレ」るということは、自然の摂理から言うと、人間の肉体と頭脳を持ったが故に始まった問題で、動物の中にはそういう問題は起きないのですか?
ありがとうございます:
別に、人間だけではなく、やはり、「ズレ」はあります。
-ありがとうございます-
植物の方がより近いですか?
ありがとうございます:
いや、神さまの最高表現と比較したら、どれだけそれが具体化して出てきているかが大事なのです。その出方が人間よりは、動物の方が少ないのです。植物はもっと少ない。鉱物はもっと少ないのです。
-ありがとうございます-
そうすると、人間が創造して作り出すことは、結果的にはどんどん、どんどん本来のありようから離れている、ということになりますか?
ありがとうございます:
感謝を忘れると、過去に囚われて過去の残像を追いかけます。 過去の繰り返しが多いのです。「新しいものを受け損なっている」というマイナスが増えるわけです。感謝があると新しい最高表現をどんどん受けてゆけるから、よいものがどんどん具体化して出てきます。
あれは、まあひとつの神さまの心をこの世に現す
-ありがとうございます-
かって、アトランティス・ムーとか、ああいう文明が存在したということは、それを究めていって滅ばざるを得なかった。また、時が変わり、同じ事を繰り返しているということですか?
ありがとうございます:
そうです。あれは、まあひとつの神さまの心をこの世に現す過程で、ちょうど絵を描くような感じで、落書きになったのです。最後に「それならもう一回書き直そうか」という感じです。もう一回全部消して、書き直すのは大変なのです。いっぺんに、パッと紙を変えた方がいいわけです。だから感謝で神さまの御心を受けて、それを具体化すれば、一番最高理想が現実化するのです。
やはり感謝を忘れて、神さまの御心を無視して、自分勝手に動き出すと、過去の繰り返しになります。今、現実にあるものは最高表現ではないのです。心に受けたものが現実化しているのです。特に、過去を心に捉えると、同じことを心に繰り返し取り込んで、それを現実化してゆくのです。だから「歴史が繰り返される」というのも、現実の過去を掴み過ぎると似たようなものを繰り返すことになるわけです。 だから、過去は相手にせずに、神さまの御心だけをしっかり捉えようとする方が、自分がどんどん現実化して現れてきます。
感謝をする中でいらないものは消して、よいもの
-ありがとうございます-
今の姿としては、ある役割、職業、社会の仕組みがあります。そこの中で、感謝の行を続けることでなのですか?
ありがとうございます:
そうです。だから、感謝をする中でいらないものは消して、よいものをどんどん現して下さる訳です。
マイナスとプラスの置き換えが、神さまが一番よくわかっているわけです。だから、神さまの助けを受けて、消してもらう方が早く良くなります。神さまの助けを大きく受ける意味で「ありがとうございます」と唱えるのがいいのです。
-ありがとうございます-
ある意味で、想念から浮かぶ欲望など、本質のものと区別がつかない状況があります。 それは念ずることによって、本質にむかうのですか?
ありがとうございます:
そうです。「はい」「ありがとうございます」と一言加える事によって、神さまの方からしむけてくださるのです。これはプラスの必要なもの、これはマイナスの要らないものというように。そしてマイナスを消してプラスを置き換えてくださるのです。迷う時は、特にそうです。感謝するだけの方がいいのです。
-ありがとうございます-
顔や形が違うように、現世的に果たす役割の違いを持って生まれてきているのですか?
ありがとうございます:
そうです。すべてがそうです、同じものは何ひとつとないのです。また二度と同じことを絶対繰り返さないこと、これ鉄則です。
つながりは、「過去の縁で」という見方と、新しい神さまの
-ありがとうございます-
Yさんをはじめ、みなさんとこういう縁をこの場で共有するということは、この一日、二日しか体験出来ないわけですが。 これもまさに、触れ合ってまた散らばってゆ>くという流れはあるんでしょうか?
ありがとうございます:
つながりは、「過去の縁で」という見方と、新しい神さまの「神縁で」という二通りあります。本当は新しい神さまの神縁で必要なものがスッと助け合う姿として出てくるのです。その方が本当の力を発揮してゆくのです。「過去世の縁で」というよりは、新しい縁の方がいいのです。
-ありがとうございます-
もし、過去で縁があったとしても、ここで新たに共に作り出した新しい縁を、スタートした意識の方がいいのですか?
