真祈り文庫
2001年2月3日
天照大御神さまの天照という言霊の解釈を
天照大御神さまの天照という言霊の解釈をしてみたいと思います。
「あ」とは、光とか光源という意味になります。神さまの光というのは、すべての働きをそれぞれの光で表すのです。純白の無色透明な感じの光が、無限の色合いに変化します。それが働きとして表現されるのです。「あ」というのは、光であると同時に光源、つまり源も指しているわけです。
「ま」の字は、「完き」つまり完全な、完璧なという意味があります。また、丸いとうのが円相を表します。光で宇宙が創造され、完璧極まりない姿をとっているのが「天」という事になります。
「て」というのは照り輝くということであります。この人間の手もそうですが、ただ照り輝いているだけではなく働いているわけです。光の一筋一筋が、縦横無尽に無限に働いている。その働きというのが大事なのです。自由自在に無限に働いているということが、照り輝くという意味です。天照大御神さまは自ら照り輝くと同時に照らす働きをしています。
だから宇宙には、無限の無限の意識の中心というものが存在します。意識の中心です。そこから、無限の無限の輝きが湧き上がるように出て来ているのです。湧き上がっているという事は、自らが輝いているということなのです。輝いて湧き出たものを他のすべてに与え尽くす。それが「照」、他を照らすという意味です。それぞれの無限の無限の意識の中心のすべてがそれをするわけです。これは凄いことです。ひとつの中心から働きがあるだけでも凄いことなのに、無限の無限の中心が全部がそれと同じ働きをしているのです。そして皆が、その中から無限の無限の輝きが湧き出るように出て来て、尚且つ全体が与え尽くし合って交流するわけです。このようにして光の綾模様が生まれます。これが、天照大御神さまの照る、照らすという働きなのです。
「ら」とうのは、ら行音というのは螺旋状に揺れている姿を表します。宇宙のすべてが螺旋状に動いているのです。直線というと単調で味気ない感じですが、螺旋状という場合、無限の妙趣ある働きになります。竜巻のように中心から大きくなってきて、同心円が無限に広がるのと似ています。それで色んな中心から出てきた波によって色んな組み合わせができるわけです。直線同士の組み合わせだと、一箇所で交わるだけです。直線は単調なものですが、螺旋状になると、ひとつの中心から湧き出たものが、他の中心から湧き出たものと交流した時に、無限の組み合わせが生じるわけです。それがとても大きな働きとなって現れるのです。
「す」というのは、澄みきった根源の中心という意味になります。天照大御神さまは、宇宙のすべてを統一しているわけです。大調和させています。
もともと古事記に登場する天照大御神さまの働きはどのように言っているのかというと、最初に天之御中主神が登場します。これは宇宙の絶対神です。絶対神というのは表現が出てきません。例えて言えば、海全体を絶対と見なした時に、表現は表面の波になります。だから表面に比べると絶対というのは、底知れぬ深さ、大きさがあります。天之御中主神が絶対になります。その中に、絶対神の、細かく分けると無限のいろいろな働きがある神さまがいっぱいいるのですが、絶対というのは言葉ではどうにも表現出来ないものです、物凄いものです。その絶対から表現が生まれてくる段階にあるのです。そこで創造神が生まれて来ます。
それが古事記では伊邪那岐神さまと伊邪那美神さまです。この二つの働きが創造神の働きになるわけです。更に伊邪那岐神さま、伊邪那美神さまの働きをそれぞれ八神に分け8×8即ち64神に分け説明ができるのです。ですから大きく分けるとその二神が相対の両極に分かれて、それを組み合わせる働きをしています。
例えば、光と闇があれば両者を組み合わせることで、無限の無限の光の表現を組み合わせすることができるのです。すべての要素を全部組み合わせるのです。時間と空間もそうであり、生と死、善と悪も同じことが言えます。すべての要素と言うと沢山あります。そのすべてを組み合わせてこの宇宙のすべての表現を生み出しているのです。この無限に組み合わせる働きが創造の働きなのです。伊邪那岐神さまと伊邪那美神さまがその働きを代表します。
その創造されたすべてが完璧極まりない姿であり、それが天照大御神を表すのです。天照大御神さまの分身としての無限の無限の神さまを、八百万の神さまという表現で表しているわけです。そして八百万の神さまそれぞれが色んな形を表現するのです。また光と形とはちょっと違います。八百万の神さまの方が無色透明な透明感のある光なのです。その働きによって形あるものすべてを生み出すのです。この世もあの世も全部そうです。形ある姿すべてが八百万の神さまの働きによって生み出されたものなのです。
