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真祈り文庫
2000年(12月16日
般若心経の解釈もたくさん出ています
般若心経の解釈もたくさん出ています。それぞれにいろいろ言われていますが、本当に深いお祈りをして、天照大御神を直感したら、世間に出ている解釈では物足りないと感じます。
空の捉え方でも、空を無に捉えていることが多いのですが、無限のプラスを生み出す無限の無限のプラスが空です。そこに心を向けなければ、本当の般若心経のありがたさもわかりません。浅い解釈だと、その文章を読んでいて矛盾を感じます。無い無い尽くしで、肯定するところと否定するところの接点がなかなかわかりません。
宇宙の法則を説いているもので、感謝のお祈りを指し示すものではありますが、日本の言葉ではないので、判りにくく少しズレがあるかもしれません。仏教の教えの凝縮されたものと言われますし、実際にそうだと思います。全宗派を超越して、般若心経を唱えてもいいのですが、本当の意味がわかって、お祈りに入るほうがいいと思います。般若心経を唱えることや、写経にも実際、力はあります。
私の姉が小学生の頃、中耳炎から脳膜炎を併発して、その当時は治療も進んでいないし、脳膜炎というと頭蓋骨をノミと金槌で穴をあけて、中の腐ったところを取り出すのですが、これはもう絶対に死ぬからと立会人をつけて手術をしてくれて、その後もこれは絶対に死ぬからと入院もさせてくれないので、家に連れて帰りました。
私の両親は信仰心が深かったので、神さまの指示を受けてお祈りをしながら看ていましたが、その時子供にも唱えさせたのが「摩訶般若波羅密多心経 羯諦羯諦波羅羯諦」これだけでした。これはやはり祈りの言葉なのです。それで死ぬと言われて「治っても絶対に正常にはならない」と言われたのが、後遺症も残らず治ってしまいました。医学的に見たらどうかと思うのですが、いまも元気で暮らしています。
だから唱えることには力はあるのです。全文を書いたり唱えたりすることで病気が治ったり、そういう奇跡はたくさん起こっているのですが、本当の悟りは病気が治るとか、この世的にいろんないい事が起こることくらいでは満足できないのです。
本当の悟りを得る為の言葉なのです。大きい加護があっても、浅い因の加護ではなく、本当の奥深いものを感じて悟りを本当に開くまでその言葉を活用しないといけません。この言葉の本当の意味をしっかり掴んでその真髄を実行するという、究極は感謝を徹底して深めてゆくことです。だから、ありがとうございますが般若心経のすべてになるのです。
常に今新たに最高のものを与えられている
常に今新たに最高のものを与えられているので、ありがとうござい「ました」と過去に少しでも心を向けてしまうと過去の何かを掴んでしまいます。今プレゼントされている最高のものを受け取れないで、新たなものを見失います。最高のものを受けずに過去の何かを掴んでしまいます。今の最高のものを受け取る方がいいのです。その中に最高の輝きがありますから、ありがとうございますと今の一瞬の現在完了的な姿を受け取るのが大事なのです。
宇宙の始まりと終わり(完成)は常に今の一瞬です、今の一瞬の中に包含されます。無限の昔から無限の未来まで全部を、内に持っている今があります、永遠の今です。新たな今に最高表現のすべてがあります。
過去を掴んでしまうと、全体の無限の無限の中のひとつの残像を掴んだ姿のままです。すべては言葉通りになるというのが鉄則ですから、ありがとうございますの言葉の方が、今ここにすべてをという最高表現を感じ取る響きがあります。
