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()(いの)(ぶん)()

()(いの)文庫(ぶんこ)-2001ねんがつにち bP



     時間じかんながれをどのようにとらえるか、ということ

-ありがとうございます-
 未来みらいまっているとひともいますが、本当ほんとうまっているのでしょうか?

ありがとうございます:
 時間じかんながれをどのようにとらえるか、ということにかかわってきます。宇宙うちゅう絶対ぜったいしん時間じかん空間くうかん組み合く  あわせて宇宙うちゅうつくっています。そのなか時間じかん要素ようそもあります。その時間じかんなか過去かこ現在げんざい未来みらい同時どうじ全部ぜんぶふくまれており、どんどんとあたらしいものを生み出う  だしているのです。
 まっているとえば、絶対ぜったいしん宇宙うちゅう創造そうぞうした時点じてんですべてまっています。最高さいこう理想りそう宇宙うちゅう表現ひょうげんされて、それが順番じゅんばんひかりながれのようにながれてえてゆくのです。
 だから時間じかんかぎりなくゼロにちかづけた状態じょうたいほど、空間くうかん無限むげん素晴すばらしくかんじることができます。時間じかんながかんじるほど、どんどん程度ていどちてゆきます。かみさまの表現ひょうげんなかでどのような表現ひょうげんがあるか、ということかんしては。
 だから最高さいこう表現ひょうげん宇宙うちゅうというのは、かぎりなくゼロにちかづいた時間じかんで、最高さいこうかがやいた状態じょうたいはいってゆくということです。それが、どんどんえてゆくにつれてひかりすくなくなってゆきます。そうすると時間じかんながかんじるようになるのです。
 
 我々われわれんでいるこの世界せかいがどのような世界せかいなのかとうと、最高さいこう理想りそう世界せかいからるとかなりひく世界せかいなのです。いま感覚的かんかくてきにみている世界せかいのことです。そうすると時間じかんてきながれもながかんじます。そこで、過去かこ現在げんざい未来みらいをみて、過去かこにこのようなことがあり、未来みらいはこのようなことがないだろうか、など色々いろいろかんがえます。でも、その時間じかんながれというものもかみさまの表現ひょうげん全体ぜんたいからみるとたいしたことはないのです。その最高さいこう理想りそう世界せかいから順番じゅんばんながれてて、どんどんとえてゆく過程かてい時間じかんてき姿すがたも、空間くうかんてき姿すがた全部ぜんぶあり、その途中とちゅうわたしたちはながめさせてもらっています。
 本当ほんとうはすべてが最初さいしょからまっているのです。そのまっているなかからどれだけ自分じぶんたちがかんじているか?それが一人一人ひとりひとり運命うんめいとしてあじわっている姿すがたなのです。だから一人一人ひとりひとり運命うんめいは、本当ほんとういくとおりもあるのです。

 かみさまが一人一人ひとりひとりつくげて、そして最高さいこうのものをあたえている運命うんめい最高さいこう運命うんめいです。これが宇宙うちゅう絶対ぜったいしんつくげてくれたものなのです。現実的げんじつてきには無限むげん無限むげんのプラスばかりの世界せかいではありません。これはどうしてなのか?とうと、最高さいこう姿すがたをまだけていない、ということです。
 
 かなりすこししかけていません。それをこころ受け入う  いれて現実げんじつ感覚かんかく世界せかいあらわし、運命うんめいとしてあじわっています。だから、かみさまがあたえてくれている運命うんめいまっているわけです、本当ほんとう最高さいこう理想りそう運命うんめいというのは。ところが現実げんじつにはそれをれていないという一面いちめんがあります。それは、こころ自由じゆうがあって受け方う  かた自由じゆうがあるということです。だから受け方う  かたさええたらかぎりなく最高さいこう理想りそう運命うんめいちかづくことになります。
 人間にんげんのもっている自由じゆうというのは、自分じぶん運命うんめい自由自在じゆうじざいえてゆけるはずなのです。だからまっているとってもある意味いみではただしく、自由じゆうえてゆけるとってもただしいのです。
 だから、どの時点じてんまっているかというと、最高さいこう理想りそう完璧かんぺきまっています。そしていまけている運命うんめいこころ受け方う  かた次第しだいめているのです。だから過去かこ現在げんざい未来みらい自分じぶん受け方う  かた次第しだいでそのひと運命うんめいまっていることになります。ところが、こころ自由じゆうがあるので受け方う  かたえたらまたべつ運命うんめいとして過去かこ現在げんざい未来みらいめてゆけるのです。まっていながらまっていない。かなり複雑ふくざつ幅広はばひろいのです。


      自分じぶんとはなにか」というのが一番いちばん大事だいじなのです
 
-ありがとうございます-
 それでも、地球ちきゅうきているし、宇宙うちゅうもあるわけです。全部ぜんぶると地球ちきゅうなか我々われわれはまたひとつであるし、それはくさはなやその全部ぜんぶ一緒いっしょはずですね。そうするといまみたいにめられているとしたら、なんかつまらない、それであって目標もくひょうえればえたで、現実げんじつ世界せかいですよね、そうすると、人類じんるいというか、我々われわれはどこへかってゆくのでしようか。