その「す」とは、絶対から表現まですべてひとつにまとめて統一していて、その全部を自分の中に納めているのが「す」という働きであるわけです。天照大御神さまが、絶対からその表面の表現まですべてを中に持っているのです。だから天照という、天照大御神さま以外にどんな神さまも存在しないのです。唯一無二の、絶対の、尊厳無比の、どんな言葉を持ってしても表現しきれない程偉大な神さまが天照大御神さまです。
だから、天照大御神さまの照る・照らす働きを言葉で言い替えると感謝になるのです。感謝というのは中から無限の無限の輝きが湧き上がるのです。それを他に与える働きをする、また他から受ける働きをするのです。だから光の交流、それが感謝になるのです。ですから、「ありがとうございます」という言葉は、宇宙のすべてと交流しているのです。
また、自分の中から無限の無限の輝きを引き出し、湧き上がらせているのです。だから、自分だけの感謝などないのです。常に宇宙全体とひとつになって、感謝の交流をさせてもらっているのです。これが、本当の宇宙の真相、実相であり、本当の姿はこれだけなのです。
……物凄いです……無限に無限に、無限の無限の輝きと言っても、本当に想像を絶する無限の輝きが本当に存在する。でも、それが何故感じられないのかと?それは、今まで感謝して生きて来なかったからです。単純なことなのです。「ありがとうございます」という感謝を続けて深めて来なかったから今感じられてない、というだけです。
ただ感謝し続けたら必ず光り輝いた透明な世界が感じ取れるようになるのです。何も難しいことなどないのです。神さまは幸せを与えるのに何も難しいことなど用意していないのです。一番易しい簡単な方法を用意しているのです。
でも、普通「ありがとうございます」と、余りにも単純過ぎて本当にその価値を見出していないのです。どうしても「頼りない」「簡単すぎる」「そんな力あるはずがない」とどうしても思いがちになってしまうのです。本当はそうではないのに。だれでも使えて自由に使えて、誰からも文句を言われない、誰が発明したものでもなく、最初から用意されて目の前にあるわけです。
そういう誰でも使えて自由に使えてという簡単なものが一番良いわけです。それは神さまが最初から用意しているプレゼントなのです。それが余りにも簡単過ぎると一番最後にまわしてしまう。そこで他の方法を試してみたくなるのです。
でも、それも又大事なのです。最初から最高のものを掴んでも有り難味が少ないと思います。ちょっと回り道をし、苦労してきた人は本当の価値がわかった時に、「何て素晴らしいな、有り難いな」とわかるわけです。それでちょっと自由を与えて貰っているのです。
悟りを開く為の色々な修行がありますが、本当は「ありがとうございます」だけでそのまま最高の悟りが開けるのです。「ありがとうございます」の中に最高の悟りが既にあるのです。その中に入り切ったら、そのまま悟っていることになるのです。今更悟るのではなく、悟っているのです。悟った自分しか本当はいないのです。
ところが迷った振りをして、もう一度悟りの自分に戻ろうとする。それが色々な修行方法としてあるわけです。そして自力の行法があり、他力の行法があるのですが、自力だとやっぱり難しいのです。阿弥陀さまが悟ったように五更の間難行苦行も含め、ありとあらゆる修行を積み重ね、無限の年月を積み重ねて、悟りを開いたのです。でも、それをやりたい人はそれを実行すれば良いと思う…大変ですが。でも大変です。無限の年月を、ありとあらゆる修行を積み重ねるのは気が遠くなる。それはちょっと諦めて他にもう少し簡単な方法は?と考えます。そして次に他力門が生まれてきます。
だから、先に悟った人の助けを受けて、成り立ちの立場まで引き上げてもうということです。南無阿弥陀仏もそうです。阿弥陀さまに縋って、その悟りの境地に引き上げてもらいます。だから南無阿弥陀仏を唱える場合でも、ある程度条件があるのです。
南無阿弥陀仏を唱える場合でも、三つの条件、至誠心 深心 廻向発願心の三つの心を持って南無阿弥陀仏を唱えなさいということなのです。これを言い換えると「真剣に」ということです。真剣に南無阿弥陀仏を唱えさえすれば阿弥陀さまの境地まで引き上げてあげるという事です。これが他力のゆきかたです。だから自力よりは他力がよいのです。