ありがとうございますを無心に唱えてその響きをキャッチするといいのです。ありがとうございましたと過去形にすると過去の姿を部分的に掴んでいる響きなので、新たにすべてを受け取る響きとは少しズレます。いつも新たな今ここに絶対のものを感じ取る方が大事なのです。
神社は誰でも自由に分け隔てなく誰でもどうぞと
神社は誰でも自由に分け隔てなく誰でもどうぞと差別しない神さまの意思が輝いているところです。神さまの救いを受ける接点です。神さまの助けがあちこちいろんなところに、神社という模型として措いてあって、好きなところへ行って自分の好きなように助けを受けなさいという、絶対神の心が輝いています。小さい光でよければ小さい光をおく場所、大きい光がよければ大きい光をおく場所と、いろんな場が用意されています。
その場所にふさわしいそれぞれの働きの神さまがおかれていますが、どこの神社でも本体は宇宙の絶対神としての天照大御神なのです。感謝さえあればそこから天照大御神さまが降臨する場所で、すべてが降りるところです。
神さまの名前はその働きを表しています。絶対神の働きは無限にありますから名前も無限にあり、八百万の神さまが無限の神さまとしてそれぞれに神社という模型に分身しています。ありがとうございますは、そのどこからでも必要なだけ神さまの働きが必要なだけ受けられるという限定のない言葉です。
ありがとうございますを唱えることで、どこの神社からも自分の必要な光が的確に与えられます。世界でも類を見ない日本のこういう恵まれた生き方が拡がって、世界中がこのようになるといいと思います。
だれでも役割はあります。この世に生まれた
だれでも役割はあります。この世に生まれたということも、地球に生まれたということも、意味があります。自分が力んで、ああしようこうしようでは無いのです。ありがとうございますと唱えてゆく中で、天照大御神さまが大きく必要な働きで、そして全体が調和するように自然に仕組まれてゆくのです。だから必要が無かったら形としては何もせず寝ているまま、座っているままでもいいのです。皆が一度に動き出したら忙しいのです。
いろんな形や姿があっていいのです。それぞれの過去の中でもそれぞれの役割を演じきっています。マイナスの世界ならマイナスを演じるのも役割です。移り変わるままに自分に与えられた役割を忠実に演じきっています。これからも必要なものを演じます。役割りを演じて自然に移り変わってゆくのです。
感謝の祈りを続けてゆけば、プラスの働きが大きくなるだけなのです。小さい自分ひとりの生き方で満足するのではなく、本当は幸せというのも自分の無限の幸せを、周りのすべての人の幸せに見出して無限の無限の幸せになってゆく、それが無限の無限の幸せのひとつの意味なのです。自分ひとりで体験できるのは無限の幸せですが、皆が無限の人が、自分の代わりに違う無限の幸せを味わってくれていて、それを全部自分の幸せに取り込むのです。そうすると無限の無限の幸せになります。
みんなが異なる生き方をとってくれるのがありがたいことなのです。それを全部自分の幸せに取り込んでしまえばいいのです。皆自分の喜びにしてしまえばいいだけなのです。ありがとうございますの心が無いとそれは少し難しいのですが、ありがとうございますを唱えているだけでそうなれるのです。
努力は何も要らないのです、そう感じてしまいます。普通は努力が大事というのですが、小さい自分の力で努力しますと言っても出来ない時、ああ自分はダメだ努力が足りないとマイナスを思ってしまいます。でも自分の努力というのがどこから来ているかというと、神さまから頂くばかりなのです。
そうであれば全部神さまから貰えばいいのです。神さまに努力させて頂いていると言えばいいのです。力む辛さも何もなく神さまに努力させて頂いてるだけ、努力が必要なら自然に努力を貰って努力させてもらう。神さまに無限の努力を自然にさせていただいて、いいものがいっぱい出てくるのです。神さまから受けたらいいのです。