ありがとうございます:
 本当ほんとうにそうです。

-ありがとうございます-
 それについて、我々われわれなにをしたらいいでしょうか。人類じんるい地球ちきゅうではいま一番いちばん知恵ちえがあってなにかをつたえなければいけないことが沢山たくさんあるとおもう。わたしたちはどこにかってってるのですか。なに理想りそうなのですか、先生せんせいからると・・。

ありがとうございます:
 「自分じぶんとはなにか」というのが一番いちばん大事だいじなのです。この肉体にくたい人間にんげん本当ほんとう自分じぶんなのか、またこころとかたましい自分じぶん本当ほんとうなのか。またそのおくにあるいのち自分じぶん本当ほんとうなのかどうか。
 また人間にんげん以外いがい動物どうぶつ植物しょくぶつ鉱物こうぶつもみな自分じぶんではないのだろうかと。自分じぶんというとらかたがかなり幅広はばひろくいろんな見方みかたがあるのです。
 だから、本当ほんとう自分じぶんとはなにかが一番いちばんむずかしいのです。自分じぶんさがしが。本当ほんとう自分じぶんというのは、かみさまからかれててきた自分じぶんなのです。かみさまと一体いったい自分じぶん本当ほんとう自分じぶんはずなのですが、かみさまというのは全体ぜんたいですから、すべてのすべてという全体ぜんたいかみさまであるというふうにとらえたほうがいいとおもうのです。そこからかれててきたのが自分じぶんなのです、本当ほんとうは。だから、かみさまからてきた自分じぶんかみさまの全部ぜんぶ本当ほんとうなおせる、かみさまとひとつになれるはずなのです。
 「かみさまがわかったら本当ほんとう自分じぶんがわかった」とえるのです。目的もくてきも、かみさまの目的もくてき自分じぶん目的もくてき一致いっちすると、ただしい目的もくてき到達とうたつできたとえるのです。


-ありがとうございます-
 そこがむずかしいのです。ぼくいまそこでねこを見ていて、じゃあねこがここにいる、それはなんなのだろう、でも多分たぶんねこ天命てんめいだとはおもってないでしょうけど、それが天命てんめいなんでしょうか。

ありがとうございます:
 天命てんめいというのは、やはりかみさまにかぎりなくちかづいてくということ。かみさまのこころがわかってはじめて目的もくてき天命てんめいもすべてはっきりするのだとおもいます。

本当ほんとうかみさまが宇宙うちゅう無限むげん無限むげんかがやいたものとして、一瞬いっしゅん一瞬いっしゅんあたらしく生み出う  だしています。それを人間にんげんが、人間にんげんがといったらおかしいですが。自分じぶん全部ぜんぶなおして、最高さいこうかがやくのが本当ほんとう人生じんせい目的もくてきでもあり、本当ほんとう生き甲斐い  がいでもあるはずなのです。ところがそれを全部ぜんぶなおすのがなかなか大変たいへんというたら大変たいへんなのです。「わすれている」というところもあるのです。本当ほんとう自分じぶんはこの肉体にくたい人間にんげんというのではないのです。たましいもないし、いのち自分じぶんというわけでもないとおもいます。
 宇宙うちゅう全体ぜんたい本当ほんとうはわかる自分じぶんだとおもうのです。動物どうぶつのこともわかり、植物しょくぶつのこともわかり、鉱物こうぶつのこともなにもかもわかって、その自分じぶんだったら、本当ほんとう宇宙うちゅう全体ぜんたい自分じぶんというふうになるはずなのです。まった自分じぶん別個べっこのものだったら、絶対ぜったいにわからないとおもうのです。だからかみさまのこともわかり、宇宙うちゅう全体ぜんたいのこともわかるというのは、自分じぶんがそれと一体化いったいかそのものなのです。

 だから、しあわせになりたいというのでも、しあわせがおくにあってしあわせをっているからしあわせをもとめたり、しあわせになろうとするわけで、こたえはみんな自分じぶんなかにあるはずなのです。みんなっているはずなのです。ただ、表面ひょうめん部分ぶぶんつかんでしまって、全体ぜんたいわすれてるというところがあるのです。
 自分じぶんさがしというのも、やはり全体ぜんたいまなんでつかんで一体化いったいかしてゆくと、自分じぶんがはっきりかってくるのです。目的もくてきも、かみさまの目的もくてきがあります。無限むげん無限むげんかがやいた宇宙うちゅう間断かんだんなく生み出う  だして、最高さいこうかがやいた状態じょうたい持続じぞくさせるのです。
 このひと本当ほんとう無限むげん無限むげんかがやいた状態じょうたいになりたいのです。人間にんげんかがやためには、かみさまからあらたにあらたになおしをしないといけません。一回いっかいけてそれでわったらつぎかがやいたものをけそこなうので、どんどんかがやきがうしなわれてゆくというところがあるのです。だからつねあたらしいなおしをし、最高さいこうかがやいた自分じぶんになるためには、やはり「ありがとうございます」という感謝かんしゃ大事だいじになってくるのです。