ですが他力と言う時、阿弥陀さまと自分とはまだ別個に離れています、助けてもらいたい側と助けてあげたい側が離れている。直ぐに引き上げてもらえれば良いのですが、まだ離れているという感覚が自分にとっては物足りません。
その上にもうひとつの絶対他力の生き方があります。絶対他力の生き方というのは自他が分かれていません。自と他、という相対の形では対立しています。ですが、絶対というのは対立がありません。最初からひとつになります。つまり救われる側と救う側が最初からひとつである、という見方です。純他力、絶対他力というのは、最初から自分は神さまと一体で悟っているのだ、ということを受け入れることです。
だから下から修行して登るのではなしに、悟った自分がスッと天から舞い降りて来たら良いだけなのです。だから絶対他力の生き方は、「ありがとうございます」を受け入れるだけなのです。悟った自分を受け入れるだけです。今までは拒絶していたのです。もうちょっと難しい方法を求め、一番簡単な方法を拒絶していただけなのです。
だから、改めてもう一回素直に「はい」と受けるだけで良いのです。皆、神さまと一体なのだ、ということ。宇宙のすべてと光の交流をして無限に無限に幸せ一杯なのだと、皆、既に悟っているということで今更悟るということではない。皆が既に悟っているのだという事を素直に「はい」と受けるだけで良いのです。それが「はい」と言う拝む生き方であるわけです。それを素直に受け取って喜ぶだけ。
ですから「ありがとうございます」という感謝行は絶対他力であるのです。もうすべてを天照大御神さまと拝むだけです。また、皆から拝まれるだけです。だから自分も天照大御神さまであり、皆も天照大御神さまであると。意識がある限りすべてがそうなのです。石ころひとつにしても、そこに意識がある限り、そこから無限の無限の輝きが生まれてくるのです。小さいから光が足りない、という事ではありません。原子ひとつに、そこに意識があれば、天照大御神さまの光が無限に無限に生まれてくるのです。
これが古事記に説かれている岩戸開原理です。岩戸開きとは入れ子構造で、小さい箱を順番に大きくしていくと箱がどんどん増えていくように、宇宙の成り立ちもこれと同じように入れ子構造になっています。ですから、原子ひとつの中に本当は大宇宙があるのです。その原子ひとつの大宇宙の中に更に小さい原子がひとつあり、この更に小さい原子の中にも又大宇宙があるのです。このように言葉では表現できない不思議な構造になっているのです。つまりそれが何処までも続くという構造です。
ですからどんな小さいものでも天照大御神さまの、無限の無限の輝きがそこに湧き上がるのです。凄い事です。だから素直にそれを「はい」と受けるだけです。ですから感謝というのは難しくないのです。それを受けるだけ、認めるだけなのです。
今まではそれを認めるのを拒絶していたというだけ。ただ「はい」と認めるのはあまりにも単純すぎるのですけれども、無限に素晴らしい生き方なのです。ですから本当の悟りを早く開きたい人は、絶対他力の生き方を選ぶのが良い。絶対他力の生き方を他の言葉であらわすと、古神道の神ながら、惟神道です。
つまりすべてを神さまに任せたまま。仏教で言えば「空」の生き方。老子さんで言えば「無為」の生き方。一切の欲を捨てた無為の生き方。キリスト教で言えば「愛」の生き方、「全託」の生き方。すべてを神さまに任せきった生き方です。神さましかない、神さまの働きしか存在しないという見方です。これが本当の絶対他力の生き方になってゆきます。
自我の思い、願いを全部相手にしない方がいいのです。相手にすると掴んでしまう。思いを消そうと思うと掴んでしまいます。願いを捨てようとすると願いを掴んでしまいます。だから、なかなか無我無心、無欲の心になるのは難しいことなのです。消そうと思うから掴んでしまって出来なくなる。相手にしなかったらいいのです。
その為には思いを転換すれば良いのです。思いを感謝の方に切り替えたら良いのです。色々願う前に、感謝の方に切り替えてゆけばいいのです。先に先に感謝してゆくと、思いも願いも消えてしまいます。無くなるのです。だから感謝一筋に生きるのが悟りへの道になります。先に感謝してしまえば勝ち、になります。
今の時代はかなり精神的な生き方になって来ており、例えばイメージトレーニングなど色々な方法が編出されています。でも、それはまだ思いの世界のことです。その思いの法則、つまり必ず思った通りになること。何を思っても思い通りになる。プラスを思ったらプラスになるし、マイナスを思ったらマイナスにもなります。全部思い通りになるのです。