ありがとうございます:
いいのです。だから、いいものがどんどん降りてくる訳です。 過去の方は腐れ縁の方が多いのです。それに、やっぱり過去の自分より、今の自分の方が立派になっている筈なのです。過去にどんなにいい生き方しても、大したことはないのです。いろんな意味で今の自分の方が進歩しているのです。
-ありがとうございます-
生きている限りは、昨日より今日の方が進歩しているのですか?
ありがとうございます:
はい。だから、マイナスを積み重ねたように見えても、マイナスを体験をする事によって、心の幅が広がったり、いろんな意味で進歩してるのです。
「慾」という漢字が「谷」に「欠」る「心」と書きます
-ありがとうございます-
「欲」ってありますね。それは人間だけじゃなしに、生きてる動物にとっても、食欲というものがあります。特に人間の場合には、物欲というのが大変なことのように思うのですが、この「欲」というのは自分で出しているでしょう? 押さえようと思っても。これは理性で押さえていいものか、押さえなくてもいいものか。
ありがとうございます:
「慾」という漢字が「谷」に「欠」る「心」と書きます。「谷」は宇宙絶対神の「谷神」という意味です。「絶対神の心の欠けている状態」というのです。だから絶対神の心とひとつになっていると、満ち足りているわけです。求める心は全然ないのです。満ち足りて、ありがたいばかり、満ち足りる心になれるのです。「欲」という時は、やっぱり神さまと離れてしまって、折角与えられた無限の無限の幸せでも、受け取っていないという状態、不足の心なのです。
それは感謝する事によって、神さまの心とひとつになれば、もうすべてが与えられているという心になれば、「欲」は自然に消えるのです。でも、食欲も必要です。必要なものは、ちゃんと生かす為に与えてくださるのです。食べ物として、ぜんぶ必要なものなのに、わざわざ求める心を起こす必要はないのです。
本当に、神さまの方は、必要なものをすべて与え続けてくださるわけで、それを感謝で受け続けている限りは、わざわざ求めて、欲の心を起こす必要はないのです。
-ありがとうございます-
生きるためには、食欲というのがあります。これは時間通りに食べなければいけないので、朝・昼・晩という、食べなきゃ死ぬわけですから、食事のあり方というのは、先生は、どのようにお考えですか?
ありがとうございます:
お腹が空いた時に「ありがとうございます」と頂けばいいのです。自然に、目の前に食べ物が出てくるはずです。感謝さえしていたら、「時間で何時に食べる」という事はないのですし、お腹が空いていなかったら、無理に食べなくてもいいでしょうし、また、あれ食べたい、これ食べたいと思わなくても、本当は感謝さえしてたら必要なものが食卓に上るはずなのです。
-ありがとうございます-
栄養バランスというでしょう。でも、自分の体で感じるものを食べたらいいのですか。
ありがとうございます:
そうです。人間の体は、体というより神さまの命の働きの方がもの凄い働きなのです。だからビタミンがなくても、ビタミンを体から作り出してくれます。だから何を食べても大丈夫なのです。
人間だけです、あれこれ言うのは。他の生物は、みな偏っています、偏ってもちゃんと生かされているでしょう。人間が、やっぱりあんまりおかしい考え方をし過ぎていると思います。極端に言ったら、空気だけで生きるられるかも知れないし、水だけでも大丈夫かも知れない。元々は物質化現象だと思うのです。
神さまがこの世に物質化して生み出してくれている、一瞬一瞬の物質化現象が移り変わっているだけなのです。神さまの命の光の波動が、この世の物質波動になって現れて、それを五感六感の感覚で、そういうふうに物として認めているわけです。本当は波の変化だけなのです。
-ありがとうございます-
目の前にある自分のいろんな「欲」に対する対応の仕方、または、集団という社会、例えば、平和運動・そういう社会との関わり、社会全体をどういう視点で集団(人類)を捉えると理想というのでしょうか? 在りようとしてはどうなんでしょうか?