 みなさんも、「人生じんせい目的もくてきなにか」とかんがえたことがあるとおもいます。本当ほんとう人生じんせいとはなにか。こたえがてきても、本当ほんとうにそのこたえでいいのか、とかんがえてたら、大変たいへんです。だからこのてき目的もくてきでは、本当ほんとう納得なっとくできないのです。
 あさ目的もくてきちいさい目的もくてきでは、絶対ぜったい無理むりです、納得なっとくするにはどこかちがうのです。このだけで、どれだけしあわせがあっても、「ああ、これで満足まんぞく」と、こころ本当ほんとうには納得なっとくしていない・やすらいでいないとおもいます。やはりかみさまの本当ほんとうこころとひとつにならないと、ピタッとひとつにならないと無理むりだとおもうのです。

 「かみさまの御心みこころとはなにか」ということはむずかしいようですが、自分じぶんなかにそれをっている自分じぶんがいるはずなのです。だからっている自分じぶんはどうしたらてくるのか。これはべつ宗教しゅうきょう世界せかいだけのはなしではありません。科学者かがくしゃでも芸術家げいじゅつかでも全部ぜんぶ本当ほんとう自分じぶん見出みいだために、いのちをかけてそれに打ち込う  こんでいるはずなのです。かぎりなく自分じぶんこころ奥深おくふかくへこころけてゆかないといけないとおもう。この五感ごかんとかろっかん感覚かんかく世界せかいというのは、やはりこころ受け入うけいれた世界せかい投影とうえいする世界せかいなのです。その結果けっかなのです。受け入う  いれたものの結果けっかしかないのです。だからそのこころおくには本物ほんものがあるはずなのです。
 「かみ」という本物ほんものが、最高さいこう理想りそう宇宙うちゅうつぎから生み出う  だされて、本物ほんもの表現ひょうげんがあります。その本物ほんもの表現ひょうげん如何いか感じ取かん  とるか、それによってこころがすっきりと納得なっとくするようになってくるのです。

 わたしも「ありがとうございます」という言葉ことばを、ちいさいときからとなつづけてからもうなんおくかいにもなっているのですが、「ありがとうございます」と、最初さいしょはやはりこのてきしあわせをねがってとなえているのです。それで、病気びょうきなおったら「ありがとうございます」です。このてきなものがいっぱいめぐまれて必要ひつようなものをあたえられて「ありがとうございます」です。
 でも、それはものすごいあさ段階だんかいなのです。段々だんだんおくおくこころいてゆき、「ありがとうございます」のこころになったときはもう無条件むじょうけんで「ありがとうございます」なのです。「しあわ一杯いっぱい」という感覚かんかくてくるのです。だから、病気びょうきでも「ありがとうございます」と、「しあわ一杯いっぱい」なのです。貧乏びんぼうでも「ありがとうございます」でいいのです。どんな問題もんだいってきても「ありがとうございます」になるのです。ただもう感謝かんしゃだけでしあわせで一杯いっぱいなのです。こころはもうしあわせになってゆきます、「ありがとうございます」と、となえているうちに、その自分じぶんはもう、肉体にくたい自分じぶんでもたましい自分じぶんでもないのです、「感謝かんしゃ自分じぶん」になっているのです。
 
 その自分じぶんがどんどん「ありがとうございます」と感謝かんしゃつづけているうちに、段々だんだんかみさまのひかりかんじてきます。かみさまから放射ほうしゃされているひかりかがやきをかんじるようになってきます。最初さいしょはちょっとしたちいさいかがやきをかんじるだけなのですが、「しあわ一杯いっぱい素晴すばらしいもの一杯いっぱいうつくしいものばかり」とかんじるのです。
 それがかぎりなく段々だんだんおおきいこうたいかがやきをかんじるようになってきます。それは丁度ちょうど太陽たいようかがやきのようなかんじで、それをおおきくかんじるようになってきます。そして「みんな光り輝ひか  かがやいている・みんな無限むげんかがやいている」というように、それがありとあらゆるかみさまのはたらきの全部ぜんぶ複雑ふくざつ入り組い  くんだ状態じょうたいで、無限むげん無限むげんかがやいている状態じょうたいかんじられてくるのです。

 そうするとかみさまの御心みこころというのが、「かがやくこと」という感覚かんかくがやはりてきます。そのかがやきをかんじて自分じぶんかがやくことになるのだと。だから、最初さいしょかんがえていた人生じんせい目的もくてきと、おいのりで感謝かんしゃふかめてかみさまのこころをちょっとでもかんじてきたとき人生じんせい目的もくてきとは、ぜんぜんちがうのです。
 かみさまのかがやきをかんじればかんじるほど、自分じぶん目的もくてきなんかえてしまう。もうすべてえてしまって、ただかみさまのこころ感じ取かん  とるのが目的もくてきわってくるのです。かみさまの本当ほんとう目的もくてきとひとつになりたいというように。なかなか本当ほんとう目的もくてきつかむのは大変たいへんだとおもうのですが、かぎりなくかみさまの目的もくてきちかづいてゆきたい、そのためには、かみさまのあたえてくる最高さいこうのものをつづけていたい、というようにわってくるのです)