ただ思い通りになりたいという人は、善い事を思って善い事を実現したい人です。マイナスは嫌なのです。そうしたらプラスを思いつづければプラスが実現します。必ず思い通りになる、それがイメージトレーニングのように色々な方法で生み出されており、またイメージ通りになったという実証が一杯挙がっています。でも、それはまだ思いの世界のことであり、神さまの光の世界には入っていないのです。
思いは、やっぱり言葉通り重たいからどんどん下に落ちていき、暗い世界にゆくことになるのです。だからどんな思いで何を実現しても、どんどん小さい世界、視野の狭い世界へと落ちてゆくことになります。ちょうど空に浮かぶ黒雲のような状態になってゆきます。思いが重なれば重なるほど黒く、暗くなってゆきます。その内に、雨が降りドシャ降りになり、下が一杯になります。だから思いは軽い方が良いのです。ちょっと思う位であれば薄雲で白い輝きのある雲になります。光で薄雲が輝いている時は美しいのです。空に雲が全くなかったら味気ないかもしれないから、少し有っても良いかもしれません。
ちょっと白雲が漂っているのが美しい。でもいつまでも雲の中に入り込んでいては駄目です。雲から離れて光の側から眺めると雲は美しいのです。雲の中に入り込み過ぎると、視野が狭くなり暗くなってきます。だから自分を思いの中に置いては駄目になってしまうのです。光の中に置きながら、時々は思ってみるのがいい。そうすると思いも白く輝いて見えるから、思いもマイナスにはならないのです。いつも感謝を中に置きながら、最低限必要なことは思っても勉強しても何してもよいのです。
何もないというのは光だけの世界ですから、この世から卒業しなければなりません。完全にこの世から卒業したければ、感謝一筋になれば良いのです。そうしたら肉体が消えてしまうかもしれません。ちょうど紫外線のように透明になって、スッと消えてしまうかも知れない。死体を残さずにあの世へ逝ってしまう。でもまだこの世で肉体を残して幸せを感じていたいのなら、ちょっとは思いを残す必要があります。だから、感謝一筋に生きながら、ちょっとはプラスの善い思いを抱けばいい。すると美しい白雲が棚引きながら、光り輝いた世界に自分を置く事ができるのです。
幸せというのは、光だけの世界にいると本当の幸せを感じなくなります。だから闇の世界、雲の世界、光の世界の三つの世界、全部を見通して全体を掴みながら、光の世界に住むのがよいのです。だから今まで思いを出し、苦労し生きてきたのはその為なのです。最初から光の世界にだけいたのでは、本当に光の世界の有り難味は何もわかりません。捉え方が浅くなります。だから一度闇の世界に落ちて、思いの世界にはまり込んで、そしてもう一度光の世界に抜ければいい。それが値打ちがあります。
例えば、肉体を持ってこの世に生まれ修行し悟ったお釈迦さまは、もう一度あの世に戻った時、この世に生まれずしてあの世で悟った神さまよりも、お釈迦さまの方の格が上になります。すばらしい体験をして、本当の悟っている姿の有り難味をわかっているからです。この世に生まれてくる事なくして悟ったと喜んでいる神さまよりも、遥かに格が上になるのです。
だからこの世に生まれて来たという事は幸せなことなのです。でも悟らないと意味がないのです、もう一度光の世界に戻らなければならない。その戻る方法は一番易しい方法が良いのです。難しい方法は時間が掛かるから。そこで絶対他力の生き方を選べばよいのです。「ありがとうございます」という単純な言葉をくり返し唱えるだけで、神さまから宇宙全体から大きな助けを得られるのです。だから神さまの助けというのは何処からでもやって来るのです。自分に合わせて宇宙全体が神さまの助けを与えてくれているのです。
例えば、地獄に落ちた場合、今地獄で自分にどんな助けが必要なのか?まだ光は嫌い、恨みたいという中で…そのような時は周りの人が全部自分のマイナスを肩代わりして、身代わりになって苦しんでいる姿をとってくれます。だから地獄に生きている人は一人も幸せな人はいません。もうみな無理を背負って、苦しんでいます。本当はみんな自分の身代わりなのです。周りの大勢の人全部です。大きいマイナスを背負って、それで助け続けてくれるわけです。だから地獄に落ちた時はそういう助けが必要だから、神さまがそういう助けをしてくださるのです。