ありがとうございます:
大事な事は、自分を変えるだけなのです。自分の心をプラスにプラスに置きかえるだけで、周りの環境、世界が全部プラスに置き換わってゆくのです。
-ありがとうございます-
自然に、自ずと自分の役割がその中で降りてきて、必要な事はやらせてもらうという流れですか?
ありがとうございます:
そうです。自分の心を大きくプラスに変えてもらうのは、神さまに心を向ければいいだけなのです。神さまの方からプラスを受け入れて、心に受け入れたものが自然に法則的に物質化して具体化するのです。
-ありがとうございます-
そうすると、器なり役割が、その場によって時間とその場で広がってそれなりの形に変わってゆく。
ありがとうございます:
そうです。
自分の心を集中したところから、いろんな物を
-ありがとうございます-
ひとつに集中しますと、今までの経験でしかわかりませんけど、とにかく何か求めている時は、そればっかり考えて生きている。それは、どうやら新しいアイディアでもないですけど、そう感じているところがあるのです。それは錯覚じゃないかと思うのですが、自分の中のなんていうかな、潜在能力が出したのか、よくわからないのですけど。なにか求める時には、そればかり考えて、そして感じていることをしている。
ありがとうございます:
自分の心を集中したところから、いろんな物を感じるのです。自分の心の波に合ったものから、そのインスピレーションなりを感じているのです。その時の自分の心境の高さ、心の向け方によって、全部受け方も感じ方も違うのです。
-ありがとうございます-
考えてみると、神さまの知恵袋から出てくるものなのか、それともまったく一人一人役目が違うと思うのですけど、その辺の何か合ったものがくるのか、何か新しいものが湧き出てくるのかよくわからないのです。
ありがとうございます:
根本は、神さまの最高表現が頂点にあって、そこから無限の無限の段階の波の変化が常にあるわけです。そして、今の自分の心境に応じたところ、波の波長の合うところから感じるのです。感謝を無限に深くして、高い次元へ心を向けたら、よいものを沢山感じるのです。
それでも波を合わすというのは、一点集中です。精神集中によってピタッと波を合わせてゆくのです。波の合わせ方が中途半端だとボヤーとしてくる。ひとつの事に集中して打ち込んでいる時の方が波が合うのです。具体化した姿で、インスピレーションを受けやすいのです。その時の心境によって、種類がいろいろ分かれます。インスピレーションの源が無限の無限の段階にあるのです。
一応生まれてくる時に決まっています
-ありがとうございます-
人間の寿命というのはある程度決まっているのでしょうか?
ありがとうございます:
一応生まれてくる時に決まっています。大体、第一、第二、第三の寿命ぐらい、三段階ぐらい決まっていて、必要だったら最後までゆきます。第三の寿命が終わってからでも、何か大きい使命があったら、また長引くわけです。寿命が延びるわけですけど、これもやはり、みんな魂を立派に磨く為に、一番いい方法をとらされるのです。
だから早く亡くなってあの世へ行った方が、早く立派になれるのだったら早く引き上げてしまいます。この世で長い寿命を生きた方がいいのだったらそうしてくれるし。それでも第三迄です、一応決めた通りになってくるのです。その第三以上に延びる時は、もう特別な大きい使命がある時だけです。その時だけちょっと延ばしてもらいます。
-ありがとうございます-
そういう役割だったら、運命という三次元的なスタートの宿命が決まっています。後、両親と持っているボディである程度は、推し量ることは可能ですか?