ありがとうございますの心は神さまの努力を自分の努力として受けるものです。ありがとうございますがないと、この置き換えが難しく時間がかかります。苦い体験を積んで努力しても出来ない、努力すら出来ないどん底まで落ちたら、努力というものは自分でするものでなく神さまにさせてもらうものだと気付きますが、そこまでゆくのにかなりいろんな体験を積まないと気づくことが出来ません。
ありがとうございますを無心に唱えているだけでその置き換えが自然にしてもらえます。自分が努力していたものが、神さまにさせていただいていると自然に変る、一番な変り方なのです。ありがとうございますがあれば奥からの大きな働きはいつもいつも降りて働いてくれます。感謝の中から努力も役割も、自然と生まれて果たされてゆきます。
輪廻転生がある番組もありますし、ない番組もあります
輪廻転生がある番組もありますし、ない番組もあります。でも、高い番組だとありません。絶対から無限の無限の輝きになって、すべてが一瞬に幸せな姿に出てくるだけです。過去もありません、過去を掴んだ世界に輪廻転生があります。魂の生まれ変わりもいろんな生まれ変わりがあります。一人ひとりの人の魂があの世へ行っていくつかの魂に分かれて何人にもなって生まれてきたり、たくさんの人や友達などがひとつの魂になって生まれたりもあります。
魂は過去からのこと、主に人間の感情が合体したもので、命としての意識の中心はあるのですが、このように大きくなったり小さくなったりしています。新しいものを加えたり古いものを捨てたり、どんどん変化してゆきます。そういう魂が肉体に入ってまたいろんな体験をして変化してゆきます。
すべての次元に輪廻転生があるのではなく、過去を掴む次元に、そういう番組の中にある姿です、まだ低い次元です。そういうところへ意識を向けるとある番組です。
皆まだこの世の姿でも過去を掴んでいますから、輪廻転生もあったほうがいいと感じるかもしれませんが、輪廻転生をして魂を磨かなくても、お祈りがあれば働きを新たに新たに見出せるので、過去の姿は必要ないのです。そういう輪廻転生をしない世界があります。
神さまの最高表現である『ありがとうございます』
神さまの最高表現である『ありがとうございます』のなかには、無限の無限の繁栄があります。科学の姿の中にも、無限の無限の進歩した科学があります。
今の科学は幼稚で真実をわかっていません。この世の姿がどのように生まれてきたかなど分かっていません。どこから出て来てどのように組み合わさって生まれてきたかという所に向かっていません。
原子をどうこう言っても、その奥がずうっとあります。その奥が判らなければ、想像もつかないのです。一個の水素原子にしても、水素原子は皆同じ顔かというと、水素原子は一個一個すべて違った顔です。人の顔が一人ひとり違って働きが違うように、原子一個もすべて違っています。奥へゆけばゆくほど同じものは何ひとつないのです。
ありがとうございますの中から科学も進歩し、必要なもの良いものだけが発明や発見という形でどんどん降りてきます。ありがとうございますという感謝の中から科学も進歩し、芸術もあらゆるものすべてがよくなります。ありがとうございますを皆が唱えたら皆が天才になり、無限の能力を発揮するようになります。
過去の掴んでいるものを放さないといけません。それが邪魔して新しい最高の自分が出てきにくくなりますから、ありがとうございますで、掴んでいる古いものを全部消していただくのです。そして奥から新しいよいものがだんだん出てくるようになり、古いものと新しいものとの置き換えが出来ます。過去に沢山積んでいるから時間がかかるとかではなくて、ありがとうございますと言うことが上手になると一瞬で置き換えてもらえます。唱えているとだんだんと自然に変化してゆきます。