でも、今度はもうちょっと光に慣れてくると、何処かから救いの光を持った仏さま、菩薩さまが降りてくるわけです。それを受け入れられる心境になれれば、今度はそういったプラスの光を持った助けがどんどん周りから現れてきます。だからその時自分に何が必要なのかということは、神さまが的確に見抜いています。順番に必要なものをどんどんどんどん与えつづけ、そして助け続けてくれるのです。
ただ神さまは、強制がない。自由を縛らない。自由意志を尊重してくれます。本当に自由を縛られたら幸せとは言えないのです。どれだけ幸せにしてもらっていても。自由自在に何でも出来、尚且つ本当の幸せを味わえるようにしてもらわないといけないのであって、そういう意味で神さまの方は自由を縛ってこないのです。自分の自由意志で選べる権利があります。
だから、今の自分がどのような立場に置かれていても、みな自分が選んで来たのです。二者択一です。それを何億回と無限に繰り返して来たのです。必ず二者択一で選ばせてもらってきたはずです。
例えば、感謝すれば良いのにしないのは、「感謝しますか?」と訊かれて「感謝しません」と言っているだけ。「右にゆきますか? 左にゆきますか?」と訊かれた時、右にゆけば幸せなのに、左にゆきますと決めているのです。このように全部自分が選んで来ているのです。
大きい事、小さい事のすべてが二者択一で自分が選び続けて来たわけです。それで今の自分がここに存在しています。だからもう一回自分が選び直せば良いわけです。良いものにプラス、プラスと。先ず感謝を選べば、放っておいてもプラスプラスに向いてしまいます。余り細かくこれはプラスか、マイナスかと選ぶのは大変だから、大きくまとめて感謝ひとつを選んだらいいのです。「ありがとうございます」を選び続けたらすべてがプラスに向いてしまうのです。
「ありがとうございます」と唱えることさえ忘れなければ、どう転んでもプラスに向くのです。ここが又素晴らしい。「ありがとうございます」と言うことは悟りへの特急列車に乗ったようなもの。乗ってしまったら電車の中を、どっちに走っても関係ない。後へ走ろうが転がろうが何しようが勝手に悟りへと進んでしまいます。でも、途中で降りたらいけません、たまに途中下車する人がいて・・・・。
でも「ありがとうございます」と唱えるのは楽しいでしょ?「ありがとうございます」というのは悟っている本心の自分から見ると呼吸なのです。本当は、呼吸、命の呼吸なのです。呼吸は止めると苦しい。だから自然に任せると呼吸というのは幸せなのです。喜びが湧き上がってきます。
この前、新聞に載っていた小さな小学生の兄弟が、お風呂で呼吸を止める練習をしていて、溺れ死にました。呼吸を止めると酸欠状態で、段々体が動かなくなります。それを競争していたようです。何回かは苦しくなって顔を上げられますが、段々と酸欠で体が動かなくなります。最後の時までぎりぎり呼吸を止めると、動かなくなるものです。気絶してしまいます。
だから、感謝というのは本心の自分にとっては呼吸だから、呼吸を止める期間が長いと苦しくなってきます。苦しいだけでなく、今度は気絶します。本心の意識が無くなってくるのです。そうすると大変です。救急車で運んでもらわないといけません。人工呼吸を施してもらっても、中々「ありがとうございます」と言えない人が多いのです。直ぐ「ありがとうございます」と言える人は、直ぐにフッと蘇ります。まだ呼吸が止まっていないからです。気絶しているかも知れないけれど、呼吸は続いているわけです。心臓も動いているし、まだ大丈夫なのです。
ところが、全然「ありがとうございます」が出て来ない人があります。その場合は呼吸が完全に止まっています。心臓も止まりそうかも知れないし、既に止まっているかも知れません。だから、心臓マッサージや人工呼吸を施さなければなりません。それを感謝が出来る人が、一生懸命人工呼吸をします。「ありがとうございます」と言いなさいと言っても言えないから、代わりに言ってあげるのです。それが人工呼吸を施していることになります。
それで息がフッと蘇ったら、本人が言い出す。でも本心の意識はまだ目覚めていません。意識朦朧としています。まだ自分から喜んで湧き上がるような感謝はしません。でも段々と続けている内に、意識が戻ってきます。それで感謝が喜びそのものなのだという事がわかり、「ありがとうございます」と言うことが楽しくてたまらないようになってくるのです。そうなったらもう大丈夫です。感謝が無限に無限に深まってゆき、幸せが一杯という感じです。そこまで感謝をしてゆかなければならないのです。それを出来るだけ早くその状態まで持ってゆくと、自分だけでなく周りの人も早く幸せに出来るようになるのです。
お祈をりする自分はどの自分?