ありがとうございます:
はい。一応決められた範囲の移り変わりの姿は、一応決まっているのです。一応決まっていて大きい力が加わったら、ガラッと変わります。修正が効くのです。運命というのは、自分が一応決めてきて「こうする」というストーリーは決まっているのですが、でも自分の心境が大きくガラッと変化したり、他から大きい力が加わった時は、もうぜんぜん別個の運命が生まれるのです。そこに、本当の人の自由があるわけです。
だから、いろんな予知的に人の運命を見る人がいますが、お祈りし始めると予知が当たらなくなるのです。運命はコロコロ変ってゆきます、良いように良いようにです。「何年先に病気になる」と予知されても、ぜんぜん当たりません。手相なんかもそうです、前の世の生き方の傾向が、手相に出いるわけです。惰性が続いているのです。新しい何かを加えなかったら、惰性がずーっとと続くわけです。そうすると手相も、ちょっと当たる可能性があるわけです。
でも全く新しい生き方がそこへ加わった時は、惰性を越えますから、そしたら手相はぜんぜん当たらなくなるし、手相も変化してきます。だから新しい生き方を加えるのは、やっぱり感謝です。「ありがとうございます」と感謝するほど、新しい自分がどんどん力を発揮してきます。だから運命は絶対予知通りには、ならなくなります。
-ありがとうございます-
考え方によっては、寿命というのがもしあれば、太くて同じ量でも、太くて短いのと、細く長くという生き方もあると思うのです。寿命がもし決まっているのだったら「難しくしなくても行けるじゃないか」といいつつそっちへ行くじゃないですか。
今、先生が、運命は自分で切り開くということで、言わせてもらってるのですけど。伝え方によっては、自分の運命は決まっているから、もう何もあくせくしない、悪ければいい、良ければいい、というようなことで努力しなくなるのではないかと思うのですけど。
ありがとうございます:
「運命だから、もう決まっているから」という小さい捉え方だとそうなります。でも本当の自分は、無限の自由があって、無限の力を自在に捉えて、この世の生き方を何倍にも効率のいい生き方にも出来るし、何万倍にも内容の濃いものにも出来るわけです。
それは、もうどれだけ神さまの最高表現を現実に降ろしてくるかです。この今日の一日が、その人の一生以上の価値のある一日もあるわけです。普通の人は一生かかって百年近く生きても、どれだけプラスのよいものを味わったか、というふうに考えたらあまりないのです。ダラダラつまらないものを、ちょっちょっと心に取り入れたぐらいです。
でも、お祈りを深めて、無限に素晴らしいものを一杯感じられる人は、その一日でそれ以上のものを味わってしまいます。だから、この世に生まれて来るのも、神さまの御心を現実化して、この世で楽しむ為なのです。本当は、ある意味ではその表現を楽しむような感じです。だから、沢山の素晴らしいものを味わって楽しめる方がいいわけです、密度が濃くなります。
神さまの願いはそうです。人が神さまの与えて
-ありがとうございます-
原則的に、生きていて楽しい、本当に幸せだと思う。それを瞬間・瞬間味わうということの繰り返しがいいのですか?
ありがとうございます:
そうです。神さまの願いはそうです。人が神さまの与えてくれるプレゼントを全部受けて味わって欲しいのです。だからいつも「無限の無限の幸せが一杯」というふうに味わい続けて欲しいわけです。
-ありがとうございます-
そこには、難しい哲学とか倫理だとかそういうものは何も必要なくて、ただ瞬間受けるだけですね。
ありがとうございます:
そうです。ただ受けるだけがいいのです。受けてそれを味わう楽しみだけがいいのです。人間の心の働きで、「思う働き」と「感謝の働き」はぜんぜん異質の正反対の働きなのです。「思う」というのはひとつしか思わないでしょう。思い通りになっても、ひとつの事だけが叶うだけなのです。でも感謝というのは無限に広がるのです。障害が消えてしまうのです。ぜんぶ見えてくる。感謝に生きるほど視野が広くなって、光り輝いた世界が、全部スーと入ってきます。
-ありがとうございます-
物の見方や考え方の癖というものを外すためには、感謝をすることで、その時間を占めないように外すということですか?
ありがとうございます:
だから、感謝だけを積極的にしてゆけば、思いが消されていきます。すると思わなくなります。感謝を忘れると、どうしても感謝の光の心の波が、思いに変化してしまうのです。古いものにです。
先ず根本は、自分の心が環境に映るのです
-ありがとうございます-
例えば、スタッフが、どうしても自分の思いとは違う、言いなりではなくて、会社の方向と違う、そうすると、自分は「僕が一生懸命やってないからだ」と思ってしまって、最終的には、もの凄く僕は後悔するし、逃げというか、自分の気持ちの中でどうしたらいいんだろうというのを味わったのです。
私が悪いんじゃないかと落ち込んだのです。それに合わない人達は自分から出てゆくんでしょうか。それでも、全員引っ張ってゆかないといけないのでしょうか?