本体の自分は必要な体験を自然に積み重ねて
本体の自分は必要な体験を自然に積み重ねてゆきます。いつまでも同じことを勉強する訳ではありません。必ず順番に進歩するように、奥からの計らいがあります。奥にある本体の自分を知ればよくわかります。それまでは表面の部分だけを自分と思うのでわかりにくいですが、だんだんとはっきりしてきます。
真理の言葉はいろんな方便や例えを使いますから、ひとつの方向からひとつの立場を指し示しても全体を指し示すのは難しいことで、全体を明らかにするには、いろんな立場からいろんな方向に向けて指し示さないといけません。全体を同時に掴めて、全体像を同時に把握できたら本物です。
人間の使う言葉も、プラスの言葉マイナスの言葉といろいろあります。全部それぞれに正しくて、プラスだけがいいのではなく、マイナスの番組もちゃんとありますから、言葉でその中の何かを指し示しています。ただ、全人類の使う言葉を全部集めて表現しても、すべてを表現できてはいません。人類の使う言葉が指し示しているものは既にありますが、もっと他に沢山あります。マイナスのもっとひどい姿もあるし、大きなプラスの沢山ある姿もあります。
どれだけ大きなプラスの言葉を駆使できるかが大事です。無限の無限の幸せと唱え続けたら、無限の本当の意味がわかってきます。言葉を使わなければ、ただ幸せと言うだけでは、小さい浅い幸せで終わってしまいます。
言葉を大きく使った方がいいのです。ありがとうございますと唱えるだけでもいいですが、その中身を「新たな全徳の無限の無限の輝きがいっぱい」と徳性を順番に数えあげるのがいいのです。「新たな無限の無限の幸せ」「新たな無限の無限の喜び」というように幸せも喜びも徳性ですから、その徳性をたくさん数え上げたらいいのです。
お祈りのひとつの過程なのですが、そうすることでありがとうございますの中身が大きく深く濃くなります。そうすることで、ありがとうございますの中身がどんどん変ってゆきます。ここに在します天照大御神さまと言うと、「ありがとうございます」と「天照大御神さま」が合体します。
けれど、天照大御神さまと言っても、それぞれで受け方が違うので、無限の無限の偉大な姿として受ける心になれば本物です。どこそこの神社の神さまと言うと小さく部分を捉えていることになります。その意味でお経を読むのも同じです。
皆それぞれ本当の感謝のお祈りを教えてくれているのですが、掴みきれていなかったところがあります。「新たな無限の無限の何々」という唱え方が大事です。いろんな本を読んだり勉強したりするよりも、ありがとうございますを実際に唱えることが大事な尊いことです。
法然さんの生き方がそうです。南無阿弥陀仏ひとつに絞り込んだところが素晴らしいのですが、自分が悟る為には救われる為にはどうしたらいいかと、その当時日本一の博学と言えるあれだけの人が、悩みに悩んでいろんなことを修行してきて、「ああ自分は実行できるのにやっていない」という思いに囚われ、もう一度大乗経を繰り返し読み直して、自分の救われる道はどこにあるかと、そしてはっと気付いたのが南無阿弥陀仏だったのです。
その後は過去を全部捨てきって、大乗経を全部暗記できているような人が、誰に何を質問されても「私は何も知りません」と南無阿弥陀仏を唱えるだけでした。そこまで絞り込んで本当の生き方なのです。南無阿弥陀仏を唱えることが数多くの本を理解するよりも尊いことがわかったということです。お経には書かれていませんが南無阿弥陀仏よりもありがとうございますの方が素晴らしいのです。
-ありがとうございます-
現世的にどんな現象でも魂は良い番組に向かってますか?