-ありがとうございます-
それは人間にんげんにしか出来できないことですか。

ありがとうございます:
 いや、これはちがうとおもうのです。自分じぶんという意識いしきいただいているということは、みんな平等びょうどうだとおもうのです。動物どうぶつ植物しょくぶつ鉱物こうぶつ意識いしきがあるかぎり、全部ぜんぶ平等びょうどう最高さいこうのものをかみさまのすべてをけいれられるとおもうのです。
 いしころでもその無限むげんかがやいた自分じぶんりてたら、いしころが「全部ぜんぶいしころ」になるのです。人間にんげんは「たんなるいしころ」とるかもれないですが、そこにかみさまとおな意識いしきりてるかもれない。そうするといし宇宙うちゅう全部ぜんぶっているということになります。

 いま私達わたしたち人間にんげんというなか意識いしきってりています、この自分じぶん意識いしきが、あるときは動物どうぶつなかはいり、植物しょくぶつなかはいり、いしころいっなかはいったとしたら、その自分じぶん自由自在じゆうじざいです。またおおきく宇宙うちゅうというのをぜんぶなかって、その中心ちゅうしんてば、宇宙うちゅう自分じぶんなかにあるわけです。意識いしきというのはみんなかみさまのまえったとき平等びょうどうだとおもうのです。そして、かみさまから最高さいこうのものをかならけられるのです。


       させられているというよりも、本当ほんとうかみさまの

-ありがとうございます-
 自分じぶんなか理想りそうというのがあります、ゆめというか、わからないテレビの映像えいぞうみたいなものがあります。ゆめもそうだろうとおもうのですけれど、それはさせられているのですか。

ありがとうございます:
いや、させられているというよりも、本当ほんとうかみさまの最高さいこうのものは、すでにあるのです。あるのですが、「それをどれだけ・どの程度ていどかんじるか」なのです。はっきりかんじるひともあるし、おぼろげにかんじるひともあるし、ぜんぜんかんじないひともある。またおおきくかんじるひともあるし、ちょっとしかかんじないひともあるし、それは受け方う  かたによってもう千差万別せんさばんべつ無限むげんかれているのだとおもうのです。

-ありがとうございます-
 じゃあ、元々もともとっているのをソフトというか、宇宙うちゅうのソフトは自分じぶんなかにあると、しかしそれをかんじられるかどうかは自分じぶん次第しだいだと。

ありがとうございます:
 そうです、だから自分じぶんこころ奥深おくふかくにあたらしいソフトが、どんどん生み出う  だされてきます。だから、丁度ちょうどこれをたとえとして、かみさまのはたらきをちいさい模型もけいとしてたとえてみると。
 太陽たいようがあり地球ちきゅうがあって、この私達わたしたちはその太陽たいようひかりかんじて、実際じっさい太陽たいよう地球ちきゅう大気圏たいきけんはいってかがやいている太陽たいようとはまたちがいます。
 それで私達わたしたちいまここでかんじている太陽たいようは、大気圏たいきけん乱反射らんはんしゃこしてひとつのこうたいつくった太陽たいようです。それでも、無限むげん無限むげんかがやいたという感覚かんかくけられる太陽たいようです。
 それをかみてきたとえますと、肉眼にくがんかんじている太陽たいよう無限むげんかがやいているというふうに、素晴すばらしいとるのです。

-ありがとうございます-
 それはそうでしょうね、実際じっさい太陽たいよう大変たいへんでしょうから。

ありがとうございます:
 それで、そのおくに、太陽たいよう地球ちきゅうあいだ空間くうかんがあって、そのあいだ距離きょり無限むげんにあるとかんがえて、そのひかりがどんどんおくられてくるということは、あたらしいこうたいつくため本当ほんとう太陽たいようからひかりが、無限むげんにつづまっているわけです、ところてんしきに。その一番いちばんおく本体ほんたいがあります。
 だから「無限むげん無限むげんかがやいた太陽たいようつづけてしい」というのが本体ほんたい太陽たいようねがいだとおもうのです。それで、かみさまもおなじように、無限むげん無限むげんかがやいた最高さいこう理想りそう宇宙うちゅうあたつづけて、それをところてんしきおく無限むげんにつめ、どんどんあたらしいものをけてしいということです。
 ところが太陽たいよういっ全部ぜんぶあらたにあらたになおして「ありがとうございます」とえるひとすくないのです。ちいさいものにとらわれてしまい、太陽たいようけてしまって、くもなかにはまりんで、太陽たいようえない状態じょうたいにしてしまったり、物陰ものかげはいってしまったりするのです。だから、人間にんげんがいろいろなおもいをすというのは、そらかぶくもつくっているようなものです。それで、白雲しろくもときあかるいからまだ「しあわせ」という感覚かんかく思い通おも  どおりになり、「ああ、しあわせだな」というかんじになるのです。けど黒雲くろくもになると「ああ、くるしい、大変たいへん」となるのです。