ありがとうございます:
先ず根本は、自分の心が環境に映るのです。自分の心さえ変えたら環境も変るのです。自分の心の波の合うものだけを引き寄せるのです。波の合わないものは近寄れません。ちょっと我の強い思いが出て来たとすると、周りに我の強い姿が一杯映るのです。我と我がぶつかり合う姿になるのです。
でも、我の心で我は消せないのです。丁度、煙を煙で払っても、煙は消えないのです。だから別の心を持ってこないとだめなのです。光の心・感謝の心です。そうしたら煙は消えるのです。我の思いが全部消えてしまうのです。そうすると光の心が、大きくそこに出てくると、周りが大きく光り輝いた姿に変化します。根本は自分の心だけなのです。
「心に何があるか」だけなのです。神さまの光が一杯になっているか、それとも我の心が一杯か、ということでしょう。我の心がある時は、神さまの光を受けなかった、それだけなのです。我の心は闇の心です。光を受け入れなかったというだけのことです。感謝して神さまの光を受けたら、明るい喜びの幸せの心一杯になれるわけです。そうしたら周りが極楽世界の姿をとってくれます。
-ありがとうございます-
すぐには、だけどならない。
ありがとうございます:
なるのです、すぐになるのです。すぐになります。 闇の心は光を持って来たらスッと消えるのです、瞬間に消えてゆくのです。
だから、もう感謝を一心に繰り返したら、すぐに明るくなります。光の方が強いのです。闇より。だからどんな我の思いも、感謝し出したら消えてしまうのです。「ありがとうございます」を唱えながらでも「周りの闇を気にしている」というのがあるでしょう。まだ闇を掴んでるわけです。光だけを認めるのが大事なのです。「神さま」という「無限の無限の大光源の中心に自分が置かれているのだ」という。それで「ありがとうございます」を唱えたら光りばかりです。
闇を探す方が難しいのです、「人間の心の闇」というのは、目を閉じているか、光りに背を向けているかなのです。本当の闇というのは大したことはないのです。本当は光だけの中に置かれているのです。目を閉じて「暗い暗い」と言っているか、光源に背を向けて「大したことない」と言っているかなのです。
先ず言霊的には
-ありがとうございます-
日本語の「ありがとう」の意味ですが、他にも何かいい言葉があると思うのですが、この「ありがとう」には特別な意味があるのでしょうか?
ありがとうございます:
先ず言霊的には
「あ」が、「光」とか「光源」です。その神さまの働きが、常に螺旋状に宇宙のすべてを生み出します。
「り」が、螺旋状に無限に進展するという意味を示しています。
「が」が、「輝きに輝く」という、無限に無限に輝く、という意味でダブるのです。「か」が、ダブって「が」になるのです。
「とう」で、すべての時間・空間に、全部にという意味です。
「あまてらす」というのもよく似ているのです。無限に無限に輝く姿を「ありがとう」とか「あまてらす」という意味に捉えます。
だから、英語のサンキュウでは「人に感謝する」というだけです、小さいのです。漢字で「難あり有り難し」といっても、捉え方があまりにも小さすぎます。また「有り難し」という意味で、「神仏の働きがなかったら、何事も存在出来ないのだ」というのも、まだ浅い捉え方なのです。
だから「無限に無限に輝いている」というところまで心を入れていかないと、本当の神さまの働きを捉えることはできないのです。それもまた「あまてらす」というと、神道の人には受け入れやすいですけど、仏教や他の宗派では受け入れにくいのです。
また宗教的な言葉だと、科学者や芸術家なんかは受け入れないのです。だから、誰でも受け入れられて、最高の助けを受け入れられる言葉というのが「ありがとう」「ありがとうございます」という究極の神さまでないと難しいのです。
「ありがとうございます」は、誰でも唱えられるでしょう。どんな唱え方をしてもいい。小さい助けが必要な人は、小さい助けを受けて、大きい助けが必要な人は、大きい助けを受けられます。もう自由自在なのです。その助けも全体から来るのです。特定の場所からではなく、必要ならどこからでも、全体から常に助けが降りてきます。
表現です。神さまの表現は、絶対を
-ありがとうございます-
その全知全能の神さまがあるのならば、マイナスのことは何故起こるのですか?