ありがとうございます:
花の種を撒いたときはゼロです。そこから根が出てマイナスに向かって伸びます。頭の葉は光の方プラスに向かいます。根がどんどん広がって深く入るほど大きく花開きます。マイナスに突き進んで世界を広げていくことも大事なのです。それで本当の成長があって、花が咲き実を結びます。
長い目で見ると、ゼロの種のところから出発して、自分の世界をどんどん広げるのですが、順番に日の当たる方へ向いた時と、影に入った時と、成長というのはこのように螺旋状に進みます。マイナスに見える時も大きいプラスへゆく過程なので、必ず通らなければならない必要なところなのです。
どのように見える時でも前進しています。長いトンネルを抜けたら闇から光が見えますから前進しているのですが、その道が一人ひとり違います。ひとつとして同じ道はないので、他人の歩む道を少し参考にするのはいいのですが、自分の歩む道とは違います。
ありがとうございますですべてをプラスに観て、自然な自由な生き方のほうがいいのです。ありがとうございますはそういう自然な自由な生き方へと戻してもらえる言葉なのです。ありがとうございますは求める心のない、神さまから受けるだけの言葉ですから、どんどん前へと進歩するのです。
昔から「ありがとうございます」はあります
昔から「ありがとうございます」はあります。南無阿弥陀仏だけではなかなか、本当の深い悟りには入れません。日本の古神道のあり方がありがとうございますです。古い神道という意味ではありません。別の根源の働きとしての神の道なのです。
今は日本の神道は大きく二つに分かれていますが、それも世界中のあらゆる宗教をすべて中に収めて、大きく包容したゆきかたをとれるのが古神道なのです。全部生かせるのです、すべてを自分の部分として持っています。それが日本の信仰の在りかたとして定着しているのです。これは教えでは無いないので、形はありません。そういう心がずっと続いているのです。
だから、日本人は全部を受け入れて変化するのです。世界の宗教も全部入ってきています。大きい小さいは別として、その入ってきたものを全部消化吸収して、生かしきっていくという所がすごいのです。そういういき方が古神道のあり方なのです。
古という字は口の上に十字がありますが、口は言葉です。言葉を超越して縦横無尽の働きが古なのです。それが神さまの直のはたらきです。人間の言葉であれこれ言えるものではないのです。人間の言葉を超越しています。その上で縦横無尽に働いている働きが、本当の神さまの働きです。
一人ひとり生き方はそれぞれの自由意志で全部
一人ひとり生き方はそれぞれの自由意志で全部違っていて、同じ生き方は絶対にありません。不運を抱えて生きる人もあるし、じっくりと変えてゆく人もあります。急速に変ってゆく人もあって、みんな違うからいいのです。
ある意味では、神さまが皆で現れて、楽しんでいろんな体験を積んでゆくということもあります。同じ人が二人いると無駄なのです。神さまの大きい幸せは、一人ひとりの幸せをその中に全部包容した幸せなのです。だからいろんな人が必要です。
ひとつマイナスがあると他がよく見えたりします。マイナスがないと皆普通で当たり前で価値が消えてしまいます。マイナスがあることによって大きい価値を発見させてくれるいい働きといえます。マイナスはそういうふうにプラスにみる為に働いてくれます。価値を増してくれます。
地獄で仏という言葉がありますが、地獄にいて仏に出会ったときが一番幸せなのです。極楽で仏に出会ってもありがたいと思いません。太陽もそうです。夏の太陽はあまりありがたくないから感謝しないですが、寒い冬の太陽は本当にありがとうございますという感謝の気持ちになります。いつでも感謝できるというためには、地獄を知って、寒い冬を知って、初めていつも感謝できるのです。周りに意地悪な嫌な人が一人二人いる方がいいのです。いつも謙虚に気付かせてくださるのです。そういう意味で病気でもひとつくらい持っているほうがいいのです。頭の病気の中でも阿呆というのがいいのです。阿呆は本当はいい言葉で、最高のほめ言葉なのです。バカだと馬や鹿の動物の程度ですが、阿呆は新たな光をいつも保っているという意味です。
人は地球の縮図といいますが、自分の小さな
人は地球の縮図といいますが、自分の小さな世界が大きい世界の縮図です。マイナスが大きく出たときほど、本当は喜ぶのが大事です。心に溜めたものを大きく消してもらっているときです。自分の身の上に起きた時もそうですし、まわりにそういったマイナスが出た時も、皆自分の身代りに、大きいマイナスを消してくださったと感謝します。古いいらないものをどんどん消してくださって、新しい役割を与えてもらえるので、災厄の厄ではなく、厄年というのは新しい使命の役割りの役なのです。