 意識いしき何処どこへでも自由じゆううつせるはずです。くもなかにもはいれるし、太陽たいようなかにもはいれる。だから、人間にんげんかみさまから自由じゆうあたえられて、「最高さいこうかがやいた生き方い  かたをしてしい」というふうに使命しめいけられているはずなのです。本当ほんとうかがやくことをわすれて、つまらないもののなかへはまりんでしまう。それもある一定期間いっていきかん必要ひつようかもれません。くもなかにはまりんで「ああ、くるしい、くらい」という体験たいけんがあってはじめて、太陽たいようかんじ、またかがやきを本当ほんとう意味いみ価値かちあるものとしてけいれられるのです。


       人生じんせい目的もくてきについては、ものすごなやんでいるのです

-ありがとうございます-
 今日きょう現在げんざいいたるまでの体験たいけんで、生身なまみとして、しんどい自分じぶんもあったでしょうし、不安ふあんもあったのですか、ちいさいときから?

ありがとうございます:
 人生じんせい目的もくてきについては、ものすごなやんでいるのです。ところが現実げんじつにはどんな苦労くろう苦労くろうかんじていないのです。「ありがとうございます」という感謝かんしゃこころがあったおかげで、病気びょうきしてもくるしいとはおもわないし、貧乏びんぼうくるしくないのです。だから、全部ぜんぶたのしいばかりでってきました。それはやはり「ありがとうございます」の感謝かんしゃこころだったとおもうのです。
 現実的げんじつてきにはあさ感謝かんしゃでもそういう状態じょうたいにしてもらいました、くるしまずにすんだのです。でも、なんおくかい感謝かんしゃつづけてるうちに、「ありがとうございます」という本当ほんとう意味いみは、「究極きゅうきょくかみさまの名前なまえ最高さいこうかみさまの名前なまえなのだ」というふうにかんじられてきたのです。

 いろいろな無限むげん神仏しんぶつ名前なまえがあっても、それを全部ぜんぶたばねているのです、この「ありがとうございます」のかみさまは。「ありがとうございます」とべば、すべてのひと必要ひつようたすけをかならあたえてくださいます。

 そのひとの「必要ひつようたすけ」と、「ねがっている・しいもの」とはちがうのです。かみさまはそのひと最短さいたんコースをたどって、最高さいこうしあわせにたどりけるように、必要ひつようなものをあたつづけてくださいます。だから、病気びょうきをしても「ありがとうございます」をとなえてすぐなおひともあるし、なおらないひともあるのです。なおったほうがいいひとはすぐなおしてもらえます。でも、病気びょうきしてちょっと体験たいけんほう感謝かんしゃふかくなって、しあわせがおおきくなるんだったら、ちょっとばしてくれます。
 そのようにかなら本当ほんとうしあわせがつかめるように必要ひつようなものをあたつづけてくださいます。これが「ありがとうございます」というかみさまのはたらきなのです。これはもう回数かいすうおおとなえているほど必要ひつようたすけをつづけ、かならなにかをつかんでゆけるのです。表面ひょうめんてきしあわせにしても、こころ奥深おくぶかしあわせにしてもです。


       ながれをどこへまかせるかです。本当ほんとうはそうなのです

-ありがとうございます-
 ぼく本当ほんとうにノー天気てんきだとおもうんやけど、だけど目的もくてきがあって「こうせなあかん」とかっていうのもあまリ規則きそくたないのですよ、ただながれるままに、本当ほんとうにノー天気てんきだとおもうんやけど、まわりが大変たいへんなこと沢山たくさんきるのですけど、「なんとかなるやろう」というますことしてしまって、本当ほんとうにいいんだろうか、まあ、自分じぶんきなことをやらしていただいてるんで、いいんだろうとおもうけど、ノー天気てんきみたいなことでいいんだろうかあ、とちょっとなやんでたのです。まわりからあまリにもノー天気てんきぎて、ぎゃあぎゃあ、みんなにわれているのですけど。いま先生せんせいはないてると、いいですね。

ありがとうございます:
 ながれをどこへまかせるかです。本当ほんとうはそうなのです。だから、まず、かみさまの最高さいこうながれがあるのです。
 無限むげん無限むげんかがやいたひかりながれがあって、それをけてゆくこころさえあれば、自然しぜんくなるようにくなるようにしてくださいます。おなながれでもぎゃくながれもあります、マイナスヘマイナスヘゆくながれも。これは自分じぶん思い通おも  どおりにしたいとか、つよすぎるとそういうふうにはしりやすいのです。