-ありがとうございます-
お祈りの時、自分の中でどのようにお祈りをするのでしょうか?
ありがとうございます:
お祈をりする自分はどの自分?
-ありがとうございます-
自我の自分?
ありがとうございます:
いやー、自我の自分では出来ないのです。それは、本心の自分、本当の自分です。命の自分です。ただ魂が命の自分を覆い、肉体が覆っているわけです。下着や上着のように。でも肉体の自分が祈っているのではないのです。祈りは、命の自分が祈ります。命の自分は宇宙と一体なのです。すべてと一体なのです。
だから自分の祈りは小さい自分の祈りではありません、皆と共通の祈りになるわけです。自分が祈る事は皆が祈っていること。皆が祈っている事は自分が祈っていることになるわけです。自分の「ありがとうございます」の中に皆の祈りが結晶されている祈りになっているのです。また皆の祈りの中へ自分の祈りが入って行って祈っています。
どのように一回の「ありがとうございます」を価値あるものとして受けるか、これも自分が選択するのです。選ぶ。どっちが良い?小さい価値の祈りが良いのか?無限の無限の価値ある祈りが良いのか?無限の無限の価値ある祈りなのだという気持ちで「ありがとうございます」と唱えたらいいのです。口に出してもよいし、心の中で言ってもよいし、紙の上に書いてもよいのです。どのような形でも「ありがとうございます」という言葉を出せば良いのです。そこに天照大御神さまが輝いているのです。
-ありがとうございます-
心の中で唱えてもよいのですか?
ありがとうございます:
いいのです。
-ありがとうございます-
時間などは?
ありがとうございます:
何時でも良いのです。
-ありがとうございます-
普段の生活の中で愚痴や悪口を言うと、効果がなくなると聞いたのですけれど。
ありがとうございます:
効果がなくなるというよりも、どちらを選ぶかです。
-ありがとうございます-
一回でも言ってしまうと効果がなくなる、という話を聞いた事があるのですが?全部ゼロになるとか。
ありがとうございます:
「ありがとうございます」は、天照大御神さまが其処へ降りて来て、無限の無限の光を放つわけです。愚痴を言ったりするのは思いなのです、思いというのは小さいものです。空に浮かぶような小さな雲をちょっと作るだけ。だから、どっちに力があるかといえば一回の「ありがとうございます」の中に無限の力があります。思いよりも、無限億万倍の力があります。過去にそのような思いを無限に重ねても、取るに足らない事なのです。今「ありがとうございます」に切り替えてゆけば、過去の思いは簡単に全部消えてしまいます。
-ありがとうございます-
毎日「ありがとうございます」と唱えていたと仮定した場合、一年に一度怒ったり愚痴を言ったりすると一年間の感謝がパーになると聞いたことがあるのですが。
ありがとうございます:
ならない、ならない。
-ありがとうございます-
それはちょっとおかしいと思っていたのですけれど。
(じゃ、何回もパーですかね?)
いや、毎日パーになってしまいます。
-ありがとうございます-
自分がすべて選んで生きているというのは理屈では理解できるのですが、時になぜこんな人が自分の前に現れるのか、と思うくらい、そういう対象が現われたりした場合、「ありがとうございます」の言葉をその人に対して言い難い状況が生じた時。……本当に感謝できる気持ちというのは、その感謝の気持ちを繰り返す事によって生まれてくるのか、或いは見方とか…子供を教育する際にも教えてあげたいし……もっと素直に感謝できる気持ちを私自身も持ちたいし子供にも持ってもらいたいのですが、その為にはどうしたら良いのでしょうか?
ありがとうございます:
もう、理屈抜きで「ありがとうございます」を唱えた方が勝ちになる。「ありがとうございます」を回数多く唱えたら、全部プラスに見ることが出来る自分に変わってしまいます。もうすべてをプラスにしか受けられない自分になってしまう。それは理屈抜きなのです。理屈で言っても効果は少ないのです。それより一回「ありがとうございます」を唱える方が力があります。
-ありがとうございます-
その人が自分と対立するような人であってもですか?
ありがとうございます:
そうです。もう無関係にです。相