新しい役割を果たすためには、古いものを消さないといけません。古いものを消してもらうのを誤解して、マイナスに見るのです、それが災厄の厄です。そうではなく古いものを消してもらうのはありがたいことで、その後に新しい自分が出て来て、大きい役割を果たす訳です。
だから新しい役割を受けるのが厄年です。それで生き方が大きく変るのです。この世的に見て、新しいことを始めて成功して世の中に大きな貢献をする人を見ても、厄年が節目なのです。例外もありますが、本当はそういうふうに仕組まれているのですが、受け方によって少しズレる人もいます。
テレビを見ていて、中にはまりこんでしまうのと
テレビを見ていて、中にはまりこんでしまうのとよく似ているのですが、少し客観的に
離して見る余裕があれば、人生の移り変わりと神さまの番組のひとつに鉢合わして見ているのだ、というくらいに思えると執着はなくて、楽しむだけなのです。
別に自分でこれを変えようと思わないで、ただ見て楽しむだけ、プラスにプラスに受けてただ見て楽しむのが一番自然な理想の生き方なのですが、もし違うものが見たければ番組を変えたらいいだけということに気付けばいいのです。それに気付かない時にははまり込みすぎていることになります。
そういう時は誰かに肩を叩いてもらうといいのです。叩かれると気付きますが、熱中している時に叩くと怒られますから、いい時期を見て叩いてあげるといいのです。でも必ず誰かが助けてくれますから、どんどん気付かせてくれますから、その時元に戻ればいいのです。
-ありがとうございます-
番組をあげるような働きを感じたら、現状が幸せでも変えるべきですか?
ありがとうございます:
あの世だとなかなか進歩できないのは、自分の周りがそういう同じ姿だけしかないからです。幸せでも同じレベルの幸せがいっぱいです。それだとそれに満足して上ろうとしません。
この世は特別に設けられている教室ということで、今の自分のレベルもあるし、もっと高いのも低いのもあるのを見ることで、もっと大きい幸せもあるんだと気付く練習をしています。そうするとあの世へ行ってもこんな程度のものではなく、もっと無限のたくさんのレベルがあるとわかっていたら、どのレベルでも進歩することが出来ます。
-ありがとうございます-
十七歳の少年が起こしたいろいろな事件も、体験を楽しんでいるのですか?
ありがとうございます:
本人もいろんな勉強をしていますし、その背後の霊魂もいろんな体験を勉強しています。その他にそれを事件としてみる人もいろんな勉強をします。自分の身代わりにああいう姿をとって自分に気付かせてくれているとか、自分の大きいマイナスを消してくれたとか、人類全体のマイナスをそこに集中して神さまが消してくれているのだとか、いろんなプラスの見方もマイナスの見方も出来ます。ある意味では全部自分の勉強材料ともいえるし、いくらでも勉強が出来ます。
マイナスは何も心配ないのです。自分が
マイナスは何も心配ありません、自分が好き好んでそういうところへゆくのであれば、そういう世界へ地球ではない星に行ってしまうようなこともあるでしょうが、今の地球はどんどん進化する姿をとって変化していますから、また、ありがとうございますの力は今までよりもどんどん大きく強くなっています。
今までのありがとうございますの力を一としたらそれが拾百千となっています。それだけ大きな働きを帯びたらマイナスは取るに足らないものです。さっとひと吹きで消えるような感じです。どんどんよくなります。
地球というよりも、一人ひとりの意識がマイナスに飽きてきて、それを望んでいるからそうなるのです。たくさんのマイナスを体験することで、プラスへの憧れが強く出てくるのです。この辺でマイナスの体験は充分という時期になっています。マイナスはもう、知りませんというくらいがいいのです。相手にしない方がいいのです。
予言というのはそのとおりになるように思うのですが、本当は意味がありません。予言は必要ないのですが、そうなると困るので、ある意味では覆す為に予言が必要なのです。マイナスが起こると言うのであれば、それをプラスに変えるための予言なのです。変える方法は無限にあるわけですから、プラスに変えてしまいましょうというのが本当の予言のあり方です。予言された時は必ずプラスに変ります。
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