-ありがとうございます-
 あんまりにもきなことをやっているから、つよいとかわれるのですけど、自分じぶんではないのです。そこのところがちょっとただしいかどうかよくわかってないのです。

ありがとうございます:
 それは、ちょっとのちがいなのです。
「ありがとうございます」という言葉ことばこころ繰り返く  かえしてとなえているとそれがただしくなります、かならず。


       自由自在じゆうじざいでいいのです。もう、どういうかたちでもいいのです

-ありがとうございます-
 「ありがとうございます」のおいのりをしたいのですが、それは、たとえば時間じかんめていえでやるようにしたらいいのですか。

ありがとうございます:
 それも自由自在じゆうじざいでいいのです。もう、どういうかたちでもいいのです。
 まとめて沢山たくさんとなえて「ありがとうございます」でも、一心いっしんじこもってするのもいいのです。またとなえながらなにかしているのもいいし、ながらもいい。なんでもいいのです。

 だから、どういうであっても、どういうときでも「ありがとうございます」ととなえるのです。そうすると、最高さいこうかみさまは必要ひつようたすけをそこへろしてくださいます。
 この「必要ひつようたすけ・必要ひつようなだけ」というのが大事だいじなのです。ちょうど、もぐらが太陽たいようひかりをパッとってられたらこまります。もぐらだったら月明つきあかりぐらいがいいのです。そのひかり加減かげんまでちゃんとし、必要ひつようなものだけを的確てっかくあたえ、そして一回いっかいでもおおきくけられるようになったら、またさらにおおきいものをあたえてくださいます。どんどんどん必要ひつようなだけあたえられ、おおきく変化へんかさせてくださるのです。

 だから、「ありがとうございます」のおいのりも、「おいのりだと」こだわらないほうがいいのです。もう自然しぜん呼吸こきゅうぐらいのかんじでいいのです。「ありがとうございます、ありがとうございます」と。一瞬いっしゅん一瞬いっしゅんそういうように感謝かんしゃえらつづけさえすれば、あとかならくなるだけなのです。
 修行しゅぎょうしてどうこうではないし、修行しゅぎょうしてさとらなければならないというものでもありません。修行しゅぎょうしてしあわせになるのでもないのです、それはまさにぎゃくなのです。

-ありがとうございます-
 苦行くぎょうらないのですか?

ありがとうございます:
 はい、苦行くぎょうもよかったらしてもいいですが。でも、無限むげん無限むげんしあわせがもうすでに用意よういされているという大前提だいぜんていがあるのです。ただ、それをけられる自分じぶんになれば、「なんでもスッとけられるのだ」という自分じぶんになればいいのです。
 おおきいしあわせをけるためちいさいしあわせからけて、本当ほんとうしあわせをけたときに、それが価値かちあるものとしてけられるようにするのです。そういう意味いみちいさいしあわせをまだあじわってるのだというぐらいがちょうどいいのです。

-ありがとうございます-
 出来できるだけかずおおほうがいいのですか?

ありがとうございます:
 かずおおほうがいいでしょうが、あまりそのかずとらわれぎるのも、ちょっとまたつまらない。本当ほんとう一回いっかい一回いっかい「ありがとうございます」と、そのとき必要ひつようたすけをおおきくいただけばいいのです。
 だから、一回いっかい一回いっかい「ありがとうございます」ととなえるだけでいいのです。いつも「ありがとうございます」で。そうしたら、かずにもとらわれずに、いま大事だいじきてゆけます。いま必要ひつようなことは、いまけたらいいのです。だから「ありがとうござます」一言ひとこと必要ひつようもの的確てっかくあたえてもらってけられるのです。これが一番いちばんらくです。

 かく宗教しゅうきょうには、いろいろな修行しゅぎょう仕方しかたがあります。自力じりき修行しゅぎょうほうも、他力たりき修行しゅぎょうほうもありますが、どちらも自分じぶんかみさまをけています、出発点しゅっぱつてんが。
 でも、本当ほんとうかみさまと自分じぶん一体化いったいかした状態じょうたいから出発しゅっぱつするゆきかたが一番いちばんいいのです、「絶対ぜったい他力たりき」です。
もとから、かみさまと自分じぶんとは切り離き  はなせなのだ」
かみさまに無限むげん無限むげんまもられつづけている自分じぶんなのだ」
まもられているから、そして自由じゆうあたえられているからどんなことでも出来できたのだ」
というところから出発しゅっぱつするのです。これは本当ほんとうに、無限むげん無限むげんしあわせをいつもけられる状態じょうたいです。

 ところがちいさいしあわせで、それを体験たいけんしてみようというのも、自由じゆうにさせてもらえるところがあります。だから、地獄じごくちても、無限むげん無限むげんまもりをけながらりてゆきます。その地獄じごく体験たいけんをちょっとすることによって、本当ほんとう極楽ごくらくしあわせを価値かちあるものとしてけられるのです。
 だから、「最初さいしょからかみさまとは一体いったいなのだ、切り離き  はなすことは出来できないのだ」という「絶対ぜったいりき絶対ぜったい他力たりき」のゆきかた、これが「ありがとうございます」の感謝かんしゃのゆきかたなのです。
 ほかなにらない。「ありがとうございます」さえっていたら、絶対ぜったい他力たりきのゆきかたで、かみさまの無限むげん無限むげんまもりをいつもつづけてゆけます。