ありがとうございます:
表現です。神さまの表現は、絶対をプラスとマイナスに分けます、プラスの無限大と、マイナスの無限大の両極に分かれるわけです。それを螺旋状に組み合すのです。その表現が、マイナスの無限大からプラスの無限大まで、無限の無限の段階の表現が、そこに生まれるのです。
表現としては、ゼロからプラス無限大の表現までも、素晴らしいのですが、やはりちょっと浅い。マイナス無限大からゼロまでの表現もあり、ゼロからプラス無限大までもあり、というのがいいのです。
光だけの表現では、本当の光のありがたさがなくなるのです。慣れてしまって当たり前になるのです。闇があるから、光が浮かび上がるのです。
マイナスの無限大という闇の極から、ゼロまでの間に「虚の光」があり、闇がどんどん薄らいでゆきます。そこに見えない「虚の光」がどんどん大きくなって存在するのです。ゼロからはプラスの「実の光」が、どんどん無限に大きくなります。本当は「実のプラス無限大の光を味わう」、それを「どこから味わう」というのが目的です、ゼロからだとまだ浅いのです。
マイナスの極からの方が、無限の無限の価値が生まれるのです。表現として、最高のものを味わう為に、必ずマイナスの極を原点にするのです。だから「八百万の神さま」という意味は、幾通りも解釈があるのです。天照大御神さまの分身としての八百万の神さまという時は、形あるものを生み出すすべての奥に働く、神通自在のプラスの働きなのです。
普通、この世とか、幽界とか、神界とか、これ全部、形ある世界、物質のある世界なのです。この世に肉体あり、幽体あり霊体、神体あり、これ全部物質がある世界なのです。その奥に働くものが八百万の神通自在の神さまなのです。本当の意味では。
だから、神界にいる神さまが八百万の神さまではありません。神界の姿は、八百万の神さまによって、生み出された結果なのです。だからすべての世界がそうなのです。ところが神界や霊界から見ると、この世に対しては、やはり次元が高いので自由自在に、この世へ働き掛けが出来るわけです。神界の神さまも八百万の神さまにこの世の人は思うわけです。でも、本当の八百万の神さまではありません。そういう似たような関係がいっぱいあるわけです。
-ありがとうございます-
それが、何故、人間だけに…・。
ありがとうございます:
いや、違う、みんなにあるのです。すべてにあるのです。
仏教の「空」は、「無限の無限プラスの根源」絶対なのです
-ありがとうございます-
「空の世界」、と「無の世界」とありますが、どういう世界ですか?
ありがとうございます:
仏教の「空」は、「無限の無限プラスの根源」絶対なのです。本当は。無とは違います。何にも無いのではありません。「空」を「無」と一緒にすると大きな間違いなのです。般若心経の解釈は、本当はいろんな解釈があるのです。難しいですけど。
光源をしっかり見つめて、丁度、本当の太陽をしっかり見つめてどんどん光が来て、地球だったら地球の大気圏に入って光体が生まれます。太陽という光体が、仏教で言う「空即是色」の「色」なのです。「空」の方は本体の太陽なのです。だから光源をしっかり見つめないとだめなのです。
深いお祈りを通して。その時に「色即是空、空即是色」の「光源と光体」がひとつになる。光体として「無限の無限の輝きを捉えたら一切の闇はない」という。だから「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄」です。
「照見五蘊皆空」というのは、すべては光体に見えるわけです。そして「一切の苦厄を度す」というのです。
「観自在菩薩」というのは、命の本当の自分です。その自分が深いお祈りをしないといけない。
「行」というのは、深く行ずる、「深く祈る」という意味です。
「般若波羅蜜多時」というのが感謝のお祈りなのです。無限に無限に輝いているというお祈りなのです。
だから無限の無限の輝きが一杯というふうに、感謝のお祈りをすると、すべてが大光体に見えるわけです、無限に無限に輝いた光に見えるわけです。そうしたら「般若心経」の本当の意味がわかります。現実に見てるいろんな姿全部「無い無い」尽くしで、否定してしまっています。プラスやマイナスなんて、本当は、光体を見つめた時は、全部消えてないのです。「空」は、無限の無限のプラス、そういうふうに捉えるのがいいのです。「無」はもう何もないのです。
ありがとうございます
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