 本当ほんとう素晴すばらしい最高さいこうのものはこのにあるのではなく、かみさまのなかにあります。かみさまの最高さいこう表現ひょうげんなかにあって、それを感謝かんしゃこころこしてけさえすれば、それが現実げんじつりてくるというだけなのです。
 このではいろいろなこと、マイナスがおおく、なやくるしみ、かなしんだり、未来みらいのことを心配しんぱいしたりします。それは感謝かんしゃわすれた生き方い  かたからまれた結果けっかなのです。感謝かんしゃさえすれば、無限むげん無限むげんのプラスのいいものが、どんどんどんどんりてきて現実げんじつするのです。だから、感謝かんしゃこころさえどんどん現実げんじつりていればいいのです。そうしたら、自然しぜんくなるしかないのです。

 かんしゃは「ありがとうございます」のなか全部ぜんぶあるのです。健康けんこうしかったら健康けんこうがあるし、とみしかったらとみがあるし、いろんな発見はっけん必要ひつようだったらそれもあるし、全部ぜんぶ「ありがとうございます」のなかふくまれています。そのとき必要ひつようなものがかならりてきます。公害こうがい問題もんだいこまったとしても、「ありがとうございます」をとなえているうちに、その公害こうがいをなくす方法ほうほうが、いろんな方法ほうほうりてくるのです。

-ありがとうございます-
 「ありがとうございます」を言葉ことばはっしないといけませんか?

ありがとうございます:
 いいえ、こころでいいのです。「ありがとうございます」で、現実げんじつ全部ぜんぶプラスに置き換お  かわるのです。
みずでも(「ありがとうございます」といたシールをはると)そのこおり結晶けっしょう素晴すばらしくうつくしい結晶けっしょうとしてうつります。微生物びせいぶつでもそうです。本当ほんとう微生物びせいぶつでも、わるいものはないのです。元々もともとかみさまの最高さいこう表現ひょうげんなかまれたのですから、微生物びせいぶつ全部ぜんぶプラスのはたらきをする微生物びせいぶつなのです。
 だから「ありがとうございます」さえあったらみんなプラスにはたらくのです。ところがいろいろなマイナスのことを思い出おも  だすと、それをかぶった微生物びせいぶつがマイナスのはたらきをします。人間にんげんからだなかはいって病原菌びょうげんきんになるのは全部ぜんぶそのひとのもっているマイナスのおもいがかぶって、その身代みがわりにそれをすためのはたらきなのです。
 だから、感謝かんしゃふかひと病気びょうきにはならないし、なれないのです。微生物びせいぶつ全部ぜんぶプラスにはたらく。どんな病原菌びょうげんきんでもそうなのです。病原菌びょうげんきんだけではなく、もうすべてがそうです。かみさまの生み出う  だしたすべてがすべて、本当ほんとうはプラスのはたらきをするのです。


       さとりは一生涯いっしょうがいれずといます

-ありがとうございます-
 「ありがとうございます」と、そこにぜんたくしていくとかみさまのはたらきがあるということですけれども、先生せんせいは、かみさまにぜんたく出来できたときの体験たいけんは・・・。

ありがとうございます:
 さとりは一生涯いっしょうがいれずといます。
だから、さとりは)どんどん変化へんかします。「ありがとうございます」をとなえているうちに。

-ありがとうございます-
 何時いつそれがおおきく変化へんかしたのですか

ありがとうございます:
 何時いつとはめられません。となえればとなえるほど変化へんかしますから。
 ず、そと体験たいけん変化へんかしますが、内面ないめんもどんどん変化へんかします。かんかたちがってくるのです。

-ありがとうございます-
 百日ひゃくにちかん断食だんじきされて、からだうごかなくなって、このままぬんじゃないかというとき、そういうときでも・・

ありがとうございます:
 いのです。ぬという恐怖きょうふしんなにこらないのです。

-ありがとうございます-
 そういうときでも「ありがとうございます」、んでも「ありがとうございます」、そういう感覚かんかくですか・・。

ありがとうございます:
 そうです。だから、肉体にくたい自分じぶんうごかす感覚かんかくもなくなるのです。自分じぶんというのがなくなって、呼吸こきゅうまっても、からだうごくのです。不思議ふしぎに。

-ありがとうございます-
 あまりつらいとか、くるしいとかは・・。

ありがとうございます:
 そのときはないのです。「ありがとうございます」をとなえているかぎり、そのなかはいっているとないのです、くるしみもいたみもなにもない。そのとき自分じぶんは、「肉体にくたいでも、たましいでもない」「感謝かんしゃ自分じぶんだけ」なのです。

 しあわせというのは普通ふつう条件付じょうけんづきしあわせです。あさ段階だんかいで「こうだったらしあわせ」というように。「ありがとうございます」をかなりちょっととなつづけたら、無条件むじょうけんしあわせにかならずなります。条件じょうけんえてしまうのです。「こうでなかったら」というのがない。「なんでもしあわせ、なんでもありがたい」となります。それでいて程度ていどひくいかとうたらそうでもない。どんどんおくおくみちびかれて、かみさまの最高さいこう理想りそう感じ取かん  とれるようにたかげてくださいます。
 だから、おいのり・感謝かんしゃ功徳くどくというのは、本当ほんとう内面ないめん変化へんかです。かみさまを感じ取かん  と功徳くどくかみさまと一体化いったいかしてゆける功徳くどくです。

 いまわたしの「ありがとうございます」は、一回いっかい一回いっかいが「無限むげん無限むげんのありがとうございます」で、なんおくかいではないのです。積み上つ  あげた感謝かんしゃではありません。もう、おくからもらっている感謝かんしゃわっています。
無限むげん無限むげんかがやいた宇宙うちゅうが、おく無限むげん無限むげんつづいている、それを感じ取かん  とろうという感謝かんしゃです。だから、一回いっかいの「ありがとうございます」が、ものすご価値かちがあるのです。回数かいすうなんてもう問題もんだいではないのです。一回いっかい一回いっかいが「ありがとうございます」と、噛み締か  しめる感謝かんしゃになるのです。

 でも、だれでもそれをっているのです、みんな。こういうはなしいて、多分たぶん「ああ、そうだな」とみんな納得なっとくする。「ああ、自分じぶんもそうにちがいない」と。かならず、そこへゆくのです。だから「無限むげん無限むげんしあわせが一杯いっぱい」という言葉ことばでも、いろいろな意味合いみあいがあるわけです。本当ほんとうは「無限むげんしあわせ」でいいはずなのですが、なぜ「無限むげん無限むげんの」とふたかさねるかというように。


      かみさまのとなえる「ありがとうございます」

-ありがとうございます-
 「ありがとう」とうのにもいろんなのがあります。自分じぶんため都合つごうがいい「ありがとう」がおおいでしょう。自分じぶん全部ぜんぶ放り出ほう  だして「ありがとう」とえるって、なかなか出来できないんじゃないですか。

ありがとうございます:
 段々だんだん回数かいすうおおかさねているうちに感謝かんしゃこころ変化へんかするのです。もらって「ありがとう」から、あたえるほうの「ありがとう」が自然しぜんてくるのです。あたえることが「ありがたい」というように。
 今度こんどは、まわりのひとしあわせが「ありがたい」とわってきます。自分じぶんしあわせではなく、まわりのひとしあわせのほうが「ありがたい」というようにどんどんひろがるのです。おおきく、それはもう「ありがとうございます」をどんどんどんどんとなえているうちに、内面ないめん変化へんかがどんどんこります。

-ありがとうございます-
 素晴すばらしいですね。

ありがとうございます:
 それで、最後さいごかみさまの「ありがとうございます」にちかづいてゆくのです。本物ほんものの「ありがとうございます」は、かみさまの「ありがとうございます」なのです。かみさまがどういうふうに「ありがとうございます」とってるか? ひとの「ありがとうございます」という意味いみと、かみさまのとなえている「ありがとうございます」の意味いみが、かぎりなくちかづいてゆくのが大事(だいじ)です。

-ありがとうございます-
 かみさまの「ありがとう」とは、ひらたくうとどういうことですか。

ありがとうございます:
 かみさまは無限むげん無限むげんかがやいたものをあたつづけて、けてもらって「ありがとうございます」です。かみさまのは、本当ほんとう意味いみで、あたつづけるのが「ありがとうございます」なのです。


      「ありがとうございます」のなかに「あい」そのものもはいって

-ありがとうございます-
 「あい」とはちがうのですか。

ありがとうございます:
 「ありがとうございます」のなかに「あい」そのものもはいっています、全部ぜんぶはいっているのです。「ありがとうございます」のなかに、すべてのはたらきがなかはいっています。「ありがとうございます」と「あい」とはひとつなのです。「ありがとうございます」と「しあわせ」もひとつなのです、もうすべてがひとつなのです。
 いちいち数え上かぞ  あげなくても「ありがとうございます」で、必要ひつようだったら全部ぜんぶわかるし、部分的ぶぶんてきにもわかるし、一番いちばんらくなのです。「あいだ、あいだ」とって、「あいあたえねばならない」とおもうと、ちょっとりきみがたりします。でも、「ありがとうございます」のなかに「あい」もあって、「あたえるあい」も「けるあい」も全部ぜんぶあるのです。だから、もう自然しぜん無理むりなくそれが出来できます。「ありがとうございます」は噛み締か  しめたらどこまでもあじてくる言葉ことばです。


       本当ほんとう責任せきにんかみさましかれない

-ありがとうございます-
 何回なんかいも、ぼくなんかも「ありがとうございます」という言葉ことば